戦前の治安維持法等弾圧諸法令と被害の実態について

 (最新見直し2007.5.3日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、前の治安維持法等弾圧諸法令と被害の実態について検証する。


 戦前の治安維持体制維持には次の法律ないし体制があった。◎治安維持法等の弾圧諸法規、◎警察と憲兵の相互補完、◎内務省警保局、◎特高警察、◎予防拘禁制度。犯罪を起させないために、人を集めれば警察へ連れて行かれた事前予防検束逮捕制度。罪状なくして連れて行かれることになった。◎「被疑者に対する不当な長期拘留」、「人身保護令状条項の欠如」、「自白強制の為の拷問使用」


 2002.7.21日赤旗日曜版の党創立80周年記念不破講話記事の中に次のような資料があったのでこれを参考にする。 

治安維持法による犠牲者(衆院予算委員会での不破哲三氏の総括質問、1976.1月から)
逮捕者総数 数十万名
検事局に送検された者 75.681名
送検後死者数 1682名
逮捕され拷問で殺された者 65名
逮捕が原因で獄死した者 114名
逮捕の後病死などでの死者 1503名

 決着はまだつけられていない

 私がさらに強調したいのは、この事件は決着済みだが、戦前の暗黒政治そのものの問題はまだ決着がついていないということであります。私は、一九七六年に民社党などの反共政党が、この事件を国会に持ち出したときに、(衆院)予算委員会でこうのべました。「この治安維持法によってどれだけの人が共産主義者の名をもって逮捕されたか――完全な統計はありませんが、司法省の調査によってみると、検事局に送検されただけでも七万五千六百八十一名です。送検されない段階の逮捕を合わせれば、これが数十万に上ることは容易に察知されることです。 しかも、治安維持法で逮捕された被告に対してはあらゆる人権が認められませんでした。そのために多くの人びとが共産党員として命を落としました。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟という組織が調査したところによりますと、逮捕されて、現場で、留置場で拷問などによって虐殺された者が六十五名、そういう拷問、虐待が原因で獄死した者が百十四名、病気その他の理由で死亡した者が千五百三名、全部で千六百八十二名が、わかっているだけでも治安維持法によって逮捕され、虐殺され、死亡しているわけです」(衆院予算委員会総括質問、一九七六年一月三十日)ここでつけくわえますと、この勇気ある不屈の先輩たちのなかに、党幹部だった夫の裏切りにもめげないで最後まで節を貫いた伊藤千代子さんや、コンパクトに「闘争・死」という言葉を残して獄死した飯島喜美さんなど、多くの若い女性たちがいたことを忘れることはできません。いま名前をあげたこの二人は、ともに二十四歳の若い命を落としたのであります。

 このときの予算委員会で、私がこういう事実をあげて、治安維持法をどうみるかということを質問したのにたいし、当時首相だった三木武夫氏は、“戦前の法律のことだから私がいろいろ価値評価をいたす立場ではない”と逃げました。再度の質問にたいしてもようやく「今日の事態から考えると、好ましい法律であったのではない」というにとどまりました。三木武夫氏でさえそうだったわけです。これは、あの暗黒政治が国政を担う政権党としてまったく清算されていないことの現れでありました。

 しかし歴史の審判は、すでに明白であります。日本共産党が多くの犠牲者を出しながら、「主権在民の民主主義の旗」、「侵略戦争反対の平和の旗」をかかげたことは、わが党の誇りある歴史であります。(拍手 それは、日本共産党にとってだけ意義を持つことではありません。このたたかいがなかったら、民主主義も、平和も、すべてが敗戦による外国からの輸入品だということになってしまうではありませんか(拍手)。明治初期の自由民権運動以来の、民主主義の伝統をになってのわが党の戦前の活動と役割には、まさにその意味で、国民的な意義があったのであります。そのことを強調して、次の問題、戦後の歴史に移りたいと思います。


【当局の弾圧の威力と転向政策、思想問答の様子】
 当時、治安維持法が猛威をふるった。1925年に「国体を変革し、または私有財産制度を否認することを目的とする行為を処罰するために制定された法律」で、無政府主義や共産主義の取り締まりを意図していた。同法は、戦後の1945.10.4日にGHQにより「政治的・公民的及び宗教的自由に対する制限除去の件(覚書)」が発布されるまで続いた。
当時の治安維持法違反検挙者数及び起訴者数
 治安維持法が猛威をふるった間の検挙者数、そのうちの起訴者数、虐殺者数は次の通りである。

西暦 和暦 検挙者数 起訴者数 虐殺者数 被虐殺者名
昭和3 3.426 530
昭和4 4.942 339
昭和5 6.124 431
昭和6 10.422 307
昭和7 13.938 646
昭和8 14.624 1.285
昭和9 3.994 469
昭和10 1.772 112
昭和
昭和
昭和
昭和

【共産党の転向対策無策考】
 当局の転向政策をこれから見ていくが、「転向政策に触れる前に、共産党の組織自体に、『転向対策』とでもいうべきものが何もなかった、ということは指摘しておきたい。石堂清倫氏は、共産党の側に『非合法活動でありながら、捕まったらどうするかということについての方針らしいものがない』ことを述べている(いいだ+石堂+菅+丸山1983年」

 「しかし、もちろん、秘密の保持などといった一般的な心得はあったであろう。だが、たとえば積極的に偽装転向をして早く獄外にでるべきか否か、といった問題については、個人や一部の集団が各自勝手に方針をたてていたらしい。そのため、せっかく獄外に出たものが、党に戻っても信頼されなかったりするようなことも起きた。逆に言えば、もし当時の共産党が、党員たちに偽装転向を推奨し、一日も早く獄外に出て活動を再開するよう方針をたてていたら、国家権力の転向政策なるものは破綻せざるを得なかったであろう」。

【転向政策の巧妙さ考】
 転向政策のまず第一のポイントは、転向者たちの継続監視にあった。「転向者にたいして、官憲の警戒と不信の目、周到な監視は活動家時代と少しも変わらなかった」、「しかも1932年の「熱海事件」以降の共産党(またはそれに関連する運動)と警察権力の力の差は圧倒的であって、1935年に最後の中央委員が検挙されたあとの党再建運動はほとんど全てアッという間に潰されている。それ以降の弾圧の強力さは言うまでもない。このように監視を怠らないことによって、共産党なり共産党以外の社会運動を封じるのである」(伊藤晃、1995年)と証言されている。

 「転向ブーム」による転向者の増大と共産党の弱体化(消滅)の中で転向政策に変化が見られていった。一つは、物理的な意味で、共産党関係者を監獄にとどめる時間を延ばしたことである。やがて1941年には「予防拘禁制度」にまで行き着いた。「予防拘禁制度」とは、転向を表明してない「非転向者」や、転向してもそれが不十分だと思われる者の「再犯」を「予防」するために「拘禁」する制度である。こうして、治安維持法で捕まった者たちの身柄は厳重に拘束されることとなった。佐野・鍋山転向声明までは、「非合法的政治活動との絶縁」を誓うだけで「転向」と認められた。しかし転向ブームの中で、「一切ノ社会運動ヨリ離脱」することを誓うだけでは「準転向」としてしか扱われないようになり、「本当」の「転向」と認められるためには、活動内容ではなく「革命思想ヲ放棄」することが要求されるようになった。つまり「行動」ではなく「思想」が罰せられるようになった。この変化は1938年の「思想犯保護観察法」の成立とともにさらなる「転向」概念の「深化」を生み、「革命思想ノ放棄」だけでなく、放棄した後にどのようにあるべきかをも規定するようになってくる。そこでは「日本精神の体得」まで進まなければ「転向」とは呼べないといった議論が行われるようになる。しかし、その「日本精神」とは何か、といったことになると「司法当局もいっこうにわからない世界へまぎれ込みつつ」あった。





(私論.私見)