れんだいこの日本語論、日本文の白眉考

 (最新見直し2013.01.18日)

Re:れんだいこのカンテラ時評その31 れんだいこ 2005/03/24
 【日本語論、日本文の白眉考】

 れんだいこは何時の頃からか日本語の素晴らしさに気づき始めた。今後世界交流が深まり、英語がますます世界公用語として使われるようになったとしても、この素晴らしい日本語は独立自存して保持していかねばならないと考えるようになった。その日本語の乱れが酷く、それも知識人と称する側からの一風変わった芸風による使われ方が目についており、これを掣肘せねばならないと考えるようになった。

 具体的には、句読点「、」の代わりにコンマ「,」、終わり点「。」の代わりにピリオッド「.」使用や、外括弧の「」と内括弧の『』を逆に使うことを指しているのだが、胸糞が悪くなる。連中は何を気取っているのだろう。こういう風に差し替えて良い場合は、そのことにメリットがある場合だけである。

 句読点の代わりにコンマ、終わり点の代わりにピリオッドを使って何の進歩があるだろう。外括弧と内括弧を逆に使って何の意味があろう。それは畢竟、日本語の良さを敢えて貶(けな)そうとする俗悪趣味以外には理解できない。それが偶然なら良いのだけれど、単なる西洋事大主義の為せる業だとしたら滑稽なことではなかろうか。今日び流行り病のネオシオニズムの影響だとしたら応戦せざるを得まい。

 れんだいこは、日本語の素晴らしさにどこで気づいたか。はっきり形をとって現われたのは、漏れ伝わる「毛沢東ー田中角栄超秘密会談」時の毛沢東発言によってである。これについては、【毛沢東―角栄会談秘話】と田中角栄の悲劇性に記した。ピックアップすると、毛沢東は次のように述べている。
 「いろは、アイウエオ、平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です。今、私は日本語の勉強をしています。日本に留学したいと思っているのですよ」。
 
 
和気藹々のうちの幾分冗談も込められている中での発言であるが、毛沢東は、「いろは、アイウエオ、平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です」という認識を示している。何気なく聞き流してしまいそうだが、れんだいこは、さすがに毛沢東は慧眼であることよと気づかされている。

 
中国語と比較した場合、れんだいこは中国語は知らないのだけれども、見た目の中国語の全文漢字構成文よりも、日本語式の漢字とひらがなの併用、漢字を受けてのひらがな接続、適宜カタカナ利用、漢字読みルビ使用の方が文章を読みやすくしており且つ見た目にも柔らかくさせているという利点があるのではなかろうか、何より文章作成上開かれた構造にしており便利なのではなかろうかと思っている。

 恐らく、どこの国語も、外来語の取扱いに難渋しているのではなかろうか。日本語ではそれがいとも容易くカタカナ表記で済ませられる。あるいは感嘆句のような異種語もひらがな、カタカナ取り混ぜてそれらしく表記できる。これは日本語の素晴らしい特性ではなかろうか。他の国の言語はいかように解決しているのだろうか。アルファベット文字、全文漢字文字の場合にはできないことだろう。

 日本語は大きく見れば漢字文化圏の言語である。しかし、恐らくそれ以前にあった和文字と独特の組み合わせで使い分けしている。かくて、日本語は漢字圏のことではあるが新文字スタイルを発明していることになる。誰がこれを為したのか、どのくらいの期間をかけて獲得されたものであるのか知らない。世に真に価値あるものの例に似て、その功績者は今日び流行り病の著作権なぞ云々しないから余計に分からない。 

 補足しておけば、和製漢字というのも随分あるようである。漢字の元々の象形文字としての語意を踏まえて、新たに造文字している。あるいは又造語もある。日本で造語された言葉が中国に輸入されている例もある。より的確な表現を求めて相互にそう為されるべきではなかろうか。

 話を戻す。実に、このような構造を持つ日本語は世界に類い稀な言語となっており、西洋文字、漢字だけ文字、ハングル文字よりも優れた面を持ち過ぎているのではなかろうか。ハングル文字に対して一言すれば、れんだいこは知らないのだけれども、あれは記号ではあっても果たして文字だろうかという気がする。あれこれ考えをめぐらすと、今後公用語として英語、中国語が普及する時代がやってこようとも、日本語は独立自存して発展せしめられていくべきだ、意識的に取り組めば日本語は世界の公用語になり得る資格がある、今後は母国語と英語と日本語の三本建て時代となるだろう、というのがれんだいこの予見となる。

 何故なら、良いものは政策的に根絶やしにされない限り伝え伝わっていくものだから。 日本語は覚えるのに苦労があるとはいえ、一定の作法さえマスターすればそれほど難しいとは思えない。日本人の識字率が高いことはつとに指摘されているが、実に日本語が言語的に優れている故に習熟し易いお陰に負っているのではなかろうか。つまり、日本人の識字率の高さの要因に日本語があるという訳である。この観点から日本語論がなされることはないが、れんだいこ論の秀逸さであろう。

 2005.3.24日、2007.4.30日再編集 れんだいこ拝

【日本語の構文的特徴の与える影響について】
 日本語の構文は、「主語+内容+述語」という書き付け法になっている。これを仮に「後述語構文」と命名する。これに比して、アルファベット文字語の構文は、「主語+述語+内容」という書き付け法になっている。これを仮に「先述語構文」とする。同じ漢字圏でも、中国語は、アルファベット文字語の構文と同じと云う。ハングル文字については知らない。

 俗に云われていることだが、日本語のこの構文的特徴が日本人に感化しており、「イエス、ノーをはっきりしない」元始まりがここにあるとのことである。つまり、日本語の構造そのものが何となく日本人の奥ゆかしさと同時に万事に曖昧さを作っているという説がある。れんだいこは、あるいはそうかも知れぬと思う。しかし、これは、日本語の構文の宿命だからして今更どうにもならない。「捨てる神あらば拾う神あり」で、それはそれで欠点もあれば良い面もあるのではなかろうか。アルファベット文字語の構文的特徴が良いとばかりは云えない。それも又「捨てる神あらば拾う神あり」で、長所と短所が混ざり合っていると思っている。

 もう一つ。日本語のもう一つの曖昧性にも触れておかねばならない。日本語の曖昧さは、「後述語構文」のせいだけではなく、日本語全体が単数複数の識別をしない、主体表現の夥しい使い分け、敬語の使い分け、修飾句の掛かりの不分明等々様々な理由により、解釈の多義多様性を生む独特の構造がある。こういう事情により、よほど留意しないと文意が曖昧になり、論旨がはっきりしなくなる恐れがある。この問題は宿命的なものなので別途考察せねばならない。

 もとへ。れんだいこは、日本語的「後述語構文」とアルファベット語的「先述語構文」の両者はどちらかに統一されべきではなく、それぞれ共存すべきであると考えている。そして、それぞれの構文の最良の言語が世界共用語になるべきだと思っている。アルファベット語的「先述語構文」の中では英語が対象を適確に表現するのに最も便利だと云われている。ならば、人は皆これを習熟して世界共通の公用語とみなして使いあうべきだろう。

 他方、日本語も、対象を適確に表現するのに英語に決して引けをとらない。対象を表現するのに漢字という造り文字を当てているので、文字に出会った瞬間に趣意を理解することができるという利点がある。更に、ひらがなで前後左右をまぶしているので、見た目で中国語よりも柔らかくなっている。他にも適宜にカタカナが使われたり、ルビが付されるので、痒いところまで手が届いている。微妙な表現をするのにより適しているのではなかろうかと思っている。

 更に、ローマ字対応も素晴らしい。ローマ字とカタカナ文字を組み合わせることで、外来語の日本語的処理に成功している。あるいは外来語スペルをそのまま使うこともできる。外来語の処理をかくも見事に為し得ているのは日本語の大きな魅力だろう。そういう訳で、人は皆な日本語を見直し、これに習熟して、世界共通語とみなして使いあうべきだろう。

 日本語には、漢字だけを使う中国語もそうだが、アルファベット語が絶対まねできない横書き縦書き両方可という特性もある。最近は概ね横書き化しつつあるが、縦書きもできることは長所であろう。これも言い添えておきたい。

 こういうことから、れんだいこは、英語と日本語が世界共用語になるべきだと主張したい。違和感を覚える向きの方に説明しておく。日本語が世界共用語になったとして、それは日本のナショナリズムの押し付けとなる訳ではない。単に優れているものが普及するに過ぎない。

 例えば、囲碁の場合がそうだろう。囲碁の発祥は不明であるが、少なくとも近世以降に於いては日本が指導的地位についていた。その囲碁が今や世界に普及しつつある。柔道、剣道その他然りである。世界中で愛好されるようになるや、いつの間にか本家のお家芸が奪われつつある。偏えに優れているものが受け入れられ、歴史に育まれ、指導的地位は有為転変することを証左している。

 だから、日本語が世界共用語になるべきだと主張したとしても、偏狭ナショナリズムを押しつけようとしている訳ではない。それを思えば、本来日本語は世界共用語として育まれていくべきなのに、近頃の日本政府の政策が日本語を廃止して代わりに英語教育を推し進めようとしている気配があることに対して、それは間違いであると云いたい。

 一つの興味深い事例がある。かって、日本帝国主義のアジア各地への侵略史に於いて、日本政府は現地での日本語教育を推し進めたが、日本帝国主義の敗北と共に現地住民が日本語を捨てたのかどうか。これは調査に値すると思っている。朝鮮、台湾、フィリピンの事例で確かめれば良かろう。聞くところによると、しぶとく日本語を育んでいるのことである。これは、理屈抜きに日本語が言語として優れているからではなかろうか。そういう意味で、れんだいこは、世界各地での日本語の土着化の流れを検証したいと思う。

 「寿司」の例もある。あれは日本発明品であろうが、今や世界各地で愛食されている。且つ、当地ならではのメニューが増え、それが日本の寿司料理に反映されつつある昨今である。それで良いのではなかろうか。「カップヌードル」然り。日本語もそのように発展していくべきではなかろうか。

 もう一つの例を書き添えておく。れんだいこは、既に数冊主としてマルクス主義関係の著作であるが日本語に翻訳している。会話さえできないれんだいこになぜこれができるのか。それは、日本語に対して習熟しているからである。まず母国語をしっかり学ぶことが外国語を真に理解できると思っている。最近、母国語をおろそかにしていきなり外国語教育を始めているが、そういう手法では会話能力程度しか進まないのではなかろうか。その会話も母国語で為す以上にはできない。それでは空疎であると思っている。

 幕末明治の人が何故に急速に洋学を吸収し得たのか。それは平素より和文を嗜み、時に漢文に馴染んでいたからこそ、西欧言語が漢語学習パターンの一種の応用問題として捉えられ、割合容易に習熟されたのではなかろうか。そうとしか考えられない。ならば、現在の我々もまず母国語としての日本語をしっかり学ぶべきであり、それから外国語学習に向かっても何らおかしくなかろう。文部省の担当者よ、読んでいたら君の意見を聞かせてたもれ。とか何とか云ってみたかったのだ。 

 2005.5.10日、2007.5.1日再編集 れんだいこ拝

【日本語の世界各国語との比較考】
 日本語の秀逸さを確認する前に、日本がベースにしている漢字とアルファベット文字との優劣を見ておく。れんだいこは言語学者ではないので子細には紐解けないが、漢字とアルファベット文字は起源の差に関係しているのではなかろうか。漢字はそもそも事象の象形文字として生れた。このことは、漢字が表意文字であることを意味する。これに対して、アルファベット文字はそもそも記号的な図形文字なのではなかろうか。このことは、アルファベット文字が表音文字であることを意味する。念の為注釈しておくと、漢字が表意文字であることは表音文字性を排除するものではない。同様にアルファベット文字が表音文字であることは表意文字性を排除するものではない。主としてどちらに力点が置かれているのかと云う差として理解されるべきである。

 興味深いことは、漢字は、表意文字であることにより事象の数だけ文字が生まれる性質を持つことである。これにより漢字は少なくとも五千以上の文字を生み出している。あるいは一万字以上かも知れない。これに対して、アルファベット文字はAからZまでの26文字を母字として、その組み合わせで言語化させている。ちなみに、アルファベットという語は、ギリシア文字の最初の2文字α, βの読み方である「アルファ」(ἄλφα)、「ベータ」(βήτα) に由来するとのことである。これによれば、漢字は
事象毎文字、アルファベット文字は組み合わせ文字と云うことになる。念の為注釈しておくと、こちらも、どちらに力点が置かれているのかと云う差として理解されるべきである。

 この漢字手法とアルファベット文字手法は文字としてどちらが優秀なのだろうか。一般に云われるのは、新聞見出しの訴求力は漢字の方が優れている。一眼で記事内容が分かると云う利点がある。しかしアルファベット文字にはその欠点を埋め合わせる組み合わせ言語の妙がある。文法も洗練されている。つまり、どちらにも優劣があると見なすべきであろう。要するに短所と長所が一体化しており、漢字手法の長所からみればアルファベット文字手法の欠陥が見え、逆は逆であると云う風に認めるべきではなかろうか。歴史は現に漢字文化圏、アルファベット文字文化圏を形成して来ている訳であるから、どちらかに統一する必要はなく使い分けの道を探るべきではなかろうか。これを、漢字対アルファベット文字比較の結論とする。

 さて、日本語は漢字文化圏に属する。その日本語と漢字を生み出した本国である中国の漢字とを比べて見ると、日本語が漢字+ひらがな+カタカナ+数字の複合から成っており、中国語は漢字オンリーで通していると云う差が認められる。この優劣を問うべきであろうか。生活語として使うのであれば、その必要はない。これを国際語的に使うのであればと云う条件で、れんだいこは然りと答える。決定的な差は、日本語ならば外国語の識別、擬態語、擬声語が容易にできると云う利点がある。国際交流が不可避的に盛んになる今日、母国語と外国語を識別できる日本語の良さは格別秀でているように思える。

 中国語は現在、略字を生み、煩わしい多画数文字から解放されている。しかしながら、その略字が原義を反映しない記号化しているきらいがある。他方、台湾では旧字を使用している。旅先での文字パネルで中国字と台湾字が併記してあるのを見て、感慨ひとおであった。それはそれとして、今後の方向として、日本語の中に中国略字が入って来そうな雰囲気である。しかしそれも、過去の日本人がしたように、成るほどと思われるような勝れた略字に於いてはと云うことになる。これを逆に云うと、中国字が日本漢字を取り入れることも可であろう。そうやって日中台の言語交流が進むのではなかろうか。そういう予感がする。


 
2013.1.18日 れんだいこ拝

【清水セイ八郎氏の日本語秀逸論】
 れんだいこはつい最近、清水セイ八郎氏の著作「破約の世界史」(祥伝社、2000.7.21日初版)を手にした。それなりに面白いのだが、れんだいこ史観と齟齬するところが多く、ネオシオニズムに対する考察が一切欠落していて物足りず、資料的な面だけ頂戴することにした。ところが、最終章の「第7章、グローバリズムという名の世界侵略」の項での日本語考が為になった。そこで、示唆的なところを転載しておく
 日本人の英語下手、第二の理由

 ドイツは1807年、ナポレオンに首都ベルリンを踏みにじられたが、時の哲学者フィヒテはベルリン大学で「ドイツ国民に告ぐ」という大演説を行い、「ドイツ語を失わない限り、ドイツ民族は滅びない」と叫んだ。フィヒテは、ドイツ語の中にドイツ魂が甦(よみがえ)る限り、必ず祖国は復興するものと確信していたのである。

 日本人の英語下手の第二の原因は、日本語が世界一複雑な言葉である上に、高度に洗練された優れた言葉であることである。つまり英語に馴染めないのは、あまりに高次元の言語を平素使いこなしていることに原因がある。

 「言語学者によると、世界には2800ほどの言語があるという。その中で、日本語は、仲間を探すのが困難で、ひとり独立した言語となっている。同じ漢字文化圏と言いながら、中国語とは文法、発音がまるで違う。韓国とは隣同士でありながら、語順こそ共通点があるが、ヨーロッパの英独仏語間にある類似性を、日本語と韓国語の間に見ることはできない。このようにみると、日本語は世界の言語地図の孤児てである。

 そこで、欧米語と日本語の著しい違いを、三つ挙げてみよう。

 まず、欧米語がアルファベットの僅か26文字を主体に表現されるのに対し、日本語ではカタカナ、平仮名、漢字の三種類の文字を持ち、さらにそれを自由に組み合わせて使用することができる。

 その二は、欧米語は表音文字の組み合わせに対して、日本語だけは仮名の表音文字と漢字の表意文字とを組み合わせている。例えば、「愛する」のように、一字の表意の漢字に、二文字の表音の仮名がついているが如くである。

 第三に、全く同じ名詞の事柄に少なくとも三通りの表現が使われていることである。和語(大和言葉)と漢語と洋語の三通りで、例えば和語で「うち」は、漢語で「家庭」となり、洋語で「ホーム」となる。和語の「知らせ」は「報道」となり、「ニュース」となる。「誂(あつら)え」は「注文」、「オーダー」にといった具合である。

 又漢字には音読みと訓読みがあり、山川は「サンセン」でも「やまかわ」でもよく、草木は「ソウモク」とも「くさき」とも読める。大和言葉に漢字をあて、行灯(あんどん)、陽炎(かげろう)、海老(えび)などの表現がある。更に明治以来、欧米の言葉を巧みに漢字の二文字で表現して「哲学」、「科学」、「経済」など、たくさんの新造語を発明して、国民は日本語で違和感無く、容易に西欧文明を理解することができた。

 文字は人類最高の発明であり、最良の宝だ。各民族の固有の文字は文化であり、文字の多様化は文化の深さと豊かさを示している。この点彼我(ひが)の文化の違いは、単純な26文字のローマ字と日本語の漢字仮名交じりの複雑多用な言語によって、決定的に方向づけられたといってよい。

 彼らは、文字をアルファベット26文字に集約してしまったが、これでは表現に微妙な心情や事象の差異を示すことができない。彼らは、三つの事柄を区別するのに三角形もABCで示し、ビタミンもABC、学校のクラスもA組、B組、C組で示すほかはない。これが日本語なら、イロハといった無味乾燥な区別をせず、甲乙丙、上中下、大中小、優良可、松竹梅、福禄寿と、内容と情緒のある多彩な区別ができる。

 日本では、アルファベットに相当するカタカナ、平仮名の各50音を学び、さらに表意文字の漢字を小学校で1000字、中学校で2000字をマスターする。高校卒業の頃には3600の漢字を覚え、これで新聞などに、出てくる文章は納まる。

 日本人は一生のうち平仮名、カタカナ、漢字合わせて5000の文字を見につけ、これを頭脳と云うワープロに詰めている。5000の文字を組み合わせれば、無限の新概念が創造できる。26文字と5000の文字では、初めから勝負にならないのである。しかも、ABCは発音記号に過ぎず、文字ではない。アルファベットは日本語のアイウエオに過ぎない。アルファベットでは、漢字のような言霊(ことだま)が発揮できないし、書道に高めることもできない。

 英語でBBC、WHO、PKOと要約しても、意味不明である。日本語では山川草木、春夏秋冬、明鏡止水と意味深長な言葉が生まれ、日教組、全学連、経団連と要約しても意味が通じるが、ODA、EU、PTAといっても、時代を超えて意味を持続することはできない。

 さらに日本語には、同音異語が無数にあるが、人々は混乱せずに自由に会話したり書いたりしている。例えば、「五月五日の端午の節句に、子供に『菖蒲(しょうぶ)湯』に入れて、『尚武』の気風を養って、人生の『勝負』をつける」といっても、充分意味が分かる。また、「貴社の新聞記者が汽車で帰社した」でも混乱しない。これをカタカナやローマ字で綴ったらすべてキシャになり、読むのも大変だが、何のことやら分からなくなる。

 もし日本語が漢字を取り入れず、電報文のようなカナの表音文字だけで構成されていたら、どんなに不便だろう。電報文も、頭の中で漢字仮名交じりの文章に翻訳して、初めて的確に情報が伝わる。

 日本人は直観的に理解できる幹事の便利さに慣れているので、カナだけの文章やローマ字の外国文は煩わしくて読む気がしない。日本語がもし英米語のローマ字のような仮名だけで成り立っていたら、日本文化は今日のような繁栄を来(きた)していただろうか。否である。してみると日本文化と社会発展の活力は、日本語によってもたらされたと言っても過言ではない。
 世界に独特の日本語文化

 日本に一度外来文明が入ると、それは日本語に翻訳されて、漢字の組み合わせと順列で、次々と新しい概念を創造することができる。文明の進歩は概念創造の競争である。この点、外国の26文字と日本の5000字では、勝負にならなかったのである。

 日本人が初めて鉄道を知れば、100年足らずののうちに世界一の新幹線に高め、自動車を知れば、世界一緻密な故障しない車を作って外国に輸出する。時計でもカメラでも、半導体でも同じことだ。それは日本人が頭が良いからだけではなく、高度に操作可能な、日本語文明の賜物だったのである。

 日本人は、概念の異なる数千の漢字を知っているだけでなく、これに微妙、繊細な情緒や心情を表す独特のテニヲハ、つまり助詞を持っている。これは、中国語にも英語にもない。彼らは、好きだという言葉を「吾愛汝」といつたようにブッキラボウに文字を並べるだけである。外来語で日本の和歌の、「青丹(あおに)によし ならの都は 咲く花の におうが如く 今さかりなり」、「足引きの 山鳥の尾の しだりおの 長々し夜を ひとりかもねん」といった美しい情景の詩が翻訳で表現できるだろうか。

 しかも万葉集や源氏物語のような、物のあわれやロマンを表現した文学が、今から1000年以上前に完成していたのである。シェイクスピアなど、それから数百年後のことである。

 さらに驚くことは、外国で漢詩や洋詩が書ける人は、特別才能ある専門家だけであるのに、日本では農夫や兵士や庶民にいたるまで、昔から和歌や俳句を操り親しんできたのである。「君が代」の歌詞など、読み人知らずの一平民の、心からの祝いの気持ちの自然の発露であった。(以下略)

【黒川伊保子(著)「日本語はなぜ美しいのか」】
 「株式日記と経済展望」が、黒川伊保子(著)「日本語はなぜ美しいのか」を紹介している。これを転載しておく。
 ◆母語獲得の最終工程

 さらに、言語脳が完成する八歳までは、パブリック(公共、社会)で使うことばと、ドメスティック(内的世界、家庭)で使うことばは、同じ言語であることが強く望ましい。理由は二つある。

 一つは、母語獲得の最終段階ば、言語の社会性を身につけることだからだ。母語を、公共の場で仕上げる必要があるのだ。そして、その母語の仕上げには、臨界期という問題がある。

 脳には、ある能力を身につけるにあたり、一定の年齢を超えると、その後その能力を獲得しようとしてどんなに努力しても、けっして同じ質では獲得できないという特徴がある。その年齢を臨界期という。言語脳は八歳の誕生日までにほぽ確立してしまうので、母語獲得の臨界期は八歳である。七歳までのうちに、さっさと仕上げておかないと、未完成な母語で生きていくことになる。

 母語獲得の最終工程に必要なのは、文字や書きことばの習得、音読、読書、作文や口頭で感じたことを人に伝える体験である。小学校低学年で、音読と作文を繰り返すわが国の国語教育は、脳科学的に、非常によくできていると思う。加えて、先生との会話、友達同士の会話、学級での発表など、さまざまなスタイルの会話体験を増やさなくてはならない。

 母語以外のことばを使う小学校に子どもを預ける場合、この母語獲得の最終工程がないがしろになってしまうことが多いのである。海外生活のためにやむなくそうなる場合は、もっと早い段階から、現地語の人たちと触れ合って混合母語というかたちで育てるか、家庭での日本語のフォローが不可欠である。

 ◆母語喪失

 そして、最近、教育の現場で指摘されだした、もう一つの理由が、「母語喪失」である。それは、学校で使われることばが、両親ともに堪能でなかった場合に起こる、深刻な問題である。実は、パブリックという意識の場を確立する学童期に、外で使う言語が両親とも堪能でない場合、母語喪失という恐ろしい事態が起こりうるのだ。

 学童期、パブリックで起こることのさまざまな喜怒哀楽や情感を、心の中で反芻したり・親に話して解説してもらったりすることで、子どもは自我を確立し、社会性を身につけ、コミュニケーション能力を上げていく。この時期、子どもにとって親とは、内的世界(心の世界)の一部でもあり、心と外界をつなぐ、重要な案内人となる。

 それなのに、パブリックで使うことばを親がわからないとなると、パブリックでの出来事の微妙なニュァンスを、子どもは親に伝えられない。

 これは、単に、親との没交渉などという簡単な事件ではないのである。心の世界ができ上がらないので、子どもは自問自答しながら、目の前の事象に対処することができないままになるのだ。すなわち、「○○したい!とはいっても、いきなり、それは問題だろう。その前に、こっちを片づけなきゃなあ」のような心の中のひとり言が言えない、”気持ちの逡巡”という感情コントロール機能を獲得しないまま、次の発達段階に向かうことになる。極端な場合、コミュニケーション障害をきたし、一人前の社会人として機能することが難しくなることもある。

 発達途上の子どもの脳にとって、ことばは、意味上の語彙を増やしてやればいいというものではないのである。ことばの情感と社会性を、親(近しいおとな)という「案内人」を介して、複合的に獲得していかなければならない。ここにおいて、ことばの表層の意味なんて、たいして意味がないのである。

 このように、いったんドメスティックな環境で母語を確立したのに、社会性獲得の段階(学童期)で、心を表現する言語である母語を失うことを母語喪失と呼ぶ。

 この母語喪失は、元は、外国からの出稼ぎ家族たちに起こった間題である。親は日本語の能力が低いまま、朝早くから夜遅くまで働いている。学童期の子供は、親とほとんど触れ合えない環境で、学校で使う日本語に馴染んでいくうちに、ほんとうにふるさとのことばを忘れてしまうのである。

 気づいたときには、親と子の会話が通じない。子ども自身もさることながら、こういう子どもを抱えた、現場の教師たちのストレスは計り知れない。このため、外国人労働者が増えたパブル期以降の教育現場の問題提起として、母語喪失ということばがあった。

 しかし、母語喪失は対岸の火事ではない。親と子のことばが通じないという極端なケースでなくても、心を表現することばを失い、後にコミュニケーション障害を抱えてしまうケースは、帰国子女の中にも見られるのである。そして、今後は、日本に生まれ育ち、日本人の親に育てられているにもかかわらず、早期の外国語教育によって母語喪失を引き起こすケースが増えることも予測されている。

 統計的には、この母語喪失の増加が顕著であるかどうかはわからないが、「子どもを国際人にしたい」がために、外国語の小学校に通わせる親たちが増えているどいうニュースは、最近よく目にする。両親のどちらかがその言語を母語としているか、両親のどちらかあるいは本人が七歳以下で三年以上の現地体験があるか、今現在、家族で現地に住んでいて、両親のどちらかが高い言語能力で現地の仕事をこなしているか。そのいずれでもない場合で、やむなく外国語学校に通わせるときは、学校以外の場所でのいっそうの日本語教育をお勧めしたい。

 心を表現することばを失った子どもたちが、おとなになる社会を考えると、現在の二ート現象どころの騒ぎではないような気がする。脳は、ひとりでおとなになることはできない。母語は、脳の基本機能に深く関与している。親と子どもの母語関係をしっかりと築くことが、人間形成の基礎なのではないだろうか。(P55~P60)

 ◆日本人の識字率はなぜ高いのか

 音韻と文字との関係も、各国でさまざまだ。日本語は、音声認識の一単位にカナ一文字を与えている。したがって、意味がわからなくても、聴き取れれば、書き取れる。

 中国語は、音声認識の一単位であるピンインに、複数の漢字がリンクしている。したがって、聴き取れても、意味を理解した上で漢字を駆使しないと書き取れない。つまり、日本人は数十のカナを覚えればなんとかなるが、中国人は、四〇〇を超えるピンインに何千という漢字がぶら下がっていて、その体系を知らなければ、識字できないのである。

 アルファペット文化の人たちは、音韻単位と表記単位が一致していないので、聴いたように記載しても文字記号にならない。また、文字を見たように発音しても、それが正しい発音だとは限らない。中国語と同じく、ある一定数の単語(文字列)を知らなければ、識字できないのである。

 日本人の識字率が高いのは、幼い頃に、まず音韻と一致したカナ文字によって、気軽に文字に親しめるからだといわれている。やがて、発達段階に合わせてゆっくりと漢字を増やしていく。この方式だと、ほとんど落ちこぼれを作らない。

 株式日記と経済展望」主宰者は、「私のコメント」と題して次のように述べている。
 バージニア工科大学における銃乱射事件の犯人は八歳でアメリカに移住した韓国人だった。犯人のチョ・スンヒは極端に無口であり、教科書の朗読で教師から指名されてもなかなか読み上げようとはしなかった。読まなければ落第だと言われて読み上げ始めたが、モゴモゴ言うような発音で、他の学生から「中国へ帰れ」とからかわれたという。

 テレビで犯人のビデオ声明が放送されたが、チョ・スンヒの話す英語は口の中でモゴモゴ言うような特徴のある英語だった。バージニア工科大学に入れるほどの頭の良さなのに、英語の発音が不自由であったがために犯人は極端に無口になり、学友との交際はほとんどなかった。

 たまたま黒川伊保子著「日本語はなぜ美しいか」という新書を読んでいたのですが、母語喪失という問題がチョ・スンヒにも当てはめられるのではないかと思う。両親とも英語が話せず、学校生活や日常では英語を使っていたから、喜怒哀楽や感情を何語で表現するかという問題が起きてしまった。

 チョ・スンヒには姉がいたが、年上だから韓国語が母語であり、その上で英語を学んだから意識表現での混乱は起きなかったが、8歳のチョ・スンヒには韓国語も英語も中途半端になり、自分の感情を何語で話すか分からない母語喪失状態になってしまった。そのためにコミニケーション障害となり歪んだ人格が形成されていったと思われる。

 最近では子供を国際人として育てる為に早くから英語を学ばせている親達を見かけますが、8歳程度の子供には他に学ばなければならない事が沢山ある。小学校の低学年で二つの言語をマスターするのは天才的能力が必要だ。むしろ読み書きそろばんといった基礎的な能力を身に付けさせないと脳の基本形成に影響が出てくるのではないかと思う。

 日本の場合、古代の昔から日本語を使い続けてきた。英国のように古代はケルト語を話していたが大陸から次々と侵略されて現代の英語が形成されたがそれは16世紀ごろの事で英語はフランス語などの外来語が多い。島国である英国ですらそうなのだからヨーロッパ大陸諸国はラテン語すら廃れてしまった。だから大なり小なり外来語が母国語となっている。

 アメリカ人の場合はイギリスからの移民を除けば英語は先祖伝来の言葉ではなく、韓国から移民してきたチョ・スンヒのように両親は母国語を話し、子供達から英語を使い始めている。だからアメリカ人にとっては英語は母国語になりきってはおらず、アメリカの風土と英語とは何の関係もない。

 英語と風土とが一番馴染んでいるのは、やはり英国であろう。500年余り使い続ければ風土や意識や身体感覚に結びついた言葉になる。英語がファンタジー大国であり数々の童話が作られているのは母国語として英語が体にしみこんでいるからだ。

 日本はそのような英国を上回るファンタジー大国であり、日本ほど古くからの昔話や童話が残っている国はないだろう。それは昔から日本人は日本語を使い続けてきたからであり、ほとんどの国は国家の興亡と共に国語も昔話も童話も消え去ってしまった。

 このように見ればアメリカの英語は単なる記号言語であり、僅かな言葉で「暗黙のニュアンスを伝える」といった文化レベルには達していない。だから同じ英語を話すイギリス人とアメリカ人とでは発音に関して意識が異なるのであり、アメリカ人にとっては英語は意味が伝わればいいのであり、イギリス人にとっての英語は情念まで伝える言葉であり、だから発音にも厳格だ。

 日本においてもビジネスでは標準語を使っている人が家庭に戻ればお国の言葉を使うように、気持ちを伝えるには標準語ではなくお国言葉でないと伝わらない。だから英語を標準語に例えれば母国語はお国言葉なのだ。宮崎県知事選挙でそのまんま東が宮崎弁で演説したのに、官僚出身の候補者が標準語では選挙民の心はつかめない。

 アメリカ人の英語が風土に結びついた母国語となるためにはあと数百年の年月が必要だろう。アメリカ国内でもテキサスやボストンなど言葉が違ってきている。ヨーロッパでラテン語がスペイン語やイタリア語やフランス語に変化していったように、アメリカ英語が母国語となる頃は様々なお国言葉に変化しているはずだ。

 アメリカ在住の日本人家庭では子供に英語を身に付けさせる為に家庭でも英語で親子が話をしている例もあるようですが、ばかげている。日本人である限り母国語である日本語が話せなければ無国籍人となってしまうのであり、単なる記号言語しか話せないロボットのような人間が出来上がることになる。アメリカ人が歴史感覚が無いのも歴史が浅い国であると同時に、言葉も短なる記号としての言語しか使えないせいもあるのだ。

 テレビでも時代劇が好まれるのも、日本語の歴史的連続性があるからだろう。言葉もその時代風に変えてあるし外来語は出てこない。ハリウッド映画が違和感のあるのはドイツの軍人もナポレオンもみんな英語を話しているからだ。ドイツの軍人はドイツ語でなければ「らしくない」しナポレオンもフランス語でないと「らしくない」。英語では風土や生活習慣に結びつく情報が極端に少ない。だからアメリカでは優れた文学作品が少ないのだ。

 グローバル化した時代では英語が出来たほうが確かにいいだろう。しかしそれはビジネスに限られた記号言語であり、情感を伝える言葉としては向いていない。チョ・スンヒが狂ってしまったのも母国語を失ってしまったからであり、日本の親達が小学生のうちから英語を学ばせるのは間違っている。

 日本人ほど英語が下手な国民はいないといわれますが、それは英語が出来なくても生活に不自由しないからだ。日本では大学でも日本語で授業が行なわれているからですが、韓国では欧米に留学しないと高度な教育は出来ないようだ。韓国の異常な数の留学生の多さは韓国文化の悲劇の象徴でもある。

【西尾幹二(著)「国民の歴史」】
 株式日記と経済展望」の2007.5.4日付けブログが、「西尾幹二(著)『国民の歴史』の言語論のくだり」を紹介している。これを転載しておく。
漢字漢文は不完全な言語である。情緒を表現することができない。論理とか道筋とかを正確に伝えることができない。 西尾幹二

 ◆「国民の歴史」 西尾幹二(著)
 http://www.sankei-books.co.jp/books/title/S99X3001.html

 ◆訓読みの成功と日本文化の自立

 『日本書紀』の編纂にあたっては、かなりの渡来帰化人の協力があるといわれている。ちょうどわれわれ現代人が英語をうまく書ける人につい頼ってしまうように、漢字漢文に練達である朝鮮からの渡来帰化人に依存するということがあったと思う。

 日本人が外国語べただという性格は二千年前からつづいているという文化論に、あるいはまた文明の反省につながる話というふうにしてしまうと少し情けないし、間違える。そういう話ではない。古代の日本は他のアジアの国にはできなかったきわめて特異なことを行った。韓国が吏読という訓読みに近いやり方をいったん試みたが成功しなかった。

 同じようなことは、ベトナムが字南という言語表記法を工夫し、開発するが、もちろんこれも成功しない。十五世紀につくられたハングルは一語一音表記の表音文字であるので日本の仮名に等しい。訓読みという中国漢字の自在の二重構造というものではおよそない。

 韓国の場合、漢字漢文を正式書法とする上流階級の意向にあわせてハングルは軽蔑されたり、禁止されたりして二等級扱いされてきた。そして第二次世界大戦後、伝統となっていた漢字漢文の表記法もやめてしまい、ご承知のようにオールハングルに切り替えた。それで数世代を経て、今、非常に困った文化的局面に立ち至っていることは関係者の反省の言葉としてわれわれの耳に達しているとおりである。

 古代の日本は何度も言いたいが、アジアの国で出来ないきわめて特異なことをやった、たった一つの国である。それは中国の文学を日本語読みし、日本語そのものはまったく変えない。中国語として読むのではなくて日本語としてこれを読み、それでいながらしかもなお、内容豊かな中国古代の古典の世界や宗教や法律の読解をどこまでもいじする。この決然たる意思であった。

 今のフィリピンでは、公用語も新聞も英語である。しかし民衆はタガログ語を話している。アメリカに植民地として支配されたフィリピンの姿である。フランスに支配されていた旧フランス領アフリカでも同じことで、指導者はフランス語を話し、一般民衆は現地の言葉を話している。古代日本人は敏感にこのことのもつ危険を知っていたに違いない。

 もし古代日本が中国語に接したときに、支配階級が中国人と同じように中国語を読み書き話す術を競い合い、他方、一般民衆は「倭語」を話しつづけていたらどうなっていたであろう。日本は中国の属州でありつづけ、日本そのものがすでに消滅してしまっていたであろう。

 言語は民族の精神の核である。(P102~P103)

 ◆漢字漢文における表現カの限界

 いうまでもなく私の関心は日本語の起源問題そのものにはない。前項以来、現代のこの方面の最新学説を紹介することで、日本語は孤立言語とは断定できないまでも、歴史的由来をただすことがきわめて困難を言語の一つであり、したがって日本文化そのものがユーラシア大陸から独立した"栄光ある孤立"を守る正当な根拠をもっている一文明圏だということに、読者が納得してさえくだされば、それで十分なのである。

 文字は間違いなく中国から来て、それはいちじるしく変形され、日本化された。だからといって日本が中国文明圏だということにはならない。前にも言ったとおり、言語と文字は違う。言語はより根源的である。日本語は周知のとおり、中国語とは縁戚語ですらない。

 人類が音声を使っな言語を用い始めたのは、すなわちスピーキングは、確たることはわからないが約三百万年前に始まる旧石器時代である。それに対し文字の出現、すなわちライティングは最古のシュメール文字にしてもせいぜい数千年前である。現代でも文字を持たない言語がいくらも存在する。

 また、優れた文字を持つ文明下に生きているとしても、喋ったことを完全に文字で表現できるとは限らない。言語と文字表現との間にはつねに隙間がある。隙間という程度ではすまないほどの埋められない深い淵があるのが宿命だと言ったほうが、あるいは正しいかもしれない。

 「書くことが話すことよりも完壁であるととかく考える誤解が、世には存在する。なかには書くことと言語とを同一視するような行き過ぎた間違いを犯す者さえいる」 書物に取り巻かれている文明社会の知識人が陥りがちな自己錯誤である。

 中国の全国人民代表大会には約三千人が一堂に会する。しかし参加者は誰も発言しない。一人一秒もない、という時間の問題だけではない。中国は多言語社会である。誰かが突然立って発言しても言葉が通ない。

 江沢民が壇上で演説するのを聴いても理解できない参会者が少なくないそうだ。皆がワーツと拍手するだけである。そこで紙が配られる。書かれている漢字漢文を目で読んで納得する。各々が自分の国の音で読んで、理解はするが、隣の人にこれを朗読して聞かせたらもうわからないということだ。

 中国のテレビではニュースキャスターが話している間、ものすごい速さで漢字のテロップが流れることがある。中国人同士でも、耳で聴くだけではまったく理解できない場合がある証拠だ。

 「官吏」という言葉も中国から来たが日本とは意味が違う。「官」はキャリアの役人、中央から派遣され、しばらく勤務し栄転していく高級官僚である。「吏」は下積みのノンキャリア組で、それぞれの地方に縛られている。これは端的に通訳のことである。地方語のわかる人が「吏」である。そういう区別が多言語社会の実質を物語っている。

 台湾人の文明評論家、黄文雄氏から聞いた話だが、事情は台湾でも同様であるそうだ。国慶節で蒋介石が演説するのを何度も聴いたが、分からない人が大部分だった。台湾には高砂族という原住民がいて、今でも九つの部族に分かれ、それぞれ独自の集団生活をしている。彼らは固有の儀式を行い、お互いに言葉が通じない。仕方がないので、今でも必要な時には日本語で意思疎通を図っていると言う話だ。

 私は以上、政治的なテーマを語っているのではない。言語哲学的に非常に重要な事を言っているつもりだ。中国はヨーロッパみたいなものだと思えばいいでしょう、と黄氏はおっしゃった。

 フィンランド人はイタリア人が話していることがわからない。アイルランド人はポーランド人が話していることがわからない。それでは文字に書いた文章を見せればいいかというと、中国語と違って、ヨーロッパの文字は表音文字だから、それぞれ相手の言語を勉強していなければ理解はできない。

 表意文字としての中国語はこの点断然有利だ。漢字漢文だと相互理解がたちどころに可能になる。中ていさいとつくろ(?)国が曲がりなりにも統一国家としての見せかけの体裁を取り繕うことができ、有機的な一つの文明だと思わせることに成功しているのは、ひとえに表意文字の有効利用のせいであるが、他方、この有利さには別ともなの面の不利が伴っている。

 すなわち漢字漢文の伝達力には必然的に制約がある。きわめて大雑把な、決まりきった定型しか表現できないという欠点がある。漢字漢文は不完全な言語である。情緒を表現することができない。論理とか道筋とかを正確に伝えることができない。

 だいたい品詞の区別がない。名詞、動詞、形容詞、形容動詞の区別がない。日本語の助詞として重要な役割を持っ「てにをは」がない。だから読みようによってどうにでも読めるし、厳密な伝達ができない。

 ヨーロッパ語のように性とか数とか格とかがない。そもそも語と語のつながりを表す言葉がない。したがって大略の内容表現しかできないで押し通してきたことが、偉大な古代文明を持つ中国がその後の発展を阻まれてきた原因かもしれない。

 魯迅も孫文もこのことを嘆いていた。毛沢東の文字改革はこの嘆きのうえになされたものだが、文字を簡略化しても根本問題の解決にはならない。それに比べ一語一音を廃し、訓読みを導入し、しかも二種の仮名文字を自由自在に混在させる知恵を発揮した日本語のほうが、言語の表記法としてははるかに進歩し、微妙に洗練され、かつ精緻正確な形態に発達していることは言をまたない。

 過日、加地伸行氏という儒学の大家にたいへんに興味深いお話を伺った。日本語の助詞も持たず、ヨーロッパ語の格変化や人称変化も持たない漢字漢文で、語と語の連結はどのようにして行われているのですかという私の質問に、氏はふと思いついたように「端」という字をお示しになった。日本人はこの字を見ると端っこというイメージをまっ先に思いつく。そして、それ以上はなかなか意識に思い浮かぷものがない。われわれには漢字が依然として外来語である所以である。

 加地氏によると、「端」はものごとを区切るということであり、礼儀正しいということであり、さらに、恭しく人に物を捧げ持ってさし出す様子などをさえ示す言葉だという。私は知らないことを初めて言われた驚きを覚えた。「つまり『端』はじつにきちんとしているということを言い表す言葉なんですよ。たとえば日本語でも、『端正な芸風』、『端整な顔立ち』、『端然と座る』などという使い方をするでしょう」。

 そう言われて私は、なるほどと悟った。日本語では中国語の原義のもつ広い概念が、ばらばらの熟語として二字連結で入っている。「端的にいえば」はまさに「ものごとを区切る」という最初の語義に発している。「端厳な態度」、「端座する」は礼儀正しく、きちんとした姿勢を紡佛させる。

 私のようなヨーロッパ系の言語を学ぶ者でも、日本語と対応させるうえでの概念のズレをつねづね経験している。constitutionは組織や構成のことであり、体格や体質のことであり、かつ憲法のことだ。She is weak by conatitutionは「彼女は生まれっき身体が弱い」の意で、憲法とはなんの関係もない。英語やドイツ語だと私はある程度の概念の広がりを当然視しているが、漢字となると、自国語として用いているので、かえって一語の持つ広い概念範囲に平生気がついていない。

 しかし中国人は「端」という一語を見ただけで、広範囲のイメージをじかに表象している。そしてひとつの概念の円が次の概念の円と次々に重なって、それによって語と語の連結をつづけていく。助詞や格変化がなくても不自由しないのはそのせいである。

 教養のある中国人は一つの概念の円が、当然大きくて広い。歴史的に使われていた中国語のありとあらゆる教養のうえで、大きな円を描き、そのつながりで意味了解がなされていくのが中国語の特徴であるから、古典の教養がなければ理解できないことがたくさん出てくると言われるのも、むべなるかなである。

 加地氏は自作の漢字漢文を中国人の先生に見せると、たいてい、ここはいらない、これも不要だ、と文字を削られ、短くされてしまうという。一つの概念の円の範囲がたぶん中国人の先生のほうが広いためである。

 中国の科挙がなぜ膨大な量の古典文学の学習を強いたかという謎もここにあるのかもしれないと思ったが、現代の大衆社会に適用できる話ではないので、漢字漢文の伝達力の限界という先の間いに解答を与えてくれる話ではない。(P131~P135)


 株式日記と経済展望」主宰者は、「私のコメント」と題して次のように述べている。
 (前略、中略)
 連休期間中は「国民の歴史」をピックアップして注目すべき点を論じていってみたいと思います。その第一はなぜ日本だけがアジアで近代化に成功したかという点ですが、言語そのものに原因があるのではないかと思う。特に中国や韓国などについては何度か触れてきましたが、戦後の文字改革で歴史が断絶してしまった事だ。

 中国では文字改革で漢字が極端に簡略化されて、表意文字なのに本来の意味が分からなくなってきている。だから中国語は中国の古典を読まなければ十分な意味が伝わらないのに、古典そのものが中国人は読めなくなっている。韓国にしてもハングル文字は表音文字であり戦前の漢文などが読めない。

 それだけ中国や韓国は言語や文字に問題があり改革を必要としたのですが、日本だけは西洋の近代文化を取り入れることに成功した。現代においても中国はコピー文化に陥っていて、自立的な発展は難しいようだ。文化とは積み重ねで発展していくものだから、基礎となるような歴史がないと、いきなり近代文明を上に載せても基礎がしっかりしていないから発展は難しいのだ。

 フィリピンなどのアジア諸国やアフリカ諸国などは、欧米に留学して欧米語を話す上流階級と、現地語を話す留学できない一般民衆の二つに分かれてしまって、これではいつまで経っても国が近代化できるわけがなく、欧米などに移民として移住するアジア・アフリカ国民が絶えない。中国や韓国もやはりアメリカに移住する事が唯一の道になってしまっている。

 中国に関する限り英語を習うよりも日本語を習って近代化したらどうかと思う。現在でも中国から大勢の留学生が来ているが、日本語が読めるようになれば世界の翻訳された本を読むことが出来る。韓国にしても日本語教育を進めれば近代化のために役に立つだろう。

 誇大妄想的にいえば、日本人と中国人と韓国人が日本語を公用語にすれば、英語以上の公用語人口となって世界に普及するかもしれない。

 (私論.私見)
 れんだいこは、「誇大妄想的にいえば、日本人と中国人と韓国人が日本語を公用語にすれば、英語以上の公用語人口となって世界に普及するかもしれない」に同意する。日中双方の略字も比較検討して、字義に適い的確なものを融通し合えば良いと思う。基本語彙も、もう少し増やせば良いとも思う。

 2007.5.4日 れんだいこ拝

 「株式日記と経済展望」の2007.5.7日付けブログ「多くのアジア諸国の通貨は円で統一され、日本語を話すことのできる人は世界で5億人を越え、日本語が世界共通語になる」を転載しておく。

ブログ投稿数で日本語が世界第一位になった。ネット化社会では日本語が世界の公用語になる。

報道2001/藤原正彦の子供は殴れ、本を読ませろ!(動画36分11秒) 檀君WHO’s WHO
数年後に起きていること―日本の「反撃力」が世界を変える 2月15日 人生ひまつぶし

 将来の日本はどのようになっているか?という内容である。多くの評論家は未来予測をしたがらない。それは、外れる可能性が高いから・・・。まあ当然なのだが、日下公人は違う。ズバッと切り込む。日本はこれからまだまだ伸びると言い切る。

 たしかに、生産技術力はあるし、過去30年間の貯蓄はあるし、特許も多い。最近、技術競争力が落ちたと聞くが、安定して最高級品を作れる技術がある国は、ほとんどないとのこと。

 そして、2010年頃に中国は一度、経済が停滞するとのこと。私は北京オリンピックの次の年が危ないのではと思っており、ほぼ一致したことが少しうれしかった。

 一番驚いたのは、将来日本語が世界共通語になるとのこと。日本人向けの商売をしたいなら、皆、日本語を話すようになる。今までは、イギリス、アメリカが世界を引っ張ってきたので、英語が公用語だったが、これからは日本が引っ張っていく。とのこと。

 公用語までいかないが、多くのアジア諸国の通貨は円で統一され、日本語を話すことのできる人は世界で5億人を越える。私はそう思いますね。どうなるんでしょうね。将来の日本は・・・

   株式日記と経済展望」主宰者は、「私のコメント」と題して次のように述べている。
 昨日のフジテレビの「報道2001」で藤原正彦氏が出ていましたが、「読書する子供を育てろ」と言っていた。現代のような情報化社会では本を読まなければ確実に時代からとり残される。そのような状況では書籍の出版量が文化のバロメーターになるのですが、それは読書人口によって支えられる。

 コリアニメのブログでは韓国の本の流通事情が書かれていますが、本屋や図書館が少なく、読書事情は良くないようだ。研究論文を書く上でも韓国語の本では役に立たないので外国の図書を読まなければならないらしい。韓国や中国から日本や欧米への留学生が多いのも文化的な蓄積が少ないからだろう。

 日本も明治維新以来、欧米の文化を学ぶ為に多くの留学生が行ったが、最近では英語などの語学留学が多くなった。先日のバージニア工科大学の銃乱射事件で知ったのですが、中国や韓国からの留学生は500人くらいなのに、日本人の留学生は20人ほどだった。

 このように語学留学を除くと日本人学生の欧米留学が少なくなったのはどうしてであろうか? アメリカかぶれの評論家によれば中国や韓国ではアメリカのトップレベルの学術レベルを身に付けているから日本は追い抜かれると言っていた。博士号の取得者では1998年の段階で、日本人が152人/中国が2387人/韓国が780人/台湾が871人ということで、中国、韓国、台湾の留学生が異常にがんばっている。

 これは日本の学生がだらしなくなって学力が落ちているからだろうか? もっともアメリカへの留学生はアジアからが圧倒的に多くて韓国、インド、中国、日本、台湾の順ですが、日本を除けば大学などの教育レベルや環境が整っていないからだろうか? 最高レベルの能力を身に付けるにはアメリカ留学しかないからだろう。

 このままでは日本の技術競争力は韓国や中国に追い越されて行くのだろうか? しかし自動車や家電製品などにおける最高級品は日本が独占しているし、技術競争力が落ちたようには見えない。あいかわらず中国などは日本製品のコピー商品を作り続けているし、あれほど大量の留学生を送っている中国や韓国がレベルアップしないのはなぜなのだろうか?

 5月4日の「株式日記」でも少し書きましたが、言語的に中国語や韓国語は近代文化を消化吸収するには困難をともなう言葉であり、欧米の近代工業文化を自国語で消化吸収できた日本語は例外中の例外なのかもしれない。

 だからアジア・アフリカ諸国では、欧米に留学したエリートクラスと学校にも行けない現地語しか話せない大部分の一般民衆レベルに分かれてしまう。現地語では欧米の文化を学ぶ事ができないから、高等教育では英語などを使わざるを得ない。

 中国人や韓国人にとっては文化のまったく異なる英語を学んで近代文化を学ぶよりも、日本語を学んで近代文化を学んだ方が適しているのではないかと思うのですが、評論家の日下公人氏は著書の「数年後に起きていること」で日本語が英語に代わって世界の公用語になると言う予言をしている。

 まあ、予言だから外れても誰も文句は言わないでしょうが、日本語は古代では漢字文化を吸収して、近代では欧米文化を吸収消化してきた唯一の言葉であり、表意文字と表音文字とを組み合わせて使う唯一の言葉だ。だから欧米の言葉もカタカナでそのまま書ける。中国語はそれが出来ない。

 現在では英語がグローバル世界の公用語として使われていますが、アメリカが衰退して日本が世界のトップリーダーとなった時は日本語が世界の公用語となる可能性を秘めている。

 英語は27文字のアルファベットで表示する「発音記号」ですが、表音文字は言葉がなまって発音が違ってくると違う言葉になってしまう。表意文字ならば発音が異なっても文字そのものは変わらずに通じる。中国語は表意文字だから言葉がまるで違っていても漢文を読めば意味は通じる。しかし欧米語を漢字にするにはいちいち創作翻訳しなければならない。

 日本語ならばパーソナルコンピューターと言うような長い英語でも、パソコンという四文字で簡単に自然に創作翻訳できるが、他のアジア・アフリカ言語では翻訳するよりも現地語を捨てて英語を使うようになってしまう。しかし現地語しか分からない現地の人はコンピューター用語は理解できない。

 言葉はコンピューターによって処理されて使われるようになり、ネット社会は文章を瞬時に世界のどこへでも送れるようになった。メールなどは電話よりも便利な機能になり、いつでも相手に伝える事ができる。日本語はその意味では表意文字だから文章を理解するスピードは欧米語に勝る。

 だからネット社会になりメールという形で意思を伝える事が普通になった社会では、日本語が圧倒的な優位性を持つ。このような優位性を生かしていけば英語文化圏を上回る高度な文化圏を作ることが出来るはずだ。インターネット社会では日本語がいかに優位性を持つか次のニュースを見ればそれは分かるだろう。





(私論.私見)