イソップ物語集

 (最新見直し2008.8.31日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 紀元前6世紀、ギリシャの一奴隷の身であったイソップの物語

 英文http://www.pacificnet.net/~johnr/aesop/
 Aesop's Fables Online Collection
(イソップ物語オンライン・コレクション)
 http://www.aesopfables.com/

 れんだいこが知ってる選んだ面白寓話集



***** 兎にまつわる話ウサギとカメその①

 ある日のこと、ウサギがカメを、足が短くてのろまだと嘲笑った。するとカメは笑みを浮かべてこう答えた。「確かに、あなたは、風のように速いかもしれない。でも、あなたをうち負かしてみせます。」

 ウサギはそんなことは、無理に決まっていると思い、カメの挑戦を受けることにした。キツネがコースとゴールの位置を決めることになり、両者はそれに同意した。

 競争の日が来た。二人は同時にスタートした。カメは、遅かったが、一瞬たりとも止まらずに一歩一歩着実にゴールへと向かった。ウサギは、道端でごろりと横になると、眠りこんだ。

 しまった! と思って、目を覚ましたウサギは、あらん限りのスピードで走ったが、カメはすでに、ゴールインして、気持ちよさそうに寝息を立てていた。


(寓意)

 ゆっくりでも、着実な者が勝つ、とある。


その②

 亀と兎が足の速さで言い争った、それでは勝負しましょうと言う事になった、兎さんは自分が速いのをしっていたから真剣に走らずに道から外れて眠り込んでしまったとさ。亀は自分が遅いのを百も承知していたから弛まず走り続け眠り込んでいる兎の横を通り抜け勝利のゴールした。


(寓意)
 素質も磨かなければ努力に負ける時もある。油断は大敵に繋がるとこの話は言っている。

その③

(直訳) 亀と野兎が速さに関して論争しました。そして、そこで指定された日と場所を立てて、解散しました。一方野兎は本性の速さの故に、早く走ることを怠けた。道の側に倒れて眠った。しかし、亀は自分が遅いことを自覚していたので休まないで走った。そして、野兎がまだ寝ているのを走りすぎ勝利の栄誉の上に到着した。


(意訳)亀と野兎が言い争って喧嘩になりました。日時と場所を決めて何方が先に行けるかで決着する事にしてその日は別れました。野兎は走ることには大変自信があったので、亀に負けるはずがないと考えました。亀を馬鹿にしてこれ見よがしに道端に横になっていました。そうしていつの間にか眠りに落ちていきました。一方亀はよくよく自分の欠点を知り抜いていました。定められた日までに未だ間があったのに、その場所に向かってたゆみなく走りました。ほどなく寝ている野兎の側を通り抜け早々と約束の場所に着いてしまいました。こうなっては野兎が約束に間に合っても勝ち目はありません。
(寓意)

 この言葉は示す、しばしば天性は不注意で努力が勝つ。この話は「どんなに才能があっても努力がなければ無駄になる」事を教えています。



***** オオカミ少年の話(ヒツジ飼の少年とオオカミ)(悪ふざけをしたひつじ飼い)その①
 少年は、村の近くで、ヒツジの番をしていたのだが、退屈すると、「狼だ!」「狼だ!」と叫ぶことがよくあった。村人たちが駆けつけると、少年は、皆の慌てた様子を見て笑った。そんな ことが、何度も続いた。ところが、ついに、本当にオオカミがやって来た。少年は、恐怖に駆られて叫んだ。 「お願だ。助けてくれ! オオカミがヒツジを殺してるんだ!」  しかし、少年の声に耳を傾ける者は誰もいなかった。こうしてオオカミは、ヒツジを一匹残らず引き裂いた。
(寓意)
 嘘つきが本当の事を言っても、信じる者は誰もいない、とある。

その②
 村から少し離れたところへ、ひつじの群れを連れ出していた羊飼いが、こんな悪ふざけばかりしていました。「ひつじがオオカミに襲われる。」と大声を上げて村人に助けを求めたのでした。村人たちは、びっくりしてとびだしましたが、だまされたとわかって村へ帰りました。ところがとうとうほんとうにオオカミがやってきてひつじを襲いました。羊飼いは村人たちに、大声で助けを求めました。村人たちは、またいつもの悪ふざけだとたいして気にもとめなかったのです。羊飼いは、ひつじを失ってしまいました。
(寓意)
 「オオカミが出た」の有名なお話。うそをついてばかりいるとほんとうのことをいっても信じてもらえない。

その③

(直訳)羊飼いが引き出していた、彼の群れを村から前の方に。止まっていた、気晴らしを利用することに。そして、村人たちに「たすけて」と叫んで言った。「羊たちに狼らが入りこんだ。」そして二度三度、驚いて村を出た、そして飛び出した。その上、笑って解散した。

 最後が起きた、真実に狼が臨んだ。そして引き裂いた彼らの群れを、そして羊飼いは助け求めた。村人たちを呼んだ。その人々は彼に答えて何時ものようにふざけた。関心を示さなかった。そして、こうして彼らの羊たちが奪われることが起きた。

この言葉が示しているのは、この事を受ける、嘘つきはまた真実を言うときも信じられない。


(意訳)
 羊飼いが羊を村の囲から放牧地の方に連れだす時に、よく悪ふざけをした。それは「助けてくれ!狼が羊を襲っている」と言って村人を驚かして、駆けつけた人を馬鹿にすることであった。しばしば騙されていた村人も次第に馬鹿らしくなっていた。そんなときに突然、狼の群れが出てきて羊に襲いかかった。羊の群れは散々に食い荒らされた。羊飼いは慌てふためいて村人たちに叫び助けを求めたが、誰一人耳を貸すものはなかった。そうしてとうとう羊飼いは群れの羊を全て失ってしまった。


(寓意)
 この話が教えているのは「いつも嘘をついているひとは、真実を話すときにも信じてもらえない」と言うことです。


れんだいこ選NO3 北風と太陽(The Wind and the Sun)その①

 北風と太陽が、どちらの力が強いか「勝負しよう」、ということになりました。そこへ一人の旅人が通りかかりました。旅人の服を脱がせたほうが勝ち、ということにしました。

 北風は、簡単なことだと言って、風を激しく旅人に吹きつけました。旅人は、しっかりと服を押さえたので、さらに一層、強く吹きました。たまらなくなった旅人は、もう一着服を着込みました。ついに北風は吹きつかれてしまいました。次は太陽です。

 太陽ははじめおだやかに照らしました。すると旅人は、よけいな服を脱ぎ捨てました。するとこんどはもっと強く照りつけました。とうとう旅人は暑くてたまらなくなり、服を全部脱ぎ捨てたのでした。

 (英訳)
 The Wind and the Sun were disputing which was the stronger.
 Suddenly they saw a traveller coming down the road, and the Sun said: "I see a way to decide our dispute.   Whichever of us can cause that traveller to take off his cloak shall be regarded as the stronger.
 You begin." So the Sun retired behind a cloud, and the Wind began to blow as hard as it could upon the traveller.
 But the harder he blew the more closely did the traveller wrap his cloak round him, till at last the Wind had to give up in despair.
 Then the Sun came out and shone in all his glory upon the traveller, who soon found it too hot to walk with his cloak on.
 Kindness effects more than severity.
 (れんだいこ和訳)
 風と太陽がどちらが強いか言い合っていた。
 不意に彼らは、ある旅人が通りかかるのを見た。太陽が云った。「我々の論争に決着付ける案が浮かんだ。我々のうちどちらがあの旅人の服を脱がすことが出来るか。脱がした方がより強いという事を認めることにしよう」。
 あなたからどうぞそう云って、太陽は雲の中へ隠れた。風が旅人にあらん限りの力で吹き付けにかかった。
 しかし、風が強く吹けば吹くほど旅人は彼の服を強く掴み始めた。遂に風は吹きつかれてあきらめねばならないことになった。
 次に太陽がやって来て、旅人をおだやかに照らし始めた。するとまもなく旅人は暑くてたまらなくなり、服を脱いで歩き始めた。
 やさしさは苛酷さよりも効果がある。
 (寓意)
 イソップ物語の中でも有名な寓話で、「やさしさは苛酷さよりも効果がある」の諭しとなっている。仕事、世間づきあい、政治等々諸事全般に云えるたとえ話ではなかろうか。

その②
 北風と太陽、どちらが強いかで争った。旅人の服を早く脱がせたほうが勝ちにすることにした、北風君から始めた、こんなものはわけはないことと一気に強く男に風を吹きつけた、ところが.....旅人はマントを強く体に巻き付ける、北風は顔を真っ赤にしてより強く北風を吹きつけると男は益々マントをより強く巻き付けて離さない。
今度は太陽君が旅人に始めは陽射しの軟らかな光で包み徐々に暖かさを増していった、ある温度に達するや旅人堪らずにマントをかなぐり捨てたとさ!

(寓意)
 
強制より説得や暖かさが人間を動かす最上の手段と物語は語る。

その③

(直訳)
 北風と太陽が力について論争した。そして彼らのどちらかの上に勝利を置くことにした。それは彼らで人間の旅人の服を脱がせたどちらかに。
そして北風が酷く始めた。すると、人間は着物を硬く持った。彼はさらに吹き下ろした。そして風をこらえようともがいたより一層。そしてより一層強く服を引き寄せた。収まるまで。

 北風は太陽に彼を引き渡した。すると彼は先ず初めに穏やかに照らした。すると人間は豊かな着物を離して置いた。非常な熱を彼は落とした。避けれなくなるまで、耐える力が無くなるまで。脱いで、側を流れる川に洗うために行ってしまった                            

 明らかにしているのは時として力で承服させるよりも言葉が良くなし遂げることがある。

(意訳)
 寒い北風と太陽が実力を競い合った。初めは論争であったが、力試しをして、旅人の服を剥がした方を勝者にする事が決まった。先ず、北風が登場して、酷く吹き回した。すると旅人はそれに対抗して着物をしっかりとつかんだ。すると北風は益々激しく吹きつけた。そうすると旅人も必死になって服を飛ばされまいと頑張った。しばらくそのままであったがとうとう北風はあきらめて吹くことを止めて太陽に交代した。       

 登場した太陽は早速、旅人の上に日を降り注いだ、すると忽ち旅人は服を脱ぎはじめた。太陽がさらに激しく強く照り輝いたので旅人は等々裸になった上に、道の横に流れていた川に飛び込んで溢れ出た汗を流した。

 これでわかることは「力で人を屈伏させるよりも、言葉で納得させるほうが有効だ」と言うことです。




***** アリとキリギリスにまつわる話蝉と蟻たち)その①
 冬の季節に蟻たちが濡れた食糧を乾かしていました。蝉が飢えて彼らに食物を求めました。蟻たちは彼に「なぜ夏にあなたも食糧を集めなかったのですか。」と言 いました。と、彼は「暇が無かったんだよ、調子よく歌っていたんだよ。」と言い ました。すると彼はあざ笑って「いや、夏の季節に笛を吹いていたのなら、冬には 踊りなさい。」と言いました。(イソップ寓話集 岩波文庫 山本光雄訳)
(寓意)
 この物語は、苦痛や危険に遇わぬためには、人はあらゆることにおいて不用意で あってはならない、ということを明らかにしています、とある。


その①
(直訳)冬の季節(雨期)に穀物が湿ったので蟻たちか乾かしていた。そこで飢えた蝉が彼らに養ってくれと要求した。すると蟻たちは彼に言った。「収穫の間に取り入れもしないで、養えだって?」彼は言った「暇がなかったのでね。歌と宴会でね」すると彼らはあざ笑いながら言った「なんと、収穫時に笛を吹くのなら、冬に踊るがいい」                  
 この寓話が明らかにしているのは、「全ての行為において何かを見下さないことが必要です。酷い苦痛や危険にあわないために。」

(意訳)冬の晴れ間に、貯えていた穀物が嵐ですっかり湿気てしまったので、蟻たちが乾燥させていた。するとそこに飢えて死にかけている蝉がやって来て「一冬でいいからおれを養え」と要求した。そこで蟻たちは「長い収穫時期があったのに、何もしなかったあんたをどうして俺たちが養わなければならないのかね。」といった。すると蝉は答えた「なにしろ、社交音楽会で歌うのに忙しくてそんな暇があるわけがないだろう。」すると蟻たちがあざ笑いながら言い返した。「へえー、収穫時を気にせずに笛が吹けるなら、寒さも気にせず踊ったらどうかね。」

 この寓話が教えているのは「大事ではないと思っていても、先ずやらなければならないことをしないと、酷い目に合わなければならないと言うことです。」




***** オオカミと仔ヒツジ
 ある日のこと、オオカミは、群とはぐれて迷子になった仔ヒツジと出会った。オオカミは、仔ヒツジを食ってやろうと思ったが、牙を剥いて襲いかかるばかりが能じゃない。何か上手い理由をでっち上げて手に入れてやろうと考えた。そこで、オオカミはこんなことを言った。
「昨年お前は、俺様にひどい悪口を言ったな!」
 仔ヒツジは、声を震わせて答えた。
「誓って真実を申しますが、私はその頃、まだ生まれていませんでした。」
 するとオオカミが言った。
「お前は、俺様の牧草を食べただろう!」
「いえいえ、私はまだ、草を食べたことがありません。」
 するとまたしてもオオカミが言った。
「お前は、俺様の井戸の水を飲んだな!」
 仔ヒツジは悲鳴を上げて答えた。
「いえ。まだ、水も飲んだことがありません。……だって、お母さんのお乳以外は、まだ何も
口にしたことがないのですから……」
「ええい! もうたくさんだ! お前がなんと言おうとも、俺様が、夜飯を抜いたままでいる
とでも思っているのか?」
 オオカミはそう言うと、仔ヒツジに襲いかかった。

(寓意)
 暴君は、いかなる時にも、自分に都合のよい理由を見つけるものである、とある。


*****    ライオンの御代
 野や森の動物たちは、王様にライオンを戴いていた。ライオンは残酷なことを嫌い、力で支配することもなかった。つまり、人間の王様のように、公正で心優しかったのだ。
 
 彼の御代に、鳥や獣たちの会議が開かれた。そこで彼は、王として次ぎのような宣言をした。「共同体の決まりとして、……オオカミと仔ヒツジ、ヒョウと仔ヤギ、トラとニワトリ、イヌとウサギは、争わず、親睦をもって、共に暮らすこと……」

 ウサギが言った。 
「弱者と強者が共に暮らせるこんな日を、私はどんなに待ちこがれたことか……」 
ウサギはそう言うと死にものぐるいで逃げていった。

(寓意)
 
地上の楽園などこの世にはない
、とある


*****

ネズミとカエル

 陸に棲むネズミが、水に棲むカエルと友達になった。これが、そもそもの間違いだった。ある日、カエルは、自分の足にネズミの足をしっかりとくくりつけ、自分の棲む池へと向かった。そして、水辺へやってきた途端、池の中へ飛び込んで、善行を施しているとでも言うように、ケロケロ鳴いて泳ぎ回った。哀れネズミは、あっという間に溺れ死んだ。
 
 ネズミの死体は水面に浮かんだ。一羽のタカがそれを見つけると、鈎爪でひっつかみ、空高く舞い上がった。ネズミの足には、カエルの足がしっかりと結ばれていたので、カエルも共にさらわれて、タカの餌食となった。


(寓意)

 害を成す者は、また、害を被る者なり、とある。



***** 竜と農夫

 川の水嵩が減って、動けなくなってしまった竜が、農夫に、自分を縛りロバの背に乗せて、住処まで運んでくれるように頼んだ。そうしてくれるならば、お礼にありとあらゆる富と幸運をもたらすと約束した。農夫は快く承知すると、竜を縛ってロバの背に乗せると、彼の住処へと運んでやった。そして、農夫は竜の縄をほどいて地面に下ろして自由にしてやってから、約束の報酬を要求した。

「お前は、俺様をきつく結んだ・・・・」竜はそう言って更に続けた。「それなのに、今度は金銀を要求するのか?」

「あなたが自分で縛るように言ったのではないですか」農夫が言った。

「俺は、腹が空いたのでお前を食ってやる」竜がこう言った。

 農夫は抗って、この件をキツネの裁決に委ねることにした。キツネが農夫に言うには、「竜を縛りつけるなんて、馬鹿なまねをしたものですね。それでは、彼をどのくらい縛ったのか教えださい」

 そこで、農夫は、もう一度竜を縛った。すると、キツネは竜に尋ねた。「彼の縛り方はこれくらいでしたか?」

「いや、もっときつかった」竜が答えた。

 そこで、キツネが農夫に言った。
「もっと強く彼を縛って下さい」

 農夫がその通りにすると、キツネがこう言った。

「では、彼をロバの背中に乗せて、あなたが見つけたところへ戻して来て下さい、そして縛ったまま置いて来るのです。そうすれば、彼はあなたを食べられませんからね」

 それから農夫は、キツネの助言通のことを行った。


(寓意)


***** 二匹のいぬ
 神様はいぬを二匹飼うことにされました。一匹は猟犬として育て、一匹は番犬にしました。猟犬は狩りに出て、獲物をとってくると、神様は番犬にもわけあたえました。おかげで番犬は食べる心配をすることなくいつものんびりと門番をしていました。それに腹を立てた猟犬は、番犬に文句をいいました。「外へ出ていって、いつも苦労ばかりしているのは私だ。それに比べておまえはいつも、楽している」と。

 すると番犬は答えました。「私を責めるのは筋違いだ。あんたの稼ぎで食うように教えたのは神様なんだから、文句があれば、神様に言え」と。こうして猟犬と番犬は争いが絶えなくなったのです。

(寓意)現代社会では「夫」と「妻」の夫婦関係において、職場では上司と部下、あるいは製造部門と営業部門といった部門間に葛藤といわれる言葉でしばしば起こります。



***** ごま塩頭の男と二人の愛人
 白髪の混じった頭の男に愛人が二人いました。一人は若い女で、もう一人は年配の女でした。年よりの女は、「自分より若い男とつきあっているのは恥ずかしい」と思い、男がその女のもとにくるたびに、男の髪の、黒い毛を引き抜いていました。若い女は、「年老いた男の愛人だ」と思うといやになり、男の髪の、白い毛を引き抜きました。こうして男はかわるがわる、毛を抜かれているうちに、はげ頭になってしまいました。
(寓意)
 不つりあいは身を滅ぼす、というお話。


***** ライオンを見たことのないキツネ
 そのキツネはライオンを見たことがありません。大変恐いものだと、教えられていました。たまたま、その日、ライオンに出会いました。あまりの怖さに、死にそうになりました。それからしばらくして、また、ライオンに出会ったのです。恐いとは思いましたが、死ぬほどのことではありませんでした。

 それから、三度目に出会ったときは、そばに行って、話をするほどになりました。何だ、恐くもなんともないではないか、と思ったキツネは、次に出会ったときは、気楽にそばによっていったのです。するとそのライオンは、キツネに噛みつき、とうとうキツネは食べられてしまいました。

(寓意)
 なれは、恐いものまで平気にしてしまう。事故の多くはこのようにして起こるのであります。

***** ライオンを見た狐
ライオンを見たことのない狐が初めてライオンにバッタリ遭いました、最初は死にそうな位ビックリこいたとさ、次にライオンにまた出くわした、その時は怖かったが初回ほどでも無かった、三度目に遭った時には話しかけられるほどの距離まで近寄れたそうな。
(寓意)
 この話には二面性が在ると思う、ひとつは習慣が恐怖をも和らげると言うこと。習慣が恐怖を忘れ去る、何時かは遣られる警戒心を麻痺させる。


***** しっぽを切られたキツネ

 なにかかってしっぽを切られたキツネは、「恥ずかしくてとても生きてられない」と日々悩んでいました。そこで一計を考え出しました。
「ほかのキツネたちのしっぽも、自分と同じように短くしてやれば、みんな同じ姿になって、自分だけ恥ずかしい思いをしなくてすむ」。
そこで、みんなを集めて、「みんなのしっぽは、長くて重くて、よけいなものだ」と、しっぽを切るように勧めました。すると一匹のキツネが、口を出しました。「ねえ、きみ、それが君のとくになることでなければ、私たちに勧めはしないだろうよ」


(寓意)
 
人は、自分の利益のために周りの人に忠告したり、アドバイスしたりするものだ。

 
「人は、自分の利益のために周りの人に忠告したり、アドバイスしたりするものだ」という考えに固執する人が居る。人に提案したり、アドバイスするときは、この人たちの存在を先に発見した方がよいと私は忠告する。(一見合理的とも思える非合理な事例)。


***** うぐいすとつばめ
 つばめは、人間の家の、のき下に巣を作って、住んでいました。うぐいすは人里離れたところに住んでいました。つばめはあるとき、うぐいすに、「私と同じように人間の家の、のき下に巣を作って、いっしょに住みましよう」と提案しました。すると、うぐいすは、「私は、昔の不幸を思い出したくないのです」と言いました。それからも、うぐいすは昔の悲しいことを忘れられず、ときどき、人間の家の近くまではくるのですが、また山へかえっていくのです。
(寓意)
 不幸に会えば、会った場所までいやなもの。心の傷はそう簡単には忘れられない。


***** うぐいすと鷹
 うぐいすが高い木にとまって、いつものように鳴いていました。それを見つけたタカはまいおりてきて、うぐいすを捕まえてしまいました。死が迫った、うぐいすはタカにこのようにたのみました。

 「私は小さな鳥です。それにおいしくもなんともありません。もっと大きな、おいしい鳥を見つけてさしあげますから、どうか、私を見逃してください」。しかし、タカはうぐいすを放しませんでした。「今、手にしているえものを放して、すがたもかたちも見えないものを追うとしたら、自分は愚か者になる。」

(寓意)
 大きな望みを抱いて、手にしているものを失う愚か者・・のお話です。うぐいすとタカは、紀元前7百年ころに書かれた詩の中に出てくるお話です。タカは神ゼウスの聖なる鳥で、とても賢い者の象徴とされています。タカは、そうなのですが、人間はどうなのか、(きっと、人間ならば、もって大きな欲のために、手にしている大切なものまで放してしまうだろうよ)という逆説が込められています。



***** 漁師とマグロ
 漁師たちは海にでかけ、長い時間苦労したというのに、なに一つとれませんでした。漁師たちは、船の中にこしをおろして、がっかりしていました。
ちょうどそのときに、追われるマグロが一ぴき、激しい音とともに、船の中に飛び込んでしまいました。漁師たちはマグロをつかまえて、町に持ってかえり、高い値段で売ってしまいました。

(寓意)
 腕ばかりではなく時の運もある。・・のお話です。果報は寝て待て。という格言があります。また、中国には、飛び出した野ウサギが切り株にぶつかった、というお話があります。(歌にも出てきます)


***** 石を引き上げた漁師たち

 漁師たちが網を引いていました。あみはずっしり重かったので、獲物はたくさんあると思った漁師たちは小おどりして喜んでいました。
浜辺にあみを引き寄せてみると、魚の姿はほとんど見えず、あみは石などのごみでいっぱいでした。漁師たちは、がっかりし、それはそれはつらい思いでした。すると、漁師なかまの年寄りがいいました。「わしらははじめに、あんなに喜んでしまったのだから、苦い思いも大きいのだ」


(寓意)
 欲しいものが手に入らずに、逃げてしまうと、落胆も大きい。期待をしすぎるとダメージも大きい。


***** 腹のふくれあがったキツネ
 腹ぺこのキツネが木のほこらに、羊飼いたちが残して行ったパンと肉を見つけました。早速、その狭い入り口から中に入って、食べました。
満腹したキツネは、腹が大きくなったために、ほこらから出られなくなりました。鳴いて悲しんでいると、そこを通りかかった別のキツネが、ほこらを覗き込んで、鳴いているキツネにわけをたずねました。わけを知ったキツネはいいました。「入ったときと同じからだになるまで、そこにいればよい。そうなれば楽にでられるさ。」

(寓意)
 ほっておけば、時が解決することもあります。


***** キツネとぶどうのふさ
 腹をへらしたきつねが、おいしそうなブドウの垂れ下がったブドウの木を見つけました。そのおいしそうなぶどうを取って食べようと、とびあがりましたが、うまくとどきません。何度もくりかえしましたが、どうしてもブドウに手がとどきませんでした。キツネは立ち去るときに、こう独り言をいいました。
「まだ、このブドウは熟れていないんだ。」

(寓意)
 自分に力がなくてうまくいかないのに、相手のせいにしてしまう人たちに、このお話を聞かせてください。


***** キツネとイバラ
 生け垣を乗りこえようとしたキツネは足を滑らせて、落ちそうになりました。ちょうど、そこにイバラがあったので、それにつかまって助かりました。
しかし、イバラのとげでキツネは傷だらけになりました。血だらけになったキツネはイバラにむかっていいました。「ひどいではないか、私はおまえに助けを求めたのに、かえってこんなひどい目にあわせるなんて。」イバラはいいました。「お前こそ考え違いをしている。キツネさんよ。どんなものでもひっかけるのが、私のならわし。それにひっかかろうとしたのだから。」

(寓意)
 助けを求める人はわらもつかむ、という。もともと害になるようなものに助けを求める人はおろかだ、というお話しでございます。



***** 女とめんどり

 毎日卵を一つずつ生むめんどりを飼っている後家さんがいました。後家さんはもっとたまごがほしいので、えさをたくさん与えてやれば、一日に二つも三つも生むのではないかと考えて、それからというものはえさをたくさん与えました。ところがめんどりは肥りすぎて、一日に一つの卵も産まなくなったのです。


(寓意)
 
欲の皮をつっぱると、もっているものまでなくしてしまう。というお話

***** 農夫と木
 農夫の畑の中には、実をつけず、役立たない一本の木がありました。その木はすずめやセミの安全な休み場所になっていました。しかし、農夫は役に立たないので、切り倒すことにしました。すずめやセミたちはこの憩いの場所になっている木を倒さないでくれ、歌ったり、さえずったりして農夫を楽しませてあげるから、と頼みました。農夫はそれには耳をかさず、斧を手に、木に一撃を加えました。すると木に窪みができ、蜜蜂とはちみつが見つかりました。農夫ははちみつをなめると、斧を投げ捨て、その木を神様のようにうやまい、大事に手入れをしてやりました。
(寓意)
 人間は生まれつき、正しいことよりも、利益を追い求めるものなのだ、というお話


***** 臆病な猟師ときこり

 猟師が一頭のライオンの足跡を探していました。向こうからきこりがきたので、ライオンの足跡を見たかどうか、ねぐらはどこか、ときこりにたずねました。きこりは、「そのライオンなら、すぐ近くにいる、見せてあげよう」といいました。すると猟師は恐ろしさのあまり、真っ青になり、歯をガタガタさせていいました。「私が探しているのは足跡だけだ。ライオンではない」


(寓意)
 
口だけは勇ましい臆病者。いうことは勇ましいくせに、おこないはまるでだめ、という人に聞かせるお話です。
臆病な猟師

 臆病な猟師が山の奥深い森でライオンを追っていたとさ、大きな松の木の近くで木樵に出会った、このあたりの洞窟に棲むライオンの足跡を知らないか?と訊ねた!「それは良いところに来た!すぐに、側でライオンを見たので案内しましょう」と答えた。猟師は奥歯をカタカタ鳴らしながら言うのには、頼んだこと以上の親切は無用じゃ、足跡だけで好い!だとさ。


(寓意)

 教訓、このような大口を叩く人いますよね?有言不実行、安全なときには言いたい放題!いざいざの時には何処か雲隠れ!



***** まむしとヤスリ
 まむしがかじ屋の仕事場に入り込みました。まむしは道具類に「ほどこしものをくれるように」と頼みました。道具類はまむしにほどこしものを出しました。まむしはヤスリのところへも行って、ヤスリにもほどこしものをするように頼みました。するとヤスリはいいました。「私から何かをもらえると思っているとはおまえも考えが甘いな。私はあげるのではなく、みんなから「取る」のが仕事でね。」ヤスリはまむしに何の施しもしなかったのです。
(寓意)
 お金にけちな人、お金のない人を相手にビジネスをするのは愚か者だ、とこの話は説いています。


***** ゼウスと人間たち

 ゼウスの神が人間を作ったとき、知恵も注ぎ込むようにヘルメスに命じました。ヘルメスは「知恵」という飲み物を等分にわけて、どの人間にも等しく知恵を注ぎ込みました。そうしたら、からだの小さな人間は一人分の知恵でいっぱいになりましたので、かしこい人間になりましたが、からだの大きい人間は、知恵の飲み物が全身に行き渡らなかったので、知恵のたりない人になりました。


(寓意)
 
心に知恵のない人のことを「からだばかり大きくて」ということがあります。

***** ゼウスとへび
 ゼウスの神が結婚したとき、どの動物もそれぞれ分相応の贈り物をもってきました。ヘビは口にバラの花をくわえて、ゼウスのもとへあがりました。それをみたゼウスはいいました。「だれの贈り物でも受け取るが、お前の口からは絶対にうけとらない。」
(寓意)
 悪い人が、贈り物をもって、お愛想をいってきたら、気をつけ、受け取らないように。とこの話は説いています。


***** ゼウスの審判
 ゼウスはヘルメスに命じました。人間のあやまちや不正を貝殻に書いて、それを小箱に入れて持ってくるように。ゼウスはこの貝殻で不正を働いた人間一人一人を裁くことにしました。ヘルメスは貝殻の入った小箱をもってきたのですが、貝殻どうしごちゃ混ぜになってしまいました。順番にさばくべき貝殻がごちゃまぜになってしまったので、ゼウスの手の中に入る貝殻に早いのもあれば、遅いのもありました。
(寓意)
 不正をはたらいた者や悪人が、その悪行に対して、早く罰せられることもあれば、なかなか罰せられない、早い遅いができてしまったのです。しかし、早く罰せられないからといって驚くことはない、というお話です。


***** 肉をくわえたイヌ
 肉をくわえたイヌが川を渡ろうとしていました。自分の影が水にうつっているだけなのに、もっと大きな肉をくわえている別のイヌだと思いました。「わんわん」と吠えて、その相手のイヌの肉をとってやろうと、影にむかって突き進みました。ところがどちらの肉もなくなってしまいました。一つはもともとないものなので手にいれるわけにはいきません。もう一つの自分がくわえていた肉は川に流されてしまいました。
(寓意)
 欲ばりに聞かせるお話です。


***** いっしょに旅をしたロバとイヌ
 ロバとイヌがいっしょに旅をしていました。ある日、手紙が落ちているのを見つけました。ロバが拾い上げて、手紙を開いて、イヌにわかるように読んでやりました。手紙には、ウマやロバのえさのこと、まぐさや大麦、にんじんのことが書いてありました。ロバは興味をもって読んでいるのですが、聞いていたイヌは退屈でしかたありません。イヌは、「お願いだから、もっと先を読んでくれ。肉や骨のことも書いてあるかもしれないぞ」といいました。ロバは手紙を全部読み終えましたが、イヌが望んでいたことは何も書いてありませんでした。するとイヌはロバにむかっていいました。「そんなの投げ捨ててしまえ。まったくくだらないものだった。」

(寓意)
 
人に読んで聞かせるときにこころえておくべきこと。


***** イヌと肉屋
 イヌが肉屋に入り込み、肉屋が仕事にかかりきりのすきに、心臓のところの肉をくわえて逃げました。それを見つけた肉屋は、逃げていくイヌにいいました。「おい、そのイヌめ、おぼえていろ。どこにいこうとわしの目が光っているからな。今度会ったら容赦はしないぞ。お前は心臓をもっていったけれど、かえってわしに心臓をくれたようなものだ。

(寓意)
 いやなできごとは、人間にとってよい勉強になることがあります。失敗は成功の母。


***** 人間の二つのふくろ
 昔、プロメテウスが人間を作ったとき、二つのふくろをかけました。一つのふくろには他人の"あら"(短所、欠点)が入っていて、もう一つには、自分のそれ(短所、欠点)が入っていました。そして他人のあらがはいっている方を前にくるようにし、もう一つのふくろはうしろにぶらさげました。そのために、人間は他人の欠点や短所、悪いところは遠くからでも目に付き自分のそれは目に入らないのです。

(寓意)
 他人のあらを探すおせっかい者のお話

***** 金持ちとなき女
 裕福なお金もちに娘が二人いました。その一人が死んだので、なき女をやとい、葬儀をしました。もう一人の娘は、泣き女のなく姿を見ながら、母親にいいました。「死んだ姉とは何の関わりあいもない、あの女たちは、あんなに激しく胸をたたいてないているではありませんか。私の姉が死んだというのに、私は泣きかたを知りません。不幸者です。」母親は答えました。「驚くことはありません。あの女たちは、あれほど泣いて悲しんでいても、お金のためにやっていることなのです。」

(寓意)
 ときに女の「涙」はお金が目的、というお話。


***** イノシシとウマと猟師
 イノシシとウマが同じところで草を食べていました。イノシシは、草をめちゃめちゃにするし、水はにごらしてばかりいるので、腹を立てたウマはイノシシに仕返しをしてやろうと、自分だけではできないので、猟師のところへ応援を頼みにいきました。猟師はイノシシをやっつけるのを引き受けてもよいが、一つだけ条件を持ち出しました。それはウマにひもをつけ、背に猟師を乗せるというものでした。ウマはその条件をのみました。そこで猟師はウマにまたがり、イノシシを約束どおりやっつけました。そして、猟師はウマを家に連れてかえって、うまやにつないでしまいました。
(寓意)
 すこし、込み入ったお話ですが、相手に仕返しをしてやろうと、第三者に援助を頼むと今度は、頼んだ第三者に頭が上がらなくなる、という教訓です。トラブルの処理を他人に頼むとこうなる。


***** からすとキツネのお話
 おいしい肉を一切れさらってきたカラスは得意満面になっていました。それを見たキツネは、カラスのそばへ行って、カラスの体つきがとても美しい、貴方こそは「鳥の王にふさわしい」と誉めちぎりました。そして、鳥の王様にふさわしい声さえ持っていれば王様になることは間違いない。といいました。それを聞いたカラスは大声で「カァー」と鳴きました。くわえていた肉はポロリと落ちてしまいました。キツネは駆け寄って肉を取り上げていいました。「カラスさんよ、あんたに考える力があれば鳥の王になれるのにね」。
(寓意)
 おだてにのるのはおろか者という教訓です。


***** 牛と車軸
 牛たちが荷車を曳いていた、荷車の車軸がギシギシと鳴るので振り返って言うには「こらっ、荷車を運ぶのは俺たちなのにお前が悲鳴をあげるとはなにごとか!」
(寓意)
このように人間の場合でも他人の働きを自分の働きにするみせかけの輩が存在する。イソップはためになるな~偉い人やそう思いこんでいる人の鼻を折ってくれる。


*****
 蜜がこぼれでて蝿が飛んできて舐めた、甘いのでこの御馳走から離れようともせずにいたところ、足がくっついて離れなくなった。「情けなや束の間の快楽の為に身を滅ぼすとは」
(寓意)
 食い意地やsex物欲で数々の欲望で災難に遭う人が多いと言う教訓。僕自身も反省するし忘れないよう心得たいもののひとつです。


***** まむしと水蛇

 まむしと水蛇が餌場と領分を求めて決闘する事が決まった、日取りも日時も決まりましたとさ、普段水蛇を面白く思っていない蛙たちはまむしを応援する約束をしたが?いざ当日決闘が始まったが蛙たちは手も足も出せずにいた、そこで声で応援を繰り返したとさ。首尾良くまむしが勝って言うには蛙君、君は応援すると言いながら只周りで歌を歌っていただけでは無いかと非難した。蛙曰く「まむしさん我々の加勢は手でするのでは無く声だけでするのです」


(寓意)
 教訓、手の必要な時には声の援助は屁の突っ張りにも為らずと教えている。


***** ライオンと蛙

 ライオンが蛙の鳴き声を聞いて、さぞ大きな動物だろうと近づいて行った、「見る前に耳だけで狼狽えてはいかん」と言うなり踏み潰してしまった。


(寓意)
 おしゃべり以外の能なしさんにこの話はピッタリ!おしゃべり上手の人は呉々もご注意あれと言う事さ。


*****
 二人の友が一緒に旅をしていた、熊が現れ一人はさっさと木によじ登った、もう一人は捕まりそうになり地面に伏して死んだ振りをしたとさ、熊は男に鼻面を押し付けて嗅ぎ回った、そして諦めて去って行ったと
木から降りて来た男が熊は耳元でなんと囁いたのか?と言った、死に損なった男が言うには「危難に際して側に居てくれない友人とは今後一切旅をするな!」とさ。

(寓意)
 災いが真の友人を試すとこの物語は説く。ありそうな話ですね気を付けてね!


***** 老いたライオンと狐

 ライオンが歳をとって自力では餌を獲れなくなった、そこで頭を使わなければと思い、洞窟に入って横になり、病人のふりをしながら、見舞いに来る動物たちを捕まえては食べていたと!狐はライオンの企みを見透かして遠く離れて御機嫌伺いをしたそうな、ライオン曰く自分は病気だ、何故もっと近くに寄らないのかと聞いた。狐君が言うには「入っていく足跡は多いが出てくる足跡はひとつも無いね、私だってそれが判らなければ入って行ったでしょうに」と答えた。


(寓意)
 教訓、賢明な人は小さな違いも見過ごさない、だから危険から察知して逃れられるのだ。やはり物事は子細に観なければならぬ。


***** 狼を追う犬

 犬が狼を追い掛けながら、足の速さと自分の強さが得意でならず、狼が逃げるのは自分が強いからだと思った、すると狼が向きなおって言うには「怖いのはお前では無くお前の主人の追撃だ」


(寓意)
 このような人は人間社会にもうじゃうじゃいる、是非この話をそう言う輩に聴かせ給え。


***** 樫と葦

 樫と葦が頑丈さを競い合った、大風が吹いたとき、葦は体を曲げ突風に身を任せた、樫は抵抗して根っこから潰されてしまった。


(寓意)

 この話は弱気モノ汝を救う糧となるやも知れぬ。昔から負けるが勝ちと言う諺もある、やたら偉そうに抵抗せぬほうが得の場合も有る。



***** カモメと鳶

 カモメが魚を呑み込もうとして喉が破れた、鳶がこれをみて言うには、「自業自得だ、飛ぶモノとして生まれて、海で暮らしをたてようなんて」


(寓意)

 本業を捨て少しも似合わない事に飛び込む者は、失敗をして当然なのだと言っている。バブルで多くの企業が土地漁りに走りデイトレーダー宜しくとばかりに金が金を生む成り上がりを観た、今は公的資金を!借金をチャラにと叫んでいる。



***** 農夫と息子たち

 死期の迫った農夫が、息子たちを一人前の農夫にしたいと思い、呼び寄せてこう言った!倅たちや我がブドウ畑には宝物が隠してあるのだぞ!と、息子たちは父親の死後、鍬やクワで耕作地の隅から隅まで掘り返したそうな、すると宝物は見つけることが出来なかったが葡萄が何倍も実を付けたとさ。


(寓意)
 教訓、人間にとって苦労こそが宝物だと言っている。耳が痛いな~僕にとっては!


***** ナイチンゲールと蝙蝠

 窓辺に吊されたナイチンゲールが、夜になると歌を歌う、蝙蝠が歌声を聞きつけ、そばに来て、昼間静かにしているのに、夜になると歌う訳を尋ねた。これには訳があります、ある日、昼間に歌っていて捕まったので、それ以来懲りたのだと答えた。蝙蝠曰く、「今頃警戒しても始まらない、捕まる前にすべきだ」と言い放った。


(寓意)
 教訓、災難にあってから警戒しても遅い。


***** 鳥を招待する猫

 猫が誕生日のお祝いに鳥たちを食事に招いたそうだ、そして部屋に入りきるのを見すまして、扉を全部閉めたとさ、そして一羽ずつ食べてしまったとさ。


(寓意)
 教訓、甘い期待には罠もあることを教えている、言葉、行動の甘い誘いには相手の本質はなにかを探る洞察力が不可欠。


***** 旅人と斧

 二人の男が一緒に旅をした、一人が斧を拾った、もう一人が「俺たちが拾った」と言った、ところが拾った本人曰く、俺たちでは無く「君が拾った」と言うべきだと注文をつけた、暫くすると斧を無くした人が追い掛けてきた。「俺たちはもうダメだ」と一人が言った、こちらの男が言うのには「俺たちでは無く君がダメなのだ」君は斧を見つけた時でも共同にしなかったくせに!


(寓意)
 幸運の分け前に与らなかった人は災難に対しても友とはならない。


***** 隣同士の蛙

 隣同士の蛙が二匹、一匹は深くて道から遠い沼地に棲む、もう一匹は車の轍の水溜まりに棲んでいた、沼の蛙がそんなところに棲んでいないで安全で楽しく一緒に暮らそう?て、誘っていたそうな、勧められたほうの蛙は住み慣れた場所から離れがたく従おうとしなかった。そして、とうとう通りすがりの車に潰されてしまったとさ!。


(寓意)
 教訓、人間でもありそうな話だ、年老いた老婆が住み慣れた場所を離れがたく独り餓死したり、災難に遭ったりする話は例年新聞などを賑わす。
著書の作者は言う、下らない仕事に身を窶す者は、もっと立派な仕事に転ずる前に身を滅ぼすと!


***** 老婆と医者

 目を患った老婆が、礼金を約束して医者を呼んだ。医者は老婆の目に薬を塗る度ごとに、一つずつ家具をチョロまかし続けた、すっかり盗み出したところで治療も終わった。約束の金を?と老婆に言ったところが老婆曰く、何を言ってる!前には家具が有るのが判ったが治ったら家具が見えなくなってしまったと言った。


(寓意)
 悪事はひょんな事からばれるの~。


***** 蝉と狐

 蝉が高い木の上で鳴いていた、狐がそれを見つけ食ってやりたいと思い、こんな事を企んだ。真正面に立つと、蝉さん..蝉さん、あなたの声は、なんと美声なのでしょう!これほどの声の持ち主は、いったいどんな生き物なのでしょう、降りてきて私に姿を見せて下さいと勧めた。「僕は降りていかないよ!何時か狐の糞の中に蝉の羽を見つけた、いらい狐という奴には用心しているのさ」と答えた。


(寓意)
 人間の場合も賢い人は隣人の災難に教えられる。物事はマクロ的ミクロ的に観察すれば騙されることが少なくなる。


***** 犬と巻貝
 卵と見れば丸飲みしていた犬が巻貝を見つけ、卵と思い大口を開けて呑み込んでしまったとさ、腹が重くなり、なす術を失った。「こんな目に遭うのも当然だ!丸い物なら何でも卵と思ったのだから」と、後悔しきり。
(寓意)
 作者は言う、やみくもに事に乗り出せば、知らぬ間にとんでもない苦しみに遭うと。僕の批評、僕自身がこのタイプに似ている、なんでもやってから後悔している?あまり石橋を叩くのも好きでは無いが猪突猛進も考えもの。


***** 男と悪妻

 何かにつけて難しすぎる妻を持った男が、妻が実家の人にも同じように振る舞うのか知りたくなった。もっともらしい口実を設けて妻を里帰りさせた。何日かして戻ってきた妻に、家の人達からどんな風にして迎えられたかと訊ねた!妻が言うには、牛飼いと羊飼いたら私を睨むのよ!と答える。それを聞いた男が言うには、「なあお前、朝早く羊を追って夜遅く帰ってくる人達に憎まれたくらいだから、お前が一日中顔を合わせている人達の事は推して知るべしだな」


(寓意)
 小事から大事が判り、明らかなことから不明なことが判明する。


***** 驢馬を買う男

 男がロバを買おうとして、試しに連れてきて、自分のロバと一緒にしてみた。ロバは皆から離れ、もっとも怠けもので大食いのロバの側に行った。これを見た男が、直ぐさまロバを返しに言ったとさ、元の持ち主が、どうしてこんなに早くロバの試験が出来たのかと聞いた。「いや、試してみる必要はさらに無い、こいつが仲間を選ぶ時、どんな奴か判ったから」と答えた。


(寓意)
 人は交わる仲間と同類に見られる! 僕は嫌だけれど、この物語的な要素は当たっている。


***** 狐と狼

 狐が鶏の肉を腹一杯食べ終わった後に、残りを干し草の中に蓄えることにしたとさ、そこへ腹ぺこの狼がやってきて言うには、狐さん、狐さん!何処へ行っても小骨一本落ちてやしない、このままでは餓死して死んでしまう、どうか食べ物を恵んで下さいませんか?「狐曰く、それはお気の毒だ!私も何かお役に立ちたいですねと言い、干し草は入りませんか?ここには山ほど有りますから持っていって下さい!」と言ったとさ。狼は干し草が欲しいわけでもないから、がっかりして帰路に赴いたとさ。


(寓意)
 我々は他人に与えるものは、入らないものが多い、相手がそれを必要としようがお構い無くである。自分の入らないものを他人に押し付ける、それで慈善事業だ、なんだと騒ぐ。


***** 還暦の祝い

 ケチで強欲で知られる長者様が還暦を迎えた、そこでそのお祝いをすることになったとさ、長者は番頭を呼び「金が掛からず、然も派手で、人が喜ぶことを考えて呉れ」と言った。番頭呆れ返ったが、思案した、そうだ!こういうモノは如何でしょう? 「長者様が首をお吊りになるのです、人が騒ぐので派手になります、村人は大喜び!然も、金は一銭も掛かりません」


(寓意)
 批評、竹内靖雄 現実の話として、政治家などが首吊りをすると、関係者が迷惑する、まず後援会や利益集団、企業その他に利益をもたらす事業体のような存在。そこにぶら下がり弼を得ている人、関係者は途方に暮れるのである、そこで、死んだ政治家に代わり、地盤を引き継いで選挙に出る人を立てる。それが、未亡人であったり、娘婿であったり、娘であったり。要するに日本の政治家業は「世襲」と喝破していた。


***** 善と悪

(直訳)悪の下に善が迫害されて病気のようになっていた。そして(善は)天に登っていった。そして善はゼウスを問いただした。「どうしたら人間たちと一緒におられるのか?」すると彼は言った「全てが一緒には無理だ。一人が人間一人に対してなら行き着けるよ。」こう言うわけで一方で悪は人間たちに押し迫っている、近くにいて到着している。他方善は遅れている。天を出で下るので。

 こう言うわけで善を成す者達はすぐにはめぐり合う事はない。悪を成す者達は互いが互いにつながっているからだ。


(意訳)悪に迫害された善はすっかり弱ってしまった。そこで善は天に登って最高神のゼウスにお願いすることにした。そうして尋ねた。「どうしたら人間たちの所に留まって良い影響を与えられるのでしょうか?」神は答えられた。「皆で同じように善い影響を与えるわけにはいかない。善はそれぞれの状況に合わせて個別に影響を与えるなら、何とか人間たちの所に留まれる」

 こんな事が昔にあったので、善は天に逃げ去ったままなのです。その後は悪が地上を占領し、何時でも何処でもしたいほうだいなのです。反対に善は人間の世界では一向に見あたらないし、善を行うには大変な時間が必要なのだ。なにしろ注文が来てから天を出るし、その到着を待たなければならないのだから。

 こう言うわけで人が幾ら善を行なおうとしても簡単に行えない。それは悪が絡み合って自分の縄張りである地上にひしめいているからだ。



***** 旅人とプラタナス

 夏の盛りの暑い日に、旅人たちは暑さでグッタリしていたが、プラタナスの樹を見つけたので、その下にもぐり込み、樹陰で一休み。そして木を見上げて言うには、この樹は「人間にとって役立たずなんだ!実も付けないし」と言い合った。するとプラタナスが遮って言うには「恩知らずども、私の恩恵に与っている今でさえ、実無しだの無用だのと呼ぶのか」


(寓意)
 人間の場合でも、隣人に親切を施しても、その善さを信じてもらえない悲しさ、時によるが、飼い犬に手を噛まれると言う諺が現実存在する。


***** 子供とサソリ

 子供が、城壁の前でバッタを捕っていた、沢山捕まえたところでサソリを見つけたが、これもバッタだと思い、捕まえようとした!手の平を丸め捕まえようとした、当にその瞬間、サソリが針を擡げて言うには、「やったら、どうだ!捕まえたバッタも失うぞ!」と叫んだ。


(寓意)
 教訓、同じような行動でも、行動の中に善悪を見分ける必要がある。分別と言うか?人の世も善人おや悪人をもと、親鸞のようには為らない事もある。


***** 猿の子供

 猿は子供を二匹生んで、一方は可愛がって忠実やかに育て、もう一方は憎んでほったらかしにする、と、言われている。然し運悪くと言おうか、忠実やかに育てた方が死に、等閑に育てらた方が育ったとさ。


(寓意)
 教訓、どのような事前の配慮より巡り合わせのほうが強い!運勢、巡り合わせ、運気には、我らどのような配慮も叶わない。


***** 金の卵を生む鶏

 金の卵を生む鶏を飼っている人が居た、ある日、鶏の腹を裂けば金の固まりが有るに違いないと思った。で、腹を裂いてみると、普通の鶏と変わりがなかったとさ。


(寓意)
 教訓、生かしていれば金の卵がもっと増しただろうに?昔、日本でも中学卒で就職すると経営者側からは金の卵と持て囃された!考えれば人をモノとしか見ない現れか?金の卵を生む人間としてなら、可能性を賭けているんだなと判るがね。目先の利に目が眩んだ愚行の例として一般には使われる。それとも探求心が旺盛な人か?


***** 庭師と犬

 庭師の犬が、井戸に落ちました。庭師は犬を助けるために井戸に降りていった、すると、犬は、主人がもっと自分を沈めに来たと思って、噛みついた!庭師は痛さを堪え上がりながら言うには「これは、当然の報いだ、一体、なんで、俺は自殺しようとしている奴を助けに行ったんだ」と、呟いた。


(寓意)
 教訓、う~ん、可愛そうだな、だが、どうしようも無く、八方塞がりの奴を助けようとして、助ける方も溺れる事も間々ある。例、サラ金の借金地獄の人を助けようとして、保証人になり、今度は保証人が地獄を見るなど。やはり、覚悟が必要だな!


***** 百姓と木
 ある、農家の土地に一本の見事な木があった、その木には実はならず、只、朴念として雀や蝉の避難場所になっているだけであったとさ、そこで百姓はこの木を切り倒そうとして斧で一撃しようとした、すると、スズメやセミが「切り倒さないで下さい、そうしたら、此処で生涯楽しい歌を歌ってあげましょう」と言って懇願した。

 百姓は耳をかそうともせず、斧をうちおろした、ところが、木の穴のところから、ミツバチの巣と蜜を見つけた。百姓は蜜を舐めると、斧を投げ出して、以後、この木を神聖なる木として崇め奉り候だとさ。

(寓意)
 教訓、人は善行よりも利益を愛する。自分の利と相手の利が一致した時に多くの人は動く。


***** 蟹と母親

 斜めに歩いちゃダメよ!濡れた岩場で横さらいはいけません、と母親が注意すれば、子蟹が言うのに「お母さん、まず先生が歩いてよ、それを見て真似をするから!」だってさ。


(寓意)
 子は親を見て育つとよく言ったモノ、親のあなたを検証した事がありますか?子供だけ責める前に悪しき習慣を改めましょう!


犬と鍛冶屋

at 2000 07/03 20:03 編集

犬が一匹、鍛冶屋の家に住んでいたとさ、皆が仕事をしているときには、犬はぐっすり眠っていたが、皆が食事で座ると、尻尾を振り振り主人に近寄る。鍛冶屋たちが犬に言うには「重たいハンマーを打ち下ろす音にもビクともしないし、この騒々しさにもたじろがないのに、奥歯を噛み合わせるあるか無きかの音に跳び起きてくるのは、どう言う訳だ!?」
人の言うことの聞かぬ人間でも、利益が期待される事柄にはいそいそと耳を傾ける。
自分に忠実と言えば言えるが、人扱いの根本を言い当てている。



ライオンの子分の狐

at 2000 07/07 21:09 編集

狐がラインの子分となって行動を共にしていた、狐が獲物を通報すると、ライオンが襲い掛かって捕まえる。取り分はそれぞれの働きに応じて分配される。
ある日、狐がライオンの分け前の大きいのが羨ましく思い、通報ではなく、狩りの役をした!羊の群から一頭を奪おうとしたとな、ところが、自分の方が猟師の獲物になってしまったとさ。
危険の多い支配より安全な従属を説く?
セールスの世界では腕利きと鞄持ち、二人で共に行動する事がある、ところが何かの拍子で鞄持ちだけが抜け駆け行動を起こす時も有る、が、そのような時には得てして失敗をやらかすか、腕利きから相手にされなくなり、元の成績不振者に逆戻り、多々見かける光景です。



蟻に刺された男とヘルメスの神

at 2000 07/08 21:41 編集

あるとき、船が沈没したのを見た男が、神々の裁きは間違っていると叫んだ!ひとりに罰を与えるために、多くの罪のない人まで一緒に殺したと、ちょうどその時、男の脚下に蟻が屯して、その一匹に刺されました。すると、その人は、そこにいた蟻を残らず踏みつぶしてしまいました。
そこへ、ヘルメスの神が現れ、杖で撲ちながら言うには「どうだ、お前は蟻にあんな仕打ちをしたのに、これでも神々の裁きが間違っていたというのか?」
酷い目に遭ったときにも神々の悪口を言ってはいけません。それよりも自分の行いや間違いを考えなさいと言うこと。



祭りの次の日

at 2000 07/09 12:35 編集

「祭りの日」に「次の日」が喧嘩を仕掛けた、おまえの日には遣ることが一杯有って人々が疲れるが、自分の日には、人々は前の御馳走を頂き休めると威張りました。
祭りの日、曰く、その通りだ、然し、私が来なければ、御馳走も、おまえ自身も無かった訳だがね。
教訓、う~ん、色々考えさせる言葉だ、僕自身、ポコッと湧き出て来た訳ではない、やはり親が存在して現在の自分がある。すべてが連鎖の世界?



コウモリと猫

at 2000 07/10 20:53 編集

コウモリが地べたに落ちて、猫に捕まった。殺されようとしたとき、命を助けてくれと叫びました。
猫曰く、羽の生えているモノと戦争する事になっているのだから助ける訳にはいかぬと言いました、
コウモリは自分は鳥ではなくネズミだと言って許して逃がして貰いました。
そののち、またコウモリが地べたに落ちて別の猫に捕まった、コウモリ曰く、食べないでくれ~と頼みました、
そこでその猫は、自分はあらゆるネズミの敵なのだと言いますと、
自分はネズミでは無くコウモリだ!と叫んで、また許して貰いましたとさ。
教訓、堅物は怪我の元凶、とき、ところ、によって柔軟に行動する事も生き延びるための策か。



クルミの木

at 2000 07/12 20:55 編集

道端に植えてあったクルミの木が、実を沢山つけていました。道行く人々が、実を落とそうと思って、石を投げたり、棒で撲ったりしました、そこで、クルミの木が悲しんで言いました。「やれやれ、情けない事だ、折角私が実をやろうとしている人達から、こんな、恩知らずな仕打ちを受けるとは!」
う~ん、そう言われれば僕もそうした!即ち、僕の欲得がそうさせた、相手の立場には、気遣いの欠片もなかった。
善いことをしても、酷い目に遭わす、恩知らずな悪者を責めているのだそうです。



おなかと足

at 2000 07/13 21:22 編集

おなかと足が、どっちが偉いか論争した。足は、いろいろな事を言い立てて、自分の方が力があるし、おなかも自分が居ればこそ運んで行けるから偉いのだと宣伝した。
おなかは、おなかで、なあに、私が食べ物を中に入れなければ、おまえたちは、歩く事すら出来ない、だから私の方こそ偉いのだ!と言いました。
官と民、官僚と国民、財界と消費者、上司と部下、今はあまり聞かないがホワイトカラーとブルーカラー、幾らでも接点「対立」が浮かび上がる。偉そうにしている奴が偉い?要するに力「昔は腕力、次第に知能?」考えれば、腕力も知能も比べるモノが有るから成り立つだけで、均一なら成立しない。世の中の仕組みが単一では回らないのだから、すべてが、偉いのだ!「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」



ライオンと兎

at 2000 07/14 21:44 編集

ライオンが兎の寝ているのに出くわし、正に食おうとした時に、鹿が通りかかるのが見えたので、兎をほったらかして鹿を追い掛けたとさ、ライオンは遠くまで鹿を追ったが逃がしてしまいました、そこで元の兎を食おうと戻ったが、兎は、当に逃げた跡の祭り!ライオンの独り言「当然の報いだ、手の中の御馳走を放り出して、もっと大きな希望を選んだのだから」
教訓、程々の儲けや妥協を許さずに、もっと大きな希望を追う内に、元も子も無くしてしまう悲劇。僕など何時もそうです。



カラスと狐

at 2000 07/15 20:16 編集

カラスがチーズを盗んできて、高い木の枝に止まりました、それを見た狐さんは、木の周りを、あっちにうろうろ、こっちにうろうろしながら言うには、「おお素晴らしい、あなたは、姿形も好いし、その羽の色は鳥の王様に相応しい、そのうえ声が良ければ、間違いなく王様だ!」と独り言を言いました。するとカラスは思いあがって、一声、カーと叫びました、途端に口からチーズが地面に落ちて、狐に拾われました。狐が言うには「カラスさん、なるほど声は好いが、知恵が足りないね」だって。
教訓、言葉は鵜呑みには出来ません!詮索するのは僕も余り好きでは無いが表の裏読みも又怪我をしないための知恵か?



雌鶏とツバメ

at 2000 07/17 20:36 編集

メンドリが蛇の卵をみつけました、そして、大事に暖めて孵しました。ツバメはそれをみて言うには、「何というバカなことをするのです、大きくなったら、真っ先にあなたを殺すものを育てるなんて!」
どこそこの無認可託児所の園長みたいに、何人もの園児に怪我をさせ、尚かつ二人まで幼い園児を死亡させる、24H託児所の中の出来事がNHKで取り上げられていたが、折檻したと見られる園長は牢の中、未だ白状しない。
そうかと言えば、自分の腹を痛めた可愛い子を二人まで殺し?もう少しで残った少女まで毒殺しようと計った容疑で逮捕された母親。動機は推測だが保険金?とのこと。
そう言えば、毒カレー事件の「林ますみ」も証拠を突きつけられても、知らぬ存ぜぬを通している。憂鬱な事件が続く、そして一様に自分が「やった」と首を縦に振らない。時代劇の遠山の金さんのように、恐れ入りました!と白状する者が居ないのも、我々のストレスを倍加する。長くなったが、悪は根っから悪?環境が?世代が?教育が?その前に悪の気がして来た。吐き気!



人殺し

at 2000 07/18 22:12 編集

ある人が、人を殺しました。人々に追いかけられて、ナイル川の辺まで辿り着くと、狼が向こうからやって来たので、恐くなり川の側にある木に登った!ところが、其処にはマムシが自分を目がけて襲い掛かった、そこで、思わず川に飛び込んだ、すると、川にワニが待ちかまえていて、ワニの御馳走になったとさ!
悪人の隠れる場所は何処にも無いことを暗示している、夢の中、亡霊、呵責。



ネズミと牡牛

at 2000 07/19 23:56 編集

ネズミが牡牛に噛みつきました!牡牛が痛がって、ネズミを追い掛けましたが、ネズミが穴の中に隠れたので、牡牛は角で壁をほり始めましたが、思うようにほれずに、壁の穴のところで、とうとう寝てしまいました。
ネズミは穴から様子を見ながら這い出して来て、また、牡牛に噛みついて逃げました。牡牛は起ち上がりましたが、どうして好いか判らずに、大層困った!
ネズミ曰く、「大きいからって、何時も力があるとは限りませんよ。小さくても、詰まらなくても、力のあることもありますからね。」

教訓、自惚れるな、大会社、自称大企業、権力を傘に着た蓑虫野郎、蜂の一刺しと言う名言も有る。



歯を抜かれた狼

at 2000 07/21 01:24 編集

ロバが草はらで草を食べていた、そこへ狼が飛びかかりました!慌ててびっこの真似をロバはしました、狼曰く、どうして、びっこをひいているのだ!と聞きました。
垣根を飛び越えるときに、棘を刺してしまいましたとロバは答え、「まず、棘を抜いて私を食べてください、そうしないと、呑み込むときに棘が喉に刺さりますよ!」と言った。
狼は承知して、ロバの足を持ち上げ一生懸命棘を探していると、ロバは狼の口を思い切り蹴って狼の歯を抜いてしまいましたとさ。
狼は情けないやら悔しいやらで、こう言いました、「おやじは肉料理の術は教えて呉れたが、なんだって、俺は医者の術にまで手を出したんだろう。」
柄にもないことや、がむしゃらな挑戦は怪我のもとと教えている、注意が肝要。



鷲とコガネムシ

at 2000 07/23 17:34 編集

あるとき、鷲が兎を追い掛けていました。兎は、周りに助けを求めるものが誰も見当たらなかったので、一匹のコガネ虫さんに助けを求めました。コガネムシは兎に安心しろと言って、鷲が近くまで来たので「これは自分の所に命乞いを求めてきた兎だから、さらって行くなと言いました」けれど、鷲はコガネムシのちっぽけさをバカにして、兎を目の前で食べてしまいました。
それからと言うもの、コガネムシは鷲に対して恨みを忘れません、鷲の巣を見つけて卵を確認するや転がり落として割ったそうな。終いには鷲は隠れるところが無くなって、ゼウスの所に逃げていった、そして、安全なゼウスの懐で卵を生むことを許して貰いましたとさ!ところが、コガネムシがそれを見つけるや、獣の糞玉を拵えて、ゼウス神の懐に落としました。
ゼウスは糞玉を払い落とそうとして立ち上がると、うっかり鷲の卵をポロリと落として割ってしまいました。その時から、鷲はコガネムシの出てくる時節には、巣作りをしなくなったと。
どんなに小さく力の無い人でも、軽蔑されて侮られ辱められれば、仕返しされる畏れ有りです。努々人をバカにしてはいけませんぞ!と言っている。



家柄を争う猿と狐

at 2000 07/26 21:54 編集

狐と猿が同じ道を旅しながら、どっちの家柄が良いかと言い争いました。在る場所まで来ると、猿が、辺りを見回して、溜息を吐いたので、狐がその訳を聞きますと、沢山の墓石を指さして猿が言いました。「私の先祖が使っていた奴隷達の墓を見て、嘆かずにはいられましょうか」
すると狐は、猿に言いました!「勝手な嘘を付くが良い、この人達は、一人だって、出て来て、おまえが嘘を付いていると言わないだろう」だって。
人間でも嘘を付く奴は、それを決めつける人がいない時に、ほらを吹く!だから、我々は嘘を見破るために、勉強、勉強。



狼と子羊

at 2000 07/27 21:49 編集

狼が、川で水を飲んでいる子羊を食べることにした、そこで、もっともらしい理屈を考えたそうな、狼は川上にいるのに、子羊が濁らせたものだから、水が飲めなくなったと文句を言いました、すると、子羊は、私は、口の先だけで飲むのだし、然も、川下にいるので、水は濁しません、と、言い返しました。狼は、はぐらかされた腹いせで、「しかし、おまえは、去年、俺の親父の悪口をいったじゃないか」と畳みかけました。子羊は、未だ、その頃は産まれていなかったと言いますと、狼は子羊に言いました!「いくら、おまえが、言い抜けしても、やっぱり、おまえを、食うことにする」
教訓、どんな、正当な理屈でも、酷い目に遭わそうとする奴には、理屈は通らない!正義が、すべて勝つとは限らないのだよと教えている。



クジャクとツル

 クジャクがツルを軽蔑している。「私は金やむらさきの着物をきているのに、おまえは羽にきれいなところがちっともないじゃないか。」とツルの羽の色を馬鹿にした。
 すると、ツルは言い返す。「ツルは、夜空に高く飛んで星のすぐそばまで行き、星に歌を聞かせたり、昼も大空高く飛び、楽しむ事ができる。ツルなんかは、ニワトリのように、ヒヨコと一緒並んでに地べたをよたよた歩いているだけじゃないか。」

 この様に言い争っているときにはどちらも幸せではない。相手の足りないところをけなすときには、その人の心が満たされていないときである。
 甘いおまんじゅーを食べている人が、塩せんべーを食べている人を見て、「そんな塩っぽいものを食べてどこがいいの?」と言ったときには、塩せんべーが気になっている時である。甘いおまんじゅーを食べて満足している人は、塩せんべーをけなさない。

 だいたい自分の欠点を認めればそれを補う人が周りに集まる。そしていろいろのことがうまく行く。その欠点を認めないと、その人と同じ種類の人が周りに集まる。それは端から見ていて何ともみっともない集団である。
 自分の欠点を認めない人は、その欠点が自分にないと思ってくれる人を好きになる。そしてそういう人は、たいていその欠点のある人を利用しようとしている人である。

 ところでもしツルがクジャクのように美しさで空を飛んだらたちまち狙われて撃たれる。クジャクはツルの羽を馬鹿にするが、これがツルを守っているのである。人が自分の何かを馬鹿にしたらそれが自分の長所であり、自分を守っていると気付くことである。


カラスとヘビ

 カラスがお腹が空いているとき、日なたに眠っているヘビを見つけて、上から飛び降りてきて食べようとした。ところが逆にヘビに食べられてしまった。カラスは、死ぬまぎわに「こんなに美味しそうなものを見つけながら、それに殺される。」と言った。

 カラスはヘビを大きなみみずと間違えたのだろう。ヘビとは知らなかったに違いない。敗北するものは相手との距離感がない。相手を調べない。

 そして烏はヘビをとる計画を建てていない。蛇をとる計画をたてれば、蛇を観察する。蛇についての情報を集める。カラスは意志が弱いから計画をたてることが出来ないで、無計画になる。

 あっちにもこっちにも手を出す欲張りは何も手に入らない。仕事を成し遂げる人は仕事を一本にしぼる。欲の権化で行くと、することが沢山になり、無計画になる。
 無計画になるから仕事をしても、実らない。むしろ逆にその仕事が命取りになる。目の前のお金を手に入れるのでさえ、計画が必要なのである。

 神経症者はまぐろもステーキも食べたいと言う欲張りである。


 目的もなく、計画もない。
 何かしてくれと叫んでいる人がいる。
 そう言う人は、自分から立ち上がれない。


 計画通りに仕事をしている人が居る。
 そう言う人は遊びの時間もとっている。

 鬱病者は、
 遊びの時間もとらないで、
 朝から、どの仕事をしようかと迷っている。
 結局何もできないから、
 午後には焦っている。

 それなのに周囲の人は、遊んでいると思って、
「頑張れ!」と言う。


 ある人が会社をやめて独立した。すぐに土地をかった。しかしビルをたてるお金がない。そして借金に追われている。
 計画をたてれば、自分の位置も考える。自分の置かれている立場もわきまえる。その結果、時間を待たなければならないということも分かる。

 お腹がすいている時には、甘いものにはすぐ引っかかってしまう。関西でぼてじゃこと言われているものである。なんでもいいから餌が落ちてくるとそれにパクッと食いついて行ってしまう。
 欲張りは、何でもいいから、自分にとって「いいなあ」と思うものに食いついてしまう。
 関西のぼてじゃこでなくても、愛情飢餓感があるとすぐに甘いものに引っかかってしまう。その結果全てを吸い取られる。カラスが食べ物に困っていた時と言うのが、人で言えば愛に飢えていた時である。そう言う時には相手を全く見てない。

 一番大事な事は甘い話にはすぐに飛びつかないことである。自分にとって相手は大事かどうかを見る。家族関係も友達関係も会社関係もまずは自分がしっかりと立つことから成り立つ。そしてその中で自分の心の安らぎとなる人達を、付き合う人として選ぶこと。


 悩んでいる人は、先生のところにいきなり相談に来る。教室の前で熱心に聞いて、その先生に良い印象を与えて、関係を徐々につけていくと言うことをしない。


 もし私がセールスマンだったら。
 一日に五十軒歩こう、
 それを50日続ける。

 その後、その体験を分析する、
 こういう家の構えの人達は、こう対応する、
 こういう家では、自分はなぜか卑屈になった。

 始めからセールスを取ろうとはしない。
 セールスをするのに身支度をする。

 畑だってまず開墾する。

 自殺する様な人は、
 準備をしないでセールスが成功することを期待している。


 新しい事をしたら、
 失敗は当たり前。
 うまく行ったら恐い。


 オーストリアの精神科医ベラン・ウルフは「ロマンティストが失敗すると運命を呪う。現実主義者が失敗すると自分の貧しい技術を責める。そして成功するまで頑張る。」「註、Calm Your Nerves、229頁」と述べている。


 川を渡る時、愛を知っている人はどんな方法でわたるのだろうか。
 まず、愛を知っている人は川と向き合い自分の位置をはかる。川の流れを観察する。川の深さを見る。そして自分の技量でわたれるのかもっとも安全な方法を考えるのである。決して無理をしない。こうして自分の知識と知恵と勇気と行動力で川を渡る。


 ある日本の小さな不動産屋さんである。アメリカからの大きな投資の話が入った。それは山師なら喜んで乗る様な大きな話である。その時にその小さな不動産屋さんは「おかしいな、そんな良い話が自分の所まで来るのは」と言った。そしてその甘い話に乗らなかった。
 後で分った事はそれはとんでもない詐欺の話であった。実に巧妙に仕組まれた罠であった。日本の土地が暴騰している時期である。どの不動産屋さんも舞い上がっている時期である。
 日本の大企業が競ってアメリカに不動産投資をしていたバブルの時期である。この小さな不動産屋さんが「オレの出番だ」と喜んで良い。しかし彼は乗らなかった。あの時期に大企業の方はアメリカに色々な不動産投資をして結局大損をした。
 小さな不動産屋さんの彼は自分の位置をしかりと知っていたのである。だから騙されなかった。良い話に飛びつくのではなく、何で自分のところにこんな良い話が来るのだと考えるからこそ騙されなかったのである。


おなかと足

 お腹と足が、どっちが偉いかと、争った。足は自分がお腹を運んでいのだから自分の方が偉いと言う。それに対してお腹は自分が食べなければ、足は歩くことが出来ないから自分の方が偉いと言い張る。

 会社でも大学でも、自分がこんなに活躍していると言うことだけを主張する人が居る。自分の原点が分かっていない。自分の原点が分かっていれば、そういう馬鹿なことを言うものではない。皆が地道に働いて居るから、自分が活躍する舞台が出来ているという事に気がついている。
 出版社でも営業があるから、編集があり、編集があるから営業がある。自分の原点が分かっていれば、「俺は編集だ」等と威張らない。営業は「編集は売れる本を作らない」等とこぼさない。

 会社がつぶれるときには、その両方が関連づけられない人で溢れているときである。大学で自分が教授として活動できるのは、大学で働く職員がいるからだと気付かない教授で、最後が幸せであった教授を私は知らない。
 もし足がお腹に感謝したら、体は幸福である。そしてその幸福が自分に戻ってくる。しかし意地悪をすれば体は不幸である。それが自分に戻ってくる。


 一般的に「能力のある人」とか「能力のない人」というが、
 そんな言い方はおかしい。
 お掃除のおばさんが部屋をきれいに掃除した。
 簡単に見えたので
 エリート・ビジネスマンが自分で部屋を掃除して、
 ガラスを割ってしまった。
 部屋の掃除で有能なのはどちら?
 そのエリート・ビジネスマンは、 
 陽の目を見ないものは価値がないと思っていた。
 自分がスポットライトに当たることばかりを考えていたから。


 人生に自分の目的をもつことが、能力があるということ。
 医者になりたい、映画スターになりたい、大工さんになりたい、コックさんになりたい。


金のたまごを生むメンドリ

 ある人が、金のたまごを生む美しいメンドリを飼っていました。そのメンドリの中に金のかたまりがあるだろうと考えて殺したところが、中はほかのメンドリと同じようでした。この人は、金のかたまりを見つけるつもりで、いままでのわずかな金もなくしてしまったのです。



 これも自分の位置を忘れた結果。この人はメンドリに食べさせてもらっているということを忘れてしまっている。自分が受けている恩恵を忘れている。
 出版社を止めて独立する人がいる。なかには成功する人もいるのだろうが、私の知っている限りでは、はるかに失敗する人の方が多い。それはその出版社あっての自分という「自分の座標軸を忘れている」からである。自分が編集した本が売れている。それから考えると、自分の給料が少ないと不満に思う。
 自分の力は凄いと思う。そして止める。しかし人が相手にしてくれるのはその出版社の人だからである。それを忘れて自分が、その出版社を止めても、皆から相手にされていると思ってしまう。

 自分の今の幸運を、
 当たり前と思った時に、
 不運は始まる。

 自分と付き合ってくれている人が、心優しい。
 そのことを当たり前と思った時に、
 不幸は始まる。

 気がついた時には、
 酷い人に囲まれている。

 自分のことを良くしてくれる人がいる。
 それでずにのった時に、
 地獄の入り口にきている。

 一度去ったその人は、もう戻らない。
 なぜなら、
 その人は、さる前に、できる事を精一杯しているから。

 カレン・ホルナイは名声追求の強迫性について特徴のとして「満足しない、際限がない」と言う事をあげいいる。
 つまり100点を目標にする神経症者は100点とれても120点が欲しくなる。いつも「もっともっと」と急き立てられる。とにかく際限がない。
 カレン・ホルナイはもうひとつ神経症的傾向の強い人は「見境がないこと」と言う事もあげている。つまり「何をしても」もっともっと言う事である。すき焼きをこれだけ食べたで満足しない。もっと食べたい。
 そのうえに「給料この位もらった」で満足しない。「いや、もっと欲しい」。「常に」「何についても」「もっともっと」である。
 そこで「あなたはどの位欲しいんですか」と聞かれれば分からない。何だかわからないけれども「何でも」「もっともっと」欲しい。
 これでは生きていて苦しい。欲しいものに領域も限界もないのだから。そこで常に心が満ち足りていない。いつも何についても不満。
 皆が「あなたいい生活してるわね」と言っても絶対に満足しない。そしてもう何をするにも不安、この私がやる事は全部自信がない。

 運動になると跳び箱を九段を超えたらきっと幸せになれると思っている。でも九段を超えたら今度は十段を跳べないんだから不満になる。そして不満は跳び箱だけではなく、他の事についても同じ事で、いつも何事も不満。何をしても幸せになれない。
 私は跳び箱10段を跳べなければ絶対に幸せにならないと思っている。毎日がこれでも駄目だ、あれでも駄目だ、とイライラしている。今日も10段を跳べなかった。
 そして他の事も全て跳び箱10段の考え方になる。だから生きる事が辛い。就職の時には大蔵省に受からなければ幸せになれないと思う。絶対に大蔵省に行かなければ私の人生はもう駄目と思う。行けなければ自分の今まで生きてきた事が全部無意味になると感じている。
 心理的に健康な人は「跳び箱10段がそんなに大事なの?でも私は10段跳べないから、私は縄跳びをやってみる。縄跳び1000回出来るわよ。」って人である。自分の出来る範囲で自分の力を出す人、それが心理的に健康な人である。
 心理的に健康な人は水泳をしても満足している。それで「ええ、プール?そんな事は世間では認めないわよ。」って言われても、心理的に健康な人は平気。心理的に健康な人は今まで生きてきた人生を自分が認めている。どんな人生でも自分が満足している。
 もっと頂戴っと思っている人は自分自身の世界観を変えなければもっともっと自分の首をしめてしまう。
 大事な事は今自分がこれでも自分は幸せなのかなと思うかどうかである。今この幸せの平凡な毎日が自分自身の力であって、今までの生きてきた証だと思うこと。この人生が最後に幸せにつながっている道だと信じる事である。
 そうすればメンドリを殺さない。


 心の空洞が埋らない。
 そこで名誉がほしい。
 空洞が大きければ大きいほど、
 大きな名誉がほしい。
 
 同じ名誉を得ても、生きる支えのない人は、
 もっと、もっと名誉が必要になる。

 同じ名誉でも、生きる支えとして名誉をほしい人と、
 すでに生きる支えがある人が、名誉を求めるのとは違う。
 
 同じ地位にいても一人は満足し、
 もう一人は「もっと、もっと」と焦る。

 心の支えを持っている人と、持っていない人では、
 地位の持つ意味が違う。
 心の支えを持っていない人は、
 より高い地位で少しでも心の支えを強化しようとしているのである。
 だから、「もっと、もっと」になる。

 このイソップ物語と同じ様な話しを考えれば次のような物語であろう。
 ゆで卵が健康に良いというので皆でゆで卵を作っていた。
 6人の人がいたが、卵は3個しかなかった。
 あるよく深い人がゆで上がってからでは、とるのが遅いとお湯に手をつっこんで火傷をした。

 焦る人は夢がない。早くしよとすると今までの努力が無駄になる。よく深い人は一時間なら30分、30分なら5分と焦る。そして全てを失う。


近所どうしのカエル

 二ひきのカエルが、近所どうしに住んでいました。1ぴきは道からはなれた深い沼に住み、1ぴきは道に沿った水たまりに住んでいました。さて、その沼にいるほうのカエルは、もう1ぴきのカエルに、自分のところにくれば、もっといい安全な生活ができるといってすすめましたが、そのカエルは、なれている場所からはなれるのはいやだといってききませんでした。そうしているうちに、そこを車が通りかかって、そのカエルをつぶしてしまいました。

 このカエルは信じられる人がいないのである。そしてどう動いて良いかの方法が分からない。
 もう一つ、カエルには欲しいものがない。カエルに美味しい食べ物があれば、カエルは動く。

 人は生まれながらにして幸せになることを約束されていると考えたら、多くの思想家から怒られるだろうか。その約束が果たされる条件は自分に素直になることだと私は思っている。
 素直さとは自分に正直に生きることである。幸せになると言う約束が果たされる条件とは正直に自分に向き合い真実を見つけることであり、偽りをすてる強さをもつことである。
人はいったん自分を飾りを付け出すと、それをすてるのは辛い。
 それは怠惰な生活で身についたしまった贅肉をそぎ落とす苦しさと同じである。健康で長生きをするには苦しくても贅肉を落とす努力をしなくてはならない。それとおなじように幸せになるには今までの生き方を切り替えることである。
 「安らぎ」のある生き方、ふれあいのある人生を送るには勇気をもって虚飾の生活、偽善の生き方をたちきることである。しかし、わかっていながら自ら煩わしさから逃げようとする。

 先日テレビを見ていたら、億ションが売れているという。そしてそれを買う人達は情報産業に勤める若い人々だと言う。中には前の会社から引き抜かれるときに億ションを買ってもらった若い人もいるという。
 不動産やさん自身が、億ションを買う人が今までのイメージの人と違うと驚いている。
 それを見ていて、私は「この人達は将来おそらく惨めになるのではないか、この人達の人生は狂うのではないか」と思った。つまり皆その若い人達は「今の状態が続く」と思っている。カエルは今の状態が続くと思っている。明日にはひかれると思っていない。今日ひかれないから明日もひかれないと思っている。だから安全な場所に引っ越さない。しかし今の状態は続かない。
 本物のビジネスマンなら億ションなど買わないで、そのお金を貯めて他に使うと私は思ったのである。若い内にこんなマンションに住めば人生を安易に考える。そうして人間関係がこわれていく。トラブルを起こしていく。
 おそらくそのテレビを見ている中にはリストラされた中高年の人達も居たろう。おそらく彼らが溜息をついたか自分の不遇を嘆いたかは知らない。
 しかしそのリストラされた中高年だって、もし大企業にいたときに「今の状態は続かない」と思い、人生の計画をきちんと立てて、自分を磨いていればリストラされて苦労をしなかったかも知れないのである。
 若いのにいい気になって億ションを買うような計画性のなさが二十年後にリストラされた中高年と同じ立場に追い込まれているかも知れないのである。
 目に見える得は毒。なぜならそれで自分の立場が分からなくなるからである。
 逆に今の苦労は頑張っていれば後で生きる。情報産業に入れなくて、苦労している若い人もいるかも知れない。今は雑用ばかりしているようだけど、いつかその苦労が果実となって自分にかえってくる。

 人はなぜ動かないのだろうか。
 それは今自分のいる位置が分かっていないからである。全体が見えていないからである。今自分がいる場所は地雷のある場所だと分かれば動くかも知れない。
 慣れた場所を離れるのがイヤだと言うこと自体が悪いのではない。その位置を分かっていないことが問題なのである。
 今日明日気楽に食べて行かれれば、それで良いと思う。そしてその位置を知らなければ動かない。
 大切なのは自分の今いる位置を正しく知ることである。

 人のアドヴァイスで動かない人の中にはあまりにも裏切られた体験が多すぎるのである。いつも騙されている人は動かない。
 右に行けばお花畑がありますよとぴわれて、お金払って右に行ったらなかった。左に行けばメダカが泳いでいますよと言われて行ったらメダカが泳いでいなかった。


ヘビとカニ

 となかまになって、いっしょに暮らしていました。ところでカニは、根が正直なものですから、ヘビに悪いくせをなおせとすすめていました。ところが、ヘビはどうしてもいうことをききません。そこでカニは、ヘビは眠るのをまちかまえていて、ヘビの首をハサミでつかまえ、できるだけつよくしめつけて殺しました。ヘビが死んでのびたのを見て、カニがいいました。
 「こういうふうに、はじめからまっすぐではっきりしているとよかったのだ。そうすればこんなめにはあわなかったろう。」
 友人とつきあっていながらだます人は、かえってひどいめにあうものの。

 カニはヘビがヒモと間違えている。ヘビをヒモだと思っている。カニは状況、相手を見ていない。
 ヘビがまっすぐでは生きていない。キリンは首が長くてキリンなのである。ヘビがまっすぐでは、キリンの首を切ったようなものである。 赤ちゃんはおしめをするものなのに、おしめをしたら「何でおしめをするの?」と聞くようなものである。
 カニは横にまっすぐ進む。蛇行するヘビを許せないのであろう。カニはカニの価値観で動いている。そしてここで大切なのはカニはヘビを自分の思うようにしたようであるが、ヘビが死んでカニは友達が居なくなると言うことである。
 相手が自分の思うように行かないときに人はそれを相手の欠点という。しかし相手の個性を殺したときには、相手を失うことである。

 いわゆる「良い子」はこれである。最近このいわゆる「良い子」が様々な社会的事件を起こす。いわゆる「良い子」は心が殺されている。
 カーリー・ジブラーンと言う詩人が「誰がひばりにさえずらないよう命ずることが出来るか」と言っているが、それをするのが親なのである。
 さえずらなくなったひばり、まっすぐになったヘビ、そうした人が今の日本には多すぎる。
 「良い子」は子供ではなく、死んだヘビである。


薔薇とけいとう


 バラのそばに生えていたケイトウが、バラにいいました。 「あなたはなんて見事な花なんでしょう。神様からも人間からも非常に可愛がられていますね。」。けいとうは「あなたの美しい姿と、いい香りがうらやましい」と言う。
 すると、バラは「いいえ、私は少しの間しか命がない、誰も折らなくっても散ってしまう、しかしあなたはいつも花が咲いていて若々しく生きていてそれが私にはうらやましい」と言う。


 他人から見て羨ましいと思っても、その人自身から見る視点では物事は違って見える。自分は自分なのだから、自分を受け入れて生きるのがベストなのである。
 もしケイトが「私はステキ」と言えば、おそらく薔薇も「私はステキ」と競うだろう。そしてお互いが不幸になる。
 だから相手を誉めて見ることである。すると相手の言葉で自分の幸せに気がつくことがある。バラはバラで自分の幸せに気がつく。
 人は慰めあうと楽しくなる。相手の長所を誉めることである。相手を誉めると相手は裸になり、素直になる。
 しかし自分が淋しいときには相手を誉めない。孤独の人はたいてい自分の辛さを訴えている。

 このときに相手を羨むだけの人が「自分を生きていない人」である。直接面と向かって誉めないで、心のなかで羨む。そしてこの相手を羨む気持ちがあるから、その人の周りに人は集まらない。人が集まらないから人を恨む。それがまた人を遠ざけてしまう。
 心の豊かな人の周りには、豊かな人が沢山集まる。素直な人の周りには、素直な人が沢山集まる。

 一度悪いほうに回転しはじめると悪循環が続いて、生きるのがいよいよ辛くなる。最後にはそういう人を恨んでいる「自分を生きて行ない人達」が集まって、他人の悪口を言うようになる。偉そうな口をきいて人をけなす集団にはいると人生は地獄の門の前に来て居る。
 集団で「偉そうに」人をけなしているのが心理的に一番楽なのである。自分は地道な努力をしないでもいいからである。自分の実際の実力を受け入れなくてもいいからである。自分の弱さを認めなくてもいいからである。だから街のチンピラは「あのセンコウ」等という口をきくのである。 自分の弱さを認め、自分の実際の実力を受け入れたときに、人生は天国の門の前に来て居る。

 ケイトウは今のバラが羨ましい。咲き誇っているバラが羨ましい。しおれたバラを見れば違った感情を持つだろう。ケイトウはしおれたバラを見ればバラの言葉を納得する。
 ケイトウはバラの生き方をずーっと見ていない。どういうサイクルであるかを見ていない。
 他人を見て羨ましいと思い、拗ねたり僻んだりして人生を間違える人は多い。それらの人は羨ましい人の最も良いところだけを見ている。その一瞬を見て、羨ましいと思う。
 なぜか?
 それはその人にしっかりとした人生の目的がないからである。そして人生の目的がないから気持ちが焦っている。


キツネとヘビ

 キツネがヘビが寝ているのを見て、ヘビが長いのを羨ましいと思った。そこで側に寝て同じ様なせいんになりたいと思って、体を伸ばした。余り伸ばしたのでキツネの体が弾けてしまった。

 これも第三者から見ると、おかしな話しである。「なんで?」と思う。もしヘビが寝ているのを見て羨ましいと思ったのではなく、ヘビが木にスルスルと自由に登っていくのを見て羨ましいと思ったのなら分かる。或いは陸から川に入って泳ぎ始めたのを見て、羨ましいと思ったのなら分かる。
 あるいはこれが寝ていてもヘビではなく、ライオンなら分かる。キツネが百獣の王ライオンを羨ましいと思ったというなら第三者からも分かる。しかし寝ているヘビを羨ましいと思うのは分からない。
 ところが実はこれが自己蔑視している人の心理なのである。第三者から見ると不思議なのだが、とんでもないものを羨ましがり、そしてそれを憧れて真似ようとする。そして自分を見失う。

 自己蔑視している人の心理とは、ライオンがアリにもニコニコして迎合していくような不自然な行動をとる心理である。威張って歩いていればいいのにそれが出来ない。
 キツネも自己蔑視しているのである。だから寝ているヘビを見て、真似ようとして破滅していく。自己蔑視している人は第三者には理解しにくい破滅の道を選ぶ。
 自己蔑視しているキツネはヘビが木から落ちないのはヘビが長いからだと誤解したのかも知れない。このような誤解を自己蔑視している人はよくするのである。


海ツバメ

 「海ツバメは、人のいないところがすきで、いつも海の上に暮らしている鳥です。人間にとられるのを用心して、海岸のたかい岩の上でひなを育てるといわれています。海ツバメが、たまごを生もうとおもって、あるみさきにきましたが、海にむいている岩を見つけて、そこでひなを育てました。あるとき、えさをさがしに出かけたあと、つよい風が出て、波がたかくなりました。海の水は岩のほらあなまであがってきて、ひなを殺してしまいました。海ツバメはもどってきて、それを見ると、こういいました。
『ああ、とんでもないことをした。陸はゆだんならないとおもって、ここまでにげてきたのに、海のほうがずっとたよりにならない。』」

 絶対の安全など絶対ありえない。それなのに不安な人は絶対の安全を求める。人はどこかで「絶対の安全など絶対ありえない」と覚悟するしかない。
 海ツバメが海岸のたかい岩の上を求めたように、安全、安全と思うとかえって安全でないことがある。「絶対の安全」を求めておかしな宗教集団に入って一生を棒に振る人もいる。
 本当は別の会社にいきたかったのだが、こちらの会社のほうが安全な会社だと思って就職する。本当は別の人と結婚したかったのだが、こちらの人のほうが安全な人だと思って結婚する。しかし結果は惨めなことが多い。
 「ああ、とんでもないことをした。陸はゆだんならないとおもって、ここまでにげてきたのに、海のほうがずっとたよりにならない」と言うような恨みを言う人は自分の安全ばかりを考えて生きて来てきた人である。愛することを知らなかった人である。人を愛したら自分の安全だけを求めることはない。

 自分にとって都合いい人ばかりを求めて生きてきて、気がついて見たら、ひどい人ばかりに囲まれていたなどということがよくある。ずるく立ち回り、自分の利益ばかりを考えて生きてきて、最後に気がついたら、嘘で固めた人ばかりが自分の周りにいたということも多い。あまりにも利益ばかりを求めたために悲惨な人生を送る人もいる。

 ある我欲に徹した人が人生の最後に書いた日記がある。「本当のものが見えてきた、本当のものが見えてきた」としきりに書いてある。要するに自分の周囲にいる人達のことを書いているのである。自分の周囲にいる人達は皆ずるいということが分かったということである。
 周囲の人達は皆自分を利用しようとしているずるい人達ばかりだと彼は嘆いている。しかしその老人が気がついていなかったことは、その人達を集めたのは自分自身だったということである。彼は自分だけの安全を求めて、人を愛することを知らなかった。自分にとって都合の言いことばかりを言う人を自分の周りに集めた。自分の利益になると思ったからである。利益で安全が手にはいると思ったのである。彼がそこまで自分の利益だけを求める我利我利亡者でなけっればもっと違った種類の人達が周囲に来たのである。自分がずるいから周囲にはずるい人が集まった。
 自分の利益に都合いい人達ばかりを集めようとして、気がついたら、逆に自分が利用されそうな質の悪い人ばかりが周囲にいたということである。自分が退けてしまった人達のほうがずっと優しい人だったということである。海ツバメの様に「ああ、とんでもないことをした」と人生の最後で言わないようにしたいものである。
 人を恨む前にそういう種類の人を周りに集めた自分を反省すべきである。自分の周囲にいる人を「利己主義者ばかりだ」と嘆いている人は、たいてい利己主義者である。自分の周囲にいる人を「冷たい人ばかりだ」と嘆いている人は、たいてい冷たい人である。


オオカミとライオン

 「オオカミがあるとき、草をたべているヒツジをさらって、じぶんのうちに運んでいきました。とちゅうでライオンがこれを見て、ヒツジをうばいとってしまいました。
オオカミは遠くのほうからいいました。
『わたしのものをとるなんてひどい。』
すると、ライオンは笑っていいました。
『じゃあおまえは、ちゃんと友だちからもらったのか。』

 会議などで立派なことを言うが、なかなか影響力を持てない人がいる。それは皆がその立派なこという人の日頃の態度を知っているからである。自分のことを棚に上げて人のことを責めていても、なかなか皆が賛成に回ってくれない。そこで腹をたてる。しかし腹をたてるほうが間違っているのである。
 腹をたてる人は自分の言っていることが正しいとばかり思っているから、「こんなに正しいことを言っているのに、通らない」と怒る。しかし皆はその正しいことを誰が言っているかを見ているのである。
 日頃ずるく立ち回っていて、会議で正しいことを言っても人は動かない。日頃、当然の責任を逃げていて、相手の責任を追及しても、相手にされない。
 「こんなに正しいことを言っているのに、」と怒りを感じるときには、自分はオオカミではないかと反省して見ることである。
 「私はこんなに立派なのに、」と人を恨んでいる人はたいていこのオオカミと同じである。自分が人にしている酷いことには気がついていない。


旅人と枯れ木の根っこ

 旅人たちが海岸を歩いていって、見はらしのきく丘の上に出ました。遠くに枯れ木の根っこが浮いているのを見て、大きな船だとおもいました。そこでその船が岸につくまで待つことにしました。木の根っこが風にふかれて近づいてくると、大きな船ではなくて、小船だとおもいました。いよいよ打ちあげられてみると、それが木の根っこだったので、旅人たちはたがいに言いました
 「なんだ、つまらない。船でもないものを待っていた。」
 
 「あんな豪邸に住んでいて、」と人は羨ましがる。しかしそこに一人で孤独に住んでいる人は幸せとは言えない。当事者の場合と、遠くから見て、羨ましがっている人とは違う。
 羨ましがる人はその豪邸を遠くから見ているので素晴しく見えるのである。遠くから見ている人は、その豪邸を大きな船だと思っている。しかし豪邸に住んでいる人の実体を少し知っている人はその豪邸をを大きな船ではなくて、小船だと知っている。
 そしてさらに近くに住んで良く知っている人は、その豪邸が木の根っこであることを知っている。


ライオンとイルカ



 ライオンはある海岸をぶらついているときに、イルカが首をだしているのを見て、なかまにならないかとすすめ、自分たちは親友になって、たすけあえば、うまくいくと言いました。
 「あなたは海の動物の王だし、私は陸の王だ。」
 イルカはよろこんで承知しましたが、まもなくライオンは野ウシと戦争をはじめましたので、イルカをたすけによびました。しかしイルカは、海から出てこようと思ってもそうするわけにはいきませんので、ライオンはイルカを裏切者だと言いました。するとイルカは言いました。
 「私をせめてもだめです。私は生まれつき海の動物で、陸の上が歩けないのです。」

 このライオンと同じですぐに友達になったと錯覚する人が居る。「私達友達」と言っている。たいてい自分を知らないし、相手を見ていない。「あなたは海の動物の王だし、私は陸の王だ」と同じで自惚れている。愛を知らない人達といってもいい。

 こうなったのはライオンの自惚れの結果である。イルカとコミュニケーションが出来ていない。イルカと心がふれあっていないことにライオンは気がついていない。
 イルカは「私をせめてもだめです。私は生まれつき海の動物で、陸の上が歩けないのです」と言って助けを最もらしく断わっている。しかしイルカは水のなかに居る亀に頼んでライオンを助けに行ってもらうことも出来た。イルカはそこまでしない。つまり二人の関係はそれだけの関係なのである。
 自分の出来ることをする。それが親友である。三等兵は三等兵として大将を助けることが出来る。三等兵と大将との心がふれあっていれば、三等兵は三等兵として大将を助ける。
 しかし心がふれあっていなければ「私は三等兵ですから大将を助けることは出来ません」というだろう。表面上誰を知っているかが大切なのではない。誰と心がふれあっているかが生きて行く上で力になる。
 このライオンはわざわざ「海の動物の王」と友達になることはない。自然と心のふれあった動物と友達になればいい。名声を求める人はこのライオンと同じ間違いを犯す。


ライオンとウサギ

 ライオンがねむっているウサギを見つけて食べようとしていました。すると、シカが通りかかったので、ウサギを放っておいて、シカを追いかけました。ウサギはもの音におどろいて逃げました。ライオンはシカを長いあいだ追いかけましたが、つかまりませんでしたので、ウサギのところへきましたが、ウサギは逃げたあとでした。そこで、ライオンは言いました。
 「こういうめにあうのもあたりまえだ。せっかくとれたえものを放っておいて、大きな望みをおこしたからだ。」

 自分の今ある喜びに感謝しないでまた別の仕事を探す人が居る。幸せの青い鳥を探しすぎて不幸になる人がいる。結婚しようとしていた人がいる。ところが別の人が表われた。もっと美人だ。そしてその人に気を移して結局二人から見放される。
 今の自分の仕事がうまくいっているのをほっておいて別の仕事を探す。もっと儲かりそうだと安易に新しい仕事に手を出す。バブルの時代に本業をしないで、もっと安易にお金が儲かる仕事を探す。そしてバブルの時代の終わりとともに挫折。
 ライオンはシカが通りかかった時にその心の確かさを試されたのである。人には試練のときがある。器の大きさを試されるときがある。「俺は大器だ」と大物のふりをしていても、そういうときに化けの皮がはがされる。表面的な幸運に騙される。しっかりと生きて居る人はシカの誘惑に負けない。いいかげんな生き方をしているとどこかで挫折する。
 よく世に出たあとで消えていく人が居る。そういう人にあうと必ずマスコミの悪口を言う。マスコミは人を使い捨てにすると。その通りである。しかしテレビのレギュラー解説者を頼まれて、今の仕事を犠牲にして喜んでテレビ出演する自分の愚かさに対する反省はない。


農夫と海

 農夫が、海の上で波にもまれて水のそこに沈んでいく船を見ながら、涙をながして海の悪口をいいました。すると海は農夫にむかってこうさけびました。
 「なんだってあなたはわけも知らずに私を責めるのです。私があぶないめにあわせたのではありません。私をかきみだしている風が悪いのです。こんな風がないときに海の上をとおれば、私のほうが陸よりもおとなしいことがわかります。」

 人間、何につけてもそれぞれ言い分があるのだろう。何かをして失敗する。そして人は失敗した人を責めるときがある。どんなに責められている人でもおそらくその人なりの言い分はあるのだろう。
 また離婚のように争いがあるときには両方に言い分があるのだろう。でも私たちは当事者の場合にはやはり相手を責める。離婚をするときに浮気をした配偶者に「あなたは酷い」と片方が言う。しかしおそらく言われたほうは「あなたとでなければ普通の人よりも素晴しい人になれるのよ」と言う海と風のような言い分があるかもしれない。「私を酷い女にしたのはあなただ」という言い分である。
 「私を騙した男達が私をこんな女にした」と言うのもよく聞く台詞である。


農夫と木

 農夫の畑に、木が1本ありましたが、果物がならず、やかましいスズメやセミの休み場になっていました。農夫は果物のならない木だから切ってしまおうと思いました。そこで斧を持ってきて1度切りつけました。セミとスズメは、自分たちの休み場を切ってしまわないで、今までどおりそこで歌をうたってあなたを楽しませるようにしてくれと頼みました。ところが農夫はそれにかまわず、2度3度と切りつけました。ところが、その木はうつろになっていて、ミツバチの群れとハチミツが見つかりました。農夫はハチミツをなめて、斧を放りだして、その木を神木におまつりして大事にしました。

 セミとスズメが歌うのを楽しむ人には、果物のならない木は価値がある。実利の人には無駄に思えるその木も、セミとスズメが好きな人なら、神にささげるだろう。木そのものは全くかかわりないのに、相手によって木の価値は違ってくる。
 ある人が自分のことを価値がないといっても、それはその人の価値観に従って言っているだけである。また相手の価値もこちらの気持ち次第で変わることに注意しなければならないだろう。
 自分の価値観や、発想によって物事は違って見えてくる。周囲の人が自分を軽蔑したからといって自分に価値がない訳ではない。


はげ頭のウマ乗り

 はげ頭の人が、ひとの毛でつくったかつらをかぶってウマに乗っていました。風が吹いてきてそのかつらをとばしたものですから、そこにいあわせた人たちは大笑いをしました。するとその人は、ウマをとめていいました。
 「私の髪でもないものが私の頭からにげたって、なんの不思議があろう。せっかく生やした人の頭からさえ、はなれているのだもの。」

 取り乱さない。この位の言い方が出来るほどの度胸が大切。人間は必ず恥ずかしい思いをする。弱点や恥ずかしいことがあるのは誰も同じである。
 それをここまで言える勇気、強さがあればオドオドしないで生きて行かれる。それを弁解すればするほどおかしくなる。弁解すれば、「嘘ばっかり」と言われるのが関の山である。それに対して開き直りの強さには返す言葉もない。
 これを変装と思えば、楽しい。楽しいなと思えば、こんなときには「あー、ばれたか」で終わる。しかし隠そうと思えばうろたえる。楽しみを持って生きて居る人の方が強い。
 大切なことは「弱点や恥ずかしいことは誰にでもある」ということである。他人の弱点を大げさに笑う人は自分の弱点を必死で隠している人である。


金のライオンを見つけた人

 臆病なよくばりが、金のライオンを見つけていいました。
 「私はいま、自分の立場が分からなくなった。考えがつかなくなって、どうしていいか分からない。物が欲しい心もちと、臆病な生まれつきが私をまよわせている。どういう運命かどうか神さまが、金のライオンなんかを作ったのだろう。今これを見て、私の心の中では、3つの考えが争っている。金がほしくもあるし、金でできたものが怖くなるときもある。手をだしたい気もちもあるが、本当は手をひっこめたいのだ。運命は、これをくれておきながら、手にとってはいけないという。楽しみのない宝物だ。神さまの恵みがめぐみでないのだ。どうしよう。どうやってとりかかろう。どういう工夫をしよう。家へ帰って召使いをここへよこし、大勢でやっつけてとってこさせよう。そうして私は遠くのほうから見ていよう。」 

 金のライオンは成功であり、昇進である。世の中には昇進して鬱病になったり、昇進して自殺する人もいる。成功したいけど成功が怖いのである。
 このご主人は召使にとりにいかそうとしている。しかしこのようにしてやったものは身につかない。召使にとりに行かせたものはご主人のところにはこない。ご主人はそれに気がついていない。


下手な琴ひき

 下手な琴ひきが、かべをしっかりぬった家の中で、しじゅう琴をひいていましたが、その音がよくひびくので、自分では、えらく上手にひいているつもりになり、思いあがって、舞台に出なければならないと考えました。ところが、舞台にのぼると、まるきり下手にひいたものですから、石をぶつけられて追いだされてしましました。

 自己満足の恐ろしさ、ひとりよがりの恐ろしさである。それにこの人はなぜ部屋を締め切ったかを考えない。自分のしていることに気がつかないで自分を凄いと思っている人は多い。慢心の恐ろしさである。
 ある大学の学長を含めた一行五人がヨーロッパのある都市を訪問した。そこの同窓生達が作っている会の幹事が、仕方なく自宅に学長を招待した。するとその大学の人が「一行は五人です!」と抗議した。
 その同窓生達は別に大学から給料をもらって会を運営しているのではない。自分達のお金で運営しているのである。外国の都市で必死で働き、ある意味で自分達の生活の維持と仕事で精一杯なのである。まだ人の世話を出来るゆとりはない。
 しかし大学の関係者五人は、自分達は凄いことをしていると思っているから、全員招待されるのがあたりまえと思っている。自分達は偉いと思っている。「かべをしっかりぬった家の中で、しじゅう琴をひいている」琴ひきと同じで、世間から隔離された大学内だけで生活して居るから、自分達は偉いと思っている。琴ひきが「えらく上手にひいているつもり」になっているのと同じである。
 私も外国生活は比較的長いほうだが、文化の違う外国で人の世話をするのは大変なことである。しかし自分が偉いと思っている人は、そうしたなかでも世話をされるのがあたりまえと錯覚している。
 なにも慢心の恐ろしさは大学関係者ばかりではない。新聞記者にしてしかり、官僚にしてしかり、医者にしてしかりである。皆に石をぶつけられたときには、自分は昔、慢心していなかったかと反省して見ることである。
 ある退職新聞記者が嘆いていた。新聞社をやめたら電話をかけてもけんもほろろに切られてしまうと。その元新聞記者は現役時代に慢心していたのである。悪いことをかかれては困るからその横柄な態度に皆は我慢していただけである。「石をぶつけられて追いだされてしましました」と言う下手な慢心琴ひきと同じである。
 大企業をやめて自分で仕事を始めて、「石をぶつけられて」失敗する人は多い。大企業のなかに居たときに「えらく上手にひいているつもりになり、思いあがって」いたのである。日本の大企業なども「かべをしっかりぬった家の中」と同じである。
 大企業でなくて出版社などでも同じである。自分の今居る出版社が「かべをしっかりぬった家の中」とは知らないで、いい気になり飛び出し失敗する人は多い。


女主人とヒツジ

 あるところで、女主人がヒツジを飼っていました。それから羊毛をとろうと思って、切りはじめましたが、うまくいかず、毛のかたまりといっしょに肉まではさんでしまいました。そこでヒツジは、痛がっていいました。
 「なんだって私に怪我をさせるのです。私の血がなんのたしになります。肉がいるなら、肉屋がきて私を一度に殺してくれますし、羊毛がいるなら、刈り手がきて、私をいためずに刈ってくれるではありませんか。」

 女主人は何を目的でこの羊を飼っているかを知らない。可愛いから飼っているのか、利益のために飼っているのか。
 目的が定かでない人は生き方が荒っぽい。雑な生き方をする。雑な生き方とは中途半端な生き方でもある。徹底的に遊ぶ人が、徹底的に仕事をすることも出来る。それにこの女主人はものを扱う技術を学んでいない。
 この女主人のようにして人生を失敗する人は多い。企業も同じである。バブルの時代になれない不動産に手を出して酷い目にあっている企業は多い。


山のロバと家のロバ

 山のロバが、日なたでぶらぶらしている家のロバを見て、そばへやってきて、ご馳走をたべてふとっているのがうらやましい、といいました。しばらくして家のロバが、重い荷物をしょわされ、ロバひきがうしろから棒でぶっているところを見ると、山のロバはこういいました。
 「いやいや、私はもうおまえをうらやましいとはおもわない。そんなにほねをおらなければ、ご馳走がもらえないのか。」

 山のロバの様にその時、その時を羨ましがる人がいる。美味しいところだけを見て羨ましがる。そしてこういう人は美味しいものを得るためだけの努力しかしないから、結局努力が報われないことが多い。


ライオンの皮を着たロバ

 ライオンの皮を着たロバが、歩きまわっては、ほかのけものをおどかしていました。すると、キツネを見かけたので、こいつもおどかしてやろうとしました。ところが、キツネは、そのまえにロバがなくのをきいていたものですから、こういいました。
 「よくおぼえておおき。いままでにおまえのなき声をきいたことがなかったら、私もおまえをこわがっただろう。」

 ホームレスは天皇陛下の前でもものを拾う。どんなに着飾っても、日常の生活の習性がふとしたところで表われる。身についたものは良きにつけ、悪きにつけ、消えない。無意識のうちにそれは表われる。
 どんなに大きなダイヤモンドをつけていても、日頃の鍛練がなければガラスと同じである。かえってみっともない。
 自信がない人はすぐにライオンの皮を着けたがる。それがダイアモンドであり、地位であり、称号であり、凄い高級車であり、大きな別荘等などである。しかし見る人が見ればそのライオンの皮の後ろに自信のなさがはっきりと見える。だからそれらのものをもっていない人よりもかえってみすぼらしく見えるのである。自分のしている仕事に、生活に自信があればそんなものを無理してまとわない。
 きちんとした生活をしていないと、それにふさわしくない態度がライオンの皮の後ろからすぐに表われてしまう。ところがこちらがきちんとしたごまかしのない生活をしていないと、相手のライオンの皮の裏にあるものが見えない。それでそのライオンの皮に驚かされてしまう。
 自分がきちんとしたごまかしのない生活をしていれば怖いものはない。ライオンの皮を誇示されて驚く人は、自分の生活がいいかげんなのである。


ウシひきとヘラクレス

 ウシひきが、ある村へ車をひっぱっていきますと、車がくぼみにおちました。だれかに力をかりなければなりません。ところがウシひきは、自分は何の手だしもせずに、そこへ立って、ヘラクレスの神に祈りました。何かにつけて、特別この神さまをうやまっていたからです。この神さまはそこにあらわれて言いました
 「車の輪に手をかけて、ウシをたたけ。まず自分で何かしてから、神に祈れ。おまえのようにぼんやり祈っていてはいけない。」

 人に「ここに井戸を掘ってくれ、掘ってくれ」と頼んでもなかなか掘ってくれない。言うだけではなかなか動いてくれない。「こうしてくれなくっちゃー困る」と言ってもこうしてくれない。しかし一人でそこに井戸を掘り出せば、「どうしたんですか」と言うようなことを言って、人が集まってくる。
 手でもいいから自分で掘り出す。その姿を見て、人は動く。自分が何かをする。それいがいに手はない。

 このイソップ物語を読んだときにアメリカの「希望の力」という本のなかに出ていた話しを思い出した。ミシシッピ河が氾濫したときの話しである。ミズーリ地方の人々は皆非難した。しかし歳とった一人の紳士は差し伸べられた全ての助けを拒否した。彼は自分の家の屋根の上に登り、神に、自分を助けるように祈った。
 水は高くなるばかりでレスキューのボートが彼を助けに来た。しかし彼はボートに乗るのを拒否した。水はどんどんたかくなり第二のボートがまた助けにきた。彼はこれも拒否した。そして彼は頑なに神の助けを待った。
 彼はいよいよ危なくなった。ヘリコプターが助けに来て、上から縄の階段を投げた。そしてそれに捕まって登ってくるように説得した。しかし彼は「神が私を救う」と言い続けた。
 そしてついに水が膨れ上り、彼は飲み込まれた。その話しのタイトルは「自分でする」と言うタイトルである。要するに神の助けとはそのボートのことであり、ヘリコプターのことである。何もしないで助けて暮れと言っても神は助けてくれない。



イソップ寓話 更新日時:07/07/2007 08:44:23 更新日時:06/02/2001 19:34:44
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イソップ

 イソップはギリシア語でアイソポスと言います。歴史としてアイソポスと言う名が出てくるのは、ヘロドトスという歴史家の書物に紀元前6世紀頃の人物として書かれています。

 伝承によりますとアイソポスは寓話を作った最初の人と言う事になっておりますが、寓話は民衆の中で育つ「道徳」「処世術」と言ったものでありますので、それまでにあった話をアイソポスの才知により集められまとめられたもの、或いは、出所が分からない話を寓話を作った最初の人と言われるアイソポスものもであると権威付けした結果と言ったものなのでありましょう。

 古代ギリシアにおいては少年教育で作文の練習課題として使われたそうであります。


内容

●神話に関わるもの
 イソップ寓話はお話を日本流に、或いは子供に分かりやすくなどの理由で書き換えられているものが殆どです。ここでは皆さんがご存知であろう寓話からギリシアの神々が関わるものを少しだけ抜き出してみました。
●ふれると何でも金になるお話
 業突く張りの王様は願い事を言いなさいと言われて「触れるものは何でも金になるようにして下さい」と頼みます。その願いが聞きいれられ、触れるものは何でも金になりましたが、その願いは大変な事であったのです。

 王様は娘に触ったとたん娘は金に変わってしまいました。食べ物を食べようとすると食べ物も金に変わってしまい、せめて水でもと思いましたが、喉に入ってから水は金に変わり窒息してしまうと思い、触るものが何でも金になる願いを取り消して欲しいと嘆願するお話です。

 このお話はミダス王のお話なのですが、ミダス王は太陽神アポロンが太陽を牽いているしか能がなく、黄金の光を振り撒く浪費家だ。と悪口を言ったのが事の始まりでした。その悪口を聞いたアポロンは「では何でも望む事を言いなさい。そうなるようにしてあげよう」と言うのですね。ミダス王に自分の力はそれだけでは無いという事と、神を侮辱するとどうなるか思い知らせるために「望みをかなえるふり」をしたわけです。

●王様の耳はロバの耳
 王様はロバの耳をしてして、それをひた隠にしますが、いつも髪を刈りに来る床屋は王様はロバの耳である事を知っていて口止めされておりました。

しかし床屋は何時までも黙っている事が出来ず、井戸の奥に向かって「王様はロバの耳」と大声を出して叫びますが、その声があらゆる井戸の伝わって井戸と言う井戸から「王様はロバの耳」と聞こえ、皆にロバの耳を知られてしまった王様は「これは皆の意見を良く聞けるようにロバの耳になっている」と打ち明けるお話です。(井戸ではなくささやいた言葉が風に乗ってというお話もあります。)

 さてこのお話は「さわると黄金になるお話」の続きなのです。アポロンはミダス王の願いを取り消す事には同意しましたが、罰はまのがれないと言いミダス王の耳をロバの耳にしてしまいます。

 そして耳の事が皆にわかってしまったことを知り、もともと耳の事を知っているのは床屋ただ1人であると分かっているので、その床屋を殺そうとしますが、アポロンも自分を殺す十分な理由があるのに許してくれたのだからと床屋を許してやります。

 そこへアポロンが現れ「良く床屋を許してやったな。お前の罪をといてやろう」と耳を元に戻してもらうのですね。人に対する寛容さを説いたお話となっています。

●金の斧・銀の斧
 正直者のおじいさんが湖に斧を落としてしまい困っていたところへ、池の精が出てきて、あなたの落とした斧はこの斧ですかと金の斧を見せ、違うというので銀の斧を見せ、違うというので本物の斧を見せたらハイこの斧ですと答え、あなたは正直者だと3つとも全部斧をもらいます。

 これを聞いた良く出てくる業突く張りのおじいさんは(^^;正直おじいさんの真似をして斧を池に投げ、金の斧ですかで早くも(^^;ハイと答えたので自分の斧でさえ返してもらえなかったと言うお話です。

このお話は実は「池の精」ではなくて「伝令神ヘルメス」なのです。このおじいさん、手が滑って斧が河に飛んでいってしまったのです。堤防で泣いているおじいさんを見たヘルメスが気の毒に思って河に入り斧をとってあげるお話が元々の話となっております。

 神々は正しい人には援助するが、不正な人にはその反対の事をするという教訓が語られております。

●ヘラクレスとアテナ
 少し話が変わりますが最後にもう1つお話をあげてきましょう。

 ヘラクレスが狭い道を旅しているとリンゴの様な物が落ちていました。ヘラクレスがそれを踏んづけると2倍の大きさになったのです。ヘラクレスはもっと力を入れ踏んづけ棍棒で殴りつけましたが、リンゴの様なものは膨れ上がり道をふさいでしまいました。

 すると女神アテナが現れ「よしなさい兄弟よ、それは口喧嘩です。人が相手にしないでほおっておくとそのままですが、相手にするとこのように膨れ上がるのですよ」


参考引用文献

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(私論.私見)