【れんだいこの戦後学生運動区分論】 |
筆者は、戦後学生運動史を独特の手法で跡付けていくことにする。「独特の手法」とは、ヘーゲル論理学で学問的に科学された矛盾式弁証法にして、マルクスがそれを更に生き生きとさせ社会科学にまで高めた認識法のことを云う。筆者は、マルクス主義の真の功績は矛盾式弁証法を学問の世界に樹立したことにあると考えている。その認識法、分析法、総合法にあると考えている。残念ながらその後の学問は必ずしも、マルクス主義の水準を生かしていないように見受けられる。それは脳を鍛えないであろう。 筆者は、マルクス主義の矛盾式弁証法を継承しながら更にこれより出藍しようとしている。そういう意味で、矛盾式弁証法を筆者なりに改変している。マルクス自身の著作でさえ、進化された矛盾式弁証法から総洗いされねばならないと考えている。マルクス主義のそれは現状否定絶対主義へ傾斜し過ぎているように思われる。この点でのマルクス主義の矛盾式弁証法は、ヘーゲルのそれに及ばない。ヘーゲルの矛盾式弁証法には揮「現実的なものは合理的であり、合理的なものは全て現実的である」的弁えがあった。筆者は、ヘーゲル的洞察を炯眼とすべきであると考えている。 即ち、現状とは、肯定的にも変革的にも同時的に理解できるような諸勢力拮抗の上に成り立つ均衡の姿であり、肯定的なものの内には改変不可能な摂理的な面が宿っているとみなしている。その摂理的な面を保守的権力的に歪めて保持せんとする肯定性のものが改変されるべきで、いかもそれは目下は均衡的に存在している。我々が現状変革するのは、その均衡をどう合理的に改変して行くべきであり、これを問い続け、有能的に処方して行くのが正当な手法ではないかと思っている。これを仮に「れんだいこ矛盾式弁証法」と命名する。 それによれば、事象は全て、即自的有から対自を経て向自的有に向けて定向的に発展する。ヘーゲルが苦心惨憺した「無から有への転換」は採らない。この理論は、西欧的ユダヤ-キリスト教神学の要請するものであり、我々は無視して良かろう。即自的有から向自的有への移行は、量から質への無限連鎖過程を辿る。矛盾のとある一点でそれまでの質から出藍(アウヘーベン、止揚、揚棄)し新質へ向う。自然科学の場合には自然に、社会科学の場合には革命によって。その新質段階で又新たな即自から向自への定向的階梯を上り始め転変を繰り返す。こうして事象は全て螺旋(らせん)的に発展する。 但し、衰亡する場合も有る。この定向的発展階梯が合理的必然性を内包し得なくなった時に桎梏と成る。腐敗が始まり衰退過程に陥る。その際には、路線替えとしての革命が要求される。これに首尾よく成功すれば新たな発展段階に入る。失敗すれば停滞と腐敗の衰退過程に陥り続ける。万事がこのような条件の中で生成転化しており、その変化の中にあるとするのが本来の矛盾式弁証法であり、この内に貫通する合理的摂理的筋道が法則と云えるものであり、人類史も例外ではないとするのが革命的弁証法の極意ではなかろうか。 筆者は、ヘーゲル-マルクスが初期的に発見した矛盾式弁証法の学問的能力を継承し、戦後学生運動興亡史をこの観点から説いてみようと思う。どこまで為し得るかが難しいが、忽ちは試論として提供する。 これに従い、筆者の学生運動論は、戦後学生運動を次のように質的識別する。但し、これを客観記述することはそもそも無理であろう。同じものでも見る角度、視点により風景が異なるのが当たり前であるからである。とはいえ主観は極力客観に近いのが望ましい。この客観に迫る努力をしようと思う。そういうことを踏まえ、客観風に語りながら主観に陥るよりも、主観風に語りながら客観に迫る方法として、敢えて筆者の主観によるコメントを重視し「対話物語り」とすることにした。 |
第1期は、戦後直後の1945.8.15日から1949年末までの期間とする。仮に「全学連結成とその発展」と命名する。以下同様に本質規定で命名することにする。この時期、待望の全学連が創出され、官大の東の東大-西の京大、私大の東の早大-西の同大が主導し、武井系が指導する。戦後ルネサンスの息吹が感じられる正成長の時期である。 第2期を1950年から1953年末までの期間とする。共産党中央の分裂により全学連も叉分裂する時代となる。これを2期に分け、その1を1950年とする。「50年分裂、国際派に従う全学連」と命名する。共産党が「50年分裂」し、全学連内は宮顕系国際派と徳球系所感派に分かれ反目する事態に陥る。所感派は徳球-伊藤律派、野坂派、志田派。国際派は宮顕派、志賀派、春日(庄)派、国際共産主義者団、神山派、中西派、福本派に分かれる。国際派が所感派の党中央に対抗する。これに応じて全学連内も色分けされる事態に陥った。全学連中央の武井派は宮顕派の指導に服した。 その2を1951-1953年とする。「50年分裂期の二元運動」と命名する。この時期、所感派が武装闘争を打ち出す。全学連中央は反戦平和闘争に向かい呼応しなかった。これを批判する部分が全学連中央の奪還に向かい玉井系を創出し武装闘争に向かう。但し、武装闘争が破産するに及び瓦解を余儀なくされる。 第3期を1954年から1955年とする。「六全協の衝撃、全学連の崩壊」と命名する。1954年は武井派、玉井派双方の動きが音沙汰なく、共産党主導の学生運動がほぼ壊滅した時期となる。1955年、共産党の六全協が開催され、「50年分裂」事態が統一されたが、これにより党中央が徳球系から宮顕系へと転換した。この宮廷革命が是とされ今日まで至っている。全学連は新党中央として君臨し始めた宮顕系の統制下に置かれたが、有り得べからざる右派系運動に転換させられることになった。ここまではいずれも、共産党員が全学連を主導しているところに特徴が認められる。 第4期を1956年から1957年末までの期間とする。右傾化する日共運動に批判的な新たな左派運動が胎動する。これを2期に分け、その1を1956年とする。「反日共系全学連の誕生」と命名する。闘う全学連の再建期であり後のブントの創出期となる。この時期、不世出の指導者・島、生田が登場し、共産党の日共化に叛旗を翻していくことになる。これより、共産党を日共と表記することにする。 第4期その2を1957年とする。「革共同登場」と命名する。戦後左派運動に於いて最初に登場した「共産党に代わる前衛党」が革共同であった。革共同は、それまでの日共運動をスターリニズムとして批判し、返す刀でトロツキズムの称揚に向かった。但し、太田龍を代表とするトロツキズムの全面評価国際主義派と黒寛を代表とする相対評価自律主義派、これとも対立する関西派という三派対立が続いていくことになる。 第5期を1958年から1960年安保闘争までとする。全学連が日共支配のクビキから離れ、60年安保闘争を牽引する。これを3期に分け、その1を1958年とする。「ブント登場」と命名する。全学連急進主義派の一部は革共同に流れ、その他の多くはブントを自己形成していった。穏和系は日共との歴史的な繫がりを重視し、引き続き党の旗の下に参集した。この流れが民青同となる。この時期の全学連は、日共内反党派のブント、日共内恭順派の民青同、革共同の三者鼎立となった。全学連運動は以降、ブントが崩壊するまでこの定式が確立することになる。 その2を1959年とする。「新左翼系全学連の発展」と命名する。ブントと革共同の流れを新左翼、この時代のブントを後のブントと識別する為に第1次ブントと称することにする。第1次ブントは、六全協後の宮顕系党中央に反発し、且つ革共同にも向かわなかったいわば自律自存の急進主義派であり、この第1次ブントと革共同の反日共派が全学連の執行部をが掌握する。全学連運動は以降、反日共系が牛耳る定式が確立することになる。但し、当初は革共同と寄り合い世帯となって全学連執行部を形成するが、60年安保闘争へ向かう過程でブントが純化を目指し、激しい主導権争いを演じる。これを勝利的に押し進めながら運動全体を牽引する。 その3を1960年安保闘争までとする。「60年安保闘争、ブント系全学連の満展開」と命名する。安保闘争が昂揚し、岸政権打倒へと追い込む。この間、革共同は関西派(西派)と全国委派(黒寛派)に分裂し、全国委派が次第に勢力を増す。民青同派が全学連の統制に服さなくなる。 第6期を1960年の安保闘争直後から1964年までとする。全学連が分裂し、一挙に多様化し始める。これを4期に分け、その1を1960年後半とする。「安保闘争総括を廻るブントの大混乱」と命名する。この時期、第一次ブントが60年安保闘争の総括を廻って大混乱の末分裂する。この間、社会党系の社青同が誕生する。日共系民青同派は全自連を結成し、自前の全学連結成に向かい始める。 その2を1961年とする。「マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生」と命名する。 分裂したブントの多くが革共同全国委派に吸収される。これにより、第一次ブントを吸収した革共同全国委が全学連の執行部を掌握しマル学同全学連化する。日共系から構造改革派が造反する。ブント再建派の動きも強まり、年末、社青同と構造改革派とブント再建派が三派同盟を立ち上げる。 その3を1962年から1963年とする。「全学連の三方向分裂固定化」と命名する。この時期、革共同全国委が革マル派(黒寛派)と中核派(本多派)に分裂し、全学連旗は革マル派に引き継がれる。 その4を1964年とする。「新三派同盟結成、民青系全学連の誕生」と命名する。三派同盟から構造改革派が抜け、代わりに中核派が入り込み、新三派同盟が形成される。日共派は、独自に民青同系全学連を立ち上げる。 第7期を1965年から1967年までとする。多党分立化し始めた学生運動諸派がそれぞれに定向進化し始める。これを2期に分け、その1を1965年から1966年とする。「全学連の転回点到来」と命名する。1965年の動きとして、社青同から社青同解放派が造反する。べ平連が生まれ、反戦青年委員会が創出される。1966年の動きとして、早大闘争が始まり、東大でインターン制廃止闘争が始まる。「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」が結成され、第二次ブントが再建される。これに合流しなかったМL派、その他諸党派が創出される。中国で文化大革命が始まり、革命の波が押し寄せ始める。明大、中大闘争が始まる。 その2を1967年とする。「激動の7ヶ月」と命名する。三派系全学連委員長に中核派の秋山氏が就任し、以降更に激烈化していく。日中共産党の対立を象徴する「善隣学生会館事件」が発生している。新左翼系全学連が武装し始め、「激動の7ヶ月」と云われる三派全学連の市街戦が開始される。これらの動きに革マル派、民青同が屹立する。 第8期を1968年から1969年とする。全共闘運動が始まり、日本版紅衛兵として造反有裡運動に向かう。これを2期に分け、その1を1968年とする。「全共闘運動の盛り上がり」と命名する。全共闘運動が一世風靡し始め、ベトナム反戦闘争、東大闘争、日大闘争が激化する。三派から中核派が抜け出し中核派全学連が誕生する。三派の残存勢力が反帝全学連を創出する。年末、東大が開校以来初の入試中止を発表する。 その2を1969年とする。「東大闘争クライマックス、全国全共闘結成」と命名する。東大闘争が盛り上がり安田講堂攻防戦へと至る。第二次ブント系の社学同派全学連が発足する。4.28闘争で中核派に破防法が適用される。「大学の運営に関する臨時措置法案」が施行され、赤軍派が結成される。8派連合による全国全共闘が創出され、70年安保闘争を闘い抜く主体が確立する。 この頃から革マル派の社青同解放派、中核派に対する公然ゲバルトが始まり、大きく全共闘運動を混乱させることになる。第二次ブントの内部抗争が起こり、第二次ブントと赤軍派のゲバルトが始まり、70年安保闘争を控えた盛り上がりの中で瓦解の危機をも迎える。 第9期を1970年代通期とする。層としての学生運動の最後の時期となる。これを3期に分け、その1を1970年とする。「70年安保闘争」と命名する。70年安保闘争はカンパニア闘争に終始し、佐藤政権に打撃さえ与えることができなかった。 その2を1971年から75年までとする。「70年代前半期の諸闘争」と命名する。70年安保闘争を終え、代わりにやってきたのが内ゲバと党派間ゲバと連合赤軍派の同志テロであった。1972年、連合赤軍による あさま山荘事件が発生し、その後12名に及ぶ同志殺人が明らかとなり衝撃を与えた。同年、日共系民青同に新日和見主義事件と云われる粛清劇が起こり、川上氏らの主要幹部が処分された。1975年、中核派最高指導者・本多氏が革マル派にテロられ死亡している。 その3を1976年から79年までとする。「70年代後半期の諸闘争」と命名する。中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派の党派抗争は更に凄まじくなる。1977年、社青同解放派最高指導者・中原氏が革マル派にテロられ死亡している。革マル派は、甚大な被害を出しながらも敵対党派の最高指導者をそれぞれ葬ったことになる。 第10期を1980年代から現在までとする。学生運動としては見る影もなく凋落する。これを3期に分け、それぞれ「80年代の学生運動」、「90年代の学生運動」、「2000年代の学生運動」と命名する。 以上の区分が一般的に通用するのかどうかは分からない。が、筆者の分析によれば、かく区分した方が分かり易い。参考になればと思う。以下、この区分けに従い検証していくことにする。 |