「戦後学生運動史概観旧版2、60年安保闘争以降」 |
(最新見直し2006.5.19日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
これは「さざなみ通信」の「共産党の理論・政策・歴史討論欄」の「99年〜00年」に収録されているれんだいこの投稿文で、ここでは「戦後学生運動2」として60年安保闘争以降の流れを考察している。当時は、れんだいじのハンドルネームで登場していた。現在は、れんだいこ論文集の「戦後学生運動論」で書き直し収録している。前者の方がコンパクトになっており読みやすい面と、後者は今後益々書き換えられていく予定なので原文を保持する為にもここに取り込んで遺しておくことにした。(適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法に即して書き直した)ある。 2006.5.18日 れんだいこ拝 |
考察その三、(G)第6期(60年後半)(0999.12.18) |
以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。我々は、そろそろ左翼運動における益になる面と害になる面の識別を獲得すべきではなかろうか。「何を育み、何をしてはいけないか」という考察ということになるが、この辺りを明確にしないままに進められている現下の左翼運動は不毛ではないか、本当に革命主体になろうとする意思があるのかとも思う。 第6期(60年後半)【安保闘争総括をめぐっての大混乱期】 |
考察その三、補足「日本共産党第8回党大会」について(1999.12.20日) |
党は、61年になって「日本共産党第8回党大会」を開催しており、この経過は今日的に見ても見過ごすことが出来ない部分が多いと判断し、別立てでウオッチしておくことにする。その理由は、今日「さざ波通信」誌上で指摘されている党の非民主的運営の原型のほとんどがこの「日本共産党第8回党大会」前後のプロセスに現れていると思われることによる。もう一つの理由は、今日の党を支持する最後の絆として綱領路線への依拠が言われていることに対しても、無慈悲ではあるがそれは党支持の基準にはならないということを指摘したいためである。私の意図は、現執行部の依拠する正当性に対して根本から否定を試みようとすることにある。私の精神においては、このことと党の支持・不支持とは一切関係ない。党は党であり、歴史を持つ。新時代のよりましな社会の仕組みづくりに向けて奮闘して貰いたいと思う。社会にそういう緊張感があってこそ世の中は良くなると信じている。現下の風潮は左翼の不在であり、これは却って国を危うからしめると思っている。 「日本共産党第8回党大会」について |
考察その三、(H)第6期(61年)(1999.12.21日) |
第6期(61年)【マル学同系全学連の確立と新潮流形成期】 |
考察その三、(I)第6期(62〜64年)(1999.12.24日) |
第6期(62〜64年)【全学連の三方向分裂化と民青系全学連の「再建」】 |
考察その三、補足「4.17スト」について(1999.12.25日) |
この時期64年の「4.17スト」をめぐって信じられないことが党内に生起しているので、これを見ておくことにする。スターリン批判・ハンガリー動乱・第7回党大会・60年安保闘争・第8回党大会・原水禁運動そしてこの「4.17スト」への対応・経過を通じて、「左翼」が党に対する信用失墜を確定させることになったようである。「日共」という呼称が蔑視的な意味合いで使われていくことになったのが何時の頃よりかはっきりは分からないが、こうした一連の経過の中で定着したものと思われる。戦後の獄中闘士がカリスマ的権威を持って大衆に受け入れられていたことを思えば、隔世の感がある。 |
考察その三、(J)第7期(65〜66年)(1999.12.26日) |
第7期(65〜66年)【全学連の転回点到来】 (65年) (66年) |
その三、(K)第8期(67年)(1999.12.28日) |
第8期(67年)【ベトナム反戦闘争と学生運動の激化】 |
考察その三、(L)第8期(68年)(1999.12.31日) |
この頃泥沼化していたベトナム戦争が解放戦線側有利のまま最終局面を向かえてますます激化していた。68年はこのベトナム戦争を基軸にして国際情勢全体が回っていた形跡があり、その逐一の動向がわが国の学生運動にも反映していたと思われる。この背景には、青年期特有の正義感というべきか「64年11月成立した佐藤内閣のもと、ベトナム侵略への協力、加担はさらに強化された。日本は、日米安保条約の拡大解釈と運用によって兵員や武器の補給基地とされ、日本の船舶まで輸送に使われ、沖縄基地がB52爆撃機の北爆発進基地としてしばしば使われる(65年以来)など、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の、まさに前線基地にかえられ」、「日本無しにベトナム侵略は困難と云われるほど、日本はベトナム侵略の総合基地にされ」(日本共産党の65年223P)つつ引き続き高度経済成長を謳歌しつつあった社会への同意し難い感情があったものと思われる。要は儲かれば何をしても良いのかという不義に対する青年の怒りのようなものがあった、と私は捉えている。この年に限り経過を月順に追って見てみることにする。なお、この年チェコで「プラハの春」と言われた民衆闘争が勃発し、これに対し6−8月頃ソ連軍のチェコ進駐が始まったことも大きな争点になった。つまり、米ソ両大国の横暴が洋の東西で進行したことになり、国際的非難が巻き起こることになった。 第8期(68年)【全共闘運動の盛り上がり期】 |
考察その三、(M)第8期(69年)(2000.1.5日) |
第8期(69年)【全国全共闘結成と内部溶解の兆し現出】 (学園闘争の流れ) |
考察その三、補足「全共闘運動雑感」(2000.1.9日) |
初めに。ここで考察しようとしている全共闘運動は、あくまで大学生運動であり、中卒・高卒者を含む青年労働者をも巻き込んだ広範な政治運動までには発展していかざる枠組み内の限定的エリート的な学生運動であったという階層性に注意を喚起しておきたい。この「青年左翼闘争に於けるエリート階層性」という特質は、日本共産党の結党以来宿阿の如くまといついている日本左翼運動の特徴であり、どういう訳かマルクス主義を標榜しながら労働者階級を巻き込んだ社会的闘争には一向に向かわないという傾向が見られる。全共闘運動は、全国規模の学園闘争として「60年安保闘争」に勝るとも劣らない運動を展開させていくことになったが、「かの戦闘的行為」に対して庶民一般大衆が抱いた心情は、「親のすねかじりでいい気なもんだ」という嫉視の面もちで受け流されていた風があった。このこと自体は発生期の事実的特徴として必要以上には批判的に問題にされることもないかもしれないが、運動の主体側の方もまた「ある種のエリート意識に囲い込んだまま」終始させていたということになると問題にされねばならないように思う。この観点からすれば、代々木系も反代々木系も同根の運動であり、これは日本の左翼運動の今に変わらぬ病弊のように思われる。つまり、「ブ・ナロード」の能力を持たない自閉的エリート系左翼運動が今日まで続いているという負の現象をまずは認めておこうと思う。 さて、最後に付け加えておくことがある。全共闘運動が賞賛されるべき内容を保持していたにも関わらず、その運動の中に無条件に胚胎させていた暴力性の論理である。この暴力性は、彼らがどう政治的な言葉で言い繕ろおうとも、事は至って単純エゴイスチックなものでしかなかった。「トロが学生自治会の執行部に選ばれた場合、自分たちの支持が無くなると、何年間も改選しなかったり、不正選挙、不正投票をしたり、学生大会から反対派を暴力的に閉め出したりしてきた」(川上氏「学生運動」)と言わしめるような手法を日常化させていたのではないのか。なぜ、彼らは堂々と所見を述べ、学内外にプロパガンダしていかなかったのだろう。私に言わせれば、全共闘は値のある理論を持っていたように思われる。民青同は宮本論理の影響を受け、ほぼ自主性のない運動しか為しえない窮屈な姿を見せていた筈である。なぜ堂々と民青同と渡り合い、自治会執行部を取れればよいし、取れなければ取れるように根気強く運動を組織していくねばり強さを培えなかったのだろう。「民青殺せ!」と絶叫しつつデモしていた事実は一体何を語るのだろう。「悪魔も寄りつかぬ静寂の中でドン・キホーテは夢をみていた。しかし僕らは自己を主張するのに不可欠なハンマーを見ている。反革命分子よ気をつけるがいい。血と肉を持った存在が今や鉄槌無しには主張され得ないのだ」などとうそぶきつつ「自己の内なる東大を否定せよ」とは、一体何を洒落ているのだろう。 |
考察その三、補足「民主連合政府樹立運動について」(2000.1.15日) |
このような全共闘運動に敵対した当時の民青同の意識にはどのようなものがあったのか、それを考察するのが本投稿のテーマである。ちょうど民青同の論理は、全共闘運動の対極にあった。自己否定論理に対しては民主化論理を、造反有理に対しては党を護持し民主集中制の下での一層の団結を、解体論理に対しては民主連合政府樹立の呼びかけをという具合に何から何まで対置関係にあったことが分かる。実際には全共闘運動の方が空前の盛り上がりを見せ、民青同がこれに対抗していったことになるので、全共闘からすれば、「マスコミは巨大な敵だったが、右翼・民青・機動隊というのがさしあたっての敵だった」ということになった。元々大学民主化闘争は学生運動自体のテーマであり、全共闘運動とてここから始まったように思うが、全共闘運動はいつのまにか担おうとしなくなり、民青同の一手専売となった。私が入学した頃には、「政治的自由と民主的諸権利の拡大を目指す闘争」、「教育権・機会均等の擁護、学費値上げ反対、奨学金の拡充、寮の完備、勉学条件の改善」という当たり前の運動が民青同以外では見られなくなっていた。もっとも民青同は、抱き合わせで「トロッキスト、修正主義者らを各大学において、全国的な学生運動の戦列に於いて一掃することが不可欠」という指針を掲げていたので、これにもなじめなくなった私の居り場がとうとう無くなってしまった。 |
考察その三、(N)第9期(70年以降)(2000.1.18日) |
第9期(70年以降)【層としての学生運動の衰退とその後】 71年以降においても追跡していくことが可能ではあるが、運動の原型はほぼ出尽くしており、多少のエポックはあるものの次第に運動の低迷と四分五裂化を追って行くだけの非生産的な流れしか見当たらないという理由で以下割愛する。ここまで辿って見て言えることは、戦後余程自由な政治活動権を保障されたにも関わらず、左翼運動の指導部が人民大衆の闘うエネルギーを高める方向に誘導できず、「70年安保闘争」以降左派間抗争に消耗する呪縛に陥ってしまったのではないかということである。この呪縛を自己切開しない限り未だに明日が見えてこない現実にあると思われる。他方で、第二次世界大戦の敗戦ショックからすっかり立ち直った支配層による戦後の再編が政治日程化し、左翼の無力を尻目に次第に大胆に着手されつつあるというのが今日的状況かと思われる。「お上」に対する依存体質と「お上」の能力の方が左翼より格段と勝れている神話化された現実があると思われる。問題は、本音と自己主張と利権と政治責任を民主集中制の下に交叉させつつ派閥の統一戦線で時局を舵取るという手法で戦後の社会変動にもっとも果敢に革新的に対応し得た自民党も、戦後政党政治の旗手田中角栄氏を自ら放逐した辺りから次第に求心力を失い始め、90年頃より統制不能・対応能力を欠如させているというのに、この流れの延長にしからしき政治運動が見あたらない政治の貧困さにあるように思われる。 |
(私論.私見)