「株式日記と経済展望氏の日本語論1」考

 (最新見直し2007.10.16日)

【黒川伊保子(著)「日本語はなぜ美しいのか」】
 「株式日記と経済展望」が、黒川伊保子(著)「日本語はなぜ美しいのか」を紹介している。これを転載しておく。
 ◆母語獲得の最終工程

 さらに、言語脳が完成する八歳までは、パブリック(公共、社会)で使うことばと、ドメスティック(内的世界、家庭)で使うことばは、同じ言語であることが強く望ましい。理由は二つある。

 一つは、母語獲得の最終段階ば、言語の社会性を身につけることだからだ。母語を、公共の場で仕上げる必要があるのだ。そして、その母語の仕上げには、臨界期という問題がある。

 脳には、ある能力を身につけるにあたり、一定の年齢を超えると、その後その能力を獲得しようとしてどんなに努力しても、けっして同じ質では獲得できないという特徴がある。その年齢を臨界期という。言語脳は八歳の誕生日までにほぽ確立してしまうので、母語獲得の臨界期は八歳である。七歳までのうちに、さっさと仕上げておかないと、未完成な母語で生きていくことになる。

 母語獲得の最終工程に必要なのは、文字や書きことばの習得、音読、読書、作文や口頭で感じたことを人に伝える体験である。小学校低学年で、音読と作文を繰り返すわが国の国語教育は、脳科学的に、非常によくできていると思う。加えて、先生との会話、友達同士の会話、学級での発表など、さまざまなスタイルの会話体験を増やさなくてはならない。

 母語以外のことばを使う小学校に子どもを預ける場合、この母語獲得の最終工程がないがしろになってしまうことが多いのである。海外生活のためにやむなくそうなる場合は、もっと早い段階から、現地語の人たちと触れ合って混合母語というかたちで育てるか、家庭での日本語のフォローが不可欠である。

 ◆母語喪失

 そして、最近、教育の現場で指摘されだした、もう一つの理由が、「母語喪失」である。それは、学校で使われることばが、両親ともに堪能でなかった場合に起こる、深刻な問題である。実は、パブリックという意識の場を確立する学童期に、外で使う言語が両親とも堪能でない場合、母語喪失という恐ろしい事態が起こりうるのだ。

 学童期、パブリックで起こることのさまざまな喜怒哀楽や情感を、心の中で反芻したり・親に話して解説してもらったりすることで、子どもは自我を確立し、社会性を身につけ、コミュニケーション能力を上げていく。この時期、子どもにとって親とは、内的世界(心の世界)の一部でもあり、心と外界をつなぐ、重要な案内人となる。

 それなのに、パブリックで使うことばを親がわからないとなると、パブリックでの出来事の微妙なニュァンスを、子どもは親に伝えられない。

 これは、単に、親との没交渉などという簡単な事件ではないのである。心の世界ができ上がらないので、子どもは自問自答しながら、目の前の事象に対処することができないままになるのだ。すなわち、「○○したい!とはいっても、いきなり、それは問題だろう。その前に、こっちを片づけなきゃなあ」のような心の中のひとり言が言えない、”気持ちの逡巡”という感情コントロール機能を獲得しないまま、次の発達段階に向かうことになる。極端な場合、コミュニケーション障害をきたし、一人前の社会人として機能することが難しくなることもある。

 発達途上の子どもの脳にとって、ことばは、意味上の語彙を増やしてやればいいというものではないのである。ことばの情感と社会性を、親(近しいおとな)という「案内人」を介して、複合的に獲得していかなければならない。ここにおいて、ことばの表層の意味なんて、たいして意味がないのである。

 このように、いったんドメスティックな環境で母語を確立したのに、社会性獲得の段階(学童期)で、心を表現する言語である母語を失うことを母語喪失と呼ぶ。

 この母語喪失は、元は、外国からの出稼ぎ家族たちに起こった間題である。親は日本語の能力が低いまま、朝早くから夜遅くまで働いている。学童期の子供は、親とほとんど触れ合えない環境で、学校で使う日本語に馴染んでいくうちに、ほんとうにふるさとのことばを忘れてしまうのである。

 気づいたときには、親と子の会話が通じない。子ども自身もさることながら、こういう子どもを抱えた、現場の教師たちのストレスは計り知れない。このため、外国人労働者が増えたパブル期以降の教育現場の問題提起として、母語喪失ということばがあった。

 しかし、母語喪失は対岸の火事ではない。親と子のことばが通じないという極端なケースでなくても、心を表現することばを失い、後にコミュニケーション障害を抱えてしまうケースは、帰国子女の中にも見られるのである。そして、今後は、日本に生まれ育ち、日本人の親に育てられているにもかかわらず、早期の外国語教育によって母語喪失を引き起こすケースが増えることも予測されている。

 統計的には、この母語喪失の増加が顕著であるかどうかはわからないが、「子どもを国際人にしたい」がために、外国語の小学校に通わせる親たちが増えているどいうニュースは、最近よく目にする。両親のどちらかがその言語を母語としているか、両親のどちらかあるいは本人が七歳以下で三年以上の現地体験があるか、今現在、家族で現地に住んでいて、両親のどちらかが高い言語能力で現地の仕事をこなしているか。そのいずれでもない場合で、やむなく外国語学校に通わせるときは、学校以外の場所でのいっそうの日本語教育をお勧めしたい。

 心を表現することばを失った子どもたちが、おとなになる社会を考えると、現在の二ート現象どころの騒ぎではないような気がする。脳は、ひとりでおとなになることはできない。母語は、脳の基本機能に深く関与している。親と子どもの母語関係をしっかりと築くことが、人間形成の基礎なのではないだろうか。(P55〜P60)

 ◆日本人の識字率はなぜ高いのか

 音韻と文字との関係も、各国でさまざまだ。日本語は、音声認識の一単位にカナ一文字を与えている。したがって、意味がわからなくても、聴き取れれば、書き取れる。

 中国語は、音声認識の一単位であるピンインに、複数の漢字がリンクしている。したがって、聴き取れても、意味を理解した上で漢字を駆使しないと書き取れない。つまり、日本人は数十のカナを覚えればなんとかなるが、中国人は、四〇〇を超えるピンインに何千という漢字がぶら下がっていて、その体系を知らなければ、識字できないのである。

 アルファペット文化の人たちは、音韻単位と表記単位が一致していないので、聴いたように記載しても文字記号にならない。また、文字を見たように発音しても、それが正しい発音だとは限らない。中国語と同じく、ある一定数の単語(文字列)を知らなければ、識字できないのである。

 日本人の識字率が高いのは、幼い頃に、まず音韻と一致したカナ文字によって、気軽に文字に親しめるからだといわれている。やがて、発達段階に合わせてゆっくりと漢字を増やしていく。この方式だと、ほとんど落ちこぼれを作らない。

 株式日記と経済展望」主宰者は、「私のコメント」と題して次のように述べている。
 バージニア工科大学における銃乱射事件の犯人は八歳でアメリカに移住した韓国人だった。犯人のチョ・スンヒは極端に無口であり、教科書の朗読で教師から指名されてもなかなか読み上げようとはしなかった。読まなければ落第だと言われて読み上げ始めたが、モゴモゴ言うような発音で、他の学生から「中国へ帰れ」とからかわれたという。

 テレビで犯人のビデオ声明が放送されたが、チョ・スンヒの話す英語は口の中でモゴモゴ言うような特徴のある英語だった。バージニア工科大学に入れるほどの頭の良さなのに、英語の発音が不自由であったがために犯人は極端に無口になり、学友との交際はほとんどなかった。

 たまたま黒川伊保子著「日本語はなぜ美しいか」という新書を読んでいたのですが、母語喪失という問題がチョ・スンヒにも当てはめられるのではないかと思う。両親とも英語が話せず、学校生活や日常では英語を使っていたから、喜怒哀楽や感情を何語で表現するかという問題が起きてしまった。

 チョ・スンヒには姉がいたが、年上だから韓国語が母語であり、その上で英語を学んだから意識表現での混乱は起きなかったが、8歳のチョ・スンヒには韓国語も英語も中途半端になり、自分の感情を何語で話すか分からない母語喪失状態になってしまった。そのためにコミニケーション障害となり歪んだ人格が形成されていったと思われる。

 最近では子供を国際人として育てる為に早くから英語を学ばせている親達を見かけますが、8歳程度の子供には他に学ばなければならない事が沢山ある。小学校の低学年で二つの言語をマスターするのは天才的能力が必要だ。むしろ読み書きそろばんといった基礎的な能力を身に付けさせないと脳の基本形成に影響が出てくるのではないかと思う。

 日本の場合、古代の昔から日本語を使い続けてきた。英国のように古代はケルト語を話していたが大陸から次々と侵略されて現代の英語が形成されたがそれは16世紀ごろの事で英語はフランス語などの外来語が多い。島国である英国ですらそうなのだからヨーロッパ大陸諸国はラテン語すら廃れてしまった。だから大なり小なり外来語が母国語となっている。

 アメリカ人の場合はイギリスからの移民を除けば英語は先祖伝来の言葉ではなく、韓国から移民してきたチョ・スンヒのように両親は母国語を話し、子供達から英語を使い始めている。だからアメリカ人にとっては英語は母国語になりきってはおらず、アメリカの風土と英語とは何の関係もない。

 英語と風土とが一番馴染んでいるのは、やはり英国であろう。500年余り使い続ければ風土や意識や身体感覚に結びついた言葉になる。英語がファンタジー大国であり数々の童話が作られているのは母国語として英語が体にしみこんでいるからだ。

 日本はそのような英国を上回るファンタジー大国であり、日本ほど古くからの昔話や童話が残っている国はないだろう。それは昔から日本人は日本語を使い続けてきたからであり、ほとんどの国は国家の興亡と共に国語も昔話も童話も消え去ってしまった。

 このように見ればアメリカの英語は単なる記号言語であり、僅かな言葉で「暗黙のニュアンスを伝える」といった文化レベルには達していない。だから同じ英語を話すイギリス人とアメリカ人とでは発音に関して意識が異なるのであり、アメリカ人にとっては英語は意味が伝わればいいのであり、イギリス人にとっての英語は情念まで伝える言葉であり、だから発音にも厳格だ。

 日本においてもビジネスでは標準語を使っている人が家庭に戻ればお国の言葉を使うように、気持ちを伝えるには標準語ではなくお国言葉でないと伝わらない。だから英語を標準語に例えれば母国語はお国言葉なのだ。宮崎県知事選挙でそのまんま東が宮崎弁で演説したのに、官僚出身の候補者が標準語では選挙民の心はつかめない。

 アメリカ人の英語が風土に結びついた母国語となるためにはあと数百年の年月が必要だろう。アメリカ国内でもテキサスやボストンなど言葉が違ってきている。ヨーロッパでラテン語がスペイン語やイタリア語やフランス語に変化していったように、アメリカ英語が母国語となる頃は様々なお国言葉に変化しているはずだ。

 アメリカ在住の日本人家庭では子供に英語を身に付けさせる為に家庭でも英語で親子が話をしている例もあるようですが、ばかげている。日本人である限り母国語である日本語が話せなければ無国籍人となってしまうのであり、単なる記号言語しか話せないロボットのような人間が出来上がることになる。アメリカ人が歴史感覚が無いのも歴史が浅い国であると同時に、言葉も短なる記号としての言語しか使えないせいもあるのだ。

 テレビでも時代劇が好まれるのも、日本語の歴史的連続性があるからだろう。言葉もその時代風に変えてあるし外来語は出てこない。ハリウッド映画が違和感のあるのはドイツの軍人もナポレオンもみんな英語を話しているからだ。ドイツの軍人はドイツ語でなければ「らしくない」しナポレオンもフランス語でないと「らしくない」。英語では風土や生活習慣に結びつく情報が極端に少ない。だからアメリカでは優れた文学作品が少ないのだ。

 グローバル化した時代では英語が出来たほうが確かにいいだろう。しかしそれはビジネスに限られた記号言語であり、情感を伝える言葉としては向いていない。チョ・スンヒが狂ってしまったのも母国語を失ってしまったからであり、日本の親達が小学生のうちから英語を学ばせるのは間違っている。

 日本人ほど英語が下手な国民はいないといわれますが、それは英語が出来なくても生活に不自由しないからだ。日本では大学でも日本語で授業が行なわれているからですが、韓国では欧米に留学しないと高度な教育は出来ないようだ。韓国の異常な数の留学生の多さは韓国文化の悲劇の象徴でもある。

【西尾幹二(著)「国民の歴史」】
 株式日記と経済展望」の2007.5.4日付けブログが、「西尾幹二(著)『国民の歴史』の言語論のくだり」を紹介している。これを転載しておく。
漢字漢文は不完全な言語である。情緒を表現することができない。論理とか道筋とかを正確に伝えることができない。 西尾幹二

 ◆「国民の歴史」 西尾幹二(著)
 http://www.sankei-books.co.jp/books/title/S99X3001.html

 ◆訓読みの成功と日本文化の自立

 『日本書紀』の編纂にあたっては、かなりの渡来帰化人の協力があるといわれている。ちょうどわれわれ現代人が英語をうまく書ける人につい頼ってしまうように、漢字漢文に練達である朝鮮からの渡来帰化人に依存するということがあったと思う。

 日本人が外国語べただという性格は二千年前からつづいているという文化論に、あるいはまた文明の反省につながる話というふうにしてしまうと少し情けないし、間違える。そういう話ではない。古代の日本は他のアジアの国にはできなかったきわめて特異なことを行った。韓国が吏読という訓読みに近いやり方をいったん試みたが成功しなかった。

 同じようなことは、ベトナムが字南という言語表記法を工夫し、開発するが、もちろんこれも成功しない。十五世紀につくられたハングルは一語一音表記の表音文字であるので日本の仮名に等しい。訓読みという中国漢字の自在の二重構造というものではおよそない。

 韓国の場合、漢字漢文を正式書法とする上流階級の意向にあわせてハングルは軽蔑されたり、禁止されたりして二等級扱いされてきた。そして第二次世界大戦後、伝統となっていた漢字漢文の表記法もやめてしまい、ご承知のようにオールハングルに切り替えた。それで数世代を経て、今、非常に困った文化的局面に立ち至っていることは関係者の反省の言葉としてわれわれの耳に達しているとおりである。

 古代の日本は何度も言いたいが、アジアの国で出来ないきわめて特異なことをやった、たった一つの国である。それは中国の文学を日本語読みし、日本語そのものはまったく変えない。中国語として読むのではなくて日本語としてこれを読み、それでいながらしかもなお、内容豊かな中国古代の古典の世界や宗教や法律の読解をどこまでもいじする。この決然たる意思であった。

 今のフィリピンでは、公用語も新聞も英語である。しかし民衆はタガログ語を話している。アメリカに植民地として支配されたフィリピンの姿である。フランスに支配されていた旧フランス領アフリカでも同じことで、指導者はフランス語を話し、一般民衆は現地の言葉を話している。古代日本人は敏感にこのことのもつ危険を知っていたに違いない。

 もし古代日本が中国語に接したときに、支配階級が中国人と同じように中国語を読み書き話す術を競い合い、他方、一般民衆は「倭語」を話しつづけていたらどうなっていたであろう。日本は中国の属州でありつづけ、日本そのものがすでに消滅してしまっていたであろう。

 言語は民族の精神の核である。(P102〜P103)

 ◆漢字漢文における表現カの限界

 いうまでもなく私の関心は日本語の起源問題そのものにはない。前項以来、現代のこの方面の最新学説を紹介することで、日本語は孤立言語とは断定できないまでも、歴史的由来をただすことがきわめて困難を言語の一つであり、したがって日本文化そのものがユーラシア大陸から独立した"栄光ある孤立"を守る正当な根拠をもっている一文明圏だということに、読者が納得してさえくだされば、それで十分なのである。

 文字は間違いなく中国から来て、それはいちじるしく変形され、日本化された。だからといって日本が中国文明圏だということにはならない。前にも言ったとおり、言語と文字は違う。言語はより根源的である。日本語は周知のとおり、中国語とは縁戚語ですらない。

 人類が音声を使っな言語を用い始めたのは、すなわちスピーキングは、確たることはわからないが約三百万年前に始まる旧石器時代である。それに対し文字の出現、すなわちライティングは最古のシュメール文字にしてもせいぜい数千年前である。現代でも文字を持たない言語がいくらも存在する。

 また、優れた文字を持つ文明下に生きているとしても、喋ったことを完全に文字で表現できるとは限らない。言語と文字表現との間にはつねに隙間がある。隙間という程度ではすまないほどの埋められない深い淵があるのが宿命だと言ったほうが、あるいは正しいかもしれない。

 「書くことが話すことよりも完壁であるととかく考える誤解が、世には存在する。なかには書くことと言語とを同一視するような行き過ぎた間違いを犯す者さえいる」 書物に取り巻かれている文明社会の知識人が陥りがちな自己錯誤である。

 中国の全国人民代表大会には約三千人が一堂に会する。しかし参加者は誰も発言しない。一人一秒もない、という時間の問題だけではない。中国は多言語社会である。誰かが突然立って発言しても言葉が通ない。

 江沢民が壇上で演説するのを聴いても理解できない参会者が少なくないそうだ。皆がワーツと拍手するだけである。そこで紙が配られる。書かれている漢字漢文を目で読んで納得する。各々が自分の国の音で読んで、理解はするが、隣の人にこれを朗読して聞かせたらもうわからないということだ。

 中国のテレビではニュースキャスターが話している間、ものすごい速さで漢字のテロップが流れることがある。中国人同士でも、耳で聴くだけではまったく理解できない場合がある証拠だ。

 「官吏」という言葉も中国から来たが日本とは意味が違う。「官」はキャリアの役人、中央から派遣され、しばらく勤務し栄転していく高級官僚である。「吏」は下積みのノンキャリア組で、それぞれの地方に縛られている。これは端的に通訳のことである。地方語のわかる人が「吏」である。そういう区別が多言語社会の実質を物語っている。

 台湾人の文明評論家、黄文雄氏から聞いた話だが、事情は台湾でも同様であるそうだ。国慶節で蒋介石が演説するのを何度も聴いたが、分からない人が大部分だった。台湾には高砂族という原住民がいて、今でも九つの部族に分かれ、それぞれ独自の集団生活をしている。彼らは固有の儀式を行い、お互いに言葉が通じない。仕方がないので、今でも必要な時には日本語で意思疎通を図っていると言う話だ。

 私は以上、政治的なテーマを語っているのではない。言語哲学的に非常に重要な事を言っているつもりだ。中国はヨーロッパみたいなものだと思えばいいでしょう、と黄氏はおっしゃった。

 フィンランド人はイタリア人が話していることがわからない。アイルランド人はポーランド人が話していることがわからない。それでは文字に書いた文章を見せればいいかというと、中国語と違って、ヨーロッパの文字は表音文字だから、それぞれ相手の言語を勉強していなければ理解はできない。

 表意文字としての中国語はこの点断然有利だ。漢字漢文だと相互理解がたちどころに可能になる。中ていさいとつくろ(?)国が曲がりなりにも統一国家としての見せかけの体裁を取り繕うことができ、有機的な一つの文明だと思わせることに成功しているのは、ひとえに表意文字の有効利用のせいであるが、他方、この有利さには別ともなの面の不利が伴っている。

 すなわち漢字漢文の伝達力には必然的に制約がある。きわめて大雑把な、決まりきった定型しか表現できないという欠点がある。漢字漢文は不完全な言語である。情緒を表現することができない。論理とか道筋とかを正確に伝えることができない。

 だいたい品詞の区別がない。名詞、動詞、形容詞、形容動詞の区別がない。日本語の助詞として重要な役割を持っ「てにをは」がない。だから読みようによってどうにでも読めるし、厳密な伝達ができない。

 ヨーロッパ語のように性とか数とか格とかがない。そもそも語と語のつながりを表す言葉がない。したがって大略の内容表現しかできないで押し通してきたことが、偉大な古代文明を持つ中国がその後の発展を阻まれてきた原因かもしれない。

 魯迅も孫文もこのことを嘆いていた。毛沢東の文字改革はこの嘆きのうえになされたものだが、文字を簡略化しても根本問題の解決にはならない。それに比べ一語一音を廃し、訓読みを導入し、しかも二種の仮名文字を自由自在に混在させる知恵を発揮した日本語のほうが、言語の表記法としてははるかに進歩し、微妙に洗練され、かつ精緻正確な形態に発達していることは言をまたない。

 過日、加地伸行氏という儒学の大家にたいへんに興味深いお話を伺った。日本語の助詞も持たず、ヨーロッパ語の格変化や人称変化も持たない漢字漢文で、語と語の連結はどのようにして行われているのですかという私の質問に、氏はふと思いついたように「端」という字をお示しになった。日本人はこの字を見ると端っこというイメージをまっ先に思いつく。そして、それ以上はなかなか意識に思い浮かぷものがない。われわれには漢字が依然として外来語である所以である。

 加地氏によると、「端」はものごとを区切るということであり、礼儀正しいということであり、さらに、恭しく人に物を捧げ持ってさし出す様子などをさえ示す言葉だという。私は知らないことを初めて言われた驚きを覚えた。「つまり『端』はじつにきちんとしているということを言い表す言葉なんですよ。たとえば日本語でも、『端正な芸風』、『端整な顔立ち』、『端然と座る』などという使い方をするでしょう」。

 そう言われて私は、なるほどと悟った。日本語では中国語の原義のもつ広い概念が、ばらばらの熟語として二字連結で入っている。「端的にいえば」はまさに「ものごとを区切る」という最初の語義に発している。「端厳な態度」、「端座する」は礼儀正しく、きちんとした姿勢を紡佛させる。

 私のようなヨーロッパ系の言語を学ぶ者でも、日本語と対応させるうえでの概念のズレをつねづね経験している。constitutionは組織や構成のことであり、体格や体質のことであり、かつ憲法のことだ。She is weak by conatitutionは「彼女は生まれっき身体が弱い」の意で、憲法とはなんの関係もない。英語やドイツ語だと私はある程度の概念の広がりを当然視しているが、漢字となると、自国語として用いているので、かえって一語の持つ広い概念範囲に平生気がついていない。

 しかし中国人は「端」という一語を見ただけで、広範囲のイメージをじかに表象している。そしてひとつの概念の円が次の概念の円と次々に重なって、それによって語と語の連結をつづけていく。助詞や格変化がなくても不自由しないのはそのせいである。

 教養のある中国人は一つの概念の円が、当然大きくて広い。歴史的に使われていた中国語のありとあらゆる教養のうえで、大きな円を描き、そのつながりで意味了解がなされていくのが中国語の特徴であるから、古典の教養がなければ理解できないことがたくさん出てくると言われるのも、むべなるかなである。

 加地氏は自作の漢字漢文を中国人の先生に見せると、たいてい、ここはいらない、これも不要だ、と文字を削られ、短くされてしまうという。一つの概念の円の範囲がたぶん中国人の先生のほうが広いためである。

 中国の科挙がなぜ膨大な量の古典文学の学習を強いたかという謎もここにあるのかもしれないと思ったが、現代の大衆社会に適用できる話ではないので、漢字漢文の伝達力の限界という先の間いに解答を与えてくれる話ではない。(P131〜P135)


 株式日記と経済展望」主宰者は、「私のコメント」と題して次のように述べている。
 (前略、中略)
 連休期間中は「国民の歴史」をピックアップして注目すべき点を論じていってみたいと思います。その第一はなぜ日本だけがアジアで近代化に成功したかという点ですが、言語そのものに原因があるのではないかと思う。特に中国や韓国などについては何度か触れてきましたが、戦後の文字改革で歴史が断絶してしまった事だ。

 中国では文字改革で漢字が極端に簡略化されて、表意文字なのに本来の意味が分からなくなってきている。だから中国語は中国の古典を読まなければ十分な意味が伝わらないのに、古典そのものが中国人は読めなくなっている。韓国にしてもハングル文字は表音文字であり戦前の漢文などが読めない。

 それだけ中国や韓国は言語や文字に問題があり改革を必要としたのですが、日本だけは西洋の近代文化を取り入れることに成功した。現代においても中国はコピー文化に陥っていて、自立的な発展は難しいようだ。文化とは積み重ねで発展していくものだから、基礎となるような歴史がないと、いきなり近代文明を上に載せても基礎がしっかりしていないから発展は難しいのだ。

 フィリピンなどのアジア諸国やアフリカ諸国などは、欧米に留学して欧米語を話す上流階級と、現地語を話す留学できない一般民衆の二つに分かれてしまって、これではいつまで経っても国が近代化できるわけがなく、欧米などに移民として移住するアジア・アフリカ国民が絶えない。中国や韓国もやはりアメリカに移住する事が唯一の道になってしまっている。

 中国に関する限り英語を習うよりも日本語を習って近代化したらどうかと思う。現在でも中国から大勢の留学生が来ているが、日本語が読めるようになれば世界の翻訳された本を読むことが出来る。韓国にしても日本語教育を進めれば近代化のために役に立つだろう。

 誇大妄想的にいえば、日本人と中国人と韓国人が日本語を公用語にすれば、英語以上の公用語人口となって世界に普及するかもしれない。

(私論.私見)
 れんだいこは、「誇大妄想的にいえば、日本人と中国人と韓国人が日本語を公用語にすれば、英語以上の公用語人口となって世界に普及するかもしれない」に同意する。日中双方の略字も比較検討して、字義に適い的確なものを融通し合えば良いと思う。基本語彙も、もう少し増やせば良いとも思う。

 2007.5.4日 れんだいこ拝

 「株式日記と経済展望」の2007.5.7日付けブログ「多くのアジア諸国の通貨は円で統一され、日本語を話すことのできる人は世界で5億人を越え、日本語が世界共通語になる」を転載しておく。

ブログ投稿数で日本語が世界第一位になった。ネット化社会では日本語が世界の公用語になる。

報道2001/藤原正彦の子供は殴れ、本を読ませろ!(動画36分11秒) 檀君WHO’s WHO
数年後に起きていること―日本の「反撃力」が世界を変える 2月15日 人生ひまつぶし

 将来の日本はどのようになっているか?という内容である。多くの評論家は未来予測をしたがらない。それは、外れる可能性が高いから・・・。まあ当然なのだが、日下公人は違う。ズバッと切り込む。日本はこれからまだまだ伸びると言い切る。

 たしかに、生産技術力はあるし、過去30年間の貯蓄はあるし、特許も多い。最近、技術競争力が落ちたと聞くが、安定して最高級品を作れる技術がある国は、ほとんどないとのこと。

 そして、2010年頃に中国は一度、経済が停滞するとのこと。私は北京オリンピックの次の年が危ないのではと思っており、ほぼ一致したことが少しうれしかった。

 一番驚いたのは、将来日本語が世界共通語になるとのこと。日本人向けの商売をしたいなら、皆、日本語を話すようになる。今までは、イギリス、アメリカが世界を引っ張ってきたので、英語が公用語だったが、これからは日本が引っ張っていく。とのこと。

 公用語までいかないが、多くのアジア諸国の通貨は円で統一され、日本語を話すことのできる人は世界で5億人を越える。私はそう思いますね。どうなるんでしょうね。将来の日本は・・・

   株式日記と経済展望」主宰者は、「私のコメント」と題して次のように述べている。
 昨日のフジテレビの「報道2001」で藤原正彦氏が出ていましたが、「読書する子供を育てろ」と言っていた。現代のような情報化社会では本を読まなければ確実に時代からとり残される。そのような状況では書籍の出版量が文化のバロメーターになるのですが、それは読書人口によって支えられる。

 コリアニメのブログでは韓国の本の流通事情が書かれていますが、本屋や図書館が少なく、読書事情は良くないようだ。研究論文を書く上でも韓国語の本では役に立たないので外国の図書を読まなければならないらしい。韓国や中国から日本や欧米への留学生が多いのも文化的な蓄積が少ないからだろう。

 日本も明治維新以来、欧米の文化を学ぶ為に多くの留学生が行ったが、最近では英語などの語学留学が多くなった。先日のバージニア工科大学の銃乱射事件で知ったのですが、中国や韓国からの留学生は500人くらいなのに、日本人の留学生は20人ほどだった。

 このように語学留学を除くと日本人学生の欧米留学が少なくなったのはどうしてであろうか? アメリカかぶれの評論家によれば中国や韓国ではアメリカのトップレベルの学術レベルを身に付けているから日本は追い抜かれると言っていた。博士号の取得者では1998年の段階で、日本人が152人/中国が2387人/韓国が780人/台湾が871人ということで、中国、韓国、台湾の留学生が異常にがんばっている。

 これは日本の学生がだらしなくなって学力が落ちているからだろうか? もっともアメリカへの留学生はアジアからが圧倒的に多くて韓国、インド、中国、日本、台湾の順ですが、日本を除けば大学などの教育レベルや環境が整っていないからだろうか? 最高レベルの能力を身に付けるにはアメリカ留学しかないからだろう。

 このままでは日本の技術競争力は韓国や中国に追い越されて行くのだろうか? しかし自動車や家電製品などにおける最高級品は日本が独占しているし、技術競争力が落ちたようには見えない。あいかわらず中国などは日本製品のコピー商品を作り続けているし、あれほど大量の留学生を送っている中国や韓国がレベルアップしないのはなぜなのだろうか?

 5月4日の「株式日記」でも少し書きましたが、言語的に中国語や韓国語は近代文化を消化吸収するには困難をともなう言葉であり、欧米の近代工業文化を自国語で消化吸収できた日本語は例外中の例外なのかもしれない。

 だからアジア・アフリカ諸国では、欧米に留学したエリートクラスと学校にも行けない現地語しか話せない大部分の一般民衆レベルに分かれてしまう。現地語では欧米の文化を学ぶ事ができないから、高等教育では英語などを使わざるを得ない。

 中国人や韓国人にとっては文化のまったく異なる英語を学んで近代文化を学ぶよりも、日本語を学んで近代文化を学んだ方が適しているのではないかと思うのですが、評論家の日下公人氏は著書の「数年後に起きていること」で日本語が英語に代わって世界の公用語になると言う予言をしている。

 まあ、予言だから外れても誰も文句は言わないでしょうが、日本語は古代では漢字文化を吸収して、近代では欧米文化を吸収消化してきた唯一の言葉であり、表意文字と表音文字とを組み合わせて使う唯一の言葉だ。だから欧米の言葉もカタカナでそのまま書ける。中国語はそれが出来ない。

 現在では英語がグローバル世界の公用語として使われていますが、アメリカが衰退して日本が世界のトップリーダーとなった時は日本語が世界の公用語となる可能性を秘めている。

 英語は27文字のアルファベットで表示する「発音記号」ですが、表音文字は言葉がなまって発音が違ってくると違う言葉になってしまう。表意文字ならば発音が異なっても文字そのものは変わらずに通じる。中国語は表意文字だから言葉がまるで違っていても漢文を読めば意味は通じる。しかし欧米語を漢字にするにはいちいち創作翻訳しなければならない。

 日本語ならばパーソナルコンピューターと言うような長い英語でも、パソコンという四文字で簡単に自然に創作翻訳できるが、他のアジア・アフリカ言語では翻訳するよりも現地語を捨てて英語を使うようになってしまう。しかし現地語しか分からない現地の人はコンピューター用語は理解できない。

 言葉はコンピューターによって処理されて使われるようになり、ネット社会は文章を瞬時に世界のどこへでも送れるようになった。メールなどは電話よりも便利な機能になり、いつでも相手に伝える事ができる。日本語はその意味では表意文字だから文章を理解するスピードは欧米語に勝る。

 だからネット社会になりメールという形で意思を伝える事が普通になった社会では、日本語が圧倒的な優位性を持つ。このような優位性を生かしていけば英語文化圏を上回る高度な文化圏を作ることが出来るはずだ。インターネット社会では日本語がいかに優位性を持つか次のニュースを見ればそれは分かるだろう。

【黒川伊保子(著)「日本語はなぜ美しいのか」】
 「株式日記と経済展望」が、)「日本の基礎科学がどうして強いのかについては様々な理由があるが、私が見るに、日本語で学問をするという点も大きいようだ。韓国日報」を紹介している。これを転載しておく。

 日本の基礎科学がどうして強いのかについては様々な理由があるが、私が見るに、日本語で学問をするという点も大きいようだ。韓国日報

 2008年10月10日 金曜日

日本がノーベル賞を取れるのは自国語で深く思考できるから。我が国も英語ではなく韓国語で科学教育を行なうべき  10月9日 韓国日報

■自国語で学問する

今年のノーベル物理学賞受賞者は日本人一色だ。高エネルギー加速器研究所の小林名誉教授、京都大の益川名誉教授と日系アメリカ人の南部シカゴ大名誉教授だ。日本は1949年に湯川秀樹が物理学賞で初のノーベル賞を受賞して以来、物理学賞受賞者だけで7人になる。今年も受賞者をまた輩出した化学賞に医学生理学賞を加えれば受賞者は13人になり、この分野の国家別順位でも世界7位だ。

日本の物理学賞受賞者たちは専ら日本で大学を終えたが、特に今回の受賞者3人はいずれも最終学位まで日本で終えた。80代の南部教授は1952年にプリンストン大招聘を契機にアメリカに定着したものの東京大学で勉強したし、60代の小林・益川教授は名古屋大で博士課程まで終えた。今回の受賞対象となった「小林・益川理論」自体、2人が大学院生と研究員として出会った名古屋大で誕生した。

日本の基礎科学がどうして強いのかについては様々な理由があるが、私が見るに、日本語で学問をするという点も大きいようだ。基礎科学、特に物理学のような分野は物質界の作動原理を研究するものであるから、どの分野よりも深みがあり独創的な思考が重要だ。深みがあり独創的な思考をするためには、たくさん思考せねばならない。そのためには基本的な概念を早くからきちんと身に付けねばならない。南部教授は小学校のときに理科の時間に感じた興味が彼を科学者に導いたという。基本概念はどうすればきちんと身につくか。理解しやすい言語で科学を説明することから始まるはずだ。

日本は初等・中等過程はもちろん、大学でも日本語で科学を教える。そのため、西洋で発達した科学を日本語に訳すのを当然の基礎過程だと考えている。漢字文化圏である東洋4国があまねく使っている「科学」「化学」「物理学」などの用語自体が、アルファベット圏言語を自国語で把握しようとした日本の知識人たちによる翻訳の所産だ。「素粒子」「陽子」「電子」などの用語も、すべて日本人が作ったものだ。

そのおかげで、日本人にとって世界的水準で思考するということは世界で一番深く思考するということであり、英語で思考するということではなくなった。これは外国語が苦手といわれる日本人たちが基礎科学分野でノーベル賞を多く取っていることや、益川と小林の研究が日本の大学から誕生したことにもよく現われている。

一方我が国は、小学校・中学高校過程では科学の基本概念をきちんと把握する教育をしないで、大学に入ると突然英語で科学を教える。名門大学であればあるほど、理学部・工学部・医学部の物理・化学・生理学などの基礎分野に英語教材が使われる。内容理解だけでも不足な時間に外国語の負担まで重なっては、韓国語で学ぶ場合に比べると半分も学べない。韓国の基礎科学は外国に留学に行くことを初めから想定して教えているわけだ。

教授たちは、基礎科学分野の名著がまともに翻訳されていないからだと言うが、このように原書で教えていては翻訳する意味がなくなる。韓国語なら10冊読めるであろう専攻書籍を、1冊把握することも手に負えないから、基本の面で韓国の大学生たちが日本の大学生たちより遅れるのは当然だ。大学を出ても学んだものが無いという現象も、ここから生じているのだ。

大学の基礎科学教育を世界的な水準へ高めるために外国の碩学たちを連れてくるのに国はお金を惜しまないという。ちょっと聞くと素晴らしいことだ。ところが、果たして全国の小学校と中学・高校で科学の実験は思う存分できるか。初等・中等過程と大学過程で科学を正しく理解する基礎は用意されているか。世界的な水準で思考するということは、英語で思考するということではなくて世界で一番深く思考するということだが、それ実践する土台は用意されているか。ハングルの日だから言っているのではない。

 続いて、「『英語を学べばバカになる―グローバル思考という妄想』 薬師院仁志」を紹介している。これを転載しておく。
『英語を学べばバカになる―グローバル思考という妄想』 薬師院仁志

◆アメリカ時代の絡わりと英語時代の終わり

 われわれは、ヨーロッパの教訓を無視すべきではない。何もアメリカだげが親分や模範ではないし、ましてやアメリカだけが世界ではないのである。交通手段や通信技術の飛躍的な発達によって、今や、世界中のあらゆる国が日本の隣国となっている。隣国と足の引っ張り合いをしていたのでは、自国の発展などありえない。たしかに、グローバルな経済競争の中で、効率性を追求する必要を訴える者は多い。だが、それに積極的に加担し、それに自ら進んで巻き込まれることが、本当に日本および日本国民の発展につながるのかどうか、もう一度考え直してみる必要がある。そもそも、世界はアメリカだけではない。実際、EUのGDP(国内総生産)は、すでにアメリカを超えているのだ。

 あらゆるものは、近くで見るほど大きく見える。英語に関してもアメリカに関しても、それは同じことだ。われわれは、英語やアメリカの影響力を、いささか過大に見積もっているようなのである。特に、アメリカに関してはそうだ。だが、アメリカは、世界標準でもなけれぱ、世界の中心でもない。日本人は、よく欧米という言葉を使い、ヨーロッパとアメリカを同一視する傾向があるが、これほど大きな勘違いもない。むしろ、ヨーロッパ人から見るとアメリカは特殊な国であり、その影響力も低下する一方なのである。

 船橋洋一氏によると、「英語が二一世紀に向げて、事実上の世界語へとのし上がってきたのは、英語を母語とする米国が世界の超大国」となったことに負っているという。つまり、英語による一言語支配は、アメリカによる世界支配の一側面に他ならないというわけである。つまるところ、英語の公用語化は、超大国アメリカの威を籍るという戦略に他ならないのだ。

 裏返せぱ、そもそもアメリカに威がなければ、英語に乗っかろうとする戦略自体が成り立たないことになる。アメリカによる世界支配が終わると、英語による言語支配も終わることになってしまうからである。

 アメリカによる世界支配は、終わりつつある。ある面では、もう終わっているのかもしれない。おそらく、問題は、いつ、どの時点で、人々がそれに気がつくのかということでしかないだろう。そして、アメリカの時代の終わりは、英語の時代の終わりでもあるのだ。

 すでに二〇〇二年、エマニュエル・トッド氏は、その著書『帝国以後』の中で、「二〇五〇年頃には、アメリカ帝国は存在していないということを間違いなく予言することができる」と予言している。今となっては、これが特に大胆な予想であるとも思われない。私は、同じような予想を、アメリカの研究者から聞いたことさえある。アメリカ人のチャルマーズ・ジョンソン氏が、アジアにおけるアメリカの帝国主義的政策が近い将来必ず報復を受けると警告したこともまた記憶に新しいところであろう。

なぜアメリカの時代が終わるのか。極めて単純にまとめると、ソ連の脅威がなくなれぱ、世界はもはやアメリカを必要としないということである。東西冷戦時代、日本や西ヨーロッパをはじめとする多くの旧西側同盟国は、ソ連の脅威(それ自体の実在性も怪しいものだが)に対する守護者として、アメリカの軍事力を必要としていた。だからこそ、多くの国々がアメリカに追随し、その自已中心的な横暴さにも目をつぶってきたのだ。逆に、アメリカは、同盟諸国の自発的服従があったからこそ、世界の超大国として君臨し続けることができたのである。

◆英語ができなければ、この先生きてゆけないのか

ただ、私の場合、英会話は苦痛だが、フランス語会話なら何とかなる。フランス語は大学の授業ではじめて習った言葉だし、私が長期の海外生活を体験したのは四〇歳をすぎてからなので、下手であることはたしかである。それでも、フランス語なら、テレビやラジオのニュースくらいは理解できるし、対面コミュニケーションにおいても大した不自由は感じない。要するに、会話力に関しても、必要性と使用機会のある言語ならぱ、何とか身につくのだ。逆に言えぱ、必要性も使用機会もない言語は、身につかない可能性が非常に高いと考えた方がよいと思われる。

 と言うのは、特段の語学的才能も経済的余裕もない者にとって、知的業務で役立つレベルの外国語力を身につけるには、並々ならぬ努力の積み重ねを要するからである。たしかに、語学的才能に恵まれた人は実在する。だが、それは、語学の専門家となるようなごく一部の人たちであろう。普通の者は、よほど強い動機づけと必要性がない限り、まともな外国語能力を身につけるだけの努力は続かないものなのである。

 文通を楽しんだり気軽なお喋りをしたりする程度の語学力であれぱ、大した努力をしなくても身によくつくのかもしれない。だが、それは趣味や遊びのレベルだ。国際的な契約交渉をしたり、外国文献で専門知識を得たりするためには、そんな程度の語学力では全く役に立たない。日本で普通に暮らす普通の人間が、それだけの語学力を身につけるだけの努力をするには、よほどの理由が必要なのである。だからと言って、自分は勉強せず、その努力を我が子に押しつけてみても仕方あるまい。もちろん、趣味や楽しみで英語を学ぶのも悪くはない。その場合は、金銭的にも時間的にも無理のない範囲でやればよいのである。

 結局、英語を本当に必要としない者が、世間の風潮にあおられたり強制されたりして、英会話学校に通い、英語教材を買い集めても、挫折を繰り返す可能性が高いのだ。この挫折は、豊かさの反映でもある。英会話に何度挫折しても、それでも英会話学習費を払い続けられるということは、豊かさの証拠であると同時に、その人にとって英語が不要だという事実の裏返しでもあるのだ。英語ができなけれぱ本当に生きてゆけないというのなら、今日の日本のような状況が生まれることもない。

◆英語が苦手でも発展を遂げてきた

 では、日本で生きてゆくのに英語を必要とする人間はどのくらいいるのか。藤田悟氏によると、仕事の上で英語を必要とする人の割合は、「職業人の一%程度」だとのことである。逆に言えぱ、九九%の人には不要だということになる。冷静に考えると、まあそんなくらいだろう。私の身の回りでも、会社や役所に勤めている友人や親類を見た場合、実際に仕事で英語を使っている者など一人もいない。英語が苦手なことが原因で失業したり生活苦に陥ったりした知人もいない。

 実際、大多数の国民が英語を苦手とする日本は、他の多くの国々以上の発展を遂げてきた。国の豊かさという面だけで見るならば、まだまだ世界には貧しい国が多い中、今の日本以上の状態を望むのは賛沢というものであろう。日本は、労働力や生産力の全般的レベルが高いからこそ、今日の生活水準を築きえたのである。この事実は、大部分の職業人が、たとえ英語は苦手でも、自らの仕事を立派に果たすことができたということの証拠であろう。考えてもみよう。世界には英語を「公用語」とする国が六〇か国ほどあるらしいが、主要国首脳会議(G8)の仲間入りを果たしたのは、そのうちの三か国でしかないのである。

 藤田悟氏も正しく認めているように、外国語の支配を受けず、外国語に依存せずとも生きてゆけるという日本の状況は、喜ぶべきことなのだ。さらに言えば、英語に支配された国々がアメリカ化への防御壁を失っている一方、母語が安定している国は、自分たちの杜会を自分たちで考える可能性を持っているとさえ言える。われわれは、莫大なカネと時間と努力とを要する英語公用語化を考えるよりも、日本語で成り立つ社会を維持し発展させることを考えた方が得策なのである。自ら好んで苦痛を求めることもあるまい。

 なぜ外資系企業の日本支社長でなければならないのか。日本語を母語とし、日本に暮らす人間ならば、日本の会社で出世して高給取りになることを考えた方が、ずっと実現の可能性が高いに違いないのである。

 さらに、英語と外資系企業を直結させることもまた、非常に短絡的である。外資系企業であれ日本企業であれ、証券会杜は証券会杜だし、製薬会杜は製薬会杜であって、それぞれ専門分野の仕事をしているのだ。就職や転職にとって、外資系か否かよりも、そちらの方がずっと重要な要素である。しかも、藤田悟氏の言うように、「外資系企業でも英語で仕事をこなしている社員は限られている」し、「海外との仕事であっても英語をペラペラしゃべる必要はない」というのが実情なのである。

 たしかに、高い志をもつことは素晴らしい。現状を超えてゆこうという努力は大切である。だが、作家やスポーツ選手や芸術家にはなれそうもない、学者や研究者になるのも難しそうだ、事業を起こすだけのカネもない、独立起業は危険が大きい、でも英語ならできるかもしれない、英語さえできれば、きっと国際的に活躍できるだろう、といった発想は、非常に安易なのだ。はっきり言って、幻想である。

 日本語を母語とする人間は、何か知りたいことがあると、まず日本語を母語とする人間に聞く。それで間に合えば、間題は解決である。そのようなことは、どこの国の人間にとっても同じであろう。何か知りたいことができれぱ、まず第一に、母語を共有する身近な人に尋ねるに違いないし、自国語で書かれた文献を見るに違いない。わざわざ言葉の壁のある人間に尋ねるのは、よほど特殊な情報や、よほど専門的な知識に関してだけである。アメリカの企業にしても、アメリカの人間だけで間に合う仕事に、わざわざ日本から人を雇う必要もないのである。

 だから、現状を超えてゆくためには、英語以前の間題として、何らかの技能や高度な知識が必要なのだ。大リーグ入りした日本のプロ野球選手にしても、英語を武器に活躍しているわけではない。アメリカで働くのだから英語ができるに越したことはないだろうが、まず必要とされるのは野球の技量である。問題が言葉だけであれぱ、専門の通訳や翻訳者を雇えばよいのだ。それでたいていのことは解決するだろう。だが、知識や技能を欠いている場合は、たとえ何語ができようとも、どうしようもないのである。

◆英語を勉強するのば効率が悪い

 では、知識や技能を身につけるには英語ができる方が有利かというと、そうでもない。日本語は、一億人以上の使用者を持つ言語である。日本語の出版物は、専門書や教養書も合め、非常に多量である。また、さまざまな言語で書かれた著作が日本語に翻訳されている。実際、これほど多様かつ多量の著作が自国語に訳されている国も珍しい。このような恵まれた状況にあれば、よほどの専門家でもない限り、知識や文化を身につげるために外国語など不要なのである。

 とりわけ、英語の文献は実にたくさん邦訳されている。アメリカで少しでも話題になった本は、すぐさま日本語に翻訳されると言っても過言ではない。ニュースにしても、アメリカ発のものはすぐに日本のメディアで紹介される。となると、一般人が原書を読んだり英語放送を聞いたりする必要性もないわけである。

 第一、特に専門的な知識や技能を持たない人間は、英語を学んでみたところで、どのみち日本語で読めるようなレベルの本や雑誌しか読めない。しかも、言葉さえできれぱ、言われたり書かれたりしている内容が理解できるわけではない。たとえば、国際貿易に関する基礎知識のない人間は、たとえ何語で言われようが何語で書かれていようが、高度な貿易問題について理解することなどできないのである。そんな人間が外資系企業の支社長になることもない。英語だけできても、大した武器にはならないのだ。

 また、発信といったところで、発信するに値する内容を持たなければ、何の意味もない。たしかに、一般人でも外国語で発信する値打ちのある体験をすることがある。たとえば、自分が実際に体験した災害や事件の状況を世界に伝えたいなどという場合である。だが、それならば、必要なときだけ専門の通訳や翻訳者の力を借りればよいのだ。その方が高い費用と長い時間をかけて英語を習うよりずっと合理的であろう。そもそも、世界の人々に何かを伝えるというのであれぱ、英語一つだけできても仕方がないわけで、どのみち語学の専門家の力が必要なのである。

 いずれにせよ、個人の成功や出世の手段として考えた場合でも、まず英語を学ぶというのは、非常に効率が悪いと言わざるをえない。それ以前に必要なものがたくさんあるのだ。それに、他の知識をさしおいて、英語力だけが向上するということはない。

 たとえ何語であれ、自分の知識の範囲内でしか語彙は増えないし、自分の思考力以上の言語表現はできないのである。たとえぱ、日本で生まれ育った日本の中学生は、日本語に不自由している自覚はないだろうが、複式簿記という単語を知っている者はほとんどいないだろうし、西田幾多郎の著作を理解できる者もまずいないだろう。自分の母語能力以上に外国語が上達することもまた、ありえない話だ。

 株式日記と経済展望」主宰者は、「私のコメント」と題して次のように述べている。
 今年のノーベル賞の発表において、日本人および日系人が4人も受賞したという事は特別な意図があるようだ。ノーベル賞といえばアメリカ人によるアメリカ人の為のアメリカ人の賞でもあるのですが、グローバルな意味合いを持たせるために、外国人にも賞を与えてきた。受賞者の国籍の内訳を見ればアメリカが232人であり、2位がイギリスの75人で、米英だけで300人を越えるのに、3位ドイツ4位フランスを含めた米英以外の国は100人にもならない。

 それにも拘らず学界の最高権威の賞として報道されていますが、それほど学界の重要な研究が米英に偏ってきたのだろうか? ノーベル賞の元になったノーベルはスエーデン人ですが、ノーベルの遺言によって国籍は考慮しないとされてきたのですが、結果としてアメリカ人イギリス人に集中して多い。これは選考が英語による論文で評価されるからだろう。

 しかし科学研究が非常に金のかかるものであり、世界一の経済力を持つアメリカにノーベル賞受賞者が多いのは当然の事でもある。しかし英語の壁があるのも事実であり、ドイツやフランスやロシアやイタリアなどは異常に少ないのは不可解だ。日本もノーベル賞級の科学的な実績はあるのでしょうが、選考などは英語で書かれた論文などが対象となっている。

 戦前に関してはドイツ人のノーベル賞受賞者が一番多く36人なのにアメリカ人は18人で、アメリカ偏重は少なかったのですが、戦後は米英の為のノーベル賞になってしまっている。私自身は自然科学のことは詳しくないのですが、本当に科学的業績がアメリカに集中しているのだろうか? 論文の数自体はアメリカと日本とは同じくらいなのですが、日本語の論文は対象外なのだろう。それとも日本語の論文のレベルが低いのか?

 このようになってしまった背景としてはアメリカが世界帝国であり、英語文化が世界のグローバルスタンダードだというプロパガンダがあるからだろう。戦前はヨーロッパが世界の政治経済文化の中心でもあったのですが、戦後はアメリカにそれが移ってしまった。経済力でも軍事力でもアメリカに敵う国はなく、現在でも覇権国家である事は間違いない。

 しかしアメリカが覇権国家になったのは戦後の事でありわずか60年余りの事だ。軍事的に対抗していたソ連は崩壊して共産主義のイデオロギーも否定された。戦後経済力で頭角を現して来た日本も最近は影が薄くなり、90年代以降はアメリカの一国覇権主義の時代と言われるようになった。

 アメリカがこれほど強大になった理由と衰退する理由は同じであり、それは国内から産出された石油の富によるものだ。石油があったからこそアメリカは世界大戦で勝者となり、世界経済の中心ともなった。だから学術研究の分野でも資金力の豊富なアメリカに科学的業績が集中したのは当然なのだろう。

 石油以外にもアメリカを強大にした力の源は、ヨーロッパからの豊富な労働力の供給があったからともいえる。ヨーロッパの高度な文化がアメリカに移植されて、豊かな地が資源と共に結びついて世界一の超大国となった。

 しかしこのような認識と、英語による世界公用語化は認識が別である。日本の教育界には英語が世界のデェフェクトスタンダードだとして、小学校からの英語教育が行なわれるようになりました。しかし本当に英語が世界のデフェクトスタンダードなのだろうか? 

 それに疑問を投げかけているのが薬師院仁志氏の『英語を学べばバカになる』という本ですが、題名が誤解を招きやすいのですが、英語グローバリズムに対する批判だ。この本によれば世界の英語人口は多くなく、思い浮かぶ英語国はアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージ−ランド、南アフリカぐらいで、インドやパキスタンは英語は通ずるが母国語ではない。つまり英語を母国語とする人口は4億人くらいで、後は英語を外国語として学んでいる人が多いということなのだろう。

 つまりアメリカが国家として衰退すれば英語も使われなくなり、新たなる覇権国家の言葉が使われだすのだろう。つまり英語を学べば先進国になれるというわけでもなく、なれるものならインドやフィリピンなどはとっくに先進国になっているはずだ。むしろ英語教育を普及促進しようとすればするほど、その国の国力が落ちている。

 そのいい例が、破綻しつつある韓国ですが、韓国ほど英語教育に力を入れている国は無いだろう。アメリカに留学する韓国人学生の数は異常なものであるし、国内教育においても英語教育に費やされる時間と費用は異常なものだ。これは高度な教育は英語が前提とした教育体制となっており、大学レベルになると英語で授業ができる事が大学教授の条件になっている。

 当然使われる教材も全部英語で、英語が分からないと科学も理解できない。自国語の本なら10冊読める時間で、英語の本を読むのに1冊がやっとというのでは科学のレベルも落ちるのが当然だ。なぜ日本のような翻訳して母国語での教育が行なわれないのだろうかという疑問が出ますが、日本では理工系の教育も医学系の教育も日本語で行なわれていますが、日本のような例は希なのだろう。

 つまり英語の文献を母国語に翻訳しようとしても該当する言葉が無くて翻訳が出来ない事が問題であり、津波のように押し寄せる英語の新語に対して翻訳する事が出来る文化レベルがないと翻訳できない。科学用語も日本では翻訳されていますが、海外の場合は英語を先に学んで科学用語を理解したほうが早い。しかしそれでは英語をマスターできないと最先端の科学が理解できない。

 韓国日報の記事はこのような韓国の現実を指摘していますが、日本は韓国のような過ちは犯してはならない。確かに英語がマスターできて最先端の科学も理解できればいいがそれは理想論だ。だから英語教育に力を入れれば入れるほど科学技術のレベルは落ちて韓国やフィリピンやインドのように科学後進国になってしまう。

 むしろ問題にしなければならないのは、日本人の日本語力が落ちてきて、外国語を日本語に翻訳できる能力が落ちてきている事だ。映画の題名にしても昔は名訳が多かったが最近では英語のカタカナ読みをそのまま使っている。科学用語もカタカナのままが多いのですが意味が掴みづらい。今回のノーベル物理学賞にしても「素粒子」「陽子」「電子」などの日本語で意味を掴んで思考されたのでしょうが、インターフェロンといわれても何のことか分からない。しいて言えば抗体蛋白質と訳せるのでしょうが、マスコミもカタカナ用語をそのまま使っている。

 つまり日本語力が落ちればカタカナ用語が増えてきて意味が掴みづらくなって思考に影響が出てくることだろう。だから日本語力を高める事が翻訳能力を高めていく事が大切ですが、文部省は英語教育に時間を割くことで対応しようとしている。これは即ち日本も韓国と同じ過ちを犯すことであり、英語教育に時間をとられる結果、日本の科学技術は確実に後れて行くことになる。




(私論.私見)