補足「東大と早稲田の50年期分裂時代の分派構図の差異考」 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元、栄和3)年.5.24日
(れんだいこのショートメッセージ) |
党の「50年分裂」時代、日共の指導下にあった全学連は、日共の党内分裂の影響を受けて四分五裂する。この時、学生運動史上、官学の雄たる東大と私学の雄の早大が興味深い対応差を示している。これを確認しておく。全学連運動史の流れは、「共産党の「50年分裂」と(日共単一系)学生運動」、「党中央「50年分裂」期の(日共単一系)学生運動」に記しているので割愛して、東大と早稲田の分派差のみ抽出して確認する。 2011.1.12日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評884 | れんだいこ | 2011/01/12 | ||||||
【興味深い東大と早稲田の50年期分裂時代の分派構図の差考】 1950年初頭の「スターリン批判」に端を発し、曲がりなりにも徳球系党中央の下で一枚岩の党運動を展開していた日本共産党内が党中央主流派と反主流派に分裂して行くことになった。党中央主流派は俗に所感派、反主流派は国際派と呼ばれる。これを「50年分裂」と云う。 これにより、党は、所感派の徳球ー伊藤律派、野坂派、志田派。反主流派は宮顕派、志賀派、国際共産主義者団、神山派、春日(庄)派。その他中間派として中西派、福本派に分裂した。全学連運動は、依拠する党中央の分裂により股裂きされた。この時、戦後学生運動を牽引して来た官学の雄・東大と私学の雄・早大が興味深い対比を見せているので確認しておく。 東大では、党中央派(所感派)が一掃された。L・Cキャップの小久保が「獅子身中の虫」として解任され、反主流派(国際派)の戸塚が後釜に座った。戸塚は49年に経済学部に入学し、「本富士署の通訳」履歴を持っていた。夏頃から細胞活動に専念していたところ、たちまちのうちにL・Cに推されたことになる。戦前党運動に少しでも詳しい者からみれば、戸塚の本富士署との繋がりは由々しきことであるが特段に問題にされていない。胡散臭いところである。この戸塚が翌1951年、東大国際派査問事件に於ける「スパイ容疑」で査問されることになる。 「50年分裂」を廻って、それまで急進主義的に全学連運動を指導してきた武井系執行部派は宮顕派に篭絡され一蓮托生し続けていくことになる。東大細胞は、武井委員長の出身母体としてこれを支えることになった。 この時、宮顕指揮下の警察的秘密組織「ゲハイムニス・パルタイ(Geheimnis Partei、通称ガー・ペー)」が創設されている。最初のメンバーは安東、戸塚、高沢、銀林、上田(不破哲三)、佐藤経明、大下勝造らであり、続いて竹中一雄、福田洋一郎、長谷川らが加わった。その上部組織に「E・C(エグゼキューティブ・コミッティーの略称」が位置しており、力石と武井がいた。 この他にも富塚文太郎らの全学連書記局グループが加わっていた。書記長の高橋は「都落ち」した宮顕に着いて九州に赴いた。ほぼ丸ごと宮顕指揮下に入ったことになる。安東の「戦後日本共産党私記」には「この『G・P』がいつ頃結成されたのか記憶に定かではないが、かなり早い時期−1月の末頃ではなかったかと思う」とある。日共内宮顕派官僚として、アカハタの編集部にいた小野義彦、内野壮児、全金属の西川彦義、平沢栄一がメンバーに属していた。 これに対して、早大では東大の如く宮顕派に一元化されず各派のルツボとなった。党中央派(徳球−伊藤律執行部擁護派)に小林央(商)、藤井誠一(政)、水野(教)、横田(教)の10名足らずが列なっていた。この党中央派に併存して国際派各派が生まれた。こまかく数えると20以上の分派が生まれ四分五裂していた。1.国際共産主義者団=志賀義雄、野田弥三郎(哲学者)、2.神山派、3.再建細胞派(党中央所感派)、4.統一委員会派(宮顕、袴田、蔵原、春日(庄)らの国際派)等々に分岐し百家争鳴的であった。 大金久展氏の「神山分派顛末記」は次のように述べている。
レッドパージが始まり、全学連中執が「レッドパージ反対闘争」を指令する。大金久展氏の「神山分派顛末記」は、この時の早大の反レッド・パージ闘争について次のように述べている。
以上、「50年分裂」を廻っての対応で、東大と早大は鮮やかな対比を見せていることが確認できれば良い。 早稲田のこの伝統は1960年代後半の全共闘運動まで続くことになる。つまり、1950−1970年までの20年間、早稲田は学生運動各派の指導者を輩出して行くことになる。もとより早稲田だけではない。官学の東大、京大、私学の早大、明大、中央、同志社が主な輩出大学となっている。その中で相対的に早大系譜が目立つと云うことである。早稲田のこの左の伝統は、1970年、れんだいこが早稲田キャンパスに登場した時点で、革マル派と民青同の二元支配により封殺される。以降、今日に至るまでルツボは生まれていない。 ちなみに、この時期の早大学生運動と東大学生運動が妙に絡んだ事件を確認しておく。これが、「東大国際派内査問事件(戸塚、不破査問事件)」」へと発展して行く下地となっている。そういう意味で、この事件が見逃せない。 1950.10.17日、早大で第1次早大事件が発生する。全学連は、レッドパージ粉砕闘争の一環として「ゼネストを決行せよ」指令を出し、早大構内で全都集会が開かれた。大学当局と警察は「平和と大学擁護大会」の名目で行うこの集会を弾圧し、学生143名が逮捕された。10.17闘争は大会戦術の手違いと、予想以上に凶暴化した警察の手によって、かってない官権との大衝突事件となった。この経過は次の通りである。 学生大会開催中に、全学連中執(東大の武井、力石)らの意をうけた東大の高沢、戸塚、木村、熊倉、上田(不破、レポ係)、早大からは吉田嘉清一人が大隈講堂控室で大会後の戦術を協議した。会議は、吉田の反対を押し切り、学生処分を協議中の学部長会議粉砕の為なる名目で大学本部の占拠を決定した。 早大全学共闘(吉田、津金、井川、坂本、岩丸ら)は、大きな被害が予想される「占拠は無謀」として、学部長会議に抗議の後に文学部校舎での籠城を主張した。中島誠は全学連中執を支持した。吉田は、説得が功を奏さなかった場合を予想して、万一逮捕された際の第二執行部・石垣(「吉田証言」による)を用意して本部に向かった。 案の定、本部に座り込んだ学生たちは吉田の指導に従わず、東大と「国際主義者団」の指導下に占拠を継続した。坂本、井川、岩丸ら囮(おとり)のデモ隊を警官隊の前にくりだし、その隙に本部に座り込んだ学生たちを外に誘導しようとしたが徒労に終わった。 12時頃から座り込み集会に入った。200名の学生が学部長会議開催中の本部を取り巻いていたところへ、早大当局の要請で約900名の警官隊が出動し衝突した。双方で20数名の重軽傷者が発生した。この衝突の最中、東大活動家群は木村の合図で一斉に逃げ誰一人も逮捕されなかった。 143名の学生(女子1名をふくむ)が不法侵入、不退去、暴行、傷害、公務執行妨害などの容疑で検挙された。検挙された学生は「手錠をかけられて背中に番号を書かれて」バスにのせられ、戸塚署ほか19署に分散留置された。10.17闘争は大会戦術の手違いと、予想以上に凶暴化した警察の手によって、かってない官権との大衝突事件となった。10.17以降、早大に武装警官が学内に常駐、自治会室を釘付け閉鎖した。 この時の、全学連中執の指導が疑惑されることになり、次のように証言されている。これが1952.2.14日の国際派東大細胞内査問・リンチ事件の遠因となる。
翌1951.2.14日頃、国際派東大細胞内で査問リンチ事件が発生している。遠因として、宮顕派指揮下に入っていたこの時期の東大細胞の胡散臭さが見て取れるだろう。この疑惑が国際派東大細胞内査問リンチ事件に繋がり、東大細胞の最高責任者・武井、力石が東大の汚名を晴らす目的で容疑の濃かった「戸塚、上田(不破)、高沢」を吊るしあげ、自白を強要したが、結果的に宮顕の介入で紐が解かれた。 その時の約条で、「戸塚、不破に対するスパイの断罪、そしてそれに関連した高沢らの除名は取り消す。しかしこの過程で彼らには様々な非ボルシェヴィキ的要素が明らかになったので、全ての指導的地位に就かせることはしない」と申し合わせた。 この申し合わせが反故にされ、ほとぼりの醒めた頃、不破は党本部に呼び寄せられ、以降、宮顕の片腕として活躍して行くことになる。その後の履歴は衆知の通りである。不破が、この履歴を語らないので、れんだいこが代わりに明らかにしておく。これを「国際派東大細胞内査問、戸塚・不破被リンチ事件考」の補講とする。 2011.1.12日 れんだいこ拝 |
大金久展氏の「『神山分派』顛末記」(「宮地健一のホームページ」より転載)を転載しておく。 |
(注)、これは、早稲田1950年記録の会『史料と証言第4号』(1999年)に掲載された文書の全文を転載したものです。50年分裂における主流派と国際派の実態に関して、国際派の一つである神山分派の実態・性格は、かなり重要なテーマであるにもかかわらず、ほとんど知られていません。大金氏は、当時、共産党早稲田細胞にいて、そこでの神山分派の中心でした。国際派といっても、反徳田の5つの分派に分かれており、それらの相互関係は、解明すべき点を多く含んでいます。大金論文は、その貴重な資料になるものです。 |
はじめに |
いわゆる日本共産党の五〇年分裂当時、早大細胞は基本的には主流派と国際派の二つに分かれたが、コミンフォルム批判を「無条件で支持」するという反主流の勢力が圧倒的に強かった。商学部の小林央、政経の藤井誠一、教育学部の水野、横田などが主流派を支持し、細胞解散処分では「再登録」に応じて「再建細胞」を組織したが、その勢力はせいぜい十数名に過ぎなかった。しかし、コミンフォルム批判を支持した早大細胞のいわゆる国際派は、東大細胞のように宮本系一色ではなかった。 |
1、入党前後のこと |
私は敗戦の年、昭和二十年三月に戦時特例として旧制中学を四年で卒業した。受験は三回限り、浪人は許されず、あとは軍の学校へいくか、徴用工の途しかなかった。文科には徴兵猶予の特典がなかったので、苦手を承知のうえで第一回目は旧制高校の理科を受けて見事失敗して(残念ながら敗戦を見通せなかった)、二回目の受験で早稲田大学専門部政治経済科に入り、昭和二三年に旧制最後の政経学部に進学するという変則的なコースをたどった。だから、私の早稲田での学生生活は敗戦直前から始まり、一九五〇年十月のレッド・パージ反対運動による除籍処分に至る時期ということになる。昭和二三年三月、私は早稲田大学専門部政治経済科を卒業したが、政経学部への進学試験を受けるとともに、友人の薦めで冷やかし半分でライオン油脂(現・ライオン)の入社試験も受け、両方とも合格した。まことに無責任な話だが、私は政経学部に在籍のまま、しばらく会社勤めをやってみることにした。 当時、ライオン油脂は産別系の全日本化学産業労働組合連盟傘下の有力組合で、のちに有名な人民艦隊のリーダーのひとりだった古庄邦之助が経理課長のまま労働組合委員長と共産党細胞のキヤップを兼ねていた。主力の平井工場の党員数は二〇名を超ていたろう。私は同期入社の下村義雄(東京商大卒、大塚金之助ゼミの出身でのちアカハタ記者として活躍、昭和四五年没)とたちまち意気投合し、ともに一ヶ月足らずで日本共産党ライオン油脂細胞に入党した。(この年の学卒採用は五〇名を超える応募者のなかでわれわれ二人だけだったので人事部長は社長から大目玉をくらったそうだ。) ライオン油脂に在籍したのは正味四ヶ月足らずだったが、ちょうどこの時期は有名な「東宝争議」をはじめ労働争議の最盛期で、新米ながら見よう見真似で江東地区にあった汽車会社をはじめあちこちの工場にビラくばりやオルグにでかけた。ライオン油脂でも当時かなり尖鋭な賃上げストがおこなわれていたが、入社早々ながら職場委員として相応に働き、それが一段落したところで「大学に戻る」と宣言して退社したが、それはおそらく七月末のことだったろう。退職金はもちろん出なかったが、直属上司の常務がポケット・マネーで一万円の餞別をくれた。厄介ばらいができてよほど嬉しかったのだろう。早速これで風早八十二の『日本社会政策史』などを買ったことはいまでもよく覚えている。 |
2、早大社研に入る |
ライオン油脂を退社する、と古庄キヤップに伝えた折、私は彼から餞別がわりに当時駿河台の日大の大教室で開かれていた「人民大学」の聴講券をもらった。たいていのことは忘れてしまったが、なかで強烈な印象としていまも残っているのは神山茂夫の「国家論」を聞いたことだった。神山というのは初めて聞く名前だったが「俺は志賀君と『前衛』で論争をやっているが理論上のことでは一歩もひけない……」と敖然とうそぶきながら自信満々で自説を展開していた。「大した男がいるものだ」と感心しながら、帰りに彼の戦中三部作のひとつとして有名な『日本資本主義分析の基本問題』(岩崎書店)や『人民的民主主義の諸問題』(同友社)などを買って帰った。日本共産党中央委員会の一員でありながら、山田盛太郎はじめ名だたる講座派の理論家をなでぎりにしているのを読んだ印象は強烈だつた。そして、これが私にとっては神山を知る最初のきっかけだった。 九月から大学に顔を出すようになった私は、なんの予備知識もないままに本格的にマルクス主義の勉強をするつもりで社研に入ることにした。入って驚いたのは、そこが神山理論の牙城だったことである。新入りの私をテストするつもりなのか、一級上の幹事長の有田辰男(現名城大学教授)が「なにか報告しろ」というので、その頃流行っていた「ヴァルガ批判」の簡単な紹介をやったら途端に社研幹事、細胞では社研グループ所属ということにされた。 この早大社研は敗戦直後、学内では非公認団体だった日本共産党早大細胞のメンバーによって結成され、学内左翼の合法舞台の役割を果たすとともに活動家の速成養成機関としての一面をもっており、簡単なパンフレット二、三冊の手ほどきが済むと各学部の活動家がすぐさま細胞活動や自治会活動に引き抜いていく、といった役割を果たしていた。政経学部では武田敦、滝沢克己、津金佑近、松本哲男、志村豊壽、水野邦夫、由井誓などがいずれも社研を二、三ヶ月足らずで通過していった連中だった。早大社研が、細胞から自立した独立の「研究団体」として確立されるようになったのは、有田によれば一九四七年春からのことで、それまでは細胞のキャップが兼任で委員長を名乗り、細胞も青共も社研もいっしょくただったらしい。 こうしたなかで、最初は商学部の北浦洋、専門部政経の三島耕、有田など数名で日本資本主義論争の研究会をはじめ、間もなくこれに専門部商科のマルクス五人男といわれた大越幸夫、高尾義之、岩瀬肇一、藤井誠一、中田陽久たちが加わり、みんなに推されて有田が初代幹事長になったというのが、その後の「社研事始」だったようだ。有田によるとそのなかで中心的に動いたのは三島で、慶応の社研と連絡をとり、社研の講師陣の中心となった浅田光輝をひっぱってきた。浅田は慶応の出身で、その当時は豊田四郎の日本経済機構研究所に所属していわゆる「神山理論」の立場から盛んに理論活動を展開していた。 しかし、こうした社研の理論的な立場は、当然細胞からは白眼視され、「日和見主義」「理論拘泥主義」あるいは「サロン・マルキスト」などのレッテルを貼られた。藤井誠一や広瀬賢などはこうした社研批判の急先鋒で、神山理論の牙城である社研に対抗するという旗印を掲げて「民主主義科学者協会早大支部」を結成した。「神山理論は偏向だ、小山弘健ではなく内田穣吉の『日本資本主義論争史』のほうが正しい」と主張して有田たちと激しくやりあっていた。もちろん、その根底にあったのはいわゆる「志賀・神山論争」をめぐる評価の問題だった。 |
「志賀・神山論争」 |
私が社研に入った当時、「志賀・神山論争」なるものが多くの関心をあつめていた。社研外からも広瀬賢、船本滋をはじめ、入れかわりたちかわりいろいろな連中がやってきて部室で議論の花を咲かせていた。そして、逆説的にいうと、私は志賀義雄が『前衛』に載せた「党史の見方」や「世界史の一考察」などの論文に反発してそこから確信的な神山理論の支持者になった、といえそうだ。 一九四六年十二月、『人民評論』に載った『「軍事的封建的帝国主義」とは何か』という神山の信夫清三郎批判の論文にたいして、政治局員で『アカハタ』主筆の志賀義雄が翌年六月四日から六回にわたってシガ・ヨシオの署名で『アカハタ』紙上に「軍事的・封建的『帝国主義』について」という論文を連載した。そして、これがこの論争の発端だった。志賀は「獄中十八年」の威光と党政治局員の権威で簡単に神山を押さえこめると過信していたフシがあるが、神山は猛然と『前衛』誌上で反論を展開した。(『アカハタ』での反論の機会はあたえられなかった。) |
3、コミンフォルム批判前後 |
一九四八年秋から翌年の春までは社研幹事(党内では社研グループ)ということで、細胞内では比較的恵まれた環境で研究会活動を中心とした学生生活を送っていた。 |
「早稲田の神山派」 |
コミンフォルム批判をめぐる早大細胞内の党内闘争のなかで、私はそれまでの単なる社研内の神山派から「早稲田の神山派」の中心人物に昇格することになった。考えてみるとこの「神山派」というのはいちばんワリの合わない「分派」であった。主流派、「団」、そして宮本系全学連の全てから「分派」呼ばわりされながら、実はそれらのどれよりも「分派」としての内実を備えていなかったのである。神山との直接の接触などもちろんなく、独自の政綱や組織、機関紙などはまったくなかった。 ところで、私が神山派とみなされたのは主として浅田光輝との関係によるものだった。「所感派」も「団」のグループ、それに自治会中執グループもみなそういう受け取り方をしていたようだ。たしかに、私は浅田から理論的な指導を受けていたのは事実だった。しかし、浅田は理論家であって、党内闘争や学生運動の指導などできるはずもなく、する気もなかった。それどころか私が細胞委員の一員としてレッド・パージ反対闘争の渦中に飛び込んで活動しだすと浅田は「大金は極左になった。どうしようもない、困ったものだ」と社研の連中に嘆いていたのである。 木村勝三は「東大細胞の終わり―『戸塚事件』の記憶」(『一・九会文集』二号)のなかで、五〇年当時の東大細胞には国際派中の正統派宮本顕治に直結した秘密の中核組織、「ゲハイムニス・パルタイ」(通称ガー・ペー)、つまり、秘密の、とくに権威ある党エリート組織が恒常的に存在し、これが「全細胞の指導権を握っていた」と書いているが、早稲田には神山と直結した「秘密の中核組織」などはありようがなかったのである。 寺尾五郎も降旗節雄との対論『革命運動の深層』(谷沢書房)のなかで「あんたがたは、神山派というとすぐ小山弘健・浅田光輝などの学者を念頭におくだろうが、この人びとはいわば側近理論家グループであって、政治的派閥組織としては、寺田貢、内野壮二・神山利夫などの戦前からの古参の者、それに東京の林久男や新井吉生・栗原幸夫、静岡の森一男とか、『アカハタ』の発行名義人になっていた原田龍男だとか、早稲田系を集団としてまとめていた大金久展とか、そうした人びとの動きなんだ。俺は宮本派と神山派とに関係しつつも、双方から少しはみ出している存在だったろうナ」と書いている。「政治的派閥組織」というのは、降旗にたいする寺尾の見栄だろうが、事実としてはそんなところであったろう。 |
細胞解散前後 |
情報通の志賀義雄などは、側近に「近く重大な国際批判がくる」という予見を語っていたらしいが、われわれにとってコミンフォルム批判はまさに青天の霹靂だった。連日のように細胞会議が開かれ、細胞内は騒然たる空気につつまれた。全学連副委員長として派遣されていた七俵博が早稲田にはりついて連日猛烈なアジテーションをくりかえした。自治会中執の鈴木雄や当時はめったに細胞に姿を見せなかった吉田嘉清も激烈な大演説で「コミンフォルム批判の無条件支持」をアピールした。 |
4、「反レッド・パージ闘争」 |
東大と違って早稲田は「宮本系」一色ではなく、さまざまなグループが存在し、相互に激しく対立するという側面もあったが、基本的にいって「反レッド・パージ闘争」に関するかぎり全く意見の相違はなく、それぞれが自分の信ずる方法でこれに参加した。これとどのように闘うかがそれぞれのグループの試金石だと信じられていた。党内論争に明け暮れるのではなく、学内での実際活動のなかでその正否を検証しよう、いうのが当時の支配的な空気だったろう。そして、こうした立場からある種の相互協力関係も生まれていた。これが安東仁兵衛などから「早稲田民族主義」とからかわれたり、羨ましがられたりするところなのだろう。 「十月闘争」の時期、石垣は自治会副委員長だったが「オレほど大学から丁寧にあつかわれたものはいまい」というのが自慢だった。「まず最初は譴責だろ。つぎが停学六ヶ月でそのあと無期停、最後が除籍だものな、いきなり除籍といった連中とは格が違う」と威張っていた。 |
「中道派」とはなんであったか |
ところで、この「中道派」というものの説明がまことに厄介で、どうにも説明に窮する、というのがいつわりないところである。早稲田の国際派は「所感派」によってすべて「全学連内に巣くう分派主義者」とみなされ、その間の意見や立場の相違を一切無視して除名処分に付された。「除名確認」(本誌三号参照)を一読すればその好い加減さはすぐわかる。本間たちが主として標的にしたのは吉田嘉清を中心とした自治会執行部のグループだった。これまたその一端は本誌三号に紹介されているが、いずれにしても「中道派」などはあまり相手にはされなかったのではなかろうか。だから、「中道派」という呼称は「自治会執行部グループ」(宮本系)によってつけられたものではないかというのが私の解釈である。つまり、主流、「団」と宮本系にたいして相対的に独自の立場にたつ個々の活動家の動きをなんらかの「分派」的結合ではないかと推論した上での呼称ではなかったかと思うのである。たとえば、津金などは政経学部自治会議長としてあらゆるグループと全方位で接触を保ち、狭い派閥闘争に巻き込まれることを注意深く避けていた。政経や文学部の「中闘」で動いていた連中にしても決して一つの派閥に属していたわけではなかったのである。 |
「十月闘争以後」 |
十月闘争で早稲田は学生の処分と大量逮捕、自治会活動の禁止など多くの困難をかかえたが、そのなかで私は日本共産党への復帰という途をえらんだ。当時、浅田によると神山は『北京人民日報』の九・三社説のアピールに呼応してともかく「統一」の方向を目指すべきだという態度だったらしい。そして、これが私が「再建細胞」に復帰しようと考える基礎になったのはたしかである。 |
あとがき |
これぞ理想の「高い山」と確信して、峻険な途と知りながら勇躍して日本共産党早大細胞の一員として活動の第一歩を踏みだしたのはいまから五〇年も前のことだった。人間だれもがまっすぐな途を歩めるものではあるまい。コミンフォルム批判とか朝鮮戦争の実相、東欧共産主義の命運、スターリン主義粛清の真実など、そして、なによりも「ソ同盟共産党」の消滅と「ソ連邦」の解体といった予想もしなかった苦い体験がわが「アルト・ハイデルベルク」のあとにつづいた。そういう時代を生きたことに悔いはない。 |
大金久展(おおがね・ひさのぶ)略歴 一九五〇年、旧制政経学部三年在学中除籍。(社)化学経済研究所事務局長。(社)海洋産業研究会常務理事等を歴任。 |
【戦後の学生運動考】 | |
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(私論.私見)