「戦後学生運動史概観旧版1、戦後学生運動1、60年安保闘争まで

 (最新見直し2006.5.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 これは「さざなみ通信」の「共産党の理論・政策・歴史討論欄」の「99年〜00年」に収録されているれんだいこの投稿文で、ここでは「戦後学生運動の総括その1」として60年安保闘争までの流れを考察している。当時は、れんだいじのハンドルネームで登場していた。現在は、れんだいこ論文集の「戦後学生運動論」で書き直し収録している。前者の方がコンパクトになっており読みやすい面と、後者は今後益々書き換えられていく予定なので原文を保持する為にもここに取り込んで遺しておくことにした。(適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法に即して書き直した)ある。当時は、れんだいじのハンドルネームで登場していた。(適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法及び表記に即して書き直した)

 2006.5.18日 れんだいこ拝


「新日和見主義事件」考察その一、はじめに(1999.12.1日)

 先の「査問事件」の考察は恐らく私の畢生の労作になったと自負しているが、今のところ誰からも批評を頂けないので拍子抜けしてしまう。マァ元気出して行こう、元来ネアカなので気にしないと思っていたら、宮地さんのホームページで取り上げて下さり、やはり見ている方もおられるんだなぁと心強くなり、頑張って書き続けていこうと再意欲が出ました。私の「査問事件」の考察は、一連の流れをドラマ化させたという点で、たたき台として誰かがせねばならない作業であったと今でも自負しています。是非党の再生作業の一里塚としてご利用賜りますよう改めてお願い申しあげておきます。あの作品が党の旗を守ることと現執行部を擁護することとは認識上厳格に区別する必要があるということをモチーフにして書き上げられているということをご理解しつつ読み進めて頂ければなお真価が見えてくると思います。

 このことは意外に重要な指摘です。私は今「新左翼20年史」(新泉社)と「戦後史の証言ブント」(批評社)を読んでいます。「新日和見主義事件」の解明の前作業として必要だと思っているからです。気づいていることは、島氏らを初めとした当時の全学連指導部の極めて有能な感性と理論と行動力が今日まさしく再評価されねばならないということと、そういう彼らにしてみても党史の流れを読み誤っている面があるのではないかということです。先行して結成された(後の)「革共同」史観の影響に引きずられたという面もあったとは思われるが、「50年問題について」党内がドラスティックに徳田系執行部から宮本系執行部に宮廷革命されつつあったという「不義」に対する闘いが組織されておらず、日本共産党という看板そのものに対して「反スタ」的に反発していったという経過が認められます。「所感派」(徳田系)と「国際派」(宮本系)学生党員が、党内のゴタゴタに嫌気がさしてもはや「前衛党」頼むに値せずとして自力の「反代々木系」運動を創出していくことになったが、そのことによって宮本系宮廷革命の党内での進行をより易々と許容させたという面があるのではないのかという面での考察が未だになされていないように思われるわけです。

 徳田執行部には多々の誤りがあったかも知れない。特に野坂式の穏和化路線と徳田式の急進路線という二頭立ての運動がジグザグ式に進められていたということと、国際共産主義運動の権威としてのコミンフォルムの適切でない干渉に対して翻弄されていったという面とか、徳田氏が今日スパイとして判明させられている野坂氏に対してそのような認識を持つことなく最後まで連れだった党運動に終始したこととかいろいろ反省されねばならないことがあったことは事実ではあるが、後の経過から見て特に徳田系列の深紅の革命精神には一点の曇りがなかったという史実については歴史的限界性の中において正しく評価継承されるべきではなかったか。結果的には「六全協」から第七回党大会、第八回党大会を通じて最悪の指導部の形成が進行したのではなかったのか、ということが私の視点となっています。

 既に言及したように戦前の「査問事件」の本質を見れば、宮本氏の胡散臭さは言い逃れの出来ない事実としてあるわけであり、「獄中12年」の実際の様子にしても今日の如く神聖化され、その聖域から転向組の非を責める程の実体は何もなく、むしろ疑惑されるべき不自然さを露呈しているのではないのか、徳田氏が宮本氏を忌避していた経過にはかなり根拠があったのではないのかということを一刻も早く確認することが党の再生には不可欠になっているのではないでしょうか。私の警鐘乱打はそのことの指摘という構図になっているわけです。

 この面においては、「ブント」も「新日和見主義者」たちも未だに認識されていないように思われるわけです。なぜこうした読み誤りが起きるのかというと、党史の重要な経過が常にヴェールにくるまれて進行させられており、末端の活動家は意味も分からぬまま目先の運動で消耗させられてきているという党運動の在り方に起因しているのではないのか。あるいはまた「鉄の規律」とか「民主集中制」とか「統一と団結」とかいろいろな言葉で修辞されるような、執行部にフリーハンド、下部には盲目的な党活動が、受け入れる側の方にも「権威拝跪精神」が内在して機能しており、一般党員のこのような没批判精神が要因となっているのではないのかということに対する内省がそろそろ必要なのではないでしょうか。ここには世上の宗教運動や天皇制信仰と何ら変わりのない精神構造が認められ、科学精神で始まったマルクス主義にしてはおかしな非科学精神が培養されていることを認めないわけにはいきません。「さざ波通信」誌上、党の擁護か現執行部の擁護か判明しない見地からの投稿が何編かなされていることに気づかされています。これは私が党外であるからよく見えるのかもしれない。

 というような観点を込めて次の仕事として「新日和見主義事件」の解明に向かおうと思う。わたしの同時代的な青春譜でもあるのでノスタルジー無しには語れないが、いつかはこうして総括しておこうと思い続けてきた長年のテーマであるからして向かわねばならない。ただし、これに本格的に取りかかり始めるとすれば莫大なエネルギーが予想される。能力的に私自身が耐えきれるかどうかということと仕事の傍らで出来るだろうかと不安があるが、手に負えなくなったら立ち止まり、あるいははしょれば良いからという理屈で立ち向かっていこうと思う。


考察その二、事件総括の重要性について(1999.12.5日、12.9日部訂正)

 「新日和見主義事件」は運動としては「双葉の芽」のうちにつぶされたので、党史から見ればさほど重要な位置を占めない。つまり、たいした事件とはならなかったということである。が、この事件も間違いなく宮本氏の号令一下で始められた「査問」事件であったことと、党指導下の青年学生組織に対して取られた党による極反動的な統制政策であり(宮本氏を調べていけば行くほど、こうした「統制好きな面」と「査問好きな面」が浮かび上がってくる。氏の行動が左翼運動の前進的発展に寄与した面について私は少しも知れない。度々お願いしているが、どなたか、いや実はこういう貢献があるというものがあったら本当に教えて欲しい。なぜこんな人物が「無謬」だとか「獄中12年」の神話化人物になるのだろう。不思議というか考えられないことなのだけど、そのからくりについても教えていただけたらありがたい。これはマジで言ってます。私には、インテリジェンスのあるいい大人が何でいとも易々そういう論理を受け入れているのか理解不能なのです。ましてや今日の党路線に批判的な者でさえ、こと宮本氏の評価となると絶対的基準で氏を擁護する姿勢が見られるようである。この現象を整合的に説明してくれませんか)、これ以来30年間近くにわたって今日にまで至る党指導下の青年学生運動の低迷を作り出していることを思えば、「新日和見主義事件」はこの両面において象徴的な反動的な政治的事件であったという重要性を帯びており、かなり底流的に重みがあると思われる。

 「70年安保闘争」以降、戦後の社会運動に一定の影響力を持ち続けた青年学生運動のうち、急進主義を担った勢力はより先鋭的方向に引きずられていくことによっていよいよ大衆から分離し、この間いかなる経過にも惑わされずひたすら愚頓直に党の指導に従ってきていた「民青同」のその中に僅かに残されていた戦闘的良質部分がこの「新日和見主義事件」への鉄槌の結果最終的に瓦解させられ、以降この両面からの打撃で今日にまで続く青年運動の低迷を招くに至っているということを考え合わせると、「新日和見主義事件」は歴史的な政治的重要性を残しているように思われる。これを系統的に証明するとなるとかなり大がかりな難事となる。が、突き動かすものがある故に取り組まざるをえない。この作業の結果、今日低迷する青年運動の核心に触れるものが見いだされる筈であり、宮本式路線の反動的本質がレリーフされる筈である。そういう歴史的な教訓を汲み出すために拙かろうともいざ出航する。

 もっとも事件のこうした受け止め方は個別私のそれであり、同時代のあの仲間達の認識として共有されていたとはとても思えない。それが証拠に、当時の多くの活動家は何が何だか分からないうちに党の一片の公式見解に唯々諾々してしまい、事件はアッという間にうやむやな歴史の彼方に放擲されてしまった。つつがなく今日まで経過させてしまっていることによっても一般的な受け止め方ではないことが裏付けられる。当時の赤旗紙面が手元にないが、私が受けた印象は、既述したこともあると思われるが、批判しやすいように改竄された新日和見主義者なる者が得手勝手に措定され、読む者をしてそんな馬鹿げたことを連中は言っているのかと容易に受け取らせしめる詐術でもって文章構成されたものだったと記憶している。翌日のキャンパスで、対立セクトの連中から「何だぁ、てめえらの思想は。もう少しましかと思っていたが云々」と揶揄されたことを不思議と今日まで覚えている。私の場合、個人的事情も重なって丁度この頃運動から離れていった経過があるが、この時「こんな党をいつまでも相手してられないわ」という思いが忽然と湧いていたように思う。私の場合、55年時の後のブント系運動創出活動家達ほどの能力も情熱もなく以来左翼運動そのものから遠ざかることとなった。たまたまパソコンを手にした喜びでかっての関心を呼び起こし、たまたまこの「さざ波通信」と出会うまで個人的な生活費闘争に明け暮れつつ今日まで至っている。もっともお陰様でというべきか少しは世間を広く知ったような気もしている。

 そのことはともかく、結果は語る。「新日和見主義事件」は、その後の「民青同」の急速な低迷を招き青年運動に負の遺産をしっかりと刻み込んだ。このことにつき現執行部党中央は、苦衷を感じているように思われない。むしろ、60年安保闘争・70年安保闘争の経過で見せた青年運動の盛り上がりが勃発することを二度と期待していないようにさえ思われる。青年運動の低迷と「新日和見主義事件」の関係を関連づけて捉えようとする動きは掣肘されれたまま今日に至っているように思える。この「新日和見主義事件」が脚光を浴びたのは、おおよそ25年後に事件の被主役であった川上徹氏(民青系の再建全学連の初代委員長でありこの当時民青同中執のリーダー格として影響力を持っていた)が著作「査問」によって事件の真相を自ら世に知らしめたことによってである。ただし、「査問」を読む限り、失礼ながら当人である川上氏にとってさえいまだに事件の深層が理解されていない風がある。私から見ればそう見える。川上氏が明らかにしたことは、「党の正式な査問として、云われるほどの咎もないのにかようなことがされた」という告発であって、多くの者もその範囲で理解しようとしているように見える。つまり、問題にされているのは「査問の真相」であって、「事件の深層にあったもの」についてではないように思われる。最近新たに「汚名」が出版されたようである。まだ手にしていないが「さざ波通信」によって一部了解している。本来読了してから言うべき事かと思うが、貴重な証言がなされているようである。つまり、「新日和見主義事件」の査問者側の複数員が何と!公安のスパイであったというのだ。こんなことは果たして偶然であろうか。さもありなんではないのか。私の推論はほぼ知られていると思うので繰り返さないが、この根本の所から疑惑し直さないと党の再生はありえないということが言いたいわけだ。今私は戦後の学生運動を通史として読み直している。気づくことは、党の指導からいち早く離れて新党を結成していった数多くの諸セクトも、党を追われた者も自ら出ていった者もこの点では皆読み誤っているように思われる。

 ここに私の考究の意味がある。私は、この一連の投稿によって「査問」の背景にあったと思われる「事件の深層」について迫ってみようと思う。低迷する今日的左翼の現状打破につながるキーがここに隠されているように思うから。この「深層」を切開することはかなり難しいが、新旧左翼の垣根を越えて評価に耐えうる投稿文を書き上げたいと思う。エラそうに言える程のものは何も持ち合わせていないが、場面によってはそういう提言をなさねばならない箇所に出会うことになる予感がしている。そう言うときには割り引いてご理解願いたい。

 まず、戦後の学生運動の概括をしておくことにする。この流れを掴まないと「新日和見主義事件」の本質が見えてこないと思われるからである。全体をまとめることは出来ないのでその時々の全学連運動の特質と指導部の党派性に注意を払いながら見ていくことにする。今日の如く雲散霧消させられた学生運動の現況と現代若者のインテリジェンス水準から見えてくることは、当時の学生がいかに天下国家を熱く論じていたのかという良質性である。私が思うに、あの当時の活動家が夢見ていたような革命が起ころうが起こるまいが、二十歳前後の頃からの一定時期に自身と社会との関係についてあるいはまた国家とか世界との関連の中で、自身の一個としての存在の社会的関わりを徹底的に見つめておくことは、人間としての弁証法的成長の過程に必要なことなのではなかろうかということである。今社会全体にこうした議論が少なくなってきており、こうした風潮にあきたらない思いの者が没政治主義的にオウム真理教やライフ・スペース等の宗教的活動や最近隆盛しつつあるネットワーク商法やその他諸々のコミュニケーション活動に向かっているのではなかろうか、とさえ思われる。人間の存在的根源にコミュニケーション活動があり、こうした活動は何時の時代でも何らかの形で立ち現われるものであり、むしろ人の成長過程としての健全性を証左しているものであり、学生運動もまたその一つの表現ではなかったのだろうか。一世風靡した学生運動は当時の社会が許容していた「明日の国造りに有益な社会的投資」活動の一環として位置づけられる国益上有益にして民族の活力の源泉のようなものではなかったか、とさえ思われる。私は、今に継続されている韓国・中国等の青年のエネルギッシュな行動に明日のかの国の発展が見えてきそうだという感慨を抱いている。

 ところで、大きく見てそのように意義づけられる学生運動に携わった者も、学生運動に立ち現れた分裂状況に制約されて、自身が属した党派の側からの一方的な視点の了解の仕方でしか学生運動を把握しえていないのではなかろうか、と思われる。私がそうだからそうであろうということに一般性があるのかどうか分からないが、私はそのように了解している。この辺りを出来るだけ多面的にウォッチしてみようと思う。


れんだいじさんへ(1999.12.7日、木村)

 1冊の本ができあがりそうな投稿を終えて間もなく、また、長編になりそうな投稿にとりかかってみえます。そのバイタリティーには驚きます。訂正すべきところを1つ。川上氏は民青の委員長であったことはありません。たしか中央常任委員であったと思います。論旨に影響はないと言えばそれまでですが、こうしたところでミソをつけられるのは、れんだいじさんの本意ではなかろうと思いますので、あえてお知らせします。『汚名』は、ぜひお読みになってから投稿を書かれることをお勧めします。筆者は当時の民青同盟静岡県委員長であった人であり、事実関係については『査問』よりもわかりやすいといえるかもしれません。


考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(@)(1999.12.9日)

 木村さんのご忠言ありがとうございます。指摘されてみればそうだったですね。川上氏の委員長について民青同と全学連を混同させていました。編集部の方にお願いして早めに訂正しようと思います。これからの投稿につきましてもよろしくご指摘ください。何せ継ぎ接ぎ継ぎ接ぎで経過を追おうとしていますので多々そういう面も生じるかと思われますのでよろしくお願いいたします。実際今回の課題が大きすぎて既に辟易し始めていますが、バックターンも悔しいので書けるところまで追跡していく決意です。『汚名』についても読まねばと思っていますが、私の近くの本屋には何カ所か回りましたが出回っておらずそのままになっています。注文すれば良いだけのことですからこれは言い訳かもしれませんね。

 以下の文章につき、党及び関係書店発行各書と前掲二書の他いずれも最近古書屋で手に入れた「戦後日本共産党史」(小山弘健、芳賀書店)、「現代の青年運動」(藤原春雄、新興出版社)、「宮本顕治倒るる日」(水島毅、全貌社)、「過激派の形成とその背景」(山室章、日本経営者団体連盟)、HP「マルチメディア共産趣味者連合」、「現代古文書研究会」、「宮地氏の共産党問題、社会主義問題を考える」等を参照させていただいた。

 第1期(45年〜49年)【(日共単一系)全学連結成前後期】

 この期は、「戦後民主主義」時代のスタートに立って薫風香る自治会活動を基盤として全学連が結成されていった時期である。戦後の学制は、戦前の軍部の介入に対する苦い経験を反省してか格別「大学の自治」を尊重した。同時に学生に対しては、「学生の民主的な社会性の育成」という大学教育の一環として、学生生活の向上や課外活動の充実をはかる目的で「学生自治会」が用意されることになった。こうして各大学とも、学校側が各種の便宜を与えて、学生全員を自治会に加入させ、自治会費を徴収し、その運営につき学生に自主的運営に任すこととなった。こうした制度的措置は、恐らく、この当時の超規的権力であった「GHQ」による、日本国内の残存軍事機構及び勢力の一掃に伴う民主主義的諸制度の拡充支援策の経過でもたらされたものではないかと思われる。そのことはともかく、こうしてつまり、学生全員加入制による全納徴収会費が自治会執行部に任されることになった。これはこういって良ければ一種の利権であり、この後今日までどの党派が各大学の自治会執行部を押さえるのかをめぐって血眼になっていくことと関連することになる。

 戦後当初の学生運動は、「戦後民主主義」の称揚と既得権化を目指して学園内外の民主主義的改革と学生の基本的権利をめぐっての諸要求運動を担っていくことになった。歌声、フォークダンス、スポーツ、レクリェーションなど趣味的活動から、生活と権利の要求や学習活動、平和と民主主義に関する政治的活動が取り組まれた。こうした運動は後に「ポツダム自治会運動」として揶揄されていくことになったが、政治的意識の培養が一朝一夕にはなされずステップ・バイ・ステップで高められていくことを思えば、こうした運動自体は否定されるべきことではなく、契機づくりとしては必要必然なプロセスではないかと思われるがいかがなものであろうか。この時期の学生運動指導部は自然と日本共産党党員活動家が担っていくことになった。この当時の日本共産党が他のどの政党にも増して青年運動の重要性を認識していたということでもあり、受けとめる側の方も、党をいくつかの政治諸党派の最左翼という位置にとどまらず、「革命の唯一の前衛党」という象徴的権威で認めていたということでもあった。


 ちなみに、ここで触れておくと、レーニンは青年を「未来の主人公」と位置づけ、「青年は完全な自立無しには、すぐれた社会主義者となることも、社会主義を前進させる準備をすることも出来ないであろう」とする観点から、青年運動の自発性・自主的な性格でのいわばトレーニング的な意義をも持たせた創意工夫性のある実践活動を重視していたようである。「青年インターナショナルについての覚書」の中で、「青年は何か新しいものだから『先輩とは違った道を通り、違った形で、違った条件のもとで』社会主義に近づくということを忘れてはならない」と指摘しているとのことだ。ところで、その後を受け継いだスターリンは、青年運動に指針を与えたが、レーニンのそれとは違って「何よりも党の要請、党の必要に向けて、如何に青年を動員するか」を重視することとなった。青年運動の自発性・自主性・創意工夫性の部分がスッポリと抜け落ちてしまったのである。

 この時期に全国学生自治会連合が結成されている。党のフラクションとして全国社会主義学生同盟(全社学同)等も結成されている。47年(昭和22年)に全国国立大学自治会連盟が結成された。この頃授業料値上げ反対と大学理事会法案反対を掲げた闘争に取り組み、6.1日日比谷公園に約5000名規模の学生集会とデモ行進がなされている。6.26日授業料値上げ反対ストを打ち出している。この運動の流れで全日本学生自治会総連合(全学連)の結成決議が為された。48.9.18日に国立大学系の学生運動と早稲田大学を中心とする私学系が合体し全学連が結成された。全学連は、各大学の自治会を基盤にこれを連合させて形成されたところに特徴が認められる。自治会数268校、員数22万人。事務局本部は東大に置かれ、初代委員長武井昭夫(東京大学)・副委員長高橋佐介(早稲田大学)・書記長高橋英典(東京大学)・中執に安東仁兵衛、力石定、沖浦和光らが選出された。上田・不破兄弟らもいたとのことであるがポジションが分からない。どなたか教えていただけましたらとも思います。党は、「当面の学生運動における方針について」で学生運動の指針を与えていた。全学連は、これより以降50年あたりまで武井委員長の指導の下で一致団結して各種闘争に取り組んでいくことになったようである。この大会で採択されたスローガンは次の六項目であった。○教育のファッショ的、植民地的再編絶対反対○学問の自由と学生生活の擁護、○学生アルバイトの低賃金とスト破り反対、○ファシズム反対、民主主義を守れ、○青年戦線の即時統一、○学生の政治活動の完全な自由。

 この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。1945年(昭和20年)敗戦とほぼ同時にこの時期早くも党は青年共産運動の建設の課題を提起し、党の指導下で学生青年運動を立ち上げていくことになった。戦前1922.4月に日本共産青年同盟(共青同)が創設されていたが、その革命的伝統を継承して45.8月に民主主義青年会議が組織されている。これは国際共産主義青年インターナショナル第6回大会で決定された青年単一戦線結成の方針を日本に適用しようと意図したものであった。しかし、党は、国際的経験を正しく摂取した青年同盟の路線を提起しえず、人民戦線以前の「社会ファシズム論」的なセクト的思想のままに社民的改良運動排撃を指導したようである。翌46年(昭和21年)1月に青共同の再建を指導し結成に導いている。青共同は、戦後の動乱期に積極的に活動し急速に発展した。ただし、この時期の運動は、全体として行動隊としての性格と市民的権利意識の段階にとどまり、青年の自主的行動を通じて階級意識を高めることに積極的ではなく、イデオロギー的にも左右にゆれていたようである。全社学同と青共同の一部で全日本民主青年同盟が結成された。こうした動きの最中49年になると、党の指示によって、青年政治戦線の統一の立場から青共同・「民学同」など四団体の合同の申し合わせを行い、民主青年合同委員会を発足させているが、階級性の抜き去られたものであったようである。その為、先進的活動家の離反をみているということである。この時の党の指導者が誰であったのか等々知りたいが不明である。

 第2期(50年〜54年)【(日共単一系)全学連の組織的発展と分裂期】

 この期は、結成された全学連の運動が次第に日常的な諸要求闘争の究極にある「社会の根源」に対する闘いへと運動を向自化させていきつつあった時期である。この間全学連は、何回かの全国的闘争を経て全国主要大学の隅々まで組織化していくことになり、この経過で東大・早大・京大らの学生党員グループがその指導権を確立していったようである。全学連は、次第に青年運動特有の急進化運動を押し進めることになり、徳田執行部への反発と批判を高めていった。ただし、同時に50年以降の党の所感派と国際派への分裂の煽りを受け、全学連指導部もまた所感派と国際派に分裂していくことになったようである。


 武井委員長ら全学連中央グループ指導部は、この時国際派の系列についたようである。つまりこの時点では宮本グループと親しい関係にあったということを意味する。長文の意見書を党中央に提出し、徳田系執行部のこれまでの学生運動に対する指導の誤りを痛撃した。東大や早大の学生細胞からも相次いで意見書を本部に提出していた。この系流が51.11月反戦学生同盟(反戦学同)を結成した。この時の武井委員長の意見書に「層としての学生運動論」理論が展開されているとのことである。それまでの党の指導理論は、「学生は階級的浮動分子であり、プロレタリアに指導されてはじめて階級闘争に寄与するものに過ぎない」というのが公式見解であった。武井委員長は、意見書の中で「学生は層として労働者階級の同盟軍となって闘う部隊である」という学生運動を「層」としてみなすことにより社会的影響力を持つ一勢力として認識するよう働きかけていったようである。その後の全学連運動は、この「層としての学生運動論」を継承していくことになり、武井委員長の理論的功績であったと評価されている。

 この頃世情は騒然とし始めており、朝鮮戦争の拡大、警察予備隊創設、共産党と全労連の解散、出版・報道関係のレッドパージが進む状況に直面していた。党内情勢の分裂事態が深刻で、党非合法化に対処する過程で、徳田執行部党主流派は国際派の宮本・志賀らを切り捨てたまま地下に潜行した。この党内分裂は全党末端にまで及んでいった。党主流派の主要幹部は中国に逃れ、国内の指導はその指揮下の「臨時中央指導部」に委ねられていた。国際派の動きはまばらの野合であったが、宮本を中心に党統一会議としてまとめられていくことになった。全学連グループはこの流れに属したことは既述した通りである。ところが、中国に渡った徳田指導部は、「51年綱領」で、従来の平和革命式議会主義から一転して武装闘争路線へと転換せしめることになった。この方針は、長期にわたる武装闘争によって勝利を獲得した中国共産党の経験を学び、中国革命方式による人民革命軍とその根拠地づくりを我が国に適用しようとしたものであった。こうして「山村根拠地建設」が目指され、「山村工作隊」・「中核自衛隊」等が組織され、各地で火炎ビン闘争を発生させた。中核自衛隊の組織、戦術等が指示された武装闘争支援文書「栄養分析法」・「球根栽培法」等が配布された。同書にはゲリラ戦・爆弾製造の方法も書かれていた。

 こうした党内の大激震下で徳田系執行部を支持する所感派学生党員は、52年の全学連第5回大会で武井委員長らを追放し主導権を握った。新執行部は、党の武闘路線の呼びかけと「農村部でのゲリラ戦こそ最も重要な闘い」とした新綱領にもとづき、農村に出向く等武装闘争に突き進んでいくことになった。こうして戦闘的な学生達は大学を離れ、農村に移住していった。この間国際派学生党員グループは反戦学同に結集しつつ主に平和擁護闘争を取り組んだようである。留意すべきは、どちらの動きにせよ党指導下のそれであったことであろう。

 この時期の全学連の闘争で注目されるものを記す。50.5.2日反イールズ闘争に立ち上がった。イールズは、各地でアメリカン民主主義を賞賛しつつ共産主義教授の追放を説いて回っていたが、その講演会を中止に追い込んだ。50.8.30日全学連は緊急中央執行委員会を開いて「レッドパージ反対闘争」を決議。各大学自治会に指示を発した。10.5日東京大学構内で全都のレッドパージ粉砕総決起大会が開かれた。都学連11大学2000人が参加、これが契機となり全国の大学に闘争が波及した。52.2.20日東大でポポロ座事件発生。劇団発表会に私服警官が潜入していることが判明、問題となった事件であった。破防法反対闘争なども取り組まれている

 この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。「51年綱領」によりこの時期の党の青年運動組織への指導が大きく転換した。51.5.5日に日本民主青年団(民青団)が発足している。民青団は、党主流所感派の系列で生み出されたものであり、全学連活動家のその多く連なった。彼らは党の方針を信じ、党の軍事方針の下で工作隊となり、積極的に参加していくことになった。東京周辺の学生たちは、「栄養分析法」・「球根栽培法」等の諸本を手にしながら三多摩の山奥にもぐり込んだ。結果的にこの時期の党の武装闘争路線は破綻していくことになり、民青団も大きな犠牲を払うことになった。今日「中国の人民戦争の経験の機械的適用であった」、「民族解放革命を目標として、街頭的冒険主義に陥り、セクト化を強め一面サークル主義になった」(「日本共産党の65年」)と総括されている。

 第3期(55年)【(日共単一系)全学連の組織的崩壊期】

 この期の特徴は、55.7月に至って「六全協」が開かれ、この間の徳田系執行部の軍事方針は「極左冒険主義」であったと批判されることになったことにより、この間徳田系執行部の指導下にあった全学連もこの煽りを受けて自壊状況を現出していくことになったことに認められる。事実はこの時宮廷革命が発生しており、徳田執行部系所感派から宮本系国際派へと指導実権が移行しつつあった。この時の全学連指導部はほぼ崩壊していたこととショックのあまりか、この経過に対しなす術を持たなかったようである。55.9月に全学連第7回中央委員会が開かれ、宮本式路線に従って、この間の党の極左冒険主義と全学連指導部の動きを批判することとなった。いわゆる「歌ってマルクス、踊ってレーニン」というレクリエーション路線」として揶揄される穏和化方向へ振り子の針を後戻りさせることとなった。これを「7中委イズム」と言い表すことになるが、自治会を「サービス機関」と定義し、一転して日常要求路線へと全学連運動を向かわせることになった。「自治会=サービス機関論」とは、「学生の身近な要求を取り上げて、無数の行動を組織していけば、学生の統一ができる。……勉強のこと、恋愛のこと、就職や将来のこと、我々の苦しみや希望を深く話し合うこと……自治会は、学生の要求を取り上げて、それをサービスすれば良いのであって、情勢分析や政治方針の提起を行うべきでない」という、自治会の役割を「学生の日常要求に応えるサービス機関」する理論であった。トイレに石けんを付けるというサービスを運動としたのもこの時期であったということである。

 この時期の全学連の闘争で注目されるものを記す。所感派・国際派の別を問わず急進主義派の学生たちが「平和と民主主義」の根幹に関わる政治闘争として砂川闘争に取り組んだ。55.9.13日米軍立川吉の拡張工事の為砂川町の強制測量が開始され、労組・学生と警官が正面衝突した。砂川闘争の始まりである。10.4日第二次測量開始。10.13日全学連と反対同盟らが警官隊と衝突し、流血事件が発生している。この様子を見て、当時の鳩山内閣は測量中止を発表することとなった。全学連と反対同盟側の勝利であった。55年の暮れより56年の春にかけて、東大細胞の島成郎・森田実・中村光男・生田浩二・古賀康正らが中心になって全学連の再建に乗り出していくことになった。同じ思いで呼応したのが関西の星宮○生、早大の高野秀夫らであった。


 この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。この時期青年・学生運動は、急進主義派と穏和派に二分化しつつあった。主に穏和派の動きであると思われるが、民青団もまた全学連同様に「六全協」総括の煽りを受けて清算主義に陥り、自壊状況を現出していくことになった。マルクス・レーニン主義を学ぶことさえ放棄する傾向をも生みだし、解体寸前の状態に落ち込んでいくことになった。


考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(A)(1999.12.10日)

 以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。この時期の学生にとってマルクス主義受容の精神風土的根拠についての考察である。私の場合の捉え方が一般化出来るのかどうか分からないが、あんまり変わりないものとして推定する。当時の学生をも取り囲む社会は、敗戦の混乱から復興へ向けての資本の再蓄積の発展過程にあり、同時に冷戦下での米ソ二大陣営の覇権競争期に直面しており、国内外に強権的な支配政策が横溢していた。そうした事象発生に内在する社会の矛盾に目覚めた者は、過半の者が必然的とも言える行程でマルクス主義の洗礼へと向かっていった。マルクスの諸著作には、必然的な歴史的発展の行程として資本制社会から社会主義へ、社会主義から共産主義の社会の到来を予見していた。社会主義社会とは「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」社会であり、共産主義社会とは「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」社会であった。この社会に至ることによってはじめて社会の基本矛盾が止揚されていくことになるが、この革命事業の手法をめぐって見解と運動論の違いが存在する。なお、この道中には過渡期が存在する。しかし、資本主義の墓掘り人としてのプロレタリアートの階級的利益の立場に立って、プロレタリアート独裁権力を通じてその歴史的任務をより合法則的に作動させていくならばいわば効率的にその社会に近づいていくことが出来、その知性と強権の発動のさせ方に前衛党の任務がある。気がつけば国家が死滅しており、人々の助け合いのユートピア社会が実現している。その行程の一助になる革命事業のためならば私一身の利害は捨てても惜しくはない。こうして「マルクス共産主義は、それまでの社会科学の集大成によって創られた無縫の天衣である。人間を包み込んで尚あまりあるもの。人間のどんな要求も呑み込み消化し社会の創造維持発展の養分にしてしまえる仕組み。と思っていた。沸き上がってくる望みや理想は全てそこから引き出せる」(「戦後史の証言ブント」榊原勝昭)とでも言える認識で即興の左翼活動家が生み出されていったのではなかろうか。私の場合、あれから30年近くの歳月を経て、このような階級闘争史観で万事を無理矢理解くには不都合な事象にも出くわしてきており、そのようなものの見方に対しては二歩三歩遠景から眺めるようになっている。「これはもう感情的な問題や。政策とか路線の問題じゃない。感情論の問題というのは修復し難いんですよ、歴史を見ても。どないもならへん」(「戦後史の証言ブント」星宮)という物言いには根拠があると思うようになっている。とはいえ、他方で今日的な社会現象としての人と人とのスクラムのない閉塞状況からすれば、ますます当時の青年学生がつかもうとして挑んだ行為が美しくさえ見えてきてもいる。以下は、そういう者たちの青春群像による運動的事実が戦後史に存在したことの確認のため記す。

 第4期(56年)【全学連の再建期】

 この期の特徴は、この間ジグザグする党指導により全学連が瓦解させられた経験から、もはや党の影響を受けることを峻拒しようとする学生党員グループが発生し、こうした連中によって全学連の再建目指して胎動していくことになったことに認められる。

 この頃の全学連再建グループの背景にあったものは、党に対する深い失望であった。「六全協」での形式的総括と宮本グループによる宮廷革命の進行と狂気の自己批判運動の展開等が渦になり、党に対する不信を倍加させることとなった。丁度こうした折りの56.2月ソ連共産党20回大会でフルシチョフ第一書記により「スターリン批判」がなされたが、党は、「スターリン批判」が提示しているマルクス・レーニン主義運動の根本的見直しや国際共産主義運動の転換とその変遷を洞察する理論的解明をなしえず、単に個人指導が集団指導に訂正されただけのことでありわが国では「六全協」で解決済みであると安心立命的に居直りさえした。そればかりか「スターリン批判」究明の動きを「自由主義」・「清算主義」・「規律違反」等の名目で押さえていくことになった。こうした宮本式の対応は到底先進的学生党員を納得せしめることが出来なかった。これらの出来事が党の無謬性神話を崩れさせることになった。


 56.4月、全学連第8回中委が開かれた。この「8中委」は、先の「7中委イズム」を「学生の力量を過小評価した日常要求主義」と批判する立場から平和擁護闘争を第一義的に掲げ全学連再建の基礎をつくることとなった。いわゆる「8中委.9大会路線」と言う。「8中委」を契機として全学連と反戦学同は、政治闘争を志向する戦術転換を行ない、急速に組織を立て直していくことになった。折から国会に上程された56年前半の小選挙区制導入反対闘争が解体に瀕していた全学連の息を吹き返させていくこととなった。全国的規模の闘争に取り組む過程で56.6.9−12日全学連第9回大会を開催した。大会は、香山委員長、星宮・牧副委員長、高野書記長らの四役を選出した。北大から小野が中執となった。こうして、全学連は、急進主義的学生党員活動家の手により、党中央の指導を排して自力で再建されていくことになった。この時全学連中執委メンバーは19名中12名が党員であった(ところで、こうしてこの全学連大会で全学連が再建されたようにも思うが、次の10回大会で再建されたという記述がなされているのもありこの関係がよくはわからない)。この大会では、この間の闘争を通じて「国会及び国民各層との連帯促進」、「総評・日教組・文化人らとの強力強化」、「自治会の蘇生」等がなされたと評価し、この方向での運動強化が確認された。教育三法反対闘争、56年秋の砂川闘争、57年夏の第三次砂川闘争、57年後半の原水禁運動などに党の指導を離れた全学連運動として独自に取り組んでいくことになった。原水禁運動では、ソ連の核実験の賛否をめぐって混乱が生じ、党がソ連の核実験を擁護していたことにより、原爆にもきれいなものとそうでないものがあるとか妙な弁明をせねばならないという事にもなったようである。その他授業料値上げ反対闘争にも取り組んだ。

 但し、この時期の56年秋の砂川闘争後、学連内に内部対立が生じていた模様である。砂川闘争を指導した東大出身の森田と学連書記長で早大出身の高野が対立した。もともと党の意向とも絡んだ組織運営をめぐっての対立であったようであるが、私立の雄早大と旧帝大の雄東大勢との反目も関連していたようでもある。高野派が党の意向を汲んでいたようで、この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては大衆的規模の対立までなった。加えて、香山.森田の指導に対する物足りなさが次の流れへと向かうようである。

 56.10−11月、ポーランド・ハンガリー事件が起こった。ソ連軍が戦車と共に軍事介入して市民を弾圧する映像が流されてきた。党は、このソ連軍の行動を「帝国主義勢力からの危険な干渉と闘う」としてハンガリーに対するソ連の武力介入を公然と支持した。このことが、学生たちの憤激を呼び党から離反させる強い契機となった。こうした「衝撃、動揺、懐疑、憤激」を経て、全学連の幹部党員の間には、もはや共産党に見切りをつけて既成の権威の否定から新しいマルクス主義本来の立場に立った新しい運動組織を模索せしめていくことになった。この時既に先進的学生党員は一定の運動経験と理論能力を獲得していたということでもあろう。

 この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。こうした時期の56.11月に日本民主青年同盟(民青同)が発足している。民青同は、「マルクス・レーニン主義の原則に基づく階級的青年同盟」の建設の方向を明らかにしていたが、進行しつつある反党的全学連再建派の流れと一線を画し、あくまで宮本式指導の下で青年運動を担おうとしたいわば穏健派傾向の党員学生活動家が組織されて行ったと見ることができる。いわば、愚鈍直なまでに戦前・戦後の党の歴史に信頼を寄せる立場から党の旗を護ろうとし、この時の党の指導にも従おうとした党員学生活動家が民青同に結集していくことになった、と思われる。


考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(B)(1999.12.12日)

 以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。ここではじめてトロッキズムの諸潮流に出くわすことになるが、この流れの由来をあたかも異星人・異邦人の到来であるかにみなす傾向が今日もなお日本共産党及びその感化を受けた勢力の中に認められる傾向について、どう思うべきかという事に関してコメントしておこうと思う。今私は川上徹編集「学生運動」を読み始めている。気づくことは、前半の語りで該当個所に関してマルクス・レーニンの著作からの適切な指示を引用しながら、結論部に至って「トロッキスト・修正主義者を一掃しなければならない」という締めの文句を常用としていることである。他方、右翼・ノンポリ・宗教運動家・改良主義者に対しては統一戦線理論で猫なで声で遇することになる。この現象は、一体何なんだろう。そんなにトロッキズムを天敵にせねばならない思考習慣がいつ頃から染みついたのだろう。

 以下の考察で明らかにしようと思うが、トロッキズムもまた世界共産主義運動史の中から内在的に生み出されてきたものである。マルクス主義の弁証法は、社会にせよ運動の内部からにせよ内在的に生み出されている事象については格別重視するという思考法を生命力としていると私は捉えている。トロッキズムが、あたかも戦前調のアカ感覚で捉えられている現在の党運動における反動的感覚をこそ問題にしたい。運動の中から生まれた反対派に対して、日本共産党指導部が今なお吹聴している様な原理的敵視観のレベルで、マルクス、レーニンがそのように言っているという文章があるのならそれを見せて欲しい、と思う。例によって宮本氏に戻るが、この論調は宮本氏が最も得意とする思考パターンであり、戦前は党内スパイ摘発に対して使われた経過は既に見てきたところである。いわゆる「排除の強権論理」であるが、この外在的思考習慣から我々は何時になったら脱却出来るのだろうか。

 第4期(57年)【新左翼(トロッキズム)の潮流発生】

 このような背景から57年頃様々な反日共系左翼が誕生することとなった。これを一応新左翼と称することにする。新左翼が目指したのは、ほぼ共通してスターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰であり、必然的にスターリンと対立していたトロッキーの再評価へと向かうことになった。この間の国際共産主義運動において、トロッキズムは鬼門筋として封印されていた。つまり一種禁断の木の実であった。トロツキーを最簡略に紹介すれば、「トロツキーというのはロシア革命でスターリンとの政争で破れ、亡命先のメキシコでスターリンの刺客に暗殺された革命家である。当時の共産主義運動ではトロツキーは反革命的とされ、反革命分子を『トロツキスト』呼ばわりした」とある。スターリンとトロツキーの評価に関係するレーニンの遺書は次のように記されている。この遺書は、クループスカヤ夫人が1924年5月の第13回ソ連共産党大会の際に中央委員会書記局に提出した文書とのことである。「同志スターリンは、書記長として恐るべき権力をその手中に集めているが、予は、彼が、その権力を、必要な慎重さで使うことを知っているかどうか疑う……。一方、同志トロツキーは、ずばぬけて賢い。彼は確かに中央委員中で最も賢い男だ。さらに彼は、自己の価値を知っており、また国家経済の行政的方面に関して完全に理解している。委員会におけるこの二人の重要な指導者の紛争は、突然に不測の分裂を来すかも知れない」(1922.12.25)、「スターリンは、あまりに粗暴である。この欠点は、我々共産党員の間では、全く差し支えないものであるが、書記長の任務を果たす上では、許容しがたい欠陥である。それゆえ、私は、スターリンを、この地位から除いて、もっと忍耐強く、もっと忠実な、もっと洗練され、同志に対してもっと親切で、むら気の少ない、彼よりもより優れた他の人物を、書記長の地位に充てることを提案する。これは些細なことのように思われるかも知れないが、分裂を防止する見地からいって、かつ、既に述べているスターリンとトロツキーの関係からいって些細なことではない。将来、決定的意義を持つことになるかもしれない」(1923.1.4)。不幸にしてレーニンのこの心配は的中することとなった。レーニンの死後、この二人の対立が激化した結果、遂にトロツキーが敗北し、スターリンが権力を握ることとなった。こうしてその後の国際共産主義運動は、スターリンの指導により担われていくことになった。スターリン政治の全的否定が相応しいのかどうか別にして、スターリンならではの影響として考えられることに、党内外の強権的支配と国際共産主義運動の「ソ連邦を共産主義の祖国とする防衛運動」へのねじ曲げが認められる。戦後の左翼運動のこの当時に於いて、スターリン主義のこの部分がにわかにクローズアップされてくることになった。特に、スターリン流「祖国防衛運動」に対置されるトロツキーの「永久革命論」(パーマネント・レボリューション)が脚光を浴び、席巻していくこととなった。

 こうして、この時期日本共産党批判の潮流がこぞってトロッキズムの開封へと向かうことになった。このような動きの発生の前後は整理されていないが、対馬忠行を中心として「反スターリン的マルクス・レーニン主義誌」の表題をつけた「先駆者」が刊行された。太田竜(栗原登一)が「トロッキー主義によるレーニン主義の継承と発展をめざす」理論研究運動を開始していった。思想の広場同人の編集になる「現代思潮」、東大自然弁証法研究会「科学と方法」、福本らの「農民懇話会」、京都の現代史研究会の「現代史研究」、愛知の「人民」等々の清新な理論研究が相次いで生まれた。浦和付近の青年たちによって2月頃「現状分析研究会」が誕生しその機関誌「現状分析」が発刊された。「現状分析」は、「指導的な論理は、運動の最高指導者や一部の理論家だけによって生み出されるものではない。そこでは、名もない一人の声声が積み重なって、指導者や理論家の側に投影されるものでなければならない」という立場から左翼理論の見直しを発信させていた。3月頃には東大細胞による機関誌「マルクス・レーニン主義」、大池文雄を中心に少数の同志たちで「批評」が発行された。旧国際派の内田英世・富雄兄弟を中心にした群馬政治経済研究会は「反逆者」を創刊した(群馬グループ)。他に山西英一の三多摩グループ、西京司・岡谷進の関西グループらがいた。10月頃黒田寛一を中心に学生・労働者・インテリ層で「弁証法研究会」がつくられその機関誌「探求」が発行された。こうして党に対するアンチ・テーゼとしての観点から様々な理論研究の潮流が生み出されていくことになった。この黒田氏について「黒田氏は自前で『こぶし書房』と言う出版社を設立し、52年頃からさまざまな社会学的な書籍を執筆・出版していた。そうしていくうちに黒田氏の下にマルクス主義研究会のようなサークルができあがり、4人のメンバーで『弁証法研究会・労働者大学』と言うサークルを作った。やがてサークルは大きくなり『探求』という雑誌を出版するようになる。このミニコミ誌によって、黒田氏の影響力は全国的に浸透していったのである」と紹介されている。

 57.1月、この主流がわが国における最初となった日本トロッキスト運動を生み出すこととなった。まず、この当時思想的に近接していた黒田寛一や内田英世と太田竜らで日本トロッキスト連盟とその機関紙「第4インターナショナル」が発足した。当初は思想同人的サークル集団として発足した。日本トロッキスト連盟は、国際共産主義運動の歪曲の主原因をスターリニズムに求め、スターリンが駆逐したトロッキー路線の方に共産主義運動の正当性を見いだそうとしていた。これが後の展開から見て新左翼の先駆的な流れとなった。その主張を見るに、「既成のあらゆる理論や思想は、我々にとっては盲従や跪拝の対象ではなく、まさに批判され摂取されるべき対象である。それらは、我々のあくことなき探求の過程で、あるいは破棄され、あるいは血肉化されて、新しい思想創造の基礎となり、革命的実践として現実化されねばならない」(探求)という自覚を論拠としていたようである。つまり、早くも「60年安保闘争」の三年より前のこの時点で日本共産党的運動に見切りを付け、これに決別して党に替わる新党運動を創造することが始められていたと言える。

 この根底にあったものを「日本における革命的学生の政治的ラジカリズムと、プチブル的観念主義が極限化して発現したもの」とみなす見方があるが、そういう見方の是非は別として、この潮流も始発は戦後の党運動から始まっており、党的運動の限界と疑問からいち早く発生しているということが踏まえられねばならないであろう。宮本理論に拠れば、一貫してトロッキズムをして異星人の如くいかがわしさで吹聴しつつ党内教育を徹底し、トロッキストを「政府自民党の泳がせ政策」の手に乗る反党(ここは当たっている……私の注)反共(ここが詐術である……私の注)主義者の如く罵倒していくことになるが、私はそうした感性が共有できない。前述した「党的運動の限界と疑問からの発生」という視点で見つめる必要がある。

 ところで、今日の時点では漸く党も含め左翼人の常識として「スターリン批判」に同意するようになっているが、私には不十分なように見受けられる。なぜなら、「スターリン批判」は「トロッキート評価」と表裏の関係にあることを思えば、「トロッキー評価」に向かわない「スターリン批判」とは一体何なんだろう。もっとも、党の場合、その替わりにかどうか「科学的社会主義」が言われるようになってきた。「科学的社会主義」的言い回しの中で一応の「トロッキー評価」も組み込んでいるつもりかもしれない。が、あれほどトロッキズムを批判し続けてきた史実を持つ公党としての責任の取り方としてはオカシイのではなかろうか。スターリンとトロッキーに関して、それこそお得意の「自主独立的自前の」史的総括をしておくべしというのが筋なのではなかろうか。「自主独立精神」の真価はこういう面においてこそ率先して発揮されるべきではないのか、と思われるが如何でしょう。

 ちなみに、私は、我々の運動において一番肝心なスターリンとトロッキーとレーニンの大きな相違について次のように考えています。この二人の相違は、党運動の中での見解とか指針の相違を「最大限統制しようとするのか」対「最大限認めようとするのか」をめぐっての気質のような違いとしての好例ではないかと。レーニンはややスターリン的に具体的な状況に応じてその両方を使い分ける「人治主義」的傾向を持っていたのではなかったのか。そういう手法はレーニンには可能であったがスターリンには凶暴な如意棒に転化しやすい危険な主義であった。晩年のレーニンはこれに臍を噛みつつ既になす術を持たなかったのではなかったのか。スターリン手法とトロッキー手法の差は、どちらが正しいとかをめぐっての「絶対性真理」論議とは関係ないことのように思われる。運動論における気質の差ではなかろうか。「真理」の押しつけは、統制好きな気質を持つスターリン手法の専売であって、統制嫌いな気質を持つトロッキー手法にあっては煙たいものである。運動目的とその流れで一致しているのなら「いろいろやってみなはれ」と思う訳だから。ただし、トロッキー手法の場合「いざ鎌倉」の際の組織論・運動論を補完しておく必要があるとは思われるが。

 ついでにここで言っておくと、今日の風潮として、自己の主張の正しさを「強く主張する」のがスターリン主義であり、ソフトに主張するのが「科学的社会主義」者の態度のような踏まえ方から、強く意見を主張する者に対して安易にスターリニスト呼ばわりする傾向があるように見受けられる。これはオカシイ。強くとかソフトとかはスターリン主義とは何の関係もない。主張における強弱の付け方はその人の気質のようなものであり、どちらであろうとも、要は交叉する意見・異見・見解の相違をギリギリの摺り合わせまで公平に行うのか、はしょって権力的に又は暴力的な解決の手法で押さえつけつつ反対派を閉め出していくのかどうかが、スターリニストかどうかの分岐点ではなかろうか。スターリニズムとトロッキズムの原理的な面での相違はそのようなところにあると考えるのが私見です。こう考えると、宮本イズムは典型的なスターリニズムであり、不破氏のソフトスマイルは現象をアレンジしただけのスターリニズムであり、同時に日本のトロッキズムの排他性も随分いい加減なトロッキズムであるように思われる。

 さて、話が脱線したが、こうしてわが国にも登場することになったトロッキスト運動は、運動の当初より主導権をめぐって、あるいはまたトロッキー路線の評価をめぐって、あるいは既成左翼に対する対応の仕方とか党運動論をめぐってゴタゴタした対立を見せていくことになり、日本共産主義労働者党→第4インター日本支部準備会→日本トロッキスト連盟→日本革命的共産主義者同盟(革共同)へと系譜していくことになる。新左翼運動をもしトロッキスト呼ばわりするとならば、日本トロッキスト連盟を看板に掲げたこの潮流がそれに値し、後に誕生するブントと区別する必要がある。そう言う意味において、日本トロッキスト連盟の系譜を「純」トロッキスト系と呼び、これに対しブント系譜を「準」トロッキスト系とみなすことを今はやりの「定説」としたい(日本トロッキスト連盟の系譜から後に新左翼最大の中核派と革マル派という二大セクトが生まれており、特に中核派の方にブントの合流がなされていくことになるので一定の混同が生じても致し方ない面もあるが)。

 この時期全学連内の急進主義的学生党員活動家の一部はこの潮流に呼応し、急速にトロッキズムに傾いていくことになった。ただし、日本トロッキスト連盟の運動方針として「加盟戦術」による社会党・共産党の内部からの切り崩しを狙ったヤドカリ的手法を採用していたためか、自前の運動として左翼内の一勢力として立ち現れてくるようになるのはこの後のことになる。「加入戦術」とは、対象となる組織に加入し、内側から組織の切り崩しを行う戦術である。このグループの特長として理論闘争を重視するということと、セクト間の対立に陰謀的手法で解決をしていくことを意に介しない面と、暴力的手法による他党派排除を常用する癖があるように思われる。私が拘ることは以下の点である。上述したようにトロッキズムとは、レーニンによって批判され続けられたほどに幅広の英明な運動論を基調とした左翼運動を目指していたことに特徴が認められる、と思われる。ところが、わが国で始まったトロッキズムは、その理論の鋭さやマルクス主義の斬新な見直しという功の面を評価することにやぶさかではないが、この後の運動展開の追跡で露わになると思われるが、意見の相違を平気で暴力的に解決する風潮を左翼運動内に持ち込んだ罪の面があるようにも思われる。この弊害は党のスターリニズム体質と好一対のものであり、日本の左翼運動の再生のために見据えておかねばならない重要な負の面であることも併せて指摘しておきたい。


考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(C)(1999.12.14日)

 以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。この時期に潮流形成される全学連再建急進主義派が、学生運動を通じて「革命運動」に向かおうとしていたことの是非についてである。その際「ポツダム自治会」は二面で機能することになった。一つは培養基盤であるという正の面であり、一つは革命的左翼運動にあっては手かせ足かせになるという負の面であった。党の青年・学生運動の指針は、この培養基盤という正の面を重視させる方向に働き、全学連再建急進主義派は、負の面である手かせ足かせを乗り越えようとして突出していくことになる。その両方を機能的に弁証法的に高めることが出来たら理想ではあろうが、実際にはそのようにはならない。ここで考えたいことがある。全学連再建急進主義派が押し進めた「学生自治会を足場にしながらの究極革命運動への邁進」はさすがに行き過ぎだったのだろうか、いやそんなことはない中国における五四運動を見よ、わが国での幕末の志士たちの運動を見よ、皆うら若き二十歳前後の青年達の立派な政変闘争ではなかったか、という観点もまたあらためて検討されるに値するように思われる。この間一貫して今日まで党の指導は、こうした連中の「思い上がり」を、ある時には急進主義者、ある時には挑発者、ある時にはトロッキストと呼んでむしろ積極的にこの動きを潰しにかかったという史実がある。事は難しそうだから解答までは必要とされないが、特に昨今の大衆運動の没化状況を考えた場合考究の余地は大いにあると思われる。「新日和見主義事件」考察の前提になる部分でもあるが、「新日和見主義事者」達は、これから見ていく流れに対し、一貫して党の方針に忠実に敵対していくことになる。そして、ほとぼりが冷めた頃自ら等もまた無用にされてしまった。そして25年の月日を沈黙させた。なぜ、闘わなかったんだろう、戦えなかったのだろう。トロッキストが政府に泳がせられていたとするなら、「新日和見主義事者」達もまた党に泳がせられていたのではないのか。この深い暗流に対して解析を試みようと思うが、(ボソボソ)能力の限界も感じつつある。

 第4期(57年)【反党派全学連主流の誕生期】

 57.3月注目されるべき事件が発生している。約400名の代議員を集めて開かれた第2回東京都党会議は、「六全協」以後の党中央の指導ぶりに対する批判と追求の場となり大混乱に陥った。増田・武井・安東・片山・野田・芝・高山・西尾・山本・志摩(島?)らの急進主義者らと各地区委員会から選出されていた革新派らが、党中央の責任を明確にせよと迫り、このため党中央を代表して出席していた野坂・宮本・春日正一らが壇上で立ち往生させられたのである。この時の都委員会の選挙では、宮本の介入を排して元全学連委員長武井らの批判派が都委員に19名中10名、さらに芝寛を都書記に選ぶことになった。

 この経過を見て注目されるべきことがある。かっての全学連結成期の指導者であった武井・安東らが、この時点で東京都党委員になっており、批判派として立ち現れてきていることである。武井・安東らは、この間一貫して宮本グループと接近しつつ共に徳田系執行部の指導に異議を唱え、党内分裂期にも国際派として宮本グループと歩調を合わせて来ていたことを考えると、蜜月時代が終わったということであろう。この時若手の武井・安東らが党内反対派の野田グループと協調しつつ、「六全協」・「第7回党大会」の経過で現に進行しつつある宮本グループ系の宮廷革命の動きに対して反逆し始めていたことが知れる。理論的にも、宮本が中心となって起草していた「党章草案」の現状規定とか革命展望に対して意見を異にしていった様が見えてくる。

 この時の東京都党会議の決議案は、党指導部への批判や官僚主義への反対などを強く打ち出した。宮本は「中央の認めない決議は無効だ」として居直ったようである(宮本氏の「民主集中制」論の体質は、こういう危機の場合にその本質が露呈する。「中央の認めない決議が無効だ」とすれば、党内民主主義も何もあったものではない。党中央へのイエスしか出来ないということになる)。この後57.9月に正式に「党章草案」が発表されたが、東京都委員会はまっさきに反対決議を出している。「党章草案」が日本独占資本との対決を軽視し、社会主義への道の明確な提起を欠いているなどと批判し、草案に反対の態度を示した。ただし、この時の文面から見ると、構造改革論に近い見地から批判しているようである。同時に「党章草案」の中に含まれている規約草案に対しても、これは「党内民主主義の拡大ではなくて縮小」であり、「中央、特に中央常任委員会の一方的な権限の拡大」であると批判した。こうした動きはこの時全国各地の党委員会に伝播しており、その様子を感じ取ってか、党は、翌58.1月の第17回拡大中委で一ヶ月後に予定していた第7回党大会を選挙への取り組みを口実に急遽延期することを決定している。

 57.6月、全学連10回大会が開かれた。全学連はこの大会で「軌跡の再建」を遂げたと言われる。森田実・島成郎・香山健一・牧衰らが全学連中執、書記局に入り、以後全国学生運動の指導にあたることとなった。この大会で党の指示に従う高野派が敗退し、高野は書記長を辞め、その後は早大を拠点として全学連反主流派のまとめ役となっていくようである。日本共産党第7回党大会前の頃の動きである。この時期新しい活動家が輩出していった。この頃、後の「60年安保闘争」を担う人士が続々と全学連に寄り集うことになった。この経過を見てみると次のように言えるのではなかろうか。この当時のポスト武井時代の急進主義的党員学生活動家は、二つの側面からの闘いへと向かおうとしていた。一つは宮本系宮廷革命の進行過程に対するアンチの立場の確立であり、後一つは先行して結成された日本トロッキスト連盟の戦闘的学生活動家取込みを通じた全学連への浸透に対する危機感であった。全学連再建派は、これらへの対応ということも要因としつつ懸命に全学連運動の再構築を模索し始めていったようである。こうしてこの時期の党員学生活動家には、全学連再建急進主義派と日本トロツキスト連盟派と民青同派という三方向分離が見られていたことになる。

 ところで、宮本系党中央は、この後この全学連急進主義グループをトロッキスト呼ばわりしていくことになるが、ならば、この時期党中央が全学連再建に向けて何ら有効に対処しえなかったこと、党の意向を汲んで動いていたと思われる高野派が敗退したことについての指導的責任を自らに問うというのが普通の感性だろうとは思う。が、この御仁からはそういう主体的な反省は聞こえてこない。むしろ、右翼的指導で全学連再建をリードしようとして失敗したという史実だけが残っている。


 57.12月、日本トロツキスト連盟は、日本革命的共産主義者同盟(革共同)と改称した。この流れには西京司(京大)氏の合流が関係している。日本トロツキスト連盟の「加入戦術」が巧を奏してか、かなりの影響力を持っていた日本共産党京都府委員の西京司氏が57.4月頃に「連盟」に加入してくることになり、その勢いを得てあらためて黒田寛一、太田竜、西京司、岡谷らを中心にした革共同の結成へと向かうことになった訳である。この時点から日本トロッキスト運動の本格的開始がなされたと考えられる。この流れで58年前後、全学連の急進主義的活動家に対してフラク活動がかなり強力に進められていくことになった。ただし、革共同内は、同盟結成後も引き続きゴタゴタが続いていくことになった。善意で見れば、それほど理論闘争が重視されていたということかも知れぬ。

 自主的に再建された全学連はこの頃党派性を強めていくことになった。57.12月島・生田・佐伯の三名は、横浜の佐伯の家で新党旗揚げのためのフラクション結成を決意している。党内分派禁止規律に対する自覚した違反を敢えてなそうとしていたことになる。彼らは、日本トロッキスト連盟派のオルグに応じなかったグループということにもなるが、この頃トロツキー及びトロツキズムとは何ものであるのかについて懸命に調査を開始していったようである。ご多分に漏れず、彼らもまたこの時まで党のスターリン主義的な思想教育の影響を受けてトロツキズムについては封印状態であった。この時、対馬忠行・太田竜らの著作の助けを借りながら禁断の書トロッキー著作本が貪るように読まれていくことになった。「一枚一枚眼のうろこが落ちる思いであった。決して過去になったものではない。現代の世界に迫りうる思想とも感じた」(戦後史の証言ブント、島)とある。東大細胞の生田浩二・佐伯秀光・冨岡倍雄・青木昌彦、早大の片山○夫、小泉修一ら、関西の星宮らがレーニン・トロッキー路線による国際共産主義運動の見直しに取りかかり、理論展開し始めた。山口一理の論文「10月革命の道とわれわれの道−国際共産主義運動の歴史的教訓」(後に結成されるブントの原典となったと言われている)と「プロレタリア世界革命万才!」を掲載した日本共産党東大細胞機関紙「マルクス・レーニン主義」第9号が刷り上がったのが57.12月の大晦日の夜であった。この論文が全学連急進主義者たちに衝撃的な影響を与えていくことになった。この、主に日本共産党東大細胞たちを中心として、その影響下にあった学生達が中心となって後述するブント結成へむかうことになる。


考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(D)(1999.12.14日)

 以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。これより後全学連主流派は、「国会へ国会へ」と向けて闘争を組織していくことになる。実際に今日では想像できない規模の「労・学」数十万人による国会包囲デモが連日行われ、全学連はその先鋒隊で国会突入を再度にわたって貫徹している。私は、「時代の雰囲気」がそう指針させたのだと了解している。が、果たして「国会突入」にどれほどの戦略的意味があるのだろうかという点につき考察に値する。というよりも、一体「国会」というのは何なんだろうと考えてみたい。恐らく、「国会突入」は「左」からの「国会の物神化」闘争であったものと思われる。後の全共闘的論理から言えば「国会の解体」へと向かおうとした闘争であったということになるが、こういう運動は何となく空しい。私論によれば、「国会」は各種法案の審議をするところであり、なぜその充実化(実質審議・少数政党の見解表明時間の拡充・議員能力の向上等々)のために闘わないのだろう。「国会」がブルジョアのそれであろうが、プロレタリアのそれであろうが審議の充実化こそが生命なのではなかろうか。「国会」を昔からの「村方三役の寄合談義の延長の場」と考えれば、その民衆的利益の実質化をこそ目指すべきで、寄合談義がいらないと考えるのはオカシイのではなかろうか。審議拒否とか牛歩戦術とかの伝統的な社会党戦術は見せかけだけのマイナーな闘い方であり闘うポーズの演出でしかないと思う。このことは、党運動の議員の頭数だけを増やそうとする議会主義に対しても批判が向けられることを意味する。これもまた右からの「国会の物神化」運動なのではなかろうか。一体、不破氏を始めいろんな論客が国会答弁の場に立ったが、その貴重な時間において他を圧倒せしめる名演説を暫く聞いたことがない。最近の党首会談での原子力論議なぞは、それが如何に重要な問題であろうとも、今言わねばならぬ事は、呻吟する労働者階級の怨嗟の声を叩きつけることではなかったのかと思われる。あるいはまた中小・零細企業の壊滅的事態の進行に対する無策を非難すべきではなかったのか。良く「道理」を説いてくれるので、いっそのこと「日本道理党」とでも名称をつけて奮闘されるので有れば何も言うことはないが。

 第5期(58年)【(新左翼系)全学連の自立発展期】

 この期の特徴は、再建された新左翼系の全学連が急進主義運動に傾斜しつつ支持を受けながら勇躍発展していったことに認められる。もはや公然と党に反旗を翻しつつ独自の学生運動路線の模索へと突き進んでいくことになった時期であり、全学連運動のターニングポイントになる。

 5.25日、全学連の推進体となっていた反戦学同は第4回全国大会を開催した。全学連大会に先立って開かれたこの大会で、組織の性格を従来の反戦平和を第一義的目標としたものから、社会主義の実現をめざして運動をより意識的、革命的に発展させるべきであるとの立場に改め、名称も日本社会主義学生同盟(社学同)と変え、反戦学同を発展的に解消させた。これが社学同の第一回大会となった。こうして社学同は、「日本独占資本が復活強化した」との評価を前面に出し、反独占闘争を強調したため、アメリカ帝国主義への従属国家論を主張する党中央の「党章草案」と決定的に対立する路線へと踏み出していくことになった。この時杉田・鈴木理論との闘争があったとされているが詳細不明。

 続いて5.28−31日に開かれた全学連第11回大会では、党中央に批判的な社学同派が、民青同派(早大・教育大・神戸大など)と乱闘を演じつつこれを圧倒、高野派は退散した。大会は紛糾し、大混乱に陥ったということであろう。社学同派が新執行部30名の全員を独占して民青同派を右翼反対派として閉め出した。つまり、党中央に忠実な代議員ことごとくを排除し、革共同も含めた反代々木系だけで、指導部を構成したということになる。この経過を社学同派から見れば、「この大会で日共は、党中央寄りの反主流派を援護しながら、全学連主流派の追い落とし工作に策動したが失敗」、「既に公然と全学連内反対派の立場に立った高野らは、党中央青年対策部とともに森田の失脚を狙う策謀をめぐらしていたが、大会で多数の賛意を得られない為に様々な議事妨害に出て大会を混乱させていた」、「党中央は、早稲田の高野秀夫らのグループを使って、公然たる分裂行動に出てきた」、「執行部提案を否決に追い込み、大会を混乱に導こうとしたこの高野等の行動云々」とある。なお、この流れには革共同の働きかけがあったようで、「全学連11回大会における平和主義者“高野派”との闘争は、わが同盟の組織戦術の最初の大衆的適用の場になった。“右をたたいて左によせろ”、これがわれわれのアイコトバであった。学生党員の多数を反中央に明白に組織しつつ、かれらの中核を日共のワクをつきやぶってわれわれの同盟に組織すべき任務は急をつげていた。拠点校を中心に、下からいかに反対派を組織するか、これがわれわれの課題であった」とある。

 この時期全学連主流派は、学生運動理論における「先駆性理論」を創造しているようである。この大会は、「学生運動が本質的に社会運動であり、政治闘争の任務を持つ」と規定し、国会デモその他の高度の闘争形態を模索しつつ、「労働運動の同盟軍」として労働者・農民・市民に対する「学生の先駆的役割」を強調し、「層としての学生運動論→労・学提携同盟軍規定論→先駆性理論、反帝闘争路線」の画期的方針を採択した。「平和こそ学生の基本的要求であり、平和擁護闘争は学生運動の第一義的任務である。岸反動内閣と対決し、その反動攻勢と徹底的に闘うこと。帝国主義の存在との対決と打倒。労働者階級との提携(同盟軍規定)」を明確にさせ、日共離れを一層推進した。こうして全学連は、「先駆性理論」に基づいて、激しい反安保闘争を展開していくことになった。「先駆性理論」とは、「学生が階級闘争の先陣となって労働者、農民、市民らに危機の警鐘を乱打し、闘争の方向を指示する」というものであった。ちなみに、革共同はこの「先駆性理論」とも違う「転換理論」に拠っていた。「転換理論」とは、概要「プロレタリアートと利害関係を同じくする学生の運動は、階級情勢の科学的分析のもとに、プロレタリアート同盟軍として階級闘争の方向に向かわざるを得ないことからして、学生は革命運動を通して自分自身を革命の主体に変革させていくことになる」というものであった。どちらもよく似てはいるが、ブントはより感性的行動論的に、革共同はより思弁的組織論的に位置づけているという違いが認められる。こうした学生運動に対する位置づけは、追ってマルクーゼの「ステューデントパワー論」が打ち出されるに及び、その影響を受けて更に「学生こそ革命の主体」という考えにまで発展していくことになる。この背景にあった認識は、前衛不在論であり、「前衛不在という悲劇的な事態の中で、学生運動に自己を仮託させねばならなかった日本の革命的左翼」(新左翼20年史)とある。

 党中央は、こうした急進主義的政治主義的方向に向かおうとする党員学生活動家に対して、「戦術的には政治カンパニア偏重の行き過ぎの誤りを犯すものであり、学生が労働者や農民を主導するかの主張は思い上がりである」と批判するところとなった。これに対し、全学連指導部は、「戦後10年を経て、はじめて日本学生運動が、日本のインテリゲンチャが、そして日本の左翼が、主体的な日本革命を推進する試練に耐える思想を形成する偉大な一歩を踏み出しつつあることを、全学連大会は示しているのである」と自賛した。


 なお、この時期の全学連指導部は、およそ三派から成り立っていたようである。一つは、森田のグループで、これには全学連委員長の香山を含む中執のかなりのメンバーがいた。もう一つは、都学連と星宮ら関西の一部を中心とする革共同グループがいた。最後が圧倒的支持を得ていた島グループで、東大・早大グループが佐伯と生田を介して暗黙の提携関係にあったようである。後の展開から見て、この大会で唐牛が中執委員に、灰谷・小林が中央委員に選出されており、北海道学連の進出が注目される。なお、こうした全学連執行部外に民青同高野グループがいたことになる。ただし、これを急進主義と穏和主義の別で見れば、穏和的平和運動的な方向に高野・森田グループ、革共同と島グループは急進主義ないしは革命運動的な方向へというように二極化されつつあったようである。この時期の全学連運動には、既に押しとどめがたい亀裂が入っていたということでもある。

 全学連第11回大会の成り行きを憂慮し事態を重視した党中央は締めつけに乗り出し、全学連大会終了の翌日の6.1日、同大会に出席した学生党員代議員約130名を代々木の党本部に集めた。「全学連大会代議員グループ会議」を開き、全学連を党指導の傘下に引き戻すべく直接指導に乗りだそうとした。そういう思惑で党の幹部出席の上会議が開かれ、党中央が議長を務め党中央主導の議事運営をなそうとしたが、既に党中央に批判的であった学生党員らが一斉に反発し、会議はその運営をめぐって冒頭から紛糾した。積年の憤懣と直前の全学連大会で演じた党中央青対の指導による高野派の動きに不満が爆発したというのが実際であったように思われる。こうして会議は冒頭から議長の選出を巡って大混乱となり、全学連主流派と党中央の間に殴り合いが発生した。遂に党の学生対策部員であった津島薫大衆運動部員を吊し上げ、暴行を加える等暴力沙汰を起こした上、鈴木市蔵大衆運動部長の閉会宣言にもかかわらず、学生党員が議長となって紺野与次郎常任幹部会員らの退場を阻みながら議事を進め、「現在の党中央委員会はあまりにも無能力である」ゆえに「党の中央委員全員の罷免」を要求する及び全学連内の党中央派除名の決議を採択した。全学連指導部の公然たる党に対する反乱となった。

 この瞬間より党は全学連に対するヘゲモニーを失ったことになる。この間党中央を代表して出席していた紺野常任幹部会員はまともな応酬による何らの指導性を発することが出来ぬばかりか、会議を有効とする文書に署名させられるという不始末となった。なお、党本部内の出来事であったにも関わらず、追求される中央青対を救出すると称してやって来たのは「あかつき印刷」の労働者たちだけであり、党側からは他には誰もやって来ずという醜態を見せることになった。これを「全学連代々木事件」(または「6.1日共本部占拠事件」)と言う。

 前代未聞の不祥事発生に仰天したか、党は、ここに至って、これら学生の説得をあきらめ、組織の統制・強化に乗り出していくことになった。「世界の共産党の歴史にない党規破壊の行為であり、彼らは中委の権威を傷つける『反党反革命分子』である」とみなし、それら学生党員の責任を追及し、同年7月、「反党的挑発、規律違反」として規約に基づき香山健一全学連委員長・中執委星宮・森田実らを党規約違反として3名を除名。土屋源太郎ら13名を党員権制限の厳格処分にふした。年末までに72名が処分された。紺野もその責任を問われて、常任幹部会員を解かれた。ちなみに紺野は徳田系の残存幹部であったことが注目される。党は、党内反対派の制圧の手段としてこれを徹底的に利用していくことになった。


 全学連指導部の学生党員たちは、党のこうした処分攻勢を契機として遂に党と袂を分かつこととなった。この間7月に日本共産党第7回党大会が開かれ、島・生田らは「全学連党」代議員として参加した。しかし、10日間もの間旅館に缶詰で外部と一切遮断したまま(家父長的と云われる徳田時代にはあり得なかったやり方である!)、次から次へと宮本方針が決議されていく大会運営を見て、却って党との決別を深く決意させたようである。党大会終了の翌々日の8.1日、島氏は全学連中執、都学連書記局、社学同、東大細胞党員の主要メンバーを集め、大会の顛末を報告すると共に、新しい組織を目指して全国フラクションを結成していくことを提案した。

 この頃の58.7月に革共同が内部分裂を起こしている。これを「革共同第一次分裂」と言う。少数派であった太田竜氏らのグループが、関東トロツキスト連盟を結成して革共同から分離することとなった。太田派が全体討議を拒否したという事実経過があるようである。太田氏はトロツキーを絶対化し、トロッキーを何から何まで信奉しそれを唯一の価値判断の基準にする「純粋なトロツキスト」(いわゆる「純トロ」)だったが、黒田氏は「トロツキズムは批判的に摂取していくべき」との立場を見せており、そうした意見の食い違いとか第四インターの評価をめぐる対立とか大衆運動における基盤の有無とかをめぐっての争いが原因とされている。この分裂後黒田派が中央書記局を掌握することとなった。「革命的マルクス主義の立脚点をあきらかにし、革命的指導部を確立するための闘争は、しかしけっして平坦なものではない。それはまず、トロツキズムをセクト的教条的に獲得しつつ、現実にはパブロ書記局の方針をうのみにしようとする太田竜に人格的表現をみる偏向との闘争として、すすめなければならなかった」、概要「太田竜派の活動における政治的力学の無知ないし無視からうまれるこうした組織戦術の誤謬の根底にあるトロツキー・ドグマチズムの誤謬こそは、トロツキーの歴史上の弱点のデフォルメでもあった。かくして太田は、第四インターが世界的にも国内的にもいまだ十分に大衆を獲得していない事実を、『23年以後のロシア・スターリン主義者の反動の圧力の強さ』などに結びつけていく客観主義に転落する。世界革命の一環としての日本革命の実現、ここにこそわれわれのいっさいの価値判断の基準があることを明白にしつつ、われわれはトロツキズムを反スターリン主義→革命的マルクス主義の最尖端としてとらえかえし、マルクス主義を現代的に展開していくものでなければならない(「革命的マルクス主義とは何か」『探究』第3号参照)であろう」、「こうした太田の教条的セクト的傾向は、ソ連論をめぐる内田の対馬的傾向との闘争において色こくあらわれた。第5回大会出席後、さらに極端となった太田は、日本における左翼反対派の活動をすべてパブロ分派とのみ直結させようとする陰謀となってあらわれた」とある。ただし、9月になると、黒田氏は大衆闘争に対する無指導性が批判を浴び党中央としての指導を放棄するようになったようである。

 この太田派はのちに日本トロツキスト同志会と改称し、後の第四インター日本委員会になる。革共同から分離した太田氏は日本社会党への「加入戦術」を行い、学生運動民主化協議会(学民協)と言う組織を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていくことになった。その後、太田氏はアイヌ解放運動に身を投じていき、最近では「国際的陰謀組織フリーメーソン論」でも知られている。

 「全学連代々木事件」とそれに伴う党の処分の結果、全学連指導部は、完全に党の統制を離れることを決意した。「全学連代々木事件」で除名された学生党員らと島成郎ら20名程度が中心になって、9.4−5日全学連第12回臨時大会を開いた。反代々木系を明確にさせた全学連執行部(全学連主流派)は、「学生を労働者の同盟軍とする階級闘争の見地に立つ学生運動」への左展開を宣言した。日本独占資本との対決を明確に宣言する等宮本執行部の押し進めようとする党の綱領路線との訣別を理論的にも鮮明にした。ここに日本共産党は、48年の全学連結成以来10年にわたって維持してきた全学連運動に対する指導権を失うこととなった。この後全学連主流派に結集する学生党員は、フラクションを結集し、機関紙「プロレタリヤ通信」を発刊して全国的組織化を進めていくことになった。全学連主流派のこの動きは、星宮をキャップとする革共同フラクションの動きと丁々発止で競り合いながら進行していた。革共同フラクションは、全学連人事に絡んで森田・香山を中央人事からはずせと主張していたようであり、こうした革共同の影響下で路線転換がなされた。

 この間全学連は、58.8.16日、和歌山で勤務評定阻止全国大会の盛り揚げに取り組んだことをはじめ9月頃「勤評闘争」に取り組んでいる。9.15日「勤評粉砕第一波全国総決起集会」に参加し、東京では約4000名(以下、東京での闘いを基準とする)が文部省を包囲デモ。10−11月には警職法改正法案が突如国会に提出されてきたことを受けて、全学連は、総評などの労働組合とともに非常事態を宣言、最大限の闘いを呼び掛けた。この時社会党・総評など65団体による「警職法改悪反対国民会議」が生まれ、全学連もそのメンバーに入った。10.28日「警職法阻止全国学生総決起集会」に取り組み、労・学4万5000名が結集しデモ。11.5日警職法阻止全国ゼネストに発展し、全学連4000名が国会前に座り込んだ。1万余の学生と、労働者が国会を包囲した。驚くほどの速度で盛り上がった大衆運動によって、自民党は一ヶ月後に法案採決強行を断念した。この闘争過程は、この時の経験が以降「国会へ国会へ」と向かわせる闘争の流れをつくった点で大きな意味を持つことになった。

 党は、この頃よりこれらの全学連指導部を跳ね上がりの「トロッキスト」と罵倒していくことになった。この当時の文書だと思われるが、(恐らく宮本の)「跳ね上がり」者に対する次のような発言が残されている。「今日の大衆の生活感情や意識などを無視して、自分では正しいと判断して活動しているが、実際には自分の好みで、いい気になって党活動をすること、大衆の動向や社会状態を見るのに、自分の都合のいい面だけを見て、都合の悪い否定的な面を見ず一面的な判断で党活動をすること、こうした傾向は大衆から嫌われ、軽蔑され、善意な大衆にはとてもついていけないという気持ちをもたせることになる」(ボソボソ)云おうとしていることは判るが、「自分の好み」の運動の連動こそ自然でパワーになるのではないのかなぁ。誰しも「自分の好み」から逃れることが出来ないように思うけど。それと「善意な大衆」とは何なんだ。嫌らしいエリート臭が鼻持ちならない。

 12.10日先に除名された全学連指導部の学生党員たちの全国のフラク・メンバー約45名(全学連主流派)が中心になって、55年以降続けてきた党内の闘いに終止符を打ち、新しい革命前衛党を建設するとして日本共産主義者同盟(共産同またはブントとも言う)を結成した。ちなみに、ブント(BUNT)とはドイツ語で同盟の意味であり、党=パルタイに対する反語としての気持ちが込められているようである。「組織の前に綱領を!講堂の前に綱領! 全くの小ブルジョアイデオロギーにすぎない。日々生起する階級闘争の課題にこたえつつ闘争を組織し、その実践の火の試練の中で真実の綱領を作り上げねばならぬ」(新左翼の20年史)と宣言し、新左翼党派結成を目指すことになった。その学生組織として社会主義学生同盟(社学同)の結成も確認されたようである。古賀(東大卒)と小泉(早大)の議長の下で議事が進行していき、島氏がブント書記長に選ばれ、書記局員には、島・森田・古賀・片山・青木の5名が選出された。島氏は、翌日開かれた全学連大会で学連指導部から退き、ブントの組織創成に専念することになった。学生党員たちに党から分離してブントへ結集していくよう強く促していくことになった。当時のこのメンバーには、今も中核派指導部にいる北小路敏、清水丈夫らがいることが注目される。北海道からも灰谷・唐牛ら5名が参加している。

 この経過の「定説」は次のように言われている。「『ブント』は、『革共同』と同じく日本共産党の『六全協』、ソ連共産党の『スターリン批判』などによる共産主義運動の混迷の中から形成された。『革共同』がトロツキズムを信奉する元日共党員らを中心に組織されたのに対し、『ブント』は、旧『国際派』系の急進主義的活動家を中心として、トロツキズムを部分的には評価しながらも、全体としては受け入れず、そのため『革共同』に参加する潮流とは別個の独自の組織をつくった。日本共産党を批判する立場から、同党を離脱した『全学連』の幹部活動家が中心になって組織されたところに特徴がある」。ちなみに、「共産同(ブント)」と名乗ったことについて、島氏は後年「あまりたいした意味はないが、まだ当時、綱領、規約もなく、党という感じではなく、それかといって名がないのも困るので捜したら、エンゲルスの『共産同』というのがあり、これがいちばんよさそうだということできめてしまった」と述べている(1971.1.29付朝日ジャーナル「激動の大学・戦後の証言」)。

 ここに、先行した「純」トロッキスト系革共同と並んで、「準」トロツキスト系ブントという反代々木系左翼の二大潮流が揃い踏みすることになった。この流れが後に新左翼又は極左・過激派と言われることになる源流である。この両「純」・「準」トロッキスト系は、反日共系左翼を標榜することでは共通していたが、それだけに反日共系の本流をめぐって激しい主導権争いしていくことになった。

 党の公式的見解からすれば、このブント系もトロツキストであり、あたかも党とは何らの関係も無いかのように十派一からげにされているが、それは宮本氏流の御都合主義的な歪曲であり史実は違って上述の通りであるということが知られねばならない。私には、宮本氏の反動的な党運営が絡んで、党内急進派がブント系として止むに止まれず巣立ちしていった面もあったと見る。このブントの党史を巨視的に見れば、戦後の党運動における徳田系と宮本系その他との抗争にとことん巻き込まれた結果の反省から、党からの自立的な新左翼運動(主として学生運動)を担おうとした気概から生まれた経緯を持つように思われる。理論的には、国際共産主義運動のスターリン的歪曲から自立させ、驚くべき事に自ら達が新国際共産主義運動の正統の流れを立て直そうと意気込みつつ悪戦苦闘して行った流れが見えてくる。もっとも、その認識の仕方と行動的手法において際限なく分裂化していくことになり、結果ブント系諸派を生み出していくこととなった。ブント発生を近視的に見れば、「50年問題について」の総括後の当時の党が宮本式路線に純化しつつあった状況とその指導に対する強い反発にあった様が伺える。宮本式路線の本質が運動を作り出す方向に作用するのではなく、運動を押さえ込み右派的統制主義の枠内に押し留めようとすることに重点機能していることを見据え、これに反発した学生党員の「内からの反乱」としてブントが結成されたという経過が踏まえられねばならないと思う。このセンテンスからすれば、元来党とブントは近い関係にあり、ブントとはいわば急進的な潮流の党からの出奔とみなした方が的確と言えることになる。

 こうした党内急進主義者たちのブント化の背景にあったもう一つの情勢的要因は、先行する革共同系の動きにあった。つまり、ブントは、一方で代々木と対立しつつ他方で革共同とも競り合った。この時のブントと革共同の理論的な相違について、島氏は次のように解説している。対立の第一点は、トロッキーの創設した第4インターの評価である。この時点の革共同は、トロッキー及び第4インターを支持するかどうかが革命的基準であるとしていた。これに対し、ブントは、第4インターにそれほどの価値を認めず「世界組織が必要なら自前で新しいインターナショナルを創設すれば良い」としたようである。第二に、ソ連に対する態度に違いが見られた。この時点の革共同は「反帝・反スタ」主義確立前であり、「帝国主義の攻撃に対する労働者国家無条件擁護」に固執していた。これに対し、ブントは、「革命後50年近くも経過して強大な権力の官僚・軍事独裁国家となり、労働者大衆を抑圧し、しかも世界革命運動をこの権力の道具に従属させ続けてきたソ連国家はもはや打倒すべき対象でしかない」とした。更に、島氏は、私が最も嫌悪したのは革共同の「加入戦術」であったと言う。「自分たちの組織はまだ小さいから既成の、可能性のある社会党などに加入してその中で組織化を行おう」という姿勢に対して、これをスケベ根性とみなした。「私たちは既成の如何なる組織・思考とも決別し、自らの力で誰にも頼らず新しい党を創ろうとし、ここに意義を見いだしていた」という。その他セクト主義・労働運動至上論等々の意見の相違を見て、ブントは翌59.4月頃には革共同派との決別を決意していた。古賀氏は後になって「陽気で野放図で少しおめでたいようなブントに対し、革共同は深遠な哲学的原理を奉ずる陰気な秘密結社のようだった」と当時を回想している。

 12.13−15日、全学連第13回臨時大会が開かれた。人事が最後まで難航したが、塩川委員長、土屋書記長、清水書記次長、青木情宣部長となった。革共同系とブント系が指導部を争った結果革共同系が中枢を押さえ、革共同の指導権が確立された大会であったとされている。ブントには革共同系の学生が多数組織的に潜入していたということであるが、こうして、この時革共同が委員長、副委員長、書記長などの三役を独占した(氏名が今一つ不明)。つまり、革共同の全学連への影響力が強まり、この時点で指導部を掌握するまでに至ったことになる。そのため、全学連指導部の内部で「純ブント」と「革共同」の対立という新たな派閥抗争が発生することとなった。その後も革共同系とブント系は運動論や革命路線論をめぐっての対立を発生させ、指導権を争っていくことになった。が、その後の史実から見て、多くの学生はブントを支持し流れていったようである。事実は、ブントが革共同系の追い出しを図ったということでもあると思われる。

 「ブント−社学同」の思想の背景にあったものは、日本共産党が日本の革命的政治を担うことができないと断じ、これに代わる「労働者階級の新しい真の前衛組織」の創出であった。こういう観点から、学生運動を労働運動との先駆的同盟軍として位置づけることになった。党の「民族解放民主革命の理論」(アメリカ帝国主義からの日本民族の解放をしてから社会主義革命という二段階革命論)に基づく「民主主義革命路線」に対して、明確に「社会主義革命路線」を掲げていた。代々木官僚に反旗を翻しただけでなく、本家のソ連・中国共産党をスターリン主義と断罪、その打倒を掲げ「全世界を獲得せよ」と宣言していた。革共同の思想的影響の取り込みが見られる。これを図式化すれば次のようになり、党の綱領路線とことごとく対立していたことが判る。平和共存・一国社会主義→世界永続革命、二段階革命→一段階社会主義革命、議会主義→プロレタリア独裁、平和革命→暴力革命、スターリン主義→レーニン主義の復権。

 なお、この時の議案は、革共同のかねてからの主張であった「安保改定=日本帝国主義の地位の確立→海外市場への割り込み、激化→必然的に国内の合理化の進行」という把握による「反合理化=反安保」で安保闘争を位置づけていたとのことである。ただし、こうした革共同理論に基づく「反合理化闘争的安保闘争論」は、この当時の急進主義的学生活動家の気分にフィットせず、むしろ、安保そのもので闘おうとするブントの主張の方に共感が生まれ受け入れられていくことになったようである。ブントは、革共同的安保の捉え方を「経済主義」、「反合理化闘争への一面化」とみなし、「安保粉砕、日本帝国主義打倒」を正面からの政治闘争として位置づけていくことを主張していた。

 この頃ブントを率いる島氏の回りに次第に人材が寄ってくることになった。香村正雄(東大経済卒、現公認会計士)、古賀康正(東大農卒、現農学者)、鈴木啓一(東大文卒、現森茂)、樺美智子(東大文、安保闘争で死亡)倉石庸、少し後から多田靖・常木守等が常駐化したようである。2.15日機関紙「共産主義」が創刊された。論客として、佐伯(東大卒、山口一理論文執筆他)、青木昌彦(東大卒、現経済学者、姫岡論文執筆)、片山○夫(早大卒、現会社役員)、生田、大瀬振、陶山健一。

 この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。全学連のブント化の動きに対して12.25日、党は幹部会を開催し、幹部会声明で「学生運動内に巣くう極左日和見主義反党分派を粉砕せよ」と、全学連指導部の極左主義とトロキッズムの打倒を公言し、「島他7名の除名について」と合わせてブント結成後旬日も経たないうちの12.25.27日付け「アカハタ」紙上の一面トップ全段抜きで幹部会声明を掲載した。こうして党は、社学同を排撃し、一方で党中央委員会の査問を開始し、正月と共に全国の学生細胞に直接中央委員などをさし向け、一斉弾圧を策した。他方で、民青同学生班を強化育成していくこととなった。


考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(E)(1999.12.16日)

 以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。学生運動内における暴力の発生とそうしたゲバルト路線の定式化に関する是非について考察してみたい。既に「全学連第11回大会」における全学連主流派による反主流派(党中央派)の高野グループ派の暴力的な追いだしに触れたが、これより後左翼運動内にこの暴力主義的傾向が次第にエスカレートしていく過程を見ていくことになる。最初は、反代々木派による代々木派への暴力であったが、この勢いは追って反代々木派諸派内にも無制限に進行していくことになる。恐らく「暴力革命論」上の社会機構の改変的暴力性を、左翼運動内の理論闘争の決着の着け方の手法にまで安易に横滑りさせていったのではないかと思われるが、如何なものであろうか。「オウム」にはポア理論という結構なものがあるが、それに類似した理論を創造しないまま暴力を無規制に持ち込むのはマルクス主義的知性の頽廃なのではなかろうか。あるいはまた警官隊→機動隊との衝突を通じて暴力意識を醸成していった結果暴力性の一人歩きを許してしまったのかもしれない。私は、オカシイと思うし、ここを解決しない限り左翼運動の再生はありえないとも思う。「党内反対派の処遇基準と非暴力的解決基準の確立」に対する左翼の能力が問われているように思う。「意見・見解の相違→分派→分党」が当たり前なら星の数ほど党派が生まれざるをえず、暴力で解決するのなら国家権力こそが最大党派ということになる。その国家権力でさえ、「一応」議会・法律という手続きに基づいて意思を貫徹せざるをえないというタガがはめられていることを前提として機能しているのが近代以降の特徴であることを思えば、左翼陣営内の暴力性は左翼が近代以前の世界の中で蠢いているということになりはしないか。暴力性の最大党派国家権力が暴力性を恣意的に行使せず、その恩恵の枠内で弱小党派が恣意的に暴力を行使しうるとすれば、それは「掌中」のことであり、どこか怪しい「甘え」の臭いがする、と私は思っている。

 ついでにもう一つ触れておくと、この時期全学連は当然のごとくに立ちはだかる眼前の敵警官隊→機動隊にぶつかっていくことになるが、彼らこそその多くは高卒の青年であり労働者階級もしくは農民層の子弟であった。大学生のエリートがその壁を敵視して彼らに挑まねばならなかった不条理にこそ思い至るべきではなかろうか。街頭ゲバルト主義化には時の勢いというものもあるのであろうが、ここで酔うことは許されない限定性のものであるべきだとも思う。頭脳戦において左翼は体制側のそれにうまくあやされているのではなかろうか。この観点は、戦前の党運動に対する特高側の狡知に党が頭脳戦においても敗北していたという見方とも通じている。

 それはそれとしてそれにしても、この時期ブントの動きは日本大衆闘争史上例のない闘いを切り開いていくことになる。

 第5期(59年)【ブント執行部の確立と全学連運動の突出化】

 この期の特徴は、再建された全学連の指導部をブント系が掌握し、急進主義運動を担いつつ「60年安保闘争」を主導的にリードしていったことに認められる。ブントは見る見る組織を拡大し、当時は革共同が主導権を握っていた全学連の主導権を奪い返すに至った。こうして少数派に甘んじることを余儀なくされた革共同系はブント系の指導下に合同し共に全学連運動を急進主義的に突出させていくことになった。この間民青同系は、こうした全学連の政治闘争主義化にたじろぎつつも指導に服していたようである。59.1.1日全学連意見書「日本共産党の危機と学生運動」が発表されている。

 3.28日、「安保条約改定阻止国民会議」が結成された。これには総評・社会党・全日農・原水協など13団体が中央幹事団体となり、共産党はオブザーバーとしての参加が認められた。以降「国民会議」は二十数波にわたる統一行動を組織していくことになった。しかも、この共闘組織は、中央段階のみならず、都道府県・地区・地域など日本の隅々にまでつくられ、その数は2千を越えていくことになる。4.28日全学連は、「安保改定阻止、岸内閣打倒」をスローガンに第一波統一行動を起こしている、約1000名結集。5.15日第二波統一行動、約5000名結集。

 6.5−8日、全学連第14回大会が開かれた。約1000名参加。この大会は、ブント・民青同・革共同の三つどもえの激しい争いとなり、先の大会以来革共同に抑えられていた全学連の中央執行部の主導権をブント系が再び奪い返して決着した。この大会でブントが執行部中央執行委員会の過半数を獲得した。唐牛健太郎(北大)が委員長として選出され、清水丈夫書記長、加藤昇(早大)と糠谷秀剛(東大法)、青木昌彦、奥田正一(早大)が新執行部となった。中執委員数内訳は、ブントが17革共同13、民青同0、中央委員数は、ブント52、革共同28、民青同30。

 こうして、ブントは、「ブント―社学同―全学連」を一本化した組織体制で、「60年安保闘争」に突入していくことになった。唐牛新委員長下の全学連は、以下見ていくように「安保改定阻止、岸内閣打倒」のスローガンを掲げ、闘争の中心勢力としてむしろ主役を演じながら、再度にわたる「国会突入闘争」や「岸渡米阻止羽田闘争」などに精力的に取り組んでいくことになった。この当時のブントは約1800名で学生が8割を占めていたと言われている。この時期ブントは、「安保が倒れるか、ブントが倒れるか」と公言しつつ安保闘争に組織的命運を賭けていくことになった。6.25日第三波統一行動、約1000名結集。労・学2万6000名結集。7.3−5日「全学連第19中委」が開かれ、「10月ゼネスト」の方針を打ち出す。6月頃ブントのイデオローグ姫岡玲治が、通称「姫岡国家独占資本主義論」と言われる論文を機関紙「共産主義3号」に発表している。これがブント結成直後から崩壊に至るまでのブントの綱領的文献となった。この頃、全学連四役を含む幹部7名が党から除名処分にされている。


 この時の島氏の心境が次のように語られている。「再三の逡巡の末、私はこの安保闘争に生まれだばかりのブントの力を全てぶち込んで闘うことを心に決めた」、「闘いの中で争いを昇華させ、より高次の人間解放、社会変革の道を拓くかが前衛党の試金石になる」、概要「日本共産党には、『物言えば唇寒し』の党内状況があった。生き生きとした人間の生命感情を抑圧し陰鬱な影の中に押し込んでしまう本来的属性があった」、「政治組織とはいえ、所詮いろいろな人間の寄り合いである。一人一人顔が違うように、思想も考え方もまして性格などそれぞれ百人百様である。そんな人間が一つの組織を作るのは、共同の行動でより有効に自分の考え、目的を実現する為であろう。ならば、それは自分の生命力の可能性をより以上に開花するものでなければならぬ。様々な抑圧を解放して生きた感情の発露の上に行動がなされる、そんなカラリとした明るい色調が満ち満ちているような組織。『見ざる、聞かざる、言わざる』の一枚岩とは正反対の内外に拓かれた集まり、大衆運動の情況に応じて自在に変化できるアメーバの柔軟さ。戦後社会の平和と民主主義の擬制に疑いを持ち、同じ土俵の上で風化していった既成左翼にあきたらなかった新世代学生の共感を獲ち得た」(「戦後史の証言ブント」)。以上のような島氏の発想には、かなりアナーキーなものがあることがしれる。こうしたアナーキー精神の善し悪しは私には分からない。このアナーキー精神と整合精神(物事に見通しと順序を立てて合理的に処そうとする精神)は極限期になればなるほど分化する二つの傾向として立ち現れ、気質によってどちらを二者択一するかせざるをえないことになる、未だ決着のつかない難題として存立しているように思う。なお、唐牛氏が委員長に目を付けられた背景として「唐牛を呼んだ方がいいで。最近、カミソリの刃のようなのばっかりが東京におるけども、あれはいかぬ。まさかりのなたが一番いいんや、こういうときは。動転したらえらいことやし、バーンと決断して、腹をくくらすというのはね、太っ腹なやつじゃなきゃだめだ。多少あか抜けせんでも、スマートじゃなくても、そういうのが間違いないんや」(「戦後史の証言ブント」、星宮)ということになり、島氏が北海道まで説得に行ったと言われている。

 8.26日、革共同は重大な岐路に立っていた。第二次分裂が発生している。革共同創立メンバーの一人西京司氏はこの間関西派を作り上げ、この関西派が中央書記局を制し革共同内の主導権を獲得していたようである。西氏はこの頃「西テーゼ」を作成し、同盟の綱領として採択を図ろうとしたようであるが、この過程で黒田氏の影響下にある探求派と対立し、結局政治局員であった黒田氏を解任した。そこで黒田氏は本多延嘉氏と共に革共同全国委員会(革共同全国委)を作り、西氏の関西派と分離する。これがいわゆる革共同第二次分裂である。革共同分裂の底流には、西氏らは第4インター参加に向かい、黒田氏らは不参加を主張していたこと等に関する見解的な相違とか運動論をめぐっての確執が原因となっていたようである。この過程で革共同全国委派は、「反帝反スタ主義」を基本テーゼとしたようである。

 詳細は不明であるが、西京司は、探求派を空論的非実践主義として批判し、討論を封殺し、無批判的支持を要求するカンパニアを組織した。これに対し、探求派は、「全国的な組織討議をいささかも組織することなしに、しかも綱領的反対派の欠席のもとで『決定』されたこの西テーゼは関西派の分派綱領以外のなにものでもない」、「綱領的反対派締出しの陰謀は、いよいよ魔女狩りの様相をおびつつある。関西派の書記局通達第三号(9.10日付)は明らかにかれらがわが同盟を関西派分派の徒党と化そうとする決意のもとに、すべての俗物的統制をおし進めつつあることを露骨に表現している」とある。両派は、ソ連論をめぐっても対立していたようである。革共同関西派は「労働者国家無条件擁護、スターリニスト官僚打倒」と主張し、革共同全国委派はこれを修正主義と批判しつつ「反帝反スタ」を基本テーゼとする立場から反論したようである。「スターリニスト官僚打倒を通じて新しい革命党を結成し、これを実体的基礎としたプロレタリア世界革命を実現する。それゆえに、このたたかいは、反帝反スターリニズムであり、その根底的立脚点=革命的立脚点は革命的マルキシズムにある」(組織論序説)、「(関西派は)パブロ=太田修正主義への後退を準備している」とある。当時争議化しつつあった三井・三池鉱山闘争に関連して、「炭鉱の国営国管問題」についても対立をもたらしたようである。なお、関西派がほかならぬ関西において学生戦線のヘゲモニーを民青同派に奪われたという状況も関連していたようである。「中央書記局のお膝元で招来したこの無残な敗北から教訓をみちびきだしえぬ客観主義者のみが、よく『探究派』退治に血の道をあげうるのである」とある。


 8.29−31日、ブント第3回全国大会。9.18日全学連は、安保改定阻止統一行動に約1500名結集。10.26日約1000名結集。10.30日全学連、安保改定阻止統一行動、全国スト90校、約1万5000名で集会.デモ。11.27日第8次統一行動の国会デモで、全学連5000名の学生らによる「国会乱入事件」が発生している。全学連は、都教組などの労働者と共に、正門前を固める警官隊の警備を突き破って初めて国会構内に突入し、抗議集会を続行した。構内はデモとシュプレヒコールで渦巻いた。社・共総評幹部は、宣伝カーから解散を呼び掛けるが約三万余の群衆は動かない。約5時間にわたって国会玄関前広場がデモ隊によって占拠された。これがブント運動の最初の金字塔となった。政府は緊急会議を開き、「国会の権威を汚す有史以来の暴挙である」と政府声明を発表し、全学連を批判すると同時に弾圧を指示した。清水書記長、糠谷・加藤副委員長らに逮捕状が出された。

 党中央は、翌日のアカハタ号外で突入デモ隊を非難し、これを専ら反共・極左冒険のトロッキストの挑発行動とみなして、ただちに事件を非難する声明を発した。常任幹部会声明「挑発行動で統一行動の分裂をはかった極左・トロツキストたちの行動を粉砕せよ」を掲載し全都にばらまいた。以降連日「トロッキスト集団全学連」の挑発行動を攻撃していくこととなった。この声明に対して、共産党港地区委員会は中央に抗議声明を発し、27日の全学連デモを支持した。都議員団はじめ多くの党組織から全学連事務所に激励のメッセージが寄せられた。国民会議・社会党・総評も、突入デモ隊を非難した。

 12.10日、全学連は、1万5000名を結集し再度国会包囲デモを企画したが、社会党・総評が戦術ダウンをし始めていたこともあって、今度は分厚い警官隊の壁の前に破れた。この後暫く安保闘争は鳴りを潜めることになった。

 この全学連主流派の「国会乱入事件」に関して、民青同は、次のように総括している。「自民党は、この事件以降、絶好の反撃の口実を与えられ、ジャーナリズムを利用しながら国民会議の非難の大宣伝を開始した。総評・社会党の中には、統一行動そのものに消極的行動になる傾向すら生まれたのである。運動が高揚期にあるだけに、一時的、局部的な敵味方の『力関係』だけで、戦術を決め、行動形態を決めることが、闘いの長期的見通しの中で、どういう結果を生むか、という深刻な教訓を残した」(川上徹「学生運動」)。これは、私にはおかしな総括の仕方であるように思われる。一つはブントに対する「為にする批判」であるということと、一つは運動の経過には高揚期と沈静期が交差して行くものであり、全体としての関連無しにこの時点での一時的後退をのみ部分的総括していることに対する反動性である。事実、翌60年より安保闘争がるつぼ化することを思えば、この時点での一時的沈静化を強調し抜く姿勢はフェアではない。後一つは、それでは自分たちの運動が何をなしえたのかという主体的な内省のない態度である。この「60年安保闘争」後ブントは基本的には散った。つまり、国会乱入方針が深く挫折させられたことは事実である。ならば、どう闘いを組織し、どこに向かえば良かったのだろう。このような総括なしにブント的闘争を批判する精神は生産的でないと思われる。実際上述したように批判を行う川上氏らが民青同系学生運動を指導しつつ「70年安保闘争」を闘うことになったが、川上氏らはこの時のブントにまさる何かを創造しえたのだろうか。つつがなく70年安保が終えて、後は自身が査問されていく例の事件へ辿り着いただけではなかったのか。「恣意的な批判の愚」は慎まねばならない、いずれ自身に降りかかってきたとき自縛となる、と私は思う。


考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(F)(1999.12.17日)
 以降の流れに入る前に、ここで例の「田中清玄インタビュー事件」について触れておこうと思う。私は、このインタビュー内容の詳細を知りたいが手にしていないので、現象的に現れた作用についてコメントしようと思う。この事件は、安保闘争後の63.2.26日のTBSインタビューで、田中清玄氏が当時の全学連指導者に資金提供していたことを明らかにしたところから、党によって大々的に当時の全学連指導者ブントのいかがわしさが喧伝されていくことになった、という意味で政治的事件となった。この党の喧伝には例の詐術があったことを指摘しておきたい。どういう詐術かというと、この時党は、田中清玄氏を主として民族主義者的右翼として描き出し、その右翼的政界フィクサーがブントへ資金提供していたといういかがわしさを浮きだたせ、よってブントのトロッキストの反共的本質を明らかにするという三段論法をとった。

 63年当時のブントは、この後おってみていくことになるが分裂状態で崩壊状況にあり、これに対し有効な反撃が組織できなかった。私なら、こう主張する。田中清玄氏はあなたがたの党の前身である戦前の武装共産党時代のれっきとした党委員長であり、転向後政治的立場を民族主義者として移し身していくことになった。これは彼のドラマであり、我々の関知するところではない。その彼が、政治的立場を異にするものの、当時の我々のブント運動に自身の若き頃をカリカチュアさせた結果資金提供を申し出たものと受けとめている。氏の「国家百年の計」よりなす憂国の情の然らしめたものであった。ブントは、これにより政治的影響を一切受けなかったし、当時の財政危機状態にあっては有り難い申し出であった。もし、これを不正というのであれば、宮本氏の戦前の党中央時代と戦後の国際派時代の潤沢な資金について究明していく用意がある、と。

 第5期(60年)【ブント系全学連の満展開と民青同系の分離期】

 この期の特徴は、ブント系全学連が「60年安保闘争」の檜舞台に踊り出てくることに認められる。その闘いぶりは世界中に「ゼンガクレン」として知られることになった。この渦中で、民青同系は遂にブント系全学連と袂を分かつことになった。こうして学生運動の二分裂化傾向がこの時より始まることになった。6.15日の国会突入でブントの有能女性闘士樺美智子が死亡し、大きな衝撃が走った。この闘争の指導方針をめぐって全学連指導部と日本共産党が対立を更に深めていくことになった。日米安保条約が自然成立した後その総括をめぐってブント内にも大混乱が発生することになった。

 59年から60年に初頭にかけて日米安保条約の改定問題が、急速に政局浮上しつつあった。政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為の改定であると宣伝した。しかし事実は、新安保条約は、米軍の日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという点で、戦後社会の合意である憲法の前文精神と9条に違背する不当なものであった。1月社会党右派の西尾末広らが社会党を離党し、新党として民主社会党(民社党)結成の動きに出始めた。こういう政治的エポック期を前にしての社会党の分裂化は自然な流れと言うよりも、当局の差し金により計画的に作り出された社会党のひいては安保反対闘争の弱体化政策であった。

 1.16日、岸全権団の渡米阻止のための大衆運動計画が立てられた。党中央は、信じられないことだけども、岸全権団の渡米にではなく、渡米阻止闘争に猛然と反対を唱えて全都委員・地区委員を動員して、組合の切り崩しをはかったという史実がある。「(岸首相の渡米出発に際しては)全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り、岸の出発まぎわまで人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」(アカハタ.60.1.13)という穏和な送り出し方針をいち早く打ち出している。全学連は、党のこうした方針を一顧だにせず、岸渡米阻止羽田闘争を独自行動として取り組んでいくことを決定し、15日夕から全学連先発隊約700人が羽田空港ロビーを占拠、座り込みを開始するという「羽田デモ事件」を起こした。後続部隊も続々と羽田へ羽田へと向かった。この闘争で唐牛委員長、青木ら学連執行部、生田・片山・古賀らブント系全学連指導下の77名が検挙された。樺美智子も逮捕されている。社会党・総評は、統一行動を乱す者として安保共闘会議から全学連排除を正式に決定した。党は、再び全学連を「トロッキストの挑発行動・反革命挑発者・民主勢力の中に送り込まれた敵の手先」として大々的に非難した。革共同も、「一揆主義・冒険主義・街頭主義・ブランキズム」などと非難している。しかし、島氏は、「全く新しい大衆闘争の現出だった。明らかに私たちブントの闘いによって、政治にとって、安保闘争にとって、人民運動にとって流動する状況が生まれたという確信である。長らく社・共によって抑圧されていた労働者大衆が、これをうち破った全学連の行動を通して、新しい政治勢力としてのブントの像をはっきり見たに違いないという実感である」と言いなしている。知識人によって羽田事件の逮捕者の救援運動が始められるや、党中央は、発起人に名を連ねている党員の切り崩しをはかった。関根・竹内・大西・山田・渋谷などの人々が発起人を取り下げざるをえなくされた。これらの知識人は後々党中央に対する激しい批判者となった。1.19日新安保条約がワシントンにおいて、岸首相とアイゼンハワー大統領との間で調印された。かくてこれ以降の安保闘争は、調印阻止から批准阻止へと、その目標をシフト替えしていくことになった。1.22−26日党は、「第8中総」を開催し、「当面の安保闘争と組織拡大について」の決議を採択。「安保改定に反対して、アメリカ政府、岸内閣に抗議し、国会に請願する署名運動を積極的に全国的な運動として展開」することを決定した。

 この頃革共同全国委員会派は、全学連主流派の有力幹部たちをも包含しつつ勢力を扶植しつつあった。2月に革共同全国委員会は責任者黒田のもとに機関紙「前進」を発行。「一切の既成の指導部は、階級闘争の苛酷な現実の前にその醜悪な姿を自己暴露した。安保闘争、三池闘争のなかで社共指導の裏切りを眼のあたりにみてきた」、「(労働者階級は)独立や中立や構造改革ではなしに、明確に日本帝国主義打倒の旗をかかげ、労働者階級の一つの闘争をこうした方向にむかって組織していくことなしには、労働者階級はつねに資本の専制と搾取のもとに呻吟しなくてはならない」、「一切の公認の指導部から独立した革命的プロレタリア党をもつことなしには、日本帝国主義を打倒し、労働者国家を樹立し、世界革命の突破口をきりひらくという自己の歴史的任務を遂行することはできない」、「こうした闘争の一環としてマルクス主義的な青年労働者の全国的な単一の青年同盟を結成した」と檄を飛ばした。この頃から4月にかけて革共同全国委は、ブントの学生組織の社学同に対抗する形で自前の学生組織としてマルクス主義学生同盟(マル学同)を組織した。この発足当時5百余の同盟員だったと言われている。マル学同は、民青同を「右翼的」とし、ブントを「街頭極左主義」として批判しつつ学生を中心に組織を拡大していった。


 この頃党内では、党の安保闘争の指導ぶりをめぐって論議が巻き起こり、党中央批判が展開された。1−2月共同印刷・鋼管川鉄と並んで三大拠点細胞とされていた三菱長崎造船所細胞の大多数が離党した。その中心分子は、共産党は今や理論的にも実践的にも革命政党としての能力を失いつつあると宣言。自ら「長崎造船社会主義研究会」なる自立組織をつくり、ブントへの結集の動きを見せ始めた。こうした現象は中央から地方に、インテリ党員から労働者党員へと急速に広がり、学生細胞・全国有力大学の学者党員・官公労民間経営から離党・脱党が相次いだ。1.24日民社党結成大会。委員長に西尾末広を選出。1.25日三井鉱山が三池炭鉱にロックアウト、三池労組は無期限全面ストに突入。2.2日に「安保国会」が幕をあけた。野党側が鋭く政府を追及した。これに呼応して国民会議も統一行動を盛り上げていくことになった。

 2.9日、社学同第5回全国大会。2.28−29日全学連第22中委が開かれている。この時革共同派の8名(革共同関西派中執)の中執が暴力的に罷免され、中執はブントによって制圧された。この時点での全学連内部の勢力比は、ブント72、民青同22、革共同関西派16、その他革共同全国委・学民協とされる。

 党の動き。2.6日旧所感派で中央主流に批判的な長谷川浩を学生対策部長から引き下げ袴田がこれに替わった。3.2−3日「第7回党大会第9回中委総」が開かれ、「民主青年同盟の拡大強化のために」の決議を採択した。この決議の採択経過は分からないが、民青同中央が穏健路線からの脱皮を模索しようとしていた風がある。民青同の良質部分の動きと捉えた方が判りやすい。この「9中委総決議」は、「それまでの宮本−袴田等の『市民的民主主義』論や西沢隆二らの『歌え、踊れのサークル化傾向』を打破し、同盟の新しい組織論・運動論を確立する基礎を築き、民青同の拡大強化のための新しい方針を決定し飛躍的発展を助けることになった」とされている。しかし、この民青同中央が作成したよびかけと規約をめぐってまたしても宮本書記長が介入することとなった。一体全体この御仁は戦前戦後今日まで何をするために党に鎮座しているんだろう、と私は思う。宮本は、民青同に対して、@.社会主義を目指して闘うことを強調するのは間違いである。「民族解放」の課題を強調すべきであるとし、「階級的矛盾は民族的矛盾に従属する」と強弁してはばからなかった。A.「マルクス・レーニン主義を学ぶ」という項目は、党の独自活動でやるべきで、同盟自身の性格にすればはばが狭くなるから掲げない。B.民青同中央が、「党の導きを受ける」と党と同盟の関係を明らかにした上で、同盟の自主性を強調したのに対し、それでは事実上共産青年同盟化するからとそれに反対した。事実、宮本書記長自ら「第6回大会」の方針に自ら筆を入れ、青年同盟を「階級的立場の同盟ではなく、市民的民主主義を追求する民主的組織」とし、同盟の性格を「人民の民主主義的課題のために闘う」とあったのを「労働者階級を中心とする人民の民主主義の立場に立つ」と玉虫色とした。

 3.16−18日、「全学連第15回臨時大会」が開かれている。全学連主流派は、民青同系と羽田闘争をボイコットした革共同関西派を「加盟費未納」などを口実に代議員資格をめぐり入場を実力阻止し、抗議した民青同系と革共同関西派の反主流派の代議員231名(川上徹「学生運動」では代議員234名)を会場外に閉め出した中で、大会を強行した。会場内の中の主流派代議員261名(〃代議員は181名)であったという。こうして「全学連第15回臨時大会」は、全学連におけるブントの主導権を固めた。「4.26全国ゼネスト」等の方針を決定した。島氏が挨拶に立ち、渾身の力を込めてブントの安保闘争への決意を表明した。

 この大会開催に先立っての会場付近での主流派対反主流派の衝突は、反主流派の代議員231名をして大会ボイコット→独自集会を結果させ、後の全学連分裂を準備させることになった。してみれば、この大会は学生運動至上汚点を残したことになる。意見の違いを暴力で解決することと、少数派が多数派を閉め出したことにおいて、悪しき先例を作った訳である。この時点では、全学連主流ブント派は、明日は我が身になるなどとは夢にも思っていなかったと思われる。私見であるが、左翼運動の内部規律問題として、本来この辺りをもっと究明すべきとも思うが、こういう肝心な点について考察されたものに出会ったことがない。

 3.10日、アカハタ主張で、アイゼンハワーの来日反対闘争を提起。3.17日三池労組が分裂し、第二組合作られる。3.23−24日社会党臨時大会。委員長に浅沼稲次郎を選出。3.29日三池闘争、第一組合員久保清が暴力団員に刺殺される。4.3日アカハタ日曜日も発行、完全日刊化、同日曜版10ページ建てとなる。4.15日第15次統一行動。全学連1500名が国会デモ。

 4.24日、ブントの第4回大会が開かれている。この時島氏の書記長報告がなされた。「3千名蜂起説」、「安保をつぶすか、ブントがつぶれるか」、「虎は死んで皮を残す、ブントは死んで名を残す」と後年言われる演説がぶたれたと言う。この大会に向けて党の港地区委員会が臨時地区党会議を開き、ブントとの合流を正式に決定、地区委員会の解散を決議している。この流れをリードした山崎衛委員長・田川和夫副委員長の両地区委員はこれより早く党から除名されている(「アカハタ」59.12.16)。4月からは全国の地域安保共闘組織を総動員して、波状的な「国会請願デモ」が開始されていた。この頃清水幾太郎らの呼びかけがなされている。4.5−9日党の「第10回中総」が開かれ、「三井三池労働者の英雄的闘争の勝利のために全民主勢力の奮起を訴える」を採択。全国の党組織に三池闘争への取り組みを指示し、延べ数千の活動家を現地に派遣して、大量支援の体制を作った。4.17日党主催で、日比谷野外音楽堂で「新安保条約批准阻止総決起大会」を開いている。注意すべきは、歴年党員の語り草に水を差すようであるが、党の「60年安保闘争」はこの時点から号令一下本格的に稼働したとみなすべきで、総評・社会党・全学連による運動の盛り上がりを見て「バスに乗り遅れじ」とばかり参入したというのが史実であることを確認しておきたい。党の取り組みの遅れは、それまでの党中央の方針と指導にあったようである。この時期の党中央の方針と指導は、安保闘争全体を民族闘争の枠に限定付けており、これを国内支配権力である日本独占資本との階級闘争との絡みで岸政府打倒をターゲットとするという政治闘争としての位置づけを避けていた風がある。この結果、安保闘争を労働者のヘゲモニーのもとに政治的危機に盛り上げていくような基本方向が棚上げされ、綱領路線に基づく反米闘争的位置づけで安保破棄を掲げ、しかも当面は安保破棄を直接の目標にせず、むしろ「民族民主革命」に向けた「民族民主統一戦線」を形成させることを地道に目標とすべきだとしていた。そういう位置づけからして、できるだけ広範な人民層の参加をうるためにという口実で統一戦線の基準を幅広主義で結集させ、闘争戦術も学生や青年労働者の全てを最低次元の統一行動に規制していこうとする整然たる行動方式を指針させた。つまり、安保闘争を何とかして通常のスケジュール闘争の枠内に治めようとしていた観があり、国会突入を視野に入れるブント的指導との両極端にあったというのが実際のようである。

 とはいえ、党がひとたび動き始めると行動力も果敢で、この時期より全国1700共闘組織の64パーセントまで正式加入してたちまち指導権を強めていくことになった。党は、中央段階ではオブザーバーではあったが、地方の共闘組織では社会党と並んで中心的位置を占め指導的役割を果たしていくことになった。しかし、善し悪しは別にして、党の前述した統一戦線型の幅広行動主義によるカンパニア主義と整然デモ行動方式が、戦闘的な学生・青年・労働者の行動と次第に対立を激化させた。党の指導するこうした「国会請願デモ」に対して、全学連指導部により「お焼香デモ」・「葬式デモ」の痛罵が浴びせられることになった。


 4.20日、東大教授ら353名、安保反対の声明。4.26日第15次安保阻止全国統一行動。10万人の国会請願運動が行なわれた。4.26日第15次安保阻止全国統一行動。10万人の国会請願運動が行なわれた。全学連は、この時「お焼香国会請願か、戦闘的国会デモか」と問題を提起し、「闘わない国民会議を乗り越えよ」とアジった。こうして全学連7000名と警官隊が国会正門前で激しく衝突した。唐牛以下13名が逮捕された。注目すべきは、この時より全学連反主流派民青同系学生1万1千余は別行動で国民会議と共に国会請願運動を展開していることである。つまり、全学連の行動における分裂がこの時より始まった事になる。これより民青同系全学連反主流派は、まず東京都において「東京都学生自治会連絡会議」(都自連)を発足させている。以降民青同系は、「60年安保闘争」を都自連の指導により運動を起こすようになる。この経過は民青同系指導部の独自の判断であったのだろうか、党の指示に拠ったものなのであろうか。この時全学連運動内部の亀裂は深い訳だから、もっと早く自前の運動を起こすべきであったかもしれないし、運動の最中のことであることを思えば分裂は避けるべきであったかも知れない。いずれにせよ、こういうことをこそ総括しておく必要があると思われる。4.28日沖縄県祖国復帰協議会結成。

 5.1日、第31回メーデー。安保粉砕、国会解散、岸内閣退陣の要求を掲げて500万の大デモが全国各地で行われた。5.5日ソ連政府は、領空に進入したアメリカのスパイ機2機の撃墜を発表。5.12日第16次全国統一行動。460万の参加。ストライキ、職場集会、デモ、請願書名運動が展開された。この頃連日数万の国会請願デモ続く。5.13日全学連国会デモ、2000名が結集。5.15日党主催で、日比谷野外音楽堂で「新安保条約批准阻止総決起大会」開く。衆議院での安保条約承認採決を阻止しようとして連日のように数万の国会デモが続いた。

 5.19日、政府と自民党は会期を延長し、深夜から20日未明過ぎにかけて新条約を強行採決した。採決に加わった自民党議員は233名、過半数をわずか5名上回る数で、本会議に於ける審議は14分という自民党のファッショ的暴挙であった。この時自民党は警官隊・松葉会などの暴力団を院内に導入した。この経過が報ぜられるに連れて「岸のやり方はひどい」、「採決は無効だ」、「国会を解散せよ」という一般大衆にまで及ぶ憤激を呼び、この機を境にそれまでデモに参加したことのない者までが一挙に隊列に加わり始めた。パチンコしていた連中までが打ち止めてデモに参加したとも言われている。夕刻から労・学2万人国会包囲デモ。この日を皮切りにこれより1ヶ月間デモ隊が連日国会を取り囲み、「新安保条約批准阻止・内閣退陣・国会解散」のためのみぞうの全国的な国民闘争が展開していくことになったった。こうした流れについて、ブントも読み誤ったようである。川上氏「学生運動」に拠れば、全学連中執は、5.19日の晩の新安保条約批准の報を知るや「安保敗北宣言」を出しているとのことである。ところが、まさにこの時より事態は大きく流動化し、「労働運動指導部が、民主主義擁護と国会解散を掲げて、大きくプロレタリア大衆を動かし出した」のである。ブントにとっても「事態の後に追いついていくのが精一杯」という意想外のうねりをもたらしていたようである。

 5.6月に入るや知識人・学者・文化人らの動きも注目された。5.20日九大の教授、助教授86名が政府与党の強行採決に反対して国会解散要求声明を発表した。大学教授団によるこの種の声明が全国各地で相次いだ。竹内好・鶴見俊輔らは政府に抗議して大学教授を辞任した。5.20日全学連、全国スト闘争、国会包囲デモに2万人結集。学生の一部約300名が首相官邸に突入。5.26日安保改定阻止国民会議抗議デモ、17万余が国会包囲デモ。こうした最中5.31日党の常任幹部会は、「国会を解散し、選挙は岸一派を除く全議会勢力の選挙管理内閣で行え」声明を発表、何とかして議会闘争の枠内に引き戻そうとさえ努力している形跡がある。6.1日社会党代議士が議員総辞職の方針を決定。吉本隆明らは6月行動委員会を組織、全学連・ブントと行動を共にした。日高六郎.丸山真男らも立ち上がった。「アンポ ハンタイ」の声は子供達の遊びの中でも叫ばれるようになった。他方、児玉誉士夫らは急ごしらえの右翼暴力組織をつくり、別働隊として全学連を襲う計画で軍事教練を行ない始めた。ブントは、あらゆる手段を用いて国会突入を目指し、無期限の座り込みを勝ち取る方針のもと、大衆的には北小路敏全学連委員長代理をデモの総指揮にあて、他方ブント精鋭隊は特別行動隊を結成した。他国会突入のための技術準備も秘かに進めた。


 6.4日、第17次統一行動は国鉄労働者を中心に全国で560万人が参加し、安保改定阻止の政治ストライキを打った。全学連3500名が国会デモ。この頃党は、いち早く来日予定のアイク訪日阻止の旗印を鮮明にした。社会党臨時大会、総評幹事会も抗議闘争に取り組むことを決めた。6.6日都自連も、もしアイクが来るなら羽田デモを敢行することを決定した。ただし、この時ブントも革共同も大統領秘書官ハガチー・アイク訪日阻止を取り組んでいない風がある。これには政治的見解の相違があるようで、「アイク訪日阻止は、安保闘争の反米闘争への歪曲」としていたようである。恐らく新左翼は帝国主義自立論により国内の政治権力に対する闘争を第一義としており、これに対して党は、アメリカ帝国主義下の従属国家論により、こうした反米的な闘いこそ眼目となるとしていたようである。このことは、後日田中清玄のインタビューでも知れることでもある。田中氏は、「共産党は安保闘争を反米闘争にもっていこうとした。全学連の諸君は、これを反安保、反岸という闘争に持っていこうとした。ここに二つの分かれ目がある訳です」(63.2.26.TBSインタビュー)。

 こうした中6.10日、安保改定阻止第18次統一行動。全学連5000名国会包囲デモ。国民会議が国会周辺で20数万人デモ。ハガチー(大統領新聞係り秘書)は、羽田空港で労働者・学生の数万のデモ隊の抗議に出迎えられた。ハガチーの乗った車はデモ隊の隊列の中に突っ込み、米軍ヘリコプターと警官の救援でやっと羽田を脱出、裏口からアメリカ大使館に入るという珍事件(「ハガチー事件」)が発生した。この「ハガチー事件」は、「60年安保闘争」で見せた党及び民青同の唯一といって良い戦闘的行動であったが、これがブント系全学連を大いに刺激した風がある。「60年安保闘争」に関する歴年党員の語りは、もっぱらこの時のことに関連している。これ以外の面での語りは、党の指導とは関係なく「大衆的に盛り上がった」当時の雰囲気を共有するデカダンスでしかない、といったらお叱りを受けるでしょうか。

 6.11日、23万5千人が国会、米大使館へ抗議デモ。 6.15日安保改定阻止の第二次全国ストが遂行された。全国580万人の参加。東京では、15万人の国会デモがかけられ、ブント系全学連は「国会突入方針」を打ち出し、学生たちを中心に数千人の国会突入が為された。先頭部隊が国会南通用門に突入。当時のデモ隊は全く素手の集団だった。あるものはスクラムだけだった。この最中にブント女性活動家樺美智子が警官隊との衝突で死亡する事件が起こった。この時右翼が、国会周辺でデモ隊を襲撃した。この日の犠牲者は死者1名、重軽傷712名、被逮捕者167名。6.16日樺美智子虐殺に抗議し、労・学5万人が国会包囲デモ。政府は、「樺美智子事件」の衝撃で不測の事態発生を憂慮することとなり、急遽臨時閣議を開きアイゼンハワー米大統領の訪日延期要請を決定。こうしてアイク米大統領らの訪日は中止となった。

 国会デモはその後も空前の動員数を示した。全国の各大学は自然発生的に無期限ストに突入した。6.17日社会党顧問川上丈太郎が右翼に刺され負傷。6.18日30万人が徹夜で国会包囲デモ。6.19日午前零時新安保条約が自然成立。6.22日政治スト第3波600万人、国会請願デモ10万人。党は、党組織を大挙動員する。6.23日新安保条約の批准書交換、岸首相が退陣の意思を表明。新安保条約は国会で自然承認され、発効した。

 6.23日、樺美智子全学追悼集会。夜、全学連主流派学生250人が、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は全学連主流派の冒険主義にも責任がある」としたアカハタ記事に憤激して、党本部に抗議デモをかけた。党は、この一連の経過で一貫して「挑発に乗るな」とか「冒険主義批判」をし続け、戦闘化した大衆から「前衛失格」・「前衛不在」の罵声を浴びることになった。こうして安保闘争は、戦後反体制運動の画期的事件となった。「乗り越えられた前衛」は革新ジャーナリズムの流行語となった。党員の参加する多くの新聞雑誌・出版物からも、鋭い党中央派批判を発生させた。「戦前派の指導する擬制前衛達が、十数万の労働者・学生・市民の眼の前で、遂に自ら闘い得ないこと、自ら闘いを方向づける能力の無いことを、完膚無きまでに明らかにした」(「擬制の終焉」60.9月)が実感を持って受けとめられた。。この後まもなくデモ参加者も急速に潮を引いていくことになり、この辺りで「60年安保闘争」は基本的に終焉し、後は闘争の総括へ向かっていくことになる。





(私論.私見)