辞世句総特集4、戦後以降から今日まで

 

 更新日/2017.3.7日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「辞世句4、戦後以降から今日まで」を確認する。「撰集 辞世の句集」、「辞世の句」、「武将たちの辞世の句」、「辞世の句 & 名言集 幕末編」、「辞世「みそひともじ」集by吉岡生夫その他参照。今後どんどん充実させていくつもりである。

 2013.3.23日再編集 れんだいこ拝


【阿南惟幾(これちか)】
 「(一死以って大罪を謝し奉る 陸軍大臣) 大君の 深き恵みに あみし身は 言ひ遺すべき 片言もなし
 (解説) 1945(昭和20)年没、亨年58歳。日本の陸軍軍人。

【宇垣 纏(うがき まとめ)】
 「南国の 流れ星かや 山蛍   相手見ず駒 構えたり へぼ将棋
 (解説) 1945(昭和20).8.15日日没、享年**歳。日本海軍の軍人。岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市)出身。太平洋戦争開戦時の連合艦隊参謀長である。ポツダム宣言受諾直後、航空特攻にて死亡。陣中日記『戦藻録』が有名。特攻指導者の一人。宇垣一成陸軍大将、宇垣完爾海軍中将とは遠戚である。日本の陸軍軍人。

大西瀧治郎
 「これでよし 百万年の 仮寝かな」
 「すがすがし 暴風のあと 月清し」
 (解説) 1945(昭和20).8.16日、享年**歳。兵庫県氷上郡芦田村(現・丹波市青垣町)出身の旧日本海軍軍人で特攻隊生みの親。最終階級は海軍中将。海軍兵学校第40期生。神風特別攻撃隊の結成と運用に深く関わった。若いころから酒癖が悪く乱暴な性格であったが、陣頭に立って指揮をとり、口先だけの人間を嫌った。戦闘機無用論を支持し、日本軍の真珠湾攻撃に反対した。終戦直後に自決した。

【甘粕正彦】
 「大ばくち、もとも子もなく、すってんてん」
 (解説) 1945(昭和20).8.20日没、享年**歳。日本の陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件を起こしたことで有名(無政府主義者大杉栄らの殺害)。短期の服役後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買う。満州映画協会理事長を務め、終戦直後、服毒自殺した。 

山下奉文
 待てしばし 勲残して 逝きし戦友 後な慕いて 我も行きなん
 1946(昭和21).2.23日、。日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、位階勲等は従三位勲一等功三級。 高知県長岡郡大杉村(現大豊町)出身。陸士18期・陸大28期恩賜。

【川島芳子】
 「家あれども 帰るを得ず 涙あれども 泣く所を得ず」
 (解説) 1948(昭和23).3.25日没、亨年 歳。清朝の皇族粛親王の第十四王女である。本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)。粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。1927年に旅順のヤマトホテルで、川島浪速の満蒙独立運動と連携して挙兵したが、中華民国軍との戦いで1916年戦死したバボージャブ将軍の二男で蒙古族のカンジュルジャプと、関東軍参謀長の斎藤恒が仲人をして結婚式をあげた。カンジュルジャプは早稲田大学を中退後1925年「韓紹約」名で陸軍士官学校に入学した。彼らは3年ほどで離婚した。その後上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれているが(田中隆吉の回想による)、実際に諜報工作をやったのかなど、その実態は謎に包まれている。戦後間もなく中華民国政府によって漢奸として逮捕され、銃殺刑となった。但し生存説も流布されている。

太宰治
 池水は 濁りににごり 藤なみの 影も映らず 雨ふりしきる
 (解説) 1948(昭和23).6.13日没、亨年 歳。小説家。

東郷茂徳
 いざ児らよ 戦うなかれ 戦わば 勝つべきものぞ ゆめな忘れそ
 1950(昭和25).7.23日、。日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時および終戦時の日本の外務大臣 。欧亜局長や駐ドイツ大使および駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣。

【前田夕暮】
 「雪の上に 春の木の花 散り匂ふ すがしさにあらむ わが死顔は」
 (解説) 1951(昭和26).4.20日没、享年**歳。日本の歌人。明治から昭和期にかけて活動した。

永井隆
 白薔薇の 花より香り たつごとく この身を離れ 昇りゆくらむ
 「光りつつ 秋空高く 消えにけり」
 (解説) 1951(昭和26).5.1日没、亨年49歳。医学博士。「長崎の鐘」、「この子を残して」の著書がある。

原石鼎はら せきてい
 松朽葉かからぬ五百木無かりけり
 1951(昭和26).12.20日、。島根県出身の俳人。 高浜虚子に師事、「鹿火屋」を創刊・主宰。大正期の「ホトトギス」を代表する作家の一人 で、色彩感覚に優れたみずみずしい作風で一世を風靡した。本名は鼎。初号・鉄鼎。

【高村光太郎】
 「一生を棒に振りし男 此処に眠る 彼は無価値に生きたり」
 (解説) 1956(昭和31).4.2日没、享年**歳。日本の詩人・彫刻家。東京府下谷区(現・東京都台東区)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読む。本職は彫刻家・画家であったが、今日にあっては『道程』、『智恵子抄』等の詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されているため、詩人として知られている。著作には評論や随筆、短歌もある。弟は鋳金家の高村豊周。甥は写真家の高村規で、光雲等の作品鑑定も多くしている。

中勘助
 どん栗の 落ちるばかりぞ 泣くな人
 (解説) 1951(昭和26)年没、亨年80歳。作家・詩人。「銀の匙」。

島秋人
 この澄める こころ在るとは 識らず来て 刑死の明日に 迫る夜温(ぬく)し
 (解説) 1951(昭和26)年没、亨年33歳。

西東三鬼
 春を病み 松の根つこも 見あきたり
 (解説) 1962(昭和37).4.1日没、享年**歳。俳人。本名・斎藤敬直(さいとう けいちょく)。

飯田蛇笏(いいだ だこつ
 誰彼もあらず 一天自尊の秋
 1962(昭和37).10.3日、。山梨県出身の俳人。本名、飯田武治(いいだ たけはる)。別号に山廬(さんろ)。 高浜虚子に師事、山梨の山村で暮らしつつ格調の高い句を作り、村上鬼城などとともに大正時代における「ホトトギス」隆盛期の代表作家として活躍した。

【山本周五郎】
 「人間の真価は 彼がではなくて、何を為そうとしたかである。座右の銘 死んだとき 何を為したか
 (解説) 1967()年没、亨年63歳。日本のオピニオンリーダー、官僚、実業家。終戦連絡中央事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官、東北電力会長などを歴任した。 

島秋人(しま あきと、本名中村覚)
 「この澄める こころ在るとは 識らず来て 刑死の明日に 迫る夜温し
 (解説) 1967().11.2日没、亨年63歳。新潟県で強盗殺人事件を引き起こした元死刑囚。1960年の一審の死刑判決後、1967年の死刑執行までの7年間、獄中で短歌を詠みつづけた歌人である。1963年に毎日歌壇賞を受賞。

柳原白蓮
 「そこひなき 闇にかがやく 星のごと われの命を わがうちに見つ
 (解説) 1967(昭和42)年、白蓮逝去(享年81歳)。

【石田波郷】
 「今生は 病む生なりき 鳥頭」
 (解説) 1969(昭和44).11.21日没、享年**歳。昭和期の俳人。本名哲大(てつお)。正岡子規、高浜虚子を生んだ近代俳句発祥の地、愛媛県温泉郡垣生村(はぶむら)(現・松山市西垣生)に生まれた。

【三島由紀夫】
 「散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」
 「益荒男(ますらお)が たばさむ太刀の 鞘鳴(さやな)りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」
 (解説) 1970(昭和45).11.25日没、享年45歳。日本の小説家・劇作家・評論家・政治活動家・民族主義者。大東亜戦争後の日本文学界を代表する作家の一人である。代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『憂国』、『豊饒の海』四部作など、戯曲に『鹿鳴館』、『近代能楽集』、『サド侯爵夫人』などがある。人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年11月25日、楯の会隊員4名と共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)を訪れて東部方面総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、その約5分後に割腹自殺を遂げた。

【三橋鷹女】
 「白露や 死んでゆく 日も帯締めて
 (解説) 1972().4.7日没、享年**歳。俳人。本名たか子。

【新田次郎】
 「春風や 次郎の夢は まだつづく
 (解説) 1980()年没、亨年68歳。

【荒畑寒村】
 「死なばわが むくろをつつめ 戦いの 塵にそみたる 赤旗をもて
 (解説) 1981()年没、亨年94歳。

【京極杞陽】
 「さめぬなり ひとたび眠り たる山は」
 (解説) 1981().11.8日没、享年**歳。俳人。本名は高光(たかみつ)で、豊岡京極氏13代当主。華族令が廃止される前までは子爵の爵位を持つ華族だった。

【白洲次郎】
 「われわれは戦争に負けたのであって奴隷になったわけではない」
 (解説) 1985().11.28日没、享年**歳。日本のオピニオンリーダー、官僚、実業家。終戦連絡中央事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官、東北電力会長などを歴任した。 

【杉原千畝】
 「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない しかし 私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった 大したことをしたわけではない 当然のことをしただけです」
 (解説) 1986(昭和61).7.31日没、享年**歳。日本の官僚、外交官。第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。外務省からの訓命に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くが、ユダヤ系であった。海外では、「日本のシンドラー」 などと呼ばれることがある。

【斎藤茂吉】
 「いつしかも 日がしづみゆき うつせみの われもおのづから きはまるらしも」
 「逝く空に 桜の花が あれば佳(よ)し」
 (解説) 1953(昭和28).2.25日没、享年**歳。日本の歌人、精神科医である。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。

【三波春夫】
 「逝く空に桜の花があれば佳(よ)し」
 (解説) 2001().4.14日没、享年**歳。本名・北詰文司(きたづめ ぶんじ))は、新潟県三島郡越路町(現・長岡市)出身の国民的演歌歌手。紫綬褒章受章、勲四等旭日小綬章受章、新潟県民栄誉賞受賞。

山田風太郎
 いまわの際に言うべき一大事はなし
 2001(平成13).7.28日、。日本の小説家。本名は山田 誠也(やまだ せいや)。伝奇小説、推理小説、 時代小説の3分野で名を馳せた、戦後日本を代表する娯楽小説家の一人である。

【世捨て人(年代不明)】
 「呉くれぬ 憂さ嬉しさも 果てぬれば おなじ裸の ものの身にこそ」
 (解説) 「歌俳百人撰」の話。京都誓願寺の門前に朝夕寝起きしていた非人(世捨て人)がいた。歳は40歳くらいで、その言動から、大変に由緒ある者のなれの果てのようであった。その者が傷寒(急性疾患)を患い死亡し、男の残した菰の中に辞世の句が残されていた。

【河野 裕子】
 「なつかしい この世のとぢめに 何を言ふ お休み あなたもあなたも お休み」
 「あなたらの 気持ちがこんなにわかるのに 言ひ残すことの 何ぞ少なき」
 「おの世とこの世が ごつちやになりてしまへども この世の青空には 人間のこゑ」
 「新じゃがを 箸でころがし 茹でながら 昨日で終わりし 五月かなしむ」
 「ざざと来てざざと降りやむ昼の雨くよくよすんなと陽も射してくる」(『姉さんかぶり』)
 「ひとりぺたんとこの世に残されなんとせうひいといふほど椿が落ちる」(「庭」)  
 「昏々と睡りながらに去りゆかむこの世とぞ思ふ夕焼くる天」(短歌朝日2003・12月号)
 「うとうととただにねむたくベッドにはベッドの時間が過ぎてゆくのみ」(「空蝉」)
 (解説) 2010(平成12).8.12日没、亨年64歳。日本の歌人。「塔」選者。夫は歌人の永田和宏。長男永田淳、長女永田紅も歌人。高校時代より作歌を始め、大学3回生のときに角川短歌賞受賞。宮柊二に師事。歌集『森のやうに獣のやうに』は、みずみずしい青春の恋愛歌を収める。新鮮な言葉で、女性の心をのびやかにうたっている。毎日新聞歌壇、NHK短歌の選者や織田作之助賞の選考委員のほか、夫永田和宏と共に「宮中歌会始」選者も務めた。晩年は乳がんと闘病し、その境涯を多く歌に詠んだ。

太田蘭岱 夜嵐に翌日をまたずちる紅葉 
岡部隆豊 白露の 消えゆく秋の 名残とや しばしは残る 末の松風
都々逸坊扇歌 都々逸も うたいつくして 三味線枕 楽にわたしは ねるわいな
佐野収五 平成23没 わかれのみにこの晩年はあるものか一会のさくらしらしらと散る





(私論.私見)

戯僧

世の中は しやのしやの衣 つつてんてん でくる坊主に 残る松風

香川玄悦

仏神の 恵みに叶う 我が流儀 末世の人を 救いたまへや

神保長輝

帰りこん 時ぞと母の 待ちしころ はかなきたより 聞くべかりけり

都々逸坊扇歌

都々逸も うたいつくして 三味線枕 楽にわたしは ねるわいな.

天狗小僧霧太郎

生涯を 賭けて盗めど 今までに 身に付く金は 今日の錆び槍

徹岫宗九

殺仏殺祖 遊戯神通 末期一句 猛虎舞空

叩々老人

五斗(醤油のかす)はおき 後生(来世)も乞わぬ 我が腰を 折りて今日 はい左様なら

内藤信順

世の中は 時雨となりて きのふ今日 ふみとどむべき 言の葉もなし

無抑和尚

傀儡抽牽六三年 喝 春風天を拂う