ベネズエラ政変考


 人生学院投稿文

3702 返信 Re,「2004不破綱領」考 蓼食う虫 2004/01/26 11:32

2人のウゴ・チャベス


2人のウゴ・チャベス

ガブリエル・ガルシア=マルケス(Gabriel Garcia Marquez)
コロンビアの作家、1982年ノーベル文学賞受賞

訳・渡部由紀子

line
 1998年、ベネズエラ大統領選で華々しい勝利を収めたウゴ・チャベス隊長は、大規模な一連の政治改革に着手した。国会は解散され、新憲法が国民投票で承認された。彼は相変わらずの高支持率を誇り、2000年7月30日に新憲法の下で行われた選挙で、ためらうことなく残りの任期を国民の審判に委ねたほどであった。しかしチャベス大統領は、石油収入が大幅に伸びているにもかかわらず、憂慮すべき状態にある経済、社会状況を立て直すには至っていない。彼は次第に政治的に孤立を深めていると見られており、その大衆迎合政治が、いずれ独裁に変わるのではないかとの見方も強まっている。[訳出]

line


 その日の夕暮れ時、スイスのダヴォスから帰国したペレス大統領は、飛行機を降りた途端、国防大臣のオチョア将軍の出迎えに意表を突かれた。不審に思った大統領は、「何があったのだ?」と詰問した。大臣がたくみに取り繕って安心させたため、大統領は首都カラカスの中心にあるミラフローレス宮(大統領府)には行かず、ラ・カサナの自邸に帰った。そこでまどろみかけていると、先ほどの大臣からの電話で起こされ、マラカイ市の方で軍の反乱が発生したことを知らされた。ミラフローレス宮に戻った矢先、ペレスの耳に最初の砲撃の音がとどろいた。

 それは1992年2月4日のことだった。ウゴ・チャベス=フリアス隊長は、歴史上の事件に対する偏愛から、ラ・プラニシエ歴史博物館の敷地内に司令部をあつらえ、そこから反乱を指揮していた。国民の支持だけが頼みの綱であることを察知した大統領は、テレビ局のスタジオにたどり着き、国民に向けて語りかけた。2時間後、クーデタは不発に終わった。チャベスは投降の条件として、自分にも国民に語りかける場を用意するように求めた。

 若きクリオーリョの隊長は、落下傘部隊の赤いベレー帽をかぶり、見事な弁舌家ぶりを示しながら、事件の全責任は自分にあると言い切った。このテレビ演説は、ひとつの政治的勝利であった。チャベスはカルデラ大統領により特赦を受けるまで、刑務所で2年を送った。しかし、支持者の多くは(また敵対者の多くも)、この敗北の演説を選挙運動の第一声のごとく聞いた。そして1999年、チャベスは共和国大統領の座を獲得した。

 チャベス大統領がこれを私に語ったのは、数週間前のことである。私たちは、ハバナからカラカスへ向かうベネズエラ空軍機の中にいた。その3日前、キューバのカストロ国家評議会議長とコロンビアのパストラーナ大統領とともにハバナで会合したのが、チャベスとの初めての顔合わせとなった。私が真っ先に感じたのは、彼の強靭な肉体から放たれる力であった。彼にはまた、いかにも自然な親しみやすさと、生粋のベネズエラ人に特有のクリオーリョらしい気品があった。私たちはハバナにいる間に再会を試みたが、スケジュールの折り合いがつかなかった。そこで、カラカスに向かう飛行機の中で、ようやく彼の活動や計画について語り合うことができたのだ。

 それは、眠っていた私のジャーナリスト魂を呼び覚ますような、実りの多い体験だった。彼が半生を語るのを聞いていると、マスコミが言うような独裁者の印象は微塵も感じられない。そこにいたのは、もう一人のチャベスだった。一体どちらが本物だったのだろう。

 策謀家、クーデタ首謀者としてのチャベスの過去は、1998年の選挙運動の際、対立候補陣営によって大々的に喧伝された。しかし、ベネズエラ史を振り返れば、少なくとも4人は同類がいる。第一に、その評価が正しいかはともかくとして、ベネズエラ民主主義の父とされるベタンクールがいる。彼はアンガリータ政権を倒したが、そのアンガリータも、36年間におよぶゴメスの独裁を一掃しようとした民主派の軍人であった。ベタンクールの次に大統領となった作家のガジェゴスはペレス=ヒメネス将軍に倒され、ペレス=ヒメネスは実質的に11年間にわたってベネズエラに君臨した。その彼も、若い世代の民主派に取って代わられることになる。ペレス=ヒメネス政権に続く一時期が、これまでの史上で最長の大統領民選時代であった。

 1992年2月のクーデタは、チャベス隊長が企てて失敗した唯一の出来事であったらしい。しかし、彼はそれも神の御心だったと考えている。1954年7月28日、力の印である獅子座の星の下にバリナス州サバネタで生を受けて以来、彼の行動にひらめきを与えてきた不思議な霊感から生まれるもの、つまり運命は、そのように受け止められてきたのだ。敬虔なカトリックであるチャベスは、自分の幸運を、100年以上も前から伝わるお守りを子供のころから首に掛けてきたおかげだと信じている。母方の曾祖父で、彼にとっては守護の英雄の一人、ペドロ・ペレス=デルガド隊長の形見である。

 小学校教師だった両親の収入だけでは生活が苦しかったため、彼は9歳のころから道端で菓子や果物を売って、両親を助けなければならなかった。時折、ロバに乗って、母方の叔母の住む隣村ロス・ラストロホスに行くことがあった。そこは彼にとって、本物の町だった。日が暮れても2時間は電灯をともしてくれる小さな発電所があり、彼と4人の兄弟を取り上げた産婆もいたからだ。母親は息子が神父になることを望んでいたが、本人は聖歌隊の一員で終わった。教会の鐘の鳴らし方は見事で、村の人々はそれを聞いて、「ほら、あの鐘はウゴだよ」と言ったものだった。ある日、チャベスは母親の本の中から、開運百科を見つけ出した。その第1章「人生でいかにして成功するか」が、すぐさま彼を惹きつけた。

 そこには、さまざまな職業がずらりと並んでいた。そしてチャベスは、そのほぼすべてを試してみた。絵描きとしてはミケランジェロとダヴィドを崇拝し、12歳の時、地方のコンクールで一等賞に輝いた。音楽ではギターの腕前と見事な声を生かし、誕生日会やセレナーデに欠かせない存在となった。野球では名捕手だった。軍人という項目は本には書かれていなかった。彼自身、野球の名門チームに入りたければバリナスの士官学校に入るのが一番だと聞かなければ、軍人になろうとは決して思わなかっただろう。

 チャベスはそこで政治学を学び、マルクス主義からレーニン主義までの歴史を知った。そして、彼のもっとも偉大な「獅子」となるシモン・ボリバル(1)の生涯とその著作に夢中になり、ボリバルの演説はすべて暗唱できるまでになった。最初にぶつかった現実の政治は、1973年9月のアジェンデの死であった。チリ国民がアジェンデを大統領に選んだというのに、なぜ国軍が彼を倒さなければならないのか、チャベスには理解できなかった。それから間もなく、チャベスは上官から、共産主義者ではないかと疑われていたホセ=ビセンテ・ランヘルの息子の監視を命じられた。「人生は驚きに満ちている」と、チャベスは高らかに笑った。「今は、彼の父親が私の下で外相を務めているんですから」

 運命のいたずらはほかにもあった。チャベスの軍歴の最後を飾る将校用サーベルを授与したのはペレス大統領だったが、20年後に転覆を試みた相手もまた、同じペレス大統領であった。「しかも、彼を殺しかねなかった」と私が言うと、彼は「それは絶対にない」と否定した。「我々が企てたのは憲法制定議会を設置することで、目的を達したら兵舎に戻るつもりでした」

英雄崇拝

 初めて会ったときから、私は彼が生まれながらの語り手であることに気付いていた。彼はまさしく、創造力と詩情に富んだベネズエラの大衆文化の落とし子である。流れをつかむ素晴らしい感覚と、ほとんど人間技とも思えない記憶力を備え、ネルーダやホイットマンの詩は全編、ガジェゴスの作品をまるごと何頁も暗唱してのける。

 ごく幼いころ、チャベスは偶然、曾祖父が母の言うような辻強盗ではなく、ゴメス大統領時代の伝説的な勇士であったことを知った。彼は曾祖父の汚名を晴らそうとの情熱に燃え、伝記を書こうと心に決めた。古文書館や軍の図書館で史料をあさり、生存者の証言にもとづいて曾祖父の足跡を再現しようと、歴史研究家の道具一式をかついで地域一帯を歩き回った。その結果、彼は曾祖父を自分の英雄に加え、そのお守りを首に掛けることにしたのだった。

 ある日、調査に没頭していたチャベスは、うっかり国境のアラウカ橋を越えてしまった。コロンビアの国境警備隊長が彼の荷物を改めると、スパイとしか思えない道具がぞろぞろと出てきた。カメラにテープレコーダー、秘密文書、周辺地域の図面、軍用の図表入り地図、それに軍用拳銃2丁。身分証明書もあったが、スパイなら偽造の可能性が大いにある。

 押し問答が何時間も続いた。その事務所には、馬上のボリバルの絵が掲げられていた。「私はもうげっそりでした」とチャベスは振り返る。「説明すればするほど、相手は聞く耳を持たなくなっていくんですから」。そのとき、起死回生のアイデアがひらめいた。「考えてみてください、隊長。わずか1世紀前には、我々の軍隊は1つでした。こちらを見ているあの絵の人物は、我々2人に共通の首領だったのです。どうして私がスパイのはずがありますか」。隊長はこれに心を動かされ、大コロンビア共和国の礼賛を始めた。結局その晩は、2人そろってアラウカの居酒屋に行き、互いの国のビールを飲み明かしたのだった。翌朝になると、ともに頭痛に耐えながら、隊長はチャベスに歴史研究の道具一式を返し、2人は国境に架かる橋の途上で長い抱擁をかわして別れを告げた。

 「ベネズエラがどこかおかしくなっていることを悟り始めたのは、そのころでしたね」とチャベスは言った。彼は反政府ゲリラの最後の砦を始末するため、東部地方で兵士13人と通信部隊から成る小隊の隊長に任命された。ある大雨の夜、情報局の大佐と何人かの偵察部隊の兵士が、青ざめて痩せこけた数人のゲリラ兵らしき男を連れて、兵舎に泊めてくれと言ってきた。10時ごろ、チャベスがうとうとし始めていると、隣室から凄まじい悲鳴が聞こえた。「跡が残らないように布きれを巻いたバットを使い、兵士が捕虜たちを叩きのめしていたのです」。憤慨したチャベスは、捕虜を引き渡すか、さもなければただちに兵舎を出て行くよう大佐に命じた。「翌日、彼らは不服従の罪で軍事法廷にかけると脅してきたが、しばらくの間、監視を付けられただけで済みましたよ」

 数日後、チャベスはさらに辛い体験をした。兵舎の庭に軍のヘリコプターが、ゲリラ兵の待ち伏せに遭い重傷を負った兵士たちを乗せて着陸した。チャベスは、何発もの弾丸を浴びた1人の若い兵士を抱きかかえた。すっかり怯えきって、「見捨てないでください、中尉殿・・・」と訴えている。その兵士を輸送車に乗せるのがやっとだった。他の7人は助からなかった。その夜、チャベスはハンモックの上で自問した。「自分はここで何をやっているのだ。一方では軍服を着た農民がゲリラ兵となった農民を拷問にかけ、もう一方ではゲリラ兵となった農民が軍服を着た農民を殺している。戦争が終わった今、撃ち合いをする意味などもはや何もないのに」。カラカスに向かう飛行機の中でチャベスは言った。「それが私の最初の実存的危機でした」

 事件の翌朝、目を覚ましたチャベスは、何らかの運動を興すべき運命を確信した。それを実行に移したのは23歳の時であった。「ベネズエラ人民ボリバル軍」という名前からして堂に入っている。創設メンバーは、5人の兵士と、当時少尉だったチャベスである。「目的は?」と私は尋ねた。彼はきわめて簡潔に、「いざというときに備えること」だったと答えた。1年後、マラカイの装甲大隊で落下傘部隊の将校となったチャベスは、本気で謀議を開始した。しかし、「謀議」という言葉はあくまで比喩的に、共通の目的に向けて意気を上げる意味で使ったものなのだという。

カラカスの暴動

 これが1982年12月17日の状況だった。その日、チャベスの人生にとって決定的な、思いがけない出来事が起こった。落下傘部隊第2連隊長と情報局の将校を兼務していた彼は、意外なことに、マンリケ司令官から1200人の将兵の前で演説するように求められたのだ。午後1時、一個大隊がサッカー場に集まると、司会者がチャベスを促した。彼が1枚の紙も持たずに登壇するのを見て、「君の演説は?」と司令官は尋ねた。「書いたものはありません」とチャベスは答え、即興で語り始めた。ボリバルとマルティ(2)の言葉に着想を得た短い演説だったが、そこには、独立後200年を経たラテンアメリカにおける不正義に関する彼独自の考察が加えられていた。

 集まった将校たちは、無表情に聞いていた。彼の運動を好意的に見ていたフェリペ・アコスタ=カルレとヘスス・ウルダネタ=エルナンデスもいた。チャベスの演説にたいそう不満だった司令官は、聞こえよがしに非難を投げつけた。「チャベス、君はまるで政治屋みたいだな」。すると、身の丈2メートルのアコスタが司令官に近づいて言った。「それは違います、司令官殿。チャベスは政治屋などではなく、新しい世代の指揮官なのです。腐った権力者が彼の話を聞けば、震え上がってズボンの中で糞をちびることでしょう」

 その後、チャベスはアコスタ、ウルダネタ両隊長とともに馬にまたがり、10キロ離れたサマン・デル・ゲレに向かった。3人はそこで、シモン・ボリバルがアヴェンチーノの丘で行った厳かな誓いをまねた。「もちろん、最後のところは少し変えましたがね」とチャベスは言う。「スペイン権力の意志により我々を締め付ける鎖を打ち砕いた暁には」と言う代わりに、「権力者の意志により我々を締め付け、人民を締め付ける鎖を打ち砕くまでは」と誓い合ったのである。

 以後、彼らの秘密運動に加わる将校は、必ずこの誓いを立てることとされた。何年にもわたり、彼らは国中の軍人の代表を集めて隠密の会議を開いた。「秘密の場所で2日間の会合を持ち、国の現状を検討し、分析を行い、友好的な市民グループと連絡を取りました。10年間で5回の会議を探知されずに成功させましたよ」

 チャベス隊長の人生でもっとも重要な事件となるのは、1989年2月に首都カラカスで荒れ狂い、「カラカソ」と呼ばれた民衆暴動であった。彼がよく口にする言葉に、「ナポレオンいわく、参謀の1秒のひらめきが勝敗を決する」というのがある。この発想に立って、チャベスは3つのコンセプトを展開した。歴史は時間単位、戦略は分刻み、戦術は秒速で決する。

 この悲惨な事件が起こったとき、彼らはその準備ができていなかった。チャベスは認める。「いかにも、我々は分刻みの戦略に不意打ちを食らってしまったのです」。それは1989年2月27日の暴動、「カラカソ」を指している。高い支持率で選出されたペレス新大統領の就任から20日前後で、これほど激しい反乱が起ころうとは、とても考えられなかった。「27日の晩、博士課程の講義を受けに大学に向かう途中、ちょっとガソリンを入れようとティウラの兵舎に立ち寄ったんです」。チャベスが語り始めたとき、私たちの飛行機はあと数分でカラカスに着陸しようとしていた。「そうしたら、部隊が次々と出動しているじゃありませんか。大佐がいたので、『あの兵士たちはどこに向かっているのですか』と尋ねましたよ。訓練も受けず、まして市街戦なんて考えたこともない補給部隊の人間まで駆り出されてましたから。自分の銃でさえ恐がるような新兵たちですよ。そりゃ、大佐に尋ねますよ。『いったいどこに向かっているのですか』って。大佐は言いました。『街路を制圧する。なんとしても騒動を止めろと命令を受けた。それを遂行するのだ』。私は言いました。『しかし大佐殿、それでどうなるか、おわかりでしょうに』。彼は答えました。『いいか、チャベス、これは命令だ。どうすることもできない。運を天に任せるのみだ』」

 チャベスはその夜、風疹の発作でひどい熱があったと言う。彼が車を発進させると、小柄な兵士が1人、頭のヘルメットは斜めにずれて、銃もぐらぐらで弾薬を地面に落としながら走って来るのが見えた。「私は車を停め、彼に声を掛けました」。チャベスは語る。「彼はすっかり興奮し、汗だくで乗り込んできましてね。18歳の青年でした。『どこに向かって走っていたんだ』と聞くと、『自分の部隊が行ってしまったんです。あのトラック、どんどん遠くなってしまう。お願いです少佐、追いついてください』。そこで私はトラックに追いつき、将校に尋ねました。『どこに向かっているんですか』。返事はこうです。『知りません。だれも知りません!』」

 チャベスは一息ついた。彼の口調はうわずり、あの凄惨な一夜の苦悩に喘いでいた。「パニック状態の兵士が、銃と500発の弾を持たされて、道に放り出されたんですよ。もう、動くものを見ればとにかく発砲で、道も、スラム街も、下町も、砲弾の雨です。大惨事でした。死者は数千人。その中に、フェリペ・アコスタがいました。私は本能的に、奴らが彼をはめて殺したと考えましたよ」。チャベスはきっぱりと言った。「我々が待ち構えていた行動の瞬間が来たのです」。3年後に失敗することになるクーデタの準備は、この瞬間に開始された。

 飛行機は午前3時ごろ、カラカスに着陸した。私は窓から、この忘れ難い町の灯火の海を見ていた。大統領は、カリブ式の抱擁とともに、私に別れを告げた。正装した護衛兵に囲まれて遠ざかる彼を見ながら、私は2人のまったく違った男との旅と会話を楽しんだような、奇妙な感覚に襲われた。1人は、国を救う機会に何度もめぐり合わせる強運な男。そしてもう1人は、新たな独裁者として歴史に残るかもしれない詐術師である。

(1) ラテンアメリカ独立の英雄。1819年、現在のベネズエラ、コロンビア(およびパナマ)、エクアドルにコロンビア共和国(のちの大コロンビア共和国)を築いた。
(2) ホセ・マルティはキューバの詩人で、19世紀末に独立運動を指導。

(2000年8月号)

All rights reserved, 2000, Le Monde diplomatique + Watanabe Yukiko + Hagitani Ryo + Saito Kagumi

line
表紙ページ 本紙の位置づけ 有志スタッフ
記事を読む 記事目録・月別 記事目録・分野別
メール版・お申込 読者の横顔
紙面掲載サイト リンク(国際) リンク(フランス)


サイトの意義とマスメディア イメージ

パワーピクチャーズ製作 (アイルランド) 2003年
2003年 「パンフテレビ祭グランプリ」・「モンテカルロテレビ祭最優秀賞」・「イタリア賞」受賞番組
http://www.diplo.jp/articles00/0008-2.html
<石油の富を、公平に市民に分配することを誓ったチャベス>
2002年4月のベネズエラで起きたクーデターの7ヶ月前から、パワーピクチャーズ取材班はベネズエラのウゴ・チャベスを取材していた。
1998年 チャベスは貧困層からの圧倒的な支持を受けて大統領に就任。
世界有数の産油国ベネズエラで、石油の恩恵を受けていたのは、国民の極一部だった。
チャベスは公平な富の分配を、国民に約束した。
1999年ベネズエラに新しい憲法が制定されて以来、チャベス大統領は国民の持つ権利について説いてきた。
チャベス演説「60年代、土地は分配されたが、資金や技術面での援助は一切無かった。その結果、農民はどうなったか?石油で得られた富は決して、農民には行き渡らなかった。そのようなことが繰り返されてはなりません。憲法にもキチンと書いてある。しかし、実現には皆が力を合わせなければなりません。」
<チャベスの国営放送 vs 反チャベスの民放>
チャベス大統領は集会で国民と直接対話し、国民が直に大統領に質問や意見をぶつけることができる番組「こんにちは大統領」を国営テレビに作り、毎週出演。国民の声に耳を傾け、国政を考えた。
また、国民がチャベスに手渡した手紙やメモには、大統領や側近が必ずすべてに目を通していた。
そして、メディアを活用して、国民が国政に興味を持つようにし、国民に計画を伝え、国民の共感を得ること、そして成果を見せることを目指した。
反チャベス派財界人の所有するテレビ局が5つあり、このニュースメディアを使って、連日、反チャベス・キャンペーンを実施し、チャベスを失脚させるために、国民を偽りの情報で洗脳しようと企んだ。
それに対する、チャベスの発言の場は国営チャンネル8ひとつだけだった。
<アメリカのアフガニスタン戦争もテロだと語った>
チャベスが国営企業の石油公社の改革に取り掛かるとアメリカは、チャベス批判を繰り返した。
石油利権の分配は、石油公社に繋がる一部支配層の利権構造の解体を意味した。
そして、アフガニスタン戦争
2001/10 チャベスは国営テレビで「テロリストに対する戦いは支持しますが、どのような手段も歓迎するというわけではありません。アメリカの同時多発テロからほぼ2ヶ月が過ぎました。我々も自体の改善を目指し、テロリストの摘発に尽力します。」
しかし、これは...と言って、アメリカ軍のアフガニスタン攻撃で犠牲になった3人の子供たちの遺体とそれを泣いて悲しんでいる母親らの写真を示し、
「容認できません。この子達は前日までは元気でした。そこに突然、爆弾が降ってきたのです。アメリカがアフガニスタンで犯した過ちです。このような『誤爆』がいつまで続くのでしょうか」内戦で疲弊しているアフガニスタン人の写真を見せ「人々に要求したい。行動する前に考えて欲しいとテロリストにテロで立ち向かうことはできない」と演説した。
彼の声は心なしかつまり気味で、表情は苦痛に耐えるようだった。
民放は、これに対し、アメリカは懸念を示していると、パウエル国務長官の発言を流した。
パウエルは「チャベス大統領の行動と民主主義に対する考え方に疑問を抱いています。」
また、このような偽りの報道も、「チャベスはコロンビアのテロリストと繋がっています。」
<まず憲法を読みなさい>
チャベス政権になって国民は積極的に政治に参加するようになった。
チャベスの支持者たちは「モリバルサークル」という団体を結成し、チャベスの主張を広めていった。
人々はチャベスが、国民に政治参加の意味を教え、政治に参加することで希望、「民主主義」を示してくれたという。
チャベスは国民に「まず憲法を読みなさい」と言い、国民は憲法を読み、学び、理解した。
市民のひとりは「生まれて初めて民主的な政権が誕生しました。私たちが参加できる国民のための政府です」と語った。
<裕福な人々>
裕福な人々は、自らの贅沢な生活が脅かされる危機感を感じ、チャベスを批判した。
ある反チャベス市民集会に出席した市民たちのことば
「彼等は犠牲を払ったり、努力したりすることをしません。そうすることの価値も知らない。私たちを追い出すことはさせません。私たちは今の暮らしを手にするために努力しました。どれを手放す気などありません」
「以前は何の不安もなく、幸せな生活をしてきました。」
「これは革命ではなく、共産主義の押し付けに過ぎません。チャベスは必ず失敗します」
そして集会を取り仕切った人物は
「使用人の行動に目を光らせた方がいい。彼等はチャベス派と繋がっている恐れがある。連絡を取り合っているかもしれない。銃を携帯するときの基本ルールは、『引き金に指をかけない』『銃口を人に向けない』。でも、連中が我々を狙うなら、のんきに構えてはいられない。相手は手投げ弾さえ持っている」
と、集会に参加した人々に、チャベス派市民に対する恐怖をあおった
そして、反チャベス派は見事に洗脳され、大きな集会に参加した人は、
「チャベスのウソにはウンザリ!独裁者は出て行け!チャベス!私たちの声を聞いて目を覚ませ!」
<CIAが仕組んだ「メディアを利用した国民洗脳」によるクーデター>
チャベスは多くの市民を集めて演説し、石油公社の利権構造の解体を演説した。
「彼等は石油公社さえ私物化しようとしている。私には国際社会から強い圧力をかけられてきたが、それでも構わない。たとえ子語句の門をくぐらなくてはならなくても私はやり遂げるベネズエラ国民を守るために!」
2002/2 チャベスは石油公社の役員人事に介入した。
反チャベス派の民間放送各社は、「チャベスの石油公社への介入を国民財産を侵害するものだと大々的に報道し、国民にデモに参加するように呼びかけた」
反チャベス派の中心人物は、ひとりはベネズエラ経営者連盟会長のペドロ・カルモラ、もうひとりは旧政権と関係の深いベネズエラ労働者連盟会長のカルロス・オルテガ。
2人はブッシュ政権とも接触し、チャベス大統領について話し合っていたことも明らかになっている。
アメリカCIA長官ジョージ・テネット
「ベネズエラは世界有数の石油輸出国です。チャベス大統領はアメリカへの影響を考えていないのでしょう」
アメリカ国内では、チャベス批判を連日のように報道され、チャベスは独裁者で、テロリストのように情報を作られていった。
CIAはベネズエラへ派遣され、クーデターが起きた。
2002/4/10 ネストール・ゴンザレス将軍が民放に現れ、チャベス退陣を求める演説を流した。
「軍の最高司令部から大統領に勧告する。すべての責任をとって今すぐ退陣せよ!さもなければ、しかるべき処置を取る!」
つまりクーデターという意味ですか!?という問いかけには答えずゴンザレスは退席。
そして民放のコメンテーターは
「将軍の発言で明らかになりました。チャベス派コロンビア革命家や、カストロの手先なのです」
そして、カルモラは反チャベスの国民にデモを呼びかけた。
民放は、「明日、ベネズエラのために更新を!」とキャンペーンを広げた。
2002/4/11 反チャベス派は国営石油公社に向けデモ行進を始めた。
一方、大統領官邸には、何千人ものチャベス派が集まり会合を開いていた。
反チャベス派の指導者たちは「チャベス出て行け!国民はお前たちを支持していない」と群集を扇動し、法に触れることを承知で、コースを変更し、「大統領官邸に向かおう!やつを追い追い出すんだ!」と、デモ隊に大統領官邸に向かうように指示した。
そして、大統領官邸の前に反チャベス派がやってきた
衝突を防ぐために、官邸を警備していた兵士たちが、チャベス派と反チャベス派が割って入った。
そのとき突然、銃声が聞こえ、反チャベス派の何人かが、頭を狙われ撃たれた。
何者かが群集を見下ろす場所に身を隠し、発砲しているようだった。
ベネズエラでは一般市民も銃を携帯できる。
チャベス派、反チャベス派の両市民は、銃声の聞こえる方向に反撃し始めた。
民放は「あるテレビ局が大統領官邸の向い側にテレビカメラを設置して、陸橋から撃つ人々(チャベス派)の姿を捉えていました!」とチャベス派が、反チャベス派を狙撃しているかのように映像を操作し報道。
さらに民放「この映像をご覧ください。チャベス派の男が、銃を撃っています。下の道路にいる群集に向かって!平和的に行進している人々を撃っているのです!」
しかし、元民放放送局員アンデレス・イッサーラ氏は今、真実を明かす。
「まるで(陸橋の)下にいる反チャベス派を撃っているように見えます。実際は彼等も狙撃されて陸橋の上で伏せていたんです。ところがその映像は一切放送されず、チャベス派が一方的に非難されました。この映像は繰り返し放送され、非武装の人々をチャベス派が虐殺したように伝えられたのです」
そして、民間放送局が放送しなかった画像を確認すると、チャベス派の市民が撃っていた陸橋の下の道路は、誰ひとりもいなかった。
反チャベス派も、チャベス派も陸橋の上にいたのだ。
反チャベス派はメディアを使って情報操作し、すべての責任をチャベス派に負わそうとした。
その編集されたフィルムは何度も民間放送によって流された。
民放を使ってカルモラは「大統領は責任を取るべきです。これ以上の戦いを避け、自ら退くように要求する」とチャベスの辞任を迫った。
国営石油公社ラメダ前総裁も民放から、「あらゆる階級の軍関係者に伝えたい。今、この放送を見ながら、どうすべきか悩んでいることでしょう。私の話を聞いて、どうか正しい判断をしてください」
海軍中将エキトール・ラミレスも民放から「ベネズエラの全国民に伝える。我々はウゴ・チャベスの支持を取りやめることを決定した」
大統領官邸ではチャベスが閣僚たちと、閣議室に入り緊急会議を行った。
そして。国営放送が軍にに乗っ取られた。
大統領官邸から国営放送中継車を使って全国に生放送した。
国営放送「銃撃を行ったのは情報操作によって混乱した軍の関係者で....」、ここで国営放送が途絶えた。
民放だけが国民の唯一の情報源になった。
官邸は反チャベス派によって完全に包囲された。
民間報道は、タレ流しに情報操作された洗脳番組を報道。
軍の上層部が大統領官邸に入って辞任を迫った。
執務室から大臣が現れ「軍はチャベスが辞任を拒否したため、官邸を爆破すると脅している」と状況を報告した。
女性閣僚のひとりは「CIAが陰で糸を引いている。クーデターの証拠もある」と怒りを顕わにした
製作顧問のギジェルモ・ガルシア・ポンセは、「奴等(アメリカ)の力はあまりに強大だ。私たちはメディアに対抗する時間が無かった」
この時点で、ほとんどの民間人は官邸から避難していた。
チャベスは市民に犠牲が出るのをおそれ、辞任はしないが、爆破予告時刻の5分前に官邸を後にし。軍に拘束された。
2
002/4/12 ジャーナリストと民放メディアを利用した反チャベス派のクーデターは成功し、反チャベスによる暫定政権発足。
ペドロ・カルモナは「軍はチャベス前大統領の拘束を決定しました。直ちに暫定政権を発足させます」と民放から国民に語った。
そして、カルモラは官邸で大統領就任の宣誓を行った。
アメリカのフライシャー報道官は「チャベス大統領の政策に批判的だった国は多い。アメリカもそのひとつです」と語った。
アメリカのメディアは「アメリカは新政権に対し、石油の安定供給を期待しています」などと報道。
<僅か2日間だけのアメリカ傀儡政権によるベネズエラ>
カルモナ政権は、国民議会・最高裁の解散を命じ、法務大臣・中央銀行総裁を解任、オンブズマン・選挙監視委員会も解散。
ベネズエラ国民の選挙にもよらず、石油に目の眩んだ大国アメリカによって選ばれたカルモラ政権が、自由と民主主義を騙り、国民を監視・抑圧する警察国家の様相を呈しだした。
国民は怒った。
「これは独裁政権だ!民主主義を返せ!」
「私はチャベスに投票した!彼の信念を貫いて欲しい!民主主義は法を重んじるべきだ!」
政府はこうしたチャベスを擁護する動きを武力を持って排除しようとした。
カルモナは「一部の非常に民主主義によって行われた。国際社会にも暫定政権の正当性を呼びかける」と自らの正当性を主張。
反対する市民に、軍や警察は銃口を向けた。
市民はさらに怒り
「チャベス政権の3年間にこのような弾圧は一度も無かった!」
「俺はチャベスを支持する。チャベス!戻ってきてくれ!!」
アメリカのフライシャー報道官は「この混乱の責任はすべてチャベス政権にあると考える。非墓相のデモ隊が銃撃され、多数の死傷者が出てしまった。それが引き金となって国民による暫定政権が発足した」と述べ、チャベスにすべての混乱の罪を擦り付けた。
民放は(アメリカが嫌う)キューバ大使館の前で中継
副大統領がキューバ大使館に逃げ込んだとして、キューバ大使館の水と電気を遮断。
元民間放送局員のアンデレス・イッサーラは、「報道に対する検閲が始まった。チャベス支援者の映像は報道を信じられたのです」「局長に言われました『これは正式な通達だ。嫌なら辞めろ』。私は局を辞めました。信念に反することだったからです」
しかし、チャベス政権の閣僚たちは(アメリカ主導で行われた)言論弾圧に沈まなかったケーブルテレビを使って「チャベスは大統領を辞任していない。軍に拘束されているだけだ」と放送。
瞬く間に、市民の間にその情報が広がった。
怒った国民は「チャベス!国民はあんたの味方だ!ベネズエラの人々よ、通りに集結しよう!目を覚ませ!隠れていてはダメだ!ここは我々の街だ!」「カルモラは泥棒だ!出て行け!」「憲法にも書いてある。大統領が解任されるときは国民が決定したときだけだ」などとカルモナ政権の違憲性などを唱えた。
4/13 今度はチャベス派の大勢が官邸に向かって大行進を始めた。
市民たちは「チャベス!アミーゴ!国民がついてるぞ!」と合唱しながら大行進。
ちょうどそのとき新内閣の就任式が行われていた官邸の中まで市民の声が聞こえ、官邸は騒然。
大統領警護隊もチャベス派と共に密かに動き出し、官邸を取り囲んだ。
合図と共に警護隊は一斉に官邸に突入。
官邸を取り返したが、カルモラら数人は官邸内にあった金庫の中身を持って逃走、閣僚たちは返ってきた
軍将校の証言で、チャベスが離島に監禁されていると情報が入る。
官邸に戻ってきたオンブズマンの監視の下、官邸で捕らえられた数人のカルモナ閣僚は「あなた方の市民としての権利は保障される」と告げられた。
このとき、アメリカのCNNに、カルモラが中継生出演し「小規模な暴動が起きたが。すでに鎮圧され、今は何の問題もない」と述べた。
状況を知らない軍がCNNなどを見て、国民に向かって攻撃を加える危険性があったため、国営放送を奪還した大統領警備隊の隊長が出演し軍に向かって「軍を再編成し、国民の信頼を取り戻さなくてはならない。ベネズエラの大統領はウゴ・チャベス氏だけだ」と軍に呼びかけた。
<チャベス政権 官邸奪還>
早速、軍関係者から続々と情報が寄せられ、チャベスが拘留されている島からも「アメリカ国籍の飛行機が着陸した」と電話が入った。
そして、カルモラ政権から身を隠していた副大統領ディオスタード・カページョが現れ、暫定大統領として国営放送のテレビ中継の中、「チャベスが不在の間」として、宣誓をし、カルモラは完全に実権を失った。
カページョは大統領として閣議を召集。
人々は熱狂し、軍はチャベスについた
軍のトップが国営テレビに出て「軍は憲法を尊重する。大統領は官邸に向かっている」と述べた。
興奮する大群衆の中に、チャベスを乗せた軍のヘリコプター降りた。
ベネズエラは市民の力によって、アメリカの作ろうとしたアメリカ傀儡独裁政権から、ベネズエラ市民の民主主義国家を取り戻した。
チャベスは再開された国営テレビで国民に向かって「まず皆に頼みたい。冷静になってくれと。」「4/14 日曜日。私は監禁され外との連絡を絶たれていた。情報は一切無く、いても立っても、いられなかった。今、君たちにできることは、家に帰って心を休めることだ。反対派に言いたい。反論は大いに結構だ。私はあなたがたを説得できるように努力する。しかし、国民の規範である憲法に背く行為は許されない。憲法はすなわち、共同体の基本だからだ。それを理解すべきだ。だが、最も大切なのは、一部の人々の、ウソに惑わされないことだ」
<クーデーターの敗者の消息>
ペドロ・カルモナ : 自宅監禁中にコロンビアに逃走。その後、アメリカのマイアミで目撃された。
反チャベス派の将軍たち : 軍を追放され、多くがアメリカへ逃亡。国内に留まったものは今も、反政府活動を続けている。
アメリカ政府(コリン・パウエル) : 「アメリカが支持するのは民主的な社会だ。チャベス大統領とは今後も意見の相違があるだろう」と述べクーデターへの関与を否定。
アメリカCIA要員は、カルモラによるクーデター終結後に逃亡したのが確認されている。
2人のウゴ・チャベス






(私論.私見)