「戦後学生運動史概観旧版2、60年安保闘争以降

 (最新見直し2006.5.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 これは「さざなみ通信」の「共産党の理論・政策・歴史討論欄」の「99年〜00年」に収録されているれんだいこの投稿文で、ここでは「戦後学生運動2」として60年安保闘争以降の流れを考察している。当時は、れんだいじのハンドルネームで登場していた。現在は、れんだいこ論文集の「戦後学生運動論」で書き直し収録している。前者の方がコンパクトになっており読みやすい面と、後者は今後益々書き換えられていく予定なので原文を保持する為にもここに取り込んで遺しておくことにした。(適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法に即して書き直した)ある。

 2006.5.18日 れんだいこ拝


考察その三、(G)第6期(60年後半)(0999.12.18)

 以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。我々は、そろそろ左翼運動における益になる面と害になる面の識別を獲得すべきではなかろうか。「何を育み、何をしてはいけないか」という考察ということになるが、この辺りを明確にしないままに進められている現下の左翼運動は不毛ではないか、本当に革命主体になろうとする意思があるのかとも思う。

 例えば左翼サミットのような共同会議で史実に基づいた大討議を「民主的運営で」やって見るということなぞが有益ではなかろうか。これが出来ないとしたら、させなくする論理者の物言いをこそ凝視する必要がある。そもそも議会というものは、意見・見解・方針の違いを前提にして与党と野党が論戦をしていくための機関なのではなかろうか。これがなされないのなら、議会は不要であろう。左翼サミットの場も同様であり、最大党派の民主的運営において少なくとも「国会」よりは充実した運営をなす能力が問われているのではなかろうか。理想論かも知れないが、そういうことが出来ないままの左翼運動が万一政権を執ったとしたら、一体どういう政治になるのだろう。現下の自民党政治以下のものしか生まれないことは自明ではなかろうか。だから、本気で政権を取ろうともしていないと私は見ている。

 どうしてこういうことを言うかというと、平たく言って、人は理論によって動く面が半分と気質によって動く面が半分であり、どうしても同化できない部分があるのが当然であり、そのことを認めた上での関係づくり論の構築が急がれているように思われるからである。これが「大人」の考え方だと思う。マルクス主義的認識論は、このようなセンテンスにおいて再構築されねばならないと考えている。マルクス主義誕生以降百五十余年、反対派の処遇一つが合理的に対応できないままの左翼戦線に対して、今私が青年なら身を投じようとは思わない。党派の囲い込みの檻の中に入るだけのように思うから。むしろ、こういうインターネット通信の方が自由かつ有益なる交流が出来るようにも思われたりする。却って垣根を取り外していけるかもしれない、とフト思った。

 第6期(60年後半)【安保闘争総括をめぐっての大混乱期】

 「60年安保闘争」に関する党の指導性に対して疑問が呈されている資料がここにあるが、これが素直な受け取りようではないかと私は受けとめている。著者の藤原春雄氏は旧所感派系の元アカハタ編集局長を勤め、党の青年運動の指導にも携わってきた経歴の持ち主である。第8回党大会後間もなく離党しているようである。「党は、安保闘争の中で、闘争に対する参加者の階層とそのイデオロギーの多様性を大きく統一して、新しい革新の方向を示すことが出来なかった。逆に、違った戦術、違った思想体系、世界観の持ち主であることによって、それに裏切り者、反革命のレッテルを貼ることで、ラジカルな青年学生を運動から全面的に排除する政策を採った。そのため、安保闘争以後の青年学生戦線は深刻な矛盾と対立を生んだ」(藤原春雄「現代の青年運動」新興出版社)。他方で、川上徹氏は、著書「学生運動」の中で「このように極『左』的妄動の中心になって、挑発的、分裂主義者としての役割をはたしたトロッキストとの闘いの経験は、それ以降の運動の高まりの中で絶えず発生してくる小ブルジョア急進主義的傾向との、あるいはそれを利用するトロッキストとの様々な策動に対する民主運動、学生運動の闘いにとって豊かな教訓の宝庫となった」という総括をしている。いろんな総括の仕方があるということだろうが、「道遠しの感がある」。

 「60年安保闘争」後、民青同中央はいち早くポスト安保後に向けて指針していることが注目される。その様はブントが満身創痍の中分裂を深めていくのと好対照である。民青同は、先の「第7回党大会第9回中委総」の新方針に基づき6.27−29日「民青同第6回大会」を開催、「青年同盟の呼びかけ」と「規約」を採択し、民青同の基本的性格と任務を、@.民青は労働者階級の立場に立って、人民の民主的課題の為に闘う青年の全国組織である。A.民青は、労働者階級を中心とする青年戦線の中核(後中軸と訂正)である。B.民青の基本的任務の一つは、マルクス・レーニン主義を学ぶことにある、という立場を確立した。こうして「マルクス・レーニン主義の原則に基づいて階級的青年同盟を建設する」という方向を明らかにし、闘う民青同へとスタンスを明確にしつつ新しい出発の基礎を築いた。ここにはブントら青年運動の急進主義的運動の影響を受けて、穏和路線ながらも闘う主体への転換を企図していた様がうかがえて興味深い。

 注目すべきは、この大会で、宮本書記長の修正個所が批判を浴びて、当初民青同中央が決定したように「労働者階級の立場に立って、人民の民主主義的課題のために闘う」と改め直したことである。字句遊びのようでもあるが、「人民の民主主義的課題のために闘う」から「人民の民主主義の立場に立つ」へと修正されていた部分を再び「人民の民主主義的課題のために闘う」へと戻したということである。こうして、「現憲法のもとで実現可能な青年の諸権利を獲得するため、法制化と政治的民主主義の拡大をはかること。さらに、青年の統一戦線をつくるために、独占の利潤を制限し、青年を社会的・経済的・文化的に保障する闘いをおこすことが急務である」ことを訴えた。

 この経過を見れば、党中央と民青同中央間には一定の反発があったということになる。結果的には、宮本氏の引き続きの露骨な介入により、民青同は元の木阿弥の穏和化路線へ再度誘導されていくことになる。宮本執行部は、この後の6.29日から開かれた党の「第11中総」で、訴え「愛国と正義の旗の下に団結し、前進しよう」を採択している。恐らく宮本氏の発議であると思われるが、先の「民族的民主主義」路線とかこの度の「愛国と正義」路線とかを見るとき、この御仁が本当に「日本共産党」の指導者なのかどうか首を傾げざるをえない(この時、党内はどのように受けとめたのだろう。私には、「神様・仏様に手を会わそう」と同じで余程の方でない限り誰もこんなことを一々否定しない無内容さを感じてしまう。その先のレベルで党運動が生まれているように思うけど、マァイイカもう止そう)。なお、宮本氏は後になって84.7.26日の「民青同第18回大会」を前にした7.12日の党の常任幹部会で、「民青は普通の大衆組織ではない。党の導きを受け、党の綱領に従って行動する党の青年部的組織であるから、役員の選出に当たっても党として事前に検討し、協力と指導を強化すべきだ」と発言している。レーニンの「若い世代は独特な方法で共産主義に近づく」という青年同盟の自発的規律を重んじる発想と随分かけ離れた指導精神の持ち主であることが見て取れる。

 この経過は党史で次のように述べられている。「党は、1960年(昭和35年)3月の第9回中央委員会総会第7回党大会で、日本民主青年同盟についての新しい方針を決定し、青年運動の発展に新局面をひらいた。民主青年同盟は、この新しい方針に基づいて同年6月に第6回大会を開催、『青年同盟の呼びかけ』と『規約』を採択し、青年同盟の基本的性格と任務を確立した。それは、新しい情勢のもとで民主青年同盟の当面する任務を、平和・独立・民主・中立の日本の建設と青年の諸要求の実現の為にたたかうことにおき、その民主的大衆的性格と、『科学的社会主義』(『』は私の書き込み)を学び日本共産党の導きを受けるという共産青年同盟以来の先進的性格を統一したものであった。これによって、民青同盟は、それまでの性格と任務についての様々な混乱に終止符を打ち、その後の発展の確固とした基礎をおくことになった」(「日本共産党の65年」165P)。(ボソボソ)この文章の中に前述のいきさつを嗅ぎ取ることが出来るだろうか。本当にこのような観点から「民青同第6回大会」が勝ち取られたのだろうか。私は史実の偽造と受け取る。それと、この時点で「科学的社会主義」とかの表現を本当に使っていたのだろうか。実際には「マルクス・レーニン主義」を学ぶと書かれていたのではないのか。この部分が書き換えられているとした場合、後に用法が例え転換されたにせよ、その時点で使われていた表現はそのまま歴史的に残して担保すべきではなかろうか、と思うが如何でしょうか。こうした改竄がやすやすとなされねばならない根拠が一体どこにあって、党中央はなぜそんなことまでするのだろうかが私には分からない。「プロレタリア独裁」についても同じ事だが、なぜ過去にまで遡ってかような修正をなす必要があるのだろう。どなたか執行部側の正義の陳述で説明していただけたらありがたい。

 ここで、この当時党内外に発生した構造改革派の動きを見ておく。記述できなかったが、党内ではこの間引き続き宮本氏が起草した「党章草案」をめぐって春日(庄)グループが激しく反対していた。これを構造改革派という。ここで構造改革論について見ておくことにする。構造改革論の源流は、イタリア共産党書記長トリアッチの提言から始まるようである。彼は、ソ連共産党第20回党大会における演説で、「イタリア共産党は、10月革命の道をしないで、イタリアの道を歩むであろう」と述べ、ついで帰国後は、国際共産主義運動の「多中心性」を提言すると共に、イタリア共産党第8回党大会において、資本主義諸国が社会主義に向かう道の一つとして「社会主義へのイタリアの道」を決定した。その主張するところによれば、「現在では、民主主義的制度に対する圧倒的多数の人民の積極的な支持と経済構造の改革と勤労大衆の闘争によって、支配者である資本家階級の暴力を阻止できる条件が出来ている。この民主主義的諸制度は、独占グループの階級的な試みに対抗して、これを発展させることが出来るものである」との認識に立って「イタリア共和国憲法を尊重しつつ、ファシズムに代わって登場した独占との闘いの為に、労働者、大衆の広い戦線として、これを動員して、国民の多数を左翼に獲得し、憲法に示されている経済、政治などの諸構造の改革を、当面の目的として社会主義建設への道を前進する」というものであった。言ってみれば、資本主義の内部における「反独占民主主義」によって資本主義改革を否定し、資本主義の外部にこれに代わる「人民民主主義」、即ち「社会主義的民主主義」の建設を目指すということになる。プロレタリアートの独裁についても、「社会主義社会の建設は、資本主義を打倒する革命、社会主義の勝利、共産主義への移行などの間に過渡的な期間を設定する。この過渡的な期間に於いては、社会の指導は、労働者階級及びその同盟者に属しており、プロレタリア独裁の民主的性格は、旧支配階級の残存に反対し、圧倒的多数の人民の利益において、この指導が実現されると云う事実から生まれている」(1956.6.24.イタリア共産党中央委員会報告)としていた。この理論が構造改革論と言われるようになり、春日(庄)グループらが宮本系党中央に反対する論拠としてこれを採用することになった。

 こうして誕生しつつあった春日(庄)ら構造改革派は、「党章草案」に見られた戦後日本の国家権力の性格規定においてのアメリカ帝国主義による「従属」規定に対して、日本独占資本の復活を認めた上での日本独占資本主義国家または帝国主義の「自立」として規定し、そこから当面の革命の性質を、「党章草案」的ブルジョア民主主義革命から始まる二段階革命論に対し、社会主義革命の一段階革命論を主張することにより党中央と対立した。興味深いことは、こうした規定は、新左翼系の革共同・ブントとも同じ見方に立っていることであり、左派的な主張であったということにある。が、構造改革派の特徴は、この後の実際の革命運動の進め方にあった。「現マル派」として結集しつつあった安東仁兵衛・佐藤昇・長洲一二・石堂清倫・井汲卓一・前野良・大橋周治・杉田正夫ら構造改革派のイデオローグたちは、前述したイタリアのトリアティの理論及びイタリアの共産党の構造改革の路線を紹介しつつ、党及び労働運動の流れを、反独占社会主義革命の現実的・具体的な展開として「平和・民主・独立・生活向上の為の闘争」へと向かうべきと主張した。これが新政治路線として左翼ジャーナリズムをにぎわかしていくことになったが、「平和共存」時代における「一国社会主義」的「平和革命」的「議会主義」的革命運動を指針させようとしていたことになる。つまり、見方によっては、この時点では「敵の出方論」を採用していた党路線より右派的な革命路線を志向しようとしていた訳であり、他方で日本の革命方向は社会主義革命であるというヌエ的なところがあった。こうした構造改革論は宮本式綱領路線と相容れず、宮本氏はこのちぐはぐ部分を見逃さず、右派理論として一蹴していくことになった。

 ところで、以上のような解説以外に付け加えておくことがある。どうやら、春日(庄)ら構造改革派の離党には、「60年安保闘争」におけるブント指導の全学連の評価問題が絡んでいたようであり、春日(庄)らは、ブント的運動を宮本系の言うようなトロッキストの跳ね上がりとはみなさず、党指導による取り込みないし連帯を指針させていた節がある。こうした見解の分裂により、翌61年の第8回党大会に至る過程で春日(庄)ら構造改革派は除名され、集団離党していくことになる。その学生戦線として民青同の幹部が連動し分派を結成していくことになるようである。ちなみに、現在の党路線とは、外皮を宮本系の民族的民主主義革命から始まる二段階革命論で、中身を構造改革系の「平和・民主・独立・生活向上の為の闘争」に向かう「一国社会主義」的「平和革命」的「議会主義」的革命運動と連動させていることに特徴が認められる。これは、不破委員長自身が若き日に構造改革系の論客であったことと関係していると思われる。

 7.4−7日、全学連第16回大会は三派に分かれて開催されることになった。この第16回大会こそ、全学連統一の最後のチャンスであった。運動論・革命論や安保闘争についての総括について意見がそれぞれ違っても、全学連という学生組織の統一機関としての機能を重視すれば賢明な対処が要求されていたものと思われるが、既に修復不可能であったようである。全学連主流派は、全学連第16回大会参加に当たって都自連の解散を要求したようである。都自連を中心とした反主流派は、@.都自連解散要求の撤回、A.第15回大会は無効である、B.8中執の罷免取り消しを要求したようである。それらは拒否された。お互い相手が呑めない要求を突きつけていることが判る。こうして、全学連第15回臨時大会に続き反対派が閉め出されることになり、全学連の分裂が固定化していくことになった。

 こうして全学連第16回大会はブントと革共同全国委派だけの大会となった。反主流派は暴力的に排除されたと云われている。大会では、それぞれの派閥の安保闘争総括論が繰り返され、もはや求心力を持たなかった。委員長に唐牛、書記長に北小路を選出した。「6.19以後の学生と労働者、人民の闘いは、日本帝国主義が安保にかけた二つの政治的目標−国際的威信の確立と国内政治支配の確立−を反対物に転化せしめたがゆえに安保闘争は政治的勝利をもたらした」と総括し、60年秋こそ決戦だとした。

 これに対し民青同系都自連は、全学連第16回大会参加を拒否された結果、自前の全学連組織を作っていくことになり、7.4−6日全国学生自治会連絡会議(全自連)を結成した。都自連を先頭に全国的な連絡会議の確立に奮闘し一定の支持を受けたと言うことになる。全自連は、全学連の規約を守り、民主的運営の回復のために闘うことを明確にしていた。連絡センターとして代表委員会を選出し、教育大・早大第一文・東大教養学部、神戸大などの自治会代表が選ばれた。党は、これを指導し、党員学生がほぼその指導部を制していた。この流れが以降「安保反対、平和と民主主義を守る全学生連絡会議」(平民学連)となり、民青系全学連となる。ところが、この過程で、全自連指導部は前述した構造改革派の影響を受けていくことになった。構造改革派は、東京教育大学・早大・神戸大・大阪大などの指導的活動家等の中に浸透しつつあった。

 時は移り、7.15日、第二次岸内閣総辞職。7.17日全学連、三池争議に350名の支援団派遣。7.18日宮本書記長、「三井三池の闘争に全党から応援隊を」と呼びかける談話を発表。7.19日第一次池田内閣が成立していた。

 7.29日ブント第5回大会が開催された。この大会は大混乱を極めた。「60年安保闘争」が事実上終息し、安保闘争の挫折が明らかになったことを受けて、「ブント−社学同−全学連」内部で、安保条約の成立を阻止し得なかったことに対する指導部への責任追及の形での論争が華々しく行なわれることになった。論争は、この間のブント指導の急進主義的闘争をどう総括するのか、その闘争の指導のあり方や、革命理論をめぐっての複雑な対立へと発展していくこととなった。ブント書記長・島氏は燃え尽きており、既に指導力を持たなかった。この過程で指導部に亀裂が入り、この後8.9日から10月にかけて東京のブント主流は三グループ(それぞれのグループの機関紙の名前をとって、革命の通達派と戦旗派とプロレタリア通信派)に分かれていくことになった。

 革命の通達派は、「もっと激しく闘うべきであった」と総括した。8.14日いわゆる星野理論と言われる「安保闘争の挫折と池田内閣の成立」を発表して、ブント政治局の方針を日和見主義であったと攻撃した。それに拠れば、「安保闘争の中で、現実に革命情勢が訪れていたのであり」、「安保闘争で岸政府打倒→政府危機→経済危機→革命」という図式で、権力奪取のための闘いを果敢に提起すべきであったという。「ブントの行動をもっと徹底して深化すべきであった」、「政治局は階級決戦であった安保闘争を過小評価した」と左から批判した。革命の通達派は東大派とも言われ、東大学生細胞の服部信司・星野中・長崎浩らによって構成されていた。これに対し、戦旗派は、ブント的闘争を否定する立場に立ち「組織温存の観点が欠落した一揆主義であった」と総括した。革命の通達派の主張を「主観主義」、「小ブル急進主義」と規定し、革命の通達派的総括は「前衛党建設を妨害する役割しか果たさない、マルクス主義とは縁のない思想だ」と反論した。彼らに拠れば、概要「この間のブント的指導は、安保闘争の中で前衛党の建設を忘れ、小ブル的感性に依拠した小ブル的再生産闘争であり、プチブル的運動でしかなかった」、「その根源はスターリニズムに何事かを期待する残滓的幻想にあり、前衛党建設のための理論的思想的組織活動の強化を為すべきであった」と主張した。戦旗派は労対派とも言われるが、森田実・田川和夫・守田典彦・西江孝之・陶山健一・倉石・佐藤祐・多田・鈴木・大瀬らが連なった。唐牛委員長・社学同委員長篠原浩一郎もこの派に属したようである。プロレタリア通信(プロ通派)派は、全学連書記局派とも言われるが、両者の中間的立場に立って「ブント=安保全学連の闘いは正当に評価されるべきだ」と主張した。この派には、青木・北小路敏・清水丈夫・林紘義らが連なった。

 こうして、安保闘争の総括をめぐって「ブント−社学同−全学連」の分裂が必至となった。つまり、ブントは結成からわずか2年で空中分解することになったという訳である。結局ブントは、革命党として必須の労働者の組織化にほとんど取り組まないうちに崩壊したことになる。60年始め頃から露呈し始めていたブントの思想的・理論的・組織的限界の帰結でもあった。こうしたブントの政治路線は、「革命的敗北主義」・「一点突破全面展開論」と言われる。これをまとめて「ブント主義」とも言う。ただし、この玉砕主義は、後の全共闘運動時に「我々は、力及ばずして倒れることを辞さないが、闘わずして挫けることを拒否する」思想として復権することになる。とはいえ、明大や中大ブントは分裂せずに独自の道を歩んだ。こうして東京のブントは分裂模様を見せたが、「関西ブント−社学同」は独自の安保総括を獲得して大きな分裂には至らなかった。この流れがのちの第二次ブント再建の中心となる。ここまでの軌跡を第一次ブントと言う。

 このブント創出から敗北と崩壊の過程について島氏は戦後史の証言ブントの中で次のように語っている。「確かに私たちは並外れたバイタリティーで既成左翼の批判に精を出し、神話をうち砕き、行動した。また、日本現代史の大衆的政治運動を伐り開く役割をも担った」、「あの体験は、それまでの私の素質、能力の限界を超え、政治的水準を突破した行動であった。そして僅かばかりであったかも知れぬが、世界の、時代の、社会の核心に肉薄したのだという自負は今も揺るがない」、「私はブントに集まった人々があの時のそれぞれの行動に悔いを残したということを現在に至るも余り聞かない。これは素晴らしいことではないだろうか。そして自分の意志を最大限出し合って行動したからこそ、社会・政治の核心を衝く運動となったのだ。その限りでブントは生命力を有し、この意味で一つの思想を遺したのかも知れぬ」、「安保闘争に於ける社共の日和見主義は、あれやこれやの戦略戦術上の次元のものではない。社会主義を掲げ、革命を叫んで大衆を扇動し続けてきたが、果たして一回でも本気に権力獲得を目指した闘いを指向したことがあるのか、権力を獲得し如何なる社会主義を日本において実現するのか、どんな新しい国家を創るのか一度でも真剣に考えたことがあるのか、という疑問である」。

 9月、ブント・革共同系全学連主流派25中委は、「安保闘争は政治的にも敗北であった」総括にとって替えられた。革共同のイニシアチブが進行しつつあったことが判る。9月アカハタ紙上で党指導の批判者への攻撃を続ける。党内構造改革論者は党外出版物で活動する。9.5日池田内閣が「所得倍増政策」発表。9月清水.浅田・三浦・香山らが「共産党の犯した重大な誤りについて徹底的な批判」を加え、非共産党の新左翼への結集を呼びかける「現代思想研究会」が発足した。10.8−9日ブント・革共同系全学連都学連13回大会は、反主流派を排除した中で、主流派内部での意見の違いと混乱が暴力事件にまで発展し、遂に流会した。10.12日浅沼社会党委員長、日比谷公会堂に於ける自民・社会・民社の立ち会い演説中に大日本愛国党員山口二矢によって刺殺される。

 10.15日、社会党の青年運動組織の結成がなされた。社会主義青年同盟(社青同)の誕生である。遅まきながら社会党は、党の民青同育成方針にならってこのポスト安保直後の時点で自前の青年運動創出の必要を党議決定し、誕生させたということになる。社青同は、同盟の性格と任務として「独占資本の攻撃に対する統一政策、政治路線、組織路線を明らかにし、活動家の大同団結による青年の強大な戦線をつくり、指導する青年同盟」とし、「労働青年を中心に各層青年の先進的活動家の結集体」、「すぐれた活動家の個人加盟組織」、「日本の社会主義革命の勝利の為に闘う政治的実戦部隊」とする階級的な青年運動を志向していた。特徴的なのは社会党との関係であり、「一応社会党から独立した組織とし、現在の社会党に対しては批判はあるが、これを支持し、社会党との間に正式に協議会を持ち、社会党大会には支持団体として代議員を送る」関係として位置づけた。つまり、党と民青同との関係ほどには統制しない緩やかな組織結合を目指したということになる。この社青同はこの後社会党内の左派的潮流を形成していくことになる。ブント運動の花粉が意外なところに運ばれ結実したとも考えられる。

 10.20日、第23次全国統一行動、全国40カ所で新安保反対・浅沼暗殺抗議全国大会。10.28日「池田内閣打倒」をスローガンとして集会が催されたが、ブント・革共同系全学連各派合わせて1000名以下、学生戦線は低迷状態に入った。11.20日第29回衆議院議員総選挙が行われ、党は得票数115万6733票(2.9%)獲得し、前回の101万を14万増やした。安保闘争の中心地東京では、前回より1万票少なく、得票率も前回より0.6パーセントへっていた。議員数は前回の1名に対し3名当選(大阪1区志賀義雄、同2区川上貫一、京都1区谷口善太郎)した。自民296、社会145、民社17、諸派1、無所属5。

 11.10−12.1日、「81カ国共産党.労働者党代表者会議」に党代表団団長宮本書記長・袴田・西沢富夫・米原が参加した。モスクワ会議への代表派遣という重大問題について中委総会にはからず、単に全員でない幹部会をもっただけで勝手に決めた。結局自分らの派閥だけで代表を決定した。予備会議と本会議を通じて国際共産主義運動の諸問題について討論が行なわれた。共産党・労働者党代表者会議の声明及び全世界諸国人民への呼びかけが全員一致で採択された。12.7日モスクワにおける「81カ国共産党・労働者党会議の声明」が発表された。57年秋に出されたモスクワ宣言を受け継いだ今度の新声明は、世界の共産主義運動の綱領的文書たる意図を持ち、全世界の民主主義・社会主義の勢力に共通の方向と方針を与えようとするものだった。中ソ双方の意見の取り入れ、イタリアの構造改革コースをめぐる西欧での対立的見解をも適宜に取り入れた折衷的産物だった。日本革命にとって問題は、「アメリカ帝国主義の政治的・経済的・軍事的支配にあるヨーロッパ以外の発達した個々の資本主義諸国」のために、民族独立民主主義革命と社会主義革命との2段階の戦略的な任務が指示されていた。党内にこの規定をめぐって論争が生じた。党中央派は、旧党章草案の基本路線が指示されているのだと主張し、反党章派の構造改革派は、反対に日本の構造改革コースに基づく社会主義革命の方針の正しさが立証されていると主張した。問題は、日本における革命コース方式を何らかの国際的基準によって権威付けようとする双方の態度そのものに存在した。

 12.8日、第二次池田内閣成立。12.27日池田内閣は、閣議で国民所得倍増計画を決定した。以降日本経済は高度経済成長時代を向かえていくことになる。12.18−28日「第14回中総」。先の選挙結果の評価で意見が対立した。「総選挙の結果と当面の任務」を決議したが、その採決では、中野・西川・亀山・神山の4人の中委が保留を表明し、ここに満場一致という13中総までの中央の先例が破られた。その他「共産党・労働者党代表者会議の声明」及び「全世界諸国人民への呼びかけ」に関する決議を採択。

 全自連は、ポスト安保後の60年後半期「民主勢力の前進」に向け共産党への支持活動に取り組んだ。急進主義派が安保後の挫折感に浸っている間に、浅沼刺殺抗議闘争、総選挙闘争に取り組む中で勢力を拡大し、60末には約170自治会を結集し、全学連組織のほぼ50パーセントを占めた。12.17−18日全自連4全大で、「日本の学生運動の主流はもはや全自連である」と宣言し、新たな全学連の結成を決議した。


考察その三、補足「日本共産党第8回党大会」について(1999.12.20日)

 党は、61年になって「日本共産党第8回党大会」を開催しており、この経過は今日的に見ても見過ごすことが出来ない部分が多いと判断し、別立てでウオッチしておくことにする。その理由は、今日「さざ波通信」誌上で指摘されている党の非民主的運営の原型のほとんどがこの「日本共産党第8回党大会」前後のプロセスに現れていると思われることによる。もう一つの理由は、今日の党を支持する最後の絆として綱領路線への依拠が言われていることに対しても、無慈悲ではあるがそれは党支持の基準にはならないということを指摘したいためである。私の意図は、現執行部の依拠する正当性に対して根本から否定を試みようとすることにある。私の精神においては、このことと党の支持・不支持とは一切関係ない。党は党であり、歴史を持つ。新時代のよりましな社会の仕組みづくりに向けて奮闘して貰いたいと思う。社会にそういう緊張感があってこそ世の中は良くなると信じている。現下の風潮は左翼の不在であり、これは却って国を危うからしめると思っている。

 「日本共産党第8回党大会」について

 1月、ソ連共産党第22回大会におけるフルシチョフの公然たるアルバニア批判と周恩来のそれへの反論によって中ソ論争が公然化している。アメリカではケネディー大統領が就任している。この頃党は、党内に構造改革派が発生し大きく揺れている。2月党中央は、東京都千代田区・東京都・大阪府・その他の党会議において、構造改革派系革新派分子に圧力をかけて役員から排除している。2.15日学生新聞を創刊して、構造改革派に握られた「全自連」の指導権回復に乗り出している。

 3.1−13日と25−28日までの2回にわたって「第16中総」が開かれた。この間58年の「第2中総」で設置された「綱領問題小委員会」は、都合29回の会議を経てきたが、この「第16中総」に決議用「綱領草案」が提出された。しかるに「綱領草案」は大激論を生み結局満場一致とならず、中央役員44名中、4分の1に近い10名が反対又は保留した。内訳は、中委31名中、亀山・西川・山田・内藤・波多の5名が反対。神山・中野の2名が保留。決議権を持たない中委候補6名中2名が反対。また中央統制監査委員7名中、議長の春日(庄)が反対。また中委の政治報告草案についても6中央委員が反対し、中委候補2名が保留した。結局最終日の3.28日「綱領草案」は多数決で決定された。

 綱領問題に決着が付けられるまでに2年半の経過を要したことになり、かなりの難産であったということになる。この時、大会議案に反対と保留の中央委員または中委候補は、自らの意見を下部の機関や組織で述べてはならず、400字詰原稿用紙25枚以内にまとめた意見書を、希望によって党報に発表することが出来ると決められた。以後、党中央による綱領反対派に対する統制・抑制・官僚的圧迫が強化されることになり、予備工作が進行した。

 4.12日、アカハタは、「さしあたってこれだけは」のアピールの発起人としての責を問われた関根弘(除名)と武井昭夫(1年間党員権停止)の処分をページ全面に発表した(中委書記局「関根弘ならびに武井昭夫の規律違反に関する決定の発表にあたって」)。4.17日アカハタはこのアピールに賛成して中央の説得に従わなかった数名の同志が、規律違反の処分を受けた顛末を報じた。数名の同志とは、主に「新日本文学会」に属する小林勝・柾木・岡本・大西・小林祥らの作家・評論家たちであった。

 4.30日、アカハタ特別付録として「綱領草案」が、5.3日アカハタ特別付録として「中委政治報告草案」が発表された。第7回大会の時は、「党章草案」が57年9月発表されて、翌58年7月に大会が開かれたのだから、10ヶ月にあまる討議期間があった。この度は7月下旬に予定された大会まで3ヶ月に足らなかった。5.6−8日都道府県委員長会議において、中央から綱領討議に対する厳重な規制が指示された。以後7月にかけての都道県党会議において、革新反対派への抑圧を強化し、反対派議員の排除が強行されていった。5.9−11日全国活動者会議。5.13日アカハタに規約一部の改正草案が発表された。

 6.9−10日、「第17中総」で中央反対派の意見発表中止を決めた。6.12日アカハタは、「大会での討議は議案への賛否をあらわすことではなくて、議案の正しい理解によって各自の誤りをただすことである」という語るに落ちる党官僚の放言を掲載していた。6.14日論文「革命理論の形式的な理解と日本の現実への創造的適用−社会新報の綱領草案批判にこたえる」をアカハタに発表した。こうした中央主流の露骨な策動に対して、反対派の動きははなはだ力弱く、不十分であった。主流派が規約違反の勝手な専断ぶりを示しているのに、反対派は日頃言い含められてきた組織原則を守って対抗運動にでなかった。これらの反対派の中にあって特殊な立場を示したのは、党内左翼反対派を自称する中共路線支持のレーニン主義者集団であった。彼らは、宮本ら党中央の官僚主義指導と統制を激しく非難しつつ、同時に構造改革論者をも現代修正主義として批判した(村崎泉美「第8回党大会と最近の党内情勢」団結第17号)。

 党中央は、反対分子の多いと見られる地方組織に主流派幹部を派遣して、党会議を統制し締め付けをはかった。都道府県党会議の段階で、反対意見を封じ反対分子を排除してしまえば、党大会は彼らの意のままになる道理だった。ここに草案反対者は機関として推薦できないとして、あらかじめ代議員候補のリストからはずすといった規約蹂躙の工作が、全国的に展開されていくこととなった。とりわけ、東京と大阪が集中的な目標とされた。野坂・宮本・袴田・志賀・松島・聴濤・土岐・川上らが手分けして各県の党会議に乗り込んで反対意見を封殺していった。この間、先の16中総の申し合わせで春日(庄)以下10名から提出された意見書の内容は党報へ掲載される権利が留保されていたが、「16中総」の決定をゆがめて伝える恐れがあるという理由で、結局約束は反故にされ、党報への掲載が中止されることとなった。大会直前に発効された前衛8月号には、志賀・袴田・松島・米原らの草案支持の論文をずらり揃えた上で、内藤・内野(壮)・波多らの反対意見書を投稿扱いで載せた。
 府県から地区に至る党会議や委員会総会は、すべて草案を踏み絵として党員を点検する検察の場と化し、大会代議員の選出は、選考委員会によって推薦名簿の段階で厳重にふるいにかけられ、批判意見を持つ代議員候補者は、ほとんど故意に落とされた。「中央は絶対に正しい」、「中央に忠実な機関は又正しい」という詭弁が党の組織体質として定着化していった。この結果、7月上旬までに全国にわたってほぼ終了した大会代議員の選出では、綱領反対派又は反中央分子とみられるものは完全に近く排除されていた。799名のうちわずか10数名がそれではないかと見られたに過ぎない。

 このような状態になるに及び、党内の反対派は7.1日付けで遂に党の内外に公然とアピールを発した。千代田地区細胞(森田・栗原・津田・池山・深沢ら)が、綱領問題に関する意見を「日本人民と党の未来のために」の声明につけて発表した。7.8日、春日(庄)は離党届けを出し、同日夜記者団に、綱領草案の基本的な誤りだけでなく、反対派代議員の選出の組織的排除や反対意見書の発表の一方的中止措置などの措置によって、党内民主主義が踏みにじられ、原則的な党内闘争による改善の見込みはなくなったとする離党声明を公表した。

 7.15日、山田・西川・亀山・内藤・内野・原の中央少数派が連名で、14日付けの「党の危機に際して全党の同志に訴う」声明を発表した。大会を前にして現職の統制監査委議長が離党し、中央委員グループが公然と中央批判したことは前代未聞であった。7.19日「新日本文学会」の党員作家・評論家グループは、中央委員会あてに、「中央は綱領草案の民主的討議を妨げたから、大会を延期せよ」とする意見書を提出した。安部公房・大西巨人・岡本・栗原・国分・小林祥・小林勝・佐多・竹内・菅原・野間・針生一郎・檜山・花田の14名が連名していた。中野は意見書を勧めながら、連名しなかった。

 7.20日、党中央は、「第18中総」で春日・山田六左衛門等7名を除名にし、この前後多数の地方機関役員その他を処分した。反対派への大々的カンパニアが展開された。7.22日新たに泉・丹原・黒田・武井・玉井・中野秀人・浜田・広末・柾木の9名を加え、国分・佐多の2名を除いた「新日本文学会」の党員グループ21名連署で党の内外に宮本派指導部非難のアピールを発した。「今日の党の危機は、中央委員会幹部会を牛耳る宮本・袴田・松島らによる党の私物化がもたらしたものである」として、彼ら派閥指導部の指導の誤りと独裁的支配、規約の蹂躙と党組織の破壊の事実を挙げ、言葉激しく非難した。7.23日野田・増田・山本・芝・西尾・武井ら6名の旧東京都委員会グループが、「派閥的官僚主義者の党内民主主義破壊に対する抗議」と題する声明を発表した。7.24日増田・片山等が連署で離党声明を公表した。山田も。各地方の反対派の離党声明や中央攻撃声明など続々と発表された。大会を前にして党主流の派閥支配に対する怒りと不満が爆発して党の分裂状況が生まれた。

 これに対して、党中央は、7.9日アカハタで幹部会声明と同日の野坂談話、7.10日アカハタで野坂が、「春日(庄)の反党的裏切り行為について」、7.17日「党破壊分子の新たな挑発について」で応戦した。その後は、全国各級機関にわたって、「反党的行為、裏切り分子、分派主義者、党破壊の策謀、修正主義者、悪質日和見主義」等々の大々的非難攻撃キャンペーンを開始した。この一連の過程で宮本氏の秘書グループの暗躍があったとされている。7.20日「第18中総」。党中央は春日ら7名の除名を規約を無視して決定した。この時、波多は綱領草案に対する反対意見を、神山は保留の態度をそれぞれ撤回した。党中央は、7.24日武井、9.2日大西、9.6日針生・安部らを除名。大会までに発表された被処分者は、除名28名.党員権制限9名で、被除名者には中央委員7名、中央部員2名、元都委員8名、県委員1名、理論家及び編集者グループ10名が含まれていた。その他地方組織において、府県委員以下の離党又は処分が大量に見られた。

 以上の経過を経て第8回党大会が開かれることになる。このたびの党創立77周年記念講話で、不破委員長が満場一致で現綱領が採択されたと自画自賛したお気に入りの大会であるが、以下これを俯瞰してみることにする。7.25−31日、日本共産党第8回党大会が開かれた。審査を通過した798名の代議員。規約にある2年に1回という規定に反して、前大会から3年目であった。神山・中野の2中央委員と統制監査委員の松本惣は、病気の中委候補間瀬場とともに、どこからも代議員に選出されなかったため、決議権をもたない評議員の資格で出席を許された。大会の眼目は、新綱領の採択にあった。大会では、綱領・政治報告などを討議した。「春日庄次郎一派の反党的、反階級的裏切り行為の粉砕にかんする決議」を全員一致で採択した。反対派が全部排除されたため議案は全て全員一致で採択された。中央役員の選出は、中委原案通りにしゃんしゃんの全員一致で決定した。反党的潮流を日和見主義として全面的に批判し、綱領とそれに基づく政治報告を決議した。数十万の大衆的前衛党建設の目標を提起。党勢拡大と思想教育活動の総合2カ年計画を全党的につくり、取り組むことを決定した。

 万一綱領反対者が発言しないかと恐れた中央は、大会運営の厳重な統制をはかり、大会発言者には全て事前に発言の要旨を文書で提出させ、綿密に審査した後大会幹部団の指名によって発言を許可するということにした。野坂の政治報告・宮本の綱領草案報告は、拍手又拍手の中で行なわれ、それらの討論は中央に忠誠を誓う儀式とかわりなかった。その後の大会討議においては、反対意見は姿を消し、綱領草案についてもこれの実践的検証を誓う没理論的発言か、草案反対派との闘争を手柄話にするお茶坊主発言が相次いだ。神山・中野・波多らは綱領草案支持を表明し、かつて反独占社会主義革命を主張した中西・鈴木らも自己批判して草案支持を明らかにした。志賀は、会期中発言らしい発言を一度もしなかった。こうして議案は綱領以下全て全員一致で採択された。このことを党史では次のように言う。概要「(大会が採択した綱領は、)党内民主主義が完全に保障されているもとで4年間にわたって全党的に討論を尽くし党の英知を傾けて創造された、日本人民解放の科学的な指針である」、「日本革命の正しい路線を歪め、党と労働者階級を米日反動に対する革命闘争からそらせようとする各種の日和見主義、右翼社会民主主義、トロッキズムなどとの激しい闘いによって、一層磨きをかけられたものであった」(日本共産党の65年)。

 7.31日の役員選挙は、無記名連記で行われた。新中央の大幅増員。中委は31名から60名。中委候補は6名から35名。統制監査委は7名から8名。新中央には、党勢拡大その他主流に忠実だった都道府県委員長・委員クラスが大量に登用された。前大会で責を問われて中委の候補者リストから外されていた旧所感派の悔い改め派・紺野ら数名が中央委員に復活した。神山・中野はかろうじて中委に入れられた。波多や神奈川県委員長として党勢拡大に好成績をあげた中西功などは中央に入れられなかった。

 大会最終日の31日と8.2日の二日間「第1回中総」を開いて、中委議長野坂・書記長宮本、中委幹部会員として野坂・宮本・袴田・志賀・春日正・蔵原・聴濤・松島・鈴木が、書記局員として宮本・袴田・松島・米原・伊井・安斎・紺野・土岐・平葦・高原の10名を選出した。野坂・志賀は実質上棚上げされた。これに代わって宮本・袴田という戦前の党の最終中央コンビが指導権を握り、その周辺に宮本忠誠派の松島・きくなみらが配置された。こうして宮本盤石体制が確立した。

 この当時の党の〈世界情勢に対する認識〉について。

 「アメリカ帝国主義は、世界における侵略と反動の主柱、最大の国際的搾取者、国際的憲兵、世界各国人民の共通の敵となっている」と認識した上で、「アメリカを先頭とする帝国主義に反対する民族解放と平和の国際的統一戦線を、世界の反帝民主勢力の当面の基本任務」として提起した。〈国内情勢に対する認識〉について。 国家の独立をめぐっての「従属」規定が引き続き採用され、51年綱領の「植民地.従属国」から「高度の資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義に半ば占領された事実上の従属国」と規定した。ここから日本を基本的に支配する者は、「アメリカ帝国主義とそれに従属して同盟関係にある日本の独占資本勢力との二つである」とする「二つの敵論」を一層明確に導き出していた。当面の革命は、「民族の完全独立と民主主義擁護の為の人民民主主義革命である」とし、これを社会主義革命に急速に発展させるべきだとするいわゆる2段階革命の戦略方針をとった。基本的に旧党章草案と同じであったが、旧党章草案時の「平和・民主・独立」と順位が替えられて「独立・民主・平和・中立」なるスローガンとなった。

 〈党の機関運営〉について。

 規約改正は反動的に改悪された。党大会の召集の延期、下級組織の委員の移動と配置、地方における中委の代表機関の設置、党員の多い工場や経営の危機に対する中委指導に必要な措置これら全てが新たに中央委員会で出来るようになった。中央の権限強化だけでなく、幹部会は必要な場合常任幹部会を置くことが出来、幹部会は中央統制監査委員会に出席することが出来るようになって、今や中委−幹部会−常任幹部会と、少数独裁制への移行の保証が与えられるに至った。他方、規律違反で審議中の者は6ヶ月の枠で党員権利を停止されることとなった。鉄の規律や一枚岩の団結が強調された。こうして次第次第に執行部独裁化方向へ規約の改正がなされていくことになった。この辺りの規約改正経過について、現党員はどのようにご納得されているのだろう。ちなみに、イギリス共産党は、58年の第25回大会で「党内民主主義について」という文書を発表しており、ここでは次のように語られている。「党大会の討論の際には、各支部の内部ばかりでなく、さらに党機関誌の紙上でも相争う見解が自由に発表され無ければならないということ、党大会前の討論には、我々の機関紙誌はこれまでよりもずっと大きな紙面をさく必要があるということを、疑問の余地のないこととして承認し、明瞭に言明しなければならない。」、「大会前の討論の時期には、可能な限り広範な討論が開かれ、党機関紙誌は全ての見解と提案に目立った場所を与える義務があり、各支部は、大会日程に関する決議の中で、自分の政治的見解を述べる権利がある」。日本共産党は自主独立であるから、イギリス共産党が何を言おうと関知しないとでも言うのだろうか。


考察その三、(H)第6期(61年)(1999.12.21日)

 第6期(61年)【マル学同系全学連の確立と新潮流形成期】

 この期の特徴は、三派(社学同・マル学同・民青同)に分裂した全学連内の分裂の動きが止められず、全学連執行部と反執行部が非和解的に対立し始めたことに認められる。ブント−社学同指導部の多くがマル学同に移動したことから、全学連執行部はマル学同が掌握することになった。これに対し、民青同は全自連を通じて自前の全学連創出に向かう事になった。他方、ブント−社学同残留組と革共同関西派と新たに生まれた社青同派と構造改革派が新潮流を形成していくことになった。年末には社学同残留組と社青同派と構造改革派による三派連合が結成された。こうして「全学連三国志」の世界へと突き進んでいくことになる。

 60年後半期から61年の3月にかけて、党の構造改革派の動きに連動した新グループが生み出されることになった。民青同系の指導幹部黒羽純久全自連議長・田村・等等力らが「現代学生運動研究会」を組織し、3月に「現代の学生運動」なる書を公刊した。ここでは、学生運動を「反独占統一戦線」の一翼として位置づけ、構造改革路線に基づく独自の政治方針を掲げていた。なお、この間のブント的運動の評価に関する対立もあった。党中央は、「トロッキストは、その最大の目的が社会主義国の転覆と各国のマルクス・レーニン主義党−共産党の破壊にある。文字通りの反革命挑発者集団であり、また当然にわが国の民主運動の挑発的攪乱者である。彼らの極左的言動は彼らの本質を隠蔽するものに過ぎない。従って、トロッキストは民主運動から一掃さるべきであり、その政治的思想的粉砕は我が党だけでなく、民主運動全体の任務である」(日本共産党第7回党大会.14中総決議)と規定していた。が、黒羽らは、「トロッキストは、いわば共産党の『鬼子』」であり、「すなわち彼らの大部分は、共産党内部から共産党に愛想をつかし、あるいは『善意』と『革命的良心』をもって分かれていったのである」(現代学生運動研究会編「現代の学生運動」)として、むしろ共産党の指導の誤りこそトロッキストを生みだした根源であると云う立場をとった。つまり、「60年安保闘争」における党中央の指針に疑義を表明し、ブント全学連急進主義派の戦闘的闘いを好意的に評価し対立したということである。これを党から見れば、左派系トロッキスト学生追いだしの後今また構造改革派学生からの反乱を受けることとなり、いそがしいことであった。いずれも指導部の造反であったことが注目される。この後党と民青同は、構造改革派に握られた全自連の指導権回復に乗り出していくことになる。

 4.5日、全学連第27回中央委員会が開かれた。この会議は唐牛ら5名の中執によって準備され、彼らの自己批判的総括とともに、篠原社学同委員長から、「ブント−社学同の解体」が確認され、「マル学同−革共同全国委への結集」が宣言された。こうしてマル学同はブントからの組織的流入によって飛躍的に拡大し、一挙に1千余名に増大することになった。これによって、全学連指導部はマル学同が主導権を握るに至った。社学同委員長篠原は、当時の早稲田大学新聞紙上で「共産主義者同盟(ブント)の破産という中で、やはり革共同全国委員会というものが我々の問題として出てきているし、そういったものに結集する方向に社学同を指導するし、共産主義者同盟に指導されていたという社学同というのは解体して、全国委員会の指導のもとにある活動家組織としてのマル学同に個人的にはなるべくすみやかに現実の闘争の中で吸収されていくという方向を、僕は指導して生きたいと思っているんですね」とある。ただし、マル学同下の全学連の動きは、ポスト安保であったことと、ブント全学連的華やかさがなかったせいによってか諸闘争に取り組むも数百名規模の結集しか出来ぬまま低迷していくことになった。その中にあって、6.6日3000名が政暴法粉砕の決起大会に結集。6.15日「6.15日一周年記念総決起集会」に3000名結集。

 三分裂したブントの一部が革共同系に流れていった。この様子を見ておくことにする。2月戦旗派(労対派)は、革命的戦旗派を経て、革共同全国委のオルグを受け入れ、大部分が革共同全国委へ向かった。4.20日組織を解散させての合同決議を行ない正式に合同した。田川和夫グループはこの流れである(田川氏は、後の革共同全国委分裂の際には中核派に流れ、さらに後の対革マル戦争の路線対立時に中核派からも離党することになる)。革通派は、池田内閣打倒闘争の中で破産を向かえた。この派からの移行は記されていないので不明。プロ通派も戦旗派に遅れて解散を決議し、有力指導者ら一部が合流した。ちなみにプロ通派から革共同に移行したメンバーには現在も中核派最高指導部に籍を置く清水丈夫氏、北小路敏などがいた。「北小路・清水ら旧プロレタリア通信派は、マル学同からまだ自己批判が足らぬとされ、北小路は全学連書記長を解任された。彼らはその後遅れてマル学同へ加盟する」とある。プロ通派の林紘義一派が独立して「共産主義の旗派」を結成するなど、こうしてブントは四分五裂の様相を呈することとなった。こうして社学同からマル学同への組織的移動がなされ、結局ブント−社学同は結成後二年余で崩壊してしまった。この時期までのブントを「第一次ブント」と呼ぶ。

 ここで、ブントの解体の要因について考察しておきたいことがある。元々ブントと革共同の間には、深遠なる融和しがたい相違があったものと思われるが、史実は雪崩をうつかの如く革共同への移行がなされた。これは、結成間もなく「60年安保闘争」に突入していかざるをえなかったという党派形成期間の短さによるブントの理論的未熟さにあったものと思われる。「60年安保闘争」の渦中でそれを島−生田指導部にねだるのは酷かもしれないとも思う。私見は、ブントと革共同の間には単に運動論・組織論・革命論を越えた世界観上の認識の相違があったように捉えている。言うなれば、「この世をカオス的に観るのか、ロゴス的に観るのか」という最も基本的なところの相容れざる相違であり、ブントはカオス派であり革共同はロゴス派的であろうとより一層組織形成しつつあったのではなかったのか。この両極の対立は、人類が頭脳を駆使し始めて以来発生しているものであり、私は解けないが故に気質として了解しようとしている。

 実際、この両極の対立は、日常の生活に於いても、政治闘争も含めたあらゆる組織形成・運動展開においてもその底流に横たわっているものではなかろうか。キリスト教的聖書にある「初めに言葉ありき」はロゴス派の宣言であり、日本の神道的「森羅万象における八百万的多神観」はカオス派のそれのように受けとめている。両者の認識はいわば極と極との関係にあり、ブントと革共同は、この相容れぬそれぞれの極を代表しており、相対立する世界観に支えられて極化した運動を目指していたのではなかったか、と思う。島氏により、この観点−ごった煮的カオス的な善し悪しさ−が、当時のブントに伝えられていなかったことを私は惜しむ。それは、「60年安保闘争」に挫折したにせよ、ブントのイデオロギーは護持されていくに値あるものと思うから。本来革共同に移行し難いそれとして併存して運動化し得るものであったと思うから。

 どちらが良いというのではない。そういう違いにあるブント思想の思想性が島氏周辺に共有できていなかったことが知らされるということである。ブントのこの己自身の思想的立場を知ろうとしない情緒的没理論性がこの後の四分五裂化につきまとうことになる。あるのは情況に対する自身の主体的な関わりであり、ヒロイズムへの純化である。このヒロイズムは、状況が劣化すればするほど先鋭的な方向へ突出していくことで自己存在を確認することになり、誇示し合うことになる。惜しむらくは……というのが私の感慨である。

 全自連は、3.16−19日、「4全代」を開き、新学期闘争の体制を固めた。5月頃政治的暴力行為防止法案(政防法)が国会に上程された。右翼テロを口実として暴力行為を取り締まる名目で団体規制を強化しようとするものだった。5.21日全自連は「非常事態宣言」を発し、5.31日統一行動を設定し、東大教養をはじめ多くの大学でストライキを決行させている。遂に法案は継続審議に追い込まれ、その後廃案になった。マル学同全学連も既述したように取り組んではいるが、昔日の面影を無くしていた。その他潮流はこの期間中も分派抗争の最中にあったようである。

 恒例の全学連大会の時期を迎えて、マル学同と反マル学同が思惑を絡めていくことになった。7.6日マル学同の全国大会。全自連も、7.6−7日「7全代」を開催し、大会への参加条件について、@.平等無条件参加、A.権利停止処分撤回、B.大会の民主的運営の3項目を決議した。マル学同に移行しなかった旧ブント−社学同と革共同関西派と社青同は、マル学同のイデオロギー的、セクト主義的な学生運動に反発しており、反マル学同で意見の一致を見て、大会前夜に飯田橋のつるや旅館で対策を講じた。これをつるや連合と言う。各派とも全学連の主導権を狙って画策したということであろう。マル学同は、反対派を暴力的に閉め出す動きに出た。全自連に対しては、自治会費の未納を理由に全学連から完全に排除し、つるや連合に対しては代議員の数を削減したりして対応したようで、マル学同派による指導部独裁体制を企図した。この手法は前々回、前回の全学連大会より既に見られているので、このやり方だけを見てマル学同を批判することは不当かも知れないが、こうした暴力的手法の常習癖が革共同全国委系にあることはこの後の経過によっても窺い知れることになる。この当時一等秀でた理論的優位性を保持していた革共同全国委系の惜しむべき裏面と私は思っている。こうしたマル学同のやり方に反発して、つるや連合側は早朝より会場を占拠して対抗。マル学同はピケを張るつるや連合に殴りかかったがらちがあかず、角材を調達して武装し襲った。こうして会場を奪還したが、これが学生運動上の内部抗争で初めて武器が登場した瞬間であった。この角材ゲバルト使用を指揮したのが清水丈夫全学連書記長であったと言われている。興味深いことは、その乱闘の最中に全自連が会場に入って来ようとすると、マル学同とつるや連合は乱闘を中止して、一緒になって全自連を追いだし、全自連が去るとまた乱闘を開始したと言う。この感覚も一体何なんだろう。この乱闘は二日間にわたって行なわれ、最終的にはマル学同以外は大会をボイコットし、それぞれが大会を開くことになった。

 全学連第17回大会はこうした状況の中で開催され、マル学同派の単独開催となった。代議員は282名と発表されている。実質は150名以下であったとも言われている。一切の他の党派を暴力的に閉め出した体制下で、大会議長を自派より選出し、議案を採決するというまさにマル学同の私物化された大会となった。大会はブント出身の北小路敏を委員長に選出し(新委員長に北海道学芸大の根本仁を選出したともある。よく分からない)、全学連規約を改正して、全学連の活動目的に前衛党の建設を学生運動の基本任務とする「反帝反スタ」路線を公然と打ち出した。つるや連合は、7.9日夜、代議員123名の連名で「我々の退場により、大会は流会したので民主的な大会の続行を要求する」旨決議した。全自連は、67大学125自治会、276名の代議員が集まり、7.10日教育大へ結集した。ところがこの時詳細は分からないが、全自連指導部は全学連第17回大会指導部と「ボス交」の結果全自連解散を為し、全学連再建協議会を結成したとのことである。恐らくこの時の指導部は構造改革派系であり、全学連の統一を切に願っていた構造改革派とマル学同派に何らかの合意が成立したものと考えられる。

 党は、第8回党大会開催後のこの頃、「民青同第6回大会、第7回大会路線」を、第8回党大会で強行決議された党綱領によって修正するよう指示し、従わない同盟幹部を排除し、民青同を共産党のスローガンをシュプレヒコールする自動連動装置(ベルト)に替えた。明らかな党による民青同の引き回しであったが、これにより民青同の党に対する盲従が惹起し青年運動に大きな桎梏となっていくことになった。第8回党大会で採択決議された党の綱領が「民族独立民主革命」を明確に戦略化させたところから、社会主義を目指す闘争は抑圧されるか後退することになった。日本における社会主義の展望、客観的必然性を青年に示し、日常の闘いと社会主義への志向とを結びつけることを拒否する傾向が強まり、社会主義について沈黙を守る雰囲気が支配的になった。これは党が民主主義的「改良・改革」を「革命」と規定するというすり替えから発生しているものと思われる。「二つの敵」を経文のように繰り返すことにより、イデオロギー活動が不燃化させられる要因となった。その結果、同盟員の理論的水準は低下し、その下部組織はサークル化傾向に沈潜していくこととなった。党中央は、なぜこうまでして社会主義意識の培養をしにくくするよう努力するのだろう、としか私には考えられない。

 8.30日、党は、主要都道府県学対部長会議を開いて、次のような指導をなしたようである。「過去二回の集団転落を生んだ当時の学生党組織の欠陥、弱点を克服して、厳密な学生内党組織の建設を進める為に」と称して、概要@.マルクス・エンゲルス・レーニンの古典と日本共産党の綱領、大会、中央委員会の諸決議の系統的学習。トロッキズム、現代修正主義のえせマルクス・レーニン主義の本質を見分ける能力を身につける学習、A.労働者的規律を重んじ、特に党費の納入、中央機関紙を読むこと、細胞会議に出席することなど、党生活の原則を確立し、党中央の諸決議を積極的に実践する、B.地区委員会の指導を強め、学生細胞は必ず地区委員会に集中する、C.学生の共産党への入党は、民青同盟の活動の中で鍛えられ、試された者を認める、D.従って強大な共産党を建設するためにまず民青同盟を拡大し、その活動を活発にし、同盟員のマルクス・レーニン主義の基礎の学習と労働者規律を強める(広谷俊二著現代日本の学生運動)。

 前年の日本共産党第8回党大会前後の経過で、「反党分子」として除名され集団離党することとなった春日(庄)ら離党組は、10.7−9日社会主義革新運動(社革)の創立総会を開いた。議長春日(庄)・事務局長内藤。それより前の9月その青年学生組織として青年学生運動革新会議(青学革新会議)を結成した(10.6日ともある)。全自連グループのうち早大・教育大・神戸大・立命館大・法政大・東大などで呼応した。第8回党大会における綱領問題と官僚指導に反対し、離党・除名された民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家を中心としていた。その背景にあったものは、宮本式の不当な干渉によって民青同を共産主義的青年同盟に発展させる可能性が無くなったという認識に基づいて、マルクス・レーニン主義の原則に立脚する青年同盟の創設の課題を提起していた。青学革新会議の特徴は、この時期党が指導していた新たな全学連の創出を画策するのではなく、ねばり強く学生運動の統一を目指していたことにあった。但し、この方針はマル学同の独善的排他性に対する認識の甘さを示しており、遂に叶えられることのない道のりとなった。青学革新会議は、この経過をさし当たりブント急進主義派と社青同との統一戦線を志向しつつ活動していくこととなった。なお、青学革新会議は、「層としての学生運動論」を採用しており、この時期一層右派的な方向に変質させられつつあった民青同に比較すれば幾分かは左派的な立場にあったといえる。ソ連核実験再開への態度の違いも見られた。なお、このグループもまたこの後春日らの統一社会主義同盟と内藤派に分裂する。青学革新会議もこの動きに連動し、春日派は翌62.5月社会主義学生戦線(フロント.東大教養、神戸大等)、内藤派の系統として63.8月日本共産青年同盟(共青.教育大等)へと続く。

 9.4−5日、マル学同は、全学連27中委を開き、ソ連核実験反対闘争の方針を決議した。10.7日マル学同系、社学同系二つの都学連大会。10.15−16日全学連28中委では、「反帝・反スタ」路線を全面に押しだし、社学同残留派をブント残党派と言いなし、これら諸派を右翼分裂主義者と決めつけ、これと絶縁することを確認した。これに対し、社学同残留派は、社青同派、構造改革派とともに12月に反マル学同の三派連合を形成した。この年の秋の自治会選挙では、マル学同系・三派連合・民青同で激しく争われたが、マル学同系・三派連合が勢力を一定伸張させた。 


考察その三、(I)第6期(62〜64年)(1999.12.24日)

 第6期(62〜64年)【全学連の三方向分裂化と民青系全学連の「再建」】

 これより62年から64年までの動きについては逐一見ていかず、流れの基本方向を追ってみることにする。却ってその方が判りやすいと思うから。原水禁運動、中ソ論争問題等について重要な問題が呈示されていると思うが長くなるので割愛し学生運動内の動きを追っていくことにした。

 この期の特徴は、正統全学連執行部をマル学同が占め、民青同は別途に全自連→平民学連経由で全学連を再建させていくことになる。これに対して、社学同再建派・社青同・構造改革派が三派連合しつつ全学連の統一を模索していくことになるも、マル学同との間に折り合いがつかず逆に緊張が高まるばかりであった。ところが、世の中まか不思議な事が起こる。マル学同に流れ込んだ旧ブント系の影響を受けたか革共同全国委内にbPの黒田氏とbQの本田氏の間に確執が発生し、いわゆる革マル派と中核派へ分裂することになる。マル学同から追い出された形になった中核派が三派連合に合流していくことになり、この流れが民青同に続いて三番手の全学連を模索していくことになった。この過程であくまで全学連の全的統一を目指した構造改革派が抜け落ち、社学同再建派・社青同・中核派の新三派連合が誕生することになる。こうして、学生運動内部にはマル学同と民青同と新三派連合系という三大潮流が生まれ、その他に構造改革派系・「日本の声−民学同」派系・革共同関西派系等々という様々な支流が立ち現れることになった。この間旧ブント系の対立は治まらず合同−再分裂と目まぐるしく推移しつつ二度と求心力を持てなかった。この間の主要な動きについて見ておくことにする。

 (62年)3月、日韓外相会談。4月、キューバ危機、8月、中ソ論争激化。
 5.25日、池田首相は、大学管理問題として「大学が赤の温床」になっているとして大学管理法の必要性を強調した。民青同系は、この大管法闘争に真っ先に取り組み、この過程で6.1日全自連崩壊の後を受けて東京学生平民共闘を正式に発足させた(平民とは「安保反対・平和と民主主義を守る」という略語)。この動きが7.14−15日「学生戦線統一のための全国発起人会議」開催へとなった。全国より70余自治会参加。「安保反対・平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」(平民学連)結成を呼び掛け、翌63年平民学連が結成されることになる。ちなみにこの時大管法闘争を重視したのは民青同系と構造改革派系だけであり、いわゆるトロ系急進主義者は闘争課題に設定していなかったようである。

 7月、反マル学同で一致した社学同再建派、社青同、構造改革派の三派が連合して「全自代」を開催した。かれらは全学連再建を呼号し続けたが、折からの大管法に取り組むのかどうかをめぐっての運動方針食い違いが発生し最終的に暴力的な分裂に発展した。ブントは「憲法公聴会阻止」闘争一本槍を主張し、構造改革派が大管法闘争への取り組みを主張した。ブントが武装部隊を会場に導入して、構造改革派派を叩き出してしまった。こうして、連合したばかりの三派連合は空中分解した。この動きから判ることは、ブントの組織論における致命的な欠陥性である。一体全体ブント系は、「60年安保闘争」総括後空中分解したまま今に至るも四分五裂をますます深め統合能力を持たない。意見・見解・指針の違いが分党化せねばならないとでも勘違いしている風があり、恐らく「お山の大将」式に星の数ほど党派を作りたいのだろう。なお、意見の相違については、ゲバルトによって決着させたいようでもある。しかし、残念ながら少数派閥化することにより、このゲバルトにおいてもマル学同に対して歯が立たなくなってしまったのは致しかたない。

 私見に拠れば、キャンパス内における反対派封殺がなぜ犯罪的であるかというと、既述したようにも思うが、右翼・宗教運動家らの跋扈には無頓着でありつつ左翼意識の持ち主がテロられる事により、結果として左翼運動が縊死することになるからである。大体において学生内の左派系意識の持主は全体の2割もいれば良い方であり、この2割内で叩き合いをすることにより貴重な人士の輩出が制限されることに無頓着過ぎるのがケシカラナイと思う。これも既述したが、元々ブントは、カオス的世界観を基調にして運動の急進主義を主導的に担ってきたという経過がある。「60年安保闘争」の領導には、反対派の存在は許されるどころかそれらを前提としつつ主体的な自派の運動を創出していくことにより圧倒的な支持を獲得してきたという自信が漲っていたのではなかったのか。この前提を許容しえなくなったブントはもはやブントではなく、大衆から見放されるばかりの余命幾ばくかの道へ自ら転落していくことになったとしても致しかたなかろう。この経過もおいおいに見ていくつもりだ。

 この年夏の世界青年学生平和友好祭日本実行委員会で、共産党の指示に基づいて民青同の代表は、この間まで運動を一緒に担っていた構造改革派系青学革新会議の参加を排除した。思想・信条・政党・党派のいかんにかかわりなく、平和友好祭は元々平和と友好のスローガンの下に幅広く青年を結集する友好祭運動であったが、理由がふるっている。革新会議はファシスト団体であると言って参加を拒否したのである。昨日まで一緒に「平和と民主主義」の旗印を掲げて闘っていた旧同志たちを、反代々木化したからという理由しか考えられないが、反代々木=反共=ファシズムという三段論法によりファシスト視したのである。これを「前時代的な硬直した思考図式」といって批判する者もいるが、私には、宮本氏の「芥川論」考察で明示したように、氏の典型的な近親憎悪的気質による「排除の強権論理」の現れとしてしか考えられない。この論理は日本左翼(よその国ではどうなのかが分からないのでとりあえずこう書くことにする)の宿弊と私は考えている。いずれにせよ、この平和友好祭には自民党系の青年運動も参加していたようであるから、宮本式統一戦線論に隠されている反動的本質がここでも見て取れるであろう。このことは、第8回原水禁世界大会をめぐっての社青同に対する度を超した非難攻撃にもあらわれている。労働組合運動にせよ、青年運動にせよ組織的自主性を保障することは、党の指導原則であるべきことではあるが、何気ない普段の時には守られるものの一朝事ある時はかなぐり捨てられるという経過を見て取ることが出来る。先のカオス・ロゴス観で仕訳すると、宮本氏の場合にはロゴス派の系流であり且つ統制フェチという特徴づけが相応しい。

 10月、中央教育審議会が大管法答申を出してくるなど一段と現実味を増すことになった。これを受けて、この時平民学連は、大管法闘争に大々的に取り組んでいくことを指針にした。11.13日平民学連結成に向けての「全国地方ブロック代表者会議」を開催した。そこで、民青同系105自治会。三派連合86自治会、マル学同51自治会という勢力分布が発表された。占有率40%ということになる。63年中の全学連再建方針を決議した。1ヶ月半後に再び代表者会議が開かれ、民青同系175自治会、反民青同系120自治会と発表した。占有率60%ということになる。この間の自治会選挙で民青同系の進出がなされたということになる。11.17日「大学管理制度改悪粉砕全国統一行動」を決定し、当日は東京3000名、全国7地区で集会、抗議デモを展開した。

 こうした大管闘争の盛り上がりを見て、三派連合も、更に遅れてマル学同もこの闘争に参入してくることとなった。11.30日マル学同も含めた四派連合が形成され、約4000名の集会が持たれた。この四派連合に対して、「民主運動の前進しているところには、『なんでも』『どこでも』介入して行き、それまでの自分たちの『論理』も『道筋』も意に介しないトロッキスト各派の無節操ぶりを示してあまりあった」(川上徹「学生運動」)と揶揄されている。

 大管闘争に取り組む姿勢の違いの背景に、民青同系といわゆるトロ系には「大学の自治」に関する観点の相違があることがこの後次第にはっきりしていくことになる。分かりやすく言えば、民青同系は学園民主化闘争を重視し、トロ系はこれを軽視するというよりは欺瞞体制とみなし権力機構一般と同じく打破の対象としていくというぐらいに真反対の立場に立つ。この後この差が次第次第に拡幅していくことになる。この問題もまた左翼運動内の未解明な理論的分野であり、相互に感情的に反発し合うだけで今日に至っているように思われる。この情緒性がたまらなく日本的と言えるように思う。

 この四派連合の直後マル学同内部で対立が発生する。この四派連合結成をめぐって、マル学同が三派との統一戦線闘争を組んだことの是非をめぐって論争が激化していくことになった。全学連委員長根本仁は四派連合結成を良しとせず、これを押し進めた書記長小野田と対立していくこととなった。前者は後者を「大衆運動主義」と非難し、後者は前者を「セクト主義」と非難した。マル学同内部のこの対立は以降抜き差しならないところまで尾を引いていくことになった。

 (63年)「中ソ論争」の公然化。11.22日ケネディー暗殺される。
 4.1−2日、革共同全国委に分裂が発生し、中核派と革マル派が誕生することになった。これを革共同の第三次分裂と言う。この分裂の直接の契機は、前年の62.9月の「第3回革共同全国委総会」(三全総)時点での革共同全国委の中心人物であった黒田氏と本多氏の間の抜き差しならない意見対立にあり、四派連合問題もまたこの延長線上で発生したものであった。つまり、革共同全国委内の黒田派と本多派の論争・抗争がマル学同内部にも波及していった結果として四派連合問題をも発生させ、これが導火線となって革共同の第三次分裂がもたらされたという経過になる。この抗争は次のように決着することになる。革共同全国委の政治局内部では本多派が多数を占め、黒田派についたのは現在JR東労組で活動している倉川篤(松崎明)氏と森茂氏らの少数であった。こうして黒田派は、革共同全国委から出ていくことになり、新たに革共同・革命的マルクス主義派(革マル派)を結成することになった。これが革マル派の誕生である。こうしてマル学同の上部指導組織の革共同全国委で路線対立が起きた訳だから、当然の事ながらマル学同内部にも対立が波及していくことになった。しかし、マル学同では逆の現象が起き、革共同全国委では少数派だった黒田派はマル学同ではむしろ圧倒的多数派であった。こうしてマル学同内部では革マル派が優勢を保ったため、本多派の方がマル学同全学連から追われ飛び出していくこととなった。本多派は以降新たにマル学同中核派を結成することになった。こうしてマル学同の学生組織も革マル派と中核派に分裂することとなった。この時期中核派は全学連学生運動内に「浮いた状態」になった。これより以後は、革マル派が正統全学連の旗を独占し続け、早稲田大学を拠点に革マル派全学連として存在を誇示し続けていくことになる。

 この対立の背景には次のような観点の相違が介在していた。「革共同の中にも実践派と書斎−評論派との対立があり、それが後の中核派と革マル派との対立になっていったとのこと」(戦後史の証言ブント.古賀)である。大衆運動の進め方にも大きな観点の相違が存在していた。中核派は、大量に移入してきたブントの影響に拠ったものか元々のトップリーダー本田氏の気質としてあったものか分からないが、他党派と共闘する中で競合的に指導性を獲得していこうとして運動の盛り揚げの相乗効果を重視しようとしていた。議会闘争にも取り組む姿勢を見せる。黒田氏の主体性論に基づく「他党派解体路線」は大衆蔑視のプチブル的主体性であり、「セクト主義、理論フェチ、日和見主義」であると言う。これに対し、革マル派は、中核派は黒田理論の生命線とも云うべき主体性論を欠いた「大衆追随主義、過激主義」であると言う。例えば、この時期マル学同は他党派の集会に押し掛け攪乱する等の行動が見られたが、これは他党派は理論的に克服されるべき批判の対象であり、常に自派の質量的発展こそが正道であるとする「黒田理論」的観点からなされているものであった。革マル派にとっては、この「他党派解体路線」は理論の原則性として革命的主体理論と不即不離の関係にあり、曲げてはならない運動上の絶対基準原則であり、共闘による「水膨れ」は邪道でしかないと言う。運動論のこうした相違は当然組織論についても食い違いを見せることになる。情勢分析についても観点の相違が存在していた。中核派は革マル派に対して、「危機でないと論証力説して帝国主義と戦わない日和見主義」といい、革マル派は、中核派に対して、「主観的、信念に基づく危機感のあおり立て」と言う。もう一つの対立視点についても述べておく。両派とも綱領路線として「反帝・反スタ主義」を掲げるが、両派とも「反帝・反スタ」の比重について同時的に達成されねばならないとはするものの、幾分か中核派は帝国主義主要打撃論=反帝論より重視に近く、革マル派はスターリニスト主要打撃論=反スタより重視に近いという立場の違いがあったようである。この両派の対立の背景に、民青同系平民学連の進出に対する対応の仕方の違いも関係していたとの見方もある。中核派の小野田らは、これに対処するには三派との協調が必要と主張し、革マル派の根本らは、如何なる理由付けにせよ他党派との理論闘争を疎かにするような妥協を排し、断固思想闘争を展開することの必要性を強調した。

 これらの主張は、私には、どちらが正しいとかを決定することが不能な気質の違いのようなものではないかと思える。先のカオス・ロゴス識別に従えば、中核派はカオス派の立場に立っており、その意味では大量移入したブントの影響がもたらしたものとも考えられる。つまり、ブントが革共同全国委から中核派を引き連れて先祖帰りしたとみなすことが出来るかもしれない。実際に、中核派の以降の動きを見れば旧ブント的行動と理論を展開していくことになる。こうなると党の建設方針から労働運動戦術から何から何まで対立していくことになるのも不思議ではない。してみれば、革マル派の方が革共同の正統の流れを引き継いでおり、この間のブントの移入と中核派としての分離の過程は肌触りの違う者が結局出ていったということになるようである。

 7.16−18日、民青同系全学連の先駆的形態として、平民学連が結成された。この大会には、全学連規約に準じて代議員が各自治会から選出された。72大学、121自治会、230名の代議員参加、傍聴者3500名を越えた。平民学連が重視したのは、自治会に関する次のような規約遵守基準を明確にしていたことにある。@.自治会は学生のあらゆる民主的要求を汲み上げ実現すること、自治会はみんなのもの、みんなの利益を守るもの、という観点の明確化。A.民主勢力との統一強化。安保共闘会議に結集し、人民の利益の中でこそ学生の利益が守られることを明確にすること。B.国際学連と共に反帝平和の国際統一戦線としての一翼として、全世界学生との連帯強化。C.自治会の民主的運営を徹底的に保障すること。この立場を貫くためには、学生の分裂を主な目的にした分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する闘いが必要である。

 私は、この主張における「自治会の民主的運営を徹底的に保障すること」を支持する。ただし、この項目が「学生の分裂を主な目的にした分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する闘いが必要である」と結びつけられることには同意しない。この主張はセクト的な立場の表明であり、その意味ではこの文章が接続されることにより「自治会の民主的運営の保障」はマヌーバーに転化せしめられていることになる。そういうセクト的対応ではなくて、「組織の民主的運営と執行部権限」理論の解明は今なお重大な課題として突きつけられていると思われる。この部分の解明がなしえたら左翼運動は一気に華開いていくことが出来るかもしれないとも思う。

 (64年)

 7月現在時点で、平民学連に結集ないし、民主化している自治会224・マル学同27・社学同22・社青同21・構造改革派38という力関係になった。占有率67%ということになる。民青同系が急速に支持を増やしていることが知れる。平民学連は、いよいよ全学連の再建が具体的日程に上ってきている段階と位置づけた。9月初め「全学連を再建しよう」という「全国学友への呼びかけ」発表。9.8日米原潜寄港阻止、アメリカのインドシナ侵略抗議、安保共闘再開要求の総決起大会。1200名の隊列を組んで参加。10.17−18日全自代開催。正式参加自治会150,オブザーバー自治会35,その他個人オブザーバー35名が参加した。全学連再建のための基準提案が決議された。@過去のいきさつに関わらず、A無条件で、B全ての学生自治会が参加でき、C全学連規約に従って、再建大会を開催しよう。提案は、賛成128・反対14・保留4で可決された。この時反対派の様子が明らかにされていないが、構造改革派とこの頃誕生していた志賀グループの「日本の声−民学同」派の影響下の学生グループであったようである。彼らは、民青同系全学連を新たに創る方向に向かうのではなく、諸潮流との統一を主張し、急進主義者む(トロッキスト)を含めた統一を模索するべきであり、その根回しのないままの全学連再建は時期尚早であるという全学連再建時期尚早論を主張したようである。川上徹著「学生運動」では、「それは惨めな失敗に終わった」とある。

 9.7−8日、中核派・ブント・社青同は、新三派連合を結成した。だが、この新三派連合結成後まもなくブントの内部対立が生じた。特に平民学連に対抗するためにも、従来の政治闘争主義に対する自己批判が必要とする少数派(マルクス主義戦線派=マル戦派と独立社学同)とそうした観点に反発する多数派(マルクス・レーニン主義は=ML派)とに分裂して、ブントの勢力は急速に衰えていった。8.3日新三派連合は、「全学連再建準備全国学生集会」を開いた。これに先立って中核派は、都学連再建を企図したが、革マル派の妨害で失敗した。革マル派との対立を深めた中核派は7.2日夜、早大校内に於いて大乱闘事件を引き起こした。ところが、平民学連の呼びかけが出され、学生の中でそれが討論されてくるに及んで、新三派連合も革マル派も構造改革派も含めて連合して、10.19日「原潜阻止全国学生連絡会議」を結成した。この流れで全学連再建が議題に取り上げられたが、革マル派は一切の全学連再建は認めないという立場に固執し、新三派は自分たちだけでも即時全学連再建を主張した。構造改革派は、この時も諸潮流の統一を主張したようであるが、さんざん野次られた挙げ句暴力的に発言を阻止された。

 11月、第9回党大会が開催され、民主連合政府構想発表された。この大会で党は、「学生大衆との結びつきを強め、反共分裂主義者と有効に闘い、機の熟しつつある学生運動の組織的統一を成功させるように援助しなければならない」と述べ、「学生運動が、全人民的政治課題に積極的に取り組むと共に、学生の生活上、勉学上の要求、文化、スポーツなどの要求にも十分な注意を払い、広範な学生を結集しつつ民族民主統一戦線の一翼として発展するよう、努力しなければならない」と強調した。「こうして、共産党と民青同盟は、学生運動それ自体の発展のために闘いつつ、学生の多面的な要求に基づく闘いを先頭に立って進め、さらに学生が将来も民主的、進歩的インテリゲンチァとして成長していけるように、長期的観点に立った指導を学生党員、同盟員に対して行なった。また、1960年、61年のトロッキスト、修正主義者との闘いの教訓に学んで、労働者規律と理論学習を強めていった」。

 12.10−11日、民青系全学連が「再建」された。全自連→全学連再建準備協議→構造改革派の分離→平民学連→全学連の「再建」という流れで辿り着いた。この夜平民学連は第7回全国代表者会議を開き解散を決議した。こうして、革マル派全学連に続いて二つの全学連が出現することとなった。71大学129自治会から代議員276名、評議員182名。この全学連は順調に発展し、66年7月には全国の大学自治会の過半数(84大学・189自治会)を結集した。68年2月には国際学連の代表権を回復させた。「(この民主的学生運動こそ)戦前、戦後の進歩的、民主的学生運動の伝統を引き継ぐものであり、現代の学生運動の真の代表であり、かつ、祖国の独立と平和、民主主義を望む幾百千万の勤労人民の良き息子であり、娘である」(川上徹「学生運動」)とある。

 12.18−19日、ブント・中核派らが中心になって都学連再建準備大会開催。革マル派は途中退場し、構造改革派は代表を送らなかった。12.20−21日「全自代」が開かれたが、革マル派は参加せず、構造改革派と中核派が対立して散会した。中核派が全学連即時再建を強く主張したことが原因であったようである。


考察その三、補足「4.17スト」について(1999.12.25日)

 この時期64年の「4.17スト」をめぐって信じられないことが党内に生起しているので、これを見ておくことにする。スターリン批判・ハンガリー動乱・第7回党大会・60年安保闘争・第8回党大会・原水禁運動そしてこの「4.17スト」への対応・経過を通じて、「左翼」が党に対する信用失墜を確定させることになったようである。「日共」という呼称が蔑視的な意味合いで使われていくことになったのが何時の頃よりかはっきりは分からないが、こうした一連の経過の中で定着したものと思われる。戦後の獄中闘士がカリスマ的権威を持って大衆に受け入れられていたことを思えば、隔世の感がある。

 総評・公労協は大幅賃上げ要求を掲げ、4.17日全国半日ゼネストを計画していた。90万以上を結集する交通運輸共闘会議(国鉄労組を始めとする私鉄・都市交通・全自交など)を芯にして公労協・金属労協等公・民を網羅する600(250万とも)万人のゼネスト計画であった。その規模と影響力から見て47年の「2.1ゼネスト」計画に匹敵またはこれを上回る戦後空前のストとなる筈であった。4.2日総評は、決起大会的な意味を持つ第25回臨時大会を開き、最大のヤマ場を目前にして闘争態勢を堅め直した。

 この息詰まるようなせっぱ詰まった状況の中、党は、突如4.9日付アカハタ(「4.8声明」)で「奇妙な」声明文を発表する。「奇妙な」とは形式と内容においてという意味である。形式のそれは、単に「日本共産党」の名義のままの、幹部会でも中央委員会名でもない声明文を発表したという意味である。内容のそれは、「全民主勢力と団結し、挑発を排して、頑強に、ねばり強く戦い抜こう」という論文を掲載し、4.17ゼネストに対する警戒を指示したという意味である。声明文は、春闘を支持するといいつつ、「4.17半日ストの方針には『深い憂慮をしないわけにはゆきません』としていた」。その理由として、根本的にはアメリカ帝国主義と日本政府と闘うのではなく賃金一本で独占資本と対決しようとするやり方自体に誤りがあること、ついで闘争の成功に必要な全民主勢力との政治的統一行動の発展が見られないこと、労働者大衆には政治的・思想的・組織的準備が欠けていること、これに対し政府・資本家は弾圧と分裂の策略をめぐらしているから、闘争に入った労働者を政府と大資本家の弾圧・処分に身をさらせるようになること、しかもストライキ計画には、修正主義者・トロッキスト・組合内分裂主義者による挑発のにおいがあること等々が挙げられ、ここからアピールは、「総決起は危険でありその方針を再検討せよ」と提議していた。

 この声明は、ゼネストに向けて態勢の準備と確立に余念がなかった多くの組合幹部・活動家を憤激させた。総評事務局長岩井は、直ちに談話を発表し、「統一闘争の態勢を分裂させる者であり、階級政党として根本的に誤った態度である」と非難した。社会党の河上委員長は、4.17ストを断固支持するとし、共産党の態度を「労働者の気持ちを無視したやり方」と非難した。にもかかわらず、奇々怪々な党の方針は連続され、4.12日には再度アカハタ主張で、ストによる賃金闘争は全民主勢力の課題にさからっていると、賃金闘争そのものに攻撃を向けた(「共産党の『訴え』は当面の闘争の最大の武器である」)。続いて4.13日にも「4.8声明」同様単に日本共産党名義で「訴え」を発表した。「4.8声明」を説明しつつ、5項目の要求を提案しつつ、スト中止をあからさまに呼びかけた(「職場の組合幹部・社会党員・組合員大衆に訴える」)。4.14日にも同様の3度目の訴えを発表。スト闘争の笛を吹いているのはアメリカ帝国主義であり日本の売国反動であり組合内分裂主義者であるとして、スト全体を反共的謀略と挑発的ストの規定づけ一本に絞り上げ、一層強い調子でスト中止を叫ぶに至った(「労働者は反動と分裂主義者の笛に踊らされてはならない」)。

 この「奇怪な」党指導の経路と経過は今日まだ解明しえていない謎である。何らかの強力な指示と圧力があって、幹部会全体を無視し乗り越えていったことだけが確かである。この中央指示の誤りを批判し、拒否した数少ない動きに山口県党があった。「4.8声明」が出るやすぐに意見書を提出し、「訴え」を載せたアカハタ号外の配布を差し止める措置をとった。名古屋の中郵細胞は、「4.8声明」が出るや臨時総会を開いて、党の裏切りを痛烈に批判した決議を行ない、これを全国の諸団体に配布した。(「4.17ストを支持し、650万労働者の先頭に立とう−池田内閣と独占資本の手先となった日本共産党を弾劾する」)。愛知県委員会はあわてふためき、中郵細胞は正式に除名された。

 こうして、聴濤は、「このストを断行すると、政府は共産党を非合法へ追いやられる」という認識を基に「当局の挑発にのるな」と全党員にドタキャンでストップ指令を出し、4.17スト中止に向けて党員労働者を駆り立てていった。この当時既に培われてきていた宮本執行部指導下の一枚岩体制が威力を発揮し、党のほぼ全組織が一斉に中央指示の実践に突入し阻止工作に走った。東京都委員会は各地区に対し、「4.17ストに党は三段構えで望む。第一段階はスト戦術の再検討を呼びかける、第二段階は指令を拒否する、第三段階(スト突入の場合)では党員・民青同員・アカハタ読者は戦線を離脱する」という口頭指令を与えた。こうした党の動きに対して「労働者を背後から撃つ裏切り行為だ」という糾弾の声が挙げられた(4.17ストを守る出版労働者の会「日本共産党に抗議し、4.17ストを守ろう!」)。

 共産党のスト阻止行為は、池田内閣の窮地を救った。内閣としては、ゼネストの実施は池田3選はおろか当面の内閣の運命も左右しかねなかった。党のスト中止声明とスト阻止行動が救いの神となった。体制側の方でも、当面の責任者たる国鉄当局などが一転逆転して攻守に出ることになり、組合側の切り崩しに向かうことになった。公労協を始めとする総評は、党に対し「組合破壊分子」・「スト破り」という一斉攻撃を浴びせることになった。4.12日総評社会党員委員長会議は、太田・岩井以下主要単産から約30名が出席、「4.8声明は政治主義にたった誤りであり、特にスト直前に統一を乱したことは間違いである。党の決定を優先させ、組合機関の決定に従わない組合員は厳重に統制処分する。共産党が右のような態度を続ける限り、総評は重大決意をもって対決する」という方針を確認し、スト切り崩し者=党員労働者を処分していくことを決定した。党員労働者が労働組合から処分されていくという事態は、党の権威を大きく失墜させ、組合運動・大衆運動への影響力を大幅に後退させる結果となった。労働運動内部からの執拗なこういうスト切り崩しがあっては総評も戦えない。こうして、かってない混乱と内争のうちに、戦後最大を予想された大ゼネスト計画は、組合側の大勢が引き続き真剣にスト突入の意志を持ちながら、池田・太田会談によって、4.16日スト中止が決められ挫折させられることとなった。

 ストが不発となるや、党は、17日アカハタに4度目の声明を掲載し、「(スト中止は)組合運動の偉大な転換をかちとった(労働者の大勝利であり、ストを利用して組合内活動家・進歩勢力を一掃しようとする)反動と分裂主義者の策謀はくじかれた。しかし、彼らは新しい策動をもくろみ、スト中止の責任を共産党に帰してはやくも反共宣伝に乗り出している」と強調した(「あくまで、挑発、分裂とたたかい、職場の団結をかため、職場を基礎に闘争の態勢を強化しよう」)。この観点から土岐強・高原晋一・春日正一ら党幹部が党内外の雑誌に論文を発表した。

 他方、4.24日、党内に主流派指導部の思想・方針・実践の誤りを全面的に追求し、その論拠を明らかにした秘密文書(「無署名パンフ「真実を曲げることは出来ない−4.17ストに際して日本共産党指導部が果たした役割」)も現れた。文書は、「党の3声明が、党が不思議にも日本独占資本の責任については何一つ追求していないこと、奇妙にも労働者の正当な賃金要求にほとんど触れていないことで共通している」と指摘した。「日本独占にとって最大の打撃の一つとなる賃金闘争を無視することにより、党指導部は労働者の利益を裏切り日本帝国主義に協力する立場に転落した。賃金闘争・スト闘争の意義を理解できない指導者は、結局日本帝国主義に降伏し、その手先になりさがってしまう。党指導部は、4.17スト圧殺に協力することによって、日本帝国主義を強化させ、それによってアメリカ帝国主義のアジア政策補強を分担した。日本の労働戦線・民主戦線の分裂の主な原因も、指導部の反米闘争一本やりの方針押しつけにある等々、この文書は党指導部の誤りとその根源を究明していた。文書はさらに、党生活が現在レーニン主義的規範とほど遠く、真剣な自己批判と相互批判、下からの点検などによる民主的な党生活の作風は押し殺され、党内には命令主義・官僚主義・出世主義が横行するありさまだ。指導部のあせりが強まると、大言壮語の声明が乱発され、退屈な長大論文がアカハタに次々と載る」と、党内の組織批判をも舌鋒鋭く述べていた。

 4.17スト反対戦術。社会党・総評労働者の大反発をくらい、責任問題が発生することになった。この時党の最高幹部がどう対応したか。宮本と袴田はこの時中国にいた。宮本は帰国して、まず聴濤を統制違反で処分し、「あれは党の意志ではなかった。一部幹部の暴走によるもの」と公労協に詫びを入れ一件落着にしている。聴濤は、4.17スト中止指令は党の最高幹部による合議であっただけにショックを受け、翌日から党に出てこなくなり、翌年怪死を遂げている。死因は急性心機能不全と記録されている。指揮を執った高原が責任を問われず、下部党員でしかなかった聴濤克巳幹部会委員と労働組合部長竹内七郎が解任という変則処理となった。

 党が、この問題で、党の思想体質と組織体質の致命的な欠陥と弱点、加えて反動的本質を明確にした。宮本式綱領路線「二つの敵論」の本質は「二つの敵の使い分け論」であり、「二つの敵」に対決していくための論ではないということを知らしめることになった。労働運動や労働者闘争が4.17ストのような条件闘争的な改良経済闘争であれ、「60年安保闘争」のような政治闘争であれ、日本の政治体制や国家権力との直接の対決を目指して国内的課題が最大争点として沸騰しつつある場合にきまって、一つの敵アメリカ帝国主義との闘争に向かおうとさせ反米独立・民族解放の任務を第一義的に押し出してくる。ひたすらアメリカ帝国主義への闘いに収斂させ、しかも労働者の階級性抜きの人民一般的幅広闘争形態での政治闘争・反米闘争に集約させる。他方、国内の運動がアメリカ帝国主義との闘争に向かおうとした場合には、急進主義者の挑発性をなじり、穏和化路線で分裂を企図する。専ら国内的課題に目を向けさせようとして議会闘争・部分的な経済闘争の成果を語ることになる。いずれにせよ、どうやら宮本式「二つの敵論」の本質には、闘わないための使い分け方便理論ではないのかという胡散臭さがある。にもかかわらず、「中央の決定は絶対正しい。その無条件実行は又正しい」という独善的な官僚主義の押しつけと、これを拝戴する下部機関・一般党員の「中央盲従」、「服従」、「あやつり人形」化が次第次第に完成していくことになった。いつの間にか一枚岩的組織体質、上意下達運営方式を双方が誇るというサド−マゾっ気の交互関係が定着していくことになった。その「生き甲斐」が語られるが、こうなると宗教的喜びに近い。もし、このような組織が機能するとしたら、恐ろしいほどの建前・形式主義を助長すること無しにはありえない。建前・形式主義は奥の院での腐敗をはびこらせ、下っ端官僚の処世要領の上手に出来ない者から順に心身症患者を生み出していくことになるというのが古今東西組織盛衰の法則である。党に限ってこの法則から逃れていることを願う。


考察その三、(J)第7期(65〜66年)(1999.12.26日)

 第7期(65〜66年)【全学連の転回点到来】

 この期の特徴は、もはや三方向に分化した学生運動の統一機運を最終的に破産させ、学生運動が新たな出発をしていくことを明確にさせたことに認められる。新たに新三派連合が誕生したことが全学連運動の転回点となった。社青同解放派と反戦青年委員会・ベ平連が誕生したのもこの時期である。65年初頭よりの慶応大学の学費値上げ反対闘争はその後に続く私立大学系の同種紛争のハシリとなった。2月アメリカのベトナム民主共和国に対する爆撃開始による反戦闘争と日韓会談阻止闘争という政治課題が、安保闘争後の低迷していた学生運動を盛り返させていくことになった。この頃既に党派的な運動能力を獲得していたのが革マル・民青同・社学同・社青同・中核派の五派潮流であり、これらのセクトが思い思いの理論と闘争方針を引き下げて以降の運動を組織していくことになった。中でも、後者の新三派系が反戦青年委員会との統一闘争を獲得しつつ台頭を見せていくことになり、その倍加する勢いで66年末新三派連合による全学連を誕生させた。こうして自称全学連が三系統確立されることになり、それぞれが競合しつつ学生運動を担っていくという学生運動の転回点に到達するに到った。

 この頃新たに、党の中国共産党との亀裂に伴い毛沢東思想の実践を強く主張する親中共系の日共左派系グループが登場することになり、学生運動内にも影響を与えていくことになった。この間ベトナム戦争がエスカレートしていく一方で世界的に反戦闘争の気運が高まり、この影響も加わってわが国の学生運動を一層加熱させていくこととなった。

 (65年)

 この65年時点より、闘争が多方面かつ連続して行なわれていくことになる。これを追跡すれば紙数を増やすばかりとなるのでエポック的な事を経過順に見ていくことにする。なおこの年以降は、学園闘争の流れと自治会執行部争奪の動きとその関連、政治闘争の流れを区分して見た方が理解しやすいので三部構成とする。

 (学園闘争の流れ)

 1.30日慶応大学で授業料値上げ反対全学無期限スト突入(2.5日終結)。これが学費闘争の先駆けとなった。9.21日高崎経済大学で学費値上げ反対闘争。9.22日お茶の水女子大で新学生寮管理規定に反対のストライキ突入。

 (自治会執行部の争奪の動きとその関連)

 3.30日、社青同解放派が結成されている。この頃社青同学生班協議会は、東大・早大等を中心に組織を拡大していく中で中央=協会派と対立し始め、こうした内部抗争の結果日韓闘争の経過で急進主義運動が分派化し、社青同解放派が結成されたという経過となった。社青同解放派は、その後政治団体として革命的労働者協会(革労協)を結成して、傘下の学生組織として反帝学評をつくった。もともと社青同は日本社会党が60年安保闘争後に、学生パワーに目を付けて党の若返りをはかって創設されたものであるが、ここへ戦闘的な過激学生がどんどん加入してきて、社青同内部で解放派を結成したというのが史実のようである。解放派は、社青同内部で着々と勢力を伸張させ、東京地本を占拠するまでに至る。なお、第四インター系の加入戦術で解放派を離れた部分もあるが、ブント系に比しての「四分五裂」は少ない。

 4.7日、新三派連合(社青同解放派・社学同・中核派)が都学連再建準備会を結成した。呉越同舟ながら何とかして自前の第三の全学連を創出させようと企図していたということである。結成後アメリカのベトナム侵略戦争に抗議し、米大使館へ400名がデモ。新三派系は折からのベトナム反戦闘争に最も精力的に取り組んでいくことになり、この時点では動員が少ないものの次第に勢いを増していくことになる。民青同系全学連も4.22日アメリカ国務省政策企画委員長ロストゥ来日反対闘争に取り組み、羽田空港に3000名動員、抗議デモを行った。引き続いて来日したロッジに対しても連続してアメリカ大使館などに抗議行動を行った。7.8日中核派・社学同・社青同解放派の新三派連合が都学連結成。11大学・26自治会が参加していた。7月民青同系全学連第16回大会(この大会で先の再建大会を第15回大会とすることに決定した)開催。この大会では、学生の身近で切実な要求実現、学園民主化闘争を引き続き闘うこと、政治課題として10.5日の臨時国会開会へ向けて日韓条約批准阻止闘争に全力をあげて取り組んでいくことを決議した。この頃私立大学の学費値上げ反対闘争、反動的寮規則撤廃闘争も取り組まれた。79大学158自治会結集。12.8日早大で第二学生会館の管理運営権をめぐり大学当局と学生側が紛糾するという早大学会闘争発生。

 (政治闘争の流れ)

 4.24日、ベ平連(ベトナムに平和を!市民文化団体連合)が初のデモ行進。発起人は、小田実・開高健・掘田善衛・高橋和己・篠田正浩など。この頃からセクトの枠にとらわれない一般市民参加型の反戦運動が立ちあがっていくことになった。このベ平連運動は、今日から見て貴重なメッセージを発信していることが分かる。一つは、ベ平連が闘争課題を「ベトナムに平和を!」と明確にしたことにより、その後のベトナム反戦闘争の巨大なうねりを創出させる発信元となったというプロパガンダ性である。一つは、「セクトの枠にとらわれない」という運動論を創出したことである。ただし、この時点では、セクトが漸くセクト化を獲得しつつ成長していくという「『正』成長」の時期であったのでさほど評価されることなくベ平連もまたセクト的に立ち上げられていくことになったが、セクト運動が「『負』の遺産」を引きずり始めた後退期頃よりはかなり合理的な存在力を示しえたた筈の見識であったと思われる。とはいえ、ベトナム戦争が終結すると共にベ平連も終息していくことになったのが惜しいと思う。結局もう一つの側面であった先進国特有の「一般市民参加型」運動の限界ということにはなる。しかしそれならそれで今からでも改良の余地は大いにあると私は考えている。

 こうしたベ平連運動創出の頃、社会党・総評系のそれ、共産党系のそれもまた折からの日韓闘争を絡めた統一行動を組織し始め「60年安保闘争」以来の大衆運動が動き出していくこととなった。革マル派系・民青同系・新三派系それぞれも取り組みを強めていくことになった。中でも新三派系の動員力が強まり、常時3000名規模の抗議デモを獲得していくことになった。これまで数年数百名規模で推移していたことを考えれば様変わりとなった。5.20日民青同ベトナム侵略反対の統一行動。5.21日各派が「ベトナム侵略阻止・日韓会談粉砕」の統一行動。5000名結集。6.9日の社会党系の「原潜阻止・全国実行委員会」と共産党系の「安保反対中央実行委員会」の一日共闘が成立し、民青系全学連は1万名結集。新三派系昼夜で8000名が抗議デモ。6.22日日韓会談が妥結した。この日民青系全学連は6000名結集し、集会とデモを行なった。新三派系も昼夜8000名が抗議デモ、とある(革マル派系も当然取り組んでいる筈であるが手元に資料が無いので割愛する)。

 8.30日、反戦青年委員会が結成された。当時左翼戦線では日韓条約批准阻止のための運動の統一が叫ばれていたが、社会党・総評と党の間は安保闘争の分裂以来の対立が解けず、一日共闘の程度を出ない状態が続いていた。この頃ベトナム戦争が政治課題として急速に浮上し始めていた。そのような状況の中で、社会党青少年局、総評青年対策部、社青同の三者の呼びかけによって、社会党系の青年労働者組織として、すなわち「ベトナム戦争反対、日韓条約批准阻止の為の、この闘争目標に賛成する全ての青年学生組織に解放された青年の自主的共闘組織」として反戦青年委員会が結成された。反戦青年委員会は、青年労働者の中への影響という「事業」を進め、これに一定の成果を得た点で左翼運動の史実に重要な貢献をしていることが注目されて良いように思われる。反戦青年委員会には「日共」系を除くあらゆる左翼集団77の団体・個人が参加していくことになった。7月に結成されたばかりの新三派系都学連も加入していた。

 60年代の青年左翼運動は、ほとんど学生運動に限られていたが、この反戦青年委員会が結成されると急速に労働者の間に浸透していった。反戦青年委員会のその後の経過は、次第に地区・職場・学校等に結成され組織も拡大していき、それと同時に急進主義化し始め、社会党及び日本共産党を「議会主義カンパニア派」と罵倒するに至り、これらとの「熾烈な党派闘争とそれを貫徹する独自部隊の結集」が革命的左翼の任務であるとするに至り、社会党・総評の統制が及ばないことになった。これを見て「新左翼が反戦青年委員会を組織拡大の場として『わたりに舟』で食い入った」とか、「社会党が『ひさしを貸して 母屋を取られる』ことになった」とか、「『反戦青年委員会』の結成は、こうしてトロッキストの息を吹き返させたという点でも、日本の青年学生運動、民主運動の統一の発展のためにとっても、重大な禍根を残すことになった」(川上徹「学生運動」)とあるが、果たしてそのように受けとめるべきであろうか。

 こういう総括の仕方こそセクト的なそれであると思われる。むしろ、この当時盛り上がりつつあった青年運動に着目して学生のみならず青年労働者の社会的意識を培養する観点から「公党としての歴史的責任」を社会党が果たしたのであり、むしろ党及び民青同は、新しい時代の激動期を向かえつつあった際に何らの指導性を発揮しようとしなかったばかりか、社会党系が組織した反戦青年委員会運動にセクト的に敵対さえしていったというのが史実であり、このことこそ反省すべきでは無かろうか。なるほど反戦青年委員会はその後の運動の盛り上がりの中で各セクトのオルグや加入などで自立性を失い、新左翼系セクトごとの勢力に分裂し、「全国反戦」はセクトが指導する「地区反戦」へと変貌していくことになった。しかし、だから反戦青年委員会の結成を「重大な禍根を残すことになった」と総括するというのは反動的ではなかろうか。私には、「愛される社会党」の真骨頂が垣間見えるように思われる。ここまで整理して分かることは、社会党は右派・左派ごった煮の中で意外と歴史的な役割を果たしてきているということが改めて知らされるということである。

 10.5日、臨時国会開会冒頭、「日韓条約批准反対総決起集会」を開き民青同系1万人の学生が参加した。新三派系の労・学3000名が昼夜デモ。以降次第に数を増していき1〜2万名規模の闘争へと発展していく。この頃から機動隊のデモ規制が厳しくなり、デモ隊の両側をサンドイッチでジュラルミン盾を手に並進していくことになった。10.15日反戦青年委員会結成後初の全国青年総決起行動。新三派系2600名を始め、1万7700名が国会へデモ。11.5日韓条約批准阻止総決起大会。新三派系労・学1万7000名が国会包囲デモ。11.9日日韓条約強行採決の暴挙に抗議して一日共闘が実現し、18万人の大集会とデモ。民青同系1万5000名が結集した。新三派系連日万余の数で国会デモ展開。12.17日椎名訪韓実力阻止闘争。羽田空港付近で1000名が機動隊と衝突。

 (66年)

 (学園闘争の流れ) 

 1.18−20日、早大学費値上げ反対闘争が始まった。全学連加盟自治会であった第一法学部と教育学部自治会の無期限ストライキ突入。全学共闘会議(大口昭彦議長)が結成された。以後150日間全学ストライキ闘争が戦い抜かれた。これは、前年の12月に、早大理事会が教授会にも諮らず、学生が冬休みに入ってから大幅な学費値上げを発表したことに対する憤激から始まった。連日約5000名の抗議集会が開かれた。2.21日機動隊が導入され、203名の逮捕者が出た。2.22日ロック・アウト。大浜総長は退陣に追い込まれた。

 この背景は次のように考えられる。自民党政府の教育行政政策は、この時期増大し続けるベビーブーマーの大学生化に対して何ら有効な受け入れ対策をなしえず、私学へ追いやってきた。一方で戦後直後の社会的合意でもあった「大学の自治」に対するお得意の官僚的統制を進めつつあった。「アメリカさんから頂いたものは日本の風土に合わぬ」というばかりの逆行コースへシフト替えしつつあった。私学経営者は、「大量入学→マスプロ教育→設備投資→借入金増→学費値上げ→大量入学」という悪循環に陥っていくことになった。自民党政府によるこうした教育費の切りつめという反動的な大学政策の一方で、大量の国家予算を財政投融資をはじめ、軍事費政策にはどんどんと予算を投入していた。これにどのように対応していくのかが早大闘争の課題であった。民青同系は、@.教育機会均等の破壊、A.大学運営の非民主的やり方、教授会及び学生自治会の自治権に対する侵害、B.一部理事による闘争弾圧の為の機動隊導入及び国家権力の介入等への批判を組織していくことを指針させた。併せて、C.ひものつかない国庫補助の大幅増額等を要求する学園民主化闘争を指針させていた。

 社青同解放派は、資本と労働の対立という観点からの大学=教育工場論に基づき、闘争を、教育工場を経営する個別資本=早大当局と個別労働=学生の闘いであり、教授一般は労働下士官と捉えたようである。こうした「個別資本からの解放」という理論は、その後学園闘争に対するストライキ、バリケード、武装、コンミューンの樹立へと発展する理論的基礎となった。民青同は、社青同解放派のこうした理論は先鋭理論ではあるが、自民党政府の反動的貧困な大学政策に対する闘いを放棄し、免罪していると批判した。この後明大闘争を担うことになったブントは、この時の早大闘争を総括して概要「各クラスにおける闘争組織という各自治会学年別連絡協議会方式が指揮系統を混乱させ、ひいては全学共闘の機能をマヒさせた」、従って「まさしくあらゆる闘争において、まず第一に要求されるものは、(自治会ではなく)強固な中央集権的な組織の存在である」とした。この理論はやがて「ポツダム自治会破産論」を導き出していくことになった。こうした諸理論の発展が、後の全共闘運動とその大学解体論の下地をつくっていくことになった。

 1.24日、東大医学部自治会、インターン配置問題をめぐって卒業試験ボイコット闘争。これが後の東大全学部を巻き込んだ東大紛争→東大闘争に発展していくことになった。1月から3月にかけて横浜国大で学部の名称変更に反対する紛争が起こり、学生がキャンパスを占拠、教職員を排除して学生の自主管理を約1ヶ月余にわたって強行した。その自主管理下のキャンパスでは、学生自治会が編成した、自主カリキュラムによる学習が進められるという画期的な事態が発生していた。6.24日青医連・医学連、インターン制廃止統一行動。11.23日明治大学で学費値上げ反対闘争による和泉校舎封鎖発生、11.30日明大全学闘争委員会、学費値上げ阻止の大衆団交。4000名結集。12.9日中大自治会、学費値上げ反対、学生会館の学生管理・処分撤回を要求して全学スト突入。社学同の指導によって最終的に大学側に白紙撤回の要求を認めさせるという学生側が勝利を飾った。

 (自治会執行部の争奪の動きとその関連)

 この春の京大同学会自治会選挙で占拠で民青同系が執行部を掌握した。民青同系は、3月段階で82大学174自治会を押さえたと報告されている。3.28日新三派(中核派・社学同統一派・ML派・社青同)が全学連結成に向けて全国自治会代表者会議開催。9.1日、 既に昨年4月関西派は、「マル戦派」と「ML派」の一部を結合して「社学同全国委員会」(社学同統一派)を結成していたが、このような曲折ののち更にこのたび「社学同統一派」と「マル戦派」の残存部分との合同がなって、ブントは「共産同第6回全国大会」(ブント再建大会)を開催するに至った。ここに6年ぶりに組織統一をみるに至った。これが、「第二次ブント」といわれるものである。他方、「ML派」の一部は、このブントの統合に反対し、毛沢東の思想である「人民戦線路線」を党の路線とし、「帝国主義を打倒するための人民革命」を目的として、68年「日本マルクス・レーニン主義者同盟」(ML同盟)・学生部隊=学生解放戦線を結成し、「第二次ブント」とは違った方向に進むことになる。9.22日新三派系全学連再建決議。10.20日全学連再建準備会。10.24日全学連、東京・大阪・広島・札幌で紀元節復活公聴会阻止闘争。11.12日「社革新」と「日本の声」派が合同し、「共労党」結成。議長に内藤知周、書記長にいいだもも氏が選出される。

 12.17日、既に三派都学連を結成させていた新三派連合(社青同解放派・社学同・中核派)は、この頃ML派なども合流させた上で三派系全学連を結成した。これで三つ目の全学連の誕生となった。35大学71自治会・178代議員他1800名。委員長にはブントの斉藤克彦氏、書記長には中核派の秋山勝行氏、副委員長社青同解放派の高橋、社学同の蒲池氏が選出された。翌67.2.19日斉藤氏が失脚し以降中核派の秋山勝行氏が委員長に就任する。この時の議案書は次のように宣言していた。「全学連とは、結成されてより今日まで、どのような紆余曲折があれ、それは日本の闘う学生・人民の砦であった。日本労働者階級、全ての人民の闘いに全学連の旗が立たなかったことはない」、「50年のレッド・パージ阻止闘争を見よ!56年の砂川を!60年の安保を!全学連の闘いは、常に、日本労働者階級と共にあり、その先頭に立った」、「我々再建全学連は、その輝かしい闘いの歴史に恥じず、今まで以上にその闘いの方向に向かって、怒濤の如く驀進して行くだろう」(新左翼20年史67P)以降三派系全学連は最も行動的な全学連として台頭していくことになり、この過程で中核派の主導権掌握がなされていくことになった。この頃よりベトナム戦争が本格化していき、これに歩調を合わすかの如くベトナム反戦闘争に向かうことになった。

 (政治闘争の流れ)

 5.17日、反戦青年委員会、ベトナム侵略戦争反対中央総決起集会。労・学4000名が国会デモ。5.30.31−6.1日労・学1万5000名が次第に数を増しながら原潜寄港抗議行動。300名が機動隊・MPと衝突。7.1日ハノイ爆撃機抗議緊急集会。各派数千名。9.7日原潜横須賀寄港抗議闘争。新三派系1200名基地ゲート前でジグザグデモ。ベトナム戦争反対・総評ゼネスト支持中央集会に3000名。この頃各地の大学で抗議闘争発生。10.21日ベトナム戦争阻止・総評・中立労連第三次統一行動に全学連再建準備会1600名参加。


その三、(K)第8期(67年)(1999.12.28日)

 第8期(67年)【ベトナム反戦闘争と学生運動の激化】

 この時期は、ベトナム戦争が泥沼化の様相を見せ始め、今日の状況から見れば邪悪なアメリカ帝国主義とそれに抵抗するベトナム民族人民の闘いという分かりやすい正邪の構図があった。アメリカ帝国主義に対する闘いは、本国アメリカでも良心的兵役拒否闘争、ジョーン・パエズら反戦フォーク歌手の登場、キング牧師の黒人差別撤廃とべトナム反戦の結合宣言等々を含めた反戦闘争が活発化し始め、フランス・ドイツ・イギリス・イタリアの青年学生もこれに呼応し始めていた。わが国でもベ平連の集いが各地で生まれつつ次第に支持の環を増し始めていた。こうした情況と世論を背景にして、この時期これに学費値上げ反対闘争が重なることにより学生運動が一気に全国各大学の学園闘争として飛び火し始めることなった。民青同系全学連は主として学園民主化闘争を、新三派系全学連は主として反戦政治闘争を、革マル派系全学連は「それらの乗り越え闘争」を担うという特徴が見られた。特に新三派系全学連による砂川基地拡張阻止闘争・羽田闘争・佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争・王子野戦病院建設阻止闘争・三里塚空港阻止闘争等の連続政治闘争が耳目を引きつけていくことになった。この経過で、全学連急進主義派の闘争が機動隊の規制強化といたちごっこで過激化していくことになり、過激派と言われるようになった。

 (学園闘争の流れ)

 1.20日、明大学費値上げ大衆団交に1万5000名。1.22日高崎経済大、不正入学反対バリスト突入。3.12日高崎経済大全学無期限スト突入。 6.14日東京教育大、筑波移転問題をめぐりスト突入。

 (自治会執行部の争奪の動きとその関連)

 2月共労党の下に学生組織プロ学同結成。7.12日新三派系全学連定期全国大会。44大学(結成時35大学)・85自治会(結成時71自治会)・275代議員(結成時178代議員)の1500名が参加。新三派系が勢力を扶植しつつあったことが分かる。秋山委員長再選。ただし、新三派系全学連の蜜月時代はここまでであり、これ以降中核派の台頭が著しくなっていくことによってかどうか、翌68.7月中核派は自前の全学連結成大会を開催し分岐独立することになる。同月反中核派連合の社学同「統一派」、ML派、社青同解放派、第4インターなども又反帝全学連第19回全国大会を開催し、反帝全学連を発足させることになった。ところが、この反帝全学連も社学同と社青同解放派間の対立が激化し、翌69.3月社学同側が単独で大会を開催し社学同派全学連を発足。7月には社青同解放派が単独大会を開き、解放派全学連として独立することになる。解放派全学連は現在でも明治大学を拠点としている。

 こうして、革マル派は革マル派全学連を、民青同は民青同系全学連を、中核派は中核派全学連を、ブント各派は社学同全学連等を、社青同解放派が全国反帝学生評議会連合(反帝学評)及び解放派全学連を結成し、併せて5つの全学連が揃い踏みすることになるというのが67〜69年の学生運動の流れとなる。なお、社学同派全学連はわずか3ヶ月後に内部での内紛が激化し分裂していくことになる。

 従って、この当時の学生運動の流れは、大雑把に見て「五流派」と「その他系」に識別できることになる。「その他系」とは、ベ平連系、構造改革派系諸派、毛派系諸派、日本の声派民学同系、アナキスト系諸派の他ノンセクト・ラジカル等々であり、これらが混在することになる。ここで「当時の五流派その他系」の特徴付けをしておこうと思う。識別指標は様々な観点から可能である。第一に「日本共産党の指導下に有りや無しや」を指標とすれば、指導下にあるのが民青同のみであり、日本共産党の党本部のある「代々木」を指標としてこれを「代々木系」と言い、これに反発するセクトを「反代々木系」と識別することが出来る。主にブントがこの意識を強く持つ。革共同系は、左翼運動の歪曲として「日本共産党」の打倒を標榜するところから「日共」と呼び捨てにすることとなる。ただし、この分け方も「日共」の打倒を観点とする立場と、「代々木」を正確には「宮本執行部の指導下の日共」と理解し「日本共産党」の正当性系譜を争う構造改革派系諸派・毛派系諸派・民学同系とは趣が異なる。社青同解放派は社会党出身であるからまたニュアンスが異なるという風な違いがある。「代々木系」の民青同及び「元代々木系」の構造改革系派・民学同派は概ね非暴力革命的議会主義的な穏和主義路線を、それら以外の「反代々木系」は概ね暴力革命的街頭闘争的な急進主義路線を目指したという特徴がある。これによって「反代々木系急進主義派」は過激派とも呼ばれることになる。

 第二に「『トロッキズム』の影響の有りや無しや」を指標とすれば、「代々木系」・「元代々木系」・毛派系諸派らのトロッキズムの影響を受けないセクトを「既成左翼」と云い、その影響を受けた革共同系及びブント系を「新左翼」と言いなし識別することも可能である。ただし、この分け方による場合、お互いを「新・旧」とはみなさないので、「既成左翼」側が「新左翼」を評価する場合これをトロッキストと罵り、「新左翼」側が「既成左翼」を評価する場合スターリニストと雑言する関係になる。なお、毛派系は「トロッキズム」に替わるものが「毛沢東思想」であり少々ややこしくなる。「毛イズム」はスターリニスト的な系譜で暴力革命的急進主義路線を志向しており、「既成左翼」の側からは暴力革命路線でもって十把一からげでトロッキスト的に映り、「新左翼」側からはスターリニストには変わりがないということになる。社青同系の場合もこの範疇で括りにくい。「スターリニズム」・「トロッキズム」的なイデオロギーの濃いものを持たず、運動論的に見て穏和化路線を追求したのが社青同協会派であり、急進主義路線を選択したのが社青同解放派と識別することができる。その他ベ平連系はそもそも左翼運動理論に依拠しない市民運動を標榜したところから運動を起こしており、市民的抗議運動として運動展開していった風があるのでこれも括れない。

 第三に「ご本家意識の強い純血式運動路線に拘りを持つや否や」を指標とした場合には、運動の盛り上がりよりもセクト的な党派意識を優先する方が民青同・革マル派であり、その他諸セクトは闘争の盛り上げを第一義として競り合い運動を重視していったという違いがある。つまり民青同・革マル派は党派的に排他的非統一運動型であるということに共通項が認められ、これらを除いた他の諸セクトは課題別の共闘組織を組み易い統一運動可能型の党派であったという識別も可能である。なお、この仕訳とは別途のさほどセクト的な党派意識も持たず統一運動型ともなじまなかった突出型の毛派系・ブント赤軍系・アナーキスト系らも存在した。実に左翼運動もまたややこしい。

 あるいは又日本国憲法を主幹とする「『戦後民主主義』を護持しようとする意識が有りや否や」の観点を指標とする区分も出来る。概要穏和化路線に向かう党派はこれを肯定し、急進主義路線を志向する党派はこれの欺瞞性を指摘するという傾向にある。ただし、70年代半ば以降のことではあるが、超過激派と言われる日本赤軍の一部グループは護憲傾向と民族的愛国心を運動の前提になるものとして再評価しつつある点が異色ということになる。

 私には、これらの違いは理論の正当性の是非もさることながら、運動を担う者たちの今日的に生物分子学で明らかにされつつある或る種の気質の差が介在しているようにさえ思われる。理論をどう構築しようとも、理論そのものは善し悪しを語らない。理論の正しさを主張するのはあくまで「人」であって、「人」はその人の気質性向によって好みの理論を採用する。理論の当否は、理論自身が生み出す力によって規定されるとはいえ、現象的にはそれを信奉する人の量と質によって実践的に検証される、という関係にあるのではなかろうか。であるが故に、本来理論の創造性には自由な空気と非暴力的相互批判の通行が担保されねばならない、と考える。これは私の経験からも言えるが、セクト(一般に組織)には似合いの者が結集し縁無き衆生は近寄らず、近寄ったとしても離れるということが法則であり、事実あの頃私は一目で相手が何系の者であるかが分かったが、この体験からそういう気質論に拘るようになった。これは政治のみならず宗教であれ業種・会社であれ趣味であれ、有効な根底の認識となって今も信奉している。

 (政治闘争の流れ)

 2.26日、砂川基地拡張阻止青年総決起集会に労学1500名結集、機動隊と衝突。3.2日善隣会館事件。4.28日沖縄デー。労学5000名が集会とデモ。5.26−28日三派系全学連、砂川基地拡張阻止、公安条例撤廃のデモ2000名結集し、機動隊と衝突。革マル派250名独自集会。6.15日「第7回6.15記念集会」。ブント・中核派・社青同解放派・社学同ML派・革マル派・民青同・アナーキスト系各派が独自集会。6.30日全学連、佐藤訪韓阻止闘争で300名が機動隊と衝突。7.9日ベトナム侵略反対・砂川基地拡張阻止集会に労学5万人。全学連・反戦青年委員会8000名は基地正門前に座り込み。

 67.10月からの7ヶ月は、後に「激動の7ヶ月」と言われ、三派全学連の特に中核派の行動が目立った。この頃からヘルメットにタオルで覆面、角材のゲバ棒という闘争スタイルが定着した。これは65年あたりから機動隊の装備が向上し、装甲車、高圧放水車、ガス銃、防石面つきヘルメット・ジュラルミン盾などが登場していたという背景と関連していたようである。この間の機動隊によるデモ隊の「先制的並列サンドイッチ規制」がデモ隊に無力感を与え、いずれ闘争現場で乱闘することが双方明白になっていた。学生側には、機動隊のこの規制をどう打ち破り、壁を如何に突破するかという対応が課題となり、遂にこの頃から学生運動急進主義派の方もヘルメット・タオル覆面・ゲバ棒という闘争スタイルを編み出していくことになった。この闘争スタイルは、当時の法規制すれすれの自衛武装戦術であり、これを牧歌的といって了解することが適正であるかどうか疑問も残るが、この頃の警察警備隊指揮者にはこれを許容するなにがしかの思いがあり、そう言う意味では取締り側にものどかさの度量があったのかも知れない。そういう時代が許容した範囲において、秋山勝行委員長の下新三派系全学連は機動隊に突進していく闘争を展開していくことになった。これに対して、警察はこれを実地訓練と見、またどんどん逮捕して保釈金で財政的にも締め上げ弾圧していく。しかし、それでも闘争が闘争員を生みだし、新三派系全学連が急速に力を増していくことになった。中でも中核派の伸張が著しく、反代々木系の最大セクトに成長していくことになった。

 当時の佐藤栄作首相の南ベトナム訪問が発表され、三派全学連はこれを実力阻止する方針を打ち出した。ベトナム戦争の激化に伴い安保体制の下で参戦国化しつつあった佐藤政府に対する抗議を旗印に反戦青年委員会を巻き込みながら、10.8日武装した三派全学連と革マル派全学連の部隊は羽田空港へと向かった。社青同解放派900名、中核派1000名、革マル派400名がそれぞれ機動隊と激しく衝突した。この時中核派のデモに参加していた京大生山崎博昭氏が警備車両に引かれて死亡するという事件が起こった。北小路敏元全学連委員長ら58名が逮捕された。機動隊は60年安保闘争以来初めてガス弾を使用した。結果として佐藤首相は羽田を離陸したが、これが第一次羽田闘争と云われているものである。この闘いが60年安保闘争後の低迷を断ち切る合図となって新左翼運動が再び盛り上がっていくこととなった。そういう意味で、第一次羽田闘争は「革命的左翼誕生の日」として新左翼史上に銘記されることとなった。また、ヘルメット・角材などが初めて最初から闘争の武器として用意され闘われたという点でも転回点となった。「直接行動ラジカリズムの全面展開」、「組織された暴力の公然たる登場」とも言われている。この闘いを一つの境として、全学連急進主義派は自衛武装の時代からこの後街頭実力闘争へ、更に解放区−市街戦闘争へ、更に爆弾闘争へ、ハイジャックの時代へと突入していくことになる。なお、この日民青同系全学連は、形だけの代表数十人を羽田に派遣しただけだったと言われている。あいにく「赤旗祭り」が多摩湖畔で開かれていた。

 この後第二次羽田闘争、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、王子野戦病院建設阻止闘争、三里塚空港阻止闘争へと立て続けに闘争が爆発していくことになる。10.9日各大学で山崎君虐殺抗議集会とデモが行われる。キューバ革命の指導者ゲバラの処刑がボリビア政府によって発表される。10.10日空港公団、機動隊2000名を動員して三里塚空港杭打ちを実施。反対同盟1000名が阻止行動。10.17日虐殺抗議山崎君追悼中央葬に1万余名参加。秋山委員長逮捕される。10.21日ベトナム反戦統一行動。全国44都道府県で140万人参加。東京集会昼夜で6万名参加。11.3日全学連、三里塚闘争に初めて組織的に参加。沖縄で祖国復帰総決起大会、18万名参加。11.12日佐藤訪米実力阻止闘争(第二次羽田闘争)。三派全学連3000名空港付近で機動隊と激しく衝突。反戦青年委・民学同・フロントなどの構造改革派系学生も参加しデモ。


考察その三、(L)第8期(68年)(1999.12.31日)

 この頃泥沼化していたベトナム戦争が解放戦線側有利のまま最終局面を向かえてますます激化していた。68年はこのベトナム戦争を基軸にして国際情勢全体が回っていた形跡があり、その逐一の動向がわが国の学生運動にも反映していたと思われる。この背景には、青年期特有の正義感というべきか「64年11月成立した佐藤内閣のもと、ベトナム侵略への協力、加担はさらに強化された。日本は、日米安保条約の拡大解釈と運用によって兵員や武器の補給基地とされ、日本の船舶まで輸送に使われ、沖縄基地がB52爆撃機の北爆発進基地としてしばしば使われる(65年以来)など、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の、まさに前線基地にかえられ」、「日本無しにベトナム侵略は困難と云われるほど、日本はベトナム侵略の総合基地にされ」(日本共産党の65年223P)つつ引き続き高度経済成長を謳歌しつつあった社会への同意し難い感情があったものと思われる。要は儲かれば何をしても良いのかという不義に対する青年の怒りのようなものがあった、と私は捉えている。この年に限り経過を月順に追って見てみることにする。なお、この年チェコで「プラハの春」と言われた民衆闘争が勃発し、これに対し6−8月頃ソ連軍のチェコ進駐が始まったことも大きな争点になった。つまり、米ソ両大国の横暴が洋の東西で進行したことになり、国際的非難が巻き起こることになった。

 1月、南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)・北ベトナム軍が米海兵隊ケサン基地の包囲作戦を開始。アメリカ軍北爆再開。解放戦線がテト大攻勢。解放戦線兵がサイゴンで米大使館構内を一時的に占拠。南ベトナム民族民主平和連合結成。この頃チェコで「プラハの春」が本格化。2月解放戦線がサイゴンに大攻勢をかける。ケサン攻防戦激化。米機がハイフォンを爆撃。解放戦線軍第2次攻勢、サイゴンの米大使館など砲撃。ロンドン、口ーマ、西ベルリンなど世界各地で反米デモ。北爆強化される。テト攻勢開始から25日間の激戦ののち、南べトナム政府軍がフエの旧王宮を奪回。3月北ベトナム外務省、B-52の沖縄基地使用について日本政府を非難。南ベトナムのソンミで米軍による大虐殺事件おこる(報道はのち)。 ロンドンでベトナム反戦デモ、米大使館を襲う。 周恩来中国首相がソ連のベトナム援助は「ニセモノ」と非難。スウェーデン政府が米のベトナム政策を非難。4月キング牧師暗殺される。全米各地で黒人暴動続発。米コロンビア大学封鎖される。5月フランス「5月危機」はじまる。ジョンソン米大統領が北ベトナム提案を受諾しパリで予備会談を開くと発表。解放戦線が第3次攻勢を開始。パリの学生デモ激化。サイゴン地区で激戦、市街戦。 米・北ベトナム第1回準備会談。 米・北べトナム第1回パリ会談。西ベルリンの学生ゼネスト。6月ソ連戦車隊がチェコ領内に進駐。米国政府がワシントンの「貧者の行進」集会を実力で弾圧、ワシントンに非常事態宣言。米軍ケサン基地放棄を発表。7月核拡散防止条約調印。8月ベトナムの米軍54万人に達する。8.20日ソ連ワルシャワ条約機構軍チェコ侵入。ジョンソン米大統領がソ連軍のチェコ即時撤退を要求、仏・伊共産党はソ連を非難、ハノイ放送はソ連支持を示唆。人民日報が「ソ連修正主義者集団」は「社会帝国主義」に成り下がったと非難、周恩来首相はチェコ人民の抵抗を支持すると演説。 ロンドンでベトナム反戦、ビアフラ支援の大デモ。全米動員委員会が民主党大会へ反戦デモ、大量逮捕される。10月ロンドンで4万人の反戦デモ。ジョンソン米大統領が11月1日以降北ベトナムに対するいっさいの爆撃・艦砲射撃・地上砲撃を停止すると発表。11月米大統領選挙、ニクソン当選。この年、米国での兵役拒否をめぐる裁判は2427件。68年の国際情勢は以上のような流れで推移した。こういう世情がわが国の学生運動にも反映し、前例のない闘争期を現出することになった。

 第8期(68年)【全共闘運動の盛り上がり期】

 この期の特徴は、今日から振り返ってみて「68−70年学生運動」という大きな山を画しており、戦後学生闘争のエポックとなった。「60年安保闘争」で見せたブントの玉砕主義闘争以降最大の昂揚期を向かえ、いわばそのルネッサンス期となった。この時期に、急速にノンセクト・ラディカルが台頭してきた。このノンセクト・ラディカルを主勢力として反代々木系セクト8派と提携し、全共闘運動及び反戦青年委員会運動を生みだしていくことになった。

 ノンセクト・ラディカルの台頭の背景にあったものとして「団塊の世代」論が注目されている。「団塊の世代」は丁度この時期大挙して大学生になり、世界的にもベビーブーマー世代の叛乱として共時的なブームを生み出しつつあった。学生運動がこの世代に伝播するや「層としての学生」にマスが加わってパワーを発揮せしめることになり、全共闘運動を創出していくことになった。この運動の流れは日大と東大が二つの山を創り、全国規模の学園闘争として史上空前の盛り上がりで波及させていくこととなった。この流れは民青同の学園民主化闘争と敵対した。革マル派は、民青同と対立しつつ全共闘運動とも一線を画していた。全共闘は正面の敵に機動隊−国家権力を、目前に大学当局−民青同−右翼を、横脇に革マル派を抱えつつ、「60年安保闘争」を上回る「70年安保闘争」の展開を目指していくことになった。

 全共闘運動は、バリケード封鎖を伴うスト方式で全国各地に学園紛争を激化させて行った。バリケード内は解放空間と呼ばれた。この解放空間が次第に街頭へと広がっていくことになる。翌69年の東大闘争に呼応した神田−お茶の水解放区、京大闘争に呼応した東一条解放区などがその代表的例である。「カルチェラタンを!」の掛け声が至るところで聞かれていた。全共闘運動は次第に激しさを増していき、機動隊によりガス弾も使用されるに至った。学生は、これに対して、歩道の敷石を砕いて投石し、火炎ビンをも登場させた。こうした過激派運動をより詳細に見れば、一層の武闘化路線に中核派とブント系諸派・毛派諸派・アナーキスト系が進もうとしており、これに一定の歯止めをきかせていたのが革マル派・社青同解放派・構造改革派らであった。反戦青年委員会も各セクト別に分かれていくことになった。このような戦術の過激化の由来として、右翼の攻撃の修羅場をくぐってきた日大全共闘の経験、学生労働者よりはるかに過激(竹槍、糞尿、農薬)だった三里塚農民の闘いぶり、文化大革命最中の中国共産党の暴力革命礼賛的影響があったと思われる。

 このルネッサンス期の花を潰した内的要因について考察することは意味のあることであろう。なぜ「あだ花」に帰せしめられたのかを問うてみようということだ。必ず原因がある筈である。このような問題意識を脳裏に据えつつ以下考察に入る。

 (学園闘争の流れ)

 1.13日、中央大学昼間部自治会、学費値上げ反対全学スト突入。この頃医学部から発生した東大紛争が次第に全学部へ広がりを見せていくことになった。日大闘争も勃発し、この東大・日大闘争の経過が全国の学園闘争に波及していくこととなった。1.29日東京大学医学部で研修医(インターン)の無権利状態に反対し、民主化を求める改善闘争をその発端とし、この闘争過程で為された不当処分を契機に医学部学生自治会が無期限ストライキに突入。2.16日中大学費値上げ反対闘争が白紙撤回で勝利決着。3.11日東大当局が春見事件をめぐって退学4名を含む17名の医学部学生の処分発表。3.26日東大医共闘学生安田講堂占拠、卒業式の実力阻止。3.28日東大医共闘学生、登録医制・不当処分に抗議して卒業式実力阻止、300名が時計台前に座り込み。5.21日日大生3万人が大衆団交要求しデモ。5.25日白山通りで日大生5000名がデモ。5.27日、日大全学共闘会議(日大全共闘)結成。議長秋田明大。以降日大闘争激化する。体育会系右翼学生の介入と襲撃。流血・負傷が繰り返される。6.11日、 日大全共闘大衆団交。6.15日東大では医学部全共闘・医学連の学生ら数十人が安田講堂占拠。6.17日東大当局が機動隊を導入し医学部学生排除。6.18日東大全学闘争連合結成。各学部が次々にストライキに入り、東大・日大闘争激化。6.28日東洋大に機動隊導入、172名逮捕される。7.2日東大全学闘争連合が安田講堂を再占拠、封鎖する。

 7.5日、東大全学共闘会議(東大全共闘)結成、初の決起集会に3000名結集。慶応大教養学部自治会、無期限スト突入。7.16日東大全共闘、7項目要求確認。7.23日東大全共闘を支持する全学助手共闘会議結成。8.28日東大医学部の学生が医学部本館を封鎖、研究や実験が停止した。民青同との抗争激化。9.12日日大全共闘総決起集会。数万名結集。この頃東大闘争が拡大していくことになり、9.19日工・経・教育学部もストに突入。9.20日、日大全学ストに突入。9.27日東大医学部赤レンガ館を研究者が自主封鎖。民青同との対立が抜き差しならない方向で進んだ。9.30日、日大全共闘、両国講堂に3万人集まり、大学当局と10時間大衆団交。10.1日東大の理・農・法学部も無期限ストライキ突入。10.11日福島大学全学スト突入。10.12日東大全学無期限ストに突入。

 この間「大学の運営に関する臨時措置法案」(大学運営措置法)が政府から押しつけられることになった。「戦後民主主義」が獲得していた「大学の自治と学問の自由」に対する大きな制限を伴ったものであった。民青同系全学連は、「大学の自治と自由を擁護」する観点からこの新大管法との闘争を組織しつつ、他方で「政府・自民党に泳がされたトロッキスト、ニセ左翼暴力集団を孤立」させようとして全共闘運動と敵対していくことになった。11.1日東大大河内総長辞任。東大総長が任期を全うせず辞任するのは戦後初めてのことであり、東大90年の歴史にも前例がない。11.4日加藤教授総長代行就任。11.12日東大総合図書館前で全共闘と民青同学生が衝突。11.14日駒場第三・第六本館封鎖をめぐり再び全共闘と民青同学生が衝突。11.19日加藤総長代行が民青同派と公開予備折衝に入る。11.22日東大校内で東大・日大闘争勝利全国学生総決起集会。新左翼系約2万名が集結、デモ。民青同系と小競り合い。12月この頃より東大のみならず各大学で民青同・右翼グループがバリケード封鎖解除の動き強める。12.29日坂田文相、東大全学部の入試中止を決定した。

 こうして68年末から翌69年にかけて全共闘運動は決戦気運に突入して行くことになった。卒業−就職期を控えて大学当局も全共闘側も年度中に何らかの解決が計られねばならないという事情があった。こうして翌69年1月の東大時計台闘争(安田講堂攻防戦)に向けて全共闘運動はセレモニーに向かうことになった。この間新大管法の施行に伴い、中大、岡山大、広島大、早大、京大、日大等々の封鎖解除も並行的に進行した。

 この運動に民青同が如何に対置したか。この時の民青同の党指導による「オカシナ」役割を見て取ることは難しくはない。単に運動を競りあい的に対置したのではない。ただし、私は、個々の運動現場においてトロ系によりテロられた民青同の事実を加減しようとは思わない。実際には相当程度暴力行為が日常化していたと見ている。全共闘系の暴力癖は、諸セクトのそれも含めた指導部の規律指導と教育能力の欠如であり、運動に対する不真面目さであり、偏狭さであったし、一部分においては「反共的」でさえあったと思う。史上、運動主体側がこの辺りの規律を厳格にしえない闘争で成功した例はないと私は見ている。ただし、別稿で考察する予定であるが、そういう事を踏まえてもなお見過ごせない民青同による躍起とした全共闘運動つぶしがあったことも事実である。ここに宮本執行部が牛耳る党に指導され続けた民青同の反動的役割を見て取ることは難しくはない。単に運動の競りあい的に対置したのではない。「突破者」の著者キツネ目の男宮崎氏が明らかにしているあかつき行動隊は誇張でも何でもない。今日この時の闘争を指導した川上氏や宮崎氏によって、この時民青同が、「宮本氏の直接指令!」により、共産党提供資金で、全国から1万人の民青・学生を動員し、1万本の鉄パイプ、ヘルメットを用意し、いわゆる“ゲバ民”(鉄パイプ、ゲバ棒で武装したゲバルト民青)を組織し、68年から69年にかけて全国の大学で闘われた全共闘運動に対してゲバルトで対抗した史実とその論理は解明されねばならない課題として残されていると思う。それが全共闘運動をも上回る指針・信念に支えられた行動で有ればまだしも、事実は単に全共闘運動潰しであったのではないかということを私は疑惑している。先の「4.17スト」においても考察したが、宮本執行部による党運動は、平時においては運動の必要を説き、いざ実際に運動が昂揚し始めると運動の盛り揚げに党が指導力を発揮するのではなく、「左」から闘争の鎮静化に乗り出すという癖があり、この時の“ゲバ民”はその好例の史実として考察してみたいというのが私の観点となっている。

 68年の紛争校120校、うち封鎖・占拠されたもの39校。69年には、紛争校165校、うち封鎖・占拠されたもの140校となる。当時の全国の大学総数は379校であったから、その37パーセントの大学で学内にバリケードが構築されたことになる。大学当局は管理能力を失い、学生側は代々木系と反代々木系の対立、過激派各派の衝突や内ゲバも繰り返されていくことになり、全くアナーキーな状態が現出した。

 (自治会執行部の争奪の動きとその関連)

 4.3日、ブントマル戦派が共産同労働者革命派結成準備会(労革派)を発足させた。第二次ブントは66年に再建されたものの、戦旗派との対立が依然解消されておらず派閥的な対立抗争が続いていた。前年の共産同第7回大会での革命綱領をめぐる理論対立から、マル戦派は、戦旗派を「小ブル急進主義集団」と攻撃して、大会をボイコットして第二次ブントから離脱していた。この結果、関西ブントが第二次ブント統一派の指導部を握ることとなった。

 7.11日、革マル派全学連第25回大会開催。80大学・150自治会・146代議員・2000名参加。この数字が正確であるとすれば、革マル派の空前の著しい台頭が見て取れる。7.14日中核派全学連大会開催される。こうして中核派は、中核派全学連として単独大会を開催して正式に三派全学連から離脱することになった。101大学・157自治会・127代議員・1500名参加。この数字が正確であるとすれば、中核派の進出もまた凄まじいものがあったということになる。してみれば、ブント−社学同系の分立抗争ぶりとは対照的に元革共同勢が大幅に組織を伸ばしていることが分かる。

 この年度の民青系自治会数の発表が川上氏「学生運動」には記されていないので想像する以外にはないが、大きく後退を余儀なくされていたのではないかと思われる。一般に都合の良い数字は語られるが悪い方に至ると伏せられるという悪しき左翼の性癖が認められる。事実を正確に伝え、そこから工夫を大衆的に討議するという整風化がなぜなされないのだろうかと私は思う。ちなみに、この時期の民青同の活動の重点は、大学民主化闘争とこの頃より党が重視させていた革新自治体づくりの応援活動にかなりの比重を割いていたのではないかと思われる。革新自治体の流れは、67.3−4月の全国一斉地方選挙で首都東京における美濃部亮吉革新知事の誕生、68.7月参議院選挙での前進、68.11月革新系候補屋良朝苗氏の沖縄首席選挙勝利、69.7月革新都政のもとでの最初の都議選での勝利等々に見て取れる。こうした選挙戦活動の背景に、党より「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」方針が掲げられ、これに呼応しようとした民青同の活動があったものと思われるが、「日本共産党の65年」を見る限り記述が欠落させられている。これは一体どうしたことなんだろう、私には不自然不可解現象である。また最近「21世紀の早い時期に民主連合政権をつくる」という闘争方針がリバイバルしているようであるが、これも挫折すると同じように呼び掛けそのものさえ無かったことにするつもりであろうか。

 この時期中核派は、大衆運動の高揚期には組織をかけてでも闘争をやり抜くという旧ブント的方針で闘争を指導し、支持を獲得していった。この手法は勇ましく人気も出たが、一方逮捕など組織的な消耗が避けられなかった。こうした中核派の闘争指導に対して、革マル派は、大衆闘争上の現象的激動を革命的激動と取り違える妄想と批判した。革マル派は「革マル体操」と揶揄されながらも、ゲバ棒はかついでも機動隊との衝突は極力避けつつ組織温存を重視した。こうした革マル派の闘争指導に対して、中核派は、革命的組織作りはそのような真空中でつくられるのではなく、革命的激動の中で攻撃的に対応することを通じて勝ち取られるものだと批判し武闘路線に邁進した。既述したが私には、どちらの言い分が正しいと言うよりは、このやり方の方が自分にとってしっくり合うという気質の差のように思われる。

 7.19日、中核派全学連の旗揚げに抗して、反中核派連合の第二次ブント統一派−社学同、ML派、社青同解放派、第4インターなどが反帝全学連を発足させようと反帝全学連大会を開催予定したが、社青同解放派とML派が壇上を占拠し、社学同と衝突。大会は乱闘となり流産した。こうした難産の末7.21日反帝全学連第19回全国大会が開催された。79大学・131自治会・170代議員が参加。これだけのセクトが寄り集まって元革共同両派に匹敵しているという勢力関係が知れる。藤本敏夫氏が委員長、久保井氏が副委員長に選出された。これで4つ目の全学連が誕生することとなった。しかし、反帝全学連は結成当初よりのゴタゴタが付きまとい、社学同と社青同解放派の対立が激化していくことになる。7.25日民青同全学連大会開催。

 8月、マル戦派は、幹部間の対立から前衛派と怒濤派に分裂した。戦略戦術の総括、岩田理論の評価の対立から、岩田理論の正統継承派を主張する前衛派と、学生活動家を擁し多数派の怒濤派に分裂した。前衛派は、後に党名を共産主義者党と改称し、青年・学生組織として青年共産同盟を発足させる。岩田理論に基づき概要「68年のフランスの五月危機を契機に世界は不可避的な経済危機に入った」、「資本主義の末期的危機」、「この危機が『階級決戦の原動力』になる」等の主張を基礎理論とし、「工場占拠、ゼネストによる二重権力の創出」、「反合反帝の工場闘争をプロレタリア日本革命へ」と闘争を指針させていた。基本的には議会主義を否定しながらも、手段としての議会進出を認め、労働運動を重視した。更に、国際・国内情勢について、それぞれの時点での問題点を分析し、その都度、闘争の在り方を明らかにしていることが注目される。指導下にある組織としては「首都圏行動委員会連合」(首行連)があり、機関紙`としては「前衛」を発行した。一方、怒濤派は、後に労働者共産主義委員会(労共委)と改称し機関紙「怒濤」を発行、下部組織として共産主義戦線(共戦)を結成することになる。

 10月、第二次ブントの統合に反対したML派の一部少数派は、毛沢東思想を受け入れて、「帝国主義打倒の人民革命」を志向するようになり、マルクス・レーニン主義者同盟(ML同盟)を結成、その傘下に学生解放戦線・労働者解放戦線を組織した。ML同盟は公然武力闘争を主張し、かっての「球根栽培法」等を再刊し火炎瓶闘争を指導し始めた。12月共産同第8回大会開催した。第二次ブント主流のブント統一派(戦旗派)も、軍事路線の討議をめぐって対立が起こった。一体全体このブント系の組織論はどうなっているんだろうか。趣味の世界ならご随意にと言いたいところだが、政治闘争となるとそうばかりも言えない気がするのは私だけだろうか。

 12.10日、中核派全学連臨時全国大会、委員長に金山克巳氏選出。この68年の特徴として、以上のような動きの他にべ平連支部が各地域ごとの他に各大学にも急速に結成されていったことも注目される。既に66年には 東大ベトナム反戦会議、 京都府立大、三重大等。67年には帝塚山学院高等部、神戸大、沖縄大学、 広島大、 立命館大、一橋大等で支部結成されていたが、68年になると信大、同志社大、北大、小樽商大、大阪工大、竜谷大、東工大、芝浦工大、東工大、慶応医学部、東大、青山学院、国立音大、農工大、世田工、東京水産大、東京外語大、大阪芸大、工学院大、神戸商大等が発足した。

 (政治闘争の流れ)

 1.15日、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争。佐世保現地と東京での闘いが呼応した。社共共闘の現地集会に共産党の入場拒否を反戦青年委員会が誘導して入場。1500名機動隊と衝突。以後1週間現地で激闘。東京でも総決起集会が開かれ、三派・革マル派・反戦青年委ら13団体の共催で1万余名。佐世保へむかう中核派学生に凶器準備集合罪が適用され飯田橋駅で131名を逮捕。ブント系学生が外務省に乱入89名逮捕される。1.31日中核派主催の全学連佐世保闘争報告大集会、6000名結集。2.20日王子野戦病院設置阻止闘争。以降三里塚闘争と並行しつつ闘われる。2.26日三里塚空港実力粉砕現地総決起集会、3000名結集、衝突。戸村一作反対同盟委員長ら400名が重軽傷。3.10日三里塚闘争。反対同盟1300名を中心に全国から労学農・市民1万人参加。全学連2000名機動隊と衝突。3.15日在日米軍、王子野戦病院を4月に開設と発表。3.20日三里塚空港粉砕成田集会。労農学5000名が集会とデモ。3.28日王子野戦病院反対闘争。学生1000名が病院に突撃し49名が基地内に突入。3.31日三里塚闘争。4.1日王子野戦病院設置阻止闘争。4.4日アメリカでキング牧師が暗殺される。4.26日国際反戦統一行動。全学連3000名がデモ。4.28沖縄デー闘争。5.2日 沖縄原水協・べ平連のデモ隊、嘉手納基地の武装米兵と衝突。5.7日べ平連が沖縄などで脱走の米兵6人について記者会見で発表。6.4 日ソ連軍のチェコ侵入に抗議して九大で学長、教職員、学生らの抗議デモ。

 6.15日、日比谷野音で「アメリカにベトナム戦争の即時全面中止を要求する6.15集会」開かれる。1万2000名結集。このベトナム反戦青年学生決起集会で、中核派対革マル派・社青同解放派連合という構図での乱闘騒ぎが起こる。全国反戦は以降完全に分裂。この「内ゲバ」は考察されるに値する。こうした「内ゲバ」が統一集会に於いて「70年安保闘争」決戦期前に発生しているという内部的瓦解性の面と、後の展開からしてみて少々奇妙な構図が見える。つまり、中核派対革マル派・社青同解放派連合という構図は、どういう背景からもたらされたのだろうか。衆知のように中核派対革マル派・社青同解放派対革マル派というのが70年以降の構図であることを思えば、この時の経過が私には分からない。お互い運動に責任を持つ立場からすれば、こうした経過は明確にしておくべきでは無かろうか。いずれにせよ、当面の運動の利益の前に党派の利益が優先されていることにはなる。果たして、安保決戦期前のこの内部対立性(新左翼対民青同、新左翼内のセクト抗争)は偶然なのだろうか。私はそのようには見ていない。こういうことでは百年かけても左翼運動が首尾良く推移することはないと思う。

 6.21日、全共闘系学生、社学同は駿河台で路上にバリケードを築き神田解放区闘争を展開。6.26日 反戦青年委と学生、東京新宿駅で米軍ガソリンタンク車輸送阻止のデモ。8.16日べ平連クループ、嘉手納基地前で坐りこみ。27名全員が逮捕され、翌日コザ警察は全員を送検。8月ソ連など5カ国の軍隊がチェコスロバキアに侵入し、全土を占領するというチェコ事件が発生した。8.21日ソ連軍のチェコ武力介入に緊急抗議集会。8.24日三里塚闘争。9.22日米軍タンク車輸送阻止闘争。各派4000名が立川基地周辺で集会とデモ。10.8日羽田闘争1周年集会。中核派・社学同・ML派・反戦青年委員会約1万人参加。革マル派と社青同解放派は別個に集会。構造改革派系も合流しその後新宿駅で米タン阻止闘争。144名逮捕される。10.13日 べ平連事務所を、先の新宿デモとの関連で警視庁が初捜索。10.20日「10月反戦行動」実行委による市民デモ。明治公園→新宿駅西口、3000名結集。9名逮捕される。そのあと新宿駅東口でべ平連街頭演説会。石田郁夫、小田実、小中陽太郎、日高六郎ら発言。1万名結集。社学同の学生26名防衛庁突入。

 10.21日、国際反戦デー。全国で46都道府県560カ所で30万名参加。31大学60自治会スト決行。全学連統一行動は、中央集会に1万余を結集。新宿・国会・防衛庁等で2万人デモ。機動隊と激突。社学同統一派系1000名は中央大終結後防衛庁突入闘争。社青同解放派系は早大終結後国会とアメリカ大使館に突入闘争。革マル派と構造改革派(フロント)900名(1700名ともある)は東大で終結後国会へ向かう途中で機動隊と衝突。中核派・ML派・第4インター1500名はお茶の水駅前終結後新宿駅へ向かい、労働者・市民2万人と合流した後騒動化。政府は、翌22日騒乱罪を適用指令、769名逮捕される。

 11.6日、琉球政府主席選挙で屋良朝苗当選。11.7日沖縄闘争。学生・反戦青年委員会約5000名が首相官邸デモ。中核派・ML派・社学同。この闘いで秋山全学連委員長ら474名逮捕される。11.24日三里塚空港粉砕・ボーリング実力阻止全国総決起大会。労農学8000名実力デモ。


考察その三、(M)第8期(69年)(2000.1.5日)

 第8期(69年)【全国全共闘結成と内部溶解の兆し現出】

 この時期は、「70年安保闘争」のクライマックスとなる。つまり、実際の70年はこの69年に及ばなかったということになるが、この経過の昂揚と衰退の陰りの要点を見ておくことにする。年明けの1.18日東大で「安田砦攻防戦」が闘われた。この闘いは、東大闘争の決戦としてのみならず、全国学園闘争の頂点として注視の中で戦い抜かれた。全共闘運動はこれ以降封鎖解除と再封鎖を交錯させつつ全国全共闘結成により「60年安保闘争」を上回る闘争を指針させようとしていくことになる。この間4つ目の全学連として誕生していた反帝全学連の内部で社学同と社青同解放派の対立が激化し、3月社学同側が単独で大会を開催し、社学同派全学連を発足。7月には社青同解放派も解放派全学連として独立させた。この年は国立大学75校中68校が、公立大学34校中18校が、私立大学270校中79校という実に全大学の半数(紛争校165校、うち封鎖・占拠されたもの140校)でストライキ−バリケード闘争が頻出した。当時の全国の大学総数の37パーセントの大学で学内にバリケードが構築されたことになる。

 全共闘運動は、ノンセクト・ラジカルと多岐多流のセクト潮流を結合させて9.5日全国全共闘連合の結成に成功した。ここまでが「70年安保闘争」の「正」の面であったと思われる。ところが、私論ではあるが、全国全共闘連合は結成の瞬間より70年を待つことなく自壊していくことになった。その理由として三要因が考えられる。後述するが一つは、結集した各派セクトが自派の勢力の拡張と指導権をとることを優先させ、金の卵全共闘運動を自らついばんで行くことになった。全共闘運動はあまりに大きく結成されたこともあってか統一的な運動を御していくことが出来なかった。個々の自立的な運動から始まったノンセクト・ラジカルが組織活動を担わねばならなくなった自己矛盾であったかもしれない。一つは直前に誕生した 「共産主義者同盟赤軍派」による更なる突出化闘争の否定的影響である。もう一つは、この頃から革マル派と社青同解放派、中核派間に公然ゲバルトが始まり、70年を目前に控えた最も肝心な69年後半期という不自然な時期にオカシナことが起こったことである。これらが否定現象となりつつ、長期化する闘争にノンセクト・ラジカルが脱落し始め、一般学生のサイレント・マジョリティーが民青同の動きを支持し始める流動局面が生まれていった。「70年安保闘争」はこうして本番の70年を向かえるまでもなく急速に大衆闘争から「浮き」始めていた。私は、どこまで意図・誘導したのかどうかまでは分からないが公安側の頭脳戦の勝利とみる。同時に日本左翼は本当のところ「自己満足的な革命ごっこ劇場」を単に欲しているのではないかと見る。併せて、いわゆる内ゲバ=党派間ゲバルトについて、それを起こさせない能力を左翼が初心から獲得しない限り、不毛な抗争により常に攪乱されるとみる。

 (学園闘争の流れ)

 1.4日、加藤総長代行による非常事態宣言が発表され、東大闘争が決戦化の流れに入った。1.9日「7学部集会」を翌日に控えたこの日、東大全共闘が、民青同の根拠地化していた教育学部奪還闘争の挙に出て民青同と激突。これを見て大学当局の判断によって機動隊が導入された。この時の機動隊導入は、学生運動内部のゲバルト抗争に対してなされたものであり、それまでの対大学当局と学生間の抗争に関連しての導入ではないという内容の違いが注目される。「東大では、学生、教職員自ら暴力集団の襲撃を阻止し、校舎封鎖を解消する闘いを進め、1.9日には、7学部代表団と大学当局との交渉を妨害する為に各地から2千人をかき集めて経済学部、教育学部を襲った暴力集団の襲撃を正当防衛権を行使して机やいすのバリケードなどで跳ね返した」、「党は、これらの闘争が正しく進むよう積極的に援助した」(「日本共産党の65年」257P)とある。

 1.10日、秩父宮ラグビー場で約8000名の学生を集めて東大「7学部集会」が開かれた。医・文・薬学部を除いた7学部、2学科、5院生の学生・院生の代表団と東大当局の間で確認書が取り交わされた。民青同がこれを指導し、泥沼化する東大紛争の自主解決の気運を急速に盛り上げていくことになった。予想以上に多くの学生が結集したと言われている。紛争疲れと展望無き引き回しを呼号し続ける全共闘運動に対する厭戦気分が反映されていたものと思われる。「7学部集会」では、「大学当局は、大学の自治が教授会の自治であるという従来の考え方が誤りであることを認め、学生・院生・職員も、それぞれ固有の権利を持って大学の自治を形成していることを確認する」などが確認された。この確認書の内容は、当初全共闘側が目指していたものであるが、全共闘運動はいつの間にかこうした制度改革闘争を放棄し始め、この頃においては「オール・オア・ナッシング」的な政治闘争方針に移行させていた。全共闘は、民青同ペースの「7学部集会」に反発するばかりで、制度改革闘争を含めた今後の東大闘争に対する戦略−戦術的な位置づけでの大衆的討議を放棄していた観がある。なぜかは分からないが、運動の困難に際したときに、決して大衆的討議の経験を持とうとしないというのが新旧左翼の共通項と私は思っている。この頃より一般学生の遊離が始まったと私はみる。それと、全共闘運動がなぜ制度改革闘争を軽視する論理に至ったのかが私には分からない。果たして、我々は戦後人民的闘争で獲得した制度上の獲得物の一つでもあるのだろうか。反対とか粉砕とかは常に聞かされているが、逆攻勢で獲得する闘争になぜ向かわないのだろう。

 1.12日、東大、民青同と右翼系の手により6学部でスト解除。この頃より安田講堂の封鎖解除を促すために大学当局より機動隊導入が予告された。1.15日東大全共闘が安田講堂封鎖を強化し、各派から500名が籠城した。こうして全共闘運動は東大安田講堂決戦(東大時計台闘争)でクライマックスを迎えることになった。この時の民青同の動きが次のように伝えられている。機動隊の安田講堂突入の事前情報をつかんだ宮本氏は、再び川上氏に直接指令を出し、“ゲバ民”側の鉄パイプ、ゲバ棒1万本を一夜の内に隠匿、処分させた。この時の革マル派の動きが次のように伝えられている。同派はこの時他セクトとともに全共闘守備隊に入っていたが、機動隊導入の前夜に担当していた法文2号館から退去、そこに機動隊が陣取ることで封鎖されていた隣の法研・安田講堂の封鎖解除を容易にさせるという不自然な動きを示した。

 1.18日、東大闘争の決戦として安田砦攻防戦が闘われた。機動隊8500名出動。二日間にわたって激闘後落城。「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、この放送を中止します」という東大全学学生解放戦線の今井澄氏が午後5時50分メッセージした。この間の様子は全国にテレビ放送され釘付けになった。全共闘の闘いぶりと機動隊の粛々とした解除と学生に対する生命安全配慮ぶりが共感を呼んだ。神田で各派が東大闘争支援決起集会を開き、集会後解放区闘争を展開した。

 革マル派は肝心なところで「利敵行為」と「敵前逃亡」という二つの挙動不審(安田決戦敵前逃亡事件)を為したことにより、これ以後全国の大学で同派は全共闘から排除され、本拠=早稲田大でも革マルをはずして早大全共闘がつくられた。革マル派は、この事件以降今まで批判していた武闘的闘争を少数の決死隊によって行なうようになったが、アリバイ闘争と非難される始末となった。但し、革マル派の本領はこれから発揮されることになった。以降、いわゆる新左翼内で、革マル派と反革マル派との間にゲバルトが公然と発生する事態となった。いざゲバルトになると革マル派は強かった。街頭での穏健な行動とのアンバランスはかえって他党派の怒りを買うことになった。

 1.20日、東大・文部省と会談。入試中止最終決定。これ以降広島大、早稲田大、京都大などでも全国学園砦死守闘争が展開された。この経過で「60年安保闘争」を上回る「70年安保闘争」が課題となり、ノンセクト・ラジカルと反代々木系各派(革マル派を除く)は運動の統一機運を盛り上げようと連携していくことになった。「60年安保闘争」を上回る闘争を目指して多岐多流の潮流がうねりとなって9.5日の全国全共闘連合になだれ込んでいった。これが69年における「70年安保闘争」の「正」の面であった。京大にも機動隊導入。1.29日全国各地の大学で闘争激化。東工大無期限スト突入。横国大全学部無期限スト。1.30日京大教養学部スト突入。1.31日阪大教養無期限スト。2.11日日大闘争勝利5万名集会。2.14日京大、京大全共闘と民青同激闘。時計台一階を奪還。2.19日中央大、全学封鎖2ヶ月ぶりに解除される。2.21日「東大闘争勝利。労学市民連帯集会」に5000名参加。2.28日広島大本館封鎖。3.3日京大・九大・広大・岡大で入試中止闘争。3.22日東大校内で総決起集会。東大全共闘・日大全共闘3000名結集。3.31日東大で機動隊が封鎖解除。4.1日早大で反戦連合が第二学生会館突入。以降騒動化する。4〜12月にかけて広島大、早稲田大、京都大など全国学園砦死守闘争が展開された。5.10−19日東大闘争分離公判粉砕・破防法粉砕闘争。5.14−15日京大全共闘、医学部校内を全面封鎖。学生部再封鎖。5.21日日大闘争1周年全学総決起集会。4000名が理工へデモ。校舎内に突入。5.29日早大闘争勝利全国学生連帯集会。各派3000名と早大生2000名が合流デモ。6.2日専修大バリケード封鎖。6.4日同機動隊導入。解除。6.11日、日大全共闘、日大闘争バリスト1周年全学総決起集会、5000名がデモ。6.30日京大教養部民青同系代議員大会粉砕。3000名結集し、機動隊と民青同制圧、時計台前で大学治安立法粉砕集会。7.10日大学立法粉砕闘争。早大に8000名結集して国会へデモ。早大で革マル派を除く諸派が早大全共闘結成、全学バリスト突入。

 8.17日、「大学の運営に関する臨時措置法案」が成立施行された。各大学当局が、積極的に警察力によって事態を収拾しようとする姿勢に転じた。広大に封鎖解除のため機動隊導入。広大全共闘抵抗する(広島闘争)。京大・九大で連帯集会。9.3日早大闘争。機動隊導入。5000名学生が学生会館奪還集会。

 9.5日、日比谷野音で「全国全共闘会議」が結成された。こうして「70年安保闘争」を担う運動主体が創出された。全国全共闘は、どのセクトとも特別の関係を持たなかった東大全共闘の山本義隆(逮捕執行猶予中)が議長に、日大全共闘の秋田明大が副議長に選出されたことからも明らかなように、ノンセクト・ラディカルのイニシアチブの下に新左翼各派の統一連合的共闘運動として結成されたことに特徴があった。革マル派を除く新左翼8派が参加して全国178大学、全国の学生約3万名が結集した。8派セクトは次の通りである。@中核派(上部団体−革共同全国委)、A社学同(々共産主義者同盟)、B学生解放戦線(々 日本ML主義者同盟)、C学生インター(々 第四インター日本支部)、Dプロ学同(々共産主義労働者党)、E共学同(々社会主義労働者同盟)、F反帝学評(々社青同解放派・革労協)、Gフロント(々統一社会主義同盟)。

 ところが、私論ではあるが、「全国全共闘会議」は結成の瞬間から三方面より70年を待つことなく崩壊していくことになった。一つは、結集した各派セクトが自派の勢力の浸透と指導権をとることに夢中となり、全共闘運動の更なる組織化・全共闘的理念の発展化方向にも向かうことなく「野合」となった。つまり、ノンセクト・ラジカルとこれに連合した8派セクトによる統一体運動という未経験の重みに対応し得るものを運動主体側が持ち得なかったということである。ノンセクト・ラディカルが新左翼各派の草刈り場としてオルグられていく等の面が強まり、まったく不安定な代物へと転化し、翌年には山本議長が辞任し、全国全共闘はセクト中心の機関運営色が濃くなり、そうした傾向が強まると同時にノンセクト・ラディカルが脱落していくことになった。党派性を越えた自立的な運動主体としての個の関わりを重視するノンセクト・ラディカルとセクトの論理がうまく噛み合わなかったということになるかと思われる。あるいは単に、セクトの責任を問うよりは、寄り集うのも早いがさっと散り得ることを良しとするノンセクトの気まま随意性のせいであったかもしれない。

 全共闘自壊要因のもう一つは、全国全共闘連合結成直前に誕生した 赤軍派による更なる突出化闘争の否定的影響があったと思われる。この「全国全共闘会議」結成大会に、この日はじめて武闘派の最極左として結成されていた約100名の赤軍派のメンバーが登場した。赤軍派の登場はマスコミの好餌となり注目されたが、その理論は学生運動の水準を大きく超えていたことにより、全共闘−ノンセクト・ラディカル−シンパ一般学生の結合に向かうのではなく却って分離化作用を促進したと私はみる。赤軍派は、この後さまざまな過激な事件を起こして物議を醸していったが、私は「気質的目立ちがりやの所業」であったとみる。

 全共闘自壊要因のもう一つは、この頃から革マル派の社青同解放派、中核派に対する公然ゲバルトが始まり、大きく全共闘運動を混乱させることになった。これらが否定現象となりつつ、長期化する闘争にノンセクト・ラジカルが脱落し始め、一般学生のサイレント・マジョリティーが民青同の動きを支持し始める流動局面が生まれていった。早くも本番の70年を向かえるまでもなく自壊現象が見え始めることになった。

 9.6日、革マル派の拠点早大文学部に強制捜査、102名逮捕。9.10日東京外語大に機動隊導入。9.12日長崎大機動隊導入で封鎖解除。9.18日中核派の埼玉大経済学部生滝沢紀昭氏が芝浦工大の大宮校舎内でテロられ、二階の窓から転落死亡。9.20日京大時計台死守。街頭バリケード戦。9.30日日大団交1周年法経奪還闘争。日大全共闘中心に5000名集結。10.4日大阪市大機動隊導入封鎖解除。10.13日九大機動隊導入封鎖解除。10.16日早大機動隊導入、全学ロックアウト。10.20日立大・国際基督大・東京農大機動隊導入封鎖解除。11.8日北大機動隊導入封鎖解除。こうして大学立法に基づく封鎖解除で70年を待つまでもなく学園は平静に戻り始めた。70年には紛争校46校、うち封鎖・占拠されているものは10校と減じた。

 (自治会執行部の争奪の動きとその関連)

 3月、社学同全国大会開催し、社学同派全学連を発足。先に4つ目の全学連として誕生した反帝全学連の内部で社学同と社青同解放派の対立が激化し、社学同もまた自派単独の全学連を結成したということである。この大会で軍事路線の討議をめぐって対立が起こった。塩見孝也や高原浩之らの関西派グループが、「軍イコール党」・「秋期武装蜂起」など最も過激な軍事路線を主張し、「武装蜂起は時期尚早」とする関東派グループと対立。

 4.28日、沖縄反戦デー闘争の総括をめぐって新左翼内に対立が発生した。新左翼各派は自画自賛的に「闘争は勝利した」旨総括したのに対し、赤軍派を生み出すことになる共産同派は、「67.10.8羽田闘争以来の暴力闘争が巨大な壁に逢着した」(69.10「理論戦線」9号)として「敗北」の総括をした。この総括は、やがて「暴力闘争の質的転換」の是非をめぐる党内論争に発展し、党内急進派は「11月決戦期に、これまでどおりの大衆的ゲバ棒闘争を駆使しても敗北は決定的である。早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起すべきである。」(前記「理論戦線」9号)と主張して、本格的軍事方針への転換を強く主張していくこととなった。この流れが赤軍派結成に向かうことになった。

 6月の治安当局の調べでは、全国に約490の反戦青年委員会の組織があり、構成人員は2万人以上だった。そのうち、社会党の指導下にあった組織は半分以下にまで落ち込んでおり、その他は新左翼系セクトの指導下になっていた。代表的党派は次の通り。社青同解放派系、共産同系、中核派系、第四インター系、革マル派系。この中にあって反戦青年委員会の組織作りの初期から参画していた社青同解放派がさすがに主流を保っていた。10県反戦連絡会議の中心勢力は、社会党青少年局を中心とする構革左派「主体と変革」グループ(倉持和朗、鈴木達夫ら)・「根拠地」グループ(三田岳、高見圭司ら)であった。

 7.14日、革マル派全学連大会。新委員長に大貫氏(早大)を選出。同日と思われるが、社青同解放派もまた単独大会を開き、解放派全学連として独立した。解放派全学連は現在でも明治大学を拠点としている。7.15日中核派全学連大会。173大学(前大会発表101)・211自治会(前大会発表157)・3400名参加。この数字が正確であるとすれば、中核派が凄まじい勢いで全学連運動の主導権を握りつつあったということになる。

 9月、塩見孝也、高原浩之らの共産同少数派は、新たに「共産主義者同盟赤軍派」を発足させた。7月明大和泉校舎で「内ゲバ」を演じ、ら致監禁された関西派活動家の一人が脱出に失敗して転落死亡するという事件を起こした(7.6日ブント内に内ゲバ発生、赤軍派とさらぎ派激突のことか)末9月共産同「赤軍派」を結成して戦旗派から分裂した。その建軍アピールにおいて「革命の軍団を組織せよ!すべての被抑圧人民は敵階級、敵権力に対する自らの武装を開始せよ!」と高らかに宣戦布告した。赤軍派は、「前段階武装蜂起」を唱え、学生活動家=革命軍兵士の位置づけで武装蜂起的に「70年安保闘争」を闘おうという点でどのセクトよりも突出した理論を引き下げて注目を浴びた。実際に機動隊に対する爆弾闘争、交番襲撃、銀行M資金作戦等のウルトラ急進主義化で存在を誇示した。9月「大阪―東京戦争」事件を引き起こした。

 赤軍派の結成に対して、新左翼最大勢力となっていた中核派と革マル派の対応の違いが興味深い。中核派はこれを他人事と思えないといい、革マル派は「誇大妄想患者の前段階崩壊」と揶揄した。既に「街頭実力闘争」についても、両派はその評価をめぐって対立を生みだしていた。これを評価する立場に立ったのが中核派・社学同・ML派であり、「組織された暴力=権力の武装という現実に対して闘いを切り開くためには自らも武装せざるをえない。これによって激動を勝利的に推進しうる」というのが論拠であった。これを否定する立場に立ったのが革マル派・構造改革諸派であり、「小ブル急進主義である。組織的力量を蓄えていくことこそが必要」と云うのが論拠であった。対権力武装闘争の位置づけをめぐってのこの論争は互いの機関紙でなされているようでもあるが、系統的にされていない。後の経過から見れば、「理論の革マル派」と言われるだけあって革マル派の言うことには一々もっともな点が多いと思われる。今後のためにももっとこの種の事に関しての論議を深めておくことが肝心のようにも思う。このころ、警察は中核派に対して本多・藤原・松尾氏などを破防法で逮捕し、破防法の団体適用をちらつかせながら締め上げを行っていた。こうした予防拘禁型の検挙に対し、中核派は、「革命を暴力的に行うということは内乱を起こすということで、それなりの覚悟が必要。逮捕を恐れていては話にならない。組織も公然組織だけではダメ」ということで、指導部を公然・非公然の2本立てにし、公然組織を前進社に残して、政治局員のほとんどが地下に潜行した。

 この頃から革マル派の社青同解放派、中核派に対する公然ゲバルトが始まり、大きく全共闘運動を混乱させることになった。両派は「70年安保闘争」に向かうエネルギーを急遽対革マル派とのゲバルトにも費消せねばならないことになった。こうして、後に満展開することになる「新左翼セクト間ゲバルト=党派ゲバルト」は、既に69年後半期より突入することになった。全共闘運動に対する民青同の敵対は既述した通りであり折り込み済みであったと思われるが、この革マル派による公然ゲバルト闘争化は不意をつかれた形になった。社青同解放派、中核派は、68−69年闘争の経過で激しい武闘を連続させ多数の逮捕者を出し、組織力を弱めていた。特に中核派は逮捕者が多く、11月闘争で多数の逮捕者を出していた。逆に革マル派は組織温存的運動指針によりそれほど逮捕者を出さなかったために相対的に組織力が強化されたことになっていた。11月28日東大闘争裁判支援の抗議集会(日比谷野音)で、半数を占めた革マルと他派がゲバルトを起こし革マル派が武力制圧した。中核派は、革マル派との内ゲバに敗退したことを重視し、反戦労働者をも巻き込みつつ反撃体制を構築していくことになった。12月14日糟谷君人民葬でも、これに参加しようとした革マルと認めない中核派間にゲバルトが発生した。翌12.15日中核派は革マル派を武装反革命集団=第二民青と規定し、せん滅宣言を出したことで対立が決定的になる。

 私は、ゲバルトの正邪論議以前の問題として、「70年安保闘争」の最中のいよいよこれから本番に向かおうとする時点で党派ゲバルトが発生したことを疑惑している。この時のお互いの論拠が明らかにされていないので一応「仮定」とするが、革マル派が、独特の教義とも言える「他党派解体路線」に基づきこの時期に公然と敵対党派にゲバルトを仕掛けていったのであるとすれば、「安田決戦敵前逃亡事件」と言いこのことと言いあまり質が良くないと思うのが自然であろう。つまり、内ゲバ一般論はオカシイということになる。もっとも、これに安易に憎悪を掻き立てさせられ、社青同解放派、中核派両派が「70年安保闘争」そっちのけでゲバルト抗争に巻き込まれていったとするならば幾分能なしの対応と見る。やはり、こういう前例のない方向において運動路線上の転換を図る場合には、大衆を巻き込んだ「下から討議」を徹底して積み上げねばならないのでは無かろうか。その際には事実に基づいた正確な経過の広報が前提にされる。なぜこのように思うかというと、この後検討する予定にしている新日和見主義事件の考察の際にも関係してくるからである。この「討議がない」ということが左翼の致命的な悪しき習慣的組織論に起因している、とみる。補足すれば、大衆討議は、正しさを確信し得る者達だけに可能な路線であると思う。下部構成員はそれを要求せねばならないとも思う。そういうことが出来ない組織はどこかオカシイ。

 (政治闘争の流れ)

 3月、束京で「救援連絡センター」発足。3.30日三里塚軍事空港粉砕集会。現地反対同盟・反戦青年委・全学連1万2000名が集会とデモ。4.18日 政府、米軍立川基地の拡張計画中止を決定。4.23日、日経連総会で桜田武常務理事、自主防衛力を強調。4.27日中核派書記長本田氏と東京地区反戦世話人藤原慶久氏破防法発動で逮捕される。4.28日沖縄反戦デー闘争。社共総評の統一集会、13万人参加。過激派学生1万名武装デモ。東京駅・銀座・新宿・渋谷などの都心部で、火炎瓶、投石闘争を展開したが、警察の徹底した取締りが功を奏し前年の新宿騒乱闘争を大きく下回る規模の行動に終わった。ベ平連も銀座・お茶の水・新橋で機動隊と衝突。中核派・ブントに破防法。全国で逮捕者965名(女性133名)、逮捕者の中には高校生も多く含まれていた。5.17日新宿西口フォーク集会に機動隊が初出動。群集2千人が集まる。以後毎土曜の西口広場でのフォーク集会が7月まで5000名規模で開催された。5.20日立命館大学内の「わだつみ像」が全共闘系学生によって破壊される。5.22日「6行委」と「6.15実行委」(新左翼党派、反戦青年委、全共闘なども参加)の合同世話人会で、中核派など8派政治組織と15大学全共闘とともに市民団体が6.15日に共同デモを行なうことで一致。5.28日229団体により「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6.15集会実行委員会」正式に発足。6.8日ASPAC粉砕闘争。1万2000名が伊藤駅前に結集。全学連は伊藤警察を攻撃。207名逮捕される。6.9日現地集結に向かう中核派全員逮捕される。6.15日統一行動。東京で362団体主催の反戦・反安保・沖縄闘争勝利統一集会。労農学7万人が日比谷から東京駅へデモ。 全国72カ所で十数万名が決起。6.27日大学治安立法粉砕闘争。各派1万5000名が国会デモ。6.28日新宿西口広場でフォークソング集会。機動隊導入され64名逮捕。7.11日、日本共産党は「べ平連は反共暴力集団」との無署名論文を発表。7.14日大学治安立法粉砕闘争。7.25日入管法粉砕闘争。反戦・学生7000名が集会と国会デモ。9.22日赤軍派、大阪、京都で交番を襲撃。10.4日宮本共産党書記長、10.21集会には両原水禁組織とべ平連は入れるべきではないと発言。10.8日全国全共闘5000名、日比谷野音で羽田闘争2周年の集会。10.10日安保粉砕・佐藤訪米阻止大統一集会に10万人結集。べ平連など市民団体、全共闘、反戦青年委、革マル系全学連など結集。全国各地でもデモ。10.21日国際反戦デー。社共総評、全国600ヵ所で86万人参加。東京では、都公安委員会による一切の集会・デモの不許可に関わらず新左翼系のデモ、各地で警察と衝突各所でゲリラ闘争展開。中核派が新宿・高田馬場を中心に都市ゲリラ型闘争を展開。群衆を交えて市街戦を展開。社学同−全共闘グループは両国・東日本橋で、反帝学評−旧構造改革派グループは東京駅八重洲周辺で、革マル派は戸塚2丁目で。襲われた警察署4,派出所17、一種戦場と化した。逮捕者全国で1508名。そのうち東京1121名。11.5日大菩薩峠で武装訓練中の赤軍派53人が逮捕された「大菩薩峠事件」。11.16日佐藤訪米阻止闘争。蒲田駅付近で機動隊と激突。全国で2156名逮捕される。この日の闘いを機として運動はやがて一方で武装闘争−ゲリラ戦へと上り詰めていく。蒲田周辺に「自警団」誕生。


考察その三、補足「全共闘運動雑感」(2000.1.9日)

 初めに。ここで考察しようとしている全共闘運動は、あくまで大学生運動であり、中卒・高卒者を含む青年労働者をも巻き込んだ広範な政治運動までには発展していかざる枠組み内の限定的エリート的な学生運動であったという階層性に注意を喚起しておきたい。この「青年左翼闘争に於けるエリート階層性」という特質は、日本共産党の結党以来宿阿の如くまといついている日本左翼運動の特徴であり、どういう訳かマルクス主義を標榜しながら労働者階級を巻き込んだ社会的闘争には一向に向かわないという傾向が見られる。全共闘運動は、全国規模の学園闘争として「60年安保闘争」に勝るとも劣らない運動を展開させていくことになったが、「かの戦闘的行為」に対して庶民一般大衆が抱いた心情は、「親のすねかじりでいい気なもんだ」という嫉視の面もちで受け流されていた風があった。このこと自体は発生期の事実的特徴として必要以上には批判的に問題にされることもないかもしれないが、運動の主体側の方もまた「ある種のエリート意識に囲い込んだまま」終始させていたということになると問題にされねばならないように思う。この観点からすれば、代々木系も反代々木系も同根の運動であり、これは日本の左翼運動の今に変わらぬ病弊のように思われる。つまり、「ブ・ナロード」の能力を持たない自閉的エリート系左翼運動が今日まで続いているという負の現象をまずは認めておこうと思う。

 私論になるが、そうであるにせよ、この当時このような学生左翼青年を澎湃と排出せしめた要因は何であったのだろうか。当時の国際的なスチューデントパワーの流れ、国内外の社会情勢、社会主義イデオロギーが幅を利かせていた象牙の塔内の動き等々にも原因を求めることも出来ようが、私は少し観点を異にしている。恐らく、戦後自由を得た日本共産党の党的運動が急速に社会の隅々まで影響を及ぼしていった先行する事実の余波があり、当時の党運動の指導者徳田書記長時代の穏和路線から急進主義をも包摂した野放図な運動の成果が底バネになって、はるか20年後のこの頃の青年運動に結実していったのではないのか、という面も考察されるに値するのではなかろうか。徳田時代には、戦前−戦後を通じて我が身の苦労を厭わず社会的弱者の利益を擁護して闘った共産党員の「正」の遺産が継承されており、この遺産がとりわけ青年運動に対して大きな影響を与え続けていたのではないのかという評価をする必要があるのではなかろうか。ということは、徳田執行部の運動の成果を、「50年問題について」的に彼の没理論性の面や家父長的な指導による非機関主義的な党運営手法等の否定的面をのみ総括して済ますやり方は酷であり、そういう総括の仕方は非同志的な宮本式の処理法ではないのかということになる。何にせよ如何にして時の青年を取り込むのかは非常に大事なキーワードであり、この点においてむしろ徳田時代の党運動は成功していたのではなかろうか、と思う。徳田書記長の没し方を見ても分かるように彼の深紅の闘志は本物であったのであり、その懐刀伊藤律の場合も然りである。徳田時代は、戦後直後のわずか6年有余の実績の中でさえ、確実に明日の党建設につなげる種子を蒔いていたのではなかろうか。

 ということは、今日の党運動における青年運動の肌寒さが逆に照射されねばならないことを意味する。宮本式党路線の真の犯罪性は、彼らが執行部に納まって以来50年にもならんとするのに、青年運動を全く逼塞させてしまったことに顕著に現れているように思われる。その長期にわたるいびつな党指導の結果、今日においては共産党の「正」の遺産は既に食いつぶされてしまったのではないのか。今日の党員像は、かっての周囲の者に支持されつつリーダー的能力を発揮していた時期から大きく脱輪しており、体制内「道理」化理屈による非マルクス主義的「科学的社会主義」運動方向へ足を引っ張るややこしい行動で周囲から「只の人」扱いされるそれへと移行しつつあるのではないのか。果たして、青年運動を牢とした枠組みで括って恥じない宮本−不破執行部は日本共産党の党運動の正統な継承者なのだろうか、疑問を強く呈してみたい。ちなみに、私は、宮本氏「個人」にとやかく言っているつもりはない。憎悪すべくもない見知らぬ人でしかない。党の最高指導者としての氏の政治的立場に対して批判を加えているつもりである。弱きを助け強きをくじく精神を最も誇り高く持ち合わせて出発した日本共産党の党是の精神を尊びたいがために、そのような精神とずれたところで党の頂点に君臨し続けた氏の政治的責任を追及しているつもりである。指導者の影響力はそれほどに強く、政治的責任というものはそれほどに重いと思うから。

 もう一つの私的な観点からの考察を添えておく。非マルクス主義的な捉え方のようにも思うが、仮説として考えている。どなたのルポであったか忘れたが、韓国・中国・フイリッピン・ベトナムと旅をしてみてベトナムにやって来たとき一番ホットしたと言う。まるで故郷に先祖帰りしたような気持ちになったという。ルポ作家がこのように民族的同一性を文学的に表現しているのを読んだとき、私には思い当たったことがあった。わが国でひときわベトナム反戦闘争が沸き起こったことには民族的同一性からくる義憤という目には見えない根拠があったのではないのかと。最新の生物分子学におけるDNA研究の語るところに拠れば、遺伝子は過去の生物的進化情報を記憶しており、この情報は何らかの底流で「生きている」とも言う。つまり、わが国におけるベトナム反戦闘争は、血を分けた同胞がアメリカ軍によって苦しめられている様を見て先祖の血を騒がせたのではなかったのか、という仮説に辿り着く。その根拠を今現在の科学的水準で説明することは難しいが、そういうことはありうるという超常現象的考えを私は持っている。更に指を滑らせれば、この血の同盟による日本−ベトナム民族こそ、16世紀以降の欧米白色イズムに互して唯一といって良いほどによく闘い得た民族であるという歴史的事実があり、こうした認識の仕方はもっと注目されても良いとも思ったりしている。簡単に言えば、日本−ベトナム民族は、自治能力と民族的イデオロギー形成能力の高い民族ではないかということであり、このてんに関しては我々はもっと自信と関心を持てば良いのではないのか。ただし、これが「負」の面に立ち現れれば、欧米白色イズムに勝るとも劣らない隣接諸国に対する侵略者としても立ち現れることにもなる。大東亜戦争はその大義名分にも関わらずこの「負」の面の現われであり、解放後のベトナムのカンボジア・ラオス他侵略的な政策もまたそうであるように思われる。とはいえ、大和民族の優秀性とは言ってみても、第二次世界大戦における敗戦と今現在進行させられつつある国債大量発行自家中毒的経済的敗戦渦中は、その能力の二番手性をも証左しているとも思っている。アングロ・サクソン系の賢さには及ばないということである。ワンワールド化時代におけるこういう民族的自覚と認識は保持していて一向に差し支えないとも思っている。

 話を本題に戻す。全共闘運動は、ノンセクト・ラディカルの澎湃な出現を前提とせずには成立しなかった。興味深いことは、ノンセクト・ラディカルと新左翼各派の統一連合的運動として全共闘が結成されたが、運動の初期においてはこの運動の主導性を行動的にも理論的にもノンセクト・ラジカルの方が握っていたことである。このパワーバランスが次第にセクトの方へ揺れていくのが全共闘運動の経過となった。ノンセクト・ラディカルが非党派を良しとしていた背景に理論的優位性があったためか、単に臆病な気随性のものであったのかは個々の活動家によっても異なるであろうが、全共闘運動が、ノンセクト運動の可能性と限界性を突きつけた史上未経験な実験的政治的左翼運動であったということは相違ない。この運動の実際は、歴史の不思議なところであるが、片や最エリート校東大と典型的なマスプロ私大日大という両校によって担われることになった。その要因として、たまたま両校に有能な活動家が出現したということと、両校に教育政策上の権力性がより強く淀んでいたことが考えられる。それにしても、この時期党派であれノンセクトであれかなり広範囲に左翼意識者が雨後の竹の子の如く出現し続けた訳であり、今日的水準からすればよく闘い得た素晴らしい青年運動であったと思われる。なぜこのように評価するかというと、あれは立派なコミニュケーションであったと思うから。コミニュケーションの通過性こそ人間存在の本質性だと思うから。現在このコミニュケーションが矮小化させられていると思うからである。

 今日全共闘が懐かしく回顧されつつある理由として、「大学の自治」という美名の中に牢として秩序化されていた講座制という権威的封建主義と功利的近代主義の両面に対してよくぞ闘い得たという「正」の面の評価が挙げられる。全共闘運動の精髄は、既成の権威・価値・装置の全てと自己の存立基盤を疑い、アナーキーな問いかけで社会に問題を提起した姿勢にあった。彼らのこの当時の「訴え」は今なお有効であり、否ますます有効さを示しつつある。元々彼らの問いかけは、ベトナム戦争に対する義憤に発したと思われるが、これを極めて思弁的に語った。彼らの論理は、単にベトナム戦争に白黒の政治的立場を表明するに留まらず、米帝国主義に加担して太り続けようとするわが国の人格的(というのも変だが他に適当な言葉を知らないので)在り方を凝視し否定することで普遍性を獲得していた。それは、大量生産時代の物資的な豊かさに呑み込まれつつあった時代の「先進国的豊かさ」を享受しようとして競争している「体制」に対する反逆の狼煙となっていた。今この姿勢の真価が評価されようとしている。あの時代から今日まで世界の資本主義体制は、ますます経済的利益最優先論理の下に資本を爛熟させてきたが、現在我々はこのことによって失った代価もあまりに大きいという現実を突きつけられている。公害の発生、空気・河川・大地・食物等の環境複合汚染、当然我らが体内もまた同様の汚染が進行していることが考えられる。危険極まりない原子力発電化、生態系を無視した森林伐採、生物・動物の乱獲、政治も教育も医術も算術優先化させたことによる精神の荒廃・人々の相互疎外化等々は、「既存的な豊かさ享受の論理」と矛盾を深めつつある。今日のこうした情況は、もう一度「あの問いかけ」に戻ってみる必要があるのではないかということを訴えつつあるように思われる。「否定はまず自分自身に向けられた。徹底的な自己否定なくしてはいかなる肯定もあり得ない内なる個の否定」、「我利我利亡者的エゴイズムの徹底的破壊。我らの闘争の根元的な拠点」(進撃3号「砦の狂人たち」)は、こうした感性の表現であるように思われる。

 こうした全共闘の「訴え」の歴史的背景には、丁度中国で毛沢東が紅衛兵に呼び掛けていた「造反有理精神」の発揚があったものと思われる。実際には紅衛兵運動は政治主義的に利用されたようではあるが、わが国ではその理論面が輸入された。前述したように儲け合理主義一辺倒がとめどなく進行しつつあったあの時代において、全共闘の「体制」に対する「違和感」がこの「造反有理精神」と結合したとき、ベトナム戦争を通じてヒルの如く戦争の血を吸って高度成長しつつ、帝国主義的に世界列強への仲間入り政策を進めつつあった国家体制に対する「叛乱」へと進むことを良しとさせたのではなかったか。自己の存在が否応が無くこうした帝国主義的な成長過程に組み込まれていることに対する反逆として「自己否定運動」というものを生み出しつつ決起せざるをえなかったのではないのか。こういう「体制」はまずもって「解体」されるべしと。「自らが日々従事している『平和』的な労働=生産こそ、日本の侵略加担の巨大な構造を支えている歯車であり、まさに血に汚れた『人殺し』労働なのではないのか」(共労党)という「訴え」はこの辺りのことを表現しているように思われる。

 この論理は、東大闘争における医局員の次のような論理に見て取れる。「東大闘争は、医学部に於ける青年医師連合の基本的権利を守る闘いと、医療部門における人民収奪の強化、及び医学部に於ける研究教育体制の合理化=帝国主義的改編への闘いを発端として火の手を挙げた。そして独立資本との産学協同を推進する国立大学協会自主規制路線の下に、この闘いを圧殺しようとした東大当局に対する叛乱として展開される」ことから始まった。この叛乱は、曰く研究の自由に措定されている階級性の告発、曰く特権的身分の否定、曰くこれらの告発に何一つ答えることが出来なかった知性の府の腐敗の告発を通じて、やがて学問的営為全体に対してブルジョワ的という名を賦与してまず「否定」から始められねばならないという運動を創出していくことになった。この論理が共感を生みだしていくことになった。これを社会的関わりの中で見据えれば、概要「産学共同路線の実体は、大学の産業(資本)への従属であり、企業からの資本投入による安価な受託研究施設として機能し、安価な人材養成機関と化し、研究者の自立した研究を妨げる。研究内容そのものも帝国主義的価値との絡みに規定されており、大学の自治や学問の自由といっても偽善であり、現体制を美化するものでしかなく、大学に於ける帝国主義的な本質を隠蔽しているのではないのか」という認識を生みだした。こうした仕組みの中でノホホンと研究が進められていく事の「学者面した不義」に対して、全共闘は、当初の「研究者のあるべき姿勢の問いかけ」から次第に「破壊」的行動へ更に「解体」的運動へと理論を発展させていくことになった。つまり、「自己否定論理」から「世界の解体−再創造」に立ち向かっていかせることになった。こうした観点を究極化して「層としての学生運動」を生みだしていったのが東大ノンセクト・ラディカルであり、セクト的社会革命運動とは別個に創出された思弁的ラジカリズムによる学生運動であった、ように思われる。私なりに今から思うに二度と起こすことが困難な驚嘆すべき運動であったという印象を持つ。そういう感性を共有できる時代があったということなのだろう。

 ただし、東大ノンセクト・ラディカルに思弁性の高さは認められても、政治運動化の論理はおぼこかったように思われる。「自己否定論理」は、帝国主義的要員としてプロイダー教育・研究化させられている自身の存在の「自己否定論」となり、「造反有理精神」は、その産みだし機関の否定としての「帝大−大学解体論」となり、「世界の解体−再創造論理」は、「体制破壊−解体へ向けての革命運動論」へと発展することになった。「既成の大学の自治」とは、そうした根元的な問いかけ−運動の創出の前には全く無能なあるいはまた帝国主義的に組み込まれた擬制でしかなく、小手先の改良によりどうなるものでもないむしろ欺瞞的として否定の対象とされた。こうした認識は、実践的に「戦後民主主義体制のイデオロギー的否定」へと向かい、学内運動としては「ポツダム自治会粉砕」へと向かい、対置したものが「直接民主主義論」(一種の代行主義的な多数決原理に基づく間接民主主義のポツダム自治会のアンチ・テーゼとしての直接民主主義)、「コミューン的組織論」、「政治運動におけるラジカリズムの肯定」となった。対社会闘争としては青写真無きままのラジカリズムによる革命運動への志向となった。「否定は内から外へと向けられた。否定さるべきもの、現に存在する大学当局の管理権力機構、としてそれを可能にし背後から支えている国家権力そのもの。だが二つの否定は論理的な区別を有するのみであって、現実に闘争を担っている主体にとっては同時的であり不可分離である」(進撃3号「砦の狂人たち」)という語りはこの辺りのことを表現しているように思われる。

 こうした全共闘的論理の実際の政治的運動としての立ち現れ方は後述するとして、全共闘は組織論的にもユニークさを発揮していた。全共闘的組織は、当然既成の前衛意識的組織論とは異なる個々人の主体的決意をリンクさせたものとなっていた。これを代表的に表現していたものとして東大助手共闘の次のような了解事項がある。いわく@.個人の主体的決意のみによる参加、A.指導部は創らず、問題は全て全員討議にかける、B.組織の維持を自己目的化しない。つまり、前衛党的な「民主集中制」とか分派禁止にまつわる細かな規約を持たず、極力シンプルに個々人の「内なる思想的闘い」を重視させた非統制的組織論に依拠させようとしていたことになる。この三規約は、一切の党派的イデオロギーからの自立と、こうしてアトム化された個人の結集体としての自立的自主的運動体としての可能性を追求する運動を担おうとしていたものと思われる。ベ平連系にもこのような論理が見られることを思えば、こうした思考と行動様式はベビーブーマー的論理の特徴であったのかも知れない。「私は、ノンセクト・ラジカルということになっていますが、その内実はアナーキズム・ニヒリズム・プランキズム・マルキシズム・フーテニズム・ヤクザイズムのごった煮でありまして」(最首悟)というカオス派的語りはこの辺りのことを表現しているように思われる。つまり、左翼運動史上前例のない相互の自主性を重んじた組織運動を目指していたことになる。「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力を尽くさずして挫けることを拒否する」という語りもまたこの辺りのことを表現しているように思われる。

 こうした東大闘争とは別途の方法で共に戦い抜かれたのが日大闘争であった。共に有ったのは、ぶんぶく太りし続ける日本経済の発展の仕方に対する拒絶の姿勢、と私は観る。日大闘争ならではの特殊性としては、日大には過去学生運動の歴史が無く、それもその筈で建学理念の保守性とこれを護持しようとする強力な右翼系体育会・応援団運動こそが日大の学生自治運動となっていたという背景があった。ところが、世情騒々しさのおりがら古田理事会体制による不正入学金の使途不明問題が勃発した。学生の怒りが沸き起こり、「不正入学金の使途不明告発から学内民主化闘争へと発展。大学を学問探究の場から利潤追求の場とした古田理事会体制との闘争」が組織されていくことになった。この闘いは、大学当局の意を挺した暴力機関体育会・応援団の介入と血みどろになりつつ勝利的に切り開かれていくことになった。それはあたかも、「ベトナム人民が武器を持って立ち上がり、侵略者を追い出し、自らの解放を勝ち取ろうとしていた」ことになぞらえられる闘いであった。秋田明大を議長とした日大全共闘が結成され、「一.理事長総退陣、一.経理の全面公開、一.不当処分撤回、一.集会の自由、一.検閲制度の廃止」という5つのスローガンに集約された闘いを進めていく運動の中から次第に「古田体制の帝国主義政策の先兵、帝国主義者に反抗せず支配者の言いなりになる人間の養成の場とした体制を打倒し、ブルジョアジー教育に於ける砦を破壊し、学生の戦闘的拠点を建設する闘い」の創出へと向かうことになった。この日大ノンセクト・ラジカルもまたセクト的社会革命運動とは別個に創出された反封建向民主的ラジカリズム的な学生運動であった、ように思われる。私なりに今から思うに二度と起こすことが困難な驚嘆すべき運動であったという印象を持つ。そういう感性を共有できる時代があったということなのだろう。

 残念ながら、こうして盛り上がった東大−日大闘争は、次第にセクト理論の洗礼を受けていくことによりみずみずしさを失ってしまう。(もう少し時間をかけて各派ごとに対比させつつ研究してみたいが、この場合は何せ時間と資料がないのではしょります)セクト理論の影響を受けて闘争が深化発展する方向へ向かうのならよいとも思うが、トンデモの方へ行ってしまう。「民主主義は労働者階級の闘争を市民的秩序に押しとどめるもの」→「大学の自治は幻想であり守るべき自治は何もない」とする帝国主義の欺瞞的支配の図式化→「ブルジョア民主主義をプロレタリア民主主義と対立させ、打倒されるべきものとする」という論理による民主主義闘争の放棄→「一切の改良主義的妥協と自己欺瞞を峻拒した永続的闘争」→「権力を引き出すことを目的意識的に追求する闘争」→「先駆的集団の挑発によって国家の暴力支配を登場させる」→「国家の暴力支配の登場が大衆を闘争に駆り立てる」→「先駆的前衛的にこの闘争を担うというヒロイズム精神による特攻隊化」。このような論理は、完全な政治的引き回しでしかない。各派がこの段階のどれかに位置しつつ全共闘運動に揺さぶりを掛けていくことになった。その結果、全共闘運動は、さてどこに向かおうとするのか何処まで向かうのか分からなくされてしまったのではないのか、と思われる。

 こうして、当初のアナーキーな問いは、大学制度改革運動から次第に離れてこの問い自身のデカダンスへと発散していくことになった。「自己否定の否定はやはり否定」と揶揄されている破滅的論理に沈んでいくことになった。残された方向は先鋭的暴力化の競い合いという構図となった。興味深いことは、大学制度改革運動から全共闘運動が生み出されたにも関わらず、全共闘運動がこうしたデカダンスの深みに入っていくことにより、大学制度改革運動を民青同系が担っていくことになったという経過がある。私は、これを全共闘運動の自己転落と観る。この自己転落の責任を民青同に転嫁させ「民青殺せ!」の道程へ踏み入って行くことになったのでは無かろうか。「誰のせいでもありゃしない。みんなおいらが悪いのさ」という歌の文句をはなむけとしたい。

 さて、最後に付け加えておくことがある。全共闘運動が賞賛されるべき内容を保持していたにも関わらず、その運動の中に無条件に胚胎させていた暴力性の論理である。この暴力性は、彼らがどう政治的な言葉で言い繕ろおうとも、事は至って単純エゴイスチックなものでしかなかった。「トロが学生自治会の執行部に選ばれた場合、自分たちの支持が無くなると、何年間も改選しなかったり、不正選挙、不正投票をしたり、学生大会から反対派を暴力的に閉め出したりしてきた」(川上氏「学生運動」)と言わしめるような手法を日常化させていたのではないのか。なぜ、彼らは堂々と所見を述べ、学内外にプロパガンダしていかなかったのだろう。私に言わせれば、全共闘は値のある理論を持っていたように思われる。民青同は宮本論理の影響を受け、ほぼ自主性のない運動しか為しえない窮屈な姿を見せていた筈である。なぜ堂々と民青同と渡り合い、自治会執行部を取れればよいし、取れなければ取れるように根気強く運動を組織していくねばり強さを培えなかったのだろう。「民青殺せ!」と絶叫しつつデモしていた事実は一体何を語るのだろう。「悪魔も寄りつかぬ静寂の中でドン・キホーテは夢をみていた。しかし僕らは自己を主張するのに不可欠なハンマーを見ている。反革命分子よ気をつけるがいい。血と肉を持った存在が今や鉄槌無しには主張され得ないのだ」などとうそぶきつつ「自己の内なる東大を否定せよ」とは、一体何を洒落ているのだろう。

 私が民青同を評価しているのは、次の一点にある。度々指摘しているように党中央指導によるゲバ民化の事実を隠そうとは思わない。しかし、民青同は学生運動内に曲がりなりにも民主的手続きと原則に対して踏まえる術を知っていたと思う。学生大会の運営も然り、逆にやられたらやり返せとばかりに「他党派のあれこれを殺せ!」と絶叫しつつデモったという事も知らない。こういうことは誰に教えられるのでもない、何かイデオロギー以前の人としてのたしなみではなかろうか。反代々木系運動にはこのたしなみに対して欠落したものがあるのではなかろうかという不信がある。残念ながら私には民青同の良さは他には見あたらないが、民青同が踏まえていたこの手続き民主主義の精神こそ最も大事なものなのでは無かろうか、と思う。民主主義は間接であろうが直接式であろうが手続き無しには成立しない。この手続きの野蛮化と権力化をチェックし民主化するということは、「人と人との群れ方」というコミュニティーの約束事としてイデオロギー的メガネを掛ける以前の話なのではなかろうか。受験から解放されてわずか数ヶ月か数年のうちにいっぱしの活動家が促成され、「日共解体、民青殺せ!」と呼号しながらデモることに不自然さを覚えない感性が分かりにくい。人の弁証法的成長過程として許容される部分も有るとは思われるが、その際手続き民主主義の精神と切磋琢磨精神の涵養は前提にされていなければならないのではなかろうか。

 この精神が大事で無いというのなら、70年に入って以降学内に立ち現れた特定セクトによる暴力支配に対して手を焼いた経験がない者の物言いとしか考えられない。このキャンパス内に立ち現れた憲兵隊的存在こそ70年以降の学生運動の特徴であり、学生運動低迷の真の原因と私は思っている。元々少ない左翼意識の持ち主がパージされ続けた結果、キャンパス内に「白け」が蔓延してしまうことになった。いつの間にか「白け」が日常となってしまったのではないのだろうか。対話弁証法のないところには発展がないのであり、それは飛行機が摩擦抵抗を利用しつつ滑走路からフライングしていくという物理法則と同じ現象であり、その逆の例である。左翼運動自体が古くなったのではなく、もっと単純に古くさせられているのではなかろうか。これが二度と全共闘運動を創出させない主要因になっているのではなかろうか。これに対するのに、負けた者の遠吠え的にではなく、まず自ら左翼運動内にこうした現実を生み出させない強固な運動理論を構築する仕組みが必要とされているのではなかろうか。単純に言えば、「されて嫌なことはしない」という平明な原理を守れば良いだけの話である。万事ブルジョア的と言いなせば粉砕されたり、プロレタリア的だとか言いさえすれば免罪されるという作法は命名者側の権力の乱用的常套手段であり、この物言いに納得する側の「知」の頽廃を前提にして成立しているのではなかろうか。互いの活動を認め合うという原理は万古不易に墨守されねばならない大人の嗜みなのではなかろうか。こうした原点の確立から運動を模索することこそセンチメンタリズムを越しえて全共闘運動を総括しうるものとなるのではなかろうか。


考察その三、補足「民主連合政府樹立運動について」(2000.1.15日)

 このような全共闘運動に敵対した当時の民青同の意識にはどのようなものがあったのか、それを考察するのが本投稿のテーマである。ちょうど民青同の論理は、全共闘運動の対極にあった。自己否定論理に対しては民主化論理を、造反有理に対しては党を護持し民主集中制の下での一層の団結を、解体論理に対しては民主連合政府樹立の呼びかけをという具合に何から何まで対置関係にあったことが分かる。実際には全共闘運動の方が空前の盛り上がりを見せ、民青同がこれに対抗していったことになるので、全共闘からすれば、「マスコミは巨大な敵だったが、右翼・民青・機動隊というのがさしあたっての敵だった」ということになった。元々大学民主化闘争は学生運動自体のテーマであり、全共闘運動とてここから始まったように思うが、全共闘運動はいつのまにか担おうとしなくなり、民青同の一手専売となった。私が入学した頃には、「政治的自由と民主的諸権利の拡大を目指す闘争」、「教育権・機会均等の擁護、学費値上げ反対、奨学金の拡充、寮の完備、勉学条件の改善」という当たり前の運動が民青同以外では見られなくなっていた。もっとも民青同は、抱き合わせで「トロッキスト、修正主義者らを各大学において、全国的な学生運動の戦列に於いて一掃することが不可欠」という指針を掲げていたので、これにもなじめなくなった私の居り場がとうとう無くなってしまった。

 ここでは民主連合政府の呼びかけに対する共感について考察する。いわゆる全共闘運動が左翼イデオロギーを満開させつつ「まず解体から、しかる後建設が始まる」という展望無き展望しか持ち合わせていなかったのに対して、この当時日本共産党が指針させていた「70年代の遅くない時期に民主連合政府を樹立する」運動は目前の手応えのある実体であったということもあって、民青同にとって全共闘的運動に対置しうる理論的根拠となっていた。

 こうして見ると、民主連合政府樹立運動の提唱と立ち消えていった経過が気になってくる。提唱については、「70年の第11回党大会で、民主連合政府の樹立についてあらためて具体的な展望をしめし、73年の第12回党大会では、民主連合政府の政府綱領についての提案まで討議決定しました」(1998年8月25日付「しんぶん赤旗」での不破哲三委員長緊急インタビュー「日本共産党の政権論について」)とある。少なくとも60年代後半には民主連合政府樹立運動が提唱されていたと思われるので、正式な党大会決定されたのがこの時期という意味であるように思われる。「70年代のおそくない時期の民主連合政府の樹立」の可能性については、73.4.13日初版の上田耕一郎著「先進国革命の理論261P」では、「1970年に開かれた第11回党大会では、70年代の遅くない時期に民主連合政府をつくろうという方針を決めました。当時は『まさか』と思っていた人が大部分だったでしょう。ところが、昨年末の総選挙で共産党が大躍進したため、『まさか』どころか、民主連合政府が現実味をもって受け取られるようになってきました。今度はある週刊誌は、民主連合政府の『予想閣僚名簿』まで発表するという気の早さです」とある。が、いざ70年代のその時期を迎えて実際になしたことは、「三木内閣のもとで、ロッキード事件が暴露され、また小選挙区制の問題で日本の民主主義がおびやかされるという情勢がすすんだとき(76年4月)、私たちは、小選挙区制粉砕、ロッキード疑獄の徹底究明、当面の国民生活擁護という三つの緊急課題で『よりまし政権』をつくろうではないか、という暫定政権構想を、当時の宮本委員長の提唱で提起しました」(「日本共産党の政権論について」)という代物になってしまっていた。この経過と執行部の責任について党がどのように総括しているのか私は知らないが、「私たちが、こういう提唱をした70年代、80年代という時代は、政界の状況からいって、私たちのよびかけが現実に政界に影響をおよぼすという条件は、実際的にはまだありませんでした。マスコミからも、いまのような積極的な関心は向けられませんでした。私たちの党に近い部分でも、はっきりいって、こういうよびかけを理論的な提唱としてはうけとめても、政権問題を現実の政治問題として身近にとらえるという問題意識は弱かったと思います。そういう時代的な背景だったんですね」(同)という総括ならざる総括で事なきを得ているようである。私は、「ソ連社会主義論」から「崩壊して良かった論」までの変遷もしかり、状況に合わせていかようにも言いなしうる現執行部の厚顔と口舌の才能に感心させられている。

 してみると、このスローガンは元々党としての責任ある提案だったのではなく、全共闘運動に対置すべく、青年層の全共闘運動に向かうエネルギーを押しとどめるために巧妙に使われていたのではないのかとさえ思えてくる。マサカァと疑うよりはそのマサカァの可能性を思い浮かべてみた方が事態を的確に把握しうる。あの頃本気で民主連合政府樹立を夢見ていた者は幻影を見させられていたということになる。その一人であった私は、今では結局私が単に田舎者だったということだろうと自己了解している。今私があの頃に戻り得たとしたら、どう動くのだろう。民主連合政府樹立スローガンの虚妄を知っている私は党−民青同の系列には加わらないだろう。かといって飛び込めそうな党派も見えてこない。新左翼運動は観念性を強めており、プロパガンダが不足している。所詮エリート的な身内的な自閉的な自己陶酔型の自己満足運動でしかないようにも思える。こうして考えてみると、日本左翼の深刻なというべきか馬鹿馬鹿しいというべきか不毛性が見えてくる。そもそも数十派に分岐している左翼系諸派のお互いの一致点と不一致点さえはっきりしない。運動を担っている当の本人さえよく分かっていないままに党派運動が続けられている面もあるのではなかろうか。してみれば、田舎者の成長過程を上手に引き出すような左翼諸派合同のオリエンテーリングのようなものが欲しい。あるいはまたスーパーマーケットのように各党派の理論と実績をパッケージ陳列させておき、顧客が任意にセルフサービス方式で気に入ったものをバケットに入れるプレゼンテーション手法で党派と関わってみたい。量が質を決定するというのであれば、日本左翼はこうして裾野を拡げていくような努力をなぜしないのだろう。本当に自派の主張に正しさを確信し左翼的民衆運動を担おうとする強い意志があるのなら、党派側はせめてこの辺りまではプロパガンダえしえていないとおかしいのではないかと思ったりする。もっとも、市場経済下のマーケティング革命の進行なぞとんと眼中にない連中が党派運動をやっているので、こうした流通革命的手法の革新的意義なぞ分かりようもなく、昔取った杵柄よろしく旧来手法のままのオルグ活動に拘り続けているのだろうと思われる。この点今から思えば池田氏率いる創価学会活動の先進性が見えてくる。確かあの頃(30年前にもなる)既にビデオを使って布教活動をしていたように記憶している。腹蔵無く語り合う座談会方式といい、釈伏という戦闘的理論闘争といい、機関紙紙上における理論と実践の結合ぶりといい、全国各地に創価会館を敷設していったことといい、やるべきことをやれば政権与党化はそう難事ではないということの例証でもあるかと感心させられている。社会運動は指導者の能力によって随分左右されることが知らされる。

 そのことはともかく、民主連合政府樹立のスローガンにおいて考察されねばならないことは、このスローガンが「70年代の遅くない時期」という時期の明示をしていたことについてである。何らかの根拠があったのか、元々根拠がなかったのかということが詮索されねばならない、と思う。もし、根拠が薄弱な単なる呼びかけでしかなかった時期の明示であったとすれば、党の呼びかけに対するダメージが深刻で、もはや二度と大衆は党の笛吹きには踊らされないと云うことになるであろう。と思うのだけども、党の現執行部は、またぞろ「21世紀の初頭に民主連合政府の樹立を」とか呼び掛けているようである。「民主的政権への道をどうやって開くか。『国民が主人公』の日本への改革です。それを実現する民主的政権を、21世紀の早い時期に樹立するというのが、私たちの大目標であります」(日本共産党創立77周年記念講演会「国政の焦点と21世紀の展望」.書記局長志位和夫. 1999年7月24日「しんぶん赤旗」)とか云われているようである。公然平然たるリバイバルであるが、私は、同じ執行部の下でこうした呼びかけが通用している党員の皆様のおおらかさに万歳させられている。

 このスローガンにおいて考察されねばならないもう一つのことは、民主連合政府という統一戦線政府の内実に対する考察である。当初は社・共政権を核とした政府で最低限綱領を持ったものであったと思われるが、この綱領の移り変わりも興味があるところである。一度調べて見ようとも思うが、党外の私がせねばならないことでもないと思い未調査である。補足すれば、この当時、統一戦線とは、単なる政党間の野合を戒め、「複数の階級、階層が階級的利害や政治的見解・世界観などの違いを持ちながらも、共通の目標のため、共通の敵に対して闘うために創る共同の戦線(共同の闘争の形態・組織)のこと。統一戦線の掲げる政治的課題と目標及び、その階級的構成は、それぞれの国における革命の性格と段階によって、又階級闘争のそれぞれの時期と条件によって決まる。例えば、反ファシズム統一戦線、祖国戦線、人民戦線、民族民主統一戦線などと呼ばれる様々な統一戦線があるのはその為である」(社会科学事典、新日本社刊行)という概念規定の下にかなり厳格に運用されようとしていたという記憶がある。

 この統一戦線論の欺瞞性は、次のことにある。日本共産党のいう統一戦線とは、運動の最大成果を得るために、一時的に綱領路線の逐条に付き方針を凍結してでも右派系諸潮流との共闘を優先させようとする運動論・組織論と思われるが、この場合「一国一前衛党論」が自明にされていることに問題が潜んでいるように思われる。つまり、現実には既に党以外にも公然と左派的立場を自認する諸党派が存在する訳であるから、文字通りの意味で統一戦線というならばこれらの諸党派との統一戦線もまた組み込まれる必要があるにも関わらず、現在の党執行部の統一戦線論にはこの部分がスッポリ抜け落ちている。左派でもない党を最左派とする右派系諸潮流との統一戦線論であり、党より左派系潮流が排除されているという統一戦線論である。急進主義者・トロッキスト・挑発者・反党主義者・分裂主義者・左翼日和見主義者・暴力集団等々ありとあらゆる面罵とレッテル貼りで、これらの諸潮流を無条件に排除した上での統一戦線論であることに留意が必要である。これでは片手落ちというより、本来の意味での統一戦線になりえておらず、自らに都合の良い理論でしか無く、右へ傾いて行くしか出来ない統一戦線という訳である。この点如何であろうか。私の捉え方変調でしょうか。補足すれば、万が一民主連合政府的なものが出来たして、党より左派系諸派の政治的活動が認められる幅が現自・自・公政府下のそれより狭まるという危惧は杞憂なのだろうか。私は、より左派系党派の政治的自由についてきちんと説明したものにお目にかかっていない。赤旗記者が茶髪・金髪OKで党本部を出入りしている自由さとかいう本来何の意味も持たない例で説明しているのを聞いたことがあるばかりである。

 民主連合政府の呼びかけは、歴史的には、社会党がむしろ社・公合意の方向にむかっていったことによって流産したように記憶している。共産党が右へ寄れば寄るほど社会党も右へ動き、今日共産党はかっての民社党辺りのところまで寄って来ているようにも思われる。でどうなったのかというと社会党がいなくなってしまった。民社党はリベラル系保守諸派の中に潜り込んでしまった。この先一体どうなることやら。やはり瑞穂の国は大政翼賛会方式が似合うのかも知れない。こうした流れに結果したことについて、社会党批判とは別途に党の主体的力量の反省もされねばならないのではなかろうか。スローガンに仮に正しさがあったということとその道筋を作りだせれなかったということとは不可分の責任関係にあると思われるが、免責されるのであろうか。つまり、民主連合政府の呼びかけ問題に付きまとっていることは責任体系の問題である。政治的スローガンの提唱は執行部の権限であるが、その指針が流産した場合まっとうな政治的解明と責任処理がなされるべきであるという緊張関係がなければ、全ては饒舌の世界になってしまうのではなかろうか。この峻別がなされているのが自民党であり、与党として信頼が託されている所以なのではなかろうか。しかし、このたびの党の現執行部の呼びかけには反省と工夫がなされているようである。「21世紀の初頭に民主連合政府の樹立を」とあるように、この度は「70年代の遅くない時期」に比して「21世紀の初頭」という漠然とした長期レンジのスローガンになっていることに気づかされる。この時には不破氏も志位氏も政治活動の一線からリタイアしている頃であろうから、執行部の責任体系をあらかじめ放棄した批評的願望的スローガンであることが見て取れる。極く最近では組閣参入にも色気を見せてもいるようであるが、どっちへ転ぼうともフリーハンドの執行部というのは党ならではの羨ましい限りの話のように思えたりする。それにしても党員の皆さんのご納得ぶりにはただただ頭が下がるばかりというしかない。


考察その三、(N)第9期(70年以降)(2000.1.18日)

 第9期(70年以降)【層としての学生運動の衰退とその後】

 いよいよ70年を向かえて「70年安保闘争」の総決算の時を向かえたが、全共闘運動は既にピークを過ぎていた。というよりは既に流産させられていた。民青同と革マル派を除き、全共闘に結集した「反代々木系セクト」はかなりな程度にずたずたにされており、実際の力学的な運動能力はこの時既に潰えていた。機動隊の装備の充実とこの間の実地訓練によって治安能力が高まり一層の壁として立ち現れるに至っていた。従って、国会突入まで見せた「60年安保闘争」のような意味での「70年安保闘争」は存在せず、表面の動員数のみ誇る平穏な儀式で終わった。「60年安保闘争」は「壮大なゼロ」と評されたが、「70年安保闘争」は「そしてゲバルトだけが残った」と評されるのが相応しい。

 70年以前−以降の学生運動の特徴として、次のような情況が作り出されていったように思われる。一つは、いわゆる一般学生の政治的無関心の進行が認められる。学生活動家がキャンパス内に顔を利かしていた時代が終わり、ノンポリと言われる一般学生が主流となった。従来の一般学生は時に応じて政治的行動に転化する貯水池となっていたが、70年以降の一般学生はもはや政治に関心を示さないノンポリとなっていた。学生運動活動家が一部特定化させられ、この両者の交流が認められなくなった。その原因は色々考えられるが、「70年でもって政治の季節が基本的に終わった」のかもしれない。あるいはまた、それまでの左翼イデオロギーに替わってアメリカン民主主義イデオロギーが一定の成果を獲得し始めたのかもしれない。皮肉なことに、世界の資本主義体制は「一触即発的全般的危機に陥っている」と言われ続けながらも、この頃より新たな隆盛局面を生みだしていくことになった。私は、この辺りについて左翼の理論が現実に追いついていないという感じを覚えている。一つは、そういう理論的切開をせぬままに相変わらずの主観的危機認識論に基づいて、一部特定化された学生運動活動家と武装蜂起−武装闘争型の武闘路線が結合しつつより過激化していくという流れが生み出されていくことになった。しかしこの方向は先鋭化すればするほど先細りする道のりであった。反代々木系最大党派に成長していた中核派は、69年頃からプレハノフを日和見主義と決めつけたレーニンの「血生臭いせん滅戦が必要だということを大衆に隠すのは自分自身も人民を欺くことだ」というフレーズを引用しつつ急進主義路線をひた走っていった。この延長上に69年の共産同赤軍派、70年の日共左派による京浜安保共闘の結成、ノンセクト・ラジカル過激派黒ヘル・アナーキスト系の登場も見られるようになった。一つは、革マル派を仕掛け人とする党派間ゲバルト−テロの発生である。この問題は余程重要であると考えているので、いずれ別立てで投稿しようと思う。

 3.14日 大阪万国博(EXP0'70)開会式。この頃カンボジアで内戦が起こり、これに南ベトナム解放軍・北ベトナム軍が参戦したことからわが国のベトナム反戦闘争も混迷を深めることとなった。3.31日、日米安保条約自動継続の政府声明発表。この日赤軍派による日航機よど号乗っ取り事件(ハイジャック)発生。事件の好奇性からマスコミは大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。4.8日革マル派が4.28統一デモに参加したいと申入れ。4.9日カンボジア政府軍、べトナム系住民を虐殺。中国と北朝鮮両政府、「日本軍国主義と共同して闘う」との共同声明を発表。4.15日米国で反戦集会・デモ。数十万人参加。4.23日、日本政府はカンボジアの現状は内戦ではなく、北ベトナム軍の侵略に対する戦いであるとの公式見解を発表。米国政府、カンボジアに武器を援助していたことを認める。4.28日沖縄デー。各地でデモ。10余万名参加。反代々木系1万6600名(うちべ平連など市民団体8000名)結集。集会の途中、革マル派の参加に対し他党派がこれを実力阻止しようとして内ゲバ起こる。べ平連6月行動委がこれに抗議して主催団体を降りる。6行委の隊列から逮捕者4名。重軽傷者各1名。5.8日全共闘、反戦青年委などカンボジア侵略抗議集会。2500名結集、デモ。べ平連など市民団体は不参加。5.29日カンボジア侵略抗議で全共闘、反戦青年委、1万7000名がデモ。

 6月、「反安保毎日デモ」が展開される。6.14日社共総評系のデモ、集会、全国で236ヵ所。「インドシナ反戦と反安保の6.14大共同行動労学市民総決起集会」。革マル派を含む新左翼党派と市民団体の初の共同行動、7万2000名参加。全国全共闘・全国反戦・ベ平連など約1700名逮捕。6.22日米国務省、日米安保条約の継続維持確認の声明。6.23日、日米安全保障条約、自動延長となる。全国で反安保デモ、77万4000名参加。東京では147件で史上最高のデモ届数。新左翼系2万名結集。逮捕者10名。反安保毎日デモは30日まで延長をきめる。この時ML同盟は「国立劇場前爆弾事件」をひき起こして幹部活動家が大量に検挙され、その総括をめぐって紛糾し、組織は壊滅状態に陥った。6月のブント第七回拡大中央委員会を契機に内紛発生。軍事闘争を強調する左派グループに反対し、大衆運動の強化を主張する右派グループの「情況派」「叛旗派」が分裂した。7.1日 共産党第11回党大会(初公開)。7.7日ろ溝橋事件33周年・日帝のアジア侵略阻止人民集会。席上、華青闘が新左翼批判。4000名(うちべ平連550名)結集。7.17日 家永教科書裁判、東京地裁で勝訴。7.23日新潟地裁で反戦自衛官小西三曹の裁判第1回公判はじまる。

 8.4日、厚生年金病院前で東教大生・革マル派の海老原俊夫氏の死体発見、中核派のリンチ・テロで殺害されたことが判明。この事件は、従来のゲバルトの一線を越したリンチ・テロであったこと、以降この両派が組織を賭けてゲバルトに向かうことになる契機となった点で考察を要する。両派の抗争の根は深くいずれこのような事態の発生が予想されてはいたものの、中核派の方から死に至るリンチ・テロがなされたという歴史的事実が記録されることになった。私は挑発に乗せられたとみなしているが、例えそうであったとしても、この件に関して中核派指導部の見解表明がなされなかったことは指導能力上大いに問題があったと思われる。理論が現実に追いついていない一例であると思われる。この事件後革マル派は直ちに中核派に報復を宣言し、8.6日中核派殲滅戦宣言、8.14日中核派に変装した革マル派数十名が法政大に侵入し、中核派学生を襲撃十数人にテロを加えた。以降やられたりやり返す際限のないテロが両派を襲い、有能な活動家が失われていくことになった。9.30−10.2日三里塚第一次強制測量、反対同盟・支援学生、公団側と激闘。10.8日羽田闘争3周年。入管闘争。10.9日ロン・ノル政権のカンボジア、クメール共和国へ移行を宣言。10.20日政府、初の防衛白書を発表。10.21日国際反戦デー。全国で集会、総計37万名が参加、デモ。219名逮捕。11.7日べ平連第62回定例デモ(マクリーン裁判支援として)、680名参加。逮捕11名。デモに革マル派100名が参加。デモ参加者に暴行、混乱。10.22日、日米共同声明1周年抗議で、べ平連・入管闘・全共闘など共催「日米共同声明路線粉砕・入管法再上程阻止・入管体制粉砕、11.22労学市民総決起大会」。1万2000名(うちべ平連1500名)デモ。

 11.25日、作家三島由紀夫氏らが市ヶ谷自衛隊内でクーデター扇動、割腹自殺。この事件も好奇性からマスコミが大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。今日明らかにされているところに寄ると、70年安保闘争の渦中で決起せんと楯の会を組織していたが平穏に推移したことから「全員あげて行動する機会は失はれ」、この期に主張を貫いたということであった。私論であるが、こうした右派系の運動と行動について少なくとも論評をかまびすしくしておく必要があるのでは無かろうか。決起文には「革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真價は全国民の目前に証明される筈であつた」、「日本はみかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐる」、「日本が堕落の渕に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の練成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。私は諸君に男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた」等々と記されていた。この決起文に感応すべきか駄文とみなすべきか自由ではあるが、左翼は、こうした主張に対してその論理と主張を明晰にさせ左派的に対話する習慣を持つべきでは無かろうか。機動隊と渡り合う運動だけが戦闘的なのではなく、こういう理論闘争もまた果敢に行われるべきでは無かろうか。今日的な論評としてはオウム真理教なぞも格好の素材足り得ているように思われるが、なぜよそ事にしてしまうのだう。百家争鳴こそ左翼運動の生命の泉と思われるが、いつのまにか統制派が指導部を掌握してしまうこの日本的習癖こそ打倒すべき対象ではないのだろう、と思う。

 12.13日、日米繊維交渉、行き詰まり、中断。12.18日京浜安保共闘、赤塚交番襲撃銃奪取闘争。警官に撃たれて3人が死傷、柴野晴彦射殺さる。12.20日沖縄コザ市で暴動(コザ大暴動)。騒乱罪適用される。この頃軍事路線をめぐって「RエルGゲー」(共産主義突撃隊)の強化とゲリラ闘争を主張するブント左派グループが、それに難色を示す中間派の「荒派」に対して訣別を宣言した。

 71年以降においても追跡していくことが可能ではあるが、運動の原型はほぼ出尽くしており、多少のエポックはあるものの次第に運動の低迷と四分五裂化を追って行くだけの非生産的な流れしか見当たらないという理由で以下割愛する。ここまで辿って見て言えることは、戦後余程自由な政治活動権を保障されたにも関わらず、左翼運動の指導部が人民大衆の闘うエネルギーを高める方向に誘導できず、「70年安保闘争」以降左派間抗争に消耗する呪縛に陥ってしまったのではないかということである。この呪縛を自己切開しない限り未だに明日が見えてこない現実にあると思われる。他方で、第二次世界大戦の敗戦ショックからすっかり立ち直った支配層による戦後の再編が政治日程化し、左翼の無力を尻目に次第に大胆に着手されつつあるというのが今日的状況かと思われる。「お上」に対する依存体質と「お上」の能力の方が左翼より格段と勝れている神話化された現実があると思われる。問題は、本音と自己主張と利権と政治責任を民主集中制の下に交叉させつつ派閥の統一戦線で時局を舵取るという手法で戦後の社会変動にもっとも果敢に革新的に対応し得た自民党も、戦後政党政治の旗手田中角栄氏を自ら放逐した辺りから次第に求心力を失い始め、90年頃より統制不能・対応能力を欠如させているというのに、この流れの延長にしからしき政治運動が見あたらない政治の貧困さにあるように思われる。





(私論.私見)