辞世句1、古代から後醍醐天皇御代まで |
更新日/2017.3.7日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、辞世の句を時系列で確認する。「撰集 辞世の句集」、「辞世の句」、「武将たちの辞世の 句」、「辞世の句 & 名言集 幕末編」、「辞世「みそひともじ」集by吉岡生夫」、「辞世句ランキング」その他参照。今後どんどん充実させていくつもりである。 2013.3.23日再編集 れんだいこ拝 |
【車持娘子(くるまもちのおとめ)】 |
「我が命は 惜しくもあらず さにつらふ 君によりてそ 長く欲りせし」 |
原文: 左耳通良布 君之三言等 玉梓乃 使毛不来者 憶病 吾身一曽 千磐破 神尓毛莫負 卜部座 龜毛莫焼曽 戀之久尓 痛吾身曽 伊知白苦 身尓染登保里 村肝乃 心砕而 将死命 尓波可尓成奴 今更 君可吾乎喚 足千根乃 母之御事歟 百不足 八十乃衢尓 夕占尓毛 卜尓毛曽問 應死吾之故 |
よみ: さ丹(に)つらふ君がみ言と、玉梓(たまづさ)の使(つかひ)も来ねば、思ひ病む我が身ひとつぞ、ちはやぶる神にもな負(お)ほせ、占部(うらべ)据(す)ゑ、亀(かめ)もな焼きそ、恋ひしくに、痛き我が身ぞ、いちしろく、身にしみ通り、むらきもの心砕けて死なむ命、にはかになりぬ、今さらに君か我を呼ぶ、たらちねの母のみ言か、百(もも)足らず八十(やそ)の衢(ちまた)に、夕占(ゆふけ)にも占(うら)にもぞ問ふ、死ぬべき我がゆゑ |
意味: 美しいあなたからのお言葉です、と伝えてくれる使いの方も来ないので、一人思い悩んでいる私です。神様のせいにはしないでください。占い師を呼んで亀(かめ)の甲羅を焼いて占ったりしないでくださいな。恋しくて恋しくて、苦しくて苦しくて、身も心も。もう心が砕けそうで、死んでしまいそうです。今更、あなたが私のことを呼んでくださるでしょうか。それとも母が街角で占ってくれるのでしょうか。もう死んでしまったほうがいい私なのに。。。。。 |
【豊玉毘売命】 |
「赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり」(古事記) |
(解説) |
【弟橘比売(オトタチバナヒメ)】 |
「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中(ほむら)に立ちて 問ひし君はも」 |
(解説) 日本武尊(やまとたけるのみこと)の妻。夫の倭建命の身代わりとなって入水する際の歌で「炎の中にあっても私のことを心配してくださった貴男」というほどの意味。 |
【倭建命(ヤマトタケルのミコト)】 |
「倭(やまと)は国のま秀(ほ)ろば たたなづく青垣 山ごもれる 倭しうるはし」 (大和は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる大和しうるはし) |
(解説) 日本武尊の辞世句。日本武尊は古事記や日本書紀に登場する古代の英雄。正確には辞世の句ではないが、戦いに敗れて故郷を思って詠った歌。このすぐ後に死ぬことになる。 |
【大葉子】 |
「韓国の 城(き)の上に立ちて 大葉子は 領巾(ひれ)振らすも 大和へ向きて」 |
(解説) 562()年頃、新羅征討軍、調吉士伊企儺(つきのきしいきな)の妻の歌。 |
【蘇我入鹿】 |
「臣(やつこ)、罪を知らず。乞ふ、審察を垂れたまへ」 |
(解説) 645(皇極天皇4)年没、亨年**歳。乙巳の変のクーデターによって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で暗殺された。従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。 |
【有間皇子(アリマノミコ)】 |
「磐代(いわしろ)の 浜松が枝を 引き結び 真幸(まさき)くあらば また還(かへ)り見む」 |
「家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」 |
(解説) 658()年没、亨年18歳。この2編は19歳で刑死した有馬皇子の辞世の句で、記録に残る辞世としては最も古い。皇子は蘇我赤兄にだまされ、中大兄皇子にクーデターを起こそうとしてたところを捕らえられ、白浜温泉で処刑されたと伝えられている。政変に巻き込まれた19歳のプリンスが、白浜へ護送される途中の作である。松の枝と枝を結び合わせて無事を祈る風習に掛けて、生還を詠んでいる。もう一つは、以前から馴染み深い若妻への愛を込めた歌であり、同時に詠まれている。 |
【大津皇子】 |
「百(もも)づたふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」 (万葉集) |
「金烏西舎に臨らひ 鼓声短命を催す 泉路賓主無し 此夕家離りて向ふ」(懐風藻) |
(解説) 686()年没、亨年24歳。万葉集にある大津皇子の句。大津皇子は、天武天皇の皇子であるが、謀叛を企てたとして殺される。 |
【柿本人麻呂】 |
「鴫山の 岩根しまける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ」 (万葉集 巻第二223) |
「荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我ここにありと 誰か告げけむ」 |
(解説) 720( 養老4)年頃没、亨年**歳。飛鳥時代の歌人。三十六歌仙の一人。岩見国に在りて死に臨む時に、自ら傷みて作る歌一首。 |
【大伴君熊凝】 |
「たらちしの 母が目見ずて おほほしく いづち向きてか 我が別るらむ」(万葉集) |
「常知らぬ 道の長手を くれくれと いかにか行かむ 糧(かりて)はなしに」 |
「家にありて 母が取り見ば 慰むる 心はあらまし 死なば死ぬとも」 |
「出でて行きし 日を数へつつ 今日今日と 我を待たすらむ 父母らはも」 |
「一世には 二度見えぬ 父母を置きてや 長く我が別れなむ」 |
(解説) 731( 天平3)年没、亨年**歳。。 |
【山上憶良】 |
「士(をのこ)やも 空しくあるべき 万代(よろずよ)に 語りつぐべき 名は立てずして」 (万葉集 巻第六 978) |
(解説) 733(天平5)年頃没、亨年**歳。奈良時代初期の貴族・歌人。 |
【石上麿足】 |
「かひはかく ありけるものを わびはてて 死ぬる命を すくひゆはせぬ」(竹取物語) |
(解説) |
【かぐや姫】 |
「今はとて 天の羽衣着るをりぞ 君をあはれと 思ひいでける」(竹取物語) |
(解説) |
【伊勢物語】 |
「あひ思はで 離(か)れぬる人を とどめかね わが身は今ぞ 消えはてぬめる」(伊勢物語) |
「つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを」(伊勢物語) |
「大原や せがゐの水を むすびつつ あくやと問ひし 人はいづらは」(伊勢物語) |
(解説) |
【古今和歌集】 |
「かずかずに 我を忘れぬ ものならば 山の霞を あはれとは見よ」 (閑院の五の御子、古今和歌集) |
「声をだに 聞かで別るる 魂(たま)よりも なき床に寝む 君ぞかなしき」 (古今和歌集) |
(解説) |
【小野小町】 |
「あはれなり 我が身の果てや 浅緑 つひには野辺の 霞と思へば」 |
「九重の 花の都に 住みはせて はかなやわれは 三重にかくるる」 |
(解説) 生没年不詳。平安前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。 |
【鑑真和上】 |
「願わくば 坐して死なん」 |
(解説) 763(天平宝字).6.25日(5.6日)没、亨年76歳。奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。唐招提寺で死去(遷化)した。 |
【最澄】 |
「心形久しく労して 一生ここに窮まれり」 |
(解説) 822(弘仁13).6.26日(6.4日)没、亨年56歳。平安時代初期の僧、天台宗の開祖。比叡山の中道院で没。伝教大師(でんぎょうだいし)の諡号 |
【空海】 |
「吾れ入滅せむと擬するは今年三月二十一日寅の刻なり。もろもろの弟子等悲泣することなかれ」 |
「生のはじめに昏(くら)く 生の終わりに冥(くら)し」 |
(解説) 835(承和2).3.21日(陰暦4.22日)没、亨年56歳。平安時代初期の僧、真言宗の開祖。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号。 |
【在原業平】 |
「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」(古今和歌集) |
(解説) 880年没、亨年55歳。辞世の歌は率直で飾らないのを良しとするが、本句は突然訪れた死に対する驚きを素直に吐露しており、辞世句の鏡とされている。 |
【大江千里(おおえのちさと)】 |
「もみぢ葉を 風にまかせて 見るよりも はかなきものは 命なりけり」(古今和歌集) |
(解説) 平安時代前期の歌人、文人。父は音人 (おとんど) 。宇多天皇時代の人で、六位兵部大丞にいたった。中古三十六歌仙の一人。897(寛平9)年、宇多天皇の勅命により家集「大江千里集」を撰集・献上している。句題和歌と呼ばれ、大部分は白氏文集の詩句によった題詠から成る。古今和歌集の10首を始めとして以降の勅撰和歌集に25首が入集している。小倉百人一首 23番「月見れば 千々に物こそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど」も大江の作である。 |
【菅原道真(すがわらの・みちざね)】 |
「此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に」(小倉百人一首) |
「海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさむ」 |
「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(春な忘れそ)」(拾遺和歌集) |
「水ひきの白糸延へて織る機は旅の衣に裁ちや重ねん」(後撰和歌集巻十九) |
(解説) 903(延喜3).3.26日(2.25日)没、亨年**歳。日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没した。 |
【酒井人真】 |
「ゆく人は そのかみ来(こ)むと いふものを 心ぼそしや 今日のわかれは」 |
(解説) 917年没、亨年**歳。 |
【藤原季縄】 |
「くやしくぞ のちにあはむと 契りける 今日をかぎりと いはましものを」 |
(解説) 919年没、亨年**歳。 |
【大和物語】 |
「長けくも 頼みけるかな 世の中を 袖になみだの かかる身をもて」(橘公平女) |
「かりそめの ゆきかひぢとぞ 思ひしを いまはかぎりの 門出なりける」(在原滋春) |
「すみわびぬ わが身投げてむ 津の国の 生田の川は 名のみなりけり」() |
「龍田川 岩根をさして ゆく水の ゆくへも知らぬ わがごとやなく」() |
「あさか山影さへ見ゆる 山の井の あさくは人を 思ふものかは」() |
(解説) |
【幸寿丸】 |
「君がため 命にかはる 後の世の 闇をば照らせ 山の端の月」(舞「満仲」) |
(解説) 945(天慶8)年没、亨年**歳。平安時代の歌人。三十六歌仙の一人。 |
【紀貫之】 |
「手に結ぶ 水にやどれる 月影の あるかなきかの 世にこそありけれ」 |
(解説) 945(天慶8)年没、亨年**歳。平安時代の歌人。三十六歌仙の一人。 |
【空也】 |
「無覚の聖衆来迎 空に満つ」 |
(解説) 972()年没、亨年70歳。東山西光寺(京都市東山区、現在の六波羅蜜寺)において、70歳にて示寂。 |
【藤原道信】 |
「くちなしの 園にやわが身 入りにけむ 思ふことをも いはでやみぬる」 |
(解説) 994()年没、亨年**歳。 |
【藤原定子】 |
「夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき」 (後拾遺和歌集、栄花物語) |
「知る人もなき別れ路に今はとて心ぼそくもいそぎ立つかな」 |
「煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれと眺めよ」 |
(解説) 1001(長保2).1.13日(12.16日)没、亨年**歳。平安時代の第66代一条天皇の皇后(号は中宮、のち皇后宮)。脩子内親王・敦康親王・媄子内親王の生母。通称は一条院皇后宮。枕草子の作者清少納言が仕えた女性である。 |
【後拾遺和歌集】 |
「問へかしな いくよもあらじ 露の身も しばしも言の 葉にやかかると」(読人不知) |
(解説) |
【金葉和歌集】 |
「露の身の 消えもはてなば 夏草の 母いかにして あらんとすらん」(読人不知) |
「くさの葉に 門出はしたり 時鳥 しでの山路も かくやつゆけき」(田口重如) |
「弛みなく 心をかくる 弥陀仏 ひとやりならぬ 誓たがふな」(田口重如) |
(解説) |
【花山天皇】 |
「われ死ぬるものならば まずこの女宮達をなん 忌のうちに皆とり持て行くべき」 |
(解説) 1008(寛弘5).3.17日(2.8)日没、亨年**歳。平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。花山院や花山法皇とも呼ばれる。 |
【一条天皇】 |
「露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ(ことぞ悲しき)」 |
(解説) 1011(寛弘8).7.25日没、亨年**歳。結句が、 御堂関白記では「ことをこそ思へ」、権記では「ことぞ悲しき」となっている。 |
【紫式部】 |
「誰か世に ながらへて見る 書きとめし 跡は消えせぬ 形見なれども」 |
「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」 (夫の藤原宣孝の死去に伴い詠んだ和歌) |
(解説) 没年不詳。平安時代中期の女性作家、歌人。1019年(寛仁三年)までは存命したとされる。 「源氏物語」の作者とされ、藤原道長の要請で宮中に上がった際に宮中の様子を書いた「紫式部日記」も残している。源氏物語と紫式部日記の2作品は、後に「源氏物語絵巻」、「紫式部日記絵巻」として絵画化された。また、歌人である紫式部には、子供時代から晩年に至るまで自らが詠んだ和歌から選び収めた「紫式部集」がある。「小倉百人一首」にも和歌が収められており、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人でもある。 |
【和泉式部】 |
「生くべくも 思ほえぬかな 別れにし 人の心ぞ 命なりける」 |
「あらざらむ 此の世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな」 |
(解説) 1025(万寿2)年以降で没年不詳、亨年**歳。平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。 |
【贈皇后以子】 |
「胸にみつ 思ひをだにも 晴るかさで 煙とならむ 事ぞかなしき」 |
(解説) 1103()没、亨年**歳。 |
【近衛天皇】 |
「虫の音の よわるのみかは 過ぐる秋を 惜しむ我が身ぞ まづ消えぬべき」 |
(解説) 1155(久寿2).8.22日(7.23日)没、亨年**歳。日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日(1142年1月5日) - 久寿2年7月23日(1155年8月22日))。諱を体仁(なりひと)という。 |
【鳥羽院(天皇)】 |
「常よりも 睦まじきかな 郭公(ほととぎす) 死出の山路の 友と思えば」 |
(解説) 1156(保元元).7.20日(7.2日)没、亨年**歳。平安時代後期の第74代天皇。 |
【源為義】 |
「父を斬る子、子に斬らるる父、斬るも斬らるるも宿執の拙き事、恥ずべし恥ずべし、恨むべし恨むべし」 |
(解説) 1156(保元元).7.30日没、亨年61歳。保元の乱では、為義は頼賢、為朝ら一族を率いて崇徳上皇方につき、後白河天皇方の義朝、平清盛らと戦うが敗れる。敗戦後、東国へ落ち延びようとしたが、義朝のもとに降伏し、出家する。義朝は自らの戦功に代えて、為義と弟たちの助命を願うが許されず、7月30日に実子の義朝によって斬首された(場所は『兵範記』では船岡山、『保元物語』では七条朱雀)。 |
【源義朝】 |
「我に小太刀の一本でもあれば討たれはせん」 |
(解説) 1160(平治元).12.27日(2.6日)没、亨年38歳。尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)にたどり着き、政清の舅で年来の家人であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せた。しかし恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受けて殺害された(『平治物語』) |
【崇徳院(天皇)】 |
「夢の世に なれこしちぎり くちずして さめん朝に あふこともがな」(玉葉集) |
(解説) 1164(長寛2).9.14日(8.26日)没、亨年**歳。平安時代後期の第75代天皇。 |
【平清盛】 |
「やがて討手を遣わし、頼朝の首をば刎ねて、我が墓の前に懸くべし、それぞ孝養にてあらんずる」 |
(解説) 1181(治承5)年閏2.4日没、亨年64歳。九条河原口の平盛国の屋敷で死去した。 |
【源(三位)頼政】 |
「埋(うも)れ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ 哀れなりける」 (平家物語) |
(埋もれ木の花が咲くことがないように、私の生涯も時めくこともなく、その身の最期もまた悲しいことだ) |
(解説) 1180()年没、亨年**歳。 |
【木曾義仲】 |
「所々で 討たれんよりも 一所でこそ 討死をもせめ」 |
(解説) 1184(寿永3).1.20日没、亨年31歳。近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。九条兼実は「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」と評した。乳母子今井兼平に語りかけた言葉。 |
【平行盛】 |
「ながれての 名だにも とまれゆく水の あはれはかなき みはきえぬとも」 |
(解説) 1184(寿永3).2.7日没、享年41歳。平安時代の平家一門の武将。平忠盛の六男。平清盛の異母弟。檀の浦、一の谷の合戦で源氏方の岡部忠澄に討たれた。 |
【平薩摩守忠度】 |
「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」 (千載集66、朝敵のため詠み人しらずの扱い) |
「ゆきくれて 木の下陰(したかげ)を 宿とせば 花や今宵の 主(あるじ)ならまし」 (平家物語) |
(解説) 1185(元暦2)年没、亨年**歳。俊成に托した歌。 |
【平重衡】 |
「願わくば逆縁をもって順縁とし 只今最後の念仏によって 九品蓮台に生を遂ぐべし」 |
(解説) 1185(元暦2)年没、亨年29歳。3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に平氏の女達は入水したが、重衡の妻の輔子は助け上げられ捕虜になっている。6.9日、焼討を憎む南都衆徒の強い要求によって、重衡は南都へ引き渡されることになり、源頼兼の護送のもとで鎌倉を出立。6.22日に東大寺の使者に引き渡された。平家物語には、一行が輔子が住まう日野の近くを通った時に、重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、輔子が駆けつけ、涙ながらの別れの対面をし、重衡が形見にと額にかかる髪を噛み切って渡す哀話が残されている。愚管抄にも日野で重衡と輔子が再会したという記述がある。6.23日、重衡は木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された。なお、斬首前に法然と面会し受戒している。 |
【二位尼】 |
「今ゾ知ル ミモスソ川ノ 流レニハ 浪ノ下ニモ 都アリトハ」(延慶本平家物語) 都のさぶろうぞ(平家物語二) |
(解説) 1185()年没、亨年**歳。 |
【平維盛】 |
「生まれては つひに死ぬてふ 事のみぞ 定めなき世に 定めありける」(源平盛衰記) |
(解説)亨年**歳。平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男。 |
【弁慶】 |
「六道の 道の(ちまた)に 待てよ君 後れ先立つ 習(ならひ)ありとも」(岩波書店「義経記」) |
(解説) 1189()年没、亨年**歳。 |
【源義経】 |
「後の世も 又後の世も 廻(めぐ)り会へ 染む紫の 雲の上まで」 (岩波書店「義経記」) |
「御経もいま少しなり 読み果つる程は 死したりとも 我を守護せよ」 |
(解説) 1189()年没、亨年30歳。 |
【西行法師】 |
「捨て果てて 身儚きものと 思いしも 雪の降る日は 寒くこそあれ」 |
「そらになる 心は春の 霞にて 世にあらじとも おもひ立つかな」 |
「願はくば 花の下にて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月のころ」 (1190.2.16日) (できることならば咲き乱れる満開の桜の下で死にたいものだ。釈迦入滅の如月(二月)の望月(十五日・満月)の頃に) |
「世の中を 思へばなべて 散る花の わが身をさても いづちかもせむ」 |
「花さへに 世を浮き草に なりにけり 散るをおしめば さそふ山水」 |
「花よりは 命をぞなお 惜しむべき 待ちつくべしと 思ひやはせし」 |
(解説) 1190()年没、亨年73歳。北面の武士から23歳の若さで 突如出家した彼は漂泊の中に生涯を過ごした。一所不在の精神によって身を軽くし、軽さによって月や花の世界に飛翔し去ることを念願したのだという。 |
【曽我助成】 |
「今日出でて 又も逢はずは 小車の このはのうちに なしと知れ君」(舞「小袖曽我」) |
(解説) 1193()年没、亨年**歳。 |
【曽我時宗】 |
「秩父山 おろす嵐の 烈しきに このみ散りなば ははいかがせん」(舞「小袖曽我」) |
(解説) 1193()年没、亨年**歳。 |
【藤原 俊成(ふじわら の としなり)】 |
「さきだたむ 人はたがひに 尋ね見よ 蓮のうへに さとりひらけて」 |
(解説) 1204(元久元)年没、亨年91歳。平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ葉室家に養子に入り藤原(葉室) 顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り改名した。『千載和歌集』の編者として知られる。 |
【平徳子(建礼門院けんれいもんいん)】 |
「いざさらば なみだくらべむ 郭公(ほととぎす) われもうき世(よ)に ねをのみぞなく」 |
1214(建保元)年1.25日(12.13日)、第80代天皇・高倉天皇の皇后(中宮)(女院。院号は建礼門院)。安徳天皇の母(国母)。父は平清盛、母は平時子。異母兄に重盛、基盛。同母兄弟に宗盛、知盛、重衡がいる。 清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内して第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を産む。安徳天皇の即位後は国母となるが、高倉上皇と清盛が相次いで没し、木曾義仲の攻撃により都を追われ、壇ノ浦の戦いで安徳天皇・時子は入水、平氏一門は滅亡する。徳子は生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った。平家物語の灌頂巻では大原を訪れた後白河法皇に自らの人生を語り、全巻の幕引き役となっている。 |
【源実朝】 |
「出でて去(い)なば 主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな」(吾妻鏡) |
(解説) 1219(建保7).1月27日没、亨年27歳。鶴が丘八幡宮に詣でる前に詠んだとされているが真偽不明。歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として金槐和歌集がある。 |
【慈鎮和尚】 |
「今日ありと 思うて日日に 油断すな 明日をも知れぬ 露の命を」 |
(解説) 1225( 嘉禄元).10.28日(9.25日)没、亨年**歳。平安時代末期から鎌倉時代の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』 を記した。諡号は慈鎮和尚。 |
【後鳥羽上皇】 |
「我こそは 新島守よ おきの海の 荒き浪風 こころして吹け」 |
(解説) 1239().2.20日没、亨年**歳。配所にて崩御した。 |
【道元】 |
「渾身求むるところなく 活きながら 黄泉に陥(お、落)つ」 |
(解説) 1253年没、亨年53歳。 |
【親鸞】 |
「我なくも 法は尽きまじ 和歌の浦 あをくさ人の あらん限りは」 |
「常陸の人々ばかりぞ この者どもをも御あはれみ あはれ候ふべからん いとをしう人々あはれみ思しめすべし」 |
(解説) 1262(弘長2).11.28日没、亨年90歳。 |
【北条時頼】 |
「業鏡高く懸(かか)げ 三十七年 一槌にして打ち砕き 大道坦然たり」 |
(解説) 1263(弘長3)年没、亨年37歳。最明寺で病のために死去した。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。8代執権北条時宗の父。吾妻鏡には臨終に際に、袈裟を纏い座禅を組み、阿弥陀如来像の前で息を引き取ったとされる。 |
【足利家時】 |
「わが命をちぢめて 三代の中に 天下を取らしめ給へ」 |
(解説) 1284(弘安7).6.25日没、亨年**歳。尊氏・直義兄弟の祖父。八幡太郎義家の置文の中に「七代の後に再び生まれて天下の政をとらん」なる文言があったが、それを七代目に当たる家時が果たせなかったため、八幡大菩薩に祈って自刃した。その時残した置文。 |
【一遍】 |
「一代聖教みな尽きて 南無阿弥陀仏に成り果てぬ」 |
「わが亡骸は野に捨て、獣に施すべし」 |
「みづから一念発心せんよりほかには 三世諸仏の慈悲も済ふこと能はざるものなり」 |
(解説) 1289(正応2)年没、亨年51歳。時宗の開祖。同年1月下旬に大山祇神社の供僧長観(1月24日)、地頭代の平忠康(27日)など複数の大山祇神社関係者に一遍を招待すべしとの夢告があり、2月5日大山祇神社の社人が招請のため二十余艘の船団で別宮へ渡海、招かれた一遍一行は2月6日再度大山祇神社参詣、2月9日大山祇神社の桜会(さくらえ)に参列して魚鳥の生贄を止めるよう懇請、その後で善通寺、曼荼羅寺を巡礼、6月1日阿波の大鳥の里の川辺で発病、7月初めに淡路に渡り大和大国魂神社、次いで志筑神社に詣でて結縁した後、7月18日明石に渡り、死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で、旧暦8月23日午前7時頃没し、15年半の遊行を終えた。 「捨て聖」と呼ばれ、入寂に際しすべての著作を焼き捨てたという。 |
【北条基時】 |
「待てしばし 死出の山辺の 旅の道 同じく超えて 憂き世語らん」 |
1316(正和5).7.9日(7.28日)である。普恩寺基時(ふおんじ もととき)とも呼ばれる。 |
【日野俊基】 |
「秋を待たで 葛原岡に 消える身の 露のうらみや 世に残るらん」 |
「古来の一句 死も無く生も無し 万里 雲尽き 長江 水清し」 |
(解説) 1332(元弘2―正慶元).6.26日(6.3日)没、亨年**歳。鎌倉時代末期の廷臣。刑部卿・日野種範の子。子に俊業・俊孝がいる。後醍醐天皇の情報係として元弘の変で鎌倉方に捕らえられ処刑された近臣。山伏に姿を変えて各地の様子を探り、天皇に報告していた。この辞世の頌(じゅ)は処刑直前に懐中の紙に書いたもの云々。 |
【菊池武時】 |
「故郷(ふるさと)ニ 今夜許(こよひばかり)ノ命トモ シラデヤ人ノ 我ヲ待つラン」(太平記) |
(解説) 1333()年没、亨年**歳。 |
【絶海中津(ぜっかい ちゅうしん)】 |
虚空地に落ち 火星乱れ飛ぶとも 筋斗を倒打して 鉄囲を抹過せん |
1405(応永12).4.5日、。南北朝時代から室町時代前期にかけての臨済宗の禅僧・ 漢詩人。道号は絶海のほかに要関、堅子、蕉堅道人など多数ある。中津は諱。 |
【楠木正季】 |
「七生まで 只同じ人間に生まれて 朝敵を滅ぼさばや」 |
(解説) 1336(延元元)年没、亨年**歳。鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。河内国の豪族・楠木正成の弟。七郎・帯刀と称した。1336年(年)に兄の正成は九州から京都を目指す足利尊氏の軍に対して新田義貞の指揮下で戦う事を命じられ、湊川の戦いで敗北する。そして、兄・正成と共に自害した。 |
【宗峰妙超】 |
「仏祖を截断して 吹毛常に磨く 機輪転処して 虚空に牙を咬む」 |
(解説) 1338(建武4).1.13日没、亨年**歳。鎌倉時代末期の臨済宗の僧。一般には大燈国師の名で知られ ている。 |
【後醍醐天皇】 |
「ただ生き変わり死に変ってもつづく妄念ともなるべきは、朝敵をことごとく 滅ぼして、四海を太平ならしめんと思うばかりなり。これを思うゆえ王骨は 身はたとえ 南山の苔に 埋るとも 魂魄(こんぱく)は常に 北闕(けつ)の天を 望まんと思う」(遺言) |
(解説) 1339(延元4年/暦応2).9.18日(8.15日)没、亨年**歳。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために吉野入りし、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。 |
【楠木正行(つら)】 |
「返えらじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をぞ留(とど)める」 |
(解説) 1348年没、亨年**歳。南北朝時代の武将。楠木正成の子。 |
【夢窓疎石】 |
「真浄界中別離無し 何ぞ須らく再会を他時に待たん 霊山の付嘱(たのみ)今日にあり 護法の権威誰か仰がん」 |
「それ道に去来 生死の相なく また安危治乱の変なし」 |
(解説) 1351(正平6).10.20日(9.30日)没、享年77歳。鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧。1325年、後醍醐天皇の勅により南禅寺の住持となるが、北条氏に請われて鎌倉に入る。北条氏滅亡後再び南禅寺に入る。京都騒乱後は天竜寺の開祖となる。 |
【日野俊基】 |
「古来の一句 死も無く生も無し 万里雲尽き 長江水清し」 |
「秋を待たで 葛原岡に 消える身の 露のうらみや 世に残るらん」 |
「古も かかるためしを 菊川の 同じ流れに 身をや沈めん」 |
(解説) 1332(元弘2年/正慶元).6.26日(6.3日)没、享年**歳。鎌倉時代末期の廷臣。後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となる。後醍醐天皇のスパイとして元弘の変で鎌倉方に捕らえられ処刑された。山伏に姿を変えて各地の様子を探り、天皇に報告していたりしたそうです。ちなみにこの辞世の頌(じゅ)は処刑直前に懐中の紙に書いたものだそうです。 |
(私論.私見)
ゆこうゆこうと思えば何も手につかず ゆこやれ西の花のうてなへ