「東大全共闘運動力量考パンフ1」

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元、栄和4)年.1.7日

 山本義隆氏の「攻撃的知性の復権 一研究者としての発言」を転載しておく。
 一九六九年一月十八〜十九日のいわゆる「安田講堂攻防戦」を頂点として、東大闘争は新しい段階にはいって今日を迎えている。山本義隆は東大全共闘議長として知られているが、「議長」というのは全共闘の性格上便宜的なものであり、正式な役職名ではない。

 いま、東大闘争はこれからなのだという実感がいよいよ深まっていくのに、さまざまな罪名で公安から追及されて最前線へ出られないことにいらだちをおぼえる。町町にこれほど私服の目が光っていることをいままで気づかずにいた。なるほど日本には議会主義の秩序はあるが、それは枠外での警察国家状況で補完されているのだということが肌身に感じられる。

 しかし、いまは語らねばならぬことがあまりにも多くて、言葉のまずしさにもどかしさを感ずる。すべてを語りつくせぬときは、一人の人間の実感を述べるしかない。

 いままでぼくたちは先へ進むためにのみ過去を理解した。論理に忠実であることは遠くまでゆくことを強制する。一月十八日、十九日もまた物事の始まりでしかない。東大闘争はそういった軌跡をもつ。そのなかでぼく自身が何を考えてきたのかを書くことは、虚像につつまれてぼくたちも当初十分意識し得なかった東大闘争の一側面をあきらかにするであろう。

 学長カンヅメ

 学生諸君!大学院生・研究者・職員・東大の全構成員諸君!! 時計台を見よ!

 その内部において今や東大の醜部にせまる一群のエネルギーがうずまいている。一昨日夕方出された三人の停学を含む多数の学生の処分の撤回を求め、我々は昨日午後二時以来すでに二十時間近くにわたり学長に回答を求めている。それに対して学長は頑強に拒否している。一体これは何を意味するのか。そしてまた、あの大量の処分は何を意味するのか。五月、池田内閣が大学管理法の問題を提起して以来、多くの学生は、それを単に大学のみの問題としてではなく、社会全体の問題としてとらえ、反対に立ち上った。(略)一方その過程に於て−今さら言うまでもない−教授会はその無能性、否、犯罪性をもわれわれに示してきた。

 その事実に対する一片の反省もなく、単に規則に違反するという全くの形式的名目で処分を出した。一体教授会、評議会にわれわれ学生の運動を批判審判する権限があるだろうか。また、被告が一言の釈明も、一言の弁護もみとめられぬ裁判があるだろうか。これこそ、大管法の大学内部における縮小再生産でなくしてなんであろうか。正に大学内部から大学の自治を破壊するものではないか。

 われわれは、以上の様な見地から処分を白紙にもどし、話し合うことを求め、茅学長に会見を申し込んでいる。にもかかわらず、すでに二十時間にわたり一言の弁明も得られない。これは学長みずから、学長の義務、責任を放棄したものと認めざるを得ない。かつ学長の今までの言動からみれば、もはや学長は大学の自治を守り、大管法に反対する意志はないとしか思われない。われわれはわれわれの正当な理由をもって、ここに、学長に対し処分撤回を要求し、会見している。
 
 時計台をわれわれの手にとりかえせ!
 再度宣言する。
 われわれは不当な処分がわれわれ全体にかけられたものとみて、あくまで処分撤回を要求する! 
 全東大の諸君! 時計台に結集せよ!

 一九六二・十ニ・二 東大中央委員会

 いま読んでも新鮮なこのビラを残して、ぼくたちは敗北の過程をたどった。すでに問題は出つくしていた。ぼくたちが敗北したのは、ヘルメットやゲバ棒やバリケードを持たなかったからではもちろんない。むしろそれらを持てるだけの、問題の根底的な認識と普遍化された思想がなかったからだ。

 そしてぼく自身が、真に大学の腐敗の根源を部分的にもつきとめるのには数年問の東大内での、学生としての、研究者としての生活が必要であった。また闘いが外面化されるには羽田以降の学生運動が不可欠であった。いま助手や大学院生や医局員として東大闘争を中心的に闘っている者の多くは当時の被処分者であり、先進的に闘って敗北を経験したものである。教授たちは何一つ進歩しなかったが。

 略

 このように自立した思考の放棄と全社会的な価値判断の停止が、いまでは「学問の政治的中立」として学問する人の脱イデオロギー現象を進めているが、そういった非政治的日常性がきわめて犯罪的日常性であることが東大闘争で暴露された。「大学の自治」はまた排他的に保たれている。一月二十日前後の京大の事態がそれをなによりも明らかにした。日大全共闘七百人がやってくると聞いた研究者の多くは、京大構内を逆封鎖したと聞く。デマゴギーによる大衆操作もさることながら、なぜ日大全共闘がきてはいけないのかが考えられたであろうか。

 略

 青年医師の自己変革

 一九六二年十二月二十五日の総長室占拠と、その後の二次処分撤回闘争は敗北過程であった。だが昨年三月十二日の処分発表と七月二日の本部封鎖、講堂解放の闘いは、より巨大な闘いの出発点となった。その闘いは大管法闘争の総決算にとどまらず、はるかに先へ進展した。

 だがそれに至るまでには、研究者としての数年問の思考、安保・大管法・日韓を闘った者の、自己と大学と研究が何であるかの問い返しが必要とされた。東大闘争が始ったときに闘いの論理を確立していたのでもない。それは組織論、科学者運動論、大学の研究の位置づけといった問題だけでなく、安保闘争に参加したことと、いま大学で研究していることがどう論理的に結びつくのか、結びつかないのかという問題、ヴェトナム戦争に反対することと、ぼくが素粒子論の論文を書くことがどう統一されるのか、されないのか、等々の問題であった。

 思考はつねに堂々めぐりする。または結論をひきのばす。いくらかでも思考が進展したのは、闘争に飛びこんでゆき、現実の攻撃や矛盾に一つ一つ対処し、決断してゆくなかでしかなかった。もちろん大学当局のように「状況におし流された」り、「短絡反応的に」決断したりしたわけでは決してない。一つ一つの決断は、それに前後する長々と続く討論と総括をふまえて行動に参加する者の意思一致ではじめて可能であった。安田講堂を解放したり、研究室を封鎖することはもちろん、ヘルメットをかぶること、ゲバ棒を持つこと、実際にゲバ棒をふるうことといった、傍観者には単なるエスカレーションにしか見えないこうしたことも、論理を一つ一つ普遍化することを通じてはじめて可能となった。そのことは同時に、自己も、弾劾の対象である東大の一成員であり、一研究者であるかぎり、一歩一歩自己の存在を検証し、自らに批判を加え、普遍的な立場に身をおいてゆくことを強制した。一つ一つの決断は自分でもごまかしていたことをより鋭くえぐり出し、決着をつけさせ、原則的にしてゆく過程である。

 余談になるが、一つのデモにゲバ棒を持つか持たぬか決めるのにさえ、数時間の議論を必要としたぼくたちのゲバルトは、従って「正当防衛」などというブルジョア・イデオロギーに裏づけられていたのではない。「正当防衛」こそは自己の存在のあり方を全面的に肯定した言葉であり、かかる暴力は意識の日常性に依拠してなされるものだからである。

 また教授たちは「恥も外聞もすてて」と言ってシュプレヒコールをしたが、ぼくたちは誇りと自信をもって武装した。恥や誇りは行動様式ではなく、行動を支えている思想にあることを教授たちは無意識のうちに吐露したのであった。

 青医通運動は研究者の闘いの一つの指標をつくった。戦後長く続いたインターン闘争は卒業医局の待遇改善運動としてはじまった。いかなる職域でもそうであるが、とりわけ失敗の許されない医療では、大学卒業後の研修は不可欠である。さらに現代社会において、医療が社会的なものである限り、医師の初期修練は社会的に保障されていなければならない。しかも技術は実践を通じて習得し得るものであり、卒後研修は医療労働を通じてしか獲得し得ない。とすれば、医学生、研修医は、医師たらんとする者の義務として卒後研修を行なわなければならないことはもちろん、それの保障を要求する権利もまた当然のことながらもっている。

 しかしインターン制度の実態は、次のようなものであった。「教育要員の準備や研修者の待遇などを準備することなしに行なわれたわが国のインターン制度は、社会が権利だけを行使して、その義務を怠った形態であり、ために青年医師の人権を侵害した形でおこなわれてきたことは疑う余地がない。しかもこれは国家権力を背景としておこなわれてきたことも事実である」(東大医学部基礎・病院連合実行委員会『医学部闘争の本質について』一九六八年八月五日)。

 つまりイソターン闘争は青年医師の 「人権侵害」と「教育の名による医療労働の収奪」に対する闘いであった。
 実際イソターンのみならず医局こそ「人権侵害」と「労働収奪」の場である。医局員は無給でボス教授の医療労働と研究労働の下請けをさせられ、また縄張り病院への強制出張要員にさせられた。教授は暴力手配師にあたる。驚いたことに東大病院にはこのような無給医局員が千数百人いる。

 だが「人権侵害」と「労働収奪」だけでは普遍性をもち得ず、勤労大衆と連帯しうる条件にはならない。そういった人権侵害に耐えることにより、将来博士号をとることによってつぐなわれているからだ。とすれば「医師たらんとする者」にとってのみ「当然の」要求しか出てこない。各人が即自的要求を並べたてても連帯はかちとれない。事実六〇年の安保闘争の後、全国各地で闘われた病院ストの際、医局員たちは「白衣の暴力団」として看護婦さんたち医療労働老に敵対し、スト破りを働いた。

 これを通して青年医師の自己批判が始る。いままでの、医師になることを前提とした闘いの限界は何か。医師とは何か。どの社会でも「医師」は「聖職」とされている。だが、資本主義社会で公害や労災で傷ついた労働者をいやして収奪の場へ返す仕事は崇高などころか、社会の矛盾を隠蔽するだけではないか。人間を真に救ったことにはならない。医学生がここまで認識を深化させたとき、結論は現在の医療行政のなかで国家試験を受け、博士号をとることを拒否することであった。

 いま医療そのものが収奪の対象となっている。イソターン制度廃止にともなって登場した医師法一部改悪は、青年医師を国公立大病院に低賃金でクギづけにし、医療労働力を確保する。看護婦さんに対する労働強化は人間性までを無視したものであり、同時に患者に対する医療サービスの低下をきたしている。

 このようにして大病院独立採算制が貫徹され、病院も(大学病院も) 差額ベッドなどを導入して営利事業化に努めている。同時に本年度予定の国民健康保険の抜本改悪は受益者負担原則の名のもとに勤労大衆からより多く医療経費を収奪する。また大学病院の教授も製薬資本と結びついて、必要以上に高価な薬を投入する。さらに大病院中心主義は、ただでさえかたよっている医療分布をよりひどくさせる。ブルジョア社会ですら営利事業たり得ないはずの医療が、国家の医療経費軽減のための金もうけの手段とされているのだ。ぼくたちはこの事実をさして医療の帝国主義的再編と言った。

 青年医師たちは、現医療行政のなかで、医師たることを体制から拒絶されることを賭けてまで闘い続けること、このことを通じてはじめて普遍的な立場に立ち得るとの結論に達し、そのうえでなおかつ医療を実践せんとした。

  連帯した人たち

 こうした闘いに、同じ大学の研究者として連帯し得たのは、自己の存在に対する学生の告発を受けとめた者のみであった。八月二十九日、全共闘が医学部本館を封鎖したとき、そこで働いていた基礎医学の若手研究者は、ほぼ次のように語った。「学生諸君の手で半ば暴力的に研究活動を阻止されたのは腹の立つことだ。しかし一月二十九日以来すでに研究の条件はなかった。にもかかわらずわれわれが研究を続けていたのは、主体性がなかったからである。無関心に研究を続けることにより学生諸君の闘いに敵対していたことがより責められるべきである」。そして十月十七日、次のような「封鎖闘争宣言」を出して無期限スト、研究室封鎖自主管理へと決起した。


 ・…医学部本館封鎖闘争に始まる一連の研究室および医局封鎖闘争は、医学部中間層のこれまでの日常性の夢を破るものであった。この封鎖パニックを自己の内面的契機としつつ‥・医局員及び研究者の講座制に対決する闘いの萌芽が生れた。これまで医学部教授会が青医連運動を黙殺と強権の暴力によって弾圧し得る権力であった基盤は、講座制により管理運営機構があくまで安全であり得たことにある。その意味で、医局員及び研究者が『研究の自由』の幻想の下に日常的研究に埋没する限り、その日常性は極めて犯罪的な政治性を帯びており、自らは講座制の奴隷として医学部教授会を支える存在である。封鎖闘争こそ、大学権力の管理機構をマヒさせてその権力としての実態を崩壊させ、その状況の中で初めて医局員及び研究者が、講座制を支えてきた奴隷としての自己を拒否する契機を獲得し得たのだ。(後略)

 一年近く学生の闘いを無視し、また弾圧してきたことを何一つ反省せず、「ファシズムもやらなかった」と泣言を述べた高名の教授と対比するとき、若手研究者は、荒々しく厳しい知性の復権をかちとった。同様のことは機動隊導入の後、東洋文化研究所助手有志十人の署名入りビラにも見られる。


 「…:医学生諸君の闘いを孤立させてきたわれわれの精神に、惰眠をむさぼっていた頽廃的部分の存在したことを、われわれは否定し得ない。…われわれは…大学に生きる限りでの存在のすべてを賭けて、新たな大学自治の創出のため、可能なあらゆる方法によって闘うべき地平にわれわれ自身を突き出したと考える。完全な勝利は全体制の変革される日まで実現されず、またそこに到る途上には、国家権力との、学内権力との、あるいは反体制運動内部の官僚どもとの、熾烈な闘いが予想されるが、われわれはこの目標を目指して力を傾けるであろう。
われわれは連帯を求めて、孤立を恐れない。力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽さずにくじけることを拒否する

 教授の一言で少なくとも日の当る場所からしめ出される若手研究者にとって、封鎖や武装は、自らの研究そのものに対する根底的な批判と、自己変革をともなってはじめて可能であった。やがてぼくたちの多くにとって帰り得る場所はバリケードの中だけになってゆく。
  
 物理学徒として

 医学部の闘いに比較して、理学部の若手研究者・大学院生がどのような思考の軌跡を残したのかは重要である。物理教室などでは最も純化された形で問題が提起されているからだ。

 物理教室の、とりわけ基礎物理学の研究室では、研究の質からしても医学部や都市工学科のように直接的に労働を収奪されているとは単純には語れない。また研究室における教授との問の人間関係もそれほど前近代的でもない。学問自体がより進歩しているため、教授の論文でも大学院生の論文でも平等に、ある程度客観的に評価され得る。まだまだひどいところもあるが、それでも物理教室は東大で最も近代化され、民主化された部類に入るだろう。では問題はないのか。否! まさにもっとも近代化されているがゆえに、当面の課題としてスローガン化され得なくとも、より本質的で重大な問題が潜んでいる。

 多くの基礎物理学の研究者には、研究成果は自己の私有財産という小所有者意識が濃厚で、同時に平等でアトム化された研究者は、人間の価値までも研究成果を通じてのみ評価される。研究者はひたすら細分化された自閉領域の中にみずからを追いやり、全体的な学問像も、社会的な学問の位置も、見失ってゆく。同時に脱イデオロギー現象は極限に進み、結果として体制べったりになってゆく。論文生産競争により、物量に物を言わせた実証主義が万能視され、めぐまれた東大の研究者をより一層権威づけるとともに、冷遇された地方の研究者までがそれに追随し、独創性をなくしてゆく。こういったことがいかにして論理的に歴史的・社会的正当性をもつにいたったかが重要である。

 ぼくたちは何回となくこのことを議論した。東大闘争以前も、たとえはアジア財団からの資金援助で「国際夏の学校」が行なわれたとき、北京シンポジウム、米軍資金闘争等々の機会をとらえて。東大闘争がはじまってからも、理学系大学院闘争委員会内部で。それは際限ない。議論であった。はつかねずみがオリの中でまわっているように堂々めぐりが続いた。「大学院生が学生の闘いに便乗するのではなく、大学院生の立場から闘うべきだ」実際、「政府ほ基礎科学に金を出さない」といって、東大の研究者に被害者意識を植えつけることでは、研究者の意識変革はかちとれず、かれらの特権を合法化するだけである。

 自己検証の上に立って

 極限的に進歩した近代自然科学のなかで、闘いは自己の分裂の克服からはじまる。矛盾は研究者と文部省や、研究老と研究制度の間にあるのではなく、研究者個々人内部にある。ぼくたちは王子や三里塚の闘争に参加した。しかしデモから帰ると平和な研究室があり、研究できるというのはたまらない欺瞞である。研究室と街頭の亀裂は両者を往復しても埋められない。

 では研究をやめるべきか。それは矛盾の止揚ではなく矛盾からの逃亡ではないか。徹底した批判的原理に基づいて自己の日常的存在を検証し、普遍的な認識に立ちかえる努力をすること。そうして得られた認識に従って、社会に寄生し、労働者階級に敵対している自己を否定し、そこから社会的変革を実践する。抽象的にしか語れないが結論らしいものはこうでしかない。

 それは一時的にせよ研究の進歩を止めてでも闘うことを意味した。研究者として研究を放棄し、研究室を封鎖・自主管理してゆくなかで、改めて研究をトータルにとらえかえす作業が必要とされた。現在の政治的・社会的状況を考えたとき、結果として研究者たり得なくなるかもしれないが、それは別問題である。真に研究者となるためにぽくたちは研究の放棄を主張せざるを得なかった。

 この結論から出てくる行動は、「なにかをかち取ったら『勝利』と総括して闘争を収める」ということには当然ならない。むしろ大学で、研究室で、そういった囲いを永続的に進めることを意味する。当然その先は安保闘争にもつながっている。「全共闘はたとえ『七項目』をのんでも闘争をやめないだろう(はじめから『七項目』を受入れる気がないのにこういうことは言えるはずがないが、それはいまは問わない)。だから民青や一般学生と手を打って紛争を収拾させる」という大学当局の論理は、冷酷な官僚の論理であり政治家の論理ではあっても、研究者の論理ではない。

 こういった論理のゆきつくところは、われわれの要求にこたえることなく、機動隊を使ってでも全共闘を圧殺することである。

 ぼくたちの闘いにとって、より重要なことは政治的考慮よりも闘いを貫く思想の原点である。もちろんぼくたちはマスコミの言うように「玉砕」などはしない。一人になってもやはり研究者たろうとする。ぼくも、自己否定に自己否定を重ねて最後にただの人間ー自覚した人間になって、その後あらためてやはり一物理学徒として生きてゆきたいと思う。

 しかし、日本にヴェトナムを持込まないことが日本の平和を守ることではないように、研究室が戦場にならないことを願うことは「大学の自治」や「研究の自由」を守ることではなく、研究者のエゴイズムを守っているだけである。ぼくたちは研究室を戦場にしてでも闘いの圧殺には反撃する。まして攻撃が拠点に向けられたならば、何を使ってでも守り抜くであろう。知性に誠実であるためには、そうする以外に何があろう。政治家や官僚どもの論理に、ぼくたちが一年間の思考でたどりついた論理を売渡すことはできない。

 覚えず、つたないことを書き散らしたが、これは東大闘争の中でジグザグしつつ歩んだ一研究者の思考の軌跡である。ぼくたちは闘争のなかで一つ一つ論理を検証し、ややもすれば日常性に回帰し論理の深化に耐えきれないぼくたち自身の弱さを自己批判しつつ、歩んだ。外に向っては告発の対象を拡大しつつ、内に向っては凝縮させていった。

 東大闘争は帝国主義国家の知的中枢に位置している精神のゴミタメ的な東京大学の腐敗の中で、攻撃的知性を復権させる闘争であった。だが東京大学は告発にこたえることも出来なかった。ただ東大当局は「入試実施」を合言葉に旧秩序の復帰に狂奔し、あげくにぼくたちを国家権力に売渡した。空前の弾圧で学友を傷つけ、逮捕させ、告訴までした東大当局を、満身の怒りをこめて弾劾する。

 ぼくは思う。いま東大に存在理由があるのは、それが「解体」の対象としてのみである。それにはいろいろな意味がこめられている。東大の権力機構の中での位置、九十年にわたる犯罪的・反人民的過去、それが「体制的であると「反体制的」であるとを問わず、多くの官僚どもを輩出してきたこと、教育や研究の中央集権化とゆがみを作ってきたこと等々。

 しかし、一体何を第一に解体するのかと問われれば、少々とまどった後、うまく言えないが、九年間東大で学ぶ間にぼく自身がいつのまにか身につけた属性や思考様式やさまざまなもの、つまりぼく自身ではないかと答えざるを得ない。その先に、今後さらに続く闘争の中でぼく自身の社会と学問と、何よりも闘争そのものへの新しいかかわり方ができるであろう。(一九六九年二月十日記)

 「討論・68〜69年越冬宣言」1968・12・29
 山本義隆(東大全共闘)

 彼らは党派として活動している限り共産主義的人間であると語るが、ぼくらはそう語り切れない。ぼくらは党派の人間として共産主義的人間であるという形で他の一切をごまかすとか、切り捨てるとかいうことができない。むしろ大学院生である、科学者であるということによってぼくらの人間が問われるのだ。松沢君のいったのもそのことだ。

 ぼくら東大生、あるいは東大の大学院生、東大における研究者というところから出発して、その矛盾を解明していく。切開していく。そこにおいてぼくら自身の存在を否定しあらためてより普遍的な立場に立つ。そこから東大を思想的に粉砕する対象としてしか見ざるを得なくなる。そのことによってぼくら自身も基盤をなくしていく、結果としてルンペン・インテリになろうがしょうがないことだ。そういう意味においてしかぼくらは共産主義的人間というのは語り得ないんだ。党派人間のほうが東大を乗り切った過程で免罪符的に救われていく危険性を宿している。

 『その時日本は・東大全共闘』NHK出版
 学生の半数以上が参加したとされる東大闘争。

 いったい何が学生たちをこれほどの激しい闘争へと駆り立てていったのだろうか。一年間に及ぶ闘争の間につくられたビラやパンフレットは五〇〇〇点以上に及ぶ。その内容は、一九九四(平成六)年に国立国会図書館に寄贈された『東大闘争資料集』全二三巻で知ることができる。当時の全共闘のメンバーがつくつた「68・69を記録する会」が、仲間たちに資料提供を呼びかけ、五年がかりで分類・整理したものだ。

 「封鎖、それは連帯のしるし」「ファッショ的医学部教授会を打倒せよ」「本日、沖縄闘争に決起せよ」「70年安保闘争の展望」「ベトナム討論会」「公害ゼミ」「文化大革命の勝利万歳」「ソ連のチェコ侵入事件と現代社会主義の展望」 「無期限スト、大衆団交で勝利まで闘い抜こう」…‥・。

 
ビラのテーマは、身近な大学の問題から世界情勢にまで及んでいる。それは、世界と日本の戦後体制の矛盾を映し出す鐘だ。論理や表現は稚拙であるにせよ、これから社会に出ようとする学生たちが日本と世界の問題にどれほど敏感に反応していたかが伝わってくる。、、、

 全共闘代表だった山本義隆は、運動を離れてからすべてのマスコミの取材を拒絶し、現在は都内の予備校で物理を教えている。手紙で「ぜひ証言を」と取材を依頼したが、簡潔で丁重な断り状がすぐに送られてきた。断る理由は書かれていなかったが、文面かち読み取れる意志の固さと周辺情報を考慮した結果、取材は断念せざるをえなかった。

 国立国会図書館に寄贈された『東大闘争資料集』 については冒頭でふれた。この資料集を中心になって編纂したのが山本だった。B5判で全二三巻、積み重ねると一メートルを超える膨大な資料集だ。赤いハードカバーで、背中に金文字で 「東大闘争資料集」と記されている (マイクロフィルム版もある)。


 山本は、仲間から寄せられた数万点の資料を分類し、重複を省いて日付を確定したうえでデータベースに打ち込むという気の遠くなるような作業を、ほぼ一人で数年にわたって続けたという。全共闘側だけではなく、民青や当局側の発行文書も網羅されている。
山本は、資料の完成報告の中にこう書いた。

 「国会図書館に通って資料を読むという労力を厭わない限り、ドキュメントという一面ではあれ東大闘争について、意図的なねつ造や隠ペい、等々の歪曲を許すことなく、その実相に触れることが可能となったのではないでしょうか」

 どんなに対象の内部に入り込んで取材したとしても、第三者が表現するものは取材される本人の意図と同じにはならない。それが彼には許せないのだろう。闘争から二六年が過ぎた現在までのところ、この資料集だけが東大闘争について彼が発した唯一のメッセージである。

 増殖を続ける産軍複合体(1968年)闘わなければ世界は取り返しが付かないことになる。

 ハーバード大学生の反戦抗議 “死の商人”からの勧誘はお断り

                   
 「朝日ジャーナル」1968年1月28日号 ジョージ・ロス

 昨秋、多くのアメリカの学園には、抗議する学生の嵐が吹きまくったが、それは戦争反対だけにとどまらなかった。これらの抗議者の解釈によると、
大学は軍事研究のため、または軍需契約を結んでいる会社の求人のため、学内施設の利用を許すことにようて、戦争機構と結託しているというのだ。そして、この点を暴露することも、かれらの抗議のねらいだった。

 こういう空気のなかにあるとき、ナバーム弾を製造している会社ダウ・ケミカルの求人係リービット氏がハーバードにやってきた。

 急進派のエリートたち

 アメリカ全土についてと同じように、ハーバード大学でも、戦争に反対する戦闘的“抵抗”の力強い潮がさしはじめていた。警官と体で対決する大規模な抗議は、昨秋はじめ、アメリカ全土にわたって展開されたが、ハーバード大学でもこのような“抵抗”戦術を支持するものが多数いた。「第一線に身をおく」−これは個人主義的抗議の一形態である。(中略)

 軍需生産に従事している会社の求人は言論の自由(ハーバード大学における市民的自由擁護の精神の根強さを考えるならば、これは重大な問題である)の行使ではないということ、さらにダウ会社の求人は大学が
戦争機構と結託することを意味するということ‥…・これらのことを他の多数の学生に理解させるために必要な努力は、それまでだれもしなかったという空気が支配的だった。こうして、リービット氏に対してピケを張ることは決定されたが、坐りこみは否決された。

 だが、SDSのよいところ一同時にこれは問題点であるが一の−つは、統制を欠いていることである。SDSは参加者の政治意識の発展段階がまちまちで、ワクはゆるく、党ではなくてグルーフである。このグループ内で討議されたことは、行動の手引きとはなるが、必ずしもそれを拘束するものではない。「第一線に身をおく」ことを望んだ学生たちは、SDSの決定にはばまれることがなかった。

 自然発生の坐りこみ

 リービット氏が姿を現わす前夜、少数のグループが坐りこみをすることを決定した。翌朝、リ一ビット氏が申込みの受付けを開始すると、SDSの平和デモがはじまった。だが、ピケをはっていた人たちは、おたがいに話合っているうちに、もっと思いきった行動にでてはということになった。

 まもなく、そこにいあわせたほとんどの人たちのときは比較的小人数だった)は、その主張に引きいれられた。そしてこのグループは、リービット氏が面接を行うことを肉体的に不可能にすることに決めた。

 坐りこみが決定されると、新しい事態が生れた。「第一線に身をおく」ことは取返しのつかない行動である。それぞれ違った見解をもつ学生たちも、坐りこみデモに参加するものが増えた。挺身的な活動分子にとっては、選択の余地はほとんどなかった−すでにはじまづている坐りこみデモを支持することと、政治的戦略を理由に坐りこみデモの提案に反対することとは、別個のものである。はじめ坐りこみに反対した人たちも、坐りこみ参加者を支持しなければならないと感じた。

 だが、活動分子だけがこの坐りこみデモに参加したのではない。また数のうえからいっても、かれらがいちばん多かったわけでもない。坐りこみデモがはじまったという話が広まるにつれ、多数の学生が、この戦争に抗議したい気持からデモのなかに入ってきた。これらの学生の多くは
ベトナムでの虐殺については強い反発を感じていたが、自分たちのいる大学がこれと結託しているという点については、はるかにあやふやな気持しかもてない人たちだった。

 坐りこむものが増えてゆくにつれ、デモ参加グループ内の対立が現れて、リービット氏をなぜ一室にとじこめておくのか、はっきりした理由について、意見をまとめることができなかった。結局デモ参加列レーフは、デモの焦点はダウ会社と戦争であることを多数決で決め、さらにリービソト氏が、求人のため二度とハーバード大学へこないというなら釈放するということにきめた。

 困惑した大学当局

 ところがデモ代表者がリービット氏と話合った結果、かれが次のような考え方をしているのが明らかとなった。「自分は大学当局に呼ばれないかぎり、二度と大学にはこない。私がハーバ−ド大学にきたのは自分の責任ではなく、私に施設の利用を申出た大学当局の責任である。

 こんなわけで、デモ参加者自身も、最後には、 リ一ビット氏を軟禁しておくより、大学当局と対決したはうがはるかに筋の通っているということに気づくようになった。

  学生には、ダウ会社のナパーム弾製造を阻止する力はないが、大学当局のダウ会社歓迎を阻止する力はあるかもしれないのだ。こうして、リービト氏はついに釈放された。ついで座りこみデモ参加者約500人は、デモについて2時間にわたる討議に入り、表決の結果、ダウ会社、中央情報局(CIA)、軍部の求人を拒否すること、デモ参加者を一人も処罰しないことを大学当局に要求することになった。

「封鎖!それは連隊のしるし」
 
東京大学全学闘争連合/ビラ 1968・7・3
 時計台封鎖を全学バリケード・ストライキの突破口とせよ!

東大全学の学友諸君! われわれ全学闘争連合は二日午後八時三〇分から全東大の圧倒的学友諸君の支持のもとに、整然と行なわれた時計台封鎖をわれわれの闘争のまさに正当な発展として断固支持することをここに宣言するとともに、これを突破口に大衆団交を破廉恥にも拒否し居直りをつづける大学当局に対するさらに非妥協的な全学バリケード・ストライキの闘いに全学友の決起を呼びかける。

 六・一七以来の状況の中で大学当局が、われわれの前に赤裸々につきつけてきたものは、日本の最高学府、真理の殿堂などと言った耳ざわりのよいきまり文句とは裏腹なわれわれの大学の正体であった。教授会の自治といいながら、なぜ大河内総長の単独要請によって横動隊が導入されなければならなかったのか?

話し合いによる問題解決を言いながらなぜ総長は二十八日において一方的な上意下達に終始し、自らわれわれとの話し合いのチャンスを拒否しなければならなかつたのか? そして自治を建て前とする教授会がいまもってなぜ一片の意思表示も出し得なかったのか?

 これらこそわれわれが抱いていた大学に対する美しい イメージを彼ら自身による破壊ののがれる術もない証左であったのである。

 このような現実が、われわれ全学生につきつけられる中でわれわれはスローガンとしてかかげた獲得目標に対して彼ら大学当局はまったく応える意思をもっていないばかりでなく、この状況を道取りして行動の自由をうばい取っていこうとしていること。そしてわれわれの中にも大学当局の悪らつな方法に巻き込まれ不本意にも自らの貴重な仲間たちを売り渡してしまいかねない部分が居ることが明確に浮びあがってきた。

 これは一部の先進的部分ばかりでなく、多くの学友諸君が感じており東大の全状況に対するアパシーというかたちで重く学友諸君の胸の中に沈澱していった。この事実は二十八日の一方的総長所信表明の場に七千人にも及ぶ話し合いに期待する学友が結集したにもかかわらず大衆団交が総長自身によって拒否された直後から運動が急速に分散・縮小の方向をたどっている現在が見事に物語っている。

 しかし、学内には、この分極化し停滞しているかに見える中で、断固としてストライキに立ち上がらんとしている法学部・工学部・教養学部の学友諸君の力強い闘いの萌しがある。そして、せっかく立ち上がりかけた学友が本部封鎖の事実によって離反してしまうとの批判の声が上がっている。しかし、そうだろうか?

 今、闘いに立ち上がった学友たちは六・二〇、六・二八にみられた圧倒的多数のエネルギーによっては大学当局から引き出し得なかった事実を知っている。そして、そのような現実の壁の厚さに抗し、断固として闘うことを決意しているのだ。我々はこの貴重な闘いを尊重する。それ故に、この諸君たちと、闘いの勝利、高度な運動の発展との問を結ぶかけ橋として、時計台封鎖が真に有効なものであることを主張する。

 それは何故にか!

 これまでの闘いで我々は自己の存在そのものを全力をあげて大学当局につきつけてきた。これ以外に我々が得るものは何一つ無いことをいやというほど思い知らされる中で、まさしく本部封鎖は、この我々の全力をかけた闘いの象教として行なわれたものだからである。

 すべての学友の心の中にわだかまっている自己の変革を通した闘いへの恐れ、そして傷つくことへのおそれが、この本部封鎖の実現によってあとかたもなく消し飛んだからである。我々の封鎖によってもたらされた全学的状況は、我々と諸君の運動における離反としてあるのではなく、かえってこの封鎖の実現によって解き放されたところの限りない闘いの可能性、そして自由な行動の発議が保障されたのだ。

 一般的アレルギーに振りまわされることなく、諸君の心の中に芽生えた新しい息吹を見つめよう!そしてその息吹きによる行動と我々の封鎖の関係をきびしく追求していこう! それは我々闘うもののすべての義務であり、そしてこの相互の関係の中ではじめて我我が常に追求してきた大衆団交要求が圧倒的な勝利への展望を絶対的に切り開くのである。

 我々の本部封鎖は、封鎖により我々自身を、そして諸君を閉じ込め固定化するものでは決してない。我々は逆に、封鎖により、自らを大衆的に開放し、全学友の闘う本当の具体的行動を要請しているのだ。諸君、我々は、封鎖によりそして、その封鎖を、我々のこれまでの統一スローガンの勝利まで、徹底的に守り抜きかち取ることを、ここであらためて決意する。”全学友は本日(3日)午後2時からの講堂内集会に結集せよ”

 不当処分白紙撤回
 機動隊導入弾劾
 国大協路線粉砕
 大衆団交要求

「新たなる大学自治創出のために」
 東京大学東洋文化研究所助手有志/声明「新たなる大学自治創出のために − われわれはかく考え、かく闘う」(1968・7・3)

 たまには腹の底にあることを洗いざらいぶちまけてみようではないか。われわれの歯は衣を着せるべく、あまりにも硬化しているはずだ。

 今回の警官隊導入にかんして、あらゆる者が「大学の自治」擁護を叫んでいる。自ら警官隊を導入した大河内総長から、民青系の諸君に至るまで、「大学の自治」は、神聖にして侵すべからざるシンボルの如く流通しているが、既成のシンボルにもたれかかってその本質とヴィジョンに根本的な検討を加えないならば、われわれは現在の状況を突き抜ける思想の強さを決して持ち得ないであろう。

 われわれの描く「大学自治」のヴィジョンとは、大学の実質をなす研究・教育の自由と、この自由を保証すべき組織である運営機構の両面において、自立し平等な全大学人の自己表現としての参与が完全に開花することにほかならない。そしてこのヴィジョンが実現されるとき、真向からの挑戦を受けた国家権力は、その本質たる暴力を全面的にさし向けてくるであろう。真の決戦が行なわれるのはこの時であり、この闘いの前哨戦としての自覚を持たぬ一切の動きは、大学における闘いの名に値しない。

現在守るべき大学の自治が存在するか否かについて、是非が論じられているが、機構に関するかぎり、空洞化した「教授会の自治」しか存在しないことは、明々白々たる事実である。実質についていうなら、その直接的荷担者とされている教官にとって、たしかに一定の自治らしきものが保証されていることは否定できない。しかしこれは、われわれの大学において、現在の国家権力にとって我慢し得ない程度にまで危険な研究・危険な教育が行なわれていないため、有難くもお目こぼしの栄に浴しているにすぎない。機構において空洞化された教授会の自治のみが曲りなりにも維持されている現状は、この精神の活動における戦闘性の欠如とまさに見合ったものといわねばならない。防禦がそのまま攻撃に転ずるような体制に対決する思想=行動的戦線が築かれなければ、いまや既存の「自治」すら脆くむ崩壊し去るであろうことは明らかである。六月十五日の医学部学生諸君による時計台占拠の思想=行動的意義は、右に述べた点に求められなければならない。

現在敵の大学に対する攻撃の主要な方向は、大学管理の行政面に向けられており、これを推進する文部省官僚と総長の牙城である時計台は、学内の全支配・抑圧機構の中枢に他ならない。この時計台に対し、果敢かつ実質的な攻撃が加えられたからこそ、学内の支配抑圧機構は、自らを背後で支えている国家権力の暴力装置たる警官隊を導入したのだ。そしてこの学内支配機構は、事実無根の暴力行為を名目とした大量処分を一方的に押付け、明白な事実誤認に対しても関知しないという徹底した抑圧者として存在してきた。

 大学当局はこの行為をすら「教育者」の「被教育者」に対する「教育的関係」とする恥知らずな主張を行っているが、ここに見られるのは、支配ー被支配の質以外の何者でもない。そして、その質たるや、被支配者に対する刑罰が、弁護や証拠調べ抜きの秘密の審査によって定められ、不服申し立て・再審理のプロセスは全く想定されていないという恐るべきものである。

 理性と合理の府と称する東京大学の支配機構の本質は、一皮むけぱ地上のあらゆる階級的支配のそれと同じく暴力そのものなのだ。一切の話合いによる解決が拒まれ、発言の場を有さない学生にとって、最も直截な抵抗として、被支配者の最後に残された最も鋭利な武器である暴力を用いるのは当然であり、それはまた直接民主への志向を内包し、学内における抵抗権のあり方を生き生きと示したのである。

 体制のラディカルな変革を志向するはずの日共・民青諸君は、暴力による直接的抵抗を追求すれば、学内大衆を恐怖させ、闘争の壊滅をもたらすと信じているらしいが、勤勉手当差別支給阻止という勝利をかちとる決定的契機となった六・一二スト後の深夜に及ぶ組合員大衆による時計台占拠は、まさしく医学生の行動と同じ暴力の行使であり、当初東職の一部執行部が考えていたような少数の抗議団の派遣によっては、あのような成果の獲得は全く考えられなかった。しかも全学闘執行部による時計台占拠の通告が総長宛に出されていたあの時点の情況を考えるなら、「二つの異常事態」(庶務部長の言)をかかえた総長が、より妥協し易い要求と相手を選んで局面を切り抜けようとする計算を行ったであろうことほ疑いをいれない。皮肉ながら、東職執行部が自らの闘争の成果として誇る差別支給阻止成功には、当の東職が口を極めて誹誘する全学闘の闘いが有力な支援となっていたことを無視し得ないはずである。

 従って、占拠を行った学生に対する批判は、純粋に戦術的、それも技術面(例えば突入の時点設定その他) に限られるべきであり、それすらも、彼らの闘いに何ら実質的支援の手をさしのべてこなかった者の云云し得ることではない。しかるに、日共・民青及び七者協・東職執行部は「自治会民主主義」「団結と統一」の美名の下に、彼らに対して侮辱の限りを尽した悪口雑言を投げてきている。


 そもそも、全学闘執行部が医学生・研修生の圧倒的な支持を基盤に闘いを切り拓きつつあった三月までの段階で、彼らに何らの実質的支援を与えず、片やその指導の下にある人びとのエネルギーを医学生の日和見部分を動揺させるという犯罪的な活動に浪費させ、他ならぬ医学部長に「処分撤回しない限り民青に指導が変る」(四・五臨時所長会議の発言)などと足下を見すかされるに至ったのは君たちではないか。「我々の運動の大きな武器は我々の正当性である。執行部自ら決定を無視し、全体の意見に従わず、かつ無用な暴力的行動に出ることは自ら正当性を放棄することによって運動全体を孤立に導く」(六・二四、七者協声明)のだそうだ。闘いの地平を切り拓いてきた全学闘執行部を「孤立に導い」ておきながら「正当性」を独占しようとは、何という破廉恥さであろう。医学部闘争における正当性とは、絵長・時計台・評議会・上田・豊川・医学部教授会等の抑圧機構に真正面からの闘いをいどむ部隊が、自らに最大限の学生大衆を引きつける過程に存在したのであり、七者協・東職執行部に全学規模の闘う「統一と団結」を実現する力量があるなら、全学の総力を全学闘執行部に集中する努力を尽くしてこそ、「正当性」を口にすることができるのだ。

 われわれは大河内冶長・豊川医学部長・上田病院長、その他の学巾。反動と時計台官僚を徹底的に糾弾する。

 総長こそは文部省−時計台官僚のルートによって直接的な支配を浸透させようとはかる国家権力の意を体して、東京大学の支配横構の頂点に坐し、大量不当処分を承認し、処分白紙撤回・大衆団交の要求に応ぜず、その当欽…の結果として医学生にょる直接的抵抗に直面するや、自らその本性をむき出しにして機動隊の導入を要請した元凶にほかならない。日共・民青系諸君や進歩派諸君が口にしてきた彼の「二面性」こそ帝国主義権力による大学支配の現下の形態である国大協路線の具体的な姿にほかならず、機動隊という暴力装置を導入することによってその主要な属性たる暴力性を余すところなく立証したのである。

 われわれほ大河内一男氏のパーソナリティなぞに全く興味も無ければ、その 「進歩性」に一片の期待も抱」きはしない。彼が現時点で演じつつある客観的な役割だけが問題なのである。日共・民青系諸君は、大河内総長と学内反動派に優劣の差等の存在するかのような幻想をふりまき、この根本的事実を隠蔽し得ると心得」ているらしいが、それほ帝国主義的支配において中道一派乃至中道左派の果す役割を見失い、国大協路線の本質を誤認した考え方で、まったく噴飯ものと言うほかない。彼は六月二十八日の ″総長所信表明集会″と称する一方的訓戒の場において、あたかも ″教育的関係″が現在の東大に存在するかのような擬態にしがみつきつつ、自らも手を汚した学生処分を、元来人間的に平等な関係を前提として成立するはずの「良心」 の問題にすりかえて、当局が旧来の秩序の回復しか意図していないことをさらけ出し、一方警官隊導入については、自己にすべての責任があると公言して、一片の反省の色も示さぬ居直り的態度に出たのである。

 われわれが要求しようとしまいと総長は辞任を余儀なくされるであろう。我々は支配者側の事態収拾の手段としての大河内総長辞任を許してはならない。大河内総長は、大学の病根・根元的腐敗の集中点として、学内大衆によって罷免されねばならない。絵長罷免に到る我々の力の集積は新たな真の自治の構築の展望を切り開くであろうし、逆にそれなしにはわれわれは何ものをも獲得できないことは確実である。今後の大学の管理運営にあたって、従来の方法が何らの変更を加えられずにまかり通るのか、それとも学内大衆の意志に形態はともあれ一定の考慮と敬意が払われるのかということは、まったくわれわれの闘いの如何に懸っている。当面、大河内総長及び全評議員は速かに学生の大衆団交要求に応じ、処分の全面的白紙撤回を約束し、警官隊導入について全学に謝罪すべきである。

 われわれは東洋文化研究所長・教授会を糾弾する。

 教授会「自治」しか存在しない東京大学の「自治」に責任を持ち得るのはあなた方までであり、あなた方自身、その枠内で自治が守れると考えてきたいじょう、大量処分以来でもすでに三ケ月を経過している医学部問題に関して、何ら実質的な解決への努力を行わず、当の教授会「自治」の残骸の上に今回の事態を招くに至った責任の一端を、あなた方の一人一人が負っているはずだ。また、本学の最高議決機関である評議会の一員として、前所長及び現所長は、大量処分を含む暴力的抑圧に直接の責任を有するといわねばならない。さらに、十七日朝の評議会に出席した現所長は、「満場寂として声な」かった列席者の一人として、警官隊導入を事実上了承した責任を免れないであろう。

 われわれはあなた方が局限された自治のイメージしか持ってこなかったことを率直に認め、階層問の差別を打破した新しい大学のあり方に一歩でも近づこうとする姿勢から、警官隊導入に抗議する意志を表明してくれることを期待し、二十日の所内懇談会において、教授会メンバーから助手までを含む教官有志による総長に宛てた意見書の提出を提案したのだった。すると、あなた方のうちの相当数の人々は、積極的にこの提案に賛同した。われわれは、できる限り多数の署名が集められるよう配慮し、最も抽象的な文言に収約されたわれわれに許容し得るかぎりの最低線で妥協しようとした。しかるに、文案をまとめる段階に至るや、前日積極的な態度を示した人々がたちまち日和見を起こして、他部局からの突出等々を心配し、教授会は所長−評議会のラインで事の解決に努力すべきだという既存体制埋没の論理を述べはじめ、ために意見書は棚上げの止むなきに至ったのである。この間の態度の豹変ぶりについて、後日の所内懇談会において問いただしたとき、われわれに与えられた答えは、あいまい極まる自己不在の情勢論でなければ、教授会メンバーは教援会「自治」の場において責任をとるべきだとする、事実上既存体制の再構築を目指す論理にすぎなかったあなた方は教授会「自治」の残骸にしがみついて、その改良を心掛けようとしているが、それは所詮われわれの関知せざる雲上の良心劇にすぎず、このような方途によって現在の危機が乗り切れたとするなら、その時出現するものは、強固に再編された国大協体制そのものであろう。


 われわれはあなた方に勧告する。

自らを学内支配の秩序から引き剥がす痛みに堪え、学内全階層の平等な参加による真の自治を闘いとる行動の端緒として、あなた方以外の教官・職員、さらに現下の闘争の最も草本的な戦闘力であり、無期限ストその他、あらゆる可能な形態によって闘いつつある学生諸君との連帯の方向を追求すべく、真摯なる努力を傾けられよ。あなた方が教授会「自治」なる支配体制の一端を担ってきた責任を回避せず、新たなる大学人として甦る唯一の道は、このような努力を具体的な行動によって示されることであり、われわれは幻想を持つことなくそれを希望している。

 われわれは現在の事態を単なる混乱とみなし、その「収拾」を計る試みを排撃する。現在われわれが経過しつつある状況の示すものは、帝国主義権力が国大協路線を基調として貫徹しょうとしている大学支配の動揺であり、意識することなしにその下士官としての役割を演じつつあった教授会「自治」の破産である。この状況を、旧来の支配構造の復活によって終焉させることを、われわれは拒否する。さしあたって、大学当局は以下の要求を受け入れよ。一、医学部不当処分白紙撤回。医学生・研修医(青医連) の要求を全面的に受け入れよ。


一、警察権力の学内導入反対。今回の導入に関して大河内総長は謝罪せよ。

一、前項の早急な実現のために、大河内総長は直ちに大衆団交に応ぜよ。
 さらにわれわれは次のように要求する。
一、大河内総長・豊川医学部長・上田病院長は辞任せよ。
一、評議会・教授会は自己批判せよ。
一、全学ならびに全部局に、全大学人の管理参加を検討する機関を設けよ。

 大学当局が実質的譲歩を少しも行わず、依然として旧来の支配を頑強に維持しようと努めている現在、意志表明の手段を絶たれた学生が、さまざまな形態の抵抗を展開するのは当然である。日共・民青系の諸君は、警官隊再導入を招く等々の理由で、相も変らず尖鋭な形態の闘いを妨害しょうと試みており、進歩派諸君のかなりの部分にもこれに同調する動きが存在していることを否定できない。医学生・研修医(青医達)の要求を全面的に支持しない者は論外であるが、その要求と闘いを基本的に支持すると称しながら、なおかつこのような主張をする諸君は、第一に、勝利に到る展望を自ら具体的に提示すべきであり、それなしに警官隊導入だけを焦点に据えるのは愚劣であって、何ら説得力を持たないであろう。果敢に闘っている部分を弾劾し孤立させることによって、当局の警官隊導入はかえって容易となるのだ。われわれはこの闘う部分を支持し、支援することによって警官隊の導入を阻止し、同時に勝利への展望を切り開いてゆかねばならない。ここ数日の学内の流動的状況を見るならは、この闘う部分に広汎な学内大衆の力を結集し、真の闘う統一と団結を作り上げることを可能とする条件は明らかに存在している。これを実現するか否かは、まさにわれわれ一人一人の努力に懸っているのであり、われわれはこれこそが現在における唯一の現実的な方向であるとの認識を持つ。


 終りに当って、われわれはわれわれ自身に向けてきびしい自己批判を行わねばならない。学内の大多数の人びと同じく、われわれも、また警官隊導入に端を発する今回の危機的状況によって、はじめて「自治」の実態たる学内支配の腐敗と頽廃を深刻に意識し、これと真剣に闘おうと決意するに至ったのであった。医学生諸君の闘いを孤立させてきたわれわれの精神に、惰眠をむさぼっていた頽廃部分の存在したことを、われわれは否定し得ない。われわれの責任は、学内支配層や、医学生の闘いを意識的に妨害してきた者たちの責任とは、全くその位相を異にするものであるが、それ故にこそ、一層鋭く自覚されなければならない。また、われわれは、われわれの置かれた位置について明確な認識を持たねばならない。われわれは助手であり、この階層に固有のあいまいで中間的な性格と、それに伴う種々の困難を自らに負っている。このような立場からの制約もあって、われわれは六・一七以後の過程においても、必ずしも十全に闘ってこれたとは断言できない。しかしながら、この文書を発表することによって、われわれは一つの選択を行ったのである。

 われわれは今後学内の真に闘う部分に徹底的に依拠しつつ、大学に生きる限りでのわれわれの存在のすべてを賭けて、新たな大学自治の創出のため、われわれに可能なあらゆる方法によって闘うべき地平に、われわれ自身を突き出したと考える。

 完全な勝利は全体制の変革される日まで実現されず、またそこに到る途上には、国家権力との、学内権力との、あるいは反体制運動内部の官僚どもとの、熾烈な開いが予想されるが、われわれはこの目標を目指して力を傾けるであろう。


  われわれは連帯を求めて、孤立を恐れない。力及ばずに倒れることを辞さないが、力を尽さずにくじけることを拒否する。


 東洋文化研究所助手10名

 東京大学学生より

 −東大闘争の勝利を目指して −

 われわれ東京大学の学生が、大学本部を占拠して以来ほぼ一月の時が流れた。その問大学当局はわれわれの提起した問いには、何らの回答も寄せずに虚しく事態の収拾を試みただけであった。が、「事態の収拾」とは何を意味するか。「事態の収拾」なる言葉づかいの裡に、大学当局の有する論理の矛盾を看取しうる。すなわち大学の秩序維持は教授会の権限であり、それゆえ、教投会は、問題を抜本的に解決する代わりに、学生に多少の利益を分与することで、自らの教育者としての地位を安泰に保持しょうとしているのである。さらに従来より反動的な意見さえ新たに生じてきている。

 われわれが、上記の如き矛盾を内包した大学現行秩序に抗して闘うならば、われわれは権力者の暴力をもって一方的に処分される。このことは、大学が政府当局の暴力によって背後から支えられざるをえない構造になっていることを示している。大学は、「学問、研究の自由」の名の下に国家権力から独立しているかに見えるが、その実国家権力の、実力なき近親者にすぎないのであって、大学のさような地位は、大学内部を権威に反抗しないように自己規制する代償として得られたものである。大学は内外の暴力から学問・研究活動を守ると称しているが、実際は上記の如き機構を通じて現行秩序を乗り超えようとする学生を抑圧するだけである。これが、いわゆる「国立大学協会」路線の実態である。いまや大学が相対的独立を維持できるか否かさえ疑問である。教授会は、われわれは大学共同体の主人なりと考えているにもかかわらず、自らの存在すら国家権力に売渡しているのだ。

 われわれは一致してかような構造に反逆する。われわれの大学本部占拠は、われわれが最早国家権力の管理下に抑圧されはしないとするわれわれの思念の象徴である。それはまたわれわれが自己を取戻す作業の形態でもある。支配し、支配されるという現存秩序の構造は、自主規制という形で、われわれ自らの問にさえ投影している。いまやわれわれはわれわれの存在とわれわれの力を完全なものたらしめんとしているのであり、われわれの意識の解放を鞋ちとらんとしているのである。かつて与えられたもの、そしていま在るものはことごとく擬制にすぎない。われわれは所与に対してノンを言いうる主体を確立したのである。

 以上の如き見地に立つならば、教授会との話し合いは何らの有効性も有しないことは明白である。なぜなら教授会ほ現存秩序をあるがままに保守せんとしているのであるから。われわれは進歩的教援たちの良心の免罪符を売ってやるわけにはいかない。話し合いによって事が収まると考える教授たちには自らのピエロ的態度をよくよく省みるべきだと忠告してさしあげたい。

 われわれは、日共配下の学生諸君がこのような話し合いに無条件にとびつき、協議機関設置を価値あるものとして受け入れようとしているという点でその犯罪性を論難する。問題は、大学が一部反動的人物によって非民主的方向にひきづられるという単純なものだけではない。まさにその「民主的形態」そのものが現存秩序の矛盾を隠蔽し、われわれの批判の刃を鈍らせているということを理解すべきなのである。

 一九六八年八月一一日 
東京大学ベトナム反戦会議

  THE APPEAL TO THE STRUGGLING STUDENTS IN THE WORLD

              −FROM THE STUDENTS OF THE TOKYO UNIVERSITY

 −TO WIN THE VICTORY OF‘TOKYO UNIVERSITY STRUGGLE′−
It’s about one month since we the students of Tokyo University,occupied the university’s main
hall During that period university authorities only tried in vain to save the situation and did’nt give
to us.But what does’save the situation’means?In this expression we can find theogicalcontradiction of the university authorities;thatis to say,the order of the university is left only in the hands of faculty and they tries to keep themselves safe as educators giving something to students instead of setting the matter radically.Besides more reactlve views can be newly seen than before If we struggle against the present order which has such a contradiction stated above,We are punished by the violence of the authorities one−Sidedly.This fact shows us clearly that the structure of the universitymust be bcked with the violellCe Of governmellt authorities.The uIliversity seemsto beindependent from the state power under the name of”freedom of study”,but actuallyitis only a powerless relative being which results from self-regulation not to be against the authorities.
Itis this structure of the universjty that oppresses Only the students who areagaiIISt tbe presellt Order,
Whileinsists on defending the activities of studying against the violence both from the outside and the inside.Thisisthe reality of the self regulation ofsocalled’’NationalUniversity Association”Line.
Nowitis doubtfuiif the university can remain even relativelyindependent.The faculty,Who thnkthemselves to be the hosts of the community of tbe university,are Subject to the state power betrayirng themselves,Weareallagainst such a structureas this.Our occupation of the university’s main hallis the Symbolthat we should not be oppressedanylonger under the controlof the state power.It’s also the form through which we can regain ourselves.The structure of the present order,to rule and to be ruled,is reflected evenin ourselves,taking theform of self-regulation.Now weareat the point of Satisfying our exsistenceand power,and winning the liberation of ourconsciousness.What was givenand whatis now are allonly fictions We established the conscious subject who can deny what was given or whatis given.
If wetakethisviewabove,itisclearthatthereisnouse of talking each otber,since the faculty Want to keep the present order as it is We cannot selltheindulgence of the conscience of the”progressive,facuty We want to advice thepersons whoare going to settle the matter by talks that they shouldl reflect on their own pierrotlike attitude.
 Weblamethecriminalityofthestudentsunde‥heinflucnceofJapan Communist Party who aregoing to jump at the offer of tallking by the univevsity authorities without any condition and value the idea of establishing organization of the university・Wemustrealize not only that the university is now being driven into the non-democratic corner by some reactionists,but also that the very democraticformafterallcoverupthecontradictionofthepresent order,and du11s theedge of our blade againstit.

 AUGUST 11th,’68
 ANTI−VIETNAM WAR COMMITTEE OF TOKYO UNIVERSITY
 (TODAIVIETNAM HANSEN KAIGI)
 「僕を含めて、安保の世代がその後どうなったのか、何人かは精神的に死滅していった。そして何人かは、所さん、あなたの言葉を借りれば、精神的に放浪児になった。そして何人かは、その当時の彼等が達した地点を必死になって守り続けている。つまり悪くいえば、当時の貯えで食いつないでいるか、せいぜい遺産にみがきをかけている。しかし、それらの多くは、今の状況に対処しえなくなったのではないか。だが所さん、あなたはそのような型での生存を拒否した人だった。
 あなたは、貪欲なまでに知的に生き続けることを欲した、そのあなたが死んでいった。生きていて欲しかった。」 (山本義隆氏弔辞より)


樺美智子と同じ日にデモに初参加し、樺美智子の死を国会構内で聞き、東大闘争の幕あけに生を閉じた
所美都子。彼女もまた、「安保に病んだ世代」として、樺美智子の死を思想の核とし、そこを出発点とした、ひとりであった。


〈「生産の論理」により合理化される殺人
非合理化される生存の開花
ケチ臭く「価値なきものを取り除く」
なんだってかんだってみんなそこにあったっていいじやあないか
〈能率〉が大手を振る
ムダという言葉でバサリバサリと生存が切りとられる
何が残った?
これは何だい?
よそよそしいリボゾーム
これが私だって?)「ノート66年6月19日」

「10・21のストを成功させるため何が自分にできるか考えてみた。
  東京駅頭にプラカードを持って立つ。
  十七日から仲間が立ち始めた。
  今日も夕方六時から入時頃まで東京駅八重洲中央口に立つ、明日も。
  東京駅の群衆にもまれるなかで、自らのすり切れた反戦の肯志を再びよみがえらせ、それがその群集の中の火種となって育つことを夢み「一人であっても意志表示ができるのだ」ということが当り前となるように。」     (「東大ベトナム反戦会議」アピール)

 お茶の水駅での花くばりは、所美都子の独創的なアイディアであった。プラカードを持って彼女一人雑踏に立ち、街行く人に花を渡す。主張を書いたビラも持たず、声をあげて呼びかけもしない。花を手わたされた人は、自分の頭で花とプラカードを結びつけなければならない。与えられた、ビラにかかれた「反戦の意志」ではなく、みずからの答えをださなくてはならない。彼女はそこから何かが生まれるかもしれないと信じている…。

 藤沢市内の小さな寺に、突然インターの歌声がひびいた。「
東大ベトナム反戦会議」の旗とインターの歌声と、のちの東大闘争のメンバー、山本義隆氏の「生きていて欲しかった。かつて、全学連の先頭にいたあなたは、いまでもまた七〇年においても、先頭にたてる人なのだから」という弔辞とに送られて。
 所美都子の柩が送られた日 −一九六入年一月二九日− 東大医学部学生は無期限ストに入った。彼女が永眠したこ七日、医学部全学大会において、賛成二二九、反対二八、保留二八、棄権二で、無期限スト突入が決定されたのである。ひとつの短いけれど、激しい生命の燃焼が終わった目、東大闘争が静かに幕を切っておとされたのである。

所美都子
一九三九年一月三日、東京・江戸川に生まる。藤沢市の小学校、中学校をへて、一九五四年、県立湘南高等学校入学。高校時代は生物研究部と社会科学研究部に属し、山歩きしながら生物学への興味を深める。
 五七年四月、お茶の水女子大学理学部植物科入学。同時に山岳部へ入部。クラスの自治委員、原水爆対策委員などをする。五九年、六〇年は安保闘争に参加。羽田闘争、六・一五国会突入などに奔走する。八月には、一ヵ月問、三池闘争へ。
 六一年一〇月、大阪大学へ、翌年同大学理学系大学院に入学。「薬剤耐性菌の遺伝機構」の研究に着手したが発病して中退。六四年お茶の水女子大学理学系大学院へ。六六年修了。四月、東京大学新聞研究所研究生。「
東大ベトナム反戦会議」などで活躍し、同時に『予感される組織について』などの論文を執筆。
 六七年一二月、過労で倒れ、翌年一月二七日死去。
 享年 二九歳。

 君は今何を問われているのか
・・・・二百数十日に及ぶストライキ闘争の中から法学部の学友に訴える・・・

 1968・10・11 東大闘争医学部連絡会議

 1、医学部問題の根源

 独占資本の繁栄のもとで、生産第一主義が強調され、合理化が強行され、労働災害は年を追って激増している。おびただしい災害発生の氷山の一角を反映したものとして、労災保険にあらわれた数字は、毎年132万人以上が災害にあっていることを示している。毎日18人が殺され3670人の労働者が傷つけられている。炭鉱労働者を例にとれば、三池闘争の1960年と1965年では災害指数は111から168に増え、61年には月28人が殺され、355人が傷ついている。しかも最近、あらゆる職業において保安無視の生産増強、ひとべらしと労働強化の中で、労働災害は大型化している。職業病はキーパンチヤーのけんしょう炎、運転手のムチウチ症、配管工のガス中毒、化学薬品による職業病、全産業にわたる腰痛症が頻発している。

 資本のあくことを知らない搾取の強化のもとで、防止できる職業病も放置され、今やそれは、全産業の労働者の健康をおびやかしている。農民はどうだろうか?ー−同じだ。公害はどうか? 交通事故はどうか?--一
同じだ。

 新安保条約以後、池田、佐藤両政府のもとに於ける日本資本主義の「驚異的発展」は資本主義世界第3位という「繁栄」をもたらしているが、この
見せかけの繁栄は、一方に於ける労働者、人民の犠牲の上に築き上げられたものである。こうして人民の健康破壊の進行と増大する医療要求は健保財政を危機に追いこんだが→70年を目前にしてアメリカのアジア侵略に追随し、海外進出をはかりながらドル防衛や資本自由化の圧力のもとで国内体制の強化に狂奔している政府はこれを健康保険の抜本改悪=社会保障から営利保険へ=によって切り抜けようとしている。これは患者、国民の負担の一層の増加とともに医療従事者への低賃金、合理化攻撃として表われる。こうしたものの一環として登録医法案があったのである。‥‥‥

 我々はこの数年間のインターン闘争、医学生運動の中からインターン問題、無給医問題が総体としての医学医療の状況に規定されており、
日本の医学医療全体の変革を展望しつつ闘かわなければならないことを理解した。そして卒業後、こうした内容の闘かいを進めていく運動体=青医連を生みだした。この闘かいの過程で我々は、又、旧医局体制とその上にあぐらをかく医学部教授会が下からの新たな運動の高揚に反動的な恐怖と敵意をいだき運動を圧殺しようとしていることを理解した。当局に青医達の存在を承認させ、運動を進めるための政治的自由を獲得すること一切がここにかかっていた。その意味でこの闘かいは我々にとって、どうしても勝たなければならないものとしてあったのだ。(中略)

 3、法学部の学友諸君、君達に問いかけたい!

 法学部の学友諸君、君たち一人一人に問いかけたい。君たちには僕らと同じような問題はないのか。東大法学部の現状、社会的に果たしてきた役割に満足できるのか。辻清明をあのままにしておけるのか。教授会のスト破壊活動を許すのか。旧への復帰・・・・・安易な7項目妥協路線に止まろうとするのか。今、学内には、又、全国の学生運動の中には7項目を乗り越えさらに徹底した民主化を実現できるエネルギーがあるのではないか。君たち一人一人の未来、一人一人の全存在をかけて我々とともに無期限ストで闘おうではないか!

 東大闘争の決定的局面をいぬけ!

 1968・10・26 全学助手共闘会議
 全学無期限ストライキで闘っている学生諸君、大学当局は常軌を逸した拙速主義をもって、またもや事態の収拾をはかろうと動き出した。彼らの動きは、腐敗した土台にあくまで固執し、その上に、一部の諸君の喜びそうな擬制民主化ないし近代化管理体制を接木しようとするものである。

 腐敗した土台とは何か。

 国家権力と癒着し、日本独占資本主義の高度な発展を支える純体制内的
支配機構であり、年功序列・身分職階制に裏打ちされた権威主義・伝統主義・学問至上主義(アカデミック・フリーダム)である。この土台に対する徹底的な攻撃を欠いた「大学改革ビジョン」などは、たわごとであるにとどまらず、「よりよき管理化」への積極的協力を約束する犯罪をおかすものに他ならない。

 闘う学生諸君、冷静に大胆に(大学)を破壊せよ。

 半焼家屋の跡に新しき家をたてたいと欲するならば、まず半焼家屋を焼き減ぼさねばならない。われわれは、ここに、その最低の作業として以下の項目を掲げる。東大闘争を闘うすべての学生・院生・若手研究者・職員諸君、いま 一度不退転の決意を新たにして、この闘争を闘いぬこう!

○「8・10告示」撤回。
○7項目要求を受け容れ、直ちに大衆団交を開け。
○総長は即時辞職せよ。
○医学部不当処分承認以後現在に至るまでの全評議員は辞職せよ。
○医学部教授会構成員は全員辞職せよ。
○全学の各学部・研究所教授会構成員は、全員学生に謝罪し、自己の無責任・無能力を学生の審判に委ねよ。

 東大闘争を推し進めてきた唯一の組織的主体は全学共闘会議であり、全学の闘う学生諸君は共闘会議に結集している。従つて共闘会議のみが大衆団交の交渉主体となりうるのであり、他の集団がその闘争の成果に便乗することは許されない。
○全学共闘会議を大衆団交の唯一の交渉相手とせよ。
○日・民の犯罪的闘争破壊を許すな。学内支配の近代的合理化に順応する「民主化」路線・協議会方式の幻想を打破せよ。
○学部共通細則撤廃。
○公安警察と一体化した学生部解散。
○東大は国大協を脱退せよ。「大学自治こ関する東大見解」(大内パンフ)破棄。
○講座制解体。戦闘的医局員諸君による医局解体支持。
○10・21国際反戦デー新宿闘争の勝利万才!
 騒乱罪捜査を名とする官憲の学内侵入を許すな。
○すべての幻想を拒否せよ。われわれは遠くまで行かねばならないのだ。大学権力のあらゆる妥協と恫喝のつけ込むすきを与えぬ鋼鉄の無期限ストライキ体制を堅持せよ。ストライキ体制内部の空洞化の危機をはねのけ、全学バリケード封鎖によって、決定的に(大学)の死を宣告せよ!全学の戦闘的助手諸君、全学助手共闘会議に結集し、闘う学生諸君と堅く連帯して、全学バリケードの構築を追求せよ!
              
 1968年10月26日 全学助手共闘会議

  ぼくはでてゆく
  冬の圧力の真むこうへ
  ひとりっきりで耐えられないから
 たくさんの人と手をつなぐというのは嘘だから
  ひとりっきりで抗争できないから
 たくさんのひとと手をつなぐというのは卑怯だから
  ぼくはでてゆく
  すべての時刻がむこうがはに加担しても
  ぼくたちがしはらったものを
  ずっと以前のぶんまで
とりかえすために
               (吉本隆明)

 擬制の終焉・・・・地に墜ちた権威主義

 1968・12・9 全学助手共闘会議
 我々の7項目要求の目的ーーそれは「東大の変革」である。然らば今日までの東大に存在していた、変革さるべき「非民主制」とは何か。一言で言えば「教官の異常なまでの権威意識」およびそれから生ずる各個の制度にみられるところのものである。

 東大教官の地位と結びついた権威、それにしがみつく異常な人間像ー−それが90年の歴史のうちに東大を今日あるが如き腐臭に満ちた姿へと育てて来た。我々の社会においては、すべての権威は否定されなければならない。然るに、東大においては過去現在にあって、この「権威」がすべてを支配してきたのである。しかもその権威の源を探究するや、我々は権威の存在の不合理と並ぶ不合理を知るのである。教官の権威の源はその地位である。さらばその地位はいかにして与えられたものか。閏閥、ゴマスリを論外として、正常な場合のみを考えるとしても、たかだか技術的にすぐれているというだけのものでしかない。しかも狭い分野の専攻研究によりエンジニアとしてある程度のレベルに達しているだけー−それが東大教官の地位の源なのだ。

 教育者たる者は技術があるだけでなく、人格的にもすぐれたものでなければならないという理念があ。しかし、俺は大学教官だ、教育者だ、だから人格的にすぐれているという理論が成り立たないことは、小学生でも知っている。大体、大学の教官になるために彼らは教育者たるの訓練を受けていないし、人格的な評価も問われていない。

 しかし教官は技術的に長じたが故にその地位を得ただけで、人格的尊敬を受ける人間と同じ存在にあるかの如き「妄想」にとらわれているのである。これは他人がみてお気の毒にという同情だけでは済まされない。なぜなら、その異常なまでの妄想をもった権威亡者が、大学の全体を観念的に、制度的に支配しているからである。

 教官は、大学の内にあって他の身分にある者(学生、職員)よりも常に上にあると信じている。否、かく妄信している。その愚かさをこの辺でゆっくりと反省すべきである。教官は技術者であり、学生に技術を伝えているものである。(それ以上の何ものでもないことは、その地位取得の過程から明らかである。)従って教官と学生との間には技術の売買、職員との間には大学社会における機能の分担の関係しか存在しない。然るに教官様は、愚かにも、この当然の事実を知らず、職員、学生よりも上の存在と思っている。その結果、彼らは常に背のびをしながら東大の生活を送って来た。そもそもありもしない権威を自ら想定してそれを守るために汲々として来たのだ。林学部長救出?運動に際して彼らがまず云ったセリフーーー「恥も外聞も捨てて、学生諸君にならってシュプレヒコールをやりましょう。」−−こそれがはっきりと現われているではないか。云いたいことを大声で云うことがなぜ恥なのか、何故に外聞を気にするのか。我々に教官が集まって大声で自分らの主張をするのをみて、何とも思っていない。(内容は別)我々若者は、かなりの「民主」教育を受けて育って来た。それ政教官に対しても当然に一人一人を人間として観察する習慣をもっている。教官の地位それ自体を権威と結びつけて考えるようなまねはしない。若い職員もそうだ。それなのに教官は自分達だけで勝手に自己に権威あるものと誤想して、無いものを守らんと必死になっている。滑稽としか云いようがない。

 しかし、教官諸氏よ。もうご安心されたい。即日に及ぶ我々の闘争の結果、東大の内外に教官の地位がもつ権威などありはしないことが知られるに至った。教官のメンタリティーからすれば、自分達を頂点におく大学内の階級制度にあって最下位にあるはずの用務員の人達からも、「あれで大学の先生かしら」という云い方でバカにされるに至ったのだ。

 教官諸氏よ。あなた方には権威はないのだ。はじめから無かったのだ。もう大丈夫。これからは一人の人間として背のびせずに生きられる。その代り、人間として責任ある態度を、今からでも遅くない。身につけられよ。下を見おろすような態度でして来た学生処分、虫ケラを追い出すような考え方に立つ機動隊導入…‥・東大問題のすべてが教官の愚かな権威意識から出たものである。

 我々は東大非人問性の根源である異常な権威主義を打破するために闘って来たのだ。まだ残っているかも知れない権威を打破するための追及の手をゆるめてはならない。

 「安田講堂1・18決戦前夜」のパンフ。
 国家権力と対決せよ

七〇年安保闘争と七〇年代階級闘争の開始期にあたって、全学共闘会議の旗の下に結集し、東大闘争を敢然と闘い抜いている総ての学生・院生・教職員諸君!
1・15闘争は、解放講堂前銀杏並木に、一万名を超える、先進的な労働者・市民・学生を結集して、巨大な成果をかちえた。「学内立入禁止」の恫喝によって、警察機動隊の物理力を背景に、露骨な闘争弾圧を加えてきた大学当局、国家権力の意図は、この戦闘的な労学の連帯の前にもろくも崩れた。
 この、1・15闘争の成果をふまえ、更なる闘いの前進をかちとろう!

(一) 1・15闘争の階級的意義
 我々は、この東大闘争が既に個別学園闘争の枠を突き破り、日本階級闘争の一翼を担うものとして登場しているということを再三指摘してきた。それは九〇年にわたる東京大学の帝国主義的な機能を解体していく中から、大学における二重権力を創出し、さらには、権力の奪取を明確に目的意識化した地域人民と結合し、地域人民権力=解放戦線の樹立を展望していくものとしてある。七項目要求という改良的目標を改定して切り開かれた東大闘争が、11・12から11・22にかけての闘いのなかで質的な発展を遂げ、七〇年安保闘争への突入を階級的任務として闘い抜くべき六九年学園闘争へと前進していった過程は、まさに非和騨的階級闘争の一環として東大闘争が成長していく過程であったのである。
 この東大闘争の巨大な前進のまえに、公然と敵対してきた反革命分子、言うまでもなく日共=民青ブルジョア民主主義路線である。それは、闘いの質的高まりとともに必然的に阻害物として登場してくる。そのことは、そのよって立つ基盤が、人民とは自らを区別した「民主的インテリ」と称する階層であることによっても明らかであり、闘争を原則的に貫徹せんとすれば、実力粉砕の対象としかなり得ないのである。9日の、教育・経済学部における闘いは、全学封鎖の過程の中に、このように位置づけられるものであって、反帝学評の諸君のように、民青の出方の裏返しとして「9日決戦」か「10日決戦」かのごとき問題設定は誤りであることは、今さら言うまでもないことである。
 1・15闘争の意義は、国家権力との直接対決の局面を迎えて、自覚した人民が、階級的任務を担って革命派として決起し、政府ブルジョアジーに公然と反旗をひるがえしたことである。従って、その一側面は、当然にも日共=民青のブルジョア民主主義路線を断固として粉砕したことでもあるのだ。
 (ニ) 助手共闘・闘職・全闘連の意義と方向
 東大闘争が個別改良闘争の枠を越える高度な内容を有する闘いに発展しえた重要な要因として、広汎な院生・助手・職員の決起を高く評価し、敬意を表するものである。学部学生よりはるかに深く資本主義社会に、その生活基盤を有するこれらの人々が敢然として闘いの隊列を構築したのは、裏から言えば、現在の大学の、政府=ブルジョア独裁権力の末端機構としての学内管理支配の徹底化を意味している。大学共同体幻想を有すべくもない位置に存在したが故にこそ、これらの人達は、最も先進的に闘い、自らを戦闘的な隊列に形成したのである。資本主義のより深い所より立ち上がったが故に、既にあれこれの党派を越えた地点に立つている。東大闘争が人民との直接的・現実的結合をなすまで発展して来た今こそ、その先進性・戦闘性を東大闘争を超えて発揮すべきであり、その道こそ、解放戦線路線に他ならない。更に多くの職員・院生・助手を結集し、自らを労働者解放戦線・学生解放戦線として形成するよう心から訴える。東大学生解放戦線は、心から敬意を表し、諸君と共に進むものである。

 (三) 国家権力と断固として対決せよ!
 東大当局は、増々その本性をむき出しにし、機動隊による闘争の圧殺を公言している。我々は、既に警察力の弾圧にも屈することのない高い思想性と戦闘性を持つ、闘争組織として、全学共闘会議を形成している。全東大の学生・院生・教職員諸君・全学共闘会議こそ、信頼しうる闘争組織であり、権力と対決しうる組織である。断固として、共闘会議の下に結集するよう心から訴える。とりわけ闘争の長期の担い手たる教職員諸君、断固として共闘会議に結集し、権力と対決し、指導的階級として自らを共闘会議の中に形成するよう訴える。
   (東大学生解放戦線「闘争指令」NO52〔69・1・16)

 「安田講堂1・18〜19闘争が切り開いた全国学園闘争」のパンフ。
 全国の学生労働者の諸君
    断固たる実力闘争に起て!


 われわれは一八日未明より八千人にのぼる機動隊による、一万発以上の催涙弾射撃、陸・空からのガス水放射、そして八〇人のピストル部隊までくり出した全面的闘争圧殺攻撃にたいし、解放講堂に依ってこれを迎え打った。そして丸一日間、彼らを一歩たりとも解放講堂に近寄らせないという形で、機動隊を使った、大学当局・国家権力の狂気の沙汰とも言うべき闘争圧殺攻撃を完全に粉砕しつくした。われわれはこの巨大な成果の上に立って、さらに永遠にわれわれの解放講堂に対する(そしてそれはとりも直さず、全国学園闘争に対する)一切の権力の悪らつな攻撃を粉砕しづづける覚悟である。
われわれの士気はきわめて旺盛である。というのはわれわれははじめから、機動隊の圧倒的物量作戦に見事に表現されている生産力物神化に基盤をおく体制そのものに対して、過去一年間にわたって全存在をかけて闘いをいどみつづけてきたのだから。われわれは、この解放講堂全面攻撃に集約されている現代日本帝国主義の普遍的・根底的矛盾に対して、非妥協的に闘い抜く決意を新たにすると同時に、東大につづいて、全都・全国の闘う学生・労働者諸君が、われわれと深く連帯して全ブルジョア権力総体に対する断固とした実力闘争に決起されんことを訴える。
  1月18日
東大闘争全学共闘会議



全共闘メッセージ
 東大当局は、われわれの闘いの要求であるところの七項目はじめ8・10告示の問題など、われわれの問いに全く答えようとしないばかりでなく、無内容な”提案”をちらつかせ、自己保身に小心翼々たる右翼と、党派的利害に妄執する日共・民青をひきつけることにより、七学部集会などの茶番劇による収拾策動に終始してきた。そして今や、自からタブーとしてきた機動隊に積極的に依拠し、全共闘運動の暴力的圧殺をテコに大学自体の新たな再編の暴挙を推し進めようとしている。しかし全共闘は、この例を見ない過酷な弾圧のなかで、東大構内においては解放講堂にむけられた彼らの攻撃を英雄的に粉砕し、またこれに呼応して東大正門前において、また神田地区一帯において、日大・中大・明大などの、すべての闘う学友のみならず、多数の闘う労働者とかたく連帯して、路上バリケード闘争など圧倒的な実力闘争を闘い抜き、権力のあくなき攻撃・弾圧を粉砕しつくした。

 このわれわれの闘いは、帝国主義権力・ブルジョアジーに対する全人民の闘いの普遍的な方向性を先取りし、そしてその明確な展望を切り拓いたものであった。
 全都・全国のすべての闘う労働者・学生諸君は、われわれ全共闘とともに、総力をあげて権力・ブルジョアジーを打倒する闘いに決起してほしい。そして、1・21全国学園ゼネストを完全に打ち抜き、これをテコに、全社会的に進行する帝国主義的再編を粉砕する闘いに起ち上ってほしい。そして日本帝国主義的再編の画期である七〇年へむけて、あらゆるところで実力闘争を展開して行こうではないか。
一切の妥協を排し、敗北を恐れず、全力をあげて原則的な闘いを組織することが、われわれの勝利の唯一の条件である。
1月18日
東大闘争全学共闘会議
東大闘争の残虐な圧殺を許すな!
直ちに東大へ!

警察権力は今、一万人の機動隊を東大構内とその周辺に送って、東大闘争を権力の残虐な暴力で圧殺している。
一万人の機動隊は、約一千発のサイルイ弾を、今の、今学生に向竹て発射している。更に十気圧の水圧を持つ高圧放水車は闘う学生をそのサイルイ液の刺激臭と共に吹き飛ばしている。にもかかわらず、東大全共闘は今、彼らと闘っているのだ。直ちに、全ての市民・学生・労働者は、東大へ行き、その狂暴な弾圧を直視せよ! そして選べ。権力の暴力か、不正義・欺瞞と闘う学生か、どちらの側に自分を立たせるのかを!
今構内にいる学生を全て逮捕しているというニュースが入った。
大学の構内に、学生がいること自体が、”違法”となるような大学とは、一体何なのか?

それは大学なのか? それとも権力の一機関なのか? しかも、機動隊は学内の二〇ヵ所の建物を強制的に捜している。ということは、紛争に全く関係のない建物にまでサイルイ弾をうち込み、研究設備を泥靴で踏みにじっているということだ。
 東大周辺、つまり神田川から本郷よりの区域では、法を守るという彼らの言い分とは全く矛盾する通行人の検問が行なわれている。
そして、少しでも機動隊にあやしいと思われた者の逮捕がつづいている。
それは今、現在のことなのだ。これは、戒厳令状態なのだ。
権力が好きな時、市民の自由を奪うことのできる戒厳令状態だ。例えば、ただ歩くことすら、自由ではない。しかもそれは彼ら機動隊のいう″正常化”が実現するまで続けると、彼らは言う。いったい”正常化”とは何なのか?僕らは、東大の加藤総長代行が秩父宮ラクビー場で学生と会った時、「学内に今後一切機動隊は入れない」と約束したことを知っている。”正常化”とは約束を破ることなのか?大学の教官とは約束は破れと教える存在なのか?それどころか、東大闘争の発端となった医学部のボス、豊川・上田両教授を″やめさす”と言っていながら、加藤には彼ら二人をやめさす権限など持ってはいない。はじめからの空約束なのだ。大学とは、嘘、空手形が平気で通用する世界なのか?それに対して闘いを挑むことが、どうして責められることなのか? いや、そのうちに生活している学生や大学院生・助手が堕落し切ったその東大に闘いをしかけないでいられることなどあり得ることなのか? 一年近い闘争で、しかもわかったことが、東大当局のこの欺瞞性だったとは!
 今、ヘリコプターが空から機動隊を導入しているという情報が入った。彼らは、ベトナムでのアメリカの仕方を真似、そしてアメリカ軍のように、残虐に、人間の真実を求めて戦う人々を今庄殺し去ろうとしている。
くり返すが、それは今の今のことなのだ。
闘う人々の圧殺を許すな!
この東大闘争をサイルイ弾とあらゆる機械力、化学兵器と警棒で圧殺し去ろうとする東大当局と権力の罪は重い。そして、党派根牲からこの闘いをねじまげようとした者も、それは同罪だ。
すぐれて日共=民青がそれだ。日共=民青は七〇年安保の主導権を握り、そのことで政権を獲得しようとする日的のためにのみ東大闘争を利用してきた。現に存在する不正を糾弾し、真に人民のものとしての大学共同体を作りあげようとしたこの東大闘争を、彼らは利用しようとしたのだ。(中略)
 直ちに東大へ!   
 横浜市立大学東大闘争を担う 闘う学生有志

 「安田講堂1・18〜19闘争が切り開いた全国学園闘争」のパンフ。
「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、 この放送を中止します」
東大全学学生解放戦線 1969年1月19日午後5時50分
安田講堂1・18〜19闘争が切り開いた全国学園闘争
今井 澄(東大医共闘)hnn
 1・18〜19闘争とそれが切り開いた全国学園闘争は、東大闘争がこの一年有余の発展過程で登りつめた地平と、10・8羽田闘争以降の学生運動が10・21新宿闘争を経て切り開いた地平がみごとに一致したものとして実現された偉大な闘争である.

 全国学友の総結集をもって闘われた1・18〜19闘争は、言うまでもなく一東大闘争の帰趨のみにかかわるものでもなければ、敵側の各個撃破の最大拠点を守るといっただけの意義で闘われたものでもない。それは、六八年全国学園闘争がかちとった高度な質を六九年闘争の爆発として実現し、七〇年安保沖縄闘争へ連続的に発展させ得るか否かの帰趨を決するものであった。もちろん、こう言ったからとて、それを「闘争の激しさ」や「活動家」を七〇年闘争へ持ち込むことだなどと歪曲する者があるとすれば論外である。

 1・18〜19闘争は、六九〜七〇年闘争の帰趨を決する闘争であったと言うのはどのような意味でか?
 1・18〜19闘争は、軍事的に勝利するか否かにその闘争自体の勝敗がかけられていたのではないことは明らかである。1・18〜19闘争は、内外の権力機構を動員し− つまり、学内にあっては右派・民青のカ、諸手続き、学外からは機動隊−闘争を圧殺し、「正常化」=旧秩序の回復をはからんとした政府・官憲と大学当局の一体となった挑戦を真正面から受けて立ち、当局の意図を挫折させることにあった。そして、我々は、見事にその勝利をかちとった。当局の意図した秩序回復は、未だに、機動隊大学と化しても、果たされていないのみならず、ますます混乱が深まっているではないか! 政府・官憲の意図した治安維持も、我々の部隊を追い廻し、たしかに闘争を困難ならしめているが、隊列は減少していないし、戦術も決して低下していないではないか!

 我々が断乎として闘い抜く限り、機動隊は学内に留まることになるだろうが、そのような状態は誰が見ても「正常化」されたものとは思えないし、そのような状態下での「改革」が何の「前進」 「解決」をも意味しないことは明らかである。それよりも全ての人々の眼には、機動隊をもってしても強引に守られねばならない「株序」や「学問研究」 「教育」の階級的本質がますます明らかになるだけである。
 すでに、18〜19日、機動隊の側からしか闘争を見聞きすることができなかった多くの労働者・市民の中にすら、「あんなにまでして行なわねばならない″正常化″とは何か」という疑問が広汎に浸透し、さらに「あんなにまでして闘った学生は何を訴えたかったのか」という関心が拡まっている。そのような情勢の中で、我々を無視し、抑圧して「正常化」を行なおうとしても、もはやそれは不可能なのだ!
 我々の1・18〜19闘争は、このように「正常化」を不可能にすること、つまり、大学内に秩序が回復し得ない状況をつくり出すことによって、東京帝国主義大学解体を一歩進めたのである。

 我々の1・18〜19闘争は、東大における秩序回復を不可能にし、混乱を深めたのみでなく、帝国主義大学解体の闘争を全国学生総叛乱として実現する突破口となった。それは京大を中心とする全国入試阻止闘争として爆発した。
この入試阻止闘争は帝国主義大学解体一帝国主義教育秩序解体の思想を持たずして闘い抜き得ない闘争だったのだ。
ちょうど、東大における全学バリケード封鎖闘争が、それ以前の「東大の一切の機能を麻痺させることによって当局に迫る」といった位置づけを中心とした思想では闘い抜き得ず、一切のブルジョア的な、すなわち現存の学問研究・教育を否定することをも含めた帝国主義大学解体の思想をもって初めて提起し得たように、、、、。

 1・18〜19闘争はまた、戦後氏主主義に破産宣告を突きつける闘争でもあった。「七学部代表団」なるポツダム自治会の形式民主主義にのっとって閉争を収拾しょうという策動を完全に粉砕し、闘いの中の直接民主主義−それは全共闘の歴史と共に生まれ、発展して来たが − を高らかにうたい上げた闘争でもあった。

 戦後二十数年の問に、ただひたすら、支配階級の支配を平和的に貫徹するための手段、多数によって少数を圧殺するというおきまりの儀式と化した議会制民主主義は、人民の生活と権利を守るものとは全く縁もゆかりもないものになってしまった。議会制民主主義を軸とする「平和と民主主義」の思想は、形式民主主義を通して平和的に歴史の変革へのエネルギーを圧殺する以外の何物でもなくなってしまった。そしてまた、戦後民主主義への破産宣告は、同時に「進歩的」「民主的」学者・文化人への訣別をも意味した。彼らは、ブルジョア支配の補完物としてエセ民主主義や「進歩」の幻想を振り撒くことによって、人民の闘争の牙を抜いて来たのであった。

 1・18〜19悶争は、このように、支配階級による秩序を否定すること、つまり、混乱の深化・永続化、戦後民主主義への破産宣告と、闘う直接民主主義の確立、そして、一切のブルジョア学問・研究・教育の否定を打ち出すことを通じて、闘いの中から新たなる秩序=権カの創出を提出した。
 それは、10・8羽田闘争以後の学生連動が、10・21新宿闘争において明らかにした地域的混乱−地域的人民権力樹立の闘争と内容的に結合するものに他ならなかった。かくして、1・18〜19闘争は東大構内と神田において呼応して闘い抜かれたのである。

既成秩序の破壊以外の何ものでもなく、そのことによってもたらされる混乱は、ブルジョアジーによる階級支配の貫徹が困難となることをのみ意味する。そして、かかる混乱はやがて新しい人民による人民のための秩序が拡大し、それをもって収拾されるための前提に他ならない。このような既成秩序の破壊は、既成秩序の中にがっちりと組み込まれている人民の叛乱によって行なわれるのであるが、それは、その叛乱に決起する個人個人にとってみれば、日常性からの脱却に他ならない。既成秩序の破壊は、当然にも、その秩序を是とする価値観の否定、破壊抜きにはあり得ない。秩序維持によって守られていた幾千万の神話の破壊である。いわく、市民生活の安全、平和、繁栄、進歩、向上・・・とりわけコンピューター革命等が云々される現代にあっては、「科学技術の発展が人間社会の進歩をもたらす」という神話が根底から破壊されねばならない。

このような神話の破壊は、これまで一つしかないと考えられていた人生が、実はもう一つあることを明らかにする。資本制社会において、賃金奴隷として、いわゆる管理社会にがっちり組み込まれ、繁栄をおしつけられ、消費の拡大を強要される生活をはっきりと拒否し、抜け出すことが可能であることを既成秩序の混乱は示してくれる。

そして、労働者階級を先頭とする人民の闘争の戦列に加わるという輝かしい人生を示してくれる。
我々の闘争は、既成秩序を温存し、とりわけ、自己の日常生活を温存したまま進められるものと考えない。かつて、闘争は、ある日、ある時、街頭に出、中央諸官庁にデモを行なうという形で闘われた。学生のストライ闘争も、大学における日常的な教育・研究をほんの一時期中断するだけのものでしかなかったし、労働者のストライキ闘争も似たりよったりのものだった。つまり、かつての闘争は、ブルジョア的な日常性と日常性の間をつめるような形で闘われていたにすぎないと言っても過言ではない。このような闘争は、「平和と民主主義を守る」という観点から、それを侵害しょうとする政府支配層に反撃を加え、侵害を断念させるという闘いであって、つまり、ブルジョア秩序を守るものであって、既存の秩序そのものを支配階級の秩序としてとらえ得ていなかったのである。さらに、このような闘争は、せいぜいのところ、政府支配層のある政策の貫徹を阻止し、そのことを通じて、ブルジョア支配の貫徹を困難ならしめ、その結果としての支配秩序の一時的混乱を期待するといったようなものであつた。

このような闘争が闘われて来た根底には、くり返して言うが、既存秩序は支配秩序に他ならず、そのこと自体が階級支配の貫徹を意味しているという把握の欠如ないし不足がある。そして、そのことは、前述の通り、平和と繁栄そして進歩等々の神話が疑いをさしはさむ余地のないものとして存在している。

 東大闘争において「日常性からの脱却」 「内なる東大の破壊」ということが語られるとき、それは、大学における支配秩序の破壊のみならず、「大学の自治」なる秩序概念を支えている学問研究および教育にまつわるあらゆる神話の破壊を意味するのである。「学問の自由」「教育の中立」などに始まって、「真理の探究」「科学の進歩」などが絶対善、絶対真とされる神話である。

 東大闘争が、医学部における研修協約闘争として始まり、不当処分白紙撤回闘争を通じ、〔六八年}六月十七日の機動隊導入を契機に全学化したことは周知の事実である。そして、このような局面の展開が、大学当局(当初は医学部当局)の「話し会い拒否」と力による弾圧に対し、相次ぐ実力闘争による反撃というかたちで行なわれて来たことも周知の事実である。
 三月十二日、処分が発表されて以降の医学部全学闘争委員会の評議会団交、卒業式・入学式阻止、学生委団交、そして時計台第一次占拠といった一連の闘争がどのような位置づけで闘われたかを最初に明らかにしておく。

 言うまでもなく、それは十七名の大量不当処分の性格・本質そのものにかかわる。医全学闘が求めた研修協約そのものは極めて些細な改良的要求に他ならなかったが、当時、政府・厚生省との意志一致の下に、青年医師収奪のための登録医法成立に全力をあげていた医当局にとっては、この法案に反する協約を結ぶこと、自らの支配体制を覆すような(非人局の)青医達を公認することは絶対にできないことであった。それ故、一切の話し合いに応じないだけでなく、春見事件を逆用して、主だった活動家のパージによって一気に運動の撃滅をはかったのである。つまり、医学生・青年医師と医教授会当局(そして政府・厚生省)とは、全く相反する利害関係にあり、さらに医療政策等をめぐって完全に対立する立場に立っていたのである。したがって、権力を一手に握る医教授会はその権力をフルに発揮し、一方、医全学闘は、無権利の者にとっての唯一の武器である大衆的な団結と実力により、当局を学生・青年医師の大衆の前に引き出そうとしたのである。

それ故、全医学闘が採った実力闘争方針は、まず第一に、医当局そして東大全学当局が、学内における権力、そしてそれが機能できるその所以であるところの大学の「正常な機能」としての教育・研究・診療を完全に停止させるということであった。その際が教授会メンバーでない、つまり学内権力機構員でない研究者については、やはり、彼等が日常的な研究に埋没し大学の「正常な機能」を維持している以上、我々としては、実力闘争の対象とせざるを得なかった。このことは、彼らが主観的には権力者=教授会に加担していないと考えていたにしても、実は客観的・現実的に権力を支えているのだということを悟らせ、また、そのことを通じて、彼らが日常的に行なっている「学問研究」なるものの階級性を明らかにする上で、大きな意義を持った。
 もちろん、このような闘争の推進は、闘争主体自身が、帝国主義大学で商品として生産されながらも、客観的には人民に敵対する支配階級の手先となるという自らの立場を拒否し、否定して行く、そのような主体変革を抜きにしてはあり得なかった。このような主体変革は、一つには、客観的・階級的な自己のそして大学の位置づけを通じて行なわれ、一つには、大学と学問にまつわる数々の「神話」の破壊を通じて行なわれた。

 現在の大学がその創立以来の歴史を通じて、常に支配階級の支配を貫徹するための道具として機能して来たことは言うまでもない。とりわけ、東大は帝国大学として創設された時以来、高級官僚、高級技術者、体制イデオローグを続々と生み出し、一万において、官学・産学・軍学協同の更に位置して、日本資本主義の帝国主義的発展のためにその「学問研究」の成果を注ぎ込んだのである。権力と無関係の、あるいは反権力的な学問研究があったと言う人がいるかも知れないが、よくよく考えてみれば、そのような「学問研究」は、総体として権力支配の道具であった東大における学問研究の補完物にすぎなかったこと、それ故、階級支配の手段としての学問研究の権力からの独自性といったイデオロギー的粉飾を支えたものに他ならないことが明らかになる。東大生や東大出身者で、例えば新人会などのように人民の闘争の前進に力をつくした者も多いと主張する人がいるかもしれない。しかし、そのことをもって、東大における学問研究や教育が一面において進歩性を持っていたということの証拠になるであろうか?そのような学問研究や教育は大学において初めて可能だったのであろうか?階級支配のために設定された大学において、応々にして反権力的・反体制的学問研究や教育が行なわれることがあるのほ事実である。しかし、それほほとんどの場合、階級支配のための補完物にすぎず、それが現実に被支配階級にとって意味を持ち得たのは、真に闘う部分がそれらをつかんだ時にすぎなかったのである。

階級闘争が闘われるとき、革命的あるいは進歩的な理論があるとすれば、それは決して机上の研究から生まれたものではないのである。それらは階級闘争が自らの中から生み出すものであり、学者あるいはインテリゲソチャとの関係で言えば、彼等を階級闘争の真只中に引き込んで、はじめて彼らの理論的活動を階級的なものと成し得るのである。

 現在、全ての学問研究は、誰の眼にも明らかなように権力と資本に奉仕しているもののみならず、「進歩的」「民主的」と言われて来たものを含め、全てが解体を迫られており、全く新しい立場からの再編を要請されている。すなわち、学問研究がもし人類の進歩、歴史の発展と共に、そのためにあらんとするならば、まず第一に、人類の進歩、歴史の発展を推進する者は資本主義搾取機構の上にあぐらをかく一握りの支配階級ではなく、労働者階級を先頭とする圧倒的多数の人民であることをはっきりつかむことである。そしてそのような把握をするならば、新しい立場とは、労働者階級を先頭とする人民の闘争が前進するのに役立ち、あるいはその闘争の前進の中ではじめて進歩するものでなければならないという立場に他ならないことも明らかである。

「科学」と名づけられるものは、それ自身の中に一つの展開・発展の論理を持っているかもしれない。しかし、それはあくまでも階級社会から独立したものではあり得ず、権力との関係においては、それに奉仕するか敵対するかの二者択一しかあり得ず、生き生きとした階級闘争の展開からエネルギーを与えられずには展開・発展の契機をすらつかむことはできないのである。

このことは、社会科学にのみあてはまるものではなく、自然科学においても同様にあてはまる。人間の自然に対する闘いは生産闘争に他ならないが、これは階級闘争と表裏一体の関係にある。
 「どのような社会体制においても、どのような思想に基づいても、自然科学においては研究結果は同じだ」と言う人があるかも知れない。そして、個々の分野の結果について言えば確かにそうかも知れない。しかし、そこで重要なのは、その個々の結果に至る過程であり、それがどのような全体像の中で進められるかという問題である。ある具体的な時間の流れの中で、ある人々が、ある一定の手段や資料を使って、何のために、どのような方法で自然にアプローチするかということは、明らかに社会的な人間の営み=階級闘争と生産闘争によって規定されねばならないし、全体像は階級的歴史観・自然観以外の何物でもない。

 新たな立場に立っての学問研究の再編成方向は、新たな社会をつくり上げる主人公として労働者階級の立場に立つことに他ならないが、労働者階級の立場に立つということは、彼等の歴史的事業である階級闘争が、階級の廃絶をめざす闘いである以上、明らかに、精神労働と肉体労働という分業を止揚する方向でなければならない。とするならば、この方向は中国において展開されているプロレタリア文化大革命の指向する方向にそって行なわれねばならないことも明らかであろう。すなわち、もし新たな立場に立った学問研究の再編があるとすれば、それは、精神労働を専らにする知識人の手にょってなされるのでほなく、つまり、何か新しい「科学論」とか「技術論」とかを発見することの中からなされるのではなく、戦闘的労働者階級の闘争を発展させるという観点からのみ、運動論=階級闘争論として、行なわれるであろう。

 このことは又、学問研究と権力、学園闘争と権力の問題をも明らかにする。すなわち、かかる観点からのプロレタリア的学問研究の確立は、労働者階級による権力の樹立を抜きにしては語り得ないものであり、したがって、六八〜六九年学園闘争は、自らの中にブルジョア的学問を解体し、プロレタリア的学問を確立するという独自の方向性を有しつつ、労働者階級の闘争の前進という普遍的方向性を自らの闘争の発展の方向性として持っている。階級闘争の前進と相対的に独自に何か「民主的」 「進歩的」学問研究をつくり上げる運動などはない。と同時に、体制の変革なしにはプロレタリア的学問研究はあり得ないとしながら、逆に体制さえ変革されれば学問研究はただちにプロレタリアートのものとなるという考えも全く間違っている。ソ連に見られるように、一たびプロレタリアートの手に権力が握られながら、学問研究、そして教育は、その本質においてプロレタリアートのものとならなかった。
それらは相も変わらず一握りの人々によって専有され、新しい知識階級=官僚層を生み出したのである。

 我々の半年は七項目要求の闘争に始まり、今、東京帝国主義大学解体の闘争へ発展している。そして、全教育秩序の解体へ、帝国主義秩序の解体へとつき進もうとしている。かかる発展の中で 我々の闘争は永続性を獲得し、個別闘争と全人民的闘争という区別をはっきり止揚する方向を切り開いた。かかる闘争ほ、したがって、権力者・当局者に何かを要求する闘争ではないし、また、権力者・当局者の政策を粉砕するだけの闘争でもない。明らかに労働老人民の権力樹立を目指す永続的・連続的闘争である。
 我々が「帝国主義大学解体=二重権力を創出せよ!」と言うのは、まさにこのことを指している。不断の闘争=不断の支配秩序蚕食(解体)=不断の人民支配圏の拡大、がその内容である。

 我々は我々の日々の生活の場に戦場を設定したのである。我々の日々の生活の場を支配階級に制圧されるのか、我々自身が支配するのかと言いたい。退くことも中断することもできない遊撃戦が始まったのである。このような闘争は苦しい。とりわけ軍事的には非常に困難である。しかし、このような闘争が全都・全国に多数の拠点を定め、展開されるならば、そして、当然のことながらそれが統一した指導の下に闘われるならは、支配階級の暴力装置は全く無効となり崩壊する。これらのことは、中国人民が、ベトナム人民が、そして、多くの戦闘的人民が実証してくれた闘いの路線である。これこそが人民戦争1解放戦線路線であり、日本においては、10・8羽田闘争以降、全学連を先頭に戦闘的労働者。農民・市民が切り開いて来た路線である。

我々は、日本における階級支配の重要な拠点となっていた東大の中から、この輝かしい全人民的闘争の高地にまで登りつめたことを誇りとする。我々は、今、東大闘争が日大関争等と連帯する中で、10・8羽田闘争以降の人民戦争−解放戦線路線の展開へ、身をもって自らの力で到達したことを誇りとする。我々は、今や、反人民的な〔東大〕九〇年の犯罪的歴史をはっきり打ち破って、人民の闘いの過中にとび込んで行かねばならないし、人民が必ずや我々を迎え入れてくれることを確信する。

 現在、非常に狂暴化した弾圧の下で多くの学友諸君が閉っているのを、厚い壁を隔ててしか聞くことができないのは何よりも辛い。我々にできることと言えば、長期不当勾留による弾圧に屈せずがんばることと、外の同志諸君に迷惑をかけないことくらいなのだろうかフ・我々、自由を奪われている老は、日々の勾留生活の中で、釆たるべき日のために理論と知識を貯め込んでいるだけではないのだ。日々身体を鍛えていること、そして、何よりも支配階級に対して、怒りと憎しみの炎をますます高く燃え立たせているのだということを彼等は思い知るであろう。
                                   69・4・9 東京拘置所〔3〜4号)
今井澄氏は2002年9月、62歳で亡くなった。
お別れの会で坂口厚生労働大臣から始まったお別れの言葉は6人続いて最後は元東大全共闘議長、白い鬚(ひげ)の山本義隆氏が登壇した時、会場はピンと糸が張ったようだった。


山本氏は語りかけた。
「安田講堂防衛隊長の今井、地域医療のリーダーの今井、国会議員の今井、君はその短い人生を全力で駆け抜けた。だから率直に言って、他人(ひと)の三倍ぐらいの人生を歩んだと思う」。

生と死。別れ。生者がいる限り、死者も生きる。

全共闘はそのゲバ棒スタイルから「民主主義の破壊者」とも呼ばれた。しかし、元東大全共闘で民主党参院議員の今井澄は「形式的な人任せの民主主義ではなく参加する者の民主主義を目指した。参加しない者には発言権はなかった」と民主主義の徹底が運動の背骨だったと説く。

告別式は2002年9月8日(土)13時から長野県茅野駅前の市民会館で執り行われた。遺影の脇には、お気に入 りの淡いブルーのスーツ、スキーセット、愛用のメガネなどとともに、学生運動時の東大安田講堂防衛隊長のヘルメットが並ぶ。また、告別式当日、ひっそりと田中康夫知事も後ろの方の列席し、静かに献花をしていた事を、後日、新聞で知った。

  享年62歳。東大の安田講堂をめぐる攻防の指揮をとる全共闘の行動隊長として活躍した。「帝大粉砕」闘争。この闘争で、東大を退学処分になった。その理由は、「学外の者を東大構内に入れて闘争した事」。その後、医学部を卒業し、長野県の慢性"赤字"病院に赴任し、赤字解消を目指すと共にあるべき地域医療制度をめざし、地域の若い医師と共に語り明かし議論してあるべき姿を求めた。

  目標は、「開業医とのネットワーク。在宅診療。高齢者を風呂に入れること」だったと聞く。40歳で院長となり、努力の結果、病院の経営赤字は解消し、"黒字"病院となった。医療制度の改革に取り組み今日では、長寿国日本一となった。

  その後、1992年、参議院選挙に社会党から出馬し、見事に当選し、医療制度改革と「公平公正な社会」の実現に努力した。政権交代を実現しなければ日本は変えられないとの信念から、社会党改革にも率先して行動され、民主党結成にもいち早く賛同され、行動を共にしてきた。全共闘の行動隊長であったとは聞いていたが、穏やかな物腰の人物であり、特に医療制度の改革を語る時、その姿勢に情熱を感じた。長野県の知事選挙でも、民主党国会議員の中で只一人田中康夫知事支援を明確にし行動された。自立の心を持ち、最期まで信念を持ち懸命に生きる人であった。心からご冥福を祈る。


水島広子議員
今井さんは民主党の国会議員の中で唯一、田中康夫支援を明確にしていた。田中さんの初回の知事選の時には私も長野に応援に入ったが、それは今井さんの依頼によるもので、今井さんも当日一緒に街頭に立たれた。そのときに私の演説を聞いて、「今の演説は良かった」とほめてくださった。
7月にお会いしたとき、腰痛を訴えながらも、「医療の現場は大変なことになっている。私のところにある資料を届けますから、あとはよろしく」と言われたのが、私にとって今井さんとの最後の会話になりました。今井さんが私にくださった貴重な遺言であると受け止め、ご遺志をつげるように努力してまいりたいと思います。






(私論.私見)

 
当事者であるという意識・・・産学協同路線拒
 
『20世紀の記憶』毎日新聞99・12


そのとき正式に顔と名前を表に出したのは最首悟ひとりだった。
全共闘の最も戦闘的な知性のひとりと言われた最首は
水俣、障害児教育と以後も前線を荷って行く。