50音日本語発生史考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.7.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本語とは、母音5と×10列の規則正しい50音(正確には48音と「ん」の1音を加えた49音)による語彙と、主語+目的語+述語と繋がる後述語構文による文章により構成される。ひらがな、カタカナ、漢字、数字、符号により表現される。日本語は、「日本語50音の発明」は、世界史上最も特記されるべきそれであるように思われる。以下、50音の仕組みとそれぞれの音の持つ意味について考察し、これを確認して行くことにする。日本語研究上、これが避けて通れない。

 2009.1.25日 れんだいこ拝


【「日本語五十音(ごじゅうおん)」考】
 「ウィキペディア五十音」その他を参照する。

 日本語は、「日本語五十音」(ごじゅうおん)を原型としている。50音は、母音に基づき縦に五字のあ段、い段、う段、え段、お段、子音が横にあ行、か行、さ行、た行、な行、は行、ま行、や行、ら行、わ行の十行並んだ相関構造式になっている。5母清音に子音が完全対応で噛み合わされて50音となっている。但し、正確には48音と「ん」の1音を加えた49音である。このように定式化された言語は他になく日本語独特のものとなっている。この言語構造式は、原日本人が獲得した偉大な発見ではなかろうか。
 母音は、人の発声上の形態を「あ、い、う、え、お」の5種に分けたところに意味があると思われる。奈良時代の頃までは、「い、え、お」がそれぞれ2種類あって8母音だったする説がある。しかし、言語学者の松本克己氏の1975年以降の論文によると、「い、え、おが2種類あるように見えるのは、前に来る音の影響を受けた微妙な音変化に過ぎない」として5母音説を唱えている。

 「日本語と日本の音」を参照する。
 (http://www.geocities.co.jp/MusicStarKeyboard/5484/shakunihongo2.htm

 西洋語は、「自然の音」を、言語的な意味作用を持たないものとして「音、音楽」として受容している。これに対し、日本語は、それに何らかの「言語意味」を付与しており、単に「音、音楽」のみならず言語として受容されている。即ち、日本人語は音の多くを意味のあるものと捉えている。これによって、日本語の母音にはそれぞれにそれだけで意味を持つ場合がある。例えば「井」、「胃」、「鵜」、「絵」、「江」、「尾」などがそうである。このように母音のみで意味を持つ言語というのは世界的にも稀なことで、インド語も中国語も朝鮮語も西洋人の分類に区別され、わずかにポリネシア語が日本語と同じ音受容をしている。
 現在では音韻変化のため子音が不揃いになっている部分があるが、古代においては「ち、つ」は現在の「ティ([tʲi])、トゥ([tɯ])」、「は、ひ、へ、ほ」は現在の「ファ([ɸa])、フィ([ɸʲi])、フェ([ɸe])、フォ([ɸo])」、「ゐ、ゑ、を」は現在の「ウィ([ɰʲi])、ウェ([ɰe])、ウォ([ɰo])」といった音声であったと推測され、より整然とした体系をもっていた。

 ヤ行エ段の音(イェ[je])に文字がないのは、平仮名、片仮名が整備される以前(10世紀前半)に文字としてはア行の「エ」に合流したためで、万葉仮名には存在していた。 なお、発音自体は文字とは逆にア行エ段音([e])がヤ行エ段音([je])に合流している。現代のようにア行エ段音が[e]になったのは江戸中期のことと推定されている。

 ついでに言えば、ア行オ段の「オ」も、本来は[o]のような発音であったが、平安中期に発音上はワ行オ段の「ヲ」と同じ[ɰo]に合流したことが知られている。両者の音が現代のように[o]になったのは江戸中期のことである。

 文字としての仮名は日常使われる46文字に「ゐ」と「ゑ」を加えた48文字が使われる。一方発音上では、清音の他には濁音半濁音長音促音撥音拗音、などが加わる。その結果、発音の総数は100以上ある。

 「五十音」、「五十音図」の名は江戸時代からのものであり、古くは「五音(ごいん)」とか「五音図」、「五音五位之次第」、「音図」、「反音図」、「仮名反(かながえし)」、「五十聯音(いつらのこゑ)」などと呼ばれていた。

【「日本語五十音の構造」考】
 「日本語五十音」の構造式は次の通りである。
あ行 (母音) a i u e o
か行 (子音) ka ki ku ke ko
さ行 sa shi su se so
た行 ta chi tsu te to
な行 na ni nu ne no
は行 ha hi hu he ho
ま行 ma mi mu me mo
や行 ya i yu e yo
ら行 ra ri ru re ro
わ行 wa i u e o
N

あ行 (母音) a i u e o
か行 (子音) ka ki ku ke ko
が行 ga gi gu ge go
さ行 sa shi su se so
ざ行 za zi zu ze zo
た行 ta chi tsu te to
だ行 da di du de do
な行 na ni nu ne no
は行 ha hi hu he ho
ば行 ba bi bu be bo
ぱ行 pa pi pu pe po
ま行 ma mi mu me mo
や行 ya i yu e yo
ら行 ra ri ru re ro
わ行 wa i u e o
N

行(子音)

(母音)
あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行
a ka sa ta na ha ma ya ra wa N
i ki shi chi ni hi mi i ri i
u ku su tsu nu hu mu yu ru u
e ke se te ne he me e re e
o ko so to no ho mo yo ro o

【ひふみ数え歌の哲理】
 昔からの数え歌の「ひふみよいむなやこと」を解析する。これには次のような深い哲理が秘められている。(「ひふみ(一二三)の教え」その他参照)
【「一二三の理」】
 古神道では、言葉は言霊である。「こと」とは「息」の古語であり、「ば」は口を開けた状態を指している。これにより「息の発露」が言葉の原義となる。そこに魂、霊が宿っているとしており、言葉が言霊となる。万葉集の中で、歌人の柿本人麻呂が次のように詠っている。
 「志貴嶋(しきしま、敷島)の倭(わ、やまと)の国は、事霊(ことだま、言霊)の佐(たす)くる国ぞ、真福(まさき)く在りこそ」。

 「ひふみよいむなやこと」は「天の数歌」、「ひふみ神歌」、「ひふみの数霊祝詞」とも呼ばれる。
【「一の理」】
 「一」は、「火」を意味しており、「火」は「霊」、「日」に通媒している。全てのものの始まり、全てがこれより生ずと云う根源の意味を持つ。

 天台座主・山田恵諦師の教理は次の通り。
 「一がちゃんと支えられている時、世の中は平和で全ての人類は幸福だ。一を支えるためには三本の脚が大切で、その長さは同じでなければ、傾いたり、ひつくり返ってしまう。その三本の脚とは、政治、経済、宗教だ。この三本の脚が揃ってしつかりしていさえすれば国は栄える」。
【「二の理」】
 「二」は、「風」を意味しており、「増える」に通媒している。一の対となっており、全ての根源である霊が陰と陽の二つに分かれる理合いを表わしている。夫婦の意味も持つ。
【「三の理」】
 「三」は、「水」を意味しており、「身」、「実」、「充ちる」に通媒している。二以上のたくさんのという意味を持つ。
【「四の理」】
 「四」は、「世」を意味しており、「余」、「四方八方の広がり」、「充満」に通媒している。
【「五の理」】
 「五」は、「息」を意味しており、「命」に通媒している。三とは叉別のたくさんのという意味を持つ。手指、足指が5本の理とも関係する。
【「六の理」】
 「六」は、「産(むす)び」を意味しており、「結び」に通媒している。命が発展していくさまを表わす。
【「七の理」】
 「七」は、「成る」の意であり、「鳴る」に通媒している。三、五とは叉違うたくさんのという意味を持つ。七宝、七賢、七福神に使われる等聖なる数としても使われる。人の寿命の節として使われる。その最初が「七五三」で、7の倍の14が元服、3倍の21が成人、4倍の28が厄、5倍の35が女厄、6倍の42が男厄、7倍の49が厄、8倍の56、9倍の63、10倍の70.11倍の77、12倍の84、13倍の91、14倍の98。15倍の105、16倍の112まで続く。
【「八の理」】
 「八」は、「山」の意であり、「弥栄」、「発展、前進、末広がり」に通媒している。
【「九の理」】
 「九」は、「子」の意であり、「凝る」、「窮極」に通媒している。

 「九の理」の実践的弁証法は次の通り。
 窮鼠猫を噛む(諺)。窮すれば通ず。窮通の理。艱難汝を玉に成す。窮すれば、即ち乱するものは小人である。達人は窮しても通ず。生を必して戦うものは死し、死を必して戦うものは生く。背水の陣。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。活路。血路。捨て身。体当たり戦法。貧すれば貪(鈍)す。弱り目に祟り目。九死一生。百尺竿頭に立つ。七転び八起き。「死なんと戦えば生きるもの也。生きんと戦えば、死ぬるものなり」。背水の陣。大死一番。窮寇は迫るなかれ。死地に陥れて、而してのち生行く。死地には即ち戦え(孫子の兵法)。

 窮の語彙は、穴の中に身を入れ、屈して弓なりになっている様である。弓は弾力を意味する。窮力は弾力である。窮は、究に通ずる。究とは、穴の中に身を窮して九となるを究と云う。窮中の究は穴の中の九、穴の中の九は糾合力究明力である。窮身は一転して通身になり出藍する。窮通しようと欲するものは、窮に向って弓を射ることが肝要である。窮に向って大いに弓を射るは窮を射破る所以、窮を夷(たい)らげる所以である。夷は、大いに弓を射るの義である。(夷の字を分解すれば、大弓である)

 人は気力、迫力、弾力がなければならぬ。屈するが為に屈するのではなく、伸びるために屈する。空気が然り。空気を圧縮すれば驚くべき力を発する。圧縮するは窮迫せしめるのである。九が通じて十(トオ)になる。十は十全の意である。身はミ、三である。三々五々、ばらばらの力が窮して九(キュウ)となる。三々が九は、糾合であり、求心である。
【「十の理」】
 「十」は、「統」の意であり、「止の」、「十全」に通媒している。
【「百、千、万の理」】
 「百」はモモ、「千」はチ、「万」はヨロヅ。

【アワヤの歌】

 鳥居礼・氏の「秀真伝が明かす超古代の秘密」(日本文芸社、2007.10.20日初版)15Pに「秀真伝にこう書かれている」として次のように記されている。

 昔、イザナギとイザナミの二神が、アワの歌を民に教えながら、言葉を整え国を治めた。言葉の道を示すアワの歌の中のアという音は、天と父を意味し、ワは地と母、ヤは人と子を意味する。アワヤという三音は、とても重要なのである

 「アワヤの歌」とは、アカハナマ イキヒニミウク フヌムエケ ヘネメオコホノ モトロソヨ ヲテレセエツル スユンチリ シヰタラサヤワ

 これがイロハ歌の原型ともいうべき古歌であると云う。


【50音文字の哲理考】
 「日本語五十音」の生成過程は分からない。云えることは、日本語の50音はそれぞれ数理的哲理的意味づけされているということである。これを思えば、日本語は世界史上に珍しい哲理文字という範疇に入れられるべきかも知れない。とにかく独特の文字となっていることが判明する。

 カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)のデータバンクにある世界の499言語の統計によると、言語の平均音素数は31。英語が45、仏語が36、ハワイ語は13。日本語の音は20〔母音が5、子音が13、半子音が2(y.w)〕。日本語は、ほかの言語と比べてはるかに少なく、音声面においては世界でも珍しいほど簡単な言葉であるといえる。

【50音文字の意味考】
 「日本語の意味の構造」参照転載。
ア行 人間主体の存在する形態。  「ア・吾」「ウ・∩形・屈曲した形状」「オ・圧迫」。主体として存在「在る・有る」。子どもを生み、屈曲する躍動体「うつむく・うなづく・産む」。身体活動・圧迫行動「置く・起こす・抑える・押し込む・追いかける・脅す」。
カ行 口の食う形態。  「カ・噛む」「キ・切る」「ク・食う」「ケ・消す」「コ・込める(乙類)」。口の形態で、食べ物と口の機能を概念化している。
サ行  矢の飛ぶ方向と形態。 「サ・斜め下方向へ」「シ・下方向へ」「ス・進む」「セ・攻める」「ソ・反れる」。弓矢は生活の手段であり身体防衛の最重要の用具であった。言語創生に深く関わってきたことを証明。
タ行 手の機能。   「タ・手」「チ・千切る」「ツ・突く」「テ・手」「ト・取る・止める」。「垂れる」は立ったときの手の形態を表す。「チギル」と「小さくなる・塵・ちまちま。
ナ行 人体の形態。  「ナ・なよやか」「ニ・にほひ」「ヌ・ぬめる」「ネ・音・寝・根」「ノ・乗(乙類)」。「ナ・汝・あなた」人体のなおやかな形態・性生活の形態用語。
ハ行 「歯」の形態機能と咥内の機能。   「ハ・歯・端」「ヒ・挽く」「フ・吹く」「ヘ・減る」「ホ・頬」。「ハ=端=刃物・歯先=刃先」は石器の形態。全て身体言語である。
マ行 目の機能。   「マ・目」「ミ・見」「ム・躍動」「メ・目」「モ・本源(乙類)」「モ・盛り上がりの形態・股・藻・燃(甲類)。「マミモ」は目の形態。「ム」は「胸=心臓・むらきも」。「モ・(甲類)」は「腿」
ヤ行 弓矢の形態。  「ヤ・矢の形態・形」「ユ・揺らぐ形態・湯・弓・緩るむ」「ヨ・人体がくねる動き・寄る動き・よがり(乙類)」。狩猟民族語の項を参照。
ラ行 動詞活用語尾機能:事象の形状局面の表出
ワ行 合成語

主体
尖りの形状 本来は矢を射る形態
∩形 屈曲した形状
好い。 崩れの形態
圧迫。ヲ・男の性の形態・ちょっとした・尾・緒・小
堅固・強固
眼に見えない・気・聞・切(甲類)四段。木・下二段(尽き)・姿を覆い隠す(乙類)
口・穴の入り口・くわえる形態
異常な形態(甲類)」。目に見えない・ケ・眼に見えない・消え・毛(乙類)
子・児・小・粉(甲類)」。コ形・込める・不安定(乙類)
前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状
下・足・棒状
抵抗なく水や空気が通過・巣・州・簾・素
背・瀬・狭い場所
上方向・空・十。反対方向・反り上った形状(乙類)
微細
爪質・指先(Ⅰ類)」。液体の総称・水・体液・水域・潮(Ⅱ類)
線引き(甲類)。留める・止める・留保(乙類)
軟弱・なだらか・なよやか
・肉質・粘土・粘り気のある土・丹・煮
ぬるぬる・粘性
見えない所で働きをするもの・根・音・寝
傾斜(甲類)」「ノ・乗・暫定的に上に重なった状態(乙類)
歯・端・刃・葉・羽
日・広く平らに(甲類)「ヒ・火・干・割れ目・断層・隙間(乙類)
上から柔らかく被さる形態
・海辺の様相・辺・減・端・方・重(甲類)。ヘ・連続した動き・一点を経過する動き(乙類)
・膨らんで大きくなるもの・空洞(甲類)。ホ・男性の性の形態(仮説)ヲに統合した
目の形態・円形・球形・半球体・間・真・二つ・揃った
霊格・見事・見・不思議な事柄・三・水(甲類)。ミ・身・実・実体(乙類)
躍動
「メ・女(甲類)。メ・少し外へ出る形態・芽・眼・目(乙類)
「モ・盛り上がりの形態・股・藻・燃(甲類)。モ・本源・根元・母(乙類)
矢の形態・∧形状・八
弓の形態・揺れ・緩む
ye 突き出た形態・枝・江」本来は弓に矢をつがえた形態
弱体の形態・弱る・夜(甲類)、「ヨ・人体がくねる動き・寄る動き・よがり(乙類)」本来は弓の弦が寄る動き
同じものの集合体でまとまりのある形状を表す
張り出した形状・ふくらんだ塊
現在進行中の状態:存在する事象の形式的概念(活用語尾)
直下方向へ向かう動き
周囲を取り囲まれ,中が空ろな形状(甲類)。ロ・塊の形態(乙類)
(ワ=ウ+ア)吾・我・輪」人間主体が両腕を前で組んだ形態。
連続の形態・猪・居・井

<素語解析による分析>
 「日本語の意味の構造」参照転載。
 『マナカヒ』考

 山上憶良の有名な歌である。

  「瓜はめば 子ども思ほゆ 栗はめば まして偲はゆ いづくより きたりしものそ まなかひに もとなかかりて やすいしなさぬ」(万葉集・802)
 
 この歌のこれまでの解釈は、おおむね次のような説明がなされていて、全く異説はなかった。「うりを食べると 子供のことが思い出される。栗を食べると なお偲ばれる。どこからやって来たのか、眼の交差するあたり(眼前)に、むやみにちらついて眠らせないのは」。

 問題点は「まなかひに もとなかかりて」の解釈にある。結論を先に述べると「マナカヒ」は「まぶた・瞼・目蓋」のことである。「モトナ」は「ナ=幼子・おさなご」の意で、目蓋に浮かんでくるその原因(モト)になっているところの「ナ・児」である。「モトナ」=「モト・原因・基」+「ナ=やわらかなもの・軟弱」である。「マナカヒ」を「眼間・目交」などの当て字を用いて「目(マ)な(の)交(カヒ)」とし、「目と目の間」「まのあたり」と、苦し紛れに説明をしている。

 「マナ」の「ナ」は単純に「の・格助詞」ではなく、「ナ」の前に来る体言が「なだらか・軟弱・なよやか」な形状・性質・動きを表す体言の場合にのみ「ナ」が使われ、「ノ」とは趣が異なった語である。「ナ」の用例では「たなごころ(掌)」があるがこれを「タ・テの古形」+「ノ」+「ココロ・心」となり名詞形から離れてしまう。「ナ」は前後にある体言を一つの「体言」に融合させて新語を作り出す融和材のようなもので、明らかに「連体助詞」のように「所有格」の機能とは異なった働きをしている。ちなみに「ココロ」は「心」であるが元の意味は「ココ・話者に近い場所を示す代名詞」で「ここかしこ」の「ココ=この身のココ」+「ロ・ぐるりを取り囲む形状」となる。つまり「ココにある塊」と、人が自分の胸を指し示す「心臓」のことである。

 「タナゴコロ」は柔軟にココロのままに働くところ即ち「タ=手」+「ナ・柔軟」+「ココロ・心のままに」である。自分の気持ちが直ちに手にあらわれる意を持った「手の造語」で、結果として人体語の「掌・てのひら」を別の表現に変えた抽象語に近い言葉である。これと同じように「マナカヒ」の「ナ」も同様の働きをしていて「マブタ・マナブタ・目蓋」の別の表現が「まなかひ」である。

 さて肝心の「カヒ」について述べよう。「マブタ」には二つの言葉がある。ひとつは「マナブタ=マブタ」もうひとつが「マナカヒ」である。「マナブタ」を「目の蓋」と現代風に解釈しては正しくない。「ナ」を格助詞の「ノ」とすると、「目」+「ノ」+「蓋」で二つの体言に分離した形となる。しかし「マナブタ」は単一の名詞である。「マナコ」も「マノコ・目の子」にはならないし、「マコ」では「眼」にはならない。明らかに「ナ」は格助詞ではないことが判る。

 さて、「マナカヒ」の「カヒ」がなぜ「交ヒ」と錯誤されたのか考察してみよう。人体語で「カヒ」のつく言葉は二つある。一つは「マナカヒ」。もう一つは「カヒナ・腕」である。このいずれの「カヒ」も、「交差」の意はない。「目蓋」の語があるごとく、「カヒ・貝」は「ふたを閉じる」意である。

 日本語の「かひ」は「入り口をカヒ」、「鍵をカヒ」で、「侵入するものに対し入り口をかって(カヒ・テ)頑丈に防御する」ことである。つまり出入り口を堅く「かひ」=「カヒ・貝・卵」で、けなげに貝も卵も外からの侵入を固い殻で防御しているのである。貝殻の「カラ」は「カ・固+ラ・同一のものの集合体」で物質を表す語である。この和語の「カヒ・カフ」に当てる的確な漢字が存在しない。

 「カヒ」の活用は「カハ(未然形)・カヒ(連用形)・カフ(終止形)・カフ(連体形)・カヘ(仮定)・カヘ(命令)」と活用する。この連用形の「カヒ」が名詞形となったもの。「貝」の意は、いつも堅い殻(二枚貝)や蓋(巻貝)で出入り口の扉を閉じて中から頑丈に「カフ」→「カヒ」である。

 「甲・コウ」の字は、穀物や果実の種が裂けて中から発芽した姿の象形文字である。この姿が鎧を着けた甲兵の姿である。「甲冑」「甲羅」「甲板」などに使われているが、門の扉を中から「甲ふ」といった文字の使用例はないし不適当である。和語の「カフ」は、内側で蓋や扉で堅く閉ざし、侵入を防御する意である。この時に、内側で戸びらを「カフ」時に「ツッカヒ棒」を斜めに「二本交差」させる。これが入り口を「カヒ」になり同時につっかひ棒を交差させることこそが、重要なことがらとなり「交」の漢字を当てたことにより、漢字の「交」の漢音「コウ」が和語の「カフ」―「カヒ」に同化してしまったものと考えられるのである。この「交ひ」の語のねじれ現象は平安期の源氏物語などに現れる。

 「ハガヒ・羽交」を辞書では「左右の翼の交わるところ」とあるが否である。「ハガヒ」も「ハ・羽」+「カヒ」で「体を包み込んで寒風の侵入を閉じ塞ぐ鳥の翼」の意であるから「羽交」の漢字を当てることは少なくとも奈良時代までは間違いと言うことになる。

  芦辺行く 鴨のハガヒに霜降りて……【万葉集・64】

 初冬の寒寒とした朝であろうか、葦の生える水辺を泳ぐ、鴨たちの背中に霜が降りて…この「ハガヒ」は、折りたたんだ翼を固く閉じて、寒さを防御している背中の状況の意。

 鳥の翼の交わるところをいくら探してもないし、左右の羽が交わるはずもない。鳥の羽はちょうど黄金虫やかぶと虫の羽のようにきちんと背中の中心線で行儀よく合わせるように折り畳んで閉じている。

 「交・コウ」の漢字の意味は「着物の襟を互い違いに」の意である。「交」は「付き合う・交える・こもごも・互いに・代わる代わる・取り交わす・やり取りする」の意だから「貝・卵・マナカヒ・ハガヒ」の「カヒ」は決して互い違いに接触して重なり合った程度のやわなものではなく、敵の侵入を許さない頑丈な防御の「貝・卵・=カヒ」なのである。

 「まなかひに もとなかかりて……」の、これまでの解釈で「まなかひ」が、自分の目が交わるところとしているが、当時はレンズの焦点を合わせるような光科学の知識のない時代であるからこの解釈には驚きが伴う。また「目と目の間」としこれでは少しおかしいので「眼前」との苦しい解釈もあるが混乱を招く。

 古代人は「貝」を、「カラ・殻」のある生き物といった見方はしていないのである。捕まえて食べようとしても簡単に手では開けられない。頑丈に蓋を閉じて身を守るのは「卵」「蚕」などで皆「カヒ」である。「まなかいに もとなかかりて やすいしなさぬ」の「マナカヒ」は「目蓋」のことであるから、おおむね次のような解釈となろう。

 目蓋を閉じて寝ようとしているのだけれど、それでも目蓋の内側に幼子の姿が強く浮かんできて安らかに眠ることなどとてもできないでいる。この貧窮問答歌は「目蓋の母」ならぬ「目蓋の幼子」なのである。

 『様々なカヒ』
 「買ヒ」は、市場などで品物を人に取られないように、自分だけの持ち物にするために行う「防御行為」が「カヒ」である。

 金と物と交換する「交」の意ではない。関西では購入したことを「カフタ・こうた」と言い「誰からも取られないように防護した・カフ」の意である。また関東では「買った」と言うが「カフタ」―「カッタ」で自分のものとして人には渡さないように品物に鍵を「カッタ」のと同じことなのである。やはり関東言葉と比べてみると関西の言葉は奈良時代の言葉に近いことがよく判る。

 「飼ヒ」は家畜が逃げ出さないように頑丈に柵や小屋の中に閉じ込めて「カヒ・カフ」。

 「蚕・カヒコ」は「飼い子」の意よりはむしろ繭で「カヒ・防御」+「コ・子・小さなもの」で、繭の形状が貝や卵と同じ「カヒ」と解した方が自然であろう。なぜなら、繭は勝手に逃げ出さないから「飼ヒ」の意味は薄いと考えられる。

 同じ貝の仲間に「シジミ・蜆」がある。「シジマ・黙」の「シジ」は「シジカマ・ル=縮まる」の「シジ・口を縮・緊」の意である。「口をつぐんで黙すこと」で、口を閉じて無言になる意で「蜆」は「シジム」の未然形の名詞化したものである。「しじまの鐘」=静かにさせるために打つ鐘の語もある。

 『人麻呂の挽歌』

 柿本人麻呂が死んだときに妻の衣羅娘子(よさみのおとめ)が作った歌。柿本人麻呂は謀殺されたとの説がある。歌の雰囲気に緊迫感と絶望感が漂っている。

 【万葉集・224】 今日今日と 吾が待つ君は 石川の貝(一に言ふ「谷」)にまじりて ありとはいはずやも。

 今日こそ、今日こそはお帰りになるかと 待ちに待っていたあなたは なんとしたことか 石川の貝どもの中に混じって 口を貝の様にかって沈んだままでいるというではないか。

 「石川」は冷たい石ばかり転がる死の川を連想させ、作者の意図が感じられる。 恐らく特定された川の名前ではないだろう。「貝」は口を閉ざす意で「死」を意味する。一説に「谷・峡」との説は取れない。理由は、「……かひにまじりて……」の「まじる・交じる・雑じる」を「分け入る」と解釈するのは歌の意から外れてしまう。「交じる」は、「同質のものが集まっているところへ、異質のものが入り込むことを言う」この場合は、川口に住む貝達と交じると、表現をしているので、谷へ分け入ることは、何かを探しに行くことで、竹取物語の場合は竹の子を探しに「野山に交じりて竹を取りつつ」とあり、谷から帰還できないと言う意味合いはないのである。この歌のポイントは「貝にまじりてありといはずやも」の「あり=在り」である。死体の在り処を「貝のいる水の底に死体が沈んでいる」と「混じりてあり」で強調している。だから「いはずやも」は絶叫の言葉として胸に響いてくるのだ。この歌は、人麿が悲惨な死に方をしたとの悲報(イハズ=伝聞)を受けて、愛する夫の口が「カヒ」になってしまっているというのは本当のことなのかと、不確定の疑問(ヤモ)で結んでいる。

 『やどかり・がふな』

 この貝は、死んで、も抜けの殻になった巻貝の中に、丸裸で無防備のヤドカリが移り住んで「ガフナ」の名前を戴いた。「がふな」の名前の方は貝と比較した結果のお気の毒で危険な状態を表現した語である。「宿借り」の方はちゃっかり無料で宿を泊まり歩く奔放な暮し方を表現した名前である。

 「ガフナ」は「カフ=防御して閉じる」の「カ」に濁点がついたもので、荒れた状態を示す「がりがり・がさがさ・がたがた」の「が」となる。だから完全防備ではない「ガフ」+「ナ・軟弱」となり、訳すと「蓋のない無防備なヤワなもの」、「軟弱に入り口をかうもの」の意となり「巻貝」の殻にしがみついて生活する哀れな生き物である。お祭りの夜店で、ゴウナ売りが割り箸細工の梯子段にこの「がうな」を登らせて子供たちの好奇心をかき立てていたが、今では見かけなくなった。夏の夜のカーバイトの匂いはもうどこにもない。

 『カヒ・ではない櫂(カイ)』
 日本語の特徴の一つとして、母音音節は、語頭にしか立つことが出来ないと、これは古い日本語の最大の特徴とも言える。

  あきづ島 大和の国を あまぐもに 磐(いは)船浮かべ 艫(とも)に舳(へ)に ま櫂(カイ)しじぬき い漕ぎつつ……【万葉集・452】

 この「カイ」は「可伊」となっている。この「櫂」はその他の歌にも「カヒ」ではなく「カイ」となっている。この「カイ」の説明を、「カキ・掻き」の音便である、と説明するむきもあるが、平安時代ならそれでもよいが、この歌は奈良時代だから「音便」では通用しない。まず問題点は「水を掻く」はおかしい、なぜならば「カ・堅」+「キ・活用形」は爪をたてて物の表面に食い込ませてひっかくことであるから、水に対してはやや不適切と言える。船を「漕ぐ」と言う専用の言葉があるので、水を掻きまわす必要はない。「櫂」の素語で考えると「カ・堅」+「イ・尖りの形状」=「堅い、尖った形のもの」で「櫂」の全てを表わす言葉である。素材は栗や樫などの堅くて丈夫な木で作られた。やわな素材で作ると海では命取りとなるからである。危険な魚はその名前に危険信号がついているのだ。危険と隣り合わせの海で生活した「海人」の人々は、生活の知恵を子孫の為に名前に込めて伝えているのである。

 『アイゴ』

 「アイゴ・アイ・モアイ」などと言う、背鰭・尻鰭・腹鰭に沢山の「イ」の毒針を持っている恐ろしい魚である。

 『肩・カタ』

 「カ・堅・固・硬」+「タ・手」で「片」である。両肩は「カタ」が二つの意である。手は二本あるから本来は「カタタ」と言うべきであるがそうは言わない。人体語で二つ対になっているものは全て同じ語を二度続けるのが日本語の特徴なのである。例えば「みみ・ほほ・めめ・ちち・てて・もも」などである。幼児語に「おてて・おめめ」など古い形の言葉が残存している。「カタ」には「肩・方・片・形・型・硬・固」などあるがこれらは全て人体語の「肩=手の付け根の固いところ」と「手を硬直させたり拳を堅く握る手の動作」が基本。「肩」=「カ=固・堅・硬・頑丈・剛健」+「タ・手」で、肩はカシラと同じく人体ではきわめて硬い部位で腕の付け根の固いところで不動の形状を保つところである。重いものを肩で担ぐ理由は人体で一番頑丈なところだから。

 「方・カタ」の意は、「カタタ」ではなく「カタ」と「タ・手」が一つだけであるから、「一方向を指し示す手」が「方」である。この意と同じ語が「片方の手」=「片」となる。「形・型」は「肩」の形態語で、他の人体部位のように動作をしない、不動・不変の揺るぎの無い立体的な輪郭や固体の意味を表す語即ち「形・カタ=堅」である。




(私論.私見)