第20章 70年代後半期の諸闘争(9期その3 1976−1979

 (この時期の政治動向)

 ここでは1976年−1979年までの流れを確認する。三木政権、福田政権、大平政権、鈴木政権の時代となる。この時代、日本政治の表舞台はロッキード事件で揺れる。ロッキード事件勃発以来、三木首相は異常な熱意で事件の解明に向かう。これを後押ししたのが日共で、いわば政界の左右両翼から角栄封じ込めが始まる。「金権政治に象徴される諸悪の元凶」たる角栄の政界追放が錦の御旗となったが、この動きは同時に戦後政治の主流派を形成していたハト派解体の動きともなった。代わって台頭し始めるのがタカ派であり、これにより戦後日本政治は大きく質を転換する。となると、日共は、この政治変動過程に裏から大きく手を貸したことになる。かく捉える歴史評論はないが、今後はこの観点が基調になるであろう。

 この時代の日本左派運動は、70年前半期同様に70年安保闘争後の惰力で一定の政治闘争を組織し得るが、めぼしい功績はない。パレスチナに出向いた日本赤軍派のハイジャック闘争が連続する。中核派及び社青同解放派と革マル派の党派間絶対戦争的ゲバルト事件が更に熾烈化する。1977年2月、革労協書記局長で社青同解放派筆頭総務委員・中原一こと笠原正義氏が革マル派により殲滅される。これに対する社青同解放派の怒りも凄まじく、本多書記長を殺された際の中核派の怒りに勝るとも劣らない報復殺傷テロへと向かう。結果的にその後、党派間ゲバルトは自然沙汰止みとなって行くが、それを喜ぶよりも、これによって新左翼最大党派の中核派、社青同解放派が党派的解体を免れたものの甚大な打撃を受け、これによりかってのような街頭闘争を展開できないようになってしまった。結果的に、新左翼運動が何やら袋小路へ入って行った感がある。この辺りを見据えねばならないのではなかろうか。

 この時代、日共が更に右傾化し始め、共産党とは名ばかりの旧民社党的路線、あるいはそれより更に右路線に向かい始める。日共は、1955年の六全協で徳球−伊藤律派の政治路線を放擲して以来、体制内批判的左翼として自己を位置付け続けてきた。それも次第に戦線を選挙専一主義化させ、選挙戦の度に理論と政策を迎合的に右傾化させて行くことになる。かくて、日本左派運動の左右両翼からの閉塞が始まる。問題は、ロッキード事件以降露骨になり始めた国際金融資本による対日支配に対して、日本左派運動が無痛無覚のまま傍観し始めたところにある。戦後日本政治史の地殻変動に対応しきれなくなった日本左派運動の再構築が、この時点から要請され始めたと受け止めるべきではなかろうか。こういう関心を以て、以下検証する。


 【1976(昭和51)年の全体としての政治運動】

 【中国で第1次天安門事件発生】 4月5日、中国で1月8日に死去した周恩来中国首相の追悼を廻って中国で第1次天安門事件が発生する。 

 【中共で文革派の4人組が一斉逮捕される】 10月12日、中国で9.9日、毛沢東中国共産党主席が死去し、後ろ盾を失った江青ら4人組が逮捕される。華首相が主席就任。これにより10年に渉って続けられた文化大革命は発動側の敗北という形で終息した。以降、中国は走資派街道をひた走って行くことになる。*日本左派運動は、文化大革命に対する総括能力を失ったまま今日まで経緯している。現代中国論解析の為にも必須であるのに挑まれていない。筆者の知る限り僅かに時田研一氏の論考「中国の新左派」・自由主義論争−文革の評価をめぐって」、「中国の新左派・自由主義」論争NO.2―二つの文革論をめぐって」がある。
 (http://www.kaihou.org/china.html)

 【「天皇在位50年記念式典粉砕闘争」】

 この頃、「天皇在位50年記念式典粉砕」が闘争課題となり、11月2日、前段闘争で、全国58箇所に約6300人(うち、新左翼系33箇所、約1800人)を動員して集会、デモ等に取り組んだ。また、この闘争を通じて、日本武道館その他に対し火炎びんが投てきされるなど10件のゲリラ事件が発生した。この式典粉砕闘争をめぐって、公務執行妨害等で極左暴力集団等58名が検挙された。11月10日、式典当日のこの日、全国73箇所に約1万1900人(うち、新左翼系42箇所、約6600人)を動員して、集会、デモ等の式典粉砕闘争が行われた。

 *体制派が「天皇在位50年記念式典」をするとして、それを粉砕する理論的根拠は乏しいのではなかろうか。ある種の政治の自由の範疇として認めあい、左派は左派系の式典を対置して競い合うべきではなかろうか。その左派系の集会、会場借りが封殺される事態に於いて、これを抗議する運動を組織すべきではなかろうか。これが正々堂々たる左派運動たるものではなかろうか。姑息な反対運動は如何に過激にしても所詮実のないものにしかならないのではなかろうか。

 【三木内閣が防衛費GNP1%枠を閣議決定】 11月、三木内閣が、防衛費GNP1%枠を閣議決定する。

 【第34回衆議院議員選挙】 12月5日、第34回衆議院議員選挙が行われ、自民党249(前回比―22)、社会党123(前回比+5)、公明党55(前回比+26)、共産党17(前回比―21)、民社党29(前回比+10)、新自由クラブ17(前回比+12)、無所属21(前回比+7)となった。この時、保釈中の田中前首相は、新潟3区で16万8522票を獲得(トップ当選、前回より2万4千票ほど減)を始めとして、ロッキード事件関係者は佐藤孝行氏(北海道3区)が落選しただけで他は全員当選している。自民党の派閥を見ると、各派閥とも大幅に議席を失ったが特に総・幹事長派閥の三木、中曽根派が激減している。江田社会党副委員長が落選。共産党は激減し、社会、公明、民社に続く野党第4党に転落した。

 【福田政権】

 12月17日、三木首相が辞任表明。総選挙敗北。12月24日、福田内閣発足。「三木おろし」の経緯からして、福田政権の主流派は「挙党協」を構成していた福田・大平・田中派となった。三木・中曽根派は反主流に追いやられた。福田首相は、国債発行を極めて積極化させていった。田中内閣のときの73年度末の国債発行額は1億7622万円、国債依存度12%であったのに対し、77年度になると国債発行額9兆5612億円、国債依存度32.9%に跳ね上がっていくことになる。しかも、田中内閣時代には赤字国債はゼロであったが、福田は4兆5333億円発行している。78年度には、国債発行額10兆6740億円、79年度13兆4720億円と急増化している。

 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように述べている。
「福田内閣に於いて、ユダヤは日本を日米欧三極委員会(TC)体制に、決定的に組み込むに至った。これは直ちに、日本の内政に重大な影響を与えている。それは、ユダヤ地下世界政府の決定に基づき、福田内閣が大蔵官僚の強い反対を押し切って、赤字国債路線を踏襲したことである。元大蔵官僚主計局長の福田が、こんなことをやらされるのは逆説的だ」。


 【1977(昭和52)年の全体としての政治運動】

 【社会党改革案として「江田意見書」が提出される

 1月12日、江田社会党副委員長が党運動方針案に対する「江田意見書」を提出、中執委に革新・中道連合への決断を迫る。「江田意見書」は社会党の長期低落傾向に対する江田式構造改革論ともいえるもので、「保守に代る新しい連合政権樹立」に向けての戦略論ともなっていた。それらよると、今や中産階級が国民の多数派になりつつあり、彼らの望む漸次的改革を指導する責務を担う必要があるとして、いわば「革新中道路線」を提唱していた。

 「革新中道路線」の提唱は、教条主義的マルクス主義路線との決別でもあった。その論拠として、「マルクス主義的階級分析論はもはや古い」から始め、「多党連合による政権奪取こそ目指すべきであり、多党連合時代に適合する社会党の再生を目指すべきである」としていた。注目すべきは、従来式の統一戦線論を次のように排斥していたことである。「これまで安易に使われてきた『統一戦線』という用語も刷新する必要があるように思う。統一戦線という語は、前衛政党(共産党)を中心としてその周りに諸勢力を結集するという、同心円型の戦線として歴史的に定形化された概念である。われわれが目ざす連合はそうではなく、実際上何れかの党が要(カナメ)党としての役割を担うにしても、少なくとも理論的には、同格の複数の政党がいて、互いに協力しあう関係でなければならない。したがって『統一戦線』という用語よりも『連合』がその呼び名にふさわしいと思う。こうした考え方にたって、政権構想を早急に具体化しなければならず、そのためのリーダーシップは、野党第一党である社会党に責任があると思う」。

 *「江田意見書」は社会党右派系の構造改革路線のものである。その値打ちは構造改革路線にあるというより、既成の左派運動の陥穽を鋭く衝いていたところに求めるべきではなかろうか。江田式統一戦線論排斥論は白眉なものであり傾聴に値すると受け止めるべきではなかろうか。「江田意見書」は連合戦線を呼び掛けている点で胡散臭いが、共同戦線論の提唱と焼き直せば斬新であるように思う。


 【社民連誕生 3月31日、社会党を離党した江田グループが社会市民連合(「社民連」)を結成する。4月24日、社民連と「参加民主主義をめざす市民の会」(代表・田上等、管直人ら)が「連合の課題と展望」と題して公開討論会を開き提携関係を模索する。討論を通じて、市民型運動の模索、民主集中制的党組織論や労働(組合)運動偏重主義からの決別、既成の社会主義論に対し「新しい社会主義」を掲げる等々で意見の一致を見せている。江田氏は次のように述べている。1・個人の自主性を尊重する。「のびのびした自由な社会主義、私個人でいえば構造改革論以外に、人間の顔をした社会主義をめざしたい。小型社会党になってはいけない。市民のワイワイ、ガヤガヤの自由なエネルギーに依拠しなければならないと思ってます」。但し、5月22日、新党運動の全国行脚を続けていた江田三郎が逝去したことにより江田三郎式政治論そのものは歴史の彼方に消えた。

 【77年原水爆禁止世界大会が14年ぶりに統一大会として開催される】 5月19日、原水禁国民会議代表委員・森滝市郎と日本原水協理事長・草野信男がトップ会談し、1・8月の世界大会は統一大会を開く、2・年内をメドに国民的な統一組織を実現する、3・原水禁運動の原点に返り、核兵器絶対否定の道をともに歩むことを決意するなど五項目について合意、いわゆる「森滝・草野合意」メモがつくられ、統一世界大会の開催だけでなく「統一組織」の展望をも示した。この合意によって、1963年の分裂以来はじめて原水禁と原水協の統一行動に向かうことになる。これにより6月13日、世界大会の統一実行委員会が発足した。8月3日、分裂後初めて14年ぶりの原水爆禁止統一世界大会開催「1977年原水禁世界大会」の国際会議が広島市で始まる。海外30ヵ国14国際組織の代表を含む350人が参加。ソ連からも11年ぶりに代表参加した。こうして、77年、78年、79年の3年間共闘が続いた。

 【第11回参議院議員通常選挙】 7月10日、第11回参議院選挙が行われ、自民党63、社会党27、公明党14、民社党6、共産党5、新自由クラブ1、無所属7となった。非改選を含めると、自民党124、社会党56、公明党25、民社党11、共産党16、新自由クラブ3、無所属13。.

 【狭山闘争】 8月10日、狭山差別裁判で、最高裁が上告を棄却。無期懲役の判決が確定。8月23日、狭山差別裁判勝利総決起集会。

 
【日共が第10回党大会開催】 10月17日−22日、日共が、第10回党大会を開く。大会は、 選挙連敗について総括し、公明、民社、新自クを自民党政治の補強勢力と批判し、民主連合政府については「より長期的な視野で展望することが必要」と決議した。野坂議長7選、宮本委員長、不破書記長を3選し、袴田が失脚した。これについて筆者は思う。「70年代の遅くない時期に民主連合政府樹立」を提唱し、1960年末の全共闘運動に対置したスローガンはかく無責任に棚上げされた。これに対する政治責任を取らないばかりか感じようともしない党中央の政治性を勘ぐるべきではなかろうか。

 社会市民連合が結成大会開催
 10月29日、社会市民連合の結成大会が開催される。代表委員として、大柴滋夫、管直人、江田五月を選出。副代表委員に西風勲、安東仁兵衛。事務局長に大柴滋夫(兼任)。田英夫グループと合流し、翌年1月に新党を結成する旨確認。大会宣言は次のように述べている。「われわれは市民革命が掲げた自由、平等、連帯の諸理念を継承し、資本と利潤が優先される資本主義を確実に制御しつつ、公正、参加、保障、自治を実現する、より自由でより分権的な社会主義をめざす」、「とりわけ二十年余にわたる自民党単独政権を確実に終焉させるときである。これにかわる政権は改革的保守派とも提携する革新的諸党派の連合政権以外はない。この政権こそ、いくつかの選択肢が積極的に競われ調整される過程をつうじて、国民の政治参加と政治的民主主義の活性化をうながし、国民的合意の下に、社会の改革を漸進的に実現するだろう。いま、われわれをゆり動かして止まないものは、新しい革新政党建設への衝動である」、「新しい社会主義、新しい政治、新しい党の暁は明けつつある」。


【1978(昭和53)年の全体としての政治運動】

 【袴田除名】 「週刊新潮」(1.12日号)に袴田手記「昨日の同士・宮本顕治」が掲載された。日共は、1月4日、先回りして赤旗に長文の「袴田里見の除名処分について」論文を党中央委員会書記局名で発表した。袴田は追って除名される。この騒動は新聞・テレビの全国ニュースで報ぜられた。*「袴田除名」は、「戦前の小畑中央委員査問致死事件」問題に深く関わっている。日共は、事件の真相を明らかにするとして公表した袴田の論師に対して答えることなく、例によって党規律違反で締め上げている。これでは、「戦前の小畑中央委員査問致死事件」がいつまでたってもアキレス腱としてのど仏に突き刺さっていることになろう。不破式対応はここでも姑息であり、そういつも彼は姑息である。

 【日中平和条約調印】 8月12日、日中平和条約調印。中国の黄華外交部長と日本の園田直外相は両国政府を代表して署名、中日平和友好条約に北京で調印。10月23日、日中平和友好条約の締結。1972年に田中内閣で成し遂げられた日中国交回復の総仕上げとなった。

 【靖国神社がA級戦犯を合祀】 10月、靖国神社が秘かにA級戦犯を合祀(ごうし)した。このことが後々問題になる。

 【大平政権】

 11月1日、初の自民党党首予備選が告示され、福田、大平、中曽根、河本(三木派の後継者)が立候補する。結果は、事前予想に反して大平55万0891票(748点)、福田47万2503票(638点)、中曽根29万0987票(93点)、河本8万8091票(46点)。大平が、110点もの差をつけて福田に圧勝した。田中派の支援が大きく影響した。福田首相は本選挙を辞退し大平が総裁に確定した。12月7日、第一次大平内閣発足。竹下登衆院予算委員長。この時からマスコミは、大平内閣を「角影内閣」と呼び、実際に動かしているは「闇将軍こと田中角栄」であると書きたてるようになる。

 大平は、直ちに行政改革と財政再建を日本柱として取り組む姿勢を打ち出した。1975年の三木内閣の蔵相時に国債を5兆4800億円(←74年の2兆1600億円)の大幅増額させ、65年以来はじめて赤字国債2兆2950億円を発行していた。これに責任をとろうとして「1980年には赤字国債をゼロにする」と宣言した。しかし、大平が幹事長を勤めていた福田内閣時代の79年国債残高56兆2513億円、赤字国債残高21兆658億円まで急増加していた。その道は至難であった。大平は、組閣後矢継ぎ早に田園都市構想、対外経済政策、環太平洋連帯、文化の時代など9つの政策研究会を、首相直属諮問機関として創った。浅利慶太、石井威望、公文俊平、高坂正尭、佐藤誠三郎、香山健一、山崎正和、山本七平など総勢200名に及ぶ学者、文化人を集めて、新しい日本作りの検討に入っている。

 【不破書紀局長が「田口富久治理論批判大キャンペーン」を開始する】 「前衛」(1979(昭和54)1月号)に、不破書記局長が、「科学的社会主義か『多元主義』か」論文を発表。14万4千語、実に100Pにわたって多元的社会主義を提唱する「田口富久治理論」批判大キャンペーンを行なった。不破は以降、異常とも云える執念で田口批判に向かう。*不破は、この後次第に党運動を体制修繕運動へと指針させて行くことになる。この程度の運動を指針するのに多元的社会主義を口をきわめて批判する意図が臭いと云うべきではなかろうか。付言すれば、不破の長大論文は目くらましで内容は玉虫色折衷を特徴としており、悪文の見本でしかないところ手本にしようとする作法がある。この連中には漬ける薬がないと云うべきだろう。

 【イラン革命始まる】 12月28日、イラン反政府暴動が最大規模に発展。ホメイニ師を最高指導者と仰ぐ民衆がイランのパーレビ国王と衝突。これにより世界の10%を占める原油生産が全面的に停止、輸出も79年3月始めまで止まる。


 【1979(昭和54)年の全体としての政治運動】

 【米中が国交回復】 1月1日、米中が国交回復。米は台湾と断行、相互防衛条約を破棄する。

 【イランで革命政権樹立される】 1月16日、シャー・パーラビは国外から発せられるホメイニ師の演説に呼応する国民を抑えきれないと悟ると、時の首相シャープール・バフティヤールの進言でエジプトに亡命し王朝は崩壊する。2月1日、皇帝と入れ替わりにホメイニ師が帰国し、首相をメフディー・バザルガンに任命する。こうして国家元首が二人となり、帝国は真っ二つに割れる。ついに、革命派と皇帝派が戦闘に突入する。2月11日、帝国正規軍が中立を宣言するにいたり、勢いづいた革命派は宮殿を攻撃、ついに皇帝派は消滅する。2月12日、イラン革命政権樹立。4月1日、イラン・イスラーム共和国が成立し、ホメイニ師は最高指導者に就任する。これをイラン・イスラーム革命と云う。ホメイニ師は革命の輸出を唱え、周辺イスラーム諸国に影響を与える。これによりスーダンやアルジェリアでイスラームによる革命が発生する。

 【スリーマイル島原子力発電所事故】 3月28日、アメリカ合衆国東北部ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所で国際原子力事象評価尺度 (INES) においてレベル5の重大な原子力事故が発生した。原子炉冷却材喪失事故 (Loss Of Coolant Accident, LOCA) に分類され、想定された事故の規模を上回る過酷事故 (Severe Accident) となった。

 【狭山闘争】 5月23日、狭山差別裁判「狭山再審要求総決起集会」に1万8千名参加、38名が逮捕される。

 【東京サミット開催】 6月28日、東京サミットが元赤坂の迎賓館で開幕。出席者の顔ぶれは、カーター米大統領、ジスカールデスタン仏大統領、シュミット英首相、アンドレオッティ伊首相、クラーク加首相、ジェンキンスEC委員長。

 【防衛庁が防衛力整備五ヵ年計画を発表】 7月17日、防衛庁が防衛力整備五ヵ年計画を発表した。問題は、国防会議や閣議決定を経ることなく決定、発表されたことにあった。

 【田口富久治氏教授が日共の党内民主主義への問題提起】

 丸山真男門下の日共系政治学者として知られていた名古屋大学教授の田口富久治氏が党内民主主義への問題提起をしていくことになる。田口教授は共産党が65年に結成した「憲法改悪阻止各界連絡会議」(憲法会議)の代表幹事で、「先進国革命と多元的社会主義」を著し、その中で共産党が閉鎖的集団ではなく、国民に向かって「開かれた党(新しい型の党)」へ脱皮することが必要だと次のように力説した。概要「共産党が政権が握ると一党独裁になるとの危惧の念が国民の間に強いが、決して根拠がないわけではなく、既存の社会主義国の歴史的現実が示されているとおりだ。日本共産党は複数制を公約しているが、たとえ複数政党制がとられた場合でも、共産党が圧倒的な支配政党としての地位を確立すれば、他の政党が共産党をチェックする機能は著しく弱まることになりかねない。そうなれば支配政党である共産党の組織・運営が“一枚岩主義”では『支配政党の組織的質が国家体制の政治的質を規定』するのは避けられないので、党と国家との癒着による一党独裁の危険が生じる。したがって、日本共産党は一党独裁に陥らないことを国民に信用してもらうためには『自由と民主主義の宣言』で単に将来の決意表明をするだけでなく、今日ただいまから党内での少数意見尊重その他『新しい型の党』をめざして党改革を実行せねばならない」。

 いわゆる「田口−不破論争」が始まった。「前衛」9月号に、田口氏の不破論文に対する反対大論文100P「多元主義的社会主義と前衛党組織論−不破哲三氏の批判に答える−」が発表された。この中で、田口氏は、新しい党のビジョンとして次の5項目を提示した。「1・党大会を党の最高意思決定機関とし、党大会は最大限に公開的なものにすること。党大会では執行部原案に反対ないし修正意見が開陳されうるような制度的な保障がなされること。2・党の各級指導機関は、党員の多様な意見を反映するように構成すること、公開制などの保障。3・党の指導部の交替の政治的ルールの確立と明確化。4・党内民主主義の制度的保障の一つとして、党機構内部へ「権力分立」原理を導入すること。具体的には、党指導機構と並んで、同じく党大会選出の党統制機構を設立し、これに前者と同等の権威と威信を与えること。5・党内民主主義、少数意見の尊重の実質的保障。分派禁止の規定を党規約に存続させる場合、その補償、代償として少数意見の尊重を政治的・実質的に保障すること」。*「田口の党内民主主義の提起」は凡庸なほど当然過ぎるものでしかない。それを前衛主義の観点から批判の舌鋒を鋭くする不破理論の方こそイカガワシイ。不破の「相手が左から来れば右から、右から来れば左から応戦する口舌の徒」ぶりが遺憾なく発揮されているに過ぎない。考えても見よ、不破式体制修繕運動に何の締め付けの必要があろう。

 【第35回衆議院議員総選挙】 10月7日、第35回衆議院議員総選挙が行われ、自民党248(−1)、社会党107(―10)、公明党58(+1)、共産党41(+20)、民社党36(+7)、新自ク4(−9)、社民連2(―1)、無所属19となった。自民党微減、社会党敗北、公明党微増、民社党前進、共産党大躍進、新自ク惨敗、社民連後退。

 【韓国の朴大統領暗殺】 10月26日、韓国の朴大統領暗殺される。

 第二次大平内閣発足、「自民党40日間抗争」突入

 11月6日、衆議院本会議における首相指名選挙で、自民党から異例の現職首相大平氏と前職首相福田氏が立候補するという椿事となった。投票結果は、大平正芳135、福田赳夫125、飛鳥田一雄107、竹入義勝58、宮本顕治41、佐々木良作36、田英夫2、無効7。決選投票で、大平139、福田121、白票1、無効251となり、大平首相が首相に再任指名された。こうして、決選投票の末辛うじて大平氏が首相に再選された。社共が手を握れば第1回投票でトップの可能性さえあった。11月19日、第二次大平内閣発足。直後、自民党内は、大平・田中連合対福田・三木・中曽根連合の「自民党40日間抗争」に突入する。

 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように述べている。
「福田赳夫の自民党総裁としての任期二年が終りに近づくと、福田は再選を望んだため、田中角栄は大平正芳と組んで、力づくで大平を次期総裁・首相に押し上げた。これによって、自民党内は田中・大平連合対福田派と真っ二つに分かれて激しい対決と派閥闘争の時代に入ったが、それは表面上のことに過ぎない。実際はユダヤ(アメリカ)の介入によって、日本の政界がもみくちゃにされた時代なのだ。逆に云えば、ユダヤに斬られた手負いの角栄が、奇跡の復活をなし遂げ、ユダヤ・フリーメーソンのエージェントである三木武夫を倒し、福田内閣のもとでじりじりと復活し、遂に大平内閣で政権の中心に迫ったという構図となる。従って、ユダヤは角栄に対抗して戦線を再構築しなければならない。ユダヤの角栄包囲網の中核に据えられたのが福田であり、三木派、中曽根派がその同盟軍となるべく工作された。その結果が、大平内閣末期の40日にわたる、日本の議会政治史上未曾の死闘となった通称「40日抗争」である。これほどの激突、激闘は、単純な日本国内政治から生じたものではない」。

 【日ソ共産党が党首会談】 12月15日、宮本委員長を団長とする訪ソ団(団長・宮本顕治幹部会委員長、団員・上田耕一郎副委員長、西沢富夫副委員長、金子満広書記局次長、榊利夫理論委員長、立木洋国際部長、宇野三郎宮本委員長秘書の7名その他)が出向き、ソ連側代表のブレジネフ党書記長、スースロフ政治局員、ポノマリョフ准政治局員、アファナシェフ中央委員、フェドセーエフ中央委員、ウイヤノフスキー国際部副部長、コワレンコ国際部日本課長らと会談した。1・「志賀問題」を中心とした今後の両党関係の在り方、2・原水禁運動、日ソ友好運動の在り方、3・国際共産主義運動の在り方、4・最近のアジアを中心とした国際情勢の意見交換、5・最近の日本国内の情勢、日本共産党の方針について、6・北方領土問題、7・日ソ漁業、抑留漁民、シベリアの遺骨収拾問題等々を議題としたが、これというめぼしい成果は何もない珍しい物別れ会談となった。

 【ソ連がアフガニスタンに侵入】 12月27日、ソ連がアフガニスタンに侵攻。現地にソ連と通謀する共産主義政権が誕生したが、これに対してムジャヒディン (=聖戦を行う人々)と呼ばれるゲリラ勢力が立ち上がり抵抗していくことになる。西側諸国は経済制裁やモスクワ五輪ボイコットでソ連に抗議し、結局ソ連軍はその後も約10年にわたってアフガニスタンに駐留することになるものの山岳地帯での戦闘にてこずり多くの犠牲者を出して、9年後の1988年4月、アフガニスタン和平協定に調印して撤退する。まもなく現地のソ連派政権も崩壊する。