ブック上巻3(6期その1から7期その2まで)

 10章 6期その1 60年安保闘争直後  ブントの大混乱  

 【池田政権登場、高度経済成長政策始まる】  

 1960(昭和35).7月、岸の後継として池田政権が誕生した。池田首相は、「忍耐と寛容」、「所得倍増」を旗印に掲げ、「私は任期中は刑法改正も再軍備もしません」と声明した。まず経済復興からというのが信念であった。「経済のことはお任せください」、「毎年7.2%の成長確保で10年間で国民の所得を二倍にしてみせます」と述べ、社会資本の充実、産業構造の高度化、貿易と国際経済協力の促進、人的能力の向上と科学技術の振興、二重構造の緩和と社会安定の確保の5つを柱を掲げた。国民所得倍増計画によれば、年平均7.29%の成長を続ければ10年間で所得が2倍になり、その為の政府政策として、1・毎年1千億円以上の減税、2・公社債市場の整備、3・道路の整備や鉄道の近代化など公共事業の拡充を行うとしていた。いわゆる高度経済成長時代が始まった。この政策は見通し以上の効果を上げ、1973(昭和48)年のオイル・ショックが起きるまで年平均10%以上の成長を持続させ、この間に国民所得を約2倍半に拡大していくことになった。消費者物価の上昇があったにせよ、それを上回る所得となったことは疑いない。

 これについて筆者は思う。見落とされがちであるが、日本左派運動は、この時期戦後保守本流を形成した自民党内ハト派の評価と、その経済政策即ち高度経済成長路線に対し理論的考察を懈怠している、と云うか理論的解明する能力を持ち合わせていない。それは、戦後日本のプレ社会主義性論を創造できず、ステロタイプな資本主義論、帝国主義論の枠組みの中でしか評論できない悪しき習性によっていたのではなかろうか。事実は、池田内閣の高度経済成長路線は、戦後日本のプレ社会主義性を踏まえた、その合法則的施策ではなかったか。戦後政府与党を担う自民党内はハト派とタカ派の寄り合い世帯であり、タカ派の岸内閣が打倒された反転によりハト派の池田内閣が誕生し、池田政権はその期待に応えたのではなかったか。  

 人民大衆は、この池田内閣の高度経済成長路線の人民主義的本質を見抜き、「親方日の丸」式一億一心的官民協力体制に邁進していくことになった。考えようによれば、これを支持するグループこそ日本式土着型の社会主義者であったかも知れず、ステロタイプな理論を弄び体制打倒を叫び戦後日本のプレ社会主義性を否定する面々こそ単なる字面追い自称社会主義者にして本質保守であったかも知れない、と云う皮肉な現象が生まれることになった。

 【日共党内で宮顕派と春日(庄)派の抗争始まる】  

 ポスト安保後、日共党内で春日(庄)派が宮顕系党中央に対して造反した。春日(庄)派は構造改革派として立ち現われ、反独占民主主義革命による社会主義的民主主義の道を指針させていた。宮顕党章草案のアメリカ帝国主義に対する従属国家規定論に対して異を唱え、日本独占資本主義国家自立規定論を対置した。当面の革命の性質に於いても、宮顕党章草案のブルジョア民主主義革命から始まる二段階革命論に対し社会主義革命一段階革命論を主張していた。

 この場合、新左翼系の革共同、ブントの社会主義革命論とどう違うのかということになるが、構造改革派の特徴は議会主義的反独占社会主義革命を目指し、現実的具体的な展開として「平和・民主・独立・生活向上の為の闘争」へと向かうべきと主張しているところにあった。即ち平和共存時代における一国社会主義的、平和革命的、議会主義的革命運動」を指針させようとしていた。しかし、この路線は、この時点では「敵の出方論」を採用していた宮顕的党路線より右派的な革命路線でもあった。つまり、社会主義革命を指針させながら実際には体制内改革に向かうというヌエ的なところがあった。宮顕はこのちぐはぐを見逃さず、右派理論として一蹴していくことになった。

 ところで、以上のような解説以外に付け加えておくことがある。両派の対立には60年安保闘争におけるブントの評価問題が絡んでいた。春日(庄)らはブント的運動を好評価し、党指導による取り込みないし共同戦線化を指針させていた。宮顕系党中央は、「トロツキストは、その最大の目的が社会主義国の転覆と各国のマルクス・レーニン主義党−共産党の破壊にある。文字通りの反革命挑発者集団であり、また当然にわが国の民主運動の挑発的攪乱者である。彼らの極左的言動は彼らの本質を隠蔽するものに過ぎない。従って、トロツキストは民主運動から一掃さるべきであり、その政治的思想的粉砕は我が党だけでなく、民主運動全体の任務である」(日本共産党第7回党大会.14中総決議)としていた。これについて筆者は思う。この両論、どちらが正解だろうか。筆者見解は云うまでもない。


 【三池闘争収束する】

 7月、三井三池の会社側御用組合の第二組合と第一組合の衝突で、警官隊も含めた乱闘で300名が負傷した。7.17日、全学連、三池争議に350名の支援団派遣。 池田内閣は収拾工作に乗り出し、8月、中労委あっせん案が示された。11月、三井三池争議で、総評、炭労ともに中労委裁定の受諾を決め、ついに三池争議は収拾にむかった。三池闘争は戦後15年間の労働運動の総決算の意味をもっていた。

 【全学連第16回大会、民青同系の全学連離脱】  

 7月、全学連第16回大会は三派に分かれて開催されることになった。この第16回大会こそ、全学連統一の最後のチャンスであった。運動論、革命論や安保闘争についての総括について意見がそれぞれ違っても、全学連という学生組織の統一機関としての機能を重視すれば賢明な対処が要求されていたものと思われるが、既に修復不可能であったようである。全学連主流派は、大会参加に当たって日共系都自連の解散を要求した。これに対し都自連は、1.都自連解散要求の撤回、2.第15回大会は無効である、3.8中執の罷免取消しを要求した。お互い相手が呑めない要求を突きつけていることが判る。こうして、全学連第15回臨時大会に続き反対派が閉め出されることになり、全学連の分裂が固定化していくことになった。  

 全学連第16回大会はブントと革共同全国委派だけの大会となった。大会では、それぞれの派閥の安保闘争総括論が繰り返され、もはや求心力を持たなかった。大会は、60年安保闘争を「6.19以後の学生と労働者、人民の闘いは、日本帝国主義が安保にかけた二つの政治的目標−国際的威信の確立と国内政治支配の確立−を反対物に転化せしめたがゆえに安保闘争は政治的勝利をもたらした」と総括し、60年秋こそ決戦だとした。 委員長に唐牛、書記長に北小路を選出した。


 日共系都自連は自前の全学連組織を作っていくことになり、全国学生自治会連絡会議(全自連)を結成した。全自連は、連絡センターとして代表委員会を選出し、教育大、早大第一文、東大教養学部、神戸大などの自治会代表が選ばれた。この流れが以降「安保反対、平和と民主主義を守る全学生連絡会議」(平民学連)となり、民青系全学連となる。

 【ブント分裂】  

 7.26日、ブント政治局は、戦旗22号で、「同盟を真の前衛として再建せよ!安保闘争の総括と同盟活動の展望」なる長大な論文を発表し、同盟が中央から細胞に至るまで解体状況にあることを暴露した。7.29日、ブント第5回大会が開催された。この大会は大混乱を極めた。60年安保闘争の評価を廻って、「ブント−社学同−全学連」内部で、安保条約の成立を阻止し得なかったことに対する指導部への責任追及の形での論争が華々しく行なわれた。論争は、この間のブント指導の急進主義的闘争をどう総括するのか、その闘争の指導のあり方(革命的敗北主義、捨石論、一点突破全面展開論)や、革命理論をめぐっての複雑な対立へと発展していくこととなった。ブント書記長の島氏は次の世代に下駄を預けた。  
 8月、この過程で指導部に亀裂が入り、東京のブント主流は三グループ(それぞれのグループの機関紙の名前をとって、革命の通達派、戦旗派、プロレタリア通信派)に分かれていくことになった。一番勇ましかったのが革命の通達派であった。東大派とも云われ、東大学生細胞の服部信司、星野中、長崎浩らによって構成されていた。これに早大派が列なった。8.14日、いわゆる星野理論と云われる「安保闘争の挫折と池田内閣の成立」を発表して次のように攻撃した。概要「安保闘争の中で、現実に革命情勢が訪れていたのであり、安保闘争で岸政府打倒→政府危機→経済危機→革命という図式で、権力奪取のための闘いを果敢に提起すべきであった。敗北の原因は、闘争の最終局面に於いて国会再突入方針を提起できなかったブント主義の不徹底さにあり、ブントの行動をもっと徹底して深化すべきであった。政治局は階級決戦であった安保闘争を過小評価した故に日和見した」。  

 これとは逆にブント式玉砕闘争を批判したのが戦旗派であった。労対派とも云われるが、森田実、田川和夫、守田典彦、西江孝之、陶山健一、倉石、佐藤祐、多田、鈴木、大瀬らが連なった。出獄後の唐牛委員長、社学同委員長篠原浩一郎もこの派に属すことになる。戦旗派は、革命の通達派の主張を「主観主義」、「小ブル急進主義」と規定し、「革命の通達派的総括は前衛党建設を妨害する役割しか果たさない、マルクス主義とは縁のない思想だ」と反論した。60年安保闘争について、革共同的批判を受け入れブント的60年安保闘争を否定する立場に立ち次のように主張した。概要「この間のブント的指導は、安保闘争の中で前衛党の建設を忘れ、小ブル的感性に依拠した小ブル的再生産闘争であり、プチブル的運動でしかなかった。その根源はスターリニズムに何事かを期待する残滓的幻想にあり、本来は前衛党建設のための理論的思想的組織活動の強化を為すべきであった。組織温存の観点が欠落した一揆主義であった」。  

 ブント全学連の闘いを是認しようとしたのがプロレタリア通信(プロ通派)派であった。全学連書記局派とも云われ、この派には、青木、北小路敏、清水丈夫、林紘義らが連なった。両者の中間的立場に立って、概要「ブント=安保全学連の闘いは正当に評価されるべきだ。基本的にブントの方針は正しかった。たらいの水と共に赤ん坊を流してしまってはいけない」と主張した。こうして、第1次ブントは、安保闘争の総括を廻って大混乱し「ブントの空中分解」に向かうことになった。

 【ブント分裂考】  

 これについて筆者は思う。ブント三派のうち60年安保闘争に果たしたブントの功績を確認するプロ通派の観点が至極真っ当だと思われるが、革命論的観点しか持たず、岸政権打倒の歴史的意義を捉え損ねていたので防戦を余儀なくされることになったのも止むを得まい。これをもう少し愚考すると、当時のニューマからすれば致し方のない時代的限界であったにせよ理論的貧困が真の要因であるように思われてならない。どういうことかと云うと、ブント三派はこの時、60年安保闘争に続く池田政権打倒の位置づけを廻って混乱し、且つ急速に潮を引いた労学運動に対する識見不足をこそ切開せねばならなかったところ、これに失敗したというのが背景事情なのではなかろうか。  

 筆者は、ブント三派が、「60年安保闘争論、池田政権論」を廻って三派三様に対応し混乱しているのに対し、「60年安保闘争能く闘った論、池田政権是々非々論」に立つ。しかし、この観点は「戦後日本プレ社会主義論、政府自民党内ハト対タカ地下暗闘論」に立たざる限り発想できない。資本主義体制打倒論一本槍のブント及び当時の日本左派運動総体のニューマからは生まれないであろう。とりあえず以上示唆しておく。ところで、第1次ブントの面々のその後はどうなったであろうか、これを検証するのも興味深い。思うに、それぞれが痕跡を残しつつ銘々の旅立ちへ向かったのではなかろうか。特徴的なことは、マルクス主義のより進化を目指したグループ、マルクス主義と決別したグループの二方向に分岐したところがブントらしい。

 【社青同誕生】  

 10月、社会党の青年運動組織として社会主義青年同盟(社青同)が結成された。遅まきながら社会党は、日共の民青同育成方針にならってこのポスト安保直後の時点で自前の青年運動創出の必要を党議決定し、誕生させたということになる。特徴的なのは社会党との関係であり、次のように位置づけていた。概要「一応社会党から独立した組織とし、現在の社会党に・ホしては批判はあるが、これを支持し、社会党との間に正式に協議会を持ち、社会党大会には支持団体として代議員を送る」。つまり、日共と民青同との関係ほどには統制しない緩やかな組織結合を目指したということになる。この社青同がこの後社会党内の左派的潮流を形成していくことになる。ブント運動の花粉が意外なところに運ばれ結実したとも考えられる。

 【「81カ国共産党.労働者党代表者会議」】  

 11月、日共は、「81カ国共産党.労働者党代表者会議」に、団長・宮顕書記長、随員・袴田、西沢富夫、米原の顔ぶれで参加した。大会は、予備会議から本会議までえんえんと二カ月間も続く会議となったが、国際共産主義運動の団結を求めながら既に制御し難い分裂ぶりを印象づける結果になった。

 11章 6期その2 1961  マル学同全学連の確立
 
 【第1次ブント解体】  

 2月、ブント戦旗派(労対派)は革共同全国委のオルグを受け入れ、4月、組織を解散させての合同決議を行ない正式に合同した。これについて筆者は思う。「れんだいこ式組織論」によれば、党内の意見の対立は党内で解決すれば良い。それをせず対立党派に合同するとはこれ如何に。ブントに於いては日共式民主集中制論に代わる組織論が確立されていなかったということになろう。

 ブント革通派は、池田内閣打倒闘争の中で破産した。この派からの移行は記されていないので不明。ブントプロ通派も戦旗派に遅れて解散を決議し、その多くが革共同全国委に合流した。ちなみにプロ通派から革共同に移行したメンバーには現在も中核派最高指導部に籍を置く清水丈夫氏、北小路敏などがいた。次のように記述されている。「北小路・清水ら旧プロレタリア通信派は、マル学同からまだ自己批判が足らぬとされ、北小路は全学連書記長を解任された。彼らはその後遅れてマル学同へ加盟する」。革通派の林紘義一派は独立して「共産主義の旗派」を結成した。とはいえ、明大や中大ブントは分裂せずに独自の道を歩んだ。東京ブントは分裂模様を見せたが、関西ブントは独自の安保総括を獲得して大きな分裂には至らなかった。ここまでの軌跡を第一次ブントと云う。 こうしてブントは四分五裂の様相を呈することとなった。結局ブント−社学同は結成後二年余で崩壊してしまった。綱領も作らぬまま、革命党として必須の労働者の組織化にほとんど取り組まないうちに崩壊したことになる。ブントの思想的理論的組織的限界の帰結でもあった。

 これについて筆者は思う。第1次ブントは自ら解体し雪崩を打って革共同に吸収されていったが、理論的貧困の極みではなかったか。元々ブントと革共同の間には、深遠なる融和しがたい思想的相違があったものと思われるが、結成間もなく60年安保闘争に突入していかざるをえなかったという党派形成期間の短さによるブント理論の共有化の失敗であったと思われる。60年安保闘争の渦中でそれを島−生田指導部にねだるのは酷かもしれないとも思う。

 私見は、ブントと革共同の間には単に運動論、組織論、革命論を越えた世界観上の認識の相違があり、相互移行できるようなものではない。言うなれば、「この世をカオス的に観るのか、ロゴス的に観るのか」という最も基本的なところの相容れざる相違であり、ブントはカオス派であり革共同はロゴス派的であろうとより一層組織形成しつつあったのではなかったのか。この両極の対立は、人類が頭脳を駆使し始めて以来発生しているものであり、私は解けないが故に気質として了解しようとしている。  

 実際、この両極の対立は、日常の生活に於いても、政治闘争も含めたあらゆる組織形成、運動展開においてもその底流に横たわっているものではなかろうか。ユダヤ−キリスト教的聖書にある箴言「初めに言葉ありき」はロゴス派の宣言であり、日本の神道的「森羅万象における八百万的多神観」はカオス派のそれのように受けとめている。両者の認識はいわば極と極との関係にあり、ブントと革共同は、この相容れぬそれぞれの極を代表しており、相対立する世界観に支えられて極化した運動を目指していたのではなかったか、と思う。筆者は、島氏的観点−ごった煮的カオス的な善し悪しさ−が、当時のブントに伝えられていなかったことを惜しむ。それは、「60年安保闘争」に挫折したにせよ、ブントのイデオロギーは護持されていくに値あるものと思うから。本来革共同に移行し難いそれとして併存して運動化し得るものであったと思うから。

 どちらが良いと簡単には結論づけられないが、そういう違いにあるブント思想の思想性が島氏周辺に共有できていなかったことが知らされるということである。ブントのこの己自身の思想的立場を知ろうとしない情緒的没理論性がこの後の四分五裂化につきまとうことになる。あるのは情況に対する自身の主体的な関わりであり、ヒロイズムへの純化である。このヒロイズムは、状況が劣化すればするほど先鋭的な方向へ突出していくことで自己存在を確認することになり、誇示し合うことになる。惜しむらくは……というのが筆者の感慨である。

 【マル学同が全学連を掌握】  

 4.5日、全学連第27回中央委員会が開かれた。この会議は唐牛ら5名の中執によって準備され、彼らの自己批判的総括とともに、篠原社学同委員長から、「ブント−社学同の解体」が確認され、「マル学同−革共同全国委への結集」が宣言された。こうしてマル学同はブントからの組織的流入によって飛躍的に拡大し、一挙に1千余名に増大することになった。これによって、全学連指導部はマル学同が主導権を握るに至った。  

 【「全自連」に構造改革派の影響が及ぶ】  

 この頃、「全自連」指導部が構造改革派の影響を受けることになった。東京教育大学.早大.神戸大.大阪大などの指導的活動家が構造改革派へ誼を通じていくことになった。黒羽、田村、等等力らは学生運動研究会を組織し、3月に「現代の学生運動」なる書を公刊した。ここには、学生運動を「反独占統一戦線」の一翼として位置づけ、構造改革路線に基づく独自の政治方針を展開した。

 【島の「黒寛派の全学連無血占領」批判】  

 この頃の島氏の動向が「未完の自伝―1961年夏のノート」に次のように記されている。「ともかく60年8月のブント大会から始まった日本の左翼の思想的再編は、今年の4月、プロ通派・革通派の解散、戦旗派の黒寛派への移行、黒寛派の全学連無血占領によって新しい段階に入った。日本左翼にとって、このブントの分解に見られる思想的混乱は、戦後最大のものである。因みに50〜51年の、56〜58年のそれと比較してもすぐ分かる。(中略)目標は反黒、反日共の革命的左翼のケルンの結集。その為に、ブントの中で最も優れた部分の結集、あるいは各方面での思想運動。第三にブントの全面的(思想的、政治的)批判。第四にマル共の分裂の促進(第8回大会を控えて)。第五に経済的基礎の確立。第六に学生運動史資料の整備。以上の目標を決めて始めた。そして2ヶ月たった」。 これについて筆者は思う。「目標は反黒、反日共の革命的左翼のケルンの結集」とある。深く噛み締め味わうべきであろう。

 【日共が綱領草案を決定、踏み絵と化す】  

 3−4月、日共の綱領草案が多数決で決定された。以降、論議は「既に全て解決済み」とされ、綱領が絶対的な基準になった。党中央は、党大会に向けての大会代議員の選出に露骨な介入をしていくことになり、反対分子の多いと見られる地方組織に党中央派幹部を派遣して締め付けをはかった。府県から地区に至るまで党会議や委員会総会は草案を踏み絵として党員を点検する検察の場と化した。「さしあたってこれだけは」のアピールの発起人であった関根弘(除名)と武井昭夫(1年間党員権停止)が処分された。初代全学連委員長時代、宮顕に最も信頼を寄せていた武井氏は紆余曲折を経て最終的に斬り捨てられることとなった。続いて、同調していた「新日本文学会」派の作家、評論家たちが除名された。7月、安東仁兵衛が離党届を都委員会に送付する。 

 これについて筆者は思う。この過程の問題点は、宮顕党中央が、徳球時代の党運営を家父長制的権威主義として批判をしていたにも拘らず、自らが党中央になるやその徳球式のそれよりも排他的な党運営をし始めたことになる。ここが衝かれるべきであったが党内反対派の批判が弱かった。宮顕の非を暴きだすためには、かって宮顕の口車に乗って徳球党中央に敵対した自らの過去の非をも自己切開することなしには為しえなかったからであると思われる。つまり、春日(庄)派、志賀派その他の御身大事の態度が宮顕党中央の暴虐に抗し得なかった要因ではなかったかと思われる。
 

 【政防法闘争】  

 5月頃、政治的暴力行為防止法案(政防法)が国会に上程された。右翼テロを口実として暴力行為を取り締まる名目で団体規制を強化しようとするものだった。日共系全自連は非常事態宣言を発し、5.31統一行動を設定し、東大教養をはじめ多くの大学でストライキを決行させている。遂に法案は継続審議に追い込まれ、遂に法案は継続審議に追い込まれ、その後廃案になった。この間、マル学同下の全学連の動きは鈍く、諸闘争に取り組むも数百名規模の結集しかできぬまま低迷していくことになった。その中にあって、6.6日、3千名が政暴法粉砕の決起大会に結集。6.15日、「6.15日一周年記念総決起集会」に3千名結集。  

 【春日(庄)派の離党】  

 7.7日、中央統制監査委員会議長春日(庄)は離党届けを出し、7.8日夜、記者団を前にして離党声明「日本共産党を離れるにあたっての声明」(「春日意見書」)を公表した。意見書は、宮顕独裁による党内民主主義の危機が縷々記されていた。これに対して、7.10日、アカハタで野坂が、「春日(庄)の反党的裏切り行為について」、 7.17日、「党破壊分子の新たな挑発について」で応戦した。その後、全国各級機関にわたって、「反党的行為、裏切り分子、分派主義者、党破壊の策謀、修正主義者、悪質日和見主義」等々の大々的非難攻撃キャンペーンを開始した。

 これについて筆者は思う。今日、野坂がスパイであったことが明らかにされている。とするならば、この時党中央は、そういうスパイの指導の下に反党中央派の締め出しを行っていったことになる。その系譜にある現党中央不破−志位執行部は、この辺りをどう総括するつもりなのだろうか。知らぬ存ぜぬで頬被り為しえることだろうか、疑問としたい。

 【全学連第17回大会、マル学同全学連の誕生】  

 全学連大会の時期を迎えて、マル学同と反マル学同が思惑を絡めていくことになった。7月、民青系全自連が「7全代」を開催し、全学連大会への参加条件について1.平等無条件参加、2.権利停止処分撤回、3.大会の民主的運営の3項目を決議した。マル学同に移行しなかったブント再建派社学同と革共同関西派と社青同はマル学同のイデオロギー的、セクト主義的な学生運動に反発し、反マル学同で意見の一致を見て大会前夜に飯田橋のつるや旅館で対策を講じた。これをつるや連合と云う。各派とも全学連の主導権を狙って画策したということであろう。  

 マル学同は、反対派を暴力的に閉め出す動きに出た。全自連に対しては、自治会費の未納を理由に全学連から完全に排除し、つるや連合に対しては代議員の数を削減したりして対応した。この手法は前々回、前回の全学連大会より既に見られているので、このやり方だけを見てマル学同を批判することは不当かも知れないが、こうした暴力的手法の常習癖が革共同全国委系にあることはこの後の経過によっても窺い知れることになる。  

 こうしたマル学同のやり方に反発して、つるや連合側は早朝より会場を占拠して対抗した。マル学同はピケを張るつるや連合に殴りかかったがらちがあかず、角材を調達して武装し襲撃した。こうして会場を奪還したが、これが学生運動上の内部抗争で初めて武器が登場した瞬間であった。この角材ゲバルト使用を指揮したのが清水丈夫全学連書記長であったと云われている。これは清水氏のゲバルト好きのしからしめたものともみなせるし、遅れて革共同に入った清水氏が汚れ役を引き受けさせられたとも受け取れよう。この乱闘は二日間にわたって行なわれ、最終的にはマル学同以外は大会をボイコットし、それぞれが大会を開くことになった。  

 全学連第17回大会はこうした状況の中で開催され、マル学同派の単独開催となった。反対派を暴力的に閉め出した体制下で、大会議長を自派より選出し、議案を採決するというまさにマル学同の私物化された大会となった。大会はブント出身の北小路敏を委員長に選出し、全学連規約を改正して、全学連の活動目的に前衛党の建設を学生運動の基本任務とする「反帝反スタ」路線を公然と打ち出した。

 つるや連合は、7.9日夜、代議員123名の連名で「我々の退場により大会は流会したので、民主的な大会の続行を要求する」旨決議した。全自連は、67大学125自治会、276名の代議員が集まり、7.10日、教育大へ結集した。ところがこの時詳細は分からないが、全自連指導部は全学連第17回大会指導部と「ボス交」の結果全自連解散を為し、全学連再建協議会を結成したとのことである。恐らくこの時の指導部は構造改革派系であり、全学連の統一を切に願っていた構造改革派とマル学同派に何らかの合意が成立したものと考えられる。

 【日共の第8回党大会】  

 7月、日共の第8回党大会が開かれた。春日(庄)派を断罪した他、議案は全て全員一致で採択された。数十万の大衆的前衛党建設の目標を提起。党勢拡大と思想教育活動の総合2カ年計画を全党的につくり、取り組むことを決定した。万一綱領反対者が発言しないかと恐れた中央は、大会運営の厳重な統制をはかり、大会発言者には全て事前に発言の要旨を文書で提出させ、大会幹部団の指名による発言許可制にした。これにより反対意見は姿を消し、綱領草案についても実践的検証を誓う没理論的発言か草案反対派との闘争を手柄話にするお茶坊主発言が相次いだ。

 この大会で、宮顕−袴田体制が確立した。流れから見ると、志賀が完全に干され、野坂も実質上棚上げされた格好となった。これに代わって宮顕−袴田という「戦前の党の最終中央コンビ」が指導権を握った。第8回党大会で採択決議された党の綱領が「民族独立民主革命」を明確に戦略化させたところから、社会主義を目指す闘争が抑圧されることになった。これにより社会主義について沈黙を守る雰囲気が支配的になり、イデオロギー活動が不燃化させられる要因となった。

 【民青同のベルト機関化】

 日共は、7月の日共第8回党大会後、民青同に対し第8回党大会で強行決議された党綱領によって路線修正するよう指示し、従わない同盟幹部を排除し、民青同を日共のスローガンをシュプレヒコールする自動連動装置(ベルト)に替えた。これを「ベルト理論」と云う。明らかな党による民青同の引き回しであったが、これにより民青同の党に対する盲従が惹起し青年運動に大きな桎梏となっていくことになった。  

 【ソ連が核実験を再開、マル学同の抗議闘争】  

 8月、ソ連は58年から停止していた核実験を再開した。日共はソ連核実験の支持声明を出した。 平和擁護運動は混乱に陥った。それまでソ連を平和の砦としていた日本の左翼運動は大いに当惑させられることとなった。革共同関西派は対応が割れた。革共同全国委=マル学同は、「反帝反スタ」の立場から精力的に抗議運動を展開していくこととなった。9.1日、全学連中執、ソ連核実験に抗議声明を発表。 9.4−5日、マル学同は、全学連27中委を開き、「ソ連核実験反対・反戦インター創設・プロレタリアによる学生の獲得路線」の方針を決議した。

 【構造改革派系「青学革新会議」の結成】  

 9月、春日(庄)派の離党・除名に民青同盟内の指導的幹部が呼応した。全自連中央の活動家(早大、教育大、神戸大、立命館大、法政大、東大など)を中心として「青年学生運動革新会議」(「青学革新会議」)が結成された。その背景にあったものは、「宮顕式の不当な干渉によって民青同を共産主義的青年同盟に発展させる可能性がなくなった」という認識であった。「青学革新会議」は、この認識に基づきマルクス・レーニン主義の原則に立脚する新たな青年同盟の創設を図った。

 同派の特徴は、この時期日共が指導していた新たな全学連の創出を画策するのではなく、粘り強く学生運動の統一を目指していたことにあった。但し、この方針はマル学同の独善的排他性に対する認識の甘さを示しており、遂に叶えられることのない道のりとなる。青学革新会議は、この経過をさし当たりブント急進主義派と社青同との統一戦線を志向しつつ活動していくこととなった。なお、青学革新会議は、「層としての学生運動論」を採用しており、この時期一層右派的な方向に変質させられつつあった民青同に比較すれば幾分かは左派的な立場にあったといえる。なお、青学革新会議グループもまたこの後、構造改革派が春日(庄)らの統一社会主義同盟と内藤派に分裂するに応じて、この動きに連動していくことになる。春日派は翌62.5月、社会主義学生戦線(フロント.東大教養、神戸大等)、内藤派の系統として63.8月、日本共産青年同盟(共青.教育大等)へと続く。

 【マル学同が「反帝・反スタ、諸雑派解体」路線を打ち出す】

 10月、全学連28中委では、「反帝・反スタ」路線を全面に押しだし、社学同残留派をブント残党派と言いなし、これら諸派を右翼分裂主義者と決めつけ、これと絶縁することを確認した。

 【島が「Sect6」立ち上げに動く】  

 10月頃、共産主義者同盟書記局・島成郎他の連名で召集状が届けられた。10.24日、九段の雄飛寮の集会室に集まり、ブントの再結集を目指した秘密会議が開催された。席上、島が、旧書記局の統一見解としてブントを再建すると述べている。次のように不満を吐露している。「この1年半の分派活動の首謀者達は、みな小者ばかりでトレランスに欠ける。その理論に至ってはチマチマして中小企業のオヤジの床屋談義よりも程度が低いくらいだ、といった」。こうして社学同の再建が始まり、12.5日、社学同全国事務局機関誌「Sect6」の立ち上げに繋がる。しかし、求心力は戻らず困難を極めることになる。社学同残留派は、社青同派、構造改革派とともに反マル学同の三派連合を形成して行く。この三派連合が火山化していくことになる。

 2章 6期その3 1962−1963  全学連の三方向分裂固定化  

 (1962(昭和37)年)

 【関西共産主義者同盟、社会主義学生戦線(フロント)結成される】

 1962.4月、京大と同志社と大阪市大が軸となりブント関西地方委員会が関西共産主義者同盟として結成される(同志社大学・飛鳥浩次郎議長)。これが1965.8月の共産同統一委員会、1966.8月の第二次ブント再建、1968.8月の共産同赤軍派結成の伏線となる。5.2日、構造改革派系の社会主義学生戦線(フロント)が結成される。上部団体は統一社会主義同盟。

 【三派連合が改憲阻止闘争で自民党本部に突入】

 5.11日、ブント系社学同と社会党系社青同、構造改革派の反マル学同三派連合が改憲阻止闘争で自民党本部に突入。50名が総裁に面会を要求し総裁室占拠、46名が逮捕される。これについて筆者は思う。自民党本部突入は果たして是認されるべきことだろうか。この後も幾度か試みられるが、逆の場合を考えてみれば良かろう。

 【日共系が東京学生平民共闘を結成する】  

 5月、池田首相は、大学管理問題として「大学が赤の温床」になっているとして大学管理法の必要性を強調した。民青同系は、この大管法闘争に真っ先に取り組み、この過程で6.1日、全自連崩壊の後を受けて東京学生平民共闘を正式に発足させた(平民とは「安保反対・平和と民主主義を守る」の略語)。この動きが7.14−15日、「学生戦線統一のための全国発起人会議」開催へとなった。全国より70余自治会参加。「安保反対・平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」(平民学連)結成を呼び掛け、翌63年平民学連が結成されることになる。

 【樺美智子追悼二周年の騒動】

 6.15日、「6.15日樺美智子追悼二周年」が千代田公会堂で開かれた。学生、労働者、市民の約千名が参加した。この時、最前列を占めたマル学同全学連7百名は、社会党飛鳥田一雄の挨拶をやじり倒し、社学同の佐竹都委員長の挨拶には壇上での殴りあいを演じ、清水幾太郎の講演もほとんど聞き取れない有様となった。これを「暴挙」とする樺俊雄夫妻.吉本隆明.清水幾太郎氏らは批判声明を発表し、概要「マル学同の狂信者たちが全学連の名を僭称しつづけることを許すべきでない」と厳しく弾劾している。後の革マル派に列なるマル学同のらしさを象徴する出来事であり、ブント運動復権の契機ともなった。

 【第6回参議院選挙で、革共同全国委の黒田寛一氏落選】

 7月、第6回参議院選挙が行われた。この時、革共同全国委は、同派の代表・黒田寛一氏を「革命的議会主義」を旗印に全国区から出馬させていた。但し、得票数は2万3265票で落選。大日本愛国党総裁の赤尾敏は12万2532票にもはるかに及ばなかった。これについて筆者は思う。革共同全国委がその後国政選挙闘争に向かった例を知らない。少なくとも選挙闘争に向かった史実のみは遺されている。

 【反マル学同三派連合の内紛】  

 7月、反マル学同で一致した社学同再建派、社青同、構造改革派の三派が連合して「全自代」を開催した。彼らは全学連再建を呼号し続けたが、折からの大管法に取り組むのかどうかをめぐっての運動方針食い違いが発生し最終的に暴力的な分裂に発展した。ブントは憲法公聴会阻止闘争一本槍を主張し、構造改革派が大管法闘争への取り組みを主張した。ブントが武装部隊を会場に導入して、構造改革派派を叩き出した。こうして、連合したばかりの三派連合は空中分解した。  

 これについて筆者は思う。この動きから判ることは、ブントの組織論における致命的な欠陥性である。一体全体ブント系は、60年安保闘争総括後空中分解したまま今に至るも四分五裂をますます深め統合能力を持たない。意見、見解、指針の違いが分党化せねばならないとでも勘違いしている風があり、恐らく「お山の大将」式に星の数ほど党派を作りたいのだろう。なお、意見の相違については、ゲバルトによって決着させたいようでもある。しかし、残念ながら少数派閥化することにより、このゲバルトにおいてもマル学同に対して歯が立たなくなってしまったという経緯を見せていくことになる。  

 私見によれば、キャンパス内における反対派封殺がなぜ犯罪的であるかというと、右翼や宗教運動家らの跋扈には無頓着でありつつ左翼意識の持ち主がテロられることにより、結果として左翼運動が縊死することになるからである。大体において学生内の左派系意識の持主は全体の2割もいれば良い方であり、この2割内で叩き合いをすることにより貴重な人士の輩出が制限されることに無頓着過ぎるのがケシカラナイと思う。既述したが、元々ブントは、カオス的世界観を基調にして運動の急進主義を主導的に担ってきたという経過がある。「60年安保闘争」の領導には、反対派の存在は許されるどころかそれらを前提としつつ主体的な自派の運動を創出していくことにより圧倒的な支持を獲得してきたという自信が漲っていたのではなかったのか。この前提を許容しえなくなったブントはもはやブントではなく、大衆から見放されるばかりの余命幾ばくかの道へ自ら転落していくことになったとしても致しかたなかろう。

 【日共の露骨な構造改革派排除】  

 この年夏の世界青年学生平和友好祭日本実行委員会で、日共の指示に基づいて民青同の代表は、構造改革派系青学革新会議の参加を排除した。平和友好祭は思想、信条、政党、党派のいかんにかかわりなく、元々平和と友好のスローガンの下に幅広く青年を結集する友好祭運動であったが、理由がふるっている。革新会議はファシスト団体であると言って参加を拒否した。昨日まで一緒に「平和と民主主義」の旗印を掲げて闘っていた旧同志たちを、反代々木化したからという理由しか考えられないが、反代々木=反共=ファシズムというご都合主義三段論法によりファシスト視し排除の理由とした。  

 これについて筆者は思う。これを「前時代的な硬直した思考図式」といって批判する者もいるが、筆者には、宮顕の「芥川論」考察で明らかにしたように、宮顕の典型的な「排除の強権論理」の現れとしてしか考えられない。この論理は日本左翼(よその国ではどうなのかが分からないのでとりあえずこう書くことにする)の宿アと私は考えている。いずれにせよ、この平和友好祭には自民党系の青年運動も参加していたようであるから、宮顕式統制の「右にやさしく左に厳しい」反動的本質がここでも見て取れるであろう。このことは、第8回原水禁世界大会をめぐっての社青同に対する度を超した非難攻撃にもあらわれている。労働組合運動にせよ青年運動にせよ組織的自主性を保障することは、党の指導原則であるべきことではあるが、日共の場合、何気ない普段の時には守られるものの一朝事ある時はかなぐり捨てられるという経過を見て取ることができる。先のカオス・ロゴス観で仕訳すると、宮顕の場合にはロゴス派の系流であり且つ統制フェチという特徴づけが相応しい。

 【革共同全国委内で、黒寛派と本田派の内紛公然化する】

 9月、「第3回革共同全国委総会」(三全総)時点で、革共同全国委の中心人物であった黒寛とbQの本多の間で抜き差しならない意見対立が発生した。先の大管法闘争に於いて、マル学同が三派と共同戦線闘争を組んだ四派連合を廻って是非が論争となり激化していくことになった。黒寛派の全学連委員長・根本仁は四派連合結成を良しとせず、これを押し進めた本多派の書記長・小野田と対立していくこととなった。前者は後者を「大衆運動主義」と非難し、後者は前者を「セクト主義」と非難した。マル学同内部のこの対立は翌年の革共同第三次分裂に繋がる。

 【社学同全国大会が開催され、味岡修を委員長に選出】

 9月、社学同全国大会が開催され、味岡修が委員長に選出された。大会宣言の中で、概要「全学連の指導権を握ったマル学同は、運動の過程で問題を解決しようとせず、単なる『反帝反スタ綱領』の観念的思考に安住し、既成左翼と変わらぬし思想的根拠を持つに至った。(中略)全学連運動の沈滞をもたらした」と批判した。日共については、「反米闘争を強調することによって事実上国家権力に対する有効な闘争を放棄している」と批判した。

 【大学管理法闘争】  

 10月、中央教育審議会が大管法を答申したのを受け、日共・民青同系は、大管法闘争に大々的に取り組んでいくことを指針にした。11.13日、平民学連結成に向けての「全国地方ブロック代表者会議」を開催した。11.17日、「大学管理制度改悪粉砕全国統一行動」を決定し、当日は東京3千名、全国7地区で集会、抗議デモを展開した。 こうした大管闘争の盛り上がりを見て、三派連合も、更に遅れてマル学同もこの闘争に参入してくることとなった。11.30日、マル学同も含めた四派連合が形成され、約4千名の集会が持たれた。川上徹「学生運動」は、この四派連合に対して次のように揶揄している。「民主運動の前進しているところには、『なんでも』『どこでも』介入して行き、それまでの自分たちの『論理』も『道筋』も意に介しないトロツキスト各派の無節操ぶりを示してあまりあった」。 翌1963(昭和38).1.25日、池田首相は大管法提出の見送りを決定する。  

 これについて筆者は思う。大管闘争に取り組む姿勢の違いの背景に、民青同系といわゆるトロ系には「大学の自治」に関する観点の相違があることがこの後次第にはっきりしていくことになる。分かりやすく言えば、民青同系は学園民主化闘争を重視し、トロ系はこれを軽視するというよりは欺瞞体制とみなし権力機構一般と同じく打破の対象としていくというぐらいに真反対の立場に立つ。この後この差が次第次第に拡幅していくことになる。この問題もまた左翼運動内の未解明な理論的分野であり、相互に感情的に反発し合うだけで今日に至っているように思われる。この情緒性がたまらなく日本的と言えるように思う。ここに真っ当な左派が登場しておれば、戦後日本の憲法秩序をプレ社会主義と規定し、これの護持と成育発展を期すべきであったであろう。これによれば、学園民主化闘争も是であり、体制変革運動も是であろう。但し、土着在地主義的な一国にして国際主義に通用するような革命を目指すべきであったであろう。どういう訳か、そういう風に捉え推進する運動体が未だに居ない。

 (1963(昭和38)年)

 【「歪んだ青春−全学連闘士のその後」事件】  

 2月、TBSラジオが録音構成「歪んだ青春−全学連闘士のその後」を放送し、安保闘争時の全学連委員長唐牛健太郎について、彼が田中清玄(戦前の武装共産党時代の委員長であったが、獄中で転向し、その後行動右翼と活躍していた人物)から闘争資金の援助を受けていたこと、安保後には田中の経営する土建会社に勤めていることなどを暴露した。これに日共が飛びつき、「トロツキストの正体は右翼の手先」だと、大量に録音テープを配布し、機関紙「アカハタ」で連日この問題を取り上げた。筆者なら、宮顕その人の胡散臭さを問い、是非を争うが、旧第1次ブントの面々は日共批判に太刀打ちできず、唐牛を庇う事ができなかった。これにつき「戦後学生運動補足、余話寸評」で採り上げる。

 【革共同全国委が中核派と革マル派に分裂】  

 2月、前年62.9月の「革共同全国委三全総」時点でのbP指導者・黒寛とbQ指導者・本多間に「四派連合問題」を導火線とする論争、抗争が激化し、中核派と革マル派に分裂することになった。これを「革共同の第三次分裂」と云う。日本トロツキズム運動史上は第四次分裂となる。この抗争は次のように決着することになる。革共同全国委の政治局内部では本多派が多数を占め、「探求派」グループの木下尊悟(野島三郎)、白井朗(山村克)、飯島善太郎(広田広)、小野田猛史(北川登)、第1次ブントの田川和夫、陶山健一(岸本健一)、清水丈夫(岡田新)らが連動した。黒寛派についたのは現在JR東労組で活動している倉川篤(松崎明)、森茂らの少数であった。黒寛派は、革共同全国委から出て新たに革共同・革命的マルクス主義派(革マル派)を結成することになった。これが革マル派の誕生である。

 【革マル派全学連の誕生】  

 マル学同の上部指導組織の革共同全国委で路線対立が起きたことによりマル学同内部にも対立が波及していくことになった。マル学同では逆の現象が起き、革共同全国委では少数派だった黒寛派はマル学同では多数派となった。これにより、本多派の方がマル学同全学連から追われ、マル学同中核派を結成することになった。  

 4月、マル学同全学連第34回中執委が開かれ、統一行動を唱える6名の中執を罷免するという分裂劇が演じられた。統一行動を「野合」に過ぎぬと非難した根本派(→革マル派)と、それに反発して「セクト主義」だと非難を投げ返した小野田派(→中核派)に完全に分裂することになった。乱闘の末、革マル派は中核派6名の中執罷免を決定した。これによりマル学同全学連は革マル派と中核派に分裂することとなり、革マル派が正統全学連の旗を独占し続け、早稲田大学を拠点に革マル派全学連として存在を誇示し続けていくことになる。革マル派)は機関紙「解放」を創刊する。この時期中核派は全学連学生運動内に「浮いた状態」になった。

 7.5−8日、全学連20回大会(委員長・根本仁)で革マル派が主導権確立、根本仁(北海道学芸大)を委員長に選出した。革マル派は中核派130名の入場を実力阻止し、6中執の罷免を承認した。中核派は全学連主流派総決起大会を開催し、革マル派単独大会を分裂行動と非難する。

 【中核派対革マル派の分裂考】  

 中核派と革マル派の対立の背景には次のような観点の相違が介在していた。「革共同の中にも実践派と書斎−評論派との対立があり、それが後の中核派と革マル派との対立になっていったとのこと」(戦後史の証言ブント.古賀)である。大衆運動の進め方にも大きな観点の相違が存在していた。中核派は、大量に移入してきたブントの影響に拠ったものか元々のトップリーダー本多氏の気質としてあったものか分からないが、他党派と共闘する中で競合的に指導性を獲得していこうとして運動の盛り揚げの相乗効果を重視しようとしていた。議会闘争にも取り組む姿勢を見せる。黒寛の主体性論に基づく「他党派解体路線」に対し大衆蔑視のプチブル的主体性であり、「セクト主義、理論フェチ、日和見主義」であると批判した。  

 これに対し、革マル派は、中核派は黒寛理論の生命線とも云うべき主体性論を欠いた「大衆追随主義、過激主義」であると云う。例えば、この時期マル学同は他党派の集会に押し掛け攪乱する等の行動が見られたが、これは他党派は理論的に克服されるべき批判の対象であり、常に自派の質量的発展こそが正道であるとする「黒寛理論」的観点からなされているものであった。革マル派にとっては、この「他党派解体路線」は理論の原則性として革命的主体理論と不即不離の関係にあり、曲げてはならない運動上の絶対基準原則であり、共闘による「水膨れ」は邪道でしかないと云う。  

 運動論のこうした相違は当然組織論についても食い違いを見せることになる。情勢分析についても観点の相違が存在していた。中核派は革マル派に対して、「危機でないと論証力説して帝国主義と戦わない日和見主義」と云い、革マル派は、中核派に対して、「主観的、信念に基づく万年危機感の煽り立て」と云う。もう一つの対立視点についても述べておく。両派とも綱領路線として「反帝・反スタ主義」を掲げ、「反帝・反スタ」の比重について同時的に達成されねばならないとはするものの、幾分か中核派は帝国主義主要打撃論=反帝論より重視に近く、革マル派はスターリニスト主要打撃論=反スタより重視に近いという立場の違いがあったようである。

 この両派の対立の背景に、民青同系平民学連の進出に対する対応の仕方の違いも関係していたとの見方もある。中核派の小野田らは、これに対処するには三派との協調が必要と主張し、革マル派の根本らは、如何なる理由付けにせよ他党派との理論闘争を疎かにするような妥協を排し、断固思想闘争を展開することの必要性を強調した。

 これについて筆者は思う。先のカオス・ロゴス識別に従えば、中核派はカオス派の立場に立っており、その意味では大量移入したブントの影響がもたらしたものとも考えられる。つまり、ブントが革共同全国委から本多派を引き連れて先祖帰りしたとみなすことが出来るかもしれない。実際に、中核派の以降の動きを見れば旧ブント的行動と理論を展開していくことになる。こうなると党の建設方針から労働運動戦術から何から何まで対立していくことになるのも不思議ではない。してみれば、革マル派の方が革共同の正統の流れを引き継いでおり、この間のブントの移入と中核派としての分離の過程は肌触りの違う者が結局出ていったということになるようである。

 【民青同系が平民学連を結成】  

 7月、民青同系全学連の先駆的形態として、「安保反対.平和と民主主義を守る全国学生自治会連合」(「平民学連」)が結成され第1回大会が開催された。委員長に川上徹を選出した。この大会には、72大学、121自治会、230名の代議員が参加し、傍聴者3500名を越えた。平民学連は、自治会に関する次のような規約遵守基準を明確にしていた。 1  自治会は学生のあらゆる民主的要求を汲み上げ実現すること、自治会はみんなのもの、みんなの利益を守るもの、という観点の明確化。 2  民主勢力との統一強化。安保共闘会議に結集し、人民の利益の中でこそ学生の利益が守られることを明確にすること。 3  国際学連と共に反帝平和の国際統一戦線としての一翼として、全世界学生との連帯強化。 4  自治会の民主的運営を徹底的に保障すること。この立場を貫くためには、学生の分裂を主な目的にした分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する 闘いが必要である。  

 これについて筆者は思う。筆者は、この主張における1項の「自治会の民主的運営の徹底的保障」を支持する。但し、この項目が4項の「分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する闘いが必要」と結びつけられることに同意しない。この主張はセクト的な立場の表明であり、この文章が接続されることにより「自治会の民主的運営の保障」はマヌーバーに転化せしめられており、これも叉裏からのセクト的対応でしかないと窺う。してみれば、「組織の民主的運営と執行部権限理論」の解明は今なお重大な課題として突きつけられていると思われる。この部分の解明がなしえたら左派運動は一気に華開いてい くことができるかもしれないとも思う。 

 【第9回原水爆禁止世界大会で社共対立が決定的になる】  

 8月、第9回原水爆禁止世界大会が開催され、「いかなる国の核実験にも反対」かどうかを廻って紛糾した。社会党.総評系は、「いかなる国の核実験にも反対こそ原水禁運動の根幹」とし、日共は、「アメリカの核は強盗の武器だが、社会主義国の核は防衛の武器だ」との観点から「いかなる国の核実験にも反対に反対」している。この対立が融和せず、原水禁運動が分裂することになった。原水禁運動の分裂は、日共のその後の中国路線の強化と合わせて、日本母親大会や安保共闘会議にも重大な影響を与えていくことになった。


 日共は、幹部会声明で部分核停条約不支持を表明する。「核兵器全面禁止の旗を掲げ統一を守らなければならない」を発表。党として初めて中ソ論争に対する「中国寄り」の見解を表明した。次のように述べている。概要「部分的核停条約の成立を平和への前進とみなす意見は、世界と日本の人民の認識を大きく誤らせるものである。我が国においては、『いかなる国の核実験にも反対する』という立場と、部分的核停条約を支持するという立場とは、同じ思想と同じ政治的立場に根ざしている。我々はこのような見解に断固反対する」。
 【清水谷乱闘事件】

 9月、清水谷乱闘事件が発生している。清水谷公園で、連合4派(中核派・社学同・社青同解放派・構造改革派)が全都総決起集会で250名を結集しているところへ、革マル派150名が押しかけ演壇占拠、角材で渡り合う乱闘事態となった。のち両派相前後して日比谷公園までデモ。革マル派の他党派への暴力的殴りこみはこれを嚆矢とするのではなかろうか。

 13章 6期その4 1964  新三派連合結成

 【東京社学同がマル戦派とML派に分裂】

 2月、東京社学同が、少数派(マ ルクス主義戦線派=マル戦派.独立社学同)と多数派(マルクス・レーニン主義は=ML派)に分裂した。ブントはマル戦派、ML派、独立派、関西派に分裂し勢力を急速に衰えさせていった。

 【「新三派(社学同、社青同、中核派)連合」結成】  

 3月、全学連の全的統一を目指した構造改革派が抜け落ち、独立ブント社学同、社青同、中核派が全国学生自治会代表者会議を開催し、新三派連合が確立された。全学連再建問題を討議、韓国学生の日韓会談反対闘争支持アピールを採択した。こうして、学生運動内部にはマル学同、民青同、新三派連合系という三大潮流が生まれ、その他に構造改革派、「日本の声−民学同」派、革共同関西派系等々の様々な支流が立ち現れることになった。

 【日共の奇妙な「4.17スト対応」】  

 4月、「4.17ゼネスト」を廻って、日共が犯罪的立ち廻りをしている。総評・公労協が1947年の「2.1ゼネスト」に匹敵叉はこれを上回る戦後空前のストを仕掛けんとしていた時、日共が、概要「4.17半日スト方針を憂慮する。総決起は危険でありその方針を再検討せよ」と公然とスト反対を打ち出した。 ゼネストに向けて態勢の準備と確立に余念がなかった総評・公労協の多くの組合幹部、活動家は憤激し、日共の態度を「労働者の気持ちを無視したやり方」と非難したが、日共は次々と同様指示を飛ばし続け、次第に労働戦線は大いに混乱し、遂に4.17ストは挫折させられることとなった。こうして、「日共のスト破り」が歴史に刻印された。4.17スト不発後、責任問題が発生することになった。日共の最高幹部がどう対応したか。宮顕と袴田はこの時中国にいたが、「志賀問題」も発生したこともあり急遽帰国し、幹部会を開いた。この総会で、党として「4.17スト」反対への誤りを認め自己批判した。こうして、「あれは党の意志ではなかった。一部幹部の暴走によるもの」と「主要幹部不在中の誤り」として公労協に詫びを入れ一件落着にしている。

 【志賀派が造反】  

 5月、日共党内に「4.17スト問題」に続いて「部分核停条約を廻る志賀派の造反事件」が発生した。これにより、春日(庄)派に続き志賀派が放逐されることになる。日共党中央は、論文「修正主義者のいきつくところ−志賀らの 論拠に反論する」をアカハタに発表した。この経過を通じて志賀グループが様々な理由で 除名されていった。

 【「早大構内ゲバルト7.2事件」】  

 7月、翌日に予定された憲法調査会の答申に対する反対デモの計画を練るため早大構内に集まっていた革マル派約80名に対して、中核派、社学同、社青同、構改派(フロント)各派の連合勢力約100名が、ヘルメットに身を固め、棍棒と石をもって夜襲の殴りこみをかけ3時間の激闘が展開された。これを「7.2事件」という。早稲田大学一文学部の自治会権力をめぐる争いが原因となっていた。

 奥浩平氏の「青春の墓標」で次のように明らかにされている。概要「これまで日本の戦闘的学生運動にしるした早大一文の意味は計り知れないほど大きかった。安保闘争をはじめ大管法闘争においても早大一文は一千単位の動員を勝ち取ってきた。だがY派(革マル派のこと)が自治会執行部を占拠するや、一文は一挙に凋落して今日の姿になった。クラス討論は行われず、他党派の看板はブチ壊され、ビラ入れは暴力的に妨害された」。  

 この状況の中で自治会自治委員選挙が行われ、「フロント(構造改革派)の諸君が、一文の学生委員を圧倒的に固めた」。フロント40〜50名、M戦(社学同)15名、Y派(革マル派)15〜25名という内訳となった。形成不利と見た革マル派は、委員総会を「正当な委員だけで開かねばならない」という口実で自派だけで開いて切り抜けようとしていた。フロントは各派に支援を要請し、中核派その他がこの要請に応じ、一文自治会再建目指してオルグ団を派遣した。しかし、革マル派はこれら活動家に対する公然テロを開始した。7.2日夜、中核派、社学同、社青同、構改派(フロント)各派の連合勢力が「徹底的自己批判を迫る」ことを決意し乗り込んだ、という経過であった。

 【日ソ共産党間の論争始まる】  

 7月、日ソ共産党間に論争が始まった。7.18日、ソ共が日共あて2書簡を公表、日共もソ連宛書簡を公表し公然化した、この時、日共は由々しき詭弁論法を駆使しているので確認しておく。次のように述べている。「なお、あなたがたは、あなたがたが既に一方的に公表したこの書簡の中で、マッカーサーの弾圧−党中央委員会に対する公職追放令によって、我が党中央が非合法下に置かれた時期の両党関係をめぐる諸問題に触れています。これは、今回の会談の内容を公表しないという両党代表団の取り決めを全く無視しているだけでなく、兄弟党が非合法下ないし半非合法下に置かれた時間の非公然の問題を、反動権力の前で無警戒に論じないという、兄弟党間の信義と国際共産主義運動の当然の準則を全く踏みにじるやり方です。我々は、あなたがたがこの問題について述べている内容に同意するものではありませんが、この公開される書簡で、この時期のこれらの問題を更に立ち入って論及することは妥当でないので、ここではあえて回答する必要を認めません」。  

 この論法が如何に詭弁であるかを指摘する。切開すべき理論的諸課題を非合法下の諸問題にすりかえている事が第一点である。切開すべき理論的諸課題が、このたびの論争時期のように対象とされる事象の発生後十余年を経過して、なお秘密にされねばならない党的利益は何もない。ある時期の内部文書が一定期間後公表されていくことは、人民大衆運動の利益に合致する。「反動権力の前で無警戒に論じない」という論理も曲者である。ならば、公党間のテーブル交渉として行い、その議論の成果を公表するのかというとそうでもない。「今回の会談の内容を公表しないという両党代表団の取り決め」とあるように、あくまで秘密主義で機密事項として置いておこうとしている。「殊更に秘密めかして自己保身をはかるのは、官僚組織の通弊」(高知聡「日本共産党粛清史」)であり、ここにもご都合主義が垣間見えている。

 【「民学同」誕生】

 9月、日共内の志賀派の飛び出しを受け、大阪大中心の活動家が民青同系から離脱し、民主主義学生同盟(「民学同」)を結成した。「民学同」は、翌1964.7月、志賀系「日本の声」派と合流する。同派はその後、共産主義労働者系と「日本の声」派とに分岐し、10月、フロントと共に全国自治会共闘を結成し、構造改革派系新左翼連合戦線を形成する。

 【東海道新幹線開通、東京オリンピック開催】

 10.1日、東京オリンピックにあわせて、東京、大阪間を3時間10分でむすぶ最高時速200キロの東海道新幹線が開通した。翌1965年には名神高速道路が開通する。10.10日、第18回オリンピック東京大会が開幕した。アジア初で、94カ国7千余人の選手・役員が参加した。開会式のテレビ視聴率は85%にのぼった。オリンピックで、日本は堂々とした戦後復興ぶりを世界に示した。日本は金16、銀5、銅8という成績を見せた。「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレーチームの活躍に日本中が沸いた。この年の日本の実質経済成長率は12.5%で、戦後日本の復興を象徴する国家的イベントとなった。

 【民青系平民学連が全自代開催】

 10月、民青系平民学連が全自代開催。正式参加自治会150、オブザーバー自治会35の代表、その他個人オブザーバー35名が参加した。全学連再建のための基準提案が決議された。1、過去のいきさつに関わらず、2、無条件で、3、全ての学生自治会が参加でき、4、全学連規約に従って、再建大会を開催しよう。提案は、賛成128、反対14、保留4で可決された。この時の反対派の様子が明らかにされていないが、構造改革派とこの頃誕生していた志賀グループの「日本の声−民学同」派の影響下の学生グループであったようである。彼らは、民青同系全学連を新たに創る方向に向かうのではなく、諸潮流との統一を主張し、急進主義派を含めた統一を模索するべきであり、その根回しのないままの全学連再建は時期尚早であるという全学連再建時期尚早論を主張したようである。川上徹著「学生運動」では、「それは惨めな失敗に終わった」とある。
 【日共第9回党大会、民青同全学連創設指示】  

 11月、日共第9回大会が開かれ、宮顕独裁体制を確立した。蔵原が「志賀、鈴木、神山、中野の処分承認についての提案」を行ない、大会1日目に全員一致で除名決議を採択した。ソ連共産党の大国主義と現代修正主義批判。教条主義批判を新たに押しだし、自主独立論を中共路線上に名目的に確立する。


 この大会で、民青同系学生運動に対し次のような指針を与えている。 1  「学生大衆との結びつきを強め、反共分裂主義者と有効に闘い、機の熟しつつある学生運動の組織的統一を成功させるように援助しなければならない」。 2  「学生運動が、全人民的政治課題に積極的に取り組むと共に、学生の生活上、勉学上の要求、文化、スポーツなどの要求にも十分な注意を払い、広範な学生を結集しつつ民族民主統一戦線の一翼として発展するよう、努力しなければならない」。

 これが、次のように確認されている。「こうして、共産党と民青同盟は、学生運動それ自体の発展のために闘いつつ、学生の多面的な要求に基づく闘いを先頭に立って進め、さらに学生が将来も民主的、進歩的インテリゲンチァとして成長していけるように、長期的観点に立った指導を学生党員、同盟員に対して行なった。また、1960年、61年のトロツキスト、修正主義者との闘いの教訓に学んで、労働者規律と理論学習を強めていった」。

 【佐藤政権登場】

 12月、池田首相の引退表明を受け佐藤栄作が第5代自民党総裁に選出され、首相指名を受けて第一次佐藤内閣が発足する。佐藤内閣は、日韓国交正常化、沖縄返還を政策の基軸に据え、「経済開発とバランスのとれた社会開発」を掲げた。このあと、佐藤内閣は在任期間7年8か月という最長記録をつくる。

 【民青同系全学連の誕生】  

 12月、民青系全学連が「再建」された。全自連→全学連再建準備協議→構造改革派の分離→平民学連→全学連の「再建」という流れで辿り着いた。この夜、平民学連は第7回全国代表者会議を開き解散を決議した。こうして、革マル派全学連に続いて二つ目の全学連が出現することとなった。民青同系全学連は順調に発展し、66.7月には全国の大学自治会の過半数(84大学・189自治会)を結集した。68.2月には国際学連の代表権を革マル派全学連から奪い取ることになる。川上徹・氏の「学生運動」は、この流れを次のように自画自賛している。「(この民主的学生運動こそ)戦前、戦後の進歩的、民主的学生運動の伝統を引き継ぐものであり、現代の学生運動の真の代表であり、かつ、祖国の独立と平和、民主主義を望む幾百千万の勤労人民の良き息子であり、娘である」。

 【新三派連合による都学連再建の動き】  

 12月、ブント、中核派らが中心になって東京都学生自治会連合(「都学連」)再建準備大会が明大で開催された。都学連は1949(昭和24).9月に結成され、学生運動を推進する上で大きな役割を果たしてきていたが、全学連の分裂と共に都学連も分裂していた。学生運動の主導権を握るために都学連の再建が課題となりつつあった。65.7月の都学連再建のための準備委員会(議長・山本浩司)を発足させた。京都府学連がこれに提携し全学連再建の動きが加速した。これに反対する革マル派が二日目の途中から退場し、構造改革派は代表を送らなかった。  

 この時の再建派の心情が次のように語られている。「いわゆる『安保後』といわれた分裂と危機の時代から、統一と発展に抜け出る過程に我々は居る。その過程では、安保全学連を乗り越えるための闘いで、いくつかの異なった立脚点が提起されている。それが一つになり、全学連運動を支えるまでには、あと何年かの年月が必要であろう。だが、そのことは全学連も又その時まで再建しなくても良い、とか、出来ない、という考え方を何ら意味しないであろう。全学連は一つの溶鉱炉である。異なった見解も、全学連としての闘いをいかに押し進めていくのか、についての論理と、現実の闘いそのものを薦めていく中で、止揚しなければならないのだ。現実の階級闘争の要請に応えることなくして、いかなる論理も実りあるものとはいえない云々」。

 14章 7期その1 1965−1966  全学連の転回点到来  

 (1965(昭和40)年)

 【慶応大学で授業料値上げ反対闘争が勃発】

 1965(昭和40).1月、慶応大学で授業料値上げ反対闘争が勃発した。一挙に3倍近い学費値上げが慶応大生を立ち上がらせることになった。1.30日、「初の」全学無期限スト突入。2.5日終結したが、これが学費闘争の先駆けとなった。この経過には高村塾長の「現在の学生に対する値上げではない。お前達には関係無い」という論理での強権的な遣り方が憤激を促したようである。

 【米国がベトナム北爆開始】

 1964.8月、「トンキン湾事件」(ベトナム魚雷艇による米艦船爆撃事件)が発生した(1971.6月、8.4日の北ベトナムの再攻撃はでっち上げとの米国防総省の秘密文書が暴露された)。、ジョンソン大統領が、これを口実に大規模な公然軍事介入に踏み切った。1965.
2.7日、米国がベトナム北爆開始。3月、米軍がダナンに上陸して地上戦に介入、全学連各派と反戦青年委共同による反戦闘争が激化した。北爆抗議、米原潜エンプラの横須賀寄港阻止が焦点となる。  

 【社青同解放派が結成される】  

 3月、社青同解放派が結成されている。この頃社青同学生班協議会は、東大、早大を中心に組織を拡大していく中で中央(協会派)と対立し始め、こうした内部抗争の結果日韓闘争の経過で急進主義運動が分派化し、社青同解放派が結成されたという経過となった。社青同解放派はその後、政治団体として革命的労働者協会(革労協)を結成して、傘下の学生組織として反帝学評をつくることになる。

 【べ平連発足】  

 4月、ベ平連(ベトナムに平和を!市民文化団体連合)が初のデモ行進。 発起人は、小田実・開高健・掘田善衛・高橋和己・篠田正浩など。事務局長・古川勇一氏。この頃から セクトの枠にとらわれない一般市民参加型の反戦運動が立ちあがっていくことになった。

 これについて筆者は思う。このベ平連運動は、今日から見て貴重なメッセージを発信していることが分かる。一つは、ベ平連が闘争課題を「ベトナムに平和を!」と明確にしたことにより、その後のベトナム反戦闘争の巨大なうねりを創出させる発信元となったというプロパガンダ性である。一つは、「セクトの枠にとらわれない」という運動論を創出したことである。但し、この時点では、セクトが漸くセクト化を獲得しつつ成長していくという「正成長」の時期であったのでさほど評価されることなくベ平連もまたセクト的に立ち上げられていくことになったが、セクト運動が「負の遺産」を引きずり始めた後退期頃よりはかなり合理的な存在力を示しえた筈の見識であったと思われる。とはいえ、ベトナム戦争が終結すると共にベ平連も終息していくことになったのが惜しいと思う。結局もう一つの側面であった先進国特有の一般市民参加型運動の限界ということになるのであろう。しかしそれならそれで今からでも改良の余地は大いにあると私は考えている。

 【日韓条約調印阻止闘争】  

 こうしたベ平連運動創出の頃、社会党・総評系のそれ、共産党系のそれもまた折からの日韓闘争を絡めた統一行動を組織し始め、60年安保闘争以来の大衆運動が動き出していくこととなった。革マル派系、民青同系、新三派系それぞれも取り組みを強めていくことになった。中でも新三派系の動員力が強まり、常時3千名規模の抗議デモを獲得していくことになった。これまで数年の間数百名規模で推移していたことを考えれば様変わりとなった。6.22日、日韓会談が妥結し、日韓基本条約に調印する。賠償請求権については、無償3億ドル、有償2億ドルの政府借款と民間借款3億ドル以上の供与、竹島の領有権問題は棚上げ、という内容であった。

 日韓関係が正常化されたが、国内の野党勢力はこぞって反対し、社共は「議員総辞職を賭けて闘う」との強硬姿勢を打ち出したため国会審議は難航を極めた。「日韓国交正常化は、アメリカ帝国主義のお先棒を担ぐもので、中国や北朝鮮を敵視するものだ」がその反対趣旨であった。結局、自民党は衆院本会議で強行採決した。
この日、民青同系全学連は6千名結集し、集会と外務省・米大使館にデモを行なった。新三派系も日韓条約本調印阻止闘争、決起集会〔芝公園〕に2千5百名結集、首相官邸に向かうも機動隊に阻止され激しい投石で抵抗、17名逮捕。昼夜8千が抗議デモ、とある(革マル派系 も当然取り組んでいる筈であるが手元に資料が無いので割愛する)。

 これについて筆者は思う。日韓闘争の左翼的意義が余り分からない。恐らく、60年安保闘争以来の政治闘争を欲しており、たまたま日韓闘争に照準が据えられただけなのではなかろうか。日韓正常化は基本的に両国間の主体的な交渉で進められており、米国のお伺いを立てなければ何事も進まない現下の政治に比すればむしろ功績ではなかろうか。

 【民青系が都学連結成大会開催】

 7月、民青系都学連結成大会が開かれ、22大学.39自治会の代議員と400名の傍聴者が参加。委員長に沢井洋紀(東大.文)、副委員長に田熊和貴(東経大)と植田稔(早大.一法)、書記長に金子博(東大.教)を選出した。7.23−25日、民青同系全学連委員長・川上徹)が、大阪で再建後の第1回大会を開催。68大学・142自治会、約1500名参加。去る日の全学連第15回大会が暴力によって流会を余儀なくされたという歴史的事情を踏まえて、この大会で先の再建大会を第15回大会とすることに決定した。

 【反戦青年委員会考】  

 8月、反戦青年委員会が結成された。当時左翼戦線では日韓条約批准阻止のための運動の統一が叫ばれていたが、社会党・総評と党の間は安保闘争の分裂以来の対立が解けず、一日共闘の程度を出ない状態が続いていた。この頃ベトナム戦争が政治課題として急速に浮上し始めていた。そのような状況の中で、社会党青少年局、総評青年対策部、社青同の三者の呼びかけによって、社会党系の青年労働者組織として、「ベトナム戦争反対、日韓条約批准阻止の為の、この闘争目標に賛成する全ての青年学生組織に解放された青年の自主的共闘組織」として反戦青年委員会が結成された。反戦青年委員会には日共系を除くあらゆる左翼集団77の団体・個人が参加していくことになった。7月に結成されたばかりの新三派系都学連も加入していた。    

 60年代の青年左翼運動は、ほとんど学生運動に限られていたが、この反戦青年委員会が結成されると急速に労働者の間に浸透していった。反戦青年委員会のその後の経過は、次第に地区、職場、学校等に結成され組織も拡大していき、それと同時に急進主義化し始め、社会党及び日共を「議会主義カンパニア派」と罵倒するに至り、「これらとの熾烈な党派闘争とそれを貫徹する独自部隊の結集が革命的左翼の任務である」とするに至り、社会党・総評の統制が及ばないことになった。  

 これを見て、川上徹・氏の「学生運動」は次のように記している。概要「反戦・ツ年委員会は、新左翼が反戦青年委員会を組織拡大の場として『わたりに舟』で食い入ったものであり、社会党が『ひさしを貸して 母屋を取られる』ことになった。反戦青年委員会の結成は、こうしてトロッキストの息を吹き返させたという点でも、日本の青年学生運動、民主運動の統一の発展のためにとっても、重大な禍根を残すことになった」。  

 これについて筆者は思う。果たしてそのように受けとめるべきであろうか。筆者には、こういう評し方こそセクト的なそれであると思われる。むしろ、この当時盛り上がりつつあった青年運動に着目して学生のみならず青年労働者の社会的意識を培養する観点から「公党としての歴史的責任」を社会党が果たしたのであり、むしろ日共及び民青同は、新しい時代の激動期を向かえつつあった際に何らの指導性を発揮しようとしなかったばかりか、社会党系が組織した反戦青年委員会運動にセクト的に敵対さえしていったというのが史実であり、このことこそ反省すべきではなかろうか。  

 なるほど反戦青年委員会はその後の運動の盛り上がりの中で各セクトのオルグや加入などで自立性を失い、新左翼系セクトごとの勢力に分裂し、「全国反戦」はセクトが指導する「地区反戦」へと変貌していくことになった。しかし、だから反戦青年委員会の結成を「重大な禍根を残すことになった」と総括するというのは反動的ではなかろうか。筆者には、「愛されるべき社会党」の真骨頂が垣間見えるように思われる。反戦青年委員会は、青年労働者の中への影響という「事業」を進め、これに一定の成果を得た点で左翼運動の史実に重要な貢献をしていることが注目されて良いように思われる。ここまで整理して分かることは、社会党は右派・左派ごった煮の中で意外と歴史的な役割を果たしてきているということが改めて知らされるということである。

 【日韓闘争】  

 10月、臨時国会開会冒頭、「日韓条約批准反対総決起集会」を開き民青同系1万人の学生が参加した。日韓条約反対闘争では安保反対国民会議が再開されず、社共の共同闘争もならず、全国的統一運動は組織されなかった。新三派系の労・学3千名が昼夜デモを仕掛け、以降次第に数を増していき1〜2万名規模の闘争へと発展していく。この頃から機動隊のデモ規制が厳しくなり、デモ隊の両側をサンドイッチでジュラルミン盾を手に並進していくことになった。11.9日、日韓条約強行採決の暴挙に抗議して日韓闘争で初めて社.共共催の共闘方式が実施される。全国329カ所で23万人を動員する。一日共闘が実現し18万人の大集会とデモ。民青同系1万5千名が結集した。新三派系も連日万余の数で国会デモを展開した。

 【早大で「学館闘争」が再燃化】  

 11月、この頃から早大で学生会館の管理権問題として学館闘争が再燃化していくことになった。この頃早大では、革マル派、社青同解放派、民青同派の三派鼎立時代を迎えていた。革マル派が一文.二文を、民青同系が教育.一法を、その他は社青同を中心とした三派系が自治会執行部を掌握していた。各自治会と文化団体連合会.サークル協議会.生協.早稲田祭実行委などによって「学館共闘」が結成された。議長には大口昭彦(第一政経.社青同解放派)が就任した。  

 11.30日、本部前抗議集会がもたれ、ここから本格的な闘争が開始されていくことになった。これより先同志社大でも学館闘争が勃発していたが、大学当局の譲歩に拠り妥結していたが、早大大浜学長以下の理事会当局側は強圧的であり、学生側も急進主義的に対応してこじらせていくことになった。12月になると団交決裂→座り込み→機動隊導入へと発展していった。そうした事態の中、冬休みを前にした12.20日、学費の大幅値上げが決定され、大浜学長は、記者会見の席上「授業料の値上げは新入生からであり、諸君とは関係無い」、「学生諸君全員が反対しても、授業料は値上げする」と声明した。早大当局の発表した値上げ案は大幅なものであり、入学金、施設費、授業料等で平均50%を越えていた。翌66年早々から早大は紛争のるつぼになって行く。

 (1966(昭和41)年)

 【横浜国大闘争】

 1月−3月にかけて横浜国大で、学部の学芸学部の学部名変更に反対する紛争がおこり、学生がキャンパスを封鎖、教職員を排除して、学生の自主管理を約1か月余にわたって強行した。この自主管理下のキャンパスでは、学生自治会が編成した自主カリキュラムによる学習が進められるという画期的なものとなった。

 【早大で学費値上げ反対闘争始まる】  

 1月、早大で、「学生会館の管理運営権獲得」に加えて学費値上げ反対闘争が始まった。この背景は次のように考えられる。自民党政府の教育行政政策は、この時期増大し続けるベビーブーマーの大学生化に対して何ら有効な受け入れ対策をなしえず、私学へ追いやってきた。一方で、戦後直後の社会的合意でもあった「大学の自治」に対する介入を強め、お得意の官僚的統制を進めつつあった。「アメリカさんから頂いたものは日本の風土に合わぬ」というばかりの逆行コースへシフト替えしつつあった。私学経営者は、「大量入学→マスプロ教育→設備投資→ 借入金増→学費値上げ→大量入学」という悪循環に陥っていくことになった。 自民党政府によるこうした教育費の切りつめという反動的な大学政策の一方で、財政投融資、軍事費にはどんどんと国家予算を投入していた。これらの動きにどのように対応していくのかが早大闘争の課題であった。 広谷俊二氏の「現代日本の学生運動」は次のように記している。「『庶民の大学』という伝統に強い愛着を感じている学生たちは、値上げによって授業料、入学金などが慶応大学以上に高くなることに憤激し、また、このような大幅な値上げが、学生はもちろん、教授会にすらはかられることなく強行されたことに憤激して、全学をあげて、ストライキに立ち上がった。三万を越える学生が団結して闘い、多くの学生は、これまでにかってない積極性、創意性を発揮して闘争に参加した」。「早稲田を揺るがした150日(足掛け7ヶ月)」として刻印されている。

 【早大闘争に対する各派の理論】  

 民青同系は、1.教育機会均等の破壊、2.大学運営の非民主的やり方、教授会及び学生自治会の自治権に対する侵害、3.一部理事による闘争弾圧の為の機動隊導入及び国家権力の介入等への批判を組織していくこ とを指針させた。併せて、4.ひものつかない国庫補助の大幅増額等を要求する学園民主化闘争を指針させていた。  

 社青同解放派は、資本と労働の対立という観点からの大学=教育工場論に基づき、闘争を、教育工場を経営する個別権力資本=早大当局と個別労働=学生の闘いであり、教授一般は労働下士官と捉えた。この「個別資本からの解放」、「産学協同路線粉砕」という理論は、その後学園闘争に対するストライキ、バリケード、武装、コンミューンの樹立へと発展する理論的基礎となった。革マル派は、国家政策としての大学管理化とこれに呼応する大学当局の産学協同政策に対する闘いとして位置付け、「学問を独占的な産業に従属させ、創造的で自由な、権力に抵抗するような学問を封じ込める結果になる」という立場から批判していた。

 民青同は、社青同解放派の理論を先鋭理論と位置付け、自民党政府の反動的貧困な大学政策に対する闘いを放棄し免罪していると批判した。この後明大闘争を担うことになったブントは、この時の早大闘争を次のように総括した。概要「各クラス における闘争組織という各自治会学年別連絡協議会方式が指揮系統を混乱させ、ひいては全学共闘の機能をマヒさせた。従って、まさしくあらゆる闘争において、まず第一に要求されるものは、(自治会ではなく)強固な中央集権的な組織の存在である」。この理論はやがて「ポツダム自治会破産論」 を導き出していくことになった。こうした諸理論の発展が、後の全共闘運動とその大学解体論の下地をつくっていくことになった。

 【東大紛争始まる】

 1月、東大医学部自治会、インターン配置問題をめぐって卒業試験ボイコ ット闘争。これが後の東大全学部を巻き込んだ東大紛争→東大闘争に発展していくことになった。「全共闘グラフティー」は次のように記している。「東大闘争は医学部における青年医師連合の基本的権利を守る闘いと、医療部門における人民収奪の強化、及び医学部における研究教育体制の合理化−帝国主義的改編への闘いを発端として火の手を挙げた。そして独立資本との産学協同を推進する『国立大学協会自主規制路線』のもとに、この闘いを圧殺しようとした東大当局に対する叛乱として展開される」。 

 【三里塚闘争始まる】

 7月、政府が突然、新東京国際空港り建設地を、千葉県成田市三里塚と隣接する芝山町に閣議決定する。当初1965.11月に富里に内定していたが、地元住民の反対に遭い変更された。三里塚の住民には事前に何の打診、事前説明、協議も無いままの発表となった。閣議決定と同時に、地元の約千戸3千名の農民・住民によって「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」(委員長・戸村一作)が結成された。これが後に成田闘争へと繋がることになる。

 【中国で文化大革命勃発、親中派が造反し分党化する】  

 この頃、中共は文化大革命路線を発動している。中共は、「アメリカ帝国主義.ソ連社会帝国主義.日本の反動勢力.宮本修正主義集団を打倒せよ」という「四つの敵論」を唱え始め、日中共産党は長年の友好関係から不倶戴天の仇敵関係となった。これに伴い日共内の中共派が呼応した。まず、中央委員の西沢隆二(ぬやまひろし、故徳田球一書記長の女婿)が「毛沢東思想」を創刊して宮顕指導部批判に乗り出していくことになった。この頃、原田長司(中央機関紙編集委員)、福田正義らが「日本共産党山口県委員会(日共山口左派)」を結成、機関紙「長周新聞」を創刊し、全国の親中国系党員に対して同派への結集を呼びかけた。  

 【第二次ブント再建】  

 9月、既に昨年4月関西派は、「マル戦派」と「ML派」の一部を結合して「社学同全国委員会」(社学同統一派)を結成していたが、このような曲折ののち更にこのたび「社学同統一派」と「マル戦派(マルクス主義戦線派)」の残存部分との合同がなって、ブントは「第6回共産同再建全国大会」(ブント再建大会)を開催するに至った。ここに、ブントは6年ぶりに組織統一をみるに至った。「社学同統一派」と呼ばれる。 これが、「第二次ブント再建」といわれるものである。

 【紀元節復活公聴会阻止闘争】

 10月、全学連が、紀元節復活公聴会阻止闘争。東京・大阪・広島・札幌で紀元節復活公聴会阻止闘争に取り組む。広島大生ら3百名が会場の広島婦人会館にデモ、一部が会場内突入し4名逮捕される。大阪府学連60名が会場の府庁内にデモ、坐り込みで1名逮捕される。これについて筆者は思う。この時の日本左派運動の阻止論理はどのように組み立てられていたのだろうか。日共式の歴史観とは違う紀元節阻止論を生み出し、闘争する必要があったと思われるが、案外理論は同じで穏和主義の日共式に対する過激主義の新左翼という程度の闘いではなかったかと思う。この没理論性がその後も今も続いているように思われる。

 【日共第10回党大会】  

 10月、日共は、第10回党大会を開く。大会は、親中派を排除し自主独立路線の基本方向を確認し、「30万人に近い党員と、百数十万の機関紙読者を持つ、党の歴史の上で、最大の勢力となることができました」と勝利宣言した。この大会で、それまでの中央統制監査委員会を中央監査委員会と中央統制委員会に二分割し、中央監査委員会はこれを大会選出、中央統制委員会は、これを中央委員会の任命とした。従来大会選出であった統制委員会委員の選出が中央委員会の任命制と規約改定された。宮顕党中央の党の私物化体制への道を更に切り開いたことになる。宮顕−袴田体制の継続となった。

 日共は、大会を前後して、中央委員の西沢隆二、中央書記局員の安斎庫治、福田正義ら親中国系分子多数の除名処分を行った。この波紋は、日中友好団体、商社などにまで及んだ。こうして、構造改革系の春日(庄)派、親ソ系の志賀派、神山派に続いて親中派諸派が放逐されることになった。結果的に、「50年分裂」時代の旧国際派のうち宮顕派のみが勝ち残ることになり、宮顕独裁体制が完了した。以降、日共内に語るに足りる路線対立は発生せず、宮顕派内の茶坊主間の内紛のみが椿事として勃発していくことになる。

 【明大、中大闘争、その他諸大学で大学紛争始まる】  

 11月、全明大臨時学生大会が開かれ、賛成271.反対138.保留38.棄権1で先制的ストライキに突入した。11.23日、明治大学で学費値上げ反対闘争による和泉校舎封鎖発生。11.30日、明大全学闘争委員会が学費値上げ阻止の大衆団交を行い4千名結集。12.9日、中大自治会が「学費値上げ反対、学生会館の学生管理・処分撤回」を要求して全学スト突入。社学同の指導によって最終的に大学側に白紙撤回の要求を認めさせるという学生側が勝利を飾った。  

 12.9日、中大自治会、学費値上げ反対、学生会館の学生管理・処分撤回を要求して全学スト突入。社学同の指導によって最終的に大学側に「学生の自主管理」を認めさせ、処分の白紙撤回を勝ち取るという学生側が勝利を飾った。その他にも関西学院大や西南学院大では学部新設反対の闘争が起こり、また各医大ではインターン制反対闘争が続いており、東京医歯大はストに突入といった状況を現出しつつあった。

 【全学連(三派)再建大会開催】   

 12月、既に三派都学連を結成させていた新三派連合(社青同解放派・ 社学同・中核派)は、明治大学で全学連再建大会を開き、この頃ML派なども合流させた上で三派系全学連を結成 した。これで三つ目の全学連の誕生となった。35大学.71自治会・178代議員他1800名。この時、党派はそれぞれの色のヘルメットを着用した。これが学生運動でヘルメットが着用された最初となった。  

 この「全学連再建大会」は結成されたものの呉越同舟的な寄り合い所帯の諸問題をはらんでいた。まず、再建大会を第何回大会として位置付けるかをめぐって対立したことにより明示できなかった。何時の時点で破産したかの認識が異なっていたからであった。なお、60年安保闘争の総括が蒸し返され見解が一致しなかった。こうした対立を乗り越えて、総括を中核派の秋山勝行が、状勢分析を社青同の高橋幸吉が、行動方針を社学同の斎藤克彦という分担制で妥協しつつ何とか「三派系全学連」の結成に漕ぎ着けるという多難な出航となった。人事には各派のバランスが図られ、委員長にはブントの斉藤克彦氏、書記長には中核派の秋山勝行氏、副委員長社青同解放派の高橋、社学同の蒲池氏が選出された。中央執行委員数も各派それぞれ9名ずつのバランスを配慮していた。翌 67.2.19日、斉藤氏が失脚し以降中核派の秋山勝行氏が委員長に就任する。  

 この時の議案書は次のように宣言していた。概要「全学連とは、結成されてよ り今日まで、どのような紆余曲折があれ、それは日本の闘う学生・人民の砦であった。日本労働者階級、全ての人民の闘いに全学連の旗が立たなかったことはない。(中略)50年のレッド・パージ阻止闘争を見よ! 56年の砂川を! 60 年の安保を! 全学連の闘いは、常に、日本労働者階級と共にあり、その先頭に立った。(中略)我々再建全学連は、その輝かしい闘いの歴史に恥じず、今まで以上にその闘いの方向に向かって、怒濤の如く驀進して行くだろう」(新左翼20年史67P)。  

 こうして、この時期全学連は、革マル派、民青同、新三派系の三つの全学連を誕生させることとなった。そのうち三派系全学連が最も行動的な全学連として台頭していくことになり、この過程で中核派の主導権掌握がなされていくことになった。この頃よりベトナム戦争が本格化していき、これに歩調を合わすかの如くベトナム反戦闘争に向かうことになった。

 【1966年、自治会執行部の争奪の動きとその関連】  

 1966(昭和41)年頃の各派と傘下自治会、活動家、動員力は次のようになっていた。
党派  傘下自治会 活動家 動員数
民青系  以下に記すその他の自治会
革マル派  30自治会。早大(一文.二文.一商.二法).金澤大(教養).鹿児島大.宮崎大.奈良女子大.法政(二部).岐阜大.秋田大(学芸)等 1800 3500
中核派  36自治会。立命大(経).京大(医).三重大.法政大(文.経).山梨大.横浜国大(教養.経.教.工).広大(教養.工)等 2000 6500
社学同  41自治会。東京医歯大.京大(文.教育.農).京都府立医大.桃山学院大.専大.小樽商大.東大(医).中大.明大.同志社大(文.経.商工).滋賀大(経).和歌山大(経).大分大(経).徳島大.香川大(除教育).富山大(教養).法政大(法).お茶の水大等 1500 4200
ML派  4自治会。 400 1300
社青同解放派  19自治会。早大(一政.二政).東女大.関大(法).関学大(法)等 900 2800
社青同協会派  長崎大(経.医).佐賀大
第4インター  6自治会。 300 800
構改派フロント  38自治会。立命館大(法.経営.理工.文).法大(社).新潟大 1000 13600
構改派共青  神戸大全学部。
民学同    阪大(除医).大阪市大全学部.岡山大(中執).関学(中執)

 15章 7期その2 1967  激動の7ヶ月  

 【この当時の学生運動党派状況】  

 この当時の学生運動の流れを概括しておくと、大雑把に見て「五流派」と「その他系」に識別できる。「五流派」とは、組織の大きさ順に民青同派、中核派、革マル派、社青同、第二次ブントを云う。「その他系」とは、ベ平連系、構造改革派系諸派、毛派系諸派、日本の声派民学同系、アナキスト系諸派の他ノンセクト・ラジカル等々であり、これらが混在することになる。ここで「当時の五流派その他系」の特徴付けをしておこうと思う。  

 識別指標は様々な観点から可能である。第一に「日本共産党の指導下に有りや無しや」を指標とすれば、指導下にあるのが民青同のみであり、日共の党本部のある「代々木」を指標としてこれを「代々木系」と云う。これに反発するセクトを「反代々木系」と識別することができる。主にブントがこの意識を強く持つ。革共同系は、左翼運動の歪曲として「日共スターリニズム打倒」を標榜するところから「日共」と呼び捨てにすることとなる。筆者は、宮顕下の共産党は共産党に値せずとして「日共」と識別する。  

 但し、この分け方も「日共」の打倒を観点とする立場と、「代々木」を正確には「宮顕執行部の指導下の日共」と理解し「日本共産党」の正当性系譜を争う構造改革派系諸派、毛派系諸派、民学同系とは趣が異なる。社青同解放派は社会党出身であるからまたニュアンスが異なるという風な違いがある。「代々木系」の民青同及び「元代々木系」の構造改革系派、民学同派は概ね非暴力革命的議会主義的な穏和主義路線を、それら以外の「反代々木系」は概ね暴力革命的街頭闘争的な急進主義路線を目指したという特徴がある。これによって「反代々木系急進主義派」は過激派とも呼ばれることになる。  

 第二に、「トロツキズムの影響の有りや無しや」を指標とすれば、「代々木系」、「元代々木系」、毛派系諸派らのトロツキズムの影響を受けないセクトを「既成左翼」と云い、その影響を受けた革共同系及びブント系を「新左翼」と言いなし識別することも可能である。但し、この分け方による場合、お互いを「新・旧」とはみなさないので、既成左翼側が新左翼を評価する場合これをトロツキストと罵り、新左翼側が既成左翼を評価する場合スターリニストと雑言する関係になる。  なお、毛派系は「トロツキズム」に替わるものが「毛沢東思想」であり少々ややこしくなる。「毛イズム」はスターリニスト的な系譜で暴力革命的急進主義路線を志向しており、既成左翼の側からは暴力革命路線でもって十把一からげでトロツキスト的に映り、新左翼側からはスターリニストには変わりがないということになる。社青同系の場合もこの範疇で括りにくい。スターリニズム−トロツキズム的なイデオロギーの濃いものを持たず、運動論的に見て穏和化路線を追求したのが社青同協会派であり、急進主義路線を選択したのが社青同解放派と識別することができる。その他ベ平連系はそもそも左翼運動理論に依拠しない市民運動を標榜したところから運動を起こしており、市民的抗議運動として運動展開していった風があるのでこれも括れない。  

 第三に、「本家意識の強い純血式運動路線に拘りを持つや否や」を指標とした場合には、運動の盛り上がりよりもセクト的な党派意識を優先する方が民青同、革マル派であり、その他諸セクトは闘争の盛り上げを第一義として競り合い運動による共同戦線運動を可能にしたという違いがある。つまり民青同、革マル派は党派的に排他的非共同戦線運動型であるということに共通項が認められ、これらを除いた他の諸セクトは課題別の共闘組織を組み易い共同戦線運動可能型の党派であったという識別も可能である。なお、この仕訳とは別途のさほどセクト的な党派意識も持たず共同戦線運動型ともなじまなかった突出型の毛派系、ブント赤軍系、アナーキスト系らも存在した。実に左翼運動もまたややこしい。  

 あるいは又日本国憲法を主幹とする「戦後民主主義を護持しようとする意識が有りや否や」の観点を指標とする区分もできる。穏和化路線に向かう党派はこれを肯定し、急進主義路線を志向する党派はこれの欺瞞性を指摘するという傾向にある。ただし、70年代半ば以降のことではあるが、超過激派と云われる日本赤軍の一部グループは護憲傾向と民族的愛国心を運動の前提になるものとして再評価しつつある点が異色ということになる。  

 筆者には、これらの違いは理論の正当性の是非もさることながら、運動を担う者たちの今日的に生物分子学で明らかにされつつある或る種の気質の差が介在しているようにさえ思われる。理論をどう構築しようとも、理論そのものは善し悪しを語らない。理論の正しさを主張するのはあくまで「人」であって、「人」はその人の気質性向によって好みの理論を採用する。理論の当否は、理論自身が生み出す力によって規定されるとはいえ、現象的にはそれを信奉する人の量と質によって実践的に検証される、という関係にあるのではなかろうか。  

 であるが故に、本来理論の創造性には自由な空気と非暴力的相互批判の通行が担保されねばならない、と考える。これは筆者の経験からも言えるが、セクト(一般に組織)には似合いの者が結集し縁無き衆生は近寄らず、近寄ったとしても離れるということが法則であり、事実あの頃の筆者は一目で相手が何系の者であるかが分かった。この体験からそういう気質論に拘るようになった。これは政治のみならず宗教であれ業種、会社であれ趣味であれ、有効な根底の認識となって今も信奉している。

 【明大闘争】

 1967(昭和42).1.20日、明大学費値上げ大衆団交に1万5千名。1.28日、明大で、スト収束をはかろうとする全学闘書記局と闘争継続を叫ぶ闘争委員が対立するという事態が発生している。以降泥沼化し、右翼的体育会系、機動隊の乱入と闘争委側との抗争が続き、2.2日、大内委員長及び介添え役としての斎藤全学連委員長立会いの下で当局と妥結調印した。こうして明大闘争はボス交によって決着したが、この経過が問題とされ斎藤全学連委員長の失脚へと向かうことになる。

 【三派系全学連委員長に中核派の秋山勝行氏が就任する】 

 2月、全学連(三派系)拡大中央委〔早大〕で、斎藤克彦委員長(明大.社学同)が罷免され、秋山勝行(横浜国大.中核派)が新委員長となり新執行部を選出した。

 【「善隣学生会館事件」発生】

 3月、「善隣学生会館事件」が発生している。ここでは概要を記しておく。日中友好の砦であった善隣会館で、日中友好協会を廻り日共党員と中国人留学生が衝突、日共系が棍棒部隊を動員したため中国人留学生に負傷者が多数発生した。社学同ML派系学生らが支援闘争展開した。「善隣学生会館事件」とは、1965年頃までは友好関係を維持していた日本共産党と中国共産党の関係が、1966年の中国での文化大革命の発生と共に急速に悪化し、断絶状態に至ったのに伴い、日中友好運動に大きな混乱が発生し、善隣会館の争奪戦となった事件を云う。

 【人民日報の日共批判、日共が中共の毛沢東派批判】

 3月、人民日報が、「日本共産党は、米日反動派、ソ連と結託した修正主義分子」、「中日友好と貿易を発展させるためには、米帝国主義、日本の反動派、ソ連現代修正主義グループ及び日共修正主義指導分子と断固として徹底的に闘わなければならない」とする主張を掲載した。これに対し、赤旗が、「中共は、反米帝の国際統一戦線に反対し、日本人民の解放闘争の諸条件を分析することもなく、選挙闘争を事実上否定する大国主義、極左冒険主義、分裂主義である」と反論した。

 4月、赤旗評論員論文「極左日和見主義者の中傷と挑発−党綱領にたいする対外盲従分子のデマを粉砕する」を発表(「4.29論文」)。公然と毛沢東指導部を批判、人民民主主義権力への過渡的形態としての「連合政府樹立論」を打ち出した。これに対し、議会主義的クレチン病という批判が為された。

 これについて筆者は思う。論文執筆者は不破と思われるが、不破は、戦後議会制民主主義のプレ社会主義性について言及するべきところ、この観点は微塵も無く、戦後日本のブルジョワ議会制を格別評価する体裁で擁護している。ここに、不破理論の犯罪性を認めるべきと思う。補足すれば、「議会主義的クレチン病批判」も没理論的過ぎよう。

 【「第7回6.15記念集会」】

 6.15日、「第7回6.15記念集会」が各派により開催される。ブントが電通会館に8百名、中核派が九段会館に2千名、社青同解放派が両国公会堂に4百名参加。ほかに社学同ML派が明大、革マル派が早大、アナーキスト系が各派が豊島振興会館に都内六カ所で六党派が独自集会、総参加者は約5千名。6.18日、「人民日報」は、次のような談話を発表している。「樺美智子は日本の反動派に殺害されたが、彼女は今なお日本人民の心の中に生きている。それにしても憤慨に堪えないのは、一握りの日本共産党修正主義分子が、意識敵に事実をねじまげて再三流言蜚語を飛ばし、恥知らずにもこの民族的英雄を『トロツキスト』であると侮辱したことである。現代修正主義者は、自ら革命をおそれる一方、他人にも許さない。彼らは、革命の原則を堅持し、敢然と革命をやる者には誰でも『トロツキスト』のレッテルを貼り付け、革命者を『反革命』に仕立てる恥知らずな腕前を持っている」。  

 【新三派系全学連定期全国大会開催される】  

 7月、新三派系全学連定期全国大会。44大学(結成時35大学)・85自治会(結成時71自治会)・275代議員(結成時178代議員)、他に168評議員.21オブザーバーの1500名が参加。新三派系が勢力を扶植しつつあったことが分かる。主な演説は各派が分担し、運動総括は中核派の秋山委員長、状勢分析は社学同の成島忠夫、運動方針は社青同の高橋幸吉が行い、秋山委員長を再選した。副委員長は、成島忠夫(静岡大.社学同).蒲池裕治(同志社大.社学同)、書記長に高橋幸吉(早大.社青大)を選出した。中大連合自治会の加盟承認、都交通局合理化反対・佐藤訪ベト阻止等を決議。  

 但し、新三派系全学連の蜜時代はここまでであり、これ以降中核派の台頭が著しくなっていくことによってかどうか、翌68.7月、中核派は自前の全学連結成大会を開催し分岐独立することになる。同月反中核派連合の社学同「統一派」、ML派、社青同解放派、第4インターなども又反帝全学連第19回全国大会を開催し、反帝全学連を発足させることになった。ところが、この反帝全学連も社学同と社青同解放派間の対立が激化し、翌69.3月社学同側が単独で大会を開催し社学同派全学連を発足。7月には社青同解放派が単独大会を開き、解放派全学連として独立することになる。解放派全学連は現在でも明治大学を拠点としている。  

 こうして、革マル派は革マル派全学連を、民青同は民青同系全学連を、中核派は中核派全学連を、ブント各派は社学同全学連等を、社青同解放派が全国反帝学生評議会連合(反帝学評)及び解放派全学連を結成し、併せて5つの全学連が揃い踏みすることになるというのが67〜69年の学生運動の流れ となる。なお、社学同派全学連はわずか3ヶ月後に内部での内紛が激化し分裂していくことになる。12月、社青同解放派が「反帝学生評議会」(反帝学評)を結成する。

 【「法政大事件」発生】

 9月、「法政大事件」が発生している。これは民青系と反代々木系が法学部の自治会執行部の正統を争い、前年より決着がつけられないままに至っていた。この状況から学部当局が自治会費を「凍結」していたことに端を発する。民青系と反代々木系の間に暴力事件が発生し「制止に入った教職員を含め、民青同側に約30名の重軽傷者を出すに至った」。9.8日処分が発表された。反代々木系はただちに「不当処分撤回全学共闘会議」を結成し、9.8日より大衆団交に入った。これがこじれて機動隊が導入され、反代々木系学生全員285名が検挙された。この時の機動隊の殴る蹴るが後々重要な意味を持つことになった。これを「法政大事件」と云う。

 【第一次羽田闘争、京大生山崎博昭氏が警備車両に引かれて死亡する】  

 佐藤栄作首相の南ベトナム訪問が発表され、三派全学連はこれを実力阻止する方針を打ち出した。ベトナム戦争の激化に伴い安保体制の下で参戦国化しつつあった佐藤政府に対する抗議を旗印に反戦青年委員会を巻き込みながら闘争が組織化されていった。  

 10.8日、武装した三派全学連と革マル派全学連の部隊は羽田空港へと向かった。社青同解放派9百名、中核派1千名、革マル派4百名がそれぞれ機動隊と激しく衝突した。機動隊は60年安保闘争以来初めてガス弾を使用した。この時、中核派のデモに参加していた京大生山崎博昭氏が警備車両に引かれて死亡するという事件が起こった。北小路敏元全学連委員長ら58名が逮捕された。結果として佐藤首相は羽田を離陸したが、これが「第一次羽田闘争」と云われているものである。この闘いが60年安保闘争後の低迷を断ち切る合図となって新左翼運動が再び盛り上がっていくこととなった。そういう意味で、「第一次羽田闘争」は「革命的左翼誕生の日」として新左翼史上に銘記されることとなった。  

 また、ヘルメット・角材などが初めて最初から闘争の武器として用意され闘われたという点でも転回点となった。これは65年あたりから機動隊の装備が向上し、装甲車、高圧放水車、ガス銃、防石面つきヘルメット・ジュラルミン盾などが登場していたという背景と関連していた。この間の機動隊によるデモ隊の「先制的並列サンドイッチ規制」がデモ隊に無力感を与え、いずれ闘争現場で乱闘することが双方明白になっていた。学生側には、機動隊のこの規制をどう打ち破り、壁を如何に突破するかという対応が課題となり、遂にこの頃から学生運動急進主義派の方もヘルメット、タオル覆面、ゲバ棒という闘争スタイルを編み出していくことになった。「直接行動ラジカリズムの全面展開」、「組織された暴力の公然たる登場」とも云われている。この闘いを一つの境として、全学連急進主義派は自衛武装の時代からこの後街頭実力闘争へ、更に解放区−市街戦闘争へ、更に爆弾闘争へ、ハイジャックの時代へと突入していくことになる。なお、この日、民青同系全学連は、形だけの代表数十人を羽田に派遣しただけだったと云われている。あいにく「赤旗祭り」が多摩湖畔で開かれていた。

 【激動の7ヶ月諸闘争】  

 これより以降の7ヶ月は後に「激動の7ヶ月」と云われるて街頭実力闘争の連続となる。ベトナム反戦闘争、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、王子野戦病院建設阻止闘争、三里塚空港阻止闘争、第二次羽田闘争へと立て続けに闘争が爆発していくことになる。この闘争を通じて三派全学連の特に中核派の行動が目立った。  この頃から「ヘルメット、タオル覆面、角材ゲバ棒」という闘争スタイルが定着した。この闘争スタイルは、当時の法規制すれすれの自衛武装戦術であり、これを牧歌的といって了解することが適正であるかどうか疑問も残るが、この頃の政府自民党、警察警備隊指揮者にこれを許容するなにがしかの思いがあり、そう云う意味では取締り側にも手綱を緩める度量があったのかも知れない。  

 そういう「牧歌的のどかな時代」が許容した範囲において、秋山勝行委員長の下で新三派系全学連は機動隊に突進していく闘争を展開していくことになった。これに対して、警察はこれを実地訓練と見、またどんどん逮捕して保釈金で財政的にも締め上げ弾圧していく。しかし、それでも闘争が闘争員を生みだし、新三派系全学連が急速に力を増していくことになった。中でも中核派の伸張が著しく、反代々木系の最大セクトに成長していくことになった。これについて、筆者はかく思う。限定付きでは有るが、良く闘ったという意味で称賛されるべきであろう。

 【第二次羽田闘争】  

 11.12日、佐藤訪米実力阻止闘争(第二次羽田闘争)。社学同.社青同解放派は前夜中大に終結し、中核派も合流し東大に籠城した。この時も三派全学連3千名が羽田空港近くの大鳥居、羽田産業道路付近で機動隊と衝突した。羽田付近に到着した反中核派連合は、丸太をかかえた「決死隊」を先頭に、機動隊の阻止線を突破、激突をくりかえした。空港付近で機動隊と激しく衝突。学生運動史上最高の333名を越す大量検挙となった。  反戦青年委員会主催の決起集会も、日比谷野外音楽堂に5千人を集めて行われた。革マル派は東粕谷中学校に結集、穴守橋へと向かったが、機動隊のサンドイッチ規制で、平和島までひきかえした。民学同・フロントなどの構造改革派系学生も別行動で参加しデモ。民青同系も約200名がゲート前で「佐藤訪米反対」を唱えている。  

 この時の特徴として、機動隊側の装備の格段の充実が為され、検問強化.催涙ガス弾の容赦ない発射を浴びせられている。しかし、三派系は第一次、二次羽田闘争を高く評価し、ゲバルト闘争に自信をもたらし、「守りの運動から攻めの闘争へ移行し、定着した」と総括している。その一方で、各党派は、羽田闘争の評価をめぐって数多くの論争を産みだし、新たな党派の再編と分岐を準備する前段になった。中核派、社学同、ML派は、街頭実力闘争を評価し、「組織された暴力とプロレタリア国際主義の前進」(社学同)、「武装することによって7ヶ月の激動を勝利的に展開し、70年安保闘争を切りひらいた」(中核派)などと総括した。一方、革マル派、構改諸派は「街頭実力武装闘争は小ブル急進主義」とし、組織的力量を蓄えていくことの方が重要であると主張した。また、社青同解放派は「いったん持ったゲバ棒を二度と手放そうとしないのは誤りである。問題は街頭のエネルギーを生産点に還流し、労働者と結合していくことが重要」と総括した。


 12.1日、中核派機関紙「前進」紙上での秋山委員長の発言は次の通り。概要「羽田闘争の衝撃が大きかったのは偶然ではない。支配階級にとっては『革命を現実的なものとして恐怖』し、死に物狂いで反撃に転じさせると共に、闘う側にとっても闘いは単なるおしゃべりや空想の産物であることを止め、勝利か敗北か、生か死かを究極にまで突き詰めることを要求されるのである。そうした意味で、羽田闘争は社共など公認の既成指導部のあらかじめ敗北した運動を乗り越える地平にある。(中略)羽田の闘争が示したものは、スターリン主義の決定的反動性である。日本共産党が果たした犯罪的役割には計り知れない程である。羽田闘争の最も重大な核心点の一つを為す官憲の虐殺行為に対しても、権力に手を貸し、闘う学生の死をあざ笑っているのだ。我々は絶対に許すまい。(中略)エセ『共産主義』国の反動的本質を今こそ決定的に打倒しなければならない。学生戦線における民青『全学連』の反動性を全大衆の力で暴露し、羽田を闘い得ず、逆に闘いに襲い掛かる彼らを徹底的に追放しよう」。

 【エンプラ寄港阻止闘争始まる】

 12.2日、政府はこの日の閣議で、アメリカ第七機動艦隊の旗艦原子力空母エンタープライズの日本寄港を了承した。エンタープライズは加圧水式原子炉8基を推進力とし、戦闘機など70〜100機を搭載する巨大原子力空母であった。政府は当初予定していた横須賀を避け、佐世保を寄港地に決定した。以降、寄港阻止闘争が始まる。12.4日、全学連(三派系)が清水谷公園でエンプラ寄港阻止決起大会を開催し、4百名結集、集会前、中核派と社青同解放派が衝突、米大使館デモ。

 【中核派が全学連主流派大会開催、社青同解放派が反帝学評を結成】

 12月、中核j派が、法政大・板橋区民会館で、秋山委員長、青木情宣部長(広島大)、金山克己中執委員らを迎えて単独で全学連主流派大会を開く。中核派の千名が参加し、エンプラ寄港阻止佐世保現地闘争を第三の羽田≠ニして闘うことを決議、現地派遣団の組織化・越冬体制を決定。

 12月、社青同解放派が、全国反帝学生評議会(反帝学評)を結成し、早大で大会を開催した。48大学代表の4百名が参加し、反戦・反ファッショ・反合理化闘争推進等を決議(議長・三井一征)した。