「戦後学生運動史概観旧版1、戦後学生運動1、60年安保闘争まで」 |
(最新見直し2006.5.19日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
これは「さざなみ通信」の「共産党の理論・政策・歴史討論欄」の「99年〜00年」に収録されているれんだいこの投稿文で、ここでは「戦後学生運動の総括その1」として60年安保闘争までの流れを考察している。当時は、れんだいじのハンドルネームで登場していた。現在は、れんだいこ論文集の「戦後学生運動論」で書き直し収録している。前者の方がコンパクトになっており読みやすい面と、後者は今後益々書き換えられていく予定なので原文を保持する為にもここに取り込んで遺しておくことにした。(適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法に即して書き直した)ある。当時は、れんだいじのハンドルネームで登場していた。(適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法及び表記に即して書き直した) 2006.5.18日 れんだいこ拝 |
「新日和見主義事件」考察その一、はじめに(1999.12.1日) |
先の「査問事件」の考察は恐らく私の畢生の労作になったと自負しているが、今のところ誰からも批評を頂けないので拍子抜けしてしまう。マァ元気出して行こう、元来ネアカなので気にしないと思っていたら、宮地さんのホームページで取り上げて下さり、やはり見ている方もおられるんだなぁと心強くなり、頑張って書き続けていこうと再意欲が出ました。私の「査問事件」の考察は、一連の流れをドラマ化させたという点で、たたき台として誰かがせねばならない作業であったと今でも自負しています。是非党の再生作業の一里塚としてご利用賜りますよう改めてお願い申しあげておきます。あの作品が党の旗を守ることと現執行部を擁護することとは認識上厳格に区別する必要があるということをモチーフにして書き上げられているということをご理解しつつ読み進めて頂ければなお真価が見えてくると思います。 |
考察その二、事件総括の重要性について(1999.12.5日、12.9日部訂正) |
「新日和見主義事件」は運動としては「双葉の芽」のうちにつぶされたので、党史から見ればさほど重要な位置を占めない。つまり、たいした事件とはならなかったということである。が、この事件も間違いなく宮本氏の号令一下で始められた「査問」事件であったことと、党指導下の青年学生組織に対して取られた党による極反動的な統制政策であり(宮本氏を調べていけば行くほど、こうした「統制好きな面」と「査問好きな面」が浮かび上がってくる。氏の行動が左翼運動の前進的発展に寄与した面について私は少しも知れない。度々お願いしているが、どなたか、いや実はこういう貢献があるというものがあったら本当に教えて欲しい。なぜこんな人物が「無謬」だとか「獄中12年」の神話化人物になるのだろう。不思議というか考えられないことなのだけど、そのからくりについても教えていただけたらありがたい。これはマジで言ってます。私には、インテリジェンスのあるいい大人が何でいとも易々そういう論理を受け入れているのか理解不能なのです。ましてや今日の党路線に批判的な者でさえ、こと宮本氏の評価となると絶対的基準で氏を擁護する姿勢が見られるようである。この現象を整合的に説明してくれませんか)、これ以来30年間近くにわたって今日にまで至る党指導下の青年学生運動の低迷を作り出していることを思えば、「新日和見主義事件」はこの両面において象徴的な反動的な政治的事件であったという重要性を帯びており、かなり底流的に重みがあると思われる。 |
れんだいじさんへ(1999.12.7日、木村) |
1冊の本ができあがりそうな投稿を終えて間もなく、また、長編になりそうな投稿にとりかかってみえます。そのバイタリティーには驚きます。訂正すべきところを1つ。川上氏は民青の委員長であったことはありません。たしか中央常任委員であったと思います。論旨に影響はないと言えばそれまでですが、こうしたところでミソをつけられるのは、れんだいじさんの本意ではなかろうと思いますので、あえてお知らせします。『汚名』は、ぜひお読みになってから投稿を書かれることをお勧めします。筆者は当時の民青同盟静岡県委員長であった人であり、事実関係については『査問』よりもわかりやすいといえるかもしれません。 |
考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(@)(1999.12.9日) |
木村さんのご忠言ありがとうございます。指摘されてみればそうだったですね。川上氏の委員長について民青同と全学連を混同させていました。編集部の方にお願いして早めに訂正しようと思います。これからの投稿につきましてもよろしくご指摘ください。何せ継ぎ接ぎ継ぎ接ぎで経過を追おうとしていますので多々そういう面も生じるかと思われますのでよろしくお願いいたします。実際今回の課題が大きすぎて既に辟易し始めていますが、バックターンも悔しいので書けるところまで追跡していく決意です。『汚名』についても読まねばと思っていますが、私の近くの本屋には何カ所か回りましたが出回っておらずそのままになっています。注文すれば良いだけのことですからこれは言い訳かもしれませんね。 第1期(45年〜49年)【(日共単一系)全学連結成前後期】 第2期(50年〜54年)【(日共単一系)全学連の組織的発展と分裂期】 第3期(55年)【(日共単一系)全学連の組織的崩壊期】 |
考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(A)(1999.12.10日) |
以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。この時期の学生にとってマルクス主義受容の精神風土的根拠についての考察である。私の場合の捉え方が一般化出来るのかどうか分からないが、あんまり変わりないものとして推定する。当時の学生をも取り囲む社会は、敗戦の混乱から復興へ向けての資本の再蓄積の発展過程にあり、同時に冷戦下での米ソ二大陣営の覇権競争期に直面しており、国内外に強権的な支配政策が横溢していた。そうした事象発生に内在する社会の矛盾に目覚めた者は、過半の者が必然的とも言える行程でマルクス主義の洗礼へと向かっていった。マルクスの諸著作には、必然的な歴史的発展の行程として資本制社会から社会主義へ、社会主義から共産主義の社会の到来を予見していた。社会主義社会とは「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」社会であり、共産主義社会とは「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」社会であった。この社会に至ることによってはじめて社会の基本矛盾が止揚されていくことになるが、この革命事業の手法をめぐって見解と運動論の違いが存在する。なお、この道中には過渡期が存在する。しかし、資本主義の墓掘り人としてのプロレタリアートの階級的利益の立場に立って、プロレタリアート独裁権力を通じてその歴史的任務をより合法則的に作動させていくならばいわば効率的にその社会に近づいていくことが出来、その知性と強権の発動のさせ方に前衛党の任務がある。気がつけば国家が死滅しており、人々の助け合いのユートピア社会が実現している。その行程の一助になる革命事業のためならば私一身の利害は捨てても惜しくはない。こうして「マルクス共産主義は、それまでの社会科学の集大成によって創られた無縫の天衣である。人間を包み込んで尚あまりあるもの。人間のどんな要求も呑み込み消化し社会の創造維持発展の養分にしてしまえる仕組み。と思っていた。沸き上がってくる望みや理想は全てそこから引き出せる」(「戦後史の証言ブント」榊原勝昭)とでも言える認識で即興の左翼活動家が生み出されていったのではなかろうか。私の場合、あれから30年近くの歳月を経て、このような階級闘争史観で万事を無理矢理解くには不都合な事象にも出くわしてきており、そのようなものの見方に対しては二歩三歩遠景から眺めるようになっている。「これはもう感情的な問題や。政策とか路線の問題じゃない。感情論の問題というのは修復し難いんですよ、歴史を見ても。どないもならへん」(「戦後史の証言ブント」星宮)という物言いには根拠があると思うようになっている。とはいえ、他方で今日的な社会現象としての人と人とのスクラムのない閉塞状況からすれば、ますます当時の青年学生がつかもうとして挑んだ行為が美しくさえ見えてきてもいる。以下は、そういう者たちの青春群像による運動的事実が戦後史に存在したことの確認のため記す。 第4期(56年)【全学連の再建期】 |
考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(B)(1999.12.12日) |
以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。ここではじめてトロッキズムの諸潮流に出くわすことになるが、この流れの由来をあたかも異星人・異邦人の到来であるかにみなす傾向が今日もなお日本共産党及びその感化を受けた勢力の中に認められる傾向について、どう思うべきかという事に関してコメントしておこうと思う。今私は川上徹編集「学生運動」を読み始めている。気づくことは、前半の語りで該当個所に関してマルクス・レーニンの著作からの適切な指示を引用しながら、結論部に至って「トロッキスト・修正主義者を一掃しなければならない」という締めの文句を常用としていることである。他方、右翼・ノンポリ・宗教運動家・改良主義者に対しては統一戦線理論で猫なで声で遇することになる。この現象は、一体何なんだろう。そんなにトロッキズムを天敵にせねばならない思考習慣がいつ頃から染みついたのだろう。 第4期(57年)【新左翼(トロッキズム)の潮流発生】 |
考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(C)(1999.12.14日) |
以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。この時期に潮流形成される全学連再建急進主義派が、学生運動を通じて「革命運動」に向かおうとしていたことの是非についてである。その際「ポツダム自治会」は二面で機能することになった。一つは培養基盤であるという正の面であり、一つは革命的左翼運動にあっては手かせ足かせになるという負の面であった。党の青年・学生運動の指針は、この培養基盤という正の面を重視させる方向に働き、全学連再建急進主義派は、負の面である手かせ足かせを乗り越えようとして突出していくことになる。その両方を機能的に弁証法的に高めることが出来たら理想ではあろうが、実際にはそのようにはならない。ここで考えたいことがある。全学連再建急進主義派が押し進めた「学生自治会を足場にしながらの究極革命運動への邁進」はさすがに行き過ぎだったのだろうか、いやそんなことはない中国における五四運動を見よ、わが国での幕末の志士たちの運動を見よ、皆うら若き二十歳前後の青年達の立派な政変闘争ではなかったか、という観点もまたあらためて検討されるに値するように思われる。この間一貫して今日まで党の指導は、こうした連中の「思い上がり」を、ある時には急進主義者、ある時には挑発者、ある時にはトロッキストと呼んでむしろ積極的にこの動きを潰しにかかったという史実がある。事は難しそうだから解答までは必要とされないが、特に昨今の大衆運動の没化状況を考えた場合考究の余地は大いにあると思われる。「新日和見主義事件」考察の前提になる部分でもあるが、「新日和見主義事者」達は、これから見ていく流れに対し、一貫して党の方針に忠実に敵対していくことになる。そして、ほとぼりが冷めた頃自ら等もまた無用にされてしまった。そして25年の月日を沈黙させた。なぜ、闘わなかったんだろう、戦えなかったのだろう。トロッキストが政府に泳がせられていたとするなら、「新日和見主義事者」達もまた党に泳がせられていたのではないのか。この深い暗流に対して解析を試みようと思うが、(ボソボソ)能力の限界も感じつつある。 第4期(57年)【反党派全学連主流の誕生期】 |
考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(D)(1999.12.14日) |
以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。これより後全学連主流派は、「国会へ国会へ」と向けて闘争を組織していくことになる。実際に今日では想像できない規模の「労・学」数十万人による国会包囲デモが連日行われ、全学連はその先鋒隊で国会突入を再度にわたって貫徹している。私は、「時代の雰囲気」がそう指針させたのだと了解している。が、果たして「国会突入」にどれほどの戦略的意味があるのだろうかという点につき考察に値する。というよりも、一体「国会」というのは何なんだろうと考えてみたい。恐らく、「国会突入」は「左」からの「国会の物神化」闘争であったものと思われる。後の全共闘的論理から言えば「国会の解体」へと向かおうとした闘争であったということになるが、こういう運動は何となく空しい。私論によれば、「国会」は各種法案の審議をするところであり、なぜその充実化(実質審議・少数政党の見解表明時間の拡充・議員能力の向上等々)のために闘わないのだろう。「国会」がブルジョアのそれであろうが、プロレタリアのそれであろうが審議の充実化こそが生命なのではなかろうか。「国会」を昔からの「村方三役の寄合談義の延長の場」と考えれば、その民衆的利益の実質化をこそ目指すべきで、寄合談義がいらないと考えるのはオカシイのではなかろうか。審議拒否とか牛歩戦術とかの伝統的な社会党戦術は見せかけだけのマイナーな闘い方であり闘うポーズの演出でしかないと思う。このことは、党運動の議員の頭数だけを増やそうとする議会主義に対しても批判が向けられることを意味する。これもまた右からの「国会の物神化」運動なのではなかろうか。一体、不破氏を始めいろんな論客が国会答弁の場に立ったが、その貴重な時間において他を圧倒せしめる名演説を暫く聞いたことがない。最近の党首会談での原子力論議なぞは、それが如何に重要な問題であろうとも、今言わねばならぬ事は、呻吟する労働者階級の怨嗟の声を叩きつけることではなかったのかと思われる。あるいはまた中小・零細企業の壊滅的事態の進行に対する無策を非難すべきではなかったのか。良く「道理」を説いてくれるので、いっそのこと「日本道理党」とでも名称をつけて奮闘されるので有れば何も言うことはないが。 第5期(58年)【(新左翼系)全学連の自立発展期】 |
考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(E)(1999.12.16日) |
以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。学生運動内における暴力の発生とそうしたゲバルト路線の定式化に関する是非について考察してみたい。既に「全学連第11回大会」における全学連主流派による反主流派(党中央派)の高野グループ派の暴力的な追いだしに触れたが、これより後左翼運動内にこの暴力主義的傾向が次第にエスカレートしていく過程を見ていくことになる。最初は、反代々木派による代々木派への暴力であったが、この勢いは追って反代々木派諸派内にも無制限に進行していくことになる。恐らく「暴力革命論」上の社会機構の改変的暴力性を、左翼運動内の理論闘争の決着の着け方の手法にまで安易に横滑りさせていったのではないかと思われるが、如何なものであろうか。「オウム」にはポア理論という結構なものがあるが、それに類似した理論を創造しないまま暴力を無規制に持ち込むのはマルクス主義的知性の頽廃なのではなかろうか。あるいはまた警官隊→機動隊との衝突を通じて暴力意識を醸成していった結果暴力性の一人歩きを許してしまったのかもしれない。私は、オカシイと思うし、ここを解決しない限り左翼運動の再生はありえないとも思う。「党内反対派の処遇基準と非暴力的解決基準の確立」に対する左翼の能力が問われているように思う。「意見・見解の相違→分派→分党」が当たり前なら星の数ほど党派が生まれざるをえず、暴力で解決するのなら国家権力こそが最大党派ということになる。その国家権力でさえ、「一応」議会・法律という手続きに基づいて意思を貫徹せざるをえないというタガがはめられていることを前提として機能しているのが近代以降の特徴であることを思えば、左翼陣営内の暴力性は左翼が近代以前の世界の中で蠢いているということになりはしないか。暴力性の最大党派国家権力が暴力性を恣意的に行使せず、その恩恵の枠内で弱小党派が恣意的に暴力を行使しうるとすれば、それは「掌中」のことであり、どこか怪しい「甘え」の臭いがする、と私は思っている。 第5期(59年)【ブント執行部の確立と全学連運動の突出化】 |
考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(F)(1999.12.17日) |
以降の流れに入る前に、ここで例の「田中清玄インタビュー事件」について触れておこうと思う。私は、このインタビュー内容の詳細を知りたいが手にしていないので、現象的に現れた作用についてコメントしようと思う。この事件は、安保闘争後の63.2.26日のTBSインタビューで、田中清玄氏が当時の全学連指導者に資金提供していたことを明らかにしたところから、党によって大々的に当時の全学連指導者ブントのいかがわしさが喧伝されていくことになった、という意味で政治的事件となった。この党の喧伝には例の詐術があったことを指摘しておきたい。どういう詐術かというと、この時党は、田中清玄氏を主として民族主義者的右翼として描き出し、その右翼的政界フィクサーがブントへ資金提供していたといういかがわしさを浮きだたせ、よってブントのトロッキストの反共的本質を明らかにするという三段論法をとった。 63年当時のブントは、この後おってみていくことになるが分裂状態で崩壊状況にあり、これに対し有効な反撃が組織できなかった。私なら、こう主張する。田中清玄氏はあなたがたの党の前身である戦前の武装共産党時代のれっきとした党委員長であり、転向後政治的立場を民族主義者として移し身していくことになった。これは彼のドラマであり、我々の関知するところではない。その彼が、政治的立場を異にするものの、当時の我々のブント運動に自身の若き頃をカリカチュアさせた結果資金提供を申し出たものと受けとめている。氏の「国家百年の計」よりなす憂国の情の然らしめたものであった。ブントは、これにより政治的影響を一切受けなかったし、当時の財政危機状態にあっては有り難い申し出であった。もし、これを不正というのであれば、宮本氏の戦前の党中央時代と戦後の国際派時代の潤沢な資金について究明していく用意がある、と。 第5期(60年)【ブント系全学連の満展開と民青同系の分離期】 |
(私論.私見)