戦後新仮名政策考 |
(最新見直し2006.5.22日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
言葉は歴史的生きものであり文化財である。日本語も然りである。その伝統を守りつつ現代性を取り入れ、使用に便利で且つ美しい国語を実現していくためにはどうすればいいのだろうか。これがテーマである。斎藤吉久「東条内閣の国語政策に抵抗した神道人」、井上ひさし氏の小説「東京セブンローズ」その他を参照する。 |
【1945年、終戦直後のGHQ国語改革による日本語のローマ字化の危機】 |
GHQの方針もあって国語制度の改革が行われた。明治以来のローマ字化論者が呼応した。これにより歴史的仮名の制限と仮名遣いが改変されることになった。 興味深いことは、国語改革は、戦前の東条内閣以来の課題であり、かの時にも「漢字数が多く、複雑であるため、教育上または社会生活上、不便であり、漢字制限は国民の生活能力や物価水準を向上させる」との立場から当用漢字実施が望まれていたことである。現代かなづかい案作成にあたった主査委員長の安藤正次は、昭和17年の字音かなづかい整理の際、「20年来の懸案」という論考を朝日新聞に寄稿したほどの改革推進派であった。国語学者たちは東条内閣の力をもってしても果たせなかった悲願を、GHQの強権を借りて実現し始めたことになる。 敗戦後、GHQ民間情報教育局(CIE)の言語課(担当官のロバート・キング・ホール少佐)は、日本語のローマ字化を構想した。これを「GHQのローマ字化計画」と云う。 ホールは、1945.6月、カリフォルニア州モントレーの民政集合基地の日本占領教育計画主任であった時既に、漢字廃止、カタカナ統一の計画を陸軍省民事部長に送付している。「軍国主義、国家神道、超国家主義対策」でもあった。陸軍省は最終的にホール案を却下した。 終戦後、来日したホールは日本国内の言語改革、すなわちローマ字による改革の動きが盛んなことを知り、今度はローマ字化を提唱し始める。1945.11月、ホールは、文部省の有光次郎教科書局長らと教科書のローマ字化について討議し、口頭でローマ字化を指令する。しかし、これはCIE内部で統一された考えではなかった。12月、マッカーサーによる組織の再編成でホールは計画課に左遷され、教科書のローマ字化はいったん終止符を打たれた。 1945.11.12日、読売新聞は、社説で「漢字廃止論」を書いている。レーニンを引用し、「トルコの父」ケマル・パシャの例を挙げて、漢字廃止は民主主義運動の一翼だと主張している。 |
【1946年、当用漢字、現代仮名遣い制定経緯考】 |
1946.3月、ローマ字化に執着するホールは、来日するアメリカ教育使節団にローマ字化を勧告させようとひそかに準備する。ホールは、使節団の来日直前に、「暫定的研究・言語改革の研究」と題する44ページの部内研究をとりまとめた。そこでは、日本の民主化のためにはローマ字の採用が必要であることが強調されていた。これに対して、ニューゼントCIE局長代理は、結論は使節団にゆだねるよう指示する覚書を出す。 使節団の言語特別委員会は報告書の起草にあたって、言語改革を取り上げ、最終的に「使節団は小学校にローマ字を導入し、教科書を二つの言語で作成することを勧告する」という草案をまとめる。ところが、これらは3月末の最終報告書ですべて削除され、柔軟な勧告に変更された。 なぜ使節団報告書の「言語の改革」が緩和されたのか。国務省代表で使節団顧問のボールズの意向が働いたとみられている。ボールズは、ローマ字化に基本的に反対で、「言語改革は日本側に任せるべきであって、外部から強制するものではない」と考えていた。教科書の横書きやローマ字化には賛成しかねるとした日本側教育委員会や、漢字制限、国字改善などを南原繁総長に答申した東京帝国大学教育制度研究委員会の意向も尊重されたとも考えられている。 4.7日、教育使節団報告書の公表にあたって、マッカーサーは、「教育原理および言語改革に関する勧告の中にはあまりにも遠大であって、長期間の研究と今後の教育に対する指針として役立ち得るに過ぎないものもあろう」という声明文を発表している(土持「米国教育使節団の研究」)。 4.16日、毎日新聞は、「国語の改革」という社説で、伝統に執着していては文化国家の進歩も向上もないとして、ローマ字化への道を唱えている。 最終的に「ローマ字採用を要求しつつも、国語の変更は国民の中からわき出てくるべきものだ」とし、学識経験者らによる国語委員会の設置に委ねることになった。結局、ローマ字化は推進されなかったものの、1946.11月、漢字全廃の決定を前提としてそれまでの当面使用する簡略された漢字として「当用漢字表(1850字)」、同音訓表、同字体表、教育漢字と「現代かなづかい」が内閣訓令・告示として公布された。これを新仮名表記と云う。その後、当用漢字は常用漢字となる。当用漢字は「一般社会で使用する漢字の範囲」を定め、大幅に制限された。「現代かなづかい」により次のように代わった。「思ふ」→「思う」。「でせう」→「でしょう」。 歴史的仮名遣いは、明治時代の大騒ぎを経て社会的に採用され、「正仮名」とも云われるようになっていた。が、表音的にするのがよいということで「現代かなづかい」に変わった。仮名は、中国漢字を取り入れて、日本人が苦心惨憺して消化してきた歴史がある。 4月、志賀直哉は、雑誌・改造に「国語問題」を発表し、その中で「日本語を廃止して、世界中で一番美しい言語であるフランス語を採用せよ」と提案した。11.12日、讀賣報知(今の読売新聞)は、「漢字を廃止せよ」との社説を出した。 |
【現代仮名遣い考】 |
【日本語の横書き経緯】 | |
日本語の左横書きをリードしたのは新聞であった。日本語には本来、横書きはない。既に昭和17年の国語審議会が左書きを答申したが実現されなかった。戦後、アメリカ教育使節団の報告書を受けて、吉田内閣は当用漢字と現代かなづかいを公布しているが、左書きについては触れていない。
文部省の対応は遅れた。省内刊行物の基準を示した昭和25年発行「表記の基準」の「付録」に、「横書きの場合は、左横書きとする」と記されてあるだけらしい。 |
【その後の国語改革史】 |
昭和二十一年から新しい表記をめぐって表音派と表意派の間で大論争が起こり、特に昭和三十六年第五期国語審議会においては表意派の船橋聖一、塩田良平、宇野精一らが国語審議会を脱会している。 昭和三十六年、第六期委員に吉田富三が就任し、第七期の総会において「国語は漢字かな交り文を以てその表記の正則とする」1という提案を行った。この提案は採択されなかったが審議会の議事録を読むとなまなましい論戦が記録されている。 第八期国語蕃議会の第一回総会の席上(吉田富三は退任していたが)中村梅吉文部大臣は「今後の審議に当っては当然のことながら国語の表記は漢字かな交り文によることを前提とし」と述べ、吉田提案は事実上認められた形となった。 昭和五十四年に常用漢字が制定されたが、これは「国語を書き表わすための漢字の目安」となっており、昭和四十八年の「改訂音訓表」、昭和四十七年の「改訂送仮名のっけ方」と共に当初の審議会の方針が是正されている。吉田富三は癌の研究者で昭和十一年、二十八年の二度にわたり学士院恩賜賞を受賞しているが、吉田肉瞳の発見よりも国語審議会の活動の方が高く評価さるべきではなかろうか。 1981(昭和56)年、「常用漢字」。漢字使用の目安で、現在1945字が定められている。これは、昭和21年に定められた「当用漢字」への批判が高まる中で決められた。当用漢字が、使用できる漢字の数を1850字のみに制限したことにより不便が発生し、常用漢字は使用できる漢字を大幅に増やした。しかし、まだまだ県名に使われている漢字も入っていない。 |
【ワープロと国語問題】 |
ワープロ研究が進められたことにより日本標準規格が必要となった。1978年、日本標準規格が定められ、1983年、これが改訂された。これを旧JIS、新JISという。これにより定められた漢字は第一水準2965字、第二水準3888字である。ちなみに教育用漢字は始め881字、後966字、当用漢字は1850字、人名用漢字は初め85字、後284字、常用漢字は1945字である。また制定前に通称第三水準と言われたものが補助漢字として5801字が1990年、制定された。 1979(昭和54)年、東芝で作られた。価格は630万円であった。吉田富三の夢であった「日本語タイプライター」すなわちワープロが普及して、「日本語の表記は漢字仮名交じり文である」ことを自明のこととして実現するに至った。 日本の国語政策に対しては文部省よりも通産省の方が影響力が大きくなった。ローマ字にしてもヘボン式、日本式の他に「ン」をnnと記すワープロ式ローマ字が出現した。 |
平成20年1月28日、文化審議会国語部会は、大阪の「阪」、熊本の「熊」、鹿児島の「鹿」、山梨の「梨」、奈良の「奈」、栃木の「栃」、愛媛の「媛」などを新たに「常用漢字」に加える案を了承した。
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(私論.私見)