れんだいこの日本語論、日本文の白眉考 |
(最新見直し2013.01.18日)
Re:れんだいこのカンテラ時評その31 | れんだいこ | 2005/03/24 | |
【日本語論、日本文の白眉考】 れんだいこは何時の頃からか日本語の素晴らしさに気づき始めた。今後世界交流が深まり、英語がますます世界公用語として使われるようになったとしても、この素晴らしい日本語は独立自存して保持していかねばならないと考えるようになった。その日本語の乱れが酷く、それも知識人と称する側からの一風変わった芸風による使われ方が目についており、これを掣肘せねばならないと考えるようになった。 具体的には、句読点「、」の代わりにコンマ「,」、終わり点「。」の代わりにピリオッド「.」使用や、外括弧の「」と内括弧の『』を逆に使うことを指しているのだが、胸糞が悪くなる。連中は何を気取っているのだろう。こういう風に差し替えて良い場合は、そのことにメリットがある場合だけである。 句読点の代わりにコンマ、終わり点の代わりにピリオッドを使って何の進歩があるだろう。外括弧と内括弧を逆に使って何の意味があろう。それは畢竟、日本語の良さを敢えて貶(けな)そうとする俗悪趣味以外には理解できない。それが偶然なら良いのだけれど、単なる西洋事大主義の為せる業だとしたら滑稽なことではなかろうか。今日び流行り病のネオシオニズムの影響だとしたら応戦せざるを得まい。 れんだいこは、日本語の素晴らしさにどこで気づいたか。はっきり形をとって現われたのは、漏れ伝わる「毛沢東ー田中角栄超秘密会談」時の毛沢東発言によってである。これについては、「【毛沢東―角栄会談秘話】と田中角栄の悲劇性」に記した。ピックアップすると、毛沢東は次のように述べている。
和気藹々のうちの幾分冗談も込められている中での発言であるが、毛沢東は、「いろは、アイウエオ、平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です」という認識を示している。何気なく聞き流してしまいそうだが、れんだいこは、さすがに毛沢東は慧眼であることよと気づかされている。 中国語と比較した場合、れんだいこは中国語は知らないのだけれども、見た目の中国語の全文漢字構成文よりも、日本語式の漢字とひらがなの併用、漢字を受けてのひらがな接続、適宜カタカナ利用、漢字読みルビ使用の方が文章を読みやすくしており且つ見た目にも柔らかくさせているという利点があるのではなかろうか、何より文章作成上開かれた構造にしており便利なのではなかろうかと思っている。 恐らく、どこの国語も、外来語の取扱いに難渋しているのではなかろうか。日本語ではそれがいとも容易くカタカナ表記で済ませられる。あるいは感嘆句のような異種語もひらがな、カタカナ取り混ぜてそれらしく表記できる。これは日本語の素晴らしい特性ではなかろうか。他の国の言語はいかように解決しているのだろうか。アルファベット文字、全文漢字文字の場合にはできないことだろう。 日本語は大きく見れば漢字文化圏の言語である。しかし、恐らくそれ以前にあった和文字と独特の組み合わせで使い分けしている。かくて、日本語は漢字圏のことではあるが新文字スタイルを発明していることになる。誰がこれを為したのか、どのくらいの期間をかけて獲得されたものであるのか知らない。世に真に価値あるものの例に似て、その功績者は今日び流行り病の著作権なぞ云々しないから余計に分からない。 補足しておけば、和製漢字というのも随分あるようである。漢字の元々の象形文字としての語意を踏まえて、新たに造文字している。あるいは又造語もある。日本で造語された言葉が中国に輸入されている例もある。より的確な表現を求めて相互にそう為されるべきではなかろうか。 話を戻す。実に、このような構造を持つ日本語は世界に類い稀な言語となっており、西洋文字、漢字だけ文字、ハングル文字よりも優れた面を持ち過ぎているのではなかろうか。ハングル文字に対して一言すれば、れんだいこは知らないのだけれども、あれは記号ではあっても果たして文字だろうかという気がする。あれこれ考えをめぐらすと、今後公用語として英語、中国語が普及する時代がやってこようとも、日本語は独立自存して発展せしめられていくべきだ、意識的に取り組めば日本語は世界の公用語になり得る資格がある、今後は母国語と英語と日本語の三本建て時代となるだろう、というのがれんだいこの予見となる。 何故なら、良いものは政策的に根絶やしにされない限り伝え伝わっていくものだから。 日本語は覚えるのに苦労があるとはいえ、一定の作法さえマスターすればそれほど難しいとは思えない。日本人の識字率が高いことはつとに指摘されているが、実に日本語が言語的に優れている故に習熟し易いお陰に負っているのではなかろうか。つまり、日本人の識字率の高さの要因に日本語があるという訳である。この観点から日本語論がなされることはないが、れんだいこ論の秀逸さであろう。 2005.3.24日、2007.4.30日再編集 れんだいこ拝 |
【日本語の構文的特徴の与える影響について】 |
日本語の構文は、「主語+内容+述語」という書き付け法になっている。これを仮に「後述語構文」と命名する。これに比して、アルファベット文字語の構文は、「主語+述語+内容」という書き付け法になっている。これを仮に「先述語構文」とする。同じ漢字圏でも、中国語は、アルファベット文字語の構文と同じと云う。ハングル文字については知らない。 俗に云われていることだが、日本語のこの構文的特徴が日本人に感化しており、「イエス、ノーをはっきりしない」元始まりがここにあるとのことである。つまり、日本語の構造そのものが何となく日本人の奥ゆかしさと同時に万事に曖昧さを作っているという説がある。れんだいこは、あるいはそうかも知れぬと思う。しかし、これは、日本語の構文の宿命だからして今更どうにもならない。「捨てる神あらば拾う神あり」で、それはそれで欠点もあれば良い面もあるのではなかろうか。アルファベット文字語の構文的特徴が良いとばかりは云えない。それも又「捨てる神あらば拾う神あり」で、長所と短所が混ざり合っていると思っている。 もう一つ。日本語のもう一つの曖昧性にも触れておかねばならない。日本語の曖昧さは、「後述語構文」のせいだけではなく、日本語全体が単数複数の識別をしない、主体表現の夥しい使い分け、敬語の使い分け、修飾句の掛かりの不分明等々様々な理由により、解釈の多義多様性を生む独特の構造がある。こういう事情により、よほど留意しないと文意が曖昧になり、論旨がはっきりしなくなる恐れがある。この問題は宿命的なものなので別途考察せねばならない。 もとへ。れんだいこは、日本語的「後述語構文」とアルファベット語的「先述語構文」の両者はどちらかに統一されべきではなく、それぞれ共存すべきであると考えている。そして、それぞれの構文の最良の言語が世界共用語になるべきだと思っている。アルファベット語的「先述語構文」の中では英語が対象を適確に表現するのに最も便利だと云われている。ならば、人は皆これを習熟して世界共通の公用語とみなして使いあうべきだろう。 他方、日本語も、対象を適確に表現するのに英語に決して引けをとらない。対象を表現するのに漢字という造り文字を当てているので、文字に出会った瞬間に趣意を理解することができるという利点がある。更に、ひらがなで前後左右をまぶしているので、見た目で中国語よりも柔らかくなっている。他にも適宜にカタカナが使われたり、ルビが付されるので、痒いところまで手が届いている。微妙な表現をするのにより適しているのではなかろうかと思っている。 更に、ローマ字対応も素晴らしい。ローマ字とカタカナ文字を組み合わせることで、外来語の日本語的処理に成功している。あるいは外来語スペルをそのまま使うこともできる。外来語の処理をかくも見事に為し得ているのは日本語の大きな魅力だろう。そういう訳で、人は皆な日本語を見直し、これに習熟して、世界共通語とみなして使いあうべきだろう。 日本語には、漢字だけを使う中国語もそうだが、アルファベット語が絶対まねできない横書き縦書き両方可という特性もある。最近は概ね横書き化しつつあるが、縦書きもできることは長所であろう。これも言い添えておきたい。 こういうことから、れんだいこは、英語と日本語が世界共用語になるべきだと主張したい。違和感を覚える向きの方に説明しておく。日本語が世界共用語になったとして、それは日本のナショナリズムの押し付けとなる訳ではない。単に優れているものが普及するに過ぎない。 例えば、囲碁の場合がそうだろう。囲碁の発祥は不明であるが、少なくとも近世以降に於いては日本が指導的地位についていた。その囲碁が今や世界に普及しつつある。柔道、剣道その他然りである。世界中で愛好されるようになるや、いつの間にか本家のお家芸が奪われつつある。偏えに優れているものが受け入れられ、歴史に育まれ、指導的地位は有為転変することを証左している。 だから、日本語が世界共用語になるべきだと主張したとしても、偏狭ナショナリズムを押しつけようとしている訳ではない。それを思えば、本来日本語は世界共用語として育まれていくべきなのに、近頃の日本政府の政策が日本語を廃止して代わりに英語教育を推し進めようとしている気配があることに対して、それは間違いであると云いたい。 一つの興味深い事例がある。かって、日本帝国主義のアジア各地への侵略史に於いて、日本政府は現地での日本語教育を推し進めたが、日本帝国主義の敗北と共に現地住民が日本語を捨てたのかどうか。これは調査に値すると思っている。朝鮮、台湾、フィリピンの事例で確かめれば良かろう。聞くところによると、しぶとく日本語を育んでいるのことである。これは、理屈抜きに日本語が言語として優れているからではなかろうか。そういう意味で、れんだいこは、世界各地での日本語の土着化の流れを検証したいと思う。 「寿司」の例もある。あれは日本発明品であろうが、今や世界各地で愛食されている。且つ、当地ならではのメニューが増え、それが日本の寿司料理に反映されつつある昨今である。それで良いのではなかろうか。「カップヌードル」然り。日本語もそのように発展していくべきではなかろうか。 もう一つの例を書き添えておく。れんだいこは、既に数冊主としてマルクス主義関係の著作であるが日本語に翻訳している。会話さえできないれんだいこになぜこれができるのか。それは、日本語に対して習熟しているからである。まず母国語をしっかり学ぶことが外国語を真に理解できると思っている。最近、母国語をおろそかにしていきなり外国語教育を始めているが、そういう手法では会話能力程度しか進まないのではなかろうか。その会話も母国語で為す以上にはできない。それでは空疎であると思っている。 幕末明治の人が何故に急速に洋学を吸収し得たのか。それは平素より和文を嗜み、時に漢文に馴染んでいたからこそ、西欧言語が漢語学習パターンの一種の応用問題として捉えられ、割合容易に習熟されたのではなかろうか。そうとしか考えられない。ならば、現在の我々もまず母国語としての日本語をしっかり学ぶべきであり、それから外国語学習に向かっても何らおかしくなかろう。文部省の担当者よ、読んでいたら君の意見を聞かせてたもれ。とか何とか云ってみたかったのだ。 2005.5.10日、2007.5.1日再編集 れんだいこ拝 |
【日本語の世界各国語との比較考】 |
日本語の秀逸さを確認する前に、日本がベースにしている漢字とアルファベット文字との優劣を見ておく。れんだいこは言語学者ではないので子細には紐解けないが、漢字とアルファベット文字は起源の差に関係しているのではなかろうか。漢字はそもそも事象の象形文字として生れた。このことは、漢字が表意文字であることを意味する。これに対して、アルファベット文字はそもそも記号的な図形文字なのではなかろうか。このことは、アルファベット文字が表音文字であることを意味する。念の為注釈しておくと、漢字が表意文字であることは表音文字性を排除するものではない。同様にアルファベット文字が表音文字であることは表意文字性を排除するものではない。主としてどちらに力点が置かれているのかと云う差として理解されるべきである。 興味深いことは、漢字は、表意文字であることにより事象の数だけ文字が生まれる性質を持つことである。これにより漢字は少なくとも五千以上の文字を生み出している。あるいは一万字以上かも知れない。これに対して、アルファベット文字はAからZまでの26文字を母字として、その組み合わせで言語化させている。ちなみに、アルファベットという語は、ギリシア文字の最初の2文字α, βの読み方である「アルファ」(ἄλφα)、「ベータ」(βήτα) に由来するとのことである。これによれば、漢字は事象毎文字、アルファベット文字は組み合わせ文字と云うことになる。念の為注釈しておくと、こちらも、どちらに力点が置かれているのかと云う差として理解されるべきである。 この漢字手法とアルファベット文字手法は文字としてどちらが優秀なのだろうか。一般に云われるのは、新聞見出しの訴求力は漢字の方が優れている。一眼で記事内容が分かると云う利点がある。しかしアルファベット文字にはその欠点を埋め合わせる組み合わせ言語の妙がある。文法も洗練されている。つまり、どちらにも優劣があると見なすべきであろう。要するに短所と長所が一体化しており、漢字手法の長所からみればアルファベット文字手法の欠陥が見え、逆は逆であると云う風に認めるべきではなかろうか。歴史は現に漢字文化圏、アルファベット文字文化圏を形成して来ている訳であるから、どちらかに統一する必要はなく使い分けの道を探るべきではなかろうか。これを、漢字対アルファベット文字比較の結論とする。 さて、日本語は漢字文化圏に属する。その日本語と漢字を生み出した本国である中国の漢字とを比べて見ると、日本語が漢字+ひらがな+カタカナ+数字の複合から成っており、中国語は漢字オンリーで通していると云う差が認められる。この優劣を問うべきであろうか。生活語として使うのであれば、その必要はない。これを国際語的に使うのであればと云う条件で、れんだいこは然りと答える。決定的な差は、日本語ならば外国語の識別、擬態語、擬声語が容易にできると云う利点がある。国際交流が不可避的に盛んになる今日、母国語と外国語を識別できる日本語の良さは格別秀でているように思える。 中国語は現在、略字を生み、煩わしい多画数文字から解放されている。しかしながら、その略字が原義を反映しない記号化しているきらいがある。他方、台湾では旧字を使用している。旅先での文字パネルで中国字と台湾字が併記してあるのを見て、感慨ひとおであった。それはそれとして、今後の方向として、日本語の中に中国略字が入って来そうな雰囲気である。しかしそれも、過去の日本人がしたように、成るほどと思われるような勝れた略字に於いてはと云うことになる。これを逆に云うと、中国字が日本漢字を取り入れることも可であろう。そうやって日中台の言語交流が進むのではなかろうか。そういう予感がする。 2013.1.18日 れんだいこ拝 |
【清水セイ八郎氏の日本語秀逸論】 | ||
れんだいこはつい最近、清水セイ八郎氏の著作「破約の世界史」(祥伝社、2000.7.21日初版)を手にした。それなりに面白いのだが、れんだいこ史観と齟齬するところが多く、ネオシオニズムに対する考察が一切欠落していて物足りず、資料的な面だけ頂戴することにした。ところが、最終章の「第7章、グローバリズムという名の世界侵略」の項での日本語考が為になった。そこで、示唆的なところを転載しておく。
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【黒川伊保子(著)「日本語はなぜ美しいのか」】 | ||
「株式日記と経済展望」が、黒川伊保子(著)「日本語はなぜ美しいのか」を紹介している。これを転載しておく。
「株式日記と経済展望」主宰者は、「私のコメント」と題して次のように述べている。
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【西尾幹二(著)「国民の歴史」】 | ||||
「株式日記と経済展望」の2007.5.4日付けブログが、「西尾幹二(著)『国民の歴史』の言語論のくだり」を紹介している。これを転載しておく。
「株式日記と経済展望」主宰者は、「私のコメント」と題して次のように述べている。
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「株式日記と経済展望」の2007.5.7日付けブログ「多くのアジア諸国の通貨は円で統一され、日本語を話すことのできる人は世界で5億人を越え、日本語が世界共通語になる」を転載しておく。
「株式日記と経済展望」主宰者は、「私のコメント」と題して次のように述べている。
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(私論.私見)