上耕考 |
(最新見直し2011.08.18日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
宮地健一氏の「追悼・上田耕一郎 その歴史的功罪」、「ウィキペディア上田耕一郎」その他を参照する。以下、通称の「上耕」として表記する。上耕をどう総評すべきだろうか。即席でサイトかしておき、後日そのつど書き改めることにする。 2008.11.11日 れんだいこ拝 |
【上田耕一郎履歴総評】 |
1927.3.9日−2008.10.30日。 日本共産党中央委員会名誉役員。長く参議院議員として活動するとともに、党中央機関紙赤旗編集長、党宣伝局長、政策委員長、副委員長などを歴任した。日本共産党前議長の不破哲三(本名・上田建二郎)は実弟。 |
【上田耕一郎履歴その1、前半生】 |
1927(昭和2).3.9日、教育評論家の上田庄三郎の長男として神奈川県茅ヶ崎市に生まれる。府立六中(現東京都立新宿高等学校)を経て、1946(昭和21)年、旧制一高在学中に日本共産党に入党、一高細胞を結成する。東大入学後、日本共産党細胞一期生として活動する。が、この時代に結成された全学連の指導的幹部には成り得ていない。1951(昭和26)年、東京大学経済学部を卒業。党東京中野地区委員兼中野新報の記者として地域のオルグ活動に取り組み、いわゆる「中野懇談会」を足場に活躍する。 |
【上田耕一郎履歴その2、「戦後革命論争史上・下」出版で名声高める】 |
1956(昭和31)年、不破哲三共著「戦後革命論争史上・下」(大月書店)で左派論壇にデビューする。この時、上耕は、有り得べからざる剽窃をしていることが判明させられている。宮地健一氏の「共産党問題、社会主義問題を考える」は、「上田・不破『戦後革命論争史』出版経緯」で、同書が石堂清倫、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦らとの共同研究共著であったにも拘らず、上耕−不破共著の体裁で出版し、当事者の一人の石堂氏が告発するまで自著として喧伝し振舞っていたことが判明させられている。以降、構造改革派として論客ぶりを発揮する。ここまでを前半生とする。 |
【上田耕一郎履歴その3、党中央への出世階段登りつめる】 | ||
どういう経緯か不明であるが宮本顕治に登用され、綱領論争の中で第8回党大会で確定した反帝反独占の民主主義革命の現綱領の立場に立ち、弟の不破哲三と共に活躍する。 | ||
日共の理論機関誌「前衛」1962.10月号に、上田耕一郎論文「2つの平和大会と修正主義理論」が発表されている。上耕は、同論文で、当時のソ連核実験を擁護し次のように是認している。
これによれば、当時の日共指導部が公然と「如何なる国の核実験にも反対、への反対」を唱えていたことが歴然と判明しよう。日本原水禁運動はこの前後、「如何なる国の核実験にも反対」か「如何なる国の核実験にも反対、への反対」かを廻って原水禁と原水協に分裂する。日共はその後政策転換し「如何なる国の核実験にも反対」へとシフト替えするが、上耕の自己批判はない。 |
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1963年、不破哲三との共著で「マルクス主義と現代イデオロギー」( 大月書店)出版 。1964年、党中央委員会理論政策委員に抜擢され党中央委員会に勤務。同年、第9回党大会で中央委員候補に選出される。1965年、「マルクス主義と平和運動」 (大月書店)出版。1966年、第10回党大会で中央委員に昇格。その後、政策委員会責任者になる。1968年、「1970年と安保・沖縄問題」(新日本出版社) 出版。1969年、「統一戦線と現代イデオロギー」(新日本出版社)出版。1970年、第11回党大会で、幹部会委員、赤旗編集局長に就任。 | ||
1971(昭和46)年春、党中央批判の声を挙げた愛知県県委員U氏の専従解任事件が発生した(「愛知県県委員U氏専従解任事件」)。宮顕の意向を挺した副委員長・上耕が弾圧の指揮を執り、U氏は自己批判を強要された挙句、専従解任された。理論イデオローグとしての才能を見出された上耕が、更なる党内出世階段を上るために汚れ役を引き受けさせられ、当人が確信犯的に実行していることが分かる。この経緯については、「宮地健一の共産党問題」の「1969年愛知県指導改善問題」が詳述している。 | ||
1972年、「日本の進路とマルクス主義」 (新日本出版社)出版。この頃、新日和見主義分派事件が発生し、査問委員として中心的役割を果たす。宮地氏の「追悼・上田耕一郎 その歴史的功罪」は次のように記している。
同年6.28−30日、上耕の「沖縄闘争と新日和見主義」論文が赤旗紙上発表された。上耕が、査問に於いても理論的批判に於いても中心的活動をしていることが判明する。 |
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1973(昭和48)年、「先進国革命の理論」( 大月書店)。第12党大会で「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」についての報告に立ち、この大会で常任幹部会委員に選出される。
この頃、「物分りの良い上耕人気」が生まれていた。 1974年、「上田耕一郎対談集」 (大月書店) 、1974年、「民主的変革の道の探求」( 大月書店)、1974年、工藤晃共編著「民主連合政府で日本はこうなる 覆面批判への反論」( 新日本出版社)。 |
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この年、第10回参議院議員通常選挙で東京選挙区から出馬し初当選、その後連続4期務める。赤旗の10.31日付け論文「日本共産党元副委員長 上田耕一郎さん死去」は次のように評している。
今日、ロッキード事件の胡散臭さが大衆的に確認されつつあるが、当時の日共、その中でも特に上耕が田中角栄批判の先鋒を務めていた事が分かる。この問題の犯罪性は、政府自民党内の暗闘に於けるハト派の総帥を叩くことで、その後のタカ派の総帥中曽根を引き出す水路となったことにある。宮顕−野坂系日共路線の本質が露呈していると窺うべきであろう。 |
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1975年、飯塚繁太郎共著「現代危機と変革の理論」(現代史出版会)。1976年、「赤旗」編集局長などを経て副委員長に就任。 1976年、不破哲三共著「理論戦線の到達点と課題」(日本共産党中央委員会出版局)。1976年、幹部会副委員長に選出される。編著「構造疑獄ロッキード」(
新日本出版社)。 1979年、「現代を探る 上田耕一郎多角討論」( 白石書店) 、1980年、「講座現代日本と社会主義への道」( 新日本出版社) 、1980年、「上田耕一郎政策論集 政策活動の理論と実践」(上下 新日本出版社)等々。 |
【上田耕一郎履歴その4、兄弟査問のピンチに遭う】 |
1982年、上田耕一郎・不破哲三査問。 1983年、上田副委員長、不破書記局長は、前衛8月号に、それぞれ6ページづつの長大な「自己批判書」を公表させられた。その内容は、1956、57年に出版した「戦後革命論争史上・下」に対する自己批判であった。執筆内容、出版行為に「自由主義、分散主義、分派主義の誤りがあった」と認めさせられていた。上耕は、かっての著書「戦後革命論争史」を絶版にし、「自己批判」を強要される嵌めに陥る。(「上田・不破査問、「自己批判書」公表における奇怪な屈従者の顔」) |
【上田耕一郎履歴その5、復権し弾圧官として再登場する】 |
1985年、東大院生支部の「党大会・宮本勇退決議案」提出に対して、粛清事件の共同正犯となっている。党大会に向けた代議員選出の東京都党会議で40分間にもわたって「院生支部批判の演説」をし、「勇退決議案」を掲げて院生支部総会で正規に選出されたY氏の代議員権を「分派活動」ねつ造手口で剥奪した。 1990−91年、選挙対策局長。6月、「日本共産党への手紙」が教育史料出版会から出版され、大きな反響を呼んだ。加藤哲郎論文「『科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官に」と藤井一行論文が宮顕の逆鱗に触れ、編集をした有田芳生を査問し、除籍した。さらに「党本部勤務員にふさわしくない」と専従解任をした。教育史料出版社社長が査問され、党員権6カ月間停止処分に付された。上耕は、出版前の当初は有田に対していい企画だよと激励していたが、手のひらを返すように態度を一変させ、この出版粛清執行に副委員長として賛成した。 |
【上田耕一郎履歴その6、不破にバトンタッチし裏方支援に回る、晩年】 |
1998(平成10)年、参院選に不出馬、議員を引退した(後継は井上美代)。議員引退後も2006年まで党副委員長を続けた。名誉役員となり、党の一線から退いたあとも、講演会講師や演説会弁士などとして活動を続けていた。 2006年、第24回党大会で名誉役員に推される。 |
Re::れんだいこのカンテラ時評488 | れんだいこ | 2008/11/12 | |
【れんだいこの上耕論】
上耕論 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/jinbutuhyoden/uecoco.htm) 果たして、上述のような履歴を見せる上耕をどう評するべきだろうか。世評では、上耕・不破兄弟を比較して、理論フェチ的怜悧な不破に対する人情派の上耕を好評する向きが有る。しかし、この評はもう少し吟味されねばならないと思う。 良かれ悪しかれ、上耕は、弟の不破を引き上げ引き立て終生の絆で二人行脚の兄弟ブロックを形成し、党内遊泳に成功した。この兄弟が仕えたのが、1955年の六全協以来、日本共産党党中央と化し、今日の日共の在り姿の礎を築くことになった野坂−宮顕同盟であった。この同盟は次第に宮顕独裁化して行くが、この宮顕独裁化の最右翼としてこれを補佐したのが上耕−不破兄弟ブロックであった。この系譜が、今日の「日共式外に柔、内に剛」なる穏和化路線を敷設していくことになった。そういう意味で、上耕は、現下日共の在り姿に対する全面的な責任を負っている一人である。 「共産党問題、社会主義問題を考える」サイトの管理人・宮地健一氏は、「追悼・上田耕一郎 その歴史的功罪」の中で次のように評している。
この観点がほぼ的確な評ではなかろうか。れんだいこが補足するとすれば、上耕、不破兄弟は、「宮顕に登用された場合決まって汚れ役をヤクザじゃあるまいし引き受けさせられ、最後には切り捨てられた、あるいは過労死した」他の死屍累々に比して、「最後まで党中央に居残った」という点で特筆されねばなるまい。見えて来るのは処世術の上手さであるが、こういう世渡りは、左派運動の場合には好評される筋のものではあるまい。 お陰でと云うべきか、弱き者の味方として、不屈の革命事業の担い手として人民大衆から支持を受けていた不撓不屈の共産党イメージをすっかり損じ、今日の如く似ても似つかぬ旧民社党よりなお右派系の共産党に変質させ、今日では公然平然と「資本主義の修繕屋運動に挺身する共産党」と云う世界に先駆けての恥ずべき共産党へと転換せしめることとなった。 今日の如くの共産党を果たして共産党と云うべきだろうか。れんだいこには、旧共産党的在り姿の抑圧体として機能している新共産党の犯罪的役割ばかりが見えて来る。野坂、宮顕、上耕、不破は、この変質を意図的故意に遂行した党中央指導者であり、イデオローグであった。上耕がこの責任の一端を担っていることは間違いない。 彼らには次のような共通項が認められる。そもそもから党内エリートとして始発している。これによりどぶ板政治に関わる訳でもなく、大衆運動の指導者として頭角を現した履歴もないのは無論のこと、それでいていつの間にか党中央に参内し、それぞれ国会議員の経歴を持つも、その活動に於いてさえ左派的運動を牽引した例もなく、千年一日的な政府自民党批判に明け暮れたに過ぎない。イデオローグとして見た場合でも、彼らの理論的功績により後々の日本左派運動に資する何らかの成果を挙げた訳でもなく、むしろ今日時点で読み直してみて指で顔を覆わざるには読めない愚昧駄文ばかりを遺している。とどめの共通項は、死ぬ間際まで党内エリートとしての身分が保証され、畳の上で往生できたことである。不破のみ未だ健在ではあるけれども。 その上耕が死したことにより、人は、上耕をもまた革命家列伝の中に入れようとするだろう。れんだいこは冗談だろうと云いたい。このエセ革命家をして革命家列伝に加えざるを得ないのは日本左派運動の貧相故であり、痴態でしかない。但し、そういうエセ革命家列伝に代わる真性の列伝がないので玉石混交として止むを得ない面はある。いつの日か早急にこういう変態から脱却したいと思う。 れんだいこが上耕を評し得るとするなら、彼らが、共産党中央の座椅子を手放し、自ら信ずるところの右派系左派運動と云う新型民主主義道理的新党を結成し、これに汗を掻き、今日の政界に一定の影響を与えるほどに党派形成し得た場合である。これなら辻褄が合っていると思う。それならそれで評価に値すると思う。 実際にはどうであったか。遮二無二党中央を簒奪し、共産党の左傾化許さじの立場から左派運動の穏和右傾化に尽力し、これというめぼしい戦闘的大衆運動を見つけるやその分裂化を画策し影響力を殺ぎ、世間に向けては民主主義の守り手として打ち出しながら党内には治安維持法的監視体制を敷き、異論異端許さじの極統制化に鞭打ってきた軌跡ばかりを遺している。 彼らが手掛けた日共は現在長期低落状況に陥っており、未だ蘇生の兆しが見えない。これを痛苦に受け止める姿勢を見せないのは無論のこと常に詭弁を弄して居直り続けている。政治運動史上、左派圏内に向けては相変わらず強面の顔を見せつつ体制圏内に向けては度の過ぎる柔和な愛想を振りまいている。リストラが課題となっている議論に於いて残業問題を持ち出し、自衛隊の派兵阻止が課題となっている議論に於いて国連への手紙を送りつけたことで自画自賛し、自公政権打倒の機運が盛り上がるときに「確かな野党」論で足並みを崩す云々という挙げればキリのない変態的役割を果たし続けている。角栄追討も然り。 上耕は、これに責任を負う立場の日共指導者の一人である。この上耕を評すのに、歯の浮くような追悼で慰労すべきだろうか。れんだいこはそうは思わない。宮地氏が「上田耕一郎副委員長の多重人格性」を問うているが、けだし当然と云うべきだろう。我々は一般的所作として、党派の別を超えて称える人は称えねばならないが、称える必要のない御仁まで称えるには及ばない。この弁えが大事ではなかろうか。 れんだいこは、日共が資本主義修繕運動是論を提起し、我々をして得心せしめるものを打ち出さない限り、上耕もまた野坂、宮顕同様に本来日本左派運動内に参集すべからざる異邦人であり、この異邦人が指導者として立ち現われ有害無益なことばかりに熱中し、共産党を滅茶苦茶なものに変質させた挙句、自らも砂をかむような味気ない人生を軌跡したと評する。我々は、かような轍(わだち)を踏むべきではなかろう。詰まらないくだらない。 こう観点を据えたとき、上耕の悲哀が見えて来るように思う。これを、れんだいこの弔いの辞にしたい。 2008.11.12日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)