漢字輸入に於ける呉音と漢音考

 (最新見直し2006.8.31日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


【呉音と漢音と唐音の由来史考】
 日本に漢字が入ったのは四世紀末の応神天皇期、百済の王仁(わに)千字文(せんじもん)をもたらした。

 漢字の日本語読みには、大きく分けて音読みと訓読みがある。音読みは中国式発音が次第に日本風に訛ったものであるが原音は中国語である。音読みには、呉音、漢音を二大発音として他にも宋音、唐音の4つの読み方(音)がある。

 してみれば、日本語は、同じ漢字を幾通りにも読んでいることになる。例えば、「生」の字を例にとれば、「せい」、「しょう」、「いきる」、「うむ」、「はえる」、「なま」、「き」があり、「相生(あいおい←おう)」や「桐生(きりゅう)」などという固有名詞まで含めれば大変な数になる。このうち、訓読みは、漢字の意味にやまと言葉をあてはめたものであり、いわば翻訳である。英語を訳すとき、同じ単語を場面によってさまざまに訳し分けるのと同じことである。

 他方、音読みは中国音に従ってそのまま転音している。現代中国語は北京語、上海語、福建語、広東語、客家(ハッカ)語の五つに大別され、それぞれがさらに細分化されている。中国語は、漢字一字に対し複数の音読みがある。「上海人」と書いて「シャンハイレン」と読むのは北京語で、上海語では「ソンヘエニン」と読む。「林」という姓は、北京語では「リン」と読むが、広東語では「ラム」とよむ。「三位一体」の「三位」は「さんみ」と読み、本来はsamと読むはずだが、北京語ではsanであり、mがnに合流している。しかし、広東語ではこの区別は残っており、朝鮮やベトナムの漢字音にも残っている。「林」という姓は朝鮮半島では「イ(リ)ム」と読み、広東語の「ラム」と同様M音を残している。

 こういう変化を生んだ中国漢字の発音を歴史的に見ておく。まず呉音が生まれた。中国では、3世紀の魏、呉、蜀の三国時代、呉の国は江南にあって、建業(今の南京のあたり)を首都として江南一帯を統治しており、この地方一帯を「呉」の地と呼んでいた。その後の南北朝時代に入っても、南朝は晋、宋、斉といずれも建康(建業を改名)を首都として漢文化を伝えていた。南朝は六代の王朝が交代ししたので、「六朝(りくちょう)」とも云う。

 日本に最初に漢字を伝えたのは、朝鮮半島の南西部の黄海に面していた百済であるが、百済は、当時の文化の中心であった南朝の長江(揚子江)下流域と交易を盛んに行っていた。この地域の言語を「呉音」と呼び、百済の漢字音はこれに従っていた。呉音は朝鮮半島-対馬を経由して日本に伝わったため、「対馬音(ツシマオン)」とも呼ばれる。これが「呉音」の由来である。呉音は漢音に比して全体に柔らかい響きに特徴がある。

 日本には、6世紀に百済から仏教が伝来した。この時の漢訳の教典が「呉音」によって読み下しされていた為、これが伝統となり主として仏教用語や律令用語で使われ、後の漢音導入後も駆逐されず生き延びていくことになった。現在にいたるまで漢音と併用して使われている。古事記の万葉仮名には呉音が使われている。

 7,8世紀に入ると、中国では北方の五胡十六国の内鮮卑族から出た北朝(北魏、北周)が台頭してきた。この系譜の隋、次いで唐が中国を統一した。唐の時代、唐の首都圏である洛陽・長安(今の西安)地方で新たな中国語音が使われ始めた。中国の唐代、首都長安ではその地域の音を秦音と呼び、それ以外の地域の音、特に長江以南の音を「呉音」とか「呉楚之音」と呼んでいた。これにより、南朝の「呉音」に対し「漢音」と呼ぶ。

 この頃、日本は、中国の国家制度(律令制度)や文化を積極的に取り入れる為、遣隋使、遣唐使をさかんに送った。当時の使節が使うのは呉音であった為、使節の中国語は通じなかった。使節は、長安の発音を日本に持ちかえり、これを漢音と呼び、日本にひろめることになった。
 
 持統天皇は、唐から続守言を音博士として招き、漢音普及に努めた。792(延暦11)年、桓武天皇は、漢音奨励の勅を出し、政府関係の法令や書類の読みは漢音で統一すべしと命令した。  以降、大学寮で儒学を学ぶ学生に漢音の学習を義務づけた。仏教においても僧侶の試験に際して音博士が経典読誦の一句半偈を精査し、漢音を学ばぬ僧には中国への渡航が許されなかった。この為、漢音学習者は、呉音を日本なまりの発音として「和音」と呼び、由来もはっきりしない発音として「呉音」と呼んで蔑むようになった。以降、漢音が正統の中国語音の地位を得た。

 しかし、当時、社会的に力のあった僧侶達が呉音に慣れ親しんでいたため抵抗した為、日常生活に定着している字音や寺院などでは「呉音」が生き続けることになった。ここに官府・学者は漢音を、仏教は呉音をという並存原則が生まれた。

 その後、宋音が生まれ、これも輸入され使われることになった。平安時代に遣唐使が廃止されてからしばらくは正式な中国との交流がなくなっていたが、平安末期に平清盛が日宋貿易を始めたことや、鎌倉時代に栄西や道元が入宋し臨済宗や曹洞宗といった禅宗が伝えられ、また宋からの名僧の来日も多くあったことなどから大陸との関係が再び強まった。これに伴い宋音が伝えられることになった。宋音は唐音として一括されていた音の一部分で、六朝時代から700年近い歳月が過ぎ、漢字の発音も変化し、この時代の江南の発音を取り入れたことになる。実質上は唐末から元初のころまでの音であるが、鎌倉時代までに渡航した禅僧・商人から民間に流布し日本語に取り込まれることになった。「行」をアン、「杜」をヅと発音する類が宋音である。行脚(あんぎゃ)、看経(かんきん)、経行(きんひん)、法堂(はっとう)、東司(とうす)などの禅宗用語のほか、炬燵(こたつ)、椅子(いす)なども宋音とみなせる。

 更に、唐音が生まれ、これも輸入され使われることになった。宋代(10~133世紀)以降、元、明、清の中国音を伝えたものの総称を云う。禅僧や商人などの往来に伴って主に中国江南地方の発音が伝えられた。「行灯」をアンドン、「普請」をフシンという類が唐音である。

 江戸時代には漢字を仮名で書き写す字音仮名遣の研究が始まった。その際には日常的に使われていた呉音よりも最も体系的な字音資料をもつ漢音を基礎として進められた。字書や韻書をもとに漢音がほぼすべての漢字について記述されるようになり、漢音で読まれない漢字はほとんどなくなった。こうして日本語音としての漢音を発音することが可能となった。江戸時代の後期には概略次のように使い分けられていたと思われる。儒教は漢音。仏教、和歌・国学は呉音。詩文雑書は漢音・呉音。

 漢音は、明治時代、西洋の科学・思想を導入する際の訳語(和製漢語)に使われたことで広く普及することになった。

【呉音と漢音と唐音の実例比較】
 数字をイチ、ニイ、サン、シイ、ゴウ、ロク、シチ、ハチ、ク、ジュウと読むのが呉音である。イツ、ジ、サン、シ、ゴ、リク、シツ、ハツ、キュウ、シュウと読むと漢音になる。その上の単位の百(ヒャク)、千(セン)、万(マン)は呉音で、漢音ならばハキ、セン、バンとなる。釈迦如来の「シャカニョライ」は呉音読みである。漢音で読むと「セキャジョライ」になる。阿弥陀如来の「アミダニョライ」は呉音読みで、漢音で読むと「アビタジョライ」になる。観世音菩薩の「カンゼノンボサツ」は呉音読みで、漢音で読むと「カンセインホサ」となる。

 呉音で読み始めたならば、呉音で統一し、漢音で読み始めたならば漢音で統一するのが原則である。最澄は漢音読み、空海、円仁、法然、日蓮等は呉音読み、円珍、親鸞は呉音で読んでも漢音で読んでも同じある。
 (以下、正確ではない。逆になっている場合もあるように思われるがよく分からない)

呉音 漢音 唐音
イウ
コウ
コウ
コウ
キウ
キウ
ケ(毒気) キ(空気)
ゲ(外科) ガイ(外国)
ゲ(解熱) カイ(解釈)
ゲ(象牙゛) ガ(毒牙)
ジョウ(上陸) ショウ(上人)
ゲ(下品) カ(下流)
ダイ(大地) タイ(大会)
トウ
ド(土星) ト(土地)
ニ(?) (?)
ヌ(?)(忿怒) ド(?)激怒
(?) (?)
リウ
オン(騒音) イン(母音)
コン(建立) ケン(建築)
ゴン(黄金) キン(砂金)
ゴン ゲン
ブン フン
マン バン
マク(?) バク(?)
ダイ内裏、境内 ナイ内地、屋内、境内
ニチ(毎日、何日、日記、日光、日用、縁日) ジツ本日、平日、休日
祝日、祭日
ニャク ジャク
ニン人相、人形、人情 ジン人物、人格、人生
ヲン ヱン
西 サイ セイ
ライ レイ
マイ(新米) ベイ(渡米)
タイ(体育) テイ(体裁)
キャウ
ケイ
ヒャウ ヘイ
シャウ セイ
チャウ テイ
イチ
イツ
シチ シツ
キチ キツ
タチ タツ
ミョウ(明星、灯明) メイ(明暗、黎明) ミン(明朝体 )
ギョウ(行事、苦行) コウ(行動、励行) アン (行脚)
ショウ セイ
ナン長男、次男 ダン男子、男性
ニョ女人、天女 ジョ女性、淑女
ニン ジン
シチ(質屋) シツ(質量)
ゴン ゲン
ヌ・奴婢 ド・奴隷
ニョ・蓮如 ジョ・突如

漢字
呉音
よみ
漢音
よみ
荘厳
そうごん
威厳
いげん
祇園
ぎおん
公園
こうえん
兄弟
きょうだい
師弟
してい
人間
にんげん
時間
じかん
近藤
こんどう
近代
きんだい
九品
くほん
品位
ひんい
作務衣
さむえ
着衣
ちゃくい
戯作
ぎきょく
遊戯
ゆうぎ
功徳
くどく
功績
こうせき
怨霊
おんりょう
幽霊
ゆうれい
延暦寺
えんりゃくじ
還暦
かんれき

 呉音と漢音が異なる熟語としては下記が挙げられる。

熟語
呉音
漢音
選択
せんじゃく
せんたく
月光
がっこう
げっこう
日光
じっこう
にっこう
彩色
さいしき
さいしょく
しき
しょく
食堂
じきどう
しょくどう
羂索
けんじゃく
けんさく
境内
けいだい
けいない
利益
りやく
りえき
自然
じねん
しぜん
変化
へんげ
へんか
光明
こうみょう
こうめい
明星
みょうじょう
めいせい
救世
ぐぜ
きゅうせい
礼拝
らいはい
れいはい
上品
じょうぼん
じょうひん
下品
げぼん
げひん
言語 ゲンゴ

 ごんご

ゲンギョ

呉音と漢音の使い分け考
 (よく分からないが、概略こういうことか)

 1、清濁音に分かれる場合、濁っているのが呉音、濁っていないのが漢音となっている場合が多い。しかし、例外もあるように思われる。

 2、仏教用語は殆どが呉音であるが、漢音で読まれる数少ない例の一つとして「上人」(ショウニン)がある。


 3、m、nといった鼻音と非鼻音に分かれる場合、鼻音が呉音、非鼻音が漢音である。「末尾」、「武者」(ムシャ)、「美男」、「憤怒」のような鼻音は呉音読み、「末子」、「武士」、「男性」、「激怒」は漢音読みである。

 4、「イ」、「エ」や拗音の前では呉音のnが漢音では「ジ・ゼ」のようになる。「縁日」、「天然」、「柔和」が呉音読み。「休日」、「自然」、「柔道」は漢音読み。

 5、呉音と漢音の違いは、母音の部分においてより顕著である。呉音はu読みが多く、漢音はo読みが多い。「怒」は呉音で「ヌ」、漢音で「ド」となる。「図」の字は呉音で「ズ」漢音で「ト」となる。もとの音はそれぞれ"du","to"であった。「ズ」が昔は「ヅ」と書かれていたのもこのためである。

 6、「ウ」音と他の音とが対立するときは、「ウ」音が呉音、それ以外が漢音と考えてよい。「口調」、「有無」、「留守」、「大工」、「功徳」などは呉音、「人口」、「有名」、「留年」、「工場」、「功績」などは漢音である。

 7、呉音の「ヨウ」と漢音の「エイ」の対立が目立つ。「明星」を「ミョウジョウ」と読めば呉音である。「京」の字は「東京」では「キョウ」と呉音読みされるが、「京浜」となると「ケイ」が漢音読みになっている。「正月」と「正義」、「人形」と「形式」、「落丁」と「装丁」、「平等」と「平気」、「怨霊」と「幽霊」などもこの例である。なお、「ヨウ」はもともと「ヤウ」であった。だから、「ヨウ」と「エイ」の対立は、「ヤク」と「エキ」の対立と同じことである。「ヤク」と「エキ」の例としては、「配役」と「使役」、「磁石」と「宝石」、「(比叡山)延暦寺」と「還暦」などが挙げられる。

 8、「兄弟」と「師弟」、「体育」と「体裁」、「新米」と「渡米」などの場合は、「アイ」が呉音、「エイ」が漢音である。関西の私学として有名な関西大学は「かんさい」、関西学院大学は「かんせい」(さらに正式には「くゎんせい」)である。これはミッション・スクールである関学が仏教臭の強い呉音読みを嫌ったためだという。

 8、「エ」が呉音、「ア」、「アイ」が漢音という例もある。「下界」と「下流」、「人間」と「時間」、「解熱」と「解釈」、「外科」と「外国」、「象牙」と「毒牙」などが挙げられる。「外」、「牙」の場合、ともに濁音となっており、漢音は清音という原則に反するように思われるが、これは、子音がngという鼻音であるため、gとkの対立とは異なるからである。

 9、「オ」が呉音、「エ」が漢音という例としては、「建立」と「建築」、「荘厳」と「威厳」、「祇園」と「公園」などがある。「オ」が呉音、「イ」が漢音という例としては、「黄金」と「砂金」、「騒音」と「母音」、「近藤」と「近代」、「六法全書」と「六朝(りくちょう)時代」などがある。「エ」が呉音、「イ」が漢音という例には、「作務衣」と「着衣」、「戯作」と「遊戯」、「毒気」と「空気」などがある。

 10、熟語をつくるとき、呉音同士、漢音同士で読むのが普通であり、組み合わされる字の読み方によって呉音か漢音かが分かる例が多い。時に呉漢がまざりあった読み方になるときがある。「音声」を「オンセイ」と読むと、「オン」は呉音(漢音は「イン」)、「セイ」は漢音となるのがその例である。呉音でそろえるのなら、「大音声(だいおんじょう)」のようになるはずである。「美男」も呉音でそろえるなら「みなん」、漢音でそろえるなら「びだん」となるはずである。


呉音と漢音(仏教用語の読み方)
呉音から漢音へ佐藤和美
なぜ音読みが幾通りもあるのか?
呉音と漢音とは
どう見分けるか?
呉音・漢音・宋音(唐音)
日本はなぜジャパンか?
日本語の音 日本語の文字 日本語の気になる言葉 人名と地名
日本語の文法 日本語と社会 日本語と世界 朝鮮語の話
世界ことばの旅 ことばとは何か 「ことばの散歩道」表紙




(私論.私見)