補足「早稲田一九五〇年・史料と証言 別冊・資料」 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元、栄和3)年.5.24日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「早稲田一九五〇年・史料と証言 別冊・資料」を確認しておく。 2005.6.22日、2009.2.17日再編集 れんだいこ拝 |
【早稲田の学生運動小史】 |
執筆担当・北澤輝明(戦前)、 小林一彦(戦後)「早稲田の学生運動小史」を下敷きにスケッチしておく。 |
【戰前/早稲田の黎明(明治時代)】 |
歴史が教えるように、日本の近代が、封建遺制の強固な残滓の上に絶対主義天皇制を構築したことは、ある意味で明治という時代を陰惨に彩つている。自由民権運動のもたらした北村透谷の悲劇的な死から、明治四四年(一九一一年)、幸徳秋水ほか十一名の死刑まで
をつなぐ線の上に、厳粛な日本知識人殉難史を見ることができる。その根底に、絶対主義 天皇制の高圧的な諸政策と、絶えず苦闘をくりひろげねばならなかつた日本の民衆の、社
会闘争史が横たわつているのだが……。こうした明治の、上からの指導者の養成機関として特権的地位を誇っていた「官学」に 対して、在野の「私学」として出発した早稲田大学の歴史は、建学当初から「学問の独立」をかかげねばならず、また、さまざまな抵抗の中で、その学風が成長しなければならなかつた。もちろん、日本資本主義の発達は、やがて「官学」「私学」の別なく、同じ社会的基盤の上に立つ学生社会運動へと、青年の正義感をかき立てずには置かないのだが、しかし、建学以来早稲田の伝統をつらぬく支配権力への反抗精神とその底をささえる庶民精神は、早稲田の学生運動史を大きく特徴づけている。
いま、日本における社会運動の一種としての学生運動を把えようとするなら、それは、 明治末の閉塞状態を脱出した労働運動、農民運動、あるいは知識人のデモクラシー運動が、堤を切つたように展開される大正初期の社会情勢の中で、それらと密接につながりながら ひき起された種々の学校事件を意味することになるかも知れない。しかし、早稲田における学生運動をさかのぼるなら、規模こそ小さいが、その第一頁を飾るのにふさわしい二つ の事件が、すでに明治時代に存在したことを知ることができる。一つは明治三七年(一九〇四年)の、日露反戦運動であり、一つは明治四〇年(一九〇七年)、早稲田に在学中の韓国留学生が残した民族的抵抗の一こま、いわゆる擬国会事件であつた。 |
【日露反戦運動】 |
その頃の事情に少し触れねばならない。明治政府の帝国主義政策は、当時の社会主義者たちのはげしい非戦論を押し切つて、明治三七年二月八日の軍事行動をもつて日露戦争を開始するにいたつた。当時万朝報に拠つていた幸徳秋水、堺利彦などは、万朝報が主戦論に転向したのち、平民新聞を発刊し、自由、平等、博愛のスローガンの下に一そうはげしい反戦運動を展開した。このほか、安部磯雄、木下尚江、石川三四郎、西川光次郎などは 政府の弾圧にもかかわらず、演説会を開き、パンフレツトを発行するなど、最も勇敢に政府の対外侵略の陰謀を曝露し、反軍国主義をたたかつていた。三月には、平民新聞が「露国社会党に与う書」をのせて、日本とロシヤの労働者が、ともに戦争に反対するよう呼び かけた。八月には、片山潜がアムステルダム世界労働者大会で、ロシヤ社会民主党のプレハーノフと握手して戦争反対を決議した。 早稲田における反戦運動は、このような事情の 中で起り「早稲田における社会主義思想」という見出しで平民新聞が事件を報道した。当時早稲田には社会学会という組織があり、社会主義研究を会の内容としていた。会員は八十名をこえていた。日露戦争がはじまると、当時の大学当局は、戦争遂行に好意的態 度を示し、学生から恤兵金(戦争寄附金)を徴収しようとした。社会学会の会員は、一部支配階級の利益のための戦争に反対し、大学当局の強制寄附を拒絶した。平民新聞は、事件のもようを報じた後に、早稲田における、この先進的な反戦運動を高く評価し、「吾人は斯くの如き機運が漸く他の諸学校の中に生じ、終に一般少年の脳中に波及するは決して遠き未来にあらずと信ず」と結んでいる。平民新聞のこの予言の正しさは、その後の歴史が証明している。 日露戦争は、文学史の上でも木下尚江の反戦小説「火の柱」や、与謝野晶子の「あゝ弟 よ君を泣く、君死に給ふことなかれ」の、清らかな反戦詩を生み出したが、日本学生運動史にさきがけて起つた早稲田の反戦的伝統は、その後の日本抵抗史の内容をさし示す道標 の一つとして記憶されねばならない。 |
【擬国会事件】 |
日本が韓国を併合したのが明治四三年であるから、この事件当時韓国はまだ独立国であつた。 早稲田では、かねてから、時おり擬国会を開き、政治学の実際的知識の習得、政治家と の交流を図つていたが、明治四〇年(一九〇七年)三月二五日に開かれた擬国会で、急進党の田淵豊吉ほか数名が、非常識にも「韓国を日本の属国とし、韓国王を日本の華族とする」むねの建議案なるものを提出したことから事件がはじまる。 当時早稲田に在学していた韓国留学生十七名は「韓国人を侮辱するものである」として 激昂し、即時退校した。さらに檄文を配布したので東京に留学中の全韓国学生が起ち上り、二九日朝にいたり、約百五十名の韓国学生が、建議案の撤回、および建議者の退校を要求 して早稲田大学にデモ行進を行い、幹事に面会を迫つた。東京の全留学生の総退校をも辞せずとする、この抗議運動は、当時すでに進められていた韓国の侵略と植民地化に対する、韓国学生の誇り高い抵抗の姿であつた。 |
【伝統の確立(大正から昭和へ) 】 |
大正の初期に、世界史の転換を意味する二大事件が起つていた。大正三年(一九一四年 )にはじまる第一次世界大戦と、大正六年(一九一七年)のロシヤ革命がそれである。こ
れらの経済的基礎は、世界資本主義の発展段階を分析することに求めねばならない。が、 ちようどその頃、日本史も大きく揺れ動いていることに気がつく。第一次世界大戦の利益によって、量的にも質的にも飛躍的発展を示した日本資本主義が、日本の労働者階級に何をもたらしたかは、大戦後のインフレと経済恐慌の深刻な破壊作用の中で、労働争議が、おびただしく激発したことで説明される。のみならず大正七年には
富山県の漁民主婦の蜂起にはじまる米騒動が、たちまち日本全国に拡大し、その鎮圧のために、各所で軍隊が出動して死傷者を出し、兵士の中には民衆の蜂起を指導する者すら出
た。 米騒動は、寺内軍閥内閣を打倒してしまつた。このように、日本の民衆の自然発生的な 社会運動は、明治末の「冬の時代」から雪解けの激流のように渦巻いて流れ出ていつた。
他方、大山郁夫、吉野作造、北沢新次郎、長谷川如是閑などのデモクラシー運動、賀川豊 彦、高野岩三郎などの悪法撤癈運動、尾崎行雄、島田三郎などの普選運動等々、多種多様 な民主的自由獲得運動が、大衆的支持をえて国内を風靡していた。 大正五年、当時十八才の中条(宮本)百合子が「貧しき人々の群」(原題「農民」)を書いて注目をあびた。農村の悲惨な生活をえがき、最後に「私の手は空つぽである。…… けれども、どうぞ憎まないでおくれ。私は今に何か捕える。どんなに小さいものでもお互 いに喜ぶことのできるものを見つける。どうぞそれまで待つておくれ。達者で働いておく れ! 私の悲しい親友よ!」と書いた百合子のヒューマニテイは、当時の青年たちの、け がれない心の底を流れる、真実への慾求をそのままあらわしていた。日本の学生運動は、 大正初期の、このような社会情勢の中で開花した。 早稲田の学生運動もまた、大正六年(一九一七年)の早稲田騒動にはじまり、大正一二 年(一九二三年)の軍研事件、大学擁護運動を頂点とし、昭和七年(一九三二年)のアー ト・オリンピアード事件にいたる十五年間に、一つの時期を劃している。この一五年間を つらぬく事件の連続の中に、戦後早稲田の学生運動が継承し、発展させねばならない、輝かしい伝統の数々――反戦的伝統。先進的学問の創造。学問の自由擁護等々――を見出す ことができる。 ちょうどこの時期は、大正九年(一九二〇年)と昭和四年(一九二九年)の、二度の一 般的過剰生産恐慌をはさんだ、日本資本主義の矛盾の慢性的爆発期に当つており、日本の 支配階級が脱出口を対外侵略による軍拡経済=満州事変以後に求めてゆく過程に当つてい る。労働運動、農民運動も、かつてない深刻な労働者、農民貧困化をふまえた労働争議、小作争議の連続線を形成している。思想史上での特徴は、日本における科学的社会主義の 発生、成長期であり、資本論が翻訳され、日本資本主義発達史講座が発刊されたことである。他面、この時期は新たな様相の日本知識人抵抗史を形成している。文学史では、明治四三年(一九一〇年)にはじまる「白樺」派の文学運動から、大正一 〇年(一九二一年)の「種蒔く人」にはじまるプロレタリヤ文学運動をつなぐ転換期を劃 しており、大正十三年有島武郎、昭和二年芥川龍之介と二人の作家の自殺が、二様の波紋 を投げかけた。と同時に、評論家としての蔵原惟人、宮本顕治と、作家としての小林多喜二の「蟹工船」、「不在地主」、藤森成吉の「何が彼女をさうさせたか」(戯曲)、中野重治の「雨の降る品川駅」(詩)、徳永直の「太陽のない街」、宮本百合子の「一本の花」、窪川(佐多)いね子の「キヤラメル工場から」などが出現した。見落せないのは、島崎藤村の「夜明け前」、山本有三の「風」、「波」、「女の一生」、 広津和郎の「女給」などであり、武田麟太郎、高見順などのヒユーマニズムへの傾斜であ る。だから、こうした時期の早稲田の学生の、一挙一動すらが、現代に生きる学生にとつて、なみなみならぬ課題をもたらしているといえる。いま、この時期の大きな事件にだけ触れ てゆく。 |
【早稲田騒動】 |
大正六年(一九一七年)の四月から十月まで続いた早稲田騒動は、その発端が、大隈侯夫人銅像の設立反対運動にはじまる天野学長排斥運動にあり、しまいには天野為之派、高田早苗派と、早稲田を二派に分けた学長の椅子あらそいとなつた。また天野派の「革新団」や運動部の学生たちが学校を占拠したため休校の止むなきにいたるなど、多くの学生を
もまき込んだ事件であつた。けれども、事件の背景に、前年から、学校行政の民主的改革をのぞんでいた「恩賜館組」と称する少壮教授団があつたことを見落せない。大山郁夫、北□吉、服部嘉章ら十人の「恩賜館組」は、反官僚主義と民主主義、自由主義という点で
は、反天野派となつた。しかし、騒動が解決された結果あらわれたものは、財閥色を濃くした早稲田の姿であり、そこに新たな官僚主義が樹立されていた。「恩賜館組」の民主的改革案「プロテスタンツ
原案」も、学生の憤りも、どこかへほうむり去られていた。こうした新たな官僚主義への怒りは、やがてブルジョア支配の社会矛盾に対する批判をはぐくんでいつた。 大正八年( 一九一九年)の、早稲田における民人同盟会、普通選挙促進同盟会の設立と、「最も合理 的な新社会の建設を期す」と綱領にうたつた建設者同盟の設立などを経た後、石川啄木が かつて、「誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、〃V NAROD!〃と叫び出づる ものなし。」とうたつた焦燥感は、この頃から、知識人の自覚的運動の発展として、現実に、〃V NAROD!〃(民衆の中へ!)というスローガンとなつて学生の心をとらえ その眼と行動を労働者、農民、市民に向けさせてゆく。 |
【軍研事件】 |
日本の学生運動に飛躍の転機をもたらした大正一二年(一九二三年)の、早大軍事研究団事件はあまりにも有名である。これまで、早大建設者同盟や、東大新人会の進歩的学生有志の運動であつた日本の学生
運動の形態も、この事件に到達するまでに、すでに著しく変化していた。大正九・一〇年 に展開されたロシヤ飢饉救済運動では、全日本二十三校の大学、高校、専門学校の、横の
連絡が成功的に獲得された。一方、運動自体が学生社会科学運動に方向を定めつつあつた。 このような中で、大正一〇年には、明大の第一回学校騒動があり、大正一一年には、これ
までにない大規模、組織的な三高のストライキがあつた。同年のロシヤ革命五周年記念日には、学生聯合会(FS)が結成され、翌一二年一月には高等学校聯盟(HS)が結成された。
このような動きのイデオロギー的背景として、大正一一年、日本の社会運動の中に急速 に擡頭してきたコミュニズムがあつた。※六月(【註】「日本共産党の七十年」=94年党史では七月十五日)には、日本共産党が「日本プロレタリアー トの前衛」として創立された。当時、総同盟を中心とする組織労働者は、経済恐慌とそれ にひきつづく不況の中でしだいに戦闘的な色彩を強くしていた。日本農民組合も設立され た。他方、それまでの指揮的理論であつたアナルコ・サンジカリズムと、新しいコミュニ ズムとが論争をくりひろげていた。しかし、学生運動の大勢はコミュニズムのイデオロギ ー原則の上に立つていた。 大正一二年五月五日、東大では自治権獲得の学生大会が学生の圧倒的支持によつて成功 した。早大軍事研究団事件は、その五日後の五月一〇日に起つた。事件の内容については、 菊川忠雄著「学生運動史」や、昭和二七年(一九五二年)野村良平(露文)その他の学生 によつて作られた「創立七十周年記念早稲田大学アルバム」などの中で詳述されている。しかし、概略すれば、事件の発端は当時内・外の世論の中で軍縮を行わねばならなかつた 軍部、官僚が、その窮地の中でなおも帝国主義、軍国主義の政策を進めようとして、日本の学校教育の軍隊化を狙つたことにあつた。だから、軍部の強力な援助を条件として、早稲田に軍事研究団を設置しようとしたのは、その企ての第一歩であつた。五月一〇日、早 大大講堂の軍事研究団発団式に出席した、中島近衛師団長、石光第一師団長、白川陸軍次 官、広田海軍軍令部参謀などの帝国陸軍海軍首脳と、軍事研究団長青柳教授、高田総長、 塩沢学長などの大学当局者たちが、「軍閥と戦つた大隈の意志をまもれ」「早稲田の伝統 を死守せよ」「母校を軍部に売るな」と決意した学生たちの肺腑をしぼるような彌次によ つて壇上に立往生し、「都の西北」の大合唱のうちに閉会したことから、たたかいの口火 が切られた。学生側は閉会に当つて「明日学生大会を開いて、天下に学生の態度を公表する」と結論を下し、東大新人会から是枝恭二、志賀義雄などのメンバーもかけつけてきた。五月一一日は雨のため延期され、翌一二日正午、早大文化同盟(建設者同盟と文化会の 合同した組織)と雄弁会の指導によつて、大隈銅像前の校庭に、一万人を集めた学生大会 が開かれた。「大学は文化の殿堂、真理を追究するところ、決して軍閥官僚に利用さるべ きものではない。早稲田大学は創立以来四十有六年、学問の独立と研究の自由のために、官僚および軍閥と戦ひたる光栄ある歴史を有する……」と、宣言を発表して閉会しようとしたところ、警視庁と連絡をとつていた早稲田の右翼団体縦横倶楽部の森伝、結城源心な どが集会場を襲撃し、大会指導者である戸叶武、浅沼稲次郎、林達磨、稲村隆一などに暴行を加え、ついにこの日は、左右の学生同士が衝突して「流血の金曜日」となつた。ついで一四日、事件は大山郁夫、北沢新次郎、佐野学などの少壮教授団の軍事研究団反対決議、秋田雨雀、小川未明、青野季吉などの校友の大学当局への抗議となつて、一五日、 軍事研究団は自ら解散を宣言した。早稲田に軍馬、兵器を無償で貸与し、うまくゆけばゆくゆくは、砲二門を据え、二個師団を編成することすら夢見ていた軍部の企図は、見事に 粉砕されてしまつた。 このような軍研事件の勝利は、何よりも、建学以来の早稲田の伝統と、支配者の学校軍 国主義化に対する学生大衆の抵抗のエネルギーとの、正しい結合によつてもたらされたこ とはいうまでもない。同時に、それは大正一四年(一九二五年)の軍事教練反対運動、昭 和六年(一九三一年)の満州事変へと、学生だけではなく、知識人、労働者の反帝国主義、 反戦運動に大きく進路を開いたという劃期的意義をもつている。 |
【大学擁護運動】 |
軍研事件によつて敗北した支配者は、その直後から強圧政策に出た。五月一五日に軍事研究団を解散すると、二〇日には文化同盟を解散させた。ところが、二八日、創刊一周年に満たない早稲田大学新聞が、突然号外を発行して注目を集めた。支配者に屈服した大学
当局は早稲田大学新聞を圧迫し、軍研事件関係事実の報道を厳禁していたのである。しかし、唯一の学内報道機関である早稲田大学新聞側は圧迫をはねのけ、学生編集者の良心をまもつた。早稲田大学新聞は、目をふさがれた学生の裏面で進められていた支配者の陰謀
を報道するとともに、いまこそ全日本の学生が学問の自由擁護のために立ち上るべきこと を訴えた。支配者は弱腰の大学当局を圧迫して大山郁夫、猪俣津南雄、佐野学、北沢新次
郎の四教授に「赤」のレツテルを貼りつけて学外に追放しようと策し、さらには「早稲田 たたきつぶし」が計画されていたのである。はたせるかな、文化同盟や雄弁会のメンバーは連日右翼暴力団によつて襲撃され、文化
同盟と雄弁会の学生は早稲田大学付近の合宿にたてこもつた。日本鉱夫組合その他の労働者は急を聞いてかけつけ、学生とともに四教授の身辺をまもつた。支配者の「早稲田たたきつぶし」運動に対して、「早稲田をまもれ」のスローガンは全日本の進歩的学生の間にまき起り、都下の労働団体もこれを支援する態勢を進めた。 この瞬間、警視庁の日本共産党検挙事件が起つた。六月五日午前四時、警視庁の非常動員がかけられ、庁舎の前には三 十数台の検事局、警視庁の自動車と、都下各新聞社の報道陣を集めた上、検挙ははじめら れた。その一隊、沼予審判事、滝川検事は早稲田大学構内の恩賜館(現在の文化系大学院 の場所にあつたが戦災で焼失)の中を臨検し、猪俣、佐野、出井などの教授の書類を捜査 して引上げた。当時商業新聞は、事件が大逆事件以来の一大不祥事などと大々的に報道し た。その衝動の大きさのため、日本の社会運動は、一時全く沈黙してしまつた。 しかし、どたん場で弾圧を蹴つたのが学生運動であつた。早稲田大学新聞と雄弁会とに よつて進められた大学擁護運動は、着々と世論の支持をえていた。一六日、高田総長は「四教授解職の如きは、坊間の流説にすぎず」などと、苦しまぎれの弁解を発表せざるをえなくなつた。また「共産党の出店」とレツテルを貼られ、加盟の各学校で組織を弾圧され て窮地にあつた学生聯合会は八日、大学擁護運動をその目標にかかげるにいたつて形勢を逆転させた。二六日、神田キリスト教青年会館の、大学擁護演説会によつて、運動は頂点 に達した。当日、大山郁夫を中心とする三宅雪嶺、福田徳三の三講師は都下の労働者、学 生によつてまもられ、大山郁夫教授の演説はひときわ目立つた。「大学の使命とその社会的意義」と題する大山郁夫教授の演説は、歴史的な名演説として記録出版されているが、当日、大山郁夫教授は、まず大学当局に代つて支配者の学生運 動と大学の自由に対する圧迫を抗議し、ついで自己の主張を次のように展開した。「その、本質上進取的なものである科学は、本質上保守的なものである支配階級と衝突する必然性 をもつている。」「われわれは、科学が終局において民衆の武器であるという信念の上に 立つている。」「もし、支配階級が社会科学の上に圧迫を加えるのが当然なら、社会科学の学徒であるわれわれが、その圧迫をはね返すのもまた当然である。しかも、そういう圧迫が強ければ強いほど、それに対するわれわれの抵抗もまた強くなければならないもので ある。」最後に、演説は大学擁護運動の意義におよんで白熱化した。「学問の独立、研究 の自由の要求は、大学の生存権の主張である。」と説き「ツアー治下の旧ロシア帝国にお いてならば格別、現今の文明国と呼ばれている他の国において、どこにその類例があるか ……」と、学問に対する陰険な圧迫にはげしく抗議を集中した。 この演説は、当時の学生に、知識人の使命がどのようなものであるかを教え、知識人の 受難に対する大山郁夫教授自身の抵抗の決意の固さは、聞いていた学生を心底から打つた。 「先生もわれわれも感激の涙が頬を伝つてとめどなく流れた」と、当時を回顧した戸叶武 が書いている。なお、九月に入ると高田総長はさきの発表をくつがえして、猪俣、佐野の二教授は、結局解職された。 |
【軍教反対事件】 |
大正一二年(一九二三年)九月、関東大震災があり、混乱に便乗した内務省と警視庁は 流言を飛ばして、多数の朝鮮人を虐殺した。また、当時、学生、勤労青年などから尊敬を
うけていた河合義虎をはじめとする九名の社会主義者も虐殺された。憲兵甘粕大尉は無政 府主義者大杉栄とその家族を※射殺した。これらの下手人はほとんど罰せられず、むしろ
昇進した。このような事件に示される強圧政策は、当時労働運動の指導部分に少なからぬ 動揺をあたえたことは否定できない。学生運動の組織に対する弾圧もはげしさを加えて「
思想恐怖時代」に向つていた。にもかかわらず、軍研事件と大学擁護運動以来、正しい路 線を維持していた学生運動は、その内容と組織を拡大していつた。翌大正一三年(一九二
四年)二月には、学生の政治意識の啓蒙を目的として学生普選連盟が組織された。九月に は、先進的学問の研究を目的として学生社会科学聯合会が組織された。加盟校五三校に拡
大した学生聯合会は国際反戦デーに参加した。【註】扼殺が定説. このような高まりの中で、全国学生軍教反対同盟が、一一月に組織され、翌大正一四年 (一九二五年)一月二四日を「軍事教育反対デー」とし、九段牛ヶ淵公園に集合して、議 会に一大デモを行う予定になつた。ところが、さまざまな干渉を加えていた警視庁は、前 日になつて「学生の政治運動禁止」を口実としてその中止を命令した。学生側はこれを拒 否した。当日、会場である公園の入口は、十重二十重の警官隊がピケラインを作り、神田、 本郷、牛ヶ淵方面から集つてきた学生側と、電車通りをはさんで対峙していた。そこへ早大生約二百名が堂々と隊伍を組み「都の西北」を合唱して九段坂を下つてきたので、千名以上の学生が合流し、さらに明大生の一隊が加わつてピケラインを突破しようとしたため ついに検束者を出すにいたつた。検束された学生はトラックの上で激励演説をやり、街頭 の学生たちはこれに応えるなど、一時は電車も不通となつた。学生側は、専修大学構内で 大会を開いた。なお当日京都でも東京に呼応して反戦運動が展開された。 軍事教育は、結局、このような反対を押し切つて、同年四月、治安維持法、普通選挙法 の公布と同時に実施されることになつた。しかし、その後も反対運動は拡大し、やがて小 樽高商軍教事件による学生と労働者の共同闘争に高まり、一一月には全早稲田反軍教聯盟 も組織された。 |
【大正デモクラシー後期】 | ||||||
「唯物論全書『美術論』の頃 沼田 秀郷 (武田 武志) 一九七九年一月十四日・採録 【編集部・註】早大学生運動史研究会(絲屋寿雄・主宰・1980-10)
早大学生運動の記録(第一集)」より。
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◆大山事件 |
昭和二年(一九二七年)といえば、前年の共同印刷、浜松日本楽器の大争議とともに、 小樽の港湾労働者のゼネスト、野田醤油の大争議など、労働争議の急激な高まりがあつた。 組織労働者も、右派の日本労働総同盟と、大正一四年に生れた左派の日本労働組合評議会 と二系統に分れ、全体として発展していた。日本共産党は、山川イズム、福本イズムの両 偏向を批判克服して二七年テーゼを定め、日本革命の目標と、当面する行動綱領を大衆に 示した。一方、田中義一、吉田茂、池田成彬などの支配者は山東出兵後に東方会議を開い て中国侵略の方針とプログラムを決定した。こうした中で、芥川龍之介が「将来に対する ぼんやりした不安」から自殺し、葉山嘉樹が、前年書いた「海に生くる人々」で作家とし ての地位を確立し、小林多喜二は「防雪林」を書きはじめていた。 当時早稲田では、民政党総務であつた内ヶ崎作三郎教授は何らの干渉も受けないのに、 社会民主党党首であつた安部磯雄教授は「いやしくも一党の中心人物たるものが……」と いう理由で辞職させられた。だが、これはかねてから大学首脳者の眼の上のこぶであつた 大山郁夫教授が、労農党委員長に就任したのを機に、学外に追放しようとする下地であつ た。大山郁夫教授は全学生の信望を一身に集めていたから、辞職の勧告が伝えられると、 学生は一斉に起ち上り留任運動は学内を風靡した。一月二四日政経学部教授会で大山問題 が決定されることになつた日、学内の大デモ行進が行われた。しかし学生の期待を裏切つ て辞職は決定されてしまつた。 二月二〇日の送別会で「親愛なる早稲田大学の学生諸君、私の本大学におけるながき学 究生活は、ついにその極限に達した…」「私が早稲田に容れられなくなつたのは、私の日 頃の理論のためであり、その理論に基礎づけられた私の主張のためであり、さらにまたそ の主張の具現としての、私の実践のためである…」と語る大山郁夫教授の訣別演説は、当 時大山郁夫教授とともにたたかつた全早稲田の学生を泣かしめた。学生は、この不公平な 大学当局の措置に抗議して、送別会終了後直ちに学生大会を開き、自治同盟を結成した。 団結力のない学生がその組織の必要を痛感したからであり、大正一五年以来日本の全学生 を結集していた学生自由擁護運動と、学生自治運動の反映でもあつた。 ところが、大学当局は、二〇日にいたり、首謀者九名を退学、二四日には二三名を処分 した。学生側も詫状をいれるなど、事件は敗北に終つてしまつたが、しかし学生の心の中 に芽生えた学内自治の自覚はその後ながく生き続けた。 |
◆早慶戦切符事件 |
昭和三年(一九二八年)、特高警察が設置され、昭和三年の三・一五事件、昭和四年の 四・一六事件と、日本共産党と社会運動指導者とに対する大弾圧があつた。学生運動の指 導的メンバーも一挙に、その大半を失われてしまつた。昭和四年には山本宣治が暗殺され、 早稲田では、社会科学研究会が弾圧され、大山郁夫教授なき後の雄弁会に無会長解散政策 がとられた。五月一五日には雄弁会解散反対学生大会で、左右の学生の大乱闘があつた。 一一月七日には学生社会科学聯合会が自ら解散したほか、二二日には東大新人会も解散し たが、これは一種の転向であつた。 昭和五年(一九三〇年)、早慶野球戦の切符配分に端を発した一ケ月の大ストライキは 以上のような経過の中で起つた。事件ははじめ大学当局が、教職員、校友などへ入場券を 多く配りすぎたため学生に対する割当が少なすぎたという、それ自体単純な不満であつた。 ところが学生委員側の誠実な努力にもかかわらず、大学当局側の学生を甘く見た態度が、 学生を硬化させ、ついに早慶戦の応援はボイコツトされた。 早慶戦終了後、これまでの大学当局の態度に対する学生側の憤慢は一時に爆発した。当 時の学生運動は四・一六事件以来非合法運動に入つたが「帝国主義戦争反対」「警察権の 学内侵入反対」「授業料三割値下」「自治会の公認」などを中心スローガンとして質的に はますます高まつていたから、たとえ発端は切符の割当にあつても、一ケ月におよぶスト ライキが行われる空気は学内にあつた。だから、翌昭和六年、これまで学生運動に対して 弾圧政策をとつていた田中穂積教授が総長に就任すると、学生は反対運動でこれを迎え、 学内デモを行つたりなどした。昭和四年以来六年までの日本の学生運動は、自らの組織解 体という誤りをおかしながら現象としては「慢性学校騒動時代」をくりひろげ、全国的に、 ほとんど無数のストライキ、反抗などの事件を起こしている。 |
◆アート・オリンピアード事件 |
アート・オリンピアード(芸術祭)は、昭和六年(一九三二年)六月四日に大隈講堂で開 かれた。昭和四年、アメリカに起つた史上最大の経済恐慌はたちまち全世界に波及し、日 本の内閣は、浜口、若槻、犬養と三転した。昭和六年には満州事変、七年には上海事変と 日本の中国侵略戦争がはじまつていた。そうした中で右翼勢力の擡頭が目立ち、早稲田で も右翼がスポーツを握り、軍事教練がきびしさを加え、進歩的学生運動のしつような弾圧 とともに学内がフアシズム色に塗りかえられようとしていた。その頃、プロレタリヤ演劇 運動や、日本プロレタリヤ映画同盟(プロキノ)もまだ活動していたが、四月には文化運 動への大弾圧がはじまり、宮本百合子、中野重治、蔵原惟人、小椋広勝などの指導者の逮 捕がつづいた。一方、文学の風俗小説への屈折も見落せない現象であつた。 こうした風潮の中で、主に第一学院の文科系の学生を中心とするアート・オリンピアー ドの開催は、実ははげしい抵抗運動であった。内容は講演、映画、演劇など。講演は転向 前の林房雄。映画はプロキノの援助で学生が自主製作した「スポーツ」、全学生の手にス ポーツをとりもどせといつた内容。演劇は学生の自作自演、終りの部分がシユプレヒコー ルになつている「兄弟」、都市と農村の学生が手を結んで農民の中へ入つて行くといった 筋であった。当時、こうした芸術祭すらが、非常に困難な条件の中でたたかいとられねば ならなかつたが、結果は大成功であつた。終つて、熱狂した学生が外に出てみると、大隈 講堂は警官隊に包囲されていた。観客の中にスパイが動員されており、その場で検挙され る学生も多数出た。この事件で、当時学生だつた山本薩夫、谷口千吉などが処分され、あ るいは退学している。 |
◆暗い谷間(太平洋戦争へ) |
昭和七年(一九三二年)、岩田義道が虐殺され、大山郁夫教授がアメリカへ亡命した。 昭和八年(一九三三年)二月二〇日、小林多喜二が築地警察署員によつて逮捕の上、警視 庁特高課員の残忍を極めた拷問によつて虐殺された。また、佐野学、鍋山貞親などが転向 した。 ドイツでも、ナチス支配の最後の仕上げが急がれていた。ベルリン大学のユダヤ人教授 三十二名とケルン大学の進歩的教授九名の解職を手はじめとして、ミユンスター、グライ フスワルトなどの諸大学のユダヤ人教授の一斉罷免、プロシヤ文芸翰林院の自由主義、平 和主義的傾向の芸術家の一斉追放などがヒツトラーによつて強行されていた。 そして、ナチス党員によつてベルリンの各所から没収された非ドイツ書焚書の煙が、ウ ンテル・デン・リンデンの広場の空を焦がしていた五月一〇日のちようどその夜、日本の 各紙は、京大法学部教授会の強硬な声明によつて、滝川幸辰教授の辞職強要事件が重大化 したことを報じていた。時の文相鳩山一郎は、直ちに談話を発表し「学校閉鎖も辞せぬ」 と、弾圧方針を明らかにしていた。 大正九年(一九二〇年)の東大森戸辰男教授以来、平野義太郎、山田盛太郎、早大の佐 野学、猪俣津南雄、安部磯雄、大山郁夫、京大の河上肇、九大の向坂逸郎、石浜知行、佐 々弘雄など、この十年間に日本の大学から追われた大学教授は、それ自体が学問受難史を えがいていた。滝川事件はこうした受難史の中でも最も重要な位置をしめており、これ以 後、日本の大学は軍靴の音で満たされ、悲惨な戦争に向つて急傾斜してゆく。だから悲痛 な号泣を残して死んでいつた日本戦歿学生にとつて、滝川事件の張本人鳩山一郎は、戦争 犯罪人として処刑された東条以下七名以上の意味をもつているのかもしれない。 その頃、文学は、批評の随筆化、独白化、「芸」の強調などとあいまつて、谷崎潤一郎 の「春琴抄」、永井荷風の「ひかげの花」石坂洋次郎の「若い人」などに屈折し、あるい は横光利一の「紋章」、島木健作の「生活の探求」などがあらわれてくる。 |
◆学生狩り |
昭和六年ごろ、凶暴な支配者の弾圧政策と、民衆意識の尖鋭化の中で、エロ・グロ・ナ ンセンスと呼ばれる頽癈的な空気が起つていた。早稲田から神楽坂にかけて、実に三千軒 の麻雀屋、社交喫茶などが出現し、学生街は享楽街化していつた。この現象の底に、実は 支配者の愚民化政策があつたのだが……。やがて、昭和一二年(一九三七年)日支事変が はじまると、こんどは逆に「学生狩り」と称する風俗、思想統制がはじまる。早稲田、神 楽坂の「学生狩り」に対しては、唯物論研究会のメンバーによつて抵抗運動が組織され、 逮捕学生の奪還デモが行われた。そして、これが早稲田における最後の組織的な大衆運動 であつた。 |
◆わだつみの声 |
昭和一五年(一九四〇年)には、津田左右吉教授が「文学に現はれたる国民思想の研究 」その他の著書のために、フアシスト蓑田胸喜の排斥運動にあい、起訴され、翌年極秘の うちに早稲田を追われた。昭和一六年一二月八日、日本は太平洋戦争に突入した。その頃 早稲田は錬成道場の設置から学徒勤労動員へと、しだいに大学の様相を失い、戦争深刻化 にともない、多数の学徒兵が「学徒出陣」と称して戦場に投入され、殺されていつた。も ちろん、工場でも、農村でも、兵営でも、戦場でもいたるところで、学生の人間的な抵抗 はくりひろげられた。その頃の、火野葦平の「土と兵隊」から石川達三の「生きている兵 隊」を経て、丹羽文雄の「報道班員の手記」「海戦」にいたる戦争文学は、もちろん無視 できないが、学生たちには、むしろ「アンドレ・ジイドやロマン・ローランなどが広く読 まれた。」(鳥羽欽一郎) そして、戦場でうらみをのんで死んでいつた戦歿学生の残した手記「きけわだつみの声 」は、戦前学生運動の悲痛な結論となつた。早稲田の学生福中五郎君の手記には厳重な検 閲をぬつて「こんな手紙を書いたのを二年兵にでも見つかれば、恐らく殺されるでせう。 」と書かれ、同じく吉岡友男君は死の前に羽仁五郎の「クロオチエ」を読んで「クロオチ エの偉いところは、学問を信じ、多くの人のためにつくすといふことを考へていることだ と思ひます。」と書いた。岡本馨君は約束されている死に逆つて「生きませう。より美し く、より高き自分の建設のために」と書いた。これらは「平和だ。平和だ。平和な世界が 第一だ!」と叫んだ他の戦歿学生と同じように、絶対的な死に追込まれた学生の、最後の、 せい一ぱいの抵抗であつた。 だからこそ、戦後の荒地に育つた学生運動の合い言葉は「きけわだつみの声をくり返す な」という叫びとなる。 (筆者は元早大新聞編集長) |
□ 《戰後》 |
戦後の学生運動は、グループ的であつた戦前、暗い谷間に投込まれた敗北の歴史であつ た戦中のそれに較べて、幾つかの特記すべき根本的な相異点がある。 その第一は、規模に於いて、戦前のものが一部先進的な学生のみによつて行われたもの に対し、戦後の場合は、学生という社会的な身分層が、自治権を確立し、全国的組織を結 成して、共通の問題として統一的行動を取る事が出来たという点である。 その第二は、質の面に於いて、戦前のものが孤立した、出口のない悲惨な斗いの記念碑 であつたのに引替えて、戦後の場合は、学生運動そのものが広汎な日本国民の民主的権利 を守る斗いに密着し、平和と民族を守る斗いの導火線としての役割を果し、支柱となり、 その重要な一部を形成し、世界の平和擁護勢力の一翼を担っているという点である。 右の二大特質は、戦後運動の発展段階に従つて見ていく事により一層明瞭になると思う。 戦後の学生運動をその発展段階によつて見れば、三つの段階(時期)に区別する事が出 来る。 第一の時期は、終戦により学徒が学園に復帰した時から、全学連の結成まで(一九四八 年九月十八日)。 第二の時期は、全学連の結成から一九五〇年十月の反レツドパージ斗争まで。 第三の時期は、反レツドパージ斗争から、今日まで。 戦後第一の時期の学生運動は、戦争への反省と、戦争と天皇制の暴圧によつて失われた 学生の諸権利と生活の回復をめざしたものであつたと言える。 終戦と共に、早稲田の学生は続々と「自由の鐘」の下に帰つて来たが彼等を待つていた ものは、空襲によつて三分の一以上が廃墟と化した学園と、極度に窮乏した衣食住問題で あつた。そして何よりも学生を失望させたものが、長い暗い谷間に魂を失つた大学当局に よる旧態依然たる講義内容であり、営利的、反動的な態度であつた。斯くて学生達は豊か な学問を学ぶ前に、自分の手で学園の復興を行わねばならない事を知り、一九四五年十一 月二日理工学部学生による、戦犯的教授追放の学生大会が行われたのである。これは戦後 学生運動の第一声となつた。次いで同月廿六日第二学院学生の軍学徒の優先入学反対の表 示となり、更に十二月学生自身の力で学生々活の諸問題を解決する為、学生々活協議会の 結成が行われ、その集中的な行動として、翌年早々(一月廿六日)第一回全学学生大会に 発展し、当日他大学に先駆して、学生自治委員会の結成を見たのである。学生が公然と自 治組織を獲得したのは日本学生運動史上、これが最初の事件であつた。 学生の湧上る期待と、創意を担つて、学生自治会は、設立以後矢継早に、「共済会(現 在の協同組合)の結成」、「学生自治会規程、教職員学生協議会規程の制定」「総長選挙 に大山郁夫教授を推す運動」等活撥な運動を展開、外に向つては、更に運動をより効果的 に組織的に拡大推進する為に後の全学連の母体である全国学生自治委員連合会が早大を書 記長校として結成される所まで来たのである。(十月十日) 然し乍ら、斯様な学生の熱誠溢れる、自主的な学園復興の念願は、事々に大学当局の冷 淡な仕打ちによつて報われた。学生の真摯な自治権確立、学生々活の自衛に対し大学が応 えたのが授業料値上げであつた。戦災校舎、諸施設の復興は国庫補助によつて、という当 時の知識人、学生の一般通念に反して無能な大学当局は唯々として安易な学生の負担によ る解決より考えようとしなかつたのである。学生の再三の交渉も聞かばこそ、かくて、一 九四六年暮も押迫る十二月六日、歴史的第二回学生大会が大隈講堂を学生で埋めつくして 開催された。これには進歩的教授の支持もあつて、学生自治の基礎は更に強固となり蹶起 した学生は、大学当局の無能さを尻目に、戦災校舎の復興、私学の財政危機突破に関する 対政府直接要求に発展し、戦後最初のデモ行進が同月十三日決行された。参加人員は早大 五千、これに慶大が合流し、校旗を先頭にブラスバンドに歩調を合わせた学生の歌声は市 街をゆさぶつた。 更に翌一九四七年二・一ストの前日、高揚した学生の政治意識の下、人民広場に於ける 関東大学高専四十余校参加する関東連合学生大会(自治連主催)に発展し「学園復興会議 の設置」「教職員審査機構の改善」「引揚学徒の転入学保証」「教職員の待遇改善に補助 金を」「国庫補助による官私平等の無利子資金の貸付」「学生新聞に対する用紙割当の確 保」など十一項目及び「全国の大学高専に対する学生自治会結成と自治連への団結の呼び かけ」を採択し三万以上の学生のデモ行進が行われた。 前記十一項目の要求に対する政府当局の回答は要求を充分満足させたものとは言えなか つたが、当時としては破格的なものであり、如何に学生の団結の力が強いかを物語つて余 りあると言えよう。これにより早大はじめ幾多の学校の復興は著しく促進された。 この様な学生の力は大学当局をも動かし原則的承認のままであつた学生自治会規程を「 校規校則と同等の意義と権威」をもつて認める事になつたのである(四月十七日)。思え ば大正末期の学生運動に出発し、多大の犠牲を払い乍も研究の自由の死守と共に三〇年後 の今日に至り漸く学生の手に自治の大憲章が獲得された事は、感無量の思いであつた。し かも反戦的な学生の自主独立の歴史を担う我が早大に最初にして最も完全な自治憲章が花 開いた事は誠に意義深いものがある。 学生自治会規程を勝ちとつた学生の運動は一層地道な活動となつた。 早慶戦切符の不正割当は大学当局の不正を明るみに出し、学生は早慶戦をボイコットし て学内の民主化を叫んだ(六月廿二日)。この結果従来の体育会偏重が改められ文化団体 連合会の発足と正規予算の割当が行われる様になつた。そして更にこの高揚は大山教授の 帰還促進運動、民主的教授の招聘要求と次々に積極的な運動が繰りひろげられて行つた。 然し乍ら一方、インフレの波は絶えざる授業料値上げと、鉄道通信料金の値上げと相俟 つて生活費の昂騰を来たし、学生と教職員の生活をドン底にまで押込み、学問水準の低下 も必然の状勢にあつた。然るに政府はかゝる状態を無視して一方的に「地方教育委員会法 」「中央委員会法案」により独善的な「教育改善」を行つて来た。これを阻止すべく自治 連は教員組合と提携し一九四八年二月十日、大隈講堂に於いて教育復興連合学生大会を開 催、民主的教育機構確立の為に一大政治運動を展開する事を決議した。そして、大学の地 方移譲は中止され、鉄道運賃値上げは阻止され、学割は二割から五割に引上げられた。続 いて国立大学に対する授業料値上げは、全国の大学高専の学生の自治と団結に対する意識 を湧き立たせ、六月廿六日、理事会法案による教育の植民地的再編成反対、授業料値上げ 反対をスローガンに百二十余校三〇万を結集したゼネストが行われた。この闘いは「教育 の復興なくして民族の独立なし」のスローガンの下に、学生に国際的な展望の眼を開き、 現在の全学連を結成(九月十八日)する直接の動機となつたのである。 第二の時期。二・一ストをピークとして、占領軍は、日本の帝国主義管理人としてその 正体を次第に露骨にして来た。七月のマ書簡前後からの右旋回は急速に教育行政を巻き込 み始めた。第二期の特徴はこれ等の動きに対する抵抗、防衛的任務が全学生に課せられて 来た事である。学生は全学連結成に際し早くもこれを意識し「教育防衛」をスローガンと した。第一期の教育復興から第二期の教育の防衛、そして朝鮮戦争直前からの「平和と大 学の擁護」「教育の戦争体制切換の為のレツドパージ反対」というスローガンの移り変り は学生運動の任務の大きな移り変りを示すバロメーターである。 四八年十月、全学連結成後最初の戦いは、早大第一、第二学院を中心に「インドより低 い」教育予算に抗議し、外資導入による教育の植民地化に反対し、国庫補助を要求して試 験を全面ボイコツトして闘われた。四九年は更に、教育の植民地的再編成の機構的整備で 推し進められた。新制大学への切換が四月に行われ、大学法、私学法が相次いで出され、 学内でも大学当局は新制大学の学生を自治会に結集させまいとする、自治会規程改正問題 が起つて来た。 学問水準の低下と共に、大学教授の任免に至る迄外部からの支配統制を容易にする大学 法案は広汎な層の反対を呼び、教授、学生を一丸として大学法対策協議会(三月五日)が 組織され、六月廿日のゼネストをめざし全国的規模の斗いとなり、五月廿四日全学連統一 ストは、この法案を完全に粉砕する事に成功した。五月卅日、言論集会の自由を制限しよ うとする公安条令が都議会上程の報を受けるや、第二学部学生八百名が都電を借切って都 議会にデモを行い反対運動に参加した。同夜東交労組の橋本金二君が虐殺される事件が発 生し翌卅一日、これに抗議して早大生約千名を始め各大学から都議会にデモ、六尺棒で武 装した警官と数時間対峙した。戦後学生運動に於いて多数の警官に直接遭遇検束者をだし たのはこれが始めてである。 十月中旬に到り私学法が登場すると、早大を中心に私学法反対運動が展開される。この 時はさすが島田総長も「時代錯誤の暴案」ときめつけた声明を発した事を見てもこの運動 の規模を窺う事が出来よう。学生自治会の提唱により中谷教授を議長として設置された私 学法対策協議会は、私学経営者を含めて全関東の協議会まで発展し、議会に請願デモを行 つたが、十一月十七日私学法は原案修正によつて通過した。 既にこの頃、学生運動だけでなく全ての民主々義運動は一つの大きな矛盾に突きあたつ ていた。原因は深く、学生運動が植民地的文教政策反対を掲げながら占領軍に一指も触れ なかつた事によつても説明される。然しこの課題の解決は一九五〇年に持ち越されるので ある。 一九五〇年の斗争は五年間の民族的抑圧と屈辱的忍従から脱し、民族独立と平和擁護の 為に闘う運動の先駆的役割を果すものであつた。そして運動は全学連の国際学連参加によ り国際的視野のもとに進められ、平和擁護斗争が積極的に取上げられた年であり、又朝鮮 戦乱により学生運動が当然烈しい試練に直面する年である。 五月二日、初の反抗の狼火である東北イールズ事件は全国民に異常な興奮と感銘を与え た。そして全学連は全国学生に反戦反帝斗争を訴え、東京都を中心に五・四、五・一六、 五・三〇、六・三と学生の斗いは疾風のように組織された。 五・四記念アジア青年学生決起大会のデモは雨中の為人数も少く一種の悲壮さを帯びた ものであつた。デモの傍にはジープが寄り添つていた。「全面講和と全占領軍の撤退」の シュプレヒコールがジープに投げつけられた。然し五・一六東北大斗争支持全都学生決起 大会は四千名にのぼる日本最初の反帝デモとなり全世界の注目を浴びた。「我々はトルー マンの傭兵にはならない」「イールズ帰れ」等のプラカードは都心の人々の畏仰するとこ ろとなつた。この日北大でも再びイールズ講演をボイコットし、遂に帰国させたのである。 この一連の斗いは学生のみならず日本国民の占領軍絶対の幻想を打破り、民族的自覚を促 した点に特に重要な意義を有している。だからこそこの様な斗いの昂揚は帝国主義者に重 大な脅威を与え、五・三〇人民大会を機に戒厳令的な弾圧が行われ、一切の集会が認めら れず、早大に於いては落語の研究会までが禁止された。六月十一日、自治会室と文団連は 占領政策違反容疑で捜査された。この戒厳令下に共産党幹部追放、アカハタの発禁、全労 連の解散と産業界のレツドパージが強行された。かくして六月廿五日朝鮮戦乱が「勃発す る」のである。 矢継早やの弾圧は、前進基地日本の地ならし工作であつたのである。然し乍ら学生はこ の弾圧を徒手静観していたのではない。六月廿二日「民主的自由と平和のための集会」は 折から来日中のジヨンソン・ダレス・ブラツドレー三高官に向けて行われた「請願集会」 と言われるもので、彼等の訪日の目的を曝露し戦争の危険を警告したものであつた。 更に六月廿七日大学記念講演会は大隈講堂を学生で埋めつくして開かれ、集会禁止を事 実上打破り、戦争挑発者への斗いは一層強化されたのである。これに反し大学当局は、完 全に帝国主義者に屈服し原水爆禁止の平和投票を禁止し、掲示板からの一切の平和という 字の使用を禁じ更に六月卅日には歴史的請願集会の責任者に対する処分を発表するに到つ たのである。 朝鮮戦乱開始直前から開始されたレツドパージの嵐は、その後各産業を席巻し、その勢 いは正に無人の荒野を行くが如き観を呈していた。それはヒトラーの「魔法使い狩」、日 本の河合事件に至る一連のパージの歴史を顧みる迄もなく戦争動員の前夜を示すものであ る。そして、その精神的総仕上げの段階が今や到来したのである。九月六日閣議は進歩的 教授追放を政令六二号で行うことを決定、九月十五日には「政府の赤追放に対する法律的 準備はすべて終り、追放リストの具体的準備にかゝつた」(朝日新聞)と報ぜられるや、 早大自治会中執は、休暇のあけやらぬ九月廿日「全員直ちに帰校し、反レツドパージ斗争 を準備するよう」声明を発して全学生に訴えた。そして廿五日過ぎには早くも一文、二文 は級単位の斗争委員会の編成を終り、中間休暇、試験期間中パージ実施の公算大なる為、 試験ボイコツトをしても阻止する態度を固めると共に、大学当局に対しては、一致して学 問と大学の危機に立向うように申入れたが、「架空の事実だ」として取り合わなかつた。 然るに、九月廿七日天野文相が「教授追放は十月上旬強行」と言明するや、大学当局は「 国家の方針ならば学問の自由も早稲田の伝統も放棄する」という恥べき裏切りに変つた。 「政令六二号によるレツド・パージ粉砕」「大山教授を先頭とする早稲田進歩的教授団を 死守せよ」等のスローガンを掲げ、大隈講堂の鐘を乱打し乍ら、四千の学生が「早稲田の 伝統を守る為」に結集し、十月斗争の口火を切つたのは、翌九月廿八日である。この集会 には都内各大学学生も参加した。そして、この日学内デモ中の学生に突如八百の警官が襲 いかゝつた。これに対し大学は無断侵入を容認したので学生と警官の対峙は夜にまで至つ た。 次いで廿九日東大で全都決起大会を挙行。十・五ゼネストに至る間に斗争は全都に拡大 し、新制東大、法政、早大一・二文は相次いで試験ボイコツトに突入、斗争は最高潮に達 した。十月五日の全都学生決起大会は東大で開催された。この日ソボ降る雨の中に東大正 門は警官によつて閉され、他大学学生の参加を妨害していたが、早大生を先頭に学生はス クラムを組んでこれを突破、予定通り大会は挙行された。以後蕫この斗いを民族的抵 抗﨟に拡大すべく、十・二〇ゼネストを目指し、全国遊説隊が各地に出発した。 この巨大な斗いはパージ計画者をして、数次に亘つて計画変更を余儀なくせしめ、十月 七日閣議は教授追放の為には先ず指導的学生の追放を決定、各大学にこの旨を伝え、十二 日、東大・中大の処分を皮切りに、十四日法政・早大と相次いで大量な学生処分が発表さ れた。だが一方この斗いは良心的な教授の強い支持の下に進められた事は忘れてはならな い。九月廿九日の出隆東大教授の「メツセージ」十月一日、松尾早大教授の「所感」は力 強い感銘を学生に与え、最後まで斗いの支えとなつた。 十月十七日のストと集会は計画的休暇明けという悪条件の中で開かれた。すでに地方は 遊説隊の激励を受けて完全に立上つていた。内外の支配者は、並大抵の事ではパージが出 来ない事を知り「学校を閉鎖しても一ヶ月以内に追放を強行」との天野文相の言明ととも に学生に対する容赦ない弾圧を指令、十七日も朝から多数の私服刑事が早大校内に潜入、 戸塚署並に全都の予備隊が待機されていた。このような悪条件の中にも拘らず、「平和と 大学擁護大会」は大隈講堂で三千名の参加を得て開かれた。そして、学生処分を多数の学 生監視の中で素顔で発表出来なかつた大学当局は自ら武装警官による弾圧を要請、かくし て千名の武装警官による空前の大弾圧が加えられ、一四三名が検挙され、八十数名に上る 大処分が発表され自治会は官憲の手により釘付けにされたのである。十月廿日も大学本部 と各入口は武装警官に占領され学生の登校にいちいち学生証の検査をするという暴圧の中 で過され、十一月七日吉田委員長以下十五名が起訴され、ここに長期に亘つた十月闘争は 終熄する。 第三の時期。十月反レツドパージ闘争の犠牲は大きく、戦後五ヵ年全学生の利益の象徴 であつた自治会を奪われ一時的な沈滞の期間に入り、指導上の混乱が加つて全学連も全国 的統一ある闘いを指導するに至らず、何か新しき道を求める暗中模索の時期であり、今日 に到るまでそれが続けられている。 勿論この時期にも、幾つかの特筆すべき闘争は発生している。否寧ろ学生運動に対する 抑圧は益々強くなつたにも拘わらず学生の闘いが有効に組織されなかつたというのが特徴 である。一九五一年二月ベルリンで開催された平和擁護大会のアツピールの署名運動は広 汎な学生を動員したが、九月サンフランシスコ講和条約反対闘争は名大がストを行つた他 は全国的規模には到らなかつた。そして十月の京大事件は、十月闘争の早大事件と同様、 学生運動の弾圧と学園への警官侵入のモデルケースとしようとしたものであつた。然しこ れは京大学生の抵抗により喰い止められた。 一九五二年に入ると破防法制定は必至となりこれに対する反対運動も各大学を中心に文 化人教授学生を一丸として漸く展開されようとした時、一月廿五日(一九五〇年)反レツ ドパージ闘争の指導者に対する公判が開始された。一方、四月廿八日全学連ゼネスト等次 第に昂まつて行く破防法反対闘争に当局はこれが抑圧の手口を得る為に学内への私服の潜 入を増加し、教授学生に対する尾行は目に余るものになつた。この様な時代的背景の内に 私服の学内侵入の摘発によつて発生したのが東大警察手帳事件、五月八日の第二早大事件 である。後者の場合は私服潜入に抗議の為集合した無抵抗の学生に警官は「メーデーの仇 だ」と叫んで暴行の限りをつくし佐々木教育学部長も逮捕されるに到り五月十日島田総長 出席のもとに七千名の全学抗議集会に発展、世論も官憲の横暴に激昂し当局の責任を追及 せんとしたにも拘らず、大学側は五月廿一日に到りあの恥ずべき「覚書手打式」を行い、 又も早稲田の伝統を汚す事になつたのである。 破防法反対闘争は参院上程を期に早大、東大で全都学生決起大会が行われ、各大学は続 々と抗議声明を発表、早大でも六月十八日、百十三名の教授の署名による声明書が発表さ れるに到り、運動は全国的に最も規模の大きな闘争に発展した。 六月卅日早大事件の判決はこのような中で行われ、全員有罪の判決が下された。これは 検事の求刑文にあるとうり、「最近頻発する学生の集団暴力事件を参酌せよ」という事か らもミセシメに本裁判を利用し、学生運動弾圧と学園内への警官侵入の判例を残そうとし た意図が露骨に読みとれるのである。 個々の学生は、再び暗い谷間への道をたどり出した祖国の運命や学問の自由、平和そし て豊かな学園生活を夫々の仕方で敏感に考えているのだ。要はそれを一つの潮、一つの塊 にまとめる組織がない事だ。一刻も早く、学生自らの組織を確立し現在の受太刀の状態を 乗越え、民族独立と平和擁護の旗手としての学生運動本来の姿を取もどす事が緊急の課題 である。かくてこそ第四の時期は諸君の手によつて輝かしい歴史として綴られる事を望ん で止まない。 (筆者は元早大自治会中央執行委員・一文仏) 【註】一九五六年・早稲田大学第一文学部学生委員会発行「新入生諸君へ」より。 |
【反レツド・パージ鬪争】 |
■ 座談会 学生運動の思い出を語る 座談会出席者(敬称略) 中谷博 (文学部教授・元教職員学生協議会初代議長) 平田富太郎 (政経学部教授・元教職員学生協議会二代議長) 松尾隆 (文学部教授・元教職員学生協議会委員) 白土吾夫 (元全学自治会副委員長) 司会 吉田嘉清 (元全学自治会委員長) かつて早稲田大学には、校規校則と同等の意義と権威を有する自治会規程に基づく全学 中央学生自治組織が存在し、強力な学生運動を展開した。と同時に教職員学生協議会によ つて教授、職員、学生が一体となつて学園の民主化のために、たくましく前進を続けて来 た時期があることを、われわれは想起したいと思う。それで、当時、教職員学生協議会の 議長であつた中谷博、平田富太郎教授、それに、自治会創立以来、学生自治活動の世話を 続けて来られた松尾隆教授、それに自治会の指導的立場にあつた白土吾夫、吉田嘉清氏に 集まつていただき一九四七年の全学自治会創立、一九五〇年のレツドパージ闘争などにつ いて話合つていただいた。 |
反レツド・パージ鬪争 一九五〇年の十月事件。十月 事件というのは要するに文部大臣が共産主義教師、共産党同胞分子はいわゆる教壇から去 つてもらう、それを強行する、ところがそれを強行するについていろいろ法規上、疑義が あつたけれども、政令六二号によつて強行することが決定した九月中にそれを断固強行す るつもりであるという天野文部大臣の声明が公然と何回も出るわけです。で当時は朝鮮戦 争のさ中なんですがこのときには、落語の会まで集会を禁止したり、まあいろんな事件が その間起るわけです。 白土 結局戦後早稲田大学の学生運動というのは全国の学生に先がけて始つて、学生自治 会の機構というものが維持されている限りにおいては早稲田の学生というものは非常によ かつたと思うんです。それがいろんな事情で学生自治会の機構が維持できなくなつてきて 結局一応学生自治会の終えんというふうな事態になつたんですけれども、今度のミシガン 大学の問題なんかを学外から見てみても早稲田に昔と同じような学生の自治会というもの ができなければ、問題は解決しないんじやないかというようなことを痛切に感じています。 |
全国の学生自治会設立のバイブルとまでいわれた「自治会規程」を擁した早稲田は、五 〇年十月、反レツドパージ闘争に至るまで、常に全国学生運動の中心となり、幾多の犠牲 を払いながらも、果敢に輝かしい伝統を積みあげてきた。しかるに朝鮮動乱を契機にした凄じい逆コースの下で、反動勢力の著しい成長は、日一 日、学園と学生生活をむしばみ、獲得した権利の一つ一つが剥奪の憂き目にあつて、かつ てアメリカの文部官僚を驚喜させた早稲田の学生自治会は、強力な米日反動に依拠してい た学校当局によつて、なしくずしに解体させられたのである。 その後、早稲田における運動はその中を一刻たりとも学生自治会復活の悲願で彩らなか つた時はなかつた。 だが、残念なことに、五二年の全学連分裂を転機に方向を見誤つたここ数年の運動は私 達の権利を次々と奪い、学園の自由をがんじがらめにしばりつけようとして矢継ぎばやに おそいかかる反動勢力の力を正しく見極めることができず、夜空に飛び散る花火のように、 徒らに火薬を焼きつくしてしまつたのである。私達は、五三年の夏季学期受講料値上げ反 対運動で五三年秋から五四年春にかけての自治庁通達撤回運動で、私達学生が勝利した事 実を知つている。にも拘らず、ここであえて「花火」であつたと強調するのはそれらの運 動が真に国民各層の運動の中で占める位置、すなわち、学生運動が学生の枠の中でだけ理 解されるのではなく、社会運動の力強い一部であるという明確な観点によつて貫かれてい なかつたからである。だから長期にわたる運動の展望が出されないままに、その後学内で 闘われたもろもろの運動が散発的に、しかもしりつぼみのままに進められ、昨年に至つて は、火の粉すら消え失せるが如き様相を呈したのであつた。 〃〃自治〃の面目失う学友会 そして、五二年十二月に発足した現在の全学学生協議会(全学協)を中心にした、理工 学部を除く九学部の学生会、学友会は、このようにこぼれゆくわくらば学生運動の中で、 一時的には強化した時期をみせながら、全体としては、ほとんど自治組織の面目を失した まま存続して来たのである。しかも一文学生会規約に典型的にあらわれているように、そ の会長は学部長であり一切の議決は学部長の承認を得なければ、それを執行することがで きないという極めて限定された権利しか、これらの組織には与えられていないのである。 極論すれば自治組織とは言い難い各学部の学生会・学友会は、その狭い枠の中でしか自治 活動がなしえないという悲劇の連鎖を続け、それはいきおい、自治会であるならば本来あ り得べくもない学校当局との無用の摩擦を頻発し、犠牲者を出さないようにと希う学生の 善意が、無意識のうちに運動を狭めてきたのであつた。全学協の結成と、公認要求の運動 もまさにその例外ではない。再度にわたる当局との折衝が、何ら先の見通しを与えないま まに失敗している事実は決していわれのないことではない。 〃全学協公認〃を再考せよ しかし、私達はここで、あらためて「全学協公認」を要求すべきか否かを冷徹に考えて みる必要がある。既に指摘しておいたように現在の学生会・学友会に依拠して構成されて いる全学協の公認化運動で、必然的に生起する最大の欠陥は、各単位組織が自治組織でな いことに由来している。各学部において、学部長が会長となつているのと同様に、全学協 が学生部長ないしはそれに準ずる当局の管轄する組織にならないと、一体誰が保証できる だろうか。 全学協公認の要求は、純粋に学生の権利を擁護し拡大しようとする意図から出されてい るという点においてのみ正当なのであるが、既に労働三法の改正が社会問題として提起さ れている今、その意図が労働運動の制限と労働組合の御用化にあることを考えるならば私 達は名実共に私達の自給組織である「早稲田大学学生自治会」の復活を要求するに、決し て臆病であつてはならない。 全学協、学友会に望む 私達は、自治権確立の運動が長期化することを知つている。そして又、それが学生運動 全般の発展と力の蓄積の過程ではじめてなされることも深く理解している。だからこそ、 私は現在の全学協、各学部の委員諸君に強く要望して止まないのである。 第一には、現在当面している諸問題に、十分の力を注ぐ中で、歩一歩、今ある組織を実 質的に強化してゆくことである。このことはやがて私達が「学生自治会復活」の要求を行 動スローガンとして提起する時、一方では行動の原動力として、他方ではその組織が自治 会に移行する母体として重要な意味をもつている。 第二には、それと並行して、戦後十年の早稲田の学生運動史を調査し、討論資料として 全学友の手に渡るように準備すること。その中には当然、自治組織の設立と解体の歴史が 事実のままに記載されねばならない。 第三には(一)(二)の運動を推進してゆく過程で、昂揚してゆく圧倒的多数の学生の 力に依拠して「学生自治会復活」を要求し、学校当局と団体交渉をすることである。その 際、全学協を中心にして、学部の学生会、学友会が歩を一にし事にあたる必要がある。今、 再び軍国主義の復活が企図されているとき、敗戦の日から現在にいたる苦難に満ちた行程 を、決して軍国主義の台風の眼にしないためにも、以上の運動が成功裡に開かれるよう祈 ること切である。(抄)(早大新聞五六年六月一九日号、当時全学協総務) |
■ 早稲田の学生運動小史 執筆担当・北澤 輝明(戦前) 小林 一彦(戦後) □ 《戰前》 早稲田の黎明(明治時代) 歴史が教えるように、日本の近代が、封建遺制の強固な残滓の上に絶対主義天皇制を構 築したことは、ある意味で明治という時代を陰惨に彩つている。自由民権運動のもたらし た北村透谷の悲劇的な死から、明治四四年(一九一一年)幸徳秋水ほか十一名の死刑まで をつなぐ線の上に、厳粛な日本知識人殉難史を見ることができる。その根底に、絶対主義 天皇制の高圧的な諸政策と、絶えず苦闘をくりひろげねばならなかつた日本の民衆の、社 会闘争史が横たわつているのだが……。 こうした明治の、上からの指導者の養成機関として特権的地位を誇っていた「官学」に 対して、在野の「私学」として出発した早稲田大学の歴史は、建学当初から「学問の独立 」をかかげねばならず、また、さまざまな抵抗の中で、その学風が成長しなければならな かつた。もちろん、日本資本主義の発達は、やがて「官学」「私学」の別なく、同じ社会 的基盤の上に立つ学生社会運動へと、青年の正義感をかき立てずには置かないのだが、し かし、建学以来早稲田の伝統をつらぬく支配権力への反抗精神とその底をささえる庶民精 神は、早稲田の学生運動史を大きく特徴づけている。 いま、日本における社会運動の一種としての学生運動を把えようとするなら、それは、 明治末の閉塞状態を脱出した労働運動、農民運動、あるいは知識人のデモクラシー運動が、 堤を切つたように展開される大正初期の社会情勢の中で、それらと密接につながりながら ひき起された種々の学校事件を意味することになるかも知れない。しかし、早稲田におけ る学生運動をさかのぼるなら、規模こそ小さいが、その第一頁を飾るのにふさわしい二つ の事件が、すでに明治時代に存在したことを知ることができる。一つは明治三七年(一九 〇四年)の、日露反戦運動であり、一つは明治四〇年(一九〇七年)早稲田に在学中の韓 国留学生が残した民族的抵抗の一こま、いわゆる擬国会事件であつた。 ◆日露反戦運動 その頃の事情に少し触れねばならない。明治政府の帝国主義政策は、当時の社会主義者 たちのはげしい非戦論を押し切つて、明治三七年二月八日の軍事行動をもつて日露戦争を 開始するにいたつた。当時万朝報に拠つていた幸徳秋水、堺利彦などは、万朝報が主戦論 に転向したのち、平民新聞を発刊し、自由、平等、博愛のスローガンの下に一そうはげし い反戦運動を展開した。このほか、安部磯雄、木下尚江、石川三四郎、西川光次郎などは 政府の弾圧にもかかわらず、演説会を開き、パンフレツトを発行するなど、最も勇敢に政 府の対外侵略の陰謀を曝露し、反軍国主義をたたかつていた。三月には、平民新聞が「露 国社会党に与う書」をのせて、日本とロシヤの労働者が、ともに戦争に反対するよう呼び かけた。八月には、片山潜がアムステルダム世界労働者大会で、ロシヤ社会民主党のプレ ハーノフと握手して戦争反対を決議した。早稲田における反戦運動は、このような事情の 中で起り「早稲田における社会主義思想」という見出しで平民新聞が事件を報道した。 当時早稲田には社会学会という組織があり、社会主義研究を会の内容としていた。会員 は八十名をこえていた。日露戦争がはじまると、当時の大学当局は、戦争遂行に好意的態 度を示し、学生から恤兵金(戦争寄附金)を徴収しようとした。社会学会の会員は、一部 支配階級の利益のための戦争に反対し、大学当局の強制寄附を拒絶した。平民新聞は、事 件のもようを報じた後に、早稲田における、この先進的な反戦運動を高く評価し、「吾人 は斯くの如き機運が漸く他の諸学校の中に生じ、終に一般少年の脳中に波及するは決して 遠き未来にあらずと信ず」と結んでいる。平民新聞のこの予言の正しさは、その後の歴史 が証明している。 日露戦争は、文学史の上でも木下尚江の反戦小説「火の柱」や、与謝野晶子の「あゝ弟 よ君を泣く、君死に給ふことなかれ」の、清らかな反戦詩を生み出したが、日本学生運動 史にさきがけて起つた早稲田の反戦的伝統は、その後の日本抵抗史の内容をさし示す道標 の一つとして記憶されねばならない。 ◆擬国会事件 日本が韓国を併合したのが明治四三年であるから、この事件当時韓国はまだ独立国であ つた。 早稲田では、かねてから、時おり擬国会を開き、政治学の実際的知識の習得、政治家と の交流を図つていたが、明治四〇年(一九〇七年)三月二五日に開かれた擬国会で、急進 党の田淵豊吉ほか数名が、非常識にも「韓国を日本の属国とし、韓国王を日本の華族とす る」むねの建議案なるものを提出したことから事件がはじまる。 当時早稲田に在学していた韓国留学生十七名は「韓国人を侮辱するものである」として 激昂し、即時退校した。さらに檄文を配布したので東京に留学中の全韓国学生が起ち上り、 二九日朝にいたり、約百五十名の韓国学生が、建議案の撤回、および建議者の退校を要求 して早稲田大学にデモ行進を行い、幹事に面会を迫つた。東京の全留学生の総退校をも辞 せずとする、この抗議運動は、当時すでに進められていた韓国の侵略と植民地化に対する、 韓国学生の誇り高い抵抗の姿であつた。 ◆伝統の確立(大正から昭和へ) 大正の初期に、世界史の転換を意味する二大事件が起つていた。大正三年(一九一四年 )にはじまる第一次世界大戦と、大正六年(一九一七年)のロシヤ革命がそれである。こ れらの経済的基礎は、世界資本主義の発展段階を分析することに求めねばならない。が、 ちようどその頃、日本史も大きく揺れ動いていることに気がつく。 第一次世界大戦の利益によって、量的にも質的にも飛躍的発展を示した日本資本主義が、 日本の労働者階級に何をもたらしたかは、大戦後のインフレと経済恐慌の深刻な破壊作用 の中で、労働争議が、おびただしく激発したことで説明される。のみならず大正七年には 富山県の漁民主婦の蜂起にはじまる米騒動が、たちまち日本全国に拡大し、その鎮圧のた めに、各所で軍隊が出動して死傷者を出し、兵士の中には民衆の蜂起を指導する者すら出 た。 米騒動は、寺内軍閥内閣を打倒してしまつた。このように、日本の民衆の自然発生的な 社会運動は、明治末の「冬の時代」から雪解けの激流のように渦巻いて流れ出ていつた。 他方、大山郁夫、吉野作造、北沢新次郎、長谷川如是閑などのデモクラシー運動、賀川豊 彦、高野岩三郎などの悪法撤癈運動、尾崎行雄、島田三郎などの普選運動等々、多種多様 な民主的自由獲得運動が、大衆的支持をえて国内を風靡していた。 大正五年、当時十八才の中条(宮本)百合子が「貧しき人々の群」(原題「農民」)を 書いて注目をあびた。農村の悲惨な生活をえがき、最後に「私の手は空つぽである。…… けれども、どうぞ憎まないでおくれ。私は今に何か捕える。どんなに小さいものでもお互 いに喜ぶことのできるものを見つける。どうぞそれまで待つておくれ。達者で働いておく れ! 私の悲しい親友よ!」と書いた百合子のヒューマニテイは、当時の青年たちの、け がれない心の底を流れる、真実への慾求をそのままあらわしていた。日本の学生運動は、 大正初期の、このような社会情勢の中で開花した。 早稲田の学生運動もまた、大正六年(一九一七年)の早稲田騒動にはじまり、大正一二 年(一九二三年)の軍研事件、大学擁護運動を頂点とし、昭和七年(一九三二年)のアー ト・オリンピアード事件にいたる十五年間に、一つの時期を劃している。この一五年間を つらぬく事件の連続の中に、戦後早稲田の学生運動が継承し、発展させねばならない、輝 かしい伝統の数々――反戦的伝統。先進的学問の創造。学問の自由擁護等々――を見出す ことができる。 ちょうどこの時期は、大正九年(一九二〇年)と昭和四年(一九二九年)の、二度の一 般的過剰生産恐慌をはさんだ、日本資本主義の矛盾の慢性的爆発期に当つており、日本の 支配階級が脱出口を対外侵略による軍拡経済=満州事変以後に求めてゆく過程に当つてい る。労働運動、農民運動も、かつてない深刻な労働者、農民貧困化をふまえた労働争議、 小作争議の連続線を形成している。思想史上での特徴は、日本における科学的社会主義の 発生、成長期であり、資本論が翻訳され、日本資本主義発達史講座が発刊されたことであ る。他面、この時期は新たな様相の日本知識人抵抗史を形成している。 文学史では、明治四三年(一九一〇年)にはじまる「白樺」派の文学運動から、大正一 〇年(一九二一年)の「種蒔く人」にはじまるプロレタリヤ文学運動をつなぐ転換期を劃 しており、大正十三年有島武郎、昭和二年芥川龍之介と二人の作家の自殺が、二様の波紋 を投げかけた。と同時に、評論家としての蔵原惟人、宮本顕治と、作家としての小林多喜 二の「蟹工船」、「不在地主」、藤森成吉の「何が彼女をさうさせたか」(戯曲)、中野 重治の「雨の降る品川駅」(詩)、徳永直の「太陽のない街」、宮本百合子の「一本の花 」、窪川(佐多)いね子の「キヤラメル工場から」などが出現した。 見落せないのは、島崎藤村の「夜明け前」、山本有三の「風」、「波」、「女の一生」、 広津和郎の「女給」などであり、武田麟太郎、高見順などのヒユーマニズムへの傾斜であ る。 だから、こうした時期の早稲田の学生の、一挙一動すらが、現代に生きる学生にとつて、 なみなみならぬ課題をもたらしているといえる。いま、この時期の大きな事件にだけ触れ てゆく。 |
早大時代の戒能先生の思い出 藤本 正利 先生との最初の出合いは、一九四八年に発刊された労農法制研究会編・平野義太郎監修 『労農問題法律全書(農村編)』に先生が執筆された「山林」である。それは、農民の権 利と生活をまもる立場から、日本の山林の歴史としくみを法制的に解明した説得力のある ものであった。この論文を契機に『入会の研究』『法律社会学の諸問題』などに刺激され て先生の著作や論文を読むようになった。 先生の講義をうけるようになったのは、その後のことで、直接の指導をうけるようにな ったのは、大学院で(五二年)先生の民法一部を専攻してからである。それから先生が逝 去されるまでかわらぬ指導とあたたかい激励と親身な援助をいただいた。先生の逝去は、 まことに痛恨のきわみであったが、先生の卓越したゆたかな学識と徹底したヒューマニズ ム精神、その廉潔な人となり、不正義へのはげしい怒りと、それに立ち向う果敢な闘志な どにいまなお教えられ、鼓舞されている。 学部のころの先生の講義は、あの特徴のある早い口調で、該博な知識を駆使したユニー クなものであった。民法が人権、自由、国家、革命論になったり、西洋やアジア論になっ たりもした。 専門知識の修得については、「法学を弁解のための技術たらしめず論証のための技術た らしめよう。それは人間を幸福たらしめる手段であるが、同時に人間の幸福の増加ととも に進歩する技術である」とか、「法学部を卒業したと自信をもっていえるだけの日常問題 を具体的に解決できる能力を身につける必要がある」などとのべ、そのためには、「法律 的な文章能力」に熟達することが不可欠であることを強調されていた。すぐれた法律的文 章の模範として末弘巌太郎『物権法』、鳩山秀夫『日本債券法(総論)』などが紹介され た。また法律書とはことなるが河上肇の『自叙伝』なども推奨されていた。こうした文章 に練達する事例として、末弘博士が『法律時報』の巻頭言をいかに推敲したかの教訓につ いて話されていた。 当時の先生の精力的な研究と創造活動の内容は、講義のなかに不断にもりこまれ、そこ で提起される新しい問題や古今東西にわたる蘊蓄や諸文献の紹介に触発され、あらゆる人 類の英知を正しく継承し発展する科学的社会主義の神髄をいかに学ぶかを教わったように おもう。 大学院での先生の指導はきびしく徹底したものであった。科学としての民衆の法学を志 して進学した当時の私の学習内容は、いまにしていかに教条的で浅薄なものであったかは 赤面のいたりであったが、その頃は、社会運動にも積極的に参加し、問題意識を明確にし てかなり学習していたとおもっていた。その浅薄さを事実にそくして指摘してくださった のが戒能先生であり、その後担任になられた野村先生であった。これは社会科学を学ぶう えで、いまなおはかりしれない教訓となっている。 先生の指導方法の具体例を一、二思い出のままにあげよう。 先生の民法は、イェーリング『日常生活と法律』(英文版)がテキストであった。これ を訳して、そのなかの質問に法律的に解答するというもので、この解答を一定の原稿枚数 にまとめて先生に提出すると、その場で先生が通読して指名されたものが教壇に立って講 義をし、それをみんなでディスカッションするというものであった。また法社会学のテキ ストは、エールリヒ『法社会学の基礎理論』であった。指定されたページ数を訳して、そ の内容の紹介と論評をしたものを一定の原稿枚数にまとめて提出し、各人が音読し、その 内容をめぐって討論するというものであった。このテキストが指定されたとき、私は英語 ・仏語・露語・中国語は学習していたが、ドイツ語はほとんどやっていなかったので、そ の旨を先生に話すと言下に「ドイツ語は一週間学習すればできる」と叱られた。冷静に考 えれば叱られるのが道理で、にわかにドイツ語を学習し、辞書と首っ引きで原書を読むが、 それでも大要をつかむことが大変で、英文に翻訳されたものを参考にして授業についてい った苦い思い出は消えさるものではない。またエールリヒの原書にはギリシャ・ラテン語 の駐解も多くギリシャ・ラテン語の学習にも必死であった。しかし、そのなかでの先生の 話はいつも具体的で、歴史上の背景や人物論になると物語的な明快さがあった。 法社会学の授業は、当初、他の研究科や他大学からの聴講などもあって教室が一杯にな ったが、先生の授業に対する峻厳さから、残ったのは島田、畑、佐藤、中山(いずれも現 早大教授)、芦川(現愛知学院大教授)の諸氏と私だけになった。 先生は五三年「早稲田の学生は不勉強である。私は日経連の迎合教授になりたくない」 と早稲田を去ることを言明された。先生からみるわれわれの不勉強は痛感していたが、そ れが理由になるとは心外におもった。ただちに先生のひきつづく指導をお願いしたが、決 意は堅かった。 当時、私は大学院自治会の委員長と図書委員会の委員長に選出され、研究条件の充実と 名実ともすぐれた民主的な大学をめざして、それなりに一生懸命であった。先生の留任運 動を提起し、当時法学部研究科委員長であった和田先生と接渉した。和田先生は「学内の 事情もあるので、運動をしても駄目だろう」ということであった。戒能先生の言明には学 生の反発もあり、留任運動は全学的な運動へとは発展しなかった。しかし、今日の早稲田 には、先生たちが築いた民主主義法学の伝統は着実に発展している。そのいっそうの前進 を心から期待するものである。 (抄) |
■ 増山太助メモ(早大を中心に) |
一、四六年の五月二十六日に「学生メーデー」(滝川事件の記念日)がおこなわれた。第 一回の「学生メーデー」は三八年に京都で開催され、私が集会の責任者、司会の役をつとめた関係で、この会に出席して、京大出身の姉歯仁郎と二人で『学生評論』発行権の贈呈をおこなった。つまり、『学生評論』を学生運動の機関誌にして各大学・高専に学生自治
会を確立するよう訴えた。 二、姉歯仁郎は早大出の姉歯三郎の兄であるから、この会には兄弟揃って出席していたが、 この当時早大に社研があったのか、その代表が出席していたのかどうか、私にはわからなかった。 三、「学生メーデー」の主催は学生社研であり、『学生評論』は東大社研の代表井出洋に贈呈し、発行は学生書房が引き受けた関係で、この雑誌の内容は学生運動の機関誌というより、学生社研の機関誌になってしまったきらいがあった。 四、早大は五月三十一日の学生大会で「学生自治会規定」を可決、学校当局もこれを承認して、自治会が確立された。そして、早大自治会を中心に自治会の連絡会を組織すること になり、七月十九日、全国大学高専学生連合会関東支部の結成大会がひらかれた。参加校は四〇校。 五、この組織が中心になって、十一月十日に全国学生自治会連合に改組され、書記局が早大内におかれた。しかし、この全学連は私学中心のものであった。 六、たしか十月頃、労働委員会で活躍していた東大教授末弘巌太郎の公職追放問題がおこり、東大共青、東大社研を中心とする東大社会主義学生同盟が中心になって反対運動がお きた。しかし、余り力がなかった。(末弘博士は五一年に死んだが、六・三制反対闘争の とき、私の母校成城で私が同窓代表、先生が父兄代表で財団とたたかった。先生は開成中 学の先輩でもあった) 七、東大に全学自治会が成立したのは四七年の一月で、「二・一ゼネスト」の前日に皇居前広場で大会を持ちデモをおこなったのは、たしか前記の全学連関東であったように思う。つまり私学が中心。 八、そして「二・一ゼネスト」挫折後の二月十六日に東大で第一回全国国立大学学生会議 がひらかれ、「全国国立大学学生自治会連盟」の結成が決議された。 九、私は四月におこなわれた戦後第一回の統一選挙に文京区長候補として立候補させられ たが、選挙運動を支えてくれたのは社・共支持者を含む東大自治会の連中であり、東大細胞は弱かった。 一〇、たしか五月頃、早大の藤間生大、山村房次両講師の授業にたいする干渉があり、当時、文連にいた私は民科やソ研に働きかけて抗議運動を組織したことがあった。このとき 早稲田の学生の中心は誰だったか記憶がない。かなりたたかってくれたように記憶している。 一一、全国国立大学学生会議の第二回集会は六月二十一、二十二日の両日京大でおこなわれ、第三回も十一月十九日~二十二日まで京大で開催された。そして、このとき「全国の学生自治組織の強化、統一に努め、以て学生生活の確保と安定、学問の民主化に資す」、「 国立大学中心の見地に立つものでなく、国公私一体となった全国学生自治会連盟に向かってすすむ」ことになった。 一二、しかし、十二月に東大新人会の渡辺恒雄と中村正夫が「主体性論」のかどで党を除名され、東大細胞の再建は武井昭夫らが中心になり、「東大中心の全学連」の傾向が強ま った。 一三、私はこの頃、全国オルグとして大阪にいたが、共青は吉田四郎、学生は力石定一が 関西の指導に当っていた。東大力石の権威は相当なもので、志田重男の評価も高かった。 一四、四八年の四月から新制高校、四九年から新制大学が発足することになり、国立大学の授業料三倍値上げや私学の授業料二倍値上げなどが発表され、これに反対する闘争がおきた。いわゆる「教育復興闘争」が盛りあがった。 一五、そして六月一日「教育復興学生けっき大会」が日比谷公園小音楽堂でひらかれ、一〇〇校近い代表五、〇〇〇名の学生が結集した。さらに六月十五、十六日の両日全国国立 大学自治会連合は総会をひらき「全国官公立大学高専自治会連盟」の結成を採択、二十三、 二十五、二十六日にわたる全国ストライキの決行を決定した。 一六、六月十七日、日教組を中心に「中央教育復興会議」が組織され、教育民主化協会の菅忠道が事務局長に就任し、全国ストとともに各地から「教育復興」のけっき大会がひら かれた。(菅は中央文化部員) 一七、こうしたたたかいのなかで九月十八~二十日の三日間全日本自治会総連合(全学連 )の結成大会がひらかれ、東大の武井昭夫が中央執行委員長、早大の高橋佐介が副委員長、 東大の高橋英典が書記長という全国公私立一四五校、三〇万学生の統一体が成立した。早大を中心とする全国大学高専学生連合会は全学連に吸収され、全学連の本部は東大内におかれることになった。これ以来東大主導が強くなった。 一八、文部省は十月八日次官名で「学生の政治運動について」という通達を発し、教育復興闘争と文部省次官通牒反対闘争は大きく盛り上った。そして、これに大学法案反対闘争 が結合し、闘争は複雑化し、下部の矛盾が露呈されることになった。党組織の問題として も、学校の職員細胞、教師の細胞、それと学生のフラクション活動の統一的な運営が困難になっていった。 一九、とくに「私学連」の発生と全学連内の「私学協議会」の問題について総括を深める 必要があるのではないか、また、私は六月二十三、二十四、二十五日のストライキを現地 でみているが、京大は文学部しかストに入れず、学内の弱体化が目立った。その原因は何 か。 二〇、私は四八年の暮れに関西から帰り、四九年一月の二四回総選挙の選対部員、選挙動 員本部の責任者になって、三五人当選を果した。 二一、まだ選挙中の一月十三日に共産党の中央委員会が主催して青共、民学同、全民青の統一懇談会がひらかれ、青年組織の統一論がさかんになった。山中明の「戦後学生運動史 」によると、この統一論は「社共合同論」に基づくものだとされているが、その真偽はわからない。ただ、当時の学生運動は宮本顕治が指導しており、全学連は一月十五日の中執で「われわれはこれら一切の大合同を支持する」という声明を出しているから、おそらく この時点では党の意見は一致していたのであろう。 二二、選挙の直後、二月五日に一四回中央委員会総会がおこなわれたが、その直後に私は 書記局事務になり、婦人部と青年学生対策を担当することになった。そのいきさつを少し 詳細に述べておく。 1 最初西沢隆二からいわれたときは書記局員であったが、宮本から反論が出て、「書記局員は中央委員でなければダメだ」ということになって書記局事務という名称になった。 2 それまで青年対策は西沢隆二、学生対策は宮本顕治が担当していたが、これを一本化して青年学生対策部にし、部長には紺野与次郎が就任する。私が書記局事務としてこれを補佐するというややっこしい体制になった。ややっこしい―― 3 というのは、これ以後も宮本は政治局員として学生運動の指導に当り、西沢も統制委員として書記局協力者をつづけ、青年運動の指導に当るということであったから、実際 問題として宮本、西沢二人の意見を無視してはことを運べなかった。 4 参考までに当時の部員を紹介しておくと、青年対策は小出孝(青共の委員長で対策 部員であった御田秀一は失言問題で部員をやめさせられた)。学生対策は山田昭(東大)、 石田疆(京大)、両名とも東大、京大細胞からの推せんによるものだときかされていた。 二三、四月の上旬に、政治局員、書記局員であった志田重男が中央に常駐することになり、 これに代わって長谷川浩が関西にいくことになり、長谷川の下で労対部員であった保坂浩明が東北へいき、東北の議長であった春日庄次郎が労対部長に就任した。これは大移動で、 実質的に志田が副書記長格に昇格したことを意味した。そして、組織活動指導部長になり、 青年学生対策部も彼が指導することになった。集団指導がうまくいっているときなら、宮本、西沢、紺野に志田が加わればよりよくなるわけだが、この体制が逆に混乱を増すこと になった。 二四、これより先、二月四・五・六の三日間全学連の第一回大会がひらかれ、「闘争の成果と自己批判」がおこなわれた。そのなかで「政治性の欠除」が指摘され、「弾圧反対、 大学法反対闘争が総選挙と結びつかなかった」こと、「今後、民自党を中心とするファシ ストの攻撃の一環として教育植民地化を考慮にいれてたたかいをすすめる」ことになった。そして、六月二十三、二十四日の両日、名古屋でおこなわれた第四回中央委員会で「転換点に立つ学生運動」という視点が打ち出されるまでの闘争が展開された。 |
二五、労働組合など全国組織の運動方針を打ち出すときにはフラクション会議が持たれ、党中央の担当者も参加して方針をまとめることになっていたが、学生運動の場合は全学連中央を党員が独占していたためか、そのような運営ではなく、部員の山田や石田が連絡に
当り、決定された方針について党が意見を出すやり方になっていた。だから、「教育植民地化」というとらえ方など、これで十分だったのか、学内の民主化、学生自治の確立にたいする努力がなおざりになったのではないかなど、もう一度総括してみる必要があるので
はないだろうか。 二六、「五・三〇」闘争に参加した都学連は早大、中大、商大、専大、日大など私学が中 心で、早大が一番犠牲者を出したが、東大など官学をなぜ動員しなかったのか、これも検討してみる必要がある。 二七、六月以降、「ドッジライン」など闘争は激化し、フレームアップも続発したが、全学連は全国一斉スト一本槍のように思えた。もっといえば、この時期の全学連の闘争とこれにたいする党の指導の対立、党中央は「平和革命論」「地域人民闘争」によって全学連の統一ストを敗北させたというようなこれまでの総括をもっと深める必要があると思う。とくに、五〇年に入ると「コミンフォルム論評」によって党は分裂状態におち入り、「国際派」「主流派」という対立の観点からそれ以前の学生運動をみる傾向が強くなり、全学連全盛時代のたたかいの教訓を本当の意味で引き出していないように思われる。 二八、私はこの間の指導のなかで、それぞれの学校の特殊性を生かした統一活動を主張した。あまりにもちがいがある学校の実情を無視した上からの画一的な戦術の押しつけに反対したが、これは「地域人民闘争」論だといわれて反対された。しかし、中央としては学校の所在地の党組織に学内でのたたかう体制を論ずるための指導を要求し、あわせて大衆 団体としての全学連の自主性をそこなわないように注意した記憶が残っている。 二九、「五〇年分裂」下の学生運動は政治主義に走って「国際派」支持を強めていった。 大学細胞の解散などの処分は統制委員会が決定したものだが、学生運動や教育闘争を放棄 して党内分裂を促進する活動に歯どめをかけようとしたのだと思う。学対としては細胞解散に反対したが、問題の本質は論評の内容を全党的に討議することにあったと思う。 三〇、このとき私は早大にいって松尾隆教授の意見をきいたことがあったが、彼は「宮本擁立」、「まず党再建する」ことを主張、綱領討議には反対であった。 三一、これに対し、細川嘉六といっしょに東大の南原総長をたずねたとき、先生は「論評を無批判に受け入れることは反対」し、「党内で討論する体制をつくるべきだ」という意見であった。 三二、「六・六追放」のとき、私は本部から関東地方委員会に移っていたが、その直後に 学生運動の中心的な活動家の除名処分がおこなわれた。私は驚いて統制委員会にとんでいって、理由をきくと、山辺健太郎は「これらの人たちは党内に分派組織をつくろうとしている」という除名理由を説明してくれた。「なんとしても学生と分派主義者を切りはなさ なければ、党の分裂は拡大する」という考えを強調していた。(「スパイ・トロツキスト の除名」といわれている) 参考までにこのときの除名者を付記すると総数三三名、東大一二名、早大一〇名、中大 六名、工大五名、その他五名であるが、私はこのとき彼らは「分裂問題」をどう考えてい たのか、その真意をききたい。(上申書があるのかどうか) 〈東大〉東大学生細胞指導部、戸塚秀夫、高沢寅男、安東仁兵衛(文京地区委員)、木村 勝造、林重太、学生評論班、力石定一、沖浦和光 全学連書記局細胞、武井昭夫、熊倉啓安、富塚文太郎、都学連書記局細胞、家坂哲男、横瀬郁夫 〈早大〉早大第一細胞指導部、本間栄二、坂本尚、猿渡新作、大金久展、今井哲夫、西山 一郎 全学連書記局細胞、七俵博都学連書記局細胞、水野邦夫その他、鈴木雄、堀越稔 〈中大〉中大学生細胞/盛田勇之進、清水伸夫、坂井一郎、加瀬仁三、亀田虎雄、平松昭 二 〈工大〉工大学生細胞、渡辺昇、大沼正則、杉浦俊夫、今井元、本間正雄 〈商大〉都学連書記局細胞 手島三郎 〈法大〉法大学生細胞/長徳連、遠藤茂、嵐呂昭 〈教大〉教大学生細胞 飯島侑 (著者は社会運動研究家) |
■ ビラ資料 『逃げそこねた田中警部補との一問一答』 二十九日の緊急政経学部学生大会を私服で盗聴せんとした、悪名高き田中警部補(戸塚署)は学生に発見せられ逃走を企てたが、捕えられ、止むなく学生大会席上にて、次の如 き一問一答を行い、全学生の憤激と嘲笑をかつた。 問、どういう目的で来たか? 答、学生がスクラムを組んで東大へ行くということを交番で聞いたからだ。 問、誰の許可を得てここえ来たか? 答、学生々活課で許しを得たが、教室へ入る許可は得なかつた。誰でも通る所(廊下)を 偶然にブラブラしていたら、学生にひき込まれたのだ。 問、あなたは日本人として、このレツドパージをどう思うか? 答、私は警察官であり上司の命令を執行するだけだから…… 問、昨日学園に乱入した理由如何、又学校に依頼されてやつたのか? 答、いや、学校に依頼されたのではない。昨日は他の学生が来たので一般の集会とみなし、 都條令によりやつて来たのだ。他校の生徒がやつて来てさわぐのは極めてよくない事であ る。 問、先程あなたは偶然こゝへ来たと云つたが之は許可なく来たのであり、明らかに目的意識的であり不法である。従つて謝罪を要求する。 答、確かにその点はみとめる。しかし不法ではなく極めて妥当を欠いたものである。 議場騒然。田中警部補悄然と頭を垂れて立去つた。 早大反戦学生同盟政経班 |
■ ビラ資料『酒の店〃自由学校〃生徒募集』 智に仂けば角がたつ、情に棹さしや流される。 自由を求めて家を出た五百助は駒子の下へ! だが五百助の自由は果して僕らの求める自由だろうか? 自由の早稲田の傳統を発展的に受け継いで、今回、新宿、武蔵野館裏マーケツト内に、 酒の店〃自由学校〃が被処分学生有志の手によつて創立された。 若い世代の五百助、駒子よ、大いに飲み、楽しく語り、たくましく手をくんで〃自由学 校〃に通おう。 *本学は男女共学です。二階に六疊の部屋があります。少なくともお茶の水橋下よりも立派な部屋です。コンパ其の他に、どうか自由に利用して下さい。 なお、本学は無試験入学ですが、不都合の行為ありたる場合は、学則により除籍処分に致します。 酒の店〃自由学校〃理事 レッドパージ反対斗爭被処分学生有志 |
■ 早稲田大学経済史学会・小史 田村 順之助 「早稲田大学経済史学会』は、昭和九年五月、故平沼淑郎商学部教授を会長に戴いて入 交好脩教授が創立せられました。戦前の研究活動は、昭和七年より八年にわたり日本資本主義発達史講座が刊行され、論壇で講座派対労農派の論争が賑わいました。このなかで編成された山田盛太郎「日本資本 主義分析」および平野義太郎「日本資本主義社会の機構」の両書を、研究会のテキストと して用いております。つづいて大塚久雄教授を中心とする「比較経済史」へ焦点がうつり、 共同体の理論が研究会のテーマになりました。会の調査活動は、昭和十五年の「東北地方の名子制度」および十六年七月の「信州伊那 の御館・被官制度」の史料調査がおこなわれました。このなかで機関誌「経済史学」は、昭和十年四月発刊し昭和十四年第五号にて、前年八 月急逝された平沼淑郎博士のための「追悼記念号」を最後に休刊を余儀なくされました。なかでもグレイ、コスミンスキー、ポスタン等の論文を「英吉利経済史研究資料」(第一号および二号)として原文をつけ編集し当時の研究者から高い評価を受けております。しかし太平洋戦争の進展は、昭和十八年秋にいたって会員のすべてを「学徒応召」の名のもとに、各地の戦線に動員されるにおよんで休会することになりました。休会中の昭和二十年五月には、商学部の戦災により部室も罹災し、その史料と蔵書は消失してしまいま した。この頃、商学部助手、姉歯三郎、リーダーとみられた寺尾五郎など多くの会員を含む合計十数人の校友が、平和運動の罪によって検挙されています。(略) 戦後の経済史学会は、唯物史観の啓蒙と普及に努め、新制大学の移行にともない、多くの会員を迎えました。また専門分野については、大学院におけるゼミナールで研究するという分化が計られています。新制大学が定着した昭和二十七年頃は、激しい政治の季節が学園の内外とも吹き荒れま した。 昭和二十七年の四月、史学会は新しい再出発にあたり「明治維新をめぐる諸問題」と称する講演を大隈講堂で満員の聴衆を迎え、「学問の独立と研究の自由」という大きな横幕 を掲げ開催しました。講師は、井上清、服部之総、小林良正、平野義太郎の諸先生を招聘し、その内容は、昭和二十八年五月の「経済史学」(第六号復刊第一号)に収録されております。同月の入交教授担当「経済史」講座は、商学部五階大教室において始まりました。例年どおり唯物史観の公理から、ヨーロッパ封建社会の資本主義移行を俯瞰し、やや早めに進んだようです。締めくくりは、歌人与謝野晶子が日中戦争期には戦争を賛美したものの、若き歳の日露 戦争期には、反戦を作詞したとコメントのうえ「君死にたもうことなかれ」の朗読がつづ きました。暖簾のかげに伏して泣く あえにわかき新妻を 君わするるや 思えるや 十月も添わでわかれたる 少女ごころを思いみよ この世ひとりの君ならで ああ また誰をたのむべき 君死にたもうことなかれ 当時の早大は門がとじられることがなかったと同じように、数百人も収容された大教室は他学部から聴講にきた女子学生の啜り泣く声にみたされ、その声を後に先生は静かに教壇を去りました。五月のメーデーには、史学会会員多数が参加し、いわゆる「血のメーデー」において催涙弾を浴びました。連休明けの学園は、私服警官の立ち入りに抗議し座り込む無抵抗の校友に対し、機動隊 が警棒で襲いかかった「早大事件」がおこっております。夏休みを利用したフィールドワークは、戦前おもむいた信州伊那が再び取りあげられま した。この調査報告は、前記「経済史学」第六号に「信州伊那に於ける『貨幣経済』の進 展と『農民一揆』の問題」と題して記載されております。昭和二十八年の夏期休暇には、桐生・足利史料調査が実施され、十一月刊行の「経済史学」第七号に報告書が纏められました。私が経済史学会に在会した、後半の出来事は以上のとおりです。 |
――五十一年から五十三年の回想記―― 千原 靖雄 一九五一年度から一九五三年度までの三年間の学生運動は朝鮮戦争を抜きにしては、語 れない。この時期早稲田を含めた全国の学生運動は尖鋭化し、街頭化し、その中で中心的 活動家達は次第に孤立を深めていった。この間早稲田の諸闘争の渦中にあった私の記憶を 断片的に以下に整理してみた。 □ 日本で最大の学生細胞 敗戦直後の早大細胞は教授も含め、五〇〇名に達していたと先輩から聞いていた。その 後激しい路線闘争や分裂があり、その勢力は後退し、私の時代には一五〇名前後となって いた。それでも当時党員一五〇名を擁する学生細胞は他になかったろう。後退したとはい えまだまだ力をもっていたのである。 当時の党員の分布は一文が五〇名前後、一政三〇名前後でこれを別格として、他の学部 にも満遍なく数名から一〇名前後おり、一番少なかったのは二理の一名というところであ った。さらに生協、厚生会にも党員がいて、中心的グループとして運営をリードしていた。 また研究会―社研、歴研、ソ研、中研、朝文研、民科、婦研、現潮、法社研等にはそれぞ れ強力なグループが存在していた。 党のまわりには大衆団体としての民青や、多くのシンパがおり、有力な協力者層をなし ていた。因みに当時の機関紙〃真理〃の発行部数は三〇〇部であった。 当時はデモばやりで、よくデモの動員をかけたが、党員やシンパだけに通用するスロー ガンのときは一〇〇人から三〇〇人だったところをみると、これが当時の党の主体的力だ ったのだろう。都内では早稲田に次ぐ勢力は東大だが、それでも最大限動員しても到底一 〇〇人には達しなかった筈である。 都学連主催の大会などでは、いつでも動員の主力は早稲田であり、もっとも頼られる存 在であった。このような早大細胞の「財産」をわれわれは「とう尽」こそしなかったが、 かなり「目減り」させてしまったことは残念であった。 □ 路線問題の終息 五一年に入学したわれわれは、もちろんその前年の有名な〃一〇月闘争〃も体験してい ない。またそれまで続いていた激しい路線闘争の生々しい経過も先輩から聞くだけであっ た。土本氏が語っているように、五一年を境に党員のタイプにおいて大きく変わってしま ったようである。言いたいことを目一杯主張し、論議し、アジるという自由な学生運動の 雰囲気から一転し、党の方針を黙々と実践するストイックなタイプが主流となっていった のである。 本来、早稲田のカラーとしては「われこそは」という個性派が多いので、自由な雰囲気 が似つかわしいのであるが、やはり当時の緊迫した情勢のなかでは、「組織優先」が避け られなかったのかもしれない。 しかし、当時の反米、反封建の武装闘争方針はやはり、無理があったと見なければなら ない。五三年四月関東地方委員会から派遣され、甲府近郊の農村に二か月滞在した。この 地方は小作争議の盛んなところであったが、戦後の農地改革で皆結構な土地をもつ自作農 となった。つまり平地に関するかぎり地主はいなくなってしまったのである。会議の席上 このことを報告したところ、同席した上級機関のものから、はげしく叱られてしまった。 ガリレオではないが、「それでも地主はいないぞ」と大不満であった。敵アメリカを攻 撃するあまり、日本の自立性を過小評価していたのも、当時大いに気になったところであ る。当時の中央の情勢分析は少しずつほころびていたのである。 ともあれ、国際派は当時の主流派に屈伏し、路線闘争は終息し、強引ではあったが党の 統一は実現した。たまたま五一年十一月に開かれた都学連大会で傍聴席から怒号する全学 連中執の安東(仁)氏、これに対抗する主流派の面々、そして全学連中執不信任決議の採 択という歴史的場面に私は立ち会ったわけであるが、これが路線闘争の最も激しい現場を 見た最初であり最後であった。 |
□ 「八面六臂」の活躍 当時の活動範囲は学内活動にとどまらなかった。「労学提携」のスローガンの下、新宿 区内にある「経営」に対する工作も活動の一つであった。大日本印刷、国鉄などがその対 象であった。工作とはいうものの実態はビラマキであった。しかし当時は道交法違反で逮 捕されるおそれもあり、結構緊張したものであった。非合法のビラをまくときは、見張り をたてるなどして、用心したものだった。 三越の争議のときは、はなやかな女性店員がピケをはっているということで、このとき ばかりはみんな張り切って応援に駆けつけたものである。 その他、基地反対闘争も早稲田が力を入れた分野である。「基地対」は当時闘争が行わ れていた内灘や砂川にゆき、応援活動を行っていた。 学内では学生の要求をとりあげ、これを学校当局にぶつけるという、「日常活動」を展 開していたが、あまり成果はあがらなかった。唯一成功したのはスクール・バス値上げ反 対闘争ぐらいのものだった。それでも考えつくかぎりの不満、要求に、総長退陣などを加 え箇条書きにし、「早大解放綱領」と銘打ってガリ版できって配布したものである。総選 挙対策の一環であったが、選挙での党の当選者はたったの一名であった。もっとも当時は あまり合法舞台を重視していなかったので、それほど悲観もしなかったが。 当時の党は街頭闘争重視に傾いていたこともあり、いろいろなカンパニアのプランが立 てられていた。しかしこれに対応できるのは学生、全日自労、在日朝鮮人団体であった。 とくに拠点校としての早稲田にかかる期待は大きかった。カンパニアが近づくと、地区の 同志が現れ、動員の依頼にきたものである。この時ばかりは地区も低姿勢で、まったくの 「お願いベース」であった。しかしこの街頭主義が細胞の体力を著しく消耗させてしまっ たことは事実である。 早稲田からデモが出発するとき、「国際学連の歌」かインターを唱いながらでるときは その人数はせいぜい四~五〇〇名どまりで、「都の西北」のときは一〇〇〇人以上の参加 者があった。だから「都の西北」のときは「やったぞ」という感じであった。もっとも早 稲田の学生は物見高いので、人数が少ないときは、学内を二~三回デモがまわると段々人 数がふくれあがるという面白い現象があった。 一方、この間地道な活動を続けていたのは、生協や研究会の活動家であった。のちに早 稲田からは多くの生協活動家が生まれ、生協幹部も輩出したが、この時期の活動家が多か ったのではないか。研究会活動に専心していた活動家も多くいたが、その後それらの人達 はその道の専門家として研究成果をあげているようである。 □ Yのこと 党が軍事方針にそって動きだしたとき、早稲田でも「一に忠誠、二に体力、三、四がな くて、五に度胸」という資質をもったものがリクルートされ、Yに編成された。結成時の 荻窪会談では、上部機関のものより「これからは目的のためには手段を選ばず、火付け、 強盗、なんでもやる覚悟でのぞめ」と訓示された。「これはえらいことになったぞ」と集 められた一同は思ったに違いない。同時期早稲田以外にも東大、一橋大、明治、お茶の水 大などにもつくられ、それぞれ目標が与えられたが、早稲田は市ヶ谷総司令部ときまった。 この攻撃はメモリアル・デーで休みになる日を選び、五・三〇記念に決行される新宿の集 会に対する陽動作戦として実行された。(由井説六・二五は誤りか)この〃快挙〃は上部 も高く評価し、「論功行賞」として三八銃一丁が「下賜」されるということであったが、 これは空手形におわった。 五・八事件のとき最初主導的に動いたのはYである。東大に本富士署のスパイが潜入し、 学生に摘発されたというニュースがもたらされ、早稲田にも入って来ているに違いないと いうことで、事件の二日ほど前から〃学内パトロール〃なるものを実行していた。「怪し い奴」と思い、誰何したら、相手も誰何してきて、同じパトロール隊員と判明したという 笑い話みたいなこともあったが、結局は摘発に成功したのである。しかしその後の展開は 予測もしない方向に向かい、遂にあの惨劇になってしまったのである。われわれは〃プロ 〃として、「必ず弾圧があるから、今のうちに逃げろ」と忠告していたのだが、純粋な心 情をもつ、座り込み学生には結局聞いてもらえなかったのである。その意味で五・八事件 はわれわれにとっては後味の悪いものに終わった。 早稲田での私のYとしての最後の〃仕事〃は当時の悪名高い自治庁通達反対運動に関連 したものである。細胞は九月(五三年)に開かれる「通達撤回全都学生総決起大会」に向 けて反対運動を盛り上げていった。大会の前の晩上部機関も交えて当日のYとしての戦術 会議が開かれた。そこで決定されたのは一番多い早稲田のデモ隊を先頭にする、その最前 部をYでかためる、デモが自治庁の正門前にさしかかったとき、「自治庁の前に座り込も う」とデモに呼びかけ、正門前に誘導しよう、というものであった。当日、大隈講堂前で 例によって出発前の勢ぞろいをしていたところ、カバンを抱えた学生が多く混じっている ことに気づいた。これは〃素人さん〃(一般学生)が多いこと、従ってデモ参加者が多く なることを予感させた。出発時の歌は「国際学連」でもインターでもなく、「都の西北」 となり、人数も最終的に一〇〇〇名位にまでふくれあがった。デモは永田町を過ぎ日比谷 方面に向かい、いよいよ自治庁(旧)正門前にさしかかったが、前夜打合せした「学生諸 君、自治庁に突っ込もう」というその一声が、何故かどうしてもでなかった。結局何事も なくデモ隊列は粛々と過ぎ、最終地日比谷公園に向かってしまった。「これは大失態をや らかした」という思いと「五・八のように犠牲者を出さなくてよかった」という思いが交 錯したのを今でも鮮明に覚えている。上部機関からのお咎めを覚悟していたが、何故か何 の音沙汰もなかった。今から思えばこれはやはり〃政治〃と〃軍事〃のはざまで起きたこ となのだろう。 それから、一ヵ月も経たないうちに、私は〃学生運動家の墓場〃(由井説)〃山〃に入 った。何となく運動も自分自身も転換点をむかえたことをさとったからである。 (国際労働運動研究協会) |
□ 旧刊紹介 早稲田反帝詩集第二篇 『それ革命の七月は丸太棒の一叩き』 それ、革命の七月は 丸太棒の一たたき 燃ゆる漏斗の形せる 紺青の空を ぶちのめす A・ランボオ 1956.5.27日発行.ガリ版60ページ |
=================================================== ■ 資料・最高裁判決 昭和二八年(あ)第二七一〇号 判 決 本籍 福岡県若松市大字修多羅一六五六番地の一 住居 東京都杉並区大宮前六丁目四〇九番地 元学生 吉田 嘉清 大正一五年一月一二日生 本籍 住居 石垣 辰夫 本籍 住居 小林 一彦 本籍 住居 古屋 博清 本籍 住居 木下 応佑 本籍 住居 梶川 建男 本籍 住居 小林 茂夫 本籍 住居 飯塚 雄三 本籍 住居 二瓶 敏 本籍 住居 吉田 利男 本籍 住居 波汐 泛 右被告人波汐泛を除く爾余の被告人等に対する建造物侵入各被告事件並びに被告人波汐 泛に対する公務執行妨害事件について昭和二八年二月二五日東京高等裁判所の言渡した判 決に対し各被告人から上告の申立があったので当裁判所は次のとおり判決する。 主 文 本件各上告を棄却する。 理 由 弁護人神道寛次の上告趣意について。 所論は、本件はレッドパージによる進歩的教授の追放に反対して、純眞な全学生が、思 想、良心の自由と学問の独立、学園の自治のため起ち上ったことに端を発し、事を構えて この学生運動に対し一撃を加えたものであるという趣旨の主張を前提として、原判決が本 件被告人等に建造物侵入等の罪を認めたのは憲法一九条に違反すると主張する。しかし原 判決はなんら所論のような事実を認定していないのであるから、違憲の論旨は全く独自の 見解を前提とするに帰し、刑訴四〇五条の適法な上告理由に当らない。 (略) 昭和三〇年四月一二日 最高裁判所第三小法廷 裁判長裁判官 島 保 裁判官 河村 又介 裁判官 小林 俊三 裁判官 本村善太郎 右は謄本である。 昭和三〇年四月一二日 -------------- □ 弁護人神道寛次の上告趣意 第一点 憲法第一九条は『思想及び良心の自由は、これを侵してはならない』と明記して居る。 当時行はれた大学教授に対する所謂レツドパージなるものはイールズ声明に端を発し教 育の植民地化を企図し占領中なるを奇貨とし憲法第十九条を無視して強行されたものであ ることは顕著な事実である。 本件はレッドパージの魔手が早稲田大学にも伸び良心的にして進歩的な教授の上に及ぶ ことを察知した純真な全学生が思想と良心の自由のため、学門の独立研究の自由、学園の 自治のために起ち上ったことに端を発したものであり、そのことは本件記録を通じ一貫し て容易に窺知し得るところである。 而して本件の直接の原因は右レツドパージ反対運動の先頭に立った学生に対し早稲田大 学当局が既に、懲戒処分を下し或は更に下さんとする形勢にあったので被告人等自治会役 員乃至学生代表を通じ数次に亘り折衝を重ねる一方全学生は学生大会を開く等の挙に出た ものであったことも亦本件記録に徴し詳細且つ具体的に明白である。 原判決は其の理由中 (1) 原判決(第一審判決のこと以下同じ)挙示の関係証拠によれば、原審認定の第一事実 は充分これを認めるに足りるものであって、原判決を通読すれば被告人吉田嘉清が相被告 人等(波汐泛を除く以下同断)及びその他の多数学生と共同して早稲田大学本部建造物内 に侵入し次いでその二階に在る第一会議室内にも侵入したことを包括して同建造物内に侵 入したという一罪を認定しているものであって……(中略)……原判決は犯罪の成否を決 定する罪体である事実、即ち共同正犯としての建造物侵入の事実を明確に認定判示してい るのであって理由不備の違法は.認められない。 (2) 更に目的が不法な為めその目的ならば通常管理者はその入ることを承認しないであろ うと認められる場合もあるが建造物侵入罪は建造物の管理者の意思に反して、理由なくこ れに侵入することであって、その目的の適法不適法を問うものでないことは所論のとおり であり、原判決も亦この見解をとるものと認められることはその判示するところ自体に徴 して明瞭であり、決して所論のように被告人等の意図が不法であったからというので本件 建造物侵入罪を認めたものではない。 (3) なほ被告人吉田嘉清が原審公判廷で本件建造物に入るときは門扉は平常どおり開放さ れていて何人にも阻止されず不法性のないものである旨主張していて、原審がこれに対し 特に判断を示していないことは吉田弁護人所論のとおりである。 しかし建造物侵入罪において右のような事由で不法性のないことを主張するのは単なる 事実の否認であって法律上犯罪の成立を妨げ叉は刑の加重減免の理由となる事実上の主張 ではないから、これに対する判断は必ず示さなければならないものではない。 (4) 而して同大学経営担当の責任者であり且つ本件建造物の管理者である総長島田孝一が 当日同大学内の警戒警備の任を担当する警手に直接本部建造物入口の警戒警備を命じた事 実のないことは同弁護人(神道)所論のとおりであるが、原審第五回公判廷における証人 栗山覚太郎同高木二郎の供述によれば警手である同人等は同大学学生課係員から当日本部 建物入口の警戒警備を命ぜられその任務に従事していたものであることは明らかにこれを 認めうるのである。のみならず原決判の認定するところは同大学の立ち入り禁止或いは制 限命令に反して本部建物に侵入したと認定しているのではなく、その管理者の意思に反し て理田なくこれに立入ったことを以て建造物侵入と認めているものであることは既に説明 したとおりであるが (5) 更に被告人等のうち同大学の白治会役員乃至学生代表であったものは責任上正当な業 務遂行為として行ったものであるとの神道弁護人の所論は、既に説明したとおり本件侵入 については被告人等には共同犯行の認識が存在するものであるのみならず、右証人中谷博 の原審公判廷における被告人吉田嘉清外数名が私と話をしたいというのは多くの学生より も先に入って来て平穏に会見したいというのではない旨の供述に徴すればたとえ任務遂行 の目的があっても、これを以て正当業務行為とは到底認め難い。 (6) 本件記録によれば所謂早稲田大学当局が被告人等(波汐泛を除く以下同断)の本件所 為を刑事々件とすることを望んでいなかったことはこれを看収しうるところである。 しかし右被告人等の本件建造物立入行為をその管理者が事前に同意、承諾した事実は勿 論、事後においてこれを承認宥恕した事実も認めるに足る証拠は何等存在しない。 而して原審がこの点に関する右被告人等の主張につき特に判断をしていないことは、所 論のとおりであるが、右同意乃至宥恕のあったという事実上の主張は建造物侵入に対する 単なる事実の否認であって、特に判断を要する法律上犯罪の成立を妨げ或は刑の加重減免 の理由となる事実上の主張には該当しないので原審がこれについて特に判断を加えなかっ たことをもって、判断遺脱とは認められない。 等々判示し以て被告人等に対する建造物侵入罪の成立を肯定した。 要するに原判決によれば(1)被告人等が早稲田大学当局の意思に反して木部建物に入った 事実があれば(2)其の目的意図が適法であっても(3)又立入禁止、制限、阻止等を受けず開 放された玄関から入っても(4)早稲田大学々生自治会役員乃至学生代表として学校当局と交 渉のためであっても、本件建造物侵入罪は成立するというのである。 果して斯くの如き理論が実社会に通用するであらうか。意見が対立したり利害が相反す る人々は世間に多々益々存在する。その一方が相手方を説得し或は自己の要求を貫徹せん がために相手方を訪問することは日常少くない。此の場合相手方の意思に反することを知 りながら敢えて推参することは決して珍らしくない。原判決に従えば之等は悉く建造物侵 入罪を構成することになる。 極端な例をとれば債権者の催促をうるさく感じた債務者が「借金取り入るべからず」の 貼札をしたに拘わらず敢て立入り居催促に及んだ債権者に対し住居侵入罪が成立するなら ば世は将に債務者の天国となるであらう。 又原判決は前記(6)記載の如く「早稲田大学当局は被告人等の本件所為を刑事々件とする ことを望んでいなかったことはこれを看取しうる」と摘示して居るが唯単に刑事々件とす ることを望んで居なかったと云ふだけでは皮相の観察である。原判決の引用する第一審証 人中谷博は当時早稲田大学厚生部長として学生に対する問題処理の当面の責任者であった ことは記録に徴し明かである。 右中谷証人の証言調書に依れば多数学生が本部建物に立入った際、高橋戸塚警察署長が 数百名の警官を動員引卒して本部建物に殺倒した際、中谷厚生部長は高橋署長に対し『警 官の出動は困る。事態を悪化させる虞れがあるから引揚げて呉れ。学生を本部建物外に退 去させることは自分の方でやる』と申入れたに拘わらず、高橋署長は『一旦出動した以上 此の儘引揚げることは出来ない』と拒否したことは中谷証人及高橋証人の各証言調書に明 かなところである。而して中谷厚生部長は吉田委員長(被告人吉田嘉清)を呼び右吉田と 共に学生を建物外に誘導すべく階段を降り掛けた際警察官は玄関出口を塞ぎ、同時に指揮 官の「掛れ」の号令の下に階段及廊下の両側に列んだ警官が一斉に襲い掛って本部建物内 に在った学生全部を逮捕検束したことも亦記録上明白である。即ち原判決の謂ふが如く学 校当局は単に本件を刑事々件とすることを望まなかっただけではなく、警察官が大挙して 本件建物に侵入し強制的に学生を退去させたり、検挙したりして、学園の自治に干渉する ことをこそ拒否して居ったことが記録上十分立証し得られるのである。 之れを要するに本件検挙の意図するところは所謂イールズ旋風のレッドパージによる進 歩的教授の追放に反対して起った学生の抵抗運動を弾圧粉砕せんがために事を構えて、純 真単純な学生を排発し平地に波乱を呼び学生運動に対する一撃を加えたものと云わざるを 得ない。今日から回顧して結果的に見れば、殊更らに其の感を深くする。 学生運動に対し本件の如く建造物侵入罪を以て問擬すると云ふが如きは全く窮余の策で あって、実情は、先づ検挙して置いて後から適用法条を探し出して然るべく起訴したのが 本件の経過である。 以上要するに本件検挙も起訴も亦之を支持する原判決も、憲法第十九条に所謂良心と思 想の自由を侵すものであって、当判決は破棄を免れない。 以上 |
一人の仲間が一人の仲間を 早大合唱団・機関紙・創刊号一九五四・二・二四 --------- 合唱と「衆」 会長 安藤彦太郎 この遥かなる東方でも 公僕は貴いものとされているのに 人民は罪に追われ 音楽にさえ税がかかる! これは、中国の有名な教育家である陶行知が、抗日戦争終結直後、重慶で発行されていた 小さな週刊紙にのせた、「ショスタコヴィチを記念して」という詩の一節である。この詩 は、最後をこう結んでいる。 あなたの若き日のうたは 青春こそ とこしえに老朽を追いはらうことをものがたる 音楽こそは 世界のことば 人類は あなたの親友 かつてアメリカに留学してデューイの哲学にふかくまなび、中国に帰って生活教育の実 践に心をかたむけ、やがて、一九三六年、日本軍閥の侵略の策動を前にして上海で「国( 一字不明)教育社」を組織し、戦争開始とともに、国民党地区での苦しい環境のなかで、 民族解放のための大衆教育の拠点をまもりつづけ、戦後、新中国の出現をみずに圧迫のな かで死んだ陶行知、いま人民教育の先駆的な教師とされる陶行知の生涯と最後は、ここに はのべない。くわしくは、陶行知研究に日本で最初の道をきりひらきつつある、わたしの 友人、斉藤秋男氏(北海道大学助教授)の著書、「新中国教師の父・陶行知」についてみ られたい。 ただ、ここでは、一九三六年、香港で、かれの作詞になる「(一字不明)頭舞歌」の公 演会がひらかれたとき作ったかれの詩を紹介しておこう。 1 四百人が 唱い 三千人が 和する 役人が聴いて にがい顔する 2 四百人が 唱い 三千人が 和する 「うたうのは いいが 打倒せよ――が夛すぎる」 3 四百人が 唱い 三千人が 和する 「うたうのは いいが 民衆が 夛すぎる」 4 四百人が 唱い 三千人が 和する 「夛すぎる 夛すぎる こんどは禁止だ」 5 禁止だ 禁止だ 誰れが一体 いけないというのだ? いけないというのは まだ夛くないからなのだ 6 百万人が唱い 一億人が 和する こんなに夛けりゃ いけないといったところで いいのだ 香港での公演会は三千人もあつめて盛会であったが、政庁当局は、主催者の青年会幹事 にむかって警告を発した。そして、「われわれは決して唱歌そのものには反対しない、反 対するのは、あの『赤』という字なのだ」と言ったという。これを聞いた陶行知は、「『 衆』が人に反対されるわけは、それが充分に衆でないからなのだ」といって、右にあげた 詩をつくったのである。 たしかに「音楽こそは世界のことば」である。みなさんは、どうか「衆」のなかで、「 衆」とともに唱うことに心がけていただきたい。みんなが唱えば、「いいのだ」。 ---------------------------- □ 真に、健康で明るく歌うために 風間洋子 数日前、Hさんが「合唱団に来ている間は楽しくて明るい気持になっているけど、一歩 外へ出ると、孤立感におそわれたり暗い気持ちになってしまう」という意味の事を話して いたのが、今でも私の頭から離れません。 創立以来、やがて一年を迎える現在、「音痴です」「譜が読めません」と云って入って きた人の集まりが、トロイカの二部をうたうのに、どれほど小野先生に重労働させたかを 思い返しただけでも、その進歩の偉大さに感激せざるを得ませんが、一方アンニー・ロー リーや懐かしのヴァージニヤを、四部できれいに歌えるようになればなる程、喜びの上に 更に、別の不安を感じるのです。 先週、中央合唱団の十八期生と一緒に〃祖国の山河に〃を歌った時に、最初は早大合唱 団の方が遙かに上手いなどというケチくさい優越感があったのですが、歌っているうちに、 そんな事も忘れ夢中になってしまいました。そして心の底から歌うことの出来た喜びと、 技術を超えた新鮮さ素朴さが、私のバカげた自惚れを吹き飛ばしてくれたのです。 今、私達一人一人が、思い切り、自分の全てを発散して歌っているのでしょうか。お互 いに遠慮や、解決されない疑問をそのままにしまっている事が全然ないでしょうか。もし あったとしたら、それを放任して、いくらコールユーブンゲンを進めても、発声法を研究 しても、それだけでは本当に生きたコーラスにはならないでしょう。 歌は与えられるものではなく創り出して行くものだと思います。(抄) |
■ 戦乱期の文科生 鹿島 保夫 □ ただ一人の露文専攻 ○…僚友たちが「出陣」したあと、ぼくは孤独な学生になつてしまつた。在籍していた文 学部国文科には、誰一人、友人と名のつくものがいなかつた。そして、それから翌年の春、 勤労動員に駆り出されるまでの約半年のあいだ、ぼくは、いささか奇妙な学生々活を送る ことになつた。ぼくはその年の九月に繰りあげ卒業で文学部に進学していた。 進学の際、ぼくは専攻科目の選択で思い迷つた。親友Sと相談した末はじめは、二人し て社会学科に入ろうかということに話しあつていた。調べてみると、社会学科と仏文科が、 もつとも講座数が少いようにみえたからであつた。社会学科もいいかもしれないが、しか しぼく個人としては、どちらかといえば仏文の方に進みたい気に、だんだんなつていつた。 中学上級から高等学院一年のころまで、アテネ・フランセに通つたことがあり、多少フラ ンス語を噛つていたりしたことも、そうした気持を促進した。そして、ほとんど仏文科に 進むことに一人決めていた。 ところが、その旨を岡沢秀虎先生に相談にゆくと、同先生は、ぼくを大変叱責された。 おまえはロシヤ文学を放棄するつもりなのか。おまえの行動はどうも軽薄である、といつ て国文科に入るよう、しきりと進められた。 ぼくは、自分が一人決めした仏文科進学を、いささか軽薄な決め方であつたと思うよう になつた。そして国文科進学の手続きをとつた。 (ぼくが早稲田に入学した動機がいくつかある。中学上級のころ、井伏鱒二氏にフアン に近い形で傾倒し、井伏ばりの、しかし実際には下手くそで、趣きのない小説を書いてい たぼくは、氏の早稲田生活を描いた小説やエツセイの類を耽読しながら、早稲田でないと 文学の勉強が出来ないように考えていた。もう一つの動機にロシヤ語がある。早稲田露文 科は、たしか昭和十三年に最後の卒業生をだしたのを機に、閉鎖されていた。でも学院や 文学部には第二語学としてロシヤ語が残つていたし、ロシヤ文学研究という講座も残つて いた。それは、ロシヤ文学好きの中学生であつたぼくにとつては大変魅力であつた) 岡沢秀虎先生とぼくは、いつの日か再び露文学をわれわれの手でおこそうではないか、 それまではなんとしてでも頑張ろう、と、やや熱しながら、語りあつた。たとえ二人きり ででも、それまでは自称露文科を続けようと、先生もぼくも、多少悲痛めいた口調で語つ たりもした。二人きりで? そうだ、二人きりで!(厳密にいえば、ワノフスキー先生も 含めて三人で) 学徒出陣と同時に、徴兵猶予のある理科への転科が一部の文科生にみとめられた。学院 のときのぼくらロシヤ語関係の下級生は、どういうわけか、みんな理科に転科してしまつ た。上級生と同級生はもちろん学徒出陣して残つていない。そんなわけで、ぼくは広い早 稲田で唯一のロシヤ語学生になつてしまつたのである。 ○…このようにして、ぼくは、岡沢秀虎先生とワノフスキー老先生の教えを受けながら、 国文科学生としてはきわめて怠けものである一方、ニセ露文科学生としては、両先生の授 業を一度も欠席したことのない、唯一人の模範学生としての生活を送りはじめた。 学院、文学部を通じて、学生はぼく一人だつたのでそれにみんなでると、かなり沢山の 授業であつた。 ロシヤ語の時間には、ぼくがテキストをまずロシヤ語で読み、それを日本語で訳す。岡 沢先生がそれをききながら、ときどき「結構です、ハイそのつぎ」と言葉を入れられる。 そのようにして二時間の授業は進められ、そのようにしてぼくは、プーシキンやレール モントフやトルストイやツルゲーネフを読んだ。ロシヤ文学の講義の時間には、文学部の 広い教室で、最前列か二列目ぐらいに唯一人着席したぼくと向いあつて、講壇一つへだて たところから、岡沢秀虎先生は、大判の大学ノートを読みながら、講義された。 講義は、主としてツルゲーネフとトルストイについてであつたように憶えている。それ からもう一つ、一風変つた授業があつた。いわば独修の時間とでも称すべきものであつた。 授業がはじまると、先生は持参の本をぼくの前に開き、「今日はここから読みなさい」と 指示される。ぼくは、二時間、その指定の本をおとなしく黙読する。片上伸全集、その他 の本であつた。 一方、先生は教壇の椅子に腰かけて、やはり黙々とご自分の持参の本を時間まで読む、 と、そういつたやり方であつた。先生のよんでいる本をそつと盗みみると、大体、ソヴエ トの古い文学雑誌や一九二〇年代、三〇年代の文学理論書が主であつたようである。いま は理工学部の建物のあるグランド寄りのところに、当時は第二早稲田高等学院の緑色バラ ツクの平屋の付属校舎があつた。その一番はづれに、四十五番教室という、十人たらずし か収容できない小さな教室があつた。ぼくらの授業は主として、その四十五番教室でおこ なわれた。 (余計なことながら、この建物は、戦災で跡かたもなく焼失してしまつた。らく書き好 きなぼくが、壁といわず机や椅子といわず、おりにふれて書ききざんだ、おびただしい落 書きと一しよに。ぼくは早稲田に刻みのこした憶い出を奪い去られたようなおもいで残念 でならない。) 岡沢先生は授業のあいまに、一人の相手であるぼくに向つて、よく「授業はこれまでに して雑談をしましよう」と、よくいわれた。この「雑談」の内容は文学的なものに限らな かつた。たとえば、「きみ、どこかでフトンを手に入れられませんか」「はあ、家できい てみましよう」とか、「先生、ちよいと味のいいタクアンを手に入れました。味見にいら つしやいませんか」「ほゝう、それはすばらしい」といつた類の会話も、ときどき交され ていた。 そしてぼくら師弟は、おたがいによくゆききしたり、一しよに本屋を歩いて乏しい原書 探しをしたりもした。 ○…当時の岡沢先生は(などと限定したいい方をすると、先生は大変怒られるかもしれな い)しまいにはぼく一人になつてしまつた、数少いロシヤ語学生にたいして、きわめて熱 心であつた。 そのころ、十二月八日の「大詔奉戴日」と、それに因んで毎月八日には、ゲートルを巻 いて登校しないと、校門のところで追い返されるということがあつた。ぼくやSやMなど は、よく、そうした日には、ロシヤ語の授業もサボつて喫茶店に逐電した。 すると、岡沢先生は、縞のモーニング・ズボンの上にゲートルをまいた姿で、ぼくらを 探して歩き、ぼくらをつかまえると 「きみらは、若い」という意味のことをいいながら、教室につれもどすのであつた。 「きみらは、若い」とはいつたが、しかし、ぼくらを先生は、一人前の大人として遇し てくれた。ぼくらの小説の合評会には、かならず出席され「リアリズムとロマンチズムを 揚棄した新しいロマン」とか「雑草のように根強い文学」とか、生意気なこといつて熱を あげていたぼくらの青くさい論議の相手になつてくれた。 そして酒の酔いが出たりされると「きみ、アンチ・デユーイングを読みなさい」などと すすめたりされた。ぼくの小説をよく読んでくれて、ぼくの都会つ子らしい軽薄なユーモ アをたしなめられ、ゴーゴリのユーモアを勉強しろといわれた。 また伊藤永之介、三好十郎、小山いと子の諸氏の作品をすすめられた。「きみのこんど の小説は、伊藤永之介のもつている愛情の文学に近い」などとほめられると、なんだかぼ くはうれしがつたものである。 さて、ワノフスキー老先生は、まつたく、いかにもロシヤ人らしい先生であつた。ぼく らにはじめてロシヤ語を教えられたとき、先生は、あまり上出来とは思われない掛図をも つてこられて、それを指し示めしながら、これは馬である、これは家であるという風にし て、じかにロシヤ語を教えられた。ぼくらが理解しかねたりすると、先生は、ぼくらのブ ロークンな英語と大差ないように思われた英語で、もどかしげに解説された。一人ものの 老先生は靴下のほころびを隠すたびに、三枚も四枚もかさねてはく無精なはき方をされて いた。 (いま、それと同じはき方をすることのあるぼくは、老先生をなつかしく想いおこす) ぼくらはある日、不逞にも老先生をからかうつもりで、ソヴエトはドイツに負けるだろ うという意味のことをいつたことがある。シエクスピアや日本の神話の研究をされていた ワノフスキー先生は、そのとき、顔を紅潮させ、拳をふりあげて、ぼくらにすつかり腹を 立て「ロシヤはかならず勝つ」と、ぼくらに確信させようとやつきになられた。 ○…ぼくが一人きりの学生になると、先生はわざわざ早稲田まで出てくるのがおつくうに なられた。そこで話しあつて、ぼくの方から神奈川県日吉にあつた先生のお宅に一週一回 づつ伺うことになつた。 先生は、その都度ぼくに口付きタバコの「敷島」をすすめたり、 (タバコをのまない先生は「敷島」が高いので、高級なタバコだと思われたにちがいな い)食糧に事欠かれていたにもかかわらず、おかゆをつくつてごちそうしてくれたりした。 それから、日吉の山や畠のある街なかを散歩しながら、先生はぼくにロシヤ語を伝授され た。ぼくはまた先生の買い物のお手伝いをしたりした。暮のことだつたか、正月用のカズ ノ子の配給があつたとき、先生はぼくに、その調理法を訊ねられた。ぼくは、即座に、カ ズノ子というものはシヨウユで煮て食べるものであると答えた。あとで帰宅してから、そ の誤りを知つて、あわてふためいて、もはや寝に就かれた先生におわびしたこともあつた。 そのワノフスキー先生が、昭和十九年のはじめ、軽井沢に疎開せねばならなくなつた。 先生は、十九世紀八十年代に出版された一巻本のプーシキン全集を、ぼくにかたみとして 下さつた。 引越しの荷造りをする日に、ぼくは通訳として立ちあつた。しかし、残念なことは、ぼ くの貧弱なロシヤ語のヴオキヤヴラリーでは十分の用が果せなかつた。それは、幕末ごろ のオロシヤ船相手の通訳よりも劣つていたようである。先生も荷造り人も、間に入つたぼ くにたいして概歎した。あげく、先生は、この先にもつとロシヤ語のたんのうな生徒がい るから、その人に頼む、という旨を荷造り人に伝えさせた。 しどろもどろにぼくが、その旨を荷造り人につたえてから、三人うちそろつて、そのロ シヤ語のたんのうな生徒の家へおもむいた。ぼくはすつかりしよげかえつていた。先生は、 そのぼくをなぐさめるように散歩のみちみちでいままでやつてきたロシヤ語授業を、その ときもつづけられた。 やがてぼくらは「ロシヤ語のたんのうな生徒」の家の前についた。ぼくと老先生は、そ こで握手を交し、「さようなら」といいあつた。そうして老先生は荷造り人といしよにそ の生徒の家に入つていかれた。 それがワノフスキー先生とぼくとの最後の別れであつた。あとで分つたのだが、その「 ロシヤ語のたんのうな生徒」は、いま露文科で教鞭をとつておられる黒田辰男先生であつ た。 (ロシア文学者、多喜二・百合子研究会) 一九五六年五月八日「早稲田大学新聞」掲載。 |
■ 小さな要求の結束・集積から ――全学学生協議会前進のために 芹澤 壽良 全学学生協議会が早稲田大学における学生自治組織の統一的協議機関として成立してか ら満一年を経た。確かに、一九五三年は早大の学生運動において、数々の欠陥を伴いなが らも運動の量はもとより、運動の内容も非常に質的なふかまりを示した一年であり、全学 協はこの年、極めて不十分であつたが指導性を発揮することができた。このことは率直に 評価してもよいのではないかと思う。 しかし、全学協は現在、未だ全学生の指導者たる役割を果し得ないような弱体化した状 態にある。このことも正直に認める必要がある。運動の過程で適時に「誤謬を公然と認め、 その原因をきわめ、それをひきおこした状態を分析し誤謬を訂正する手段を細心に審議す ること」を真剣に実行しなかつたからであると思う。運動の総結が常に形式的な自己批判 に終つていたのである。 私はここで議長としての一年間の経験から全学協の最も基本的な欠陥を指摘し、若干の 意見を述べてみたいと思う。 第一に運動方針の決定の最も重要な要素である情勢の検討においては主観的な希望的観 測を排除することが何よりも大切である。(一)運動の対象をめぐる諸條件、(二)運動 を指導する自治組織の主体的條件、(三)運動の中心をなす学生の條件、この三点が総合 的に把握、分析されてのみ、はじめて正しい運動方針を決定することが出来る。このうち の一つの点の検討をも欠いて決定された方針は決して運動の成功を保障する方針とはいえ ないであらう。常に全学協の運動方針の討議に際してはこの様な検討が失われ勝ちになる。 昨年十二月一日の自治庁通達反対のゼネスト決行を主張した一部の意見はこの総合的検討 が欠けていた典型であつた。 第一のことと関連するが第二に運動の進展過程をさきに指摘した三点から常に検討し、 新しい條件に対処出来るようにしなければならない。経験主義は克服される必要がある。 全学協の活動には今まで、経験主義的傾向が強く、新しい條件にも拘らず古い方針を固持 し適時対処出来ない場合が多かつた。約三カ月にわたつて展開された自治庁通達反対運動 の過程においても常にこのことが見られたのである。 以上の様な欠陥を克服して行くためには(イ)全学協、各学生委員会、クラス相互の正 確な情勢交換活動を行わなければならない。実態にそくしていない「景気の良い」報告は 主観的な希望的観測が生れる最大の原因である。例えば「決議した」という報告をする場 合にも、その事実のみでなく、それがどの様な討論過程を経て行われたのか、その「決議 」の質をも具体的に報告する必要がある。私達がその様な報告を受けた場合学生の具体的 問題をめぐる意識をはつきりと知ることができ、方針決定に建設的な役割を果すのである。 (ロ)全学協、各学生委員会、クラス相互の点検活動を活発に行う必要がある。 提出した問題がどう採り上げられ要請した方針がどう実行されたかを相互に点検すべき である。とくに、全学協の常任委員は部室にとじこもることなく、各学生委員会クラス会 に出席し、その討議の中から、学生自治運動によつて重要性を持つどんな小さな問題をも 見出す努力をしなければならないであろう。(ハ)各委員は條件の変化を適確に把握し分 析し得る理論的な実践的な能力を養い高めて行くことが必要だと思う。私はここで学生運 動の指導理論を諸外国の学生運動の歴史から学ぶことも必要であるが、戦後日本の学生運 動とくに早大自治会の歴史から具体的に学ぶ必要があることも強調したい。戦後八年たつ た今日、日本の政治経済の面では共同研究によつてその歴史と本質が究明されはじめたと き、戦後史の過程で偉大な役割を果している学生運動の歴史は是非編さんさるべきである。 (ニ)方針の討議には疑問の残らない徹底的な討論を行わなければならない。今迄「異議 なし」で無討論で採択され、実行に移す段階で疑義が出たり、自信がなくて実行に移され ない場合が案外多いからである。 第三に、教育宣伝活動の重要性を再認識しこれを全学協の日常活動の大半としなければ ならない。教宣活動を徹底すればするほど、運動の可能性は強い。これは最近の大衆運動 の貴重な教訓である。全学協の教宣活動は殆ど系統的に行われず、しかも、行われた場合 は誇張がしばしばあつた。真実の宣伝のみが学生を行動に立たせる大きな力になる。 第四に、全学協は統一協議機関という組織形態では早大の学生自治運動に対して効果的 な組織上の保障を与えることは出来ないという事を考え、すべての学生委員会が納得ゆく 有効な組織形態をあみ出すべきである。 指摘すべき点は未だ数多くあるが、以上の様な点が真剣に考えられ、実行に移されるな らば、全学生と固く結びつき、運動方針に於ても画一的な方針ではなく、個々の具体的條 件に応じ得る、即ちすべての学生に支持される方針を出すことが出来るようになるであろ う。 最後に、学生自治運動の指導的立場に立つものが、学生の自治意識の低調を非難するだ けでは学生との結びつきは強くならない。どんな小さな要求をもとりあげ、小さな行動に よつて小さな結束の力を積み上げ、学生に自信をもたせることが大切だということを強調 したい。このことをも合わせて考えることによつて、学生々活を守る運動、学生の自治権 を全面的に回復する運動、更に再軍備と徴兵に反対し、平和憲法を守る運動を広汎にそし て成功的に行うことができるであろう。(前全学学生協議会議長) 一九五四年一月二十日「早稲田大学新聞」掲載。 =====資料特集 |
一九五五年を迎えて 日本共産党中央指導部 宮本顕治 早稲田の学生のみなさん あけましておめでとう! 新しい年を迎え、私たちの平和とよりよい日本のために、これからますます力を合わせて進みたく思います。鳩山内閣は国民の前にいろいろ甘いことばをふりまいていますが、わが民族最大の不幸であるアメリカ帝国主義への從属と、軍国主義復活を強める点では、全く第二の吉田政府であります。しかもわが民主陣営は、社共労の全国的な統一戦線もまだできておらず売国と反動勢力の支配を許す結果となっております。しかし、いま全世界を通して、民主勢力は昨年中にも大きく成長し、わが国でも生活と平和を守る団結と統一は日々ひろがり強化されています。選挙戦は今日の政治情勢の一大焦点であり、反動勢力はこの時期において、特にあらゆる策略で、わが民族を対米從属と再軍備の方向にますます固くしばりつけるために全力を挙げています。低賃金、重税、首切り、失業と弾圧から国民の生活を守り、すべての国との平和共存のために斗い、祖国の独立と自由をかちとる道は、わが党の選挙綱領が指し示しております。私たちは反動勢力が鳩山内閣を看板として立ち直りにやっきになっている今日、この選挙綱領の下に国民の団結と統一を固めつゝ斗いを押しすゝめ、彼らの長年に わたるごまかし、不正をバクロし、民主党、自由党を打ち破り、よりよい未来のために前進することが、今年の第一歩である。今年も希望と確信を持って、がんばりましょう。 |
■文学部大会に寄せて 伊藤知巳 最近またファッシズム論義が活発になってきた。われわれは、このような問題が再び繰 り返して論ぜられなければならない祖国の現状を心から悲しむ。確かに、現在われわれの 周囲にみられるごとく、育英資金の獲得、水害者の授業料減免、失業学生の救済、図書館、 リーデイング・ルーム拡充の問題等は総てわれわれ学生生活の苦しさを如実に反映してお り、教授追放、団体等規制令、教育基本法第八条の改正さらに先頃島田総長が真っ向から 反対の意思を表明した私学法の問題等々はわれわれに対し学問と思想の自由が再び大きな 脅威にさらされていることを深刻に訴えかけている。このように学生生活の危機が単に抽 象的な言葉としてだけでなく、学生個々人にとって真剣な問題となりつつある今日、われ われは、一切の政治的、思想的の相違をも乗り越えて、今度こそファッシズムの嵐を防ぎ、 学問の自由と独立を守り抜くために強く結び合い、結び合うことによって、かってのごと く孤独な抵抗や惨めな屈服に追いつめられることを防がねばならぬ。 「すべては悲劇でした。しかし見ていてご覧。きっと私達の時代がくる」(きけわだつ みのこえ)という今はなき先輩たちのこの切実な血と涙の叫びをわれわれは決して烏有に 帰せしめてはならない。われわれは今こそわれわれの先輩たちが、あの悲惨な侵略戦争の 中で決して見失うことのなかった人間性への深い信頼に立って、われわれ学生の清新な勇 気と智慧と情熱とをもって、彼らが身をもって打ち立ててくれた美しい未来への道標をし っかり見つめて、更に力強く自己を新しい可能性にむかって切り開いて行かねばならない。 今度の文学部大会が、たとえささやかなりといえども、文学部に籍を置く学生諸君の心 と心の絆を固め、それが更によりよき明日への、そして明日の早稲田への前進のための推 進力となるものであるならば、その準備のために連日奔走した自治委員の喜びはこれにす ぎるものはない。 (文學部自治委員會議長) |
■ 公開状 早稲田大學學生自治會 早稲田大學學生自治會規程改正に關し、總長、理事及び部科長會のとつた態度につき、 こゝに私どもの意見を申しあげ總長、理事及び部科長諸先生の御意見を承りたいと思いま す。 新制の各学部及び附屬學校が來年度より多數發足するにあたり、その變化に對應し且つ 今までの經驗により必要と認められる措置をとるため、學生自治會は中央委員會及び中央 執行委員會において數次にわたつて愼重なる審議を重ね、その結果本年二月二十一日の中 央委員會において、學生自治會規程の改正案を決定いたしました。二月二十四日に開かれ た教職員學生協議會は、學生自治會より提出された改正案に關する主旨辯明及び質疑を終 り、その審議を小委員會に附託しました。この時、教職員委員より、新制の各學部及び附 屬學校に所屬する學生(以下新制の學生と略稱します)を現在の學生自治會の組織より除 外するという提案があり、討論の結果否決されたのであります。三月七日、小委員會が開 かれ、學生自治會より提出された改正案に若干の修正を加えましたが、この修正案は、三 月九日の教職員學生協議會において、學生自治會規程第六十條による起案として決定され ました。 右起案は、三月十二日の部科長會において審議されましたので、學生自治會の中央執行 委員長及び總務部長は、三月十四日、大濱理事に會見を求め、部科長會の審議の結果を伺 いました。その時、學生自治會規程第三條に但し書きを附加し新制の學生を學生自治會よ り省くということを決定したと聞き、直ちにその不當な点を指摘して抗議しました。その 後、總長にも會見し、私どもの考えをお傅えしました。 四月九日の部科長會において、再び學生自治會規程の改正が議題となりましたので、學 生自治會の總務部長は大濱理事、池原理事、教務部長及び學生生活課長に會見し、その結 果を伺いました。それによりますと、四月七日の理事會において學生自治會規程の改正を 最終的に決定したとのことでありますが、その決定は、三月九日の教職員學生協議會にお いて起案された改正案の若干の事項を否定しております。それらの否決された事項につい てはしばらく觸れずに、新制の學生の問題について考えてみたいと思います。 學生自治會の中央執行委員長及び總務部長が、三月十四日、大濱理事に會見して抗議し た學生自治會規程第三條に但し書きを附加する案は、一應表面から姿を消しておりますが、 これと全く同じ内容のものを大學の方針として決定し、新制の學生に對して學生自治會規 程第三條の効力を否定する擧に出ているのであります。この点について私どもは甚だ妥當 でない處置と考えるのでありますが、なお一そう私どもの考え方を正しい方向に進めるた め、左の諸点について總長、理事及び部科長諸先生の腹臓のない御解答とその理由をお伺 いしたいと思います。 一、新制の學生を學生自治會の組織より除外するという「大學の方針」は、舊制の學生 が自治會員であることに比較して一種の差別待遇となりますが、このようなことを正しい とお考えですか? 二、新制の學生を學生自治會の組織より除外するならば、その手續きは新制の學生が生 れる以前においてなされるべきであります。しかるに「大學の方針」によれば既に昨年發 足し今まで學生自治會員である工業高等學校の學生から、學生自治會員たる地位を奪うこ とになりますが、このようなことを正しいとお考えですか? 三、學生自治會規程第六十條により改正の起案權を有する教職員學生協議會が、正式に 起案することを否決した事項を「大學の方針」によつて實質的に有効ならしめることは、 教職員學生協議會の權能を無視しその權威を冒涜することになりますが、このようなこと を正しいとお考えですか? 四、學生自治會規程第五十九條により規程の最終的解釋權を有する教職員學生協議會は、 學生自治會規程第三條中の「學生」には新制の學生を含むと解釋しております。從つて「 大學の方針」は、教職員學生協議會が有効なる規程に基いて有する正當なる權限の行使を 否定することになりますが、このようなことを正しいとお考えですか? 五、學生自治會規程の改正によらずに新制の學生を學生自治會の組織より除外するとい うことは、「大學の方針」によつて學生自治會規程を一方的に蹂躙することになりますが、 現在有効に存在する學内の規程を、合法的な改正手續によらずに「大學の方針」によつて 否定することを、正しいとお考えですか? 六、「大學の方針」によれば、速かに學生代表を含む審議委員會を設置して新しい學生 自治會規程を制定するとのことでありますが、そのためには學生の總意を明確に把握しな ければなりません。從つて、新しい學生自治會を作るためにも全學生による組織が必要で ありますのに、「大學の方針」はこれを否定しております。このようなことを正しいとお 考えですか? 七、新しい學生自治會規程は、あくまでも現行規程の改正手續を充足してなされなけれ ばならないのに、新制の學生が生れたことを理由に、現在の學生自治會規程を破棄すると いう「大學の方針」を、正しいとお考えですか? 御手数ではございましょうが御回答下さいますよう、中央執行委員會の議によりお願い いたします。なおこの書面でおわかりにならない点がございましたら御説明いたしますか ら、私どもの眞意を御理解下さいますよう、重ねてお願いいたします。 一九四九年四月十八日 中央執行委員長 吉田嘉清 |
■ J・F・ダレス氏への公開状 (全文) 親愛なるダレス氏 昨年六月、貴下がジョンソン国防長官、ブラッドレー統合参謀本部議長とともに来日さ れた際、我々日本の学生は世界平和と日本民族の独立のために、ジョンソン、ブラッドレ ー両氏および貴下に対して請願した経験をもつております。昨年六月以来、世界平和と日 本民族の独立はますます危機に瀕し、我々は再び十一月対日講和の諸問題について貴下に 質問を発しました。この質問に対し、貴下が返答をよせられたことを我々は非常に感謝し ております。しかしながら、貴下の返答は、少しも我々の不安を打消すことはできません でした。なぜならば、諸情勢はますます急速に単独講和と日本再軍備の方向へ動きつゝあ るからであります。今回、対日講和についての重要な権限をもたれる貴下が、講和問題に ついての日本国民の意見を対等の立場できくために来日された機会に、我々日本の学生の 意見を貴下にお伝えすることは、我々の権利でもあり義務でもあると考えます。 第一に、日本の学生は日本を再軍備することは、ポツダム宣言に違反するものであると 同時に、アジアおよび世界の平和を危険に陥れるものであり、更に日本民族を滅亡の淵に 追いやるものであると考えます。我々はソヴィエト同盟および中華人民共和国が、日本を 侵略しようと意図しているという宣伝は極めて悪意ある宣伝であり、むしろそのような宣 伝の陰にかくれて日本を再武装しようとする人々の試みこそが最も世界平和を脅かすもの であると考えます。かつて、ソヴィエト同盟の侵略を云々したヒットラーや、東條たちこ そ実は最も侵略的な平和の敵であったという歴史の教訓を、我々は決して忘れるものでは ありません。日本再武装の場合、第一に銃をとるものと期待されている我々青年学生は、 断じてそれを拒否する決意を有することを貴下にお伝えしたいと思います。それのみでな く現在既に、警察予備隊という形で日本軍隊が復活し、多くの工場で軍需工業が復活して いることに対し、また日本の各地に、軍港や飛行場が作られ、これらを基地として軍事行 動が行われていることに対し、日本学生は非常な憤激を感じていることにも貴下の御注意 を喚起したいと思います。 第二に、日本の学生はソヴィエト同盟、中華人民共和国を除いた対日講和はポツダム宣 言違反であるのみならず、世界平和および日本民族の独立にとって極めて危険なものであ ると考えます。ポツダム宣言は日本民族が厳重に守らなければならない義務であるととも に、また我々はその厳重な履行を要求する権利をもっています。ソヴィエト同盟と中華人 民共和国が、常にポツダム宣言に基ずく全面講和を要求していることに我々は大きな共感 を感じています。なぜならば、ポツダム宣言は第二次大戦において、日独両国に対してた ゝかった、米・英・ソ・中等の民主主義諸国の協力によって作られたものであり、第二次 対戦後の世界平和もこの宣言に基づいてこそ保障されるものであるからであります。 (1)既に五年以上にわたって占領下にある日本人民は、一日も早く眞の独立を得ること を希望します。もし特定国との単独講和により、講和後も日本にある特定国の軍隊が留ま ることになれば、それは必然的に日本人民の大きな不満と怒りを呼起さずには於かないで ありましょう。従って即時全面講和の締結と全占領軍の撤退こそが、賢明なる政治家のと るべき方針であると考えます。ましてや単独講和後、日本政府がある特定国と軍事同盟を 結ぶことを、我々は断じて許すことはできません。 貴下も御存知のように、平和擁護第二回世界大会決議は、日本、ドイツとの全面講和の 締結と占領軍の日独両国からの撤退を強く要求しています。日本民族はかつて他民族を侵 略したことの責任を感ずると同時に他のいかなる民族からも支配されることを欲していま せん。日本がしばしばある特定国の防衛線であると論じられていることは、日本がかつて 満州を自己の生命線であると見なしたのと同様に、我々にとって極めて心外なことであり ます。 現在、日本国内の一部の政治家たちは、単独講和と再軍備を歓迎するかの如き見解を述 べておりますが、それは決して日本人民の意見を代表するものでないことを貴国の大統領 にお伝え下さるようにお願いします。一月二十六日の朝日新聞の伝える、イギリスにおけ る世論調査の六十四パーセントが、日本再軍備に反対しているという事実は、我々の力強 く感ずる所であり、恐らくは貴国の人民の大多数も同様な意見をもっておられると考えま す。人民の大多数の意見を尊重することこそ貴国の誇りとされる民主主義であることは我 々よりもむしろ貴下自身がよく理解しておられることと存じます。 一九五一年二月四日 東京都学連 |
■日本国会に議席を有する各政党えの要求書 一、我々は、今国会に上程を予想される教育公務員特例法改正案、学校教育法改正案、国 立大学管理法案、学徒援護会法案に対し、貴政党が反対されることを要求する。なぜなら ば、これらの諸法案は、学問の自由と学園の自治を破壊し、学生の民主的諸権利を剥奪し、 学生生活を破壊し、そのことによって教育を軍国主義化する事を目的とするものであるか らである。 二、我々は、貴政党が、次の如き平和擁護第二回世界大会の決議を、日本国会が討議し採 択するように努力されることを要求する。(決議の九箇条および解説文を略す) 三、我々は、対日講話問題について重大なる関心を抱くものであり、ダレス米大統領特使 等の対日講和について責任ある地位にある諸外国高官に対して、貴政党が毅然たる態度を もって、全面講和の実現のために努力されんことを要求する。 以上の三項目は、全東京都の学生の心から望むところであり、貴政党がそのためにいかな る努力を持たれるかによって、我々は貴政党が真に日本国民の代表として適当であるか否 かを判断するであろう。 一九五一年二月四日 東京都学連大会 中央闘争委員会 |
■早大學生、業者、市民の 不当彈圧事件の眞相 今回の事件に関して読賣、朝日、毎日等の大商業新聞は例によって故意に余りに も事実と相反した報道を行い種々のデマがふりまかれ、愛國者が罪人視され善良 な人格者が不逞の徒輩の様に扱われ天人共に許さゞる当局の不当な暴力行爲は正 しい行爲の如くに多くの都民に思いこませられている事実にかんがみて、こゝに 今回の事件の全貌をありのまゝにお傅えする。 檢束者救援対策委員会 十七日午后二時半戸塚町の吉井金網店に滯納税金の差押えが来た。吉井氏は病弱と過労 のため毎日注射を打ちながら七人の家族をかゝえて税金を払う所か、毎日毎日の生活をや っと支えて来た。その実情を訴えてもう少し待って呉れと懇請したが税ム署員は〃問答無 用〃とばかり耳をかそうとせず〃どうしても差押えていく〃といきまいた。そこえ附近の 民主商工会員の溝端、野々山氏等数名がかけつけ、通りかゝった早大學生滝沢、久保田兩 君も傍觀するに偲びず共々に執行の一時延期を申し入れ、日頃重税に苦しんでいる戸塚の 市民も集って重税と無慈悲な差押えに抗議したのである。頑としてきゝ入れぬ税ム署員は 差押えの立会人として戸塚警察署員をよびに行ったが、その警官は業者、學生、市民の抗 議に出会って逃げ帰った。しばらくして数台のトラックに分乘した武装警官隊数十名が續 々と来襲し、折から集っていた學生、市民約千名に対し解散命令を発し、何等之に対し抵 抗もせず命令通り解散しようとする市民學生に棍棒をふるって襲いかゝり群集の中に入り こんでいた私服二名が早大生久保田、滝沢君と印刷工田中君を背后からとびかかって檢束 しカーキ色の自動車にのせて連行した。 此の暴挙に怒った二百名の學生、業者、市民は三人の釋放交渉のため戸塚署に向った所、 又々武装警官約百名が狼の様に一斉にとびかゝりコン棒でナグる、突く、けるの暴行を仂 き、つき倒された新宿民報記者小林君をよってたかって押えつけ強引に檢束した。 すでに数百名に達した學生、業者、市民は急をきいて応援に来た労仂者と共に四人の即 時釈放と署長の釈明を求めるため民主商工会茂木氏を先頭に五名の代表を出し話し合いで 平和的に事態を解決する事を申し込んだが當局はピストルと棍棒によって脅迫するのみで 何等の誠意をみせなかった。 警察当局の脅迫にも拘らず、すでに二千名に達した大衆と共に代表は武装警官隊と向い 合ったまゝ二時間に亘ってねばり強く要求した結果、遂に武装警官隊を一時ひかせ代表五 名は署長面会のため警察署に向ったる所が小型自動車がくるや、署長は面会を拒み一時間 に亘る根強い代表の要求の後やっと「五分間」と云う條件つきで面会に応じたのであるが、 署長は事態解決の努力は全く示さず「檢束理由は公務執行妨害である。どんな点が公務執 行妨害であるかは云えない」と突張り「俺はハラは決っている。不滿ならば徹底的に斗え 」と治安維持に当るべき責任者が挑戰的言辞を弄し、おまけに代表五名は植民地の奴隷で なければ決して受ける事のない屈辱的扱いをうけて帰った。 かくて午后八時半、交渉をうち切った代表はすでに四千名に達した大衆に交渉の経過を 報告し、今回の事件の本質と眞相をすべての人々に傅え、この現在の暴力政治を國民の力 で日本からなくすことを訴え、警察当局の命によってではなく、自主的にみごとに解散し た。 翌十八日、この警察当局の不当檢束と暴行に抗議する爲再び早大學生、労仂者、業者が 警察署に出かけ代表が面会を要求しようとした所、武装警官隊はスクラムをくんで交通を 妨害した。漸く中に入った代表五名の交渉の結果は前日同様、署長には全く誠意がみられ ず、警官の暴行を当然の如く是認する態度すらみられた。この交渉の結果に不服な學生、 市民が再び代表を出して面会を要求している時、全く一方的に突然四時すぎ装甲自動車を 押し出し、解散命令を出すと共に、「都の西北」をうたい乍ら解散し帰ろうとする學生に 対して武装警官隊がコン棒を揮って殺到し、散々見るも無惨な暴行を加え、無抵抗の學生 を「命令に服さず抵抗する」との理由の下に手当り次第に七名檢束したのである。 十九日には労仂組合その他各種民主団体から警察当局の余りにも不当なやり方に対し続 々と抗議が申しこまれたが之も僅か数名の代表に対してさえ武装警官を使って追い返し、 人民の公僕であるにも拘らず面会は一切拒否すると云う非常識な態度に出た。 一方税ム署に対しても重税取立のために警察力を使わせた責任追求の抗議が行われた。 廿日早朝、民主商工会理事野々山氏、溝端兩氏をタイホ状をもった警官がおそい、食事 もとらせず、便所に行くひまも与えようとせず大急ぎで戸塚署にトラックで運び去った。 すると数時間もたゝぬ中に私服を店の外にはりこませて税ム署員が商店の差押をはじめ、 苦しい実情を訴え少しでも文句を云うとすぐ戸外にウロウロしている私服に連絡をとると 云う卑レツ極まる強盗まがいの差押えを強行したのである。 野々山、溝端兩氏の逮捕状には公ム執行妨害とあり、特に野々山氏はカナヅチをふりま わして暴行を仂いたとかいてあったらしく三鷹事件と同じく、白を黒と云う警察当局のデ タラメなやり口に対し当人は勿論兩氏の人格をしる町民の失笑と怒りを買っている。 警察当局はこのデッチ上げが一般市民に知れ亘るのを恐れ発表していないが首実験のた めに警察に呼び出された、当日来た数名の税ム署員すら兩氏が「暴行を仂き公ム執行妨害 」をしていない事を証言し、ケイサツ当局をあわてさせている。 以上、事件の眞相が判れば何人の目にも、何れが非でどちらが正しいかは明らかであり、 当の戸塚町民及び早大學生自治会、労仂組合、民主商工会等新宿区内の民主団体では東條 時代と少しも変らぬ警察当局の不当と現日本の政府とその背後勢力が税ム署をつうじてコ ン棒、ピストル、装甲自動車の力をかりてまでも軍事基地をつくり、祖國を植民地化する ための重税をとり立てようとする非道なやり方に対する怒りと抗議がたかまり、ギセイと なっている愛國者の即時釈放の署名運動と救援基金募集が大規模に展開され始めている。 |
■ 第一回 公判調書 建造物侵入 被告人 吉田嘉清、今井哲夫、石垣辰男、小林一彦、他略 公務執行妨害 被告人 波汐泛 右の者に対する頭書、被告事件について昭和二十七年一月二十五日、東京地方裁判所の法 廷で 東京地方裁判所刑事第二部 裁判長裁判官 鈴木忠吾、裁判官 服部一雄、裁判官 今村三郎、裁判官書記補 棚沢 隆 列席し、検察官金沢清、出席公開の上、公判を開廷した。 被告人は全員出頭し、公判廷で身体の拘束を受けなかった。 弁護人 蓬田武、神道寛治、小沢茂、上村進、各出頭した。 裁判長は、被告人・二瓶敏、同吉田利雄、同波汐泛の副主任弁護人として、弁護士小沢茂 を選任した上、被告人等に対し、氏名、年令、職業、住居、本籍はどうか、 被告人 吉田嘉清は、氏名は吉田嘉清。年令は二十五年、職業は無職。 住居は、東京都杉並区大宮前六ノ四〇九 本籍は―― 被告人 石垣 被告人 今井哲夫は答えない。 被告人 波汐泛は 裁判長は合議の上、 被告人波汐泛に対する公務執行妨害、傷害、被告事件及び其の余の被告人に対する建造 物侵入、被告事件を併合して審理する旨の決定を宣告した。 検察官は、 昭和二十五年十一月七日附起訴状記載中、被告人石内虎雄の住居「神奈川県横浜市保土ケ 谷区岩間町一ノ八二」とあるを「一の八三」と、被告人木下応佑の本籍「埼玉県入間郡飯 能町大字飯能本久下分打四四六」とあるを、「埼玉県入間郡飯能町大字久下四四六」と各 訂正し、裁判所の許可を得て、適條に「刑法第六十條」を追加した上、同起訴状及び同年 同月十日附起訴状を朗読した。 此の時、裁判長は、 その制止をも省みず喧噪に亘る傍聴人二名に対し、法廷の秩序を維持するため退廷を命 じ廷吏をして、右命令を執行させた。 裁判長は検察官に対し、 次のとおり釈明を求めた。 一、昭和二十五年十一月七日附起訴状に、「或る者は更に本部二階第一会議室に迫り」 とあるが、この或る者とは誰のことか。 二、栗山角太郎等は、如何なる権限に基づいて、どのような制止をしたのか。 三、同起訴状に「同大学本部正面玄関」とあるが、これは如何なる建造物なのか。 検察官は、 一、ここに云う本部二階第一会議室に迫った或る者とは、被告人の吉田嘉清、石垣辰男、 今井哲夫、石内虎雄、猿渡新作、小林茂夫、吉田利雄、木下応佑等である。 二、早稲田大学総長島田孝一及び十月十七日臨時学部長会議に出席中の学校当局首脳部 即ち藤田、中谷博、滝口宏等の意向により、栗山角太郎は、渡辺辰己、高木二郎と共に、 被告人らの侵入を目撃したので、その侵入に際し口頭又は動作を以って之を制止したもの である。 三、この建造物は、鉄筋コンクリートづくりの四階建であって、本部はこの一、二階に あり、正面玄関は一階にあると述べた。 裁判長は被告人らに対し、 刑事訴訟法第二百九十一条第二項及び刑事訴訟法第百九十七条第一項の各事項を告げた 上、被告人ら及び弁護人らに対し、被告事件について陳述することがあるかどうかを尋ね たところ、 神道主任弁護人は、 栗山角太郎の権限について、検察官はさきに早稲田大学総長其の他の意向により制止し たように述べられたが、具体的指示命令が、何時何処であったということなのであるか、 又は、意向を栗山角太郎らが推測して制止したというのであるか。制止する権限は、どの ようにして与えられたのであるか。その制止は誰々に徹底したのか。又この被告人らにど のようにして徹底させたのか。以上の点について裁判長において検察官に対し、釈明を求 められ度いと述べた。 小沢主任弁護人 十一月七日附起訴状に「同大学学生調査課長浜田健三外数名の職員が」とあるが、この 外数名とは具体的に誰々のことであるか。 同じく「同会議室の扉前に立塞がり入室を極力防止しようとしたにもかかわらず、暴力 を振って同会議室に押しかけ」とあるが、この防止した具体的形態はどうか。 同じく「茲に被告人らは同所に参集せる数百名の学生と共謀の上」とあるが、この共謀 の具体的態様はどうか。 以上の点について裁判長において検察官に対し釈明を求められ度い、と述べた。 此の時、弁護人石島泰、出頭した。 石島主任弁護人は、 被告人波汐に対する起訴状について、この公務執行妨害の対象となっている公務は、如 何なる公務員が、如何なる法的権限に基づいて行った公務であるか。 同起訴状に「同巡査の肩頭部等を数回殴打し」とあるが、この行為は傷害罰になる行為 と、公務執行妨害罰になる行為とが、はっきり別れているのか。又は同一の行為なのであ るか。 以上の点について裁判長において検察官に対して釈明を求められ度い、と述べた。 上村弁護人は、 栗山角太郎の制止を認めないで入ったことが、それが直ちに故なくとなるのは一体如何 なるわけか。 又建物の管守者は学生が来たらどうするといっていたのか。 右の点について検察官に対し釈明を求めると述べた。 裁判長は検察官に対して次の通り釈明を求めた。 一、栗山角太郎らは大学当局の意向により制止したと云うが、如何なる趣旨の意向に基 づいたのか。 二、起訴状(昭和二十五年十一月七日附)に「浜田健三外数名の職員が」とあるが、こ れらは誰々のことを云うのか。 三、被告人波汐に対する起訴状について、巡査が如何なる法的根拠に基いて公務を執行 したのか。 検察官は、 一、栗山角太郎らは学生の集団は、本部の中に入れないようにと云う趣旨の指示を受け たものである。 二、ここに云う外数名とは、柴崎一、渡辺良仁、栗原某、長岡鳴一の五名の事である。 三、警察官等職務執行法第五条の所定の事実の認識のもとに、同条所定の職務を執行し ようとしたものである。 と述べた。 蓬田主任弁護人は、 被告人波汐に対する起訴状に「解散せしめたるために必要なる措置を為すに当り」とあ るが、必要なる措置とは如何なるものであるか。 この点につき検察官に対し釈明を求めると述べた。 石島主任弁護人は、 さきに検察官が述べられた警察官ら職務執行法の第五条に云う「犯罪」とは如何なる犯 罪であるか。 この点につき検察官に対し釈明を求めると述べた。 裁判長は検察官に対し、 右の必要なる措置とは如何なることを云うのかと釈明を求めた。 検察官は、 学生の集団を解散せしめるため、警察官が横に立ち並んで警棒を横にして入れないよう にしたものである、と述べた。 神道主任弁護人は、 島田総長が直接、栗山角太郎らに前記のような指示をしたものがあるか、即ち直接か間 接か。 この点について検察官に対し釈明を求めると述べた。 裁判長は検察官に対し、 右の点につき釈明を求めた。 検察官は、 島田総長の前に述べた趣旨の指示の意向を、臨時学生部長会議出席中の学校当局首脳部 が解し、同意して、(二字不明)、中谷博、瀧口宏等が栗山角太郎等に指示したものであ ると述べた。 被告人吉田嘉清及び同石垣辰男は、 早稲田大学学生自治会とは如何なるものであるか。 検察官の見解を伺い度いと述べ、 被告人今井は、 我々の起訴状に謂う「同大学の反対も顧りみず」の反対とは如何なるものであるか、と 釈明を求めた。 被告人松本は、 「故なく」とは如何なる意味であるかと釈明を求めた。 被告人小林一彦は、 起訴状に我々は数百名の学生と本部内に入ったとあるが、入ったものが、検察官のさき に云はれた九名の我々なのであるか、数百名の学生なのであるか、もし我々その他数百名 の学生が入ったとすれば、我々だけが起訴されたのは如何なるわけであるか。 起訴状に「ある者は更に……暴力を振って」とあるが、この暴力とは如何なるものか。 以上の点について検察官に対し釈明を求めると述べた。 被告人古屋は、 この公訴事実に私の名が出て来ないが、 この点どうなるのか検察官の釈明を求めると述べた。 被告人石内は、 起訴状の「同大学の反対をも顧みず」と云う反対とは具体的に如何なることを意味して いるのか。 この点について検察官に対し釈明を求めると述べた。 被告人木下は、 起訴状の「第一会議室に迫り」と云う「迫り」とは如何なる内容であり、検察官はどの ように考えているか。起訴状の「暴力を振って」の主語は、「ある者は」なのであるか。 以上の点につき検察官に対し釈明を求めると述べた。 被告人梶川は、 起訴状の「被告人らは予め所謂レッド・パージに反対していたものであるが」という所 謂レッド・パージとは如何なるものであるか。 検察官の釈明を求めると述べた。 被告人小林茂夫は、 私はこの公訴事実を全部認めませんと述べ、 被告人飯塚は、 私もこの公訴事実を全部認めません。検察官はこのレッド・パージに賛成であるか反対 であるか伺いたい。起訴状に「被告人らは同所に参集せる数百名の学生と共謀の上」とあ るが、この共謀は何時、何處で、如何なる形で行はれたか。 検察官に釈明を求めると述べ、 被告人二瓶は、 私もこの公訴事実を全部認めません。起訴状の「茲に被告人らは同所に参集せる」と云 う以前は情状に関する部分であり、構成要件に関係ないから削除することを要求する。若 し検察官がこれを削除しないならば、後半の犯罪構成部分と相当深い関連性があると思う ので、之に関する我々の釈明要求を許可されたい旨を述べた。 被告人吉田利雄は、 我々は起訴状前半の部分は必要ないから削除することを要求するが検察官は此の点如何 に考へているか、意見をききたいと述べた。 被告人波汐は、 起訴状に「警察官の解散命令にも応ぜず」とあるが、この警察官は如何なる警察官で、 如何なる権限をもって我々に解散命令をしたのか。 この点について検察官に対し釈明を要求すると述べた。 神道主任弁護人は、 原則的に公開されている大学内に自由に入る権利を有する学生が、大学当局の正当な理 由なく学生が入ることを拒絶したことは不当であり、又正当な理由があって拒絶したこと は全員に徹底させなければならないものと考えるが、此の点について検察官は釈明もせず、 裁判所、弁護人、被告人らが釈明を求めなければ判らない起訴状は、寧ろ検察官の方から 公訴取消あって然る可きものと考える。裁判所に於ては、この起訴状自体に犯罪を構成し ない理由を以って、公訴棄却されんことを希望すると述べた。 蓬田主任弁護人は、 起訴状前半に記載してある事項は、検察官は行為を以って裁判所に予断を抱かせるもの である。即ちこの起訴状は、刑事訴訟法第二百五十六条に違反するものであるから無効で ある。よって公訴は取消されるべきである。もし検察官取消さざるに於ては、裁判所は速 やかに公訴を棄却すべきであると述べた。 小沢主任弁護人は、 本起訴状の前半は真実を逆に述べ、又裁判所に予断を抱かせるものであって、「同大学 法学部前校庭に於て同校並に他校より参加した学生数百名と共にプラカードを掲げ或は学 連歌を高唱し気勢をあげ」と表現していることによって、如何なる意図のもとに起訴した のか明らかである。即ち被告人波汐を除く他の被告人らは、この起訴状記載のように夫々 の肩書を有しているが故に起訴されたものであると思う。如何に起訴便宜主義と云へども、 憲法に謂う思想、身上の差別待遇をしないことを侵したものである。よってこの起訴は不 当、寧ろ違法と云うべきものであって、不適法な起訴であるから、裁判所は公訴棄却され て然るべきものであると述べた。 石島主任弁護人は、 私は起訴状はこの様な前文をつけなければ、この様な起訴は出きなかったと考える。こ の前文は裁判所に予断を抱かせるものであるから、この起訴状は不適法であると述べた。 上村弁護人は、 学生が学校内に入ったことはいわゆる「故なく」ではなく、正当であるから罪にならな いものである。それを検察官は起訴状に如何にも罪のある様に書いたものであるから、公 訴の棄却を求めると述べた。 被告人今井は、 警察及び検察庁の取り調べ方について述べ、更にこの起訴は明らかに政治的弾圧である から、公訴の棄却を求める旨を述べた。 被告人吉田嘉清は、 検事の取り調べ方から見て、この起訴は学生運動を弾圧するものであり、学問の自由を も弾圧するものであるから、公訴の棄却を求めると述べた。 被告人石垣は、 大学当局と警察とが共謀して、学生の自治を弾圧してこの起訴となったものであるから この起訴は無効であり、公訴の棄却を求めると述べた。 被告人松本は、 学生の民主的組織を破壊し学生の権利を剥奪したこの起訴は、政治的弾圧であるから公 訴棄却を要求すると述べた。 被告人小林一彦は、 我々のレッド・パージ反対を弾圧するために起訴したものであるから、これに反対する と述べた。 被告人古屋は、 この起訴状の公訴事実前半部分を削除することを検事に要求すると述べた。 被告人猿渡は、 この裁判は刑事訴訟法によって行われているのであるかどうか、私はこの裁判は刑事訴 訟法に基づいているものと考へます。そこで刑事訴訟法の前提となっている日本国憲法を 裁判長は守らなければならないと思います。この日本国憲法は何と云っているか……と、 発言を続けた。 裁判長は、右の発言は、事件に関係がないから事件についての意見を述べるように告げた が、同被告人はなおもこれを続行し、裁判長の再三に亘る発言の制止にも拘らず発言した ので、裁判長は法廷の秩序を維持するため、同被告人に退廷を命じ廷吏をしてこれを退廷 せしめた上、本日の審理は此の程度に止め、次回に続行する旨を告げ、被告人らに対し、 次回公判期日来る一月二十八日午前十時に出頭を命じて閉廷した。 昭和二十七年一月二十五日 東京地方裁判所刑事第二部 裁判所書記官補 棚沢 隆 裁判官 鈴木 忠吾 |
■ マツカーサーは流血の蠻行の組織者である ――一九五〇年八月廿日「プラウダ」紙―― こんにち、マツカーサー元帥の名はハースト系の新聞の紙面にでないことはない。「ニ ューヨークジャーナル・アンド・アメリカン」紙は、彼を「時の人」とか「今日の立役者 」とかよんでいる。 マツカーサーの名が現在アメリカでさかんにもてはやされているのは偶然ではない。ダ グラス・マツカーサーのような元帥肩章の植民地収奪者はアジアにおけるウォール街の掠奪 的冒険で主役を演じているのだ。 マツカーサーの経歴自体が彼は、アメリカ独占資本家に「滅私奉公」し、ドルのために はどのようないまわしいこともやってのける用意があることを示している。一九三二年の 夏、数千のうえた失業軍人が約束の手当を要求するためにワシントンに向って進んだ。彼 らはアナコスチア「ワシントン地区」で粘土や板切れで小屋やボロ家屋をつくり、そこに スキ腹をかゝえて家族をいれた。失業者は絶望のどん底にたたきこまれ仕事とパンを要求 したが、それに対して鉛をもらったのだ。 つまりほかでもないマツカーサーは素手の群集に対して、歩兵・騎兵・戦車をくりだし、 失業者のデモに野獣的に発砲した。死者数名、負傷者五十五名をだした。その日はアメリ カの「血の木曜日」とよばれるようになった。その晩マツカーサーはアナコスチアの宿泊 地をおそった。彼の命令一下、兵隊は失業者の宿泊地をやき、ぶちこわし、そこから女、 子供を追っぱらい、ガス彈で彼らをかりたてた。 「それはいゝことだった。」とマツカーサーはデモ隊射撃後記者にそっけなく語った。 ――「群集はいやらしい印象を与えた。それは革命の兆候をもっていた。」と、この言葉 にふだつきの反動、人民をにくむ者、労仂者を殺害する冷血漢、マツカーサーの正体がで ている。 ワシントンの「血の木曜日」――それがマツカーサーの唯一の蠻行ではないのだ。ウォ ール街が血と剣で幾百万の諸民族を征服し、それを自分の奴隷にしようとしているアジア 諸国でも、彼は長いことアメリカ憲兵の役割をせっせと果している。マツカーサーはフィ リッピンの親代々の植民地収奪者である。彼の父アーサー・マツカーサーはアメリカがフ ィリッピンを掠奪してから、その總督となり、アメリカ支配反対斗爭にケッ起した愛国者 を虐殺して、フィリッピン人民の憎しみのまとになった。それはフィリッピンの愛国者― ―パルチザン七十九名を絞殺したのである。町や村を焼きはらったのである。アメリカ占 領軍とたたかったフィリッピンパルチザンは非人道的な野獸的ゴー問にかけられた。その 頃ダグラス・マツカーサーはまだ中尉であったが、その野獸ぶりたるや父にひけをとらな かった。今日まで彼は小刀一丁もっていたパルチザンに六発の彈をみずから打ちこんだこ とを自慢している。 マツカーサーはフィリッピンの「元帥」となってさらに、絞殺と圧殺をつづけた。日本 軍がフィリッピンに上陸したとき「元帥」はバターンの部下をすてて、オーストラリアに にげこんだ。彼は第二次世界戰爭後、またフィリッピンに姿をあらわし、日本占領軍と英 雄的に斗い、祖国の自由と独立を要求したパルチザンに対する野獸的なセン滅を開始した。 アメリカはフィリッピンに條約をおしつけて九十九年の軍事基地をもっている。アメリ カ資本は経済の全部面にわたってカナメを手に入れた。マツカーサーはそこに七百万―一 千万ドルのビール工場をもっている。また彼はフィリッピンの金鉱をもっている会社の株 主である。フレダ・カーチェイが「ネイション」誌に「フィリッピン島はマツカーサーの 私有地である」と書いたのは、あに偶然ならんやだ。 それからマツカーサーは米軍に占領された日本に移った。そこではアメリカ独占資本は もっと大きな利益をもっている。彼らは日本工業をかき集めている。アメリカの將軍連中 は日本諸島に海空軍をつくり、新たなアジア侵略のための戦略基地に日本をするために大 馬力をかけている。マツカーサーはそこで独裁政治をしいた。日本の戦犯は釈放されてマ ツカーサーの手下になり、民主的活動家は政治的自由を奪われている。野獸的細菌戰の準 備を組織したものはマツカーサーの翼の下にかくれている。ファッショ的秩序が復活し、 民主運動、まず第一に労仂者階級とその組織に対するテロがあばれまわっている。 だがアジアではマツカーサーにとって万事順調というわけでは決してない。東洋の諸民 族の民族解放運動はアメリカ植民地収奪者を恐怖におとしこんでいる。朝鮮民主主義人民 共和国の存在は、ふだつきの植民地収奪者とその主人どもに安眠を与えない。アメリカ帝 国主義者は中国での敗北をアジアでの新たな略奪でうめあわせようとしている。そこでフ ィリッピンから台湾・朝鮮をつらぬく「防衛線」を即時確立せよと要求する電報や覚書が マツカーサーからワシントンにとんでいるのだ。「防衛」に名をかりて他国の略奪・諸民 族の奴隷化が計畫されている。 マツカーサーの計畫はアメリカ独占資本の意志をあらわしていることはいまさら指摘す るまでもない。ウォール街にはマツカーサーは強い後盾をもっている。マツカーサーの地 位と巨万の富はモルガン銀行の主な仲間の一つ――ストッツベリー・トラストのおかげで あることは秘密ではない。議会でマツカーサーと「アジアにおけるその武断政治」を全面 的に支持する連中は、タフト・ホーランド・ブリッジェスなどの独占資本の手先であり、 彼らはマツカーサーに無制限に権限を与えるよう要求し、独占資本の投資を保証する「断 乎たる行動」をアジアでとるよう要求している。 アメリカの銀行――モルガン・ナショナルシテーバンクなど――は日本の独占資本家か ら南鮮の金鉱をうばいとった。彼らは朝鮮の油田層を掘りだしている。彼らにとって朝鮮 は極東における重要な戰略基地として必要なのだ。そこでワシントンから東京えと、ウォ ール街の使者、天下にその人ありと知られた戦争放火者ジョン・フォスター・ダレスがい そぐ。東京へと、米軍の首脳部はとぶ。この訪日について、アメリカの一記者は六月十八 日、意味深長なことを書いた。それはこうだ。マツカーサー司令部を訪れたワシントンの 高位高官の客には、日本における軍情だけでなく、アジアの大きな地方にかんする戦略図 も示された。そして「おそらく朝鮮と台湾の諸問題も審議されるだろう」と。…… 東京会議の結果はどうかと、それを長くまつこともなかった。アメリカ侵略の当面の対 象として、朝鮮が選ばれた。その組織者に「朝鮮作戰」を一週間で終ってみせると約束し たマツカーサーが任命された。 ところが、マツカーサーがとんだ見当ちがいをやったことは明らかだ。アメリカ式の武 器も、アメリカの長期の訓練も役に立たなかった。李承晩軍は人民軍の一撃をくらって敗 走した。 マツカーサーはまさに怒髪天をつくといったかっこうである。ガタガタになった李承晩 徒党の建て直しのために朝鮮え自らとんだ。だが元帥の高らかなバスも事態をかえること はできなかった。李承晩軍は一路南をさして一目散。 そこでマツカーサーとその主人は朝鮮の冒險は他人まかせではだめだとわかってきた。 朝鮮にアメリカの軍隊、空軍、艦隊を投入し、朝鮮人民に対する公然たる武力干渉に移ら ざるを得なくなった。アメリカ干渉軍の總帥はもちろんマツカーサーがなった。 もう二ケ月近く朝鮮の愛国者はアメリカ干渉軍と英雄的に戦っている。かれらは一歩一 歩一尺一尺と苦しい斗いのなかで、祖国の土地を外国侵略者から清めている。歯まで武装 したアメリカ干渉軍は、英雄的朝鮮人民軍の正面切っての戦斗でもちこたえることができ なかった。干渉軍の足もとでは、火の手があがっている。勇敢なパルチザンは夜も晝も彼 らに安息を与えない。それだけでマツカーサー元帥はたけり立ち、平和な村や町に野獸的 バク撃を加え、幾千の女・子供・老人を殺してしかえしをしている。マツカーサーは朝鮮 民族を憎んでいる。彼は「下等な黄色人種」だとバカにしている。トルーマンのキビにふ して、朝鮮人を「悪漢」と呼んでいる。「アメリカ兵が後方で朝鮮人と会いこいつ怪しい と思うとうちころす」とアメリカのジャーナリストはかいている。「またまず朝鮮人を射 ってからきゝただすものもある」と特派員は冷やかに語っている。 アメリカ干渉軍はパルチザンをかくまっているといううたがいを理由に夛くの村をやき はらっている。 捕虜になったパルチザンは銃殺される前に背骨をへし折られるのである。 アメリカ帝国主義者は朝鮮を植民地化し、朝鮮人をウォール街のおとなしい奴隷にしよ うと望んでいる。しかし自由を愛し誇りをもつ朝鮮人民は、アメリカドルの前に、首斬人 マツカーサーの前に、決してひざを屈しないであろう。 そして祖国の自由と独立のために完勝まで戦い抜くだろう。 |
■ 全学連第五回全国大会決議(案) 中央執行委員会 一、国民に誓う われわれの愛する祖国は賈り渡された。四月二八日、講和発効に伴い、日本は独立した と云う、だが両条約と行政協定に当り、まさに公然たる祖国の永久占領は始められたのだ。 占領者は祖国を支配し、アジアを侵略するために、全国網の目の如く軍事基地を建設し、 傭兵を育成してきている。かゝる占領制度のためにこそ祖国の経済と産業は破カイされ、 資源は戦爭のため掠奪され、教育・文化はその本来の姿を失つて只ひたすら戦爭計画に從 属させられ、われわれの生活も亦多大の圧迫を受けて来ている。占領政策の忠実な実行者 として吉田政府は彼らと一体となりこれらの生活と自由への圧迫に抗し、全国民が団結す ることを恐れ、学生運動、労仂運動の弾圧にヤッキになつている。 全ての苦しみ、全ての圧迫が国民の生活と自由を抑圧する占領政策に起因し、この政策 を忠実に実行し、祖国をうりわたさんとする吉田政府に起因することは余りにも明らかで ある。 それ故にこそ、彼らは占領制度を永續化せんがために、破防法を作成し、祖国の平和と 独立のために斗う愛国者を虐殺して来ている。戦爭のための科学・文化でなくて、平和の ための、そして国民のための科学・文化を発展さすためにも、平和と独立なくしてあり得 ないし、占領制度の撤廃なくしてはあり得ないことを我々は苦しい斗いの中から身をもつ て知つて来た。 学園を民主化し、解放する道は祖国の独立をかちとり、民族の解放をかちとる斗いであ り、平和と独立への道としてわれわれに課せられた崇高なる使命である。 われわれは破防法反対斗爭を激しく斗つてきた。そして仮令破防法が通過してもその実 質的な粉碎のために、ますます全力をあげて斗わねばならぬことは云うまでもない。すで に反動権力は学園の中に於て具体的に集会を禁止し、サークル自治会の結成を弾圧し、又 ビラを貼ることすらも禁止し、それらの抑圧と斗う愛国的学生を処分して来ている。これ らの学校権力、ファッショ権力は、労仂者を搾取し、抑圧する職制であり、封建的関係を 利用して農民の全ての要求をふみにじる農村ボス・地主等の権力と同じ権力である。更に 重要なことはこれらの具体的なファッショ権力こそが占領制度、吉田政府の基盤であり支 持であると云うことだ。 從つてわれわれは單に「破防法反対」を唱へるのみならず、学園を支配し、学園の解放 を阻むこれらの権力と躊躇なく斗うことが重要であり、これにより具体的に占領制度の基 盤に対し打撃を与えなければならない。それ故にこそ占領制度と重要な対をなす収奪政策 と斗う生活擁護の斗いは重要であり又以上の斗いの中でこそ眞に学園を愛し、民族の学問 を守る教授層との提携も強化され得るし又強化されつゝある。学園の解放・平和のための 学園の創造発展は、全学生の要求であり民族解放の斗いであり、それ故にこそわれわれの 斗いは、狂暴なファショ権力に対しこれを斗いぬくための力が必要であり、こゝに於て労 仂者・農民との共斗は重要不可欠な問題である。両条約、行政協定に基き、学園自体が軍 事基地となり学問、教育そのものが侵略のための武器として利用されているとき、われわ れ労農市民との具体的な団結なくして、これらを根本的に打ち破る力をもたずしては、青 白きインテリとしての悲劇を再びくり返さねばならないであらう。 再びわだつみの声をくり返さないために、光栄ある祖国の平和と独立を斗いとるために (以下、印刷不明)。 二、夏休みに関する決議 労仂者・農民の中へ われわれは今迄の自治会活動をふり返つてみるに何時も休暇に入れば斗爭が停止すると いう欠陥を持つていた。この欠陥を克服しこの夏休みには是非われわれが常に述べてきた 「労仂者・農民の中へ」ということを行う中でわれわれの斗爭を発展さして行くべきでは なかろうか。今迄小河内村へ行つた早大の学友の行動や、東大厂研の山城一揆の紙芝居な どの経験は具体的にわれわれの活動の方針を示している。 先づ第一に各文化サークル、演劇部、地方学園の文化部などを中心にわれわれの創り出 した民族文化を労仂者・農民の中へ出来るだけ持ち込むということである。演劇部や自治 会が協力して反戦劇などを農村・工場など地方公演することや映畫部などが中心になつて 映画会や幻燈を貸すことはどこの学校でも容易にやれることであり、又その意義は非常に 大きいものがあるであろう。第二に京大の農研が行つた如く調査要綱を作り、農村の封建 性の問題、又現在富士山麓に於ける様に土地収奪によつて悩んでいる農村の実体を調査し 農民の実情を知ることである。このことはわれわれが自ら体験によつて学問し、そうして われわれの学問を眞に奉仕することになるのである。 こういつた様なわれわれの実際的な行動の中で大胆に民族の独立をかちとるために平和 を守ることと共に手をとつて斗おうということを訴えることによつてわれわれの国民戦線 の統一を強化することになるのである。 この夏休みを有意義に利用しなければならない。 |
三、反戦権利擁護大會を斗いとろう 戦爭政策によつて最も苦るしめられているのは、われわれ青年である。労仂青年は、職 階制賃金によつて最も低い賃金をおしつけられ、農村青年は土地を奪はれ、予備隊への道 よりのこされていない。われわれ学生は日々の学業をつゞけることすらできない状態であ る。そして更に重要なのは、これらの圧迫こそわれわれ青年を肉弾にしようとする陰謀で あり、この徴兵への苦るしみは、直ちに全国民、全世界の人民の苦るしみに通ずるもので ある。 アムステルダム青年労仂者のアピールが全世界の問題になつたことは不思議ではない。 全世界の青年が戦爭政策を打破するための斗いこそ、この国際的会議の意義があること はいふまでもない。 この会議をかちとる斗いは、又破防法粉碎の中で大きく発展しつゝある全青年の統一の ための斗いである。 われわれ学生はこのために次のことを行なふ。 一、クラス、サークル等あらゆる単位で準備会をつくる 二、われわれ学生のあらゆる要求を自治会よりあらゆる単位で討論し、大会に向けてそ れをまとめて行く 三、夏休みに農村・工場え積極的に入り、この会議の意義を農村青年・労仂青年に訴え、 日本大会と国際会議えの代表派遣運動を共に起してゆく 四、アジア太平洋平和会議に関する決議 高良・宮脇・帆足氏らが参加して開かれた北京のアジア平和会議準備会は、この会議の 本会議を九月に開く事をきめた。これには、二十ヶ国以上の代表が参加し、日本準備会に は、労仂者・農民・知識人ばかりでなく民族資本家も積極的に参加している。 「わだつみの声をくりかえすな」と一貫して斗つてきたわれわれ日本学生も又これを積極 的に支持し先頭に立つて斗かうだろう。 なぜなら昨年九月以来、賣国「二条約」の無効を宣言して斗つてきた日本学生、日本国 民にとつてこの会議こそ導きの星となるからである。 われわれは、戦爭によるのでなくて話し合いによつて、経済封鎖によるのでなくて、自 由な国際貿易によつてこそ平和が守られることをかたく信じ、それ故にこそこれを理不盡 にふみにじつたサンフランシスコ会議に対し激しい怒りをもやしてアジア太平洋会議に希 望と期待をよせる。 (一)われわれはこの会議で次の事が討議されることを要望し実現のため努力する。 1 日本再軍備について 2 朝鮮問題の平和的解決について 3 中日貿易について 4 国際文化の交流について (二)そのために日本代表の派遣運動に努力し日本学生の代表をも如何なる妨害をもは ねのけて、参加させるよう努力する。 (三)このために六月二十五日より八月十五日まで平和問題を国民の先頭になつて斗い ぬく。 1 次の国民投票・署名運動を行ふ。 A 再軍備反対・徴兵反対の国民投票 B 五大国平和協定署名 C 細菌兵器の使用禁止 2 原爆展・細菌戦のスチール展を開く 3 夏休みを平和のために捧げ農村工場え入つて行き国民と共に斗う。 右、決議する。 五、国際学連次期評議会に関する決議 六、オリンピックに関する決議 七、反戰学生同盟解散支持決議 旧中執武井らは第四回大会以来自治会の破カイと学生戦線の分裂をつゞけてその道具と して会員をそだて、A・Gは分裂サク動を積極的に行ふ集団として活動して来た。 この分裂主義者武井らやA・Gに対する斗いこそ、自治会を強化民主化し学生の要求を かちとる上での最も激しい斗いであつた。全国学友の統一のための斗いは、三月拡中委に 於て旧中執武井らを完全に追放し、分裂サク動の根元を粉砕した。 こゝに於て全国学生は、学生の利益を裏切る者は、必ずや追放され、分裂の企図は粉砕 されることを確信したのであるが、この輝かしい統一を斗いとつた全国学生の斗いは既に、 A・G全国準備委員会をして解散の決議をさせたのであつた。A・G全国準備委員会の誠 意ある解放決議は分レツをつゞけて来た各地の分裂主義者の陰謀に打撃を与え眞に学生の 利益を守ろうとするA・G員はぞくぞくと自分の過去のあやまりを認め分裂をやめ、学生 の利益のために斗いに立ち上りつゝある。 しかるにA・Gに名をかる一部悪質分裂主義者は、破防法粉砕を中心とする全国学友の かつてない斗いの拡大と発展の中で、再び分裂をさくしA・Gを再建しようとたくらんで いる。 大会に結集した統一を更につよめ、斗いを発展させるためには、この分裂主義者の策動 を粉碎しなければならぬ。そしてわれわれが今、全国民と堅く団結して斗つている。この ことは、必ずや可能である。 われわれはA・G全国準備委員会の解散決議を支持し悪質分裂主義者、(旧中執)武井、 安東、富田、柴山、澁野、(早大)吉田、石垣、小林、松下、横山(教育大)飯島(東京 女子大)伊藤、和田、(津田)山下、柿本、(明大)伊藤、下平、小林、勝木(立命大) 中西(大阪市大)片山(大阪外大)井手、(関大)加藤(関学)佐藤(神大)辛、らを全 国学生と全国民の名に於て追放することを決議する。 八、破防法無効宣言 単独安保の賣国二条約によつて祖国を外国に賣りわたした吉田反動政府は、平和と自由 と独立を求めて斗う労仂者階級を先頭とする全国民の巨大な力の前にますます孤立化し、 ピストルと棍棒との彈圧政策以外に道がなくなつている。この内外反動の戦爭政策に反対 する全国民団結の日メーデーには、人民広場は、祖国の解放のために斗う愛国者の血潮に 赤く色どられ、学園の自治のために早大生は、無抵抗のまゝ棍棒でなぐられ泥靴でふみに じられたのであつた。又賣国奴吉田はスパイ網を全国にはりめぐらし名古屋大学に於ては CIC直属のスパイがバクロされ愛知大学事件は、特審スパイの学内潜入によつてひき起 されたのであつた。 この様な事実を合法化し国民の自由を徹底的に奪いさり刑事・民事・特別法などの一連 の占領法規と共に祖国を完全に外国に賣り渡しわれわれ日本人を戦爭の泥ぬまにひきづり 込み第三次世界大戦をひきをこそうとして賣国奴吉田は、破防法を国会に於て成立させよ うとしている。 しかし彼らの陰謀は、破防法粉碎に起ち立つた労仂者、学生を中心とした国民的ゼネス トなど等、実力行動の前に、破綻を示しはじめた。われわれは学校で工場で農村でこの破 防法を実力で粉碎すると共に本日こゝに結集した全国三十万の学生を代表する第五回全学 連全国大会に於て国民の名によつて破防法の無効なることを右宣言する。 一九五二年六月二十七日 第五回全学連全国大会 |
■ 早大事件に關する覺書 去る五月八日の學生對警察官の紛爭事件に關しましては、いろいろと御心配をおかけし たことと存じますが、後記のように本學校友三代議士の斡旋により、五月二十一日に大學 側と警視廳側との間に相互の了解が成立いたしました。この了解に達するにつきましては、 五月二十一日の緊急理事會及び臨時學部長會に附議いたし、それぞれの同意を得たもので あることを念のため申添えておきます。 尚、覺書に使用されております法律上の用語に關しましては、意にみたぬ點が數箇所あ りますが、法律的な評價は終局的には裁判所の判斷すべき事項でありますので、その點ま でも大學側が承認しているのではありません。要するに、司法的な關係をはなれての兩者 の了解であることに御留意願いたいと存じます。また、これに關する新聞紙の報道には、 事實と相違した點も散見されましたので、大學としては直にこれが訂正を入れておきまし たが、左記覺書全文の御精讀を願えれば幸甚と存じます。 昭和廿七年五月廿二日 早稲田大學 □ 早大事件に關する覺書 衆議院議員運營委員長 石田博英 改進黨國會對策委員長 川崎秀二 日本社會黨書記長 淺沼稲次郎 私共三名は早稲田大學校友として五月八日夕刻より九日早曉にかけて發生した所謂「早 大事件」に對し深い關心を持ち、事情を調査してその責任を明らかにすると共に、學校當 局と警視廳との對立について公正、妥當なる解決をはかり、以つて昨今各地に頻發するこ の種の事件の根絶を期することに意見の一致を見た。 よつて三名は直に事件の經過と主張について双方の見解を訊した結果、次の如き結論に 達した。ここに文書を以つて學校側代表者たる早稲田大學總長島田孝一氏、警察側代表者 たる警視總監田中榮一氏にこの結論を通知し双方共いたずらに相手方の非を追究すること なく深く自省されてその實をあげることを要望するものである。 記 一、警察側に對する意見 (イ)荻野、山本兩巡査の行動は次官通牒に違反するものではない。然し山本巡査が圖書 館脇において學生の質問を受けた際「アメやを待つている」と虚偽の返答を行つたことが 事件を惡化する一因をなしている。警察官として適法の行動を行つているのであるから、 その旨を正しく述べるべきであつた。 (ロ)適法な行動でも、客觀的な情勢に對する愼重な考慮が望ましい。 (ハ)警察官は「不法の行爲」に對しては最も峻嚴でなければならない。力の壓迫に押さ れて自ら「不法」に屈するならば、それだけで警察官の適格性が疑わしい。この事件の場 合、學生側の「詫状を書け」という要求には應ずる必要はない。特に一部の學生が多數を 頼み自由を拘束しての要求であるからなおさらである。 從つて山本巡査、藤原警部補がこれを拒絶し續けた態度は正しい。このため學生側 の暴力によつて受けた犠牲は償われなければならぬ。 これに反し、神樂坂警察署長は「學校側との連絡に過誤があるならば荻野巡査を捜 して詫状を書かせる」と約束しているが、この署長の言動が明確を欠き事件を長びかせ深 更にいたらしめた一つの原因を爲しているのであるから、その責任は明らかにすべきもの と考える。 (ニ)實力行使に當つて、學校側に對する連絡については双方の主張に喰い違いがあるが、 公平に見て完全であつたとはいい難い。 この場合、後日の異論を生じないよう措置をとるべきである。 (ホ)また實力行使を行うに至つた情況判斷については、必ずしも適當とはいえない。 實力行使發令後の行動は冷靜適當を欠き、行き過ぎのあつたことは否定できない。 警察力は常に必要最少限に止むべきであり、背後より實力を使用した例を見ることについ ては警察側の反省を求めなければならぬ。 指揮者の責任を明らかにすると共に、警察官の訓練、教育について再考を要するも のと考える。 |
二、學校側に對する意見 (イ)この事件の發端は必ずしも偶發的であつたとは考えない。一部學生の行過ぎにあつ た。 (ロ)午後九時五十五分第二號館一一〇番教室において、學校側、警察、學生の三者協議 が行われるまでは一部の學生によつて山本巡査及び藤原警部補に對する不法拘禁、強制的 な訊問、身體險査が行われたことは認めなければならない。法によらないこの種の行爲は 何人に對しても許さるべきではない。學生の行爲は不法であつて、この責任は明らかにす べきである。 從来各學校における事件をみるに所謂「次官通牒違反事件」については「大學の自 治」を護るために警官に對する自由拘束、調査訊問、身體險査の特權があるかの如き行動 が多い。これは美名の下に不法を行うことである。必要あるときは學校當局において交渉 解決することでなければならない。 (ハ)今回は、從来の學校事件と違つて、學生側に在つては比較的靜肅であり秩序もあつ た。然し集團の壓力による自由の拘束、強制は一種の暴力であり、且つ山本巡査を四號館 から後手にさせて連行し、廣場に終始起立させ、また一時一部の者が直接暴力を加えたこ とは事實であつた。 (ニ)學生側が山本巡査及び藤原警部補に「詫状」を書くことを要求したことは強制且つ 脅迫的行爲であり、山本巡査及び藤原警部補がこれを拒否したことは當然である。 (ホ)學校側の教授及び職員が事件の圓滿な解決をはかつた努力と善意は認めるが、前述 の學生の不法を抑えて、山本巡査及び藤原警部補の自由を恢復し、學校側が引取つて警察 と交渉する方向に強く指導すべきであつた。然るに自ら身體險査(本人の承諾を得てはい たが)を行つたり、詫状を書かせる斡旋を行つたことは遺憾である。 (ヘ)次官通牒を正しく學生に徹底せしめる努力に欠けていた。勿論一部學生は故意に誤 解乃至擴張解釋し利用していることも認めなければならぬ。 附 記 一連の學校事件と共に早大事件において最も警戒すべきは、學生と警察官との間に無用 の敵對心が存在することである。學生の思想傾向の如何を問わない。警察側は大部分の學 生は穏健で眞面目に勉學に努めていることを知らなければならない。 メーデーの際宮城前廣場で暴行を働いた學生と早大事件の學生は極わめて一部を除いて 同一人ではない。それを同一人視し、感情的に行動したことは遺憾である。 また、警察官の職務は尊敬さるべきである。同時に尊敬に値いすべきものでなければな らない。今回の事件は警察官の年令・教育・訓練・待遇について再考すべき問題を殘して いる。 大學は學問と共に社會的良識と教養の付與について、將來國家の最も優れた中核たらし めるための教育について、更に積極、且つ指導的でなければならない。 また、大學の自治、學問の自由は護らなければならない。この點について現在の警察の 行動に必ずしも滿足するものではない。 然し大學に決して治外法權が認められているものでないことも勿論である。所謂「次官 通牒」の檢討によつて兩者の調整をはかることを文部・法務兩當局に要請するものである。 なお、この覺書は「早大事件」に關連する各種の刑事事件の訴追をも中止せしめようと 考えているものではない。 昭和二十七年五月二十日 【註】活版6ページ。大学当局が制作した部内配布資料と推察される。(資料提供・吉田 嘉清) |
■ 早稲田大学全学学生協議会規約 前文 我々は、早稲田大学全学生の自治組織の確立を希望し、民主的学生自治を実現する為に こゝに各学部の自治組織を単位とする協議機関、早稲田大学全学々生協議会を結成する。 我々は各学部の存在を尊重しつつ、本会目的達成の最善の機関とするため、大学当局と 協力して真に大学たるの面目と誇りを発揮するよう努力することを誓う。 第一章 總則 第一条 本会は早稲田大学全学々生協議会という。 第二条 本会は各学部会の相互の連絡と協議により、本大学々生の總意を実現することを 目的とする。 第三条 本会は本大学すべての学部会をもって構成する。 学部会とは各学部の全学生が自主的に構成する自治組織をいう。 第四条 本会は、次の委員および機関をおく。 全学々生協議会委員、全学々生協議会常任委員会及び常任委員。 第五条 本会は本大学教職員との間に協議機関を設けることが出来る。 第六条 本会の事務所は本大学構内に置く。 第二章 構成及び機関 第七条 全学々生協議会委員は各学部から三名選出し、うち一名を常任委員とする。 その選出方法及び任期は各学部の規定に準ずる。 第八条 全学々生協議会委員は全学々生協議会を構成する。 第九条 全学々生協議会は全学部会の三分の二が参加の上、全委員の過半数の出席によっ て成立する。 第十条 全学々生協議会は本大学々生の協同生活に直接関係あることについて決議するこ とが出来る。決議は、出席学部会の三分の二以上の賛成をもって決する。 第十二条 本会は次の役員を置く。議長 副議長 總務 会計。 第十三条 役員は常任委員中より全学々生協議会において選出する。 第十四条 全学々生協議会のもとに、必要に応じて各種専門委員会をおくことが出来る。 第十五条 全学々生協議会は原則として議長が毎月一回招集する。但し三学部以上の要求 がある場合は臨時に召集しなければならない。 第十六条 全学々生協議会の議題及び日時は開催の日より一週間前に各学部に通達しなけ ればならない。但し常任委員が緊急と認めた場合はその限りではない。 第十七条 常任委員は常任委員会を構成する。常任委員会は本会の運営上の事務及び会計 管理を行う。 第十八条 常任委員会は原則として毎週一回開く。 第十九条 本会の会議は公開を原則とし、その決定は公示しなければならない。 第三章 会計 第二十条 本会の経常費は各学部がそれぞれ一定額を負担する。 第二十一条 本会の特別経費は全学協議会において決定する。 第二十二条 会計は常任委員一名がこれに当る。 第二十三条 本会の予算は年度始めに全学々生協議会において決定する。 第二十四条 会計年度は四月一日より翌年の三月三十一日までとする。 第二十五条 会計監査は各学部会より一名の監査委員を選出し、監査委員会を構成してこ れに当る。 第二十六条 会計は全学々生協議会においてこれを報告し、且つ公示しなければならない。 第四章 附則 第二十七条 本規約は過半数の学部会の承認があった時効力を発する。 第二十八条 本規約を改正する必要あるときは全学々生協議会に発議し、三分の二以上の 学部会の承認を得て決定する。 第十一条 全学々生協議会の決議の執行は各学部会が行う。但し学部会が全学々生協議会 の決議に反対の決議をした時はこの限りではない。 |
■ 自治庁通達撤回のために、 全国の学友諸兄に訴う 全国の学友諸君! 学生選挙権に関する自治庁通達に対する全国の学生を中心とする国民大多数の反対運動 は、非常な勢力で拡がっています。 私達早稲田二万八千の学生は此の通達について、あらゆる観点から討議致しました。其 の結果、吉田政府が学生選挙権を奪い、一貫した大再軍備計画を強行せんとする政治的意 図をもっているものであるという事をはっきりと知りました。 私達はこの討論を基礎にして、「学生の選挙権を奪う自治庁通達撤回」、「基本的人権 を守り、ファシズムの再現を許すな」のスローガンの下に九月二十二日、大隈講堂に於い て通達反対学生大会を開き、清水谷公園では全都四千五百の学友諸君と共に、通達撤回要 求全都総蹶起大会に結集し、自治庁へ一大抗議デモを成功裡に行いました。 早大では、大隈講堂で合法的に全学学生大会を開きましたのは一九五〇年以来三年ぶり であります。一九五〇年、反レッド・パージ闘争を契機に自治会が解散され、苦しい闘い を続けてきましたが、一九五二年全学的自治組織の再建に成功し、此の闘いを通じて私達 学生の勝利を確信すると共に、その勝利も全国学生の固い団結なくして望めないことも知 りました。 私達の力強い広汎な抗議運動によって、二十五日塚田長官は一歩譲歩の態度を明らかに しましたが、六月十八日付の通達は絶対に撤回しないといっています。 塚田長官に代表される自治庁の態度は一つのゴマカシであり、彼等の動揺の表れである と考えます。 私達早大全学学生協議会は、今迄の反対運動を最近の情勢と関連させて綿密に検討した 結果、次の運動方針を決定しました。 一、通達を撤回するまで抗議運動を続ける。 一、全学連の反対署名八十万獲得運動を支持し、全国学生の先頭に立ち十万票の署名を獲 得する。 一、特別調査をボイコットし、調査用紙は各クラス・サークル・研究会・自治会で責任も って保管し処理する。 一、十月二十八日全国学友と共に、学生選挙権擁護、民主主義擁護全国学生総蹶起大会を 開き、そのため全国の学友諸君に訴える。 一、闘争体制を強化する。 一、教授との統一を深め、全国のあらゆる学生団体及び労組を中心とする民主団体と提携 する。 以上の点を満場一致で確認し、全国学友諸君の先頭に立って反対運動を進めることを誓 いました。 先日、この通達に対して私学経営者協議会(議長早大総長島田孝一氏)も反対声明を出 しています。又、今迄学生のすべての政治的発言・運動を否定していた私学連も二十日の 全国大会で反対を決議し、今やすべての学生団体は反対の行動に立ち上っています。 十月五日東京都学連の呼びかけで選挙権対策委員会が開かれ、十八大学五十名の代表が 集まり、最後まで闘うことを決定致しました。 今迄学生運動に参加したことのない拓殖大学の代表も出席し、此の問題を委員会に取上 げて運動を進めることを確約致しました。 私達の団結は日一日と強まりつつあります。試験や学生週間、文化祭という悪条件が重 なり合っていますが私達の勝利は間近かです。闘いの条件は充分あります。 今こそ全国の学生が立上り「自治庁通達撤回、基本的人権擁護」で意志を統一し、固い スクラムを組んで闘わねばなりません。 そのために、貴大学に於いて、自治庁通達反対運動が進められていることと思いますが 更にクラスやサークル・自治会で討論を深め反対運動を力強く押し進められんことを訴え ると共に、十月二十八日学生選挙権擁護、民主主義擁護全国学生総蹶起大会に参加される 様お願い致します。 私達は再三、全国学友の先頭に立って闘う事を確認しております。 十月二十八日の全国大会(日比谷公園予定)の準備会に貴大学が是非参加される様要望 すると共に、クラスや自治会でそのための準備会を、又地方、地域毎の準備会を組織され る様提案致します。 貴大学に於ける反対運動の現状をお知らせ願えれば幸せです。 一九五三年十月八日 早稲田大学全学学生協議会 |
■ 全学協、新活動方針を決定 議長に境君(二政)を選出 早稲田大學新聞 二八年度第三期の活動方針、人事改選を決定する全学学生協議会総会は一月十六日に開 かれた。人事の改選では、全学協創立以来、一年有余にわたつて、全学協議長を務め、自 治会再建への多くの成果をのこした芹澤寿良君(法・四年)は三月の卒業を控えて辞意を 表明し、勇退した。後任議長として、全学協常任委推選の境栄八郎君(二政学友会委員長 )を満場一致で承認、次いで三学期の活動方針の討論に入り、授業料問題他数項目にわた る活動方針を決定した。 人事改選に続いて討議された全学協第三期の活動方針は次の通り決定した。 一、授業料問題 各学部学友会を中心として、値上げ反対運動を展開、また分納制の獲得 に努める。未納者に対する受験拒否や抹籍処分などの差別待遇に反対し、納入不能者に関 しては互助活動を促進してゆく。 二、学園自治權の擁護 全学協・第二学部合同委員会の非公認一一部学友会の機関紙発行 停止など一連の自治権干渉に対しての闘い、全学協・第二学部合同委員会の公認につとめ る。 三、護憲運動 二カ月にわたる春休みの帰郷運動の中心を平和憲法擁護・再軍備徴兵反対 ・平和運動の促進におくよう準備する。 四、平和運動の積極化 全学生の声を無條件にとりあげ、それを基礎として学生生活とタ イアツプした平和運動を積極的に展開してゆく。 五、統一行動 文団連・協組・女子学生の会・体育会・寮との恒久的な統一をはかるため、 協議機関の設置につとめる。 六、教育・宣伝 全学協、各学友会の報道部を通じて教育宣伝を徹底的に行う。そのため に全学協ニユース、学友会ニユースの発行期日を厳守する。 七、基地反対運動の強化 基地反対運動は大衆化の方向にあるが、これを完全なものに育 てるよう積極的に基地対を強化し、教育宣伝を行う。 八、学園復興会議の開催 下からの要求を基礎として学園復興綱領を作成、これにもとづ いて運動を行う。また、新学期早々に早大の学園復興会議をもつよう準備する。 九、財政確立 十分な運動ができるような財政の確立を準備する。 十、規約改正 学生自治を全面的に回復させていくためにも、全学協の組織を強化するた めにも規約改正は必要である。 以上の方針決議後、文学部代表から全学連への加盟、憲法擁護国民連合への加盟、新入 生歓迎大会に関する三つの提案があつたが、学生に訴えて支持をうけてから、全学協とし ての態度を決めるという線が出され、具体的な討論は次回の常任委員会に持ちこされた。 (一九五四年一月二十日) |
■ 声明書 「新早稲田」 学問の自由と独立は早稲田大学の精神である。七十年の輝かしい歴史と伝統は、この下に 培われ、創造されて来た。 この歴史と伝統を踏襲して自由と独立の理想像に、更に一歩近付かんがために、我々は 単一学部制を主張するものである。 (一)我々は社会的、学問的利害関係から出発するものではなく、あらねばならぬ理想像 としての早稲田大学実現のために、現実に横たわっている、学問の場の批判から出発する ものである。 (一)我々は現行機構が、第一学部、第二学部間の精神的学問交流を阻害し、自ら学問の 自由を圧迫している事を悲しむものである。 (一)我々は現行機構が単位制と調和したものでなく、戦前の学年制の殻を抜け出ていな い事を確認する。時間的、空間的に制度利用の場が広げられ、機会均等が与えられて始め て個人の主体性を根幹とする単位制が可能となる。 (一)我々は単一学部制の実現によって、如何なる人々も如何なる学友も利益を得、決し て損害を蒙るものでない事を確認する。 (一)我々は過去の失敗にかんがみ、この運動を他の運動と並行的に遂行してはならない。 (一)我々は単一学部制実現の鍵を握るものが、第一学部学友諸兄である事を確認する。 従って我々の努力は第一学部学友の理解と協調を求める点に向けられなければならない。 (一)われわれは共同社会としての学校社会を再認識する。それ故われわれは常に話し合 いによってその実現を期さんとするものであるが、然し多くの改革が実践的行動力によっ て完遂せられて来たという歴史的教訓をわすれるものではない。 (一)われわれはこの問題に対する歴史的重要性にかんがみ、如何なる犠牲も甘んじて受 け、他にこの実現運動を優先せしめることを誓う。 (一)われわれはこの運動の第一次目標を、来春来るべき後輩を単一学部制想定の下に入 学せしめることに置き、この解決を昭和三十年度中として運動を強力に押し進めんとする ものである。 われわれは単一学部制が、新しい早稲田の下における新しい制度として、歴史の上に輝 かしい、新たなる一ページを加えるであろうことを確信し、大いなる自信とほこりをもっ て、この声明書を送る。 学友諸兄の友情と団結を期待する。 『新早稲田』(單一学部制実現対策合同委員会機関紙一九五五年十一月第三号) |
■ ミシガン大学問題 提携の是非を広く学の内外に問うことを再び提案す 一、各学部教授会にかけ、一切の疑問と危惧を明らかにし事の是非を問うていたゞきたい。 一、全学協並びに学生委員会は卆先して、全学生の疑問と危惧を解く様努力していただき たい。 一、大浜総長はその後の交渉経過とその進行状態契約内容を逐一明らかにする様直ちに開 始していたゞきたい。 吾々日本共産党早大細胞は、学問の自由と独立を守り早稲田大学七五年の輝ける反戦の 伝統を保持するために全ての早稲田人が早稲田大学の発展に積極的に参加し、民主々義を 遂行することこそ、現在のミシガン大学との提携について正しい解答を得られるものと信 じます。 次に二月十一日早大細胞が提出した公開質問状について総長と面会し、その回答を要約 し御報告します。 一、提携の端緒と交渉経過について 昨年、海外出張の際、技術提携の構想を待っていた。構想及び交渉の事実については、 理事会、学部長会議、評議員会にかけ承認を得ている。特にミシガン大学と提携した点に ついてはI・C・Aから日本と契約の出来る大学五校の推せんを受け、五校の中からミシ ガン大学をこちらで自由に選択した。現在二名の教授を三月末ミシガンに渡遣し、受入れ 体制を調査しに行く予定である。 二、昨年取消しになったジョージヤ工大について ジョージヤ工大との提携取消しにはこゝの理由がある。(一)二流以下の大学である。 (二)教育内容に干渉してくるからである。今度の場合は危惧の起る可能性がない様に思 つている。 三、契約した事実と判明した部分、並びに大浜総長の契約についての見解 アメリカ側は教育内容について干渉していない。たゞカリキュラムについて、アドバイ スする用意があると云つている。更にアメリカ教授団は、セミナー、クラスワークを行う 用意を持つている。アメリカ教育団の地位、権限は、日本側先任者一名、アメリカ側責任 者一名、この両責任者を研究所長がカントクする。(註・所長は現在大浜総長) アメリカ国務省との直接の関係はない。資金はI・C・Aからミシガン大学に出て、ミ シガン大学から早大え三年間二億の資金が来る。 ミシガン大学には現在、原子力研究所を作つている。アメリカ海軍から提携申入れがあ つたが断つている。原子力研究所は、教授先生にも利用していたゞきたいと思つている。 吾々の考えているのは技術についての提携であつて、教育内容についての干渉は受けて いない。生産研究所には外部勢力に從属するものではなく、あくまで自由な早稲田の立場 で排他的な立場でなく、他とも提携するので学問の自由を犯すものではない。 四、生産性向上運動との関連について 生産性を向上することは国民生活を向上させていくことで、生産性向上の問題について の全般的研究をやる。もし失業問題が大きく出てくるならそれも研究する。 五、提携についての是非を学内外に問うことについて 学生、教授の意向をいろいろうかゞつてやる必要はない。理事会、学部長会議、評議員 会にかけ承認を受けている。教授、助教授も学部長を通じ知つているはずだ。調印の終了 次第契約内容を早大新聞に発表してもよいと思つている。 日本共産党早大細胞 |
孫副委員長退學處分か 一政委員會斷乎立上る 大量五十余名の授業料未納者抹籍が問題になつているとき、孫炳泰副委員長は十一月二 十日午後二時學部長名で復學拒否(退學處分)通知が出される事が明らかになつた。 昨年度三期よりの授業料未納者五十余名は十一月一日(推定)抹籍通知が出された。従 來は授業料滯納による抹籍者は、授業料の納入と同時に自動的に復籍となつていたが、こ の問題について十一月六日三枝事務主任に実情を聞くと、これは機械的に本部の力で抹籍 にしたもので、授業料を納入すれば機械的に復籍されるかどうかは判りません。これは教 授会が決定するものです。との解答を得た。たまたまこのケースの中にあつた一政副委員 長孫炳泰君は抹籍通知を十一月五日に受取り翌六日授業料納入を申入れたが教授会の決定 によらなければならないとの理由で、納入を拒否された。そこで一政常任委員代表が中村 學部長に会見、如何なる手續をふめば復籍になるのかと質問したところ、正式に復籍願を 總長宛に呈出し復籍の意志ある事を表明して欲しいといわれた。 十一月十三日正午より一政委員会室で開かれた常任委員会では、滯納者抹籍について討 議し、直ちに中村學部長に会見鈴木教務副主任出席のもとで学校の意向を聞いた。要旨次 の通り、 学校としては滯納者抹籍については、今回が初めてのことであるので愼重を期し再三に わたり警告の通知を出したが、今回の對象となつた学生は何等それについて解答のない学 生で、全く就学の意志あると思われず、たまたま孫君の場合は移轉通知を出しておらない から通知を知らなかつたという手違があつた譯です。復籍については教授会にはからねば なりませんので、私達の一存ではどうする事も出來ませんが善處しますの解答があつた。 しかしその後教授会の開かれた形跡はなく、十八日再び中村学部長に実情を聞くと、孫君 の場合はどうなるか決定されておりますが、今その決定を發表する譯にはゆきません。と の返答に不審を抱き更に追求した結果復籍は拒否されたのではないかと推論されるに至つ た。翌十九日上木委員長はこの問題について中村学部長・鈴木教務副主任と会い孫君が抹籍 になり復學を拒否されているという噂を聞いたが教授会の決定はなされているのかと再度 説明を求め、教授会の結論は出ているが私としては明日(廿日)二時に孫君に通知する事 になつておりそれまでは話せないの解答を得、その後兩者により二時通知直後に常任委員 と正式に会見して話す事が確認された。 □ 何故復籍させないか 撤回要求を決議 十一月十九日午後五時より一政委員總会でこの問題を討議、その一致した觀測では今回 の孫君の場合は復籍願を出し、それが拒否されたのであり名目はともあれ事実上の退學處 分であり、本年度委員会に於て副委員長に選出されて以來、委員会の決議・學生自治權の 確立のために献身的に働き、殊に夏期講座料値上げにハンストを以て闘いそのための責任 者と目され處分を授業料未納にことかりて斷行せんとするものであるとの結論に到した。 現に第二法學部學友会委員長横山君は孫君と同ケースにあつて復籍を許可されている。直 ちに議場に於て退學撤回実行委員会が設立され左の三項目の基本方針が決定された。 一、抹籍者の中で納入可能者には即刻復籍させよ。 一、納入不可能者で復籍の意志ある者には延納願を認めよ。 一、三期間(一年間)の授業料延納の猶予を認めよ(現在は二期間) □ 本日正午より学生大会 全学的運動へ向う 十一月二十日午前十一時半より一政掲示場前にて學生大会を開き、この處分が自治權の 侵害であり、正当な學友会活動を阻害するものであるとし、廣く學友諸兄に訴える事に決 定大会の決議を持つて当局に嚴重抗議し、その撤回を要求し各委員はクラス討議を重ね、 處分反對決議をする方針を併せて決定した。全學協議会は十一月十九日午後六時より緊急 常任委員会を開き、處分反對を全學的な運動として強力に展開する事に決定、第二政経學 友会は第一政経學友会と行動を共にし実行委員会を組織した。協同組合・文團連もこれに 同調するものとみられ、実行委員会委員は本日午前七時半中村學部長を自宅に訪問現在交 渉中。 (第一政経新聞(号外) 発行所・早大第一政経學部學友会) 学友会基本方針 一、平和と民主々義の擁護 一、學生の自覺の矜持 一、學問の自由と學生自治權の確立 一、學生々活の向上 |
■ 新宿セツルの歩み 「夜の時計台」 早大第二政経社会科学研究会 新宿セツルは研究団体としての第二社研連を母体として生まれたものである。昭和二十 九年秋、第二社研連は都失業対策事業所の実態調査を中心に「日雇労務者の実態展示会」 を早稲田祭に行い、同時に「日雇労ム者を囲んでの座談会」をもった。これが契機となり 自由労組、更に日雇のおばさん達と学生とのつながりが生れ、交流の深まりの内に、仂く ためにやむなく放置している子供達に対する母親の不安が、学生への勉強会設置要望の声 となってあらわれた。それに応えて三十年四月まず三角山勉強会が発足し、新聞報道等か ら各地域より誘引運動がおき父兄・地域団体・自労・学生によるセツル設立準備委員会が 組織されると共に、「大和町・江古田・新大久保・共栄荘・落合」と各地に勉強会が生ま れていった。その間法学部学生による法律相談部も設置され、早大児研、わだつみ会、自 労、生活互助会、西部診療所、新宿職安等の外部団体との連携関係も出来て同年七月に新 宿セツルは正式に発足したのである。然しまもなく組織上の欠陥が表面化してきた。 現実の内で学ぶこと、つまり考え方と行動(理論と実践)の統一、そして生活に密着し た学問の在り方を追求せんがために始められたこの実践活動も、急速な活動地域の拡がり に、体制が応じ切れずその場当たりの活動となってゆく。寄りあい世帯という組織の弱み が活動の現実に直面して、不安な歩みに落ちいったのであった。かくて児研、わだつみ会 等の提携団体も三十年秋には実質的に活動から手を引く結果となり、セツラーの絶対数の 不足は、同年秋の早稲田祭でのセツル講演会の際の募集により一応緩和されたが、活動そ のものは以後マンネリズム化の傾向をたどり、活動維持のみに専心するような事態にいた り遂に三十一年末頃までに共栄荘、新大久保そして大和町勉強会が相次いで中止せざるを 得なくなってしまった。一方青年法律家協会の後援を得て、守らるべき人権も侵されがち な人々の支えたらんとして週一回の活動を開始した法律相談部も三十一年春頃から相談者 が漸減し、実動セツラーも数名となり、隔週にして苦しい活動を続けた。 各パートの地域的な分散による孤立化、全体的な交流の欠除、一部セツラー負担の過重 等の内部的弊害があったにせよ、致命的であったのはセツラーの殆どが第二学部学生であ るという時間的制約であった。従って外部への仂きかけも思うにまかせず、提携団体との つながりも薄れ地域との結びつきも深められなかった。しかしながら、この間に新しいメ ンバーが弱体であった事ム局の運営に参加し、縮少整理の方向の中で、徐々に新しい体制 をつくりあげつゝあった。セクト的傾向を是正し、相互信頼と交流を深める為に、三十一 年秋からセツル定期懇談会が月二回持たれ、一パートの問題も共通の問題として皆で解決 に協力するようになった。閉鎖寸前の百人町勉強会も他の勉強会からの積極的な応援で立 ち直った。夏秋二回の幻燈会中心の巡回子供会から合同クリスマス子供会とそのためのカ ンパ活動には全セツラーの協力体制が実現した。このようにして各パートを超越した隔意 のない横のつながりが組織的、個人的に深まり、仲間意識が育まれていった。三十一年九 月から待望のセツルニュースの発行を見、セツル活動に対する個人的見解や生活体験等が 発表されるようになったが、同時に活動の理論化問題が意識され始めた。活動そのものが 単なる情熱やせまい経験、常識的判断だけではどうにもならぬものであり、壁につき当る 時、どうしてもセツルの科学的考え方、判断の拠り所が必要となる。実践を伴わぬ理論が 無力であるように理論と方針を伴わぬ実践は危険とも云える。どちらかと云えばその場凌 ぎの過去の歩みをふり返り、それを凡てあらゆる側面から検討し経験をまとめる中から我 々のセツル理論を創り出し、活動の合理化と発展に資すべく、新宿セツルの実践記録作成 が計画され、同時に又組織の面から規約が審議され、共に三十二年四月に公にされたので ある。この第二回総会で本年度の運動方針も確認され、子供会部も発足し、懇談会月二回 中一回が研究会に切換えられた。しかし各パート共に内部体制建直しと充実に県命となり、 量的な発展はなされたが、然し質的向上のためには前途に尚多くの課題が残されている。 活動から名実共に運動へと発展する為には、地域を日本の動き、世界の動きという全社会 的な関連の中で捕え、セツルの正しい位置づけがなされなければならないし、こういう観 点から当然セツルと平和運動のつながりも理解されてくると同時にセツル理論が活動その ものから浮き上った観念論であっては絶対にならないし、活動と密着した生きものとして 活動の中で豊かなものにしていかねばならない。 現実は厳しく、セツル活動を続けるには如何に忍耐が必要なことか。時間的制約の中で 活動を勉学とバイトの両立に悩みながらもセツラーは仲間の励ましに支えられ、活動に喜 びを見出しながら、真の学問の在り方を追求し、自己の生き方に確信を見出さんが為に、 うまずたゆまず歩み続けるのである。 昭和丗七年十月二十五日 |
〃三万人の学生さん頼みます〃 ニコヨンの子供とともに学ぶ二社研連の学友 さる六月五日の午後、新宿区百人町で〃セツルメント設立準備懇談会〃が開かれ、地元 の日雇労仂者や、子供のお母さんをはじめ、早大、東医大、東女医大、理大などの学生、 大久保病院、東女医大病院の看護婦さん、診療所の先生など、百余名が集まり、現状報告 や、意見の交換がなされたのち、セツルメント設立準委員二十一名を選出して散会した。 一月ほど前から第二社研連の合言葉となつていた〃セツルメントを作ろう〃という声がこ の懇談会をきつかけにいよいよ具体化する事となつた。 * 昨年秋の早稲田祭で〃日雇労仂者実態展示会〃を行つた第二社研連では、みんなの力保 育園(新宿の日雇労仂者が自力で建てた日本最初の日雇保育園)のクリスマスやピクニッ ク、三角山ニコヨン部落の子供の勉強会、新宿自労の〃経済学教科書〃学習会など日雇労 仂者との交流をすすめてきたが、三角山勉強会がきつかけとなつて、今回の懇談会に発展 した。 「セツルメントが作られる」という話が伝わつて、地元では期待が大きく、すでに十二ヶ 所から、「子供の勉強会を開いて欲しい」というい申込みが来ている。 新宿自労の(二字不明)さんは「組合でも、子供のことや、医療のことは気にかけてい るのですが、手が廻らず、困つているところです。でも早稲田の学生が手伝つて下さるな ら、何でもやれるでしょう。三万人も学生さんがいらつしゃるそうですから、心強いです 」と、セツルに大きな期待をかけている。 この動きのきつかけとなつた、三角山勉強会をのぞいてみよう。 □ 総理大臣は誰? ここには多くのニコヨンや生活保護世帯が、苦しい生活を送つている。第二社研連の学 生が、この四月から三角山部落で子供たちの勉強会を開いて以来、多くの問題にぶつかつ た。 「総理大臣はどんな人だ?」「鳩山だよ。だけどあんなのよくねえや」――「どうして? 」――「オレの教科書買つてくれねえんだもん」 ニコヨンの安いデヅラ(日当のこと)では、教科書代も馬鹿にはならない。あるお母さ んは、「子供四人に一月に一人分ずつ買つてやると、最後の子は一学期の終りになつてし まう」とこぼしていた。 二商のH君が国語を教えているとき、〃役人〃という言葉が出た。小学四年の男の子が 手をあげて、「役人て悪いことする人だ」と答えた。H君は困つてしまい、「本当はみん なの世話をする人が役人だけど、いまは政府が悪いから、役人も悪いことをする」と説明 しながら、ハッとしたそうだ。そんな説明をしようとは、H君自身、予期していなかつた からである。 * こどもたちは「学校の先生より面白えや」といつて毎週欠かさず集つてきた。 「眼鏡の先生来てねえや、つまんないの」とか、「女の先生は今日来ないの?」と不満そ うな顔をするのも、チューターたちが夜学生であるため、交代制にしたからだつた。 一月たつと、数ヶ所のニコヨン部落から〃勉強会を開いてほしい〃との要望が出た。だ が三角山だけでも人手不足の現状であり、そんなに応じきれない。どうしても昼間の学生 に参加してもらうよりほかないとみんな考えるようになつた。 □ 貧乏人ゆえに 最近こんなことが起つた。ある日雇のオバさんが、現場から帰るとき、西武新宿駅で電 車から下りようとして、ドアに身体をはさまれた。駅員が近くの都立大久保病院に担ぎこ んだところ、医者(その医者は博士だつた)は赤チンキを塗つただけで帰してしまつた。 余り痛いのであとで町医者に行つたところ、頭が割れていて、幾針か縫わなくてはならな かつた。 オバさんは「西武と大久保病院が結託している」といつて怒つたそうだが、大久保病院 でこんなことがちょくちょく起るそうである。実際、貧乏人故に、医者へもかゝれず、社 会から冷い眼であしらわれているのが現状である。 □ 氷川下セツルメント この話を聞いた第二社研連の学生たちは、〃どうしてもセツルメントが必要だ〃と痛感 した。そして今度氷川下セツルメントを見学しようということになつた。 〃太陽のない街〃で有名な文京区氷川下一帯は、印刷と製本の街として知られ、爺さん や婆さんの代からやつてきたオリ(紙折り)の内職で、多くの家庭がやっている。病人が 出ても金が払えないので、医者も来てくれない。たまに来てくれても、部屋にあがるのを ためらうほどの貧乏世帯だつた。 こういう状態をみかねて、五年前、日本医大の学生二、三名で診療をはじめたのがセツ ルメントのはじまりで、いまでは、東京教育大、東大、お茶大を中心に、数十名のセツラ ーと、専従の医師や看護婦を擁するまでに発展した。 勉強会は、十ヶ所に開かれ子供は三百余名、診療所もでき、毎週一回法律相談所が開か れ、生活部には、お料理講習会や生花講習会まで開かれている。 聴診器と注射器一本からここまで発展する過程では、町のオバさんたちの完全な信頼と、 多くの学生たちの献身的な努力が基礎になつていた。 氷川下セツルの経験を学んだ第二社研連の学生たちは、この話を早速みんなに伝えた。 第一法学部のある学生は、「僕は怠けものだけど、法律相談をやつたら、必要に迫られ て六法全書をみるようになるだろう」といつて協力を約した。 大久保病院の看護婦さんは「こどもの洗眼ぐらいならわたしたちでもやれますよ」とい つている。 □ 求めていた道だ 東京理大の数学科のある学生は、「長い間求めていた道が開かれた」といつて喜んでい る。 ともかく、それぞれの条件を出し合つて、どんな形のセツルにするか、みんなで話し合 おう、ということになつた。こうして九月五日の懇談会になつたのである。 「こんなに集まるとは思わなかつた」、ニコヨンのオジさんも、よびかけた第二社研連で さえも、百名を越す盛況にびつくりした。それだけ多くの人が関心をもつているわけで、 懇談会の発言も活溌だつた。 □ 学生に期待する 出席したある日雇のおカミさんは、「中学三年をカシラに五人の子供がいますが、子供 たちの勉強のことを思つて、九州からでてきました。でもニコヨンでは、子供たちに教科 書やノートすら満足に買つてやれないのです。引揚げてからずつとこんな生活で、わたし たち夫婦はそれでもいいのですが、子供たちには勉強させてやりたい」と涙をうるませて 語り、「学生さんに期待しております」と結んで、並みいる学生を感動させた。 □ みんなの力保育園 勉強、保育、医療、法律相談の四つの分科会に分かれてグループ討論ののち、つぎのこ とが決められた。 ◇勉強会――希望が多いので、学生が集まり次第、できるところから一つずつ始めてゆく。 ◇保育園――みんなの力保育園に、電灯と水道をひくこと、定期的な健康診断を行うこと、 そのほか必要なところに保育園を開設するよう仂きかける。 ◇医療――現在必要なことをはつきりさせ、その上で西武診療所を中心にして診療所をつ くつて行く。 ◇法律相談――法律、生活相談所として、毎週日曜日一時から五時まで、みんなの力保育 園に開設する。 ◇以上のことを推進する一方、準備委員会を何回かもつて、総合的なセツルメントの事務 局をできるだけ早くもつこと、仮の事務局をみんなの力保育園におく、ということが決め られた。 □ 地域の人と共に 三角山を軸として働き出している、こんどのセツルメントも、新宿自労や新宿互助会、 西武診療所など、ニコヨンのオジさん、オバさんの熱心さが基礎になつている。しかも新 宿区の場合、みんなの力保育園や、百人町の互助会、生活協同組合など、地域の人たちは、 自分たちの力で、いろいろの組織をつくり出してきた。 「三万人も学生さんがおられるのに、そして新宿区にはこんなに貧乏人が多いのに、いま までどうしてセツルメントができなかつたのだろう」とまちのオジさんはいっている。 昨年秋の早稲田祭で、「早稲田周辺の歴史」を発表した歴研で、国史科の一、二年生を 中心に、鶴巻町で勉強会がはじまつたが、第二社研連の動きとともに注目されるべきもの である。 国史科の勉強会とともに、第二社研連の動きは、早稲田祭がまいた大切な種の一つであ ろう。 日本共産党早大細胞機関紙『眞理』週刊(毎週火曜日発行) 一一七号一九五五年六月一四日 (一部五円) |
■ 大山郁夫年譜(平和葬リ-フレットより) □ 生い立ち 一八八〇年(明治十三年) 九月二十日、兵庫県赤穂郡若狭野村の医師福本剛作(代々赤穂藩々医)の三男として生る。 十二、三才頃まで、もっぱら漢学の素読を学び、晩年にいたるも、「十八史略、論語」等 の漢籍を諳んじ「漢学の素養は、私の血肉となっていた」と死去前同志社大学における座 談会で述懐す。 一八九六年〔明治二十九年) 十六才 高等小学校卒業後、当時日清戦争(一八九四―五年 明治二十七、八年)の影響で、中国 語の学習がさかんであったが、赤穂郡の中国語研究生募集試験に合格・給費生として一年 間、中国語を学ぶ。 一八九七年(明治三十年) 十七才 神戸の大山晨一郎の養子となり、大山姓に改める。 一八九八年(明治三十一年) 十八才 神戸商業学校二年に編入、四年の課程を三年で終了。 一九〇一年〔明治三十四年) 二十一才 東京専門学校(早稲用大学の前身)英語政治科に入学のため上京、神田三崎町の観文書院 に下宿、秋、早稲田鶴巻町の九皐軒に移る。 一九〇五年(明治三十八年) 二十五才 七月、早稲田大学政治科卒業。この年、第一次ロシア革命おこる。 一九〇六年(明治三十九年) 二十六才 早稲田大学講師となる。この年十二月、永野りゆう(柳子)と結婚、小石川雑司ヶ谷に新 居を構える。 □ 臨 終 (一九五五年、昭和三十年八月以後) 八月九日、広島よりの帰途、筋炎のため京都にたちより、安井病院に入院、一旦回復。 九月十二日、帰京後再発。世田ケ谷笹塚の岡病院に入院、切開手術を受ける。 十月二十二日退院。 十一月四日、全国平和活動家会議(東京中央労政会館講堂)に出席、挨拶。 十一月十八日、京都同志社大学明徳館で「時局と学生」と題し、国際平和について一時間 四十分にわたり講演。終って教授と懇談。 同二十日、京都の友人、老若男女五十名と洛北曼殊院に紅葉を観賞。こよなく愛した民衆 とのこれが最後の団らんとなった。 同夜「京都大山会」の会合に出席。 同二十一日、京都より帰京。病臥。 二十四日深更、容態急変。 二十六日、危篤。 三十日、午前四時四十分逝去。享年七十五(満)。周恩来、郭沫若、劉寧一、スコヴエル ツイン(スターリン賞授賞審議会議長)、ジヤン・ラフィット(世界平和評議会書記長) その他世界各国の平和、学術文化団体、国内の諸団体、個人より五百通にのぼる弔電。 十二月一日、在日ソヴェト代表部ドムニツキー氏弔問。 東大病理解剖学教室吉田冨三教授執刀の下に遺体を解剖。病名は.硬脳膜下血腫。 十二月二日、中国訪日学術視察団長郭沫若氏ら一行の弔問。 参議院本全議で笹森順造議員の追悼演説。茶毘。 十二月八日、早稲田大学大隈講堂で「大山郁夫平和葬」 (葬儀委員長平野義太郎) ―「我れ死なば、屍を越えて平和のために進め」― |
■ みんなで樂しめる早稲田祭に(抄文) 皆さん、何とすばらしい早稲田祭でしょう。クラス・サークルからはこんなに沢山の催 物が出ているのです。このようなことは前例のなかつたことでした。「早稲田祭を僕等の 手で」という全学友の気持がこのように盛大にしたのです。このことをまず実行委員会は 全学友、都民の皆さんと共にお喜びしたいと思います。 さて、私達の学園生活は今非常な苦しみの中に追いこまれています。出席制度にしばら れ、卒業が迫つても就職の見透しがつかず、将来を考えると本当に不安であるというのが 多くの学友達の実状です。今年になつてアルバイトを必要とする学友が今までより一層増 加しているにもかかわらず、仕事は少なく、又授業料が納められずに抹籍処分を受ける学 友の数も増しています。入学当時の希望に満ちた、青年らしい気持ちもいつしか失われが ちです。 しかしこの暗さをはねのけて「秋の早稲田祭はみんなの手で、全学統一してやろう」と いう声が、夏休頃から学友たちの間に起つて来ました。 九月新学期が始まると同時に、この声は全学に広まつて行き、去年までの外部から呼ぶ 出し物の多かつた早稲田祭が今年はガラリと変つて来たのです。そしてこのように二十数 団体が演劇を、また四〇以上のクラス・サークルがコーラスをもつて集つて来たのです。 確かに、今年の早稲田祭は出足が非常におくれた上、はじめての計画のため不手際も手 伝つて、不完全な点が多くあることは認めねばならないと思います。クラスやサークル単 位の参加も全学的に見ればまだまだ不充分なことも確かです。しかし全学友の要望は「明 るい学園生活を求め、統一されたすばらしい早稲田祭をつくりたい」という点で完全に一 致しています。 全学友、全都民の皆さん 学友達の手でつくられた演劇やコーラスや展示会は、不充分なものであつても、私達学 生の生活からにじみ出たものです。学友の皆さんは勿論、家族や友人の方々も是非参加さ れた上、早稲田祭の喜びをみんなで分ち合つて下さい。 そして来年は更にすばらしい早稲田祭が出来るよう、皆さんの御批判と御協力をお願い する次第です。 (資料特集・終) |
■ 『真実のあかしのために』 十月会・編 【註】 一〇・一七を記録した「真実のあかしのために」は、同じタイトルで二種類の小 冊が発行されている。一九五〇年発行のものは宮本百合子はじめ各界のメッセージを主体 に構成され、一九五二年発行の冊子は、記録文学を意図した古林尚の作品といえる。 ◆われらはこのように鬪つた◆ 一九五〇年五月一日。そこに集まつた人たちは祖国にどんな臭いがするかを知り、札ビ ラと罐詰と小型自動車と通訳に対して激昂していた。戦爭を呪い、資本家の仮面をはぎ取 り、低賃金反対と帝国主義打倒のために……。人民広場をうずめた赤旗と反戦旗。それを 支えた労仂者、農民、下級官吏、主婦、学生……。五十有余萬の表情。「自由と平和と独 立」を守れ! 五月二日。ソヴィエトでは2プラス2が5になるから科学の自由を持たぬのであると、 總司令部教育顧問イールズ博士は全国の大学を遊説、赤色教授追放を促進中であつたが、 東北大学の学生はこれを反撃、一蹴した。 イ ゲキタイ ハンテイ バンザイ 檄電――全学連中執委に届く。 北海道大学もイールズをボイコット。 五月三日。占領軍最高司令官マッカーサー元帥は、憲法記念日に際しての声明で共産党 問題に鋭く言及。 五月四日。軍閥政府(段祺瑞)が日本帝国主義の侵略外交に屈服したのに反対し、一九 一九年のその日、北京の学生は示威行進に蹶起、反帝民族抗爭の火ぶたを切つた。都学連 は「五・四記念アジヤ青年学生蹶起大会」を日比谷で開催。 五月十六日。学生デモ隊五千名は都心を反戦旗でうずめる。「ノー・モア・ヒロシマ」 「ノー・モア・イールズ」共感に輝いたあのおびただしい顔。 とまどいした背の低いストッキングと軍服のアベックは、青い眼の小兒を抱いて通りに たたずんだ。 イールズ博士は間もなく爲す所なく帰国した。 五月十七日。滞納税金一掃に乗り出した執達吏の不法な差押さえに抗議した早大生二名 を戸塚署員が逮捕。 五月十八日。学友奪還に立ち上つた早大学生千名は戸塚署にデモを敢行。予備隊三ヶ小 隊の応援とM・Pの来襲を見るまで二時間余にわたり警察署を包囲。戸塚町民も進んで參 加。 五月三十日。人民蹶起大会。人民広場から都心に向けて反戦デモ。不当にも当日大会に 參加した学生八名檢束さる。 六月三日。都学連傘下各大学ゼネストに入る。早大生は鬪爭中の富士三鷹の労仂者と交 歓。赤旗を掲げて貸切りバスで入場。 六月六日。吉田首相あての書簡をもつて、マッカーサーは、徳田書記長以下二十四名の 日本共産党中央委員会全員を公職から追放するよう指令を発した。早大文学部は、即日、 緊急学生大会を開き、「日共中央委追放反対」の決議を採択。 六月七日。マ指令にもとずきアカハタ幹部十七名追放さる。 六月十八日。ジョンソン米国防長官、ブラッドレー米統合參謀本部議長、ダレス米国務 長官顧問は相前後して来日。 ジョンソン・ブラッドレー両首脳は總司令部との会談を終つて極東方面の軍事施設を視 察。ダレス顧問は韓国で李承晩大統領と会見。軍事的境界線である三十八度線の視察を了 えた後、入京。マ元帥と要談。 全学連は、米三長官の来訪と「東京会談」が日本の軍事的性格の檢討であり、その背後 に血なまぐさい計画性のあるを看破して、所謂「ジョン・ブラッドレー請願鬪争」に立ち あがるよう指令を発した。 六月二十二日。早大文学部四〇一教室において全学請願大会。 六月二十五日。南北朝鮮交戦状態に入る。 署管内の文学部在籍の全学生宅を私服が訪問。 六月二十六日。アカハタ三十日間の発刊停止。 六月二十七日。大隈講堂で大学記念講演会開かる。 六月三十日。学生処分発表(石垣・坂本の無期停学)は学生運動弾圧の公然たる前ぶれ であると、図書館前で全学反対集会。 以後早大は九月迄夏期休暇に入る。 七月十八日。マ元帥は吉田首相あての書簡でアカハタの無期限刊行停止を指令。 七月二十八日。新聞、報道機関からのレツド・パージ始まる。朝日、毎日、讀賣、日経、 東京、共同、時事、中日、北海道、西日本、福日、N・H・Kその他から六百五十名を整 理追放。 八月二十六日。電産二千百三十七名にのぼるレツド・パージを発表。 八月三十日。特審局は全学連本部に対し団体等規正令によつて解散を指定し、同時に幹 部十二名を公職から追放した。 八月三十一日。岡崎官房長官は吉田首相と連絡の後、レツド・パージ方針の具体策を協 議のため急拠G・H・Qを訪問。 九月一日。全学連中執委はレツド・パージ粉碎の声明を発表。早大中執委は、かねて紛 爭の種であつた自治会規定の平和的解決申し入れを大学当局に行う。 九月二日。早大中執委は斷乎レツド・パージ:撃碎の宣言を発表。 九月三日。東大鬪爭宣言を発す。 九月五日。全学連は天野文相に強硬な面会申入れを行う。 九月六日。C・I・Eルーミス課長と会見した全学連代表は、瀕発するレツド・パージ の背後勢力を確認。更に文部次官に対し面会申入れを行う。 同日、閣議は政令六十二号によるレツド・パージ方針を決定。 九月十五日。「政府の赤追放に対する法律的準備はすべて終つた。……当局は追放リス トの具体的準備にとりかかつた……」(朝日新聞)早大文学部ではクラス会の討議を経て、 佛文、独文、露文、社会の各クラスがレツド・パージ反対を決議。 九月二十五日。文学部自治会鬪爭態勢に入る。文学部長谷崎精二は四〇一教室において 六月処分の見解発表。政経学部では鬪爭委員会を組織。 九月二十六日。早大中執委はレツド・パージに関し總長に会見を申し込む。文学部自治 会は「全早稲田の教授諸先生に訴う!」声明を発表。 九月二十七日。中執委は学生厚生部長中谷博と大隈会館において会見。法学部学生大会 行われる。文学部においては試驗ボイコットの機運濃厚となる。政経学部は一、二年学生 大会においてレツド・パージ反対を決議。 エーミス勧告「追放は十月中に完了」(東京新聞)にもとずき天野文相談話を発表―― 「追放は十月上旬政令六十二号で行う……」 九月二十八日。政経学部学生大会はレツド・パージ反対と十・五ゼネストの參加を決議。 文学部学生大会は試驗ボイコットを以て鬪うと決議。十時、緊急学部長会議。大学当局の 「早稲田の傳統を守る集い」禁止の通告を蹴つて、正午より大隈講堂において全学大会を 挙行。 午後一時頃、大学当局は「レツド・パージは占領政策であるから反対は出来ぬ……」と 告示。 三時、大学当局は戸塚署及び警視庁と会見。 五時、大会終了して学内デモに移る。 五時二十分、警官隊八百名の乱入。 八時、文学部四〇一教室で緊急学生大会。 八時三十分、再び夜間デモ敢行さる。 九月二十九日。新制東大は試驗ボイコットに突入。出隆メッセージを発表。早大政経学 部学生大会は私服でまぎれこんだ戸塚署田中警部の責任を追及。東大において早大生千名 を含む四千名の学生が「全都学生蹶起大会」を挙行。 九月三十日。文学部自治会は鬪爭宣言を発表。同時に鬪爭委員会を選出し、活動の推進 力とする旨を決議。文学部中鬪成立す。 十月二日。文学部試驗ボイコット。松尾隆病床から所感を発表。 十月三日。文学部試驗中止。休暇に入る。全都に行動隊が出動し、レツド・パージ反対 を訴う。全国遊説隊百名が選出され、民族解放の責務をもつて勇躍出発。 十月五日。十・五ゼネスト。早大生五百は東大正門の警官隊を強行突破。 十月十四日。近藤忠義、小田切秀雄ら法政大学九教授は声明を発表し、レツド・パージ 反対と学問の自由のために鬪うと力強く発言。 十月十七日。「平和と大学擁護大会」弾圧を蹴つて挙行。午後六時警官隊は装甲車を先 頭に学園に侵入。本部内にあつた百四十三名は總檢束。学友奪還のデモ隊と更に増援を受 けた警官隊との間に三時間余にわたる睨み合い。学部長会議は深更に至つて九・二八処分 を発表。 十月十八日。政経学部鬪爭委員会は学部長中村佐一と面会、処分理由の公開を要求した が、その席上学部長は「学内の行政措置としては如何ともしがたいものがある……」と背 後関係を苦しそうに答弁。 十月二十日。数千の警官の包囲下にあつて文学部鬪爭委員会は五十名のデモを敢行。 十一月一日。拘留理由開示――東京地裁十号室。 一九五二年一月二十五日。早大事件の裁判始まる……… |
◆三つの記録◆ 獄中記 あの十七日から丁度一ヶ月後の十一月十七日。文学部では『眞相報告学生大会』が行わ れるはずであつた。あの事件で逮捕され拘留され起訴された学友たちの口から、共に鬪つ た更に多くの学友たちの耳に、《眞実》が公然と語られるはずであつた。余りにも多くの 醜い《虚構》が新聞とラジオを通じて全国にバラ撒かれていたこの時、鬪つたものも鬪わ なかつたものも、官憲の暴力と爲政者の偽瞞に歯ぎしりしたい憎しみを感するならば、共 に《眞実》を知る権利と必要を持つていた。ところが大学当局は、その日の朝から一ヶ小 隊の警官を本部に駐屯させてこの大会を禁止した。しかし、如何に烈しい抑圧の下でも、 人間は《眞実》を知る権利を放棄することが出来るであろうか。成程《平和》を恐れるも のは《眞実》をも恐れるであろう。しかしその故にこそ《戦爭》に反対する側にあつて、 《平和》を愛し守る父、母、息子、娘たちの側にあつて、《眞実》は求められねばならな いし、傅えられねばならないのである。 数多くの手記が、大学当局の禁止に抗してガリ刷りのビラとなつて学生や労仂者、市民 の間を流れて行つた。それらのビラは権力が如何に無慈悲に理性を呑みつくそうとしたか を訴えている。 私がぶちこまれたところは谷中警察であつた。《十七日》から二十二日間いつぱい(拘 留期限滿期まで)ここに置かれて、十一月八日に東京拘置所、俗にいう『こすげ』へ送ら れた。 最初は五人だつた。七十二時間後に三名釋放され、私の『こすげ』行きの定つた七日に I君が釋放された。『身長五尺二寸位、ネズミ色背広服、コンサージズボン着用の男』こ れが警察と檢事局における公式の私の名称であつた。警察や檢事の取調べに対して、私は 徹底的に默否権を行使した。供述書や弁解書をとられるときは、文字通り一言も口をきか なかつた。彼らに『調書』を作らせないことが必要だつた。一言でもしゃべれば《デッチ アゲ》の材料になるのだつた。 猫背でめつかちの刑事部長が、私を何度も呼び出した。陰險な男だつた。二十年も務め ているというだけあつて、相当なものだつた。最初は、頭から呑んで掛つている癖に、い やに丁重で、お茶を飲ませたり煙草を吸わせたりして仲々如才がなかつた。彼は自信たつ ぷりな様子でよく説教した。 「君、損だよ、名前をいわないと。名前はいつた方が良いよ。君の爲だよ。私はどこの誰 兵衛です。男らしくいつて、事件のことは裁判で堂々とあらそつたら良いんだよ。君、第 一、差入れを持つて来たつて名前が分らなきゃそれつきりじゃないか。君、お母さんが心 配してるぞ。うちの息子は帰つて来ない。どうしたんだろうな………。いいなさい、悪い ことはいわないから。」 そして色々くどいて終りはきつとこうだつた。 「君、嘘じゃないよ。かあちゃんを貰つてごらん。そんなことは一ぺんに嫌になるから… …ね、騒いだりしないで、おとなしく時節を待ちなさい……。」 これが彼の信条だつた。彼は昔、淺沼稲次郎を捕まえたことがあるといつた。そして淺 沼は男らしくかくし立てなぞしなかつたから偉くなつたんだという。要するに彼の説教の 論理は簡単だつた………。 彼はまた自信を以てつけ加えた。「君は淺沼さんのように偉くはないから」(だから今 のうちに止めろというつもりらしい) 司法主任は頑固な私に対して「住所、氏名をいうまでは帰さない」とおどかした。私が 主任の名前を聞くと俺も默否権だといつた。そしてそつぽを向いた。 検事は大会のことを中心に当日の事情を巧みに聞き出そうとした。どんな団体に所属し ているかを調べた。検事は默否権を行使しているのは君だけだといつた。私が一言も答え ないと彼は「いわないですね」といつてから更に力を入れて、「いえないんですね」と挑 発してきた。ここで怒つて検事と論爭し出すと彼の思う壺である。 検事は裁判所に私の《接見禁止》を要求し、判事はこれを決定した。《一切の面会及び 物の受授を禁止》されたわけである。 部長や看守は私を呼ぶのに「イー」といつたり(所持品――といつても時計と金四十円 也の他は紙きれ一つなかつたが――を預る時仕方なくイロハの《イ》の字を書いておいた )、「十六番」(私の留置場番号)といつたりまた「背広ッ」といつたりした。 そして監房の中では「イーさん」と呼ばれたり「学生さん」と呼ばれたりした。 ギサ(詐欺)、タタキ(強盗)、チャリンコ(スリ)といつた《どん底》の先輩たちと 私はすぐ親しくなつた。 娑婆の三日間にも相当する長い留置場の一日を、三方コンクリートで囲まれた冷たい板 床の上で寒さに体を寄せ合つて、鉄格子と金網の向うの看守の眼を警戒しながら、色々と 語り合つた。 この人達は豊富なゼスチュアーと、魅力ある声ざわりと、話題を決してとぎれさせず巧 みに話を進めていく特別な話術を心得ていた。博打、女、チャリンコ、密貿、流行歌手の うちまく、それから刑務所生活、身の上話、デカの惡口、社会への不信、共産党、戦爭へ の不安……長い一日を話はつきなかつた。或時は聞き手に廻り、或いは話し手となつて、 私もこの社会への推進力には成り得ないが憎むことは決して出来ない資本主義の犠牲者た ちに向つて、熱心に注意深く語つた。……自らも認めている意志の弱さについて、しかし 不屈の精神だけでは生きてゆけない世の中の矛盾について、仂きさえしたら生活してゆけ る社会が私たちの力で作り得ることについて、そこでなら危い世渡りもなくなるだろうと いう確信と見通しについて。それから、どうして今の私達の生活が一日一日と苦しくなつ て来るのか。税金はどこへ行くのか、戦爭は誰がどうしてやるのか、平和は鬪いとれるか どうか。みんなは叫んだ。「警察は泥棒ができあがるのを待つて捕まえるのだ――その根 つこを引ん抜かなくちゃあ」 虫が木の繊維を徐々に喰い荒すように、雨が大地にしみわたるように、確にみんなの心 の中に、何ものかが固まつてゆきつつあつた。蒔かれた種子の芽生えは遅くとも、何時の 日か夜明けと太陽の誇らかにうち仰げる日、霜柱のくずれた土をもたげ、われらとわれら の大地に山脈に、花咲き輝ける綾を織りなすにちがいない。 いよいよ《こすげ》へ送られる日の朝、みんなは看守に見つからぬようにネッコ(煙草 )を用意してくれ、私にこつそりと吸いおさめをさせた。そして《こすげ》へ行つた時の 注意を細々と教えてくれた。辛い別れだつた。《こすげ》へ入れられるものは誰でも先ず 《びつくり箱》と称する部屋に通される。ここでいきなり全くの素つ裸にされ、何十人も が身体檢査、所持品登録等、数ヶ所から一せいに呼び出される。テンテコ舞いのびつくり である。 このびつくり箱から廊下が少し伸びてそこを起点に三階建鉄筋コンクリートの建物が南 舎、北舎と放射状に飛び出ている。私は南舎二階六房へ入れられた。勿論独房である。二 疊半ぐらいの細長い天井の高い部屋だつた。小さな鉄格子の廻転窓を通して僅かに高い空 が見えるだけであつた。小さな椅子が窓ぎわにあり、ふたを取ると話し相手もなく、本も 読めずに、終日をただ坐つて黄色い壁を見つめているのは、やりきれないものだつた。取 調べも別になく、全く外界と遮斷された形で、小さな窓からさしこむ陽の光が次第にうす れて、高い天井の眞中に、ポツンと五燭の裸電球がつくまでのあいだ、私はかみしめるよ うに《革命》と《自身》とを対決さしてすごしたのである。私の力のあらん限りをそそい で頑強に鬪い抜いたことから生れる確信が、《やりきれなさ》をじわりと支えはげまして いてくれた……。(今井哲夫の手記に拠る) 拘留開示 君は拘留理由開示の傍聽に行かなかつたのだから、そのことを君に報せよう。―十一月 一日。風の吹く日。東京地裁の十号室。小さい室だ。小さいが恰好だけはついている。君 がよく写眞などで見る法廷の少しがさつなのを想像してもらえばいゝ。 正面に一段高い裁判長の壇。すぐその下が速記の机。左右壁に沿つて長い席。左が檢事 席。(こゝには三人いたんだが、一人は途中で出ちまつた。もう一人は坐つていたが始め から終り迄うんともすんとも云わなかつた)右が弁護士席。この二つの間に正面に向つて ずらりと並んだ椅子が「被疑者」の席。その後が、利害関係者。その後に柵があつて壁迄 傍聽席だ。―小さな室。そして、何ていやな部屋だつたろう。 官服の廷丁達が、周囲に突立ち、帽子をぬげとか、「しゃべるな」とか、威嚴を作るの に大童だ。耳では外から入つてくる工事場の鎖のきしむ音を聞きながら、後頭部では烈し い日射を感じながら、僕は廷丁達に五分刈り頭をしているのがいやに多いのを眺めていた。 ――で、小一時間も待つたかと思うのだが、いよいよ始つたのが一時三十分。外には随分 沢山の人が傍聽席が滿員で入れなかつたらしい。 僕等の友達十二人の被疑者が入つて来たとき、僕らは思わず一せいに立ち上つて拍手し た。そして手をふつた。十月十七日以来二週間会わなかつた彼らを、僕らは見つめた。彼 らには一人づつ武装警官がついていた。彼らは両手に手錠をはめられていた。席につくと 警官が手錠を外した。十二人の手錠がカチリとなるのを僕は聞いたような気がした。一人 が僕らの声援に応えて両手を上げた時、あの手錠がギラリと光つたのを僕は忘れることが 出来ない。 先ず定例通り裁判長が調書と本人が合致していることを一人一人調べてから、拘留理由 を読み上げる。(実は彼はボソボソと呟いたんだ)云うところは、これらの建造物侵入罪 の被疑者拘留の理由は、証拠煙滅と逃亡のおそれある故なりと。――次が被疑者一人一人 の意見開陳だ。君はこれを聞くべきだつたと思う。僕らの友達がどんなに元気に、勇敢に、 明瞭に、この問題が不当であるかを論じたか。これをそのまゝ残らず書き切れないのが残 念だ。 レツド・パーヂ反対は全学生の眞底からの声であり、眞に平和を愛し、眞に自由を求め、 眞に憲法を擁護する声であり、その要求を取り上げた事が何故惡いのか? 度重なる申入 れにも拘わらず、その十七日も、何故總長は委員長に会う事を拒絶したのか? 混乱の原 因を作り、官憲を導入し大量学生を逮捕させたのは大学当局ではないか?――又こういう ことも僕は聞いた。逮捕理由が如何に二転三転したか、建造物侵入罪とかいう罪名が、ど んな罪名から、どんな経過で、デッチ上げられたか?――それからこうだ。何故こんなに 長期に拘留する必要があるのか? これは建造物侵入罪に名を借りて、指導者を学生と隔 離し、レツド・パージ遂行を容易ならしめる爲以外の何ものでもないのではないか? つ まりこれこそ政治的思想弾圧ではないか? 取調べには思想調査がなされた。或る檢事は これが政治問題である事を明言した。そうでないなら、何故家宅捜査をして日記類を沒収 したのか?――僕はこんな言葉には思わず笑つた。「私の机の抽出を何故荒す必要があつ たのですか? 私が中学の時雄辯大会で一等をとつたことが何故問題になるのですか?」 ――弁護士達はこう云つた。この若い被疑者達はこの様に自己の行爲に滿々たる確信をも つている。彼らには定まつた家があり親がいる。彼らに煙滅すべき証拠があろうか? 逃 亡の恐れがあろうか?――そしてこの僕らの友達の父や妹や兄や親友の誠実な証言。―― これらは随分長かつたが、しかし、僕らは一心に聞いていた。檢事は天井を見てあくびを していた。そして、この多くの眞劍なあかしにより拘留の不当が明確にされた後、即時釋 放が要求された後、裁判長に指命されて一人の檢時が立つ。檢事側としては刑事訴訟法第 六二条により拘留する必要ありと思うと云う旨、簡単に一言。――君、これで終りだ。 君はあの法廷がどうやつて終つたか、僕がどんなに思つたかを知らないのだから、その ことを君に教えよう。 ――僕らは無論、閉廷されて、僕らの友達が又手錠をはめられて出て行く時、もう大声 で校歌を歌い、叫んだのだつた。十二人は後を振り向きながら連れられて行つた。警官の ピストルが光つていた。――拘留理由開示。 つまりいうだけのことをいわせてもらつただけのことなんだね。 公平な権利が形式の上ではあるのさ。完全なものだ。そして実質的には何の力もないの さ。十二人は又小菅のコンクリートの部屋へつれて行かれたのだ。君、これは無礼ぢゃな いか。君は来るべきだつた。そうすれば君もそう思つたに違いない。僕らの詩人の言葉を かりてこう思つたのだ。「この無礼をお前が許すことは決して許されないんだぞ。決して 許されないんだぞ」 ――日比谷の夜はもう暗かつた。 * * 何と表現して良いのか分らない瞬間であつた。道子の心の中を暴風のようなものがサッ と通り過ぎて行つた。異常な興奮のまま、釘付けされたように道子は読んだ。鬪爭の中だ るみというのか、後半のだれというのか、意識的に十月鬪爭に無関係であつたことを誇示 しようとする学生すら現われかけていた。文学部事務所前に貼りめぐらされる自治会の声 明やアジビラは、ありありとそのような風潮を反映して苦悩の色が濃くなつていた。道子 の主体的な動揺がそう感じさせたのかも知れない。そのビラは、道子の崩おれそうな姿勢 に、ビシリと鞭をくれた感じであつた。父と子の信頼、そのつながりの上にあつて、この 父は理不盡なものへの怒りを眞直ぐに突きつけようとしている。幾つぐらいの年輩のお父 さんであろうか。ビラの前には、眞剣な表情の学生の顔と顔が重なり合つていた。 前略 愚息健太郎に関する二回にわたる御通知(無期停学・除籍)確かに当方に落手致しまし た故御安心下さい。 私は本日迄学校当局に対し絶対の信頼をよせていましたが、不幸にして此の度の事件に 関し別紙の通り信頼致し兼ね筆をとりました故、意とする処を御了解下さい。 一、事件を明確にすること。 私どもは今度のレツド・パージに関しては新聞紙上で知る以外には殆ど知るすべがあり ませんので、学校当局はレツド・パージに関連した今度の問題を明確にする必要がありま す。 「只一部少数分子………」では全く判り兼ね何故にあれだけの多くの学生が運動に參加す るのか理解し兼ねます。 二、法というものはそれを適用し人を処分するために存在するのではなく、これを規定し て未然に防ぐものでなければなりません。 学生が騒いだから処分するのではなく、何故に騒いだのかを明らかにし教育者の立場か ら檢討しなければなりません。 然かも学生を処分することにより学校当局の責任を回避することはもつてのほかであり、 又処分に名をかり学生のレツド・パージを行うとしたら言語同斷の行爲といわねばなりま せん。 三、除籍ということは学生にとつては死刑にも等しい処分でありますが、この処分をする に当り学校当局は全く調査を欠いている。其の人間が何に違反したかどのような学則に違 反したかを充分に調査した上で処分がなされなければならないにも拘わらず、処分の前に 学生に関し充分に調査しないということは教育者としてのとるべき態度ではありません。 四、学生の処分ということはその父兄にとつても非常に大きな問題であります。それにも 拘わらず十月十七日一時に父兄宛に呼出状が来ましたがその日の夕方もう処分を発表し、 しかも処分後十日もたつてから一枚の紙切れで父兄に連絡するというのは、余りにも教育 者としての態度を欠いている行爲です。 五、以上四点に関し私は不幸にして、学校当局の今度の事件に関し信頼することが出来ま せんことを更めて御通知致します。 十一月五日 谷崎精二殿 階上から『憎しみのるつぼ』が道子の耳に入つて来る。唄声のこもりがちな低い合唱は、 掲示された手紙を読んだ後の苦澁と交錯して、道子にいたたまらない気持ちを與えた。あ の唄声――遠く海鳴りのようにスクラムの間からほとばしり、棍棒と泥靴をはじいたあの 量感はどこに散つて行つたのだろうか。今日の日の灰色の雲のように、華やかな精彩の微 塵もないその唄声は、道子に《いま一度》《いま一度》とせまつて来るのだつた。あのす さまじかつた十月の鬪いは、地底の果てを行くように、重苦しさを一日一日と加えている のに、道子の側では充分に鬪い抜いた疲労を心好いものだと考えたがる気持ちが、芽生え かけていた。それも逃避の一つの形式だということを認めねばならない。 道子は垂れおちる前髪を指で掻きあげた。父と子の信頼への羨望が、道子の意気地なさ を責めた。 鬪いの昂揚していたその頃、男、女を問わずたくましい一つの力に感じられていたあの 人と人とのつながりが、またもや女であるという道子の視点を意識しなければならなくな り始めているこの頃であつた。それを意識するのは、道子の側の責任であるかもしれない。 女らしさということが、日本の封建的な家族構造の中で、無理にゆがめられて叫び声をあ げているのを道子は知つている。であるのに、男の学生と共にある時、反撥しているはず の《女》の姿勢に何時の間にかずり落ちてしまつているのはどうしてであろう。表からひ そんだ所にあつて、チカチカと火花を放つているさりげない女子学生の間の牽制と反撥が、 それの原因であろうか。道子は強くなりたいと思い始めていた。反レツド・パージ鬪爭は、 横車を押すものと、道子の《女》とへの二重の鬪いであつた。この父と子が支えられてい るような信頼を、道子も創り出して行かなくてはならない。道子と母とのつながりなど余 りに《女》の臭いに滿ちていた。道子はノートを抱えこんだ。吹きこんだ風が足もとで紙 切れを捲きあげていた。 |
【註】 ここには日高書店版の一部を転載した。 1952.2.5 日高書店内・十月会発行.定価五十円.102ページ □ 目次 一、真実のあかしのために 二、われらはこのように闘った 三、エデンの園は神の植民地ではなかった │十月三日まで│ 四、赤旗と反戦旗と │十月五日│ 五、ペテンと論理 │十月十七日│ 六、五十人のデモ隊 │十月二十日│ 七、三つの記録 八、資料 1950.12.11 早大文学部自治会発行.ガリ版43ページ. □ 目次 Ⅰ 抵抗は始められた Ⅱ 語られざる真実 獄中記/拘留開示/10・17 /あの頃/日記より/文学部部長へ Ⅲ 若き僚友に メッセージ 出隆 所感 松尾隆 私達はかく考える 嵐に抗して 若き僚友に 宮本百合子に |
■ 早大意見書 日本共産党早大細胞 コミンフォルムの「日本の情勢について」と題する論評に接して後、われわれ早大細胞 一同は日本共産党が真に重大なる情勢におかれている事を痛感し、爾後三カ月党の批判前 の活動の欠陥と誤謬についての徹底的なる批判を行うとともに、党の批判以後におけるそ の克服が何如に行われつつあるかについて、終始真剣なる討議を続けて来たのであるが、 四月一〇日の細胞総会の圧倒的大多数を以て党が右翼日和見主義とブルジョワ民族主義へ の転落の道を辿りつつあることを確認し中央委員会に対し意見書を提出することとなった。 第十九回中央委員会に参集される全国の同志諸君! わが党はマルクス・レーニン主義の原則を堅持して断乎帝国主義者に対する革命的闘争 を行うか、或いは又、誤謬を固執し新なる欺瞞と威嚇をもって偽装とチトーイズムへの転 落の道を辿るか! それはかかって同志諸君の双肩にある。 敢えて浅見短慮を省みて同志諸君の討議をお願いする次第である。 一九五〇年四月一〇日 (一) 「第二次世界大戦及びそれに続く時期により招来された国際情勢には根本的変化が生じ た。これらの変化の特徴的様相は世界場裡に相互作用する政治の新しい均衡、第二次世界 大戦の勝利者であった国家間の関係の変動、その再評価である。 戦争が継続した限り日独と戦った連合軍は同一歩調ですすみ一体であった。それにも拘 らず戦争中既に連合軍陣営内に戦争目的、戦後の目標或いは世界組織に関して差異が存在 した。 ソ同盟及び民主主義国は戦争の主要目的はヨーロッパ内の民主主義の再建と強化、ファ シズムの清算、ドイツによる可能な侵略防止であり、更に進んでヨーロッパ諸国民間の全 体的、永続的協力の達成であったと信じた。米国と同じく英国はその戦争目的を別の目標 ――世界市場に於ける競争(ドイツ及び日本)の排除及びその支配的地位の強化においた。 戦争目標及び戦後目的の定義のこの相異が戦後の時期に深くなり始めた」(コミンフォル ム結成宣言) しかるに、第四回、第五回党大会はアメリカ占領軍を解放軍と規定する明白なる誤謬を 犯している。すなわち、「どの被圧迫民族と雖も、帝国主義の所謂『援助』のもとで真の 解放と独立を獲得することができず、真の民族独立と解放は如何なる帝国主義の好意的贈 与や誠意ある援助にも期待し得ない。こういう幻想は極端な錯誤であり害毒である」(劉 少奇)という事を当時の日本共産党は全く理解していなかったのである。さればこそ、「 日本の情勢について」がこの点に関し痛烈に指摘しているのであるにも拘ず、何ら自己批 判は行われていない。しかしのみならず、統制委員会議長椎野悦朗の「日本共産党の歩ん だ道」に至っては第二次大戦中の反ファッショ連合戦線内に於ける戦争目的の相異につい ては一言も触れず、戦争終了の翌日からこれら二つの陣営に分裂したことについても、更 に又日本帝国主義打倒に果したソ同盟軍事力の役割についても全然評価していないのであ る。従って日本占領のアメリカ軍隊が日本をアジアにおける資本主義的競争の地位から転 落し、自己の全一的支配を確立するという目的から行った帝国主義的諸政策をありもしな い「反ファッショ戦線の共同の敵に対する共同行動の一環に外ならなかった」などと称し 遂に占領軍を解放軍であったと強弁セン動して、スターリン、モロトフを引用している。 これはまさに、マルクス・レーニン主義を帝国主義美化の理論たらしめようとの企図であ るといわなければならない。朝鮮共産党平南地区委員会の自己批判に関する引用も全くの 誤りであることは朝鮮祖国統一戦線結成大会の報告に徴しても明かである。この様な二つ の陣営への分裂とその間に於ける闘争との無視並びにソ同盟と帝国主義との同一視こそわ が党の中に反帝闘争を回避し、中立主義、協調主義、平和革命論を生んだ根本的原因であ る。 (二) 第一の項目に於て明かになった如く、アメリカ帝国主義者の計画は帝国主義軍隊の進駐 により絶対主義天皇制権力の背骨を解体させることによってその地歩を築いたのである。 彼等は日本の絶対主義権力の階級的支柱の一つであった日本独占ブルジョワジーと結合す ることによって新たなブルジョワ独裁を打ち立て日本ブルジョワジーを従属下におき、か くて国際批判の鋭くも指摘した「日本の一切の政治経済面の采配をふるい日本経済は完全 にアメリカ独占資本の手中にありアメリカ帝国主義の侵略計画に奉仕」させられるに至っ たのである。現在はかくて反帝闘争の政治コースこそ、日本共産党にとって戦後とるべき 唯一の原則的に正しい政治コースなのである。然るにこの政治コースは国際批判後に開か れた第十八回中央委員会総会でも依然として明かにされておらず、反帝闘争を回避し、そ れを反政府闘争にすりかえている。即ち、徳田書記長一般報告の第五「わが党の政策」の 中で次の如くのべられている。「だから単独講和とこれを実行しつつある民自党吉田内閣 を打倒することが当面の重点的仕事でなければならない」これは依然として権力の存在を 不明確にし、帝国主義に対する革命的闘争をわき道にそらす右翼日和見主義的偏向の拡大 再生産されたものである。従って第二次大戦後のアメリカ帝国主義による軍事占領のもと に於て革命の平和的発展の可能性が存在していた等という同志野坂の第四回中央委員会総 会に於ける報告は全くの誤謬である。 この革命の平和的成長と転化に関する理論は一方議会主義の理論と放れ難く結合してい る。同志野坂は「国会を軽視することも、又国会万能主義におちいることも誤りである。 国会は国会内外の闘争の成果を制度化するものである。この意味において平和的方向によ る革命の完成は最後的には国会を通じて行わねばならぬ」(第四回中央委員会に於ける報 告)又政治局員同志伊藤律は「権力を握るのに何も武力を使う必要はない。国会の活動と 広い総ての大衆闘争とを結びつけ、国会で多数をとれば革命を行うことができる。これが 今日の事情に於て革命の正しい方向である」(何を読むべきか一九五〇年)と云っている。 この議会主義の理論は議員(共産党員)は議会破壊を容易ならしめ、かつ敵をバクロす るため労働者階級の先頭司令部たる党から派遣されることを見失った社会民主主義的日和 見主義の理論である。 北京人民日報はこの点について次のように指摘している。 議会は「敵をバクロする演壇としてのみ利用出来ない。このマルクス・レーニン主義的 立場は或る便宜的戦術をとって敵をあざむくためと雖も修正してはならぬものである」 (三) 歴史は今や日本のプロレタリアに対し、万国のプロレタリアートの最も緊急な諸任務の 中でも最も革命的な緊急任務を提起している。この任務の実現、アジアのみならず全世界 の最も強力なソ同盟、並びに中国に対する攻撃路としての、又東南アジアに於ける城サイ の破壊は、日本のプロレタリアートをして、国際プロレタリアートの前衛とするであろう。 日本に於けるプロレタリアートはアメリカ帝国主義と日本独占ブルジョワジーの二重の抑 圧下に特に多くの交通、鉱山業その他主要産業は、アメリカ帝国主義と直接関係があり、 その圧制のもとにあって、彼等は生存のため決然たって闘争する。然もその闘争はアメリ カ帝国主義及び、日本独占ブルジョワジーと衝突するが故に経済闘争はすこぶる速に政治 闘争へと発展する。 アメリカ帝国主義軍隊の重大なる軍事占領の下にあって、日本プロレタリアは国際的、 国内的に異常に緊急な歴史的任務を負担している。 これらの事実は日本のプロレタリアが万国のプロレタリアと固く団結することの必要を 示す。これら事実は日本プロレタリアは、農民及びインテリゲンチャの階級的同盟を確保 し幾百万大衆を自己の周囲に引きよせプロレタリアート独裁の樹立に向って進まざるを得 ないし、又これを行う客観的条件の存在することを示す。これらの事実は日本プロレタリ アートが先ず自己の陣営を統一し革命の原動力となるために、今や帝国主義となれる右翼 社会民主主義者の罪悪を徹底的にバクロし、これを断乎として克服しなければならないし、 その条件の存在することを示す。 これらの事実はプロレタリアの前衛党たる日本共産党とその党員の行うプロレタリア指 導の諸任務の重大性をあます処なく示す。しかるにこれらの課題を成功的に遂行していな いのみならず、これを回避し、圧殺し、日本プロレタリアをアメリカ帝国主義者に事実上 売渡したことは事実が示している。 アメリカ帝国主義の日本支配という重大事実の無視は日本共産党にイデオロギー的混乱 を与え、その革命的宣伝を弱めざるを得なかった。特に人民日報にも指摘する如く、特に 中国革命に対する同情を表明する点でそうであった。いわんや万国のプロレタリアの国際 的団結の精神は省り見られず、植民地の日本に於て本国に於けるアメリカ帝国主義に対抗 する英雄的アメリカプロレタリアートとの闘争との結合は殆ど見られず一九四八年七月二 十三日の米進歩党結成大会に於ける即時対日講和要求に対しても積極的活動は行なわなか った。フランスとベトナムに於ける如く労働運動と帝国主義打倒の闘争に於ける共同は遂 に問題とならないのである。更に最も重大かつ犯罪的事実はソ同盟のプロレタリアとの団 結が全然問題とならず徳田書記長の如きは「現在に於ても将来に於てもソ同盟とは無関係 なことを明言」(第五回大会)し、今日に至るもこの態度とこの言葉は公式には撤回され ていないのであって、これらの主要な責任は日本共産党の負うべきものである。 当面する革命の主力軍として日本プロレタリアをプロレタリア独裁の理論で武装し決定 的な闘いに準備することの無視は必然的に労働者階級を敗北的気分に陥し込み、又プロレ タリア同盟軍に関する戦略的指導の無視はプロレタリアを孤立に導き、更に党に対する不 信頼の念をおこさしめることによって、党とプロレタリアとの結合を弱めた。 かくて党の革命の指導者としての力を弱め現下の重大な情勢下帝国主義者の召使たる客 観的任務をよく果した。即ち一九四六年六月十三日の社会秩序保持声明の出た後はこの命 令に従い、従来の生産管理を排してゼネストの方式をとった。一九四六年九月一四日の国 鉄ゼネスト中止及び、一九四七年一月三一日の二・一ゼネスト中止命令が出た後は、この 命令に従い地域人民闘争の方式をとってこれを一九四七年十二月二十一日の第六回党大会 の分科結語で定式化した。即ち、二・一ゼネストの誤った自己批判に基き日本プロレタリ アの闘争に於て経済的闘争と政治的闘争との結合に対する意識的努力をサボタージュし共 産主義と労働運動の結合という革命的党の意義とその役割を無視し「人民闘争の条件の揃 うまで待って」しかもスト中止命令が出れば以上の任務を放棄したまま、これに従うべき ことを教え、然してアメリカ帝国主義打倒の闘争を無視して、単なる反政府の議会主義的 右翼日和見主義の「地域人民闘争論」を革命的戦術として日本プロレタリアに教え込んだ のである。 その後も日本プロレタリアはこの重圧下によくケツ然と立ち上った。一九四八年三月の 全逓のプロレタリアを中心とする全官公の「地域」スト(何んと痛々しい名称ではないか! !)。及び、これに対する三月三十一日のマーカットのスト中止命令。 その後の一九四八年五月、私鉄総連「波状」スト。(この年の六月二十六日全国大学高 専の学生がゼネストを行った)。一九四八年八月に於ける北海道国鉄を初めとする全国鉄 の革命的昂揚等がこれである。 然るにこれらの闘争を指導するに当って特に一九四八年八月に於ける全国鉄の闘争に当 っては「職場放棄」という方式をとり、プロレタリアの最も意識的部分である日本国鉄の プロレタリアを農村に個々バラバラに送り込みその行く先で「人民闘争」をまきおこさん としたのである。日本の国鉄はアメリカ帝国主義及び日本ブルジョワジーの支配の動脈で ある中枢をなし、且つそこに向って最も意識的なプロレタリアは団結していた。この国鉄 のプロレタリアを敵の中枢から引き放し、然り!! 革命運動から遠のかせ農村に於けるプ チブルの包囲の中に階級的団結を解いた個々プロレタリアを送り込んだのである。果して 人民闘争は起ったであろうか? 否、断じて起り得る筈もないのである。プロレタリアー トの国際的国内的闘争の展開によって始めて農民は「引き離せ」られるのであり、党はこ れを指導することによって、戦略的指導の任務を遂行するのである。このために党はプロ レタリアートの前衛たるのみならず、その組織の最高形態のものとして、即ち、戦闘の最 高形態のものとして、即ち戦闘の最高司令部としてその先遣隊をあらゆる階級あらゆる階 層に派遣するのである。その先遣隊が敵の中に送られるとき、それは或は国会議員として 帝国主義のバクロの任にあたるのであろう。それがプロレタリアートの指導に当る時は、 これを団結せしめてその勢力を結集し(団結をといたりその勢力を分散したり農民の中に スッポリ出したりして人民闘争の遊戯にふけるのではなくて)政治的にこれを準備し、革 命の決定的瞬間と決定的場所にその全力を集中してその打撃力を発揮させるであろう。そ れが学生の中におけるときは層としての学生を把握しプロレタリアートの統一的闘いに於 ける同盟軍としての任務を果すであろう。その先遣部隊が農村に派遣されたときは、分散 している農民を農村細胞の周囲に結集し、プロレタリアートの同盟軍たらしめるであろう。 党とはこのようなものであり、革命党のプロレタリア指導とはこのようなものである。地 域における各階級・層に結びつけんとする「地域人民闘争」がいかに誤りであるか、又そ の典型的な表現である「職場放棄」というような方式がいかに日本のプロレタリアートを 誤らせるものであるかは自ら明らかであろう。これこそプロレタリア団結破壊の理論であ る。そして万国のプロレタリア団結せよとのマルクスの教えに真向から対立するものであ る。しかもこの地域人民闘争は社会主義と結びつくことによって醜悪な「自治体社会主義 」(レーニン)を復活せしめるに及ぶ。即ち以上の如くして地域の「労働者、農民、及び その他の市民」を結集させ地方権力をマヒせしめ、上に向かせ以って現在の政府の足をす くい国会を通じて「権力」を(笑ってはいけない!)「権力」を平和的に奪取するという のである。権力とは何か。権力とはレーニンが「国家と革命」において懇切丁寧に教えて くれるが如く「刑務所その他の施設をもつ特殊な武装した部隊」がその実体である。国家 という外見、神秘的ヴェールをはぎとった後の国家権力とはこういうものである。 そうしてみると日本の国家権力とは何であろうか。それは「刑務所その他の施設をもつ アメリカの日本占領軍であり日本の警察軍」である。そうしてみると地方自治体に、即ち 都議会や市議会や区や町に権力はあるだろうか。ない! 確かにそれは国家機関(行政機 関)ではあるが、それには国家権力は一かけらといえどもないのである。現在の日本は階 級支配の社会でありその支配はブルジョワ独裁である。従ってこれに打撃を与えるために はプロレタリア独裁を樹立してプロレタリアートが日本を支配し、ブルジョワの権力であ る軍隊を解散し、旧いブルジョワ国家機関を破壊して新しい人民の軍隊と人民の国家機関 を以ってこれらに代えなければならない。従って国家機関を民主的にするということは、 即ちプロレタリアの民主的中央集権を確立しうるのは、革命の初めではなくして革命の終 りである。従って地方自治体に上に向かせ政府の足をすくうという方式が全くの誤りであ ることは極めて明白であり革命的戦術とは縁もゆかりもないものである。レーニンはこれ を評して「蠅をとらえて、その後に蠅取粉をふりかけようとする」ものであり、政治的白 痴病と言っている(国会と選挙)。しかも以上に明らかな如く、議会は権力を持たないも のであり、このことは議会でいくら共産党が議席をとったとしても、それだけでは日本人 民は解放されないのみならず、だまされるだけであることを示す。従って日本共産党の「 地域人民闘争」の方式を一貫してとってきたことは、一、アメリカ独占資本と日本独占資 本の階級支配とその権力に対する闘いを「芦田」とか「吉田」とかいう権力でもない内閣 に対する攻撃にそらしてプロレタリアートの重大な打撃力をあらぬ方にそらしたことを意 味する。二、プロレタリアートに議会主義的、革命の平和的発展の幻想を植えつけてプロ レタリア独裁の理論によって武装させることをしなかったために重大なストにおいていつ もアメリカ帝国主義とぶつかりながら退却せねばならなくなり、それを又教え込んだこと を意味する。三、その結果、日本のプロレタリアートを敗北感に導き、革命の原動力であ るという階級意識を失わせ、又意識的に市民の中に投げこむことによって革命的プロレタ リアートをブルジョワ的プチブル的包囲にさらし、その影響を強化したことを意味する。 最後に革命運動における党の役割。労働運動を共産主義と結合し、プロレタリア独裁と プロレタリア革命の勝利に向ってこれを導くという革命的党の任務を放棄したことを意味 する。 (四) 我々がプロレタリア国際主義の立場に立ち、マルクス・レーニン主義の立場に立って日 本の革命運動をとらえるならば、民族独立のための闘争を階級闘争から切りはなして考え ることは明白な誤りである。 ビエルートはポーランド労働者党・社会党合同大会(一九四八年十二月)で次の如くい っている。「労働者党は、プロレタリアートの権力のための闘争が民族解放のための闘争 と緊密に結びついた特殊的な情勢のもとで、プロレタリアートのイデオロギーの実現のた めに闘った。労働者党は民族解放のために闘いつつも、プロレタリアートの権力のための 闘争を捨てはしなかった。のみならず、まさに、反対に、労働者党はプロレタリアートの 権力のための闘争を民族解放の闘争と結びつけた唯一の党であった。党内の若干の同志の 偏向は、これら二つの問題をきり離し、民族解放闘争に基本的な問題をそれに従属させた ことである。これは一種の日和見主義の現れであり、レーニン主義の立場からの逸脱であ る。」この原則的立場から逸脱するならば、それは必然的にブルジョワ民族主義に転落す ることは明らかである。 従って同志伊藤律は前衛四四号「一歩下がって二歩前へ」の中で「これは最早大資本、 中小資本の問題にとどまらない。独占資本も含め民族の独立か否かで決定的な線がひかる べき事態となった」と述べていることは明白なる誤謬である。 更に、日本共産党第十五回拡大中央委員会総会に於ける「講和問題に関する決議」では、 厳正中立をスローガンとし、更に一九五〇年一月一日のアカハタ紙上に発表された「講和 綱領」においても又、「中立」のスローガンをかかげているにも拘らず、未に撤回もされ ず又自己批判もなされていない。同志野坂に至っては「今日迄日本共産党は日本が厳正中 立を宣することを主張して来た。現下の情勢ではこれ以外の方法は有害である」とまで云 っている。これは、全くマルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもない見解であり、ブル ジョワ民族主義的立場に立っているばかりでなく、人民を欺瞞する虚言であると言わなけ ればならない。 同志劉少奇はこのような見解を痛烈に批判して次の如く述べている。「この側にも立た ず、またあの側にも立たず中立を実行することは不可能である。現下世界のかかる緊張し た形勢の下に於ては正に同志毛沢東が指摘せる如く、所謂中立はただ一種の人を欺瞞する 虚言である。君の主観に人を欺瞞する意志があるにせよ、ないにせよ」、さればこそコミ ンフォルム批判がこの点について「日本が帝国主義及び帝国主義的諸同盟と手を切り、民 主主義と社会主義の立場に立ち、平和的発展と諸民族間の平和の強化の線に止まる場合に のみ日本は立上り、偉大な独立国になることができる」と鋭く指摘したのであった。この 誤謬と欺瞞はソヴィエト同盟並びに中国に対する態度に於て特に甚しいものがある。 スターリンは述べている。「注文をつけず、ためらうことなく、無条件にソ同盟を守ろ うとするものが国際主義者である。何故ならば、ソ同盟は世界革命運動の基礎であり、ソ 同盟を守らずして、この革命運動を前進させ、守ることは不可能である。ソ同盟にそむき、 これをわきにおいて革命運動を守ろうとするものは、革命に反対するものであり、きまっ て革命の敵陣営におちこむものである」。 このスターリンの教えについて、ルーマニヤ労働党書記長同志ゲオルギー・デジは次の ように述べている。「今日、この我々の偉大な教師の言葉は何と切実にひびくであろう。 階級闘争の弁証法はカシャクのないものである」と。真の国際主義の見地とはかくの如き ものである。 これに反して、同志徳田は第五回党大会における一般報告において次の如く述べている。 「次にソ同盟との関係であります。現在我々はなんらソ同盟と関係を持っておりません。 以前においてもソ同盟と我々の党との間にはなんらの関係がないことは、しばしば云った とおりであります。もちろん過去におきまして、国際共産党が成立していました時には、 全世界の共産党が一つの組織になっていたことは事実でありまして、その意味において国 際共産党に関係していたボリシェヴィキ党と関係があったことは事実でありますが、これ は党と党との関係でありまして決してソ同盟そのものと関係していたのではないのであり ます。現在におきましても、又将来におきましても決して我が党はソヴェト同盟と関係を もつことはないであろうことをここに明言したいと思います」このような見解は、全くブ ルジョワ民族主義的チトー的見解であって、ソ同盟と中国の革命を擁護し、侵略戦争に対 して闘った日本共産党の革命的伝統に泥をぬるものである。 (五) 以上において、党の過去におけるマルクス・レーニン主義の原則より逸脱しており、し かもそれが批判後においても依然として克服されていないどころか、新たなる欺瞞を以っ てそのブルジョワ民族主義への転落を覆いかくそうとしていることは、「悪意なく」読ま れるならば何人にも明白であろう。 就中、自己批判に代るに弁解と欺瞞とを以ってしている点に対して、われわれは最も大 なる誤謬を認めるものである。一月十日の関東活動家会議に於ける同志志田がコミンフォ ルムの批判に関し「前半の情勢については、現在の党中央の見解と一致している。従って これはよろしい。しかし後半の同志野坂に関する部分は酷である」という意味の発言を行 っている事実、又、同志徳田の前衛四七号「たたかいは人民の信頼のもとに」における、 コミンフォルム及び中共の批判よりの全くの得手勝手の引用、更に又、統制委員会議長で ある同志椎野の「日本共産党の歩んだ道」に現われている強弁と欺瞞等々。同志スターリ ンはこのような帝国主義者に奉仕して人民を欺瞞し、党を日和見主義とブルジョワ民族主 義の泥沼に追いやるやり方に対して、次のように述べている。 「革命的理論は、大衆の実践的革命闘争とは全然無関係な、一束の、辻褄の合わぬ命題 や切断の理論にとりかえられ、老ぼれたドグマに代えられた。一見した所、指導者たちは、 マルクスの教理に準拠するかのごとくであった。が、彼等は、マルクシズムからその革命 的心髄をぬいてしまったのである。もはや、そこには、何らの革命的方針は見られなかっ た……。 自己を教育しようとも、又自己の過失から学び、それによって発剌たる革命的戦術を苦 心して編み出そうとしなかった。厄介な手に負えぬ問題は、その解決に真シな努力の必要 とされる限り、慎重に回避された。それらも又、体裁みたいに、時に討議に提出されはし たが、最後には伸縮自在な決議でごまかされるのを常とした」(レーニン主義の基礎より ) コミンフォルムの批判に接して、その後の党のこれに対する態度は、全くマルクス・レ ーニン主義と縁もゆかりもないものである。自己批判を恐怖し、自己の過失を隠蔽し手に 負えぬ問題を胡摩化そうとすること、内幕が全く無欠である振りをするやり方、これらに 対して、レーニンは「共産主義左翼小児病」において、次のように述べているではないか ! 「自己の犯せる過失に対する党の態度は、党の誠意の有無、またどれだけ彼らの階級及 び勤労大衆に対して、彼らの義務を遂行することができるか、かかる能力の有無をしらべ るための、最も確実な規準となるものである。過失を公然と認め、その原因を発見し、そ れを生んだ事情を分析し、その過失を改める手段を考究すること――これこそ、真面目な 党の表徴であり、またその義務の遂行であり、更にそれは階級および大衆の教育ともなる ものである」自己の過失を発見したり、党が自己批判したりすることは、敵にそれを利用 される恐れがあるから危険だということが、幾多の人によって口にされる。しかし、レー ニンはかかる暴論を重要視しなかった。この問題についてレーニンは「一歩前進、二歩退 却」のなかでいっている。それは一九〇四年、その党が未だ小さくて微力であった頃、か かれたものである。 「われわれの敵、即ちマルキストの敵は、われわれの論争を見て雀踊りする。彼らが、 われわれの党の欠点や欠陥を批判した私の小冊子の中から、幾つかの章句を引き出し、そ れを自分たちの目的に利用しようとするのは当然である。けれども、ロシアのマルキスト たちは、かかる針でつつかれること位いは無視していいほど、すでにずっと前から砲火を 投じている。彼らはかかることを無視して自己批判をつづけるだろう。彼らは遠慮なく自 己の弱点を暴露しつづけて行くだろう。そしてかかる弱点は、労働階級の運動の強大とな るとともに、不可避的に消失するものである」 今や党はまさに、重大な岐路に立っている。 光輝ある党の革命的伝統を擁護し、全世界のプロレタリアートに伍し、勇敢な革命的闘 争の展開のために、この意見書について徹底的なる検討と批判を、重ねてお願いする次第 である。 (日本共産党早大細胞) |
■ 意見書についての三つの意見 □ 意見書としては不充分というよりひどすぎる。(註・何がどうしてひどいのかはわか らない)(史証―1・野村勝美) □ 「意見書」の中身は、「志賀意見書」を参考にして早々に作成したものでしたから極 めて水準の低いものでした。第二次世界大戦の性格の歴史的分析などはなく、レーニン等 の文言を教条的に引用したものでした。内容はともかくとして、急いで出すことに意味が あると思っていました。(史証―5・梅田) □ 多少の気負いは感じたが、真剣な文章だった。(史証―5・猿渡)三万人の平和行進 原水爆禁止など訴える |
■ 学生会新聞 No.34 第一商学部学生委員会発行 □ 三万人の平和行進 原水爆禁止など訴える ○…去る八月六日に行われた第三回原水爆禁止世界平和大会の際に決議せられた「東京宣 言」のもとに、原水爆禁止国際行動は原水協主催で臨時国会の開会される十一月一日に全 国一斉に行われた。 ○…この日、東京では中央大会が日比谷公園野外音楽堂で行われ原水爆被害者をはじめと して各県代表、総評傘下の労農団体、全学連、民主文化団体、在日朝鮮人連盟など各団体、 およそ三万人が手に手に〃原水爆実験反対〃〃原子戦争準備反対〃〃我らに平和を〃など のプラカードを持って参加した。 ○…早稲田大学では、全学連のもとに、全学協が指揮をして学友約千五百名が参加したが、 さきに一橋大学などと共に今回はジグザグ行進はしない旨を決議発表し、極めて平穏なパ レードのうちにも平和を願う声を強く表明し、この国際行動デーの一役を全うした。 ○…日比谷集会に先立って、全学協では大隈講堂前で学生大会を開き〃米英ソの原水爆実 験絶対反対〃〃人工衛星の平和利用の要求〃などの決議を行ったのち、バス二十台に分乗 して日比谷中央会場に終結した。 ---------------------------- 記者の窓 ○…十一月一日の国際行動デーに備えて 一商委員会では第八回委員総会の際に議論百出し、 とかく学生運動に傍観的な学生を如何にしたら多勢動員できるかと執行部も頭を痛めてい たが、それでも八十名程参加し、これはメーデーその他のデモ行進の時より多数なので河 野委員長はじめ執行部の面々も安堵することしきり。 ○…それでも半ば強制的に参加させられた学生委員がそのうち約二十名ほどだから一般学 生の参加は六十名足らず。野球大会などには殺到する学生がどこへ消えたのだろうかとは 文化部長の苦言? ---------------------------- 好評だった展示会 一商が〃早大学生運動史〃を 第四回早稲田祭に際して、一商委員会では諸団体、研究会等と肩をならべて二十一号館 二〇四教室で〃戦後の早稲田における学生運動史〃と題して展示会を行ったが、写真や多 くの資料をも提示して平穏な形で行われたために非常な好評で、その主幹となった平賀副 委員長ら関係者を喜ばせている。 |
■ 資料・団体等規正令 昭和二十四年~二十七年 昭和二十四年四月四日、政令第六十四号 (この政令の目的) 第一条 この政令は、平和主義及び民主主義の健全な育成発達を期するため、政治団体の内容を 一般に公開し、秘密的、軍国主義的、極端な国家主義的、暴力主義的及び反民主主義的な 団体の結成及び指導並びに団体及び個人のそのような行為を禁止することを目的とする。 2 この政令は、この政令に定められた目的及び行為に関する場合を除き、集会、言論又 は信教の自由を阻害するように解釈し、又は適用してはならない |
Ⅳ 新しき発展のため。 (団体の結成及び指導の禁止) 第二条 その目的又は行為が左の各号の一に該当する政党、協会、その他の団体は、結成し、又 は指導してはならない。 一 占領軍に対して反抗し、若しくは反対し、又は日本国政府が連合国最高司令官の要求 に基づいて発した命令に対して反抗し、若しくは反対すること。 二 日本国の侵略的対外軍事行動を支持し、又は正当化すること。 三 日本国が他のアジア、インドネシア又はマレー人種の指導者であることをせん称する こと。 四 日本国内において外国人を貿易、商業又は職業従事から排除すること。 五 日本国と諸外国との間の自由な文化及び学術の交流に対して反対すること。 六 日本国内において、軍事若しくは準軍事的訓練を実施し、陸海軍軍人であった者に対 して民間人に与えられる以上の恩典を供与し、若しくは特殊の発言権を付与し、又は軍国 主義若しくは軍人的精神を存続すること。 七 暗殺その他の暴力主義的企画によって政策を変更し、又は暴力主義的方法を是認する ような傾向を助長し、若しくは正当化すること。 (禁止行為) 第三条 前条各号の一に該当する行為は、してはならない。 (団体の解散) 第四条 左の各号の一に該当する団体で法務総裁の指定するものは、その指定によつて解散する。 一 第二条に該当する団体(第五条の規定により第二条の団体とみなされたものを含む。 ) 二 第二条各号の一に該当する行為をした団体 三 第六条の届出をしない団体 2 法務総裁は、前項各号の一に該当する団体で同項の指定によらないですでに解散した もの(この政令施行前に解散したものを含む。)に対しても、同項の指定をすることがで きる。この場合において、その団体は、その指定によって解散したものとみなす。 3 前二項の法務総裁の指定は、官報に公示して行なう。 (第二条の団体とみなされる団体) 第五条 左の各号の一に該当する団体は、法務総裁の特に指定するものを除くほか、第二条の団 体とみなす。 一 その主要役員のいずれかが左の一に該当するもの イ 前条の規定により解散した団体の構成員であった者 ロ 昭和五年一月一日以後現役にあった正規の陸海軍将校又は特別志願予備将校であっ た者 ハ 憲兵隊、特務機関、海軍特務部又はその他の陸海軍警察機関の特殊若しくは秘密諜 報機関に勤務した者又はこれに協力した者 二 その構成員の四分の一を越える者が前条の規定により解散した団体の構成員であった もの (団体の届出) 第六条 その目的又は行為が左の各号の一に該当する政党、協会その他の団体については、当該 団体の代表者又は主幹者は、第七条の規定によって届出をしなければならない。 一 公職の候補者を推薦し、又は支持すること。 二 政府又は地方公共団体の政策に影響を与える行為をすること。 三 日本国と諸外国との関係に関し論議すること。 第七条 前条の届出は、新たに同条の団体を結成し、又は既存の団体を同条の団体に変更したと きは、その日から三日以内にその団体について左の各号に掲げる事項を、その届出事項に 変更があったとき、又はその団体が解散したときは、その日から二十日以内に、その旨を、 その主たる事務所の所在地の市町村長(特別区の区長を含む。以下同じ。)に対して行う ものとする。 一 名称 二 目的 三 主たる事務所所在地 四 役員の住所、氏名、現に所属し、及び従来所属したことのある一切の団体の名称並び に軍隊又は警察に勤務したことのある者については、その旨 五 有力な財政的援助者の住所、氏名及びその援助の金額 六 構成員の住所、氏名及び従来所属したことのある一切の政治的又は思想的団体の名称 2 前項六号の規定は、労働組合及びこれに準ずべき労働者又は被傭者の団体には適用し ない。 3 前二項に定めるものを除くほか、前条の届出に関し必要な事項は、法務庁令で定める。 (届出の通達及び公開) 第八条 第六条の届出を受理した市町村長は、法務庁令の定めるところにより、これを都道府県 知事及び法務総裁に通達しなければならない。 2 市町村長、都道府県知事及び法務総裁は、法務庁令の定めるところにより、それぞれ 前項の届出を一般に公開しなければならない。 第九条 第六条の団体が、機関紙誌を刊行したときは、その代表者又は主幹者は、刊行の日から 二十日以内にその一部を主たる事務所の所在地の都道府県知事に、その二部を都道府県知 事を経て法務総裁に提出しなければならない。 (法務総裁の調査) 第十条 法務総裁は、この政令の条項が遵守されているかどうかを確かめるために、必要な調査 を行うものとする。 2 法務総裁は、前項の規定による事務の一部を都道府県知事をして行わせることができ る。 3 法務総裁又は都道府県知事は、第一項の調査をするについて必要があるときは、関係 者の出頭を求め、又は当該管理若しくは吏員をしてその説明を聴取し、若しくは資料その 他の物件の提出を求めさせることができる。 4 前項に規定する当該官吏又は吏員は、その身分を示す証票を携帯し、関係者の請求が あるときは、これを提示しなければならない。 (団体解散に伴う公職からの除去) 第十一条 昭和二十三年五月十一日以後第四条の規定により解散した団体の本部又は支部その他の 下部組織のいずれかに対し、時期の如何を問わず、左の各号の一に該当する関係にあった 者で、法務総裁の指定する者は、公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令(昭和二十 二年勅令第一号、以下勅令第一号という。)の規定による覚書該当者に準じて、公職から これを除去する。 一 創立者、役員又は理事であった者 二 要職を占めた者 三 一切の刊行物又は機関誌紙の編集者 四 自発的に多額の寄附をした者 2 前項の法務総裁の指定は、官報に公示して行う。 第十二条 前条第一項の規定に該当する者は、同項の指定によって、勅令第一号による覚書該当者 としての指定を受けたものとみなし、その者が現に同令にいう公職にあるときは、同令第 三条の規定に従い退職しなければならない。その他その者に関しては、同令が適用される ものとする。但し、同令第三条第二項但書の権限は、法務総裁が行うものとする。 (罰則) 第十三条 左に掲げる者は、十年以下の懲役又は禁錮に処す。但し、情状により、七万五千以下の 罰金に処することができる。 一 第二条又は第三条の規定に違反した者 二 第六条の届出をせず、又は虚偽の届出をした者 三 第十条第三項の規定により出頭、説明又は資料その他の物件の提示を求められて、こ れに応じない者 四 第十一条第一項の規定に該当する者で前条の規定により辞職の措置をとらず、又はそ の該当の事実を秘して勅令第一号にいう公職に就いた者。 第十四条 第四条の規定により解散した団体の主要役員若しくは有力な財政的援助者であった者又 は勅令第一号にいう覚書該当者であってこれらの団体の顧問、参与(これらと同種及び同 等の権限を有する類似の職を含む。以下同じ。)若しくは構成員であった者が新たに第二 条の団体を結成し、若しくは援助し、又は指導し、若しくはその指導を援助したときは、 前条に規定する刑の二倍を越えない刑に処する。 第十五条 法人の代表者又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人 の業務に関し第十三条の違反行為をしたときは、行為者を罰するほか、その法人又は人に 対し同条の罰金刑を科する。 附則抄 1 この政令は公布の日から施行する。 2 昭和二十年勅令第五百四十二号ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基 づく政党、協会その他の団体の結成の禁止等に関する件(昭和二十一年勅令第百一号。以 下旧令という。)第二条及び第四条第一号(イ)の規定による従前の指定は、この政令第 四条の規定による指定とみなす。 |
【註】編集部の調査によれば、当時、早大細胞が提出したはずの「届出」は、現在東京都 公文書館には存在しない。 |
■ 小さな「異議」 澤地 久枝 二年をこす沖縄暮しのあと、持ち返った資料の整理もできず、混乱したまま日を送って います。「早稲田・一九五〇年・史料と証言」5号を読んで、なにか書くべき責任を感じ たのですが、いま、肝腎の5号が見つかりません。 5号のある原稿中に「××××という男」云々とあって、その人物は調子にのって言い つけ口をするいやな印象です。仮にイニシャルを使ってHとしますが、Hと私には九年近 い結婚生活がありました。 離婚は一九六二年で、そのあと一度も会っていません。八十年代はじめ、私がミッドウ ェー海戦の調査に没頭していたとき、五十代半ばでガンで死んでいます。 党と直接関係のなかった私には、今回の資料集に登場する人物や事項で、よくわからな いところがあります。しかし党籍に関係なく、いわばノンポリの学生も真剣に参加した五 十年代の学生運動だったと思っています。 Hは第二文学部の史学科に在籍、のち授業料滞納で除籍。住所不定、満足な靴一足ない ような学生でした。「国際派」に属して活動をしていました。 「という男」などといわれるいかがわしい人間とは思えません。貧しさの中で、真面目 に革命家として生きようとし、しかしコミンフォルムの論評のあと、自己批判して党へ戻 りました。 小河内の山村工作隊員を命ぜられたのは、「国際派分派」に対する懲罰だったように思 います。山村工作隊そのものの発想も、党の運動方針としては前途の展望を欠き、犠牲の み多かったのではないでしょうか。 Hは福生の農家に下宿し、行商人をよそおって山との連絡係をしていたようです。そし て、あるとき、都庁勤務の未知の人からHの手紙が届けられました(私たちはその頃まだ 結婚していません)。昭和二十七年の後半だったと思います。 スパイの容疑をかけられて党によって監禁されていることをその手紙で知って、私は早 大細胞の責任者のSさんに会いにゆき、その不当であることを言いました。あとで聞いた ところでは、山刀をそばにおいての査問だったそうです。 それでも党を離れられず、やがて、酒に逃れる荒れた生活になり、離婚という事態にも なりました。 生い立ちは不遇で、中学は大阪の北野中学の夜間に学んでいます。その級友たちから数 年前話を聞きました。そのあと、東京商船学校に在学中敗戦、早稲田大学で学んだ一人の 青年は、新しい時代のために生きることへの抱負も誇りも存分にあったと思います。 四国には職を離れた父親一人がのこり、どこからも送金のない学生として、友人たちに 迷惑をかけたことも多かったろうと思います。 国際派の存在が否定された直後、文学部の図書室で熱心に本を読んでいるHを見かけた ことがあります。彼は信じていたものを崩されて、文献によって事態を自分に納得させよ うとしていたのでしょう。本はスターリンの『レーニン主義の諸問題』でした。入党の勇 気をもてず、醒めたところもあった私は、この本に答があるとはとても考えられなかった のをよくおぼえています。 私の親きょうだいとの同居が必要となったとき、家父長制の名残りをひくHの生活態度 をもてあました私は、石垣辰男さんに助けを求めました。弱さも古さももっている「青年 」でした。 和服に二重廻し姿の石垣さんがわが家へ見えて、Hに非のあることを指摘し、それがわ からないなら、「H、お前と絶交するぞ」と言われた場面もあります。 石垣さんは亡くなり、堀越さん、坂本義二さんも亡くなったことをこの資料集をきっか けに知りました。みんななつかしい人たちです。 一九五二年の流血のメーデーの夜、私は多分組織の人に頼まれて、頭を割られていた江 島尤一氏をわが家にかくまいました。父は沖縄へ働きに行って留守だったからできたこと です。恵比寿駅から家へ帰る途中、なじみの外科病院があり、そこで手当してもらいまし た(彼も亡くなりました)。 そのあと、多くの学友たちがわが家へ見舞いに見えましたが、その一人は、脳腫瘍をわ ずらって、杖なしでは歩けなかった人、橋本といわれたかも知れません。北海道の人だっ たと思います。不自由な体で道に迷われ、ようやく辿りつかれましたが、それから間もな く亡くなっています。しかし彼の告別式その他の記憶がまったくないのです。私たちはな にかに追われているように生き、この人の人生の最期に心を配るゆとりなどなかったのか も知れません。 すまないという思いがずっとあり、忘れられません。いつか時間ができたら、あの頃の ことを聞かせてもらおうと思っていたのに、なんと多くのよき人びとが早死してしまった のでしょうか。 Hは一九六三年に再婚、子供にも恵まれ、会社でも経営手腕をふるって、早過ぎるとは いえ、それなりに答えを得た人生を終ったようです。しかし、「アカ」であった過去をひ きずる自虐的なところがずっとあったと聞いています。彼らしいと思います。 いまは私にとっては縁のない人ではありますが、一つの時代をわけあった仲間として、 根拠もなくおとしめるようなことには異議を申立てたいと思います。 それにしても、この資料集が現時点でまとまったことの意義は大きく、よかったと考え ています。 二〇〇〇年四月二十八日 澤地 久枝 吉田嘉清さま |
■ 総目次 第1号~第5号 □ 1号 うけつぐもの 橋本 進 1 プチブル日和見分子の日記から 野村勝美 4 コメディア・都学連 柴田詔三 18 「自由舞台」と私 坪松 裕 22 記憶に残る学生選挙権闘争 岩垂 弘 30 早大一年生のころ 田村順之助 34 おとうと・池田昭のこと 池田由子 38 坂本義二・晩年の日記 坂本伸子 43 地方出身の文学青年は何を考えていたか? 小野安平 50 文集「松尾隆」以後 長瀬 隆 62 査 問 近藤 昭 67 弔辞・吉上昭三君 安倍徹郎 74 弔辞・牛山純一君 三宅久之 76 シンジケート・サミット 内田雅夫 80 資料・メッセージ 出 隆 85 メーデー事件と私 滝沢林三 86 薔薇座とのんべい大学 広瀬 賢 90 あさやけのうた 津金佑近 96 パルチザン前々史 由井 誓 115 学の独立都の西北にひびく 吉田嘉清 125 公開質問状 137 第一審起訴状 141 東京地裁判決 145 はがき抄 今井昇/村上勤/斎藤嘉彦/宮野伸介/山下尊子/都築成勝/稲垣毅夫/喜 多健一/早坂茂三/芝研三/吉田昭七/倉持庄次郎/大溝和昭/三木一郎/鈴木辰一/千 原靖雄/平石裕一/柴田弘武/島田菊枝/吉岡健一郎/安東仁兵衛/武井昭夫/芹澤寿良 /村田克己/栗原光一郎/西宮和朗/石堂清倫/三ツ松要/嶋袋浩/高橋彦博/石内虎雄 /瀧澤克己/武田敦/金澤大作/相澤嘉久治/関千枝子/猿渡新作 |
□ 2号 歴史的認識の共有のために 橋本 進 1 デア ターク 武藤義男 4 資料・文化班綱領 宮 直治 14 特集・第二次早大事件 全学協の結成と学生選挙権闘争を中心にして 芹澤壽良 16 無抵抗者の論理 松本茂郎 44 悪――5・8早大事件 藤家禮之助 56 早稲田はいま? 北村 実 62 武闘派とペテン師たち 倉持庄次郎 66 こんなこともあった 木村(七俵)博 70 細胞日記・47年・48年 鈴木 積 74 半世紀前の青春の日々 濱田美智子 96 一つの時代の終りに 吉原公一郎 110 追悼・安東仁兵衛 118 追悼・松尾衣子夫人 121 「10・17」の想い出 新井(吉川)文子 122 松尾隆(1) 長瀬 隆 130 人生断想曲“盲いた舞踏” 松尾 隆 148 はがき抄 玉木令仁/早坂茂三 早稲田人名事典 柴田詔三/村田克己/田村順之助/北村実/岩垂弘/小野安平/角保 雄/芝田重郎太/千原靖雄/大曲直/栗原光一郎/寺尾五郎 □ 3号 大山郁夫 ――警視庁地下室での思い出 橋本 進 1 八路軍とともに ―わたしの反戦闘争 西田 理 4 線から面へ、署名運動を広げよう 中島 誠 15 コミンフォルム批判・再考 石堂清倫 16 青春とは恥ずかしいものである 早坂茂三 24 文学部地下書籍部の仲間たち 岡市之助 27 早稲田のうたごえ私記 ―早大合唱団のあのころ― 高橋英夫 30 社会主義と協同組合の未来 千原靖雄 42 50年代 早大生協の苦闘回顧 杉本時哉 53 資料特集 早大学生運動史・史料を語る 吉田嘉清 60 われわれの早稲田をまもるため挑発者の冒険主義グループを断固排除せよ/ウラギリ 者から自治会を守れ!/青春に悔いなき抵抗を!/大人しくしていないと首をきりま す/民族の良心をまもれ/全愛国者に入隊を訴える/中央交渉経過報告書第三号/除 名確認 大山会の人たち 高橋彦博 82 早稲田反帝詩集 野間宏・古林尚 94 基地反対運動のことなど振り返って 平石裕一 100 また逢う日まで・梅田美代子・芹澤茂登子 108 追悼 森直治帰北天―流転から空へ― 真上久雄 110 森華子夫人の手紙 113 追悼 植木栄一が死んだ 野村勝美 114 「小河内山村工作隊」の記 土本典昭 116 松尾隆(2) 長瀬 隆 126 風信抄 石堂清倫/岡田裕之/吉岡健一郎 早稲田人名事典 絲屋寿雄/弓削徳介/山崎次朗/伊藤知巳/星野昌敬/平野義政 □ 4号 歴史の転換を体験してきたものとして 橋本 進 1 前田海軍少尉の軍籍剥奪 前田慶穂 4 父と二人の兄と梁山泊の人たち 新井文子 13 『早稲田大学新聞』再び立つ 柴田詔三 20 「神山分派」顛末記 大金久展 28 私の一生を培養した6年間 中島 誠 42 わが人生の「揺り籠」――現潮 岩垂 弘 47 資料紹介 52 学生共済会とともに 八田源也 58 総点検運動と全学協議長境栄八郎氏の追放 小宮精一 62 高野秀夫と共にみた夢 牧 衷 70 地下室村に活気と華やかさを招いた婦研 須藤忠昭 84 特集・女たちのWASEDA フラリの父 室井 滋 92 50年代早稲田の琉球留学生 由井晶子 100 遺稿『わたしの早稲田 1951~55年』 芹澤茂登子 110 佐野学教授と渡辺恒雄君 松尾 隆 120 松尾隆(3) 長瀬 隆 124 風信抄 伊藤 晃/澤地久枝 早稲田人名事典 境栄八郎/高野秀夫 |
□ 5号 この「逆流の時代」に 橋本 進 1 私の体験した早大10月斗争 姜 徳相 4 いい残しておかねばならない 梅田欽治 18 日本共産党国際主義者団前後 猿渡新作 26 私の戦争、早稲田そして〈縄のれん〉 和田陽一 38 回想・早大社研のあの頃 堀中 浩 47 夜の時計台 ――第二社研の活動記録 米村 司 54 生協設立メモ 森定 進 70 早稲田・杜の外の視点 自分史における早稲田 大谷喜傳次 78 戦中活動家からの継承 吉川勇一 86 9・28に 富田洋一郎 87 趙局断章 山中 明 88 全学連結成の前後 武井昭夫 90 青い閃光 古川玲子 104 榊原喜一郎氏の鶴巻町断簡抄 坂元寛通 108 詩人 阿部文勇覚えがき 岩丸太一郎・遺稿 112 第1回統一早稲田祭のころ 菅 卓二 116 「50年問題」の総括を 松本茂郎 134 証言・1950年10月17日 小林一彦 144 惜別・武藤義男・寺尾五郎 寺尾さんのロシア紀行 柴田弘武 152 武藤義男さん追想 加藤榮一 158 松尾隆(4) 長瀬 隆 162 ひとの言わないことを言う 大池文雄 184 人間をとりもどしたころのこと 戸井昌造 204 大学当局に抗議する 編集部 218 風信抄 時枝俊江/林 郁/羽佐間重彰/小田切秀雄 早稲田人名事典 多根 茂/松岡信夫/喜入 眞/古林 尚/小林 勝 |
■ 通巻正誤表(筆者訂正) 【1号】 □野村 勝美 p.4 下 3 「カスのよう脳みそ」→「カスのような脳みそ」 5 下 13 「一年留学」→「一年留年」 6 下 4 「最低辺層」→「最底辺層」 11 上 19 「天皇が」→「天皇ガ」 13 下 2 「一月七日」→「一月六日」 14 上 9 「何かどうして」→「何がどうして」 7 上 13 「国際派」→次行「だろうか」まで削除。 □坪松 裕 p.29 下 8 「演出家」→★「舞台制作者」 □長瀬 隆 p.62 表題 「松尾隆」→『松尾隆』 62 上 9 である。→である。 (後記 発表されていた。4号141、5号175参照) 63 上 2 四七年→四九年 63 下 4 が松尾隆→が後輩の松尾隆 63 7 可能性→危険 64 下 9 は「弱音を→文集のうちで「弱音を 64 15 たいへんな不幸→たいへんに不幸 65 上 5 出来事を記したものであった。どうして→出来事、ど うして 65 下 7 抗議→講義 65 9 哲学論→哲学編 □近藤 昭 p.68 下 2 「衆議党」→「衆議院」 68 下 16 「施工」→「施行」 69 上 10 「企図」→「意図」 69 上 15 「意図」→「企図」 69 上 15 「方法」→「法案」 70 上 18 「二郎」→「三郎」 71 上 8 「司令」→「指令」 71 下 6 「秘密で」→「故意では」 73 上 12 「頻発」→「続発」 73 下 2 「企画」→「論集」 □三宅 久之 p.78 上 2 「新潮社」→「新聞社」 78 下 7 「吉教」→「吉政」 【2号】 □長瀬 隆 p.131 上 7 である→ にすぎない。 132 下 18 ともに→のためともに 135 下 3 前半の三分の一を→ 前半を 135 下 9 唯一の→唯一の(後記 他にも一つあった。4号143参 照) 138 上 9 会い照らす→相照らす 139 上 12 後に→かくて 140 下 6 答え→答 143 下 1 訳稿→本文の訳稿 145 上 25 一ヶ月→一か月 【3号】 □千原 靖雄 p.43 上 8 「1958」→「1953」 44 上 13 「1960」→「1955」 44 上 14 「1961」→「1956」 52 下 4 「西哲」→「西哲卒」 □長瀬 隆 p.135 上 13 唯物論→史的唯物論 141 下 16 唯一の→唯一の(後記 他にも一つあった。4号143参 照) 144 上 10 藝術」以外→藝術」という表題以外 144 11 ペレヴェルゼフと→ペレヴェルゼフの翻訳と 144 下 15 弥漫→瀰漫 145 上 21 フローベル→フローベール 145 下 6 いがい→以外 146 下 9 創作→「創作」 【4号】 □柴田 詔三 p.27 下 9~10 「極東委員会」→「対日理事会」 □長瀬 隆 p.125 上 11 理由→原因 129 上 4 初登場→登場 133 下 14 二八歳→二十八歳 141 上 16 『民涛』→『東京民報』 【5号】 □橋本 進 p.1 18 「情熱と」→「情熱を」 □長瀬 隆 p.37 喜入眞 上 9 の詩→という「花束を」 107 小林勝 上 5 コスゲ小菅→小菅 上 6 ジンミンハンジョウガ人民抗争歌→人民反抗歌 164 下 18 『黙示録論』→『黙示録論』 170 下 15 ДВОЙНИК→ДВОЙНИК 171 上 17 上に同じ 下 2箇所――上に同じ 177 上 14 簡単→単純 178 下 12 ДВОЙНИК→ДВОЙНИК 179 上 16 上に同じ 下 3箇所――上に同じ 180 下 12 問い→問 □小林 一彦 p.144 上 1 「1990年」→「1950年」 146 下 3 「・」→「、」 148 上 13 「 )」→「。」 148 上 17 「学生が」→「学生から」 151 下 20~21 削除。→「1950年当時学生自治会中央執行委員。文学 部仏文科。」 *筆者より申し出のあった誤植のみの正誤表です。より完全な表は http://www.m-net.ne.jp/~t-abe/waseda.html に引き続き掲載します。 |
賛同者・醵金者名簿 相澤嘉久治 浅崎達雄 安倍徹郎 天野譲 新井文子 有田辰男 安東仁兵衛 安藤雄一 池田由子 池山重朗 石内虎雄 石堂清倫 出かず子 伊藤晃 伊藤茂 伊藤哲子 稲垣毅夫 犬飼一郎 犬丸義一 井上武昌 岩崎武夫 岩田敏雄 岩垂弘 岩丸太一郎 植木栄一 内田雅夫 梅田欽治 榎本信行 蛯原敏行 大池文雄 大金久展 大久保三郎 大河内昭爾 大竹次郎 大谷喜傳次 大塚茂樹 大溝和昭 岡市之助 岡上るみ子 鴛海量良 小野安平 皆藤健 加藤榮一 角保雄 鹿島光代 金澤大作 上正原興 菅卓二 姜徳相 菅直人 喜入久子 菊池敏夫 喜多健一 北村実 木下應佑 木村博 草鹿光世 久保隆司 倉持庄次郎 栗野常久 栗原和彦 巌名泰得 小瀬水敏郎 小平勝美 小沼静夫 小林一彦 高麗照日出 近藤昭 斎藤嘉彦 境鶴雄 榊原美智子 坂本尚 坂本伸子 坂元寛通 桜山隆一 佐々木康雄 佐藤啓三 佐藤純弥 佐野健治 猿谷圭志朗 猿渡新作 澤地久枝 塩見篤 芝研三 柴田詔三 柴田弘武 島田菊枝 嶋袋浩 清水英次 清水弘道 清水洋三 白井博久 白土吾夫 鈴木健一 鈴木茂夫 鈴木辰一 鈴木積 関千枝子 芹澤壽良 袖井林二郎 高木子 高倉三郎 高沢寅男 高橋彦博 高橋英夫 瀧澤克己 滝沢林三 田口和子 武井昭夫 武田敦 田中一肥 田中知己 玉木令仁 田村順之助 千原靖雄 津田道夫 土本典昭 都築成勝 坪松裕 手嶋三郎 戸井昌造 直井寿 永窪しず 中島誠 長瀬隆 永田力 長沼昭夫 奈良由紀子 西岡正文 西澤秀麿 西宮和朗 野上龍雄 野口成 野村勝美 萩尾昇 羽佐間重彰 橋本進 長谷部和夫 長谷部照夫 八田源也 濱田美智子 早坂茂三 林郁 速水弘明 平石裕一 廣末晋 廣瀬賢 樋渡昭 福壽幸男 福田勝禧 藤家禮之助 藤川昶 藤川徹郎 藤川享 藤田公甫 古山登 堀中浩 前田慶穂 真上久雄 増田秋賢 増山太助 松尾龍一 松下清雄 松田暢子 松林光正 松本茂郎 間庭博 水原明人 三木一郎 三田正治 三ツ松要 南清文 宮野伸介 武藤義男 村上勤 村田克己 森(宮)直治 森田直道 森本健二郎 八尋麻也子 山下尊子 山本譲司 由井晶子 吉岡健一郎 吉田嘉清 吉田昭七 米川良夫 渡辺隆夫 和田陽一 (匿名三名) |
■ 石垣辰男手記 石垣 辰男 附・堀越 稔 書簡 酷暑が続いています。お元気のことと存じます。 この暑さの中を長崎、そのあと、佐倉ですか。大変な労働です。感心しております。また佐倉行きの話などお聞き出来れば幸いです。さて、例の石垣兄のコピー、おそくなりましたが同封いたしました。これは大変な文章です。石垣さんがなんのためにこのようなメモを書かれたのか、わかりません。しかし、 当時の私にとってもきわめて身近な状況を再現する記録として、第一級の価値ある遺稿ではないでしょうか。なんのために、いつ頃書いたものなのか――まず、この辺から興味つきない一文です。内容について一つだけ申し上げれば、大兄の指摘しておられた「革命的中央委」云々のことも、ごくかんたんにふれている箇所がありました。メモの内容に関連して、また、いろいろと教えて下さい。石垣兄は手紙を書いても投函しない。小生はなかなか手紙も書かないわるいくせがあって、大兄には申訳ない。ともあれ、あと少々の間、この暑さに負けないよう、互いに頑張りましょう。明日(一七日)はようやく、小生の田舎に墓参に参ります。一泊しかできません。 取り急ぎ御一報まで 八月一六日 堀越稔 野村良平様 |
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証言・別冊・資料篇(非売品) □ 発行・二〇〇〇年六月二十五日 早稲田・一九五〇年・記録の会 振替 00140-6-364461 ホームページ http://www.m-net.ne.jp/~t‐abe/waseda.html □ 代 表・橋本 進 □ 編集部 吉田 嘉清 大金 久展 岩丸太一郎 芹澤 壽良 安倍 徹郎 長瀬 隆 藤川 亨 猿渡 新作 坪松 裕 大塚 茂樹 清水 弘道 柴田 詔三 小野 安平 坂本 尚 □ 制作・(株)新制作社 池上 明彦 高野 正子 東京都港区赤坂七―五―一七 〒 一〇七―〇〇五二 TEL 〇三―三五八四―〇四一六 FAX 〇三―三五八四―〇四八五 1952年発行「真実のあかしのために」十月会編より |
1950年を中心とする 早稲田大学学生運動史年表 p.年表2~年表48 安倍徹郎 編 (1951・文学部) 吉田嘉清 監修 (1950・法学部) |
【註】別冊資料編に掲載された年表は、ページ数の関係で約3分の2に縮めた縮小版です。 資料紹介も収集した約400点の資料の一部にとどめました。詳しくは当ホームページの年表 をご参照下さい. |
1945―1959 1950年代の 早大学生運動関係 年表 p.年表50~年表57 芹澤寿良 編 (1954・法学部) |
(私論.私見)