第22章 1990年代の諸闘争(10期その2、1990年代)
(この時期の政治動向)
ここでは1990年代の流れを確認する。海部政権、宮沢政権、細川政権、村山政権、橋本政権、小渕政権の時代となる。この時代、日本政治は1993年の細川政権誕生まで中曽根亜流政権が相次ぐ。1991年、ソ連邦が崩壊する。戦後世界を分割してきた資本主義対社会主義の冷戦構造は、69年間続いたソビエト連邦(ソ連)の解体により社会主義の敗北で決着した。これにより戦後冷戦体制が瓦解し、代わって米国−英国−イスラエル主導の一極支配化が始まる。
この頃、日本ではバブル経済がはじけ、以来低成長に向かう。ポスト中曽根として同系の宇野、ネジレハト派の竹下、宮沢を経て、1993年8月、日本新党、日本社会党、新生党、公明党、民社党、さきがけ、社民連の「7党1会派の連立政権」による細川政権が誕生した。同政権は1980年代前半から始まった中曽根式大国責任論の名の下のネオシオニズム御用聞き政治からの転換を企図したハト派系の揺り戻しであったと看做せるが、寄り合い世帯故の悲劇で、これを御することができず羽田政権を経て分解する。
一度下野を余儀なくされた自民党は、あろうことか社会党と組んで村山政権を誕生させ、政権与党に返り咲く。以降、自民党は2009年の麻生政権まで連合政権式与党の地位を保持する。1999年10月、自民・自由・公明三党による連立で小渕第2次改造内閣が発足する。後に自由党は離れるが、公明党が政権与党入りし続け麻生政権まで続いた。
社会党は、1993年の細川政変時、政権維持のために汗をかくより自民党と組んで権力の蜜を吸う道を選んだことにより人民大衆から見捨てられ、やがて解党を余儀なくされる。右傾化に右傾化を重ねた日共は議会闘争専一主義にしたにも拘わらず後退し続けていくことになる。政権与党のゴシップ暴露を得手とする変態正義路線で辛うじて命脈を保つ。かく捉える歴史評論はないが、今後はこの観点が基調になるであろう。
この時代の日本左派運動は、もはやどの局面においても歴史的に記述せねばならないほどの取り組みができず、いわばマニアックなものに陥り、すっかり影響力を失う。ところが、歴史は摩訶不思議である。1996年1月19日、日本社会党が第64回党大会で党名を社会民主党と改称し、「汚辱にまみれた社会党史を終焉」させた頃、二つの動きが始まる。一つは、新社会党の結成である。矢田部理参議院議員2名、参議院議員3が新社会党を結成した。しかし、このグループは、1996年の衆議院総選挙、1998年の参議院選挙でいずれも全員落選し国会に議席を失う。
もう一つが、9月の菅直人、鳩山由紀夫らによる民主党の結成である。衆院46名、参院4名で発足した。民主党は二大政党制の実現を標榜しつつ次第に勢力を増し、あくことなき政権交代を至念し続け政権に大手を掛けるところまでへ成長して行くことになる。それは、日本左派運動が1955年以来見失っていた政権奪取運動の代役となった。旧社会党の一部が合流し、日共がこれに敵対し、新左翼が無視する。こういう関心を以て、以下検証する。
【ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊に見せた日共の居直り】 1月、昨年末1989.12月のルーマニアのチャウシェスク政権崩壊は党内に激震を這わせた。日共はそれまで、中ソ対立以来表面化した国際共産主義運動の分裂状況下で、ルーマニア共産党のチャウシェスク政権と数少ない友党として関係を取り結んできていた。そのチャウシェスク政権崩壊により独裁的行状が明るみにされた。これにより、「日共はチャウシェスク政権の独裁支配気づかなかったのか」と云う責任問題が発生した。宮顕は例によって居直り、2.8日、赤旗は、「共産主義運動の劇的な変化と日本共産党の確信」論文を掲載し、文中で「ルーマニア側のガードは堅く、破局後暴露されたような、秘密警察とか内戦用地下道とかの生々しい事実を事前に知ることは不可能だった」と言い訳した。この詭弁に、元赤旗ブカレスト特派員・厳名康得(いわなやすのり)氏、党員ジャーナリスト・木村愛二氏が批判の声を上げる。これに対し、緒方靖夫氏(国際部長)、増田紘一・中央委員が批判潰しに躍起となる。この経過で、いわな、木村両名は離党していくことになった。
【第39回衆議院選挙】 2月18日、第39回総選挙が行われ、自民党286、社会党136、公明党45、共産党16、民社党14、社民連4、進歩党1、無所属21となった。この時の選挙で、オウム真理教が「真理党」を立ち上げて俄かに参戦し、麻原党首以下25名全員が落選している。自民党は安定多数を確保し、社会党は51議席から136議席へと議席を躍進させた。
【新しい平和運動組織「フォーラム90S」第一回呼びかけ人会議が開かれる】 5月13日、日共の民主集中制に批判的な左翼文化人や活動家が大結集し、新しい平和運動組織「フォーラム90S」を作ろうとする動きが起こり、この日第一回呼びかけ人会議が開かれた。呼びかけ人は、前野良、井上清、石堂清倫、佐多稲子、小田切秀雄、志賀多恵子、吉川勇一、松江澄、いいだもも等、その他新左翼系の塩川喜信、村岡到、中野徹三、岩田弘、塩見孝也、朝日健太郎、志摩玲介、常岡雅雄らが名を連ね、約120余名が集まった。この会議で、加藤哲郎教授が「東欧市民革命と社会主義の危機」と題し、記念講演を行った。
【日共第19回党大会で不破が委員長に返り咲く】 7月9日、日共の第19回党大会が開かれ、不破が委員長に返り咲く。村上委員長が失脚し、後任に村上グループが上田副委員長を推挙、宮本グループが金子満広を挙げる中、上田の「自分はやる意思はない、不破が一番良く似合う」との不破推挙により実現という運びとなった。この大会で、宮顕直系グループから不破・上田グループへの指導権の転換が行われた。
【イラク軍がクウェート侵攻】 8月2日、イラク軍がクウェート侵攻。8月3日、ベーカー米国務長官とソ連のシュワルナゼ外相がモスクワで会談。イラクを非難し、武器輸出停止を世界に呼びかける共同声明を発表し、米ソ協調姿勢を明らかにした。続いて国連の安全保障理事会が開かれ、イラクの無条件撤退、併合無効宣言など12の決議を可決した。冷戦時代であれば、米ソの拒否権行使によりこうした採決が為されることは容易ではなく、それを思えば時代が変わったことを印象付ける歴史的展開点に至っていることを証左している。8月6日、国連安保理がイラク制裁決議。
【平和維持活動(PKO)参加法案提出】 10月、海部俊樹首相が国連決議に基づく自衛隊の平和維持活動(PKO)参加や、多国籍軍協力を可能にする国連平和協力法案を国会に提出。しかし、自衛隊の海外派兵は憲法解釈論議に直結し、自民党内からも異論が出て廃案になった。
【革労協狭間派が即位の礼に反対し警視庁独身寮爆破事件を起こす】 11月、革労協狭間派が即位の礼に反対し、東京都内の警視庁独身寮に爆弾を仕掛け、警察官1人が死亡、7人が重軽傷を負うゲリラ事件を起こした(警視庁独身寮爆破事件)。「革命軍」名で犯行声明を出し、警視庁が同派の犯行と断定した。
【湾岸戦争勃発】 1月17日、米軍など多国籍軍がイラクを爆撃し、湾岸戦争勃発。 2月24日、地上戦に突入。イラク軍15万が白旗を掲げて敗走し始めた。多国籍軍は、背後から国際条約で禁止されているナパーム弾戦や術核兵器DU弾を投入して焼き殺した。2月27日、ブッシュ米大統領がホワイトハウスで全米国民に向けて演説しクウェートが解放され湾岸戦争の「軍事目的は達成された」と湾岸戦争の勝利を宣言。1.28日午前零時を期して多国籍軍は攻撃を停止すると言明、戦闘停止を命令。湾岸戦争終結。
【海部政権の湾岸戦争財政支援】 1月24日、海部首相、小沢幹事長はアマコスト大使の要請を受け、湾岸戦争で90億ドルの追加支援決定。結局、人的貢献の代わりに総額130億ドルという世界最大規模の資金協力をすることになった。3月6日、海部政権は、90億ドル支援のための平成2年度第二次補正予算と、増税を含む財源一括法案を自公民3党の賛成で可決、成立。4月24日、自衛隊初の海外派遣(ペルシャ湾に掃海艇)。 4月26日、海上自衛隊の掃海部隊が派遣され、機雷除去の為に掃海艇とともにペルシャ湾へ赴く。 しかし、米国ジャーナリズムは、「日本は血と汗を流さない」、「現金自動支払機」として評価しなかった。湾岸戦争終結時の1991年3月、クウェート政府は米紙の全面広告を通じて貢献した30ヶ国に謝意を示したが、そこに日本の名前はなかった。このことが後に軍事派兵の口実とされていくことになる。サウジやクウェートも負担を捻出させられた。
【バブル経済崩壊】 1985年のプラザ合意以降始まったバブル経済は、5年後のこの頃、崩壊した。1989年12月に第26代日銀総裁に就任した生え抜きの三重野康は、それまでの金融緩和政策から一転して金融引き締めに転じた。旧大蔵省出身の澄田智前総裁の金融緩和政策でバブル経済を誕生させたとの反省から政策転換した。しかし、日経平均株価が、1989年の大納会(12月29日)に最高値3万8915円87銭をつけたのをピークに暴落に転じ、イラクのクウェート侵攻に伴ういわゆる湾岸戦争と原油高や公定歩合引き上げが起こった後の1990年10月1日には一時2万円割れと、わずか9ヶ月あまりの間に半値近い水準にまで暴落した。地価も下落し深刻な不況に突入し始めた。それまでの熱狂的な株価、地価は実体を伴わない異常な投機熱、すなわちバブルであったことが明らかになり、ふり返って「バブル景気」と呼ばれるようになった。
【ソ連崩壊】 8月19日、ソ連で保守派によるクーデターが発生、ソ連非常事態宣言。8月21日、ソ連のクーデターが失敗,首謀者がモスクワを脱出。8月24日、ゴルバチョフ・ソ連大統領が共産党中央委に自主解散を勧告,書記長辞任。8月24日、各共和国が独立し、エリツィン大統領率いるロシア連邦が旧政府を継承する。12月17日、ゴルバチョフ・ソ連大統領とエリツィン・ロシア大統領がソ連邦の年内消滅で合意。12月25日、独立国家共同体(CIS)発足でゴルバチョフ・ソ連大統領が辞任。各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、1922年の設立以来アメリカ合衆国に匹敵する超大国として69年間続いたソビエト連邦(ソ連)解体が正式に確認された。ソ連型社会主義体制が崩壊した事により世界を二分した冷戦時代が名実共に終焉を迎えた。
【宮沢政権】 10月27日、海部俊樹総裁の任期満了に伴う自民党総裁公選に宮澤喜一(宮澤派)、渡辺美智雄(渡辺派)、三塚博(安倍派→三塚派)が立候補。投票の結果、宮澤285、渡辺120、三塚87の順となり、宮澤喜一が第15代総裁に総裁に選出される。 11.5日、第122回国会(臨時会)が召集され宮沢内閣誕生。宮沢喜一首相、官房長官・加藤紘一。党三役は、幹事長・綿貫民輔(竹下派)、総務会長・佐藤孝行(渡辺派、ロッキード事件で有罪判決を受けており、これが問題とされていくことになる)、政調会長・森喜朗(三塚派)。
【PKO協力法強行採決、自衛隊の海外派兵が可能になる】 6月5日、昨12.3日にPKO法案が衆院可決していたが、参院での採決めぐり、社会・共産が牛歩戦術。 6月15日、国連平和維持活動を行う国際平和協力法(pko協力法)成立する。社会・社民連の全衆議院議員141名が議員辞職願提出。6月、国際緊急援助隊法改正。これにより、自衛隊の海外派兵が可能になった。
【第16回参議院議員選挙】 7月26日、 第16回参議院議員通常選挙が行われ、自民党68、社会党22、公明党14、共産党6、民社党4、日本新党4、二院クラブ1、スポーツ平和党1、諸派2、無所属5となった。非改選を合わせると、自民党107、社会党71、公明党24、共産党11、民社党9、日本新党4、連合11、二院クラブ2、スポーツ平和党2、諸派2、無所属9.。自民党は勝利したが、この時離党した細川護ひろが日本新党を結成し、全国で361万票余を集めたことが注目される。
【自衛隊初の海外派兵】 9月17日、宮沢政府は、自衛隊(陸上自衛隊施設部隊)をカンボジアの国連平和維持活動軍に派兵した。自衛隊の海外を越しての初の派兵となった。国連カンボジア暫定統治機構(untac)の明石康特別代表が手引きした。
【野坂参三疑惑レポート、野坂の除名】 9月、「週刊文春」は、モスクワで発掘した資料に基づいて、野坂参三疑惑レポート「同士を売った密告の手紙」を10回にわたって連載した。翌93年に「闇の男・野坂参三の百年」(文芸春秋社)が出版されている。この連載によって、野坂がコミンテルン時代に同志の山本懸蔵を密告し、スターリン粛清に供した張本人であること、またアメリカ経由で入ソした日本人6名の銃殺にも直接関係していたこと、さらに山本の妻の関マツらがシベリア流刑にされたのを見捨てて顧みなかっただけでなく、その事実の発覚を恐れて関マツの帰国を妨害しつづけ、遂に故国の土を踏ませぬまま狂死に近い悲惨な最後に追いやったことなど衝撃的な事実が暴露された。伊藤律幽閉問題にも発展していくことになった。9月17日、党中央委員会は、党創立70周年の式典が終わってまもなく野坂氏の名誉議長解任を決定した。12月27日、日共は、第8回中央委員会総会決議で「野坂参三にかんする調査結果と措置について」を発表。野坂は除名された。
【「早大の奥島総長と革マル派の12年戦争」】 1月23日、翌年に早大総長となる奥島法学部長が就任して3年目、革マル派による法学部の期末試験粉砕闘争が始まった。試験初日、試験強行の方針を知った革マル派側は全国動員で活動家を集め、教室前でピケをはった。奥島法学部長の「期末試験強行通達」の意を挺した教職員ともみあいになり、けが人も出たが、大学当局の「試験は予定通り行う」連呼により一般学生が教室になだれ込むという事件が発生した。「早大学生に支持されていない革マル支配」を象徴する事件となった。
【宮沢内閣が不信任案可決を受けて衆院解散】 6月18日、宮沢首相が、内閣不信任案可決を受けて(自民党羽田派34名、他派閥議員5名が賛成、病欠を除く16名が採決に欠席)、大平内閣以来13年ぶりとなる衆院解散。「政治改革解散」と云われる。この日、武村正義自民党政治改革本部事務局長ほか10名が自民党を離党。6月21日、自民党離党の武村正義らが「新党さきがけ」を結成。6月23日、羽田派44名が自民党を離党し「新生党」を結成。
【第40回衆議院選挙】 7月18日、第40回衆議院議員総選挙が行われ、自民党233、社会党70、新生党55、公明党51、日本新党35、共産党15、民社党15、さきがけ13、社民連4、無所属30となった。自民党過半数割れ、社会党が惨敗する。
自民党を離党した羽田派が結成した新生党、同じく武村正義らのグループが結成した新党さきがけ、前熊本県知事の細川護煕が前年に結成した日本新党の3新党は計100議席余りを獲得した。その煽りを受けた社会党は、1989年の土井委員長の下での総選挙では消費税への反対票を吸収して139議席の勝利を勝ち取ったものの、その後の「政権を担いうる現実政党への脱皮」という名目での右傾化により労働者から見放され、再び77議席へと半減する。社会党は以降、漸減し始め、遂に解党に追い込まれることになる。
【細川政権】 8月9日、第79代内閣として細川護煕内閣が組閣された(「細川連立政権成立」)。内閣のキャッチフレーズを「責任ある変革」とし、自らの政権の性格を「政治改革政権」と規定した。日本新党、日本社会党、新生党、公明党、民社党、さきがけ、社民連の「7党1会派の連立政権」で、日本新党の党首を首班、社会党を与党第一党とする非自民6党の連立内閣となった。この内閣の成立で、38年間続いた自民党一党支配体制が切断され、55年体制が崩壊した。新しい時代の幕開けを感じさせる画期的な役割を果たした。しかし、連立与党内は与党第一党の社会党の与党的政治能力の欠如もあって、「船頭多くして、船、丘に上る」式の亀裂が付きまとった。これに、新生党(代表幹事・小沢一郎)の「国際的軍事貢献を含む普通の国」路線、新党さきがけ(党首・竹村正義)の「憲法尊重、反大国主義」路線が衝突し政権の舵取りが混迷を深めていった。結局、1993(平成5)年8月9日−1994(平成6)年4月25日までの約8ヶ月間の短命内閣となる。
【日共が「丸山理論批判キャンペーン」始める】
1月1日号赤旗新春インタビュー、1月16日号赤旗日曜版で、東大政治学教授丸山眞男批判論文が掲載され、「丸山理論」への本格的批判キャンペーンが始まった。丸山氏は政治学研究の第一人者として著名であるが、戦前日本共産党の党活動が封殺された負の側面も含め真摯に総括することの必要性をコメントしていた。赤旗がこれに噛み付き、「丸山眞男氏の『戦争責任』論の論理とその陥穽」を発表し、 同氏の論調を次のように批判した。概要「丸山理論は日本共産党にも戦争責任があるという主張であり、要するに、日本共産党は侵略戦争をふせぐだけの大きな政治勢力にならなかったのだから負けたのだ、したがって、侵略戦争をふせげなかった責任がある、“負けた軍隊”がなにをいうか、情勢認識その他まちがっていたから負けたんだと、そういう立場なんです。たまたま日本共産党が『50年問題』で混乱している時期に世間を風靡(ふうび)した学説である」。
*丸山教授の指摘は戦前党運動の主体的内省的な責任を問おうとするすごく真っ当な識見であるところ、日共のこの批判の質は噴飯ものである。議論の中身以前に於いて、批判しやすいように歪曲した上でその主張を批判するという言論人としての資質が問われる批判に終始している点でも、これを日共のらしさとして確認しておく必要があろう。
【細川首相が突如辞任表明】 4月8日、細川首相が「法に触れる疑いのある資産運用があった」として突如辞任表明した。どう関係するのか分らないが、この時の4月9日、TC総会(日米欧三極委員会総会)が、東京虎ノ門のホテル・オークラで開催された。ディビッド・ロックフェラー、ピーター・ピーターンらTC首脳総勢230名が参加した。その動向をマスコミは報道しなかった。
【羽田政権】
4月25日、細川内閣総辞職(在任日数は93年8月9日以来260日、戦後6番目の短命となった。本会議の首班指名選挙で羽田孜新生党党首が当選。4月28日、羽田孜内閣が成立(「改革と協調」、官房長官・熊谷弘)。細川首相の突然の辞意表明による混迷は羽田政権誕生によりひとまず収拾した。6月23日、羽田内閣不信任決議案(自民)提出。6月25日、羽田孜内閣総辞職。在任64日は戦後2番目の短命内閣となった。
【松本サリン事件】 6月27日、長野県松本市で猛毒のサリンが散布され、死者8名、重軽傷者660名となる松本サリン事件が発生。後にオーム真理教による犯行であることが明らかになったが、6月28日、警察は第一通報者であった河野義行さんが容疑者扱いされるという冤罪事件をも付随させた。マスコミによる犯人扱いぶりが、報道の在り方を投げかけている。
【村山政権】 6月29日、衆院本会議で首班指名選挙が行われ、決戦投票で村山富市(社会党)氏を選出、第81代首相に就任する。6月30日、村山富市内閣が自民、社会、さきがけ三党連立政権で成立した(「人にやさしい政治」、官房長官・五十嵐広三、河野洋平が外相、副総理)。在任期間:1994年6月30日〜1995年8月8日。
【村山首相が社会党基本政策を次々と転換表明】 7月18日、、村山首相が、臨時国会の衆院本会議で「日米安保堅持」と発言。7月20日、衆院本会議で代表質問に答弁する中で、自衛隊と憲法の関係について、「専守防衛に徹し、自衛の為の最小必要限度の実力組織である自衛隊は憲法の求めるものであると認識する」と自衛隊合憲論を述べた。旧社会党は結党以来、「自衛隊違憲」論を展開してきたが自衛隊合憲を打ち出した。日米安保体制についても「不可欠」と答弁し、日米安全保障体制を堅持する方針を改めて確認した。日の丸、君が代についても、「国旗、国歌であるとの認識は国民に定着しており、私も尊重したい」とも表明した。7月21日、「非武装中立は政策的役割を終了」と発言。9月、社会党が、党大会で、「自衛隊は憲法の枠内。日米安保条約は堅持する」と政策転換を承認する。これが現在の党の基本方針になっている。これにより、社会党国会議員は、社民党、新社会党、鳩山民主党に三分岐して行くことになる。
【日共内で下里赤旗記者他2名の査問、除名】 10月、「日本の暗黒」赤旗連載の突然中止をめぐって下里赤旗記者他2名の査問、除名と作家森村誠一氏の日本共産党との絶縁が発生した。この時、担当常幹、赤旗編集局長と激論した結果が査問と統制処分であったと云う。下里氏は赤旗記者を解雇され。この経過を公表し除名処分になった。「日本の暗黒」赤旗連載の企画は、もともと国会での浜田幸一議員の「小畑査問死事件」に対する質問をテレビで見た作家・森村誠一氏が、「この問題を徹底的に明らかにしたらどうか」と赤旗編集局に進言し、それがきっかけで連載企画が進行したものであった。党の内部で集団的に長時間をかけて検討し、何度もの会議と決済文書を積み重ね、「日本の暗黒」の第一の柱として「スパイ査問事件」を取り上げることが決まり、これを元に、党外作家と赤旗編集局長の合意が成立し、1989年に連載が始まった。
上級の集団的チェックを受けた原稿によって、多くの読者を獲得して進んでいたものが、いよいよ同事件に筆が進みそうになった直前の1991年6月の時点で、突然中断となった。*何の問題もなく、万事順調に進んでいた連載が、なぜ突然中断になったのか。この背後には、宮顕のこの事件に対する徹底した隠蔽体質があるとしか考えられない。
【日共の第20回党大会】
1994年の第20回大会は、宮顕時代の見解の特に不都合と思える箇所を変更した。主要な改定箇所は次の通りである。綱領面で、61年綱領の従属国規定「わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義に半ば占領された事実上の従属国である」なる文言を削除し、「国土や軍事などの重要な部分をアメリカ帝国主義ににぎられた事実上の従属国である」と改定した。同じく、従来の社会主義国規定「1・社会主義をめざす国ぐに、2・社会主義をめざす道にふみだした国ぐになる識別」を無意味として削除した。「社会主義国とは、抽象的な概念ではなく、14の“現存した(する)社会主義国”を指し示す歴史的現実的用語である」として単に確認するだけに訂正した。更に、「冷戦は崩壊していないキャンペーン」を却下し、概要「冷戦も、抽象的な用語ではなく、第二次大戦末・終了後以来の『米ソ冷戦』という歴史的具体的概念であり、冷戦構造の一方のソ連が崩壊した以上、米ソ冷戦も消滅した」と訂正した。更に、丸山真男批判大キャンペーンを抑制する立場へ転換した。これまで党中央は、丸山氏の内在的批判論に対して、「前衛」、「赤旗」、「党大会決定」、「改定綱領」、「日本共産党の七十年」等で13回も丸山批判を行い、過剰なまでの拒絶反応を示したが認識訂正した。
以上の改訂はともかくも、規約面で除名、除籍問題について改悪した。概要「第十二条、党の綱領あるいは規約を否定するにいたって第一条に定める党員の資格を明白に喪失したと党組織が認めた党員は除籍することができる。特殊な事情のもとでは、地区以上の指導機関は、党員の除籍を決定することができる」と新たな文言を挿入し、所属支部の審議にかけなくとも、党中央規律委員会や中間機関が、フリーハンドで党員の党外排除できるという条項を付け加えた。
【早大総長に奥島孝康氏が就任、革マル派の一党支配に断を下す】
11月、早稲田大学第14代総長に法学部教授の奥島孝康氏が就任した(2002年11月まで)。奥島氏は、60年安保闘争でブント系全学連デモに参加していた履歴を持っており、革マル派が大学当局と慣れ合いの上、学内憲兵隊然として早大キャンパスを暴力支配している慣習の解決に乗り出した。奥島総長は任期中、革マル派をキャンパスから追い出すことを最大の任務と位置づけ、自治会費徴収、早稲田祭、旧学生会館の廃止、取り壊しと新学生会館建設、新学館管理問題を廻って、革マル派との慣れ合い関係を断ち切り悶着することになった。奥島総長時代、早大の左の伝統を懐旧する奥島体制と学内憲兵隊革マル派との「10年戦争」と云われる珍しい騒動が続いて行くことになる。
奥島氏を革マル派追放に駆り立てたものは何だったのか、次のように語っている。「何より許せなかったのが、他の学生の『自由』を決して認めようとしない革マル派の姿勢です。早稲田ほど、自由を愛する大学はない。しかし、その早稲田では30年間、『自由を愛する』という美名のもと、『他者の自由を認めない者の自由』、つまり『革マル派の自由』だけを認めるというバカなことが罷り通ってきた。(中略)早稲田では事実上、革マル派の検閲で認められなければ、新しい学生活動は何一つできなかったわけです。もし彼らを無視して、学生たちが新たなことをやろうとすれば、革マル派は彼らを徹底的にいじめて潰すわけですよ。学内で待ち伏せしたり、下宿にまで押しかけて脅し、時には暴力までふるう。よく、あそこまでやるなと思いました。そのときに断じて彼らを許さないと思ったのです。(中略)治外法権は、早稲田でも同様でした。それまで早稲田には『大学の自治を守るため』、『学問の独立を守るため』という大義から、警察を大学構内に入れないという不文律がありました。革マル派は、それをいいことに、学内で傍若無人の限りを尽くしてきた。そしてそれは早稲田に深刻な『教育荒廃』を引き起こしたのです」(「マングロープ」325P)。
*奥島氏のこの言は的確であり、革マル派の果たしている政治的役割を見抜いていると思う。「早大キャンパスにおける革マル派のパトロール支配登場」により、戦後学生運動の豊穣の地たる早稲田の活力は萎えさせられた。そのことを見抜いた冷徹な知性が奥島氏を生み、奥島体制を支えたのではないかと思う。気にかかることは、奥島体制後の早稲田キャンパスであるが、どうなっているのだろうか。「上からの自浄は仮象であり、下からの自浄能力なくしては根付かない」のではなかろうかと危ぶむ。
革マル派は奥島体制打倒作戦を展開する。奥島氏は次のように語っている。「法学部長から総長に就任したころまでは、自宅に1日中、脅迫電話がかかってきました。総長になってからの2年間は無言電話。自宅前のアパートの二階からは、彼らがずっと見張っていた。幸い、うちの家族は神経が太かったのか、なんとか耐えてくれましたが、家族から攻めてくるのが、彼らのやり方なのです。当時、学生部長として私を支えてくれた石川正興先生に対しては、娘さんの高校にまで、『お父さんが事故に遭って、大怪我をした』などと、ニセ電話を入れる卑劣なことまでしたのです。(中略)先代の総長たちは授業を持っていなかったのですが、私は現場の感覚を失いたくなかったから、総長を務めていた8年間も四コマの授業を持っていました。授業の為に外に出ると、彼らがやってきて取り囲むわけです。一番長い時で、大隈銅像前の壇上に、午前10時半から午後5時半まで7時間立たされたこともあります。片足に二人ずつ、計四人で私の足を押さえつけ、トイレにも行けなかった。でも、私は絶対に逃げなかった。彼らは逃げれば追ってくる。だから私は、学内ではいつも、道の真ん中を堂々と歩いていたんです。(中略)盗聴も凄まじかった。『これだけは漏れてはいけない』とわざわざ学外のホテルを借りてまで、極秘で行った会議の内容が、その日のうちに漏れている。どうやっても盗聴されると分かったから、会議の途中も天井を向いて、『やぁ、聴いているかい』と、彼らに呼び掛けていたほどです。(なぜ、脅しに屈することなく闘えたのかと聞かれ)30もの革マル派支配に、みんなもう、うんざりしていたのです。特に、最も彼らに苛められていた文学部の先生たちが、最も強硬な反革マル派に転じた。革マル派も30年でいい気になり過ぎていたのでしょう。どんな組織でもそうですが、彼らと闘うなら、身を捨てる生き方を誰かが実践し、それをバックアップする人間がいればいい。必要なのはこの二つなのです」(「マングロープ」328P)。
奥島総長の「盗聴話し」はウソではなかった。1998年1月、警視庁公安部が東京都練馬区の革マル派の「非公然豊玉アジト」を摘発した際、約1万4千本のカギが押収されたが、その中に奥島総長宅の玄関の合い鍵が含まれていた。同時に押収された約5千本の録音テープの中に石川学生部長の自宅電話の盗聴録音が含まれていた。
【公明党解党】 12月5日、公明党第34回大会、30年間の歴史に終止符を打ち正式に解党する。
【新進党結党】 12月10日、新生、公明、日本新党等からなる新進党が結党される。党首 海部俊樹、衆院178名、参院36名。
【政治改革関連三法施行】 1月1日、政治改革関連三法が施行される。
【阪神大震災】 1月17日、日本の兵庫県南部に大地震が発生し、この時点での戦後最大の震災となる(「阪神・淡路地震」(M7,2)。兵庫県を中心に、大阪府、京都府の近畿圏の広域が大きな被害を受けた。特に震源に近い神戸市市街地(東灘区・灘区・中央区(三宮・元町・ポートアイランドなど)・兵庫区・長田区・須磨区)の被害の様子は甚大で、日本国内のみならず世界中に衝撃を与えた。中国政府が300万元の救援物資を提供する。
【マルコポーロ事件】 1月に発売された雑誌「マルコポーロ」(発行:文藝春秋)の2月号に、「ナチ『ガス室』はなかった」というタイトルの記事が掲載された。執筆者は医師・西岡昌紀氏で、記事内容は、第二次大戦中ナチスがアウシュビッツその他の強制収容所でユダヤ人をガス室を使って大量虐殺したという「ホロコースト」は作り話であり、そのようなガス室が存在した証拠はない、とするセンセーショナルなものであった。この記事に対して、海外のユダヤ人団体より文藝春秋に抗議がなされ、さらに、団体が影響力を有する外国企業が同社の看板雑誌である「文藝春秋」から広告を引き上げるなどのアピールが行なわれた結果、文藝春秋はユダヤ人団体に謝罪をし、「マルコポーロ」を廃刊としたた。その後、朝日新聞などのメディアを中心に、ユダヤ人団体に同調するスタンスから、「ガス室否定」に代表される「ホロコースト否定説」を糾弾する論陣が張られた。
【地下鉄サリン事件、オウム真理教を廻る怪奇事件続発】 3月20日、オウム真理教絡みの地下鉄サリン事件が発生する。3月31日、国松警視庁長官が狙撃され重傷(「国松警察庁長官狙撃事件」)。4月24日、オウム真理教幹部、村井秀夫氏刺殺。5月5日、新宿駅地下街青酸ガス殺人未遂事件。
【第17回参議院選挙】 7月23日、第17回参議院議員選挙が行われ、自民党46、社会党16、さきがけ3、新進党40、共産党8、民主改革連合2、第二院クラブ1、公明0、スポーツ平和党0、平和・市民1、無所属9となった。非改選を合わせると、自民党111、社会党37、さきがけ3、新進党57、共産党14、民主改革連合2、第二院クラブ2、公明11、スポーツ平和党1、平和・市民1、無所属13となった。自社連立時代初の国政選挙で、新進党躍進、社会党惨敗となった。河野洋平総裁が村山富市首相(社民)からの首相禅譲を狙ったが与党内の反発で断念。その後の党総裁選で出馬断念に追い込まれた。
【村山首相が「戦後50年の談話」発表】 8月8日、村山富市 改造 内閣成立。官房長官・野坂浩賢。8月15日、村山首相が「戦後50年の談話」発表。
【橋本首相が自民党総裁に選出される】 9月22日、自民党議員総会で、橋本龍太郎が小泉純一郎を破って総裁(17代)に当選。橋本304、小泉87.。10月2日、村山改造内閣で、橋本龍太郎が副総理に就任する。
【早大商学部が革マル派系の商学部自治会の公認取り消しを決定】 この年、早大商学部が、革マル派系の商学部自治会の公認取り消しを決定し、自治会費の代行徴収を取りやめた。商学部では、学生一人当たり年間2000円、総額1000万円強の自治会費を自治会に渡していたが、奥島体制が、「使途不明、革マル派の活動資金に流用されている疑惑が強い」として資金断ち切りを図った。
【橋本政権】 1月5日、村山首相が退陣を表明。1月11日、第135臨時国会で、橋本龍太郎が第82代首相に指名される。第一次橋本内閣発足。幹事長・梶山静六。
【社会党解党、社会民主党に転生】 1月19日、日本社会党が第64回党大会で党名を社会民主党と改める。社会党はこの間、自民党との連合で村山政権を誕生させるや、「安保反対、自衛隊違憲」の一枚看板を投げ捨て「安保堅持、自衛隊合憲」、「日の丸・君が代容認」へと180度転換させていた。「市場経済の原理の尊重」を公然と表明し、自らを「寛容な市民政党」と規定した「95年宣言」を発していた。遂に、党名も社民党に変更することとなった。「名実ともに純然たるブルジョア改良政党へと“脱皮”した」と評されている。*戦後民主主義護持を旗印にしてきた日本社会党の解党は穏健派マルクス主義の破産を意味しており急進派マルクス主義の破産と一対のものである。この場合、マルクス主義の破産を認めるべきなのか、現代的創造能力の欠如を憂うべきなのかが問われていよう。筆者は、マルクス主義を踏まえつつ出藍する新たな理論の創造が責務となったと了解したい。社会党の解党は体制への屈伏でありお話にならない。
【反社民派が新社会党を結成する】
日本社会党が社会民主党と改名した動きに反発した矢田部理参議院議員2名、参議院議員3が新社会党を結成した。矢田部らは離党届を提出したが、社民党は受理せず除名処分とした。政策的には日本国憲法の護憲・非武装中立・社会主義経済を主張。社民主義を「大資本の支配を前提にして軍事力の行使を是認」と資本主義の枠内にみなして批判するなど、かつての社会党左派の流れをくみ、マルクス主義政党の色彩が強い。ただし、社会保障の充実を政策に取り入れるなど、政策を転換した部分もある。
但し、1996年の衆議院総選挙、1998年の参議院選挙でいずれも全員落選し国会に議席を失った。また、いずれの選挙でも得票率が2%に満たず、政党要件も失った。2000年の衆議院総選挙、2001年の参議院選挙でも議席回復に失敗。2002年、小森龍邦が委員長に就任する。2003年の衆議院総選挙では、初めて社民党と本格的な選挙協力を行い、無所属で候補を擁立したが及ばなかった。現在も一定の地方議員を擁するが、国政への影響力はほとんど失っている。
【民主党結成】 9月11日、菅直人らが民主党結成の動きを始め、基本理念と基本政策を発表し、参加を呼びかける。9.18日、民主党設立委員会発足。衆院35人、参院4人。9.22日、民主党結成記念大会。設立委に衆院46人、参院4人。この民主党が次第に勢力を増し、2009年8月時点で政権に大手を掛けるところまでへ成長して行くことになる。
【第41回衆議院選挙】 9月27日、橋本首相が衆院解散。「小選挙区解散」と云われる。史上初の小選挙区、比例代表並立制による選挙。党首選挙を廻って新進党が混乱、橋本首相が解散に踏み切った。10月20日、初の小選挙区比例代表並立制による衆議院議員選挙が行われ、自民が211議席から239議席へと議席を伸ばし、橋本首相が続投を確実にした。新進党は160→156、民主党は52→52、共産党は15→26、社会民主党は30→15.となった。28名の議員が民主党に流れる中で闘った社会民主党は、改選議席をさらに20名下回る15議席の少数政党に転落した。新党さきがけは2、民主改革連合は1、諸派・無所属は9。.
【消費税が3%から5%に値上げ】 4月1日、橋本政権が消費税を3%から5%へ値上げする。この時、与党入りしていた社民党が賛同し、消費税導入時の反対で大躍進した社民党の変節が有権者に幻滅を与えた。2003年、 消費税課税業者の免税点が売上3千万円から1千万円に引き下げられた。2004年、価格表示の「税込表示」が義務づけられた。
【改正駐留軍用地特別措置法成立】 4月17日、沖縄の駐留軍用地特別措置法改正案で、自民党と小沢率いる新進党の連携が成立。改正駐留軍用地特別措置法が成立。施行は23日。
【酒鬼薔薇聖斗事件】 2.10日頃より、神戸市で女児2人が次々と死傷させられる事件が発生した。5.24日、身体障害者の男児が行方不明になり、少年Aが逮捕された。事件には謎の部分が多く、逮捕された少年Aは冤罪ではないかとする運動が始まり議論を呼ぶことになる。これを「酒鬼薔薇聖斗事件」と云う。但し、少年A自身が犯罪を認める供述を繰り返しており、現在も真相が定かでない。
【革マル派が「神戸事件の真相を究明する会」運動に精力的に取り組む】 革マル派が、「神戸事件の真相を究明する会」を立ち上げ、権力謀略論の観点から「謀略犯罪」であるとし、それを「立証」するための各種非合法活動を行った。少年Aの精神鑑定を行った兵庫県立光風病院(精神科の病院)の院長室に侵入し、精神鑑定の資料や検察の供述調書などを盗み出した。少年Aが関東医療少年院に収容されたのを見て、少年院内での両親との接触が可能かを確かめるため侵入するなどした。これに対し、中核派は、「革マル派式権力謀略論の見え透いたウソ」を嘲笑する対応をとった。*確かに事件には胡散臭いものがある。「革マル派式権力謀略論」によらずとも事件に纏わる様々な不審を解明する必要があるのではなかろうか。
【憲法議運発足】 5月23日、超党派の憲法調査委員会設置推進議員連盟(憲法議運)発足。翌1999.7.29日、衆参両院に憲法調査会を設置する改正国会法成立が衆院本会議で可決成立。
【日共第21回党大会】 9月26日、日本共産党第21回大会で、宮本顕治議長が引退し名誉議長。名実ともに不破哲三委員長体制が確立する。「21世紀の早い時期」に民主連合政府の樹立をめざす政権構想を打ち出す。連立相手について不破氏は「修正資本主義論の立場にたつ勢力でも」と語る。
【酒鬼薔薇聖斗事件その後】 10月17日、「酒鬼薔薇聖斗事件」で神戸家裁による審判の決定が下され、A少年の医療少年院送致が確定した。決定では「非行事実」認定にあたっての根拠が何ひとつあきらかにされなかった。
【新進党解党、小沢自由党結成】 12月27日、新進党が解党。バラバラ分裂状態に。小沢一郎が自由党結成。翌1998(平成9)1月4日、新進党が六つに分かれ、自由、新党平和、新党友愛、黎明クラブ、国民の声、改革クラブに。1月8日、衆院野党6党参院7党の統一会派「民主友愛太陽国民連合」(略称「民友連」)誕生。1月21日、羽田・鹿野・細川の保守新党の名称が「民政党」(代表・羽田)に決定。
【第二次ブント戦旗荒派がブント(BUND)に名称変更】 この年、第二次ブントの戦旗荒派は名称をブント(BUND) に変更する。2008年、アクティオ・ネットワークと改称し、エコロジスト系市民団体に転換する。西田派は共産同全国委員会(烽火派)と合併し「共産主義者同盟(統一委員会)」となった。
【早大の奥島体制が早稲田祭中止に踏み切る】 この年、早大の奥島体制が、「日本一の大学祭」の評価が高い早稲田祭の中止に踏み切った。伝統的に革マル派が取り仕切ってきた「早稲田祭実行委員会」に対する1000万円の資金援助を断ち、パンフレットのまとめ買いを止めさせる等、革マル派対策を徹底させた。奥島体制は更に200年以降、公認サークルに対する年間35万円の助成金も打ち切り、「年間2億円に上ると云われている革マル派吸い上げ早稲田資金」の資金ルート遮断に乗り出す。
【ダボス会議】 2月、スイスの・ダボスで、世界の政治家や経済人が年に1度集まって、その後1年間の計画を決定する「世界経済フォーラム」が開かれた。これを通称ダボス会議と云う。会議の議題は、「アジアの経済危機に対する議論」に集中し、日本の対応が批判された。「橋本政権は間違った政策をとり続けている。橋本首相に任せておけない」として辞任の筋書きが決められた、と伝えられている。「彼らは一国の首相すら簡単に変えてしまう力を持っている」。「グローバリストのなかでも支配的立場にあるロスチャイルド家も、『日本の政権はすでに傀儡操り人形にした』と判断している」。
【改正外国為替法が施行される】 4月1日、金融改革・日本版ビッグバンの皮切りとなる改正外国為替法が施行。
【日中共産党の歴史的和解】
2月、「文化大革命」以来、三十一年間断絶状態にある日中両国の共産党が、公式レベルの接触を再開した。きっかけは、一九五〇年代の日本共産党内の路線対立に関する中国要人の証言報道。日本共産党が報道内容に関して、中国共産党に真偽を問い合わせたため、結果的に両党の接触が実現するという思わぬ副産物が生まれた。両党の関係は、日本共産党が党機関紙「赤旗」の特派員三人を二十五日に北京に派遣し、月末にも北京支局を再開するなど、和解の機運が高まっている。「赤旗」の北京支局開設は、「赤旗」と中国政府が交渉する形をとったため、両党間の公式な接触は、八五年の関係改善交渉が不調に終わって以来、13年ぶりのことになる。
5月、不破委員長を団長とする日共の代表団が訪中し、昭和41年以来、31年ぶりに中国共産党と会談して和解している。不破委員長は、日中友好には二つの逆流があるとして、1、日本の政権には侵略戦争への反省が不明確(所謂歴史認識)。2、二つの中国を巡る問題の根源は米国にある(台湾問題)と日米両国を非難した上で、日中友好の五原則(歴史認識他)を提示した。江沢民総書記は「歴史認識」、「一つの中国(台湾問題)」を改めて強調、特に後者に就て「日米防衛協力の為の方針(ガイドライン)の適用範囲に台湾を入れるな」と言明、日米安保条約については「冷戦時代に出来たもので、その後も残されている」と不快感を表明している。
【省庁再編】 6月9日、中央省庁等改革基本法が可決成立。2001年から1府12省庁体制が発足する。*この省庁再編に何らかの有意義が認められるだろうか。大蔵省の名前が消え、労働省が厚生省に編入され、運輸省と建設省が国交省にされる等々変化があったが、各省の名称が却って分かりにくくなり、同時に消えた省庁の権限が弱くなっただけのことでしかない。建前はともかくも、一体誰が何の狙いで推進したのだろうか、裏の意図こそ詮索されねばなるまい。
【第18回参議院選挙】 7月12日、第18回坂議員選挙が行われ、自民党44、民主党27、共産党15、公明党9、自由党6、社民党5、新党さきがけ0、自由連合0、無所属20となった。非改選を合わせると、自民党103、民主党47、共産党23、公明党22、自由党12、社民党13、新党さきがけ3、自由連合1、無所属28。自民党が惨敗し過半数を大きく割ることになった。民主党、共産党が躍進した。
【BIS会議】
7月13日、自民党の大惨敗から一夜明けた日、BIS=国際決済銀行の月例総会と日米経済人会議が東京で開かれた。BISの月例会が開かれるのは、基本的に、ダボスと同じスイスにあるバーゼルという都市。例外は、毎年9月、アメリカのFRB=連邦準備銀行で開かれるときだけだ。それが、60年以上に及ぶBISの歴史上初めて、スイスとアメリカ以外の場所で開催された。それが、参議院選挙翌日の東京だった。BISの会議は、完全に秘密で行なわれる。BIS職員も、マスコミ関係者も一切出席できない。参加できるのは、BIS重役と招かれた客のみ。しかもその内容は一切発表されない。BISの13人の重役の中には、先進国とスイス、アメリカの中央銀行総裁がいる。日本は1994年から加わっている。ダボス会議に出席した、アラン・グリーンスパンFRB議長も重役の一人だ。
この秘密会議には、世界経済に君臨する巨大財閥、ロスチャイルド財閥の重要人物が参加していた。ロスチャイルド財閥は、グローバリストの中心であるといってもいい。むしろ、BISそのものがロスチャイルドの手足として働いているという実態もある。このロスチャイルド財閥のアジア担当者が、直接、日本にまでやってきた。彼らは本気なのだ。本気で日本経済を叩きつぶそうとしている。そのさまたげとなってきた橋本首相を叩きつぶすために、彼らは重要な秘密会議をわざわざ東京で開いたのである。もし橋本首相が辞任しなければ、彼らは圧力をかけて、むりやりにでも辞めさせるつもりだった。橋本首相はグローバリストにとって、そこまで邪魔者だったのだ、とある。
【小淵政権】
7月13日、橋本首相が、参院選敗北の責任で退陣表明。7月24日、自民党総裁選が行われ、小渕派の小渕恵三、総裁選出馬のためあえて小渕派を出た梶山静六、三塚派の小泉の三つ巴の戦いとなった。投票の結果、小渕225、梶山102、小泉84で、小渕が第18代自民党総裁に選出された。この時、首相指名選挙で、共産党が民主党の管代表に投じている。8月、小渕首相が就任後初の所信表明演説。「21世紀を目前に控え、私は、この国のあるべき姿として、経済的な繁栄にとどまらず、国際社会の中で信頼されるような国、いわば『富国有徳』を目指すべきと考えます」と締めくくった。ちなみに「富国有徳論」は、小渕首相が主宰する「21世紀日本の構想」懇談会の中心メンバーである川勝平太・国際日本文化研究センター教授の持論である。
*ある国際金融アナリストは次のように述べている。概要「ロスチャイルドは、日本の政権はすでに傀儡(かいらい)にしたと判断している」という。小渕首相は、これまで日本ではほとんど例のないことだが、元首相の宮沢喜一を大蔵大臣に就任させた。宮沢元首相は、中曽根元首相と竹下元首相の根回しがあったために、この大役を引き受けたことが判明している。竹下、中曽根、宮沢。彼らはすべてグローバリストの手先として働いている人物だ。彼らによって決められた小渕が首相になったということは、すなわち、日本の政権がグローバリストやロスチャイルドの「かいらいとなったことを意味する」。そういうことであろう。
【日米防衛協力指針「新ガイドライン」登場】 5月24日、前年9月23日に日米両政府により新たな日米防衛協力の指針「新ガイドライン」が策定され、関連法案が参院本会議で可決成立した。米国の軍事行動に官民あげて協力する体制作りへ大きく動いた。
【国旗・国歌法案成立】 7月22日、日の丸・君が代法案が衆院本会議で可決。参院へ。8月9日、国旗・国歌法案が参院で可決、成立。民主党は自主投票。8月13日に公布・施行された。
【小渕第2次改造内閣発足】 10月5日、自民、自由、公明三党の連立政権による小渕第2次改造内閣が発足した。
【週刊ポストがユダヤ右翼団体(SWC)に全面降伏】 10月7日、週刊ポスト(小学館)の記事「長銀「われらが血税5兆円」を食うユダヤ資本人脈ついに掴んだ」に対しユダヤ右翼団体(SWC)が脅迫、ポストが全面降伏させられた。
【国債残高】 11月24日、今年度の国債発行額が38兆6160億円。戦後初めて純税収を上回る借金大国に転落。12月3日、国の借金残高が今年度末に501兆5813億に達すると大蔵省発表。
【EU(欧州連合)で統一通貨ユーロー誕生】 この年、EU(欧州連合)で統一通貨ユーローが誕生している。