Reれんだいこ史観とは、れんだいこの認識変遷史メモ |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).9.19日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「れんだいこ史観とは、れんだいこの認識変遷史メモ」をものしておく。 2007.7.26日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1297 れんだいこ/2017年 2月13日 |
【「れんだいこ、れんだいこ史観」の由来と解説 本稿が未投稿だったので投稿しサイトアップしておく。課題は「『れんだいこ、れんだいこ史観』の由来と解説」である。 「れんだいこ史観」とはれんだいこの史観であり、れんだいこが勝手に命名しただけのことである。ますます判明しつつあるが、世の歴史観、歴史論と相当に隔絶している。例えば、最近、明治維新を評する視座に於いて様々な是非論が登場している。中には我慢の限界を超えるような幕藩体制称賛万歳論まで登場し持て囃されている。逆に、坂本龍馬フリーメーソン論を一直線的に吹聴し、勝海舟-坂本龍馬派が国際ユダ邪が企図していた内戦化を賢明に避け江戸城無血開城へと回天運動させた功績を汚そうとする味噌糞逆視論が持て囃されようとしている。 それぞれ一理はあると思うが、称賛万歳論、味噌糞逆視論のどちらも行き過ぎだろう。残念ながら、私論は既成のどの論とも一致しない。且つ我が輩の政論の方がはるかに正鵠を得ていると自賛している。為に区別する意味で自ら銘打っている。 それは何も明治維新論ばかりではない。「れんだいこの特選論文集300選」に推敲順に掲載している。主なものを拾うと次の論考になる。 「れんだいこの特選論文集300選一覧」は次の通りである。
これらのサイトがさらにサイトを分岐させるようになっており、それらを逐一挙げれば数百、数千、数万になるやも知れぬ。その時々に衝動的な関心を覚えたものを採り上げ傾注努力したものばかりである。 これに興味を覚える者が居て、検索で知ったのだが、「れんだいこ史観とは何か」を廻るやり取りをしている(「れんだいこ史観」)。噂になるだけでもあり難いことである。言い添えておくが、著作権を主張して、俺に黙って論ずるとはけしからん、挨拶せぇ、引用転載するなら事前通知せぇ、了解とれぇ、使用料払えなどとは口が裂けても云わない。ここら辺りからして昨今の権利病とは隔絶している。ジャスラック的音楽著作権なぞ、ない方がよほど文明的先進的と思っている。ここの観点が世の識者と全く違う。 ここで、簡略に「れんだいこ」命名の背景事情について述べておくことにする。 まず「れんだいこ」とは何か。いろんな意味があるが、その一は冗談風であるが「れんこんだいこん」を縮めたものである。れんこんは見通しの良さを示し、だいこんは滋養を表わしている。つまり、「れんだいこ」は、見通しの良さを賜り、味わえば為になるという二つの意味を挺している。しかしこの説明をすると「何だ、がっかり」モードになる様である。 その二は、「連太鼓」の意である。れんだいこの奏でる思想、政論を共に太鼓を叩くようにして世に広めようという呼びかけの意味が込められている。これにより自ずと各地の太鼓舞踏にも親近感を覚えるようになっている。阿波踊りの太鼓、天理教のおつとめの際の太鼓にも通じている。 その三は、「連帯子」である。れんだいこと連帯し、何事かを企て世の改良、改革、革命、回天に向かおう、命に限りある身であることを踏まえ歴史に良い種、実を残しておさらばしようという意味が込められている。 れんだいこは当初「れんだいじ」のハンドルネームで「さざなみ通信」に初登場した。かの時の「れんだいじ論文」の輝きは今も失われていないと自負している。が、数々の問題提起にも拘らず好評する者が少ない。と云うか、斬新過ぎてまぶしいのだろうか、そもそも議論されることが少ない。議論前の難癖反応にはお目にかかるが、与太もんに関わって得することがないので無視している。その癖、れんだいこから見てそれほどでもない論考を互いに褒め合いしてお茶を濁している例が多い。そういうものを見て見ぬ振りをしている。 ネット界にデビュー時には数ケ所のサイトに出入りしていたが、いづこもいつの間にか中座してそのままになっている。れんだいこが辞去した分、それらのサイトで喧々諤々が進んでいるのならまだしも良いのだけれども。 「れんだいじ」は、故郷の蓮台寺にちなんでつけたハンドルネームであり、これはこれで大事にしようと思っている。その「れんだいじ」を何度も唱えるうちに「れんだいこ」が生まれ、こっちの方が更に気に入ったので、今では「れんだいこ」ネームの方を愛用している。これを「れんだい子」と受け取り、如何なる妙齢の美女ならんと懸想し胸をときめかす者もあるらん。そう受け取られるのが嫌ではなくむしろ面白がっている。ざっと以上が「れんだいこ」の由来と解説である。このところ発信不足なので本稿で中継ぎしておく。 「れんだいこ史観とは、れんだいこの認識変遷史メモ」 2017.2.13日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その136 | れんだいこ | 2005/12/31 |
【2005年の目からうろこ考】 不意に思い立ち、れんだいこの認識変遷史をメモしておこうと思った。まず学生時代の正義感からくるところの諸々の思念及び行動、革命的民主主義レベルの諸々の思念及び行動、マルクス主義レベルの諸々の思念及び行動、中山みき的たすけ合いレベルの諸々の思念及び行動、陽明学、イエス思想、アナーキズム、古神道、ネオシオニズム批判といろいろ雑穀してきている訳であるが、れんだいこから見れば皆な内的必然があり、傍から見れば訳が分からないという流れにあるようである。この先どう流れるのかれんだいこにも分からない。 それはともかく、そういう流れを縦とすれば、横の流れに於ける認識の変遷もある。今年は、遅ればせながらトロツキーの「我が生涯」を読み、トロツキズムの史的位置を確かめた点で画期的であった。これによれば、スターリニズム以降のマルクス主義運動は、本来のそれとは似ても似つかぬエセのものであり、この系譜でマルクス主義者然として教説する者は、如何に賢こぶろうと馬鹿丸出しということになる。トロツキズムのそれが十全なという訳ではないが、スターリン以降のイズムと比べれば瞭然としている。そういうことを感覚的に漠然として受け止めるのではなく、一応史実に沿って確認しえたことは収穫であった。宮地健一氏その他諸氏の論考に謝す。 但し、れんだいこがようやく獲得したネオシオニズム批判、国際ユダ邪論のフィルターを通せば、マルクスもカウッキーもレーニンもトロツキーもスターリンもかなりイカガワシイ素性と裏の顔を持つと云う点で、別の物差しが必要になって来る。学問は、こうして奥へ奥へと導いてくれることになり、容易に断定、確信なぞできない。 幕末維新考に於ける「孝明天皇以降の変調後継史」も目からうろこであった。早くより識者が指摘していたことであるが、何のことやら分からなかった。その一応の確認ができ、歴史は深いと改めて感慨させられた。既に、「大正天皇押し込め」は見てきているが、どちらも重要な政変であるように思う。しかし、公認史書はこういうところを書かないので、下手に学べば学ぶほど馬鹿になる。太田龍・氏その他諸氏の慧眼に謝す。 これは今年の「目からうろこ」ではないが、「9.11事件」の虚構も論議が深められ、資料が揃い始めたようである。まさかそったらことと考えるのが普通であるが、ネオシオニストどもにはあの程度の陰謀事件は朝飯前なのかも知れない。事件直後より疑惑を衝き続けている木村愛二氏の功労は評されねばならない。 論点が次第に「現代版ユダヤ人問題」に移りそうな気配がある。年末のアハマディネジャド大統領の「ホロコーストはウソだ」も衝撃的であった。れんだいこは、これについては「目からうろこ」ではないが、大方の者にはそうではなかろうか。そう受け取らないようだと共に語るに値しない。よほどの根拠がない限りこういう発言はできず、それをイランと云う一国の現役大統領が発言したことの重みはそれとして受け止めるべきだろう。今後ますます余震が続き、否再爆発するかも知れない。いずれにせよ議論を尽さねばならない。 そういえば、小ネズミの「9.11総選挙結果」も「目からうろこ」であった。開票に不正があったとしての究明まではできないが、今後に於いては一層選挙管理委員会の動きに目を光らせねばならない。投票者数よりも投票数が多いという事態はその原因を徹底究明せねばならない。「9.11総選挙結果」はその種の選挙の不正によりもたらされたと結論することは早計であろうが、すっきりしない面も残った。恐らくこちらが本筋の有権者行動が「目からうろこ」であった。ヤングが批判的という通念は壊され、マスコミ操作により大いに利用される団塊に過ぎないという認識をせねばならないことになった。「左」右両翼からの長年の愚民教育の賜物効果であろう。 その他、小ネズミのコソドロ式靖国神社参拝問題、イラクへの自衛隊武装派兵再々延長、国家財政の赤字体質下の引き続きの軍事防衛関連大盤振る舞い等々いろいろあった。れんだいこが得心するような処方箋は何一つ提起されなかった。ネオシオニストによる日本占領は既に「目からうろこ」ではないので記さない。蠢く御仁が際立って見えてきた。来年はもっとしゃしゃり出てくるのだろう。 そうだ最後にあれを記しておかねばならない。著作権という厄介な如意棒が振り回され、手間隙著作権という新概念が登場してきた。これによると、今後は自分の著作であれ人のものであれ公的文書であれ、少し手を加えれば自分の著作権支配下になり、無通知無承諾転載はご法度ということになるらしい。著作権法に当らなければルールとマナー問題になり、それも怪しいとなればジャカマシィ、俺が不快だったから不快に責任とらせるのだ何か文句があるかと云う論法で詰問できるらしい。サヨ圏の論法が丸出しにされていた。れんだいこは、この手合いには触らぬ神に祟りなしと一層自重自戒することにした。 それはともかく新年はどうなるか。お陰のありそうなところを見つけてお参りしながら考えてみよう。左往来人生学院に福がありますように。ご来場の皆様にも良き事が多かりますように。この一年お付き合い有難うございました謝謝。 2005.12.31日、2008.5.26日再編集 れんだいこ拝 |
【れんだいこ史観系譜】 |
以上の綴りからでは、まだれんだいこ史観の何ものかが伝わらない。そこでスケッチしておく。れんだいこ史観とは、れんだいこの自負するところ、マルクス主義以降のマルクス主義を超える社会革命理論のうちの歴史観を云う。世に転向組があまたいるが共通して、マルクス主義右派になるかマルクス主義そのものから撤退するか反マルクス主義に転戦するかの三通りの生態を見せている。それらに比べて、人類解放の社会理論をマルクス主義式水路すら抜け、もっと左派的に徹底せんとする方向に向かうのは珍しい。れんだいこ史観は、この後者に位置している。「れんだいこ史観」の兄弟は「れんだいこ観点」である。「れんだいこ観点」とは、「れんだいこ史観」より抽出されたものの見方考え方を云う。一応、こういうことにしておこう。 では、どういうところに特徴があるか。簡略に云えば、日本古神道の奥義を学び、その良さを踏まえつつ足らざるところを他の有益な諸思想から学び、共生的開放的な認識、主義、主張、史観、指針、実践を生みだすものである。そういうことになる。補足すれば、現今流行のネオシオニズムのそれらとは逐一衝突しており、れんだいこ史観がヤラレルか、ヤルかの精神及び理論及び実践に亙る広範な闘争になっている、ということか。このれんだいこ史観を学ぼうが学ぶまいがそれは自由である。云えることは、れんだいこは、れんだいこ史観を創造し得心することによりはるかに有益な福利を得ているということである。自主的に学ぼうとする者に対して惜しみなく捧げたいと思う。思想とはそういうものである。 具体的に確認してみると以下の様々な点で通説と齟齬している。且つ通説批判の更なる批判と云う弁証法的高次の批判になっているところに特徴がある。自分でこれを云うと手前味噌になるが事実だから致し方ない。今のところ、れんだいこ史観を超える思想は見当たらない。つまり真理の底に達しているのかも知れない。思い出すままに確認すると次のような作業を経ている。「れんだいこ論文綴り集」がその順位を記録している。 「れんだいこ論文」は「規約考」から始まっている。これは、日共が金科玉条とする民主集中制論に違和感を覚え、あるべき規約を求めた考証論となっている。民主集中制、これより発する一枚岩団結主義、満場一致決議を本来の左派運動のものではないとして、新たに自由自主自律規約を創始し対置せんとしている。日共批判から生まれた新左翼各派も、組織論から見れば日共のそれと大差はない。これに比して、れんだいこ規約は、党内の異論、異端、分派、党内反対派を許容しつつ大同団結、共同戦線して行く組織論を提起している。ここに値打ちがあり、これがれんだいこ史観の一端となっている。 次に「宮顕論」を手掛けている。宮顕の氏素性を疑い、戦前共産党運動に於いて宮顕こそ「スパイM」と交代する形で党中央に潜入してきたスパイの頭目ではないかと見立てている。その宮顕派によって手掛けられたのがスパイ摘発闘争と云う名の党破壊であり、「宮顕リンチ事件」はその頂点の犯罪であるとしている。スパイ派の宮顕派がスパイ摘発闘争の名目で労働者派の最後の中央委員たる小畑を査問リンチし圧殺したのが事件の真実であり、宮顕ではなく殺された小畑の方こそ冤罪であることを論証している。この宮顕が戦後も、戦後直後の共産党運動を善良に指導していた徳球―伊藤律系党中央に対し、「1955年の六全協宮廷革命」で奪権し、その後の共産党を牛耳り、今日ある通りの共産党と云う名だけの有害な日共運動に勤しんでいる史実を検証している。これがれんだいこ史観の一端となっている。これにより、共産党は、至らないまでも至ろうとしていた徳球―伊藤律系時代の革命志向の共産党から、至ろうとすることを内部から阻止する反革命志向の宮顕―不破系時代の日共へと変質したと見立てている。付言しておけば、宮顕―不破系日共はネオシオニズムに通じており国際ユダ邪の左からの回し者と見做している。 №3の「新日和見事件考」では、その宮顕独裁時代の宮顕的指導の如実の姿が垣間見られる格好事件として「新日和見事件」を検証し、宮顕が警察的な眼を光らして民青同の先頭的部分を双葉の芽を摘むようにして一網打尽にした顛末を解析している。併せて、不破、上耕らの日共官僚、赤旗記者が如何に宮顕の御用聞きとして立ち回るのか、党内が如何に治安維持法体制下に置かれているのかを確認している。新日和見主義者弾圧に如何に警察スパイが起ち回ったかも確認している。これがれんだいこ史観の一端となっている。 №4の「戦後政治史考」では、戦後の共産党史を検証している。戦後当初の共産党を指導した徳球運動史、「1955年の六全協宮廷革命」で宮顕派が奪権し、以降この宮顕系党中央による日共史を追跡している。当初は共産党史運動を主眼として書き列ねていたが、現在では日本戦後史の総合的俯瞰を試みて時代史検証の場としている。随所に通説と違う見立てを披歴しており、観点の是非を問うている。これがれんだいこ史観の一端となっている。 №5の「学生運動論」では、戦後の学生運動史を俯瞰している。特に、新左翼系の登場経緯を確認し、期待と限界を検証している。新旧左翼共通の「徳球非、宮顕是」の構図がそもそもの間違いであり、この観点からの様々な日共批判論に対し、「徳球是、宮顕非」の観点からの日共批判論を反提起している。宮顕系党中央の共産党を仮面共産党として弾劾し、このように構図できない新左翼系各派の理論を貧困と断じている。これがれんだいこ史観の一端となっている。戦後日本をプレ社会主義と規定し、この体制の実質的擁護に向かう運動を指針させるべきであったところ、ブルジョア民主主義規定で体制打倒に向かった戦後左派運動の理論の拙さを批判している。これもれんだいこ史観の一端となっている。 №6の「折節評論」では、思索評論と時事評論の二本立てで折節に関心を持った事案の評論を試みている。 №7の「邪馬台国考」では、通説の「九州説、大和説の二大学派鼎立」の構図を批判し、「九州説、大和説、その他説の三学派鼎立」が史実であることを明らかにしている。その上で、通説の「邪馬台国の大和王朝転化説」を誤りであるとし、「邪馬台国滅亡、その王権簒奪的後釜としての大和王朝説」を打ち出している。この識別はよほど重要であるのに吟味しようとしていない風潮をもどかしく感じている。なお、邪馬台国の所在地の比定については、大和の三輪山からの「山野辺の道」一帯を措定している。 関連して「日本古代史論」をものしている。そこでは国譲り史を重視し、「国譲り」が出雲王朝から後の大和王朝に至る日本古代史上の一大政変であったとして論じている。出雲王朝、邪馬台国王朝時代のいわば原日本政治こそ日本政治の原型であり、これが人類史的にもよほど優秀で、この時代に国名、国旗、紋章、国歌、日本語の原型ができており且つ思想、宗教、生活規範、風習等々の基本ができ、それがはるけき今日まで繋がっており、そういう意味で「日本のふるさと」であり、その文明が世界に通用する高度にして平和的な社会を形成していることを確認しようとしている。これがれんだいこ史観の一端である。 №8の「天理教教祖中山みき論」では、中山みきの異能を称賛し「西のイエス、東のみき」と評している。その教説の知恵、特に人類創造の「元の理譚」が如何に有益深淵なものであるか認め、大いに学ぶべしとして紹介している。この教理と「教祖の生きざまのひな型」を指針にすれば、個人も団体もよほど有益な活動に邁進できると確信している。興味深いこととして、マルクス主義運動に於ける日本共産党の変質と同じような内実で、天理教本部の教理が教祖の教説と齟齬している面も衝いている。そういう意味で、天理教本部批判は日共批判の論理と論法と通底している。但し、天理教本部の方が日共に比して真面目である点で批判を割り引いている。これがれんだいこ史観の一端である。 №9の「ネットワークビジネス考」では、いわゆるマルチ商法を解析し、理論的には成り立つことを確認している。但し、その歴史的経緯の胡散臭さを確認し、典型的なユダヤ商法であることを見抜いている。青天井報酬方式を根幹とする外資系のユダヤ商法に対抗する低報酬型和式のマルチ商法を生み出し対抗する必要を論じている。これがれんだいこ史観の一端である。 №10の「田中角栄論」では角栄政治の有能性を検証し、通説の反角栄政治論の空疎性を批判している。角栄を「現代版大国主の命」であったと判じている。あるいは角栄政治こそ戦後日本の在地土着型左派政治だったと論証せんとしている。角栄が指針した日本列島改造論を日本再建のバイブルとして見直そうと呼び掛けている。ロッキード事件では5億円授受は冤罪であり、国際金融資本帝国主義の仕掛けた罠に嵌められたとしている。むしろ児玉―中曽根ラインの授受を角栄ラインにすり替えているとして検察の立件構図を批判している。当然、そういう検察立証の筋書きに添う線で饒舌した立花隆、日共その他の言論犯罪を批判している。これがれんだいこ史観の一端である。 №11の「ルネサンスの研究」では、西欧思潮のルネサンスの解析を試みている。道半ばで筆休止しているが、常に脳裏に宿っている課題であるので折を見て再度挑もうと思う。ば №12の「大東亜戦争を問う」では、伝統的天皇制を政治利用する形で近代的天皇制が生まれ、その陛下兵としての戦前軍部が如何に養豚され、最後に召し取られたかを検証している。裏で糸を引いていたのが国際金融資本帝国主義(国際ユダ邪)であり、幕末維新-明治維新の捻じ曲げと軌を一にしていることを検証している。これがれんだいこ史観の一端である。南京大虐殺事件、百人斬り事件等々戦前軍部の犯罪は、戦後の戦勝国イデオロギーにハーモニーする形でフレームアップさせられていることをも検証している。これがれんだいこ史観の一端である。 №13の「指導者論」は、指導者論の総合的俯瞰に挑んでいる。今後の課題として、左派運動を事業で捉えた場合、いわゆる事業家の指導能力からも学ぶべきであるということになり、それぞれの分野での名指導者の能力をも切開して行きたいと思う。 №14の「左派運動の再生の為に」は、左派運動の再生の為の様々な提言を行っている。どの論考も必要な議論課題であり、それを率先して問題提起しているはずのところ無反応な状況が続いている。この辺りに左派知能の貧困を感じる。 №15の「米国内同時多発テロとその後考」は、米国内同時多発テロそのものと以降の事象を追跡している。 №16の「陽明学その現代的再生考」は、陽明学の称揚を基調にして解析している。 №17の「マルクス主義出藍考」は、マルクス主義からの出藍を基調にして解析している。 等々。現在、№133の「平田篤胤考」まで辿り着いている。その後、筆が足踏みしているが、脳内問答は続いており、ここへ来て国體社会主義論を獲得しつつある。「国體」の方はこれで決まり、「社会主義」については別のもっと的確な表現がないか考案中である。そろそろ書き上げようかと思っている。これらはいずれも、れんだいこが疑問に感じ、ならばと検証した連綿集が「れんだいこ論文綴り」であり、疎かにしている論考は一つもない。全て通説批判を基調として問題提起しているところに特徴がある。今のところ評価されていないが、今後の学問に避けて通れない関門と化していると自負している。(以下、略)。 2008.7.26日 れんだいこ拝 |
【れんだいこ史観の評について】 | ||||||||
ネット上に「れんだいこ史観」に纏わる興味深いやり取りがサイトアップされている。これを確認する。サイト元は http://okwave.jp/qa/q2171944.html
真面目なやり取りであり感謝申し上げておく。 2013.3.12日 れんだいこ拝 |
【史観の必要性について】 |
「かっての大戦」の総括は、史観なしにはできない。まずこのことを確認しておきたい。少し横道にそれるが、史観とは何ぞや。まずここから論じていきたい。 史観とは歴史を縦に見る時の構図を云う。歴史を縦に見るとは「歴史の過去から現在、現在から未来への道筋」を観ることを意味する。これとは逆に歴史を横に見るのは情報である。情報は肝腎なものを必要なだけ集めるほどに判断を正確にさせる。但し、情報を幾ら寄せても史観がなければ「筋」が見えてこない。最近は史観が崩れているので、情報は増えても一向に分析できない傾向が見て取れる。そういう意味で現代に生きる史観が必要とされている。 情報と知識と智恵の関係は「ロウソクの例え」が分かり易い。情報はロウソクである。これを燃やすと知識になる。燃やした後に残る滴(しずく)が智恵である。この次に要請されるのが史観である。この必要は歴史研究、特に日本古代史研究の際に特に必要となる。知識は断片であり、その知識が独特の筆法で書かれているので幾ら寄せても筋が見えてこない。否むしろ却って混乱させられてしまう。そういう仕掛けになっている。れんだいこから見て、そういう独特の筆法、仕掛けに気づこうとしない論者が多い。こういう場合、或る仮説的史観に基づき知識を整理し、真偽を判断し、真として採用したもので整合化させる必要がある。整合的理解ができなければ仮説的史観を更に検証し歴史の筋が見えてくるまで練り直す必要がある。史観はかく練られ創造され続ける。 史観は「木を見て森を見ず」の例えで考えると分かりやすい。「森」の調査の為に「森」の中に分け入り、その構成体である「木々」の調査を開始する。ところが、「森」が深ければ深いほど「木々」が膨大になり、その調査もままならない。ますます分け入るに連れて、「木々」の調査自体が目的になったり、「森」の入口も出口も抜け道も分からなくなり足元をすくわれる。いつしか「森」の構造と「木々」の関連なぞどうでも良くただ単に考証にのみ向かうことにもなったりする。 こうした時、「森」全体の見取り図を持って分け入ることは、「木々」の調査を能く進めるためにも必要だ。時には「木々」に目印を付けておき、互いの小関連を確保しておくことも有益だ。「森」の中から天空が仰げる場合、北斗七星を基準にした星座観測の素養を学んでおけば位置関係がよく分かり、迷うことも防げる。もうくどいので止すが、この種の役割を果たすのが史観である。そう理解すれば、史観の重要性がよく分かるというものだ。 ところが、気をつけなければならないことがある。この史観を持っていさえすれば、「森」の中に分け入ることも「木々」の調査も要らないかの如くに錯覚し、その理論を振り回す手合いにぶつかることがある。この人士たちは、史観こそが「重宝な真理」であり、この「真理包丁」をもってすれば何でも切れるという万能刀になっていると思い込んでいるようだ。凡そ公式化されており、時局の移ろいもなんのその屁の河童で後生大事にしようとする。 申し訳ないが、れんだいこはその種の史観を持たない。切れすぎてあぶないからというのではない。既に切れなさ過ぎて使い物にならないという意味と、そもそもその史観の生命は「森」の中に分け入ってこそ役に立つものであり、その際に分析と総合との確かな切れ刀であるべき筈であり、それを如意棒の如くに空中で振り回すなぞはそもそも馬鹿げていると思うからである。 そういう意味で、一見、史観は要るし要らないという二面性を守っているに思われる。しかし結論ははっきりしている。切れる鉈包丁を持って「森」の中に入ることは必要であり、切れなくなったら砥ぎ石で繰り返し砥いで切れるようにすれば良い。こういう分別が大事だろうと思う。で、れんだいこは、自らの史観を持っている。名付けて「れんだいこ史観」という。どういうものであるのかこれから披露する。 2005.10.3日再書き直し 20113.3.16日再書き直し れんだいこ拝 |
【論理と理論と見解と方針の違いと相関について】 | |||||||||||||||||||||
これに関連して、1999.6.1日、「さざなみ通信」に投稿した「論理と理論と見解と方針の違いと相関について」を転載しておく。今日改めて読んでも瑞々しい感性を感じると自分で云うのはくすぐったいか。
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【「この人の立場は右派か左派か分からん」について】 |
いわゆるれんだいこ史観に対して、「この人の立場は右派か左派か分からん」という評が披瀝されている。れんだいこはかく返答したい。右翼左翼規定は元々フランス革命の国民議会の席次に由来しているに過ぎず、政治理論的にさほど意味のあるものではないので、れんだいこが捉われる必要はないのだが、マルクス主義を踏まえて、その限界を突破しようとしていることは確かである。 この姿勢に対して、それを右翼的と云うのなら云うに任せるしかない。どうせ相手も何をもって右翼、左翼としているのかわかりゃしないのだから。しかし、逆に問いたい。既成の理論を完結系とみなしてその墨守に拘泥するのを保守的というのではないのかな。特に昨今のマルクス主義派の閉塞を思う時、この情況で思想的営為を放棄する者は、むしろ反動とでも呼ばれて然るべきではないかな。スタンスに安座してのうのうと「一見正論」を唱える者の精神こそ安逸過ぎるのではないかな。 れんだいこに対して、「この人の立場は右派か左派か分からん」という評を為す者の政治的姿勢と立場こそ逆詮索されねばならない。恐らく、現代パリサイ派のネオシオニストに通ずる者たちこそが凡愚に分かり易い図式主義に馴染み、公式主義化したウヨサヨ理論に何の疑問も湧かさず浸りきり、逆に図式と公式から抜け出る者にレッテル貼りして楽しむ下賎の徒輩ではなかろうか。今やこういう手合いが多過ぎる。この情況にしてこうであれば、彼はいつ図式主義、公式主義、レッテル主義に疑問を持つ日を迎えるのだろうか。意味のないことではあるが、そういう興味を持つ。 例えば、冬山遭難事例で検証すればよい。困惑と疲労の次に不安と飢えと睡魔がやってくる。この時、困惑を覚えず睡魔も気にせずの遭難者がいたとしたら、よほど豪傑と云うべきだろう。やがて凍死するが、当人の意思によってそうなったのならともかくも、意思に反して凍死したとするなら誉められることだろうか。この時、他の遭難仲間が声を掛け合い身を擦り合って睡魔と闘っている時に、情況打開せんとしている時に、一人率先して睡魔を従順に受け入れている者が、仲間を揶揄するほど呑気過ぎることはない。要するに、失礼な痴呆でしかない。 この事例で云えば、れんだいこは、遭難したことをいち早く警鐘していることになる。それもお騒がせによってそうしているのではなく、充分な根拠を持って告げていることになる。早く知れば的確な対応により脱出も可能であろう。れんだいこは、そういう役割を果たしていると自負している。実際には、仲間が次々と睡魔にやられている情況に於いてではあるけれども。しかし、まだ自力救済の道が残っている以上奮戦せねばならないのではないかと訴えている。ドン・キホーテであろうとも。 もとへ。れんだいこにもやがて睡魔ならぬ病魔がやってくる。その時までの後僅かな命火を燃やし続けているということになる。それはもはや、情況をどうこうしようというほどの熱意によってではない。青春時代に関わって以来の難問パズルを解くノスタルジアに浸っているだけかも知れない。しかし、それでも良いではないか。しないよりは。 これがれんだいこの立場である。そのれんだいこに対して、「この人の立場は右派か左派か分からん」なる評は、何と遠いところからの罵辞であることか。話しが通じない御仁ではある。興味深いことに、そう痛辞する者の共通項として、ホロコースト、南京大虐殺、百人斬り事件、シオン長老の議定書、アンネの日記に対する通説に対する狂気的是認が認められるようである。彼らは器用に口を回す。例えば、シオン長老の議定書に対しては偽書である云々、アンネの日記に対しては実書である云々。ようも口がもつれないことだわ。 何のことはないネオシオニズム教本通りの心身奴隷であることが透けて見えてくるだけの話である。れんだいこが相手するには及ばない。だがしかし、降りかかる火の粉は時に払わねばならないので、誰がどういう発言しているかにつきままチェックしている。いつか役に立つ日が来よう。 2007.5.4日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1130 れんだいこ/2013年 4月16日 |
れんだいこ史観と鹿島史観、八切史観、大田龍史観との相似と差異考その1 2013年4月頃、ふと八切止夫氏の「日本原住民論」を読みたくなり古書店より取り寄せ読了した。「日本原住民論」としての史論を述べていることを期待して読み進めたが、「日本原住民」の歴史的生態叙述に終始しており、やや物足りなかった。結果的に、内容よりも「日本原住民論」と題したタイトルの方に意味と意義を感じている。「日本原住民論」の法灯を受け継ぎ、これを史論として滔々と述べる書物が欲しい。そう感じている。 それはともかくこの際、「れんだいこ史観と八切史観、鹿島史観、大田龍史観との相似と差異考」をものしておきたくなった。八切史観、鹿島史観、大田龍史観について片言隻句ほどにしか確認していないのだが敢えて冒険的に比較対照して見ることにする。 はじめに述べておきたいことは次のことである。れんだいこ史観はれんだいこが勝手にそう述べているだけのものであるが八切史観、鹿島史観、大田龍史観は既に歴史的に認知されている。こういう場合、手前味噌的な口上より歴史的に認知されているものの方が値打ちがあると見なされるのが普通だろう。れんだいこは、その程度の弁えは持っている。しかし、れんだいこ自身は、世上の評価と値打ちは別物であると考えており何の遜色も感じていない。むしろ識者の眼力が優れていればいるほど、れんだいこ史観の好評が高まると自負している。目下、れんだいこ史観に関心が生まれつつあることは正当であり当然と自負している。 れんだいこ史観と八切史観、鹿島史観、大田龍史観の差異はどういうところにあるのだろうか。結論から述べると、大和王朝史以前の上古代日本史の読みとりに於いて、大和王朝に滅亡させられた先行王朝としての出雲王朝論、邪馬台国論を確立したれんだいこ史観の方がより核心を衝いていると自負している。八切史観、鹿島史観の致命的な欠点は、日本史の通説批判なり皇国史観批判の観点から為されている点に意義が認められるものの、上古代日本史の秘密である出雲王朝、邪馬台国、狗奴国の立論に失敗しており、それが為に日本史の原点たる上古代史及び大和王朝創建史絡みの言説があらぬ方向に飛んでいると見なしている。アンチ皇国史観の言説によって却って足元を掬われる結果になっているとみなしている。これを仮に「皇国史観ジレンマ」と命名しておく。これを論証すれば紙数を増すので、この結論で止めたい。 れんだいこ史観と八切史観、鹿島史観、大田龍史観の差異は究極のところ古代日本史の読みとりの差に帰着する。この観点の差が、その後の歴史の見立てに様々に影響している。日本史は大和王朝以前の「原日本」と大和王朝以降の「新日本」を厳格に識別しなければ何も見えてこない。大和王朝以降の日本史は「原日本的なるもの」と「新日本的なるもの」の両者の協調と抗争、暗闘と云う「歴史の縦の線」を踏まえないと読み取り損ないすることになる。こう見立てるのがれんだいこ史観であるが、そのれんだいこ史観から見ると、「原日本対新日本論」を持たない八切史観、鹿島史観、大田龍史観はいずれも未だ不十分と評されることになる。 八切史観、鹿島史観の古代日本史論は個別的に白眉なものも数々あるが、「歴史の縦の線」を読み損ない、その代わりに際もの的な立論に向かっていることが価値を落とし込めていると見立てている。しかしながら、古代日本史の読みとりの差の影響を無視することができる事案もあり、そういう面での個々の論考に於いてはむしろ学ばせていただくことが多い。全体として八切史観、鹿島史観は共に日本史上の事件事象の通説に対し多岐に亘って裏史観的なものを詳論し、いずれも説得力のある論考をものしている。八切史観、鹿島史観には独特の味わいがあり光芒を放っていると見立てている。 八切史観、鹿島史観、大田龍史観との相似と差異を確認するのも一興であるが、これを為すにはそれぞれに通暁(つうぎょう)していなければならず、れんだいこの読了能力に於いてもはやほぼ不可能であるので差し控えることにする。感覚的な結論のみ述べれば、八切史観は「原日本的なるもの」に大いなる関心を払っているのが特徴である。鹿島史観は「原日本的なるもの」に対する関心よりは皇国史観の根底を撃つ史論の方に傾注しているのが特徴である。但し、両者とも近現代史を彩るいわゆる国際ユダ邪に対する言及は見られない。大田龍史観のみが国際ユダヤ論即ちれんだいこ史観で云うところの金融資本帝国主義ネオシオニズム論を持っており、その点が異色と云うことになる。大田龍史観は、いわゆる国際ユダ邪の発生史と展開史を歴史的に系統立てて論述し、現代政治解析の座標軸的視座を提供している点で白眉となっている。 「れんだいこ史観とは、れんだいこの認識変遷史メモ」 (ronpyo/tetugakunote/rendaicoshikanco.htm) jinsei/ |
れんだいこのカンテラ時評№1131 れんだいこ/2013年 4月16日 |
れんだいこ史観と鹿島史観、八切史観、大田龍史観との相似と差異考その2 当然、れんだいこ史観は八切史観、鹿島史観、大田龍史観の成るほどと思う観点を吸収している。その上で新たな史観として創出している。その基本的な論考はホームページ「左往来人生学院」の「れんだいこの特選論文集100選」にサイトアップしている。百選と銘打ちながら百選を超えているのは愛嬌である。 (jinsei/ tokusenronbunsyu.htm) れんだいこ史観と鹿島史観、八切史観、大田龍史観との相似と差異考を総まとめしておく。 八切氏は1914(大正3)生れ、鹿島氏は1926(昭和2)年生れであり丁度一回りの年齢差であるが、八切史観と鹿島史観がほぼ同時期に競合しながら歴史の裏真実を読み取り、八切氏の場合には歴史小説風に、鹿島氏の場合には弁護士的立論で、それぞれ数多くの論考を発表している。それらの影響を受けながら且つ両者に欠けていたところ、萌芽的であったところを1930(昭和5)年生れの太田氏が打ち出したのが大田龍史観であり、国際ユダ邪論の見地を加えて更に精緻にさせている。 この三者の相互関係をそのように受け取り、大田龍史観が追認した八切史観、鹿島史観をも学びながら、大田龍史観の後継史観として1950(昭和25)年生れのれんだいこが確立したのがれんだいこ史観である。れんだいこ史観はそういう重畳関係にある。そうは云うものの、れんだいこは鹿島史観、八切史観についての論考をそれほど読んでいないので、これから追々に学ばせて貰おうとしている。その成果を採り入れて、れんだいこ史観の精度を上げたいと思う。 但し、れんだいこ史観にはれんだいこ独自の論考も多い。その代表作として宮顕リンチ事件、天理教教祖中山みき論、戦後学生運動論、幕末維新論等々が挙げられる。独自の論考ではないが、従来の諸見解の歪みを正し、かく理解すべきであるとして方向を指針させたものとして日共論、田中角栄論、大正天皇論、出雲王朝論、邪馬台国論等が挙げられる。これらを細かく数え上げればキリがないほど、れんだいこの論考も充分な質量を提供している。 いずれも通説を退け八切史観、鹿島史観、大田龍史観に引けを取らない説得力ある新説を打ち出している。れんだいこが、れんだいこ史観と打ち出すだけの理由と根拠を示している。未だ歴史的に認知されていない点だけ憾みが残るが、これはれんだいこにはどうしようもできないので歴史の俎板(まないた)に乗っている。他にも1954(昭和29)年生れの井沢元彦氏の史観、1959(昭和34)年生れの関裕二氏の史観との絡みも述べることができるがはしょることにする。 このれんだいこ史観に対して既に次のような評をいただいている。「法螺と戯言」氏が、れんだいこの宮顕リンチ事件及び宮顕論に対して、「それはさておき、このレンダイコ氏による考察が私に与えた衝撃は、1995年1月の雑誌『マルコポーロ』廃刊事件に匹敵するものでした」云々。K女史より「毎日少しずつ読ませていただいております。非常に為になります」云々。その他にも同様の評をいただいている。世の倣いとして逆の評もあるが、著名人の誰それの言説に反しているから問題だとか、最高裁判決を持ちだして詰(なじ)る式のものばかりで、囲碁に例えれば、れんだいこ6段の技量に対する初段程度の者の当てこすりでしかないので取るに足りない。 以上、簡単ながら素描しておく。 「れんだいこ史観とは、れんだいこの認識変遷史メモ」 (ronpyo/tetugakunote/rendaicoshikanco.htm) jinsei/ |
【沖縄論】 | |
れんだいこ史観の「原日本新日本論」は予想以上に切れ味が鋭い。且つ含蓄がある。そういうことがますます分かって来つつある。2014年9月、沖縄に2泊3日の小旅行した。JTBの企画で諸所を案内されたが、何とかの森で港川人(みなとがわじん)の説明を受けた。港川人とは凡そ1万7千年前に存在していたとされている人類で、1967年、沖縄県島尻郡具志頭村港川(現在の八重瀬町字長毛)の海岸に近い石切場で骨が発見された。身長は男性で約153-155cm、女性で約144cm。全体的に小柄で腕は細めで胴長なのに対して手は大きく、下半身がしっかりとしていたとされている。また、顎ががっしりしていて硬いものも食べていたとされている。 その時、れんだいこは思った。港川人は、れんだいこ史観の「原日本新日本論」で云うところの原日本系譜の祖先なのではなかろうかと。「ウィキペディア港川人」によると次のように解説している。
しかしながら、この解説が正しいとは限らない。ほぼ完璧な形で港川人の人骨がガンガラーの谷から約1km離れた鍾乳洞の石灰岩採石場で発見されているのであり、日本人の祖先と考えて一向に差し支えないと思われる。港川人と現代人に繋がる体系の日本人祖先と異なるのは混血化によってであり、いわば混血化される前の日本人の貴重な発見として位置づけられるべきではなかろうか。これが素直な読み取りであり、この理解で何の問題もなかろうに、これを下手に学ぶことにより、なんだかいつも変に味気ない方向の理解に連れて行かれてしまう。俗流学問の困った癖であろう。 港川人以外にも何種類かの日本人の祖先の型が居た筈である。その混血も合わせて原日本人が形成されていたと思われる。この系譜が元々の日本列島生活圏の原住民であり、れんだいこ史観はこれを原日本人と命名している。時間軸としては、大和王朝が登場する直前までの紀元3世紀頃までの日本人を云う。その始まりは人類の発生直後からカウントされねばなるまい。現代考古学的には、ヒト(人類)の祖先がチンパンジー・ボノボの祖先と別れたのは700万年前辺り、現在のホモ・サピエンスの祖先は10万年ほど前にアフリカで誕生して世界中に広がっていったと推定されている。 この推定が正しいかどうかは別として、港川人が凡そ1万7千年前に存在していたとされているからして日本列島に住み着いた原日本人は凡そ数万年前に遡ることができるようである。この連中が後々に世界史に冠たる日本文明、日本文化を創り、政体としては出雲-大三輪王朝、その最後の王朝として邪馬台国に辿り着き、その日本が解体され、別系の新日本が始まったと推理するのが「れんだいこ史観」である。時期については大きく脚色しているものの記紀神話の「国譲り譚」がこれを証左していると考えている。神話を神話ゆえに虚構としてはいけない。むしろ古代史の重要史実を神話という形でデフォルメして伝えていると窺うべきではなかろうか。 ある時のある人との会話で、沖縄と北海道の犬のDNAが近いと力説して、日本列島の最南端と最北端とがその昔には結ばれていた証拠であると説く者が居た。共に元々の日本列島生活圏の原住民であり、沖縄と北海道の間の日本が大きく変貌し、沖縄と北海道が相対的に原住民を強く残していると理解すれば辻褄が合う。この辺りは隠岐の島、伊豆諸島辺りも同じことが云えるかも知れない。かく理解すれば首肯できることが多い。 この観点を保持すると、通説の沖縄の原文化が中国からのものであり、それが日本本土へ輸出された云々式のものの見方考え方のウソに気づくことになる。そういう面があることを否定はしないが主流ではない。主流のものは原日本的に自生的に生まれ、日本列島生活圏の原住民がお国自慢的に披露し、良きものにつき諸国が互いに吸収しあっていたと考えた方が的確なのではなかろうか。 |
【日本文明論、その国體論】 |
以下が最新の気づきとなる。れんだいこの「原日本新日本論」は「日本文明論、その国體論」と対になっている。故に、れんだいこは「日本文明論、その国體論」に目覚めつつある。ここでこのスケッチをしておく。 「原日本新日本論」によって、原日本が創造していた政治、経済、文化、精神その他が素晴らしい日本文明であることを解き明かす。何でもかんでも大昔はインド、中国、朝鮮経由、明治維新期は西欧経由、戦後はアメリカ経由と云う按配に優れものは全て外国から輸入しており、日本が独自に修得したものは稀であるとする毒説がばら蒔かれている。 この延長に日ユ同祖論がある。戦前は皇室の日ユ同祖論であったが、2022年現在では人種民族的な日ユ同祖論へ辿り着こうとしている。我々は、日本文明、日本文化の固有のものはごく少なく優れモノの大方が輸入されたものであるとする外国被れ史観を卒業せねばならない。まずは自生の日本文明、日本文化を解き明かさねばならない。それを前提として諸外国の文明、文化と触れ合って、その良さの面を咀嚼吸収して次なる日本文明、日本文化が形成されてきた、こう考えるべきである。この構えから生み出されるものが日本文明論である。 その日本文明論と不即不離な関係にあるのが日本国體論である。日本国體論は日本文明護持論を本体とする。その日本文明護持論の枢要なものに日本皇室論がある。日本国體論の方が包摂的には大きい。日本国體論に含まれる日本皇室論のうち日本皇室論と天皇論はほぼ同義なので天皇論と言い換えても良い。その天皇論の内実を確認しておく。(以下略) |
【れんだいこ史観に基づく史書、学術書の提起に向けて】 |
以上の確認を経て、れんだいこ史観に基づく史書、学術書を提起せんと思う。れんだいこの年齢は只今71歳。残りの人生をこれに賭けようと思う。(以下略) |
(私論.私見)