戦前日本語改革史考 |
(最新見直し2008.10.20日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
言葉は歴史的生きものであり文化財である。日本語も然りである。その伝統を守りつつ現代性を取り入れ、使用に便利で且つ美しい国語を実現していくためにはどうすればいいのだろうか。これがテーマである。斎藤吉久「東条内閣の国語政策に抵抗した神道人」、井上ひさし氏の小説「東京セブンローズ」その他を参照する。(目下、引用転載頻り) |
【漢字批判運動の流れ】 | |
江戸時代中期に西洋語の学習とアルファベットの輸入とに刺激された新井白石、本多利明などが西洋の文字数が少ないのを見て驚き、日本語の漢字の多いことを批判的に論ずるようになった。それが国語改良論の起こりだとの説明が為されている。
実際には、もうひとつの潮流が認められる。それは、江戸期の国学者による漢字批判の流れである。賀茂真淵は、「国意考」で、漢字の不便に比べて表音文字の仮字がアルファベットに似て便利だと説いている。本居宣長も、「玉勝間」で、漢字に対するカナ文字の優位を説いている。平田篤胤も、「伊吹於呂志」で、大和言葉の音韻が漢語に対して優れていると論じている(葦津珍彦「漢字、仮字と国学者」)。
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【言文一致運動】 |
明治になって口語体運動が始まった。それまでの文語体に対しての革新運動であった。もともと、近世期(江戸時代)から近代初期(明治時代初頭)までは、書き言葉と話し言葉は、全く別な体系としてそれぞれに発展してきていた。(庶民は別にして)貴族・武士などの上層階級や知識階級は、平安時代(8世紀後半~12世紀)に成立した文法、表記法(仮名遣)によって文章を書き表していた。それに対し話し言葉(文法、語彙、発音)は時代とともに大きく変化したことにより、江戸後期(明治初期)には、書き言葉と話し言葉との間に大きな違いが生じていた。 |
【変体仮名の切捨て】 |
万葉仮名から平仮名が発生したが、その異体字として変体仮名も生まれていた。変体仮名の字体は草書体をさらに崩したものがもとになっている。 一つの音韻に対する平仮名の字体の中には、字母が異なるものと、字母は同じだが崩し方が異なるものの2種類がある。 平仮名は、異体字を包摂しつつ、文字体系としては平安時代が終わる12世紀にほぼ完成していたとされる。鎌倉時代以降の書では字形の違いはあっても字体や字母には大きな変化が見られず、平安時代のものが平仮名の手本とされてきた。 1900(明治33)年、小学校令施行規則が改正され、小学校で教授される仮名の字体が定められた。これにより、一つの音韻に対しては一つの字のみが教えられることとなり、一部の書道教育を除いて、平仮名の異体字を教えられることがなくなった。1908(明治41)年、26字が復活されたものの、1922(大正11)年、最終的に廃止された。 この改正において採用されなかった数多くの平仮名の字体が、以降、変体仮名(異体仮名)と呼ばれるようになった。 |
【神道家の日本語押し付け批判】 | |
戦前の神道思想家として名高い今泉定助氏は、昭和8年暮れから翌9年正月にかけて、陸軍参謀本部の要請で5回にわたって「国体の本義」を連続講演しており、講演の中で日本政府の朝鮮政策を厳しく批判している。次のように述べている。
講演録は「取扱注意」と表書きされたうえで参謀本部から刊行され、陸軍部内に配布されたという(『今泉定助先生研究全集3』)。 |
【漢字制限の流れと抵抗】 |
思想統制に引き続いて持ち上がったのが、国語国字問題であった。この年、国語審議会によって漢字制限、かなづかいの改定が進められた。3月、審議会は漢字制限の中間発表をする。これは国民生活に関係の深い「常用漢字」1112字、生活に関係が薄く読めればいいという「準常用漢字」1320字、皇室典範や帝国憲法などに含まれる「特別漢字」71字の3本建てとする合理化案で、趣旨は漢字が無制限に使用され、社会生活上、少なからず不便なため、整理統制して標準を示したと説明された。 建白書には頭山、今泉のほか葦津正之、西角井正敬、千家尊宣など、当時の代表的な神道人がそろって名前を連ねている。「建白書を起草したのは元朝日記者で後に国学院大学教授となる島田春雄だとされている。 複数の審議会委員が辞任するなどごたごたの末、12月、文部省は「標準漢字表」を決定発表する。そこでは、常用漢字、準常用漢字、特別漢字の区別がなくなり、漢字数も答申案より141字多い2669字となっていた。橋田文相は、「漢字の使用を制限するものではない」と弁明に終始し、字音かなづかいや左横書きは文部省がさらに研究を重ねることとなった。 |
【軍部の占領政策としての日本語押し付け】 |
政府の改革には、日本語を占領地政策の道具に使おうとする軍部の思惑があった。この年、政府は日本語南方進出用「ニッポンゴ」をタガログ、マライ、安南、タイ、ビルマ語で刊行し、フィリピンの公用語は日本語かタガログ語と決定され、ビルマ、ジャワでは英語、オランダ語の使用が禁止された。南方に派遣される日本語教師の養成も始まった。こうした目的のためには、複雑な日本語の整理・合理化が必要であった。しかし、そのもくろみは葦津ら保守派によって阻止された云々。 |
【軍部の占領政策としての日本語押し付け】 |
敗戦により、戦前まで文語体を保っていた官庁の公用文、法令文などが一挙に表現を口語文に変え、これに伴って、口語文に洗練が加わり、日本の”言文一致”運動は現在の文体として確立した。 |
(私論.私見)
日本においては、江戸時代末期頃から漢字廃止を唱える者が現れ始めた。代表的な人物が前島密で、彼は将軍に漢字廃止を提言するなどの、最初期の漢字廃止論者である。
前島は明治2年衆議院に「国文教育之儀ニ付建議」を提出し、これに「国文教育施行ノ方法」、「廃漢字私見書」を添えて教育制度について建議したが、要は漢字を廃して平仮名を国字にしようとするものであった。5年「学制御施行に先ち国字改良相成度卑見内申書」を岩倉右大臣と大木文部卿に提出した。一方で柳川春三は布告書を仮名で発布すべきことを建白した。しかしいずれも受け容れられるところとはならなかった。 明治5年学制施行に際して一部では日本語の文字の複雑、不規則が障害であると見なされ、福澤諭吉は「文字之教」で徐々に漢字を廃止して仮名を用いるべきであると主張し、清水卯三郎は平仮名専用説を唱えた。
明治14年秋、吉原重俊、高崎正風、有島武、西徳三郎その他が仮名の運動をおこし、丸山作楽、近藤真琴、物集高見、大槻文彦その他がこれに加わって15年「かなのとも」、同年夏には肥田浜五郎、丹羽雄九郎、後藤牧太、小西信八、辻敬之その他が「いろはくわい」、また一方では波多野承五郎、本山彦一、渡辺治、高橋義雄、伊藤欽亮その他は「いろはぶんくわい」を結成した。かくして15年頃には3団体が鼎立し、15年5月「かなのとも」から機関雑誌「かなのみちびき」が刊行され、仮名主義の団体を糾合し、7月「かなのくわい」が組織された。会長は有栖川宮熾仁親王を頂き、吉原重俊、肥田浜五郎が副会長、高崎正風、丹羽雄九郎が幹事であった。元来「かなのくわい」は仮名専用説を奉ずるものであるが、仮名遣いに対する考えの相違から、会では雪、月、花の3部を置き、それぞれ別に機関雑誌を出した。こうした事情から団結力に欠けることは否めず、一部の会員はこれを憂いて3部合同を企てた。その目的は一時達することも出来たが長続きはせず、18年7月歴史的仮名遣い派と表音的仮名遣い派とが再び対立し、22、23年頃には会はその存在意義を失っていた。
また明治18年頃、矢野文雄は「日本文体新論」で漢字節減を唱え、「三千字字引」を作成して郵便報知新聞で実行した。
明治32年頃、原敬、三宅雄二郎、巌谷季雄その他が漢字節減に関する具体的な意見を発表した。この中で三宅は7箇条を挙げた。
また帝国教育会国語改良部では漢字節減を期して国音の動詞、形容詞、助動詞、副詞、感嘆詞、後置詞、固有名詞、普通の外国語その他の仮名でわかる言葉には漢字を用いないこと、字画が多くて書くのに手間取り覚えにくい漢字を用いないこと、字画が少なくても間違いやすい漢字を用いないこと、仮名で書くよりも便利な漢字を用いること、略字のあるものは全て略字を用いることというような方針を立てて漢字節減運動をおこした。これらの運動はあまり反響がなかった。
しかし、本格的に廃止が唱えられ始めたのは明治に入ってからであり、特に明治前期は盛んに言語改革論議が行われた。そのうちの一つが音標文字論であり、音標文字論には、ローマ字派(欧米式、日本式)、かな派(ひらがな派、カタカナ派)、独自の文字(新国字)に依ろうとするものなどの意見が存在した。
明治33年8月小学校令施行規則では、尋常小学校で授けるべき漢字は1200字以内と制限し、37年、国定の「小学国語読本」が発行されると尋常科用8冊に501字、高等科用4冊に355字、合わせて857字の漢字を授けるとした。
国語調査委員会が廃止されると同時に、教育調査会が設けられた。教育調査会は教育制度改善に関する調査を進めるうちに修学年限短縮には、複雑不規則な国語、国文、国字の整理が必要であることが明らかにされた。大正3年教育調査会委員の九鬼隆一、成瀬仁蔵、高田早苗から、国語、国字の整理に関する建議案が調査会に提出されたが、漢字に関しては、古典および趣味用として保存しようというものであった。これは可決された。文部省は大正5年から再び国語調査事務に着手し、大正8年12月その成果の一つとして「漢字整理案」を刊行した。これは当時の尋常小学校各種教科書に出る漢字2600余字について、字画の簡易、結体の整斉、小異の合同その他を記したものである。
次いで臨時国語調査会は漢字の調査に着手し、大正12年5月、常用漢字の最小限度として1962字の標準漢字表、いわゆる常用漢字表を発表し、同時に略字154字をも併せて表示した。常用漢字表は昭和5年、一部改訂をみて1851字となった。臨時国語調査会が漢字に対して取った態度は、大正12年の常用漢字表の凡例に示されている。
この発表により社会は大きな衝撃を受け、同年7月、新聞社、雑誌出版業関係者、印刷活字方面関係者の各代表は、漢字制限促進のために漢字整理期成会を結成し、常用漢字表にもとづいて漢字制限運動に取り組んだ。東京、大阪の新聞社は、8月、期成会の申し合わせに基づいて漢字制限実行に着手する旨を宣言したが、関東大震災で頓挫した。しかしその後有力新聞社は漢字制限実行を決し、大正14年6月、当代新聞紙の使用漢字約6000字を約3分の1に限定し、秋から断行す旨を宣言した。用字の方針は臨時国語調査会のそれと概ね同じで、文字は、常用漢字表から31字取り除き、新たに179字を加えたものであった。
国語改革による漢字廃止政策。
1946年4月、志賀直哉は雑誌『改造』に「国語問題」を発表し、その中で「日本語を廃止して、世界中で一番美しい言語であるフランス語を採用せよ」と提案した。また、11月12日、讀賣報知(今の読売新聞)は「漢字を廃止せよ」との社説を出した。
同じ年の3月、連合国軍最高司令官総司令部によって招かれた第一次アメリカ教育使節団が3月31日に第一次アメリカ教育使節団報告書を提出、学校教育の漢字の弊害とローマ字の便を指摘し、連合国軍の占領政策となったため、漢字全廃の決定とそれまでの当面使用する簡略された漢字当用漢字と現代かなづかい、教育漢字が制定された。その後当用漢字は常用漢字となるにいたった。
1884年に羅馬字会が結成された。しかし、ローマ字の方式が欧米式か日本式かで意見が分かれて纏まらず、結局1892年に解散となった。その後も同様の組織がいくつも作られ、現在は財団法人日本ローマ字会が組織されており、梅棹忠夫が会長を務めている。尚、現在のローマ字方式は、日本国内規格、国際規格、英米規格、外務省ヘボン式ローマ字、道路標識ヘボン式ローマ字がある。
戦後はカナモジカイ理事長の松坂忠則が主導的役割を果たした。彼は子供の頃の漢字の読み書きに苦労した経験から漢字廃止運動に参加した。
既存の文字ではなく新しい文字を使おうとする立場。明治以後だけでもさまざまな文字が考案された。
現在の日本の社会状況から考えると、音標文字化が実現する可能性は極めて低い。
最近の漢字廃止論は、主に障害学、識字研究に基づいて行われており、議論は初期のものとは全く異なった枠組みに移行している。主な論者に、あべ・やすし、ましこ・ひでのり らがある
国語国字問題を参照
中華民国は注音字母を作り、中華人民共和国はピン音羅馬字(ピンインローマツー)というアルファベットを用いる方式を作るなど、漢字廃止の動きはあったが、現在は目立った動きは無い。
韓国における漢字を参照
北朝鮮では、漢字は法律上廃止されており、朝鮮語用の文字であるチョソングル(同文字の韓国での呼び方は「ハングル」)だけが用いられている。「金正日」「平壌」などの漢字表記も、あくまで外国語表記としてのみの扱いで存在する。
かつてレーニンは、『ローマ字の採用は東洋民族の一革命であり、民主主義革命の一構成分子である』と述べているが、ローマ字に酷似するチョソングルの国語完全採用によって、この「革命」に乗ったとも言える。
漢字保存の立場である。注音符号の使用は補助的なものに留まる。
フランスの植民地になって科挙が廃止されて以降、漢字(およびチュノム)も廃止され、ローマ字表記(クオック・グー)が採用された。ただし消滅したわけではなく、文学や学術の分野においては残されており、ヨーロッパにおけるラテン語と同じような立場にある。