(1975.3.14日)本多延嘉追悼考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元、栄和4)年.12.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「(1975.3.14日)本多延嘉追悼考」をものしておく。

 2011.01.24日 れんだいこ拝


【本多書記長同志追悼】
 3.14反革命とカクマル式「殺しの論理」
 革共同政治局 6.27「提言」を怒りをこめて弾劾する
 3.14反革命のりこえ総反攻完遂へ
 革共同政治局 復讐の全面戦争に突入せよ
 野島三郎 反革命どもに血の処刑を
 山村 克 偉大な首領・本多延嘉書記長

 
 復讐の全面戦争に突入せよ
 本多書記長虐殺に怒りの総蜂起を
 反革命殺人者・黒田、松崎、土門らに死の処刑を
 全反革命分子を一人残らず完全せん滅せよ
 革命的共産主義者同盟全国委員会政治局
 1、煮えたぎる怒りと復讐の決意
 わが同盟の創設者であり、創設以来終始一貫最高指導者であった本多延嘉書記長。反帝国主義・反スターリン主義世界革命の旗を一貫して堅持し発揚してきた偉大な革命家、本多延嘉書記長が憎むべき反革命カクマルの手によって三月一四日未明虐殺された。我々の心は煮えたぎる怒りと憤りでうずまき、どんな力をもってしても、我々のすさまじい復讐の決意をおさえることはできない。我々はこの事態に際し、反革命カクマルに対する復讐の全面無制限戦争に突入し、黒田、松崎、土門らをはじめ全反革命分子に死の処刑攻撃を加えることを厳粛に宣言するものである。

 世界史的激動期の到来を眼前にしつつその革命精神にみちあふれた心をはずませていた本多書記長。卑劣きわまりない反革命カクマルに対するきびしい二重対峙・対カクマル戦が、ついに七五年決戦の段階を迎えたことにたくましい戦闘精神をみなぎらせていた本多書記長。その本多同志がまさに決戦と勝利を目前にして虐殺されたのだ。彼の無念、彼の口惜しさを想うとき、心は煮えくりかえらんばかりである。

 同志諸君! 残された我々に課せられた任務は何であろうか。いうまでもない。本多書記長の強い固い遺志を受けつぎ、彼の樹立した指導路線、基本路線にもとづき、反革命カクマルに対する戦争を圧倒的に強化し、反革命分子を一掃し去り、日本革命と世界革命にむかって驀進すること以外にはありえない。「勝利にむかっての試練」とは本多書記長の好きな言葉であった。勝利にむかって前進すればするほど、より大きな試練や困難も到来するが、それを断固として乗り越える過程こそ、実は勝利への偉大な道程なのだという革命運動の弁証法を簡潔にのべた言葉である。我々はこの精神に忠実にのっとり、どんな試練にもどんな困難にも真向から立ち向かい、それをたくましくのりこえて今日まで前進してきたのだ。この精神こそ中核派魂といわれるものの核心にほかならない。
 かくて、我々の直面する革命的任務は、中核派精神、中核派魂、中核派根性を今こそたぎらせて、反革命カクマルに対する、復讐の全面戦争に突入することである。中核派の本領であるすさまじい革命的反発力をいまこそ圧倒的に発揚し、復讐の全面戦争に突入することである。卑劣な反革命カクマル分子のドス黒い手に党の代表者を虐殺されたのだ。革命党、前衛党の衿持にかけてすさまじい復讐の闘いを爆発させなければならないのである。どんな言葉にもまして徹底的な復讐戦を実際にやりぬくこと、反革命分子の頭上に死の鉄槌をうちおろし、うちおろし、うちおろすこと、これだけが、反革命の暗雲を一掃し、輝かしい革命の道を照しだす唯一の方途である。復讐、復讐、復響、これあるのみである。報復、報復、報復、これあるのみである。
 我々は、反革命殺人者黒田、松崎、土門らにたいして、あらゆる手段、あらゆる方法をもって文字通りの死の処刑を敢行する決意である。このことを革命と正義の名において、厳粛に力強く宜言するものである。二重対峙・対カクマル戦はあきらかに新しい段階に突入したのだ。我々はこの新しい段階のまえで、決してひるまないであろう。むしろ、これを戦争のいっそうの本格化、激化、全面化として敢然と受けて立つであろう。絶望的自殺行為で、自らの募穴を掘ったのはほかならぬカクマル反革命そのものであることを、たちまちのうちにあきらかにしていくであろう。
 2、全面無制限戦争に突入せよ (略)
 3、現代革命と赤色テロリズム (略)
  4、全党全軍は今こそ総蜂起せよ
 全党の同志諸君! 全軍の兵士諸君! 我々の偉大な指導者である本多書記長を虐殺するにいたった反革命カクマルに対して、今こそ復讐の全面戦争に突入せよ。一日も早く、この天人ともに許さざる虐殺行為への報復をやりぬき、黒田、松崎、土門ら全反革命分子を完全せん滅し、地上から一掃することなしにいっさいは空語である。この復瞥の全面戦争に勝利することこそ、七五年決戦に勝利するか否かの決定的分水嶺となるであろう。理論と実践の全分野にわたって卓抜した指導者であった本多書記長を失うという傷手は、けっして小さなものではない。我々はこのことをけっして見失わず、全党員が火の玉のごとく燃えに燃えてそれを乗り越えていかなければならない。本多壽記長から教えをうけ、革命家に育てあげられた我々は、彼を失った悲しみにうちひしがれるだけであっては彼を裏切ることになってしまうのだ。革命のためなりふりかまわずどこまでもトコトン闘い抜く彼の作風で、今こそ全同盟が武装しようではないか。この点をがっちりとおさえつつ、我々は敵カクマルのガタガタの内情を革命的に看破して、彼らに対する猛攻撃に突入してゆかなければならない。

 カクマルはこのかん、完全に行きづまっているのである。とりわけ路線的大混乱はとどまるところを知らないありさまである。彼らは謀略論が完全に破産し、謀略論を絶叫すればするほど組織内に総ビビリズムがまんえんしてしまうという危機のなかで、七五年に入るとともに謀略論を後景化させてきた。そしてわが中核軍はまるで弱体で誤爆と軽々爆しかできないなどといって自他をあざむこうとあがいてきたのである。だがしかし、このかんのわが軍の攻撃はすさまじく、産別戦争でも、対JAC戦でも、対中枢戦でも一方的攻撃の様相を呈してきたのである。

 かくしてカクマルのギマン的路線は完全にいきづまってしまった。小野川撃沈や込山撃沈についていっさい口をつぐむということのなかに、まずカクマルの破綻ははっきりと示された。このとき、かの三・六難波力撃沈の大勝利がかちとられたのである。そして、それにつづく九州の三・七をはじめとする大勝利が文字どおり爆発的にかちとられてきたのである。とりわけ、三・六の一撃はカクマルの路線的危機を完令に決定的なものとしたのだ。彼らはこの事実にまともなコメントを出すこともできないまま混乱をつづけ、ようやく、“第四次謀略”なる方向をうちだすにいたったのである。カクマルの謀略論なるものの御都合主義的本質、反革命的本質はいまや完全にバクロされてしまったのである。カクマルの内情がこのようなものでしかない以上、三・一四反革命をのりこえて、我々が、復讐の全面戦争をたたきつけ、三・一四を圧倒しさる大勝利をかちとったとき、敵は一挙にくずれ去ることは必定なのである。まさに復讐の全面戦争に勝利することこそ、七五年決戦勝利への最短コースなのである。全党の同志諸君! 全軍の兵士諸君! 我々の当面する戦闘任務の第一は、いうまでもなく、反革命殺人者=カクマル中枢をたたきつぶすことである。我々は黒田、松崎、土門をはじめとするすべての反革命頭目どもを一人として許さない。かならず完全にせん滅するであろう。我々は、死の処刑を絶対やりとげるであろう。

 我々の当面する第二の戦闘任務は、三月産別決戦にひきつづき圧倒的に勝利し、産別潜入の全カクマル分子を総せん滅する闘いを、三月以降もひきつづき強力に発展させていくことである。ここで我々は次の点についてはっきりさせておく必要がある。即ち、国鉄戦線で、カクマル反革命分子はあきらかに反革命ゲバルト攻撃を開始しはじめたということである。革命的国鉄労働者に対する白色攻撃が開始されつつあるということである。我々はこれにたいして必要な行動をただちに開始するであろう。反革命越境者には死の鉄槌を加えるであろう。我々の当面する第三の戦闘任務は、対JACせん滅戦をさらに一段と激化させ、カクマル反革命の軍事的背骨をコナゴナにうちくだくということである。とりわけ、本多同志虐殺を得意気に発表したJACの頭目どもは、次々と完全にせん滅していかなければならないし、その義務があるということだ。三・一四の日に記者会見などという許すべからざる行為をなした前川は再度撃沈するであろう。今度は完全にせん滅しつくすであろう。我々の当面する第四の戦闘任務は、攻撃戦の成果を守り、攻撃戦に計画性と系統性を与えるものとしての防衛戦争の強化である。我々の当面する第五の戦闘任務は、戦争のなかで、それ自身戦争の一環として、杉並選挙闘争を断固としてやりぬき、長谷川英憲同志の区議三選をかならず実現するということである。我々の当面する第六の戦闘任務は、法大をはじめとする拠点大学をカクマル、スターリニストの反革命介入からまもりぬき、がっちりと強化していくことである。

 全党の同志諸君! 全軍の兵士諸君!三・一四反革命、本多書記長虐殺の絶望的自殺的暴挙に出たカクマル反革命に対して、おのれのすべてをかけ、すべてを出しきって対決し、これをせん滅・一掃しようではないか。中核派精神、中核派魂、中核派根性をむきだしにして血の復讐戦に敢然と突入しようではないか。反革命を完全な赤色テロリズムの嵐、完全せん滅の嵐でたたきつぶせ!本多同志よ。いつまでも我々とともにあって、我々の戦いぶりをみとどけてくれ。対カクマル戦勝利のその日まで。

 前進第727号(1975年3.24日)(2020) 
 反革命どもに血の処刑を
 本多同志よ! 昼は雲の柱、夜は火の柱となって対カクマル戦勝利、
革命勝利の日までわれわれを導いてくれ!
 野島 三郎
 本多書記長が、虐殺されたことへの怒りと憤り、復讐へ決意のうちに、今私は、彼をなんの飾り気もなく、てらいもなくありのままに表現できる。彼は偉大な革命家であり、真に不世出の革命の首領であったと。二重対峙・対カクマル戦に勝利できる党として、今日の同盟を築いてくれたのは、まさに本多書記長その人であった。本多同志は、わが同盟の創立者であり、創立以来今日まで一貫して最高指導者であり、我々みんなが彼に育てられ、彼にきたえられ、彼に教えられ、彼に指導されてきた。今日の同盟と、革命運動の今日的前進のことごとくは、すべて本多書記長の指導に負うといって過言ではない。真に巨人ともいえる偉大な革命家、本多延嘉書記長!

 革命の頭脳ともいうべき本多書記長を、憎むべき反革命カクマル、その頭目、黒田、松崎、土門は、それが、本多書記長であるがゆえにこそ、虐殺を目的として虐殺した。反革命の頭目をうち倒し、うちすえ、血の処刑をもってしても、この怒り、この憤り、この憎しみは、決していえることはない。反革命分子を総せん滅し、革命の勝利を我々のこの手ににぎった時にはじめて、我々は、彼を永い眠りに涙して送り屈けることができよう。煮えくりかえる怒りと憤り、我々にはこれのみである。誰も涙しない。復讐の決意、これのみである。我々は憎しみと、復讐のるつぼそのものである。全党員赤色テロリズムの鬼となって、反革命分子どもを一人のこらず総せん滅するために総決起せよ!血の処刑をもってこたえよ! 我々の合言葉はこれである!彼が虐殺された今、非常にはっきりとわかる。革命を志す人には誰にでもわかる、生きていた時の本多書記長の将来は、まさに革命の将来でもあったことを。
 ●緻密な論理とするどい洞察力に支えられた革命的思想
 若気から、生意気に口角泡をとばす青二才にたいしてとくべつ異をたてるでもなく、童顔をなごませて、ニヤニヤしながら聞いていた奴(と当時の私は、臆面もなく思っていた)。私は五八年春、山村同志に、本多書記長をはじめて紹介された、あの法政大学の地下の喫茶室の一隅の瞬間を、いまもあざやかに思い浮べることができる。ほどなく私は、彼のはつらつとした思想が、生きた現実をあざやかに革命的に裁断し、彼によって、革命的思想が、現実に物質化され、創造されてゆく瞬間を精神的高揚をもって次々とみせつけられることとなった。革命的共産主義運動を、サロン的ロゴスの世界から現実の生きた運動へひきずり出し勝利にむかっての物質的現実としてきりひらいてきた人、本多書記長なくして今日の運動と、将来の革命的共産主義の物質的勝利は、まったくありえなかったし、ありえないであろう。

 いまでこそ、我々は、思想が運動として、革命的政治として責任をとりきり、現実化されることをなんの不思議にも思わず、当然のこととしている。私は彼と出会ってのちしばらく驚異をもって彼に接していた。誰れもがいっぱしの思想家であり、革命家であった当時、彼が、他の誰よりもすぐれたパトスとロゴスをもっていたというだけでは、当時の未熟な私は、驚異も感動もしなかったであろう。五四年以降、我々が日本共産党内外でみてきた政治的人間の卑小さ、醜悪さ、愚劣さ、「けっして党常任になぞなるものか」と決心してきた我々の経験から、当時の私は、革命の魂によってうらうちされた政治家(これこそ本当の革命家なのであるが)について、まったくありえないものとして頭から拒否していたのである。当時の私は、革命をパトスとロゴスの世界からのみみていた未熟な人間であった。そうした私にまざまざとみせてくれたもの、それは党と労働者人民にたいする責任として、現実の運動として実践し、つくりだしていく革命的政治家としての革命的な直観と、的確な価値判断のかたまりのような人間像のたくましさ、偉大さであった。それはまさに本多同志が戦後日本革命運動=日本共産主義運動の革命的伝統を、そのスターリン主義的疎外から洗い出して身をもって体現していた比類ない力であった。そうして、本多同志は、それをわが革命的共産主義運動の太い血脈として今日の我々にひきついでくれたのである。またたくまに私は、彼のそうした政治的実践力が緻密な論理と鋭い洞察力に支えられた革命的思想にあることを六〇年安保をとおして、強烈に教えられたのである。彼の厳しくはあるが、開かれた革命思想なくして、六〇年安保闘争におけるブントとの党派闘争の勝利もブントの革命的潮流との革命的な統一も、けっしてありえなかったといってよい。


 黒田のコンプレックスにみちた偏狭なケチつけがブントとの勝利をもたらしたとするカクマルの「黒田神話」は、生きた闘争にも現実にも無縁な一つの歴史の偽造にほかならない。十一・ニ七国会占拠突入闘争や一・一六羽田闘争を嘲笑し、反対し、これを革命的プロレタリアートと全学連主流派の闘争としてみることができず、「ブントがこれでつぶれる」といって手をうって喜び、本多書記長に語気鋭くたしなめられたような人物が、ブントに勝利しうるだろうか、真の革命的統一をかちとりえたであろうか(ちなみに、松崎は、この黒田の発言にびっくりし茫然自失していたではないか)、まったくもって否である。本多同志に、我々が負っている巨大な遺産の三つめは、黒田の陰謀的なサロンマルクス主義の反革命性を鋭く見抜き、これをぶち破って日本革命運動を真に創造したことである。この強烈なショックは、黒田をして、真に現実的な運動として、反革命カクマルの創出へむかわしめるほど強烈なものであった。黒田は本多書記長を虐殺したとしても、本多書記長に対するコンプレックスを終生ぬぐいえず、本多書記長の生がきりひらいたものにおびえ、終夜彼の影におびえ、死してなお本多同志の精神に圧倒されるであろう。黒田は、本多同志とわが同盟が切りひらいた革命の軌跡をひたすら手さぐりで反革命の側からかすめとることで、その反革命運動をつくりだしてきたのであるから。

 本多同志が残した巨大な遺産の四つめは、彼が党指導において果たした役割、模範とし、鏡として学ばなければならないその指導性にある。とくに党指導部を渾然一体のアマルガムに融合させ、今日の集団指導部をつくりだした、偉大なオルガナイザー本多同志なくして、今の党指導部ー幹部団を考えることができるであろうか、まったく否である。真にすぐれた人格のみがもちうるキャパシティと、仕事に対する厳しい指導、我々みんなの教師。彼自身ものすごい勉強家であり、彼の論文は、すべてその背後にグローバルな世界観、世界史的な、該博な知識を秘めているのである。真に革命的共産主義運動の創立者として、代表として、ふさわしい人であった。六七年以来の、「二つの十一月」以来の革命的激動期に、理論、実践にわたって指導し今日の中核派精神を創造してきた人こそ、本多同志であり、六九年の破防法弾圧で本多書記長が獄中にあった時も、われわれは彼の指導路線と精神によって鼓舞され、たたかい抜いたのである。
 ●復讐の火を燃やし反革命分子をコナゴナに粉砕せよ
 そうした本多書記長の指導路線のもとに六七年十・八以来、「二つの十一月」を頂点としてきりひらかれた革命的激動は、カクマルのサロン主義、経済主義、日和見主義を徹底的に洗い出した。危機にさらされた反革命カクマルは権力の破防法弾圧に有項天となり、ついに十二・四辻・正田同志虐殺をもって反革命襲撃を戦略的路線化して開始したのである。革命勝利の道は、民間反革命との内戦に勝利することなしには、けっして切り開くことはできない、そういうものとして対カクマル戦を一個の内乱・内戦としてたたかいぬいてきた。反革命カクマルとその頭目、黒田、松崎、土門は白色襲撃にささえられた虚勢、うぬぼれ、傲慢、倨傲をもってその内容のみすぼらしさ、脆弱さを包みかくしてきた。白色襲撃は反革命カクマルの生命線であるが、開始された戦略的総反攻の圧倒的前進の前に、その生命線がこなごなにうちくだかれ、難波力の完全せん滅を契機に、ついに反革命のむき出しの本性をあらわにして本多同志の虐殺を目的とするという、絶望的な自殺的暴挙にいたったのである。我々は本多書記長の遺訓を徹底的に学び、彼があらゆる反革命ども、修正主義者、スターリン主義者、なかんずく反革命カクマルから、レーニン主義を守り抜き、復権させ、さらに革命的軍事論の基礎を切り開いた事業を引きつぎ、本多書記長が先頭に立って切りひらいた、基本戦略、総路線、基本的政策にのっとり、反革命カクマルせん滅戦を勝利的にひきつぎ、革命の頭脳ともいうべき本多書記長を虐殺した反革命カクマルを、なかんずく、黒田、松崎、土門の反革命の卑劣な頭目どもを、うち倒すために、政治局のアピールにこたえ反革命カクマル総せん滅めざして総員、革命のテロリストとなって総決起し、どんなことをしても、勝利の復讐をかちとらねばならない。

 我々はかけがえのない指導者をなくした。我々はこのことをはっきりとみすえ、であるがゆえに全党員すべてが憎悪に燃えて反革命カクマルに立ちむかい、その血のなかから本多精神をつかみとっていかなければならない。三・一四反革命こそは、反革命カクマルの反革命性の純化、その本性をむき出しにした決定的メルクマールである。三月一四日未明、虐殺者どもは、本多書記長の背後から、虐殺を自己目的化しただましうちをもって襲いかかった。世界史的激動期を勝利へと導かんとして燃えていた魂、二重対峙・対カクマル戦の決戦と勝利を前にして闘魂をたぎらせていた本多書記長の憎しみと怒りの叫び、くやしさの限りをこめた無念の叫び、万斛のうらみをこめた憤りの叫び、まだあけやらぬしじまに、巨大なうずをまいて、暗い夜空にむかって、我々みんなに、労働者人民に、世界の人民にこだまして、けっして永遠にやむことのない叫びとして、いまもうずまいている。日本列島の深部から、ことごとく反革命カクマルの兇行に対する憤りがうずまいている。おぞましい反革命カクマルの兇刃によって斃れた彼は、死の瞬時のうちにも、世界と日本の革命、わが同盟と運動、労働者人民、家族への英雄的な責任と愛情を双肩になおにないつつたたかったのである。その重みがどんなにか鋭い、いやます苦痛となってよぎったことであろう。我々が対カクマル戦に勝利し、革命に勝利するその日まで、本多書記長の傷口は永遠にいえることはない。ふき出しつづける血は永遠にとどまることがない。彼はけっして立ち去らず、幽明の境にとどまっている。反革命どもは、本多書記長をみずから虐殺しながら、その汚れた手で顔をおおって、恐怖に戦りつしている。我々の憤り、憎しみ、怒り、われわれの復讐の決意、どんな力もこれをくい止めることはできぬ。赤色テロリズムの嵐を前にして、反革命分子どもは、死してなお襲いかかる本多精神のすさまじさに音をあげ、恐怖にうちふるえ、ノドはかわき、メシもとおらぬありさまである。虐殺されてなお、本多書記長は、われわれを指導し、われわれを叱咤激励し、革命家の精神をゆり動かす。本多書記長は、巨大な影となって反革命カクマルどもの頭上をおおいつくし、夜な夜な襲いかかり、反革命の脆弱分子どもの目前に鬼となって立ちふさがる。本多書記長のたたかい、その生と死によって我々は、頭から足のつま先まで、浄化され、純化され、強められて、これ以降、我々は、恐怖を知らない。かならず勝利を握りしめることのできる人間として。土門(本多書記長虐殺のいっさいを計画し釆配した)、松崎(無責任な放言「殺しちまえ」)、黒田(殺してしまった方がいいんだよ」)、下手人と他のいっさいの反革命分子ども、八ツ裂きにしても足りない卑劣な反革命殺し屋ども。地獄ではないこの現世において、しかも今日、明日にも、我々はみずから鬼となって、鉄棒をふるってその五体をこなごなにしてやる。いやその醜悪な身体に墨縄をあてて線をひき、「倫理と論理」からはみでた「未熟な部分」をのこぎりで切りはなし、のみでけずりとり、かんなにかけてやる。そうして肉は犬にくれてやる(犬も喰わない)。心と肝の臓は、ナマスにしてやる(誰も喰わない)。目玉は鳥にくれてやる(鳥も喰わない)。皮は、はいで、街燈につるしてやる。本多書記長と、反革命に虐殺されたかずかずの革命家の鮮血で染めあげられた日本革命の真紅の旗、その旗頭には反革命の卑劣な三人の頭目の首をつり下げ、結わえてやる。そうして反革命分子どもと下手人どもよ、お前らは地獄の底で、そのグチっぽさから畜生道や、等活地獄でお互いにいがみあい、喰らいあうがよい。森茂に七〇年闘争の敗北のいっさいの責任をなすりつけた黒田、朝倉。その朝倉にわが同盟への敗北のいっさいの責任をなすりつけた黒田、山代。わが同盟の戦略的総反攻による敗勢の責任をいっさい山代におしつけた黒田、土門。お前らの死んでゆくさきは、お前らのこの現実と同じ喰らいあい、いがみあいなのだ。絶望的な自殺行為で、我々の鉄槌のすさまじさに、我々の怒りと憤りの炎に油をそそいだのはお前達なのだ。お前たちは、みずからお前らの兇刃でその墓穴を掘ったのだ。
 ●本多書記長の遺訓をもとにさらに強力な武装せる党を
 もはや、我々を誤ることのないように指導してくれた本多書記長はいない。だが我々は、ひきつぐ、本多書記長が樹立した基本戦略、基本路線、指導路線、革命的政策のかずかずを。我々は、本多書記長の遺訓をもとに、さらに強力な、武装せる党、新しい党をつくりだしてゆくであろう。ボルシェヴィキ精神の横溢した真実の革命党。革命と、反革命の鮮血のなかからうまれかわり再生する強力な革命党。勝ちぬくこと、いっそう冷酷に、いっそう巧緻に、いっそう強くなること。三・一四、この日を忘れるな!銘記せよ!三・一四反革命にたいして、おのれのすべてを出しきってたたかおう。中核派精神、中核派魂、中核派根性をむき出しにして血の復讐戦に突入せよ!反革命どもに血の処刑を!本多同志よ! 昼は雲の柱、夜は火の柱となって、対カクマル戦勝利、革命勝利の日まで、我々を導いてくれたまえ! 

 「武装1975年5月号」の(2020.8.10)。 
 偉大な首領 本多延嘉書記長
 本多書記長の遺訓に学び、勝利の道を驀進せよ
 山村 克
 本多書記長!三月一四日、第一報に接したときの怒りと憤り、全身の血の逆流するただなかに堅くうちかためた復讐の決意。怒りと憤りは復讐の貫徹にむかって日々新たとなり、日々ふつふつと体内ににえくりかえるように湧きあがってくるのだ。反革命どもは恐れをなして、我らが憤怒の形相をみすえることも、認めることも、けっしてなしえず、卑怯、卑屈、かつ卑劣にますます警察権力にとりすがることで、血にけがれたおのれのからだ、恐怖にうちふるえ、片ときも安まることを知らぬおのれの魂を、必死で鎮めんとしているありさまである。

 本多書記長!君の魂、君の思想は、君が生命を賭けてつくりあげてきたわが同盟のなかに、我々れすべてのなかに脈々と生き、いっそう強く鼓動している。だれも涙しない。いま、我々には怒りと憤り、反革命殺人者の頭目、黒田、松崎、土門を血の処刑に処するとも、いな、いっさいの反革命白色分子を完全せん滅するその日までやむことのない復讐の全面戦争にただがむしゃらにつき進むたたかいの決意、これあるのみである。日本帝国主義を打倒し、プロレタリア独裁権力を樹立するその日まで、勝利をわが手に握りしめるその日まで、休むことなく、闘い続けることだけである。全党員が復讐の鬼と化して、赤色テロリズムの鉄槌をカクマル反革命どもに次々とうちおろすこと、復讐、復讐、復讐、報復、報復、報復、これあるのみである。本多書記長をはじめとして反革命の兇刃に斃れた数々のすぐれた革命家の怨みをはらすその日まで、我々の心は煮えたぎり、怒りと憤りははりさけんとするばかりであり、決して休むことを知らず、安らぐことも知らないのである。
 ●革共同全同委員会の創設者
 本多書記長!君は、斃れてなおやむことのない偉大な革命家であり不世出の革命の首領である。本多同志は、第一に、革命的共産主義者同盟・全国委員会の創設者であり、一貫せる最高指導者・最高責任者として、文字どおり全同盟の指尊にあたってきた天才的なオルガナイザーであり、革共同の歴史を一身に体現してきた第一人者であった。黒田寛一が革共同全国委員会を創設し、本多同志や私などが「末熟な弟子」としてこれに参加し、その未熟のゆえについに「不肖の弟子」として黒田に破門されるにいたった(第三次分裂)などというのは、黒田の本多同志にたいするコンプレックスを裏返しにした、例のケチで偏狭な「黒田神話」のひとつにすぎない。

 一九五九年八月三一日、革共同・全国委員会創設の前後、黒田が一体なにをしていたというのか! 例のO問題(大川とのスパイ合作事件)の責任を、当時の関西派の指導部西、岡谷、大原=星宮らに追及され、トロツキー教条主義者=関西派との対決の場として本多同志や我々が全力でかまえた会議の出席権すら奪われ、ひねもす府中の親の家に庇護を求めて蟄居している、という世にも哀れなありさまだったではないか。本多同志を先頭に八月末、トロツキー教条主義者との対決を徹底的に闘いぬき、反帝・反スターリン主義派の独自の組織的創成のために、トロツキー教条主義との訣別を勝ち取ったのは、本多同志と私を含む七名の代議員であり、この七名のなかには、黒田はもちろん、こんにちカクマル反革命に籍をおくものなどただの一名も見当たらないではないか。黒田は全国委員会創設の場に招かれて、ただクビをちぢめて片すみに坐っていたにすぎないではないか。そして本多同志や私などの、O問題にかんする責任の明確化、全国委員会創設にくわわった同志のあいだにおける卒直な自己批判こそ、革命党への全国委員会の飛躍に不可欠の純潔性と革命家としての相互信頼の第一の保証である、という黒田に対する要求に対して、なおも言を左右にしておのれの責任をあいまいにするに終始するという、度しがたい小ブル的倣慢さを示したにとどまっていたではないか。こんな卑怯で、矮小な人物が、革命運動の首領の地位を占めることなど、本多同志あるかぎり、誰にとっても論外であったのであり、じっさいにもありえなかったのである。

 一九五八年春、本多書記長とはじめて出会った瞬間は、私の脳裏にいまなお咋日のことのように焼きついている。当時、私は、反スターリン主義の立脚点を獲得すべく、必死でトロツキーをむさぼり、さらにレーニン、マルクスを読み返しつつ、そして五六年ハンガリア革命の衝撃を真摯にとらえかえすことをとおして革命運動の根底的再生のため、革命的共産主義運動の創成の決意をうちかためつつあった。だが運動の創成にあたって、ただちにひとつの困難にぶちあたらざるをえなかった。それは、黒田を中心とする弁証法研究会ないし探究派のサークル主義、非実践的サロン主義の根深さであった。五八年当時、「六全協ノイローゼ後遺症」と、本多同志や私らの世代が呼びならわしていた日共学生細胞の一部の自由主義的堕落より、それは、もっと野放図のところさえあった。ほどなく私はこの腐敗の源泉が黒田その人にあることを、いくつかの事件をつうじて、いやというほど思い知らされるにいたった。

 この黒田のサークル主義的非実践性、サロン主義的日和見主義、トロツキー教条主義者との思想的・政治的闘争の放棄、書記局活動の解体、総じて指導的責任のまったき放てきにたいして、もっとも非妥協的に対決し、反帝国主義・反スターリン主義の綱領的立場を確立し、その闘いを物質的に創成した人こそ本多書記長その人であったのであり、当時の我々は、彼の人格のなかに日本革命の将来をみとおすことができたからこそ、いっさいをかえりみず職業革命家への道をつきすすんでいったのである。複雑かつ錯綜した問題にたいして、いともたやすく明快な解決を与える卓抜した政治的能力、運動にくわわってきたすべての同志の人格、適性を一瞬のうちに鋭くみぬき、適材を適所に配置する指導者として能力、暖かいがゆえに徹底してきびしい批判を適切にくわえることをとおして、すべての指導的同志の能力をトコトンひきだし、革命家としてきたえあげることにねばりづよい努力を惜しまなかった我々みんなの教師、革命的直観と的確な価値判断のかたまりのようなたくましさ、逆境にあっても悠揚せまらず、勝利の瞬間にもそれにけっして酔うことなく、たえず窮極目標をきびしくみつめて、味方の弛緩をいましめ、「勝利にむかっての試練」におのれみずからをたたせることをとおして、全党、全軍を驚くべき強さで牽引してきた本多書記長! この本多同志あったがゆえにこそ、五九年革共同全国委員会は、スタートすることができたのであり、また六〇年安保闘争をたたかいぬくことができたのであり、六〇年ブントの革命的潮流との革命的統一をもなしとげることもできたのであり、これを基礎として、今日の革共同政治局を先頭とする指導的幹部団の比類なき革命的団結をつくりだすことをなしえたのである。
 ●反革命の元凶黒田とのたたかい
 したがって、以上述べたことからも明らかなとおり、本多書記長の歴史的功績の第二は、一九六二~六三年の革共同第三次分裂に際し、黒田の非革命性ー反革命性を鋭く喝破した偉大な決断、黒田=カクマル一派との組織的訣別をかけて革命的共産主義、その党と運動とをうち清め、真に日本革命運動を創造したことにある。少なからぬ古い同志たち、わが同盟の骨格をきびしく担いぬいている同志たちは、想い起こすであろう。一九六二年秋、三全総開催の前後における本多書記長の決断と自信に満ちあふれた落ち着き、対照的な黒田の自信欠如、動揺、誰がみても指導者らしからぬ軽率な態度とを。日本革命運動の現実の前衛たらんと、わが同盟のボリシェビキ的飛躍を賭けて本多書記長が提出した「地区党建設の組織方針」、「戦闘的労働運動の防衛と創造の路線」、「学生連動の革命的高揚のための革命的統一戦線戦術」、以上の同盟の革命的飛躍にふさわしい「宜伝・扇動の方法の大胆な改作、『前進』の質的・量的向上」にたいして、黒田が一体いかなる異見を示しえたというのか? いかなる理解を示しえたというのか? 黒田が、これらの方針=三全総決議の歴史における革命的スプリングボードの役割の一端すら理解する生きた実存的感覚のひとかけらも持ちあわせなかったことは、かずかずの証拠に照らしあわせて実証できる、というものだ。

 まず第一に、黒田は、政治局の討論と三全総の討論をとおして、三全総決議に全面賛成したのであり、三全総決議は満場一致でかちとられた、という歴史的事実である。それは結語を求められた黒田が述べた次の言葉に明らかである。「今回の三全総の討論は、充実しており、すばらしかった。とくに労働者の同志の発言が活発であり、同盟の前進を感じさせるものがあり、自分は深く感動した。この前の二全総の討論もきわめてすぐれており、同盟の歴史的進歩が全国委員総会のたびに画されている、と感じたが、今回の三全総の討論は、二全総をはるかにうわまわる前進を感じさせる。同志諸君! これで前進しよう!」。これで前進しよう!といった黒田は、しかし、しばらくの狐疑逡巡ののちに、みずからのことばにそむいて反革命的策動、目をおおう組織的分裂策動を開始したのだ。したがって第二に、黒田の無責任をきわめる指導的責任の放棄が、五八年~六一年にもまして、決定的にくりかえされ歴史の進歩にたいする反動、同盟の飛躍にたいする幼児退行的逆行、革命的前進にたいする、ボリシェビキ的跳躍にたいするメンシェビキ的尻ごみ、これらがおよそ考えられぬ卑劣で矮小な手段によって分裂として、三全総ののち約半年にわたって実現されていったのが、ほかならぬ第三次分裂の本質であった、ということだ。反動、逆行、尻ごみ、卑劣、矮小、卑怯、卑屈、狐疑逡巡、これらが小生の恣意的な修辞語ではない、という証拠を、あまたある証拠のなかからただひとつ選んで提出しよう。

 三全総代議員であった北海道のYという男(あまりにも低水準だ、というので後年カクマルからも追放されたという話をつたえきいた)が、みずから三全総決議に賛成していながら、その決議の要求する革命的飛躍におのれがついてゆけない、と反革命分子にふさわしく直観したせいか、三全総直後黒田を訪れて、説明を求めたのにたいする黒田の答え。「じつは、僕もよくわからんのだよ」。
Yは、そのあと前進社にきて正直に私にとまどいを告白した。「黒田さんもわからない、というのでは、僕は、どうしたらよいのかわからないんです」。我々の再オルグによって、気をとりなおして帰っていったYはやはりなにもわからなかったらしく、事大主義と権威主義に救いを求めて、カクマルに転落していったのである。北悔道カクマルとはかくのごとく惨めで、さめざめと悲しみをもよおすがごとき人物によって、その党派的選択の決断を下されたのだから、およそモロイもので、粉砕するに容易というものだ。もっともこれは、北海道カクマルにかぎったことではなく、黒田その人がそうだ、ということを示したかったまでのことなのだ。

 それゆえ、第三に、かかる黒田自身の三全総決議にたいする賛意と全面的賞賛、無理解と疑問、およそ無責任な疑問の表明と狐疑逡巡、動揺と首尾一貫性のまったき欠如、これらの一見矛盾した、ふつうには理解しがたき態度をつらぬいている本質こそ、反革命そのものである。革命的共産主義運動を、あくまでサロン的ロゴスのワク内に止めんとする黒田、おのれの理論を、「私有財産」視し、おのれの本の一冊一冊を定価をつけて売りだし、その購買と読書が革命運動だとする黒田、彼に私淑し「授業料」を払った人でなければ、その理論を唱えることを絶対に認めなかった黒田は、プロレタリアートの本質的革命性、その英雄主義、革命的情勢下におけるいく百万プロレタリア大衆の革命的爆発力と行動力など、およそ想像もできない矮小な人間でしかなかった。この矮小な地点から、本多書記長の日本革命を現実のものとしてみずからの手ににぎりしめんとするための闘いの指針、革共同をいかに飛躍させるか、という提起に対して、黒田は、ただただ「私有財産権」の擁護のために、惨めな抵抗を開始したにすぎないのである。「大衆運動主義」「労働運動主義」とは、この黒田の卑劣な心情を隠蔽するためのトリック的術語いがいのなにものでもないのである。後年黒田が、おのれの「正統性」を示すため、歴史の偽造を満開させた『日本の反スターリン主義運動』を著したとき、なんとかしてみずからが一貫して三全総決議に反対してきたことを実証しようと苦心惨胆しているが、その「苦心の作」自身のなかに、彼の卑屈と無責任ぶりが、遣憾なくあらわれている。


 「三全総の席上、会場を圧する三回の怒号とヤジ」が黒田によって報告者にたいして放たれた、と自慢げに書いているが、まがりなりにも「議長」であった黒田が、反主流派の戦術である怒号とヤジに訴える、とは彼の無責任と反革命性をあらわす以外のなんであるというのか。黒田の歴史の偽造とは、かくのごとく一皮めくればたちどころに馬脚をあらわすていの、およそ底の浅いシロモノでしかないのである。この黒田の非革命性を反革命性と喝破し、反帝国主義・反スターリン主義の綱領的体系性を、きびしくはあるが同時に開かれたものとして、理論と実践の全面にわたって発展させ、それを革共同の組織的たたかいとして、物質的に定着せしめた人こそ、本多書記長その人であった。黒田は、本多書記長を先頭にわが同盟が血みどろできりひらいてきた革命の軌跡を、おのれの貧弱な感性でただ手さぐりで、反革命の立場からかすめとり、おのれのエセレッテルをはりつけて、反革命運動をつくりだしてきたのにすぎないのである。
●共産主義の全体性を体現
 本多書記長の歴史的功績の第三は、みずから身をもって、共産主義的全体性(トータリティ)を同志にたいして示し、身をもって同志を導き、教育してきた理論と実践の両面にわたる卓抜した偉大な革命家であった、ということである。

 東京の下町で生まれ、育ち、小学校の高学年に第二次大戦中の戦時疎開により、埼玉県の農村に移住した本多同志は、もって生まれたすぐれた才能と豊かな個性に、その生活環境によっておのずと磨きをかけて青少年期をすごし、民衆の魂、民衆の英知と共産主義的前衛性とを、渾然一体としておのれのなかに融合することによって独自の創造的体系性をきずきあげ、それを共産主義的全体性として開示するにいたったのである。深い歴史的・哲学的洞察力と緻密な論理、人を圧倒するたくましい革命的構想力、これらに支えられた革命的思想、この底を流れ、つらぬいていたものこそ日本の民衆の生活と精神を解放にむかって強烈に集約し、前衛的に体現してきた本多同志のなにものをもうちやぶる創造的個性であり、これを科学的に表現したものこそ、わが同盟の基本戦略、戦略的総路線、基本政策にほかならないのである。ものすごい努力家であり勉強家であった本多同志は、なにごとにむかうに際しても、周到な準備、グローバルな世界観を、該博な世昇史的な知識をもってしたのである。歴史家としての勉強をもってスタートした本多同志は、とくに東洋史と日本史とに深い造詣を示し、唯物史観についての独自の体系的見解を提出せんとする野望を秘めていたのであった。

 それゆえ、一九六四年五全総の指導、一九六六年三回大会の指導、六七年十・八羽田闘争以降のたたかいの指導をつうじて、こんにちすべての同志、すべての先進的労働者人民に明らかなように、レーニンの思想、帝国主義論、民族問題・農業問題の理論、革命的軍事論ないし暴力論、独裁論、非合法体制下の党建設論を、比類なき創造性をもって、七〇年代の激動期に復権し、全同盟の思想的統一性を、実践と実戦の鉄火のただなかでうちきたえることに成功し、いかなる反革命の攻撃をもはね返す一枚岩の前衛党の建設をなしとげてきたのである。
 ●勝利の日まで本多同志先頭に
 本多書記長の歴史的功績の第四、そしておそらく最大のものは、以上の集大成として、彼が、マルクス以降の革命運動の歩み、とくにレーニンの思想と実践、なかんずくその党建設のたたかいの教訓を完全に自家薬籠中のものとすることによって、プロレタリア世界革命運動史上、まったく新しい段階の到達点に、わが同盟をきたえあげ、おしあげてきたということにほかならない。

 レーニン死後のスターリン対トロツキーの党派闘争、トロツキーの敗北は、レーニンの最良の後継者、世界革命の立場を一貫してつらぬこうとしたトロツキーすら、レーニンの思想と実践の革命的核心をみずからのことばで語ることができず、とくに党組織建設のたたかいにおいて決定的弱点をもっていたことを示している。一九五八年以降の本多書記長とわが同盟の闘いは、まさにこのトロツキーを、その敗北した地点からのりこえることを出発点とし、革命的にみずからの地歩をふみかためてきたのであり、レーニン主義の全面的復権、世界史的激動の七〇年代にふさわしいその創造的発展が、本多書記長を先頭に、とくに六七年十・八羽田闘争、二つの十一月、二重対峙.対カクマル戦争の実践と実戦のなかでかちとられてきたのである。わが同盟の基本戦略、戦略的総路線、基本政策こそ、本多書記長を先頭にわれわれが血と汗でかちとってきた貴重な日本革命運動の財産であり、すべての労働者人民を勝利に導く光り輝く旗印である。わが同盟は、政治局と指導的幹部を先頭に、すべてが強固な思想的=政治的武装、人間的一致をかちとっており、プロレタリア世界革命運動の新しい歴史的地平をきりひらく確信に燃えたって、まなじりを決して日々闘っているのである。

 本多書記長!君の魂、君の思想は、君が生命を賭けてつくりあげてきたわが同盟のなかに、我々すべてのなかに脈々と生き、いっそう強く鼓動している。反革命分子どもは、死してなお襲いかかる本多精神のすさまじさにネをあげ、恐怖にうちふるえ、ますます卑怯、卑屈、かつ卑劣に警察権力にとりすがることによってのみ、延命をはからんとしている。黒田、松崎、土門、下手人と他のいっさいの反革命白色分子ども! 絶望的な自殺行為で、われわれの怒りと憤りの炎に油をそそいだのは、お前たちなのだ。みずからの墓穴を掘ったのは、お前たち自身なのだ。我々は鬼となって、お前たちの醜悪な身体をコナゴナにし、本多同志の怨みをはらしてやる。すべての反革命どもの息の根をかならずとめてやる。反革命どもの処刑の鮮血によって、我々は清められ、日本のプロレタリアートは清められ、まさにそれをとおしてその英雄的勇姿が、恐るべき強じんさと巨大さをもって現われるであろう。われわれは、勝利をこの手ににぎりしめる日まで、本多同志を先頭にたたかうであろう。生きぬくであろう。

 一九七五・三・一四。この日を忘れるな!この日を勝利にむかっての新たな出発の日とせよ!すべての同志は、本多精神、中核派魂、中核派精神、中核派根性をむきだしにして、復讐のたたかいに突入せよ!本多書記長!対カクマル戦勝利、日本革命勝利の日までわれわれを導いてくれ!

【本多延嘉(武井 健人)<学習講座> 略年譜<学習講座>※文中敬称略
 (1934(昭和9)年2.6日-1975(昭和50)年3.14日
 革命的共産主義者同盟全国委員会中核派)の最高指導者。
 <学習講座>1934(昭和9)年2.6日、東京都神田区神田和泉町に生まれる。父は全逓労働者で、旧浅草区鳥越で育つ。
<学習講座> 柳北小学校に入学。大東亜戦争中は、一家で埼玉県北足立郡足立町(現志木市)に疎開。同地で宗岡小学校を卒業。
<学習講座> 1946(昭和21)年4月、 旧制埼玉県立川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)入学。
<学習講座> 中学生で日本共産党の青年組織・青年共産同盟(のちの日本民主青年同盟)に加盟。
<学習講座> 川越高等学校在学中、共産党に入党する。
<学習講座> 1953(昭和28)年4月、早稲田大学第二法学部に入学する。
<学習講座> 1954(昭和29)年4月、早稲田大学第一文学部国史学科に転入学(1958年中退)。
 その後、「早稲田大学新聞」の編集長として精力的に活動し、早大新聞、共産党早大細胞(当時400名)の指導的地位を占める。
<学習講座> 1956(昭和31)年10月、「ハンガリー動乱」に衝撃を受け、既成の日本共産党の組織および理論・路線を「スターリニズム」として決別の活動に向う。
<学習講座> 1957(昭和32)年末、黒田寛一(以下、「クロカン」と記す)の「弁証法研究会」に参加する。さらに日本トロツキスト連盟(トロ連)結成に参加する。
<学習講座> 1958(昭和33)年、日本トロツキスト連盟(トロ連)が発展して結成された革命的共産主義者同盟の内部でクロカンらと「革命的マルクス主義グループ(RMG)」を形成し「トロツキズムを乗り越えた」と称する反スターリン主義派として、国際革命組織第四インターナショナルへの革共同の加盟を主張する西京司(大屋史郎、沢村義雄)らの組織内「トロツキスト派」と対立する。
 同年3月、木下尊晤(野島三郎)が<学習講座>クロカン主宰の「探究」グループに参加。白井から紹介されて本多延嘉(探究グループの中心、 日共早大細胞、後に革共同全国委員会書記長)と出会う。
<学習講座> 同年7月、革共同第一次分裂。太田竜らと決別する。
 同年、早稲田大学第一文学部史学科を中退する。
 1959(昭和34)年、クロカン-大川による共産党の情報を警視庁に売るスパイ事件が発覚する(「クロカン・大川スパイ事件」)。未遂とされているが白井朗証言によると既遂である。
 同年8月、クロカンが革共同第1回大会で除名される。本多は一貫してクロカンを弁護し、クロカンの後を追って他のRMGのメンバーとともに革共同を脱党する。
 8.31日、本多延嘉はクロカンと共に革命的共産主義者同盟全国委員会を結成し、クロカンが議長、本多延嘉は書記長に就任する。
<学習講座> 同年12月、共産主義者同盟(ブント)の結成に際し、島成郎(共産同書記長)が本多を機関紙「戦旗」の編集長に迎えることを提案、革共同の合流を誘う。本多が提案辞退を政治局内に提起、木下が率先して支持。共産同への合流(実質的な併呑)を拒否。この頃から組織名として「山川三郎」を使用。
 1962(昭和37)年、革共同第3回全国委員会総会で、本多が起草した議案の「党建設方針」や「労働運動方針」をめぐって、クロカンとの理論的対立が表面化する。
 1963(昭和38)年2月、黒田派が組織から離党し、クロカンは日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派革マル派)を結成する。革共同の学生組織であるマルクス主義学生同盟は逆に本多派が分裂しマルクス主義学生同盟中核派を名乗る。その後、本多派の全国委員会本体は「中核派」と称されるようになる。北小路敏らとともに理論的支柱となる。
 1969(昭和44)年4.27日、本多延嘉は沖縄デー事件に絡んで破防法個人適用を受けて逮捕され(予備・陰謀容疑)、1971(昭和46)年3月に保釈される。
 1975(昭和50)年3.14日未明、埼玉県川口市の自宅マンションで就寝中、革マル派の襲撃を受け殺害される(享年41歳)(「中核派書記長内ゲバ殺人事件」)。
 「安保闘争―その政治総括」などの著書がある。

【本多書記長虐殺時の党内雰囲気考】
 「本多書記長と3・14について」転載。
 75年3・14

 (***しかし、やはり党の指導者であったH書記長の死は大きかったと思う。□◯派のテロで暗殺されたのであるが、そのニュースを聞いたのは党本部の書記局の部屋であった。それはもうかつて味わったことのないようなショックを受けた。党本部は3階建てのビルであったけれど、建物全体が静まり返って重苦しい雰囲気に包まれたようだった。歯をくいしばって眼に涙をうかべる者もいた。

本多さんの人物像

 H氏はみんなから親しまれ尊敬されていたのだ。H氏はその当時の他派やガクセイ運動の指導者と比べてもけたちがいの人物であったと思う。彼の人物感を表する多くのエピソードがある。例えば、サンリズカ闘争の初期の頃、彼は農民の指導者の家を訪ねた時、神棚に手を合わせたという。彼にとっては唯物論者としての立場などよりも、農村の慣習をふまえ人間と人間の信頼関係を得ることこそが大事であったのであろうか。こんなことをさらっとできる人はその当時ほとんどいなかったと思う。また、彼は、機関紙やビラなどでは難解な言葉使いをことさら批判し平易な文章を心掛けろと口をすっぱくして言っていた。ほかのサヨクと言えば難解な言葉を書き連ねてそれが知的であるかのような時代にである。

 70年闘争で組織破防法が発動されいよいよ危ないかという時でも党の主要な政治局メンバーがさっさと地下に移動したのにほんとは一番危ない彼が最後まで残った。また党が彼に最強の防衛隊をつけようとした時拒否されたとも聞いた。遠く離れて防衛上も安全なところから指導すべきだという意見にもがんとして拒否されたとも聞いた。そのあたりも敵の情報網にひっかかる原因があったのかもしれない。なにか当時”義理と人情の**派”と一部で言われていたけれど、これはH氏の人柄に大いに関係していたにちがいない。つくづく惜しい人をなくしたと思った。もちろん残ったS氏などもりっぱな指導者ではあるけれど、やはりH氏あってのことではないだろうか。やはりH氏ならばついていこうという面はあったと思う。いわば例えは悪いがH氏は「仁侠」にも通ずるものがあった。

   【注】S氏、清水丈夫政治局員。後の「議長」

 「神棚に手を合わせた云々」は60年代当時としてはさほど意外では無い気もするが、実態はどうだったろう? 筆者との世代・年代の差、70年以降の時代の空気の差、みたいなものも感じるが?
 「決戦主義」と本多さんの持論

 **派は当時「決戦主義」などと揶揄されたものだが、しかしそんな他派の低レベルの批判などおかど違いであり、それこそはH氏の思想そのものであった。「革命党は負けがわかっていても(たとえ局面における戦術的勝利がほど遠い場合であっても)戦わなければならない時がある」というのがH氏の持論である。奴隷根性に堕ち、敗北主義にそまるよりも階級と人民に希望を与えるために党と活動家は犠牲になって戦え、ということであった。だからこそすべての党員がどんな時であろうと「H氏なら必ずやる」という確信をもっていた。敗北主義におちいることなど一度もなかった。どんな苦しい時でも楽観主義であった。「やる時はやるんだ」という気概をすべての党員が持っていたのだ。彼についていけばまちがいないという心情すらおれにもあった。

 「等価報復」「完全せん滅」

 だからこそ彼が亡くなった時の悲しみは例えようもなかった。党内も激高していた。党内でも最左派でならしていたB戦闘同志会などは「□◯派本部とD労会館に突入しよう!」とか叫んでいた。H氏がテロに遇ってから1週間後、6人の□◯派戦闘員がアジトで完全××されている。党のすべての人間がそれを長いこと(たった1週間であったのに)待ち望んでいた。みんながようやく半分くらい溜飲をさげたような気がしたと思う。それは史上に残るもっとも激烈な戦闘であったようだ。新聞各紙のトップをかざり、社会面は半分以上をさいて報道していたと思う。その後の「自民党本部火炎放射焼き討ち事件」に匹敵する扱いであった。周囲の電話何万回線も切断し、敵のアジトの鉄のドアをガソリンカッターで切断し、中のバリケードを打ち壊して突入し、一方の隊は隣の部屋からスレートを巨大なハンマーでたたき壊して突入したらしい。××された6人はH氏が受けたのと同じ打撃を全員が強制されたという。部隊は全員真っ赤な返り血をあびたらしい。 
 この当時から「等価報復」という言葉が使用されている。(H氏の暗殺者の凶器はまさかりであったらしい。それに対して1mもあるバールで報復したらしい。その後の政治集会で60年アンポゼンガクレンイインチョウで有名なK氏は「ファシストの脳天にバールを!」とアジっていた。)その事件の報道を聞いてすべての党員が手に手をとりあって「やった、ついにやった!」と叫んでいた。それからその後の1年近くはまさしく嵐のようなテロ合戦であった。銃火器だけは使わなかったけれど、何百人もの死傷者を出した戦争以外のなにものでもなかった。
 あえて言いたい。革マルは「左翼」ではない。「内ゲバ」ではない

 戦争以外のなにものでもない多くの戦闘行動に俺も数多く臨戦している。歴史的事実を風化させないために俺はあえていまだ生々しい記憶を掘り起こしている。ひとつことわっておくが□◯派はもはや決してサ翼ではない。敵対党派や文化人らににわとりの生首や猫の死体を宅急便で送ったりするのはサ翼ではない。敵対的な労組の幹部らを尾行し電話を盗聴しプライベートな醜聞をさがしまくりそれをネタに恫喝するのはサ翼ではない。他派をつぶすためにのみ軍事組織をつくり、他派の戦闘はすべて「権力の謀略」であるなどとうそでぬりかためるのもまたけっしてサ翼のやることではない。他派をウジ虫とか青虫とか公然と機関紙で言ってるのもまた□◯派の本質を表している。したがってこの戦争をひとくるめに「内ゲバ」と称するのは決して正しくない。サ翼の仮面を被った、史上もっとも暴力的な新興宗教団体と言った方がいいかもしれない。事実、党首の「くろカン」としょうする人物は彼等の集会では録音テープで登場する!彼等は総立ちになって拍手するらしい。


【岸 宏一「本多延嘉書記長の「遺言」によせて」 】
  2015.9.9日、「革共同政治局の敗北 1975~2014」の「あとがき(2本)」。
 岸 宏一「本多延嘉書記長の「遺言」によせて」
 二〇〇六年七月に組織から離れて、まず考えたことは、それまでの革共同の歴史とは何だったのか、そして〇六年三・一四テロルがなぜ引き起こされたのか、であった。その総括に九年もかかってしまった。白順社の江村信晴さんに出版を打診してからも三年が経った。その理由は離党後も、ものの考え方、見方が革共同のままであり、その組織を客観的に対象化することの困難さであった。まずは自立した自己を再形成することが必要だった。

 そのなかで最大の問題点は、私が関わった八一年以降の三里塚闘争の歴史的な総括がもっとも困難だったことである。八一年一月から〇六年五月までの二五年半、私は三里塚現地での革共同の責任者だった。本多延嘉書記長死後、つまり七五年三・一四以後の革共同を形づくった最大の闘争的要素は、対カクマル戦争と三里塚闘争である。とりわけ八一年の先制的内戦戦略第二段階への転換以降、革共同は三里塚闘争にいわば特化した組織となっていた。つまり、三里塚闘争の勝利のために、と称して、革共同をそれまでとは違うものとして形成してきた。三里塚闘争の路線、方針が党を大きな形で変容させてきたのである。その党とそこにおける自分を対象化するためには位相を変えたところから見直さなければならなかった。これは弁解ではあるが、検証と総括がこれほどまで長期にわたったことの最大の理由である。

 〇六年に組織を離れ、本多さんの言葉が胸に浮かんでしばらく離れなかった。それは七二年のある日曜日、新橋にあった破防法裁判の弁護団事務局での話である。当時、本多さんは非公然形態がおもな活動形態であった。しかし時折、何の前ぶれもなく新橋の事務所に訪れてくることがあった。そのとき本多さんは共産党中央委員会発行の『日本共産党の五〇年』という党史(パンフレットのような本)を持ってきて次のような批判をした。
 「五〇年間も革命運動をやっていて革命を成就させえない党は解党すべきである。革命党として五〇年史を出すことは恥である。そもそも革命はワンジェネレーションの事業である。結党から三〇年の間に革命を成就できなければ、その党はおしまいである。革命党は一世代の事業であり、世代交代は不可能である。また革命党の人格的継承も不可能である。日本共産党も宮顕(宮本顕治、当時幹部会委員長)から不破(不破哲三、当時中央委員会書記局長)への政権交代も簡単ではない。宮顕の世代とその指導体制はすべて退陣し、不破が新たに指導体制をつくる以外に党はつくれない」。

 それは、本多さんの手工業的、中小企業的な組織論ともいうべき限界があるものでもあった。また、以下のようなことは本多さんの決まり文句であった。「革命党は独裁でなければならない。独裁がもっとも民主主義的なのである。だめなら交代すればいいのだ」と。前記の「人格的継承は不可能」ということと矛盾するが、聞いていると納得してしまうのが、本多さんの論法だった。それは私にとって本多さんの「遺言」となった。

 七二年当時の本多さんは自らの人生の中でもっとも充実していた時期であった。彼の好きな言葉である「革命の現実性」を実感していたのであろう。理論的には代表的政治論文である「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」(『前進』六〇〇号記念論文として二号に分けて七二年九月に発表)、「革命闘争と革命党の事業の堅実で全面的な発展のために」(七三年八月に発表)を執筆していた。前年に一二・四辻敏明、正田三郎同志虐殺、一二・一五武藤一郎同志虐殺というカクマルの反革命テロルがあり、それにたいし党の軍事的武装を開始しており、本多さんの革命精神がもっとも高揚していたのだった。その本多さんの前記の言葉に、私は納得した。革命は困難な事業であり、現実的には可能性は薄いと実感しつつも、本多さんと一緒なら不可能を可能にしてくれそうな気持にしてくれるのだった。

 しかし、その本多さんが七五年に虐殺され、彼が不可能であるといっていた党首の「人格的継承」が現実問題化したのである。直後はそんなことは考えずに、三・一四報復戦に全力を挙げていた。しばらくして、清水に本多さんの代わりはできない、と逡巡していた。しかし本文に書いたように、三里塚担当に着任するときは、本多さんに代わって「清水の党」を選択する、と決断したのである。

 一三年一二月、『革共同五〇年史』上巻を手にした。また再び、前記の本多さんの言葉がよみがえった。「革命党にとって五〇年史などいうのは恥そのものだ」という言葉が。読後、このような歴史のねつ造、偽書は許せない、本書を早く仕上げなければ、と決意したのであった。まだまだ書ききれない部分があり、総括を深めなければならないことも多い、しかし、これ以上遅らせることはできないと決断した次第である。

 離党当初は、政治運動、組織活動で知ったことは「墓場まで持っていく」という常套句に縛られていた。だが、革命運動のこのような敗北、その組織論的総括は歴史に書き残さなければならないと思い至った。後世、同じ誤りを次の世代が繰り返さないためにも必要だと考えて書いたものである。

【水谷 保孝「七・七自己批判の実践を止めることはできない」】
 水谷 保孝「七・七自己批判の実践を止めることはできない」。
 「七・七問題は毛沢東主義との党派闘争なんだよ」。本多延嘉書記長がこういったのは、七二年前半ごろだった。たしか全国会議を分散して開催し、その一つの少人数の会議に私も出席していた。清水丈夫、福島平和もそこにいた。会議場所の秘匿、結集と解散の方法など非合法・非公然活動の訓練を兼ねていた。それを聞いた私は少しむっとして、「華青闘は毛沢東主義者だし、金日成主義者の朝鮮人青年がいるのは事実だが、彼らは華僑総会や朝鮮総連の内政不干渉路線をうち破って、日帝権力と対決し日本の運動と共闘している。身体を張ってスターリン主義と対峙しているのだから、そんないい方は誤解を招く……」という趣旨のことを発言した。すると本多さんは「それはわかっている」といって、「正確にいえば、毛沢東主義、ホーチミン主義との党派闘争ということだ。水谷は〝アジアを反帝・反スターリン主義世界革命の根拠地に〟というスローガンが好きだろう。アジアで反スタの民族解放闘争をつくり出すんだよ」と応じた。その後、どんな討議になったかは憶えていないが、そういう意味なのか、と得心した。私にとってそれが、本多さんと直接ことばを交わした最後だった。

 後日、党内文書で「民族解放・革命戦争の五つの指導原則」という提起がなされた。その内容は、本多論文「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」の第二章第二節に「民族=植民地問題、民族解放闘争への原則的態度の五つの視点」として簡潔に、しかし綿密に展開されている。それは①共産主義の実現、②プロレタリア独裁国家とプロレタリア党の指導、③戦略課題は民族解放と土地革命、④農民の圧倒的な動員、⑤民族解放・革命戦争が主要な現実形態、というものである。そうか、あのとき本多さんはこの五つの視点の理論を練り上げつつあったのだな、と合点がいった。ただ党内文書で「指導原則」となっていたのに公的な論文では「視点」と書き直されているはなぜなのか、と疑問に思った。当時政治局の入管闘争担当は福島さん(全国反戦世話人。九三年三月死去)だった。福島さんに質問すると、しばらく後で、「やはり視点とすべきなのだ」という返答だった。福島さんとおおむね次のような議論をした。

 本多論文は七・七自己批判を深化させた。帝国主義の民族排外主義、社会差別とのたたかいは労働者階級人民にとって戦略的な恒常的課題だということを、本多論文は何度も強調している。つまり革共同がいままでつかんできた共産主義の原理の内容は不十分だった。アジアや全世界での民族解放闘争、解放闘争を始めとする差別撤廃のたたかいに連帯し、それを自らのたたかいとしていく。そのことでプロレアリア革命の内容を豊かにし、共産主義の原理を豊かにしていく。……

 そのなかで福島さんは、本多さんからの伝言としてこういった。〝反スターリン主義が民族解放闘争をどうつくり出していくかは、革共同として未解明なこと、まだ実践がともなっていないことだ。だけど、いわなければならないことがある。だから「視点」なのだ。〟〝民族解放と共産主義的解放、解放と共産主義的解放はこれからの具体的実践をとおしてどんどん発展していく弁証法的関係にある。いまはその途上だ。だからこの弁証法的関係が発展していった先で、共産主義が民族抑圧や社会差別をどう解決しえるのかについて、本多論文では留保している。〟正確に再現できないのはもちろんだが、「未解明」「弁証法的関係」「途上」「留保」という本多さんのことばは明瞭に憶えている。

 そのときから時代は大きく転回した。だが、米欧日の帝国主義支配下では、たえざる侵略戦争と大不況・大失業が全社会を蔽い、反イスラム、反韓・反北朝鮮、反中国を始めとする激しく凶暴で倒錯したヘイトクライム、排外主義、差別主義が奔流のようになっている。日本での安倍政権再登場はそれに拍車をかけている。労働者階級がかつてない主体的危機に直面している。日本の階級情勢の深刻な主体的危機に知らんふりをできるのは、観念論者にして機械的公式主義者の清水丈夫ぐらいである。革共同中央政治局派の松丘静司、大原武史らでさえ鈍感ではいられない(第七回大会特別報告1、同2)。労働運動の後退、戦闘的にたたかう労働者階級の姿の不在、正規・非正規の青年労働者が殺人的労働強化にさらされている現実、自分たちの孤立化にどうすればいいのか、じつは無力感を感じているありさまが伝わってくる。

 いま本多さんが「七・七自己批判にもとづく実践は壮大な未完の事業なんだ」と語りかける声が聞こえてくるようだ。その世界史的テーマへの再挑戦が必要なときである。七・七自己批判の立場と実践は労働者階級人民のもつ階級意識を蘇らせ、自己解放の思想と底力を発揮せしめるだろう。

 革共同は筆者らの愚かな破産と敗北を含めて、もう死んだのだ。弔旗もいらない。葬送の歌もいらない。ただインターナショナルな共産主義的解放を求める一人ひとりの人間がいればいい。本書がそのための踏み石になりえているかどうか、読者のみなさんの率直なご批判を切にお願いする。この三年余、筆者らの手さぐりの議論と遅々たる原稿執筆に粘り強くつきあってくれた江村信晴さんと、お名前は出さないが聞き取りや資料提供に応じ、貴重な指摘、批判をしてくれた方々に深く感謝を捧げる。

 二〇一五年三月一一日





(私論.私見)