九月七日ばかりなれば、「むげに今日明日」と思すに、女方も心あわたたしけれど、「立ちながら」と、たびたび御消息ありければ、「いでや」とは思しわづらひながら、「いとあまり埋もれいたきを、物越ばかりの対面は」と、人知れず待ちきこえたまひけり。 |
九月七日にもなれば、「今日明日にも出立だ」と気ぜわしく、女の方もあわただしかったが、「立ったままでも」とたびたび文があったので、「どうしよう」と悩んだが、「あまりにも引っ込み思案だし、せめて物越しでも」と、人知れず待っていたのだった。 |
遥けき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり。 |
広々とした野辺を分け入ると、たいへんあわれだった。 |
秋の花、みな衰へつつ、浅茅が原も枯れ枯れなる虫の音に、松風、すごく吹きあはせて、そのこととも聞き分かれぬほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶なり。 |
秋の花はみな枯れて、一面に枯れた雑草から虫の音も絶え絶えに聞こえ、松風がすごく吹いて、何の楽器か聞き分けられないが絶え絶えに聞こえて、まことに趣があった。 |
むつましき御前、十余人ばかり、御随身、ことことしき姿ならで、いたう忍びたまへれど、ことにひきつくろひたまへる御用意、いとめでたく見えたまへば、御供なる好き者ども、所からさへ身にしみて思へり。御心にも、「などて、今まで立ちならさざりつらむ」と、過ぎぬる方、悔しう思さる。 |
気心の知れた前駆の十余人ばかり、随身はものものしい出立ちではなく、お忍び姿だが、格別に気をつかった君の装いはたいへん立派に見えたので、お供の好き者たちも場所柄からも身にしみて感じたのだった。源氏も「どうして今まで来なかったのだろう」と過ぎた日々を悔いた。 |
ものはかなげなる小柴垣を大垣にて、板屋どもあたりあたりいとかりそめなり。 |
はかなげな小柴を垣にまわして、板屋がここかしこあって仮普請である。黒木の鳥居などが、さすがに神々しく見えて、気おくれする気配があったが、神官たちがあちこちで咳払いをし、互いに物を言う気配なども、他と違った様子である。 |
黒木の鳥居ども、さすがに神々しう見わたされて、わづらはしきけしきなるに、神司(かんずかさ)の者ども、ここかしこにうちしはぶきて、おのがどち、物うち言ひたるけはひなども、他にはさま変はりて見ゆ。 |
黒木の鳥居などが、さすがに神々しく見えて、気おくれする気配があったが、神官たちがあちこちで咳払いをし、互いに物を言う気配なども、他と違った様子である。 |
火焼屋かすかに光りて、人気すくなく、しめじめとして、ここにもの思はしき人の、月日を隔てたまへらむほどを思しやるに、いといみじうあはれに心苦し。 |
火焼屋の明かりがかすかに見えて、人気はまったくなく、しみじしみじみとして、ここに物思う御息所が長い年月世間から離れて暮らすのかと思うと、ひどくあわれを感じ心が痛むのだった。 |
北の対のさるべき所に立ち隠れたまひて、御消息聞こえたまふに、遊びはみなやめて、心にくきけはひ、あまた聞こゆ。 |
北の対の程よいところに立ち隠れて、来意を告げると、管弦の音がやんで、奥ゆかしい気配がたくさん伝わってくる。 |
何くれの人づての御消息ばかりにて、みづからは対面したまふべきさまにもあらねば、「いとものし」と思して、「かうやうの歩きも、今はつきなきほどになりにてはべるを、思ほし知らば、かう注連のほかにはもてなしたまはで。 |
あれこれと女房たちの取次ぎの言葉が続いて、女君は自ら対面しそうにないので、源氏は「嫌だな」と思って、「このような遊び歩きも、いまは立場上不似合いになってしまったのをご存知ならば、こうした注連縄の外での扱いでなく。 |
いぶせうはべることをも、あきらめはべりにしがな」と、まめやかに聞こえたまへば、人びと、「げに、いとかたはらいたう」、「立ちわづらはせたまふに、いとほしう」など、あつかひきこゆれば、「いさや。ここの人目も見苦しう、かの思さむことも、若々しう、出でゐむが、今さらにつつましきこと」と思すに、いともの憂けれど、情けなうもてなさむにもたけからねば、とかくうち嘆き、やすらひて、ゐざり出でたまへる御けはひ、いと心にくし。 |
胸のわだかまりを晴らしたくて参ったのですから」と、生真面目に仰ると、人々は、「まことにお気の毒な様子で」、「立たせたままでご面倒かけ、申し訳なくて」などの扱いの言葉が聞こえて、「いやいや、女房たちも見苦しい扱いと見るだろうし、君も年甲斐もないと思うだろうし、出てお会いするのは今さら慎むべきことだろう」とも思うと、気が重いが、つれなく遇する勇気もなく、(御息所が)嘆き戸惑ってから、いざり出る気配が奥ゆかしい。 |
「こなたは、簀子ばかりの許されははべりや」とて、上りゐたまへり。 |
「こちらの簀子まで入ってよろしいだろう」とて、上がった。 |
はなやかにさし出でたる夕月夜に、うち振る舞ひたまへるさま、匂ひに、似るものなくめでたし。月ごろのつもりを、つきづきしう聞こえたまはむも、まばゆきほどになりにければ、榊をいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて、「変らぬ色をしるべにてこそ、斎垣も越えはべりにけれ。 |
はなやかな夕月夜のなかで、君の振る舞いは 比類のない匂うような美しさがあった。幾月もご無沙汰しているので、もっともらしくつくろった言い分も気恥ずかしいくらいなので、榊の枝を折って持っていたので、それを差しだして、「榊の色に導かれて、神垣も越えて来ました。 |
さも心憂く」と聞こえたまへば、「神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折れる榊ぞ」と聞こえたまへば、「少女子があたりと思へば榊葉の
香をなつかしみとめてこそ折れ」。 |
だが薄情なお扱いで」と仰せになると、(御息所の歌)「こちらの神垣には杉の木はありませんのにどうまちがって榊の枝を折ったのですか」と御息所が問えば、(源氏の歌)「乙女子のいる辺りと思って榊葉の香をなつかしんで折ったのです」。 |
おほかたのけはひわづらはしけれど、御簾ばかりはひき着て、長押におしかかりてゐたまへり。 |
辺りの神域の様子がはばかられるが、源氏は御簾を引きかぶって、敷居に座り込んだ。 |
心にまかせて見たてまつりつべく、人も慕ひざまに思したりつる年月は、のどかなりつる御心おごりに、さしも思されざりき。 |
思い通りに女に会えて、女も慕い恋うてくれていた年月は、のんびりして心におごりもあって、それほど切なく思っていなかった。 |
また、心のうちに、「いかにぞや、疵ありて」、思ひきこえたまひにし後、はた、あはれもさめつつ、かく御仲も隔たりぬるを、めづらしき御対面の昔おぼえたるに、「あはれ」と、思し乱るること限りなし。来し方、行く先、思し続けられて、心弱く泣きたまひぬ。 |
また、心の中に「どうしてか、女に疵がある」と思い始めてからは、気持ちもすっかり冷めて、二人の仲に隔たりが生じたので、久しぶりの対面に昔のことを思い出し、「あわれ」と思い乱れるのだった。来し方、行く末を思い続けて、君は心弱く泣いた。 |
女は、さしも見えじと思しつつむめれど、え忍びたまはぬ御けしきを、いよいよ心苦しう、なほ思しとまるべきさまにぞ、聞こえたまふめる。 |
女は、そんな心を見せまいと隠そうとするが、こらえられない様子を見て、君は苦しくなり、なお伊勢下向を思いとどまるように、口説いた。 |
月も入りぬるにや、あはれなる空を眺めつつ、怨みきこえたまふに、ここら思ひ集めたまへるつらさも消えぬべし。 |
月も沈み、あわれな空を眺めながら、恨み言をならべているうちに、積もりつもったつらい思いも消えたようだ。 |
やうやう、「今は」と、思ひ離れたまへるに、「さればよ」と、なかなか心動きて、思し乱る。 |
女君は、ようやく、「今度こそは」と諦めがついたのに、「やっぱり」心が動いて、思い乱れた。 |
殿上の若君達などうち連れて、とかく立ちわづらふなる庭のたたずまひも、げに艶なるかたに、うけばりたるありさまなり。 |
殿上人の若者たちが連れ立って、何かと立ち去りがたくする庭のたたずまいも、実に恋の舞台にぴったりだった。 |
思ほし残すことなき御仲らひに、聞こえ交はしたまふことども、まねびやらむかたなし。 |
物思いの限りを尽くした二人の仲は、言い交わしたすべてを、ここに語りつくすことはできない。 |
やうやう明けゆく空のけしき、ことさらに作り出でたらむやうなり。 |
ようやく明け行く空の気色は、ことさらに作り出したようだった。 |
「暁の別れはいつも露けきを こは世に知らぬ秋の空かな」。 |
(源氏の歌)「暁の別れはいつも露の涙にくれるのですが 今朝はまた覚え知らぬほどの悲しい秋の空だ」 |
出(で)がてに、御手をとらへてやすらひたまへる、いみじうなつかし。 |
立ちにくそうに、手をとっているのが、実に優しい感じがする。 |
風、いと冷やかに吹きて、松虫の鳴きからしたる声も、折知り顔なるを、さして思ふことなきだに、聞き過ぐしがたげなるに、まして、わりなき御心惑ひどもに、なかなか、こともゆかぬにや。 |
風は冷ややかに吹いて、松虫がしきりに鳴いている声も、折知り顔で、物思わぬ者でさえ聞き過ごしがたいのに、まして無性に心を惑わしているので、歌もなかなか作れない。 |
「おほかたの秋の別れも悲しきに
鳴く音な添へそ野辺の松虫」 |
(御息所の歌)「秋の別れというだけでも悲しいのに さらに鳴く音を添えてるな野辺の松虫よ」 |
悔しきこと多かれど、かひなければ、明け行く空もはしたなうて、出でたまふ。道のほどいと露けし。 |
悔いも多いが、どうしようもなく、明けゆく空もきまり悪くなり、退出した。道すがら露が茂かった。 |
女も、え心強からず、名残あはれにて眺めたまふ。 |
女も、心強くはなれず、君の去った後の名残にあわれを感じて眺めていた。 |
ほの見たてまつりたまへる月影の御容貌、なほとまれる匂ひなど、若き人びとは身にしめて、あやまちもしつべく、めできこゆ。 |
ほのかな月影に浮かんだ容貌や、まだ残る匂いなど、若い女房たちは心にしみてたしなみも忘れて賛嘆していた。 |
「いかばかりの道にてか、かかる御ありさまを見捨てては、別れきこえむ」と、あいなく涙ぐみあへり。 |
「下向がどれほどの旅だとしても、この有様を見捨てて、別れられようか」と、(女房たちは)他人の事ながら涙ぐみあった。 |