ブント内「内ゲバ」事件について

 (最新見直し2005.12.29日)

 ここで、ブント内の内ゲバ史を確認しておく。革共同内の党派間ゲバルト、連合赤軍内の内ゲバの凄まじさに目が向き、気づかなかったけれども、ブント内の内ゲバも相当刻まれていることが判明する。違いがあるとすれば、革共同内の党派間ゲバルト、連合赤軍内の内ゲバが殺人的なものであったのに比して、結果的に死に至った事例もあるが幾分か手加減されたものになっている、と云うやや穏和さが認められるという程度の差だろうか。そういう違いが認められるものの、相応に発生していることを確認しておく。

 2003.9.16日 れんだいこ拝


【】
 「Toshiyasu Matsuoka」。
 学費値上げ白紙撤回を勝ち取ったことで名を挙げた、かつての中大ブント(のちの叛旗派)といわれる伝説的な学生運動のグループのリーダー・神津陽さんから面罵されたことで、素朴単純な田舎者の私は「7・6事件」という、50年余り経った今でも<闇>の部分が多い事件についての探究を始めました。『一六六九年 混沌と狂騒の時代』(松岡執筆)、『一九七〇年 端境期の時代』(中島慎介執筆)、そして最新刊の『抵抗と絶望の狭間』(重信房子、中島慎介執筆)にて、かなりのページを割いて掲載しています。神津さんには、私たちを罵倒するのはいいが、この「7・6事件」が日本の学生運動に、どのような深刻な影響を与えたのかの反省はないのか!? そのまま転載しておきましょう――。画像は当時の新聞記事。神津さんは、望月上史さんが亡くなった時のお母さんのうなだれた姿を見て、どう感じるのか?
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 叛旗派「回覧板」Quote
 7・6事件余話~大谷行雄よ・雉も鳴かずば撃たれまい! 投稿者:神津陽 投稿日:2022年 2月17日(木)01時04分53秒

 ★1969年7・6仏派襲撃事件とそれへの報復のブント主流派の赤軍幹部拉致事件につき、70年同志社大入学の松岡利康は「遥かなる1970年代~京都」で中大1号館からの望月上史転落死は新左翼の内ゲバ事件第一号だと書いた。それを読んだ神津はその出版記念会に出て、「年少者が噂話だけで見てきたような嘘を書くな・当事者の証言を確認し嘘内容を撤回せよ」と迫った。被害者の筈の面々がリンチを否定していることが分かっても、松岡からは未だ連絡も謝罪文も届かない。

 それから三年余も経って69年当時はブント系の高安闘委委員長だったと言う大谷行雄が、神津発言は真っ赤な嘘で中大でリンチはあったのだと情況22年冬号に書いた。当時はリンチまがいのことが日常的にあり、赤軍系の仏ほか中央委員会への7・6攻撃を知り反撃をしてきた連中がリンチをしなかったはずがない。大谷は部屋の外から怒鳴り声や悲鳴に近い声を聴いたし、2日後に自分だけ開放されるときに見た塩見たちはボコボコにされリンチされたように見えたと言う。


 ここで大谷は新左翼と民青や右翼との対立や党内闘争でも生じる同志的拮抗の際の暴力と、連合赤軍事件の粛清や中核・革マル間の殲滅戦などの他者排除のリンチの区分の常識を故意に無視している。仏徳二はリンチと言う手法は赤軍派が導入し7・6事件を起こしたと話し、赤軍派も結成時に自己批判した。拉致された赤軍の物江は中大で暴行を受けたが、相手はウッスラ涙を浮かべながら同志的態度で殴っていたと書く。私も後に物江からトラブルの原因は赤軍派の襲撃とその結果としての仏さん逮捕にあったと謝罪された。同じく花園も被拉致者が手指を砕かれていたのなら死んだ望月と一緒に逃げた花園・塩見・物江も転落死したはずだと、鹿砦社主・松岡利康の見ていたかような嘘を否定している。

 問題は7・6襲撃事件の後で高安闘委員長を降格され、赤軍を離脱し荒派に接近し70年5月に渡米し南イリノイ州立大に留学した大谷が、なぜに50年後に松岡利康に続き憶測発言を蒸し返してきた理由だ。大谷は2020年開催の「高校生が世界を変えた!50周年集会」などの呼び掛け人で最も熱心な推進役だったようで、情況2022年冬号にも教育大付属駒場高校バリスト時の自分の写真まで載せている。ならば大谷はさぞかし高校全共闘で大活躍した筈だと誰もが思うだろう。

 教育大付属駒場高校で大谷の一学年下だった四方田犬彦の「ハイスクール1968」を読むと、全共闘のバリケードストは1969年12月8日に起きたが,機動隊出動要請の噂が流れ首領格の共産主義者同盟の釜石が同日夜にやめたと宣言してバリケードを自主撤去したらしい。泊まり込みのための食糧を自宅で用意して戻った四方田は、人ひとりなく電気も消えバリケードが撤去された様子に驚いたそうだ。この1日だけで終わった全共闘バリストを主導した釜石が、何と大谷行雄だったのだ。


 全共闘の初期メンバー7人は、68年世界反乱の政治的・文学的・音楽的・演劇的拡大を察知したメンバーらしい。釜石と近松がその機運に乗っかり、学内2名と学外の高安闘委メンバーが手慣れた手つきで簡易バリケードを作り学外メンバーはすぐ退去した。教駒全共闘は教育大筑波移転粉砕と文部省通達粉砕と構内掲示物検閲廃止をスローガンとし、参加者は増えたが1日で終了し団交もなく終了通告もせずバリケード自主解除では、全共闘以前ではないか?四方田本は目配り広く1968年前後の十代後半の都会青年の、68年的文物への幅広い関心や収集や接近や感想を記して興味深い。文化的関心は当時全盛期を迎えた青山・竹早・新宿・駒場・豊多摩など近隣高校バリケード参加者と近接していても、1日バリケード闘争の試みは流行便乗に過ぎなかったように見える。


 教育大付属駒場高校は四方田の19期では160名の生徒中で110名が東大進学する超名門校故に、教育大筑波移転粉砕と言ってもリアリティが弱い。教員は安定の中での進歩的装いが好きで共産系が多いが逸早く筑波移転賛成に転じ、生徒もその誘導の影響が強い。実質男子6年制学校で68年的思潮へ関心を持つ文化的生徒グループは当初より全共闘的だが、校内指導体制も生徒会も多数派は共産系なのだ。だからこそ文化的グループは全共闘の永続に過剰な期待を寄せていて、四方田はケーキ工場に通い授業は欠席 、だが期末考査ボイコットに失敗し、低成績で復校する。高校に足場のない釜石や近松は党派活動に戻り、文化的グループはばらばらだ。これが全共闘に値するのか?

 筑波大付属駒場高校の正史からは既に1969年のバリスト記録そのものが消されていると言うが、四方田犬彦は一浪して東大文Ⅲに入り明学大で映画論など教えつつ、三十余年も拘泥し続けてきた1969年のバリストの1日の意味を50歳の時に「ハイスクール1968」で浮上させようとした。東大に行かず米国に留学し誰とも音信不通との大谷行雄は、70歳近くなって高校闘争50年で関係者再結集を訴え、教駒高バリケード時の写真を掲げて7・6明大和泉校舎襲撃事件で高安闘委委員長だった自分が仏徳二の足を折ったのだと突然に自白する。この流れでは全共闘魂は明らかに四方田の側に継続されていると思われる。なぜ大谷は今になってこんな証言をしたのだろうか?

 ★★大谷は情況2022年冬号で、7・6事件の場で自分が椅子に置かれた仏の足を折ったと自白する。だが高校生が暴走したとの風評は嘘で、花園か田宮かの指導部が命令したので足を折ったと弁明する。そしてこんな赤軍指導部の脅迫的同調圧力が連赤事件の仲間殺しを生んだと言う。こんな赤軍高校生の未熟な自分が足を折るリンチを加え仏逮捕を招いたのだから、報復に来た叛旗が赤軍幹部をリンチしない訳はない→リンチした筈だとは、赤軍と叛旗の区別も出来ぬ幼稚園的暴論だ。大谷がリンチを許せぬなら自己反省を徹底し、高安闘委委員長の立場で公然と赤軍指導部批判をすべきだった。だが大谷は早々に赤軍を辞めて戦旗荒派に近づき、米国留学してしまうのだ。

 大谷は高校生ながら職業革命家を目指していたと言うのだから、仏の足を折ったのなら自分の足も折られても文句は言えない。だが大谷は赤軍内で指導部批判も議論もしないで、戦旗の下に逃げ込む。7・6明大での仏派学習会を赤軍は中央委と勘違いして襲撃したが、そんな情報も三多摩叛旗社の私には届いていない。破防法被告の仏議長逮捕へ道を開いた赤軍を糾弾するぞとの池亀の連絡で医科歯科大自治会へ向かった中大組は三上治統括のバリケード防衛隊だが、三多摩叛旗は入っていない。赤軍系幹部の役職防衛のため全力動員された組織部隊に大谷はいたが、叛旗派は違ったのだ。また中央委を明大で早朝に行う訳もない。

 1969年後半期は全共闘は退潮期に向かい、中大バリケードも学館開放など課題山積みで全国全共闘結成前の微妙な時期だった。そこへ勃発したのが赤軍派7・6明大和泉校舎襲撃・その結果としての破防法被告仏徳二共産同議長逮捕事件だった。仏議長や佐藤秋雄中央委員をリンチした赤軍派の分派行動は許せぬが、中大でも三多摩でも叛旗派には詳細情報は分からなかった。医科歯科大に向かい赤軍派を捕獲し主要幹部を中大に拉致したが、先例のないことで対処方法も分からない。現場では全共闘ルールに従い道義的に対処したが、実際は手間暇がかかる厄介者扱いだった。

 ともかく拉致したからには監視・管理は必要で、何も役立たぬ4名に毎日の食事を与え、内部での議論も認め、外部からの訪問も自由で、拉致者の側のメリットは何もない。そこで正規に8月26日に解放すると塩見に通告したが塩見は花園・物江・望月には一言も伝えず、全員が25日夜に3階からロープで脱走をはかり体力が弱っていた望月が途中で落ちたのだ。望月は塩見に結核による体力弱化を伝えたがこれも塩見は他に伝えず、9月26日に望月は病院で死んだのだ。この件は望月死亡後に巷の雀の噂話で叛旗に殺されたようなものだ→叛旗にリンチされて死んだと捏造され、同志社大文連などから叛旗も上品ぶっているがリンチもするのだという悪評が広がったのだ。

 望月死亡に関しては最悪人の塩見は死んだが、花園も物江もリンチ死ではないと証言している。また脱出後に病院に見舞いに行った者も証言すると言う。必要なら公開討論をしてもよいよ。それより不可解なのは情況2022年冬号での、7・6明大襲撃で共産同仏徳二議長の足を折ったのは私だとの大谷行雄の初めての?証言である。当時の赤軍派と戦旗や叛旗との関係はもとより、特に破防法被告だった最高指導者の仏議長を逮捕された仏派の赤軍派への怒りは尋常ではなかった。叛旗互助会忘年会に花園は二回参加したが、二回目に仏派の佐藤秋雄と同席となり秋雄ちゃんは時間が経てば赤軍のリンチが消える訳がないと花園を罵倒したのだ。

 病院に簡易担架で運搬中に機動隊に見つかり、仏さんは「もういいからお前らは逃げろ」と言ったので置き去りにしたらしいと大谷は言う。仏さんには逮捕状が出ているが、なぜ病院への運搬人たちが逃げねばならぬのだ? 足を折られなかったら歩いて帰れた仏さんは、上命下服の高校生に足を折られてそんな革命家予備軍を生みだした共産同にどれほど無念だったろう。高校3年の赤軍派高校生の大谷はそのまま東大に進めば仏派に報復されると考えて、米国留学へと逃げたのではないか? こちらが何も触れぬのに、自分は仏さんの足を折ったが、そんな時代だったから叛旗派も拉致した赤軍派幹部をリンチしたに違いない、リンチはなかったと言う神津は嘘つきだ!と絡んでくる大谷行雄の根性はよほど歪んでいるように思える。こんなことが言えるのはドバイ永住を決めたからか、70歳を過ぎたからか、いくら金を稼いでも、そんな歪み根性では心は解放されないよ!仏派も神津陽も叛旗も戦旗荒派も全ブント関係者も教駒高はじめ全共闘参加者をも舐めている大谷行雄に、恥はないのか?

【「7.6事件 謝罪と報告」(2018年9月14日)(高原裕之氏)】
 以下はさらぎ議長を襲撃した赤軍派に属した高原裕之氏の、「塩見孝也お別れ会」を実行する過程で発表された。
 http://0a2b3c.sakura.ne.jp/7.6takahara.pdf
 1968年11・7闘争においては、のちに叛旗派・情況派を形成するグループの反対を抑えて「霞が関中央闘争」を貫徹、敗北。「中央権力闘争」のエスカレートと相次ぐ敗北の中で、塩見孝也はブントの指導権の奪還をめざして赤軍派を結成する。7・6の会議をブント中央委員会と考えた塩見グループはテロを実行する。以下、高原氏の文章を引用する。
 「内ゲバ」を超えた「リンチ」であった。日和見主義とみなして憤激し攻撃を加える動因はあった。しかし、それを超え、組織を統制し、指導部の指導権を維持する動因があった。この最悪の動因で過酷に暴力を行使してしまった。武装蜂起、革命戦争を非現実的と感じても「武装闘争の否定=転向」の論理からも抜け出せず、結局は連合赤軍事件まで行って初めて止まった。(「7/6事件 謝罪と報告」)。

 さらぎさんはいわゆる「内ゲバ」のたんなる被害者ではなく、加害者でもあった。再建ブントの分裂集会後の旧マル戦派の幹部・望月彰氏に対するテロ・リンチをこう自己批判する。
 「旧マル戦派の幹部に対するテロ・リンチについて体をはって阻止せず、黙認した以上、政治局員と幹部には、直接手を下したものと同じ責任があるのです。(中略)このリンチという手法は、次に赤軍派が、破防法で権力から追われる私に行使した七・六事件へとエスカレートし、その思想的総括がないままついに連合赤軍による十二名の同志殺害に至ったと私は思っています。私に暴力を集中した田宮は既にピョンヤンで死亡し、高原は愛妻の遠山さんを永田に総括され殺されました。生と死の境を彷徨して生還した私なればこそ総括が不可欠なのです。(中略)連合赤軍のリンチによる同志殺人や、これとは異質であるが、中核・革マル戦争が、学生や労働者の新左翼に対する心を遠ざけたことも認めざるを得ないでしょう。私の総括はまだまだ終わりそうにありません」。(情況1999年7月「革命に生きる」)。

 当時はブントに限らず、新左翼も日共民青も、党派闘争や党内闘争を暴力で決着つけることが常態化していた。当時は親や教師が子どもを殴ることも当たり前だったが、左翼の世界も暴力で他人を支配し序列化する家父長制イデオロギーから自由でなかったし、大衆の前衛たる左翼であるというエリート意識ゆえに、内なる反革命と向き合うことなく、否定し乗り越えなければならないはずの敵階級のイデオロギーを温存してしまう。この中からカクマルのように他党派の解体・再編を組織づくりの自己目的化したカルト組織も生まれてきた。革共同両派の「反スターリニズム」の下で本家日共より愚劣で悪質な「スターリニズム」が拡大再生産された。昨年亡くなった蔵田計成氏がさらぎさんに送った手紙が、学生運動や新左翼運動の歴史を知る上で欠かせないれんだいこ氏のサイトで公開されている。このページには、さらぎさんのインタビュー『革命に生きる』も文字起こしされているので、ぜひ参考にしていただきたい。







(私論.私見)