補足 4.17スト問題について

 (最新見直し2007.7.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 この時期64年の「4.17スト」をめぐって信じられないことが党内に生起しているので、これを見ておくことにする。スターリン批判・ハンガリー動乱・第7回党大会・60年安保闘争・第8回党大会・原水禁運動そしてこの「4.17スト」への対応・経過を通じて、「左翼」が党に対する信用失墜を確定させることになったようである。「日共」という呼称が蔑視的な意味合いで使われていくことになったのが何時の頃よりかはっきりは分からないが、こうした一連の経過の中で定着したものと思われる。戦後の獄中闘士がカリスマ的権威を持って大衆に受け入れられていたことを思えば、隔世の感がある。


【4.17ゼネスト不発の経緯】
 この年総評・公労協は大幅賃上げ要求を掲げ、4.17日全国半日ゼネストを計画していた。90万以上を結集する交通運輸共闘会議(国鉄労組を始めとする私鉄・都市交通・全自交など)を芯にして公労協・金属労協等公・民を網羅する600(250万とも)万人のゼネスト計画であった。その規模と影響力から見て1947年の「2.1ゼネスト」計画に匹敵またはこれを上回る戦後空前のストとなる筈であった。

 4.2日、総評は、太田薫議長.岩井章事務局長の布陣の下で決起大会的な意味を持つ第25回臨時大会を開き、最大のヤマ場を目前にして闘争態勢を堅め直した。「太田ラッパ」が鳴響いた時である。この息詰まるようなせっぱ詰まった状況の中、党は、突如4.9日付アカハタ(「4.8声明」)で「奇妙な」声明文を発表する。「奇妙な」とは形式と内容においてという意味である。形式のそれは、単に「日本共産党」の名義のままの、幹部会でも中央委員会名でもない声明文を発表したという意味である。内容のそれは、「全民主勢力と団結し、挑発を排して、頑強に、ねばり強く戦い抜こう」という論文を掲載し、4.17ゼネストからの退却を指示したという意味である。
(私論.私観) 「当時の党中央のスト反対論」の責任所在について

 これまでの共産党に歴史的に培われていたのは大衆闘争を擁護こそすれども鎮圧に回るという例はなかった。日共は、この基本的態度をここで踏み外したことになる。今日から見て、指導ぶりに誤りがあったのではなく、指導そのものが誤っていたということになる。この指導に宮顕の意向が働いていたとの直接の痕跡は無い。しかし、例え外遊中であれ当時の最高権力者宮顕の意向抜きにこれほどの重要な方針が策定され得るということ自体が考えられないとすべきだろう。しかし、史実は、幹部会の責任は問われずにトカゲの尻尾切りで処理されていくことになる。陰険狡猾と呼ばれる宮顕の正体がここにも現れているように思われる。

 声明文は、春闘を支持するといいつつ、「4.17半日ストの方針には『深い憂慮をしないわけにはゆきません』」としていた。その理由として、次のように述べていた。

 概要「根本的にはアメリカ帝国主義と日本政府と闘うのではなく賃金一本で独占資本と対決しようとするやり方自体に誤りがあるる。闘争の成功に必要な全民主勢力との政治的統一行動の発展が見られない。労働者大衆には政治的・思想的・組織的準備が欠けている。これに対し、政府・資本家は弾圧と分裂の策略をめぐらしているから、闘争に入った労働者を政府と大資本家の弾圧・処分に身をさらせるようになる。しかもストライキ計画には、修正主義者・トロツキスト・組合内分裂主義者による挑発のにおいがある。総決起は危険でありその方針を再検討せよ」。

 この声明は、ゼネストに向けて態勢の準備と確立に余念がなかった多くの組合幹部・活動家を憤激させた。総評事務局長岩井は、直ちに談話を発表し、「統一闘争の態勢を分裂させる者であり、階級政党として根本的に誤った態度である」と非難した。社会党の河上委員長は、4.17ストを断固支持するとし、共産党の態度を「労働者の気持ちを無視したやり方」と非難した。

 にもかかわらず、奇々怪々な党の方針は連続され、4.12日には再度アカハタ主張で、「共産党の『訴え』は当面の闘争の最大の武器である」との見出しで、「ストによる賃金闘争は全民主勢力の課題にさからっている」と述べ、賃金闘争そのものに攻撃を向けた。続いて4.13日にも「4.8声明」同様単に日本共産党名義で「職場の組合幹部・社会党員・組合員大衆に訴える」を発表した。「訴え」は、「4.8声明」を説明しつつ、5項目の要求を提案しつつ、スト中止をあからさまに呼びかけていた。4.14日にも同様の3度目の訴え「労働者は反動と分裂主義者の笛に踊らされてはならない」を発表。スト闘争の笛を吹いているのはアメリカ帝国主義であり、日本の売国反動であり、組合内分裂主義者であるとして、スト全体を反共的謀略と挑発的ストの規定づけ一本に絞り上げ、一層強い調子でスト中止を叫ぶに至った。こうしてスト反対を次第にエスカレートしつつ打ち出していった。

 この「奇怪な」党指導の経路と経過は今日まだ解明しえていない謎である。何らかの強力な指示と圧力があって、幹部会全体を無視し乗り越えていったことだけが確かである。この中央指示の誤りを批判し、拒否した数少ない動きに山口県党があった。「4.8声明」が出るやすぐに意見書を提出し、「訴え」を載せたアカハタ号外の配布を差し止める措置をとった。名古屋の中郵細胞は、「4.8声明」が出るや臨時総会を開いて、党の裏切りを痛烈に批判した決議を行ない、これを全国の諸団体に配布した。(「4.17ストを支持し、650万労働者の先頭に立とう−池田内閣と独占資本の手先となった日本共産党を弾劾する」)。愛知県委員会はあわてふためき、名古屋中郵細胞を除名処分に附した。

 党声明に従って、聴濤克巳幹部会委員は、「このストを断行すると、共産党は非合法へ追いやられる」という認識を基に「当局の挑発にのるな」と全党員にドタキャンでストップ指令を出し、4.17スト中止に向けて党員労働者を駆り立てていった。この当時既に培われてきていた宮顕執行部指導下の一枚岩体制が威力を発揮し、党のほぼ全組織が一斉に中央指示の実践に突入し阻止工作に走った。東京都委員会は各地区に対し、次のような口頭指令を与えた。

 「4.17ストに党は三段構えで望む。第一段階はスト戦術の再検討を呼びかける、第二段階は指令を拒否する、第三段階(スト突入の場合)では党員・民青同員・アカハタ読者は戦線を離脱する」。

 こうした党の動きに対して「労働者を背後から撃つ裏切り行為だ」という糾弾の声が挙げられた(4.17ストを守る出版労働者の会「日本共産党に抗議し、4.17ストを守ろう!」)。

 労働運動内部からの執拗なこういうスト切り崩しがあっては総評も戦えない。こうして、かってない混乱と内争のうちに、戦後最大を予想された大ゼネスト計画は、組合側の大勢が引き続き真剣にスト突入の意志を持ちながら、池田・太田会談によって、4.16日、スト中止が決められ挫折させられることとなった。こうして4.17ストは挫折させられることとなった。


【党の権威失墜】

 共産党のスト阻止行為は、池田内閣の窮地を救った。内閣としては、ゼネストの実施は池田3選はおろか当面の内閣の運命も左右しかねなかった。党のスト中止声明とスト阻止行動が救いの神となった。体制側の方でも、当面の責任者たる国鉄当局などが一転逆転して攻勢に出ることになり、組合側の切り崩しに向かうことになった。

 当然ながら公労協を始めとする総評は、この間の共産党の仰天策動に対し、「組合破壊分子」・「スト破り」という一斉攻撃を浴びせることになった。4.12日、総評社会党員委員長会議が開かれ、太田・岩井以下主要単産から約30名が出席し、次のように方針を確認し、スト切り崩し者=党員労働者を処分していくことを決定した。

 「『4.8声明』は政治主義にたった誤りであり、特にスト直前に統一を乱したことは間違いである。党の決定を優先させ、組合機関の決定に従わない組合員は厳重に統制処分する。共産党が右のような態度を続ける限り、総評は重大決意をもって対決する」。

 党員労働者が労働組合から処分されていくという事態は、党の権威は大きく失墜させ、組合運動.大衆運動への影響力を大幅に後退させる結果となった。

 「世界の共産党の歴史を見ても、共産党が労働者のスト破りを全党挙げて強行した例はない。世界各国の共産党も多かれ少なかれの誤謬を犯してきたが、日本共産党のこのような労働者階級の闘争に全面的に対決するような基本的誤謬を犯した党は無いであろう」(しまね・きよし「もう一つの日本共産党」P170)。

【日共の4.17ゼネスト逆指導総括】
 ストが不発となるや、党は、4.17日アカハタに4度目の声明を掲載した。
 「(スト中止は)組合運動の偉大な転換をかちとった(労働者の大勝利であり、ストを利用して組合内活動家・進歩勢力を一掃しようとする)反動と分裂主義者の策謀はくじかれた。しかし、彼らは新しい策動をもくろみ、スト中止の責任を共産党に帰してはやくも反共宣伝に乗り出している」と強調した(「あくまで、挑発、分裂とたたかい、職場の団結をかため、職場を基礎に闘争の態勢を強化しよう」)。

 この観点から土岐強、高原晋一、春日正一ら党幹部が党内外の雑誌に論文を発表した。


【秘密文書「真実を曲げることは出来ない−4.17ストに際して日本共産党指導部が果たした役割」】

 他方、4.24日、党内に主流派指導部の思想・方針・実践の誤りを全面的に追求し、その論拠を明らかにした秘密文書(「無署名パンフ「真実を曲げることは出来ない−4.17ストに際して日本共産党指導部が果たした役割」)も現れた。文書は、党指導部の誤りとその根源を究明して、次のように指弾していた。

 「党の3声明が、党が不思議にも日本独占資本の責任については何一つ追求していないこと、奇妙にも労働者の正当な賃金要求にほとんど触れていないことで共通している」。
 「日本独占にとって最大の打撃の一つとなる賃金闘争を無視することにより、党指導部は労働者の利益を裏切り日本帝国主義に協力する立場に転落した。賃金闘争・スト闘争の意義を理解できない指導者は、結局日本帝国主義に降伏し、その手先になりさがってしまう。党指導部は、4.17スト圧殺に協力することによって、日本帝国主義を強化させ、それによってアメリカ帝国主義のアジア政策補強を分担した。日本の労働戦線・民主戦線の分裂の主な原因も、指導部の反米闘争一本やりの方針押しつけにある云々」。

 文書はさらに、党生活が現在レーニン主義的規範とほど遠く、真剣な自己批判と相互批判、下からの点検などによる民主的な党生活の作風は押し殺され、党内には命令主義・官僚主義・出世主義が横行するありさまだ。指導部のあせりが強まると、大言壮語の声明が乱発され、退屈な長大論文がアカハタに次々と載る」と、党内の組織批判をも舌鋒鋭く述べていた。

 4.17スト反対戦術は社会党・総評労働者の大反発をくらい、責任問題が発生することになった。この時党の最高幹部がどう対応したか。宮顕と袴田はこの時中国にいた。宮顕は帰国して、まず聴濤を統制違反で処分し、「あれは党の意志ではなかった。一部幹部の暴走によるもの」と公労協に詫びを入れ一件落着にしている。

 果たして聴濤がトップの意向抜きに独断で暴走なぞし得たであろうか、今日なお解明されていない。聴濤は、4.17スト中止指令は党の最高幹部による合議であっただけにショックを受け、翌日から党に出てこなくなり、翌年怪死を遂げている。死因は急性心機能不全と記録されている。指揮を執った高原が責任を問われず、下部党員でしかなかった聴濤克巳幹部会委員と労働組合部長竹内七郎が解任という変則処理となった。

(私論.私見) 「4.17スト反対に見せた党中央の反動的本質」について

 宮顕系日共が、この問題で、党の思想体質と組織体質の致命的な欠陥と弱点、加えて反動的本質を明確にした。宮顕式綱領路線「二つの敵論」の本質は「二つの敵の使い分け論」であり、「二つの敵」に対決していくための論ではない、ということを知らしめることになった。労働運動や労働者闘争が「4.17スト」のような条件闘争的な改良経済闘争であれ、「60年安保闘争」のような政治闘争であれ、日本の政治体制や国家権力との直接の対決を目指して国内的課題が最大争点として沸騰しつつある場合にきまって、一方の敵アメリカ帝国主義との闘争に向かおうとさせ反米独立・民族解放の任務を第一義的に押し出してくる。ひたすらアメリカ帝国主義への闘いに収斂させ、しかも労働者の階級性抜きの人民一般的幅広闘争形態での政治闘争・反米闘争に集約させる。他方、国内の運動がアメリカ帝国主義との闘争に向かおうとした場合には、急進主義者の挑発性をなじり、穏和化路線で分裂を企図する。専ら国内的課題に目を向けさせようとして議会闘争・部分的な経済闘争の成果を語ることになる。

 いずれにせよ、どうやら宮顕式「二つの敵論」の本質には、闘わないための使い分け方便理論ではないのかという胡散臭さがある。にもかかわらず、「中央の決定は絶対正しい。その無条件実行は又正しい」という独善的な官僚主義の押しつけと、これを拝戴する下部機関・一般党員の「中央盲従」、「服従」、「あやつり人形」化が次第次第に完成していくことになった。いつの間にか一枚岩的組織体質、上意下達運営方式を双方が誇るというサド−マゾっ気の交互関係が定着していくことになった。こうした党活動上で「生き甲斐」が語られるが、こうなると宗教的喜びに近い。もし、このような組織が機能するとしたら、恐ろしいほどの建前・形式主義を助長すること無しにはありえない。建前・形式主義は奥の院での腐敗をはびこらせ、下っ端官僚の処世要領の上手に出来ない者から順に心身症患者を生み出していくことになるというのが古今東西の組織盛衰の法則である。党に限ってこの法則から逃れていることを願う。 
 もう一つの観点からも問題がある。大衆団体が決めたことに対して、しかもゼネストという重大決定を、共産党が止める権利がどこにあるのかという問題である。大衆団体の決起を促すことはあっても逆に使う党中央なぞありえてよいことだろうか。敵の挑発論、弾圧論を云うならば、そもそも共産党運動なぞ展開し得るべくもなかろう。

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように記している。
 「マルクス主義と現実の科学的分析に基づかない新綱領の宗派政治は実践に移されるやたちまち労働組合運動や原水禁運動など大衆運動におけるセクト的分裂策動となって現れたが、六四年の春闘におけるスト破りは共産党の綱領路線の反労働者的本質を如実に物語るものであった。この年の春闘では公労協が4月17日に賃上げで半日ストを構えていた。ところが共産党はこのストライキが「反米愛国闘争」を課題に掲げていないことから、「ストの笛を吹いているのはアメリカ帝国主義であり、日本の売国反動組合内分裂主義者であり、全体として反共的謀略と挑発的スト」であるとの悪名高い四・八声明を発して、スト破りに乗り出したのである。

 後に共産党は「自己批判」したが、その内容は、宮本らが海外にいて「幹部会の集団指導が弱められている時に」、幹部会員の一人が「綱領路線」から「逸脱」してたまたま犯した「誤り」に過ぎないという徹底的に欺瞞的なものであった。しかし、この労働組合運動への敵対は決して偶然ではなく、彼らの民族主義的な綱領路線の必然的な帰結であった」。

【日共が「4.17スト対応」自己批判する】

 4.17スト反対戦術は社会党・総評労働者の大反発をくらい、責任問題が発生することになった。この時党の最高幹部がどう対応したか。宮顕と袴田はこの時中国にいた。「志賀問題」も発生したこともあって宮顕・袴田ら一行は急遽は帰国し、幹部会を開いた。この総会で、党として「4.17スト」反対への誤りを認め自己批判した。

 こうして、「あれは党の意志ではなかった。一部幹部の暴走によるもの」と「主要幹部不在中の誤り」として公労協に詫びを入れ一件落着にしている。まず直接の指導責任者であった聴濤を統制違反で処分し幹部会員から解任した。竹内七郎を書記局員.労働組合部長から解任した。他に土岐強を赤旗編集局長から解任し、ハノイ駐在員に転籍させた。ところが、その上に位置して実質的な責任者として采配を振るっていた高原晋一の責任は問われず、財政、経営担当に配置換えされただけで、引き続き宮本委員長の懐刀としての地位にとどまっている。高原はその後1966.10月の第10回党大会で幹部会委員候補に抜擢され、党の台所を握る中央財政部長の地位を与えられている。以降、1976.7月の第13回臨時党大会で常任幹部会委員、同年12月の13中総で筆頭書記局員と昇格している。

 果たして聴濤がトップの意向抜きに独断で暴走なぞし得たであろうか、今日なお解明されていない。
聴濤は、4.17スト中止指令は党の最高幹部による合議であっただけにショックを受け、翌日から党に出てこなくなり、翌年怪死を遂げている。死因は急性心機能不全と記録されている。
指揮を執った高原が責任を問われず、下部党員でしかなかった聴濤克巳幹部会委員と労働組合部長竹内七郎が解任という変則処理となった。

 党史では次のように総括されている。

 「1964年の春闘の際、党は、労働組合が準備していた4.17ストライキに反対するという誤りを犯した。これは、宮本書記長を含む少なからぬ党中央委員会幹部会員が海外に出張し、幹部会の集団指導が弱められていた時期に起こった問題であった。‐‐‐『アメリカ帝国主義の企む挑発スト』という誤った規定を行い、ストライキを回避することを事実上の最大の目標にするに至った。これは外国の党指導者の主張への時代主義的な追随に基づく綱領の路線からの逸脱が、経済闘争の軽視など、労働運動の指導における一連の誤った傾向と結びついておかされた誤りであった」(「50年党史」)。

 要は最高幹部が留守の間の指導の間違いとして下部党員に責任をとらせる宮本の常套手法で処理をしていることになる。それにしても、記述を逆さまに書き込むことで意識的に混乱させた回りくどい文章になっている。


【袴田里美の告発】

 袴田里美の「昨日の友宮本顕治へ」に、この時の宮顕の変調行動が次のように明かされている。

 「当時、日本国内では総評が中心となり、2.1スト以来初めての『半日ゼネスト』を目指して胎動を続けている最中だった。その時、宮本は静養先に行きたいと言い出したのだ。それも妻子はもちろん、代々木病院の医者、二人の看護婦(うち一人は、もう十数年も党本部で宮本の身辺の世話をしている)、防衛、お手伝いなど総勢7人を連れて行くというのである。私は重大な政治闘争が盛り上がっているとき国内を留守にするという宮本に、政治的指導者としての資質や政治感覚を怪しんだが、その大名旅行振りにはなおのこと呆れた」。
 「戦前戦後を通じて、宮本のようなブルジョア趣味の共産党指導者は一人もいない。戦後の指導者だった徳田球一もワンマンと云われた点では宮本と同じだが、彼の衣食住は極めて貧素だった。だから、以上書いてきた宮本の日常を思うとき、どうして彼は共産党などに入ったのか、いったい宮本という男は何者であるのか、と考えざるを得ない」。 




(私論.私見)