補足「東大と早稲田の50年期分裂時代の分派構図の差異考」

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元、栄和3)年5.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 党の「50年分裂」時代、日共の指導下にあった全学連は、日共の党内分裂の影響を受けて四分五裂する。この時、学生運動史上、官学の雄たる東大と私学の雄の早大が興味深い対応差を示している。これを確認しておく。全学連運動史の流れは、「共産党の「50年分裂」と(日共単一系)学生運動」、「党中央「50年分裂」期の(日共単一系)学生運動」に記しているので割愛して、東大と早稲田の分派差のみ抽出して確認する。

 2011.1.12日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評884 れんだいこ 2011/01/12
 【興味深い東大と早稲田の50年期分裂時代の分派構図の差考】

 1950年初頭の「スターリン批判」に端を発し、曲がりなりにも徳球系党中央の下で一枚岩の党運動を展開していた日本共産党内が党中央主流派と反主流派に分裂して行くことになった。党中央主流派は俗に所感派、反主流派は国際派と呼ばれる。これを「50年分裂」と云う。

 これにより、党は、所感派の徳球ー伊藤律派、野坂派、志田派。反主流派は宮顕派、志賀派、国際共産主義者団、神山派、春日(庄)派。その他中間派として中西派、福本派に分裂した。全学連運動は、依拠する党中央の分裂により股裂きされた。この時、戦後学生運動を牽引して来た官学の雄・東大と私学の雄・早大が興味深い対比を見せているので確認しておく。

 東大では、党中央派(所感派)が一掃された。L・Cキャップの小久保が「獅子身中の虫」として解任され、反主流派(国際派)の戸塚が後釜に座った。戸塚は49年に経済学部に入学し、「本富士署の通訳」履歴を持っていた。夏頃から細胞活動に専念していたところ、たちまちのうちにL・Cに推されたことになる。戦前党運動に少しでも詳しい者からみれば、戸塚の本富士署との繋がりは由々しきことであるが特段に問題にされていない。胡散臭いところである。この戸塚が翌1951年、東大国際派査問事件に於ける「スパイ容疑」で査問されることになる。

 「50年分裂」を廻って、それまで急進主義的に全学連運動を指導してきた武井系執行部派は宮顕派に篭絡され一蓮托生し続けていくことになる。東大細胞は、武井委員長の出身母体としてこれを支えることになった。

 この時、宮顕指揮下の警察的秘密組織「ゲハイムニス・パルタイ(Geheimnis Partei、通称ガー・ペー)」が創設されている。最初のメンバーは安東、戸塚、高沢、銀林、上田(不破哲三)、佐藤経明、大下勝造らであり、続いて竹中一雄、福田洋一郎、長谷川らが加わった。その上部組織に「E・C(エグゼキューティブ・コミッティーの略称」が位置しており、力石と武井がいた。

 この他にも富塚文太郎らの全学連書記局グループが加わっていた。書記長の高橋は「都落ち」した宮顕に着いて九州に赴いた。ほぼ丸ごと宮顕指揮下に入ったことになる。安東の「戦後日本共産党私記」には「この『G・P』がいつ頃結成されたのか記憶に定かではないが、かなり早い時期−1月の末頃ではなかったかと思う」とある。日共内宮顕派官僚として、アカハタの編集部にいた小野義彦、内野壮児、全金属の西川彦義、平沢栄一がメンバーに属していた。

 これに対して、早大では東大の如く宮顕派に一元化されず各派のルツボとなった。党中央派(徳球−伊藤律執行部擁護派)に小林央(商)、藤井誠一(政)、水野(教)、横田(教)の10名足らずが列なっていた。この党中央派に併存して国際派各派が生まれた。こまかく数えると20以上の分派が生まれ四分五裂していた。1.国際共産主義者団=志賀義雄、野田弥三郎(哲学者)、2.神山派、3.再建細胞派(党中央所感派)、4.統一委員会派(宮顕、袴田、蔵原、春日(庄)らの国際派)等々に分岐し百家争鳴的であった。

 大金久展氏の「神山分派顛末記」は次のように述べている。
 概要「50年分裂当時、早大細胞は基本的には主流派と国際派の二つに分かれた。国際派は様々に分岐しており東大のように宮顕派一色ではなかった。国際主義者団、相対的に独自の立場をとった神山グループ、およびその他多様なグループが存在したことは、東大をはじめ他大学にはみられない大きな特色であったろう。早稲田とは伝統的にそういう大学であった」。

 レッドパージが始まり、全学連中執が「レッドパージ反対闘争」を指令する。大金久展氏の「神山分派顛末記」は、この時の早大の反レッド・パージ闘争について次のように述べている。
 「東大と違って早稲田は宮本系一色ではなく、さまざまなグループが存在し、相互に激しく対立するという側面もあったが、基本的にいって反レッド・パージ闘争に関するかぎり全く意見の相違はなく、それぞれが自分の信ずる方法でこれに参加した。これとどのように闘うかがそれぞれのグループの試金石だと信じられていた。党内論争に明け暮れるのではなく、学内での実際活動のなかでその正否を検証しよう、いうのが当時の支配的な空気だったろう。そして、こうした立場からある種の相互協力関係も生まれていた。これが安東仁兵衛などから『早稲田民族主義』とからかわれたり、羨ましがられたりするところなのだろう」。
 概要「細胞解散によって党の上からの決定で動くのではなく、自分の頭で考え、実践でこれを試す。いろいろな潮流があったし、激しい議論もやったが、みんな素晴らしい連中だった。コミンフォルム批判の是非とか朝鮮戦争の評価とか、いまの時点からいえばいろいろあろうし、その当時の個々の行動のいくつかについての悔いはあるにしても、全行動の結果についてはいまも悔いはない、と坂本尚が発言していたが、これが反レッド・パージ闘争を闘い抜いた早稲田の活動家共通の実感ではなかろうか」。
 「本間たちが去ったあとの解散反対細胞指導部には石垣辰男と堀越稔があたらしく加わった。二人とも党派的には統一委員会系統の『革命的(正統派)中央委員会の周りに結集しよう』というスローガンを支持していたようだが、こうした立場を押しつけるようなことはせず、早大学生自治会委員長吉田嘉清を扶けて幅広い学内での統一行動の組織化に努力していた」。
 「1950年のレッド・パージ反対闘争の全期間を通じて、少なくともこれに関しては、主流派も含めてそのすべての勢力が一致して早大自治会を中心にこの闘争を闘い抜き、全国学生運動の最大拠点校のひとつとしての役割を果たしたのである。(もちろん犠牲も大きかった)」。

 以上、「50年分裂」を廻っての対応で、東大と早大は鮮やかな対比を見せていることが確認できれば良い。

 早稲田のこの伝統は1960年代後半の全共闘運動まで続くことになる。つまり、1950−1970年までの20年間、早稲田は学生運動各派の指導者を輩出して行くことになる。もとより早稲田だけではない。官学の東大、京大、私学の早大、明大、中央、同志社が主な輩出大学となっている。その中で相対的に早大系譜が目立つと云うことである。早稲田のこの左の伝統は、1970年、れんだいこが早稲田キャンパスに登場した時点で、革マル派と民青同の二元支配により封殺される。以降、今日に至るまでルツボは生まれていない。

 ちなみに、この時期の早大学生運動と東大学生運動が妙に絡んだ事件を確認しておく。これが、「東大国際派内査問事件(戸塚、不破査問事件)」」へと発展して行く下地となっている。そういう意味で、この事件が見逃せない。

 1950.10.17日、早大で第1次早大事件が発生する。全学連は、レッドパージ粉砕闘争の一環として「ゼネストを決行せよ」指令を出し、早大構内で全都集会が開かれた。大学当局と警察は「平和と大学擁護大会」の名目で行うこの集会を弾圧し、学生143名が逮捕された。10.17闘争は大会戦術の手違いと、予想以上に凶暴化した警察の手によって、かってない官権との大衝突事件となった。この経過は次の通りである。

 学生大会開催中に、全学連中執(東大の武井、力石)らの意をうけた東大の高沢、戸塚、木村、熊倉、上田(不破、レポ係)、早大からは吉田嘉清一人が大隈講堂控室で大会後の戦術を協議した。会議は、吉田の反対を押し切り、学生処分を協議中の学部長会議粉砕の為なる名目で大学本部の占拠を決定した。

 早大全学共闘(吉田、津金、井川、坂本、岩丸ら)は、大きな被害が予想される「占拠は無謀」として、学部長会議に抗議の後に文学部校舎での籠城を主張した。中島誠は全学連中執を支持した。吉田は、説得が功を奏さなかった場合を予想して、万一逮捕された際の第二執行部・石垣(「吉田証言」による)を用意して本部に向かった。

 案の定、本部に座り込んだ学生たちは吉田の指導に従わず、東大と「国際主義者団」の指導下に占拠を継続した。坂本、井川、岩丸ら囮(おとり)のデモ隊を警官隊の前にくりだし、その隙に本部に座り込んだ学生たちを外に誘導しようとしたが徒労に終わった。

 12時頃から座り込み集会に入った。200名の学生が学部長会議開催中の本部を取り巻いていたところへ、早大当局の要請で約900名の警官隊が出動し衝突した。双方で20数名の重軽傷者が発生した。この衝突の最中、東大活動家群は木村の合図で一斉に逃げ誰一人も逮捕されなかった。

 143名の学生(女子1名をふくむ)が不法侵入、不退去、暴行、傷害、公務執行妨害などの容疑で検挙された。検挙された学生は「手錠をかけられて背中に番号を書かれて」バスにのせられ、戸塚署ほか19署に分散留置された。10.17闘争は大会戦術の手違いと、予想以上に凶暴化した警察の手によって、かってない官権との大衝突事件となった。10.17以降、早大に武装警官が学内に常駐、自治会室を釘付け閉鎖した。

 この時の、全学連中執の指導が疑惑されることになり、次のように証言されている。これが1952.2.14日の国際派東大細胞内査問・リンチ事件の遠因となる。
 「夜おそく早大に駆けつけた私は、腰紐で文字通り数珠つなぎにされた同志たちを見て容易ならざる状態であることを知った。木村とともにこの日の無理な〃突撃〃を命じた戸塚の指導が後の査問の理由のひとつとなる」。

 翌1951.2.14日頃、国際派東大細胞内で査問リンチ事件が発生している。遠因として、宮顕派指揮下に入っていたこの時期の東大細胞の胡散臭さが見て取れるだろう。この疑惑が国際派東大細胞内査問リンチ事件に繋がり、東大細胞の最高責任者・武井、力石が東大の汚名を晴らす目的で容疑の濃かった「戸塚、上田(不破)、高沢」を吊るしあげ、自白を強要したが、結果的に宮顕の介入で紐が解かれた。

 その時の約条で、「戸塚、不破に対するスパイの断罪、そしてそれに関連した高沢らの除名は取り消す。しかしこの過程で彼らには様々な非ボルシェヴィキ的要素が明らかになったので、全ての指導的地位に就かせることはしない」と申し合わせた。

 この申し合わせが反故にされ、ほとぼりの醒めた頃、不破は党本部に呼び寄せられ、以降、宮顕の片腕として活躍して行くことになる。その後の履歴は衆知の通りである。不破が、この履歴を語らないので、れんだいこが代わりに明らかにしておく。これを「国際派東大細胞内査問、戸塚・不破被リンチ事件考」の補講とする。

 2011.1.12日 れんだいこ拝

【大金久展氏の「『神山分派』顛末記」】
 大金久展氏の「『神山分派』顛末記」(「宮地健一のホームページ」より)を転載しておく。(れんだいこ文法に基づき、「」の整理、句読点の整序、和数次を洋数次に書き換えています)
 (注)、これは、早稲田1950年記録の会『史料と証言第4号』(1999年)に掲載された文書の全文を転載したものです。50年分裂における主流派と国際派の実態に関して、国際派の一つである神山分派の実態・性格は、かなり重要なテーマであるにもかかわらず、ほとんど知られていません。大金氏は、当時、共産党早稲田細胞にいて、そこでの神山分派の中心でした。国際派といっても、反徳田の5つの分派に分かれており、それらの相互関係は、解明すべき点を多く含んでいます。大金論文は、その貴重な資料になるものです。 これは、HP早稲田1950年記録の会にも載っていますが、私(宮地)のHPに独立させて転載します。この転載にあたっては、大金氏の了解をいただいてあります。
 はじめに
 いわゆる日本共産党の50年分裂当時、早大細胞は基本的には主流派と国際派の二つに分かれたが、コミンフォルム批判を「無条件で支持」するという反主流の勢力が圧倒的に強かった。商学部の小林央、政経の藤井誠一、教育学部の水野、横田などが主流派を支持し、細胞解散処分では「再登録」に応じて「再建細胞」を組織したが、その勢力はせいぜい十数名に過ぎなかった。しかし、コミンフォルム批判を支持した早大細胞のいわゆる国際派は、東大細胞のように宮本系一色ではなかった。

 もちろん、学生自治会の執行部グループは宮本系でほぼ固められていたようだが、このほかに本間栄二などを中心とし、のちに日本共産党国際主義者団と結合したグループが、細胞の実際活動家のかなりを組織してコミンフォルム批判直後からひそかに独自の活動を開始していた。これはいうまでもなく「志賀意見書」を「精神的支柱」とし、哲学者の野田弥三郎や東京都選對部長などをやっていた成富健一郎、関西の下司順吉などが指導していたグループだった。


 そして、こうした主流派、国際派全学連(宮本系)、および国際主義者団のいずれにも属さず、相対的に独自の立場をとったものも学内では相当の数にのぼった。そして、そのなかからしだいにのちに神山派といわれるものが結集していくのである。国際主義者団とこの神山グループ、およびその他多様なグループが存在したことは、東大をはじめ他大学にはみられない大きな特色であったろう。早稲田とは伝統的にそういう大学であった。


 そして、「分派の存在と両立しない意志の統一体としての党」という悪名高いスターリンの定式によって無用のエネルギーを消耗させられながらも、1950年のレッド・パージ反対闘争の全期間を通じて、少なくともこれに関しては、主流派も含めてそのすべての勢力が一致して早大自治会を中心にこの闘争を闘い抜き、全国学生運動の最大拠点校のひとつとしての役割を果たしたのである。(もちろん犠牲も大きかった)。


 そして、このなかで私は神山派といわれたグループの中にいた一人であった。片山さとし(元読売新聞政治部、六全協後一時東京都委員)に「神山茂夫の全体像の試み」という一文があるが、私はその評価に基本的に賛成である。早稲田で「神山分派」をやり、その後いろいろと曲折はあったが、ともかく義理がたくその葬儀、納骨にまで付き合った私の眼に映じた神山の人物像は、片山が書いていることとほぼ一致する。 そこで、便宜上、まずその一節を冒頭にかかげてから本文に入ることにしようと思う。
 「神山という人物は非常に革命的な素質にめぐまれていたと思う。中国の古いことばに、娑婆に偶語する智勇弁舌の徒が革命家だというのがあるが、神山にはそういう智勇弁舌があった。近代革命家の性格としては理論の能力、文筆の能力、それからオルグの能力があげられるが、神山にはそういう能力が備わっていた。それが不幸にしてスターリン主義の地盤に生まれてきたので、客観的条件も悪いし、当人も後にはそれに染まって、その能力を万全に発揮できなくて、もみくしゃにされ、スポイルされた面が強かった。これはある意味では、日本の共産主義者の典型的な像でもあったといえる。ただし神山の場合は、多くの人のように官憲の弾圧によってそうであったというよりは、スターリン主義の地盤に妨げられたという要素が多かったのではないか。そして彼は勇気もあり、自分でいっていたように粗暴でもあったが、反面細やかな小心の思慮もあり、義理人情を誇示する面もあった。敵権力に対しては一歩も引かない粗暴さを示してビクともしなかったが、味方の権力つまり党権力にたいしては、粗暴の面ではなくて、党にたいする忠誠心も手伝って義理人情の面が出すぎて、一種の浪花節調に流れる傾向があったように思える」(1978年1月『神山茂夫研究』第五号、『片山さとし遺稿集』1995年に所収)。
1、入党前後のこと
 私は敗戦の年、昭和20年3月に戦時特例として旧制中学を4年で卒業した。受験は三回限り、浪人は許されず、あとは軍の学校へいくか、徴用工の途しかなかった。文科には徴兵猶予の特典がなかったので、苦手を承知のうえで第一回目は旧制高校の理科を受けて見事失敗して(残念ながら敗戦を見通せなかった)、二回目の受験で早稲田大学専門部政治経済科に入り、昭和23年に旧制最後の政経学部に進学するという変則的なコースをたどった。だから、私の早稲田での学生生活は敗戦直前から始まり、1950年10月のレッド・パージ反対運動による除籍処分に至る時期ということになる。昭和23年3月、私は早稲田大学専門部政治経済科を卒業したが、政経学部への進学試験を受けるとともに、友人の薦めで冷やかし半分でライオン油脂(現・ライオン)の入社試験も受け、両方とも合格した。まことに無責任な話だが、私は政経学部に在籍のまま、しばらく会社勤めをやってみることにした。

 当時、ライオン油脂は産別系の全日本化学産業労働組合連盟傘下の有力組合で、のちに有名な人民艦隊のリーダーのひとりだった古庄邦之助が経理課長のまま労働組合委員長と共産党細胞のキヤップを兼ねていた。主力の平井工場の党員数は20名を超ていたろう。私は同期入社の下村義雄(東京商大卒、大塚金之助ゼミの出身でのちアカハタ記者として活躍、昭和45年没)とたちまち意気投合し、ともに一ヶ月足らずで日本共産党ライオン油脂細胞に入党した。(この年の学卒採用は50名を超える応募者のなかでわれわれ二人だけだったので人事部長は社長から大目玉をくらったそうだ。) そしてその足で当時商学部地下にあった早稲田大学細胞にこの事実を伝え、秋には学校に戻る意思であることをつけ加えた。応対に出たのは政経同期の星野司郎(故人)だった。それは多分5月のはじめ、メーデー直後のことだったろう。日本共産党への入党は、敗戦直後からマルクス主義文献に接し、河上肇の著作などから強い影響を受けていた私にとっては予定のコースだったが、この工場体験がその時期を多少とも早めたことは間違いなかった、といえよう。

 ライオン油脂に在籍したのは正味四ヶ月足らずだったが、ちょうどこの時期は有名な「東宝争議」をはじめ労働争議の最盛期で、新米ながら見よう見真似で江東地区にあった汽車会社をはじめあちこちの工場にビラくばりやオルグにでかけた。ライオン油脂でも当時かなり尖鋭な賃上げストがおこなわれていたが、入社早々ながら職場委員として相応に働き、それが一段落したところで「大学に戻る」と宣言して退社したが、それはおそらく七月末のことだったろう。退職金はもちろん出なかったが、直属上司の常務がポケット・マネーで1万円の餞別をくれた。厄介ばらいができてよほど嬉しかったのだろう。早速これで風早八十二の日本社会政策史などを買ったことはいまでもよく覚えている。
 2、早大社研に入る
 ライオン油脂を退社する、と古庄キヤップに伝えた折、私は彼から餞別がわりに当時駿河台の日大の大教室で開かれていた「人民大学」の聴講券をもらった。たいていのことは忘れてしまったが、なかで強烈な印象としていまも残っているのは神山茂夫の「国家論」を聞いたことだった。神山というのは初めて聞く名前だったが「俺は志賀君と『前衛』で論争をやっているが理論上のことでは一歩もひけない……」と敖然とうそぶきながら自信満々で自説を展開していた。「大した男がいるものだ」と感心しながら、帰りに彼の戦中三部作のひとつとして有名な『日本資本主義分析の基本問題』(岩崎書店)や『人民的民主主義の諸問題』(同友社)などを買って帰った。日本共産党中央委員会の一員でありながら、山田盛太郎はじめ名だたる講座派の理論家をなでぎりにしているのを読んだ印象は強烈だつた。そして、これが私にとっては神山を知る最初のきっかけだった。

 9月から大学に顔を出すようになった私は、なんの予備知識もないままに本格的にマルクス主義の勉強をするつもりで社研に入ることにした。入って驚いたのは、そこが神山理論の牙城だったことである。新入りの私をテストするつもりなのか、一級上の幹事長の有田辰男(現名城大学教授)が「なにか報告しろ」というので、その頃流行っていた「ヴァルガ批判」の簡単な紹介をやったら途端に社研幹事、細胞では社研グループ所属ということにされた。


 この早大社研は敗戦直後、学内では非公認団体だった日本共産党早大細胞のメンバーによって結成され、学内左翼の合法舞台の役割を果たすとともに活動家の速成養成機関としての一面をもっており、簡単なパンフレット二、三冊の手ほどきが済むと各学部の活動家がすぐさま細胞活動や自治会活動に引き抜いていく、といった役割を果たしていた。政経学部では武田敦、滝沢克己、津金佑近、松本哲男、志村豊壽、水野邦夫、由井誓などがいずれも社研を二、三ヶ月足らずで通過していった連中だった。早大社研が、細胞から自立した独立の「研究団体」として確立されるようになったのは、有田によれば一九四七年春からのことで、それまでは細胞のキャップが兼任で委員長を名乗り、細胞も青共も社研もいっしょくただったらしい。

 こうしたなかで、最初は商学部の北浦洋、専門部政経の三島耕、有田など数名で日本資本主義論争の研究会をはじめ、間もなくこれに専門部商科のマルクス五人男といわれた大越幸夫、高尾義之、岩瀬肇一、藤井誠一、中田陽久たちが加わり、みんなに推されて有田が初代幹事長になったというのが、その後の「社研事始」だったようだ。有田によるとそのなかで中心的に動いたのは三島で、慶応の社研と連絡をとり、社研の講師陣の中心となった浅田光輝をひっぱってきた。浅田は慶応の出身で、その当時は豊田四郎の日本経済機構研究所に所属していわゆる「神山理論」の立場から盛んに理論活動を展開していた。

 しかし、こうした社研の理論的な立場は、当然細胞からは白眼視され、「日和見主義」、「理論拘泥主義」あるいは「サロン・マルキスト」などのレッテルを貼られた。藤井誠一や広瀬賢などはこうした社研批判の急先鋒で、神山理論の牙城である社研に対抗するという旗印を掲げて「民主主義科学者協会早大支部」を結成した。「神山理論は偏向だ、小山弘健ではなく内田穣吉の日本資本主義論争史のほうが正しい」と主張して有田たちと激しくやりあっていた。もちろん、その根底にあったのはいわゆる「志賀・神山論争」をめぐる評価の問題だった。
 「志賀・神山論争」
 私が社研に入った当時、「志賀・神山論争」なるものが多くの関心をあつめていた。社研外からも広瀬賢、船本滋をはじめ、入れかわりたちかわりいろいろな連中がやってきて部室で議論の花を咲かせていた。そして、逆説的にいうと、私は志賀義雄が『前衛』に載せた「党史の見方」や「世界史の一考察」などの論文に反発してそこから確信的な神山理論の支持者になった、といえそうだ。

 1946年12月、人民評論に載った『「軍事的封建的帝国主義」とは何か』という神山の信夫清三郎批判の論文にたいして、政治局員でアカハタ主筆の志賀義雄が翌年6月4日から6回にわたってシガ・ヨシオの署名でアカハタ紙上に「軍事的・封建的『帝国主義』について」という論文を連載した。そして、これがこの論争の発端だった。志賀は「獄中十八年」の威光と党政治局員の権威で簡単に神山を押さえこめると過信していたフシがあるが、神山は猛然と前衛誌上で反論を展開した。(アカハタでの反論の機会はあたえられなかった)
これに答えた志賀の「党史の見方」(前衛19号)という一文は、私にはおよそ理論論争の内容にはほど遠い高飛車なものにみえた。志賀はその最後のむすびで「年も若く党生活もみじかい神山君の理論的偏向」は、「党史のただしい知識を欠き、階級意識のひくい党員、ことにあらたに党内へ流入した青年知識人の階級意識の低さの集中的なあらわれ」だと断じたのである。 神山はこれにたいして「年齢がうえで、党生活がながいものがかならず正しいというなにか特別の保証があるのだろうか」と「党史の見方に答える」(前衛20号)で反論したが、志賀はこれに答えることなく、「世界史の一考察」を最後に一方的にこの論争を打ち切った。「神山君の理論は……インテリゲンチャ、ことに学生からきた党員のなかで、まだ小ブルジョア性を根本的に克服していない人々の傾向のあらわれだ」が論証抜きのむすびだった。

 この論争については、学者・理論家に任せておけばよいような領域にまで政治家がふみこんだ、という印象を否めず、私はこの論争の内容に栗原幸夫や津田道夫のように深入りすることはしなかったが、「獄中非転向」がハバをきかせ、最高指導者にたいする無条件的な追随を当然とするような党風のなかで神山の立場を異端視する風潮にはとても同調するわけにはいかないと思ったものだ。理論的というばかりでなく、私が50年問題のなかで基本的に神山の党内闘争での立場を支持するようになったのには、この論争が影響していたことはたしかである。
 3、コミンフォルム批判前後
 1948年秋から翌年の春までは社研幹事(党内では社研グループ)ということで、細胞内では比較的恵まれた環境で研究会活動を中心とした学生生活を送っていた。 有田や北浦が卒業したあとの社研の幹事長に私をという話しがあった。 有田や三島などはいわゆる日常の細胞活動を「這いずり回る素朴実践主義」と軽蔑し、「オレの党活動は大衆団体としての社研を育て、その研究水準を高めることだ」といって社研にガッチリと根をはやし、ほかのことには見向きもしなかった。私もこれを真似して社研の幹事長を引き受けていれば、いま頃はどこかの四流大学の名誉教授位にはなっていたかも知れないが、実際にはまるで違った途を歩むことになってしまった。

 私は当時の間庭キャップに乗せられて二年になった途端に、当時結成されたばかりの文化団体連合会副委員長になるとともに、自動的に文化団体グループのキャップを兼ね、この年の秋には文化団体グループ担当の名目で細胞委員(LC)の一員になる破目になった。どうもこれは武田敦の差し金だったらしいが、その必然的な結果として翌50年初頭のコミンフォルム批判の嵐に巻き込まれ、党からの除名と大学による除籍処分に至るコースを辿ることになってしまった。このときの細胞委員会のメンバーは津金、坂本、松下、梅田、猿渡に私の六人であったろう。(この6人と本間を加えた7人が旧早大細胞最後の指導部となった)
 「早稲田の神山派」
 コミンフォルム批判をめぐる早大細胞内の党内闘争のなかで、私はそれまでの単なる社研内の神山派から「早稲田の神山派」の中心人物に昇格することになった。考えてみるとこの神山派というのはいちばんワリの合わない「分派」であった。主流派、「団」、そして宮本系全学連の全てから分派呼ばわりされながら、実はそれらのどれよりも分派としての内実を備えていなかったのである。神山との直接の接触などもちろんなく、独自の政綱や組織、機関紙などはまったくなかった。私がこの時期に分派形成の意志が全くなかったといえばウソになろう。私は私なりに神山との個人的な接触を試みたことも何度かあったが、戦前の「武装共産党」時代の「全協刷新同盟」の体験が骨髄まで沁みこんでいる彼は、全くこれに応じようとはしなかったのである。

 津田道夫は『昭和思想史における神山茂夫』(社会評論社)のなかで、神山は「分派とみられることを極力回避しつつ党統一を念じ、一定の行動をとった」が「そのことで両派(徳田派と宮本派―引用者)から胡乱な目でみられる素地をもつくってしまった」と書いているが、早大細胞内部での私もおそらくはそのような立場だったろう。津田はこれに続けて神山が「51年5月から8月にかけ、文書活動に限定したうえで、一方、徳田派の批判を展開し、同時に他方では、宮本主導による統一会議系の綱領的文書にも批判的意見を提出した。中道派の中道派たるゆえんであである」と書いているが、われわれがはじめて神山と会ってこうした活動の一部に参加したのは51年3月以降のことだった。(これについては後でふれる)


 ところで、私が神山派とみなされたのは主として浅田光輝との関係によるものだった。所感派も「団」のグループ、それに自治会中執グループもみなそういう受け取り方をしていたようだ。たしかに、私は浅田から理論的な指導を受けていたのは事実だった。しかし、浅田は理論家であって、党内闘争や学生運動の指導などできるはずもなく、する気もなかった。それどころか私が細胞委員の一員としてレッド・パージ反対闘争の渦中に飛び込んで活動しだすと浅田は「大金は極左になった。どうしようもない、困ったものだ」と社研の連中に嘆いていたのである。


 木村勝三は「東大細胞の終わり―『戸塚事件』の記憶」(『一・九会文集』2号)のなかで、50年当時の東大細胞には国際派中の正統派宮本顕治に直結した秘密の中核組織「ゲハイムニス・パルタイ」(通称ガー・ペー)、つまり、秘密の、とくに権威ある党エリート組織が恒常的に存在し、これが「全細胞の指導権を握っていた」と書いているが、早稲田には神山と直結した「秘密の中核組織」などはありようがなかったのである。

 寺尾五郎も降旗節雄との対論『革命運動の深層』(谷沢書房)のなかで「あんたがたは、神山派というとすぐ小山弘健・浅田光輝などの学者を念頭におくだろうが、この人びとはいわば側近理論家グループであって、政治的派閥組織としては、寺田貢、内野壮二・神山利夫などの戦前からの古参の者、それに東京の林久男や新井吉生・栗原幸夫、静岡の森一男とか、アカハタの発行名義人になっていた原田龍男だとか、早稲田系を集団としてまとめていた大金久展とか、そうした人びとの動きなんだ。俺は宮本派と神山派とに関係しつつも、双方から少しはみ出している存在だったろうナ」と書いている。「政治的派閥組織」というのは、降旗にたいする寺尾の見栄だろうが、事実としてはそんなところであったろう。


 ここで、ついでに50年問題での神山の基本姿勢について、栗原幸夫が書いているものも紹介しておこう。慶大細胞創立者の一人で戦後初期から豊田四郎などを通じて神山の理論的影響をうけ、神山茂夫著作集全四巻(三一書房)を編纂した栗原は『革命幻談・つい昨日の話』(社会評論社)のなかで、50年当時、「神山がいったい何を考えているのか、何をやろうとしているのかさっぱりわからなかった」といっているが、これが実際だった、と私も証言できる。(因みに栗原はこの本のなかで、「この時代にいちばんまとまって神山派として行動したのは、早稲田大学のグループですね。ただわりにはやく神山を見限っちゃうんですが」といっている) 事実、神山はコミンフォルム批判の当初から翌年の2月まで、つまり主流派が突如として「武装闘争方針」に転換し、「分派主義者に最後の勧告」をおこなうまでは独自の中道派としての態度に終始していたのである。だから、コミンフォルム批判から十月闘争に至る時期および翌年3月まで、早大内には「神山派」といわれるようなグループ組織は残念ながら存在しはしなかったのである。
 細胞解散前後
 情報通の志賀義雄などは、側近に「近く重大な国際批判がくる」という予見を語っていたらしいが、われわれにとってコミンフォルム批判はまさに青天の霹靂だった。連日のように細胞会議が開かれ、細胞内は騒然たる空気につつまれた。全学連副委員長として派遣されていた七俵博が早稲田にはりついて連日猛烈なアジテーションをくりかえした。自治会中執の鈴木雄や当時はめったに細胞に姿を見せなかった吉田嘉清も激烈な大演説で「コミンフォルム批判の無条件支持」をアピールした。

 ここで、当時の細胞内での論争や党内闘争のあれこれに立ち入ることはしないが(やりだしたらエンドレスになる)、とどのつまり早大細胞は主流派によって全学連書記局細胞、東大細胞とともに解散処分を受けることになった。たしか、5月6日の午後、新宿地区委員長の岩崎貞夫(のち小河内山村工作隊で活動中病死)が一号館の地下にあった細胞の部屋にやってきて口頭でこれを伝えた。私と津金が応対したが、早口で理由をのべると脱兎のように窓から飛び出していった。(ドアのカギはしめられていた)。

 解散処分という事態に対処するための緊急細胞総会が開かれたのは5月7日のことで、百余名が出席して圧倒的多数で「解散反対」を決議し、「再登録」に応ずるとした藤井たちを逆に除名した。除名を提案したのは私で藤井たちに「出ていけ」とドナったそうだが、よく覚えていない。この「解散反対細胞」は5月21日(日)の細胞総会で分裂した。本間たちのグループが「独自の途を歩む」と宣言して退場していったのである。


 この日の討論での最大の争点は、本間たちグループの分派活動だった。雑誌『真相』に掲載された「早大細胞意見書」の表紙は細胞総会で配布され、全部が回収されたものとは明らかに違うもので、ひそかに本間たちが全国にバラまいたものだった。解散理由の一つになった「挑発ビラ」も本間たちが細胞指導部の討議を経ずに独断でつくったものだった。また、吉田たちの自治会中執にたいしても「帝国主義者の手先」呼ばわりをするなど、その極左的行動が問題になった。結果として早大細胞は「再建細胞」、「団」と「解散反対細胞」の三つに分裂することになったのである。  
 4、「反レッド・パージ闘争」
 東大と違って早稲田は「宮本系」一色ではなく、さまざまなグループが存在し、相互に激しく対立するという側面もあったが、基本的にいって「反レッド・パージ闘争」に関するかぎり全く意見の相違はなく、それぞれが自分の信ずる方法でこれに参加した。これとどのように闘うかがそれぞれのグループの試金石だと信じられていた。党内論争に明け暮れるのではなく、学内での実際活動のなかでその正否を検証しよう、いうのが当時の支配的な空気だったろう。そして、こうした立場からある種の相互協力関係も生まれていた。これが安東仁兵衛などから「早稲田民族主義」とからかわれたり、羨ましがられたりするところなのだろう。

 「細胞解散によって党の上からの決定で動くのではなく、自分の頭で考え、実践でこれを試す。いろいろな潮流があったし、激しい議論もやったが、みんな素晴らしい連中だった。コミンフォルム批判の是非とか朝鮮戦争の評価とか、いまの時点からいえばいろいろあろうし、その当時の個々の行動のいくつかについての悔いはあるにしても、全行動の結果についてはいまも悔いはない」、とある日の本誌の編集会議で坂本尚が発言していたが、これが「反レッド・パージ闘争」を闘い抜いた早稲田の活動家共通の実感ではなかろうか。

 本間たちが去ったあとの「解散反対細胞」指導部には石垣辰男と堀越稔があたらしく加わった。二人とも党派的には統一委員会系統の「革命的(正統派)中央委員会の周りに結集しよう」というスローガンを支持していたようだが、こうした立場を押しつけるようなことはせず、早大学生自治会委員長吉田嘉清を扶けて幅広い学内での統一行動の組織化に努力していた。


 「十月闘争」の時期、石垣は自治会副委員長だったが「オレほど大学から丁寧にあつかわれたものはいまい」というのが自慢だった。「まず最初は譴責だろ。つぎが停学六ヶ月でそのあと無期停、最後が除籍だものな、いきなり除籍といった連中とは格が違う」と威張っていた。

 党内闘争での立場の相違にかかわらず「早稲田大学レッド・パージ反対全学中央闘争委員会」を組織してともに闘おうと提唱したのは石垣ではなかったろうか。そしてその周りに結集したのは政経では武田、滝沢、水野、志村、安藤、西宮、波形、由井や私をはじめとする「政経学部中闘」のメンバーだった。文学部では坂本、井川、岩丸、西山、近藤、天野などが中執グループを支えて活発な活動を展開していた。そしてこれらの連中がどうやら「中道派」とみなされていたといえるだろう。
 「中道派」とはなんであったか
 ところで、この「中道派」というものの説明がまことに厄介で、どうにも説明に窮する、というのがいつわりないところである。早稲田の国際派は所感派によってすべて「全学連内に巣くう分派主義者」とみなされ、その間の意見や立場の相違を一切無視して除名処分に付された。「除名確認」(本誌3号参照)を一読すればその好い加減さはすぐわかる。本間たちが主として標的にしたのは吉田嘉清を中心とした自治会執行部のグループだった。これまたその一端は本誌3号に紹介されているが、いずれにしても中道派などはあまり相手にはされなかったのではなかろうか。だから、中道派という呼称は「自治会執行部グループ」(宮本系)によってつけられたものではないかというのが私の解釈である。つまり、主流、「団」と宮本系にたいして相対的に独自の立場にたつ個々の活動家の動きをなんらかの分派的結合ではないかと推論した上での呼称ではなかったかと思うのである。たとえば、津金などは政経学部自治会議長としてあらゆるグループと全方位で接触を保ち、狭い派閥闘争に巻き込まれることを注意深く避けていた。政経や文学部の「中闘」で動いていた連中にしても決して一つの派閥に属していたわけではなかったのである。

 ただし、このなかで神山の理論的、組織的立場を基本的に支持していた私はかなり明確に全学連中央グループのある種の傾向に批判的だったのはたしかである。「戦略=レッド・パージ粉砕、戦術=全国一斉ゼネラル・ストライキ、組織方針=反戦学生同盟」という方針は「全学連党」の極左路線そのものと私にはみえた。細胞解散前に全学連中央グループが招集した全国学生細胞代表者会議の徹夜の討論のなかで私は坂本とこれへの批判的意見をのべたことがあるが、これによって私は「全学連内の右翼日和見主義分派」というおよそ見当違いのレッテルをはられることになった。
 「十月闘争以後」
 十月闘争で早稲田は学生の処分と大量逮捕、自治会活動の禁止など多くの困難をかかえたが、そのなかで私は日本共産党への復帰という途をえらんだ。当時、浅田によると、神山は北京人民日報の九・三社説のアピールに呼応してともかく「統一」の方向を目指すべきだという態度だったらしい。そして、これが私が「再建細胞」に復帰しようと考える基礎になったのはたしかである。

 この当時のわれわれの態度については由井がその「遺稿」に客観的に書いているので繰り返さないが、それは50年末のことだったろう。津金と一緒に党員候補になつたが、キャップは藤井(翌年から松本にかわった)だった。
当時、すでに津金、水野、私は除籍されており、松本は留置場にいた。こうした政経学部の除籍組が中心になり、これに武田、滝沢、志村などが加わって酒の店「自由学校」が開店したのはこの年12月のはじめだった。(これについては武田が『津金佑近 仕事と回想』に書いている)

 

 しかし、これは「スパイ小俣事件」(これについては未発表の小文がありいずれ公表の機会もあるだろう)の発生などから東京都委から閉店を指示された。 同期生はすでに卒業していた。津金と私は自活の途を求めて当時の東日本重工(現・三菱重工)下丸子工場の日傭い労働者として働くことにしたが「自己批判が完成するまで学内に残れ」という細胞の決定で学内に戻された。どうやら「四全協」で「武装闘争方針」に転換した党がその尖兵にする肚らしいと察知できた。「分派根性を叩きなおす」という露骨な態度があらわだった。

 こうしたなかで、早稲田のグループは1951年3月中旬、はじめて神山と会うことにした。場所は目黒・柿の木坂の井川の家で浅田も同席した。水野、岩丸、近藤、西山、天野、私その他がいた。神山が文書活動に限定して独自の分派活動を開始したのはこのときからであったが、それはとても腰の入ったものとはいえなかった。私は寺尾五郎、原田龍雄などと「内外資料」という情報紙の編集・印刷をやったり『平和活動の手引き』という小冊子などをつくっていた。

 それはさておき、1951年8月の再度の国際批判で早稲田のグループと神山の関係には基本的に終止符がうたれた。条件をみながら各自個々に復党するというのが神山の方針だった。早稲田での行動の一切の責任は私が負うことにした。
これについて亀山幸三は『戦後日本共産党の二重帳簿』(現代評論社)で私を「神山分派活動を全部一人で背負いこんだ豪傑である」と書いているが、これは亀山一流の「勇み足」というほかない。亀山は神山の「分派活動」一切を背負ったように書いているが、そんなことができるはずがない。責任を自主的に負ったのは早稲田の活動についてだった。責任のがれをいうつもりは毛頭なかったし、余計なことをいって当時の勝ち誇った「一方の側」に無用の言質をあたえるいわれがなかっただけのことだった。

 早稲田グループと神山の結び付きはこうして僅か5か月足らずの短い期間で終わった。党に復帰した連中を待っていたのは、小河内の山村工作隊行きだった。私は津金や由井が「山に行く」といったとき「オレは独自の途を歩む」といって組織との連絡を切った。私と水野、西山は神山利夫(神山茂夫の実弟)が主宰していた「政経特報」(のち「自立経済」と改称)という通信社に入ったが、これは1年余という短い期間のことだった。党への復帰をめぐる意見の相違やその他いろいろなことがあった。
 あとがき
 これぞ理想の「高い山」と確信して、峻険な途と知りながら勇躍して日本共産党早大細胞の一員として活動の第一歩を踏みだしたのはいまから50年も前のことだった。人間だれもがまっすぐな途を歩めるものではあるまい。コミンフォルム批判とか朝鮮戦争の実相、東欧共産主義の命運、スターリン主義粛清の真実など、そして、なによりも「ソ同盟共産党」の消滅と「ソ連邦」の解体といった予想もしなかった苦い体験がわが「アルト・ハイデルベルク」のあとにつづいた。そういう時代を生きたことに悔いはない。

 われわれの旧早大細胞の活動の資料、記録はあらかた散逸し記憶もうすれていく一方である。また、これに続く時期の活動は現在の「党史」によって「なかったこと」とされている。しかし、せめて砂川闘争を闘った高野秀夫の時代までを俯瞰した「早大細胞史」は是非まとめておく必要があろう。


 最後になったが、私は安東仁兵衛がやっていた『現代の理論』(1964年12月号)に「共産党組織論の盲点―分派問題をめぐるソ党史の検討」という小論を書いた。まだ党籍があった頃だが、所属組織のキャップの通報で党本部に呼び出されて中央委員の土岐強と文化部長の山下文夫に査問され、すでに渡してあった原稿を取り戻せと強要された。私はこれを断ってそれはそのまま発表された。分派問題についてのあらましの私の考えは不十分ながらそこにのべてある。一読願えるとありがたい。(1999・6・1)
 大金久展(おおがね・ひさのぶ)略歴

 一九五〇年、旧制政経学部三年在学中除籍。(社)化学経済研究所事務局長。(社)海洋産業研究会常務理事等を歴任。

【戦後の学生運動考】
 戦後の学生運動は、グループ的であつた戦前、暗い谷間に投込まれた敗北の歴史であつた戦中のそれに較べて、幾つかの特記すべき根本的な相異点がある。その第一は、規模に於いて、戦前のものが一部先進的な学生のみによつて行われたものに対し、戦後の場合は、学生という社会的な身分層が、自治権を確立し、全国的組織を結 成して、共通の問題として統一的行動を取る事が出来たという点である。その第二は、質の面に於いて、戦前のものが孤立した、出口のない悲惨な斗いの記念碑であつたのに引替えて、戦後の場合は、学生運動そのものが広汎な日本国民の民主的権利を守る斗いに密着し、平和と民族を守る斗いの導火線としての役割を果し、支柱となり、 その重要な一部を形成し、世界の平和擁護勢力の一翼を担っているという点である。右の二大特質は、戦後運動の発展段階に従つて見ていく事により一層明瞭になると思う。戦後の学生運動をその発展段階によつて見れば、三つの段階(時期)に区別する事が出来る。第一の時期は、終戦により学徒が学園に復帰した時から、全学連の結成まで(一九四八年九月十八日)。第二の時期は、全学連の結成から一九五〇年十月の反レツドパージ斗争まで。第三の時期は、反レツドパージ斗争から、今日まで。

 戦後第一の時期の学生運動は、戦争への反省と、戦争と天皇制の暴圧によつて失われた 学生の諸権利と生活の回復をめざしたものであつたと言える。終戦と共に、早稲田の学生は続々と「自由の鐘」の下に帰つて来たが彼等を待つていた ものは、空襲によつて三分の一以上が廃墟と化した学園と、極度に窮乏した衣食住問題で あつた。そして何よりも学生を失望させたものが、長い暗い谷間に魂を失つた大学当局に よる旧態依然たる講義内容であり、営利的、反動的な態度であつた。斯くて学生達は豊かな学問を学ぶ前に、自分の手で学園の復興を行わねばならない事を知り、一九四五年十一月二日理工学部学生による、戦犯的教授追放の学生大会が行われたのである。これは戦後 学生運動の第一声となつた。次いで同月廿六日第二学院学生の軍学徒の優先入学反対の表示となり、更に十二月学生自身の力で学生々活の諸問題を解決する為、学生々活協議会の 結成が行われ、その集中的な行動として、翌年早々(一月廿六日)第一回全学学生大会に発展し、当日他大学に先駆して、学生自治委員会の結成を見たのである。学生が公然と自 治組織を獲得したのは日本学生運動史上、これが最初の事件であつた。  

 学生の湧上る期待と、創意を担つて、学生自治会は、設立以後矢継早に、「共済会(現 在の協同組合)の結成」、「学生自治会規程、教職員学生協議会規程の制定」「総長選挙に大山郁夫教授を推す運動」等活撥な運動を展開、外に向つては、更に運動をより効果的 に組織的に拡大推進する為に後の全学連の母体である全国学生自治委員連合会が早大を書 記長校として結成される所まで来たのである。(十月十日) 然し乍ら、斯様な学生の熱誠溢れる、自主的な学園復興の念願は、事々に大学当局の冷 淡な仕打ちによつて報われた。学生の真摯な自治権確立、学生々活の自衛に対し大学が応えたのが授業料値上げであつた。戦災校舎、諸施設の復興は国庫補助によつて、という当時の知識人、学生の一般通念に反して無能な大学当局は唯々として安易な学生の負担によ る解決より考えようとしなかつたのである。学生の再三の交渉も聞かばこそ、かくて、一九四六年暮も押迫る十二月六日、歴史的第二回学生大会が大隈講堂を学生で埋めつくして 開催された。これには進歩的教授の支持もあつて、学生自治の基礎は更に強固となり蹶起 した学生は、大学当局の無能さを尻目に、戦災校舎の復興、私学の財政危機突破に関する 対政府直接要求に発展し、戦後最初のデモ行進が同月十三日決行された。参加人員は早大 五千、これに慶大が合流し、校旗を先頭にブラスバンドに歩調を合わせた学生の歌声は市街をゆさぶつた。

 更に翌一九四七年二・一ストの前日、高揚した学生の政治意識の下、人民広場に於ける 関東大学高専四十余校参加する関東連合学生大会(自治連主催)に発展し「学園復興会議の設置」「教職員審査機構の改善」「引揚学徒の転入学保証」「教職員の待遇改善に補助 金を」「国庫補助による官私平等の無利子資金の貸付」「学生新聞に対する用紙割当の確保」など十一項目及び「全国の大学高専に対する学生自治会結成と自治連への団結の呼びかけ」を採択し三万以上の学生のデモ行進が行われた。前記十一項目の要求に対する政府当局の回答は要求を充分満足させたものとは言えなかつたが、当時としては破格的なものであり、如何に学生の団結の力が強いかを物語つて余 りあると言えよう。これにより早大はじめ幾多の学校の復興は著しく促進された。

 この様な学生の力は大学当局をも動かし原則的承認のままであつた学生自治会規程を「校規校則と同等の意義と権威」をもつて認める事になつたのである(四月十七日)。思えば大正末期の学生運動に出発し、多大の犠牲を払い乍も研究の自由の死守と共に三〇年後 の今日に至り漸く学生の手に自治の大憲章が獲得された事は、感無量の思いであつた。しかも反戦的な学生の自主独立の歴史を担う我が早大に最初にして最も完全な自治憲章が花 開いた事は誠に意義深いものがある。

 学生自治会規程を勝ちとつた学生の運動は一層地道な活動となつた。 早慶戦切符の不正割当は大学当局の不正を明るみに出し、学生は早慶戦をボイコットして学内の民主化を叫んだ(六月廿二日)。この結果従来の体育会偏重が改められ文化団体 連合会の発足と正規予算の割当が行われる様になつた。そして更にこの高揚は大山教授の 帰還促進運動、民主的教授の招聘要求と次々に積極的な運動が繰りひろげられて行つた。然し乍ら一方、インフレの波は絶えざる授業料値上げと、鉄道通信料金の値上げと相俟つて生活費の昂騰を来たし、学生と教職員の生活をドン底にまで押込み、学問水準の低下 も必然の状勢にあつた。然るに政府はかゝる状態を無視して一方的に「地方教育委員会法 」「中央委員会法案」により独善的な「教育改善」を行つて来た。これを阻止すべく自治 連は教員組合と提携し一九四八年二月十日、大隈講堂に於いて教育復興連合学生大会を開 催、民主的教育機構確立の為に一大政治運動を展開する事を決議した。そして、大学の地 方移譲は中止され、鉄道運賃値上げは阻止され、学割は二割から五割に引上げられた。続 いて国立大学に対する授業料値上げは、全国の大学高専の学生の自治と団結に対する意識 を湧き立たせ、六月廿六日、理事会法案による教育の植民地的再編成反対、授業料値上げ反対をスローガンに百二十余校三〇万を結集したゼネストが行われた。この闘いは「教育 の復興なくして民族の独立なし」のスローガンの下に、学生に国際的な展望の眼を開き、 現在の全学連を結成(九月十八日)する直接の動機となつたのである。

 第二の時期。二・一ストをピークとして、占領軍は、日本の帝国主義管理人としてその正体を次第に露骨にして来た。七月のマ書簡前後からの右旋回は急速に教育行政を巻き込 み始めた。第二期の特徴はこれ等の動きに対する抵抗、防衛的任務が全学生に課せられて 来た事である。学生は全学連結成に際し早くもこれを意識し「教育防衛」をスローガンとした。第一期の教育復興から第二期の教育の防衛、そして朝鮮戦争直前からの「平和と大学の擁護」「教育の戦争体制切換の為のレツドパージ反対」というスローガンの移り変りは学生運動の任務の大きな移り変りを示すバロメーターである。

 四八年十月、全学連結成後最初の戦いは、早大第一、第二学院を中心に「インドより低 い」教育予算に抗議し、外資導入による教育の植民地化に反対し、国庫補助を要求して試 験を全面ボイコツトして闘われた。四九年は更に、教育の植民地的再編成の機構的整備で 推し進められた。新制大学への切換が四月に行われ、大学法、私学法が相次いで出され、学内でも大学当局は新制大学の学生を自治会に結集させまいとする、自治会規程改正問題 が起つて来た。学問水準の低下と共に、大学教授の任免に至る迄外部からの支配統制を容易にする大学 法案は広汎な層の反対を呼び、教授、学生を一丸として大学法対策協議会(三月五日)が組織され、六月廿日のゼネストをめざし全国的規模の斗いとなり、五月廿四日全学連統一 ストは、この法案を完全に粉砕する事に成功した。五月卅日、言論集会の自由を制限しよ うとする公安条令が都議会上程の報を受けるや、第二学部学生八百名が都電を借切って都 議会にデモを行い反対運動に参加した。同夜東交労組の橋本金二君が虐殺される事件が発 生し翌卅一日、これに抗議して早大生約千名を始め各大学から都議会にデモ、六尺棒で武 装した警官と数時間対峙した。戦後学生運動に於いて多数の警官に直接遭遇検束者をだし たのはこれが始めてである。十月中旬に到り私学法が登場すると、早大を中心に私学法反対運動が展開される。この時はさすが島田総長も「時代錯誤の暴案」ときめつけた声明を発した事を見てもこの運動の規模を窺う事が出来よう。学生自治会の提唱により中谷教授を議長として設置された私 学法対策協議会は、私学経営者を含めて全関東の協議会まで発展し、議会に請願デモを行つたが、十一月十七日私学法は原案修正によつて通過した。既にこの頃、学生運動だけでなく全ての民主々義運動は一つの大きな矛盾に突きあたつ ていた。原因は深く、学生運動が植民地的文教政策反対を掲げながら占領軍に一指も触れなかつた事によつても説明される。然しこの課題の解決は一九五〇年に持ち越されるのである。

 一九五〇年の斗争は五年間の民族的抑圧と屈辱的忍従から脱し、民族独立と平和擁護の為に闘う運動の先駆的役割を果すものであつた。そして運動は全学連の国際学連参加によ り国際的視野のもとに進められ、平和擁護斗争が積極的に取上げられた年であり、又朝鮮戦乱により学生運動が当然烈しい試練に直面する年である。五月二日、初の反抗の狼火である東北イールズ事件は全国民に異常な興奮と感銘を与え た。そして全学連は全国学生に反戦反帝斗争を訴え、東京都を中心に五・四、五・一六、 五・三〇、六・三と学生の斗いは疾風のように組織された。  五・四記念アジア青年学生決起大会のデモは雨中の為人数も少く一種の悲壮さを帯びた ものであつた。デモの傍にはジープが寄り添つていた。「全面講和と全占領軍の撤退」のシュプレヒコールがジープに投げつけられた。然し五・一六東北大斗争支持全都学生決起 大会は四千名にのぼる日本最初の反帝デモとなり全世界の注目を浴びた。「我々はトルー マンの傭兵にはならない」「イールズ帰れ」等のプラカードは都心の人々の畏仰するとこ ろとなつた。この日北大でも再びイールズ講演をボイコットし、遂に帰国させたのである。 この一連の斗いは学生のみならず日本国民の占領軍絶対の幻想を打破り、民族的自覚を促した点に特に重要な意義を有している。だからこそこの様な斗いの昂揚は帝国主義者に重 大な脅威を与え、五・三〇人民大会を機に戒厳令的な弾圧が行われ、一切の集会が認められず、早大に於いては落語の研究会までが禁止された。六月十一日、自治会室と文団連は 占領政策違反容疑で捜査された。この戒厳令下に共産党幹部追放、アカハタの発禁、全労 連の解散と産業界のレツドパージが強行された。かくして六月廿五日朝鮮戦乱が「勃発す る」のである。矢継早やの弾圧は、前進基地日本の地ならし工作であつたのである。然し乍ら学生はこ の弾圧を徒手静観していたのではない。六月廿二日「民主的自由と平和のための集会」は 折から来日中のジヨンソン・ダレス・ブラツドレー三高官に向けて行われた「請願集会」 と言われるもので、彼等の訪日の目的を曝露し戦争の危険を警告したものであつた。 更に六月廿七日大学記念講演会は大隈講堂を学生で埋めつくして開かれ、集会禁止を事 実上打破り、戦争挑発者への斗いは一層強化されたのである。これに反し大学当局は、完 全に帝国主義者に屈服し原水爆禁止の平和投票を禁止し、掲示板からの一切の平和という 字の使用を禁じ更に六月卅日には歴史的請願集会の責任者に対する処分を発表するに到つ たのである。

 朝鮮戦乱開始直前から開始されたレツドパージの嵐は、その後各産業を席巻し、その勢 いは正に無人の荒野を行くが如き観を呈していた。それはヒトラーの「魔法使い狩」、日 本の河合事件に至る一連のパージの歴史を顧みる迄もなく戦争動員の前夜を示すものであ る。そして、その精神的総仕上げの段階が今や到来したのである。九月六日閣議は進歩的 教授追放を政令六二号で行うことを決定、九月十五日には「政府の赤追放に対する法律的 準備はすべて終り、追放リストの具体的準備にかゝつた」(朝日新聞)と報ぜられるや、 早大自治会中執は、休暇のあけやらぬ九月廿日「全員直ちに帰校し、反レツドパージ斗争 を準備するよう」声明を発して全学生に訴えた。そして廿五日過ぎには早くも一文、二文 は級単位の斗争委員会の編成を終り、中間休暇、試験期間中パージ実施の公算大なる為、試験ボイコツトをしても阻止する態度を固めると共に、大学当局に対しては、一致して学 問と大学の危機に立向うように申入れたが、「架空の事実だ」として取り合わなかつた。 然るに、九月廿七日天野文相が「教授追放は十月上旬強行」と言明するや、大学当局は「 国家の方針ならば学問の自由も早稲田の伝統も放棄する」という恥べき裏切りに変つた。 「政令六二号によるレツド・パージ粉砕」「大山教授を先頭とする早稲田進歩的教授団を 死守せよ」等のスローガンを掲げ、大隈講堂の鐘を乱打し乍ら、四千の学生が「早稲田の 伝統を守る為」に結集し、十月斗争の口火を切つたのは、翌九月廿八日である。この集会 には都内各大学学生も参加した。そして、この日学内デモ中の学生に突如八百の警官が襲 いかゝつた。これに対し大学は無断侵入を容認したので学生と警官の対峙は夜にまで至つ た。次いで廿九日東大で全都決起大会を挙行。十・五ゼネストに至る間に斗争は全都に拡大 し、新制東大、法政、早大一・二文は相次いで試験ボイコツトに突入、斗争は最高潮に達 した。十月五日の全都学生決起大会は東大で開催された。この日ソボ降る雨の中に東大正 門は警官によつて閉され、他大学学生の参加を妨害していたが、早大生を先頭に学生はス クラムを組んでこれを突破、予定通り大会は挙行された。以後怩アの斗いを民族的抵 抗揩ノ拡大すべく、十・二〇ゼネストを目指し、全国遊説隊が各地に出発した。

  この巨大な斗いはパージ計画者をして、数次に亘つて計画変更を余儀なくせしめ、十月 七日閣議は教授追放の為には先ず指導的学生の追放を決定、各大学にこの旨を伝え、十二 日、東大・中大の処分を皮切りに、十四日法政・早大と相次いで大量な学生処分が発表さ れた。だが一方この斗いは良心的な教授の強い支持の下に進められた事は忘れてはならな い。九月廿九日の出隆東大教授の「メツセージ」十月一日、松尾早大教授の「所感」は力 強い感銘を学生に与え、最後まで斗いの支えとなつた。十月十七日のストと集会は計画的休暇明けという悪条件の中で開かれた。すでに地方は 遊説隊の激励を受けて完全に立上つていた。内外の支配者は、並大抵の事ではパージが出 来ない事を知り「学校を閉鎖しても一ヶ月以内に追放を強行」との天野文相の言明ととも に学生に対する容赦ない弾圧を指令、十七日も朝から多数の私服刑事が早大校内に潜入、 戸塚署並に全都の予備隊が待機されていた。このような悪条件の中にも拘らず、「平和と 大学擁護大会」は大隈講堂で三千名の参加を得て開かれた。そして、学生処分を多数の学 生監視の中で素顔で発表出来なかつた大学当局は自ら武装警官による弾圧を要請、かくし て千名の武装警官による空前の大弾圧が加えられ、一四三名が検挙され、八十数名に上る 大処分が発表され自治会は官憲の手により釘付けにされたのである。十月廿日も大学本部 と各入口は武装警官に占領され学生の登校にいちいち学生証の検査をするという暴圧の中 で過され、十一月七日吉田委員長以下十五名が起訴され、ここに長期に亘つた十月闘争は 終熄する。

 第三の時期。十月反レツドパージ闘争の犠牲は大きく、戦後五ヵ年全学生の利益の象徴 であつた自治会を奪われ一時的な沈滞の期間に入り、指導上の混乱が加つて全学連も全国 的統一ある闘いを指導するに至らず、何か新しき道を求める暗中模索の時期であり、今日 に到るまでそれが続けられている。勿論この時期にも、幾つかの特筆すべき闘争は発生している。否寧ろ学生運動に対する 抑圧は益々強くなつたにも拘わらず学生の闘いが有効に組織されなかつたというのが特徴 である。一九五一年二月ベルリンで開催された平和擁護大会のアツピールの署名運動は広 汎な学生を動員したが、九月サンフランシスコ講和条約反対闘争は名大がストを行つた他は全国的規模には到らなかつた。そして十月の京大事件は、十月闘争の早大事件と同様、 学生運動の弾圧と学園への警官侵入のモデルケースとしようとしたものであつた。然しこ れは京大学生の抵抗により喰い止められた。

 一九五二年に入ると破防法制定は必至となりこれに対する反対運動も各大学を中心に文 化人教授学生を一丸として漸く展開されようとした時、一月廿五日(一九五〇年)反レツ ドパージ闘争の指導者に対する公判が開始された。一方、四月廿八日全学連ゼネスト等次 第に昂まつて行く破防法反対闘争に当局はこれが抑圧の手口を得る為に学内への私服の潜 入を増加し、教授学生に対する尾行は目に余るものになつた。この様な時代的背景の内に 私服の学内侵入の摘発によつて発生したのが東大警察手帳事件、五月八日の第二早大事件 である。後者の場合は私服潜入に抗議の為集合した無抵抗の学生に警官は「メーデーの仇 だ」と叫んで暴行の限りをつくし佐々木教育学部長も逮捕されるに到り五月十日島田総長 出席のもとに七千名の全学抗議集会に発展、世論も官憲の横暴に激昂し当局の責任を追及 せんとしたにも拘らず、大学側は五月廿一日に到りあの恥ずべき「覚書手打式」を行い、又も早稲田の伝統を汚す事になつたのである。  破防法反対闘争は参院上程を期に早大、東大で全都学生決起大会が行われ、各大学は続 々と抗議声明を発表、早大でも六月十八日、百十三名の教授の署名による声明書が発表さ れるに到り、運動は全国的に最も規模の大きな闘争に発展した。

  六月卅日早大事件の判決はこのような中で行われ、全員有罪の判決が下された。これは検事の求刑文にあるとうり、「最近頻発する学生の集団暴力事件を参酌せよ」という事か らもミセシメに本裁判を利用し、学生運動弾圧と学園内への警官侵入の判例を残そうとし た意図が露骨に読みとれるのである。個々の学生は、再び暗い谷間への道をたどり出した祖国の運命や学問の自由、平和そし て豊かな学園生活を夫々の仕方で敏感に考えているのだ。要はそれを一つの潮、一つの塊 にまとめる組織がない事だ。一刻も早く、学生自らの組織を確立し現在の受太刀の状態を 乗越え、民族独立と平和擁護の旗手としての学生運動本来の姿を取もどす事が緊急の課題 である。かくてこそ第四の時期は諸君の手によつて輝かしい歴史として綴られる事を望んで止まない。
 (筆者は元早大自治会中央執行委員・一文仏) 【註】一九五六年・早稲田大学第一文学部学生委員会発行「新入生諸君へ」より。





(私論.私見)