1958年 【戦後学生運動第9期その2第5期その1】
(新左翼系=ブント・革共同)全学連の自立発展期

第9期その1 1970年 戦後学生運動第9期その1、「70年安保闘争」とその後

 (最新見直し2007.2.17日)

 これより前は、「第8期その2」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 第九期は、1970年から始まった。いよいよ「70年安保闘争」の総決算の時を向かえたが、全共闘運動は既にピークを過ぎていた。というよりは既に流産させられていた。民青同と革マル派を除き、全共闘に結集した「反代々系セクト」はかなりな程度にずたずたにされており、実際の力学的な運動能力はこの時既に潰えていた。機動隊の装備の充実とこの間の実地訓練によって治安能力が高まり一層の壁として立ち現れるに至っていた。

 従って、国会突入まで見せた「60年安保闘争」のような意味での「70年安保闘争」は存在せず、表面の動員数のみ誇る平穏な儀式で終わった。「60年安保闘争」は「壮大なゼロ」と評されたが、「70年安保闘争」は「そしてゲバルトだけが残った」と評されるのが相応しい。

 70年以前−以降の学生運動の特徴として、次のような情況が作り出されていったように思われる。一つは、いわゆる一般学生の政治的無関心の進行が認められる。学生活動家がキャンパス内に顔を利かしていた時代が終わり、ノ ンポリと言われる一般学生が主流となった。従来の一般学生は時に応じて政治的行動に転化する貯水池となっていたが、70年以降の一般学生はもはや政治に関心を示さないノンポリとなっていた。


 学生運動活動家が一部特定化させられ、この両者の交流が認められなくなった。その原因は色々考えられるが、「70年でもって政治の季節が基本的に終わった」のかもしれない。あるいはまた、それまでの左翼イデオロギーに替わってアメリカン民主主義イデオロギーが一定の成果を獲得し始めたのかもしれない。皮肉なことに、世界の資本主義体制は、「一触即発的全般的危機に陥っている」と言われ続けながら も、この頃より新たな隆盛局面を生みだしていくことになった。私は、この辺りについて左翼の理論が現実に追いついていないという感じを覚えている。

 一つは、そういう理論的切開をせぬままに相変わらずの主観的危機認識論に基づいて、一部特定化された学生運動活動家と武装蜂起−武装闘争型の武闘路線が結合しつつより過激化していくという流れが生み出されていくことになった。しかしこの方向は先鋭化すればするほど先細りする道のりであった。反代々木系最大党派に成長していた中核派は、69年頃からプレハノフを日和見主義と決めつけたレーニンの「血生臭いせん滅戦が必要だということを大衆に隠すのは自分自身も人民を欺くことだ」というフレーズを引用しつつ急進主義路線をひた走っていった。

 この延長上に69年の共産同赤軍派、70年の日共左派による京浜安保共闘の結成、ノンセクト・ラジカル過激派黒ヘル・アナーキスト系の登場も見られるようになった。一つは、革マル派を仕掛け人とする党派間ゲバルト−テロの発生である。この問題は余程重要であると考えているので、いずれ別立てで投稿しようと思う。

【1970年の動き】(当時の検証資料)

 1.10日、三里塚の反対同盟が、幹部会を開き、次のような決議をしている。

 「革マル派はこれまで一貫して三里塚現地闘争に主体的に参加せず、二度にわたる集会参加時も、同盟の指示に従わず、反対闘争の推進ではなく、他派に対する誹謗のみを目的とした。今後、革マル派の参加を拒否し、もしくる場合には排除する」。


 1.16日、東京で赤軍派が「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」の政治集会、800名。


 2.4日、全共闘、反戦青年委共催の「沖縄全軍労連帯、日米共同声明粉砕、沖縄闘争勝利労学市民総決起集会」には1万8千人が集まり、明治公園から東京駅までデモ行進した。


 2.7日、大阪で赤軍派が蜂起集会、1500名。


 2.14日、赤軍派、同志社大学学生会館においてブント連合派と党派闘争。


 3.14日、大阪万国博(EXP0'70)開会式。この頃カンボジアで内戦が起こ り、これに南ベトナム解放軍・北ベトナム軍が参戦したことからわが国のベトナ ム反戦闘争も混迷を深めることとなった。


 3.15日、大阪の千里丘陵で「人類の進歩と調和」をテーマに万国博覧会が開かれた。6か月間に延べ6,422万人の人出となる。


 3.15日、赤軍派議長塩見孝也(28才.京大)が前年10.21闘争での破防法、爆発物取締り罰則違反容疑で逮捕されている。


 3.31日、日米安保条約自動継続の政府声明発表。


【赤軍派九名、よど号ハイジャック】

 3.31日、赤軍派9名による日航機よど号乗っ取り事件(ハイジャッ ク)発生。事件の好奇性からマスコミは大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。「フェニックス作戦」と名付けられたこの作戦は日本で初のハイジャック事件となった。メンバーは、田宮高麿(27才.大阪市大)、小西隆祐(25才.東大)、田中義三(21才.明大)、安部公博(22才.関西大)、吉田金太郎(20才.元工員)、岡本武(21才.京大)、若林盛亮(23歳.同志社大)、赤木志郎(22才.大阪市大)、柴田勝弘(16才.高校生)であった。


 4.8日、革マル派が4.28統一デモに参加したいと申入れ。


 4.9日、カンボジア政府軍、べトナム系住民を虐殺。中国と北朝鮮両政府、「日本軍国主義と共同して闘う」との共同声明を発表。


 4.15日、米国で反戦集会・デモ。数十万人参加。


 4.23日、日本政府はカンボジアの現状は内戦ではな く、北ベトナム軍の侵略に対する戦いであるとの公式見解を発表。米国政府、 カンボジアに武器を援助していたことを認める。


【4.28沖縄デー】

 4.28日、沖縄デーのこの日、沖縄現地で3万名を始めとする10余万名が参加し各地でデモが行われた。東京では全共闘、全国反戦、6月行動委員会(べ平連)共催の統一行動が、明治公園に5万名(うちべ平連など市民団体8000名)を集めて開催され、日比谷公園までデモ行進した。)集会の途中、革マル派約1千名の強行参加に対し他党派がこれを実力阻止しようとして内ゲバ起こる。べ平連6月行動委がこれに抗議して主催団体を降りる。6行委の隊列から逮捕者4名。重軽傷者各1名。

 新左翼各派の沖縄闘争論はまちまちであった。中核派は「沖縄奪還論」を打ち出し、沖縄における基地の政治的・軍事的性格を「アジアにおける帝国主義の軍事的要塞」と見立て、そのことを不問にしての返還に反対し奪還すべしとしていた。革マル派は、「沖縄施政権返還というブルジョア的解決」による返還の幻想に抗しつつ、その合意からもたらされる一切の現実と対決していかなければならないとして、「全軍労大量解雇=基地合理化反対闘争ならびに沖縄返還準備委託設置粉砕闘争を70年代安保闘争の突破口として位置づけ、その組織化」すべしとしていた。ML派は「沖縄解放=独立論」を打ち出し、沖縄の歩んできた歴史的過程を考証しながら、琉球王朝→薩摩藩(島津)の属領→明治政府による琉球処分→日帝の植民地支配→米帝による軍事支配をへての日帝の沖縄返還という変遷史から、沖縄人民の主権を維持する立場をうちだし、沖縄人民にたいする帝国主義的支配と干渉、帝国主義打倒の闘争を、沖縄人民と合流させるべしとした。共産同戦旗派は、日米共同声明路線に基づく沖縄返還は、「米帝の基地機能維持→自衛隊の補助的同居」として「日米共同反革命前線基地化阻止」とした。その他、共労党は「永続的解放論」、第四インターは「解放=自治論」、社労同は「自治権論」、統社同、怒濤派、前衛派などもそれぞれの沖縄闘争論を掲げた。


 5.8日、全共闘、反戦青年委などカンボジア侵略抗議集会。2500名結集、デモ。べ平連など市民団体は不参加。


 5.15日、愛知外相のアジア太平洋会議でのジャカルタ訪問のこの日、日比谷野音で7千人の集会が開かれた。


 5.21日、全国全共闘の集会に3千人、同29日、全国全共闘、全国反戦主催の明治公園での総決起集会に1万2千人と、6月に向けて闘争を盛り上げていった。


 5.29日、カンボジア侵略抗議で全共闘、反戦青年委、1万7000名がデモ。


 6.14−23日、「反安保毎日デモ」が展開される。全国全共闘、全国県反戦代表者会議、6月行動委員会主催の代々木公園での共同行動集会に7万人と、60年安保闘争以来の参加者を集めたのをはじめ、10日間にわたって東京など各地で、集会、抗議行動が行われた。中核派は「日帝のアジア侵略を内乱に転化せよ」、共産同は「恒常的武装闘争」、ML派は「人民総武装」を唱え、各派懸命に「70年安保闘争」の盛り上げに向かっていった。


 この当時の主要セクトは次の通り。民青同(祖国と学問の為に)、中核派(前進)、革マル派(解放)、社青同解放派、ベ平連、第4インター(世界革命)、ブント社学同(戦旗)、ブントML(赤光)、フロント、プロ学同、プロ軍団、学生解放戦線、新学同、民学同、毛思想派、赤軍派、アナキスト系等々。


 6.1日、共産同第7回拡大中央委員会において、情況派指導部二名の除名処分。軍事闘争を強調する左派グループに反対し、大衆運動の強化を主張する軍事反対グループの「情況派」「叛旗派」が分裂した。


 6.14日、社共総評系のデモ、集会、全国で236ヵ所。「インドシナ反戦と反安保の6.14大共同行動労学市民総決起集会」。革マル派を含む新左翼党派と市民団体の初の共同行動、7万2000名参加。全国全共闘・全国反戦・ベ平連など約1700名逮捕。


 6.22日、米国務省、日米安保条約の継続維持確認の声明。


【70年安保条約自動延長なる】

 6.23日、安保条約が自動延長され、政府は、「安保体制こそが、平和と未曾有の経済的繁栄と国民生活の向上をもたらした」との声明をだした。これに対し、国労、動労、全自労など27単産が時限ストや集会を開き、全国で反安保デモ、77万4000名参加。東京では147件で史上最高のデモ届数。132大学がゼネストにはいった。一方、社共両党は代々木公園に9万人、6月行動委員会は清水谷公園に2万人を集めて集会を開き、デモを行った。

 東京の明治公園での全共闘、全国反戦主催の集会には4万数千人が集まり、デモに移り、警察署や交番に、火炎ビンや投石をおこない、機動隊と衝突、約5百人の逮捕者がでた。しかし、70年安保闘争は、全体としては「静かなもりあがり」と形容でき、比較的にカンパニア闘争の色彩がつよかった。


 この時ML同盟は、「国立劇場前爆弾事件」をひき起こして幹部活動家が大量に検挙され、その総括をめぐって紛糾 し、組織は壊滅状態に陥った。

(私論.私見)

 
この時、れんだいこは、日共ー民青同系デモに参加したが、岸政権を打倒せしめた60年安保闘争に遠く及ばずの不発闘争であったにも拘わらず、赤旗が「史上空前のデモ」と記事にしているのをしらけて聞かされていたことを覚えている。確かに動員数はそれなりにあったが、それがどしたというのだ。他方、新左翼系各派は街頭デモとしては戦闘的に闘ったようであるが、これまたそれがどしたというのだ。


 6月、ブント第7回拡大中央委員会を契機に内紛発生。軍事闘争を強調する左派グループに反対し、大衆運動の強化を主張する右派グループの「情況派」.「叛旗派」が分裂した。「ML派」は、6月の反安保闘争で多数の逮捕者を出し、組織は壊滅的な影響を受け、混迷していくことになる。


 7.1日 共産党第11回党大会(初公開)。


 7.7日、日比谷野音で蘆溝橋事件33周年・日帝のアジア侵略阻止人民集会。席上、華青闘が新左翼批判、入管闘争に問題提起。4000名(うちべ平連550名)結集。


 7.17日、家永教科書裁判、東京地裁で勝訴。


 7.23日、新潟地裁で反戦自衛官小西三曹の裁判第1回公判はじまる。


 7.25日、反帝戦線結成。


【中核派による革マル派の海老原氏リンチ死亡事件発生】

 8.4日、厚生年金病院前で東教大生・革マル派の海老原俊夫氏(21才)の死体発見、中核派のリンチ・テロで殺害されたことが判明。

 海老原殺害事件に至る経過は次のように判明している。70年安保闘争が終わった直後から、中核・革マル両派は街頭で衝突・乱闘を繰り返すようになった。7.9日、東京教育大構内で機関紙を売っていた中核派学生が革マル派学生に襲われ、機関紙を奪われるという事件が発生していた。この時海老原氏がこの時の革マル派メンバーにいたことからマークされることとなった。8.2日、新宿の歩行者天国で中核派.革マル派両派が衝突。8.3日、渋谷でも乱闘事件が発生していた。海老原は同日午後3時頃池袋駅東口で中核派の数十人に取り囲まれ、暴行を受けた後タオルで覆面させられ飯田橋の法政大学までデモのようにしながら連れ去られた。その後法政大六角校舎地下室に連れ込まれ、自己批判要求されつつ集団リンチを受け、その過程で死亡した。その後厚生年金病院前に放置された。上半身裸で全身にメッタ打ちされた跡があった。

 「検証内ゲバ」では、この時の貴重な情報を次のように開示している。

 「海老原事件の直後、中核派の政治局員である陶山健一氏は、革マル派との調停に動いたと云われている。だが、前年の破防法適用下で本多書記長を獄中に奪われていた中核派指導部は、この事件について正確な政治判断と意思統一を出来なかったのではなかろうか」。

 高知聴・氏が「前進社」に抗議文を送付。「梅本克己が『朝日ジャーナル』誌上で虐殺者・中核派を免罪」とある。

(私論.私見)

 この事件は、従来のゲバ ルトの一線を越したリンチ・テロであったこと、以降この両派が組織を賭けてゲバルトに向かうことになる契機となった点で考察を要する。両派の抗争の根は深くいずれこのような事態の発生が予想されてはいたものの、中核派の方から死に至るリンチ・テロがなされたという歴史的事実が記録されることになった。

 私は挑発に乗せられたとみなしているが、例えそうであったとしても、この件に関して中核派指導部の見解表明がなされなかったことは指導能力上大いに問題があったと思われる。理論が現実に追いついていない一例であると思われる。

【革マル派の対中核派殲滅宣言】
 この事件後革マル派は直ちに声明を発表し、中核派に対する報復行動に入った。次のように宣言している。
 「今や陰湿なテロリスト集団に転落したブクロ=中核派の腐臭ふにぷんたる姿を暴露し、この腐敗分子の絶滅に向けての新たな決意を表明する。流された血はあがなわなければならぬ。彼らへの階級的復讐は我々の使命であり、権利なのだ。わが同盟は、この殺人者集団ブクロ=中核派に対し、我々の論理による一切の手段を駆使し、諸君の先頭に立って断固たる階級的復讐を勝ち取るために闘い抜くことをおごそかに宣言する」。

 8.6日、中核派が海老原リンチ殺人事件について沈黙を守る中、革マル派はこの日、日比谷公会堂で開いた「国際反戦中央集会」を海老原君追悼集会にきりかえ、革マル派全学連委員長・洞田勉は、革マル派声明で次のように「中核派殲滅戦宣言」している。
 概要「同志海老原の死に報いるには、殺人者集団ブクロ中核派の殲滅以外には有りえない。彼等を一人残らず殲滅し尽くす」。

【革マル派が中核派の拠点法政大で報復テロ敢行】
 8.14日、中核派に変装した革マル派数十名が法政大に侵入襲撃し、中核派学生を捕捉、十数人に陰湿なテロを加えて行った。この間キャンパスでは、海老原君の遺影を掲げた革マル派の追悼集会が開かれていた。以降やられたりやり返す際限のないテロが両派を襲い、有能な活動家が失われていくことになった。

 9.25日、沖縄返還協定審議の国会のヤマ場を前に、中核派系沖縄青年委員会のメンバー4名が皇居内に突入し、発煙筒.火炎瓶を投げつけた。


 9.30 −10.2日、三里塚第一次強制測量、反対同盟・支援学生、公団側と激闘。


 1 0.8日、羽田闘争3周年。入管闘争。


 10.9日、ロン・ノル政権のカンボジア、ク メール共和国へ移行を宣言。


 10.20日、政府、初の防衛白書を発表。


 10.21 日、国際反戦デー。全国で集会、総計37万名が参加、デモ。219名逮捕。


 10.22日、日米共同声明1周年抗議で、べ平連・入管闘・全共闘など共催「日米共同声明路線粉砕・入管法再上程阻止・入管体制粉砕。


 10.22日、労学市民総 決起大会」、1万2000名(うちべ平連1500名)デモ。


 11.5日、同盟左派フラク=「神奈川左派」、「烽火」、「鉄の戦線」三派、第九回中央委員会を単独招集。


 11.7日、べ平連第62回定例デモ(マクリーン裁判支援として)、680名参加、 逮捕11名。デモに革マル派100名が参加。デモ参加者に暴行、混乱。


 11.10日、沖縄現地で、全軍労.県教祖.官公労などによる協定粉砕、批准阻止の島ぐるみゼネスト。これに呼応して本土でも各地で集会、デモ。


 11.13日、蜂起戦争派全関西総決起集会。


 11.14日、全国32都道府県、80ヶ所で阻止闘争。この日宮下公園での集会を禁止された中核派は「渋谷大暴動」を叫んで騒動化、渋谷署神山交番警官が火炎瓶で火達磨になり死亡した。反戦青年委の女性教師が火炎瓶を浴び死亡した。この日の衝突で313名が凶器準備集合罪などで逮捕された。


 11.22日、蜂起戦争派全統一行動。


【作家三島由紀夫氏らによる市ヶ谷自衛隊クーデター事件発生】

 11.25日、作家三島由紀夫氏らによる市ヶ谷自衛隊クーデター事件が発生した。この日、三島らが市ヶ谷自衛隊内の陸上自衛隊東部方面総督部でクーデターを扇動、主宰する「楯の会」の隊長として森田必勝学生長、小賀隊員、小川隊員、古賀隊員の4人とともに、総監室を訪問し、益田兼利陸将に軍刀を切りつけて監禁した。正午ちょうどに、三島は「檄文」を総監室のバルコニーからつりさげて、集合させた自衛隊員をまえに、「自分といっしょに立つものはいないか!」と決起をうながす演説をした。その間、隊員からはヤジとののしりが続いた。その後、総監室において正座して短刀で左わき腹を突き刺し割腹した。森田学生長が介錯をした。介錯をおえた森田学生長は、三島のあとを追うように古賀隊員の介錯によって割腹自殺した。

 この事件も好奇性からマスコミが大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。今日明らかにされているところに寄ると、70年安保闘争の渦中で決起せんと楯の会を組織していたが、平穏に推移したことから「全員あげて行動する機会は失はれ」、この期に主張を貫いたということであった。つまり、70年安保闘争の予想に反しての低迷が逆の立場から示唆されていることになる。

 
決起文には、「革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真價は全国民の目前に証明される筈であった」、「日本はみかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐる」、「日本が堕落の渕に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の練成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。私は諸君に男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた」 等々と記されていた。

  「国防研究会図書室」がこの時の「」を掲載しているので転載しておく。

 檄 楯の会隊長 三島由紀夫

 われわれ楯の会は自衛隊によって育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。

 かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、またわれわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかった男の涙を知った。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。

 われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と言はれようとも自衛隊を愛するが故であると私は断言する。

 われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみささがられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを歯噛みしながら見ていなければならなかった。

 われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢見た。しかも法理論的には自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来ているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけてきた。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。

 われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目覚める時こそ日本が目覚める時だと信じた。自衛隊が自ら目覚めることなしに、この眠れる日本が目覚めることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念はひとへに自衛隊が目覚める時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために命を捨てようといふ決心にあった。

 憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来てはじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねじ曲がった大本を正すといふ使命のためわれわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。

 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こったか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終わった。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起こったか、政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不要になった。

 政府は政体護持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬っかぶりをつづける自信を得た。これで左派勢力には憲法護持のアメ玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて実をとる!政治家にとってはそれでよからう。しかし自衛隊にとっては致命傷であることに政治家は気づかない筈はない。そこで、ふたたび前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。

 銘記せよ! 実はこの昭和四十五年(注、四十四年の誤りか)十月二十一日といふ日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来二十年に亘って憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であった自衛隊は「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。

 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば決然起ち上がるのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する男子の声はきこえてはこなかった。

 かくなる上は自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤやうに黙ったままだった。

 われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。

 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当たっては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかった。

 沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主権を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう。

 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけにはいかぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に、戻してそこで死ぬのだ、生命尊重のみで魂は死んでもよいのか、生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。

 それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇ることを熱望するあまり、この挙に出たのである。


<追記>

■三島の辞世の句
 益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐へて今日の初霜
 散るをいとふ世にも人にもさきがける 散るこそ花と咲く小夜嵐

■森田(必勝)の辞世の句
 今日にかけてかねて誓ひし我か胸の 思ひを知るは野分のみかは 

・・・ここに謹んで三島、森田両烈士のご冥福をお祈りします。

(私論.私見)  「三島由紀夫の決起文」考

 私論であるが、こうした右派系の運動と行動について少なくとも論評をかまびすしくしておく必要があるのでは無かろうか。この決起文に感応すべきか駄文とみなすべきか自由ではあるが、左翼は、こうした主張に対してその論理と主張を明晰にさせ、左派的に対話する習慣を持つべきでは無かろうか。機動隊と渡り合う運動だけが戦闘的なのではなく、こういう理論闘争もまた果敢に行われるべきでは無かろうか。今日的な論評としてはオウム真理教なぞも格好の素材足り得ているように思われるが、なぜよそ事にしてしまうのだう。百家争鳴こそ左翼運動の生命の泉と思われるが、いつのまにか統制派が指導部を掌握してしまうこの日本的習癖こそ打倒すべき対象ではないのだろうか、と思う。

 2006.6.13日再編集 れんだいこ拝


 12.13日、日米繊維交渉、行き詰まり、中断。


 12.18日、京浜安保共闘(日共革命左派)、 上赤塚交番襲撃銃奪取闘争。警官に撃たれて3人が死傷、柴野晴彦(24才.横浜国大)射殺される。


 12.18日、同盟左派フラク、「共産同政治集会」を開催。軍事路線をめぐって「RエルGゲー」(共産主義突撃隊)の強化とゲリラ闘争を主張する左派グループが、それに難色を示す中間派の「荒派」に対して訣別を宣言した。


 12.20日、沖縄コザ市において、米人が起こした交通事故について、米軍憲兵隊(MP)の一方的な事故処理をきっかけに、米軍にたいして住民が暴動をおこした(コザ大暴動)。MPカーなど73台の車が群集に焼かれ、米兵、住民合わせ80数人が負傷し、住民20人が逮捕された。騒乱罪適用される。


 この頃軍事路線をめぐって「RエルGゲー」(共産主義突撃隊)の強化とゲリラ闘争を主張するブント左派グループが、それに難色を示す中間派の「荒派」に対して訣別を宣言した。


 12.26日、柴野(革左)虐殺弾劾追悼集会開催、1000名結集。赤軍派と京浜安保共闘(革命左派)が初めて連帯、この集会以降両派の連携関係が強まっていくこととなった。


(私論.私見)

 71年以降においても追跡していくことが可能ではあるが、運動の原型はほぼ出尽くしており、多少のエポックはあるものの次第に運動の低迷と四分五裂化を追って行くだけの非生産的な流れしか見当たらないという理由で以下割愛する。ここまで辿って見て言えることは、戦後余程自由な政治活動権を保障されたにも関わらず、左翼運動の指導部が人民大衆の闘うエネルギーを高める方向に誘導できず、「70年安保闘争」以降左派間抗争に消耗する呪縛に陥ってしまったのではないかということである。この呪縛を自己切開しない限り未だに明日が見えてこない現実にあると思われる。

 他方で、第二次世界大戦の敗戦ショックからすっかり立ち直った支配層による戦後の再編が政治日程化し、左翼の無力を尻目に次第に大胆に着手されつつあるというのが今日的状況かと思われる。「お上」に対する依存体質と、「お上」の能力の方が左翼よ り格段と勝れている神話化された現実があると思われる。問題は、本音と自己主張と利権と政治責任を民主集中制の下に交叉させつつ派閥の共同戦線で時局を舵取るという手法で戦後の社会変動にもっとも果敢に革新的に対応し得た自民党も、戦後政党政治の旗手田中角栄氏を自ら放逐した辺りから次第に求心力を失い始め、90年頃より統制不能・対応能力を欠如させているというのに、この流れの延長にしからしき政治運動が見あたらない政治の貧困さにあるように思われる。





(私論.私見)