れんだいこの日本語論、日本文の白眉考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.7.13日

Re:れんだいこのカンテラ時評その31 れんだいこ 2005/03/24
 【日本語論、日本文の白眉考その1、素晴しきかな日本語論】

 私は何時の頃からか日本語の素晴らしさに気づき始めた。今後世界交流が深まり、英語がますます世界公用語として使われるようになったとしても、この素晴らしい日本語は独立自存して保持していかねばならないと考えるようになった。その日本語の乱れが酷く、それも知識人と称する側からの一風変わった芸風による使われ方が目についており、これを掣肘せねばならないと考えるようになった。

 具体的には、句読点「、」の代わりにコンマ「,」、終わり点「。」の代わりにピリオッド「.」使用や、外括弧の「」と内括弧の『』を逆に使うことを指しているのだが胸糞が悪くなる。連中は何を気取っているのだろう。こういう風に差し替えて良い場合は、そのことにメリットがある場合だけである。句読点の代わりにコンマ、終わり点の代わりにピリオッドを使って何の進歩があるだろう。外括弧と内括弧を逆に使って何の意味があろう。それは畢竟、日本語の良さを敢えて貶(けな)そうとする俗悪趣味以外には理解できない。私的な文書ならともかく公文書までこの種の汚染が認められるが放っておけない。最近の裁判判決書でこの手の文章が目につく。変換時の便宜によるものと思われるが、痩せても枯れても日本国の国体護持を至念とすべき司法の場に於ける云い訳を通用させて良いものだろうか。それが偶然なら良いのだけれど、単なる西洋事大主義の為せる業だとしたら滑稽なことではなかろうか。今日び流行り病のネオシオニズムの影響だとしたら滑稽では済まされず応戦せざるを得まい。

 私が日本語の素晴らしさにどこで気づいたか。はっきり形をとって現われたのは、漏れ伝わる「毛沢東ー田中角栄超秘密会談」時の毛沢東発言によってである。これについては、【毛沢東―角栄会談秘話】と田中角栄の悲劇性に記した。ピックアップすると、毛沢東は次のように述べている。
 「いろは、アイウエオ、平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です。今、私は日本語の勉強をしています。日本に留学したいと思っているのですよ」。
 
 
和気藹々のうちの幾分冗談も込められている中での発言であるが、毛沢東は、「いろは、アイウエオ、平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です」という認識を示している。その時は何気なく聞き流してしまったが、後にさすがに毛沢東は慧眼であることよ、毛沢東は半マジでかく語ったのではなかろうか、と気づかされようになった。

 
中国語と比較した場合、どうだろうか。私は中国語は知らないのだけれども、中国語が全文漢字であることは誰でも気づく。中国語の全文漢字構成文よりも、日本語式の漢字とひらがなの併用、漢字を受けてのひらがな接続、適宜カタカナ利用、漢字読みルビ使用の方が文章を読みやすくしており且つ見た目にも文章全体を柔らかくさせているという利点があるのではなかろうか、何より文章作成上「開かれた構造」になっており便利なのではなかろうかと思っている。

 恐らく、どこの国語も、外来語の取扱いに難渋しているのではなかろうか。日本語ではそれがいとも容易くカタカナ表記で済ませられる。あるいは感嘆句のような異種語もひらがな、カタカナ取り混ぜてそれらしく表記できる。これは日本語の素晴らしい特性ではなかろうか。他の国の言語はいかように解決しているのだろうか。アルファベット文字、全文漢字文字の場合にはできないことだろう。ギャァ―ギャァ―、ワンワンなどの擬音語、電子レンジでチンするなどの擬態語然りで、日本語なら容易であるが他の言語では難しかろう。擬音語、擬態語も日本語の秀逸さであることがもっと知られるべきであろう。

 日本語は大きく見れば漢字文化圏の言語である。しかし、恐らくそれ以前に確立されていた日本語文法を崩さず、むしろ日本語を基調にして和語と漢字の独特の組み合わせで使い分けしている。かくて、日本語は漢字圏ではあるが新文字スタイルを発明して孤高の地位を占めていることになる。ここが素晴しい。誰がこれを為したのか、どのくらいの期間をかけて獲得されたものであるのだろうか。世に真に価値あるものの例に似て、その功績者は今日び流行り病の著作権なぞ云々しないから余計に分からない。 

 補足しておけば、和製漢字というのも随分あるようである。漢字の元々の象形文字としての語意を踏まえて新たに造文字している。あるいは又造語もある。日本で造語された言葉が中国に輸入されている例もある。これを思えば、今後もより的確な表現を求めて相互に練り合いするべきではなかろうか。

 話を戻す。実に、このような構造を持つ日本語は世界に類い稀な言語となっており、西洋文字、漢字だけ文字、ハングル文字よりも優れた面を持ち過ぎているのではなかろうか。ハングル文字に対して一言すれば、私は知らないのだけれども、あれは記号ではあっても果たして文字だろうかという気がする。ハングルならでは表現できる緻密さも認められるようであるが、生活言語的には如何なものだろうか。それと表音文字のところが気に入らない。表音文字ならアルファベット文字でまにあうのではなかろうか。余計なことかも知れないが一言しておく。

 あれこれ考えをめぐらすと、今後公用語として英語、中国語が普及する時代がやってこようとも、日本語は独立自存して発展せしめられていくべきだ、意識的に取り組めば日本語は世界の公用語になり得る資格がある、今後は母国語と英語と日本語の三本建て時代となるだろう、というのが私の予見となる。

 何故なら、良いものは政策的に根絶やしにされない限り伝え伝わっていくものだから。 日本語は覚えるのに苦労があるとはいえ、一定の作法さえマスターすればそれほど難しいとは思えない。むしろ、アからンで終わる51文字こそ人類最大の発明であり、人類は等しくその恩恵に与るべきではなかろうか。現に日本語を器用に操る外国人が次第に増えてきている。一度彼らに聞いてみたいが、日本語は守るに値する言語であろうか、面倒くさいだけの言語なのだろうか。

 日本人の識字率が高いことはつとに指摘されているが、実に日本語が言語的に優れている故に、ひとたび習熟すればとても使い易いお陰に負っているのではなかろうか。つまり、日本人の識字率の高さの要因に日本語があるという訳である。ということは即ち「日本人の識字率の高さ」は今に始まった訳ではなく、日本語発生の古代史時点より徐々に獲得されたものと窺う必要があろう。この観点から日本語論がなされることはないが、れんだいこの秀逸な指摘であろう。

 2005.3.24日、2008.10.11再編集 れんだいこ拝

【日本語論、日本文の白眉考その2、漢字導入に当たっての日本語革命論】
 「日本語論、日本文の白眉考その1」で書ききれなかった事を補足しておく。日本語の漢字咀嚼能力に格別に留意してみたい。これに関する文献を知らないので、私なりにスケッチすることしかできないが、以下のようなことになる。より詳しくは「文字獲得史考」で述べる。これを簡略に説明すると、日本語の中国漢字取り入れは人類史に誇る偉大なる言語の咀嚼革命であったとみなす観点が欲しい。それを可能にしたのは中国漢字取り入れ前に於ける日本語の48音の発明であろう。これある故に中国漢字取り入れができたと云う意味では、日本語の48音の発明こそがまずは筆頭で称賛されるべきであろう。俗説として、漢字取り入れまで日本には文字がなかったと云う説があるが、はっきりと申し上げておく、それは誤解である。それ以前の日本語(文字)を確認するには、いわゆる古史古伝のホツマ伝え文字を見れば良い。他にもあるがホツマ伝え文字を代表させることにする。これについては「文字獲得史考」で考察しているので略す。これを仮に上古代日本語と命名する。

 この上古代日本語ありせばこそ中国漢字取り入れができたと云う史観が欲しい。次に、中国漢字取り入れがどのように行われ、どのように咀嚼されて行ったのかがポイントになる。これを確認するに、いわゆる万葉仮名と呼ばれる漢字の音訳比定による漢字利用こそが始まりのように思われる。この時、見のがしてならないのは、漢字を中国語で摂取したのではなく、漢字を日本語の中に取り込んだと云うことである。この時の日本語を仮に「原和語」と命名する。即ち、形態的には漢字連文なのであるが中国語としてではなく、音読日本語式に「原和語」日本文として取り入れたと云うことである。ここに、かの時の知恵に戦慄を覚える。あたかも、日本語としての言語を失うことは許されないとする日本国体論がたちはだかっていたかの如くである。

 そのようにして取り込んだ音訳比定による漢字利用はその後次第に、単に酷似音訳によるのではなく音訳を前提にしつつも漢字の語源、語意と日本語の語源、語意を照らし合わせたうえで、より的確な漢字選択へと向かうことになった。これが一朝一夕にできる訳ではないが、日本語式漢字連文としての万葉仮名はそのように練磨されていくことになった。そういう意味で、古事記と日本書紀の漢字の宛て方の違いがもっと注目され研究されても良かろう。

 次に、万葉仮名では表記できにくい日本語部分を表現する為にカタカナが生まれ、ひらがなが生まれた。これも、一朝一夕にできた訳ではなかろう。ちなみにカタカナ、ひらがなの発祥を漢字の崩し文字として捉える見方があるが承服し難い。仮に一部はそうだとしても、それは漢字の崩し文字の導入が合理的な場合に限りそうであり、その他の大部は上古代日本語文字の崩し文字であった可能性が強い。これらは実証的に検証されるべきであろう。こうして、カタカナ、ひらがなが完成した頃に、漢字仮名交じり文と云う新たな日本文が生まれた。これも偉大なる文字革命であった。

 次の大きな革命が、文語と口語の一致化であろう。長い間、文語と口語はそれぞれに発達してきたが、明治時代になって西欧言語の言文一致に触発されてと思われるが、口語体文章へと一本化されることになった。

 従来の縦書きに加えて横書きも併用されることになった。これにつき興味深いことは、1860年に幕末の土佐藩下の領民・ジョン万次郎が著した英会話教本「英米対話捷径」の縦書き日本文に合わせた縦書き英文である。幕末時点までは日本語は原則的に縦書き表記であったことが分かる。日本語の横書きが現れるのはそれ以降の幕末から明治にかけてである。その事例として、1867(慶応3)年に出版された、ヘボン式ローマ字で知られる米国人宣教師にして医師のヘボン、協力者として岸田吟香らが著した和英辞典「和英語林集成」の横書き英語に合わせた横書き日本語がある。その後、日本語の横書きが一気に広まり今日に至っているが、日本語のしなやかな咀嚼能力を見て取るべきではなかろうか。これは、日本語は縦書きでも横書きでもできるが、英語などアルファベット系言語が縦書きできないことを考え合わすと一段と光を増すであろう。(金原瑞人「日本語世界広げた横書き」参照)

 この頃、採用漢字の制限、漢字の略字化、西欧語の漢字翻訳等々で日本語の更なる進化が進んでいる。

 戦後、日本語喪失の危機を迎えた。英語の国語化、ローマ字化が真剣に検討されたが、結果的に採用せず、歴史的日本語を採用し続けていくことになった。但し、当用漢字、常用漢字が制定され、公用漢字が大きく制限されることになり今日に至っている。但し、当用漢字、常用漢字から抜け落ちた必須漢字の拾い出しも行われつつある。そろそろもう少し制限を緩め、実際に使われている漢字を全て採り入れた当用漢字、常用漢字を制定し直すべきではなかろうか。ざっとこんな感じに認識できるだろうか。

 2012.7.27日 れんだいこ拝

【日本語の世界各国語との比較考】
 日本語の秀逸さを確認する前に、日本がベースにしている漢字とアルファベット文字との優劣を見ておく。れんだいこは言語学者ではないので子細には紐解けないが、漢字とアルファベット文字は起源の差に関係しているのではなかろうか。漢字はそもそも事象の象形文字として生れた。このことは、漢字が表意文字であることを意味する。これに対して、アルファベット文字はそもそも記号的な図形文字なのではなかろうか。このことは、アルファベット文字が表音文字であることを意味する。念の為注釈しておくと、漢字が表意文字であることは表音文字性を排除するものではない。同様にアルファベット文字が表音文字であることは表意文字性を排除するものではない。主としてどちらに力点が置かれているのかと云う差として理解されるべきである。

 興味深いことは、漢字は、表意文字であることにより事象の数だけ文字が生まれる性質を持つことである。これにより漢字は少なくとも五千以上の文字を生み出している。あるいは一万字以上かも知れない。その一字漢字と組合せ漢字(熟語)により森羅万象表現する。これに対して、アルファベット文字はAからZまでの26文字を母字として、その組み合わせで言語化させている。ちなみに、アルファベットという語は、ギリシア文字の最初の2文字α, βの読み方である「アルファ」(ἄλφα)、「ベータ」(βήτα) に由来するとのことである。これによれば、漢字は単もしくは複合による組合せ文字、アルファベット文字はほぼ全般に組合せ文字と云うことになる。

 この漢字手法とアルファベット文字手法は文字としてどちらが優秀なのだろうか。一般に云われるのは、新聞見出しの訴求力は漢字の方が優れている。一眼で記事内容が分かると云う利点がある。しかしアルファベット文字にはその欠点を埋め合わせる組み合わせ言語の妙がある。文法も洗練されている。つまり、どちらにも優劣があると見なすべきであろう。要するに短所と長所が一体化しており、漢字手法の長所からみればアルファベット文字手法の欠陥が見え、逆は逆であると云う風に認めるべきではなかろうか。歴史は現に漢字文化圏、アルファベット文字文化圏を形成して来ている訳であるから、どちらかに統一する必要はなく使い分けの道を探るべきではなかろうか。これを、漢字対アルファベット文字比較の結論とする。


 さて、日本語は漢字文化圏に属する。その日本語と漢字を生み出した本国である中国の漢字とを比べて見ると、日本語が漢字+ひらがな+カタカナ+数字の複合から成っており、中国語は漢字オンリーで通していると云う差が認められる。この優劣を問うべきであろうか。生活語として使うのであれば、その必要はない。これを国際語的に使うのであればと云う条件で、れんだいこは然りと答える。決定的な差は、日本語ならば外国語の識別、擬態語、擬声語が容易にできると云う利点がある。国際交流が不可避的に盛んになる今日、母国語と外国語を識別できる日本語の良さは格別秀でているように思える。

 中国語は現在、略字を生み、煩わしい多画数文字から解放されている。しかしながら、その略字が略し過ぎて原義を反映しない単に記号化しているきらいがあるように思われる。それは漢字言語の長所の自殺行為ではなかろうか。他方、台湾では旧字を使用している。旅先での文字パネルで中国字と台湾字が併記してあるのを見て感慨ひとおであった。それはそれとして、今後の方向として、日本語の中に中国略字が入って来そうな雰囲気である。しかしそれも、過去の日本人がしたように、成るほどと思われるような勝れた略字に於いてはと云うことになる。これを逆に云うと、中国字が日本漢字を取り入れることも可であろう。そうやって日中台の言語交流が進むのではなかろうか。そういう予感がする。


 2013.1.18日 れんだいこ拝

【日本語の多義性と含意的豊かさ考】
 毎日新聞の2013.1.22日付け余録「余録:日本語で「みる」といっても…」が次のように述べている。「日本語で「みる」といってもいろいろある。「見る」「観る」「視る」「看る」「診る」。それをひらがなを使って表現すると、「みる」という言葉の本源にさかのぼることができるのではないか。ミルという音に戻って、時の流れにつれて変わっていくのではない、この言葉が本来的に持っている力を味わえるのではないか」。

 これについて思うことを記す。執筆者は、日本語のひらがなで「みる」と記した場合、「見る」、「観る」、「視る」、「看る」、「診る」のどれか分からないが、「それをひらがなを使って表現すると、『みる』という言葉の本源にさかのぼることができるのではないか。ミルという音に戻って、時の流れにつれて変わっていくのではない、この言葉が本来的に持っている力を味わえるのではないか」と述べている。この指摘は重要な気がする。考えようによれば、「みる」の原義には「見る」、「観る」、「視る」、「看る」、「診る」の全てが包含されているのではなかろうかと示唆していることになる。これは何も「みる」だけではない。「きく」にせよ「聞く」、「聴く」、「訊く」の三種あり、更に「利く」、「効く」とも書く。「聞く」、「聴く」、「訊く」、「利く」、「効く」には何がしか共通の原義があるのではなかろうか。この場合、「みる」を「見る」、「観る」、「視る」、「看る」、「診る」と記した方が適切な場合もあれば、単に「みる」の方が味わい深いこともある。「きく」も然りである。

 これを仮に多義言語と命名すると、日本語には特有の多義言語がある。これは漢字でも英語でも表現しにくい。故に日本語のひらがなで記した方が良い。その例を挙げると、「もの」、「こと」、「ほど」、「とき」等がそうである。これを漢字で「物、者」、「事」、「程」、「時」と記すと何やら意味が狭くなる。要するに、日本語の「もの」、「こと」、「ほど」、「とき」を代替させる漢字はないと心得、日本語独特の表現として、そのまま「もの」、「こと」、「ほど」、「とき」と記すべきではなかろうか。日本語にはこういう多義言語があり、それは短所でもあるが短所を埋めてなおお釣りがくる長所であると知るべきだろう。これは古代日本語即ちこれを仮に「和語」と命名すると、多義的なままに記す方がて適宜な場合には和語を、意味を明確に識別した方が適宜な場合には漢字をと云う具合に使い分けするのが良いと思われる。実際には漢字の乱用が目立つ。「abさんご」で芥川賞受賞が決まった黒田夏子氏のひらがな表現はこの辺りの機微を踏まえているところに意義が認められる。
 

 2013.1.18日 れんだいこ拝

【日本語論、日本文の白眉考その3、日本語の構文的特徴の与える影響について】
 日本語の構文は、「主語+内容+述語」という書き付け法になっている。これを仮に「後述語構文」と命名する。これに比して、アルファベット文字語の構文は、「主語+述語+内容」という書き付け法になっている。これを仮に「先述語構文」とする。同じ漢字圏でも、中国語は、アルファベット文字語の構文と同じと云う。ハングル文字については知らない。

 俗に云われていることだが、日本語のこの構文的特徴が日本人に感化しており、「イエス、ノーをはっきりしない」元始まりがここにあるとのことである。つまり、日本語の構造そのものが何となく日本人の奥ゆかしさと同時に万事に曖昧さを作っているという説がある。れんだいこは、あるいはそうかも知れぬと思う。しかし、これは、日本語の構文の宿命だからして今更どうにもならない。「捨てる神あらば拾う神あり」で、それはそれで欠点もあれば良い面もある。かく受け止めるべきではなかろうか。アルファベット文字語式「先述語構文」の構文的特徴が良いとばかりは云えない。それも又「捨てる神あらば拾う神あり」で、長所と短所が混ざり合っていると思っている。

 もう一つ。日本語のもう一つの曖昧性にも触れておかねばならない。日本語の曖昧さは、「後述語構文」のせいだけではなく、日本語全体が単数複数の識別をしない、主体表現の夥しい使い分け、敬語の使い分け、修飾句の掛かりの不分明、間を取る用語の多さ等々様々な理由により、解釈の多義多様性を生む独特の構造が起因しているのではなかろうか。こういう事情により、語り手、書き手がよほど留意しないと文意が曖昧になり、論旨がはっきりしなくなる恐れがある。この問題は宿命的なものなので別途考察せねばならない。

 付言しておけば、日本語の「後述語構文」は、これ故に逆に日本語を締まりのあるものにしていると云う逆説も成り立つ。つまり、「主語+内容+述語」故に、「述語」前の「内容」の部分を極力簡明なものにしておかねばならないと云う緊張関係が伴っており、これによる自律的な縛りが予定されているとも思える。日本語の和歌、短歌、俳句、川柳、その他この類の物の発達は、ここに発祥の秘密があるのではなかろうか。このことがもっと注目されても良いと思われる。

 これに従えば、「主語+内容」の長たらしいのは日本語的には悪文と云うことになろう。これをなぜ指摘するかと云うと、アルファベット文字語の場合、「主語+述語+内容」故に、「述語」後の「内容」部分が異常に長い文章に出会うことが多い。付け足し自在と好評価できようが逆に悪文の恐れも多い。つまり、「後述語構文」、「先述語構文」は良し悪しとか優劣の問題ではなく互いに長所短所が逆になっているだけと認めるべきではなかろうか。

 もとへ。れんだいこは、日本語的「後述語構文」とアルファベット語的「先述語構文」の両者はどちらかに統一されべきではなく、「先述語構文」、「後述語構文」それぞれの構文の最良の言語が世界共用語になるべきだと思っている。アルファベット語的「先述語構文」の中では英語が対象を適確に表現するのに最も便利だと云われており、事実そうであるとするならば、人は皆なこれを習熟して世界共通の第一公用語とみなして使いあうべきだろう。

 他方、日本語も、対象を適確に表現するのに英語に決して引けをとらない。対象を表現するのに漢字という造り文字を当てているので、文字に出会った瞬間に趣意を理解することができるという利点がある。更に、ひらがなで前後左右をまぶしているので、見た目で中国語よりも柔らかくなっている。他にも適宜にカタカナが使われたり、ルビが付されるので、痒いところまで手が届いている。微妙な表現をするのにより適しているのではなかろうかと思っている。

 更に、ローマ字対応も素晴らしい。ローマ字とカタカナ文字を組み合わせることで、外来語の日本語的処理に成功している。あるいは外来語スペルをそのまま使うこともできる。外来語の処理をかくも見事に為し得ているのは日本語の大きな魅力だろう。そうであるならば、日本語は、「後述語構文」の世界言語として活用されていくべきではなかろうか。そういう訳で、人は皆な日本語を見直し、これに習熟して、世界共通の第二公用語とみなして使いあうべきだろう。

 日本語には、漢字だけを使う中国語もそうだが、アルファベット語が絶対まねできない横書き縦書き両方可という特性もある。最近は概ね横書き化しつつあるが、縦書きもできることは長所であろう。これも言い添えておきたい。

 2005.5.10日、2007.5.1日再編集 れんだいこ拝

【日本語論、日本文の白眉考その4、日本語を第二世界共用語に進化させよう】
 こういうことから、れんだいこは、英語と日本語が世界共用語になるべきだと主張したい。違和感を覚える向きの方に説明しておく。日本語が世界共用語になったとして、それは日本のナショナリズムの押し付けとなる訳ではない。単に優れているものが普及するに過ぎない。例えば、囲碁の場合がそうだろう。囲碁の発祥は不明(インド-中国経由とされている)であるが、少なくとも近世以降に於いては日本が指導的地位に就いていた。その囲碁が今や世界に普及しつつある。柔道、剣道、茶道、華道その他然りである。世界中で愛好されるようになるや、いつの間にか本家のお家芸が奪われつつある。偏えに優れているものが受け入れられ、歴史に育まれ、指導的地位は有為転変することを証左している。だから、日本語が世界共用語になるべきだと主張したとしても、偏狭ナショナリズムを押し付けようとしている訳ではない。それを思えば、本来日本語は世界共用語として育まれていくべきなのに、近頃の日本政府の政策が日本語を廃止して代わりに英語教育を推し進めようとしている気配があることに対して、それは間違いと云いたい。

 一つの興味深い事例がある。かって、日本帝国主義のアジア各地への侵略史に於いて、日本政府は現地での日本語教育を推し進めたが、日本帝国主義の敗北と共に現地住民が日本語を捨てたのかどうか。これは調査に値すると思っている。朝鮮、台湾、フィリピンの事例で確かめれば良かろう。聞くところによると、しぶとく日本語を育んでいるのことである。これは、理屈抜きに日本語が言語として優れているからではなかろうか。そういう意味で、れんだいこは、世界各地での日本語の土着化の流れを検証したいと思う。穀物も然りである。「寿司」の例もある。あれは日本発明品であろうが、今や世界各地で愛食されている。「カップヌードル」も然り。且つ、当地ならではのメニューが増え、それが日本の寿司料理に反映されつつある昨今である。それで良いのではなかろうか。日本語もそのように発展していくべきではなかろうか。

 もう一つの例を書き添えておく。れんだいこは、既に数冊主としてマルクス主義関係の著作であるが日本語に翻訳している。会話さえできないれんだいこになぜこれができるのか。それは、日本語に対して習熟しているからである。まず母国語をしっかり学ぶことが外国語を真に理解できる道だと思っている。最近、母国語をおろそかにしていきなり外国語教育を始めているが、そういう手法では会話能力程度しか進まないのではなかろうか。その会話も母国語で為す以上にはできない。それでは空疎であると思っている。

 幕末明治の人が何故に急速に洋学を吸収し得たのか。それは平素より和文を嗜み、漢文にも馴染んでいたからこそ、西欧言語が漢語学習パターンの一種の応用問題として捉えられ、割合容易に習熟されたのではなかろうか。そうとしか考えられない。ならば、現在の我々もまず母国語としての日本語をしっかり学ぶべきであり、それから外国語学習に向かっても何らおかしくなかろう。文部省の担当者よ、読んでいたら君の意見を聞かせてたもれ。とか何とか云ってみたかったのだ。

 2005.5.10日、2007.5.1日再編集 れんだいこ拝

【ノーベル物理学賞受賞の影に日本語ありとの卓見考】
 2008.10.11日、次の話を知ったので書き加えておく。「株式日記と経済展望」の2008.10.9日付けブログ「日本の基礎科学がどうして強いのかについては様々な理由があるが、私が見るに、日本語で学問をするという点も大きいようだ。韓国日報」を参照する。

 2008.10月、日本人物理学者、化学者の4名(米シカゴ大の南部陽一郎名誉教授、高エネルギー加速器研究機構の小林誠名誉教授、京都産業大理学部の益川敏英教授、下村脩・米ボストン大名誉教授)がノーベル賞授与の栄誉に輝いた。なぜこの時期一挙に4名の受賞となったのかについての考察はさておき、2008.10.9日付けの韓国日報が「日本がノーベル賞を取れるのは自国語で深く思考できるから。我が国も英語ではなく韓国語で科学教育を行なうべき 」(http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1223507539/-100)と題して興味深い内容を指摘している。これを確認しておく。概要次のようなことを述べている。


 日本は、1949年に湯川秀樹が物理学賞で初のノーベル賞を受賞して以来、物理学賞受賞者だけで7人になった。日本の基礎科学がどうして強いのかについて様々な理由があるが、その一つに「日本語で学問をするという点も大きいようだ」。日本語は、西洋語を的確に言い換えることができる点で秀逸な言語である。それは科学的用語にも通用する。漢字文化圏である東洋4国があまねく使っている「科学」、「化学」、「物理学」、「素粒子」、「陽子」、「電子」などの用語自体が、アルファベット圏言語を自国語で把握しようとした日本の知識人たちによる翻訳の所産だ。

 これにより、日本人は、西洋科学の水準を日本語に置き換えて同時代的に思考し得る利点を持っている。これが日本人の科学レベルを世界並みに維持する秘密になっている。韓国ではこうはならない。「大学に入ると突然英語で科学を教える。名門大学であればあるほど、理学部・工学部・医学部の物理・化学・生理学などの基礎分野に英語教材が使われる。内容理解だけでも不足な時間に外国語の負担まで重なっては、韓国語で学ぶ場合に比べると半分も学べない。韓国の基礎科学は外国に留学に行くことを初めから想定して教えているわけだ」。

 この指摘が歴史的民族的なお国柄の違いに帰するのか言語に帰するのかまでは分からないが、「日本語の秀逸性の新たな発見」だったので書き加えておく。

 2008.10.11日 れんだいこ拝

【日本語の同音異義について】
 日本語の欠点の一つに同音異義問題があると云われている。音だけでは、誤解される恐れがあると云う訳である。例えば、「コウエンへ行く」と云う場合、公園とは限らない。講演を聞きに行くと云う場合も考えられる。「カレイ」も然りである。魚のカレイなのか料理のカレーなのか加齢なのか分からない。「オショクジケン」はお食事券と汚職事件の二通り考えられる。この不具合は日本語の宿命と思わざるを得ない。恐らく、日本語の形成過程で、幾つかのルーツのものをアンサンブルした結果、同音異義が発生したものと思われる。共生するしかないのではなかろうか。

 日本人はむしろ、この同音異義の迷惑をユーモアや洒落に変えて楽しむ芸風を持っている。その一つは次の例である。「遅れた。もう今日中には大阪に行かれないかも知れない」。これに対して、「いや、まだ『のぞみ』がある」。この「ハシ渡るべからず」に対して、「端は渡りません。私は真ん中を渡りました」と答えた一休の頓知芸もある。(2010.11.28日付け日経新聞文化欄のお茶の水女子大学名誉教授・外山滋比古氏の「日本語の散歩道 同音異義ユーモア」参照)

【日本語の略語の素晴しさについて】
 日本語の素晴しさに略語をも挙げておかねばならない。これは漢字の問題であるから漢字の素晴しさでもある。2012年現在の政治に登場する「TPP」で確認する。その原語は「Trans-Pacific Partnership、Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement」(直訳は「環太平洋経済協定、環太平洋戦略的経済連携協定」)である。これを「TPP」と略表記するが、TPPのTとPを幾ら詮索しても理解は得られない。それに比べて日本語で「環太平洋経済協定」、「環太平洋戦略的経済連携協定」と表記すれば、見た目で意味が分かる。もし分からないとすれば訳の方に問題があるからである。実際には、この略を踏まえて「TPP」を受け止めている。こういう例は無数にある。これも日本語の良さではなかろうか。

 2012.11.3日 れんだいこ拝

【日本語の和歌、俳句の語感、語韻を大事にする素晴しさについて】
 日本語の素晴しさに和歌、俳句をも挙げておかねばならない。詩は洋の東西問わず認められるが、和歌、俳句は日本語的なものである。ここで云う和歌、俳句とは、語感を大事にしつつ語韻を踏むあらゆる長短歌を云う。思えば、日本語ほど語感と語韻を大事にする言語はないのではなかろうか。この点はもっと強調され注目されても良い。擬音語、擬態語の以上発達はこれによる。更に何と日本語は、語感と語韻を大事にする余りに、語感と語韻において外国語の方が日本語の語彙よりも適切な場合にはいともたやすく外国語を使う。且つカタカナ表記で識別しつつ使うと云う芸当を見せている。他の言語でこういう芸ができるものがあれば教えてほしいと思っている。

 語感、語韻を大事に歌化させる発想は日本語48音の発生秘密と同衾している。ここでは論証は省くがかく理解したい。ちなみに逆さから読んでも同じ文になる和歌を廻し歌と云うが、この芸なぞまさに日本語ならではの賜物ではなかろうか。他の言語でこういう芸ができるものがあれば教えてほしいと思っている。日本語48音を1回きり使って和歌にすると云ういろは歌も然りである。この芸なぞまさに日本語ならではの賜物ではなかろうか。

 和歌、俳句をの発生はもう一つ、日本語の「後述語構文」によりもたらされていると考えられる。即ち、日本語構文が「主語+内容+述語」となっていることにより、主語と述語の間の内容を冗長に流されることなく如何に簡潔に表現するべきか常に意識しており、これが磨きに磨かれ和歌、俳句が生み出されていると考えられる。しかして、このような言語芸は日本語以外に見当たらないのではなかろうか。これも日本語の魅力とすべきだろう。

 日本語の楽しみ方は何も和歌、俳句に限るものではない。日本語は他にも詩歌、詩吟、落語、漫才、講談、浪曲、浄瑠璃、義太夫、歌舞伎、狂言などの話芸を発達させている。これらは皆な選れた日本語のお土産的な副産物であるように思われる。

 2012.11.4日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評854 れんだいこ 2010/11/14
 【略語における日本語の秀逸考、TPP問題考】

 2010..11月、「降って沸いた『TPP』の謎?!」が問題になっている。まず言語的に意見しておきたい。「TPP」では意味が分からないことを問題にしようと思う。日本語では、こういう略語はない。日本語に於ける略語は、当の対象のものの意味をギリギリ分かるよう、なお且つ本質を言い当てる形で代用させるのを慣わしとする。それに較べて、アルファベット文字言語の略語の何と空疎なことだろうか。「TPP」では何も分からない。その原語の「Trans-Pacific Partnership、Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement」(環太平洋経済協定、環太平洋戦略的経済連携協定)を知って初めて理解できることになる。

 しかし、これは言語としての不完全さを意味しているのではなかろうか。略字にした場合、表意文字の漢字文化圏ならすぐさま分かるものが、表音文字の西欧文化圏の場合には分からない。日本語の優秀さを思うべきであろう。このところ、日本語の軽視政策が進められている。愚かなことであろう。

 ここまでなら、言語の違いで済ませられることができる。問題なのは、政治家が、ことの意味が分からないままの略語で事態を曖昧にさせたまま政治を仕切ることにある。これは、人民大衆を騙す政治であり、背徳政治なのではなかろうか。政治学的に見て、「政治とカネ」で目クジラし、敢えて小沢どんを政治訴追するのに忙しい与野党ではあるが、事の是非を明らかにしない、議論を要しないままの拙速で処断して行く「略語政治」の方が悪質なのではなかろうか。

 それが証拠に、小沢どんの「政治とカネ問題」で問われているのは秘書寮の建設であった。それは、敢えて云えば、人民大衆的にはどうでも良い話である。ところが、小沢どん追撃派の与野党諸君は、手前のことは棚に上げて、これほど悪質なものはない、「天の声」まで精査せよとカナ切り声を挙げ延々と今日に及んでいる。しかして、「TPP問題」では菅政権の専権事項かの如くに見過ごそうとしている。オカシイではないか。我々は集団催眠術に掛けられているのではなかろうか。

 「TPP問題」の核心は、国際金融資本帝国主義が籠絡せんと狙いを定めた各国の食糧自給率を致命的水域まで格下げ、支配の道具にしようとしていることにある。石油を代表とする資源然り、情報然り、続いて主食糧まで完全コントロールしようとしていることにある。これにより、御用聞きしない国家に対して政治封鎖、経済封鎖、情報封鎖で締め上げることができるようになる。現に世界のあちこちでヤラれて来た話ではないか。先だってはイラクの悲劇を見たばかりでないか。

 日本は戦前の1941年に既に痛い目に逢わされている。ABCD4ケ国による経済封鎖包囲網を仕掛けられ、資源を断たれた日本軍が南方作戦に向かったのは衆知の通りである。大東亜戦争の是非は別としても、日本軍が多くの内通者の手引きにより空しい戦闘を余儀なくされ、無駄死にさせられた様子も次第に明らかにされつつある。原爆の悲劇同様、こういう経験を持つ日本に於いては決して他人事ではないとすべきではなかろうか。

 多少でも歴史を学べば知れるこのことを議論せず、目下の菅政権は今遮二無二に「降って沸いたTPP」に率先太郎している。幾らシオニスタンといえども許される限度が超えていよう。続いて消費税増税を仕掛けようとしている。武器禁輸の解禁は既に処置された模様である。自衛隊派兵も弾みがついている。やっていることが小泉政治よりヒドイのではなかろうか。次第に我々の我慢の限度を超えつつある。菅派の今後には小泉派同様明日はない。放逐し、彼らが親と頼み仕える母国へ強制送還させねばなるまい。

 補足しておく。日本は独裁国家ではない。一応の建前上は代議員が不正のない選挙の洗礼を受けて国会に集う民主主義国家である。しかし、官邸主導政治が導入され、次第に実態が明らかになって来た。これは専権国家である。国会はあれども用を為さない。どうでも良いことを議論する場にさせ、肝心な政治は官邸で仕切り、碌な審議もせずに勝手に外交で条約調印、国内で新法化させる。その判断が粗脳な分だけ独裁国家より劣るのではなかろうか。北朝鮮を笑う者が多いが、政治能力的に見て北朝鮮より以下と云うことが分かるにつれて笑えなくなるだろう。

 多くの法学者が居り、最近では法科大学院流行りだと云うのに、これを誰も咎めない。トンだ法学なことよ。そんな法学なら止めてしまえ。これは経済学者でも然り、農学者でも然りである。明日から直ちに補助金なぞ一切カットせよ。こんな程度のところへ税金を注ぐのがもったいない。博士号なぞおこがましい、一切剥奪せよ。オカシイ時にはオカシイと云う声を挙げる。王様が裸であることを正確に伝えるのが学の見識だろう。

 それはそうと、最近白眉の重大事件である「最高検による地検幹部逮捕事件」のその後の様子が遮断されている。マスコミメディアは呼吸を合わせてダンマリし続けている。これもオカシナことである。れんだいこの眼には、角栄なきあとの日本が次第に劣化し、遂に落ちるところまで落ちている気がする。それともまだまだ落ちるのだろうか。我々は耐え忍ぶ以外にないのだろうか。

 2010.11.14日 れんだいこ拝

 2013年11月16日ブログ/「漢字、ひらがな、カタカナの表記使い分け考
 ここで「漢字、ひらがな、カタカナの表記使い分け考」をしておく。これが上手にできると日本語の世界言語化に資し逆の場合には日本語が捨てられることになる。という意味で、この考察は重要である。これを上手く為すためには漢字、ひらがな、カタカナの言語的由来を踏まえた言語論を獲得した上で応用する術を得なければならない。これについては別途「言語研究」のそれぞれの項で追々に考究している。ここでは「漢字、ひらがな、カタカナの使い分け方」を確認しておくことにする。

 まず、漢字表記の使い方を確認する。れんだいこ文法によると、漢字は、漢字表記の方が簡潔明瞭正確に表現できる場合の記述法として使用されるべきと考えている。いわゆる漢字熟語がそうであるが、ひらがな、カタカナで記されるよりも締まった感じがあり語彙の意味が伝わり易い。漢字は概念をはっきりさせる良さがある。こういう場合には積極的に漢字を使うのが望ましい。漢字発音は呉音、漢音、宋音、唐音に分かれる。日本語では音読み(中国言葉式)と訓読み(大和言葉式)の二通りの読みがある。気づきにくいのだがさらに大和言葉の漢字宛がいから生まれた大和言葉式音読み漢字がある。これで三通りになる。中国音の四通りを踏まえれば六通りあることになる。これらは歴史的に獲得されたものであり、あり過ぎを批判しても始まらない。習熟することにより言語表現が豊かになるとポジティブシンキングしたい。

 次に、ひらがなの使い方を確認する。ひらがなは第一に、「てにおは」と呼ばれる接続助詞として使われる。「『てにをは』は日本語における格助詞で、外国語には見られない日本語特有のもので日本語の基礎です」と説明されている。まことに然りであり、これにより文章全体が柔らか味を得る。「てにおは」を使用することにより、ひらがなの前後の漢字語彙を識別させ、それらを引き立てると云う効用がある。新聞紙面の見出しで、漢字語彙が目に飛び込むことで記事内容が分かるという傑出はこれによる。

 ひらがなの効用の第二は、例えば「こと、もの、とき、ほど」、「あれ、これ、その」などのように、日本語の元々の大和言葉には漢字表記に馴染まない、漢字表記では意味が限定され過ぎて却って意味が正しく伝わらないと云う汎用性言語があり、限定的に使う場合には漢字表記するのが良いにせよ、意味を広く理解させるには大和言葉そのままのイメージを大切にさせてひらがな表記で生かす方法もある。要するに使い分けである。これがひらがなの効用の第二である。第三に、例えば「ふるさと」のようにひらがなで表記した方がより適切と思える熟語があり、漢字の「故郷、故里、古里」との併用ないしは使い分けをすることもできる。これも煩わしいと受け取るのではなく日本語の豊かさとみなすべきだろう。

 次に、カタカナの使い方を確認する。カタカナは、ひらがなと互換性がある。と云うことは、カタカナがカタカナとして使われる為には独自性を見出さなければならないということでもある。最も頻度が高いのは外来語表記に使われるカタカナである。これにより和産のものと外国産のものを区別できる。この識別ができるのは、れんだいこの知る限り日本語だけのように思われる。これも日本語の優れたところである。あるいは擬態語、擬声語、擬音語の場合には、ひらがなで記す場合もあるがカタカナの方が却って語感を増す場合があり多用されている。あるいは、言葉を目立たせる場合に敢えてカタカナ表記する場合がある。カタカナはこういう風に使われる。

 とりあえず、以上が、れんだいこ式「漢字、ひらがな、カタカナの使い分け」である。漢字、ひらがな、カタカナの上手な使い方がコツで、日本語の能力を引き出すことができる。これに照らすとき、戦前までのひらがな領域までの漢字の多用し過ぎは邪道であり、文章を堅苦しくさせるばかりである。これを仮に「硬文」と命名する。逆に、戦後は戦前風の漢字過多使用を抑えており、その分、読み易くなっている。これを仮に「柔文」と命名する。れんだいこが思うに、戦後の柔文の方が言語学的に見て日本語の特性の理に適っており進んでいるのではなかろうか。ひらがな、カタカナの発生意義を考えると、これを生かす方がより日本語的と思えるからである。これによれば、第148回芥川賞を受賞した黒田夏子氏の「abさんご」(早稲田文学5号)のひらがな多用表現は挑戦的な日本語擁護文学と云えよう。

 それはそうとして、戦後は当用漢字、常用漢字による漢字の文字規制をし過ぎた為に語彙がすっかり細っている。これを適切な水準まで取り戻せねばならないとも思う。少なくとも地名、人名、法律文に使われている文字は常用漢字内に復権させるべきだろう。これを分かりやすく理解するには、脳のシワを増やす方向が良く、逆に脳をツルツルにするのは良くないと考えればよい。但し、物事にはほどほどの見極めが必要で、専門家が指針させるべきであろう。目下の戦後来の絞り込み過ぎは日本語の能力を欠損せしめているであろう。

 略字についても一言しておく。略字は、略字が元の語義を損なうことなく略字化している場合に限り大いに使用されるべきだと考える。画数の多い漢字は書きづらく、見た目も美しくないし、読み書きの現代的スピードに相応しくないという理由による。

 ところで、日本語の漢字の略字は中国語のそれよりデキが良い。当時の略字に関わった学者は賞賛されるに値する。そういう意味で、中国は日本語の略字を取り入れるべきであり、日本も又優れた中国略字を取り入れるべきだと考える。こういうところで排外主義的な界壁を設けるには及ばないと考える。いつの日にか、漢字圏である中国、日本、朝鮮、韓国、台湾が共同して互いの漢字言語を総合比較させ、合理性の高い共通常用文字を生み出すべきであろう。そういう時代が来れば漢字言語がより豊かになると思う。アルファベット系文字と漢字系文字の並存と云うツーワールド言語社会こそが将来に相応しいと思う。この理屈は当然他にも当てはまろう。


 2016年1月 6日 (水) 2016たすけあい党新年声明
 遅くなりましたが2016たすけあい党新年声明をお届けします。本年も共に歩みませう。「何とかしよう日本」、これを合言葉にスクラム組んで押せ押せで参りませう。

 これまでの党声明は次の通りです。「2007声明」、「2008声明」、「2009声明」、「2010声明」、「2011声明」、「2012声明」、「2013声明」、「2014声明」、「2015声明」。今年の「2016声明」は情勢分析論、運動指針論を省きます。屋上屋を重ねるからです。本年は我が党の思想、歴史眼を開陳し批評を請いたいと思います。

 これを提起する理由は、既成の思想が破綻しており、にも拘らず依拠すべき代わりのものが用意できていないことにより、国際ユダ邪による猛烈な洗脳、マインドコントロールを許し続けており、これにより我が社会に徒な混乱、腐敗を見出すからであります。このような事態は依拠すべき思想を持たないからであると考えられます。

 私どもが見立てますところ、世の思想には論理構造式が閉鎖的排他的なものと開放的共棲的なものとの二種類があるように思われます。前者は国際ユダ邪のネオシオニズムが典型です。本稿では論証を略しますが、ああいうものに取り憑かれてはいけません。人間がスポイルされます。それと真逆な教えを垂示しているのが日本神道です。こちらが後者の典型になります。人間がいつまでも瑞々しくなります。そういう違いがあります。

 ネオシオニズムに被れるぐらいなら無思想の方がまだしもマシです。ならば無思想で良いのかと云うとそうでもありません。やはり思想は必要なのです。拠るべき思想が例え積み木崩しになろうとも新陳代謝を繰り返すべきなのです。そういうことを可能にさせる開放的共棲的にして柔らかくしなやかな構造の思想を持つべきなのです。これを玉に例えるなら、玉は飾って鑑賞するものではなく不断に磨いて光らせるべきです。どういう玉を持つべきかが肝心で、良い玉を持てば時代を照らすカンテラ、航路を指し示す羅針盤になると考えます。逆は逆です。

 我が党は既に多くの論考を世に問うております。その中で最も骨格的な歴史の筋に関わる思想、歴史観を披瀝します。詳細はそれぞれのサイトでご確認ください。各党派、有志の皆様におかれましては、ぜひこの立論を集団的討議に附していただけますようお願い申し上げます。目からウロコしてください。

 現代史解析には「国際金融資本帝国主義ネオシオニズム論」が必須です。現在これを端的に「国際ユダ邪論」と言い換えております。現代世界を牛耳る邪悪な主体を「国際ユダ邪」と認め、その戦略戦術に乗せられないよう軍師的采配をしております。これあればこそ現代世界の抗争軸を掴むことができております。この見地に立たずんば世界史の真相に迫り得ないと考えております。

 続く「原日本論新日本論」も有益です。これは、日本史を大和王朝以前以降に二分し、大和王朝以前の日本を原日本、以降のそれを新日本に画別させ、その上で両者の手打ち和解で今日までの日本が作られている、表向き共通一様の日本であるが深層では両派の暗闘が続いているとみなしております。これあればこそ現代日本の抗争軸を掴むことができております。この見地に立たずんば日本史の真相に迫り得ないと考えております。

 それでも足りないものがあると云うのが長年の気づきでした。ようやく掴むことができました。それが「日本語、文明、神道、国体論」です。略してこれを仮に「日本道国体論」と命名しておきます。「日本道国体論」は、日本論、日本語論、日本文明論、日本神道論、日本国体論をジョイントミックス(接合)させた造語であります。これまでこの五論が分離した形で言及されて参りましたが、これらを不即不離的に理解し、そこからロウソクの滴がしたたり落ちるような知恵を汲み上げ、「日本道国体論」を生み出すことに成功しました。思想系譜的には日本浪漫派に位置する新たな日本賛美論であるかも知れません。その現代的再生理論と受け止めております。

 「日本道国体論」がなぜ必要なのか。それは日本国体が今まさに溶解させられつつあるからです。我が党は今、日本が国家的、社会的、民族的存亡の危機下にあり、国際ユダ邪の仕掛ける鍋で煮られていると見立てております。「口で愛国、裏で売国」する配下どもにより日本の軍事基地化、原発列島化が強められようとしておりますが亡国の道です。そういう滅びの局面により失われつつあるが故に見えて来たのが「日本道国体論」であり、国難時代の回天論、母国論、祖国論として「日本道国体論」を届けます。これを松明(たいまつ)として時代を照らしてくださいませ。

 「日本道国体論」を少し説明しておきます。最初の「日本論」では、日本国歌としての君が代、国旗としての日の丸、国紋としての菊花弁を問います。これらを排斥することなく日本の至宝と受け止めるよう促します。明治維新は世界史的に称賛されるべき回天運動でした。しかしその後変質させられ、国際ユダ邪と通じて好戦政策を敷き、君が代、日の丸をその道具として利用して参りました。しかしながら、それは悪用であり君が代、日の丸が悪いのではありません。本来の君が代は君民和楽の善政誓約歌であり、日の丸は純真無垢と赤心を象った唯一無二のシンプルイズベストな国旗であります。大和王朝以前の出雲王朝以来の国宝です。優れもの故に大和王朝も継承し時空を超えて日本に伝わっているものと心得る必要があります。

 「日本語論」では、日本語を世界言語の最優秀なものとして位置づけるよう指針させております。日本語の48音は自然界の作用を模写したものであり、いわば宇宙の音の写し鏡です。言語に於ける48音の獲得こそ人類の最高の発明です。これを日本の祖先が獲得した意義を称賛せねばなりません。人類史の将来は国際公用語として英語、日本語が並存して世界に普及して行くことになるでせう。なぜなら優れものだからです。昨今、そういう使命を持つ日本語を軽視し、それを放擲させ、いっそのことオール英語教育せんとする動きが強まりつつありますがナンセンスの極みと云わざるを得ません。

 「日本文明論」然りです。日本文明は自生土着的固有に生成発展し続けていると理解すべきです。これを逆に古代に於いてはインド、中国、朝鮮経由で、近代に於いては西欧諸国によって、戦後に於いては米英ユをお手本として小学生国日本を成人させんと文明開化させて来たとしてあれこれを例証し、何でもかんでも外国被れで理解し学問することを良しとしておりますが、これら一切に眉唾せねばなりません。日本文明は不思議なほどに太古から独自に優れた文明を築き続けており、その途上で外国ものを咀嚼し上手く取り入れてきたとする史観に立つべきです。

 「日本神道論」然りです。敢えて申せば、大和王朝後の日本神道を新神道、それ以前の神道を古神道と分けて理解する方が史実に合います。古神道と新神道が棲み分けして歴史を列ねていると理解すべきでせう。少し前、森元首相が「日本は神の国である」と述べたところバッシングされましたが、両者共に未熟です。森元首相が神道教理に通じておれば「日本は神々の国である」と申すべきところです。「神の国」であろうが「神々の国」であろうがバッシングする者が居たとしたら、日本を知らなさ過ぎる歴史音痴と云わざるを得ません。

 「日本国体論」然りです。天皇制論は日本国体論の一範疇のものです。真に大事なものは国体論であり、その国体論に適う天皇論である限りに於いて天皇制が護持されるべきです。天皇制は国体論に適う方向で営為されてきており、それ故に護持存続しているとする見立てが必要です。このように構える国体論、天皇制論を生み出さねばなりません。黒船来航以来、国際ユダ邪が日本天皇制に干渉し続け、西欧的な君主制と同視して懐柔を試み、キリスト教を国教化せんとし、下僕化しなかった大正天皇を押し込めるなどして参りましたが、このような蛮行を二度と許してはなりません。

 以上、簡略に述べました。今後暫くはこの「国際ユダ邪論」、「原日本論新日本論」、「日本道国体論」の三点セットで時代を照らしてください。能く切れ見えることを請け合います。我々は、先祖の法灯を受け継ぎ、生き甲斐住み甲斐のある日本造りに向けて邁進せねばなりません。目下の日本政治がやっていることは逆ばかりです。この逆漕ぎ連中を一掃せねばなりません。近いうちに政治リアリズムが連中を容赦なく断罪すると思います。私たちは引き続き助け合いのご政道へ歩を進めませう。共同戦線万歳。


 「★阿修羅♪ > アジア14 」の氏の日付投稿「漢字を知らない若者、同音異義語の混乱が深刻
:韓国の話だが今なお漢字を使わない北朝鮮の実情はどうなんだろう
」参照。
 [朝鮮日報]朝鮮日報日本語版 兪碩在(ユ・ソクチェ)記者 , 安俊勇(アン・ジュンヨン)東京特派員
  漢字を知らない若者、同音異義語の混乱が深刻、世代間コミュニケーションが断絶。ハングルだけで表記された漢字の同音異義語、意味を区別できず混乱。「文章を読めても意味が分からない」小4で71%。語彙が崩壊すれば思考体系も崩壊

 これまで44年にわたり続いたハングルだけの教育が生んだ漢字知識の欠落現象が社会でのコミュニケーションの食い違いを引き起こし憂慮の声が高まりつつある。言葉の意味をしっかりと理解できないため、コミュニケーションの際に解釈の混乱を引き起こしている。若い人ほど漢字知識の欠落は深刻で、時には世代間でコミュニケーション上の混乱あるいは断絶まで引き起こしている。韓国語で発音・表記が全く同じ「義士」と「医師」を勘違いし、「安重根(アン・ジュングン)義士」について「その人は何科を診療していたのか」と質問してきたり、「靖国神社」の「神社」を、発音の同じ「紳士」と誤って解釈するケースなどがその典型例だ。発音・表記が同じ『防水』と『放水』を区別できない。「妊婦の陣痛」と言うときに「陣痛」と「鎮痛」を区別できない。「演芸人(芸能人のこと)」を「恋愛人」という意味に理解する。ハングルでは「演芸人」と「恋愛人」は同じ表記になる。「主幹教授」が「Weekly Professor」と訳されていた。「主幹」と「週刊(Weekly)」はハングルで同じ表記になるからだ。「哀歓」という言葉に「悲しみと喜び」という二つの意味があることを知らない。「体罰」の範囲に、「手を上げさせて立たせること」や「運動場を走らせること」を体罰と見なすかという議論になる。「体罰」という言葉が「身体に直接痛みを与える罰(標準国語大辞典)」という意味を持つことを理解していれば、このような議論は起こらない。今のように漢字教育がしっかりと行われていない環境では、時がたつにつれこの種の誤解や混乱がさらに増える恐れがある。例文を読んでもその意味を正確に理解できない。韓国語の70%を占める漢字語の意味が分からず、文章を理解できない「読解不能現象」が表面化している。「『技能』と『機能』、『出家』と『出嫁(嫁に行くこと)』のように、ハングルだけで表記された場合に意味が区別できなくなる漢字の同音異義語は非常に多い。「漢字教育をしっかりと行わなければ、(子どもたちの)思考力や探究力が弱体化し、語彙の体系が崩壊してそこから思考体系まで崩壊する恐れがある」。

 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/02/02/2014020200139.html

コメント
Reconsideration of the History
 25.「ハングル」は日本人によって作られた!?(1998.3.27)
 http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/han-gul.html


 文字は、漢字に代表される「表意文字」系と、アルファベット(abcdefghijklmnopqrstuvwxyz)に代表される「音標文字」に分類される。例えば、表意文字の場合、「口」と言う漢字は口の形、「手」と言う漢字は手の形から作られ、その一文字で一つの物を表記する事が可能。それに対して、音標文字は母音字・子音字単体ではほとんど用をなしません。母音字と子音字の様々な組み合わせによって、はじめて「音」を表す事が出来、それらの様々な組み合わせで「単語」を表す事が出来る。朝鮮語で「大いなる文字」と呼ばれるハングル文字は、かつて日本同様、漢字のみを筆記文字に使っていた朝鮮人が、朝鮮固有の文字を持とうとして、李朝(李氏朝鮮)の世宗大王の時代に考案し、1446年、「訓民正音」の名で公布したものである。ハングルは10の母音字と14の子音字(当初は諺文(オンモン)と呼ばれ、母音字・子音字合わせて28文字からなる音標文字-つまりアルファベットで、欧米人から「世界でもっとも合理的な文字」と賞賛されたものである。現在、朝鮮半島で使用されている。

 ところで、このハングルが日本人によって作られていた可能性がある。世宗大王の勅命で発動したプロジェクトが、なぜ短期間に、あの様に理路整然とした合理的な「文字」を「創造」できたのか。
今まで漢字と言う「表意文字」を使っていた朝鮮人が、なぜ「音標文字」と言う全く異なるシステムの文字を「創造」できたのか。「お手本」となった可能性のある一つの文字が浮かび上がる。その文字の名は「阿比留文字」(アヒル文字)。対馬の占部阿比留(うらべ-あびる)家に伝えられた神代文字(古代日本の文字)である。阿比留文字とハングルを見比べると、似ていることに気づく。日本の史学界は、漢字伝来以前、日本には固有の文字がなかったとして「阿比留文字」の存在自体を認めない。そこで、「阿比留文字」はハングルを模倣して作られた「贋作」と烙印し否定してきた。しかし、両者をよく観察してみると、否定するには幾つかの疑問が残る。第一に、「阿比留文字」は右側(漢字の「旁」に当たる部分)に母音字、左側(漢字の「偏」に当たる部分)に子音字を配置する「二次元」構成を取っている。対する「ハングル」は左右・上下配置の他に、三つの字母を配置する複雑な「三次元」構成を取っている。つまり、「ハングル」の方が「阿比留文字」の字母構成法よりも、明らかに「進化」している。こう考えると、「阿比留文字」が「ハングル」を模倣して作ったと言うよりも、むしろ「ハングル」が「阿比留文字」を模倣して作ったと言う方が自然である。第二に、「阿比留文字」が伝えられてきた場所。「阿比留文字」は対馬の占部阿比留家に伝えられてきた。その対馬は朝鮮半島の目と鼻の先にある。かつて対馬を支配していた宗氏は朝鮮と独自のコネクションを持ち、日朝間の国交を仲介した。更に時代を遡ると、邪馬台国の時代に「対馬国」として描かれ、対岸の「狗邪韓国」と交流していたであろうことが推察できる。つまり、対馬は常に朝鮮半島と交流を持ってきた訳で、対馬に伝わる神代文字が李朝に伝えられることは十分に考えられる。対馬に伝わる「阿比留文字」が李朝に伝えられたとすると、世宗大王のプロジェクトが短期間に「ハングル」を「創造」出来たことに納得がいく。「阿比留文字」と言う音標文字を「お手本」にして、自分達の使い易いように改良を加えた・・・。こう考えてこそ、「ハングル」誕生の謎が解ける。
神代文字とハングルと女性の下着と聖徳太子の大予言と
 http://blog.livedoor.jp/whokilledxxxxx/tag/%E9%98%BF%E6%AF%
94%E7%95%99%E6%96%87%E5%AD%97
神代文字の真偽
 http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/touyou/jindaimoji.htm




(私論.私見)