辞世句2、足利室町から江戸幕末まで

 

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.3.29日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、辞世の句を時系列で確認する。「撰集 辞世の句集」、「辞世の句」、「武将たちの辞世の
」、「辞世の句 & 名言集 幕末編」、「
辞世「みそひともじ」集by吉岡生夫
その他参照。今後どんどん充実させていくつもりである。

 2013.3.23日再編集 れんだいこ拝


【足利尊氏】
 「文武両道は、車輪のごとし。一輪欠ければ人をわたさず。しかれども、戦場に文者は功なき者なり」
 「よしあしと 人をばいひて たれもみな わが心をや 知らぬなるらん」
 (解説) 1358(正平13).4.30日没、亨年54歳。鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)にして足利将軍家の祖。

絶海中津
 「虚空地に落ち 火星乱れ飛ぶとも 筋斗を倒打して 鉄囲を抹過せん
 (解説) 1405(応永12).5.3日(4.5日)没、享年**歳。南北朝時代から室町時代前期にかけての禅僧。

【一休和尚宗純】
 「 朦々(もうもう)として三十年 淡々(たんたん)として三十年、朦々淡々として六十年 末期の糞をさらして梵天に捧ぐ 借用申す昨月昨日、返済申す今月今日。借りおきし五つのもの(地水火風空の五大)を四つ(地水火風)返し、本来空に、いまぞもとづく」
 (解説) 1481年没、享年88歳。室町時代の禅僧。30歳頃から風狂さが発揮される。文明13年、持病の瘧(熱病)が悪化し、11月酬恩庵にて死亡。その最後の10年間、盲目の森侍者と夫婦として過ごしたという。他に次のような句が残されている。
 「うろじより むろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
 (うろじ:この世 むろじ:あの世 )
 「借り置きし 五つのものを 四つ返し 本来空(くう)に 今ぞ趣く」
 「須弥南畔(この世界) 誰か我禅に会う。虚堂来る也。半銭に値せず」
 
(虚堂は南宋時代の臨済宗の高僧) 
 「仏法は なべのさかやき石の髭 絵にかく竹のともずれの声」
 「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」
 「行く水に数書くよりも儚きは 仏を頼む人の後の世」
 「毒薬変じて薬となるなれば 罪の重きは仏にやならん」
 「問へば言ふ 問はねば言はぬ達磨どの 心のうちになにかあるべき」
 「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
 「持戒は驢(ろば)となり 破戒は人となる」
 (持戒:戒律を守ること 破戒:戒律を破ること)
 「心とはいかなるものをいふならん 墨絵に書きし松風の音」
 「本来も無き古の我ならば 死に行く方も何も無し」
 「秋風一夜 百千年」 
 「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せばその一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」
 「身後精魂何処にか去る 黄陵の夜雨馬嵬の風」

【大田道灌】
 「かかるとき さこそ命の 惜しからめ 兼(かね)て亡き身と 思ひ知らずば」
 「昨日まで まくめうしうを 入れおきし へむなし袋 今破りてむ」(室町殿日記)
 (解説) 1486(文明18).8.25日(7.26日)没、享年54歳。武将。上杉定正の執事。江戸城、河越城などを築く。7月26日、主君の上杉邸で暗殺される。室町中期の人。扇谷上杉家の家宰。主家に暗殺される。この人の死が戦国時代の幕開けといえる優秀さゆえに自分の主人・上杉定正に暗殺された大田道灌の辞世の句ですが、これは後世の作だそうです。

【足利義尚】
 「ながらへば 人の心も 見るべきに 露の命ぞ はかなりけり」
 「もしを草 あまの袖じの 浦波に やどすも心 有明の 月出る日の よの国までの 鏡山を 思し事も いたづらの身や」
 「出づる日の 余の国までも 鏡山と 思ひしことも いたづらの身や」
 (解説) 1489(延徳元).3.26日没、享年25歳。足利幕府第九代将軍。母は日野富子。長亨元年(1487)7月、近江の守護六角高頼を討つために出陣。母の介護の甲斐なく死去。

【足利義政】   
 「何事も 夢まぼろしと 思い知る 身には憂いも 喜びもなし」
 (解説) 1490(延徳2).1.7日没、亨年55歳。室町幕府第8代将軍。銀閣の完成を待たずして死去した。

【遊佐長直】   
 「夢の世は 六十よ 六道芝の 露と我が身の けふぞきえぬる」(金言和歌集)
 (解説) 1493()年没、亨年**歳。

【少弐政資(しょうに まさすけ)】 
 「花ぞ散る 思へば風の 科ならず 時至りぬる 春の夕暮」
 (花が散るのは風のせいではない。ただ春の夕暮れ時に散るべき時期が来ただけなのだ)
 「善しやただ みだせる人の とがにあらじ 時至れると 思ひけるかな」
 (解説) 1497(明応6年)年没、享年**歳

飯尾宗祇(そうぎ   
 眺むる月にたちぞ 浮かるる
 (解説) 1502(文亀2).9.1日(7.30日)没、享年**歳。室町時代の連歌師。

【薬師寺元一(やくしじ もとかず)】   
 「めいとには 能わか衆の ありけれは おもひ立ぬる 旅衣かな」
 「地獄には よき我が主(若衆)の あるやとて 今日おもひたつ 旅衣かな」
 (解説) 1504年没、亨年28歳。室町時代後期(戦国時代)の武将。細川氏の重臣。永正元年(1504年)閏3月に政元が突如、元一を守護代から解任しようとする。ところが、将軍・足利義澄がこの人事に介入して政元に命じて解任を中止させ、元一は義澄に馬や太刀などを贈っている。同年9月、赤沢朝経と共に政元を廃して澄元を擁立しようという陰謀を企て、摂津で挙兵する。しかし弟の長忠らに攻められて破れ、居城の淀城は落城して捕縛され、政元の命令で京都に送られて自害を余儀なくされた。

【三浦義同(みうら よしあつ)】   
 「討つ者も 討たるる者も 土器(かわらけ)よ くだけて後は もとの塊(つちくれ)」
 (解説) 1516(永正13)年没、享年**歳。戦国時代初期の武将。東相模の大名。一般的には出家後の「三浦道寸」の名で呼ばれることが多い。北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の事実上の最後の当主である。その後、上杉定正の死後に家督を継いだ朝良 (道寸の従兄弟)と和睦して、台頭してきた安房国里見氏と同盟を結んだ。北条五代記(北条盛衰記本巻二)によれば、最期は十字状に切腹をしたと記されている。

【三浦義意(みうら よしおき)】   
 「君が代は 千代に八千代も よしやただ うつつのうちの 夢のたはぶれ」
 (解説) 1516(永正13).7.11日(8.9日)、没(享年**歳)。戦国時代の武将。相模三浦氏最後の当主。通称は荒次郎。官途名は弾正少弼。

赤松義村(あかまつ よしむら)   
 「立ちよりて 影もうつさじ 流れては 浮世を出る 谷川の水」
 (解説) 1521(大永元).9.17日没、享年**歳。播磨・備前・美作の守護。赤松氏当主。置塩城城主。村宗の手により暗殺された。家督は遺児の才末丸(のちの赤松晴政)が継ぎ、守護家としての赤松氏の名目上の存続は許されたが、赤松家はこののち衰退の一途をたどることになる。名水播磨十水を定めたのはこの義村とされる。播磨室津に幽閉されていた時に詠んだ辞世句。

【細川高国(ほそかわ たかくに)】
 「絵にうつし 石を作りし 海山を のちの世までも 目かれずや見ん」
 (伊勢国司北畠晴具に贈った句)
※これは高国の残した辞世の句のうち、伊勢国司北畠晴具に贈った句である。
 「なしといひあり と又いふことの葉や 法のまことの 心なるらん」
 (徳大寺実淳・三条西実隆に贈った句)
※これは高国の残した辞世の句のうち、徳大寺実淳・三条西実隆に贈った句である。
 (解説) 1531()年没、享年**歳。

【諏訪頼重】
 「おのづから 枯れは果てにけり 草の葉の 主あらばこそ 又も結ばめ
 (解説) 1542(天文11)年没、亨年27歳。7月、桑原城で降伏した後、弟の頼高と共に武田氏の本拠である甲府に連行され、東光寺に幽閉された後に自刃する。頼高も自刃し、諏訪惣領家は滅亡した。

【大内晴持】
 「大内を 出にし雲の 身なれども 出雲の浦の 藻屑とぞなる
 (解説) 1543(天文12).6.9日(5.7日)没、享年**歳。自刃。大内義隆の養嗣子。周防山口の戦国大名。多々良姓大内氏当主大内義隆の養嗣子。実父は土佐中村の一条房冬。母は房冬の側室であった大内義隆の姉。実は一条房家の四男と記す記述もある。

鶴姫(つるひめ)
 「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」
 (解説) 1543(天文12)年没、享年**歳。戦国時代の伝承的女性。姓名は大祝 鶴(おおほうり つる)。伊予国大山祇神社(愛媛県大三島)の大宮司・大祝安用(おおほうり やすもち)の娘。兄に大祝安舎と大祝安房。

【十市遠忠(とおち・とおいち とおただ)
 「足引の 山ほととぎす さよふけて 月よりおつる 一声の空」
 (解説) 1545(天文14)年没、享年**歳。室町時代-戦国時代の武将。十市遠治の子。 大和国龍王山城主。遠忠は武勇に優れ、歌道(三条西実隆に師事)や書道にも通じ、文武両道の武将として十市氏の最盛期を築いたとされる。

【大内義隆】
 「討つ人も 討たるる人も 諸ともに 如露(にょろ)亦如(やくにょ)電 応作如(でんおうさにょ)是観(ぜかん)」。
 「逆ならぬ 君の浮名を 留めおき 世にうらめしき 春の浦波」
 (解説) 1551(天文20).8月末没、亨年45歳。険悪な関係であった武断派の陶隆房(周防国守護代)は、謀反の兵を挙げた。重臣の内藤興盛(長門国守護代)も黙認し、義隆を救援することはなかった。義隆は親族である津和野の吉見正頼を頼ろうとしたが、暴風雨のために逃れることができず、長門深川の大寧寺に逃亡し、そこに立て籠もった。このとき、義隆に従った重臣・冷泉隆豊の奮戦ぶりは目覚しかったが、多勢に無勢であり、義隆は隆豊の介錯で自害した。

【黒川隆像】
 「夢亦是夢 空猶是空 不来不去 端的の中に在り」。
 (解説) 1551(天文20)年没、享年**歳。本名は宗像氏男。戦国時代の宗像大社宮司。筑前宗像氏の一族。旧名宗像氏男。大内配下として、九州・出雲などで奮戦。その功により、周防吉敷郡黒川郷(今の山口市黒川)を与えられる。天文二〇年、陶晴賢の謀反の際、義隆を最後まで守り、長門国大寧寺において討ち死にした。

【宗像氏貞(むなかた うじさだ)】
 「人として 名をかるばかり 四十二年 消えてぞ帰る もとの如くに」。
 (解説) 1551(天文20)年没、享年**歳。戦国時代の大名。宗像大社の第79代大宮司。居城は蔦ヶ岳城。陶晴賢の謀反により大内義隆が殺された時、氏男も義隆を守り奮戦して討死した。

天野隆良(あまの たかよし)
 「不来不去 無死無生 今日雲晴れて 峰頭月 明らかなり」。
 (解説) 1551(天文20)年没、享年41歳。戦国時代の武将。大内氏の家臣。安芸国の国人である天野元貞の次男。兄は毛利氏の重臣となる天野隆重。 天文20年、陶隆房(後の陶晴賢)が義隆に謀叛を起こした大寧寺の変で、近習の一人として大内義隆の護衛を務めて山口から逃亡した。しかし長門国の大寧寺で陶軍に包囲され、同年9.1日に冷泉隆豊黒川隆像岡部隆景大田隆通岡屋隆秀祢宜右延小幡義実らと共に義隆自刃の時間を稼ぐために大軍相手に奮戦し討死した。

太田隆通(おおた たかみち)
 「秋風の 至り至らぬ 山陰に 残る紅葉も 散らずやはある」。
 (解説) 1551(天文20)年没、享年**歳。

岡部隆豊(おかべ たかとよ)
 「白露の 消えゆく秋の 名残とや しばしは残る 末の松風」。
 (解説) 1551(天文20)年没、享年**歳。

岡谷隆秀(おかや たかひで))
 「時有りて 自から至り 時有りて 又還る 清風水を度り 明月天に在り」。
 (解説) 1551(天文20)年没、享年**歳。

小幡義実(おばた よしざね)
 「宝剣を呑却して 名弓を放下す 只斯の景のみ有り 一陣の清風」。
 (解説) 1551(天文20)年没、享年**歳。戦国時代の武将。大内氏の家臣。安芸国佐西郡石内を根拠とした国人・安芸小幡氏の一族。天文20年の大寧寺の変では、大内義隆に従い山口から大寧寺に向かい、そこで、冷泉隆豊黒川隆像岡部隆景大田隆通岡屋隆秀祢宜右延天野隆良らと共に辞世の句を読んだ。大寧寺が落ちて義隆が自害する直前に義隆より後事を託され、義隆の嫡子・義尊を警固して脱出するが、目的を果たせず陶隆房軍によって捕縛され、斬首された。一族の娘が後に毛利元就の後妻となって中の丸と呼ばれ、賢夫人として毛利家中を取り仕切り、夫を支えた。

二条良豊(にじょう よしとよ)
 「秋風や 真葛原に 吹き荒れて 恨みぞ残る 雲の上まで」。
 (解説) 1551(天文20).10.1日(9.2日)年没、享年**歳。戦国時代の公卿。関白左大臣二条尹房の次男。兄弟に関白二条晴良・尋憲らがいた。父とともに周防国の大内義隆の本拠である山口に滞在中に陶隆房の謀叛に巻き込まれ、山口の法泉寺、次いで長門国(現在山口県長門市)の大寧寺に逃れるが、父を陶軍に殺害され、良豊も大内義隆自害後に陶軍に捕われて自害して果てた(大寧寺の変)。

祢宜右信(ねぎ みぎのぶ)
 「風荒み 跡なき露の 草の原 散り残る花も いくほどの世ぞ」。
 (解説) 1551(天文20)年没、享年**歳。

右田隆次(みぎた たかつぐ)
 「末の露 本の雫に 知るやいかに つひに遅れぬ 世の習ひとは」。
 (解説) 1551(天文20).9.1日(9.30日)、没(享年**歳)。戦国時代の武将。周防国の戦国大名大内氏家臣。大内氏庶流右田氏の一門。 大寧寺の変で大内義隆を守って山口から長門国大寧寺まで義隆親子を警護し、身辺を守って討死した。

冷泉隆豊(れいぜい たかとよ)
 「みよ(みも)やたつ 雲も煙も 中空に さそひし風の 末も残らず」。
 (解説) 1551(天文20)年没、享年**歳。戦国時代の武将。大内氏の家臣。冷泉氏の本姓は多々良氏であり大内氏の支流。父・冷泉興豊が母方の冷泉家の家号を称して冷泉氏を名乗った。天文20年、陶隆房が決起。大内義隆は山口を脱出し、石見国の吉見正頼を頼ろうとしたが、嵐で船が出せず長門国の大寧寺へと入る。陶軍が大寧寺を包囲すると義隆は自害し、隆豊は介錯を務めた後、自身も陶軍の中に突撃して討死にした(大寧寺の変)。その最期は壮絶なものだったと伝えられ、攻め寄せる敵兵が恐れを成すまで戦い、火をかけた経蔵に入って辞世を詠んだ後に十文字に割腹、内臓を天井に投げつけて果てたと伝わる。また、隆豊が籠もった経蔵に続く坂道は冷泉坂と呼ばれている。

【山崎宗鑑】
 「宗鑑は いづこへ行くと 人問はば ちと用(癰)ありて あの世へといえ」
 (解説) 1553年没、享年89歳。俳諧の創始者。はじめ足利義尚に仕えるが、その死に出合い、世の無常を感じて剃髪して尼崎に関居する。ついで一休禅士に従う。和歌・連歌を習うが、風狂の人として俳諧の普及につくす。

【大内義長】
 「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」
 (解説) 1555(弘治元).4.3日没、享年26歳。大内義隆の猶子(大友宗麟の異母弟)。晴賢が毛利元就との厳島の戦いで敗死すると家臣団が完全に崩壊し大内氏は急速に衰退していく。毛利氏は防長経略で弘治3年(1557年)3月、山口へ侵攻。義長は寡兵をもってよく防戦したが、結局、高嶺城を放棄し重臣内藤隆世の長門且山城へ敗走。しかしすぐに毛利軍の福原貞俊により且山城を包囲され、隆世は義長の助命を条件に開城し自刃した。義長も長福院(現在の功山寺)に入ったあとに毛利軍に囲まれて自刃を強要され、陶鶴寿丸らとともに自害した。

【伊香賀隆正(いかが たかまさ)
 「思いきや 千年をかけし 山松の 朽ちぬるときを 君に見んとは」
 (解説) 1555(弘治元)年没、享年歳。陶晴賢の家臣、民部大輔、隆正ともいう、晴賢の近習を勤め、厳島の戦いでは最期まで主君に従い、晴賢の介錯後に自害した。

【陶晴賢】
 なにを惜しみ なにを恨まん もとよりは このありさまの 定まれる身に
 (解説) 1555(弘治元).10.6日(9.21日)没、享年35歳。晴賢は自ら2万から3万の大軍を率いて、安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾城を攻略しようとした。しかし毛利軍の奇襲攻撃によって本陣を襲撃されて敗北し、毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した(厳島の戦い)。なお、晴賢の遺骸は、桜尾城で首実検の後、洞雲寺に葬られた。

垣並房清(かきなみ ふさきよ)
 「勝敗の 迹を論ずる こと莫かれ 人我暫時の情 一物不生の地 山寒うして 海水清し」
 (解説) 1555(弘治元)年没、享年**歳。

山崎隆方(やまざき たかかた)
 「ありと聞き なしと思うも 迷いなり 迷いなければ 悟りさえなき」
 (解説) 1555(弘治元)年没、享年**歳。晴賢の近習を勤める。厳島では、最期まで主君に従い、自害した。晴賢に最期まで付き添った伊香賀隆正、柿並隆正、山崎隆方らは山中に晴賢の首 を隠した後、刺し違えて自刃した。

【伊香賀隆正(いかが たかまさ)】
 思いきや 千年をかけし 山松の 朽ちぬるときを 君に見んとは
 1555(弘治元)年没、享年**歳。

【斎藤道三(さいとう・どうさん)】
 「捨ててだに この世のほかは なきものを いづくかつひの すみかなりけむ」
 (解説) 1556()年没、享年**歳油売り商人から美濃の国主となった一代の梟雄。弘治二年四月、息子義龍の反逆にあい、62歳で長良川原の露と消ゆ。本句は末子勘九郎に与えた遺書にある。

【石谷某】
 「名を惜しむ 命やかへん 世の中に ながらへはつる 習ひありとも」
 (解説) 享年**歳。斎藤道三の家臣。鷺山城に立て籠もる。投降を勧められるが覚悟の討死。

【徹岫宗九(てっしゅう そうきゅう)】
 「殺仏殺祖 遊戯神通 末期一句 猛虎舞空」
 (解説) 1556年没、享年**歳

【大内義長】
 「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」
 (解説) 1557(弘治3).4.3日没、亨年26歳。大内家に養子にはいった大友宗麟の異母弟。弘治三年四月、毛利元就に攻められ、陶鶴寿丸らとともに自刃した。

野上房忠(のがみ ふさただ)
 「生死を断じ去って 寂寞として声なし 法海風潔く 真如月明らかなり」
 (解説) 1557(弘治3).4.3(5.1日)、没(享年**歳)。戦国時代の武将。周防国守護代・陶興房の小守護代。 陶氏の家臣である野上政通の子として生まれる。

【今川義元】
 「夏山の 茂みふきわけ もる月は 風のひまこそ 曇りなりけれ」
 (解説) 1560(永禄3)年没、亨年42歳。桶狭間の戦いで急死する。

【斎藤龍(さいとう・よしたつ)】
 「三十余歳 守護人天 刹那一句 仏祖不傳」
 (解説) 1561年没、亨年34歳。

三好義賢(みよし よしかた)
 「草枯らす 霜又今朝の 日に消えて 報のほどは 終にのがれず」
 (解説) 1562(永禄5)年没、亨年36歳。紀伊国の根来衆の援助を得た畠山高政の反撃を受け、久米田の戦いで戦死した。寵愛の小姓や近習らも悉く討ち死にしたという。跡を子の三好長治が継いだ。

【足利義輝】
 「五月雨は 露か涙か 時鳥(ほとどきす) 我が名上げよ 雲の上まで
 (解説) 足利義輝(室町幕府第十三代将軍)。1565(永禄8)年没、享年30歳。足利義輝が将軍職を継いだ時には室町幕府や将軍職の権威は地に堕ちていた。そんな中、義輝は室町幕府のかつての威光を取り戻すため孤軍奮闘する。これに、幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永久秀と三好三人衆が立ちはだかる。永禄8年(1565年)5月19日、松永久秀と三好三人衆が謀反を起こし、主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢を率いて義輝の居城である二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽り取次ぎを求めた(永禄の変)。義輝は古くから足利将軍家に伝来されていた「鬼丸国綱」や「童子切安綱」などの名刀を振るい、畳の上に何本も抜いた刀を突き立てておいて、刃毀れをすると、すぐにこれを取替え、敵方の兵を多数斬り殺して戦った。しかしながら衆寡敵せず、奮戦の甲斐なく三好勢によって無惨にも殺害された。この時、摂津晴門の嫡子・糸千代丸も一緒に討ち死にした。また義輝の生母である慶寿院も殉死している。辞世の句には志半ばで逝く無念さが滲み出ている。

長野業盛(ながの なりもり)
 「春風に 梅も桜も 散りはてて 名のみ残れる 箕輪の山里」
 (解説) 1563()年没、享年**歳。 

大嶋筑前民部澄月(おおしま すみつき)
 「澄む月の 暫し雲には 隠るとも 己が光は 照らさゞらめや」
 (解説) 1565(永禄8).5月没、享年**歳。肥前平戸城主松浦隆信の家臣。隆信の相の浦城攻撃に加わるが、中里の戦いで殿軍となり敵の追撃を受けて兄弟とも戦死。

大嶋照屋(おおしま てるいえ)
 「仮初めの 雲隠れとは 思へ共 惜しむ習ひそ 在り明の月」
 (解説) 1565(永禄8)年没、享年**歳

長野業盛
 「春風に 梅も桜も 散りはてて 名のみ残れる 箕輪(みわ)の山里」
 (解説) 1566(永禄9).11.10日(9.29日)没、亨年19歳。戦国時代の武将。上野長野氏。上州箕輪城主・長野業正()の子、母は保戸田氏。武田信玄の攻撃を受けて落城の際、自決。 

安藤九郎左衛門
 「こし(老い)の身は いづくの土と なるとても 君がみのわに 心留まる」
 (解説) 1566(永禄9)年没、享年**歳上州箕輪城主長野家の武士。城外の白岩山で戦死。直垂の裏に血書の辞世を残す。

島津日新斎
 「急ぐなよ 又とどまるな 吾が心 定まる風の 吹かぬかぎりは」
 (解説) 1568(永禄11).12.31日(12.13日)没、享年**歳。出水の島津実久の軍と加世田別府城で戦い1539年正月これを破り、加世田城主(現南さつま市加世田)となる。薩摩を統一し島津氏が戦国大名の第一歩を踏み出す。息子の貴久公が本宗家守護職第15代を承継し、孫の義久(16代)と繋がっていく。義久公の弟義弘公は関が原の合戦で徳川家康本陣をの正面を突っ切って島津豊久等多くの将兵を失いながらも伊井直政などの多くの武将に負傷を与え戦場を逃れた「島津の退き口」と呼ばれる薩摩武士の勇猛を天下に示した。日新公は文武、神,儒、仏三教をきわめ、善政をひいた「薩摩の聖君」と呼ばれる。中でも「いろは歌」は天文8年から14年ごろの作で、藩政時代から薩摩武士、士道教化、師弟教育の教典となった。今の時代にも通じる多くの教えを含んでいる。

【伊東義益】
 「閑なる 時世に花も おくれじと 先づ咲きそむる 山櫻かな」
 (解説) 1569(永禄12)3年没、享年**歳。日向伊東氏十一代日向飫肥城当主。日向国伊東義祐の二男。田原山の陣中にて島津氏との対陣中に病死(戦死)。 

【毛利元就(もうり もとなり)】
 「友を得て 猶ぞうれしき 桜花 昨日にかはる けふの色香は」
※これは元就の死に臨んで残した句ではないが、死の三月ほど前に吉田郡山城で詠んだ句である。
 「をしむ夜の 月は入ても 鷲の山 雲よりたかき 名やはかくるる」
※これは元就の句ではないが、彼の死を悼んだ道澄法親王の追悼の句である。
 (解説) 1571年没。元就の死を悼んだ道澄法親王の追悼の句「 をしむ夜の月は入ても鷲の山 雲よりたかき名やはかくるる」。

【北条氏康)】
 「夏は来つ 音に鳴く蝉の 空衣 己己の 身の上に着よ」
 (解説) 1571(元亀2)年没、享年**歳

【武田信玄(たけだ しんげん)】
 「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」
 (大抵 還他肌骨好 不塗紅粉 自風流)
 「上杉謙信とは和議を結ぶように。謙信は男らしい武将であるから 頼ってゆけば若いお前を苦しめるような行いはすまい。私は最後まで謙信に頼るとは言い出せなかった。お前は必ず謙信を頼りとするがよい。上杉謙信はそのように評価してよい男である」
 (解説) 1573()年没、亨年53歳。甲斐を統一して天下に覇を唱えるも病に倒れる。川中島の戦いが有名。

【朝倉義景】
 「かねて身の かかるべしとも 思はずば 今の命の 惜しくもあるらむ」
 「七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空」
 (解説) 1573(天正元).8.20日没、亨年41歳。越前一乗谷城主。天正元年信長の攻撃を受け自決した。名家朝倉家は滅亡した。

鳥居景近(とりい かげちか)
 「先立ちし 小萩が本の 秋風や 残る小枝の 露誘うらん」
 (解説) 1573(天正元)年没、享年**歳。越前朝倉氏の家臣で通称は兵庫助、義景の近習を務めた。織田信長との刀禰阪の戦いに敗れた義景に従い、越前大野郡の六坊賢松寺まで同行した。一族景鏡の裏切りにより義景が自刃すると、景近は景鏡勢の中へ斬り込み、引き返して義景の後を追って自刃した。

【鳥居強衛門勝商(とりい・かつあき)
 我が君の 命にかはる 玉の緒は なに厭(いと)ひけん 武士(もののふ)のみち」
 (改正三河後風土)
 (解説) 1575()年没、亨年36歳。天正三年、武田勝頼に攻められた長篠城から単身脱出して、信長に援軍を求め、戻る途中捕まり、城の前で磔になった剛の人。

三村元親(みむら・もとちか)
 「人といふ 名をかる程や 末の露 消えてぞ帰る 本の雫に」
 (解説) 1575()年没。備中高梁の豪族。宇喜多直家・小早川隆景の攻撃を受け、天正三年五月、松山城外の松蓮寺にて自決。

三村勝法師丸
 「夢の世に 幻の身の 生れ来て 露に宿かる 宵の電(いかづち)」
 (解説) 年没、亨年8歳。元親の子。捕らえられ、敵の本陣に送られる際、扇に辞世を書き付け朝の露と消ゆ。

三好長治(みよし・ながはる)
 「三好野の 梢の雪と 散る花を 長治とやは(長き春とや) 人のいふらむ」
 「極楽も 地獄もさきは 有明の 月の心に かかる雲なし」
 (解説) 1575()年没、享年**歳。三好長慶の弟義賢の子。天正五年、細川真之の恨みを受けて攻撃され阿波国長原の浦で自害。「長治とやは」は「長き春とや」にもじっている。

尼子勝久(あまご・かつひさ)
 「都渡劃断す 千差の道 南北東西 本郷に達す」
 (解説) 1578(天正6)年没、享年26歳

【上杉謙信】
 「極楽も 地獄もさきは 有明の 月ぞ心に かかる雲(かな)なき」(「名将言行録」)
 「極楽も 地獄も ともに有明の 月ぞこころに かかる月かな」
 「四十九年 一酔の夢 一期の栄華 一盃の酒」
 (解説) 1578()年、享年48歳。戦国大名。武田信玄と信濃の覇権をめぐって数度戦う。天正6年3月、毛利氏と連合して織田信長と対決しようとしたが、出陣の6日前に脳卒中で死亡。死の予感があったのか、謙信は2月に京都から画工を招いて自画像を描かせ、それに辞世の句を書き残している。

池田和泉
 「露の身の 消えても心 残り行く 何とかならん みどり子の末」
 (露のように儚い自分がこの世から消えるとしても、心残りは幼子のことだ。あの子の将来は何とかならないだろうか)
 (解説) 1578(天正6)年没。摂津伊丹城主荒木村重の家臣。荒木村重が織田信長に謀反した為、信長の攻撃を受け伊丹城を死守したが、荒木勢の首脳が伊丹城から脱出してしまったことで、自壊の様相を呈した。伊丹城で城内を警護していた池田和泉守は絶望のあまり自決した。和泉守は、辞世の句を詠むと火縄銃に火薬を詰めて引き金を引き、自らの頭を撃ち抜いて自殺したという。(信長公記)城中の妻子は、ことごとく惨殺された。

高橋鑑種(たかはし あきたね)
 「末の露 もとの雫や 世の中の おくれさきたつ ならひなるらん」
 (解説) 1579()年没、享年**歳。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。天正6年(1578年)に耳川の戦いで大友氏が衰退すると、秋月氏より養子・元種を迎えた。 翌7年(1579年)には豊前蓑島城にて毛利氏に反旗を翻した杉重良を討ち取った。その他、大友方の千手鑑元の守る香春岳城を攻め落し養子・元種を城主として配し、続く馬ヶ岳城の長野重勝を降し秋月種実の弟・長野種信を入れて長野氏を継がせるなどしたが、同年4月24日に小倉城にて病死した。

波多野秀尚(はたの ひでなお)
 おほけなき 空の恵みも 尽きしかど いかで忘れん 仇し人をば
 (解説) 1579天正7).6.2日(6.25日)、、享年**歳戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。波多野晴通の次男。名は「ひでなお」とも 読む。兄・秀治とともに八上城に籠城し、織田氏の家臣・明智光秀軍と戦うが1年半に 及ぶ攻防の末、降伏。秀治とともに安土に送られ、慈恩寺で磔刑に処せられた。

波多野秀治(はたのろ ひではる)
 「よはりける 心の闇に 迷はねば いで物見せん 後の世にこそ」
 「冬のきて 山はあらはに 木の葉散り 残る松のみ 峰にさびしき」
 (解説) 1579(天正7)年、没(享年**歳)。丹波国八上城主。明智光秀に攻められ降伏。信長のいる近江に赴いたが、安土の浄巌院慈恩寺にて切腹。

【別所長治】
 「今はただ 恨みもあらず 諸人の 命に代わる 我が身と思へば」(播州征伐之事)
 (自分が死ぬことにより、長年親しんできた多くの者の命が救われると思えば恨みはない)
 (解説) 1580()年没、亨年23歳。播磨国三木城主。長治は羽柴秀吉の中国攻めに反対して一万余りの兵力で三木城に籠城したが、支城を一つずつ落とされ孤立し、ついには毛利方からの援軍も封じられ、城内は悲惨な飢餓地獄状態に追い込まれていった。万策尽きた長治は抗戦を断念、弟の友之、叔父の三人が切腹することで城兵の助命を求め、かくして一年十ヶ月におよんだ籠城戦に幕が降りた。天正八年。二年にわたる兵糧攻めのすえ、兵の助命を嘆願し、割腹自決。長治女房(波多野照子、1580没)の辞世の句は「モロ共ニ 消えハツルコソ 嬉シケレ 後レ先タツ 習いナル世ヲ」(播州征伐之事)。

別所友之(べっしょ ともゆき)
 「命をも おしまざりけり 梓弓 すゑの世までも 名の残れとて
 「命をも 惜しまざりけり 梓弓 すゑの末まで 名を思ふ身は」
 (解説) 1580()年没、享年21歳。長治の弟で兄と共に三木城にて自決。別所友之・妻 「たのめこし 後の世までに 翅をもならぶる 鳥のちぎりなりけり」。

別所治忠(べっしょ はるただ) 
 「君なくば 憂き身の命 何かせむ 残りて甲斐の 有る世なりとも」
 (解説) 1580()年没、享年**歳。

【古川経家】
 「武夫の 取り伝へたる 梓弓 かへるやもとの 栖なるらん
 (解説) 1581(天正9).10.25日没、亨年34歳。戦国時代の武将で毛利家家臣。秀吉の兵糧攻めにあい開城し、城下の真教寺にて従容として切腹して、その一生を終えた。その際に父や子供らに遺書を送り、自分の心情を記している。その遺言状は5通中3通が現存している。また、自害の際には小姓の山県長茂が付き従っており、その自害の模様の詳細を記述して、後世に伝えている。自害後、その首は秀吉の下に届けられ、その後安土の織田信長に送られ、信長によって丁重に葬られた。

相良義陽(さがら・よしひ)
 「思いきや ともに消ゆべき 露の身の 世にあり顔に 見えむものとは」
 
彼の死を悼んだ犬童頼安が墓前に献じた句
 (解説) 1581(天正9)年日没、享年**歳。

【清水宗治((しみず・むねはる)】
 「世の中の 惜しまるる時 散りてこそ 花も楓も 色も色なれ」(高松記)
 (解説) 1582()年没、亨年45歳。毛利家に仕える。秀吉の高松城水攻めの際、降伏の条件として自害す。

【清水宗知(月清入道)】
 「浮き世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」
 (解説) 年没、享年**歳。清水宗治の兄。

快川紹喜
 「心頭滅却すれば 火も自ら涼し」
 (解説) 1582(天正10).4.25日(4.3日)日没、享年**歳。戦国時代、安土桃山時代の臨済宗の僧。恵林寺の僧。武田家滅亡に際し六角義弼を隠匿し、織田信長の引渡要求を拒み一山の僧共に焼死。

【織田信長】
 「是非に及ばず」
 愛唱句「人間五十年、下天のうちに比ぶれば夢幻のごとくなり、一たび生を得て減せぬもののあるべきか」( 能「敦盛」)
 (解説) 1582.6.2日没、亨年49歳。これは本人の作ではないが、信長は合戦への出陣のたびによくこれを歌舞し、また死の間際にも口ずさんだらしい。

【明智光秀】
 「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す」  
 「逆順二門なし 大道心源に帰す 五十五年の夢 覚め来たり 一元に帰す」 
 「心しらぬ人は 何ともいはばいへ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」(真書太閤記六編巻之十五「明智光秀坂本へ帰る事」の条)
 (解説) 1582()年没、享年55歳。戦国武将。初め斉藤氏に仕え、1566年信長に仕えた。元亀2年(1571)若狭平定の軍功により、近江坂本城主となる。天正10年6月、丹波亀山城から上洛し6月2日、本能寺で信長を討つ。6月13日、山崎の合戦で秀吉に大敗。小栗栖で殺される。

【武田勝頼(たけだ・かつより)】
 「朧なる 月もほのかに 雲かすみ 晴れてゆくへの 西の山の端(は)」
 (解説) 1582.3月没、享年**歳。信玄の子として威を振るうが、織田に抗しきれず滅ぶ

【武田信勝(武田勝頼の子)】
 「あだに見よ たれも嵐の さくら花 咲き散るほどは 春の夜のゆめ」
 (解説) 享年**歳。勝頼の子。勝頼とともに自害。ここに名家武田家は潰える。

【桂林院(武田勝頼夫人)
 「黒髪の みだれたる世ぞ はてしなき 思いにきえる 玉の露の緒」
 (解説) 1582()年没、享年19歳。小田原北條氏政の妹で武田勝頼側室夫人。勝頼と共に運命を共にするこれは死ぬ直前に、実家小田原北條に送ったもの。

【柴田勝家】
 夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲居にあげよ 山郭公(ほととぎす)」  
 (解説) 1583(天正14)年没、享年61歳。戦国武将。信長の家臣。本能寺の変以後、織田氏の後継者問題で秀吉と対立。天正11年4月、近江賎ケ岳で敗れ、居城の北ノ荘城で、敵軍包囲の中を最後の酒宴を催し、翌日夫人(お市の方)と共に天守閣に登り、火を放って自刃する。お市の方の歌に答えての歌。中村文荷(介錯した人)の歌「おもふどち 打ちつれつつも 行道(ゆくみち)の しるべやしでの 山郭公」 

【お市の方】
 「風さそう 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせむ」
 「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ 郭公(ほととぎす)かな」
 (解説) 1583(天正14)年没、享年37歳。織田信長の妹。運命に翻弄された女性。勝家の夫人として柴田勝家と共に天守閣に登り、火を放って自刃する。

【織田信孝(おだ のぶたか)
 「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報い(尾張)を待てや 羽柴筑前」(勢州軍記)
 「昔より 主をうつ海の 野間なれは 尾張を待てや 羽柴筑前」(川角太閤記)
 「昔より 主をうつみの 野間なれば おはりを待や 羽柴筑前」(北畠物語)
 「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくひをまてや 羽柴筑前」(張州府志)
 「いにしへも 主を内海の 縁(浦)あれば むくいをまてや 羽柴筑前」(三河後風土記)
 「昔より 主を内海の 浦なれば 尾張を待てや 羽柴筑前」(氏郷記)
 (解説) 1583(天正14)年没、享年26歳。命日は4月29日(西暦6月19日)と5月2日(6月21日)の二説がある。賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝は再度挙兵する。しかし兄・信雄によって同年4月に居城の岐阜城を包囲され、頼みの勝家も北ノ庄城で自害すると、岐阜城を開城して秀吉に降伏した。信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺(野間大坊、平安時代末に源義朝が暗殺された場所)に送られ、自害させられた。切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと,床の間にかかっていた梅の掛け軸に投げつけたといわれている。その血のあとは,今なお掛け軸に残っている(自害の際の短刀と共に非公開)。首は神戸城では受け取りを拒否され、検視大塚俄左衛門が伊勢関町の福蔵寺に持ち帰った。寺では首塚を作り手厚く弔った。太田牛一は大野の海音寺で信孝の葬儀を営み、信孝の木像を彫り信孝を偲んだという。

佐久間盛政(さくま もりまさ)
 「世の中を めぐりもはてぬ 小車は 火宅のかどを 出る(いづる)なりけり」
 (解説) 1583(天正14).7.1日没、享年**歳。戦国時代から安土桃山時代の武将。織田氏の家臣。御器所西城主。佐久間氏の一族。玄蕃允。勇猛さから鬼玄蕃と称された。佐久間盛次の子。佐久間安政、柴田勝政、佐久間勝之の兄。佐久間信盛は従叔父にあたる。

中村文荷斎(なかむら ぶんかさい)
 「契あれや 涼しき道に 伴いて 後の世までも 仕へ仕へむ」
 (解説) 安土桃山時代の武将、柴田勝家の家臣。 1583(天正14).4.24日(6.14日)、江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳の戦いで、勝家とともに自害した(享年**歳)。

【龍造寺隆信】 
 「紅炉上 一点の雪」
 (解説) 1584(天正14).3月没、亨年56歳。

【筒井順慶(つついろ じゅんけい)
 「根は枯れし 筒井の水の 清ければ 心の杉の葉は うかぶとも」
 (解説) 1584()年没、享年**歳。光秀死後は秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵された。天正12年(1584年)頃から胃痛を訴え床に臥していたが、小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をおして伊勢・美濃へ転戦。この無理がたたったのか、大和に帰還して程なく36歳の若さで病死した。筒井家は定次が継いだ。順慶は茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であり、自身が僧でもあった関係で(筒井家は元々興福寺の衆徒が大名化した家である)、仏教への信仰も厚く大和の寺院を手厚く保護したとも言われている。

立花道雪(たちばな どうせつ) 
 「異方に 心ひくなよ 豊国の 鉄の弓末に 世はなりぬとも」
 (解説) 1585(天正13).9.11日没、亨年73歳。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後の戦国大名大友氏の家臣。なお、本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。筑後国猫尾城など筑後諸城を攻落したあと、柳川城攻めの最中に高良山の陣中にて病を得て病死した。

三原紹心(みはら じょうしん) 
 「うつ太刀の かねのひゞきは 久かたの 天津空にも 聞えあぐべき」
 (解説) 1586(天正14)年、薩摩国の島津氏の北伐(豊薩合戦)で、主君高橋紹運や子・清右衛門尉宗休と共に岩屋城へ籠城(岩屋城の戦い)し戦死した。 享年**歳。これは島津日新斎の歌であるが、彼はこの歌を吟じた後敵中に斬り込み討死したことから、辞世の句代わりとみなした。

宗像氏貞(むなかた うじさだ) 
 「人として 名をかるばかり 四十二年 消えてぞ帰る もとの如くに」
 (解説) 1586(天正14)年没、豊臣秀吉の九州征伐前に急死した。 享年**歳。

高橋紹運 
 「流れての 末の世遠く 埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水」
 「かばねをば 岩屋の苔に埋てぞ 雲井の空に 名をとどむべき」
 (解説) 1586(天正14).9.10日(7.27日)没(享年38歳)。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣にして吉弘鑑理の子で立花宗茂の実父にあたる。なお、本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。島津氏が大友氏を滅ぼすべく5万を号する大軍を率いて紹運が籠もる岩屋城に侵攻し、高橋勢わずか763名が島津軍の降伏勧告をはねつけて徹底抗戦した(岩屋城の戦い)。結果、半月ほどの攻防戦により全員討死にした。

木付統直 
 古へを 慕うも門司の 夢の月 いざ入りてまし 阿弥陀寺の海
 1586(天正14年、島津氏の豊後侵攻(豊薩合戦)に際し、新納忠元の軍勢を豊後木付城で退ける。文禄・慶長の役の最中に大友義統が豊臣秀吉に改易されると、義統に従った子統直がそれを恥じ帰国の途上、関門海峡で入水自害した。享年**歳。

【佐々成政】
 「この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり
 (解説) 1587(天正15)年の九州征伐で功をあげたことを契機に、その後の九州国分では肥後一国を与えられた。秀吉は早急な改革を慎むように指示したとも言われる。病を得ていたとも言われる成政は、早速に検地を行おうとするがそれに反発する隈部親永を中心とする国人が一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。翌天正16年(1588年)2月、成政は謝罪のため大坂に出向いたが、秀吉に面会を拒否され尼崎に幽閉される。この失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果はなく、そのまま幽閉された後、摂津国尼崎の法園寺にて切腹させられた。この時検使として加藤清正が立ち会っている(享年53歳)。亨年50歳又は73歳説まであり。

宮原景種(みやはら かげたね)
 「逃るまじ 処を兼て 思い切れ 時に至りて 涼しかるべし
 (解説) 1587(天正15).4月没、享年**歳。戦国時代から安土桃山時代の武将。島津氏家臣。宮原景益の孫。豊臣秀吉の九州征伐の肥後隈庄にて肥後国人衆に攻められ戦死した。※島津日新斎の歌であるが、この歌を吟じた後敵中に斬り込み討死したことから辞世の句代わりとみなされている。

【佐久間盛正】
 「世の中を ぬぐりもはてぬ 小車は 火宅のかどを いづるなりけり
 (解説) 1588年没、亨年29歳。

【北条氏政】
 「吹くとふく 風な恨みそ 花の春 もみぢの残る 秋あればこそ」
 「雨雲の おほへる月も 胸の霧も 払ひにけりな 秋の夕風(ゆふかぜ)」
 「我身いま 消ゆとやいかに 思ふべき 空(くう)より来り 空に帰れば」
 (解説) 1590(天正18)年7.11日、没(亨年52歳)。関東の戦国大名、後北条(ごほうじょう)氏第4代。氏康(うじやす)の子。秀吉の小田原攻めの後、その責任をとらされ自害させられる。

北条氏照(ほうじょう うじてる) 
 「天地の 清き中より 生れ来て もとのすみかに 帰るべらなり 」
 「吹くとふく 風な恨みそ 花の春 もみぢの残る 秋あればこそ」
 (解説) 1590(天正18)年没、享年**歳。氏政の弟。秀吉の小田原征伐後、その責をとらされ自害させられる。

大道寺政磐
 「後の世の かぎりぞ遠き 弓取りの いまはのきはに 残す言の葉」
 (解説) 小田原北條家臣。政繁とも。1590(天正18)年の小田原征伐の際、「所行にて表裏の段」として開戦の責任を咎められ、北条氏政北条氏照・松田憲秀と並び、切腹を命じられ、最期は江戸城下の桜田で切腹し果てた。

【千利休】
 「人世七十 力圍希咄(カーッ、トーッ)吾這宝剣 祖仏と共に殺す」
 「提(ひつさ)ぐる 我が得具足の 一つ太刀 今此時ぞ 天に抛(なげう)つ」
 (解説) 1591()年没、亨年69歳。安土桃山を代表する茶人。織田信長、豊臣秀吉に仕える。秀吉の怒りにふれ、自刀する。茶道の完成者。千家流茶道の開祖。16歳のとき京都で茶会を開き、茶の湯の世界に登場。天正13年(1585)秀吉の関白就任にあたり、禁中小御所で茶会が開かれたとき、天皇に茶を献じて利休居士の号を贈られる。天正18年、秀吉の怒りを受け、翌年2月28日切腹する。

【北條氏直】
 「結びして 解くる姿は かはれども 氷のほかの 水はあらめや」
 (解説) 1591(天正19).11.4日没、亨年30歳。小田原北條五代。小田原開城後、高野山へと追放され、のち許されて大名になるが、病死する。氏直死去後、氏規の嫡子である氏盛が氏直の名跡と遺領の内4,000石を相続し、さらに慶長3年(1598年)に氏規の跡を継いで1万1千石の大名となり、北条宗家は河内狭山藩主として幕末まで存続した。

島津歳久(しまづ としひさ)
 「晴蓑めが 玉のありかを 人問わば いざ白雲の 上と答へよ」
 (解説) 1592(天正20)年没、亨年56歳。秀吉の始めた朝鮮出兵(文禄の役)も病気を理由に出陣しなかった。

【木付統直(きつき むねなお)】
 「古へを 慕うも門司の 夢の月 いざ入りてまし 阿弥陀寺の海」
 (解説) 1593(文禄元)年没、享年**歳。父は木付鎮直。杵築市最後の当主。官位は左衛門尉。別名三郎。文禄の役の際は大友義統公に従い、子息の直清と共に一族と150名という兵を率いて参戦した。しかし鳳山の戦いで嫡子直清を失い、義統公の改易問題が重なり、帰国の途中の門司の浦で自刃入水した。この悲報は、ただちに木付城中の父鎮直に届き、鎮直夫妻もともに城内で自害した。これにより木付氏の歴史は幕を閉じた。

【石川五右衛門】 
 「石川や 浜の真砂はつきるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」
 (解説) 1594年没、享年**歳。希代の大盗賊。秀吉の寝所へ忍び込んだところを捕縛され釜ゆでにされた。

【熊谷直之(くまがい なおゆき)】 
 「あはれとも 問ふひとならで とふべきか 嵯峨野ふみわけて おくの古寺」
 (解説) 1595(文禄4).8.21日(7.16日)没、享年**歳。戦国時代から安土桃山時代の武将。若狭国守護であった武田氏の家臣で、若狭国井崎城(大倉見城)城主。元亀元年(1570年)朝倉攻めに参陣するなど、後には織田信長に臣従した。本能寺の変の後豊臣秀吉に仕え、その後は関白豊臣秀次に配された。秀次事件に連座し、京都嵯峨の二尊院で自害した。秀吉は使者を送って止めようとしたが間に合わなかった

前野長康(まえの ながやす)】 
 「限りある 身にぞあづさの 弓張りて とどけまいらす 前の山々」
 (解説) 1595(文禄4)年没、享年68歳。戦国-織豊時代の武将で尾張(おわり)(愛知県)出身。通称は将右衛門,但馬。前野宗康の次男。前野雄吉(かつよし)の弟。木下藤吉郎(豊臣秀吉)につかえる。墨俣(すのまた)築城,四国攻め、小田原攻めなどでの功により,天正(てんしょう)13年但馬(たじま)(兵庫県)出石(いずし)6万石の城主となった。謀反の罪にとわれた豊臣秀次の事件に連座し,文禄(ぶんろく)4年10月19日子の景定とともに切腹。

【毛利元親】
 「人という 名をかる程や 末の露 消えてぞ帰る 本の雫に」
 (解説) 享年**歳。

【毛利元親の養子、勝法師丸】
 「夢の世に  幻の身の  生まれ来て 露に宿かる  宵の稲妻(いかづち)」
 (解説) 享年**歳

【藤堂高虎】
 「寝室を出るときから 今日は死ぬ番であると心に決めなさい その覚悟があればものに動ずることがない」
 「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山かぜ
 (解説) 1595()年没、亨年39歳。

【蒲生氏郷(がもう うじさと)
 「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山嵐(かぜ)」  
 (解説) 1595()年没、享年39歳。戦国・安土桃山時代の会津藩主。若年で信長の人質となり、次いで秀吉に仕える。小田原征伐の功により会津若松へ移封する。会津を所領として嘆いたという。文禄の役のとき、従軍中に病気となり自邸で歿した。近江日野城主・伊勢松阪城主・陸奥黒川城主。キリシタン大名。洗礼名はレオン。茶の道でも利休七哲の一人。

【豊臣秀次】
 「磯かげの 松のあらしや 友ちどり いきてなくねの すみにしの浦む 窗の月を見むとは」
 「月花を 心のままに 見つくしぬ なにか浮き世に 思ひ残さむ」
 「思ひきや 雲居の秋の 空ならで 竹編む窗の 月を見むとは」
 「うたたねの 夢の浮世を 出でてゆく 身の入相の 鐘をこそ聞け」
 「十方仏土の中(うち)とあるときは、 方角は入らざるものなり」(切腹の際、西を向くように言われて)
 (解説) 1595()年没、享年**歳。秀吉の養子となり関白になるが、秀吉の勘気を被り高野山へ追放、のち自害へと追い込まれる。これは、秀吉に子ができたためといわれているその焦りが、また秀次をして殺生関白とならしめたとも。

【一の台】
 「つまゆへに くもらぬ空に 雨ふりて 白川くさの 露ときえけり」
 「ながらへて ありつるほどの 浮世とぞ 思へばなかる 言葉もなし」
 (解説) 1595(文禄4).9.5日(8.2日)没、亨年34歳。安土桃山時代の女性で、豊臣秀次の側室。父は菊亭晴季。秀次失脚によって、一族処刑に遭う。

【最上駒姫】
 「罪をきる 弥陀の剣に かかる身の なにか五つの 障りあるべき」
 「うつヽとも 夢とも知ぬ 世の中に すまでぞかへる 白川の水」
 「罪なき身も 世のくもりに さへられて 友に冥途に赴かば 五常のつミも ほろひなんと思ひて」
 (解説) 亨年15歳。最上義光の娘で豊臣秀次の側室。伊万(伊満)とも。

【豊臣秀吉】
 「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわの事も 夢の又夢」
 (天正15年、秀吉51歳の時のもの)
 (解説) 1598().8.18日没、享年63歳。 「なにわ」は、なにもかもの意と難波(大坂)の掛け言葉。武将。父は織田家の足軽。織田信長に仕え、天正1年(1573)近江長浜城主となる。「本能寺の変」後、光秀を討ち、天正18年に天下統一を成し遂げる。文禄・慶長の役(1592 ~98)を起こし朝鮮に出兵。慶長3年8月、「虚損の症」(ガン)で伏見城にて死亡。





(私論.私見)