ブック上巻2(4期その1から5期その3まで)

 5章 4期その1 1956  反日共系全学連の登場  

 【志田追放される】

 1956(昭和31).1.6日、六全協仲間とも云うべき中央常任幹部会員で書記局員でもある徳球系の志田重男が突然失踪した。これにより宮顕派の党内壟断が加速した。

 【「フルシチョフ・テーゼ」、「スターリン批判」の衝撃】  

 2月、ソ連共産党20回大会でフルシチョフ第一書記によるレーニン、スターリン理論に大胆な修正を加えた平和共存政策「フルシチョフ・テーゼ」が打ち出された。続いて「スターリン批判」が発表された。党中央は、「フルシチョフ・テーゼ」に対する理論的対応ができず、「スターリン批判」に対してもマルクス・レーニン主義運動の根本的見直しや国際共産主義運動の捻じ曲げに対して対自的に洞察する理論的解明を為し得なかった。  

 宮顕は、「スターリニズム的個人指導が単に集団指導に訂正されただけのことであり、我が国では六全協で既に解決済みである」と安心立命的に居直りさえした。そればかりか「スターリン批判」究明の動きを「自由主義、清算主義、規律違反」等の名目で押さえていくことになった。こうした宮顕式統制対応はとうてい先進的学生党員を納得せしめることができなかった。これらの出来事が党の無謬性神話を崩れさせることになった。  

 【「8中委.9大会路線」の確立、全学連再建】  

 4月、全学連第8回中委が開かれ、宮顕が敷いた先の7中委イズムを「学生の力量を過小評価した日常要求主義」と批判し、「層としての学生運動論」を創出しつつ戦闘的平和擁護闘争を志向する「闘う全学連再建」の基礎をつくった。これを「8中委路線」と云う。全学連と反戦学同は、これを契機として政治闘争を志向する戦術転換を行ない、急速に組織を立て直していくことになった。折から国会に上程された56年前半の小選挙区制導入反対闘争が解体に瀕していた全学連の息を吹き返させていくこととなった。

 【全学連第9回大会】

 6月、全学連第9回大会を開催した。大会は、委員長・香山、副委員長・星宮、牧、書記長・高野らの四役を選出した。北大から小野が中執となった。こうして、全学連は、急進主義的学生党員活動家の手により、党中央の指導を排して自力で再建されていくことになった。この大会で、この間の闘争を通じての「国会及び国民各層との連帯促進」、「総評・日教組・文化人らとの強力強化」、「自治会の蘇生」を評価し、この方向での運動強化が確認された。これを「8中委.9大会路線」と云う。

 全学連はこの時期、業料値上げ反対闘争、教育三法反対闘争、56年秋の砂川闘争、57年夏の第三次砂川闘争、57年後半の原水禁運動などに党の指導を離れた独自の全学連運動を組織して行くことになった。但し、この時点ではなお党の指導の精神的影響は大きく、原水禁運動でソ連の核実験の賛否をめぐって混乱を生じさせ、党がソ連の核実験を擁護していたことにより原爆にもきれいなものとそうでないものがあるとか妙な弁明をせねばならないということにもなった。

 【日共が再度野坂式平和革命路線を打ち出す】

 6月、日共は、参院選挙投票の直前の第7中総で、「独立.民主主義のための解放闘争途上の若干の問題について」を採択し発表し、革命の移行形態の問題について51年綱領の「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」という部分を概要「サンフランシスコ講和会議以後の情勢の変化によって、議会を通じて民主主義的民族政府を樹立する可能性ならびに社会主義への平和的移行の可能性が生まれてきた」と再び野坂式平和革命路線に改訂した。これについて筆者は思う。日共は以降、選挙のたびに票狙い右傾化路線に向かうことになる。

 【経済企画庁が「経済白書」で「もはや戦後ではない」宣言】

 7月、経済企画庁「経済白書」(後藤誉之助調査課長)で、「もはや戦後ではない」と新た経済目標提示(「日本経済の成長と近代化」)→高度経済成長の出発を次のように宣言した。「もはや戦後てはない。我々は今や、異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」。これについて筆者は思う。ここに至るまでの戦後復興は世界の奇跡と云われるに値するものであり、日本左派運動と何の関係もなく獲得されたものであり、これを正しく評価すべきであろう。

 【砂川基地反対闘争】  

 9月、第二次測量開始が予測される中、全学連は、砂川基地反対の闘争宣言を発して現地闘争本部を設置し、地元農民、支援団体と協力しながら闘いを組織した。10月になると学生は続々と現地に乗り込み、全国から3千名を現地動員し、農民.労働者と共に泊り込むこととなった。10月、立川基地拡張の第二次強制測量が始まる。これを阻止せんとして反対同盟員、学生、労働者らが警官隊と衝突、多数の負傷者、逮捕者を出した。10.14日、鳩山内閣は遂に測量中止声明に追い込まれた。この報に接した砂川町は、「勝った」、「勝った」の歓声で、五日市街道はどよめき、喜びと化し、「ワッショイデモ」が繰り広げられた。「砂川基地反対闘争」は、全学連にとって、50年秋の反レッド.パージ闘争以来の勝利であり、学生運動史上歴史に残る輝かしい闘いとなった。地元農民、市民、労組等々の共同戦線運動による成果であり貴重な経験となった。

 【森田派と高野派が対立】  

 1956年秋、全学連は砂川闘争に取り組む過程で、砂川闘争を指導した東大系の全学連再建の功労者にして日共からの自律化を押し進めようとする森田-島派と、学連書記長で早大系にして日共宮顕指示を仰ぐ高野派が対立し始めた。旧帝大の雄・東大と私立の雄・早大の反目も関連していた。この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては日常的な大衆運動の進め方の対立まで至った。この時有名な「孫悟空論議」が為されている。「孫悟空論議」とは、砂川における学生の活動に対して、高野が主張した「総評・社会党幹部という釈迦(世界情勢)の掌で踊った孫悟空に喩え、『極左冒険主義』の危険をはらむもの」とする論で、これに森田が「運動における学生層の役割を過小評価するものとして非難応酬」した。その経過の論争を云う。

 こうして、全学連内部に宮顕系日共派とこれに反発する急進派が誕生することになった。全学連再建後の学生運動内部に早くも非和解的な二潮流が分岐していくことになった。この二つの潮流は激しく論争をしながらその後交わることはなかった。学生党員グループの急進派は、この間の日共指導による引き回しに嫌気が差し、もはや日共の影響を峻拒し自律化せしめようとし始める。以降、学生党員グループのこの動向が全学連運動の帰趨を決めていくことになる。この連中が闘う全学連の再建目指して胎動していくことになる。


 【日ソ交渉】

 10月、鳩山全権団が訪ソし、日ソ交渉が始まった。10.19日、鳩山全権団は、北方領土問題を棚上げしたまま10項目からなる日ソ国交回復の共同宣言を締結した。

 これについて筆者はかく思う。現在、北朝鮮との国交回復が難航しているが、その最大要因は万事に於いて米帝拝跪のお伺い最優先政策にあると思われる。それを思えば、鳩山政権の日ソ交渉、佐藤政権の日韓交渉、田中政権の日中交渉の有能さを認めねばなるまい。ここの内容の条文論議はともかく、かく構図を定めねばなるまい。上記三交渉はいずれも独立主権国家としての主体的な国交回復交渉である。しかしながら、日本左派運動は、特に日韓交渉に対して激しい反対闘争を繰り広げていくことになる。それは何でも反対する悪しき慣例ではなかろうか。現在の日朝交渉の頓挫を思うにつき一言しておく。

 【「ポーランド・ハンガリー事件」】  

 10-11月、ポーランド・ハンガリー事件が起こった。非スターリン化の波が東欧を襲い、非スターリン派のナジ=イムレ首相登場により事態収拾させていたところ、11.1日、ナジがワルシャワ条約機構からの脱退と中立を宣言したことにより、これを危惧したソ連が再び介入に踏み切り、ナジ政権の閣僚全員が逮捕されカダルを首相とする新政権が成立した。ブダペスト市民はソ連軍に市街戦を展開したが、多くの死傷者を出して約2週間後に鎮圧された。ハンガリー反ソ暴動はソ連の覇権主義がスターリン批判後も変わらないことを示した出来事となり、世界中に大きな衝撃を与えた。   

 日共は、ポーランド・ハンガリー事件に対するソ連軍の行動を、「帝国主義勢力からの危険な干渉と闘う」としてソ連の武力介入を公然と支持した。但し、党員の中にはマルクス主義理論及び実践の根源的再検討を要する事象として受け止めようとする者も輩出した。党中央はこの動きに対して、「自由主義的分散主義」、「清算主義」などのレッテルを貼り、官僚主義的統制で対応していった。このことが、党員学生たちの憤激を呼び党から離反させる契機となった。こうした一連の「衝撃、動揺、懐疑、憤激」を経て、全学連の幹部党員の間には、もはや共産党に見切りをつけて既成の権威の否定から新しいマルクス主義本来の立場に立った運動組織を模索せしめていくことになった。この時既に学生党員が自らの見識を獲得していたということでもあろう。

 【「民青同」発足】

 11月、日本民主青年同盟(「民青同」)が発足している。民青同は、「マルクス・レーニン主義の原則に基づく階級的青年同盟」の建設の方向を明らかにしていたが、進行しつつある反党的全学連再建派の流れと一線を画し、あくまで日共に帰依し宮顕指導下で青年運動を担おうとした穏健派傾向の党員学生活動家が組織されて行ったと見ることができる。いわば、愚鈍直なまでに戦前戦後の党の歴史に信頼を寄せる立場から党の旗を護ろうとし、この時の党の指導にも従おうとした党員学生活動家が民青同に結集していくことになったと思われる。

 【上田・不破兄弟の「戦後革命論争史上下2巻」発刊と著者剽窃疑惑】

 この頃、上田耕一郎名義で「戦後革命論争史上下2巻」が大月書店から刊行された。同書は当時の左派運動圏からの反応がよく、上田・不破兄弟登竜の足掛かりとなった点で大きな意味を持つ。ところが、上田・不破両氏はその後絶版を指示して今日に至っている。これについての裏話が最近判明した。宮地氏が「「共産党問題、社会主義問題を考える」の「上田・不破『戦後革命論争史』出版経緯」の中で明らかにしている。それによれば、上田と不破がこの労作を書き上げたとされてきたが、石堂清倫氏が次のように告発証言している。「あれは、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦、私とで「戦後日本の分析」研究会を開き、数ヶ月十数回にわたる討論の成果を世に送り出したものです」。これについて筆者は思う。上田・不破兄弟は、「石堂清倫、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦共同労作の手柄の横取り」をしていることになる。こうした履歴を持つ不破が、よりによって道理道徳を説くのを好むのはどうした訳だろうということになる。

 6章 4期その2 1957  革共同登場  

 【トロツキズム登場、第四インターナショナル日本支部準備会結成される】  

 1956年頃、日共のエセ共産党運動、国際共産主義運動の変調を背景として新左派潮流が誕生することとなった。これを一応新左翼と称することにする。新左翼が目指したのは、ほぼ共通してスターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰であり、必然的にスターリンと対立していたトロツキーの再評価へと向かうことになった。この間、国際共産主義運動においてトロツキズムは鬼門筋として封印されていた。つまり一種禁断の木の実であった。
日本共産党の六全協後の頃より、トロツキズムの研究が盛んになり始めた。このグループを早い順に記せば、山西英一らの三多摩グルー プ、対馬忠行、太田竜(栗原登一)、内田兄弟らの「反逆者」グループ、黒寛グループ、現状分析研究会、大池文雄グループ等が認められる。  

 1957.1月、黒寛、内田英世、太田竜の3グループにより「日本トロツキスト連盟」(第四インターナショナル日本支部準備会)が結成され、日本左派運動に於ける最初となる日本トロツキスト運動が生まれることとなった。連盟機関紙として「第四インターナショナル」、理論誌として内田兄弟の「群馬政治研究会」が発行していた「反逆者」を継続した。とはいえ当初は思想同人的サークル集団であった。

 【日共第2回東京都党会議事件】  

 3月、日共内に注目されるべき事件が発生している。第2回東京都党会議は、六全協以後の党中央の指導ぶりに対する批判と追求の場となり大混乱に陥った。批判派が、この間の党中央の分裂経過につき責任を明確にせよと迫り、このため党中央を代表して出席していた野坂、宮顕、春日(正)らが壇上で立ち往生させられた。都委員会の選挙では、批判派の元全学連委員長武井らが都委員に19名中10名、都書記にも批判派の芝寛が選出されることになった。この結果に対し、宮顕は「中央の認めない決議は無効だ」として居直った。  

 これについて筆者は思う。宮顕組織論の本質はこういう危機の場合に露呈する。「中央の認めない決議が無効だ」とすれば、党内民主主義も何もあったものではない。党中央へのイエスしかできないということになる。こういう史実を踏まえて「民主集中制論の是非」を問わねばならないのではなかろうか。この経過を見て注目されるべきことがもう一つある。かっての全学連結成期の指導者であった武井、安東らが、この時点で批判派として立ち現れてきていることである。武井、安東らは、この間一貫して宮顕派との相呼応して徳球系党中央の指導に楯突き、50年分裂期にもひたすら国際派として宮顕派と歩調を共にしてきた。これを考えると、この頃蜜月時代が終わったということになる。

 【岸政権の登場】  

 3月、石橋首相後継を廻って総裁公選で岸信介が第3代自民党総裁に選出された。A級戦犯「巣鴨組」の戻りには重光、賀屋興宣らがいるが、岸だけが首相の座についたことになる。岸はA級戦犯として収容された巣鴨プリズンから釈放されて8年2ヶ月、代議士になってから僅か3年10ヶ月で権力の頂点に立つことになった。時に60歳、まさに還暦に不死鳥の如く蘇り、「昭和の妖怪」と綽名されていくことになる。  

 これについて筆者は思う。岸は、釈放に当たって国際金融資本機関とエージェント契約していた節がある。それが岸の超スピード出世の裏意味である。日本左派運動は、こういう観点をからきし持っていない。この後、ブントが60年安保闘争を果敢に闘い抜くことにより岸政権を打倒するが、その意義はネオ・シオニズム派エージェントの頭目・岸を引き摺り下ろしたところに歴史的意義が認められるのではなかろうか。


 【第四インターナショナル日本支部準備会内で内田―太田論争発生】  

 ところが、日本トロツキスト運動は、運動の当初より主導権をめぐって、あるいはまたトロツキー路線の評価をめぐって、あるいは既成左翼に対する対応の仕方とか党運動論をめぐってゴタゴタした対立を見せていくことになる。4月~7月頃にかけて、太田の「対馬批判」が始まり、ソ連の位置づけを廻って内田―太田論争が開始された。7月頃、創設者の一人、内田英世が組織を離脱することになった。日本トロツキズム運動史上の第1次分裂とすべきであろう。

 【全学連10回大会】  

 6月、全学連10回大会が開かれ、原子戦争準備政策打破を中心とする平和擁護闘争推進を決議、規約改正(平和と独立強調)等を決定した。全学連はこの大会で「軌跡の再建」を遂げたと云われている。大会は9回大会路線の意義を再確認し、一層政治主義的傾向を強めた。

 日共派の「ストライキをやる目的は良いが、激しい形態をとるべきではない。その手段によって分裂を生む。それよりも集会程度の形態をとって、大勢の学生を集めて決議を行ったほうが効果がある」とする主張に対して、「運動における無原則的な幅広理論であり、主体的条件を変える努力を怠る理論である」と退け、「我々が強力な形態をとればとるほど対決する勢力との矛盾は鋭くなるが、我々の周りに結集する勢力も大きくなる」と闘争の意義を確認し、学生運動が独自に国際国内情勢を分析する能力を持ち、方針を立てていくという自律化を志向した。  

 この時の人事で、委員長・香山健一(東大)、副委員長、小島弘(明大)、桜田健介(立命館大)、書記長・小野田正臣(東大)が選出され、その他森田実、島成郎、牧衰らが全学連中執、書記局に入り、以後全国学生運動の指導にあたることとなった。日共の指示に従う高野派が敗退した。


 【東京タワー建設始まる】

 6月、東京タワーの建設工事が始まった。総重量4千トンの鉄骨組みで地上333mを目指した。当時世界一のパリのエッフェル塔より12m高い自立式鉄塔で、開業したのは翌1958.12.23日。これによりテレビ、ラジオの電波放出が始まり、観光名所ともなった。これについて筆者はかく思う。東京タワーが順調に建設されていく経緯そのものが日本経済の活力と歩調を合わしており、日本左派運動の混迷と駄弁に拘らず戦後日本が再生していった様子を見て取るべきであろう。

 【全学連が砂川基地突入】

 7月、再び砂川基地拡張の強制測量が行われ、夏休み中であったが学生は労働者と共にかけつけ、警官隊と対峙した。この時数十名の学生が、有刺鉄線を切り倒して基地内に突入した。「米軍基地内に初めて日本人が公然と突入した」と気勢をあげた。9月になってこの基地突入者は逮捕され、9名の学生が起訴された。この事件は、東京地裁の判決で、「米軍基地の存在そのものが憲法違反であり、基地への侵入は無罪である」という「伊達判決」が下されたことで画期的な意味を持った。

 【日共の労組闘争圧殺】  

 7月、国労新潟地本が、国鉄当局の春闘処分に対して不当処分として無期限順法闘争に突入した。ところが、国労本部が地本の反対を押し切って闘争中止指令を出し、大田-岩井の総評指導部もこれを支持した。地本は涙を呑んで闘争を打ち切り、当局が処分攻勢に出た。問題は、この時の日共の態度であった。この間全国的に燃え広がる国鉄闘争にダンマリを決め込み、「党創立35周年記事」や「新しい段階を迎える沖縄の闘争記事」で紙面を埋めた。この闘争に始めて言及したのが収拾前で、「問題は、労働者階級の前衛、我が党がこの力量をいかに成長させ、自覚させ、結集させ、発揮させるかにかかっている」、「敵は優勢、味方は劣勢論」と説教し、「闘争は既に収拾の段階に入った」として闘う組合の見殺しに向けて奔走する始末であった。こうして、「労組闘争圧殺に回る日共定式」が確立した。

 【「ジグザグ.デモかバレードか」の対立発生】  

 11月、「ジグザグ.デモかバレードか」を廻って全学連内に対立が発生している。第3回原水爆禁止世界大会の決議に基づく国際共同行動デーとして、全学連は中央集会に参加したあと国会、米英ソ三国大使館に決議文を手交し東京駅までデモした。この時、全学連多数派のジグザグ.デモ指揮に対して、日共系が拒否すると云う事件が起こった。全学連中執は、「階級的裏切り行為」、「分裂行動」であるとして激しく非難し、2名の中執(早大.神戸大)を罷免した。  

 この頃、全学連指導部内には、「現在の情勢はアメリカ帝国主義の核戦争体制が一層強化され国際緊張は激化しつつある。従って、これに対しては激烈な形態で闘争しなければならない」という多数派と、「社会主義勢力の強化によって国際緊張は緩和しつつあり、従って大衆運動は幅広くしなければならない」という少数派の対立が発生していた。こうした認識の違いが行動方針にも反映し、「ジグザグ.デモかバレードか」、「ストライキか授業放棄か」という対立まで引き起こしていた。  

 これについて筆者は思う。全学連指導部はジグザグ.デモを指揮し、宮顕系日共がこれを止めさせようとする。ここに、全学連運動を右翼的指導で統制しようとする「宮顕のジグザグ.デモ規制指導」が刻印されている。してみれば、その後の民青同系の穏和式バレードデモは必然の産物であったことになる。


 【日共の「50年問題総括」】  

 11月、「50年問題」についての総括文書「50年問題について」が発表された。総括は、50年分裂の責任を徳球の家父長的党運営に求めていた。「50年分裂」時代の国際派に対する名誉回復を行い、逆に旧徳球系指導幹部を「規約違反」で批判していた。四全協及びそれ以降の歩みを規約に拠らない非適法の会議としてその効力を正式に否定した。特に宮顕の無謬性を凱歌していた。

 こうした「徳球家父長制批判総括」に対して、伊藤律の次のような徳球像は銘記されるに価するであろう。「徳田というのはガミガミ云うだけで理論も無く、怒鳴りつけて意見を押し付けるなどと宮本たちは云うが、それは労働者の階級的感情というものを全く判らない連中の言い草です。革命の先頭に立った徳田の激励叱咤には、労働者と人民に対する限りない慈しみと励ましの迫力がすごく溢れていました。丁度、雷雨が上がった後の澄み切った青空のように、底抜けに明るく爽快でした」(伊藤律「証言記録.同志長谷川浩を偲んで」)。

 【「64カ国共産党.労働者党会議」】

 11月、モスクワで社会主義革命40周年祝典に合わせての「64カ国共産党.労働者党会議」に、日共を代表して志賀、蔵原が派遣された。「64カ国共産党.労働者党会議の平和の呼びかけ」が採択された。この時、ソ共は、スターリン批判と共に国際的な平和共存を強調し、新しい国際情勢の下での「資本主義国の社会主義への平和的移行の可能性」を提起した。中共がこの方針に反対し意見の食い違いが表面化した。

 【革共同誕生】  

 12月、日本トロツキスト連盟は、日本革命的共産主義者同盟(革共同)と改称した。日本共産党京都府委員の西京司(京大)氏が合流し、その勢いを得てあらためて黒寛、太田竜、西京司-岡谷ラインを中心にした革共同の結成へと向かうことになった。この時点から日本トロツキスト運動の本格的開始がなされたと考えられる。この流れで58年前後、全学連の急進主義的活動家に対してフラク活動がかなり強力に進められていくことになった。この結果、全学連の急進主義的学生党員活動家の一部はこの潮流に呼応し急速にトロツキズムに傾いていくことになった。但し、革共同内は、同盟結成後も引き続きゴタゴタが続いていくことになった。

 これについて筆者は思う。革共同は、「スターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰」を目指し、日共に変わる真の革命党派として日本トロツキズム運動を創始して行くことになったが、「徳球から宮顕への共産党内の宮廷革命」の変調さ告発に向かわず、むしろこれを是認する形でトロツキー理論即ちトロツキズムを憧憬し、返す刀でソ連式スターリニズム批判へと向かった。ここに幾分かの癖を認めるのは筆者だけだろうか。

 【島、生田、佐伯による新党画策】  

 革共同は全学連の掌握に向かったが、この時期の全学連中央を形成しつつあった島-生田らの日共内反宮顕派はこれに合流せず新党派の立ち上げに向かった。12月、島、生田、佐伯の三名は横浜の佐伯の家で秘密会合を開き、新党旗揚げのためのフラクション結成を決意している。彼らは、革共同派とも違う革命理論を創出し始め、12月の大晦日の夜、山口一理論文「10月革命の道とわれわれの道-国際共産主義運動の歴史的教訓」(後に結成されるブントの原典となったと云われている)と生田論文「プロレタリア世界革命万才!」を掲載した日本共産党東大細胞機関紙「マルクス・レーニン主義」第9号を刷り上げた。この論文が全学連急進主義者たちに衝撃的な影響を与えていくことになる。  

 この時のことを島氏は後年次のように追想している。「既に、『スターリン主義』が単なる一思想ではなくソ連という強大な国家意思の実現と、その物質化されたものとの認識に到達した限り、『スターリン主義』日共は最早変え得る存在ではなく、打倒すべき対象であり、欲するところは、これに代わる新しき前衛の創設である。この立場に立った生田は、密かに、しかし容易ならぬ決意を持って『新しき前衛』の準備に着手した。1957年の暮れの或る日、この合議のため生田と私、そしてSが会した場所こそ、9年後、生田の灰を迎えねばならなかったあの横浜の寺の一隅であった。一方、党人としての生田は、この党の行方を見届けねばならぬ故に、六全協後の党内闘争の目標であった日共第7回大会に向け細心の組織化を行い、最も年少の代議員の一人になったのだ」(「生田夫妻追悼記念文集」の島氏の追悼文)。  

 島、生田、佐伯らはこの頃、トロツキー及びトロツキズムとは何ものであるのかについて懸命に調査を開始していった。ご多分に漏れず、彼らもまたこの時まで党のスターリン主義的な思想教育の影響を受けてトロツキズムについては封印状態であった。この時、対馬忠行、太田竜らの著作の助けを借りながら禁断の書トロツキー著作本を貪るように読み進めた。島・氏は、「戦後史の証言ブント」の中で次のように述べている。「一枚一枚眼のうろこが落ちる思いであった。決して過去になったものではない。現代の世界に迫りうる思想とも感じた」。

 7章 5期その1 1958  ブント登場  

  【日本社会主義学生同盟誕生】

 1958(昭和33).5月、全学連の推進体となっていた反戦学同が第4回全国大会を開催した。全学連大会に先立って開かれたこの大会で、反戦学同を発展的に解消し、組織の性格を従来の反戦平和を第一義的目標としたものから社会主義の実現をより意識的革命的に発展させるべきであるとの立場に改め、名称も日本社会主義学生同盟(社学同)と変えた。これが社学同の第一回大会となった。

 【全学連第11回大会、先駆性理論を打ち出す】  

 5月、全学連第11回大会が開かれ、党中央に批判的な社学同派が、高野ら日共民青同派(早大・教育大・神戸大など)と乱闘を演じつつ圧倒した。この時期全学連主流派は、学生運動理論における「先駆性理論」を創造していた。全学連第11回大会は、「先駆性理論」を媒介させ「層としての学生運動論→労・学提携同盟軍規定論→先駆性理論、反帝闘争路線」に至る画期的方針を採択した。

 「先駆性理論」とは、概要「学生運動は本質的に社会運動であり、政治闘争の任務を持つ。学生が階級闘争の先陣となって労働者、農民、市民らに危機の警鐘を乱打し、闘争の方向を指示するところに意義がある。国会デモその他の高度の闘争形態を模索しつつ、『労働運動の同盟軍』として労働者、農民、市民に対する『学生の先駆的役割』を自覚せねばならない」とする学生運動理論であった。この背景にあった認識は前衛不在論であり、「前衛不在という悲劇的な事態の中で、学生運動に自己を仮託させねばならなかった日本の革命的左翼」(新左翼20年史)とある。

 日共は、「先駆性理論」に対して次のように罵倒している。「戦術的には政治カンパニア偏重の行き過ぎの誤りを犯すものであり、学生が労働者や農民を主導するかの主張は思い上がりである」。これに対し、全学連指導部は次のように自讃している。「戦後10年を経て、はじめて日本学生運動が、日本のインテリゲンチャが、そして日本の左翼が、主体的な日本革命を推進する試練に耐える思想を形成する偉大な一歩を踏み出しつつあることを、全学連大会は示しているのである」。これについて筆者は思う。どちらの謂いが正論か、筆者には自明である。それにしても、宮顕的批判は、何とも高飛車な説教ではなかろうか。日共史の数ある指導者の中で、このような変調指導した者は宮顕以前には居ないのではなかろうか。些細なことかもしれないが、筆者にはこう云うことが気に掛かる。

 【「6.1日共本部占拠事件、日共の学生党員処分」】  

 6.1日、全学連大会終了の翌日、全学連第11回大会の成り行きを憂慮し事態を重視した党中央は締めつけに乗り出し、同大会に出席した学生党員代議員約130名を代々木の党本部に集め「全学連大会代議員グループ会議」を開いた。ここで稀代の事件が起こっている。会議は冒頭から議長の選出を巡って大混乱となり、全学連主流派と党中央の間に殴り合いが発生した。遂に党の学生対策部員であった津島薫大衆運動部員を吊し上げ、暴行を加える等暴力沙汰を起こした上、鈴木市蔵大衆運動部長の閉会宣言にもかかわらず、学生党員が議長となって議事を進め、次のような決議を採択した。概要「現在の党中央委員会はあまりにも無能力である。故に、党の中央委員全員の罷免を要求する。及び全学連内の党中央派を除名する」。これを「全学連代々木事件」叉は「6.1日共本部占拠事件」と云う。この事件は、全学連指導部の公然たる党に対する反乱となった。そればかりか、全学連によって「党中央委員全員罷免」なる珍妙な決議が歴史に刻印されたことになる。この瞬間より党は全学連に対するヘゲモニーを失った。

 日共は、ここに至って最終的に学生の説得をあきらめ、学生党員処分に乗り出していくことになった。「世界の共産党の歴史にない党規破壊の行為であり、彼らは中委の権威を傷つける『反党反革命分子』である」とみなし、7月、「反党的挑発、規律違反」として規約に基づき香山健一全学連委員長、中執委星宮、森田実らを党規約違反として3名を除名。土屋源太郎ら13名を党員権制限の厳格処分に附した。年末までに72名が処分された。

 【日共第7回党大会】  

 7月、日共第7回党大会が開かれた。大会は51年綱領を廃止し、新綱領の継続審議を申し合わせた。大会は、中央委員になお多数の旧徳球派が残存していたのを排斥し、新しい宮顕系主流派閥の形成と官僚主義に道を開いた。宮顕は、「この党大会を経て、いろいろな理論問題を解明した」と豪語したが、「アメリカ帝国主義+日本独占資本=二つの敵論に基く二段階革命論を基調とする敵の出方論」を主張する宮顕派と、「日本独占資本のみの一つの敵論に基く一段階革命論を基調とする平和主義革命論」を主張する春日(庄)派との論争に決着がつかず持ち越された。  

 この大会で、宮顕らしい「排除の論理」の押し付けが次のように伝えられている。反宮顕派の東京都委員・芝氏が代議員として送り出されてきていた事態に対処した宮顕は、戦前の獄中闘争時代の「哀しい生き様」の暴露と指弾で対応した。芝代議員に対し、宮顕とぬやまひろしこと西沢隆二が一緒になって壇上から、「戦前の黒い前歴」を暴き出し、「芝君の転向は悪質であった」と批判した。その内容たるや、「刑務所で一等飯を食ったか、三等飯を食ったか。一等飯を食ってた奴は買収されていたからであろう」というお粗末な罵声であった。芝氏は、眼を真っ赤にして「チクショウ、宮顕の奴‐‐‐」と唇を噛み締めていた様子が伝えられている。  

 これについて筆者は思う。これは、当人は百合子の差し入れで特上生活を確保していたというのに、己の行状を不問にした上で人様に対しては噴飯ものの謂いによる攻撃をしたことになる。但し、この当時に於いては宮顕のそうした素性はヴェールに包まれていた為、芝氏は抗弁できなかった。「それなら何故今まで都委員長の地位を認めていたのか」と反論するのが精一杯で、これに対して宮顕は、「武士の情けというか、あるいはいずれ正規の大会を経て人事を正すまでは黙認してきた」と切り捨てている。「非転向12年の宮顕神話」の金棒がこういう場合に振り回されるという好例がここにある。「非転向12年の宮顕神話」を突き崩さねばならない所以がここにある。  

 この大会で、「5つの教訓」が定式化された。要するに、「党中央の統一と団結をまもることこそ、党員の第一義的任務」、「いかなる場合にも規約遵守」、「党の内部問題を党外に持ち出さず」、「党中央の理論学習」と云う党中央に都合の良いばかりの「宮顕式民主集中制」の押し付けであった。これについて筆者は思う。「5つの教訓」は、徳球党中央時代には宮顕自身が公然たる反党中央活動していたと云うのに、自身が党中央に納まるや、徳球時代よりも酷い党中央による締め付けと党員の恭順を説き始めたことになる。しかし、これを訝る者は居なかった。 

 【島、生田らが「全学連党」の結成を公然化させる】  

 島、生田らは、7月の日本共産党第7回党大会に「全学連党」代議員として参加した。しかし、10日間もの間旅館に缶詰で外部と一切遮断されると云う、家父長的と云われる徳球時代にはあり得なかったやり方と、次から次へと宮顕方針が決議されていく大会運営を見て、日共との決別を深く決意するところとなった。8.1日、党大会終了の翌々日のこの日、島は全学連中執、都学連書記局、社学同、東大細胞党員の主要メンバーを集め、大会の顛末を報告すると共に、新しい組織を目指して全国フラクションを結成していくことを公然と提起した。これにより、後の「60年安保闘争」を担う人士が続々と全学連に寄り集うことになり、新しい活動家が輩出していった。

 【革共同第一次分裂】  

 この流れに並行して7月頃、革共同内で黒寛派対太田龍派が対立し内部分裂を起こしている。これを「革共同第一次分裂」と云う。これにより太田派が革共同から分離し、関東トロツキスト連盟を結成することとなる。太田は、トロツキーを絶対化し、トロツキズムを純化させる方向で価値判断の基準にする「純粋なトロツキスト」(いわゆる「純トロ」)の立場を主張し、黒寛は「トロツキズムを批判的に摂取していくべき」との立場を見せており、そうした理論の食い違い、第四インターの評価をめぐる対立、大衆運動における基盤の有無とかをめぐっての争いが原因とされている。  

 太田派はその後、純正トロツキズムの方針に従い日本社会党への「加入戦術」を採りつつ、学生運動民主化協議会(「学民協」)を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていくことになった。太田氏はその後トロツキズムと決別しアイヌ解放運動に身を投じ、更にその後「国際金融資本を後ろ盾とするフリーメーソン等々の国際的陰謀組織」の考究に向かい、2009年現在もネオ・シオニズム研究の第一人者となって警鐘乱打し続けている。「太田龍の時事寸評」で健筆を奮っていることでも知られている。これについて筆者は思う。太田氏は、トロツキズムを極限まで突き詰めていくことによりネオシオニズム性を確認し放擲するところとなった。我々は、この理論的果実を継承すべきではなかろうか。ちなみに、日本トロツキズム運動史上は、太田派の離脱が第二次分裂となる。

 【「勤評闘争」】

 9月、8.16日に和歌山で勤務評定阻止全国大会の盛り揚げに取り組んだことを始めこの頃、「勤評闘争」に取り組んでいる。9.15日、勤評粉砕第一波全国総決起集会。東京で、約4千名が文部省包囲デモ。これについて筆者は思う。今日、教育界の腐敗が社会問題化している。これを日教組批判で事足りようとしている連中が殆どであるが、筆者は、この時文部省行政による教師の縛りの定向進化の成れの果てだと考えている。

 【全学連第12回臨時大会で日共と最終的に決別】  

 9月、全学連第12回臨時大会を開いた。反代々木系を明確にさせた全学連執行部(全学連主流派)は、「学生を労働者の同盟軍とする階級闘争の見地に立つ学生運動」への左展開を宣言した。「日本独占資本との対決」を明確に宣言し日共式綱領路線との訣別を理論的にも鮮明にした。ここに日共は、1948年の全学連結成以来10年にわたって維持してきた全学連運動に対する指導権を失うこととなった。この後、全学連主流派に結集する学生党員はフラクションを結集し、機関紙「プロレタリヤ通信」を発刊して全国的組織化を進めていくことになった。全学連主流派のこの動きは、星宮をキャップとする革共同フラクションの動きと丁々発止で競り合いながら進行していた。

 【警職法闘争】  

 10月、岸内閣が、警察官職務執行法警職法改悪を抜き打ち的に国会に上程してきた。左派勢力は、「警職法改正は、その次に予定されている安保条約改定に対する反対運動を弾圧するための準備であるとともに、民主主義を破壊して警察国家を再現しようとするものである」という位置付けから、安保反対闘争の前哨戦として、警職法改正反対闘争に入っていった。この時社会党・ 総評など65団体による「警職法改悪反対国民会議」が生まれ、全学連もそのメンバーに入った。全学連は非常事態を宣言、最大限の闘いを呼び掛け、次のように檄を飛ばしている。「ためらうことなくストライキに!国会への波状的大動員を、東京地評はゼネストを決定す、事態は一刻の猶予も許さない、主力を警職法阻止に集中せよ」。

 10.28日、総評が第三次統一行動。警職法反対と勤務評定反対を統一要求に掲げていた。東京では4会場に分かれて「警職法改悪粉砕.民主主義擁護、日中関係打開、生活と権利を守る国民中央集会」。中央集会には8万の労学、四谷会場には労1万、全学連2万が結集。労・学4万5千名が四谷外堀公園に結集しデモ。11.5日、警職法阻止全国ゼネストに発展し、全学連4千名が国会前に座り込んだ。1万余の学生と労働者が国会を包囲した。驚くほどの速度で盛り上がった大衆運動によって、1ヶ月後に法案採決強行を断念させた。

 これについて筆者は思う。警職法阻止闘争は、共同戦線化で 国会前座り込みを創出し、この時の経験が以降「国会へ国会へ」と向かわせる闘争の流れをつくった点で大きな意味を持つことになった。日本左派運動は、これを勝利の方程式として確認する必要があろう。逆に云うと、この勝利の方程式を崩す者及び勢力を疑惑する必要があろう。

 【日共の全学連批判】  

 この頃、日共の全学連批判は強まり、全学連指導部を「跳ね上がりのトロツキスト」と罵倒していくことになった。この当時の文書だと思われるが、(恐らく宮顕の)「跳ね上がり」者に対する次のような発言が残されている。「今日の大衆の生活感情や意識などを無視して、自分では正しいと判断して活動しているが、実際には自分の好みで、いい気になって党活動をすること、大衆の動向や社会状態を見るのに、自分の都合のいい面だけを見て、都合の悪い否定的な面を見ず一面的な判断で党活動をすること、こうした傾向は大衆から嫌われ、軽蔑され、善意な大衆にはとてもついていけないという気持ちをもたせることになる」。  

 これについて筆者は思う。この言辞は典型的な云い得云い勝ちなものでしかなかろう。なぜなら、「自分の好みで、いい気になって党活動をする」のは自然であり、誰しも「自分の好み」から逃れることができないのに、これを批判するとしたら神ならではの御技しかなかろう。にも拘らず、おのれ一人は「自分の好み」から逃れているように云い為す者こそ臭いと云うべきではなかろうか。それと、「善意な大衆」とは何なんだ。嫌らしいエリート臭、真底での大衆蔑視が鼻持ちならない。更に云えば、2009年現在、この頃に比べて政治反動が大きく進んでいるが、これに対する政治的取り組みが全く為されていない、社共の万年野党的立場からのアリバイ的口先批判のみが空気抜きのように告げられ事足りている。これを思えば、当時の全学連運動の確かさと能力が評価されて然るべきであろう。  

 付言すれば、この時島氏は、宮顕党中央の変調を鋭く指摘している。概要「警職法提出の10.7日、社会党、総評、全学連らがこぞって反対声明を発し戦いの態勢を整えているそのときに『アカハタの滞納金の一掃』を訴え、一日遅れて漸く声明を出した。(中略)反動勢力が全学連の指導する学生運動の革命的影響が勤評闘争.研修会ボイコット闘争などにおいて労働者階級に波及するのを恐れて、この攻撃に集中しているその最中、全労、新産別らのブルジョアジーの手先の部分の攻撃と期を一にするかの如く、代々木の中央は、『全学連退治』に乗り出し、この革命的部分を敵に売り渡すのに一役買っている。(中略)何時も後からのこのこついて来て、『諸君の闘争を支持する』とかよわく叫ぶだけだ。(中略)戦いの高揚期にきまって、『一部のセクト的動機がある』だの、『闘争を分裂させるものであって強化するものではない』などといい、全労.新産別らの自民党の手先に呼応している」。

 【ブント結成】  

 12月、除名組活動家にして全学連主流派の全国のフラク・メンバー約45名が中心になって、六全協以降続けてきた党内の闘いに終止符を打ち、新しい革命前衛党として「日本共産主義者同盟(共産同またはブントとも云う)」を結成した。ちなみに、ブント(BUNT)とはドイツ語で同盟の意味であり、党=パルタイに対する反語としての気持ちが込められていた。ブントは次のように宣言し、新左翼党派結成を目指すことになった。「組織の前に綱領を!講堂の前に綱領! 全くの小ブルジョアイデオロギーにすぎない。日々生起する階級闘争の課題にこたえつつ闘争を組織し、その実践の火の試練の中で真実の綱領を作り上げねばならぬ」(「新左翼の20年史」)。  

 ブントの学生組織として「社会主義学生同盟(社学同)」の結成も確認された。古賀(東大卒)と小泉(早大)の議長の下で議事が進行していき、島がブント書記長に選ばれ、書記局員には、島、森田、古賀、片山、青木の5名が選出された。島は、学連指導部から退きブントの組織創成に専念することになり、学生党員たちに日共を離党してブントへ結集していくよう強く促していくことになった。当時のこのメンバーには、今も中核派指導部にいる北小路敏、清水丈夫らがいることが注目される。北海道からも灰谷、唐牛ら5名が参加している。  

 新左翼運動をもしトロツキスト呼ばわりするとならば、日本トロツキスト連盟を看板に掲げた革共同こそが純正であり、ブントのトロツキズムと区別する必要がある。そう云う意味において、日本トロツキスト連盟の系譜を「純」トロツキスト系と呼び、これに対しブント系譜を「準」トロツキスト系とみなすことを今はやりの「定説」としたい(日本トロツキスト連盟の系譜から後に新左翼最大の中核派と革マル派という二大セクトが生まれており、特に中核派の方にブントの合流がなされていくことになるので一定の混同が生じても致し方ない面もあるが)。 ここに、先行した「純」トロツキスト系革共同と並んで、「準」トロツキスト系ブントという反代々木系左翼の二大潮流が揃い踏みすることになった。この流れが後に新左翼又は極左叉は過激派と云われることになる源流である。この両「純」・「準」トロツキスト系は、反日共系左翼を標榜することでは共通していたが、それだけに反日共系の本家本流をめぐって激しい主導権争いしていくことになった。日共の公式的見解からすれば、このブント系もトロツキストであり、あたかも党とは何らの関係もないかのように十派一からげに評しているが、それは宮顕流の御都合主義的な歪曲であり、史実は違って上述の通りであるということが知られねばならない。

 12.25日、日共は幹部会を開催し、幹部会声明で「学生運動内に巣くう極左日和見主義反党分派を粉砕せよ」と、全学連指導部の極左主義とトロキツズムの打倒を公言し、「島他7名の除名について」と合わせてブント結成後旬日も経たないうちの12.25.27日付け「アカハタ」紙上の一面トップ全段抜きで幹部会声明を掲載した。

 【ブント理論考】  

 これについて筆者はかく思う。このブントの党史を巨視的に見れば、戦後の党運動における徳球系と宮顕系その他との抗争にとことん巻き込まれた結果の反省から、党支配からの自立的な新左翼運動を担おうとした気概から生まれた経緯を持つように思われる。理論的には、国際共産主義運動のスターリン的歪曲から自立させ、驚くべきことに自ら等が新国際共産主義運動の正統の流れを立て直そうと意気込みつつ悪戦苦闘して行った流れが見えてくる。この意味で、ブントは革共同と共に時代の双生児として生まれたことになる。ブント発生を近視的に見れば、共産党の日共化に対する強い反発にあった様が伺える。宮顕路線の本質が左派運動を抑圧右派的統制主義の枠内に押し留めようとすることに重点機能していることを見据え、これに反発した学生党員の「内からの反乱」としてブントが結成されたという経過が踏まえられねばならないと思う。  

 ブント理論はどのようなものであったのだろうか。筆者が判ずるのに、宮顕式日共理論の反革命性、日本左派運動の抑圧に対する疑惑を基点にしており、これに代わる「労働者階級の新しい真の前衛組織」の創出を目指していた。この観点から、日共理論に対して悉くアンチテーゼを創出していくことになった。次のような特徴が認められる。 1  学生運動を政治運動を担う一翼として位置づけ、労働運動の先駆的同盟軍と規定した。 2  日共の「二段階革命論式民族解放民主革命理論」に対して、「一段階革命論式社会主義革命路線」を掲げた。 3  日共の平和共存的一国社会主義に対し世界永続革命、議会主義に対しプロレタリア独裁、平和革命に対し暴力革命、スターリン主義に対しレーニン主義と云う風に対比させた。 4  代々木官僚に反旗を翻しただけでなく、本家のソ連・中国共産党をもスターリン主義と断罪した。 5  日共に代わる真の革命党派として打ち出し、「全世界を獲得せよ」と宣言した。  

 筆者は、これらのブント理論は宮顕式日共理論の反動性に対するアンチテーゼとしては正しかったと思う。しかしながら、今日的時点で気づくことであるが、近現代世界を真に支配する国際金融資本の動向に対して皆目無知な革命理論に傾斜していることが判明する。ブント理論のこの欠陥が、その後のブント運動の破産を予兆しているように思う。この負の面故に革命運動的に突出すればするほど現実と照応しなくなると云う形で突きつけられていくことになる。60年安保闘争後の四分五裂で現実化するが、その後を継承した第二次ブントにも立ち現われていくことになる。

 【ブントと革共同との相違考】  

 ブント化の背景にあったもう一つの情勢的要因は、先行する革共同系の動きにあった。つまり、ブントは、一方で代々木と対立しつつ他方で革共同とも競り合った。この時のブントと革共同の理論的な相違について、島氏は次のように解説している。対立の第一点は、トロツキーの創設した第4インターの評価である。この時点の革共同は、トロツキー及び第4インターを支持するかどうかが革命的基準であるとしていた。これに対し、ブントは、第4インターにそれほどの価値を認めず「世界組織が必要なら自前で新しいインターナショナルを創設すれば良い」としたようである。第二に、ソ連に対する態度に違いが見られた。この時点の革共同は「反帝・反スタ」主義確立前であり、「帝国主義の攻撃に対する労働者国家無条件擁護」に固執していた。これに対し、ブントは、「革命後50年近くも経過して強大な権力の官僚・軍事独裁国家となり、労働者大衆を抑圧し、しかも世界革命運動をこの権力の道具に従属させ続けてきたソ連国家はもはや打倒すべき対象でしかない」とした。  

 更に、島氏は、私が最も嫌悪したのは革共同の「加入戦術」であったと云う。「自分たちの組織はまだ小さいから既成の、可能性のある社会党などに加入してその中で組織化を行おう」という姿勢に対して、これをスケベ根性とみなした。「私たちは既成の如何なる組織・思考とも決別し、自らの力で誰にも頼らず新しい党を創ろうとし、ここに意義を見いだしていた」という。その他セクト主義、労働運動至上論等々の意見の相違を見て、ブントは翌59.4月頃には革共同派との決別を決意していた。古賀氏は後になって「陽気で野放図で少しおめでたいようなブントに対し、革共同は深遠な哲学的原理を奉ずる陰気な秘密結社のようだった」と当時を回想している。     

 然しながら、ブントは、日共批判、革共同対抗から出自したものの徹底さに於いて頗(すこぶ)る曖昧な面を残していた。というか、党派形成期間が僅か2年という短命に終わったことを思えば、余りにも時間が少なかったのかも知れない。欠点で云えば、この当時のニューマの然らしめるところ、日共運動批判から始めたにも拘らず相変わらず宮顕を「戦前唯一非転向闘士聖像」視しており、「左派運動撲滅請負闖入者」と見なす視点はない。闘わない日共に対して個別課題に応じた批判を展開し急進的運動を繰り広げるが、日共式組織論、運動論、歴史論、否それら総体の左派運動総体の全面的再検証、新左派運動創造という視点まで行き着くことができなかった。ブントのこの観点の弱さが、60年安保闘争後の総括を廻っての分裂に繋がる。

 【第一次ブント最初期のメンバーについて】  

 この頃ブントを率いる島氏の回りに次第に人材が寄ってくることになった。1957.12月の「島成郎、生田浩二、佐伯秀光三名の秘密会議」を細胞核として、キラ星の如くな人間群像が参集して来た。島の妻・島美喜子、香村正雄(東大経済卒、現公認会計士)、古賀康正(東大農卒、現農学者)、鈴木啓一(東大文卒、現森茂)、樺美智子(東大文、安保闘争で死亡)、倉石庸、 少し後から多田靖、常木守等がアジトに常駐するようになる。青山(守田典彦)も。シンパ文化人として吉本隆明、マルクス主義理論家として廣松渉(ひろまつわたる、門松暁鐘)が早くより登場する。

 他に世間に知られているところとして、東大系で森田実、中村光夫、富岡倍雄、星野中、長崎浩、林紘義、西部邁(「60年安保――センチメンタル・ジャーニー」)。早大系で小泉修吉、佐久間元、蔵田計成、下山ら。中央大系で由井格。京大系で今泉、小川登。後に中核派指導部を構成する陶山健一、田川和夫、北小路敏、清水丈夫、藤原慶久、小野正春らが参集する。北海道学連から灰谷慶三、唐牛ら5名が参加している。ちなみに、佐伯(山口一理)と片山(佐久間元)と小泉は神奈川県立希望ヶ丘高校以来の同窓であったと云う。その他、後に大学教授、弁護士、評論家として登場する数多くの面々がいる。

 【全学連が第13回臨時大会で革共同が三役独占】  

 12月、全学連第13回臨時大会が開かれた。人事が最後まで難航したが、塩川委員長、土屋書記長、清水書記次長、青木情宣部長となった。革共同系とブント系が指導部を争った結果、革共同系が中枢(委員長、副委員長、書記長の三役)を押さえ、革共同の指導権が確立された大会となった。 その為、全学連指導部の内部でブントと革共同の対立という新たな派閥抗争が発生することとなった。

 なお、この時の議案は、安保闘争を革共同式に「安保改定=日本帝国主義の地位の確立→海外市場への割り込み、激化→必然的に国内の合理化の進行」という把握による「反合理化=反安保」と位置づけていた。しかし、こうした革共同理論に基づく「反合理化闘争的安保闘争論」は、この当時の急進主義的学生活動家の気分にフィットせず、むしろ安保そのもので闘おうとするブントの主張の方に共感が生まれ受け入れられていくことになった。ブントは、革共同的安保の捉え方を「経済主義」、「反合理化闘争への一面化」とみなし、「安保粉砕、日本帝国主義打倒」を正面からの政治闘争として位置づけ、次第に深刻な対立へと発展していくことになる。

 8章 5期その2 1959  新左翼系全学連の発展  

 【キューバ革命が勝利】

 1959(昭和34).1.1日、キューバ革命が勝利した。フィデロ・カストロ達が2年余りの武力闘争の末、新米派バティスタ政権を打倒、革命政府を樹立した。これが、戦後から続く社会主義革命の最後となる。

 【「安保条約改定阻止国民会議」結成】

 2月、岸内閣は安保改定に公然と乗り出した。この時、革共同派系執行部の全学連は、「合理化粉砕の春闘を如何に闘うべきか、これこそまさに革命の当面の中心課題である」とし、「労働運動理論」を長々と述べる理論活動に傾斜しつつあった。ブント派はこれを思弁主義として退け、安保闘争を一直線の政治課題として捉える運動を指針させ対立した。


 3月、総評、社会党、中立労連、全日農、原水協、平和委、基地連、日中国交回復、日中友好、青年学生共闘会議など13団体が中央幹事団体となり、先の「警職法改悪反対国民会議」を受け継いで「安保条約改定阻止国民会議」を結成した。日共はオブザーバーとしての参加が認められ、幹事団体会議における発言を獲得した。同時に「安保改定阻止青年学生共闘会議」が結成され、社会党青年部、総評青対部、全日農青年部、民青、全学連(ブンド指導の)によって構成され、この青学共闘会議が安保国民会議に加盟した。「国民会議」は以降、二十数波にわたる統一行動を組織していくことになる。
 【不破が「現代トロツキズム」批判】

 5月、不破哲三が、前衛6月号紙上で「マルクス主義と現代イデオロギー」を発表し、「現代トロツキズム」批判を繰り広げている。「山口一理論文」、「姫岡怜治論文」を槍玉に挙げ、総論的な批判を加えている。次のように結んで本音を露にしている。概要「もはや理論的批判の必要はない。この反革命的反社会主義的本質を徹底敵に暴露して、政治思想的に粉砕し尽くすことだけが残っている」。これについて筆者は思う。今日これを読み直すとき、とても正視できない無内容な饒舌であることが判明する。まさに、当時の急進主義者の動きに水を浴びせ砂をかけることのみが目的であったことが分かる。

 【全学連第14回大会でブントが主導権を奪い返す】  

 6月、約1千名が参加し全学連第14回大会が開かれた。この大会は、ブント、民青同、革共同の三つどもえの激しい争いとなり、ブントが先の大会以来革共同に抑えられていた全学連の中央執行部の過半数を獲得し、主導権を再び奪い返して決着した。唐牛健太郎(北大)が委員長として選出され、書記長・清水丈夫、加藤昇(早大)と糠谷秀剛(東大法)、青木昌彦(東大)、奥田正一(早大)が新執行部となった。中執委員数内訳は、ブント17、革共同13、民青同0、中央委員数は、ブント52、革共同28、民青同30。こうして、ブントは、「ブント―社学同―全学連」を一本化した組織体制で60年安保闘争に突入していくことになった。唐牛新委員長下の全学連は、以下見ていくように「安保改定阻止、岸内閣打倒」のスローガンを掲げ、闘争の中心勢力としてむしろ主役を演じながら再度にわたる「国会突入闘争」や「岸渡米阻止羽田闘争」などに精力的に取り組んでいくことになった。

 なお、唐牛氏が委員長に目を付けられた背景として、星宮煥生氏が「戦後史の証言ブント」で次のように証言している。「唐牛を呼んだ方がいいで。最近、カミソリの刃のようなのばっかりが東京におるけども、あれはいかぬ。まさかりのなたが一番いいんや、こういうときは。動転したらえらいことやし、バーンと決断して、腹をくくらすというのはね、太っ腹なやつじゃなきゃだめだ。多少あか抜けせんでも、スマートじゃなくても、そういうのが間違いないんや」。この星宮提言により、島氏が北海道まで説得に行ったと云われている。この頃、ブントのイデオローグ姫岡玲治が、通称「姫岡国家独占資本主義論」と云われる論文を機関紙「共産主義3号」に発表している。これがブント結成直後から崩壊に至るまでのブントの綱領的文献となった。

 【ブントの感性考】    

 この当時のブントは約1800名で、学生が8割を占めていたと云われている。この時期ブントは、「安保が倒れるか、ブントが倒れるか」と公言しつつ安保闘争に組織的命運を賭けていくことになった。この時の島氏の心境が「戦後史の証言ブント」の中で次のように語られている。概要「再三の逡巡の末、私はこの安保闘争に生まれだばかりのブントの力を全てぶち込んで闘うことを心に決めた。(中略)闘いの中で争いを昇華させ、より高次の人間解放、社会変革の道を拓くかが前衛党の試金石になる。(中略)日本共産党には、『物言えば唇寒し』の党内状況があった。生き生きとした人間の生命感情を抑圧し陰鬱な影の中に押し込んでしまう本来的属性があった。政治組織とはいえ、所詮いろいろな人間の寄り合いである。一人一人顔が違うように、思想も考え方もまして性格などそれぞれ百人百様である。そんな人間が一つの組織を作るのは、共同の行動でより有効に自分の考え、目的を実現する為であろう。ならば、それは自分の生命力の可能性をより以上に開花するものでなければならぬ。様々な抑圧を解放して生きた感情の発露の上に行動がなされる、そんなカラリとした明るい色調が満ち満ちているような組織。『見ざる、聞かざる、言わざる』の一枚岩とは正反対の内外に拓かれた集まり、大衆運動の情況に応じて自在に変化できるアメーバの柔軟さ。戦後社会の平和と民主主義の擬制に疑いを持ち、同じ土俵の上で風化していった既成左翼にあきたらなかった新世代学生の共感を獲ち得た」。  

 これについて筆者は思う。以上のような島氏の発想には、かなりアナーキー且つカオス的情緒があることが知れる。この「アナーキー且つカオス的情緒」は存外大事なものなのではなかろうか。この対極にあるのはロゴス的整合精神(物事に見通しと順序を立てて合理的に処そうとする精神)ということになろうが、この両者は極限期になればなるほど分化する二つの傾向として立ち現れ、気質によってどちらを二者択一するかせざるをえないことになり、未だ決着のつかない難題として存立しているように思う。
 
 【宮顕派と春日(庄)派の対立表面化】  

 6月、日共「第6中総」が開かれ、選挙総括と安保をめぐる当面の闘争方針を廻って激しい論戦が交わされた。この間の中央主流派による様々な政治工作に対する反対派の鬱憤が爆発した感があった。特に官僚主義的な党運営のやり方に対して批判の声が挙げられた。春日(庄)は、主流派の圧力のもとに前衛8月号での選挙闘争総括論文において党の自己批判の必要を指摘したことに対する全文取り消しを強要され、7.9日付けアカハタ紙上に「発表手続きの誤りについて」の自己批判と論文の取り消しを発表した。但し内容については譲らなかった。これ以後、彼の論文は、形式的な追悼文などのほかには党の機関誌から姿を消すことになった。

 【理論雑誌「現代の理論」の廃刊させられる】  

 「6中総決議」で、理論雑誌「現代の理論」の廃刊を決定した。党中央主流は次のように論断して規律違反として摘発するところとなった。概要「理論と実践の統一に反するだけでなく、マルクス.レーニン主義党の組織原則ー規律に反している。この誤りの本質は、組織原則に対する修正主義的な歪曲である。こういうことを放置しておいては、分散主義.自由主義を一層はびこらす結果になり、党の統一と団結は妨げられる。内容において修正主義であり、形式において党中央の指導から離れた自由主義、分散主義である」。これについて筆者は思う。不破は、国会議員デビュー戦で「創価学会の出版妨害事件」を採り上げることになる。この廃刊事件を思う時、果たして資格があったのであろうかと思う。どんな素敵な口上を聞かせてくれるのだろうか、聞いてみたい。 

 【「黒寛・大川スパイ事件」】  

 この頃、革共同の代表的指導者・黒寛に纏わる重大背信事件「黒寛・大川スパイ事件」が発生している。黒寛の及ぼした学生運動への影響の大きさに鑑み、これを採り上げておく。「黒寛・大川スパイ事件」とは次のようなものである。概要「大川なる者が、埼玉の民青の情報を入手できる立場を利用して、民青の情報を警察に提供することによって資金を稼いだらどうだろうか、と考えつき、大川はこのことを黒寛に相談したところ、黒寛はそれを支持した。二人は新宿の公衆電話から警視庁公安に電話し、用件を伝えた。公安の方は公衆電話の場所を聞いてすぐ行くからそこで待っていてくれと応答し、かれらはその場所でしばらく待っていた。が、“世界に冠たるマルクス主義者”である黒寛の小心によってか、大川の動揺によってか分からないが、かれらは次第につのってくる反革命的所業の罪深さを抑えることができなくなった。『おい、逃げよう!』といったのはどちらが先かは不明である。かれらは一目散にその場を逃げ出した。これが事件の顛末であるとされている事件である」。  

 これについて筆者は思う。非常に矮小化された話にされているがオカシイ。見てきた通りこの時点に於ける黒寛は、革共同第1次分裂で太田龍派を一掃後の最高指導者である。その指導者の公安との繫がりが見えているので有り由々しきことであろう。漏洩されているのは「民青情報の公安売り」であるが、果たして民青情報だけであったのだろうか。この事件は黒寛の正体が露見した事件であり、筆者は、左派運動内に回状が送付されるべきであったと考える。が、当時の革共同は仲間内で処理している。果たして適正対応だったであろうか、不審は消えない。

  【革共同第二次分裂】  

 8月、革共同内に第二次分裂が発生している。革共同創立メンバーの一人西京司氏率いる関西派が、「黒寛・大川スパイ事件」を取引材料にしながら中央書記局を制し、革共同の主導権を獲得するべく画策したというのが真相であろう。西派はこの頃「西テーゼ」を作成し、同盟の綱領として採択を図ろうとしていた。この過程で黒寛の影響下にある探求派が対立し、関西派が政治局員・黒寛を解任した。黒寛は、本多延嘉氏らと共に革共同全国委員会(革共同全国委)を作り関西派と分離する。これがいわゆる「革共同第二次分裂」である。日本トロツキズム運動史上は第三次分裂となる。

 【「全学連の国会乱入事件」】  

 11.27日、第8次統一行動。31都府県の全国700の共闘組織に結集する350万の大衆が立ち上がり、合化労連.炭労の24時間ストを中心に全国で数百万の大衆が行動に立ち上がった。東京には8万名が結集した。全学連を主体とする労学5千名による「国会乱入事件」が発生している。全学連は、都教組などの労働者と共に警官隊の警備を突き破って初めて国会構内に突入し、抗議集会を続行した。構内はデモとシュプレヒコールで渦巻いた。社共、総評幹部は、宣伝カーから解散を呼び掛けるが約三万余の群衆は動かない。約5時間にわたって国会玄関前広場がデモ隊によって占拠された。これがブント運動の最初の金字塔となった。  

 政府は緊急会議を開き、「国会の権威を汚す有史以来の暴挙である」と政府声明を発表し、全学連を批判すると同時に弾圧を指示した。清水書記長、糠谷、加藤副委員長らに逮捕状が出された。日共は、翌日のアカハタ号外で突入デモ隊を非難し、常任幹部会声明「挑発行動で統一行動の分裂をはかった極左・トロツキストたちの行動を粉砕せよ」を掲載し全都にばらまいた。以降連日「トロツキスト集団全学連」の挑発行動を攻撃していくこととなった。

 【砂川事件で、最高裁が違憲判断忌避】

 12.16日、最高裁が、「在日米軍の存在が憲法違反かどうか」を問うた砂川事件に関連しての伊達判決の破棄を言い渡した。アメリカの軍事基地に反対し、その闘争に参加する者を犯罪者とみなすという政治的裁判であった。砂川事件は、「一体、条約と憲法ではどちらが優先されるのか」という論争の格好のテーマとなっていたが、既に「違憲である」とする伊達判決が出されていたのに対し、最高裁は次のような「高度な政治判断であり司法判決には馴染まない」法理論で処理した。以降、これが定式化される。概要「安保条約は高度の政治判断の結果。極めて明白に違憲と認められない限り、違法審査権の範囲外であり司法判決にはなじまない」。 

 9章 5期その3 1960  60年安保闘争

 【60年安保改定をどう見るべきか】

 59年から60年に初頭にかけて日米安保条約の改定問題が、急速に政局浮上しつつあった。政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為の改定であると宣伝した。これにより旧条約が内乱や騒擾鎮圧に関して米軍の出動を規定していたのを独立国家の面子に関わる規定であるとして削除した。安保条約の改定は、アメリカとの政治的軍事的「対等パートナー同盟関係の構築」と喧伝した。その限りに於いて嘘ではなかった。

 しかしより重要なことは、日本をアメリカ帝国主義の極東戦略に深のめりさせんとしており、それは「戦後日本の米国依存のめり込み」であり、新安保条約は、米軍の引き続きの日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本再軍備増強を迫り且つ日米共同作戦の義務を負わせることにより傭兵化すると云う狙いが秘められていた。さらには経済面での対米協力まで義務づけるという点で戦後の画期を創ろうとしていた。岸政権は、これにより憲法改正を画策していた。つまり、憲法改正と安保改定は連動していた。ここに問題があった。  

 これについて筆者は思う。こたびの安保改定の本質は、去る日のサンフランシスコ条約で吉田政権が国家主権の独立と引き換えに結ばされた日米安保条約の定向進化にあり、これのもたらすところは戦後社会の合意である憲法の前文精神と9条を空洞化を通じた国際金融資本の世界支配戦略への露骨な組み込みであった。日本左派運動がこれに猛反発したのは、けだし当然であろう。俊英ブントが第一政治課題と位置づけ猪突猛進を開始したのは素晴らしい感性であった。

 【日共の珍妙な岸首相渡米阻止闘争反対論】

 1960(昭和35).1.13日、日共は、この日のアカハタで、岸全権団の渡米に際し、信じられないことだけども岸全権団の渡米にではなく、渡米阻止闘争に猛然と反対を唱えて、全都委員、地区委員を動員して組合の切り崩しをはかった。次のような「変調な送り出し方針」をく打ち出している。「(岸首相の渡米出発に際しては)全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り、岸の出発まぎわまで人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」。

 これについて筆者はかく思う。それにしても妙な文章であろう。末尾で「人民の抗議の意志を彼らにたたきつける」とあるから闘うのかと思うと、前段では「全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り」とある。何のことはない、アリバイ闘争にしけこもうと云うだけの話である。日共は、こういう二枚舌論法を多用する。しかし、こういう二枚舌論法に違和感を抱かず丸め込まれ騙される方にも責任があろう。

 【「全学連の羽田空港占拠事件」】  

 1.15日、全学連は、社共、総評の静観を一顧だにせず、独自行動として岸渡米阻止羽田闘争に取り組むことを決定し、15日夕から全学連先発隊約7百人が羽田空港に向かった。警官隊より早く到着し、ロビーを占拠、座り込みを開始した。後続部隊も続々と羽田へ羽田へと向かった。この闘争で唐牛委員長、青木ら学連執行部、生田、片山、古賀らブント系全学連指導下の77名が検挙された。樺美智子女史も逮捕されている。これを「羽田空港占拠事件」と云う。

 社会党・総評は、統一行動を乱す者として安保共闘会議から全学連排除を正式に決定した。日共は再び全学連を「トロッキストの挑発行動・反革命挑発者・民主勢力の中に送り込まれた敵の手先」として大々的に非難した。革共同も、「一揆主義・冒険主義・街頭主義・ブランキズム」などと非難している。 しかし、島氏は次のように確認している。「全く新しい大衆闘争の現出だった。明らかに私たちブントの闘いによって、政治にとって、安保闘争にとって、人民運動にとって流動する状況が生まれたという確信である。長らく社・共によって抑圧されていた労働者大衆が、これをうち破った全学連の行動を通して、新しい政治勢力としてのブントの像をはっきり見たに違いないという実感である」。 これについて筆者は思う。岸渡米阻止羽田闘争に対してさえ、左派圏内でこれほどの差が有る。これを踏まえて、どちらの謂いを支持するのかが問われていることになる。


 知識人によって羽田事件の逮捕者の救援運動が始められたが、日共は、発起人に名を連ねている党員の切り崩しをはかった。これにより、関根、竹内、大西、山田、渋谷などの人々が発起人を取り下げざるをえなくされた。これらの知識人は後々日共に対する激しい批判者となる。  
 【三池労組が無期限全面ストに突入】
 1959.1月、日本最大の炭鉱であった福岡の三井三池炭鉱の三井鉱山当局が、労働組合に対し、6千名に及ぶ希望退職をもとめた第一次合理化案を発表し、戦後最大で最後の労働争議が始まった。1960.1.25日、三井鉱山が全山のロックアウトを通告、三池労組は無期限全面ストに突入した。社会党左派の向坂逸郎の影響の強い組合側は、「総資本と総労働」の対決を叫び、日経連をバックとする会社側の自由化政策の推進による各産業の合理化政策と全面対立した。こうして「総資本対総労働」の全面対決の様相となっていった。会社側が警察力、暴力団をバックに、組合の切り崩しをはかる一方で、懐柔策が進行した。3.17日、三池労組が分裂し第二組合が作られる。3.28日、三井鉱山の生産再開に際して、就労を阻止せんとする第一組合と強行せんとする第二組合が衝突し流血の事態となった。その際暴力団が襲い、百余・lの重軽傷者がでた。3.29日、第一組合員久保清が暴力団員に刺殺される。会社側は生産を開始し、第一組合側は中労委のあっせん案を拒否して闘争態勢を崩さなかった。
 【安保国会幕開け】

 2.2日、安保国会が幕をあけた。2.5日、新安保条約が国会に上程され、2.11日、衆議院に日米安保特別委員会が設置され本格的審議が始まった。野党側は、事前協議において日本が戦争に巻き込まれるのを防ぐことができるのか、日本側に拒否権が認められるのかという問題を採り上げ政府を追求した。論議は平行線で噛み合わなかった。これに呼応して国民会議も統一行動を盛り上げていくことになった。

 【革共同全国委の檄】  

 2月、この頃、革共同全国委員会派は、全学連主流派の有力幹部たちをも包含しつつ勢力を扶植しつつあった。革共同全国委員会は責任者黒寛のもとに機関紙「前進」を発行。次のように檄を飛ばしている。概要「一切の既成の指導部は、階級闘争の苛酷な現実の前にその醜悪な姿を自己暴露した。安保闘争、三池闘争のなかで社共指導の裏切りを眼のあたりにみてきた。(中略)(労働者階級は)独立や中立や構造改革ではなしに、明確に日本帝国主義打倒の旗をかかげ、労働者階級の一つの闘争をこうした方向にむかって組織していくことなしには、労働者階級はつねに資本の専制と搾取のもとに呻吟しなくてはならない。(中略)一切の公認の指導部から独立した革命的プロレタリア党をもつことなしには、日本帝国主義を打倒し、労働者国家を樹立し、世界革命の突破口をきりひらくという自己の歴史的任務を遂行することはできない。(中略)こうした闘争の一環としてマルクス主義的な青年労働者の全国的な単一の青年同盟を結成した」。  

 この頃から4月にかけて革共同全国委は、ブントの学生組織・社学同に対抗する形で自前の学生組織としてマルクス主義学生同盟(マル学同)を組織した。発足当時5百余の同盟員だったと云われている。マル学同は民青同を「右翼的」とし、ブントを「街頭極左主義」として批判しつつ学生を中心に組織を拡大していった。

 【全学連第15回臨時大会】   

 2月、全学連第22中委が開かれている。この時、革共同関西派の8名の中執が暴力的に罷免され、中執はブントによって制圧された。この時点での全学連内部の勢力比は、ブント72、民青同22、革共同関西派16、その他革共同全国委・学民協とされる。この期の特徴は、再建された全学連の指導部をブント系が掌握し、急進主義運動を担いつつ60年安保闘争を主導的にリードしていったことに認められる。ブントは見る見る組織を拡大し、革共同が主導権を握っていた全学連の主導権を奪い返すに至った。少数派に甘んじることを余儀なくされた革共同系はブント系の指導下に合同し共に全学連運動を急進主義的に突出させていくことになった。この間民青同系は、こうした全学連の政治闘争主義化にたじろぎつつもこの時期までは指導に服していた。

 3月、全学連第15回臨時大会が開かれている。全学連主流派は、民青同系と羽田闘争をボイコットした革共同関西派を「加盟費未納」などを理由として代議員資格をめぐり入場を実力阻止した。抗議した民青同系と革共同関西派の反主流派の代議員231名(川上徹「学生運動」では代議員234名)を会場外に閉め出した中で大会を強行した。会場内の中の主流派代議員261名(〃代議員は181名)であったという。  

 これについて筆者は思う。大会開催に先立っての会場付近での主流派対反主流派の衝突が、後の全学連分裂を準備させることになった。してみれば、この大会は学生運動至上汚点を残したことになる。意見の違いを暴力で解決することと、少数派が多数派を閉め出したことにおいて、悪しき先例を作った訳である。この時点では、全学連主流ブント派は、明日は我が身になるなどとは夢にも思っていなかったと思われる。左翼運動の内部規律問題として、本来この辺りをもっと究明すべきとも思うが、こういう肝心な点について考察されたものに出会ったことがない。  

 大会は、全学連におけるブントの主導権を固め、「国会突入、羽田闘争を中心とした全学連の行動はまったく正しい」と評価し、「安保批准阻止闘争の勝利をめざして4月労学ゼネストを断乎成功させよう、岸帝国主義内閣を打倒しよう」と宣言した。島氏が挨拶に立ち、渾身の力を込めてブントの安保闘争への決意を表明した。人事は、委員長・唐牛(北大)を再選し、副委員長・加藤昇(早大)、糠谷秀剛(東大)、書記長・清水丈夫(東大)を選出し、60年安保闘争を闘い抜く体制を整えた。

 【清水幾太郎氏の「いまこそ国会へ-請願のすすめ」】

 4.7日、雑誌「世界5月号」が発売され、清水幾太郎氏の「いまこそ国会へ-請願のすすめ」が公表された。清水氏は次のように主張していた。  「請願は直接民主主義の一形態であり、代議制の機能不全の際の代替手段であって、議会が民意を代表し無いときは議会開設以前の政治手段であった請願を再評価し、復活すべきである」。「清水論文」は、日共が国会議事堂に近づくデモを禁じる方針を打ち出していたことへの批判でもあった。日共は、清水氏に対してプチブル急進主義者のレッテルを張り厳しく批判した。

 【日共が60年安保闘争に本格的に参入】  

 4.17日、日共はこの日、日比谷野外音楽堂で党主催の「新安保条約批准阻止総決起大会」を開き、60年安保闘争を本格的に稼働させた。日共はそれまで一貫して岸政府打倒をターゲットとするという政治闘争としての位置づけを避け、安保闘争の盛り上がりに水を差していた。日共がひとたび動き始めると行動力も果敢で、中央段階ではオブザーバーではあったが地方の共闘組織では社会党と並んで中心的位置を占め指導的役割を果たしていくことになった。しかし、「できるだけ広範な人民層の参加を得る」為にと云う口実で闘争戦術を落とし、日共式統一戦線型の幅広行動主義によるカンパニア主義と整然デモ行動方式を主張し、、安保闘争を何とかして通常のスケジュール闘争の枠内に治めようとし始める。これにより、戦闘的な労働者学生の行動と次第に対立を激化させた。全学連指導部は、日共式「国会請願デモ」に対して、「お焼香デモ」、「葬式デモ」の痛罵を浴びせていくことになった。

 【「お焼香デモか、ジグザグモか」】   

 4.24日、ブントの第4回大会が開かれている。この時、島書記長報告がなされた。「3千名蜂起説」、「安保をつぶすか、ブントがつぶれるか」、「虎は死んで皮を残す、ブントは死んで名を残す」と後年云われる演説がぶたれたと云う。


 4.26日、第15次安保阻止全国統一行動で10万人の国会請願運動が行なわれた。この時、国民会議は7百名の警備隊を繰り出して、デモ隊から赤旗、旗ざお、プラッカードなどを取り上げ「秩序ある請願的行動」を旨とする請願デモを行った。この時、全学連主流派は、「お焼香国会請願か、戦闘的国会デモか」と問題を提起し、全国82大学、20数校の全学スト.授業放棄で25万名を参加せしめ、都内ではチャベルセンター前に全学連7千名が結集し、国会正門前で警官隊と激しく衝突した。この闘争で唐牛委員長、篠原浩一郎社学同書記長ら17名が逮捕され(この結果、唐牛.篠原は11月まで拘留される事になった)、100名の学生が重軽傷を負った。  

 全学連委員長唐牛は、自ら警官隊の装甲車を乗り越えて、「障害物を乗り越えて、国会正面前へ前進せよ」とアジり、国会正門前に座り込みを貫徹した。「唐牛追想集」は次のように証言している。「結局、もう決死隊しかないとなって、新宿で明け方まで酒を飲みながら、唐牛が『俺はこれに賭ける。トップバッターとなって、装甲車を乗り越えて国会構内へ飛び降りるから、その後は誰、次は誰』と、5人ぐらい決めましてね。何人か飛び込んだら局面が変わるだろうと。すると、本当に続々と何千人もが全部飛び込んでいった」。島氏は、次のように記している。「たじろぐブント員を尻目に次から次へとバリケードによじのぼり、警官の壁を崩そうとする何千名の学生、労働者の姿を見て、感激の余り私は涙が出てくるのを禁じえなかった」(「ブント私史」)。   

 【韓国で李承晩政権打倒される】

 この日、韓国での李承晩政権打倒闘争が最高潮に達し、ソウルでは学生、教授団を先頭に50万人の大デモが警官隊の発砲を省みず大統領邸に押し寄せた。翌4.27日、李承晩は国会に辞表を提出し、独裁政権に終止符が打たれた。この模様は、連日のように新聞やテレビで報道され、「南朝鮮のあの英雄的な学生に続いて立ち上がろう」と機運が連動した。

 【民青同の全学連分離行動始まる】  

 注目すべきは、この時より全学連反主流派民青同系学生1万1千余は別行動で国民会議と共に国会請願運動を展開していることである。つまり、全学連の行動における分裂がこの時より始まったことになる。これより民青同系全学連反主流派は、まず東京都において「東京都学生自治会連絡会議」(都自連)を発足させている。以降民青同系は、「60年安保闘争」を都自連の指導により運動を起こすようになる。  

 これについて筆者は思う。この経過は民青同系指導部の独自の判断であったのだろうか、宮顕派党の指示に拠ったものなのであろうか。この時全学連運動内部の亀裂は深い訳だから、どうせ分裂するのならもっと早く自前の運動を起こすべきであったかもしれないし、運動の最中のことであることを思えば分裂は避けるべきであったかも知れない。こういうことをこそ総括しておく必要があると思われる。

 【政府自民党が新条約を強行採決】   

 5.19日、政府と自民党は、安保自然成立を狙って、清瀬一郎衆院議長の指揮で警官隊を導入して本会議を開き、会期延長を議決。この時、自民党は、警官隊の他松葉会などの暴力団を院内に導入していた。11時7分頃、清瀬議長の要請で座り込みをしている社会党議員団のゴボウ抜きが強行された。会期延長に続いて、深夜から20日未明過ぎにかけて新条約を強行採決した。

 この経過が報ぜられるに連れて「岸のやり方はひどい」、「採決は無効だ」、「国会を解散せよ」という一般大衆にまで及ぶ憤激を呼び、この機を境にそれまでデモに参加したことのない者までが一挙に隊列に加わり始めた。パチンコしていた連中までが打ち止めてデモに参加したとも云われている。夕刻から労・学2万人国会包囲デモ。丸山眞男氏の寄稿文、中央公論「8.15と5.19」は次のように当日の様子が伝えられている。 「18日の夕方から文字通りハチ切れそうに膨れ上がった国会周辺の人波、シュプレヒコールの交錯、その向こうに黒潮のように延々と連なる座り込みの学生達」。  

 この日を皮切りに、「アンポ反対」の声から「民主主義の擁護!岸内閣打倒!国会解散!」に変わった。これより1ヶ月間デモ隊が連日国会を取り囲み、「新安保条約批准阻止・内閣退陣・国会解散」のための未曾有の全国的な国民闘争が展開していくことになった。この時より事態は大きく流動化した。「労働運動指導部が、民主主義擁護と国会解散を掲げて、大きくプロレタリア大衆を動かし出した」。ブントにとっても「事態の後に追いついていくのが精一杯」という意想外のうねりをもたらし始めた。

 【全学連による官邸襲撃事件発生】   

 5.20日、全学連、全国スト闘争、国会包囲デモに2万人結集。抗議集会後渦巻きデモに移った。7千名の学生デモ隊の一部約3百名が首相官邸に突入した。武装警官隊の排除が始ったが、この時の乱闘で8名の学生が逮捕され、26名が病院に担ぎ込まれ、40名が負傷している。これを「官邸襲撃事件」という。  

 この頃の情況について、島氏は、「生田夫妻追悼記念文集」の中で次のように述べている。「5.20安保強行採決を境に、日本の政治は戦後最大の山場にさしかかった。潮が上げ、出来合いのあらゆる潮流を越え、押し寄せる時、この既成潮流を叩き潰すためにこそ誕生したブントも、潮そのもののなかで辛うじて大衆と共に浮沈する存在でしかなくなっていた。統一など既になかった」。

 【連日の国会包囲デモ】   

 5.6月に入るや知識人、学者、文化人らの動きも注目された。5.20日、九大の教授、助教授86名が政府与党の強行採決に反対して国会解散要求声明を発表した。大学教授団によるこの種の声明が全国各地で相次いだ。竹内好、鶴見俊輔らは政府に抗議して大学教授を辞任した。これらの知識人の呼応は民主主義を守る立場からのものであり、全学連主流派の呼号する「安保粉砕.日帝打倒」とは趣の違うものであったが、こうして闘争が相乗する流動局面が生まれて行くことになった。


 5.26日、安保改定阻止国民会議第16次抗議デモが行われ、17万余が国会包囲デモ、「岸内閣打倒、国会解散」行動に入る。国会包囲デモの様子が次のように伝えている。概要「デモ隊は果てしなく続き、林立する赤旗、プラカードの数は刻々と増えていった。どの道も身動きできない)有様であった。全学連デモ隊は激しくジグザグ.デモを繰り返す中で、社共の議員や幹部は閲兵将軍のように高いところからアリガトウゴザイマス、ゴクローサンデスと繰り返していた」。


 5.28日、岸首相は記者会見で次のように述べた。「現在のデモは特定の組織力により、特定の人が動員された作られたデモである。私は一身を投げ出しても暴力で危機にさらされている我が国の議会制民主主義を守り抜く考えである。現在のデモは『声ある声』だが、私はむしろ『声なき声』に耳を傾けたい」。 以降、デモ隊の中に「声なき声の会」ののぼりが登場することになった。
 【この頃の社共の対応】

 5.31日、日共は、「国会を解散し、選挙は岸一派を除く全議会勢力の選挙管理内閣で行え」声明を発表。何とかして議会闘争の枠内に引き戻そうとさえ努力している形跡がある。

 6.1日、社会党代議士が議員総辞職の方針を決定。吉本隆明らが6月行動委員会を組織、ブント全学連と行動を共にした。日高六郎.丸山真男らも立ち上がった。「アンポ ハンタイ」の声は子供達の遊びの中でも叫ばれるようになった。他方、児玉誉士夫らは急ごしらえの右翼暴力組織をつくり、別働隊として全学連を襲う計画で軍事教練を行ない始めた。

 【 ブントが特別行動隊を結成し首相官邸突入】  

 6.3日、全学連9千名が首相官邸に突入。学生たちはロープで鉄の門を引き倒して官邸の中に入り、装甲車を引きずり出した。警官隊がトラックで襲ってくるや全面ガラスに丸太を突っ込んで警官隊を遁走させている。乱闘は6時過ぎまで繰り返され、13名の学生が逮捕、16名が救急車送りとなった。警官隊の負傷93名と発表された。

 【「ハガチー事件」発生】  

 6.10日、安保改定阻止第18次統一行動。全学連5千名が国会包囲デモ。国民会議が国会周辺で20数万人デモ。この時ハガチー(大統領新聞係り秘書)は、羽田空港で労働者・学生の数万のデモ隊の抗議に出迎えられた。ハガチーの乗った車は、どういうわけか警備側申し入れ通りに動かず、デモ隊の隊列の中に突っ込み「事件」となった。米軍ヘリコプターと警官の救援でやっと羽田を脱出、裏口からアメリカ大使館に入るという珍事態が発生した。これを「ハガチー事件」と云う。「ハガチー事件」は、日共が60年安保闘争中で見せた唯一といってよい戦闘的行動となった。

 【岸首相の自衛隊出動要請拒否される】

 この頃、岸首相は、防衛庁長官の赤城宗徳を呼びつけ、アイク訪日の際の警備に自衛隊の出動を要請している。赤城は、概要「それは、できません。自衛隊の政治軍隊としての登場は、支持が得られない。リスクが大きすぎる」と答えている。杉田一次陸上幕僚長も動かなかった。こうして、岸首相の自衛隊発動は拒否された。

 【6.15安保闘争、東大ブントの樺美智子死亡事件】  

 6.15日、国民会議の第18次統一行動、安保改定阻止の第二次全国ストが遂行された。この日未明から、国労.動労がストライキに入った。総評は、111単産全国580万の労働者が闘争になだれ込んだと発表した。東京では、15万人の国会デモがかけられた。大衆は、整然たるデモを呼びかける日共を蔑視し始めており、社会党にも愛想を尽かしていた。  

 ブント系全学連は国会突入方針を打ち出し、学生たちを中心に数千人が国会突入を敢行した。中執の北大路敏氏が宣伝カーに乗り指揮を取っていた。明大.東大.中大の学生が主力であった。当時のデモ隊は全く素手の集団だった。あるものはスクラムだけだった。午後7時過ぎ、警視庁第4機動隊2000名が実力排除を開始した。1500名の全学連部隊に警棒の雨が振り下ろされた。この警官隊との衝突最中にブント創設以来の女性活動家東大文学部3年生であった樺美智子が死亡する事件が起こった。  

 午後8時頃、3000名の学生は再び国会構内に入り、警官隊の包囲の中で抗議集会を開いた。南通用門付近は異常な興奮と緊張が高まっていた。「社会党の代議士はオロオロするばかり。共産党幹部は請願デモの時には閲兵将軍みたいに手を振って愛想笑いを浮かべる癖に、この時は誰一人として出てこなかった」。午後十時過ぎ、再度の実力排除が行われ、警官隊は再び学生を襲撃した。都内の救急車が総動員された。この時の乱闘では死者は出なかったが、重軽傷者の数は増した。この日の犠牲者は死者1名、重軽傷712名、被逮捕者167名。  

 この時都自連に結集した1万5千名の学生デモ隊は国民会議の統制のもとで国会請願を行っていた。夜11時過ぎ早大、中央大、法政大、東大などの教授たち1千名が教え子を心配して駆けつけたが、警視庁第4機動隊はここにも襲撃を加えている。現場の報道関係者も多数負傷している。門外に押し出された学生は約8千名で国会正門前に座り込んだ。11時頃バリケード代わりに並べてあったトラックを引き出して炎上させている。この間乱闘の最中、「今学生がたくさん殺されています。労働者の皆さんも一緒に闘ってください」と泣きながら訴えている。労働者デモ隊はそれに応えなかった。社会党議員は動揺しつつも「整然たるデモ」を呼びかけ続けるばかりで何の役にも立たなかった。

 【6.15事件に対する社共、中共の反応】  

 この時、ニュースで死者が出たことを聞き知った宮顕、袴田が忽然と自動車でやってきて、アカハタ記者にごう然と「だいぶ殺されたと聞いたが、何人死んだのか」と尋ねている。記者は「よく分からないが、自分ではっきり確認できたのは一人だけです」と答えると、「なんだ、たった一人か」、「トロツキストだろう。7人位と聞いていたが」と吐き捨てるようにいって現場を後にしたと伝えられている。   

 日共は当夜緊急幹部会を開き、樺美智子の死をめぐって一片の哀悼の意をも示さぬまま次のように声明した。概要「事件の責任は、トロツキストの挑発行為、学生を弾圧の罠にさらした全学連幹部、アメリカ帝国主義のスパイにがある。我が党は、かねてから岸内閣と警察の挑発と凶暴な弾圧を予想して、このような全学連指導部の冒険主義を繰り返し批判してきたが、今回の貴重な犠牲者が出たことに鑑みても、全学連指導部がこのような国民会議の決定に反する分裂と冒険主義を繰り返すことを、民主勢力は黙過すべきでない」。  

 社会党は、樺美智子氏の死に対して党としての指導力量不足であるとする見解を述べている。「社会党はかかる事態を防止するため数回、学生側及び警察側に制止のための努力をした。しかし力だ足らずに青年の血を流させたことは国民諸君に対し、深く責任を感じ申し訳ないと思う」。

 毛沢東は、彼女を「日本人民の民族的英雄」と称え次のように述べた。概要「勝利は一歩一歩とらえられるものであり、大衆の自覚も一歩一歩と高まるものである。日本国民が反米愛国の正義の闘争の中で一層大きな勝利を勝ち取ることを祈る。樺美智子さんは全世界にその名を知られる日本の民族的英雄となった」。これについて筆者はかく思う。毛沢東声明は、彼女をトロツキストと指弾した日共指導部の態度と鮮明に食い違う論評を寄越している。

  【新安保条約成立、岸首相が退陣表明】  

 6.18日、30万人が徹夜で国会包囲デモ。国民会議は、「岸内閣打倒.国会解散要求.安保採決不承認.不当弾圧抗議」の根こそぎ国会デモを訴えた。30万人が徹夜で国会包囲デモをした。ありとあらゆる階層の老若男女が黙然と座り込んだ。6.19日午前零時、新安保条約が参議院通過、自然成立、発効した。この時4万人以上のデモ隊が国会と総理官邸を取り囲んでいたが、自衛隊の出動を見ることもなく事故なく終わった。イタリアの「ラ.ナチオー紙」記者コラド.ピッツネりは「カクメイ、ミアタラヌ」と打電している。毎日新聞は「こんな静かなデモは初めてだ。デモに東洋的礼節を発見した」とコメントしている。 

 この時のことを島氏はこう記している。「1960年6.18日、日米新安保条約自然承認の時が刻一刻と近づいていたあの夜、私は国会を取り巻いた数万の学生.市民とともに首相官邸の前にいた。ジグザグ行進で官邸の周囲を走るデモ隊を前に、そしてまた動かずにただ座っている学生の間で、私は、どうすることも出来ずに、空っぽの胃から絞り出すようにヘドを刷いてずくまっていた。その時、その横で、『共産主義者同盟』の旗の近くにいた生田が、怒ったような顔つきで、腕を振り回しながら『畜生、畜生、このエネルギーが!このエネルギーが、どうにも出来ない!ブントも駄目だ!』と誰にいうでもなく、吐き出すように叫んでいた。この怒りとも自嘲ともいえぬつぶやきを口にした生田-」(「文集」)。


 6.23日、岸首相は、芝白金の外相公邸で、藤山・マッカーサーの間で批准書が交換されたのを見届けた後、退陣の意思を表明した。
 【樺美智子追悼集会】  

 6.23日、樺美智子全学追悼集会。夜、全学連主流派学生250名が、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は全学連主流派の冒険主義にも責任がある」としたアカハタ記事に憤激して、党本部に抗議デモをかけた。  6.23日、樺美智子国民葬。参加者約1万名。共産党は不参加を全党に指示した。その夜、全学連主流派学生250名が、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は全学連主流派の冒険主義にも責任がある」としたアカハタ記事に憤激して、党本部に抗議デモをかけた。  

 これに対して、日共は、トロツキストの襲撃として公表し、6.25日アカハタに党声明として次のように顛末を報じている。「百数十人のトロツキスト学生が小島弘、糠谷秀剛(全学連中執)、香山健一(元全学連委員長)、社学同書記長藤原らに率いられて党本部にデモを行い、『宮本顕治出て来い』、『香典泥棒』、『アカハタ記事を取り消せ』などと叫んだが、党員労働者によって排除された」。

 【安保闘争終わる。島・氏の述懐】  

 これより以降、デモ参加者が急速に潮を引いていくことになり60年安保闘争が基本的に終焉した。後は闘争の総括へ向かっていくことになる。こうして安保闘争は、戦後反体制運動の画期的事件となった。ブントの政治路線は、「革命的敗北主義」、「一点突破全面展開論」と云われる。これをまとめて「ブント主義」とも云う。但し、この玉砕主義は、後の全共闘運動時に「我々は、力及ばずして倒れることを辞さないが、闘わずして挫けることを拒否する」思想として復権することになる。  

 島・氏は、第1次ブントの軌跡について「戦後史の証言ブント」の中で次のように語っている。概要「確かに私たちは並外れたバイタリティーで既成左翼の批判に精を出し、神話をうち砕き、行動した。また、日本現代史の大衆的政治運動を伐り開く役割をも担った。(中略)あの体験は、それまでの私の素質、能力の限界を超え、政治的水準を突破した行動であった。そして僅かばかりであったかも知れぬが、世界の、時代の、社会の核心に肉薄したのだという自負は今も揺るがない。(中略)私はブントに集まった人々があの時のそれぞれの行動に悔いを残したということを現在に至るも余り聞かない。これは素晴らしいことではないだろうか。そして自分の意志を最大限出し合って行動したからこそ、社会・政治の核心を衝く運動となったのだ。その限りでブントは生命力を有し、この意味で一つの思想を遺したのかも知れぬ。(中略)安保闘争に於ける社共の日和見主義は、あれやこれやの戦略戦術上の次元のものではない。社会主義を掲げ、革命を叫んで大衆を扇動し続けてきたが、果たして一回でも本気に権力獲得を目指した闘いを指向したことがあるのか、権力を獲得し如何なる社会主義を日本において実現するのか、どんな新しい国家を創るのか一度でも真剣に考えたことがあるのか、という疑問である」。

 【諸氏の60年安保闘争論】  

 日共は、この一連の経過で一貫して「挑発に乗るな」とか「冒険主義批判」をし続け、戦闘化した大衆から「前衛失格」、「前衛不在」の罵声を浴びることになった。「乗り越えられた前衛」は革新ジャーナリズムの流行語となった。党員の参加する多くの新聞雑誌・出版物からも、鋭い日共批判を発生させた。吉本隆明氏の次の言葉が実感を持って受けとめられた。「戦前派の指導する擬制前衛達が、十数万の労働者・学生・市民の眼の前で、遂に自ら闘い得ないこと、自ら闘いを方向づける能力の無いことを、完膚無きまでに明らかにした」(「擬制の終焉」60.9月)。

 徳球時代の元アカハタ編集局長・藤原春雄氏は次のように述べている。「党は、安保闘争の中で、闘争に対する参加者の階層とそのイデオロギーの多様性を大きく統一して、新しい革新の方向を示すことが出来なかった。逆に、違った戦術、違った思想体系、世界観の持ち主であることによって、それに裏切り者、反革命のレッテルを貼ることで、ラジカルな青年学生を運動から全面的に排除する政策を採った。そのため、安保闘争以後の青年学生戦線は深刻な矛盾と対立を生んだ」(藤原春雄「現代の青年運動」新興出版社)。ちなみに藤原氏は第8回党大会後間もなく離党している。これについて筆者は思う。これが素直な受け取りようではなかろうか。藤原氏の観点は、徳球-伊藤律系党中央の共産党なら、このように評価したであろうという見本を披瀝している。

 【れんだいこの60年安保闘争の史的意義論】  

 1960年初頭、日本は、戦後来の憲法秩序に対して別系の安保秩序が導入されんとしていた。戦後左派運動は当然の如くこれに反発した。逸早く腰を上げたのは学生運動であった。全学連内の第1次ブント、日共、革共同と云う三派競合の中から躍り出たのが島-生田の指揮する第1次ブントであった。その闘いぶりは世界中に「ゼンガクレン」として知られることになった。この渦中で、民青同系は遂にブント系全学連と袂を分かつことになった。こうして学生運動の二分裂化傾向がこの時より始まることになった。  

 第1次ブントは、59年末の国会突入、60年冒頭の羽田空港占拠、首相官邸及び国会再突入で岸政権を揺さぶった。多くの学生が逮捕されたが怯むことなく闘争に継ぐ闘争に向かった。第1次ブントの跳ね上がりを可能にせしめたのは当時の労学共闘であった。日共は専ら敵対したが社会党-総評の下部労組員がこれを支えた。岸政権は60年安保条約の締結を見返りに退陣に追い込まれる。この60年安保闘争を牽引したのが、うら若き青年からなる第1次ブントであった。この運動のみが、日本左派運動史上今も左派運動の昂揚で時の政権を瓦解させた初事例となっている。そういう意味で特筆されねばならないと思う。60年安保闘争は戦後左派運動の金字塔であり、それを牽引した第1次ブントが、以来後にも先にも例がないと云う意味で今も栄誉に輝いている。  

 筆者は、以上の評価に次のような認識をも加える。60年安保闘争にはもう一つ意義が認められる。それは、60年安保闘争が結果的に岸首相に結節したところの政府自民党内のネオシオニズム系戦後タカ派政権を失脚させることにより、次にハト派政権を呼び込んだと云う歴史的意味がある。筆者の見立てるところ、政府自民党内のハト派政権は、在地性土着派的プレ社会主義的要素を持つ日本政治史上稀有な善政政権であり、60年安保闘争が結果的にその誕生を後押ししたことになる。この意義は、今のところ誰にも指摘されておらず筆者の独眼流となっている。この観点が正史としての記述となるべきところ、あぁだがしかし、その後の日本左派運動は、第1次ブントの解体、労学共闘の雲散霧消に向けて勤しむことになり、この傾向が今日まで続き惨憺たる状況へと至っている。政府自民党内ハト派との歴史的な阿吽呼吸による裏連携的意義も顧慮されていない。

 他方で、本質的に見て、社共運動が政府自民党内タカ派と裏連携的な政治的役割を果たし続けて今日に至っている。日本左派運動にはこういう倒錯が纏いついている。これは偶然であろうか、故意作為なものではなかろうか。そういうことを考察してみたい。補足すれば、この考察を抜いた正史ならぬ逆さ史を幾ら学んでも、学べば学ぶほど阿呆になる。そういう空疎史ばかりが供給され続けている。この状況を知らねばならない。こう見立てるべきところ、60年安保闘争を牽引し闘い抜いた第1次ブントは、これをどう総括したのだろうか。これについては次章で見ていくことにする。