ブック上巻4(8期その1から9期その1まで) |
16章 8期その1 1968 全共闘運動の盛り上がり 【北ベトナムと南ベトナム解放戦線が旧正月(テト)攻勢】 1968(昭和43).1月、北ベトナムと南ベトナム解放戦線が旧正月(テト)攻勢を仕掛ける。ベトナム戦争の戦局が明らかに米軍敗色を濃厚にし始めたことになる。 【中大闘争勝利、日大闘争始まる】 1月、大学当局の学費値上げ発表に対し、中央大学昼間部自治会が学費値上げ反対全学ストに突入した。2月、中大学費値上げ反対闘争が白紙撤回で勝利決着する。この頃、医学部から発生した東大紛争が次第に全学部へ広がりを見せていくことになった。さらに日大闘争が始まり、東大−日大を頂点とする全国大学紛争が勃発し、政治闘争に重なり相乗していくことになった。 【原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争】 1月、米国政府が、原子力空母エンタープライズの1.17−18日頃佐世保寄港を非公式に通告。これにより、「佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争」が始まる。佐世保現地と東京での闘いが呼応し、以後一週間現地で激闘となる。1.15日、法政大学を出発して佐世保へむかう中核派約2百名が飯田橋駅へ到着したところ機動隊が検束を開始し、公務執行妨害.凶器準備集合罪が適用され131名が逮捕されている。「予防検束」との批判の声が挙がった。ブント系学生が外務省に乱入89名逮捕される。 1.17日、佐世保駅に着いた三派系全学連約8百名が米軍基地に通じる平瀬橋で機動隊と衝突、数千人の市民が見守る中で約5分間の乱闘となった。機動隊側の完勝となり、27名が逮捕され、多数の学生が負傷している。同日、東京でも三派・革マル派・反戦青年委ら13団体の共催で総決起集会「エンタープライズ寄港阻止、ベトナム反戦青年学生総決起集会」が開かれ1万余名参加、60年安保闘争以来の高まりを見せた。1.18日、社共共催による5万人現地集会「原子力艦隊寄港阻止佐世保集会」が開催される。この集会に三派系全学連が参加しようとするが、ヘルメット・棍棒姿の日共―民青同がこれを阻止しようとして逆に排除される。反戦青年委員会が三派系全学連を誘導して拍手に迎えられて入場、一角に陣取った。集会後、三派の1500名が佐世保橋で機動隊と再度衝突、15名が逮捕されている。この時、反戦青年委員会の労組員などが学生部隊のうしろにつき援護する態勢をとった。さらに、周辺にいた市民などの群集も学生部隊に暴力をふるう機動隊を非難し、あるいは積極的な抗議行動にでた。1.19日、エンタープライズが、原子力駆逐艦トラクストンを従えて入港。三派系は佐世保橋上で再々度衝突し8名が逮捕されている。社学同は外務省突入。1.21日、中核派の学生2名が基地内に突入。参加者延べ6万4千7百人、うち三派全学連など学生約4千人、負傷者519名、うち学生229名、逮捕者69名、うち学生64名となった。 【王子野戦病院設置阻止闘争】 2月、王子野戦病院は、ベトナム戦争の激化の中で、埼玉県朝霞基地の米軍病院だけでは負傷者の収容が不十分となったため、王子キャンプ内に新たな病院を開設しようとしたものだった。地元では既に計画の噂が流れていたその1年以上前から反対運動が続けられていたが、三派.革マル.民学同などがそれぞれ取り組み、三里塚闘争と並行しつつ闘われた。王子・柳田公園で開かれた反戦青年委員会主催の総決起集会を皮切りに地域ぐるみの闘争になり、これに新左翼勢力が積極的に加わり闘争を激化させた。3.16日、南ベトナムのソンミ村でのアメリカ軍の村民大虐殺が表ざたになり世界に衝撃を与えた。アメリカ軍への反感は一般市民にまで急速に広がっていった。3月、都議会が、移転反対決議を出し、美濃部東京都知事は事態の打開を図るため米軍に野戦病院の移転を要請、政府も東京多摩への移転を検討せざるをえなくなり、反対闘争は成果をおさめた。 3.28日、学生1千名が病院に突撃し、中核派の49名が基地内に突入。各地で続いた機動隊との衝突では、市民も機動隊に投石するというエスカレートぶりをみせた。この闘争では、地元住民が学生や労働者を支援して自然発生的に共闘の輪ができた。地区の住民にとっても、米軍の野戦病院の開設には反対だった。学生たちの激しい行動が、市民や住民たちの共感や行動をよびおこし、それがうねりとなっていく時期だった。闘争は波状攻撃のように続き、住民も支援のため歩道を埋めつくした。学生や反戦青年委員会の労働者の闘争は、市民や住民らの闘いをよびおこしていた。 4.1日、三派系全学連が、パトカーを炎上させ、交番襲撃。108名が逮捕される。2.20日から4.15日まで、学生部隊、反戦青年委員会、それに市民による機動隊との激しい衝突事件は9回にわたり、計1500人以上の負傷者が出た。佐世保エンプラ闘争で出現した市民のたちあがり以上の「闘う市民」の登場が、この一連の王子闘争の特徴であった。 【三里塚闘争】 この頃、反対同盟と三派全学連や反戦青年委員会が結合し始めた。こうなると、日共は例によってトロツキスト批判を展開して戦列から離れ、社会党もいつのまにか「条件派」に鞍替えした。2.26日、成田空港反対同盟と三派全学連共闘による三里塚空港実力粉砕現地総決起集会、3千名結集、衝突。戸村一作反対同盟委員長ら4百名が重軽傷。3.10日、三里塚闘争。反対同盟1300名を中心に全国から労学農・市民1万人参加。全学連2千名が機動隊と衝突。3.20日、三里塚空港粉砕成田集会。労農学5千名が集会とデモ。 3.31日、三里塚闘争。三派系全学連が、成田市の新空港公団分室突入を図り、51名が逮捕される。 【中核派と革マル派の理論闘争】 この時期中核派は、大衆運動の高揚期には組織をかけてでも闘争をやり抜くという旧ブント的方針で闘争を指導し、支持を獲得していった。この手法は勇ましく人気も出たが、一方逮捕など組織的な消耗が避けられなかった。こうした中核派の闘争指導に対して、革マル派は、大衆闘争上の現象的激動を革命的激動と取り違える妄想と批判した。革マル派は「革マル体操」と揶揄されながらも、ゲバ棒はかついでも機動隊との衝突は極力避けつつ組織温存を重視した。こうした革マル派の闘争指導に対して、中核派は、革命的組織作りはそのような真空中でつくられるのではなく、革命的激動の中で攻撃的に対応することを通じて勝ち取られるものだと批判し武闘路線に邁進した。 これについて筆者は思う。既述したが私には、どちらの言い分が正しいと云うよりは、このやり方の方が自分にとってしっくり合うという気質の差のように思われる。問題は次のことにある。こういう理論闘争は大いに称揚されるべきところ、学生運動史上の珍しい理論闘争となっていることである。定期的にでも設営されて然るべきではなかろうか。 【日共が北方領土問題で全千島返還論発表】 3月、日共が北方領土返還問題で、「南千島のみではなく北千島をも含めた全千島の日本返還論」を発表している。これつについて筆者は思う。右翼も顔負けだろうに。 【「4.28・沖縄デー闘争」】 4.27日、中核派、ブントに破防法(破壊活動防止法)40条「凶器もしくは毒劇物を携える多衆共同して検察もしくは警察の職務を妨害する罪」が適用され、当日の実行行為に関係なく両派の幹部5名(中核派書記長本多氏と東京地区反戦世話人藤原慶久氏他)が事前逮捕された。 【ベトナム戦争終幕と世界の反戦闘争】 ジョンソン米大統領が北ベトナム提案を受諾しパリで予備会談を開くと発表。解放戦線が第3次攻勢を開始。パリの学生デモ激化。サイゴン地区で激戦、市街戦。 米・北ベトナム第1回準備会談。 米・北べトナム第1回パリ会談。 5月、フランス「5月危機」はじまる。3月に始まったソルボンヌ大学のナンテール分校の学生改革要求の大学占拠闘争は、ナチス以来のソルボンヌ大学封鎖となった。学生寮の管理などを廻り学生と対立していた大学側が、パリ郊外のキャンパスを封鎖したのに対し、学生は、カルチェ・ラタンにバリケードをつくって警官隊と対峙した。この要塞化したバリケードをめぐる学生と警官との衝突は激しいものとなった。 西ドイツの首都ボンで非常事態法に反発する学生約3万名が警官隊と衝突。アメリカでも、ベトナム反戦を主張するSDS(民主主義社会のための学生連合)の学生が、コロンビア大学で大学占拠闘争をはじめた。これは「いちご白書」として報告され有名になる。これを契機に、全米に学園闘争が広がっていった。この頃、アメリカでは、60年代のはじめから黒人の公民権運動が発展し、65年の投票権法などで差別制度を撤廃させていた。さらに、黒人運動は学生運動、ベトナム反戦運動、女性解放運動などと連動して、アメリカ社会に大きなインパクトをあたえていた。 【日共が、更なる右傾化へ舵を切る】 5月、7月の参院選が迫る中、日共は、重要政策における右傾化方向へ舵を切った。まず、安保政策として、従来の安保破棄を廃棄へと用語変更した。その意味するところは、破棄の場合は実力闘争的響きを持つが、廃棄とすることにより議会手続きによってこれを行うことを誓う云々というものであった。 次に、社会党的非武装中立主義を非現実的として、「もし日本が落下傘部隊を落とされて首都を占拠されるという危険があるとき、何にも持たないで、お手上げというのでは主権を守れませんから、そういう場合の自衛措置は国民の総意によって憲法上の取り扱いを考慮して決めるというので(憲法問題)を保留している訳です」とした。これは、自衛隊の合法化に踏み切ったことを意味する。 次に、プロレタリアート独裁をプロレタリアート(労働者階級)執権に改めた。次のように述べられていた。「プロレタリアート独裁という言葉の意味は、プロレタリアート(労働者階級)の執政とか執権とかいうもので、プロレタリアートが権力を握って政治を行うということ、つまり労働者を中心に多数の者が政治を行うということに他なりません。それこそ真の民主主義なのです」。これは、プロレタリアート独裁論に対してとかくの批判が為されるのを受けて、「恐くない独裁論」を創造したことになる。 【1968.6.15集会に於けるゲバルトの発生】 6.15日、日比谷野音で「アメリカにベトナム戦争の即時全面中止を要求する6.15集会」が開かれる。1万2千名結集。このベトナム反戦青年学生決起集会で、中核派対革マル派−社青同解放派連合という構図での乱闘騒ぎが起こる。全国反戦は以降完全に分裂した。 これについて筆者は思う。この「内ゲバ」は考察されるに値する。こうした「内ゲバ」が統一集会に於いて「70年安保闘争」決戦期前に発生しているという内部的瓦解性の面と、後の展開からしてみて少々奇妙な構図が見える。つまり、中核派対革マル派−社青同解放派連合という構図は、どういう背景からもたらされたのだろうか。衆知のように中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派というのが70年以降の構図であることを思えば、この時の経過が私には分からない。お互い運動に責任を持つ立場からすれば、こうした経過は明確にしておくべきではなかろうか。いずれにせよ、当面の運動の利益の前に党派の利益が優先されていることにはなる。果たして、安保決戦期前のこの内部対立性(新左翼対民・ツ同、新左翼内のセクト抗争)は偶然なのだろうか。筆者はそのようには見ていない。こういうことに賢明に対応できないようでは百年かけても左翼運動が首尾良く推移することはないと思う。 【東大闘争激化】 7月、東大全学共闘会議(東大全共闘)結成、初の決起集会に3千名結集。7.16日、東大全共闘が7項目要求確認。7.23日、東大全共闘を支持する全学助手共闘会議結成。 【中核派全学連結成、その功罪考】 7月、中核派全学連大会開催される。こうして中核派は、中核派全学連として単独大会を開催して正式に三派全学連から離脱することになった。101大学・157自治会・127代議員・1500名参加。この数字が正確であるとすれば、中核派の進出もまた凄まじいものがあったということになる。してみれば、ブント−社学同系の分立抗争ぶりとは対照的に元革共同勢が大幅に組織を伸ばしていることが分かる。12.10日、中核派全学連臨時全国大会、委員長に金山克巳氏を選出する。 これについて筆者は思う。この時期、革マル派全学連、民青同全学連に続き中核派全学連が立ち上げられた。時の勢いでもあったが、後の展開から見て真似してはいけない党派独善運動であった気がしないわけでもない。惜しむらくは、全学連の革マル派化、民青同の自前全学連創出は、運動全体の利益を考えるより党派的な利益を優先する体質的なそれであるから是非に及ばずとして、中核派の自前全学連創出はいかがなものであっただろうか。むしろ、共同戦線型の全学連を良しとして引き続き主力となって三派全学連を担い続けるべきであったのではなかろうか。少なくとも中核派の方から自前全学連を創る必要はなかったのではあるまいか。中核派が安直に革マル派、民青同型を踏襲したことを惜しいと思う。この指摘は、中核派を非難しようとして述べているのではない。日本左派運動の共同戦線型運動に対する軽視ないしは不見識が高揚期の場面になるや現われ、それがやがて運動の衰微を用意していく下地になるという法理を確認したい為である。 こうして、三派全学連から中核派が抜け、反中核派連合の第二次ブント統一派−社学同、ML派、社青同解放派、第4インターなどが反帝全学連を創出する。これで4つ目の全学連が誕生することとなった。その反帝全学連もそれぞれの全学連を創出していくことになる。筆者が思うに、全共闘運動は元々革マル派、民青同のロゴス派運動とは質の違うカオス派の共同戦線運動として進められたが故に昂揚したのではなかったか。ならば、この昂揚を醸成発展せしめる為にも、引き続きあくまでも共同戦線運動として保持されていくべきではなかったか。思えば、第1次ブント運動の功績も、この共同戦線型の構えであったが故に空前の盛り上がりをみせてたのではなかろうか。第1次ブントが解体されたのは、これを担う連中のカオス型共同戦線運動に対す・骭y視ないしは不見識によってではなかったか。日本左派運動のカオス型共同戦線運動に対する見識不足が、この時の中核派全学連、反帝全学連創出に見て取る事ができ、やがてこのツケが自家撞着していくさまを見ることになるであろう。 【第二次ブントの分裂】 この頃、第二次ブントが次々と分裂していった。8月、マル戦派は、幹部間の対立から前衛派と怒濤派に分裂した。戦略戦術の総括、岩田理論の評価の対立から、岩田理論の正統継承派を主張する前衛派と、学生活動家を擁し多数派の怒濤派に分裂した。怒濤派は、後に労働者共産主義委員会(労共委)と改称し機関紙「怒濤」を発行、下部組織として共産主義戦線(共戦)を結成することになる。 【チェコで「プラハの春事件」発生】 「人間の顔をした社会主義を求めるプラハの春」と呼ばれた党民主化・社会主義国家体制民主化運動が1968年に爆発的に高揚し、8.20日、ソ連などワルシャワ条約機構5カ国軍隊(ソ連・ポーランド・東ドイツ・ハンガリー・ブルガリア)がチェコスロバキアに侵入し、全土を占領するというチェコ事件が発生した(「プラハの春弾圧」)。ドブチェクら党・政府の最高指導者たちはいきなり手錠をかけられ、モスクワに連行された。 この時ブレジネフは、「制限主権論」を唱え、冷戦下の社会主義世界体制で、チェコ共産党・国家の独自の改革権限・主権は制限されると主張し、この闘争を指導したドプチェク氏と「プラハの春」指導者らに「反革命」レッテルを貼り、チェコ傀儡政権に命令して、50万人の改革派党員を除名し、職場から追放した。8.21日、ソ連軍のチェコ武力介入に緊急抗議集会。 【日大−東大闘争】 9月、日大全共闘総決起集会。数万名結集。この頃東大闘争が拡大していくことになり、9.19日、工・経・教育学部もストに突入。9.20日、日大が全学ストに突入。9.27日、東大医学部赤レンガ館を研究者が自主封鎖。民青同との対立が抜き差しならない方向で進んだ。9.30日、日大全共闘3万名が、両国講堂で大学当局と10時間大衆団交。大学側全理事退陣確認書に署名させる。翌日、佐藤首相の批判を受け撤回する。10.1日、東大の理・農・法学部も無期限ストライキ突入。10.5日、秋田明大ら日大全共闘幹部8名に逮捕状が出され、機動隊が導入され各学部のバリケードが解除される。10.12日、東大全学無期限ストに突入。11.1日、東大の大河内総長が辞任した。東大総長が任期を全うせず辞任するのは戦後初めてのことであり、東大90年の歴史にも前例がない。11.4日、加藤教授が総長代行就任。12.29日、坂田文相が東大全学部の入試中止を決定。 【10月闘争、11.21国際反戦デー闘争】 10.8日、羽田闘争1周年集会。中核派、社学同、ML派、反戦青年委員会の約1万人が参加する。革マル派と社青同解放派は別個に集会。構造改革派系も合流しその後新宿駅で米軍燃料タンク阻止闘争。144名逮捕される。 10.20日、10月反戦行動実行委による市民デモ。明治公園→新宿駅西口、3千名結集。9名逮捕される。そのあと新宿駅東口でべ平連街頭演説会。石田郁夫、小田実、小中陽太郎、日高六郎ら発言。1万名結集。社学同の学生26名防衛庁突入。 10.21日、国際反戦デー。全国で46都道府県560カ所で30万名参加。31大学60自治会スト決行。全学連統一行動は、中央集会に1万余を結集。新宿・国会・防衛庁等で2万人デモ。機動隊と激突。社学同統一派系1千名は中央大終結後防衛庁突入闘争。社青同解放派系は早大終結後国会とアメリカ大使館に突入闘争。革マル派と構造改革派(フロント)9百名(1700名ともある)は東大で終結後国会へ向かう途中で機動隊と衝突。中核派、ML派、第・Sインター1500名はお茶の水駅前終結後新宿駅へ向かい、労働者・市民2万人と合流した後騒動化。政府は、翌22日、騒乱罪を適用指令、769名が逮捕される。 【東大闘争の激化、全共闘と民青同のゲバルト衝突】 11.12日、東大総合図書館前で全共闘と民青同学生が衝突。11.14日、駒場第三・第六本館封鎖をめぐり再び全共闘と民青同学生が衝突。11.19日、加藤総長代行が民青同派と公開予備折衝に入る。11.22日、東大校内で東大・日大闘争勝利全国学生総決起集会。新左翼系約2万名が集結、デモ。民青同系と小競り合い。12月より東大のみならず各大学で民青同・右翼グループがバリケード封鎖解除の動き強める。 この時期、民青同の民主化棒なるゲバルトが生まれた。日頃の穏健派理論には似つかわしくないゲバルトであった。これについては「民青同のゲバルト考」に記す。筆者が見立てる民青同の民主化棒なるゲバルト理論を支えるエートスは日共の民主連合政府樹立運動に対する呼応であった。しかし、それがいかにマヌーバーに見たものであったことか。 【11月闘争】 11.7日、沖縄闘争。中核派、ML派、・社学同の学生・反戦青年委員会約5千名が首相官邸デモ。この闘いで秋山全学連委員長ら474名が逮捕される。11.24日、三里塚空港粉砕・ボーリング実力阻止全国総決起大会。労農学8000名実力デモ。11.23日、東大で全共闘による「東大・日大闘争勝利、全国学園紛争勝利総決起集会」が開催される。 ○68年末から翌69年にかけて全共闘運動は決戦気運に突入して行くことになった。卒業−就職期を控えて大学当局も全共闘側も年度中に何らかの解決が計られねばならないという事情があった。こうして翌69年1月の東大時計台闘争(安田講堂攻防戦)に向けて全共闘運動はセレモニーに向かうことになった。この間新大管法の施行に伴い、中大、岡山大、広島大、早大、京大、日大等々の封鎖解除も並行的に進行した。 【1968年の大学紛争校】 68年の紛争校120校、うち封鎖・占拠されたもの39校。69年には、紛争校165校、うち封鎖・占拠されたもの140校となる。当時の全国の大学総数は379校であったから、その37パーセントの大学で学内にバリケードが構築されたことになる。大学当局は管理能力を失い、学生側は代々木系と反代々木系の対立、過激派各派の衝突や内ゲバも繰り返されていくことになり、全くアナーキーな状態が現出した。 【べ平連の組織化】 この年の特徴として、以上のような動きの他にべ平連支部が各地域ごとの他に各大学にも急速に結成されていったことも注目される。既に66年には 東大ベ トナム反戦会議、 京都府立大、三重大等。67年には帝塚山学院高等部、神戸大、沖縄大学、広島大、 立命館大、一橋大等で支部結成されていたが、68年になると信大、同志社大、北大、小樽商大、大阪工大、竜谷大、東工大、芝浦工大、東工大、慶応医学部、東大、青山学院、国立音大、農工大、世田工、東京水産大、東京外語大、大阪芸大、工学院大、神戸商大等が発足した。 |
17章 8期その2 1969 全国全共闘結成 【東大で全共闘対民青同のゲバルトにより機動隊が導入される】 1969(昭和44).1.4日、加藤総長代行による非常事態宣言が発表され、東大闘争が決戦化の流れに入った。1.9日、「7学部集会」を翌日に控えたこの日、東大全共闘が、民青同の根拠地化していた教育学部奪還闘争の挙に出て民青同と激突。これを見て大学当局の判断によって機動隊が導入された。この時の機動隊導入は、学生運動内部のゲバルト抗争に対してなされたものであり、それまでの大学当局対学生間の抗争に関連しての導入ではないという内容の違いが注目される。 「日本共産党の65年」257Pは次のように記している。「東大では、学生、教職員自ら暴力集団の襲撃を阻止し、校舎封鎖を解消する闘いを進め、1.9日には、7学部代表団と大学当局との交渉を妨害する為に各地から2千人をかき集めて経済学部、教育学部を襲った暴力集団の襲撃を正当防衛権を行使して机やいすのバリケードなどで跳ね返した」。「党は、これらの闘争が正しく進むよう積極的に援助した」。 【東大で「7学部集会」】 1.10日、秩父宮ラグビー場で約8000名の学生を集めて東大「7学部集会」が開かれた。医・文・薬学部を除いた7学部、2学科、5院生の学生・院生の代表団と東大当局の間で確認書が取り交わされた。民青同がこれを指導し、泥沼化する東大紛争の自主解決の気運を急速に盛り上げていくことになった。予想以上に多くの学生が結集したと言われている。紛争疲れと展望無き引き回しを呼号し続ける全共闘運動に対する厭戦気分が反映されていたものと思われる。 「7学部集会」では、「大学当局は、大学の自治が教授会の自治であるという従来の考え方が誤りであることを認め、学生・院生・職員も、それぞれ固有の権利を持って大学の自治を形成していることを確認する」などが確認された。この確認書の内容は、当初全共闘側が目指していたものであるが、全共闘運動はいつの間にかこうした制度改革闘争を放棄し始め、この頃においては「オール・オア・ナッシング」的な政治闘争方針に移行させていた。民青同ペースの「7学部集会」に反発するばかりで、制度改革闘争を含めた今後の東大闘争に対する戦略−戦術的な位置づけでの大衆的討議を放棄していた観がある。 これについて筆者は思う。なぜかは分からないが、運動の困難に際したときに、決して大衆的討議の経験を持とうとしないというのが新旧左翼の共通項と私は思っている。この頃より一般学生の遊離が始まったとみる。それと、全共闘運動がなぜ制度改革闘争を軽視する論理に至ったのかが分からない。果たして、我々は戦後人民的闘争で獲得した制度上の獲得物の一つでもあるのだろうか。反対とか粉砕とかは常に聞かされているが、逆攻勢で獲得する闘争になぜ向かわないのだろう。 【東大闘争安田講堂攻防戦】 1.12日、東大、民青同と右翼系の手により6学部でスト解除。この頃より安田講堂の封鎖解除を促すために大学当局より機動隊導入が予告された。1.15日、東大全共闘が安田講堂封鎖を強化し、各派から500名が籠城した。こうして全共闘運動は東大安田講堂決戦(東大時計台闘争)でクライマックスを迎えることになった。 この時の民青同の動きが次のように伝えられている。機動隊の安田講堂突入の事前情報をつかんだ宮顕は、再び川上氏に直接指令を出し、“ゲバ民”側の鉄パイプ、ゲバ棒1万本を一夜の内に隠匿、処分させた。この時の革マル派の動きが次のように伝えられている。同派はこの時他セクトとともに全共闘守備隊に入っていたが、機動隊導入の前夜に担当していた法文2号館から退去、そこに機動隊が陣取ることで封鎖されていた隣の法研・安田講堂の封鎖解除を容易にさせるという不自然な動きを示した。 1.18日、東大闘争の決戦として安田砦攻防戦が闘われた。この闘いは、東大闘争の決戦としてのみならず、全国学園闘争の頂点として注視の中で戦い抜かれた。全共闘運動はこれ以降、全国全共闘結成により「60年安保闘争」を上回る闘争を指針させようとしていくことになる。機動隊8500名出動。二日間にわたって激闘後落城。 東大全学学生解放戦線の今井澄氏が午後5時50分メッセージした。「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、この放送を中止します」。 この間の様子は全国にテレビ放送され釘付けになった。全共闘の闘いぶりと機動隊の粛々とした解除と学生に対する生命安全配慮ぶりが共感を呼んだ。神田で各派が東大闘争支援決起集会を開き、集会後解放区闘争を展開した。1.20日、東大・文部省会談が行われ入試中止を最終決定する。 【革マル派の果たした役割】 革マル派は肝心なところで「利敵行為」と「敵前逃亡」という二つの挙動不審(安田決戦敵前逃亡事件)を為したことにより、これ以後全国の大学で同派は全共闘から排除され、本拠=早稲田大でも革マルをはずして早大全共闘がつくられた。 革マル派は、この事件以降今まで批判していた武闘的闘争を少数の決死隊によって行なうようになったが、アリバイ闘争と非難される始末となった。但し、革マル派の本領はこれから発揮されることになった。以降、いわゆる新左翼内で、革マル派と反革マル派との間にゲバルトが公然と発生する事態となった。いざゲバルトになると革マル派は強かった。街頭での穏健な行動とのアンバランスが却って他党派の怒りを買うことになった。 【社学同全学連の結成】 3月、社学同が全国大会を開催し、社学同派全学連を発足させた。先に4つ目の全学連として誕生した反帝全学連の内部で社学同と社青同解放派の対立が激化し、社学同もまた自派単独の全学連を結成したということになる。この大会で軍事路線の討議をめぐって対立が起こった。塩見孝也や高原浩之らの関西派グループが、「軍イコール党」−「秋期武装蜂起」など最も過激な軍事路線を主張し、「武装蜂起は時期尚早」とする関東派グループと対立した。 【日共が社会党の非武装中立論批判】 4月、日共の宮顕は、記者会見の席上、次のように社会党成田委員長の主張する非武装中立論を批判した。「将来、中立.民主日本が外国から侵略を受けた場合、どういう抵抗をするかということについて、社会党の成田委員長は、国会ではレジスタンスと言っていたが、その後は社会党の方針としてチェコ型の抵抗だというように説明されている。チェコスロバキアの今日の事態は、決して主権と独立擁護が成功的に行われていないどころか、全体として、やはりソ連の武力のローラーのもとに従属状態が深まっている。ああいう道を我々は選びたくない」。 これにつき筆者が思うに、宮顕式国防論はもう少ししゃべらせた方が良い。少なくとも、社会党の非武装中立論はこうして右から左から揺さぶられて行くことになった。これに切り返せなかった社会党の責任もさることながら、左から批判して行った日共の責任も重かろう。 【沖縄反戦デー闘争】 4.28日、沖縄反戦デー闘争。社共総評の統一集会、13万人参加。過激派学生1万名武装デモ。東京駅、銀座、新宿、渋谷などの都心部で、火炎瓶、投石闘争を展開したが、警察の徹底した取締りが功を奏し前年の新宿騒乱闘争を大きく下回る規模の行動に終わった。ベ平連も銀座、お茶の水、新橋で機動隊と衝突。中核派とブントに破防法が適用された。全国で逮捕者965名(女性133名)、逮捕者の中には高校生も多く含まれていた。前日の4.27日、中核派書記長本田氏と東京地区反戦世話人藤原慶久氏破防法発動で逮捕される。 【4.28沖縄闘争総括を廻る対立】 4.28日の沖縄反戦デー闘争の総括をめぐって新左翼内に対立が発生した。新左翼各派は自画自賛的に「闘争は勝利した」旨総括したのに対し、赤軍派を生み出すことになる共産同派は、「67.10.8羽田闘争以来の暴力闘争が巨大な壁に逢着した」(69.10「理論戦線」9号)として敗北総括した。この総括は、やがて「暴力闘争の質的転換」の是非をめぐる党内論争に発展し、党内急進派は「11月決戦期に、これまでどおりの大衆的ゲバ棒闘争を駆使しても敗北は決定的である。早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起すべきである」(前記「理論戦線」9号)と主張して、本格的軍事方針への転換を強く主張していくこととなった。この流れが赤軍派結成に向かうことになる。 【1969.5−6月闘争】 この頃の闘争の目ぼしいものを確認しておく。 5.17日、新宿西口フォーク集会に機動隊が初出動。群集2千人が集まる。以後毎土曜の西口広場でのフォーク集会が7月まで5千名規模で開催された。5.20日、立命館大学内の「わだつみ像」が全共闘系学生によって破壊される。5.22日、「6行委」と「6.15実行委」(新左翼党派、反戦青年委、全共闘なども参加)の合同世話人会で、中核派など8派政治組織と15大学全共闘とともに市民団体が6.15日に共同デモを行なうことで一致する。6.8日、ASPAC粉砕闘争。1万2千名が伊藤駅前に結集。全学連は伊藤警察を攻撃。207名逮捕される。6.9日、現地集結に向かう中核派全員逮捕される。6.11日、日大全共闘、日大闘争バリスト1周年全学総決起集会、5千名がデモ。 6.15日、統一行動。東京で362団体主催の反戦・反安保・沖縄闘争勝利統一集会。労農学7万人が日比谷から東京駅へデモ。 全国72カ所で十数万名が決起。6.27日、大学治安立法粉砕闘争。各派1万5千名が国会デモ。6.28日、新宿西口広場でフォークソング集会。機動隊導入され64名逮捕される。6.30日、全共闘が3千名結集し、京大教養部民青同系代議員大会を粉砕する。機動隊と民青同を制圧し、時計台前で大学治安立法粉砕集会を開催する。 【「大学運営臨時措置法案」が上程、質疑される】 6月、大学運営臨時措置法案が、衆議院本会議で文相の坂田道太により趣旨説明と質疑が行われた。「1・紛争大学の学長は6ヶ月以内で、一時休校とすることができる。2・文部大臣は紛争が9ヶ月以上経過した場合、教育、研究の停止(閉校措置)ができる。3・閉校後3ヶ月を経過しても収拾が困難な場合は廃校措置をとる。4・臨時大学問題審議会を設ける」などが文案となっていた。野党、マスコミはこぞって、「大学攻撃に名を借りた治安立法だ」、「大学の自治を侵す」、「大学紛争をますます困難なものにする」と反対の姿勢を示した。田中幹事長が精力的に動き、公明党・矢野じゅん也書記長、民社党・佐々木良作書記長、社会党・江田三郎書記長らと個別会談するも物別れに終わる。7.10日、大学立法粉砕闘争。早大に8千名結集して国会へデモ。早大で革マル派を除く諸派が早大全共闘結成、全学バリスト突入。 8.17日、「大学の運営に関する臨時措置法案」が成立施行された。これにより、それまで機動隊導入に根強い抵抗を感じていた大学側の機動隊出動要請が相次ぎ、各大学当局が積極的に警察力によって事態を収拾しようとする姿勢に転じた。以降、警視庁機動隊は1日平均8.5回も出動している。 【共産同戦旗派内で「内ゲバ」発生】 7月、明大和泉校舎で、共産同戦旗派内で「内ゲバ」が発生し、仏派と関西ブント塩見派が激突した。仏議長が拉致監禁され、駆けつけた機動隊に逮捕される事態になった。その後赤軍派の幹部が逆拉致監禁され、関西派活動家の一人が脱出に失敗して転落死亡するという事件が発生した。 【日共がべ平連批判表】 7.11日、日共は「べ平連は反共暴力集団」との無署名論文を発表。 【赤軍派】 8月、塩見孝也、高原浩之らの共産同少数派が共産同戦旗派から離脱し、新たに「共産主義者同盟赤軍派」を発足させた。赤軍派は、その建軍アピールにおいて「革命の軍団を組織せよ!すべての被抑圧人民は敵階級、敵権力に対する自らの武装を開始せよ!」と高らかに宣戦布告した。「前段階武装蜂起」を唱え、学生活動家=革命軍兵士の位置づけで武装蜂起的に「70年安保闘争」を闘おうという点でどのセクトよりも突出した理論を引き下げて注目を浴びた。以降、機動隊に対する爆弾闘争、交番襲撃、銀行M資金作戦等のウルトラ急進主義化で存在を誇示した。9月、「大阪―東京戦争」事件を引き起こした。 赤軍派の結成に対して、新左翼最大勢力となっていた中核派と革マル派の対応の違いが興味深い。中核派は「他人事と思えない」といい、革マル派は「誇大妄想患者の前段階崩壊」と揶揄した。既に「街頭実力闘争」についても、両派はその評価をめぐって対立を生みだしていた。これを評価する立場に立ったのが中核派、社学同、ML派であり、「組織された暴力=権力の武装という現実に対して闘いを切り開くためには自らも武装せざるをえない。これによって激動を勝利的に推進しうる」というのが論拠であった。これを否定する立場に立ったのが革マル派、構造改革諸派であり、「小ブル急進主義である。組織的力量を蓄えていくことこそが必要」と云うのが論拠であった。 これについて筆者は思う。対権力武装闘争の位置づけをめぐってのこの論争は互いの機関紙でなされているようでもあるが、系統的にされていない。後の経過から見れば、「理論の革マル派」と云われるだけあって革マル派の言うことには一々もっともな点が多いと思われる。今後のためにももっとこの種の事に関しての論議を深めておくことが肝心のようにも思う。 【全国全共闘結成】 9.5日、日比谷野音で、ノンセクト・ラジカルと多岐多流のセクト潮流を結合させて「全国全共闘会議」が結成された。こうして「70年安保闘争」を担う運動主体が創出された。全国全共闘は、ノンセクト・ラディカルとして東大全共闘を牽引してきた山本義隆(逮捕執行猶予中)を議長に、日大全共闘の秋田明大を副議長に選出した。これによれば、全国全共闘は、ノンセクト・ラディカルのイニシアチブの下に新左翼各派の共同戦線的共闘運動として結成されたことになる。 新左翼8派が参加して全国178大学、全国の学生約3万名が結集した。8派セクトは次の通りである。1・中核派(上部団体−革共同全国委)、2・社学同(々共産主義者同盟)、3・学生解放戦線(々 日本ML主義者同盟)、4・学生インター(々 第四インター日本支部)、5・プロ学同(々共産主義労働者党)、6・共学同(々社会主義労働者同盟)、7・反帝学評(々社青同解放派・革労協)、8・フロント(々統一社会主義同盟)。 これについて筆者はかく思う。筆者は、この8派セクトに注目する。8派セクトは、共同戦線に与し得る組織論、運動論を持っていることを証左していることになり、それは本来的な左派運動の在り方に忠実なセクトであるということを物語っている。将来、日本左派運動に新たな高揚期が生まれる時には、是非ともこの時の経験を生かすべきだろう。ここまでが「70年安保闘争」の「正」の面であったと思われる。 【全国全共闘のその後】 全国全共闘は、日本左派運動史上初の共同戦線を成功裡に樹立したと云う功績を持つ。これを評価する目線が乏しいのを如何せんか。ところが、その全国全共闘は結成の瞬間から三方面より70年を待つことなく崩壊していくことになった。一つは、結集した各派セクトが自派の勢力の浸透と指導権をとることに夢中となり、全共闘運動の更なる組織化、全共闘的理念の発展化方向に向かうことなく「野合」となった。つまり、ノンセクト・ラジカルとこれに連合した8派セクトによる共同戦線的運動という未経験の重みに対応し得るものを運動主体側が持ち得なかったということを意味する。 結集した各派セクトが自派の勢力の拡張と指導権をとることを優先させ、金の卵全共闘運動を自らついばんで行くことになった。ノンセクト・ラディカルが新左翼各派の草刈り場としてオルグられていく面が強まり、まったく不安定な代物へと転化し、翌年には山本議長が辞任し、全国全共闘はセクト中心の機関運営色が濃くなり、そうした傾向が強まると同時にノンセクト・ラディカルが脱落していくことになった。 これにつき、そういう党派責任に帰すると見るよりも、個々の自立的な運動から始まったノンセクト・ラジカルが組織活動を担わねばならなくなった自己矛盾であったかもしれない。党派性を越えた自立的な運動主体としての個の関わりを重視するノンセクト・ラディカルとセクトの論理が、共同戦線的運動とうまく噛み合わなかったということになるかと思われる。あるいは単に、セクトの責任を問うよりは、寄り集うのも早いがさっと散り得ることを良しとするノンセクトの気まま随意性のせいであったかもしれない。 全国全共闘自壊要因のもう一つは、結成直前に誕生した赤軍派による更なる突出化闘争の否定的影響があったと思われる。全国全共闘結成大会に、この日はじめて武闘派の最極左として結成されていた約百名の赤軍派メンバーが登場した。マスコミは、全国全共闘の歴史的意義を報ずるよりも、赤軍派の登場を好餌として大きく報道した。 これについて筆者はかく思う。赤軍派理論は、学生運動の水準を大きく超えていたことにより、全共闘−ノンセクト・ラディカル−シンパ一般学生の結合に向かうのではなく却って分離化作用を促進した。赤軍派は、この後さまざまな過激な事件を起こして物議を醸して行くが、筆者は「気質的目立ちがりやの所業」であったとみる。但し、この赤軍派が闘争を極化させたことで後々貴重な経験を積み重ねていくことになるので全否定はできない。 全国全共闘自壊要因のもう一つは、この頃から革マル派と社青同解放派、中核派間に公然ゲバルトが始まり、70年を目前に控えた最も肝心な69年後半期という不自然な時期にオカシナことが起こったことである。これにより、全共闘運動が大きく混乱させられることになった。この時期の革マル派の全共闘二大勢力であった社青同解放派、中核派攻撃は、果たして偶然であったのだろうか。 これらが否定現象となりつつ、長期化する闘争にノンセクト・ラジカルが脱落し始め、一般学生のサイレント・マジョリティーが闘争収束を願い、民青同の動きを支持し始める流動局面が生まれていった。早くも本番の70年を向かえるまでもなく自壊現象が見え始めることになった。 【社青同解放派が、革労協、反帝学評結成】 9月、社青同急進派の主流を形成していたグループが、「社会党・日本社会主義青年同盟学生班協議会解放派」(以下、「社青同解放派」と記す)、その政治組織として革命的労働者協会(革労協)、学生組織として全国反帝学生評議会連合(反帝学評)を結成した。この流れを創出したのは中原一(本名・笠原正義)、滝口弘人、高見圭司、狭間嘉明らであった。 中原氏が革労協の書記長、社青同解放派筆頭総務委員に就任した。機関紙として「解放」(旧「革命」)を発行する。社青同太田派も事実上の分裂活動を始めた。 解放派は、学生運動の拠点として東大に足場を築き、早大政経学部自治会を長らく維持していたが、東大紛争の最中に革マル派との束の間の蜜月時代を経てゲバルトに突入。これに敗退、追放された。その後、明治大学を拠点とする。 【警察対中核派の攻防】 9月、警察は、中核派に対して、本多、藤原、松尾氏などを破防法で逮捕し、破防法の団体適用をちらつかせながら締め上げを行っていた。こうした予防拘禁型の検挙に対し、中核派は、「革命を暴力的に行うということは内乱を起こすということで、それなりの覚悟が必要。逮捕を恐れていては話にならない。組織も公然組織だけではダメ」ということで、指導部を公然・非公然の2本立てにし、公然組織を前進社に残して、政治局員のほとんどが地下に潜行した。 【小西軍曹が治安出動訓練拒否で決起する】 9月、70年安保闘争に対して自衛隊は全国的に治安出動態勢に突入したこの時、航空自衛隊佐渡レーダーサイトに服務していた小西誠・三曹(20歳)らが「治安出動訓練拒否」、「自衛隊に自由を、民主主義を」などと書かれたビラ百数十枚を張り出し、公然反乱した。10.18日に分屯基地の営内で始まった治安出動訓練を全隊員の前で拒否。11.1(4ともある)日、小西三曹は自衛隊警務隊に逮捕される。11.22日、自衛隊法第64条違反「政府の活動能率を低下させるサボタージュを煽動した」として新潟地裁に起訴された。 裁判は70.7月から第一回後半が開始され、75.3月、新潟地裁は憲法判断を回避し、「検察官の証明不十分」という理由で無罪を宣告される。控訴審・東京高裁では「審理不十分」として差し戻し判決が下され、差し戻し審の新潟地裁では、81年、再び小西誠三曹に無罪判決が言い渡される。この判決に検察は控訴をしなかったため、この判決が確定する。 【10.21日国際反戦デー闘争】 10.21日、国際反戦デー。社共総評、全国600ヵ所で86万人参加。東京では、都公安委員会による一切の集会・デモの不許可に関わらず新左翼系のデモ、各地で警察と衝突各所でゲリラ闘争展開。中核派が新宿・高田馬場を中心に都市ゲリラ型闘争を展開。群衆を交えて市街戦を展開。社学同−全共闘グループは両国・東日本橋で、反帝学評−旧構造改革派グループは東京駅八重洲周辺で、革マル派は戸塚2丁目で。襲われた警察署4,派出所17、一種戦場と化した。逮捕者全国で1508名。そのうち東京1121名。 【赤軍派の「大菩薩峠事件」】 11月、大菩薩峠で武装訓練中の赤軍派53人が逮捕された。これを「大菩薩峠事件」と云う。革マル派は、この事件を次のように揶揄している。「赤軍派は誇大妄想患者、塩見に煽動され、二百の機関銃隊、三千の抜刀隊による一週間の国会占拠などという超時代的方針をかかげていたが、スパイの内通により『一揆』を前に『前段階崩壊』した」。中核派は、次のように評している。「われわれは、赤軍派の諸君への権力の反革命的襲撃をけっして他人事として考えることはできない。ましてや、さかしらげにその幼稚さをあげつらうことは断じて正しくない」。 【佐藤訪米阻止闘争】 11月佐藤訪米阻止闘争。蒲田駅付近で機動隊と激突。全国で2156名逮捕される。この日の闘いを機として運動はやがて一方で武装闘争−ゲリラ戦へと上り詰めていく。蒲田周辺に「自警団」が誕生している。11.21日、ワシントンで佐藤.ニクソンによる日米首脳会談。共同声明を発表し、「安保堅持、沖縄の72.5月『核抜き』、『本土並み』返還」を確認した。 【革マル派と社青同解放派、中核派間に公然ゲバルトが始まる】 11.28日、東大闘争裁判支援の抗議集会(日比谷野音)で、半数を占めた革マルと他派がゲバルトを起こし革マル派が武力制圧した。中核派は、革マル派との内ゲバに敗退したことを重視し、反戦労働者をも巻き込みつつ反撃体制を構築していくことになった。 12.14日、糟谷君人民葬でも、これに参加しようとした革マルと認めない中核派間にゲバルトが発生した。翌12.15日、中核派は革マル派を武装反革命集団=第二民青と規定し、せん滅宣言を出したことで対立が決定的になる。 この頃から革マル派の社青同解放派、中核派に対する公然ゲバルトが始まり、大きく全共闘運動を混乱させることになった。両派は「70年安保闘争」に向かうエネルギーを急遽対革マル派とのゲバルトにも費消せねばならないことになった。こうして、後に満展開することになる「新左翼セクト間ゲバルト=党派ゲバルト」は、既に69年後半期より突入することになった。全共闘運動に対する民青同の敵対は既述した通りであり折り込み済みであったと思われるが、この革マル派による公然ゲバルト闘争化は不意をつかれた形になった。社青同解放派、中核派は、68−69年闘争の経過で激しい武闘を連続させ多数の逮捕者を出し、組織力を弱めていた。特に中核派は逮捕者が多く、11月闘争で多数の逮捕者を出していた。逆に革マル派は組織温存的運動指針によりそれほど逮捕者を出さなかったために相対的に組織力が強化されたことになっていた。 これについて筆者は思う。筆者は、ゲバルトの正邪論議以前の問題として、70年安保闘争の最中のいよいよこれから本番に向かおうとする時点で党派ゲバルトが発生したことを疑惑している。この時のお互いの論拠が明らかにされていないので一応「仮定」とするが、革マル派が、独特の教義とも言える「他党派解体路線」に基づきこの時期に公然と敵対党派にゲバルトを仕掛けていったのであるとすれば、「安田決戦敵前逃亡事件」と言いこのことと言いあまり質が良くないと思うのが自然であろう。 つまり、内ゲバ一般論はオカシイということになる。もっとも、これに安易に憎悪を掻き立てさせられ、社青同解放派、中核派両派が70年安保闘争そっちのけでゲバルト抗争に巻き込まれていったとするならば幾分能なしの対応と見る。やはり、こういう前例のない方向において運動路線上の転換を図る場合には、相手が何者かを見据え、的確な理論的総括を得て、大衆を巻き込んだ「下から討議」を徹底して積み上げねばならないのではなかろうか。その際には事実に基づいた正確な経過の広報が前提にされるべきであろう。 70年安保闘争はこうして本番の70年を向かえるまでもなく急速に大衆闘争から「浮き」始めていた。筆者は、どこまで意図、誘導されたのかどうかまでは分からないが公安側の頭脳戦の勝利とみる。同時に日本左派運動は本当のところ「自己満足的な革命ごっこ劇場」を単に欲しているのではないかと見る。併せて、いわゆる内ゲバ−党派間ゲバルトについて、それを起こさせない能力を左派が初心から獲得しない限り、不毛な抗争により常に攪乱されるとみる。 【1969年の大学紛争校】 この年は国立大学75校中68校が、公立大学34校中18校が、私立大学270校中79校という実に全大学の半数(紛争校165校、うち封鎖・占拠されたもの140校)でストライキ−バリケード闘争が頻出した。当時の全国の大学総数の37%の大学で学内にバリケードが構築されたことになる。しかし、大学立法に基づく封鎖解除で70年を待つまでもなく学園は平静に戻り始めた。70年には紛争校46校、うち封鎖・占拠されているものは10校と減じている。 |
18章 9期その1 1970 70年安保闘争 【「創価学会の出版妨害事件」】 1969年から70年にかけて公明党.創価学会の「言論.出版妨害事件」起こる。 1970(昭和45).2.27日、日共の不破が予算委員会での初質問で、佐藤栄作首相を相手に、創価学会の出版妨害事件に対する政府・自民党の態度を追及した。これが不破のデビュー戦となった。創価学会の出版妨害事件とは、1969〜70年の言論・出版問題とは、評論家の藤原弘達氏が著作「創価学会を斬る」を日新報道という出版社から発行しようとした時、これを闇に葬ろうとする創価学会・公明党の妨害にぶつかったことから明るみに出た事件のことを云う。 5.3日、創価学会の池田大作会長が講演で「猛省」し、創価学会の国立戒壇教義、「王仏冥合〈おうぶつみょうごう〉理論」を公明党の政策にしない云々と述べ政教分離を宣言した。このあと開かれた公明党大会でも確認した。 これについて筆者が思うに、この時、創価学会は、「政教分離」宣言することによって理論部(創価学会)と実践部(公明党))を機関分けすることに成功し、結果的に機関運営主義的に機能分けしたことになる。このことが後々公明党の発展に資することになったように思われる。他方で、創価学会と公明党の関係を批判した側の日共は相変わらずの一枚岩組織体制を敷いて行くことになる。オカシナ話であるが実際の話である。 【大阪万国博(EXP0'70)開会】 3月、日本万国博覧会開会。大阪万国博(EXP0'70)開会式。大阪府吹田市千里丘陵で「人類の進歩と調和」をテーマに77カ国が参加した。米宇宙船アポロ11号が持ち帰った「月の石」などが人気を集めた。過去最高の6千421万人の入場者を記録した。 【カンボジア内戦】 3月、この頃カンボジアで内戦が起こ り、これに南ベトナム解放軍・北ベトナム軍が参戦したことからわが国のベトナ ム反戦闘争も混迷を深めることとなった。この問題の深刻さは、この間の新旧左翼にあった国際反戦闘争におけるアメリカ帝国主義=悪、民族解放闘争=善というそれまでの図式の根底からの見直しが迫られたことにあった。いわば、民族解放闘争間にも矛盾対立が存在し、これにどう対処するのかという新たな理論的課題が突きつけられることになった訳である。問題を複雑にさせていたのは、ソ連−ベトナム−反ポル・ポト派、中国−ポル・ポト政権という国際関係であった。つまり、一筋縄で行かない様相を見せていた。 この事態に対し、日共は、ポル・ポト政権の「残虐」を踏まえベトナム軍の行動を支持した。第四インター系譜もこの立場を取った(『世界革命』五五八号.「インドシナ革命の新たな前進を米日帝国主義の敵対から防衛せよ」)。これに対し、ブント系譜は、ベトナム軍の行動を批判する立場を見せていた。しかし、この時も新旧左翼は互いが罵倒しあうだけで、こうした新事態現象の理論的解明を為しえなかった。以降、この種の国際紛争に関する対応能力を失ったまま今日にいたっている。 【赤軍派最高幹部の塩見氏逮捕される、が日航機よど号乗っ取り事件起す】 3月、赤軍派議長塩見孝也(28才.京大)が破防法、爆発物取締り罰則・癆ス容疑で逮捕されている。3.31日、赤軍派による日航機よど号乗っ取り事件(ハイジャック)が発生。事件の好奇性からマスコミは大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。この事件の首謀者達は北朝鮮に入国したままとなっており、現在まで日朝の政治案件となっている。筆者は、よど号赤軍派の主義主張の是非はともかく、乗客を危めなかったことと、金浦空港偽装工作を見抜き目的通りに北朝鮮に向かったことを評価する。なお、当時のハト派政権が並々ならぬ配慮で根回しし、被害最小限に押えている手際をも高く評価する。 【4.28沖縄デー闘争】 4.28日、沖縄反戦デー闘争。社共総評の統一集会、13万人参加(代々木公園)。この時革マル派を除く新左翼各派は約1万名と反戦労働者5千名が共闘して武装デモ。集会の途中、革マル派の参加に対し他党派がこれを実力阻止しようとして内ゲバ起こる。べ平連6月行動委がこれに抗議して主催団体を降りる。東京駅・銀座・新宿・渋谷などの都心部で火炎瓶、投石闘争を展開したが、警察の徹底した取締りが功を奏し前年の新宿騒乱闘争を大きく下回る規模の行動に終わった。べ平連6月行動委など市民団体8千名も銀座・お茶の水・新橋で機動隊と衝突。6行委の隊列から逮捕者4名。重軽傷者各1名。全国で逮捕者965名(女性133名)、逮捕者の中には高校生も多く含まれていた。 【カンボジア侵略抗議集会】 5月、全共闘、反戦青年委などカンボジア侵略抗議集会。2500名結集、デモ。べ平連など市民団体は不参加。5.29日、カンボジア侵略抗議で全共闘、反戦青年委、1万7千名がデモ。 【70年安保闘争】 6月、「反安保毎日デモ」が展開される。6.14日、社共総評系のデモ、集会、全国で236ヵ所。「インドシナ反戦と反安保の6.14大共同行動労学市民総決起集会」。革マル派を含む新左翼党派と市民団体の初の共同行動、7万2000名参加。全国全共闘・全国反戦・ベ平連など約1700名逮捕。6.22日、米国務省、日米安保条約の継続維持確認の声明。 6.23日、日米安全保障条約、自動延長となる。60年安保闘争に比べて妙に穏和なスケジュール闘争に化し、70年安保闘争はセレモニーで終わった。 【「華青闘の新左翼批判事件」】 7.7日、東京・日比谷野外音楽堂で全国全共闘主催の盧溝橋33周年・日帝のアジア侵略阻止人民集会を開催、4千名(うちべ平連550名)結集。席上、華青闘が、69年入管体制粉砕闘争と65年日韓闘争を通じて、日本階級闘争のなかに被抑圧民族問題を組み込むことを定着させなかったとして新左翼を批判した。中核派がこれを真剣に受け止めることになる。これを「華青闘の新左翼批判事件」と云う。 【日共第11回党大会】 7月、日共の第11回党大会が初公開で開催された。大会の眼目は、「70年代の展望と日本共産党の任務」を大会決議することにあった。それにより「人民的議会主義」路線打ち出し、「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」を展望させた。党規約を改正し、組織方針上の大きな改変が行われた。7.7日、中央委員会幹部会委員長に宮本顕治、書記長に不破哲三就任。新しい中央委員会は、議長に野坂.幹部会委員長にそれまで書記長だった宮顕が本自ら就任。副委員長に袴田、岡が選ばれた。初代書記局長には、当時40才の不破が大抜擢された。書記局次長には、市川正一、金子満広が選ばれた。宮顕子飼いグループによる党乗っ取りが完了した。袴田の役目は、「毛沢東盲従分子を切ることで終わり」、以後不要扱いされていくことになる。 【中核派の革マル派活動家リンチ・テロ殺人事件発生】 8月、厚生年金病院前で東教大生・革マル派の海老原俊夫氏の死体が発見され、中核派のリンチ・テロで殺害されたことが判明した。この事件は、従来のゲバルトの一線を越したリンチ・テロであったこと、以降この両派が組織を賭けてゲバルトに向かうことになる契機となった点で考察を要する。 両派の抗争の根は深くいずれこのような事態の発生が予想されてはいたものの、中核派の方から死に至るリンチ・テロがなされたという歴史的事実が記録されることになった。筆者は挑発に乗せられたとみなしているが、例えそうであったとしても、この件に関して中核派指導部の見解表明がなされなかったことは指導能力上大いに問題があったと思っている。理論が現実に追いついていない一例であると思われる。 この事件後革マル派は直ちに「中核派殲滅戦宣言」を発し、8.14日、中核派に変装した革マル派数十名が法政大に侵入し、中核派学生を襲撃十数人に残忍なテロを加え報復した。以降やられたりやり返す際限のないテロが両派を襲い、有能な活動家が失われていくことになった。 【三島由紀夫クーデター未遂事件】 11月、作家三島由紀夫氏と三島が率いる「盾の会」会員4名が東京・市ヶ谷自衛隊内に潜入、総監を監禁し、クーデターを扇動、三島と森田必勝が割腹自殺を遂げた。この事件も好奇性からマスコミが大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。決起文は次のように詠っていた。今日明らかにされているところに寄ると、70年安保闘争の渦中で決起せんと楯の会を組織していたが平穏に推移したことから「全員あげて行動する機会は失はれ」、この期に主張を貫いたということであった。 決起文は次のように主張している。「革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真價は全国民の目前に証明される筈であつた」。「日本はみかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐる」、「日本が堕落の渕に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の練成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。私は諸君に男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた」。 これについて筆者は思う。こうした右派系の運動と行動について少なくとも論評をかまびすしくしておく必要があるのではなかろうか。この決起文に感応すべきか駄文とみなすべきか自由ではあるが、左翼は、こうした主張に対してその論理と主張を明晰にさせ左派的に対話する習慣を持つべきではなかろうか。機動隊と渡り合う運動だけが戦闘的なのではなく、こういう理論闘争もまた果敢に行われるべきではなかろうか。今日的な論評としてはオウム真理教なぞも格好の素材足り得ているように思われるが、なぜよそ事にしてしまうのだう。百家争鳴こそ左翼運動の生命の泉と思われるが、いつのまにか統制派が指導部を掌握してしまうこの日本的習癖こそ打倒すべき対象ではないのだろうか、と思う。 【「革命左派」の赤塚交番襲撃事件】 12月、「革命左派」(京浜安保共闘)の3名が、東京都練馬区の志村署上赤塚交番を襲撃するが、軍事委員の柴野春彦(24歳、横浜国大)が射殺される。残りの2名も弾丸を浴び重傷を負い逮捕される。この事件は、川島の「奪還命令」を受け、その為の銃を手に入れる必要から交番襲撃をすることになり上赤塚交番が選ばれたことによる。この「闘争」を赤軍派から評価され、赤軍派と急激に接近することとなった。花園は12・18闘争を高く評価し、同時に思想、政治路線でも毛沢東思想、反米愛国路線を支持し、川島と同志的連帯を表明する。 【70年安保闘争考察とその後概略】 「れんだいこの学生運動論」は、前章70年安保闘争でもって一応終結させる。その理由は、70年安保闘争以降の諸闘争を追跡していくことが可能ではあるが、学生運動のひながたが既に出尽くしており、多少のエポックはあるもののこれと云う新たな質が認められないからである。筆者が思うに、70年安保闘争を平穏無難にやり過ごす能力によって熱い政治の季節を基本的に終了させたのではなかろうか。これ以降は、次第に運動の低迷と四分五裂化を追って行くだけの非生産的な流れしか見当たらない。 それまでの学生運動は、時の政治課題に対して逸早く飛びつき情況打開の突破口的役割を任じ肉薄せんとしていたが、70年安保闘争以降は政治闘争自体がアリバイ闘争化し始め、それも次第に衰微して行くことになる。どういう訳か権力中枢機関や国会に向かう闘争が組織されなくなり、散発的且つセンセーショナルな事件化が風靡し始めた。それが如何に過激に為されようともマスコミの好餌となるだけのものでしかなくなった。自然にそうなったのか誘導されたのかは分からないが、日本左派運動が隘路に陥ったのは確かである。 急進派は呼号するところの体制打倒に向かう訳でもなく、せいぜい抵抗運動を演じながら最終的にどれもこれも潰えた。穏和派は社共政権構想をますます遠景に退け、左派運動と云うよりネオシオニズム配下的サヨ運動と云う化けの皮を正体露にしつつ潰えた。こうなると、そういうものを検証してみても政治論的には意味がないと考える。そういう理由で、筆者の学生運動論は、前章70年安保闘争でもって一応終結させる」ことにする。 ここまで辿って見て言えることは、戦後余程自由な政治活動権を保障されたにも関わらず、左翼運動の指導部が人民大衆の闘うエネルギーを高める方向に誘導できず、左右両派ともそれぞれの呪縛に陥ってしまったのではなかろうかということである。この呪縛を自己切開しない限り未だに明日が見えてこない現実にあると思われる。他方で、70年代の日本は、第二次世界大戦の敗戦ショックからすっかり立ち直り、戦後の再編を政治日程化させ、左翼の無力を尻目に次第に大胆に着手して行く。「お上」の政治能力の方が左翼より格段と勝れているという「神話化された現実」があるように思われる。 問題は、本音と自己主張と利権と政治責任を民主集中制の下に交叉させつつ派閥の連衡戦線で時局を舵取るという手法で戦後の社会変動にもっとも果敢に革新的に対応し得た自民党も、戦後政党政治の旗手田中角栄を自ら放逐した辺りから次第に求心力を失い始め、90年頃より統制不能、対応能力を欠如させているというのに、この流れの延長にしからしき政治運動が見あたらない政治の貧困さにあるように思われる。 ここまでの学生運動史を検証してみて気づいたことを書き留めておく。必要だったことは、統一戦線運動と共同戦線運動の識別ではなかっただろうか。理論が正しい場合には統一戦線運動は有効に機能する。そうでない場合には、主観的意思とは別に足かせ手かせでしかなくなるだろう。真に必要なのは、便宜的意味ではなく原理的な意味での共同戦線運動だったのではなかろうか。これについては「補足6、統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ」に記す。 |