空蝉(うつせみ)11節

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.3.3日

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 2007.10.7日 れんだいこ拝


3、空蝉(うつせみ)11節
3-1  天気晴れ、久々に左大臣邸に帰宅する
3-2  方違えの為、左大臣邸を出る
3-3 紀伊守邸へ方違え泊する
3-4 空蝉の寝所に忍び込む
3-5  空蝉との文通
3-6 それから数日後
3-7 空蝉への思慕
3-8 源氏、再度、紀伊守邸へ
3-9 空蝉と軒端荻、碁を打つ
3-10 空蝉逃れ、源氏、軒端荻と契る
3-11 源氏、空蝉の脱ぎ捨てた衣を持って帰る

3、空蝉(うつせみ)11節
 あらすじは次の通り。
 翌日、源氏は方違えのため紀伊守の別宅を訪れ、そこで紀伊守の父の後妻・空蝉が居合わせていることを知る。中流の女性への興味を募らせる源氏は、その夜半ば強引に寝所に忍び込む。その後源氏は空蝉の弟、小君を召し抱え空蝉との再会を狙うが、自身の身の程を知る空蝉はそれを許さなかった。源氏、十七歳の夏のことだった。

 再訪しての誘いにもなびかない空蝉に源氏は懸想し続ける。小君の手引きで紀伊守の邸宅を三度目に訪れた源氏は開放的な様子の若い女(軒端萩)と碁を打つ空蝉を垣間見る。若い女とくらべ見栄えはよくないが、源氏は空蝉に品のある慎みを感じる。夜、源氏は寝所に忍び込むが、それを察した空蝉は小袿を脱ぎ捨て寝所を抜け出した。行きがかり上、源氏は空蝉と同室で眠っていた軒端萩と情を交わす。

 翌朝源氏は空蝉が脱ぎ捨てた小袿を持ち帰り、歌に思いを託す。小君から歌を渡された空蝉は、源氏の思いに応えられない我が身の情けなさを歌に詠み、源氏の歌の端に書きつける。

3-1、天気晴れ、久々に左大臣に帰宅する
 からうして今日は日のけしきも直れり。  やっと今日は天気が良くなった。
かくのみ籠もりさぶらひたまふも、大殿の御心いとほしければ、まかでたまへり。 こうして宮中に籠ってばかりいるのも、(源氏の義父の)左大臣殿のお気持ちが気の毒に思われたので、源氏は宮中を退出した。
おほかたの気色、人のけはひも、けざやかにけ高く、乱れたるところまじらず、 邸のたたずまいや、(葵の上の)様子も、きわだって気品があり、くずれたところがない。
なほ、これこそは、かの、人びとの捨てがたく取り出でしまめ人には頼まれぬべけれ、と思すものから、 やはりこの姫君こそは、頭中将や左馬頭たちが(昨夜語り明かした)、捨てがたい女の例としてあげた実生活上の妻として頼れる人なのだろうと、思ってはみるものの、
あまりうるはしき御ありさまの、とけがたく恥づかしげに思ひしづまりたまへるを、さうざうしくて、 その美しい姿が、あまりに端正で打ち解けがたい為に遠慮がちにならざるを得ず、そのことが何かもの足りなく感じてしまう。
中納言の君、中務(なかつかさ)などやうの、おしなべたらぬ若人どもに、戯れ言などのたまひつつ、暑さに乱れたまへる御ありさまを、見るかひありと思ひきこえたり。 中納言や中務などの人並み以上に優れている若い女房たちに冗談を云い交わしているうちに、暑さでお召し物を脱いでくつろいでいらっしゃる源氏のお姿を、女房たちは目の保養になると見とれていた。
大臣(おとど)も渡りたまひて、うちとけたまへれば、御几帳隔てておはしまして、御物語聞こえたまふを、 左大臣も渡って来て、(源氏が)うちとけているので、御几帳を間に立ててお座りになり、長話を始めた。
「暑きに」とにがみたまへば、人びと笑ふ。 (源氏)「暑いのに」と困った顔をなさるので、女房たちの笑いを誘っていた。
「あなかま」とて、脇息に寄りおはす。 「静かにね(ああ、うるさい)」などと言って、脇息にもたれる。
いとやすらかなる御振る舞ひなりや。 たいそうくつろいだ御振る舞いでございました。

3-2、方違えの為、左大臣邸を出る
 暗くなるほどに、「今宵、中神、内裏よりは塞がりてはべりけり」と聞こゆ。  暗くなってきた頃、「今夜は、天一神がここを通りますので、内裏からこちらの(左大臣邸)方角は方塞がりになっております』と源氏の従者たちが申し上げる。
「さかし、例は忌みたまふ方なりけり」、「二条の院にも同じ筋にて、いづくにか違へむ。いと悩ましきに」とて大殿籠もれり。 (源氏)「そうだった。普通は避けねばならない方角になっている」、「二条院も同じ方向なので、どこに方違えしよう。あぁ分からないどうしよう。とても疲れていて早く寝たいのに」と言ってお寝(や)すみになられた。
「いと悪しきことなり」と、これかれ聞こゆ。 「このまま居り続けることは方違えで良くありませんよ」という声が、誰彼から上がっていた。
紀伊守(きのかみ)にて親しく仕うまつる人の、中川のわたりなる家なむ、このころ水せき入れて、涼しき蔭にはべる」と聞こゆ。 紀伊守(きのかみ)として親しく左大臣家に出入りしている人の、中川の辺りにある家が、最近川の水を堰き入れて、涼しい木蔭になってございます」と従者がしらせに来た。
「いとよかなり。悩ましきに、牛ながら引き入れつべからむ所を」とのたまふ。 (源氏)「それは名案だ。少し疲れているので、牛車のままでそのまま行かれる所が良いね」と仰(おっしゃ)る。
忍び忍びの御方違へ所は、あまたありぬべけれど、 内密での方違えのお邸は、たくさんあるだろうが、
久しくほど経て渡りたまへるに、方塞げて、ひき違へ他ざまへと思さむは、いとほしきなるべし。 長くご無沙汰していた左大臣邸に久しぶりに戻って来たというのに、その後すぐに方角が悪いからといって他の邸へ行こうとするのは、嫌味の気がすると思われたのでせう。
紀伊守に仰せ言賜へば、承りながら、退きて、 紀伊守に御用を言い付けなさると、お引き受けはしたものの、引き下がって、
伊予守(いよのかみ)の朝臣の家に慎むことはべりて、女房なむまかり移れるころにて、狭き所にはべれば、なめげなることやはべらむ」と、下に嘆くを聞きたまひて、 (紀伊守)「私の父である)伊予守の朝臣の家に忌むことがあって、そちらの女房たちが自分の家に移って来ていますので、今は狭苦しい所になっております。充分な御もてなしができずご失礼なことになるのではないか」と、下僕に心配して大丈夫かどうか尋ねているのを聞いて、
「その人近からむなむ、うれしかるべき。女遠き旅寝は、もの恐ろしき心地すべきを。ただその几帳のうしろに」とのたまへば、 (源氏)「そのように人が近くにいるのがいいのだ、女気のいない旅寝というのは、味気なく殺風景な心地がする。我々はその几帳のうしろでも構いませんよ」と仰れば、
「げに、よろしき御座所にも」とて、人走らせやる。 「なるほど、(そうまで言われるのであれば)ご宿所にして頂くのを引き受けませう」と、言って、使いの者を走らせる。
いと忍びて、ことさらにことことしからぬ所をと、急ぎ出でたまへば、 ひっそりと、大げさにならない所を、と急いで退出したので、
大臣にも聞こえたまはず、御供にも睦ましき限りしておはしましぬ。 左大臣にも挨拶せぬまま、ごく気心のしれたお供をだけを連れて行った。

3-3、紀伊守邸へ方違え泊する
 「にはかに」とわぶれど、人も聞き入れず。  「急なお成りは困ります」と(紀伊守の家人)は迷惑がるが、(供の従者たちは)聞き入れない。
寝殿の東面払ひあけさせて、かりそめの御しつらひしたり。 寝殿の東面を綺麗に片づけさせて、急ごしらえで仮のご座所(仮のお住まい)を設けた。
水の心ばへなど、 さる方にをかしくしなしたり。 寝殿の東面を遣水している趣向などは、それなりに趣深い風情を醸している。
田舎家だつ柴垣して、前栽など心とめて植ゑたり。 田舎風の柴垣を廻らしており、柴垣前栽などを意識して植えてある。
風涼しくて、そこはかとなき虫の声々聞こえ、蛍しげく飛びまがひて、をかしきほどなり。 涼しい風が吹いていて、どこからともなく微かな虫の声々も聞こえ、蛍がたくさん飛び交っており、とても趣きがある風情である。
人びと、渡殿(わたどのより出でたる泉にのぞきゐて、酒呑む。 源氏の従者たちは、渡殿の下から湧き出ている泉に向かって座り、酒を飲んでいる。
主人も肴求むと、こゆるぎのいそぎありくほど、君はのどやかに眺めたまひて、 主人(紀伊守)も酒のアテの肴を求めて走り回っている間、源氏の君はゆったりとお眺めになって、
かの、中の品に取り出でて言ひし、この並(なら)むかしと思し出づ。 中将たちが、中の品の例に挙げていたのは、きっとこの階層の人たちのことなのだろうか、と思い出していた。
 思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば、ゆかしくて耳とどめたまへるに、この西面にぞ人のけはひする。  (源氏は、)(紀伊守の妹にして伊予守の娘は)気位の高い女と聞いていたので、どのような女性かと知りたくて好奇心から耳をそばだてていると、寝殿の西側に人のいる気配がする。
衣の音なひはらはらとして、若き声どもにくからず。 衣ずれの音がさらさら聞こえ、若い女房たちの声が愛らしく響く。
さすがに忍びて、笑ひなどするけはひ、ことさらびたり。 そうは言っても小声であり、迷惑にならないようよ抑えて笑ったりなどする様子は、わざとらしい感じがする。
格子を上げたりけれど、守、「心なし」とむつかりて下しつれば、 格子を上げていたが、紀伊守が「不作法である」と小言を言って下ろしてしまった。
火灯したる透影、障子の上より漏りたるに、やをら寄りたまひて、「見ゆや」と思せど、隙もなければ、しばし聞きたまふに、 灯影が障子のうえから漏れてたので、近くに寄って行けば「姿が見えるだろうか」と思ったが、隙間がないので、少しの間耳を傾けていると、
この近き母屋(もや)に集ひゐたるなるべし、うちささめき言ふことどもを聞きたまへば、わが御上なるべし。 こちらに近い母屋(もや)に集まっているらしく、ひそひそ話している内容をお聞きになると、どうも我らが御上(源氏)のことを噂しているらしい。
「いといたうまめだちて。まだきに、やむごとなきよすが定まりたまへるこそ、さうざうしかめれ」、 (女)「(源氏は)たいそう真面目な方ですわ。まだお若いのに、高貴な身分の北の方(奥様)との結婚が決められており、何とつまらないことでしょうか」、
「されど、さるべき隈には、よくこそ、隠れ歩きたまふなれ」など言ふにも、 (女)「けれど、知られないように上手く、さるべき処へはよくお忍びで行ってるそうよ」などと人々が噂をしている。
思すことのみ心にかかりたまへば、まづ胸つぶれて、 (源氏は)胸の内にある秘密(藤壺姫への恋心)のことばかりが気にかかっていらっしゃるので、すぐにどきりと感じて、
「かやうのついでにも、人の言ひ漏らさむを、聞きつけたらむ時」などおぼえたまふ。 「このような折にも、人が(自分と藤壺宮のことを)言い漏らす噂話を聞きつけた時など、どうなるのだろうか」などと心配をしておられた。
ことなることなければ、聞きさしたまひつ。 他にかわった話もないので、聞き耳を立てるのをやめた。
 式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌などを、すこしほほゆがめて語るも聞こゆ。  (源氏が)式部卿の宮の姫君に朝顔を差し上げた時の和歌などを、少し文句を違えて語っているのが聞こえる。
「くつろぎがましく、歌誦じがちにもあるかな、なほ見劣りはしなむかし」と思す。 「女たちは何とゆったりと和歌を口にしていることか、有閑夫人気取りで歌の話に興じていても、やはり本格的なものと比べると見劣りがする」と(源氏は)お思いになられた。
紀伊守出で来て、灯籠掛け添へ、灯明くかかげなどして、御くだものばかり参れり。 紀伊守が来て、灯籠の数をを増やして、灯心を上げて明るくし、果物やお菓子などを持って参った。
「とばり帳も、いかにぞは。さる方の心もとなくては、めざましき饗応ならむ」とのたまへば、 (源氏)「とばり帳の準備はどうなっていますか。そういった方面の気配りがなくては、しっかりしたもてなしとは言えないだろうね」と仰せられれば、
「何よけむとも、えうけたまはらず」と、かしこまりてさぶらふ。 (紀伊守)「おもてなしには何が良いのだろうか、仮に分かったとしても、承ることができかねます」と、遠慮して控えていた。
端つ方の御座に、仮なるやうにて大殿籠もれば、人びとも静まりぬ。 端の方の御座所に、うたた寝するかのように横になられると、供人たちも静かになった。
主人の子ども、をかしげにてあり。童なる、殿上のほどに御覧じ馴れたるもあり。伊予介の子もあり。 主人の紀伊守の子供たちが可愛らしい。その子供の中には、御所の侍童を勤めたりして源氏が見慣れている子の顔もあった。伊予介の子もいた。
 あまたある中に、いとけはひあてはかにて、十二、三ばかりなるもあり。  大勢いる子の中で、とても上品な雰囲気を持つ十二、三歳くらいの子が居り、(源氏の)目に止まった。
「いづれかいづれ」など問ひたまふに、「これは、故衛門督(えもんのかみ)の末の子にて、 「どの子が誰の子か」などと源氏がお尋ねになると、(紀伊守)「この子は、先日亡くなった故衛門督の末っ子でして、
いとかなしくしはべりけるを、幼きほどに後れはべりて、姉なる人のよすがに、かくてはべるなり。 故衛門督がとても可愛がっておりましたが、まだ幼いうちに父親に先立たれてしまい、私の姉との縁で、こうしてここにいるわけでございます。(※姉の空蝉が紀伊守の父・伊予守に嫁いでいる)。
才などもつきはべりぬべく、けしうははべらぬを、殿上なども思ひたまへかけながら、すがすがしうはえ交じらひはべらざめる」と申す。 学問などもできそうですし、そこそこの器量もあり、姉は将来のことも考えて殿上童(御所の侍童)などをさせたいようですが、すんなりとは話が進まないようでして…」と紀伊守が申し上げた。
「あはれのことや。この姉君や、まうとの後の親」、「さなむはべる」と申すに、 (源氏)「それは気の毒なことだ。この子の姉君が、そなた(紀伊守)の継母ということになるのですか」、(紀伊守)「さようでございます」と申し上げると、
「似げなき親をも、まうけたりけるかな。主上にも聞こし召しおきて、 (源氏)「(紀伊守、お前は)不似合いな親をもったものだな。帝もかねてお聞きになっていて、
『宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せし、いかになりにけむ』と、いつぞやのたまはせし。 (帝)『衛門督が宮仕えに差し上げたいと申していた娘(空蝉)は、その後どうなったのか』と、いつであったか仰せられたことがあったな。
世こそ定めなきものなれ」と、いとおよすけのたまふ。 世の中は定めなきもの故にどうなるか分からないものだね」と、源氏は大人びたことを言われていた。
「不意に、かくてものしはべるなり。世の中といふもの、さのみこそ、今も昔も、定まりたることはべらね。 (紀伊守)「思いもかけず突然、こうなってしまった(伊予守の後妻として収まることになった)のです。世の中というものは、無常でして、今も昔も、どうなるか分からないものでございますね。
中についても、女の宿世は浮かびたるなむ、あはれにはべる」など聞こえさす。 なかでも女の運命は浮草のようなもので、あわれなものです」などと申し上げていた。
「伊予介は、かしづくや。君と思ふらむな」、 (源氏)「伊予介は(空蝉のことを)大事にしているだろうな。空蝉は主君として仕えているのだろうな」。
「いかがは。私の主とこそは思ひてはべるめるを、好き好きしきことと、なにがしよりはじめて、うけひきはべらずなむ」と申す。 (紀伊守)「さあ、どうでせうか。私の主君とは思って仕えてはおりますが、好色がましいことだと、私めをはじめとして一族の者どもは、にがにがしく感じているほどでございますが」などと申し上げる。
「さりとも、まうとたちのつきづきしく今めきたらむに、おろしたてむやは。 (源氏)「そうはいっても、お前たちが我こそその女にふさわしい、現代ふうであると言ったところで、伊予介がその女をお前たちに下し与えるだろうかね(与えないだろうね)。
かの介は、いとよしありて気色ばめるをや」など、物語したまひて、 あの伊予介は、なかなか風流を理解する心を持っていて、色気のあるひとかどの者だからな」などとお話になって、
「いづかたにぞ」、「皆、下屋におろしはべりぬるを、えやまかりおりあへざらむ」と聞こゆ。 (源氏)「それで、その女はどこにいるのですか」、(紀伊守)「皆、下屋のほうに下がらせましたが、まだ下がりきらないで残っている人も居るやも知れません」と言う。
酔ひすすみて、皆人びと簀子に臥しつつ、静まりぬ。 酔いが回ってしまい、供人は皆な簀子にそれぞれ横になって寝てしまわれた。

3-4、空蝉の寝所に忍び込む
 君は、とけても寝られたまはず、いたづら臥しと思さるるに御目覚めて、この北の障子のあなたに人のけはひするを、  源氏の君はくつろいでやすむこともできなかった。わびしいひとり寝と思うと目がさえて、北の障子の向こう側に人の気配を感じ、
「こなたや、かくいふ人の隠れたる方ならむ、 あはれや」と御心とどめて、やをら起きて立ち聞きたまへば、 (源氏)「こちらの方に、例の、話に出ていた女が隠れている所なのだろうか、かわいそうな」と心が動き、やおら起き上がって立ち聞きすると、
ありつる子の声にて、「ものけたまはる。いづくにおはしますぞ」と、かれたる声のをかしきにて言へば、 先ほどの子供の声で、(子)「お訊ねします、お姉さん、どこにいらっしゃいますか」と、掠(かす)れたような声で可愛らしく言うと、
「ここにぞ臥したる。客人は寝たまひぬるか。いかに近からむと思ひつるを、されど、け遠かりけり」と言ふ。 「私はここに寝ていますよ。お客様はおやすみになりましたか。ずいぶん近いところに居ると思っていましたが、案外、遠いところに居るみたいですね」と言う。
寝たりける声のしどけなき、いとよく似通ひたれば、いもうとと聞きたまひつ。 寝しなの声がしどけなく、取り繕っていない声がとてもよく似ていたので、源氏は姉君だろうと見当をつけた。
「廂にぞ大殿籠もりぬる。 (子)「廂の間に御寝(おやす)みになっておりますよ。
音に聞きつる御ありさまを見たてまつりつる、げにこそめでたかりけれ」と、みそかに言ふ。 噂に聞いていたお姿を拝見しましたが、噂通り、ご立派な様子でしたよ」と、ひそひそ声で言う。
「昼ならましかば、覗きて見たてまつりてまし」とねぶたげに言ひて、顔ひき入れつる声す。 (女)「昼ならば私も覗いてお姿を拝見できたものを」と眠たげに言って、顔を衾(布団)に引き入れた声がする。
「ねたう、心とどめても問ひ聞けかし」とあぢきなく思す。 (源氏)「惜しいことよ。もっと熱心にやり取りしている様子を聞きたかったのに」と残念にお思いになられた。
「まろは端に寝はべらむ。あなくるし」とて、灯かかげなどすべし。 (子)「私は端の方で寝ませう。ああ、疲れた」と言って、灯心を引き出し始める。
女君は、ただこの障子口筋交ひたるほどにぞ臥したるべき。 女君はちょうど襖障子口の斜め向こう側に寝ているらしい。
「中将の君はいづくにぞ。人げ遠き心地して、もの恐ろし」と言ふなれば、長押(なげし)の下に、人びと臥して答へすなり。 (女)「中将の君はどこに居られるのかしら。人気(ひとけ)がないとなんだか怖いわ」と言えば、長押しの下から人々(女房たち)が寝ながら答えているようだ。
「下に湯におりて。『ただ今参らむ』とはべる」と言ふ。 (人々)「下に湯浴みにおりています。『すぐ来ます』とのことです」と言う。
皆静まりたるけはひなれば、掛金を試みに引きあけたまへれば、あなたよりは鎖さざりけり。 皆な寝静まった様子なので、(源氏が)掛け金を試しに開けてみると、向こう側からは扉を閉めるための鎖をしていなかった。
几帳(きちょう)を障子口には立てて、灯はほの暗きに、見たまへば唐櫃だつ物どもを置きたれば、 几帳を襖障子口に立てており、灯はほの暗かったが、よくよくご覧になれば唐櫃めいた物を幾つも置いてあり、
乱りがはしき中を、分け入りたまへれば、ただ一人いとささやかにて臥したり。 その調度品でごちゃごちゃとしている中を、掻き分けて入ってお行きになると、ただ一人だけでとてもこじんまりとした様子でお休みになっている女がいた。
なまわづらはしけれど、上なる衣押しやるまで、求めつる人と思へり。 (源氏は)何となく気が咎めたが、上に掛けてある衣を押しのけるまで、(女は)先ほど呼んだ女房の中将が来たのだと思い込んでいた。
「中将召しつればなむ。人知れぬ思ひの、しるしある心地して」とのたまふを、 (源氏)「あなたは中将をお呼びになられていたでせう。人知れずあなたをお慕い申し上げており、その思いが通じたような気がしております」と仰せになるのを、
ともかくも思ひ分かれず、物に襲はるる心地して、「や」とおびゆれど、顔に衣のさはりて、音にも立てず。 (女は)何が何だか分からぬまま、物の怪に襲われた気がして、「きゃっ」と言って怯えたのですが、顔に夜着の衣がかぶさっていて、声にならなかった。
「うちつけに、深からぬ心のほどと見たまふらむ、ことわりなれど、 (源氏)「出し抜けにこんなことをして驚きでせうが、一時の出来心の戯れと思われても当然ですが、
年ごろ思ひわたる心のうちも、聞こえ知らせむとてなむ。 長年あなたを慕っておりました私の気持ちを、どうか聞いていただきたいと思いまして、
かかるをりを待ち出でたるも、さらに浅くはあらじと、思ひなしたまへ」と、いとやはらかにのたまひて、 このような機会を待ち受けていたのであり、決していい加減な軽い気持ちでこのような事をしているのではないのです。分かってくださいませ」と、とても優しく言って、
鬼神も荒だつまじきけはひなれば、はしたなく、「ここに、人」とも、えののしらず。 鬼神さえも乱暴にしそうにない穏やかな態度なので、荒っぽく「ここに、変な人が来ている」といって大声を出すこともできない。
心地はた、わびしく、あるまじきことと思へば、あさましく、「人違へにこそはべるめれ」と言ふも息の下なり。 気分は生きた心地せず、侘しく、信じられないことが起きていることを知り、情けないやら呆れるやら、「お人違いでございましょう」と言うのがやっとでございました。
消えまどへる気色、いと心苦しくらうたげなれば、をかしと見たまひて、 消え入らんほどに当惑した様子が、とても痛々しく可憐なもので、(源氏は)その風情が奥ゆかしいととますます気に入り、
「違ふべくもあらぬ心のしるべを、思はずにもおぼめいたまふかな。 (源氏)「人違いではないのです。私の心の手引きで来ています。理解して頂けないようですね。
好きがましきさまには、よに見えたてまつらじ。思ふことすこし聞こゆべきぞ」とて、 好色めいた振る舞いと思われるでせうが、出来心ではありません。私の胸の内を少し申し上げたいのです」と言って、
かき抱きて障子のもと出でたまふにぞ、求めつる中将だつ人来あひたる。 とても小柄な体なので抱き上げて襖障子の処を出たところへ、呼んでいた中将らしい人が来合わせた。
「やや」とのたまふに、あやしくて探り寄りたるにぞ、いみじく匂ひみちて、顔にもくゆりかかる心地するに、思ひ寄りぬ。 (源氏)「これ、ちょっと」と思わずおっしゃると、(中将が)不審に思って近づいて来て、その時良い香りが満ちて、顔にまで匂いかかって来たような感じがするので、状況が分かりました。(これは源氏の君だと中将は気づいた)
あさましう、こはいかなることぞと思ひまどはるれど、聞こえむ方なし。 びっくりしてしまい、これはどうしたことかと、うろたえずにはいられなかったが、(相手が源氏の君では)大声を出す訳にはいかなかった。
並々の人ならばこそ、荒らかにも引きかなぐらめ、それだに人のあまた知らむは、いかがあらむ。 普通の相手ならば、手荒に引き放すこともできませう。その場合でさえ、大勢の人が知ることになるのは必定、それが賢いことかどうか。
心も騷ぎて、慕ひ来たれど、動もなくて、奥なる御座に入りたまひぬ。 中将は心騒ぎながらも後ろからついてきたが、大騒ぎすることもなくて奥のご座所に入つて行った。
障子をひきたてて、「暁に御迎へにものせよ」とのたまへば、 障子を閉めて、(源氏)「明るくなったら迎えに参れ」と言えば、
女は、この人の思ふらむことさへ、死ぬばかりわりなきに、流るるまで汗になりて、いと悩ましげなる、 女は、中将がどう思われただろうか気に病み、そのことが死ぬほどつらいので、流れ出るほどの汗で全身びっしょりになって、とても悩ましい様子たった。
いとほしけれど、例の、いづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ、あはれ知らるばかり、情け情けしくのたまひ尽くすべかめれど、 (源氏は)その姿をいとおしいと思い、例によってどこから出てくる言葉なのか、優しい言葉を次から次とお掛けになり、甘い言葉を尽くして説いておりましたが、
なほいとあさましきに、「現(うつつ)ともおぼえずこそ。 (女は)やはりまことに情けない状況なので、(こんな無理を通そうとされることが)現実(うつつ)のこととは思われません。
数ならぬ身ながらも、思しくたしける御心ばへのほども、いかが浅くは思うたまへざらむ。 あなた様に比べれば賤しい取るに足らぬ身分の女でありますが、私に好意を寄せお戯れになる気持ちも分からないではありませんが、私を軽く見てのお戯れはほどほどにしてくださいませ。
いとかやうなる際は、際とこそはべなれ」とて、 特に男女の仲は、それなりの身分相応のものがありまして、そのようなお付き合いをなされませ」とて、
かくおし立ちたまへるを、深く情けなく憂しと思ひ入りたるさまも、 このように無体なことを強いていることに対し、深い思いやりがなくて嫌なことだと思い込んでいる様子を見せ、
げにいとほしく、心恥づかしきけはひなれば、 (源氏は)そうであればあるほどその風情が奥ゆかしいとますますいとおしくなり、他方で気恥ずかしく感じたので、
「その際々を、まだ知らぬ、初事ぞや。 (源氏)「あなたがおっしゃる身分相応の恋のやり方をまだ知らないのです。そのように云われる事は初めてです。
なかなか、おしなべたる列に思ひなしたまへるなむうたてありける。 逆に、私のこの振る舞いを世間の好き者と同類に見られているのが、至極残念なのです。
おのづから聞きたまふやうもあらむ。あながちなる好き心は、さらにならはぬを。 私のことは自然に耳に入ることもおありでせう。むやみやたらに好色になるような気持ちは、まったく持ち合わせていないのです。
さるべきにや、げに、 かくあはめられたてまつるも、ことわりなる心まどひを、みづからもあやしきまでなむ」など、まめだちてよろづにのたまへど、 このような事になるのは前世からの宿縁だったのではないでせうか。現にこのように軽蔑されてしまうのも、もっともなことだと、私自身が怪しんでいるのだから」などと、(源氏が)真面目な顔で色々おっしゃっているが、
いとたぐひなき御ありさまの、いよいようちとけきこえむことわびしければ、 (空蝉は)源氏のたぐいなく美しい御姿を見るにつけ、肌を許せば自分がいっそうみじめになるので、
すくよかに心づきなしとは見えたてまつるとも、さる方の言ふかひなきにて過ぐしてむと思ひて、つれなくのみもてなしたり。 この際はっきり無愛想な気に入らない女だと見られようとして、色恋沙汰は駄目な女で押し通そうと思って、ただそっけない対応に終始していた。
人柄のたをやぎたるに、強き心をしひて加へたれば、なよ竹の心地して、さすがに折るべくもあらず。 ※注あり 人柄がおとなしくて穏やかな性質であるのに、強情な心を無理に加えているので、しなやかななよ竹のような感じがして、さすがにたやすくは手折れそうにもないのだ。
まことに心やましくて、あながちなる御心ばへを、 言ふ方なしと思ひて、泣くさまなど、いとあはれなり。 (空蝉は、)本当につらくて嫌な思いをして、どうしようもなく持って行き場がない気持ちを、どう伝えて良いか分からず、泣いていた。その様子が何とも風情ありながらも気の毒だった。
心苦しくはあれど、見ざらましかば口惜しからまし、と思す。慰めがたく、憂しと思へれば、 (源氏は)気の毒ではあったが、もし逢わなかったら心残りだったろうにとお思いになられておりました。(女が)慰めようもなく落ちこんでいたので、
「など、かく疎ましきものにしも思すべき。おぼえなきさまなるしもこそ、契りあるとは思ひたまはめ。 (源氏)「どうしてそんなに私を疎ましくお思いになるのですか。思いがけない逢瀬こそ、前世からの因縁だと考えれば良いではないですか。
むげに世を思ひ知らぬやうに、おぼほれたまふなむ、いとつらき」と恨みられて、 無理に男女の仲のことを知らない者のようなふりをして、正気を失ってぼんやりされているのが、とてもつらいのです」と、恨み言を言われ、
「いとかく憂き身のほどの定まらぬ、ありしながらの身にて、かかる御心ばへを見ましかば、 (女)「このような自分自身を持て余している定まりのない、娘時代のままであり続けている私に対して、このような強いお気持ちを向けている心ばえを見ますれば、
あるまじき我が頼みにて、見直したまふ後瀬をも思ひたまへ慰めましを、 私の身勝手な希望ではありますが、後になって逢えることもあろうと思い慰めとしませうが、
いとかう仮なる浮き寝のほどを思ひはべるに、たぐひなく思うたまへ惑はるるなり。 このような一夜限りの契りを思うと、どうしても思い迷み乱れてしまうのです。
よし、今は見きとなかけそ」とて、思へるさま、げにいとことわりなり。 ですから、今日のことはなかったことに致しませう、人に言わないでおいて下さい」と言って悲しんでいるお姿はもっともでございました。
おろかならず契り慰めたまふこと多かるべし。 (源氏は、)本心から契り慰めることが多い御方でした。
 鶏も鳴きぬ。人びと起き出でて、「いといぎたなかりける夜かな」、「御車ひき出でよ」など言ふなり。  鶏も鳴いた。家従たちが起きてきて、「ひどく寝過ごしてしまった」、「早く車の用意をせよ」など言っている。
守も出で来て、「女などの御方違へこそ。夜深く急がせたまふべきかは」など言ふもあり。 紀伊守も起き出してきて、「女性の家への方違えならばともかく。まだ暗いうちからお急ぎ遊ばなくても良いではないですか」などと言っているのが聞こえる。

3-5、空蝉との文通
 君は、またかやうのついであらむこともいとかたく、さしはへてはいかでか、  源氏の君は、またこういう機会があろうとも思えず、わざわざ来ることもないだろうし、
御文なども通はむことのいとわりなきを思すに、いと胸いたし。 文を交わすことも難しいだろうと案じて、ひどく胸を痛めておられた。
奥の中将も出でて、いと苦しがれば、許したまひても、また引きとどめたまひつつ、 奥にいた中将の君も出てきて、女はとても困っているのだが、源氏は女を行かせようとしても、再びお引き留めになられて、
「いかでか、聞こゆべき。 「どのようにして、お手紙を差し上げたら良いのでせう。
世に知らぬ御心のつらさも、あはれも、浅からぬ世の思ひ出では、さまざまめづらかなるべき例かな」とて、うち泣きたまふ気色、いとなまめきたり。 類なきあなたのつれなさも、風情も、浅からぬ思い出となっております。色々と珍しい経験をさせていただきました」と言ってお泣きになっておられる様子は、とても優美で色っぽかった。
鶏もしばしば鳴くに、心あわたたしくて、「つれなきを恨みも果てぬしののめにとりあへぬまでおどろかすらむ」。 何度も鶏が鳴くので、気持ちも慌しくなって、(源氏の歌)「あなたのつれない態度に恨み言を十分に言えないうちに、夜も白みかけて明るくなり、鶏までもが鳴いて、私を驚かせております」。
女、身のありさまを思ふに、いとつきなくまばゆき心地して、めでたき御もてなしも、何ともおぼえず、 女は我が身のことを思うと、真に不似合いなまばゆいような気持ちがして、源氏の君の素敵なおもてなしも喜ぶことができず、
常はいとすくすくしく心づきなしと思ひあなづる伊予の方の思ひやられて、 「夢にや見ゆらむ」と、そら恐ろしくつつまし。 いつも生真面目過ぎて嫌な男だと軽視している夫がいる伊予国のことが思いやられ、「もしかしたら夫が夢に現われるのではないか」と思え、何となく恐ろしくて気がひけていた。
「身の憂さを嘆くにあかで明くる夜はとり重ねてぞ音もなかれける」ことと明くなれば、障子口まで送りたまふ。 (女の返歌)「我が身のつらさを嘆いても嘆き足りない間に明ける夜に、鶏が鳴いている声に重なるようにして、私も泣かずにはいられません」。明るくなってきたので、女を障子口まで送った。
内も外も人騒がしければ、引き立てて、別れたまふほど、心細く、隔つる関と見えたり。 家の内も外も騒がしいので襖を閉めたのだが、お別れの時には心細い気持ちになり、その襖が二人を隔てている関のように思われた。
直衣(なほしなど着たまひて、南の高欄にしばしうち眺めたまふ。 源氏は、御直衣などを着替えて、南面の高欄の近くで少しの間、眺めておられる。
西面の格子そそき上げて、人びと覗くべかめる。 西面の格子をそそくさと上げて、女房たちが覗き見をしているようだ。
簀子の中のほどに立てたる小障子の上より仄かに見えたまへる御ありさまを、身にしむばかり思へる好き心どもあめり。 簀子の中央に立ててある小障子の上から、わずかに見えておられるそのお姿を覗いて、身にしむばかりに美しいと感じ入る好色な女もいるようである。
 月は有明にて、光をさまれるものから、かげけざやかに見えて、なかなかをかしき曙なり。 月は有明にて、光は和らいでいるのだが、かえって物の影がはっきり見えて、なかなかに風情のある曙であった。
何心なき空のけしきも、ただ見る人から、艶にもすごくも見ゆるなりけり。 空にはどういう心はないと思われますが見る人によって、艶っぽくも寂しくも感じるものである。
人知れぬ御心には、いと胸いたく、言伝てやらむよすがだになきをと、かへりみがちにて出でたまひぬ。 (源氏の)人知れぬ心は、胸がふさいで辛いもののようで、手紙を女に届ける方法さえもないのかと、後ろ髪をひかれる思いで退出された。
殿に帰りたまひても、とみにもまどろまれたまはず。 邸に帰っても、すぐには寝ることができなかった。
またあひ見るべき方なきを、まして、かの人の思ふらむ心の中、いかならむと、心苦しく思ひやりたまふ。 再び逢う方法がないということに対して、加えてあの女がどう思っているのか、(源氏は) 心苦しく思っていた。
「すぐれたることはなけれど、めやすくもてつけてもありつる中の品かな。 「『特に優れているような所はないが、見苦しさがなくて身嗜みもしっかりとしている中の品の女だろう。
隈なく見集めたる人の言ひしことは、げに」と思し合はせられけり。 多くの経験をして女を能く知っている男が言うことは、なるほどで間違いのない事を云うものだな」と頷かれるのだった。
このほどは大殿にのみおはします。 あれ以来、左大臣邸にばかり籠っておられた。
なほいとかき絶えて、思ふらむことのいとほしく御心にかかりて、苦しく思しわびて、紀伊守を召したり。 あの後すっかりと連絡が途絶えているので、女がどう思っているのだろうか気になって、そのことに思い悩み、紀伊守を呼び出した。
「かのありし中納言の子は、得させてむや。らうたげに見えしを。身近く使ふ人にせむ。主上にも我奉らむ」とのたまへば、 「先日の故中納言の子を、私のところに下さらないか。可愛らしい良い子に見えたのだ。身近において用をさせる人にしたい。主上(帝)には、私から差し上げて推薦しよう」とおっしゃると、
「いとかしこき仰せ言にはべるなり。姉なる人にのたまひみむ」と申すも、 「大変ありがたいお言葉です。「大変ありがたいお言葉です。姉に聞いてみましょう」と言ったので、
胸つぶれて思せど、「その姉君は、朝臣の弟や持たる」、 源氏の君は姉の返事がどうなるのかと思い不安が一杯になって、「その姉君には、あなたの(腹違いの)兄弟がいるのか」と尋ねられた。
「さもはべらず。この二年ばかりぞ、かくてものしはべれど、親のおきてに違へりと思ひ嘆きて、心ゆかぬやうになむ、聞きたまふる」、 「いえおりません。父の後添えになって二年ほどですが、自分の父親の意向と違った結婚になってしまったと嘆いており、不満を抱えているように聞いております」。
「あはれのことや。よろしく聞こえし人ぞかし。まことによしや」とのたまへば、 「それは気の毒なことだ。器量良しとの評判の女(ひと)だった。実際に美しいのか」と仰ると、
「けしうははべらざるべし。もて離れてうとうとしくはべれば、世のたとひにて、睦びはべらず」と申す。 「悪くはないでしょう。離れて暮らして疎遠にしておりますので、年嵩の息子と継母とは親しくすべきではないという世間の言い草もありまして、親しくしておりません」と紀伊守は申し上げた。

3-6、それから数日後
 さて、五六日ありて、この子て参れり。こまやかにをかしとはなけれど、 なまめきたるさまして、 あて人(びとと見えたり。  そうこうして五、六日して、(紀伊守は)その子を連れて参上した。細かいところまで申し分ないとは言えないが、優美な姿をしており、良家の子弟のように見えた。
召し入れて、いとなつかしく語らひたまふ。 (源氏は)招じ入れて、とても親しく話をされた。
童心地に、いとめでたくうれしと思ふ。いもうとの君のことも詳しく問ひたまふ。 子供心にも、とても誇らしく嬉しく思っていた。姉のことも詳しくお尋ねになられた。
さるべきことはいらへ聞こえなどして、恥づかしげにしづまりたれば、うち出でにくし。 答えられることについてはお答えして、その後は恥ずかしくなるほどきちんと畏まっているので、源氏はなかなか用向きを言い出しにくかった。
されど、いとよく言ひ知らせたまふ。 だが、うまく話を振ることができた。
かかることこそはと、ほの心得るも、思ひの外なれど、幼な心地に深くしもたどらず。 そのような男女の仲のことは、なんとなく分かったが、意外なことだったので、子供心に深くは考えられなかった。
御文を持て来たれば、女、あさましきに涙も出で来ぬ。 (弟の小君が)源氏の文を持ってくると、空蝉は思いがけぬこともあって涙を滲ませた。
この子の思ふらむこともはしたなくて、さすがに、御文を面隠(おもがくしに広げたり。 弟がどう思っているだろうかと思うと決まりが悪いのだが、そうは言っても、お手紙で顔を隠すようにして広げた。
いと多くて、「見し夢を逢ふ夜ありやと嘆くまに 目さへあはでぞころも経にける 寝る夜なければ」など、 こまごまと書かれていて、「先夜の逢瀬は夢のようでした。再び逢える夜があるのだろうかと嘆いて暮らしていて、 目さえ合わせられないことを思い、眠れない夜を何日も送っております」など、
目も及ばぬ御書きざまも、霧り塞がりて、心得ぬ宿世うち添へりける身を思ひ続けて臥したまへり。 見たこともないような素晴らしいご筆跡で書かれている文を読むうちに、(空蝉は)たちまち目が曇ってしまい、好きでもない夫と結婚した不本意な運命が更につきまとってくる我が身を思うと、苦しくて病に臥せってしまわれた。
 またの日、小君(こぎみ)召したれば、参るとて御返り乞ふ。 翌日、帝が小君をお召しになられた。小君は参上してきますと言って、姉に源氏への返事を催促する。
「かかる御文見るべき人もなし、と聞こえよ」とのたまへば、 「このようなお手紙を読んで、その気になるような人はおりませんでせう、と申し上げなさい」と言ったので、
うち笑みて、「違ふべくものたまはざりしものを。いかが、さは申さむ」と言ふに、 (小君は)にこっと微笑んで、「住む世界が違って交わらないものをお望みされても難しゅうございます。こうはっきり仰りませう。そう申して宜しいでせうか」と言うと、
心やましく、残りなくのたまはせ、知らせてけると思ふに、つらきこと限りなし。 姉は不愉快に感じ、源氏が弟にそのお気持ちを何もかもお話になられて、知らせているのだと思うと、この上なくつらく感じられた。
「いで、およすけたることは言はぬぞよき。さは、な参りたまひそ」とむつかられて、「召すには、いかでか」とて、参りぬ。 「まあ、ませたことを言うんじゃありません。そういうことなら、もう源氏の君のところに参上してはいけません」と不機嫌になられて、「お召しがあったので、行かないわけにはいきません」と云って、邸へ参上されたた。
紀伊守、好き心にこの継母(ままはは)のありさまをあたらしきものに思ひて、追従しありけば、この子をもてかしづきて、率てありく。 紀伊守は、好色心をもってこの継母が父の妻であることがもったいないと思っており、何かとおもねって機嫌を取ろうとしており、この子を大事にして連れ歩いた。
君、召し寄せて、「昨日待ち暮らししを。なほあひ思ふまじきなめり」と怨じたまへば、顔うち赤めてゐたり。 源氏は、小君をお召しになって、「昨日は一日中返事を待ち暮れたぞ。やはりお前は私ほどには私のことを思ってくれていないんだね」と恨み言をおっしゃると、(小君は)顔を赤らめて畏まっていた。
「いづら」とのたまふに、しかしかと申すに、「言ふかひなのことや。あさまし」とて、またも賜へり。 「返事はどこに」と聞くに、これこれしかじかですと事情を申し上げるので、「頼みがいがないね。なさけない」と言って、またしても手紙を小君にお与えになられた。
「あこは知らじな。その伊予の翁よりは、先に見し人ぞ。 「お前は知らないだろうが、あの伊予の爺さんよりも、私の方が先に契っていたのだよ。
されど、頼もしげなく頚(くび)細しとて、ふつつかなる後見(うしろみ)まうけて、かく侮りたまふなめり。 だが、私が頼りなく首の細い男と思われたから、不恰好な好きでもない爺さんを後見にして、私をこのように侮っているのだ。
さりとも、あこはわが子にてをあれよ。この頼もし人は、行く先短かりなむ」とのたまへば、 そうであっても、お前は私の子でいてほしい。あなたの姉君が頼りにしている男は、どうせ老い先短いだろう」とおっしゃると、
「さもやありけむ、いみじかりけることかな」と思へる、「をかし」と思す。 「そういうことがあったのですか。深刻な話のようですね」と(小君が)思い込むのを、源氏はその姿を「かわいらしい(おかし)」とお思いになられました。
 この子をまつはしたまひて、内裏うちにもて参りなどしたまふ。  (源氏の君は)この子をいつも側に従えて、内裏にも連れて参上されていた。
わが御匣殿(みくしげどの)にのたまひて、装束などもせさせ、まことに親めきてあつかひたまふ。 自分の裁縫所(衣裳係)にお命じになり、小君の装束なども新調させて、本当の親のように世話をしておられた。
御文(おんふみ)は常にあり。 源氏は、文を姉の元にしきりに寄せられた。
されど、この子もいと幼し、心よりほかに散りもせば、軽々しき名さへとり添へむ、 しかし、(空蝉は思う)この子はとても幼くて、うっかりして世間に漏らしてしまえば、幼い子を使った軽薄さも加わり、軽々しい女だという浮名を負わされることになろう。
身のおぼえをいとつきなかるべく思へば、めでたきこともわが身からこそと思ひて、うちとけたる御答(おんいらえ)へも聞こえず。 我が身の風評が悪くなると思うと、幸せも自分の身分に合ったものでなければならないのだと思い、心を許した返事を差し上げることもできずにいたのだった。
ほのかなりし御けはひありさまは、「げに、なべてにやは」と、思ひ出できこえぬにはあらねど、 あの夜のほのかに拝見した感じやご様子は、「本当に、並々の人物ではなく素晴らしかった」と、思い出し申さずにはいられないのだが、
「をかしきさまを見えたてまつりても、何にかはなるべき」など、思ひ返すなりけり。 「そのお気持ちに応えたとしても、今さら何になることだろうか(恥をかくだけではないか)」などと、考え直すのだった。
君は思(おぼ)おこたる時の間もなく、心苦しくも恋しくも思し出づ。 源氏の君は、思いのやむ時がなく、心苦しくもあり恋しく焦がれていた。。
思(おも)へりし気色などのいとほしさも、晴るけむ方なく思しわたる。 (空蝉の)悩んでいる様子のいじらしさも、思い出さないわけにはいかず、気持ちの晴れる時がなかった。
軽々しく這ひ紛れ立ち寄りたまはむも、人目しげからむ所に、便なき振る舞ひやあらはれむと、人のためもいとほしく、と思しわづらふ。 軽々しくひそかに隠れてお立ち寄りになろうとしても、人目の多い所だから、不都合な振る舞いになってしまう危険があり、相手も気の毒な思いをするかもと思い悩んでおられた。
例の、内裏に日数経たまふころ、さるべき方の忌み待ち出でたまふ。 例によって、御所に何日もいらっしゃる時に、都合の良い方違えの日をお待ちになられていた。
にはかにまかでたまふまねして、道のほどよりおはしましたり。 急に(左大臣邸へ)行くふりをして、途中から紀伊守の邸宅に向かった。
紀伊守おどろきて、遣水の面目とかしこまり喜ぶ。 紀伊守はおどろき、遣水が気に入られたのだ、と恐縮して喜んだ。
小君には、昼より、「かくなむ思ひよれる」とのたまひ契れり。 小君には、昼から、「こうするつもりだ」と言い含めていた。
明け暮れまつはし馴らしたまひければ、今宵もまづ召し出でたり。 朝に夕に小君を連れて従えていらっしゃったので、今宵もすぐに小君をお召しになられた。
女も、さる御消息ありけるに、思したばかりつらむほどは、浅くしも思ひなされねど、 女も、手紙で知らされていたので、自分に逢おうとして工夫して下さる源氏のお気持ちのほどは、浅いものとは思わなかったが、
さりとて、うちとけ、人げなきありさまを見えたてまつりても、あぢきなく、 そうかといって、気を許しうちとけて、見苦しい姿をお見せするのも、情けないものである。
夢のやうにて過ぎにし嘆きを、またや加へむ、と思ひ乱れて、なほさて待ちつけきこえさせむことのまばゆければ、 夢のように過ぎ去ってしまう嘆きを、再びまたも味わおうとするのかと、思い悩み、やはりこうしてお待ち申し上げていることが気恥ずかしいく感じたので、
小君が出でて往ぬるほどに、「いとけ近ければ、かたはらいたし。なやましければ、忍びてうち叩かせなどせむに、ほど離れてを」とて、 小君が出て行くとすぐに、「寝所があまりに近いので、具合が悪い。いろんな不都合がありますので、こっそりと肩・腰でも叩いても差し上げませう。その為には少し離れた所のほうが良いのです」とて、
渡殿(わたどのに、中将(ちゅうじょう)といひしが局したる隠れに、移ろひぬ。 渡殿にある中将という女房が待っている局のところに移った。
 さる心して、人とく静めて、御消息あれど、小君は尋ねあはず。よろづの所求め歩きて、渡殿に分け入りて、からうしてたどり来たり。 源氏は初めからそのつもりで、供の者たちを早く休ませた。小君は女の都合を聞こうとしたが、姉の居所が分からなかった。あちこち探して、渡殿に分け入り、やっとのことで探し当てることができた。
いとあさましくつらし、と思ひて、「いかにかひなしと思さむ」と、泣きぬばかり言へば、 本当にひどく冷たい事をするなと、情けない気持ちになって、「私がどんなに役立たずな頼りにならない奴と思われてしまいます」と泣き出しそうに言えば、
「かく、けしからぬ心ばへは、つかふものか。幼き人のかかること言ひ伝ふるは、いみじく忌むなるものを」と言ひおどして、 「そんな不埒な考えを、子どもが持っていいとは思えません。子供がこのような男女の事を取次ぎするのは、とても悪いことだと言うのに」と厳しく叱って、
「『心地悩ましければ、人びと避けずおさへさせてなむ』と聞こえさせよ。あやしと誰も誰も見るらむ」と言ひ放ちて、 「疲れているので、侍女たちを側に呼んであんまをしてもらっています』とお伝えしなさい。こんな所に来ていると、皆が変に思ってしまいますよ」と言い放ったが、
心の中には、「いと、かく品定まりぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けはひとまれるふるさとながら、 内心では、「本当にこのように結婚してしまった身分の定まった状況ではなく、亡くなった親の気配の残っている旧邸にいたままで、
たまさかにも待ちつけたてまつらばをかしうもやあらまし。 たまに来るのをお待ち申し上げるならば、喜んでそうしたいところなのですが。
しひて思ひ知らぬ顔に見消みけつも、いかにほど知らぬやうに思すらむ」と、心ながらも、胸いたく、さすがに思ひ乱る。 敢えて源氏のお気持ちを分からないように装って無視したのも、どんなに身の程を知らない女のように思われていることでせう」と、自分で決めたことながら胸が痛み、どうしても心が乱れてしまいます。
「とてもかくても、今は言ふかひなき宿世なりければ、無心に心づきなくて止みなむ」と思ひ果てたり。 「いずれにせよ、今はどうにもならない運命(人妻である現状)なのだから、このまま非常識な気にくわない女ということで押し通そう」と心に決め諦めております。
君は、いかにたばかりなさむと、まだ幼きをうしろめたく待ち臥したまへるに、 不用なるよしを聞こゆれば、あさましくめづらかなりける心のほどを、 源氏の君は、小君がどのように計らってくれるのかと、まだ小さいので不安に思いながらも横になって待っていらっしゃると、駄目でしたとの報告を受けて、女の驚くべき稀有な強情な気性を知り、
「身もいと恥づかしくこそなりぬれ」と、いといとほしき御気色なり。とばかりものものたまはず、いたくうめき憂しと思したり。 「我が身まで本当に恥ずかしくなってしまったよ」と気の毒な程落ちこんだ。しばしものも言わず、ひどくがっかりして嘆息なさり、辛そうでございました。
「帚木の心を知らで園原の道にあやなく惑ひぬるかな 聞こえむ方こそなけれ」とのたまへり。 「近づけば消えるという帚木のようなあなたの心も知らず園原への道で空しく迷ってしまいました。申し上げる術さえもありませんと歌を詠んで贈られた。
女も、さすがに、まどろまざりければ、「数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木」と聞こえたり。 女も、さすがに眠れずにいたので、「とるにたらない伏屋に生まれたしがない境遇に生きる身ですので、居たたまれずに帚木のようにあなたの前から消えるのです」と返歌した。
小君、いといとほしさに眠たくもあらでまどひ歩くを、人あやしと見るらむ、とわびたまふ。 小君は、(源氏の)君を気の毒に思い、眠気も忘れてうろうろと行き来しているのを、女(空蝉)は他の女房たちが変に思うのではないかと心配なさっている。
例の、人びとはいぎたなきに、一所(ひとところすずろにすさまじく思し続けらるれど、 いつものように、供人たちは眠りこけているが、源氏一人はぼうっとした感じで思い続けていらっしゃられた。
人に似ぬ心ざまの、なほ消えず立ち上れりける、とねたく、かかるにつけてこそ心もとまれと、かつは思しながら、 他の女とは違う気の強さが、やはり消えるどころかはっきり現れてきて、思い通りにならないのが悔しく、こういう女であったからこそ心が惹かれたのだと、一方ではお思いになる。
めざましくつらければ、さばれと思せども、さも思し果つまじく、 しかし、女の冷たい対応が癪に障って自分が情けないので、もうどうでも良いやとお思いにもなるが、そう簡単には諦めきれず、
「隠れたらむ所に、なほ率て行け」とのたまへど、「いとむつかしげにさし籠められて、人あまたはべるめれば、かしこげに」と聞こゆ。 「隠れている所に、それでも連れて行け」と仰せになったが、「とてもむさ苦しい所に籠もっていて、女房も大勢いますので、源氏を連れて行くのは畏れ多いです」と申し上げる。
いとほしと思へり。「よし、あこだに、な捨てそ」とのたまひて、御かたはらに臥せたまへり。 (小君は)大変お気の毒に思った。「よし、お前だけは私を捨てないでくれ」と仰って傍らに寝かせた。
若くなつかしき御ありさまを、うれしくめでたしと思ひたれば、つれなき人よりは、なかなかあはれに思さるとぞ。 (源氏は)若くて優しげな小君の姿を、嬉しく感じ素晴らしいとも思っているので、あの薄情なつれない女よりも、かえってかわいく思われたりもした。

3-7、空蝉への思慕
 寝られたまはぬままには、「我は、かく人に憎まれてもならはぬを、  眠れないままに、(源氏)「私はこんなに人から憎まれたことは今までないのに、
今宵なむ、初めて憂しと世を思ひ知りぬれば、恥づかしくて、ながらふまじうこそ、思ひなりぬれ」などのたまへば、涙をさへこぼして臥したり。 今宵こそ、初めてため息をついて世の中がうまくいかないことを思い知ったので、恥かしくて、このままではいられないという気持ちになりましたよ」などおっしゃられば、小君は臥したまま涙をこぼしていた。
いとらうたしと思す。 そんな小君を見て、源氏はたいそう可愛いと思われた。
手さぐりの、細く小さきほど、髪のいと長からざりしけはひのさまかよひたるも、思ひなしにやあはれなり。 触れれば分かる、細く小さな体つき、髪がそれほど長くない感じの様子が姉と似通っているように思え、それが何となく好みだと云うことが分かり、しみじみ趣深い。
あながちにかかづらひたどり寄らむも、人悪ろかるべく、 あの女にばかり無理矢理に関心を寄せ、さらに居所を探し求めるのは外聞が悪いなどと、
まめやかにめざましと思し明かしつつ、例のやうにものたまひまつはさず。 いろいろ考えて寝つけないなと思っているうちに夜が明けてしまい、源氏は小君に対していつものようにあれこれとうるさく用を言いつけなかった。
夜深(よぶか)う出でたまへば、この子は、いといとほしく、さうざうしと思ふ。 まだ夜の深いうちに(紀伊守の)邸を出たので、小君はもう少し居たいと思っていたのであろう、あわただし過ぎると思っていた。
女も、並々ならずかたはらいたしと思ふに、御消息も絶えてなし。 女も、尋常でなく決まりが悪いと思っており、それから手紙が来なくなった。
思し懲りにけると思ふにも、「やがてつれなくて止みたまひなましかば憂からまし。 源氏は、懲りた気分が残ってはいたものの、「もしもこのまま熱が冷め、終わってしまうのは嫌だった。
しひていとほしき御振る舞ひの絶えざらむもうたてあるべし。 愛する気持ちを伝えようとするのを無理に押しとどめるのも残念至極だった。
よきほどに、かくて閉ぢめてむ」と思ふものから、ただならず、ながめがちなり。 頃合いに、こういう気持ちをお仕舞いにしよう」と思っていて、ただならず物思いにふけられていた。
君は、心づきなしと思しながら、かくてはえ止むまじう御心にかかり、人悪ろく思ほしわびて、 源氏は、気持ちが通じないいまいましい女だと思いながらも、このままでは終われないと意地になり、見かねるほど落ち込んで、
小君に、「いとつらうも、うれたうもおぼゆるに、しひて思ひ返せど、心にしも従はず苦しきを。 小君に「辛いし腹もたつし、強いて忘れようとしても、心がいうことをきかぬ、苦しいのだ。
さりぬべきをり見て、対面すべくたばかれ」とのたまひわたれば、 頃合いをみて、逢えるように手はずをとれ」と仰るので、
わづらはしけれど、かかる方にても、のたまひまつはすは、うれしうおぼえけり。 (小君には)わずらわしかったが、こんなことでも、言いつけられるのはうれしいと思った。

3-8、源氏、再度、紀伊守邸へ
 幼き心地に、いかならむ折と待ちわたるに、紀伊守国に下りなどして、女どちのどやかなる夕闇の道たどたどしげなる紛れに、わが車にて率てたてまつる。  (小君は)幼い心にも、良い機会が訪れないものかと探っていると、紀伊守が任国に下り、紀伊守邸では女たちがのんびりしている夕闇の、「道たどたどし」と古歌にある、人目につきにくい夕闇に紛(まぎ)れるようにして、自分の車で源氏の君をお連れした。
この子も幼きを、いかならむと思せど、さのみもえ思しのどむまじければ、さりげなき姿にて、門など鎖さぬ先にと、急ぎおはす。 (源氏は)この子は幼いので、大丈夫だろうかと心配したが、そうのんびり構えてばかりはいられないので、目立たぬ格好で、門の鍵などを閉めてしまう前にと、急いでおいでになられた。
人見ぬ方より引き入れて、降ろしたてまつる。 小君は、人に見られない方から車を紀伊守邸に引き入れて、源氏の君をお下ろしした。
童なれば、宿直人(とのゐびとなどもことに見入れ追従(ついしょうせず、心やすし。 子供なので、宿直の者も注意することなく、お世辞を言いに来るでもなく、案外と楽だった。
東(ひむがしの妻戸に、立てまつりて、我は南の隅の間より、格子叩きののしりて入りぬ。 東側の妻戸に源氏の君をお立たせして、自分は南側の柱と柱の間の格子戸を叩き大きな声を上げながら入った。
御達(ごたち、「あらはなり」と言ふなり。 年配の女房たちが、「戸を閉めないと外から丸見えですよ」と言う。
「なぞ、かう暑きに、この格子は下ろされたる」と問へば、「昼より、西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」と言ふ。 (小君)「こんなに暑いのにどうして格子戸をおろしているのか」と問うと、
「昼より、西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」と言ふ。 「昼から西の対の屋にいらっしゃる御方がいらして、碁を打っています」と女房が言う。
さて向かひゐたらむを見ばや、と思ひて、やをら歩み出でて、簾(すだれ)のはさまに入りたまひぬ。 (源氏は)それじゃ向かい合っている様子を見ようと、踏み出して簾(すだれ)の隙間にお入りになられた。
この入りつる格子はまだ鎖さねば、隙(ひま)見ゆるに、寄りて西ざまに見通したまへば、 (小君の)入った格子戸はまだ閉めていなかったので、隙間から西の方をお見通しになると、
この際に立てたる屏風、端の方おし畳まれたるに、紛るべき几帳(きちょう)なども、暑ければにや、うち掛けて、いとよく見入れらる。 格子のそばに立てられている屏風は端の方が畳まれていて、身を隠させる役の几帳(きちょう)なども、暑さのせいでまくり上げていたので、中の様子がよく見えた。

3-9、空蝉と軒端荻、碁を打つ
 火近う灯したり。  近くに灯をともしていた。
母屋もやの中柱に側める人やわが心かくると、まづ目とどめたまへば、濃き綾の単衣襲(ひとえがさね)なめり。 母屋の中柱のところに、横を向いている人がお目当ての人だと目を留める、濃い紫の綾のある単衣襲(ひとえがさね)を着ている。
何にかあらむ表に着て、頭つき細やかに小さき人の、ものげなき姿ぞしたる。 何だか能くは分からないが上に何か羽織っていて、頭の形はほっそりして小柄で、あまり目立たない容姿である。
顔などは、差し向かひたらむ人などにも、わざと見ゆまじうもてなしたり。 顔は、向かい合った人にもわざと見えないようにしている。
手つき痩せ痩せにて、いたうひき隠しためり。 手つきは痩せすぎで、たいそう袖を引き出して腕が見えないよう隠しているように見える。
いま一人は、東向きにて、残るところなく見ゆ。 もう一人(軒端荻)は、東に向いているので、すっかり見えた。
白き羅(うすもの)の単衣襲(ひとえがさね)、二藍(ふたあい)の小袿(こうちき)だつもの、ないがしろに着なして、 白い薄物の単衣襲(ひとえがさね)、二藍(ふたあい)の小袿(こうちき)めいたものを、無造作に着こなしており、
紅(くれない)の腰ひき結へる際まで胸あらはに、ばうぞくなるもてなしなり。 紅の袴の紐を結ったところまで胸をあらわにして、だらしない格好をしている。
いと白うをかしげに、つぶつぶと肥えて、そぞろかなる人の、頭つき額つきものあざやかに、 たいそう色白で、まるまると肥って、背が高く、頭つき額つきもはっきりしていて、
まみ口つき、いと愛敬(あいぎょう)づき、はなやかなる容貌(かたち)なり。 眉や口つきにたいそう愛嬌があって、派手な容姿をしている。
髪はいとふさやかにて、長くはあらねど、下り端、肩のほどきよげに、すべていとねぢけたるところなく、をかしげなる人と見えたり。 髪はふさふさして、長くはないが、肩のあたりの下がり端も品があり、全体としてとりわけての欠点のない美しい人であった。
むべこそ親の世になくは思ふらめと、をかしく見たまふ。 なるほど、親が世にも稀な娘(軒端荻)だと思うのももっともだ、と源氏は思いながら見ている。
心地ぞ、なほ静かなる気を添へばやと、ふと見ゆる。 但し、もう少し落ち着いた品があれば、とふと思われた。
かどなきにはあるまじ。 才がないことはないだろう。
碁打ち果てて、結(けちさすわたり、心とげに見えて、 きはぎはとさうどけば、奥の人はいと静かにのどめて、 碁を打ち終わって、ダメ詰めするときになると、機敏にテキパキと所作をし始めたのを、奥の女は静かに落ち着いて、
「待ちたまへや。そこは持にこそあらめ。このわたりの劫をこそ」など言へど、 (空蝉)「お待ちください。そこはセキですよ。こちらの劫(コウ)が先ですよ」などと言っているが、
「いで、このたびは負けにけり。隅のところ、いでいで」と指をかがめて、 (軒端荻)「そうですね。但しどちらにせよこの勝負は私の負けです。隅のところを、さあ数えませう」と指を折って、
「十(とを)、二十(はた)、三十(みそ)、四十(よそ)」などかぞふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。 「十(とを)、二十(はた)、三十(みそ)、四十(よそ)」と数えるさまは、伊予の湯桁の数もてきぱきと数えられそうに見える。
すこし品おくれたり。 少し品がない。
たとしへなく口おほひて、さやかにも見せねど、目をしつけたまへれば、おのづから側目も見ゆ。 (空蝉は)これとまるで比較にならず口を覆って、はっきりとは見えないが、目を凝らせば、おのずと横顔が見える。
目すこし腫れたる心地して、鼻などもあざやかなるところなうねびれて、にほはしきところも見えず。 目がすこし腫れぼったくて、鼻筋がとおっているわけでなく少し老けて見えるし、艶もない。
言ひ立つれば、悪ろきによれる容貌をいといたうもてつけて、 はっきり言えば、器量の悪いところをしっかり取りつくろって、
このまされる人よりは心あらむと、目とどめつべきさましたり。 容貌に勝る相手(軒端荻)より心延え(こころばえ)の良いところが、評価されるように心がけている様子である。
にぎははしう愛敬づきをかしげなるを、いよいよほこりかにうちとけて、笑ひなどそぼるれば、 (軒端荻は)にぎやかで愛嬌があり美人にして、ますます陽気にくつろいで、笑いなどもこぼれて、
にほひ多く見えて、さる方にいとをかしき人ざまなり。 艶っぽく見えて、これはこれで、たいそう興味をそそられる人柄である。
あはつけしとは思しながら、まめならぬ御心は、これもえ思し放つまじかりけり。 (源氏は、)浮ついていると思うが、元来気が多いたちなので、この女のことも思わないわけにはいかないことになられたようでございます。
見たまふかぎりの人は、うちとけたる世なく、ひきつくろひ側めたるうはべをのみこそ見たまへ、 (源氏は思うに)自分の知っている女たちは、うちとけた時がなく、気どった横顔のうわべを見るだけで、
かくうちとけたる人のありさまかいま見などは、まだしたまはざりつることなれば、 このように人がうちとけた様子を覗き見ることなど、これまでになかったことなので、
何心もなうさやかなるはいとほしながら、久しう見たまはまほしきに、 女たちが気づかずに何の警戒心もなく顔をはっきり見せているのをもっと見続けたかったのですが、
小君出で来る心地すれば、やをら出でたまひぬ。 小君がやって来る気配がしたので、とっさにお出になられた。
 渡殿(わたどの)の戸口に寄りゐたまへり。  (源氏は)渡殿の戸口に寄りかかっていた。
いとかたじけなしと思ひて、「例ならぬ人はべりて、え近うも寄りはべらず」。 (小君は)恐れ多いと思って、「普段居ない人がいらしていて、近寄れないのです」。
「さて、今宵もや帰してむとする。いとあさましう、からうこそあべけれ」とのたまへば、 (源氏)「さて、今宵も帰されるのか。なさけない、こんな辛い気持ちにされるとは」と仰るので
「などてか。あなたに帰りはべりなば、たばかりはべりなむ」と聞こゆ。 (小君)「いえいえどうしてそのようなこと。客人がむこうに帰りましたら、取り計らいませう」と答える。
「さもなびかしつべき気色にこそはあらめ。童なれど、ものの心ばへ、人の気色見つべくしづまれるを」と、思すなりけり。 (源氏)「(小君が)姉を説得したのであろうか。子供ではあるが、周囲の空気を読み、人の顔色を見るだけの沈着さはある」と、思われた。
碁打ち果てつるにやあらむ、うちそよめく心地して、人びとあかるるけはひなどすなり。 碁はどうやら打ち終わったようだ、ざわついて人々が散会する気配がする。
「若君はいづくにおはしますならむ。この御格子は鎖してむ」とて、鳴らすなり。 (女房)「小君はどこにいるのかしら。この格子戸を締めてしまいませう」と、がらがら鳴らして戸締りした。
「静まりぬなり。入りて、さらば、たばかれ」とのたまふ。 (源氏)「静かになったぞ。入って、それでは何とかせよ」と仰る。
この子も、いもうとの御心(みこころ)はたわむところなくまめだちたれば、言ひあはせむ方なくて、 小君も、姉の心は緩(ゆる)むところなく真面目だから、話をつけるなどとてもできそうもないので、
人少なならむ折に入れたてまつらむと思ふなりけり。 人が少なくなったら、その時に源氏を姉の部屋にお入れしようと思っていた。
「紀伊守の妹もこなたにあるか。我にかいま見せさせよ」とのたまへど、 (源氏が)「紀伊守の妹(軒端荻)もこちらにいるのか。わたしに覗き見させよ」と仰せになるが、
「いかでか、さははべらむ。格子には几帳添へてはべり」と聞こゆ。 (小君)「どうしてそのようなことができましょう。格子には几帳が立て添えてございます」と申し上げる。
さかし、されどもをかしく思せど、「見つとは知らせじ、いとほし」と思して、夜更くることの心もとなさをのたまふ。 それはそうだ、そうではあるがと可笑しく思ったが「既に見たとは言わないでおこう、可愛そうだから」と思われて、夜が更けるのが待ち遠しいなどと仰る。
こたみは妻戸を叩きて入る。 今度は妻戸を叩いて(中から女童に開けてもらって、)中に入る。
皆人びと静まり寝にけり。 皆な静かに寝ている。
「この障子口に、まろは寝たらむ。風吹きとほせ」とて、畳広げて臥す。 「この障子口でぼくは寝ます。風が吹き抜けるから」と、(小君は)薄縁うすべりを広げて横になる。
御達(ごたち、東の廂にいとあまた寝たるべし。 女たちは東の廂の間に大勢寝ている。
戸放ちつる童もそなたに入りて臥しぬれば、とばかり空寝して、 妻戸を開けてくれた童女もそっちに行って横になっているので、(小君は)しばし寝たふりをして、
灯明かき方に屏風を広げて、影ほのかなるに、やをら入れたてまつる。 灯の明るい方に屏風を広げ、灯影が薄暗くなっている所に、そっと(源氏を)招き入れられた。
「いかにぞ、をこがましきこともこそ」と思すに、いとつつましけれど、 (源氏は、)「見っともないことをしているな」とも思われ、多少気がひけたが、
導くままに、母屋の几帳の帷子引き上げて、いとやをら入りたまふとすれど、 (小君に)案内されるまま、母屋の几帳の帷子を上げて、(源氏は)そっと中に入ろうとするが、
皆静まれる夜の、御衣(おんぞ)のけはひやはらかなるしも、いとしるかりけり。 皆静まった夜に、やわらかい衣擦れの音が柔かではあるが、はっきり聞こえるのであった。

3-10、空蝉逃れ、源氏、軒端荻と契る
 女は、さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど、あやしく夢のやうなることを、心に離るる折なきころにて、心とけたるだにられずなむ、  女(空蝉)は、手紙が途切れて忘れられていくのをうれしく思うが、あやしい夢のようなあの夜のことは、心から離れたことがなく、熟睡して寝られぬようになっており、
昼はながめ、夜は寝覚めがちなれば、春ならぬ木の芽も、いとなく嘆かしきに、 昼はぼんやりし、夜は目ざめがちで、古歌にある木の芽(目)の休まるときがなく、ため息ばかりの身となっており、
碁打ちつる君、「今宵は、こなたに」と、今めかしくうち語らひて、寝にけり。 碁を打った君(軒端荻)が「今宵はここで」と、今風のお喋りして、先に寝てしまった。
若き人は、何心なくいとようまどろみたるべし。 若い人(軒端荻)は、屈託なくぐっすり眠ってしまった。
かかるけはひの、いと香ばしくうち匂ふに、顔をもたげたるに、 そこへ人の気配がして、香ばしい匂いに、女(空蝉)が顔を持ち上げて見ると、
単衣うち掛けたる几帳の隙間に、暗けれど、うち身じろき寄るけはひ、いとしるし。 単衣をかけた几帳の隙間に、暗いが、人がうごめいて寄ってくる気配がはっきりする。
あさましくおぼえて、ともかくも思ひ分かれず、やをら起き出でて、生絹(すずし)なる単衣を一つ着て、すべり出でにけり。 (空蝉は)驚いて、わけが分からぬまま、そっと起き上がって、生絹の単衣をひとつ着て、そっと抜け出した。
君は入りたまひて、ただひとり臥したるを心やすく思す。 源氏は中に入ったが、女がひとりで寝ているので安心だと思った。
床の下に二人ばかりぞ臥したる。 床の下に女房が二人ばかり寝ていた。
衣を押しやりて寄りたまへるに、ありしけはひよりは、ものものしくおぼゆれど、思ほしうも寄らずかし。 衣を押しやって寄っていくと、以前逢ったときの気配よりは大柄に感じたが、人違いとは思いもしない。
いぎたなきさまなどぞ、あやしく変はりて、やうやう見あらはしたまひて、あさましく心やましけれど、「 ぐっすり寝込んでいる様子など、なにか違うと感じ、ようやく正体が分かると、驚きまた不快に感じたが、
人違(ひとたがへ)とたどりて見えむも、をこがましく、あやしと思ふべし、 「人違いとやっと気づいたと思われるのも、みつともないし、物笑いになるだろうし、
本意(ほいの人を尋ね寄らむも、かばかり逃るる心あめれば、かひなう、をこにこそ思はめ」と思す。 お目当ての人を尋ねあてても、このように逃げられては、ふがいのない男と思われるだろう」と思う。
かのをかしかりつる灯影(ほかげ)ならば、いかがはせむに思しなるも、悪ろき御心(みこころ)浅さなめりかし。 あの灯影に見えた美しい人なら、今日はこの女を相手にしようと思ったのは、源氏の出来心の薄情な面だろう。
 やうやう目覚めて、いとおぼえずあさましきに、あきれたる気色にて、何の心深くいとほしき用意もなし。 女(軒端荻)はようやく目覚めて、突然のことに驚き、呆然としたが、男心をそそる奥ゆかしい所作がない。
世の中をまだ思ひ知らぬほどよりは、さればみたる方にて、あえかにも思ひまどはず。 男女の関係をまだ知らぬにしては、それなりに心得ている感じがあって、初々しくうろたえるでもない。
我とも知らせじと思ほせど、いかにしてかかることぞと、後に思ひめぐらさむも、わがためには事にあらねど、 (源氏は)自分の名を明かさないと思っていたが、どうしてこうなったか、と(女が)後で思いめぐらすとき、自分にとっては心配ないが、
あのつらき人の、あながちに名をつつむも、さすがにいとほしければ、 あの冷淡な女(空蝉)が、世間に名が出るのをひどく気にするから、さすがに気の毒なので、
たびたびの御方違へにことつけたまひしさまを、いとよう言ひなしたまふ。 たびたびの方違えを口実にして会いに来たのだ、などと詳しく言い繕いなされた。
たどらむ人は心得つべけれど、まだいと若き心地に、さこそさし過ぎたるやうなれど、えしも思ひ分かず。 筋道をたどって考えるような人は話がおかしいことに気づくだろうけれど、まだ若いので、凡その事は察しがつくようでも、理解できなかったようだ。 
憎しとはなけれど、御心とまるべきゆゑもなき心地して、なほかのうれたき人の心をいみじく思す。 女が可愛くないわけではなかったが、気持ちが惹かれるところもなく、やはりあの求愛を受け入れない、いまいましい女の心の方に気が向いてしまう。
「いづくにはひ紛れて、かたくなしと思ひゐたらむ。 「どこかに隠れて、私を見苦しい男と思っているだろう。
かく執念(しふね)き人はありがたきものを」と思すしも、あやにくに、紛れがたう思ひ出でられたまふ。 こんな強情な女はめったにいない」と思うものの、皮肉にもなおいっそう忘れ難く思い出してしまわれる。
この人の、なま心なく、若やかなるけはひもあはれなれば、さすがに情け情けしく契りおかせたまふ。 この女(軒端荻)の無邪気な若やいだ気配もそれなりに魅力があったので、結局は情愛たっぷりに契られた。
「人知りたることよりも、かやうなるは、あはれも添ふこととなむ、昔人も言ひける。 (源氏)「人に知られた仲よりも、このような密会の方が余計に情を深くするとは、昔から云われて来ています。
あひ思ひたまへよ。 あなたも私を思ってください。
つつむことなきにしもあらねば、身ながら心にもえまかすまじくなむありける。 私も身を慎まねばならぬ立場なので、立場上、心のままにはふるまえないのです。
また、さるべき人びとも許されじかしと、かねて胸いたくなむ。 またあなたの後見の親兄弟も許さないでしょう、今から胸が痛みます。
忘れで待ちたまへよ」など、なほなほしく語らひたまふ。 忘れず待っていてくださいよ」などと、通りいっぺんなことを語らいなされた。
「人の思ひはべらむことの恥づかしきになむ、え聞こえさすまじき」とうらもなく言ふ。 (軒端荻)「周りの人に知られ噂になることが恥かしいので、お手紙は出せません」と素直に言う。
「なべて、人に知らせばこそあらめ、この小さき上人に伝へて聞こえむ。気色なくもてなしたまへ」など言ひおきて、 (源氏)「全ては人に知られるかどうかにあります。この小さい殿上人(小君)に託して文を届けてください。普段のままに何気なく振舞ってください」などと言いおいて、
かの脱ぎすべしたると見ゆる薄衣を取りて出でたまひぬ。 空蝉の脱ぎ残していったと思われる薄衣を取って、ご退出された。
 小君近う臥したるを起こしたまへば、うしろめたう思ひつつ寝ければ、ふとおどろきぬ。  (源氏は、)手前に寝ている小君を揺すると、首尾を心配しながら寝ていたので、驚いてすぐ起きた。
戸をやをら押し開くるに、老いたる御達の声にて、「あれは誰そ」とおどろおどろしく問ふ。 戸口を静かに押し開けると、年老いた女房の声で、「そこにいるのは誰ですか」と不審がる様子で問う。
わづらはしくて、「まろぞ」と答ふ。 (小君は)面倒なので、「僕ですよ」と答える。
「夜中に、こは、なぞ外歩かせたまふ」とさかしがりて、(と)ざまへ (女房)「この夜中に、なんで外歩きをするのですか」とおせっかいにも、外へ出てくる。
いと憎くて、「あらず。ここもとへ出づるぞ」とて、君を押し出でたてまつるに、 (小君は)面倒なので、「何でもない、ちょっとそこへ出るだけだ」と言って、源氏を押し出したところ、
暁近き月、隈なくさし出でて、ふと人の影見えければ、「またおはするは、誰そ」と問ふ。 暁近くの月がこうこうと出ていて、ふと人影が見えたので、「もう一人おられるのはどなたかな」と問う。
「民部のおもとなめり。けしうはあらぬおもとの丈だちかな」と言ふ。 「ああ、民部のおもとでせう。なかなかの背丈の好男子ですね」と言う。
丈高き人の常に笑はるるを言ふなりけり。 背の高い人はいつも背丈でからかわれるのを当てつけて言ったようであった。
老人、これを連ねて歩きけると思ひて、「今、ただ今立ちならびたまひなむ」と言ふ言ふ、我もこの戸より出でて来。 老女房は、(小君が)このおもとと連れ立って歩いているのだと思って、「今に小君も同じくらいの背丈になりましょう」と言いながら、自分も戸口から出てきた。
わびしければ、えはた押し返さで、渡殿の口にかい添ひて隠れ立ちたまへれば、 小君は困ったが、源氏の君を押し戻すわけにもいかず、渡戸の戸口にそって源氏が隠れて立っておられると、
このおもとさし寄りて、「おもとは、今宵は、上にやさぶらひたまひつる。 この女房が近寄て来て、「あなたは今宵は上でお勤めか。
一昨日より腹を病みて、いとわりなければ、下にはべりつるを、 私は一昨日より腹を病んで、どうしようもないので、下に控えておりました。
人少ななりとて召ししかば、昨夜参う上りしかど、なほえ堪ふまじくなむ」と、憂ふ。 人が少ないので召されて、昨夜参上したのですが、なお堪えられない」と嘆く。
答へも聞かで、「あな、腹々。今聞こえむ」とて過ぎぬるに、からうして出でたまふ。 その答えも聞かず、「ああ、腹が痛い。また今度お話しませう」と云っていなくなったので、ようやく出られることになった。
なほかかる歩きは軽々しくあやしかりけりと、いよいよ思し懲りぬべし。 源氏の君は、このような忍び歩きを軽率にしてはいけない。もう懲りごりと思ったことでせうよ。

3-11、源氏、空蝉の脱ぎ捨てた衣を持って帰る
 小君、御車(みくるま(しり)にて、二条院におはしましぬ。  小君は、牛車の後ろに乗って、二条院に着いた。
ありさまのたまひて、「幼かりけり」とあはめたまひて、かの人の心を爪弾きをしつつ恨みたまふ。 源氏は、昨夜のなりゆきを語り、「幼稚だったな」とたしなめめて、あの女(空蝉)の心を爪はじきしながら恨み言を言われた。
いとほしうてものもえ聞こえず。 (小君は源氏が)気の毒で慰めの言葉もでない。
「いと深う憎みたまふべかめれば、身も憂く思ひ果てぬ。 (源氏)「(君の姉さんは私を)ひどく嫌っているようなので、とても悲しいしどうして良いか分からない。
などか、よそにても、なつかしき答へばかりはしたまふまじき。 なぜ、他人だとしても、逢ってはくれないまでも、優しい文のひとつくらい書けるだろうに。
伊予介に劣りける身こそ」など、心づきなしと思ひてのたまふ。 私が伊予の介に劣っているのが残念だ」などと、不快な気持ちで仰せになる。
ありつる小袿(こうちき)を、さすがに、御衣(おんぞ)の下に引き入れて、大殿籠もれり。 手元にある小袿(こうちき、薄絹)を、そうはいってもやはり未練はあるので、御衣(おんぞ)の下に入れてお休みになられた。
小君を御前に臥せて、よろづに恨み、かつは、語らひたまふ。 小君をそばに寝かせ、あれこれと恨み言をいい、一方ではまた睦まじく語らいなされた。
「あこは、らうたけれど、つらきゆかりにこそ、え思ひ果つまじけれ」とまめやかにのたまふを、いとわびしと思ひたり。 「お前は、可愛いけれど、つれない人の縁者なので、私の為に尽すのもそう長くは続かないだろうな」とまじめな顔で言われて、小君はひどくわびしくなった。
しばしうち休みたまへど、寝られたまはず。 しばし横になっていたが寝られない。
御硯急ぎ召して、さしはへたる御文にはあらで、畳紙(たたうがみ)に手習のやうに書きすさびたまふ。 急いで硯箱を取り出して、改まった手紙ではなく、懐紙に手習いのように思いのままに書き流した。
「空蝉の身をかへてける木(こ)のもとになほ人がらのなつかしきかな」と書きたまへるを、懐に引き入れて持たり。 (源氏の歌)「蝉が脱皮して木の下に残した脱け殻をなつかしんでいるよ」と書いたのを、(小君は)懐に入れて持った。
かの人もいかに思ふらむと、いとほしけれど、かたがた思ほしかへして、御ことつけもなし。 軒端荻がどう思っているか、気の毒であったが、あれこれ考えて、御ことづてもしなかった。
かの薄衣は、小袿のいとなつかしき人香に染めるを、身近くならして見ゐたまへり。 あの薄衣は、小袿でなつかしい人の香が染みているので、身近においていつも見ていた。
小君、かしこに行きたれば、姉君待ちつけて、いみじくのたまふ。 小君が家に帰ったら、姉君が待ち構えていて、たいそうひどく叱った。
「あさましかりしに、とかう紛らはしても、人の思ひけむことさりどころなきに、いとなむわりなき。 (空蝉)「あまりの事だったので、何とか逃げましたが、世間の目は避けられないので、ほんとに困ります。
いとかう心幼きを、かつはいかに思ほすらむ」とて、恥づかしめたまふ。 まだ子供なのに、何を考えているのか、でしゃばるのはええ加減にしなさい」と云って、お叱りになられた。
左右(ひだりみぎに苦しう思へど、かの御手習取り出でたり。 (小君は)どちらからも責められて、苦しく思い、あの手習いを取り出す。
さすがに、取りて見たまふ。 (空蝉は)さっと手に取って読んだ。
かのもぬけを、いかに、伊勢をの海人のしほなれてや、など思ふもただならず、いとよろづに乱れて。 脱ぎおいた衣に対して、古歌にある「伊勢をの尼の捨衣」にある海女の潮じみのように汗に湿ってていなかったかなど、ひどく気にしていた。
西の君も、もの恥づかしき心地してわたりたまひにけり。 西の対の君(軒端荻)も、何となく恥ずかしい気がして、自室に戻ってしまわれた。
また知る人もなきことなれば、人知れずうちながめてゐたり。 あの夜のことを知っている人もいないので、ひとりぼんやり物思いに沈んでいた。
小君の渡り歩くにつけても、胸のみ塞がれど、御消息もなし。 小君が渡り歩くにも、胸塞がれる思いだが、源氏の君からの文がないままである。
あさましと思ひ得る方もなくて、されたる心に、ものあはれなるべし。 それが何か変なことだったと理解する分別もなく、はすっぱな心ながら、陽気な女がもの寂しくしている。
つれなき人も、さこそしづむれ、いとあさはかにもあらぬ御気色を、ありしながらのわが身ならばと、 源氏に対して冷淡な女(空蝉)も、気持ちを静めて、源氏の軽薄と云う訳でもない気持ちを、結婚前の身ならばと思い、
取り返すものならねど、忍びがたければ、この御畳紙の片つ方に、 取り返せないが、堪えきれぬ思いを、その畳紙の隅に書く、
「空蝉の羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな」。 (空蝉の歌)「蝉の羽根に置く霜が木の間隠れに見えないように 人目を忍んで泣いて袖を濡らしています」。




(私論.私見)