れんだいこ史観その2 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).9.20日
れんだいこのカンテラ時評№1130 れんだいこ/2013年 4月16日 |
れんだいこ史観と鹿島史観、八切史観、大田龍史観との相似と差異考その1 2013年4月頃、ふと八切止夫氏の「日本原住民論」を読みたくなり古書店より取り寄せ読了した。「日本原住民論」としての史論を述べていることを期待して読み進めたが、「日本原住民」の歴史的生態叙述に終始しており、やや物足りなかった。結果的に、内容よりも「日本原住民論」と題したタイトルの方に意味と意義を感じている。「日本原住民論」の法灯を受け継ぎ、これを史論として滔々と述べる書物が欲しい。そう感じている。 それはともかくこの際、「れんだいこ史観と八切史観、鹿島史観、大田龍史観との相似と差異考」をものしておきたくなった。八切史観、鹿島史観、大田龍史観について片言隻句ほどにしか確認していないのだが敢えて冒険的に比較対照して見ることにする。 はじめに述べておきたいことは次のことである。れんだいこ史観はれんだいこが勝手にそう述べているだけのものであるが八切史観、鹿島史観、大田龍史観は既に歴史的に認知されている。こういう場合、手前味噌的な口上より歴史的に認知されているものの方が値打ちがあると見なされるのが普通だろう。れんだいこは、その程度の弁えは持っている。しかし、れんだいこ自身は、世上の評価と値打ちは別物であると考えており何の遜色も感じていない。むしろ識者の眼力が優れていればいるほど、れんだいこ史観の好評が高まると自負している。目下、れんだいこ史観に関心が生まれつつあることは正当であり当然と自負している。 れんだいこ史観と八切史観、鹿島史観、大田龍史観の差異はどういうところにあるのだろうか。結論から述べると、大和王朝史以前の上古代日本史の読みとりに於いて、大和王朝に滅亡させられた先行王朝としての出雲王朝論、邪馬台国論を確立したれんだいこ史観の方がより核心を衝いていると自負している。八切史観、鹿島史観の致命的な欠点は、日本史の通説批判なり皇国史観批判の観点から為されている点に意義が認められるものの、上古代日本史の秘密である出雲王朝、邪馬台国、狗奴国の立論に失敗しており、それが為に日本史の原点たる上古代史及び大和王朝創建史絡みの言説があらぬ方向に飛んでいると見なしている。アンチ皇国史観の言説が却って足元を掬われる結果になっているとみなしている。これを仮に「皇国史観ジレンマ」と命名しておく。これを論証すれば紙数を増すので、この結論で止めたい。 れんだいこ史観と八切史観、鹿島史観、大田龍史観の差異は究極のところ古代日本史の読みとりの差に帰着する。この観点の差が、その後の歴史の見立てに様々に影響している。日本史は大和王朝以前の「原日本」と大和王朝以降の「新日本」を厳格に識別しなければ何も見えてこない。大和王朝以降の日本史は「原日本的なるもの」と「新日本的なるもの」の両者の協調と抗争、暗闘と云う「歴史の縦の線」を踏まえないと読み取り損ないすることになる。こう見立てるのがれんだいこ史観であるが、そのれんだいこ史観から見ると、「原日本対新日本論」を持たない八切史観、鹿島史観、大田龍史観はいずれも未だ不十分と評されることになる。 八切史観、鹿島史観の古代日本史論は個別的に白眉なものも数々あるが、「歴史の縦の線」を読み損ない、その代わりに際もの的な立論に向かっていることが価値を落とし込めていると見立てている。しかしながら、古代日本史の読みとりの差の影響を無視することができる事案もあり、そういう面での個々の論考に於いてはむしろ学ばせていただくことが多い。全体として八切史観、鹿島史観は共に日本史上の事件事象の通説に対し多岐に亘って裏史観的なものを詳論し、いずれも説得力のある論考をものしている。八切史観、鹿島史観には独特の味わいがあり光芒を放っていると見立てている。 八切史観、鹿島史観、大田龍史観との相似と差異を確認するのも一興であるが、これを為すにはそれぞれに通暁(つうぎょう)していなければならず、れんだいこの読了能力に於いてもはやほぼ不可能であるので差し控えることにする。感覚的な結論のみ述べれば、八切史観は「原日本的なるもの」に大いなる関心を払っているのが特徴である。鹿島史観は「原日本的なるもの」に対する関心よりは皇国史観の根底を撃つ史論の方に傾注しているのが特徴である。但し、両者とも近現代史を彩るいわゆる国際ユダヤに対する言及は見られない。大田龍史観のみが国際ユダヤ論即ちれんだいこ史観で云うところの金融資本帝国主義ネオシオニズム論を持っており、その点が異色と云うことになる。大田龍史観は、いわゆる国際ユダヤの発生史と展開史を歴史的に系統立てて論述し、現代政治解析の座標軸的視座を提供している点で白眉となっている。 「れんだいこ史観とは、れんだいこの認識変遷史メモ」 (ronpyo/tetugakunote/ rendaicoshikanco.htm) jinsei/ |
れんだいこのカンテラ時評№1131 れんだいこ/2013年 4月16日 |
れんだいこ史観と鹿島史観、八切史観、大田龍史観との相似と差異考その2 当然、れんだいこ史観は八切史観、鹿島史観、大田龍史観の成るほどと思う観点を吸収している。その上で新たな史観として創出している。その基本的な論考はホームページ「左往来人生学院」の「れんだいこの特選論文集100選」にサイトアップしている。百選と銘打ちながら百選を超えているのは愛嬌である。 (jinsei/ tokusenronbunsyu.htm) れんだいこ史観と鹿島史観、八切史観、大田龍史観との相似と差異考を総まとめしておく。 八切氏は1914(大正3)生れ、鹿島氏は1926(昭和2)年生れであり丁度一回りの年齢差であるが、八切史観と鹿島史観がほぼ同時期に競合しながら歴史の裏真実を読み取り、八切氏の場合には歴史小説風に、鹿島氏の場合には弁護士的立論で、それぞれ数多くの論考を発表している。それらの影響を受けながら且つ両者に欠けていたところ、萌芽的であったところを1930(昭和5)年生れの太田氏が打ち出したのが大田龍史観であり、国際ユダヤ論の見地を加えて更に精緻にさせている。 この三者の相互関係をそのように受け取り、大田龍史観が追認した八切史観、鹿島史観をも学びながら、大田龍史観の後継史観として1950(昭和25)年生れのれんだいこが確立したのがれんだいこ史観である。れんだいこ史観はそういう重畳関係にある。そうは云うものの、れんだいこは鹿島史観、八切史観についての論考をそれほど読んでいないので、これから追々に学ばせて貰おうとしている。その成果を採り入れて、れんだいこ史観の精度を上げたいと思う。 但し、れんだいこ史観にはれんだいこ独自の論考も多い。その代表作として宮顕リンチ事件、天理教教祖中山みき論、戦後学生運動論、幕末維新論等が挙げられる。独自の論考ではないが、従来の諸見解の歪みを正し、かく理解すべきであるとして方向を指針させたものとして日共論、田中角栄論、大正天皇論、出雲王朝論、邪馬台国論等が挙げられる。これらを細かく数え上げればキリがないほど、れんだいこの論考も充分な質量を提供している。 いずれも通説を退け八切史観、鹿島史観、大田龍史観に引けを取らない説得力ある新説を打ち出している。れんだいこが、れんだいこ史観と打ち出すだけの理由と根拠を示している。未だ歴史的に認知されていない点だけ憾みが残るが、これはれんだいこにはどうしようもできないので歴史の俎板(まないた)に乗っている。他にも1954(昭和29)年生れの井沢元彦氏の史観、1959(昭和34)年生れの関裕二氏の史観との絡みも述べることができるがはしょることにする。 このれんだいこ史観に対して既に次のような評をいただいている。「法螺と戯言」氏が、れんだいこの宮顕リンチ事件及び宮顕論に対して、「それはさておき、このレンダイコ氏による考察が私に与えた衝撃は、1995年1月の雑誌『マルコポーロ』廃刊事件に匹敵するものでした」云々。K女史より「毎日少しずつ読ませていただいております。非常に為になります」云々。その他にも同様の評をいただいている。世の倣いとして逆の評もあるが、著名人の誰それの言説に反しているから問題だとか、最高裁判決を持ちだして詰(なじ)る式のものばかりで、囲碁に例えれば、れんだいこ6段の技量に対する初段程度の者の当てこすりでしかないので取るに足りない。 以上、簡単ながら素描しておく。 「れんだいこ史観とは、れんだいこの認識変遷史メモ」 (ronpyo/tetugakunote/ rendaicoshikanco.htm) jinsei/ |
【沖縄論】 | |
れんだいこ史観の「原日本新日本論」は予想以上に切れ味が鋭い。且つ含蓄がある。そういうことがますます分かって来つつある。2014年9月、沖縄に2泊3日の小旅行した。JTBの企画で諸所を案内されたが、何とかの森で港川人(みなとがわじん)の説明を受けた。港川人とは凡そ1万7千年前に存在していたとされている人類で、1967年、沖縄県島尻郡具志頭村港川(現在の八重瀬町字長毛)の海岸に近い石切場で骨が発見された。身長は男性で約153-155cm、女性で約144cm。全体的に小柄で腕は細めで胴長なのに対して手は大きく、下半身がしっかりとしていたとされている。また、顎ががっしりしていて硬いものも食べていたとされている。 その時、れんだいこは思った。港川人は、れんだいこ史観の「原日本新日本論」で云うところの原日本系譜の祖先なのではなかろうかと。「ウィキペディア港川人」によると次のように解説している。
しかしながら、この解説が正しいとは限らない。ほぼ完璧な形で港川人の人骨がガンガラーの谷から約1km離れた鍾乳洞の石灰岩採石場で発見されているのであり、日本人の祖先と考えて一向に差し支えないと思われる。港川人と現代人に繋がる体系の日本人祖先と異なるのは混血化によってであり、いわば混血化される前の日本人の貴重な発見として位置づけられるべきではなかろうか。これが素直な読み取りであり、この理解で何の問題もなかろうに、これを下手に学ぶことにより、なんだかいつも変に味気ない方向の理解に連れて行かれてしまう。学問の困った癖であろう。 港川人以外にも何種類かの日本人の祖先の型が居た筈である。その混血も合わせて原日本人が形成されていたと思われる。この系譜が元々の日本列島生活圏の原住民であり、れんだいこ史観はこれを原日本人と命名している。時間軸としては、大和王朝が登場する直前までの紀元3世紀頃までの日本人を云う。その始まりは人類の発生直後からカウントされねばなるまい。現代考古学的には、ヒト(人類)の祖先がチンパンジー・ボノボの祖先と別れたのは700万年前辺り、現在のホモ・サピエンスの祖先は10万年ほど前にアフリカで誕生して世界中に広がっていったと推定されている。 この推定が正しいかどうかは別として、港川人が凡そ1万7千年前に存在していたとされているからして日本列島に住み着いた原日本人は凡そ数万年前に遡ることができるようである。この連中が後々に世界史に冠たる日本文明、日本文化を創り、政体としては出雲-大三輪王朝、その最後の王朝として邪馬台国に辿り着き、その日本が解体され、別系の日本が始まったと推理するのが「れんだいこ史観」である。時期については大きく脚色しているものの記紀神話の「国譲り譚」がこれを証左していると考えている。神話を神話ゆえに虚構としてはいけない。むしろ古代史の重要史実を神話という形でデフォルメして伝えていると窺うべきではなかろうか。 ある時のある人との会話で、沖縄と北海道の犬のDNAが近いと力説して、日本列島の最南端と最北端とがその昔には結ばれていた証拠であると説く者が居た。共に元々の日本列島生活圏の原住民であり、沖縄と北海道の間の日本が大きく変貌し、沖縄と北海道が相対的に原住民を強く残していると理解すれば辻褄が合う。この辺りは隠岐の島、伊豆諸島辺りも同じことが云えるかも知れない。かく理解すれば首肯できることが多い。 れんだいこが何故に「原日本新日本論」に拘るのか。それは、原日本人が創造していた政治、経済、文化、精神その他その他が素晴らしいものであることに気づいている故にである。この観点を保持すると、通説の沖縄の原文化が中国からのものであり、それが日本本土へ輸出された云々式のものの見方考え方のウソに気づくことになる。そういう面があることを否定はしないが主流ではない。主流のものは原日本的に自生的に生まれ、日本列島生活圏の原住民がお国自慢的に披露し、良きものにつき諸国が互いに吸収しあっていたと考えた方が的確なのではなかろうか。 何でもかんでも大昔はインド、中国、朝鮮経由、戦前は西欧経由、戦後はアメリカ経由と云う按配に常に優れものは外国から輸入して日本文明、日本文化が成り立っていると云う外国被れ史観を卒業せねばならない。まずは自生の日本文明、日本文化を前提とし、諸外国の文明、文化と触れ合って、その良さの面を咀嚼吸収して次なる日本文明、日本文化が形成されてきた、こう考えるべきではなかろうか。 |
(私論.私見)