ケント・ギルバートの日本語称賛論

 (最新見直し2015.03.30日)

(れんだいこのショートメッセージ)


ケント・ギルバートの日本語称賛論
 「株式日記と経済展望」の2015年3月26日付けブログ「日本語で文章を書くときの自由度の高さは、英語とは比較にならない。ケント・ギルバート」を転載する。
 日本語と漢字を廃止した某国 文献を読めないのは悲劇か喜劇か K・ギルバート氏 3月25日

 私はブログとフェイスブックに載せる記事を、原則として日本語と英語の2カ国語で書いている。記事の題材や資料が英語の場合、先に英語で書いてから日本語に翻訳する。この場合はあまり苦労を感じない。しかし、参照する資料などが日本語だった場合、先に日本語で記事を書いてから英語に翻訳する場合が多い。このパターンは少々やっかいだ。日本語は漢字という1種類の表意文字と、ひらがなとカタカナという2種類の表音文字を組み合わせて表記できる。しかも、「助詞」をうまく使えば、日本語は文の中で語順を入れ替えることすら自由自在だ。他方、英語はアルファベットという26文字だけで全てを表現しなければならない。便利な「助詞」は存在せず、倒置法などは限られる。

 ちなみに、日本語の仮名は「五十音」と言われるが、「がざだば」行の濁音、「ぱ」行の半濁音、「ぁ」行と「っゃゅょゎ」という捨て仮名を入れると、ひらがなは76文字。カタカナは「ヴ」も使うから77文字ある。加えて、常用漢字は2136字/4388音訓もあり、同じ言葉でも、どの文字種を使うかで微妙に意味を変えられる。従って、日本語で文章を書くときの自由度の高さは、英語とは比較にならない。うまい皮肉を日本語で思い付いても、英語で表現しようとすると本当に大変なのだ。

 世界に誇るべき日本語の表現力だが、前回の連載で、君が代の変遷について書く際に、日本の初代文部大臣の森有礼(ありのり)について調べていたら、驚くべき事実を知ってしまった。森は10代で英国に留学しており、英語が非常に堪能だった。この日英バイリンガルの大先輩は「日本語を廃止して、英語を日本の国語にすべきだ」と考えていた。漢字の複雑さを特に問題視していたようだ。確かに、明治初期の漢字は今よりも複雑で数も多かった。話し言葉は口語、書き言葉は漢文という不自由な習慣もあった。西洋に後れた政治や経済、科学などの学習に必要不可欠な英単語は、日本では概念すら存在しないものが多かった。例えば、「社会」「存在」「自然」「権利」「自由」「個人」「品性」「人格」「情報」「近代」「美」「恋愛」「芸術」「彼・彼女」などの言葉は、江戸時代の日本にはなかった。明治期の先人が苦労を重ねて生み出したのだ。 もし、これらの言葉が使えなかったら、日本語の文筆作業は相当もどかしい。だから、当時の森の気持ちも理解できるが、現代から見れば、満41歳で暗殺された森の考えは若気の至りだった。

 ところが、本当に漢字を廃止して、独自の表音文字だけにした国が、日本の近くに存在する。結果、国民の大多数が、わずか70年前の書籍や新聞を全く読めず、真実の歴史に向き合えない。悲劇と呼ぶべきか、喜劇なのか。それが問題だ。

 ■ケント・ギルバート 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ州生まれ。71年に初来日。80年、法学博士号・経営学修士号を取得し、国際法律事務所に就職。83年、テレビ番組「世界まるごとHOWマッチ」にレギュラー出演し、一躍人気タレントとなる。現在は講演活動や企業経営を行っている。最新刊は『不死鳥の国・ニッポン』(日新報道)。


 上記文に対する「株式日記と経済展望」のコメントは次の通り。
 (私のコメント)

 「株式日記」を英訳する事を考えた事もありましたが、翻訳ソフトで翻訳しても簡単で短い文章でないと翻訳しにくいようだ。つまり主語述語がはっきりと分かるように書かないと正確に翻訳は出来ないらしい。日本語の場合主語を省略しても述語の内容で分かりますが、英語は主語を付けないと文章にならない。日本語の場合は、ケント・ギルバート氏が書いているように言葉が前後しても助詞に使い方で言葉の順序が自由にできる。ケント氏の話だと英語から日本語に訳すのは楽だが、日本語から英語に訳すのは主語述語の語順を守らなければならないし、語彙の数も日本と英語の国語辞典を見れば分かるように比較にならない。つまり英語を日本語に訳すにも、多くの漢字から組み合わせて該当する意味を作ることは出来ますが、日本語の言葉を英語に訳す場合該当する単語が無い場合は訳しようが無い。「玉虫色」を英語でどう訳すのだろうか? 「前向きに善処する」と言う言葉を国際会議で「YES」と翻訳したら外交問題になってしまった。日本語で書かれた書物がなかなか英語に翻訳されないのは、語彙の数や複雑な言い回しを英語に訳す事が難しいからだろう。YESともNOとも取れる曖昧な表現を英語に訳す事は不可能に近い。日本の政治家はそれを多用するが通訳はそれを単純な英語で訳してしまう。

 このような問題は日本語にも英語にも精通した人しか分かりませんが、英語の書籍が日本語に翻訳される数と、日本語の書籍が英訳される数との差は一方通行に近い。ネット上でも翻訳ソフトで翻訳するにしても、日本語ならへんてこな日本語の文章に翻訳されても分かるように翻訳する事は可能でも、日本語の文章を英訳する場合は英訳しやすい文章に一旦書き換える作業が必要になるだろう。日常会話レベルの英語や日本語を覚える事はさほど難しくは無いのでしょうが、仕事で使う専門分野の言葉を使う場合、専門用語をどう翻訳するかは重要ですが、日本語の場合は外来語はカタカナ表記で間に合わせることが出来る。インターネットは「インターネット」と表記すればいいが、中国語の場合は「電網」に翻訳できなければ漢字で当て字で書かなければならない。この場合混乱が大きいだろう。

 外国語に訳す問題は、意味が正確に伝わるかが問題ですが、ネットの場合は英語のサイトを日本語に翻訳させて見ていますが、日本語サイトの場合は英訳しても意味が通じているのだろうか。英米人は世界各地の英字新聞から情報を得ているようですが、日本の英字新聞は左翼系ばかりだ。中国・韓国などは自国の情報を英語や日本語などでも流していますが、欧米人よりかわは中国や韓国の事情を類推することが出来ますが、欧米人には中韓の情報は限度がある。朝日毎日読売には英字新聞がありますが、産経新聞には英語版が無い。最近では外務省などが動画サイトなどで英語版などで広報していますが、中韓との情報戦では有効に働いている。ネット上ではテキサス親父やケント・ギルバート氏が日本側に立って英語で発信してくれていますが、韓国などではテキサス親父のサイトはブロックされている。

 翻訳に関しては、日本語で書かれたものは韓国語や中国語に翻訳しやすく、欧米の思想などは日本を経由して輸入された。欧米の思想や哲学などを直接中国語や韓国語の訳すのは訳語の関係で困難を伴うが、日本語に訳されていれば「日本語」が直接中国語や韓国語になっているから翻訳しやすい。ケント氏が言うように、日本語に比べて表現力の違いで日本語を英語に訳す事が困難だという事は、前から感じていた事ですが、ケント氏から言われると説得力がある。三島由紀夫や村上春樹氏などの小説が英語に翻訳されたのも三島氏や村上氏が英語が出来るからであり、英語に翻訳しやすい日本語で文章を書いているからだろう。
(私論.私見)
 以下、れんだいこコメントをしておく。「日本語で文章を書くときの自由度の高さは、英語とは比較にならない。ケント・ギルバート」は非常にすばらしい。敢えて言及しておけば、「日本語は漢字という1種類の表意文字と、ひらがなとカタカナという2種類の表音文字を組み合わせて表記できる」の下りに問題がある。「ひらがなとカタカナは表音文字だろうか」が問いになる。れんだいこの解は、「ひらがなとカタカナは単なる表音文字ではない。表意文字でもある。ひらがなとカタカナの表意文字性は失われているが、にも拘らず表意文字性通底している」である。ケント・ギルバート氏がその認識の下で「ひらがなとカタカナは表音文字」としているのなら構わない。

 2015.4.26日 れんだいこ拝






(私論.私見)