下巻(前書き)

 「検証 学生運動(上巻)」はそれなりの反響を呼んだ。下巻が待ち遠しいという声もいただいている。学生運動史上何の知名度もなく且つハンドル名だけで登場した試論に対して、かなりの読者が内容を評価してくださったのが何よりうれしい。特に、筆者の母校である早稲田の先輩諸氏からエールをいただき大きな喜びとなった。逆に、僅か二千冊の売れ行きが気になるほど学生運動に対する関心の低さにも気づかされた。早大4万学生の一割が手にすれば容易に完売になるというのに、全国中に広げてもそうはならないという現実になっている。学生運動ガイダンスとしての必読書であると自負しているが、今のところそういう評価まではいただいていない。

 書店における左派物図書の取り扱いの不遇をも知った。筆者の学生時代の記憶では、左派物図書が所狭しと並べられ一段や二段は占拠していたはずだが、大手書店でさえコーナーそのものがなく今や見る影もない。左派運動の凋落ぶりを改めて知らされた。この現実を如何せんか。我らが青春の意地を賭けて棚段復活に尽力したい。れんだいこ本で段を埋める快哉日を早く迎えたい。

 こうした折、産経新聞紙上で「さらば革命的世代」と題した懐旧物の連載が続いた。(http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080513/plc0805131929017-n1.htm) 2008年5月1日より始まり、2009年6月20日の第4部6で完結した模様である。学生運動に比較的に好意的であった朝日新聞ではなく終始批判派であった産経新聞が企画しているところが面白い。外から眺めた視点と今日時点で評している感覚差で分析しているところが新鮮で好評である。筆者も読ませていただいた。ここに謝しておく。なお、朝日新聞も「ニッポン人・脈・記」で語り始めているようである。

 それはともかく、上巻の目次には下巻のそれも告知されており、第19章から23章まで1970年代以降の学生運動史を概括するようにしている。上巻末尾に記したように、筆者は、70年安保闘争以降の学生運動を経過的に記すことにさほど意味を感じていない。なぜなら、70年安保闘争までの闘いは曲がりなりにも上昇運動であったのに比して70年安保闘争以降の闘いは下降のそれで「新たな質」はない。そういう意味で執筆意欲を失っている。とはいえやはり上巻に告知した以上は記しておくのが筋だとの出版社の小西さんからの指摘を受け筆を採ることにした。「れんだいこ史観」の眼で捉えた学生運動史論の一貫物を市井に提供し遺しておくのも意味があると思い直した。これにより、その後の学生運動を70年代前半期の闘争、70年代後半期の闘争、80年代の闘争、90年代の闘争、2000年代の闘争という時期区分に従って追跡する。

 但し、70年安保闘争以降、学生運動が内向化し始め、個別的には三里塚闘争、狭山裁判闘争などのように粘り強い闘いが続けられて行くものもあるが、時の政治課題に対する国会包囲デモのような真っ向勝負的な直撃的闘争は沖縄闘争を以て終焉したように思われる。以降は、各派の全学連運動となり、それも次第に萎み今では見る影もない。かっての全学連各派の運動が競合していたそれまでの在り方に対して分裂の負の影響が出始めたことによる。60年代後半の全共闘運動が潰れて以来、左派共同戦線式運動が組織されなくなっている。この時代の学生運動を記述するのは難しい。それまでは学生運動の記述が同時に時代を照らしていたが、時の政治課題に対する系統的闘争の流れが見当たらぬ為、学生運動を後付けしても時代が見えない。結局は政治運動史を記述することにならざるを得ないが、そこには学生運動は見えない。

 そういう訳で、学生運動史、政治運動史を脈絡なきまま並行的に記述することになるのは致し方ない。但し、記述すればキリがないので、その後の政治動向を捉える意味で省けない出来事のみを抽出して確認することにする。事象、事件によっては時系列で追うことを止め、一括して概要を確認することにする。物足りない面は以下のサイトを参照してくだされば有り難い。

 「戦後政治史検証」(rekishi/sengoseijishico/index.htm)、
 「戦後学生運動詳論」(gakuseiundo/history/top.htm)

 次に、70年安保闘争以降の学生運動史に於ける重要な事件ないしは事象を8本立てにして考察する。それぞれ経緯の概要を確認し、筆者の見立てを附すことにする。いずれも重要案件であるにも拘らず総括不在にされている案件ばかりである。日本左派運動に壊滅的打撃を与えた御三家の連合赤軍、党派間ゲバルト、爆弾テロ事件から解析する。但し、爆弾テロについては主体がはっきりしないことと資料が乏しいゆえに割愛する。次に、よど号赤軍派、日本赤軍派問題を採り上げる。次に、三里塚闘争、新日和見主義事件、ロッキード事件を俎上に乗せた。それぞれ詳論版としてサイト名とアドレスを記しておくことにする。より詳しく確認したい方にお勧めする。末尾に、本書執筆に当たって参照したインターネットサイト、参考文献を簡略に記す。

 本書執筆の総評として云えることはこうである。日本左派運動は、70年安保闘争後の流動局面において総括不在のまま漂流し続けて行った気配が認められる。今日の低迷の真因はこの辺りにあるのではなかろうか。60年安保闘争の場合には結果的に革共同全国委に雪崩れ込むような総括しか生まなかったのだけれども、総括そのものを求めた営為は評価されるべきではなかろうか。70年安保闘争にはそれがなかったことが悔やまれてならない。本来、喧々諤々の議論を要すべきだったであろう。日本左派運動が、これらの諸事件の総括にも失敗した頃から各党派の情勢分析が時代を捉え損ない始めた。

 穏健派のそれであれ急進派のそれであれ俗流マルクス主義の包丁では時代を斬れなくなったにも拘わらず研ぎ直すことなく昔取った杵柄(きねづか)を繰り返し振り回すという事態が生起し左翼が時代に遅れ始めた。先駆運動のなれの果てがかくなる後衛的な運動に転化したことを痛々しく思う。筆者のこの言が的確なことは、日本左派運動が、70年安保闘争後の諸運動に歴史的な意味付与する書籍が見当たらないことで首肯されるてであろう。70年安保闘争後に出版された日本左派運動関連物の殆どが70年安保闘争以前の懐旧物ばかりである。このことが意味するのは、70年安保闘争後の日本左派運動に対する自信のなさではなかろうか。

 日本左派運動はかく遅れ始めた。その遅れの中で、1976年のロッキード事件をメルクマールとして、新左翼系がこの事件に全くの無能を曝け出すことによって、更に云えば社共的な角栄弾劾運動に追随することによって新左翼の存立意義を自己否定させてしまい、以降、日本左派運動は右も左のそれも次第に社会から潰えることになった。かくて、日本政治は左バネをなくした。ロッキード事件、日本政治は大きく右旋回して行くことになる。それまで戦後保守主流派を形成していた政府自民党内の「田中派−大平派同盟」即ちハト派が掣肘され始め、代わって「福田派―中曽根派同盟」即ちタカ派が主流派に転じるようになった。彼らは現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義に意のままに操られる御用聞き政治派である。以来、日本政治は国際金融資本帝国主義に籠絡されることになった。その度合いに応じて我が国の支配者の統治能力が幼稚化し始め、戦後の世界史的奇跡の復興−高度経済成長を誇った日本が次第に斜陽化し始めた。これを掣肘できない程度に応じて日本社会が活力を失い始めた。

 日本左派運動は2011年現在未だに、この流れを説明するに足りるであろうネオシオニズム論を獲得し得ていない。故に、マルクス主義的理論では解けない諸事象、事件に対するダンマリを余儀なくされている。それでも現実は流動し続けている。この落差をそろそろ深刻に確認すべきではなかろうか。日本に於けるネオシオニズム論の第一人者として警鐘乱打し続けてきた太田龍・氏は、去る2009年5月19日逝去した。太田龍史観の法灯を誰が受け継ぐのか、これが問われているように思う。

 気づけば社会党が消えている。長年の裏取引政治が病膏肓化し遂に解党を余儀なくされたことになる。筆者はどちらかと云えば社会党的なのだが、不思議なことに今日まで社会党員と話したことがない。社会党運動の市民に開かれない労組運動過剰依存主義のタコツボ性が知れよう。日共は、共産党と云う党名のまま、かっての民社党以上に右傾化している。これが宮顕−不破―志位系党中央の本質であり、彼らの念願した通りの醜悪な本性を晒け出している。それでも通用しているところが日共らしい。

 新左翼系諸派も低迷している。日共に代わる前衛党になり損ねたまま今日に至っている。「新左翼御三家」の中核派、革マル派、社青同解放派のうち、中核派は武闘と合法を接ぎ木する理論を創造し損なったまま今日まで経緯しており今一つ発展に欠けている。批判に最も長けた革マル派は、1980年初頭の岸以来のタカ派系たる中曽根政権時代になるや、その国鉄民営化路線に与し、労組運動の側から裏提携し化けの皮を晒した。これが「鬼の動労神話」のなれの果てであった。その革マル派の秘密アジトから公安筋と通謀していた数々の証拠品が摘発されたにも拘わらず、相変わらず敵対党派を逆にスパイ呼ばわりし、諸党派を罵詈雑言し続けている。これが訝られていない。筆者には解せない。社青同解放派は、対革マル戦争下での挙党一致に失敗し、正真正銘の内ゲバに苛(さいな)まされている。ブント系諸派は過去の追憶に勤しんでいる。毛派系諸派は中国の文化大革命の破産に対する理論的総括ができず、ケ小平政権への迎合ぶり以降、右往左往し続けている。構造改革諸派の動静も伝わらない。その他然り然りである。

 こうして、ならばと躍り出て来る党派がいない。日本左派運動はそういう不幸にある。運動全体の利益よりも相互に出る杭を打ち合う作法から抜け出していないことが分かろう。筆者は、マルクス主義からの弁証法的出藍に失敗している咎ではなかろうかと思っている。マルクス主義からの出藍と転向は異なる。この違いさえ分かろうとしない手合いが多い。マルクス主義のエッセンスを更にマルクス主義化する、その為に纏わりついた通説からの出藍もあって良かろう。そういう意味での新新左派運動が今日ほど望まれていることはない。更に云えば、我々はそろそろマルクス主義そのものの対自化に向かうべきではなかろうか。それは、マルクス主義理論の通説批判を通しての理論的研鑽、マルクス主義理論そのものの客観化の両面を意味する。そのどちらもができていないのではなかろうか。

 筆者は、マルクス主義の対自化を経ての新党派よ早く出て来いと願っているが、待てど暮らせどの感がある。こうなったらしゃぁないと電脳空間に於いてでしかないが「たすけあい党」を結党するところまで辿り着いている。当初は、ほんのお遊びで立ち上げたのだが、段々その気になりつつある。日本左派運動がこのまま無力で推移するなら本気でオルグ戦に向かおうかと思っている。但し、寄る年波との相談が避けられない。本書は、その際の格好テキストとして充分使えると自負している。読者諸君!存分にご堪能あれ。

 最期に、早稲田の先輩にして60年安保の指導的活動家の一人であった蔵田計成氏から頂いたメールの一文を紹介しておく。先輩の文ではなく、先輩が戴いたもののようである。筆者も気にいったので採用させていただく。解説は不用であろう。

「過ぎた歴史から取りだすべきは、その『意味』である。その『意味』だけが、現在の事実認識につながるからである。思うに、過去の歴史においては『行為』だけが存在し、歴史の『意味』を取りだすことはなかった。総括を残さない一世代の『死』、次の世代への背信行為(裏切り)である。前世代は背信を残し、それに続いた『安中派世代』も同じ過ちを冒かそうとしている。『残ったのは、想い出でだけ(映画のセリフ)』にすべきではない。青年がまともに老い、死んでいくことの範を垂らすべきである」(70年闘争を共に闘った、友人Aからのメッセージ)。

 「あるとき、友人Nからひとこと言われた。『お前さんたちは、何も分ってはいないんだよ』。この言葉の意味を40年間も考え続けてきた。この君の一文を読んで、その意味がやっと分ったよ。私にとっては、宝のようなものだ」(60年安保闘争後も、ブント再建、70年安保・沖縄・全共闘運動の10余年間を闘い抜いた、友人Bの言葉)。