れんだいこはつい最近、清水セイ八郎氏の著作「破約の世界史」(祥伝社、2000.7.21日初版)を手にした。それなりに面白いのだが、れんだいこ史観と齟齬するところが多く、ネオ・シオニズムに対する考察が一切欠落していて物足りず、資料的な面だけ頂戴することにした。ところが、最終章の「第7章、グローバリズムという名の世界侵略」の項での日本語考が為になった。そこで、示唆的なところを転載しておく。
日本人の英語下手、第二の理由
ドイツは1807年、ナポレオンに首都ベルリンを踏みにじられたが、時の哲学者フィヒテはベルリン大学で「ドイツ国民に告ぐ」という大演説を行い、「ドイツ語を失わない限り、ドイツ民族は滅びない」と叫んだ。フィヒテは、ドイツ語の中にドイツ魂が甦(よみがえ)る限り、必ず祖国は復興するものと確信していたのである。
日本人の英語下手の第二の原因は、日本語が世界一複雑な言葉である上に、高度に洗練された優れた言葉であることである。つまり英語に馴染めないのは、あまりに高次元の言語を平素使いこなしていることに原因がある。
「言語学者によると、世界には2800ほどの言語があるという。その中で、日本語は、仲間を探すのが困難で、ひとり独立した言語となっている。同じ漢字文化圏と言いながら、中国語とは文法、発音がまるで違う。韓国とは隣同士でありながら、語順こそ共通点があるが、ヨーロッパの英独仏語間にある類似性を、日本語と韓国語の間に見ることはできない。このようにみると、日本語は世界の言語地図の孤児てである。
そこで、欧米語と日本語の著しい違いを、三つ挙げてみよう。
まず、欧米語がアルファベットの僅か26文字を主体に表現されるのに対し、日本語ではカタカナ、平仮名、漢字の三種類の文字を持ち、さらにそれを自由に組み合わせて使用することができる。
その二は、欧米語は表音文字の組み合わせに対して、日本語だけは仮名の表音文字と漢字の表意文字とを組み合わせている。例えば、「愛する」のように、一字の表意の漢字に、二文字の表音の仮名がついているが如くである。
第三に、全く同じ名詞の事柄に少なくとも三通りの表現が使われていることである。和語(大和言葉)と漢語と洋語の三通りで、例えば和語で「うち」は、漢語で「家庭」となり、洋語で「ホーム」となる。和語の「知らせ」は「報道」となり、「ニュース」となる。「誂(あつら)え」は「注文」、「オーダー」にといった具合である。
又漢字には音読みと訓読みがあり、山川は「サンセン」でも「やまかわ」でもよく、草木は「ソウモク」とも「くさき」とも読める。大和言葉に漢字をあて、行灯(あんどん)、陽炎(かげろう)、海老(えび)などの表現がある。更に明治以来、欧米の言葉を巧みに漢字の二文字で表現して「哲学」、「科学」、「経済」など、たくさんの新造語を発明して、国民は日本語で違和感無く、容易に西欧文明を理解することができた。
文字は人類最高の発明であり、最良の宝だ。各民族の固有の文字は文化であり、文字の多様化は文化の深さと豊かさを示している。この点彼我(ひが)の文化の違いは、単純な26文字のローマ字と日本語の漢字仮名交じりの複雑多用な言語によって、決定的に方向づけられたといってよい。
彼らは、文字をアルファベット26文字に集約してしまったが、これでは表現に微妙な心情や事象の差異を示すことができない。彼らは、三つの事柄を区別するのに三角形もABCで示し、ビタミンもABC、学校のクラスもA組、B組、C組で示すほかはない。これが日本語なら、イロハといった無味乾燥な区別をせず、甲乙丙、上中下、大中小、優良可、松竹梅、福禄寿と、内容と情緒のある多彩な区別ができる。
日本では、アルファベットに相当するカタカナ、平仮名の各50音を学び、さらに表意文字の漢字を小学校で1000字、中学校で2000字をマスターする。高校卒業の頃には3600の漢字を覚え、これで新聞などに、出てくる文章は納まる。
日本人は一生のうち平仮名、カタカナ、漢字合わせて5000の文字を見につけ、これを頭脳と云うワープロに詰めている。5000の文字を組み合わせれば、無限の新概念が創造できる。26文字と5000の文字では、初めから勝負にならないのである。しかも、ABCは発音記号に過ぎず、文字ではない。アルファベットは日本語のアイウエオに過ぎない。アルファベットでは、漢字のような言霊(ことだま)が発揮できないし、書道に高めることもできない。
英語でBBC、WHO、PKOと要約しても、意味不明である。日本語では山川草木、春夏秋冬、明鏡止水と意味深長な言葉が生まれ、日教組、全学連、経団連と要約しても意味が通じるが、ODA、EU、PTAといっても、時代を超えて意味を持続することはできない。
さらに日本語には、同音異語が無数にあるが、人々は混乱せずに自由に会話したり書いたりしている。例えば、「五月五日の端午の節句に、子供に『菖蒲(しょうぶ)湯』に入れて、『尚武』の気風を養って、人生の『勝負』をつける」といっても、充分意味が分かる。また、「貴社の新聞記者が汽車で帰社した」でも混乱しない。これをカタカナやローマ字で綴ったらすべてキシャになり、読むのも大変だが、何のことやら分からなくなる。
もし日本語が漢字を取り入れず、電報文のようなカナの表音文字だけで構成されていたら、どんなに不便だろう。電報文も、頭の中で漢字仮名交じりの文章に翻訳して、初めて的確に情報が伝わる。
日本人は直観的に理解できる幹事の便利さに慣れているので、カナだけの文章やローマ字の外国文は煩わしくて読む気がしない。日本語がもし英米語のローマ字のような仮名だけで成り立っていたら、日本文化は今日のような繁栄を来(きた)していただろうか。否である。してみると日本文化と社会発展の活力は、日本語によってもたらされたと言っても過言ではない。 |
世界に独特の日本語文化
日本に一度外来文明が入ると、それは日本語に翻訳されて、漢字の組み合わせと順列で、次々と新しい概念を創造することができる。文明の進歩は概念創造の競争である。この点、外国の26文字と日本の5000字では、勝負にならなかったのである。
日本人が初めて鉄道を知れば、100年足らずののうちに世界一の新幹線に高め、自動車を知れば、世界一緻密な故障しない車を作って外国に輸出する。時計でもカメラでも、半導体でも同じことだ。それは日本人が頭が良いからだけではなく、高度に操作可能な、日本語文明の賜物だったのである。
日本人は、概念の異なる数千の漢字を知っているだけでなく、これに微妙、繊細な情緒や心情を表す独特のテニヲハ、つまり助詞を持っている。これは、中国語にも英語にもない。彼らは、好きだという言葉を「吾愛汝」といつたようにブッキラボウに文字を並べるだけである。外来語で日本の和歌の、「青丹(あおに)によし ならの都は 咲く花の におうが如く 今さかりなり」、「足引きの 山鳥の尾の しだりおの 長々し夜を ひとりかもねん」といった美しい情景の詩が翻訳で表現できるだろうか。
しかも万葉集や源氏物語のような、物のあわれやロマンを表現した文学が、今から1000年以上前に完成していたのである。シェイクスピアなど、それから数百年後のことである。
さらに驚くことは、外国で漢詩や洋詩が書ける人は、特別才能ある専門家だけであるのに、日本では農夫や兵士や庶民にいたるまで、昔から和歌や俳句を操り親しんできたのである。「君が代」の歌詞など、読み人知らずの一平民の、心からの祝いの気持ちの自然の発露であった。(以下略) |
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