「蔵田計成氏の党派間ゲバルト見解」考

【蔵田論文】
 追悼・第二次共産主義者同盟議長さらぎ徳二 旧き友への手紙 蔵田計成」を転載しておく。
 はじめに

 この後の「旧き友へ 40年目の手紙」は、多くの知友人に向けて書いた私自身の私信ですが、その宛先の中には、当然ながら故人の生前の病床も含まれていました。そればかりか、生前の故人にこの手紙を届けることは、私にとって特殊な意味を持っていました。その理由は、この私の手紙を書き上げる作業の完成を一区切りにして、「ブント総括、党派闘争・内ゲバ・粛清論」に向けて故人との共同総括作業に取り組む予定にしていたからです。事実、すでに過去において私達はこの総括に向けた共同作業に先立つ最初のプロローグを共有していました。それは「我がかく闘えり」(さらぎ徳二編著、情況出版社)への私の寄稿文でした。この私の寄稿文(ブント主義=倍々ゲーム論の陥穽と教訓)に関して、故人は同書の中で次のように添え書きを結んでいます。

 「以上の内容について蔵田さんと早くから電話で話し合ったが、細部では異論を残しつつも初めから大筋で一致した。かくて第一次ブントの総括の執筆を当時、都学連副委員長として指導的実践者であった蔵田計成さんに依頼したのである。」(蔵田論文に寄せて、ブントの総括と破防法闘争の総括は不可分)

 この最初の第一次ブント総括を足がかりにして、第二次ブント総括、連合赤軍問題や内ゲバ問題の共同討論と総括作業を進めていくはずでした。その後一年以上の歳月が経過しました。この間、私は個人的にはブント総括・党派闘争論を煮詰める共に、幾人かの人達と「内ゲバ問題研究会」に参加し、共編著者として「検証 内ゲバ」(社会批評社)を上梓しました。これに平行させて、「内ゲバ弾劾声明」の賛同人にもなりました。


 私の賛同理由は、
 1,これ以上の内ゲバ加害を重ねさせてはいけない。
 2,3人目の犠牲者を出してもいけない。

 この決断に際しては、私への数名がかりの長時間の説得を含めた、私自身の熟慮が必要でした。ところがごく最近になって、その内ゲバ問題の研究活動の中で、当初の目的と意図に反した事態と運動の方向性を経験することになりました。例えば「内ゲバをやる連中はどんどん警察に突き出せばいい」という主張と同席を強いられたり、周辺の私以外の人達は「すべての暴力、内ゲバ、テロに反対」、「内ゲバは断罪の対象であり、相互止揚の対象とすべきではない」という主張を掲げる反内ゲバ主義的な政治潮流であることを思い知るに至りました。

 おまけに、私が「反動的な内ゲバ擁護主義論」者にされるに及んでは、最早、そこにとどまる政治的実践的意味がなくなったと判断し、一連の活動からは訣別・召還することにしました。

 結局、私自身は「火中の危険な栗」を拾うことはできないままに、独自に「新左翼の総括/何故、内ゲバに反対すべきなのか。党派闘争論、内ゲバ・粛清の根拠、廃絶と止揚に向けた本質論的解明」のための作業に専念する、という出発時点への回帰を決意したばかりでした。故人の訃報に接したのも、そうした不本意な事態が推移する渦中でした。

 故人は他の誰よりもブントの根底的総括の必要性を悲痛な思いを込めて叫び続け、「階級闘争の冬の時代」(故人)をもたらした内ゲバや粛清問題の歴史的解明の責任と決意を、そして、その総括が未だ十全でないことの無念さを死の瞬間まで抱き続けたはずです。

 その点に関しては、故人と私は過去の歴史の誤りを未来へ向けて断ち切ることへの“こだわり”の重要性については、早い時期から多くの点で認識を共有していました。すでに70年代半ばには、連合赤軍の敗北の総括として、第三世界人民との連帯を可能にする帝国主義本国階級闘争における階級的普遍性の質が、本国の矛盾の最深部における闘争の質にある点を、いち早く相互に確認しました。また、私達は総括の政治的内容に関しては、上の故人の引用にあるように「初めから大筋で一致」していました。だが、結局はこの先に討論すべきはずの重要課題を積み残す羽目になってしまいました。

 また、故人と私は総括の政治的意味内容に関しては、上の引用にあるように「初めから大筋で一致」していたし、この先も、さまざまな討論を経て共通認識に到達すべき重要課題も積み残していました。だから、この私の手紙の仕上がりを一区切りにして、私達の共同総括作業は本格的な最終討論の段階に入る予定でした。それも能わず、いまはただ痛恨の極みあるのみ。生涯を革命に捧げた偉大な革命家を亡くした底深い喪失感と、語りかけても決して返ってこない山びこの非在感と慟哭がこみ上げてくるだけです。心から冥福を祈ります。以下の手紙を霊前に捧げます。
 「旧き友へ、40年ぶりの手紙」 

 1,久しぶりです

 本当に長いご無沙汰でした。如何お過ごしでしょうか。意義ある日々へのご健闘に心から敬意を表したいと思います。当方は、過去15年間にわたる塾家業に終止符を打ち、ささやかな社会的活動を再開し、すでに3年近くが経過して現在に至っています。いまでは、ひたすら残された日々を懸命に“生き急ぐ心境”で「ブント総括」「反原発市民運動」「アソシエ21」「地元市民運動」「各種研究会、シンポジュウム」等の活動に参加しています。

 さて、いま私は長い歳月にわたる空白を経て、久しぶりに「旧友への手紙」を書いています。信じ難いことですが、このたった一通の手紙を差し出すために、結果的には、実に40年間(正確には43年!)もの長い歳月を費やす羽目になってしてしまいました。

 これほど途方もない時間的経過を必要とした理由は、至極簡単です。それは60年安保闘争の直後に余儀なくされた深い底無しの「挫折」に直接起因しています。後述するように、当事の私はあの果てしない地下水道の迷路の中でもがきながら明日への出路を模索し、その混沌から抜け出すための試行錯誤を余儀なくされる日々でした。その中で60年安保闘争の総括、新左翼の歴史総括、自己の原体験を重ね合わせたブント党派闘争総括作業等を経て、これを媒介にした論理的思考回路を模索してきたのでした。そして、この難題に対して自分自身の納得可能な位相において結論を引き出し、脱出可能な出口を見出すためには、それも止むを得ない歳月であったようです。

 だから、私が歩んできたこの自己史は、人格的評価を排した単なる政治ロジックの外形的枠組みに限定すれば、60年安保全学連のかっての幾人かの仲間達が演じたあの“華麗なる転身”とは、ちょうどその対極に位置しており、最も愚直かつ昂然と自らを演じた好個な見本といえるかも知れません。別言すれば、幾人かの仲間達がたどった彼岸への道は、単なる存在としてのザインの世界への先祖帰りともいうべき逆視への自己回帰とすれば、私においては、その自己回帰の道を峻拒して、あるべき存在としてのゾルレンの世界に自己措定する価値観に固執し続けた、新左翼創成への絶えざる原点回帰であったわけです。そして、この原点回帰を規定づけたものは明日の闘いへの衝動ではなくて、過去を跡づける総括への衝動や、後で触れるような個的原体験でした。

 いずれにしても、私はいまようやく「60年安保闘争と新左翼政治総括」「新左翼党派闘争・内ゲバ・粛清論の歴史総括」に関しては、自分自身に納得がいく範囲内で、その骨格=彫塑らしきものを仕上げ、一区切りを付けることが出来たのではないかと、自分に言い聞かせているところです。その内容は最近の著述や今後の論文を参考にして欲しいのですが、現時点では、取り敢えずこの「旧き友への手紙」と、「新左翼創成と歴史過程にみる、党派闘争・内ゲバ・粛清論の視座」をもって補稿とします。

 「今更、60年ブントでもないだろうに…!」という声もちらほら届きます。確かに、結果的にはこの総括作業を成し終えるには、半生もの長い歳月を要したわけですから、このような嘆息が漏れるのは蓋し当然だと思います。しかし、いまの私はある種の達成感がもたらす、晴々れとした気分を実感しているところです。それはちょうどあの巣鴨拘置所から久しぶりに保釈されて外門をくぐり、思わず青空を見上げたときの心情と気分にも似ています。私が、このような晴れた心情に至る背景には、60年安保闘争における歴史の原体験が根在していることは言うまでもありません。

 ご承知の通り、私たち60年安保闘争世代は「未知への挑戦」という未来への限りない夢、希望、期待感に満ちあふれた世代でした。その闘いは、一切の既成のイデオロギー、価値観、理論、政治路線さえも否定の対象としながら、体制内化を深める既成左翼=社共に代わる、輝かしい未来社会を創出するための真の前衛党の建設を目指す闘いでした。そして、「人知れず、我れ微笑まん」(樺美智子)の表題のように、心の片隅では孤絶の闘いを誇りにさえ思いながら、純白の歴史に己を染め抜く栄光に自己の青春を賭け、6・15闘争に体現されたように空前絶後の大闘争を実現しました。ところがこの大闘争の直後から、三つ巴の同盟内分派闘争が始まり、第一次共産主義者同盟(ブント)は朽ちた巨木が倒壊するかのごとく、厳しい党内闘争を経て半年後に自壊しました。やがて、私たちは闇のような深い挫折感に襲われて、運動から離脱し、地下の迷路に入り込んでしまいました。
 2,果てしない迷路

 本来ならばこの「旧き友への手紙」の類も、とうの昔に届けるべき性質の書状でした。少なくとも唐牛健太郎、島成郎が永逝する遙か以前の、70年代か80年代に差し上げるべきでした。でも、それは能わざることでした。傍目には無為に過ぎ去ったと思しき長い歳月も、私にとっては止むを得ない日々の積み重ねでした。やはり、己が通過した個々の時代史への区切りをつける作業を経ない限り、一歩も前に進めないような受苦の日々が続き、あるときには肺腑をえぐられるような命がけの余興の一コマを経験したことも、今は遠い昔の物語です。

 たしかに、かっての「戦友」達の幾人かは40年間未だに階級闘争の現役であり続けています。活動の政治的評価は敢えて別にするとして、その強靱な精神力や決意性の深さには頭が下がる思いがしています。また、その他の多くの過去の仲間達は多様な道を選択し、決断の日々を逞しく生き抜いてきました。それ自体がもつ価値を否定してもいないが、あえて相対化しているわけでもありません。いまに及んでは、私自身も結果的に固有の一つの選択をしたに過ぎないという心境です。

 その私は長い年月にわたって60年安保闘争の総括にこだわり続け、果てしない堂々巡りの日々を送ってきました。一時的例外の時期もあったとはいえ、総じて、かっての仲間達と歴史や時代を熱っぽく論じ合ったり、互いに自己を開示し合うことも困難でした。そればかりか、過去40余年間、今日に至るまで実に多くの知友人達から書状を頂きながら、形式主義の嫌いな私などは「意味のある一行が記せない」という、たったそれだけの理由によって、1枚の年賀状や一行の返信さえもネグレクトし、敢えて関係性の断絶を厭わないままに、遣り過ごしてしまう有り様でした。

 それは疑いもなく挫折の後遺症という虚な時空の歳月でした。60年安保闘争の総括→革通派結成→ブント崩壊へ至る歴史過程の政治総括に関しては、論理的基軸が見つからず、無意味な試行を繰り返すだけでした。まるで時計の針が止まったかのような思考停止状態に陥り、いたずらに過去への“こだわり”だけが、ズームアップされてしまうのでした。このような“こだわり”の感情の湧出要因は、おそらく私が新左翼運動の歴史記述に深く関わりはじめた私的役柄と、密接不可分に結びついていたことは言うまでもありませんが、もう一つの大きな要因は、歴史世代論的言説の中に見出すことができるのではないかと思います。

 すなわち、60年代後期から始まり、70年安保・沖縄・全共闘運動へと高揚した「熱い政治の季節」は、ヴェトナム植民地革命戦争との世界的連帯を目指した反戦闘争と、自己の根底的な存在の根拠を問う自己否定を媒介にして、支配、抑圧、欺瞞の社会的構造や存在の日常性の根底に迫るすぐれた闘いでした。しかも、この闘争形態と規模はヘルメットやゲバ棒という大衆的武装による対国家権力との「正規戦」としては日本階級闘争史上最高の到達地平を切り開きました。さらに、70年安保・沖縄闘・全共闘運動は、その後70年代階級闘争へと継起し、三里塚空港阻止闘争を初めとした、差別と抑圧、階級最深部の矛盾の構造をえぐり出す闘争など、歴史を画する闘いへと受け継がれていきました。これらの闘いこそは、深い挫折感を身にまといながら、60年代を通過しつつあった当時の私にとっては、一時的とはいえ過去からの離脱と未来への予感を確かめるに十分な“希望を託する闘争”でした。

 つまり、当事の私は現実の階級闘争の最先端に一定の関わりをもちながらも、特定の政治党派を選択し得ないままに、ある種の距離を保ちながら運動に関わり続けてきました。 そのような私にとって、当事の新左翼諸党派が担った一連の闘争は、かって「未知への希望」を体験した60年安保世代に対して深い共感と希望をもたらすと共に、70年代の未来へ向けて確実につながる「既知への期待感」を予兆させる飛翔と転進を意味していたのでした。
 3,内ゲバと粛清

 ところが、新左翼諸党派は一方でこのような巨大な歴史的役割を果たしておきながら、他方で内ゲバを常態化させるという不本意な変貌・変質を遂げるとともに、あの連合赤軍は悲劇的事態を引き起こしてしまいました。勿論、内ゲバと粛清の両者を一蓮托生に論じることは全く無意味であり、位相を異にします。厳密に区別と同一性において論じるべきは当然ですが、少なくともそれは新左翼諸党派が内包する思想的未成熟、過失、誤謬、退廃がもたらした共通した外化現象であることは確かです。その意味で内ゲバと粛清が共通にもたらした悲劇的事態による衝撃は「既知への期待感」を粉々にうち砕くに十分でした。

 新左翼諸党派が演じた一連の悲劇的事態をどう受け止め、どのように解釈したらよいのか。何を、どのように総括し、その歴史の深い闇の中から何を取り出せばよいのか。それは果てしない暗闇の日々でした。その衝撃と暗闇の世界から抜け出すためには、あらためて新左翼創成の初端に立ち返り、それを基点にして、過去、現在をつなぐ“ほつれた歴史の糸”をたぐり寄せ、その糸を紡いで未来への希望を編み出す他はないと決意し、その重い歴史命題に取り組んでいきました。その歴史命題とは新左翼創成と新左翼主義(ブント主義、革共同主義)が果たしてきた歴史功罪の根底的総括です。その概括はいずれ別途「補稿」で添付するとして、ここでは三項目を示しておきます。

 1,「新左翼創成→60年安保闘争→第一次・第二次ブント崩壊の意味」
 2,「ブント主義と連合赤軍粛清事件総括」
 3,「革共同主義における党派闘争・内ゲバ論」

 この三つの通史的総括作業を媒介にして、いまようやく長い地下トンネルから抜け出すことが出来たような気がします。つまり、この総括を通じて新左翼の遠い過去と現在を貫く歴史の赤い糸を紡ぎ、歴史命題へのアプローチの手がかりを掴むことが可能だし、新左翼創成とそれが内に胚胎する党派闘争、内ゲバ、粛清の原基を析出し、新左翼諸党派や連合赤軍が演じた、信じがたいほどの惨劇と愚行を止揚・廃絶する論理的回路への糸口を見出すことが可能だという結論に至りました。

 勿論、これはあくまでも私自身の主観的結論であることは言うまでもありません。私は自分なりの結論に到達できたことによって、混迷からの出路を見い出すことが出来たし、新しい日常の中で多弁を取り戻すことが出来たことも事実です。そして、現在の歴史情況への自己発信も可能になり、その延長線上で、このお便りを差し上げることも可能になったという次第です。あらためて、これまで長い間返信しなかった過去の非礼と不様を深くお詫びすると共に、これからは旧を倍する交誼を重ねたいと心から念じる次第です。
 4,鎮魂と悼辞

 さて、この一連の総括の試みは、他方ではあの夥しい墓標への鎮魂の弔鐘となるのではないかと思います。

 内ゲバや粛清がもたらした愛する者との永劫の離別、その離別がもたらした慟哭と悲嘆は、私たち第三者の想像を絶したはずです。その渦中のご遺族の悲しみと困惑は極に達したのではないかと思います。一体何が起きたのか。何故、あのような不条理が正義と革命の名において演じられたのか。その歴史の背理をどう受容すればよいのか……。

 そもそも、あの惨劇の主役を演じてしまった彼・彼女達は、主観的に革命を演じつつ、結果的に反革命を演じ、かつ演じることを強いられたに過ぎなかったはずです。この歴史のパラドックスの中にこそ悲劇の真実が潜んでいる限り、内ゲバや粛清の当事者達がその根拠を、「ファシスト」「反革命」「階級敵」「内通予防」「敗北死」に求めたとしても、その言語の概念規定さえも余りにも空虚に過ぎます。また、ありきたりの世間的常識に照らし合わせて理解を試みようとしても、それは決して得心のいく論拠を探し当てたことにはなり得ないばかりか、「何かが、どこかで間違っていたのだ!」という疑念をぬぐい去ることは出来ません。

 また、この内ゲバや粛清という行為を己の政治党派とは無関係な出来事であると装い、これを「反革命」「犯罪的行為」「政治的罪悪」として、彼岸の彼方から断罪したり、憎悪をかき立てて社会的情動の中にそれを封印してしまうような立場も無意味です。何故かといえば、このような政治的責任の隻欠落した対応は、先の世間的常識が抱く「何かが間違っている…」という疑念に対しては如何なる説得力も持ちません。そればかりか、何よりも亡き墓標の「無念」「悲痛」の叫びに対して、語り得べき片言隻句も持ち合わせていないはずです。

 かって、私はこの重い設問に対しては沈黙する他はありませんでした。このような党派闘争・内ゲバ・粛清論に関して一寸たりとも論理を前に展開することが出来ないときの無力感たるや想像を超えるものでした。また、出口なき思考の袋小路に在るときの虚脱感たるや慚愧の極みでした。それはちょうど、闘争や運動のなかで挫折に直面した者が、まるで「失語症」に陥ってしまったかの如く、明日の闘争方針とその意義について、一言も言葉を発することができないような、あの「沈黙の闇」を余儀なくされた絶望感を彷彿させるものでした。

 だが私自身は、いまようやく「内なる閉塞状態」から解放され、このようにして語り得る言葉(総括の手応え)を掴むことが出来ました。この間に執筆した関係諸論文を、死者の霊前に捧げると共に、かって、共に闘いのスクラムを組んだ過ぎし日の仲間=戦友の一人として、ご遺族への悼辞にしようと考えています。そして、この総括はたんに無念の死を遂げた多くの墓標への追善に止まりません。故人がこよなく愛した妻や子供達、ご両親や兄弟姉妹などの肉親の方々が、いま述べたように心の奥深くに仕舞い込んでおられるであろう遣り場のない想い、新左翼政治諸党派への不信、疑問、痛憤、憎悪、革命への猜疑など、様々な錯綜した心理的情調や論理などを少しでも整序していく上で、お役に立てばと考えます。

 いうまでもなく過去の歴史を総括することは、いつ、どこで、何が、何故起こり、どのように推移したのか、その歴史過程における事実、意味、真実を明らかにしていくための作業を意味します。この難題に対して、真っ正面から総括しきることはとても不可能ですが、その論理的枠組みを提起することは可能です。現在に至ってようやく自分なりの回答が、否、歴史認識と判断の基準・視座とでも言える「総括レジュメ」が、ようやく用意できたと思います。
 5,その理由と動機

 これまで長い間、私は自分自身に或るテーマを課してきました。それは言うまでもなく、新左翼の歴史総括でした。この総括にこだわり続けてきた理由と動機は二つあります。

 第一は、創成期新左翼は、第一次ブント(共産主義者同盟)がそれを象徴的に体現したように、その出自の未成熟故に、自壊すべき必然的な内的要因を孕んでいたし、一つの歴史的流れの必然的結果という側面を内在させていました。

 そしてあの自壊から、10年、20年、30年の歴史が後景に流れ去って久しく、実に40余年の歳月が経過しました.。このように長い時空を経ているにもかかわらず、過去から現在に至るまでの総ての局面において、常に“過去を総括する”という特殊普遍的歴史課題が積み残されてきたことが事実であるとすれば、その積み残しは当然片づけるべきです。

 では、その“積み残し”とは何か。それは60年安中派世代が、その後の60年代安後派世代へと伝承すべきはずの、必要最小限の有為な総括をなし得なかった、という不本意な歴史の事実に他なりません。そしてこの痛恨の結果が、一方では第二次連合ブント再建に始まり、幾多の闘争試練と組織再編を経て、最終局面では蜂起戦争派形成→共産同赤軍派登場→連合赤軍結成と粛清であり、他方では新左翼諸党派による内ゲバであったと考えます。

 そうだとすれば、この総括を成し遂げるべき一半の責任の所在は明白です。従って、第一次ブント=安中派世代としては、この一点において歴史上の政治的責任を引き受け、それを果たすべきであると考えています。そのためのささやかな試みの一つがこの総括であり、同時に、この総括が過去の歴史に対する自分自身へのけじめでもある、と考えます。

 第二の動機は、現在の政治社会状況に対する危機意識と重なります。ご承知の通り、20世紀末期の東欧社会主義の崩壊を契機にしてグローバリズムという現代の妖怪が本格的に地球の津々浦々にまで席巻し始めました。多国籍企業のヘゲモニーによる資本主義商品経済は、固定された20世紀型国民国家の境界線を破壊し、新しい労働市場を飲み込み、新たに生み出される富の偏在はその規模を益々増大させ、ドラスチックなポスト帝国主義的、ポスト植民地主義的再編過程に全世界を叩き込もうとしています。

 アメリカはこの中で恥ずべき主役を演じています。アフガニスタン侵攻、湾岸戦争に続くイラク侵攻がより直接的には「中央アジア、中東の石油支配」を狙っていることは、いまや公然の事実ですが、世界史的にはそのアメリカ・ブッシュ政権は新保守主義を掲げながら自国の物質力を背景にした一極主義的世界支配への露骨な野望を隠そうともしません。

 このような歴史の危機に対してアメリカやヨーロッパでは数百万人、数十万人規模、全世界では何千万人規模の史上空前の反戦闘争が巻き起こり、自国の政府に対して確実な政治的圧力を加えています。このような闘争の高揚の中に世界史的胎動を感じ取ることができます。

 それに比べて、我が国の反戦闘争は桁違いの惨状を呈しています。この惨状こそは、まさに日本新左翼諸党派の負の遺産であり、人々の反戦意識の高揚を押しとどめ、結集を妨げ、参加をためらわせる「重し」になっていることは確かだと思います。このような政治的認識と判断の一つの根拠は、地方自治における無党派層のパワーの拡大と胎動です。

 このような変革へのマグマが、地方政治のレベルに押しとどめられて、政治的全面化を妨げられているという無念な事実があります。この社会的政治的アンバランスと無機的アパシー現象に関して、無意味な歴史の仮定法を敢えて持ち出せば、その有力な敗因の一つは既成左翼に代わる新左翼諸党派の非在性にあるはずです。

 本来ならば、くだんの新左翼諸党派連合は「第三の系」として、反戦の一点において総ての垣根を越えた民衆の潜在的マグマの全面的発現に向けて運動を組織化すべきでした。だが、いまではそれに遠く及ばないどころか、呼びかけるべき対象すら見出し難い痛恨な事態をもたらしています。このような惨状から抜け出すための必要不可欠な試みの一つとして、党派闘争・内ゲバ・粛清問題の根底的総括と廃絶への真剣な模索があると確信するに至ったわけです。

 第三の動機は、「60年安保とブントを読む」(島成郎記念文集、情況出版)で詳論したことですが、私自身の邪悪な個人的野心を動機にして、ブント崩壊の引き金に直接手を掛けてしまい、その結果、「左翼反対派」にとどまるはずの革通派を明確な「政治分派」として立ち上げるという不明を演じ、不毛な分派闘争を誘発させるという初端の契機を作ったことへの自責です。この点に、過去を容易に精算できない理由があったことは確かです。

 さらに、もう一つ別種な動機を補足すれば、最近、私が反原発やその他の取り組みを開始したことに係わります。私がこの種の活動を再開したのは、実に10数年ぶりのことです。この活動再開に至る動機は三つあります。

 第一は、過去へのけじめを付けるための「総括の基軸」がようやく見つかったこと。そのためにこの総括を基軸にして明日への活動の第一歩を踏み出すことが容易に可能になり、ひいては、反原発市民運動の実践を活動再開の契機にして、新たな模索を開始しようと考えたこと。

 第二は、 冒頭にも触れたように残された貴重な時間を“生き急ぐ心境”の中から生まれたこと。時代の激動と逆動が音を立てて進んでいるなかで、これを座視することは未来への暗黒を黙認するというだけではなくて、現在の自己と、過去の自己史の全否定につながること。どこまでも自分であり続けようと固く決意したこと。

 第三は、塾家業への区切りが付いたこと。大手塾のマスプロ商業主義に対して、人間主義と個的集合主義の立場から「集団」における「個」の意味を問い続け、合理的かつ効率的な増学力・高学力を実現して、日本一過密な町田市の駅前大手塾を圧倒して度ながら頂点を実現できたという、ありきたりの意地と達成感。それに加えて、この期に及んだとはいえ、生活上のしがらみと生業にようやく落とし前をつけることが出来たこと等々、いくつかの個人的事情が複合しています。
 6,結語

 言うまでもないことですが、長い思考遍歴の過去に一区切りを付け、未来につながる回路を見いだせたという意味では、重くて長い過去ではありながら、決して長くはなかったという思いが心の片隅にあります。それに加えて、今は明鏡止水の境地と言うべきか、如何なる政治的・党派的野心、偽善、物欲、虚飾を語る意図を持たない心情たるや、実に爽快至極です。たとえ、その政治的主張や問題提起の内容が「自己満足」「独善」であったとしても、「無責任」のそしりさえ甘受すれば、己がじし我が人生は実に爽快そのものです。

 また、この間の一連の駄文や総括文は、いわば40年ぶりに届ける「旧友への手紙」という意味合いを込めた久しぶりの便りであり、初めての便りです。これまでも幾度となく友人達との旧懐を暖める機会もありましたが、既述したように、挫折→離別の後は、互いに心底から語り合うことはなく、ささやかな問題意識や動静を確かめ合う程度の対話に終わってしまいました。ここにあらためて、我が半生の対話の空隙を埋める意味合いを込めて、これまで決して語ることもなかった遠い過去の経歴や、近況報告を兼ねた活動再開以後の著述の一覧等を末尾に付記して、結語とします。
 補稿/新左翼創成と歴史歴史過程にみる、党派闘争、内ゲバ、粛清論の視座(抜粋)

 1,新左翼創成期におけるブント主義は、新左翼主義としての革命求心主義であり、それを歴史的に体現した「6.15国会突入闘争」は、ブント主義(=新左翼主義)の「極限志向における勝利」であると同時に、その革命求心主義が本来的に限界性をもつ限りにおいて「極限志向における敗退」として闘われた。しかし、第一次ブントはこのブント・新左翼主義がもつ『勝利と敗退の正負二面性、階級闘争の公理がもつパラドックスを厳密かつ正当に総括し得ないままに自壊した。つまり、一方では自己が果たした役割と成果を正当に評価することが出来ず、他方では、巨大なカベという限界性を正当に直視・総括できないままに、そのまま党内分派闘争に突入し、そのまま自壊への急坂を転がり落ちていったのである。』を厳密かつ正当に総括し得ないままに自壊した。

 ,この第一次ブントの崩壊不全性は、結果的には、革共同第三次分裂による中核派 とその後の第二次ブント再建によって、新左翼主義=革命求心主義を継承する二党派を派生させることになり、それを右から批判する革マル派を加えた新左翼三極構造の大枠が 出来上がった。なお、新左翼党派は第四インター、社青同、構改派、ML派など最大時には5流20数派を数えることもあった。

 ,第二次ブントの最大の問題点は、綱領問題の不十分性は当然として、結果的には、第一次ブントの革命求心主義の「極限志向における正負二面性」の厳密な総括をなし得ないままに、一個二重の極限志向、つまり、革命への求心主義という「理念的極限志向」と、「闘うための党建設」「戦略・戦術の党」を体現する闘争形態上の「実践的極限志向」を目指して、戦略・戦術の「幾何級数的拡大路線」「行け行けどんどん路線」を自己純化させながら、結局は「ブント主義の栄辱」の中で極限を演じるという戦略路線上の軌跡自体にあった。とりわけ、政治指導部は左からの突き上げを受けてギリギリの妥協的選択を重ねつつも、階級攻防の極限的対峙状態に直面するに及んで、それに耐えきれずに自己破綻し、解体していったのであった。ブント内の内ゲバもこの過程で起きた。

 ,ブント解体後に起きた悲劇的結末が連合赤軍の粛清事件であった。この粛清事件は「銃による殲滅戦」という戦術的極限志向における政治路線上の誤りと、その極限過程で派生する内部矛盾の止揚に際して問われる「思想の極限的深化」、という二つの極限化において生じた両者間のズレ=跛行現象の中で発生した「思想性の未成熟」「哲学の貧困」故に演じた修羅であった。つまり、連合赤軍は、山岳アジトという政治的、軍事的、社会的重囲という階級攻防戦の中で必然的に発生する組織内部の矛盾と、その矛盾を止揚して高度な団結の質を獲得するための媒介項として「一挙的共産主義化論」という超主観主義的観念論、主体・階級形成論を創り出し、それを実行に移した。そして、闘かわなければ決して犯すことのない過失(党内粛清)という致命的誤りを犯し、「軽井沢銃撃戦」を経て自滅した。

 ,70年安保・沖縄・全共闘運動の激闘における闘争形態は、大衆的街頭実力闘争から大衆的街頭武装叛乱、カルチェラタン型武装占拠、武装解放区、さらには、主観的ながら蜂起戦争形態をたぐり寄せた。このような軍事的闘争形態の高揚と時代志向を背景にして、新左翼諸党派が常態化させてしまったのが、対権力闘争の激闘に媒介された階級内矛盾の否定的外化形態としての内ゲバであった。

 ,この内ゲバ全盛期において、ブント系諸党派はゲバルト行使に際しては相手の肉体的抹殺を回避した。その論理的根拠は第一次ブントの「闘うための前衛党建設論」にあった。この前衛党論は「何が真の前衛党か?」を巡るせめぎ合い=党派闘争論を基底にしているという意味で、「自己相対化の論理」を前提にした前衛党論であった。また、その限りで党派闘争を政治党派の正当性を競う限定的手段として自己規定したブント流党派闘争論でもあった。このブント前衛党論や党派闘争論がもつ論理構造の特徴は、党派闘争における正当性を必ずしも「自己の正当性」を越える絶対的党派性としては定位していない点にある。そればかりか、逆に、自己対象化を可能にする「内ゲバ否定」と止揚への「内在的契機」を内包しているのである。

 ,これに対して、相手の肉体的抹殺を自己目的化してゲバルトを行使したのは、革共同革マル派、中核派、革労協派の三派であり、ブント系諸党派とは対極をなしている。そのうち革マル派前衛党論は初期革共同の「党のための闘い論」に渕源をもっている。この革マル派の前衛党論や党派闘争論では、党派闘争自体は自己主張の手段というよりも、むしろ自己目的的に手段化されている。そればかりか、その論理構造は自己の存在性(=党性)と自己の正当性(=党派性)を大前提にした「他者否定」の構造をもっており、内ゲバの否定と報復の連鎖を断ち切る内在的契機を持ち得ていない。さらに、革マル派黒田理論によれば、未来社会において実現すべき理念を「永遠の今」として、それを現在的に体現しているのが自己の党であり、その自己の党の無謬性を前提にして、「他党派解体」「お仕置き党派闘争論」を公然と主張する。この特異な「組織戦術論」と称する党派闘争論が、70年安保闘争を準備した60年代の闘争過程において、新左翼諸党派内で展開された主要な内ゲバでは、ことごとく重要な震源地の一極を占めていた。また、後にも触れるように対中核派との「革共同戦争」において直接の引き金になった。

 8,60年安保闘争と第一次ブントの総敗北の経験から有益な教訓を引き出したのは中核派であった。70年安保・沖縄・全共闘運動の激闘においては、大衆的街頭叛乱、大衆暴動路線へと戦術的に自己限定することに成功した、といっても過言ではない。この点で中核派はブント流の軍事力学主義的拡大路線を排した自己制動を十全に機能させ、政治党派としては飛躍的な成果を勝ち取ったのであった。

 ところが、中核派は4桁の大量逮捕者を出し、破防法適用という困難な事態を強いられた。革マル派はこの間隙をぬって解体攻撃を開始した。中核派は予期しない背腹の攻勢の前に相次ぐ敗北を喫し、長期の対峙戦を余儀なくされた。しかも、最初の犠牲者は革マル派活動家であった。中核派はこれを「過失死」として総括しないで、完全な沈黙を選んだ。また、「強いられた内ゲバ」として革マル派の党派闘争論を真っ正面から批判したり、内ゲバ収束に向けて努力する用意があることを内外に向けて宣明することは一切しなかった。さらにまた、「反革命的」「ファッシスト的」という形容詞的用法と限定的な規定付けを峻拒した。そして革マル派を反革命、ファッシスト、K=K(革マル=警察)連合と断罪規定し、「聖戦論」という単純明快な内向けの論理を対置し、非妥協的党派戦争、絶対殲滅戦の道を選び、内ゲバを断行していった。

 こうした中核派の攻勢的党派闘争論の根底には、初期革共同主義としての「党のための闘い論」に加えて、「党としての闘い」「党による闘い」という独自の前衛党論があり、中核派流党派闘争論の論理的根拠の一つになっている。さらにまた、中核派は「反スターリン主義」、革マル派は「スターリン主義打倒」というように、革共同両派は共に「反帝国主義、反スターリン主義」という独特な政治綱領を掲げている。この「反帝反スタ」綱領は反体制イデオロギー党派をも、反革命規定の下に打倒対象にするという政治イデオロギー論に通底しており、党派闘争論を逆規定していくはずである。

 9, 以上の諸点をふまえた上で、要約的に問題を提起してみたい。

 第1に、階級闘争の場では政治党派をも含めて政治的諸集団が展開する活動のビヘイビアは、政治的ヘゲモニーの自己貫徹力として表現され、時として、その政治的貫徹力や貫徹性は、政治=革命権力の規模、立場性、内容の如何に関わらず、諸集団間相互の角逐、対立へと発展していく普遍的かつ特殊的要因を内包している。また、その限りにおいて政治的対立から派生する党内闘争、党派闘争、内ゲバ、粛清は、政治変革や革命を目指す政治党派が相互の政治的ヘゲモニーの形成・確立過程において顕在化させざるを得ない「潜在的矛盾」であり、同時に、これは止揚すべきものとして不断に問われるが故に、克服すべき重要な「止揚命題」なのである。

 第2に、政治変革や革命を目指す政治党派は、つねに変革・打倒対象との対峙・重囲関係を強いらており、党派自体はその体制との緊張関係のなかで、革命への求心性の度合いに対応しつつ、閉鎖的空間における支配力(閉鎖的空間性)を強いられる。

 例えば、どのようなミニ集団・組織・党派であろうとも、非合法軍事を目指す建党=建軍路線に手を染めた瞬間から、その党派は「ミニ国家権力」へと転化せざるを得ない。また、その瞬間から、自己権力=ミニ国家権力による内外へ向けた自己権力の行使に際しては、その組織の規模とは相対的に無関係に、権力行使や支配の形態、機能、組織のあり方や政治的思想的内実等が、理論的実践的両面から問われてくる。

 その場合、内に向けた団結の質においては、2つの選択の方向性を迫られる。閉鎖的官僚的支配力を強めることで自己権力の維持・拡大をはかるのか、逆に、綱領、政治路線、思想性の質を媒介にした人民との結合のなかに活路を求めていくのか否か、そのような方向性が厳しく問われる。とりわけ、人民との結合と大衆闘争に基礎を置くことを目指して、政治綱領、政治路線、戦略戦術の正当性に依拠しようとしない政治党派は、主観的意図に反し て、必然的に外に向けては独善的、セクト主義的、排他的な政治技術主義的手段を選択し、内に向けては官僚的締め付けや反対派の圧殺という安易な道を選択し、かつ連合赤軍のような粛清を演じることになる。

 同様な歴史の事例に事欠かない。例えば、ソヴィエト権力の維持・強化を至上目的としたロシア革命が、人民のソヴィエト・コンミューン的共同体性や伝統的ミール共同体性に依拠するという、プロレタリア革命の哲理に背を向けざるを得なくなるにつれて、ボリシェヴィキの主観的意図とは逆に、専制的権力支配というスターリン的手法への道を用意せざるを得なかった。

 その意味からすれば、その手法は「スターリン主義」という政治的イデオロギー範疇に帰属させるべきではなくて、むしろ、官僚制国家資本主義的イデオロギーの外化形態としての専制的権力支配であり、「スターリン的政治支配形態」というべきである。ロシア革命総括のキーポイントもこの点に求めるべきである。

 第3に、であるが故に、ロシア革命総括におけるスターリン的政治支配形態に対する批判は、帝国主義列強の世界的重囲と閉鎖空間における革命の維持・防衛・強化・発展を巡る党派闘争の問題である。また、スターリン的支配形態の根拠をスターリン固有の資質や論理に求めて、それを「スターリン主義」と規定して断罪してみても、それは無意味な解釈学を越えるものではないだろう。

 例えば、スターリンの「唯一前衛党論」はスターリン的支配をもたらした「要因」とみるべきではない。あくまでも、それはスターリン的専制支配のための手段として援用された論理であり、むしろ「結果」に過ぎないとみるべきである。だから、スターリン的政治支配形態はそれが「わが内なるスターリン的手法」の問題として、革命運動の深層に内在する「通有の陥穽」に他ならないとはいえ、それをたんなる「革命の宿阿」として受け入れるのか、それとも、越えるべき「止揚の対象」としての党政治綱領、革命路線、思想性の質にその派生根拠を求めていくのか、という総括視点の問題でもある。

 その好例が、「反スターリン主義者党」を固く自認していながら、容易に「スターリン主義者」「スターリン的手法」を演じるという革共同のパラドックスである。このパラドックスにみる歴史の無惨は、スターリン的権力支配をスターリン固有の反革命として批判・断罪するその主観的独善史観と、その裏返しとして、それが革命運動に内在する「通有の陥穽」であるという根底的認識を欠落させたために、厳密な自己対象化の道を自ら閉ざした点にある。

 そのようなロシア革命の総括やスターリン的手法に対して、誤った批判の手法を用いる限り、その歴史の敗北の中から真の教訓を引き出すことは出来ないし、ロシア革命の発展を押しとどめて、最後には革命を崩壊させた歴史の教訓を学び取ることも出来ない。 

 10、すでに、新左翼創成から46年の歳月が過ぎようとしている。この現時点において何が問われているか。疑いもなく、その一つの課題は内ゲバ問題に対するケジメではないか。新左翼諸党派が日々刻んできた過去の激闘史の中から止揚すべき根底的問題点を剔出して、内ゲバ廃絶に向けた再生への道を模索する試みは、過去、現在、未来へと歴史をつなげるための至上命題として、いまもなお厳存しているのではないだろうか。

 付記  取り敢えず、近作のいくつかの目録をお届けします。多少なりとも興味や関心がおありでしたらば、忙中の閑にて目を通して下さい。

主な著述・論文掲載一覧 
(1)「ブント主義をどう考えるのか、一つの試論」(月刊「情況」01年3月号)
(2)「試論−ブントと新左翼運動を検証する」(機関紙「赤星」01年5月、連載6回、情況論文の補強)
(3)「ブント主義=倍々ゲーム論の陥穽と教訓」(「我かく闘えり」さらぎ徳二著、情況出版、01年 11月)
(4)「秘話/ブント『革通派』結成の謎」(「60年安保とブントを読む」島成郎記念文集、情況出版、02年6月)
(5)「東海村JCO臨界事故、検事冒頭陳述の欺瞞を暴く」(「原子力の終焉」季刊アソシエ、蔵田計成・石井崇志/編集、お茶の水書房、02年11月)
(6)「JCO臨界事故の真因と核燃機構の責任」(季刊「理戦」実践社、02年12月、季刊アソシエ論文の補強)
(7)「検証 内ゲバ」(いいだもも・蔵田計成/編著、社会批評社、03年1月)
(8)「大いに異議あり!塩見孝也君の『創』論文」(機関紙「SENKI」03年1月15日・第1098号)
(9)「「内ゲバ廃絶のための私の提言(公開質問状への回答)」(機関誌「SENKI」03年4月5日・第1106号)
(10)月刊機関誌「アソシエ21ニューズレター」掲載小文。「異常と日常の間に見る東海村」(00/10)「歓迎/重信房子への手紙」(00/12)、「臨界事故で露呈した核の本質」(01/11)、社会派カメラマン樋口健二さん」(02/8)、「浜岡原発を止めよう」02/11)
                                  
 6月04日補筆・


【新左翼党派闘争論 蔵田計成】
 第一章 今、何が問われているか

A,墓標


 かって、70年安保闘争・全共闘運動時代は、新左翼諸党派は「5流18派」が群在する党派乱立時代であった。その5流とは、革共同系、共産同系、社青同(革労協)系、構改派系、中国派系である。暴力的党派闘争は、このような新左翼諸党派の細分化過程の中で、街頭武装闘争の高揚を背景に本格化し,やがて全面化していくことになった。以下の統計的数字がその夥しい犠牲者数を示している。

(1)党派内・分派闘争
   1,ブント内分派闘争(69年)                   1名
   2,中核派内ゲバルト(69年)                   1名
   3,京浜安保共闘内粛清(70年)                  2名
   4,連合赤軍内粛清(71年〜72年)                12名
   5,革労協(社青同解放派)内分派闘争(90年代)         9名
                  
(2)党派間・党派闘争
  1,民青による対革マル派の死亡者(71年)              1名
  2,マル青同の襲撃による死亡者                   1名
  3,中核派による対革マル派の死亡者(90年代)            48名
  4,革労協派による対革マル派の死亡者 (90年代)          23名
  5,革マル派による対中核派、対革労協派の死亡者(90年代)    合計15名
                                  総計113名                                      
                  ( 数値は「検証内ゲバ」小西誠論文)

 この数字が意味する特徴点は以下の諸点に要約できる。
 革共同中核派と革共同革マル派の内ゲバによる犠牲者が際立っていること。
 革マル派と革労協派の内ゲバがそれに続いていること。
 革労協派内部の内ゲバでも多くの犠牲者を出していること。
 連合赤軍の場合は、指導部による組織内粛清であること。
 連合赤軍を含めた上記4党派以外の、他の新左翼諸党派は「肉体的抹殺」を前提とした内ゲバを基本的には回避していること。但し、すぐ後で述べるようにその思想的政治的な内ゲバ体質はすべて同根・同質であること。
 内ゲバによる重軽傷者延べ数は、右の数字を数十倍の規模で上回るだろうということ。
 新左翼諸党派の内ゲバが全面化した時期は、60年代後期から開始された「70年安保・沖縄・全共闘運動」とその後の「三里塚闘争」の激闘の中で、階級闘争史上未曾有の街頭武装闘争の高揚期を背景としていたこと。しかし、中核派対革マル派の内ゲバは70年代初期〜90年代後期にかけて、また、革労協派対革マル派の内ゲバは70年代中期〜90年代後期にかけて、超長期にわたる死闘として展開されたこと。
 中核派による対革マル派への内ゲバの位置づけは、「革マル=ファシスト論」「k=k連合論(警察=カクマル)」「二重対峙・対カクマル戦論」として、内ゲバを単なる党派闘争ではなくて、「戦争」「絶対戦争」「殲滅戦」と規定し、一種の党派戦争、宗派間戦争と位置づけたこと。
 革マル派の内ゲバ論(=向自的党派闘争論)の特徴は「教育的措置」「お仕置き論」にある。内ゲバを「イデオロギー的=組織的闘い」と規定しつつ、「革命を目指す陣営内部」の「黙過できないような誤りや堕落」に対して、「革命的暴力による他党派への暴力的解体・変革」を直接的目的にしている点である。さらに、革マル派は、中核派最高幹部本多書記長殺害によって「組織の発展が絶たれたことを確認」して75年「内ゲバ一方的停止宣言」を出し、その後は、仕掛けられた内ゲバは全て権力による謀略であるという「謀略論」を展開し、内ゲバの現場では受動的立場に立った。
10 革 労協派の内ゲバの論理は、革マル派は「白色武装襲撃を最大の存在理由」としており、「武装せる社民化した反スターリニスト」であり、この「反革命的黒田教思想集団」との党派闘争は「革マル解体・絶滅戦である」と規定した。
11  他の多くの新左翼諸党派も、濃淡の差はあるが、「党派闘争における暴力は不可避である」「内ゲバは、階級闘争の過程で派生する人民内部の矛盾の一止揚形態である」とする基本的認識においてはほぼ横並びである。

 12, 党派闘争について、以下付言しておこう。
1)、 政治党派は、諸階級、諸階層、諸団体の存在自体に基礎をもつ、社会的、政治的、イデオロギー的に反映した組織形態であり、新左翼諸党派は綱領、戦略、戦術に関して幾つもの潮流に分裂・分断化されており、場所的、時間的同一空間における、組織上の利害や政治路線を巡る対立を深めていった。
2)、 新左翼諸党派闘争は、大衆闘争の妥当性や優位性を互いに競い合うというような、本来あるべき平和的な妥協の外皮は剥ぎ取り、暴力的党派闘争へとエスカレートしていった。
3)、 それは対権力闘争への求心性の度合いや、闘争の質や形態に逆規定されて峻烈を極めた。矛盾は激化の一途をたどり、止揚の契機を掴むことはできなかった。
4)、 挙げ句の果ては「敵か味方か」「革命か反革命か」の二項対立の構造に至り、阿鼻叫喚の修羅を演じることになった。

 13、いずれにせよ、「内ゲバ必然説」「内ゲバ必然悪説」とは訣別して、真の党派党争論を確立しない限り、新左翼に未来はない。マルクスとバクーニンの党派闘争に始まり、スターリンの大粛清とトロツキーの敗北を頂点にした党派闘争や、我々自身が演じてきた党派闘争の苦闘と死闘の歴史的教訓を論理化し、それを定式化することが重要である。

 B,累々たる負の遺産

 冒頭に掲げたあの夥しい内ゲバの統計的数字は、疑いもなく、新左翼諸党派が歴史に刻み込んだ負の遺産である。しかも、それは決して内ゲバの呪縛の中で偶発的に演じられたという類の惨劇ではない。むしろ、それは階級闘争の名において「正義の鉄槌」「正当なゲバルト」として、バリケードの内部で公然と行使された絶対的暴力である。いうまでもないが、このような痛恨な不条理は、到底、正当化し合理化できるものではない。

 いやしくも、権力を獲得する以前の政治党派たるものは、権力を独占的に専有している相手支配階級の思想水準よりも、二倍も三倍も高い水準において、支配階級を圧倒しなければいけない。たとえ己自身が階級関係に逆規定された存在であるとしても、否、逆規定されているが故に、この被規定的自己は止揚されなければいけないのである。歴史変革を誠実に目指す政治党派であれば、政治路線、思想性、作風の質においてのみ、互いに自己の党派性を競うべきである。その政治路線、思想性、作風の質の実現過程においては、如何なる意味でも、ゲバルトは随伴させるべきではないし、ゲバルトによる「選択の強制」とも無縁である。また、その党派性が妥当性を獲得して巨大な物質力へと転化するのは、それが人民への深い共感と普遍的一体性を獲得したときだけである。歴史変革におけるこのイデオロギーの質量転換の政治的社会的展開力こそが、変革への起動力であり、これが運動のダイナミズムである。だとするならば、政治党派自身が不断に自己止揚すべきものとして自己措定している限り、自ら即自的な否定的行為をあたかも平然と演じることは許されるはずがないのである。

 これまで、新左翼諸党派は支配階級の思想と比べて二倍も三倍も劣る思想の貧困さ、哲学の低劣さを自ら露呈してきた。もし、愚かさを百も承知の上で信じがたいほどの愚行と禁じ手を敢えて行使しているとすれば、その理由と根拠を人民の前に広く開示すべきである。そこに至る経過、必然性、結果を広く批判に晒すことは極めて有意義だからである。 人民を畏れる政治党派であるならば、自己開示することは、問題の本質を他者に広く理解させる上で有意義であるばかりか、誤りに歯止めをかける上で、ささやかながら有効な制動力発揮することになるかも知れない。また、敢えて禁じ手を行使する理由と根拠を開示することは直接の行為者が負うべき当事者責任である。何故ならば、その破壊的行為がもたらす否定的波及効果は当事者の思惑を遙かに越えて、新左翼全体に及び、計り知れないダメ−ジを与えずにはおかないからである。このダメ−ジを少しでも緩和するたための一つの便法に過ぎないとしても、問題の本質を解明するためには、自己開示の努力を放棄すべきではない。

 もちろん、新左翼諸党派の闘いがすべて「否定の対象」というのではない。それどころか、戦後の日本階級闘争史上において、既成左翼諸党派が階級的普遍性を失い体制内化していく中で、新左翼諸党派は多くの政治的、社会的、階級的課題を提起し、新しい闘いの足跡を刻み込んだ。60年安保闘争以来、70年安保・沖縄・全共闘運動を経て現在に至るまで、既成左翼の枠組みを越えた新しい潮流を創出して、さまざまな戦線において社会的役割を果たしてきた。在日外国人、被差別部落民、女性、障害者、寄場などの構造的諸矛盾が集中する社会的階級最深部において、運動の普遍性を求めて反差別=解放の闘いを掘り起こし、構築した。労働運動、農民運動、住民運動、市民運動、消費者運動などの様々な領域においても成果を上げてきた。体制=企業内に寄生化した労働組合組織とその物質的利益の政治的代理人としての既成左翼のしがらみを越えた、新鮮なエネルギ−・ゾ−ンを生み出したことも事実である。

 しかし、先に指摘したように新左翼諸党派はこのような成果を上回るほどの運動の「停滞」「阻害」「破壊」という「負の遺産」を積み上げてきたことは疑いのない事実である。いまや現在の新左翼諸党派が置かれている社会的、政治的、党派的立場は、60年安保闘争当時の社共=既成左翼が置かれた「屈辱の座」にさえ及ばないと言うべきである。

 C,背理への訣別宣言

 一方では、時代への新しい社会的政治的胎動が闇を切り裂こうとしている。市民の息吹が政治党派を飛び越えて時代変革への政治の舞台へ登場し、夜明けの到来を告げようとしている。他方では、資本主義は構造的危機に喘ぎながらも、歴史への逆動の中でグローバリズムという妖怪が事態の急迫を告げている。支配のための魔手は市民の日常生活や思想の中にまで忍び込もうとしている。これは暗黒の歴史への回帰である。

 現在をある任意の過去の歴史の位相と対比させて照らし出す手法が、歴史への戯れ言に等しいとはいうものの、眼前に進行している事態に対して真剣に立ち向かっている人は誰もが痛感するにちがいない。「変革されるべきであった」過去の歴史と、力及ばず「変革され得なかった」現在の歴史を対比したとき、止揚対象としての歴史の到達段階にみる負的落差は余りにも大き過ぎはしないか。これほどに歴史的な黎明と激動の真っただ中にありながら、そこには新左翼諸党派の幻影さえも見いだせない。何がそうさせたのだろうか。
 そればかりではない。かって新左翼諸党派は歴史変革の旗手として歴史的登場を果たしたはずである。歴史を仮定法で語ることが無意味であり、過去の歴史への個人の関わり方を不問にして歴史を論じることが無為徒労であることは百も承知していながら、その歴史の事実に対してはただ驚愕あるのみである。さらに、この原因と結果責任を新左翼諸党派が受容するべき立場にあるとすれば、新左翼諸党派は未だに社会的政治的正義の体現者たり得ていない。また、新左翼諸党派は未だに誇るべき思想や哲学も実現し得ていないという痛苦な結論にたどり着くのである。

 光芒に輝く新左翼の創成理念はいずこへ消えたのだろうか。もし、その創成理念が40年間もの長きにわたって思弁の時空に晒されてきたとするならば、それは「歴史への背理」というべきである。

 革命、闘争、運動の原点に立ち返るまでもなく、新左翼諸党派は「人間らしく生きるため」にこそ歴史変革に身を投じてきたはずである。もし、政治党派が真にこの根源的命題に真っ正面から立ち向かい、その決意性を内在化し得るだけの思想や感性の豊かさを持ち得ているならば、内ゲバ=党派闘争の名において、一回性(たった一度)の命を奪い、個体の発展を永遠に絶つという放逸無残な論理とは異なった決断を選択するか、さもなくば、それがぎりぎりの選択的行為という逡巡と苦渋に満ちた最後的決断に至るはずである。何故か。そもそも戦線の内側に在って、生と死の狭間に屹立する「生きるために殺す」という二律背反的行為を論理化すること自体が論理矛盾であるという自明の結論に到達しているからである。

 また、革命を目指す総ての政治党派にとっては、自己の正当性を主張して相手を批判する行為と、敵対党派へのむき出しの誹謗と中傷を行うという二つの政治的行為は、決して、自己正当化のための等質の権利ではない。前者の自己正当化のための批判は権利としての批判的行為であり、後者の誹謗中傷は、物理的手段をも媒介とする批判を前提にした敵対的関係の外化形態であり、絶対的な敵対矛盾である。そもそも、自己主張や正当化はそれ自体として展開すべきである。たんに相手を誹謗・中傷するのは自己満足、自己暗示に過ぎない。味方内部の敵愾心をかき立てる上には役立つかも知れないが、自己の正当性を他に向けて自己主張することには役立たない。このような、自己の論理的深化を前提にしない他者批判は、他者への否定に過ぎず、自己の創造性の非在という政治的思想的貧困さを露呈するだけである。

 本来党派闘争は組織と組織との間に生じた対立や矛盾を止揚し、より高い次元への相互発展と相互実現の手段に他ならない。ところが、手段であるはずの党派闘争が対権力との闘争過程において目的化されてしまうと、その途端に、凶器へと変貌を遂げて自己主張・保存のための暴力行使に至る。このような手段の目的化は明らかに自己倒錯であり政治的転倒である。

 新左翼諸党派は暴力的党派闘争をはじめとした不条理な党派闘争に対して全面的に終止符を打ち、統一と団結への道を目指すべきである。そのためには、意見を異にする組織対組織の関係性を切り結ぶ有効な相互交通手段、すなわち、対立する組織と組織の間の関係性を切り結ぶ有意義な交通形態を追求し、相互の敵対的関係を止揚するための媒介項=回路を見出す努力をするべきである。これらの関係性の修復と構築は、真の歴史変革を目指す全ての左翼政治党派にとって永久命題であると同時に、新左翼諸党派にとっては特殊現在的な絶対命題である。

 新左翼はやがて創成以来半世紀という長い歴史の転回点を通過しようとしている。その転回点が未来への栄光の階梯に通じるのか、それとも閉ざされた蹉跌の道へつながるのか、それは、新左翼諸党派が連綿と繰り返してきた過去の歴史への背理を、政治路線や思想の根底において総括し、過去への高らかな訣別宣言を結節点として、新たな歴史変革への決意性と方向性を内外に向けて宣明にし得るか否か、その成否の如何にかかっている。

 第二章 創成期新左翼の組織論にみる党派闘争論

1、新左翼創成

 日本の新左翼諸党派における内ゲバ論(党派闘争)、内々ゲバ論(党内闘争)における問題点を解明するためには、創成の源流にさかのぼることも必要である。

 52年スターリンの死を契機にして始まったソ連東欧社会主義の最初のほころびは、56年のハンガリー暴動とポーランド暴動であった。この「蟻の一穴」に触発されたのは、戦後主体性論争に参加した左翼インテリゲンチャーを含む左翼知識人であった。56年「日本トロツキスト連盟」を結成し、58年には「革命的共産主義者同盟」へと改称した。このトロツキストグループの登場は、初発の段階では規模も活動内容もサークル運動に過ぎなかったが、これは日本における「反スタ・トロツキズム運動」の幕開であった。その後、 革共同はトロツキストグループと、革共同黒田派に分岐する。

 この潮流とは同時並行的に、かつ相対的に別個に、日本共産党の学生細胞を中心とした党中央批判グループが存在していた。彼等は、全学連=学生運動の指導路線を巡って党中央と対立を深め、やがて党綱領路線を巡る全面的な党内分派闘争を経て、58年「共産主義者同盟」を結成した。その後この共産同(ブント)は、60年安保闘争では巨大な歴史的役割を果たしが、第一次ブントはそのまま自壊した。こうして、「革共同主義」「ブント主義」に体現される新左翼二大潮流が誕生した。
 
 2,ブント主義と革共同主義

 創成期の第一次ブントは、当時のソ連共産党を頂点とした国際共産主義運動や日本共産党の政治綱領に対する全否定を起点にした。すなわち、一国社会主義→「世界革命」、平和共存→「プロレタリア独裁」、議会主義平和革命→「暴力革命」、唯一前衛党論神話→「マルクス・レーニン主義の復権と真の前衛党」であった。

 創成ブントの政治的立脚点は、復活を遂げた日本帝国主義打倒(反帝闘争)を第一義的な政治課題として、スターリン主義打倒(反スタ闘争)は世界革命の過程における副次的否定対象とした。その意味で、ブントは厳密にいえば「反帝・非スタ・マルクス主義」であった。

 これに対して、革共同(黒田)主義の政治的立脚点は帝国主義とスターリン主義を同時打倒対象とする「反帝・反スタ・マルクス主義」であった。 

 建党組織論に関しては、ブントと革共同双方は際立った相違を見せた。ブントは「真に闘う前衛党創成への道は、決して革共同流の喫茶店オルグや研究会という真空の中の党建設という手工業的組織戦術ではない。現下の階級闘争の烈火の試練をくぐり抜けるダイナミックな組織戦術にある」と主張した。また、ブントは同じ論理で、革共同の「革命裏切り史観」を批判した。革共同が国際共産主義運動批判を、反スタ・トロツキズムの立場から「スタ−リンによるロシア革命への裏切り」、「日本共産党による階級革命闘争への裏切り」を強調する歴史観を主張したのに対して、ブントは、口舌という「批判の武器は、武器による批判に取って代わることは出来ない」として、新党結成→革命的学生運動の戦闘的展開を直接媒介にして既成前衛党=日本共産党への実践的批判を展開しつつ、そうした政治的激闘の中に階級形成論を模索した。そのために、ブントは当時思想サ−クル集団でしかなかった革共同への合流・加盟を拒絶し、「別党コース」を選択し、「学連新党」を結成したのである。

 前衛党論に関しても、ブントと革共同の両派は好対照であった。ブントは前衛党の任務は「闘いを組織することにある」として、「革命への求心主義」「闘うための党」の実現を目指した。また、それを保証する闘争を、戦後学生運動の革命的伝統と、先進的学生運動の先駆性に依拠し、その学生運動によって切り開かれるべき階級闘争の激闘の中に前衛党の未来像を求めていった。そして、伝統に輝く全学連の「層としての学生運動論」「労学提携論」をさらに発展させて、「学生運動先駆性論」「捨て石運動論」に象徴される「ブント主義」を掲げ、60年安保闘争を闘い抜いた。

 3,黒田哲学の思弁

 これに対して革共同(黒田派)の前衛党論は、「プロレタリア的人間論理(黒田哲学)」によるイデオロギ−的・サ−クル主義的集団による同心円的拡大路線のもとで、超主観主義的な絶対主義的イデオロギ−(革命的マルクス主義)集団としての党建設を目指した。 そのために「党への求心主義」「党のための闘い」をきわめて重要な実践的課題として定立した。そして、この黒田式前衛党論がひとたび党派闘争の場に持ち出されて実践的に適用されるや否や、このような自己絶対化という傲岸不遜な党派性は、たちまち「他党派解体」「小ブル雑派解体」という裏返しのネオ・スタ−リン主義的強権発動の党へと変質し、「反帝・反スタ論」同様に、スターリン主義者党以外の他の革命党派をも、容易に解体の対象へと転化させてしまう。しかも「この暴力の行使はあくまでも、暴力を補助手段とした、駄々っ子に対する母親のお仕置きに過ぎない」(解放374号「お仕置き党派闘争論」)という付録まで付いている。また、この前衛党論は運動組織論とともに実践の場においては、甘んじて先頭集団の後塵を拝し、寄らば大樹の陰とばかりアリバイ主義的闘争に臆する色も見せないのである。

 黒田主義イデオロギ−の特徴の一つは倫理主義的観念論にある。その源流は戦後主体性論、とりわけ、梅本=梯主体性論に哲学的基礎を置く。例えば「根元的な利己を含みながら、しかも、その否定においてのみ自己の本来性を獲得する社会的存在としての人間」(「唯物論と人間」梅本克巳)。

 さらに、「自由の王国こそは、現代のわれわれの心の内にある宇宙史的必然性の自覚として、階級的な、党派的な、絶対的信念として、世界観として、闘争の原動力として、われわれのうちに生きている」(「資本論への私の歩み」梯秀明)というのが戦後主体性論の人間規定があり、階級闘争観の基底にあった。この「主体的物質論」「主体性認識論」は「身を殺して仁をなす」式の倫理主義にも等しく、これが梯哲学の実態である。

 黒田哲学はこの上に接ぎ木した思弁に過ぎない。「おのれを自然と社会を貫く物質の無限なる自己運動の尖端に立つものとして自覚し、この物質的自覚において人間の真実の歴史を創造してゆこうと決意し、実践する革命的人間の形成――これが……現代的人間の生きた理想像でなければならない」(「現代における平和と革命」黒田寛一)。

 このように、黒田主義は一方において観念論的人間観を前提に「革命的マルクス主義」(反帝・反スタ・マルクス主義)を絶対真理=理想として「物質的自覚論」を説くのである。まさに、それは法会を主宰する「現代の聖マックス」を彷彿させるに十分であった。

 4,貧困なる思想の超剋

 新左翼諸党派は、このブント主義と革共同(黒田)主義という二つの潮流の激しいせめぎ合いの中で激闘を展開してきた。ここでいう「ブント主義」はたんにブントの専有物ではなく、それを「新左翼主義」に置き換えることも可能である。

 63年革共同第三次分裂によって生まれた中核派の結成は、結果的には安保ブント崩壊の後を受けて、革共同という組織・思想・理論の迂回を経た後で登場した「再生ブント」という側面を色濃く持っていた。「革共同(黒田)主義」を純化させたのは革マル派であり、中核派は両者を並呑・並列させた「双頭のワシ」であった。また、60年安保闘争の中で登場した社青同解放派(革労協)の「一点突破全面展開論」も「ブント主義」そのものである。その意味では、ブント主義=新左翼主義といえるかも知れない。

 既述したように、ブント主義は二つの側面を持っている。一方では運動=闘争への極限志向、革命への求心主義、根元指向(ラディカリズム)であり、他方では先駆性論、捨て石運動論、自己犠牲と献身としての「英雄主義的玉砕主義」である。そして、このブント主義は新左翼運動の源流であり、60年安保闘争を推進した動因力であった。

 さらに、このブント主義から派生する戦術論は、形態論的には常に戦術の幾何級数的拡大を極限的に指向する「倍々ゲ−ム路線」でもあった。その後を継いだ第二次ブントはブント主義が胚胎する「正負の二面性」をそのまま無媒介的に継承して、「行け行けドンドン路線」の下に対権力闘争に向けて戦術と闘争手段(武器質)をエスカレ−トさせ、軍事力学主義的に武装闘争を全面開花させていった。その中で、闘争は自らの発展段階に照応した戦略・戦術・思想の質をもつとはいうものの、その激烈な闘争過程で派生する組織の内部矛盾、組織間の相互矛盾、路線対立を止揚するための回路=思想の質を獲得し得ないために、内ゲバを専行的に行使することになった。

 最後には連合赤軍の粛清に示されているように、政治路線の極限的志向の結果もたらした「銃による殲滅戦」という最悪の誤りが、闘争主体の思想性の質や団結の質において最悪な形で矛盾を露呈し、その矛盾の止揚のために最悪な手段を行使するという極限的な悲劇的結末を迎えてしまった。

 だから、連合赤軍の粛清の根底には、二つの極限志向性、つまり、「闘うための党論」に体現されているような「戦略・戦術における極限志向」と「思想における極限志向=革命への求心主義」「銃を持つ主体の共産主義化」を内実としたブント主義という二つの極限志向性が、「思想・哲学の貧困」を媒介にして、逆否定的に全面外化したのではなかろうか。

 いま問われていることは、戦略綱領、政治路線の総括、貧困なる思想の超克、真の哲学の実践的獲得である。

 本ページに掲載した論理展開より、もさらに詳しい「内ゲバ論」は、近刊「検証 内ゲバ」(いいだもも、蔵田計成共編著、社会批評社)収録されている。




(私論.私見)