第21章 1980年代の諸闘争(10期その1、1980年代)
(この時期の政治動向)
ここでは1980年代の流れを確認する。鈴木政権、中曽根政権、竹下政権、宇野政権の時代となる。この時代、日本政治は中曽根政権の登場と共に「戦後政治の総決算」に向かい始め、明らかに質が転換する。これを分かり易く云えば、ハト派的経済成長による内治優先政治システムからタカ派的大国責任論による外治優先システムへと移行し始めたことになる。つまり、戦前的統治に戻ったことになる。ハト派対タカ派の政争は次第にタカ派が凱歌をあげるように変遷し、この方向が定式化する。中曽根政治以来、国家機関事業体の民営化、とめどない国債発行、軍事防衛費の突出化が始まった。これに照応して高度経済成長を支えてきた要の公共事業が解体され始めた。2010年現在これらが自家撞着し、日本政治をいびつなものに仕上げている。この見識を獲得せねばなるまい。かく捉える歴史評論はないが、今後はこの観点が基調になるべきであろう。
この時代の日本左派運動は、個別的に三里塚闘争、狭山裁判闘争等々では結集力を見せるものの、それまでは僅かに維持されていた70年安保闘争後の動員惰力をも失い、トピックな政治課題を捉まえて取り組む政治闘争の影さえ見当たらなくなる。日共が更に右傾化し始め、旧民社党より右派的な路線へと向かい始め、その代わりに政権与党のゴシップ暴露によってのみ存在感を持つという変態色を強め始める。日本左派運動は「中曽根反革命」に次第に絞殺される。
この頃より日本左派運動が権力闘争の展望を失う。それまでの左派運動は曲がりなりにも、政治闘争の環として位置付けられていた労働運動、学生運動、婦人運動、農民運動、文化運動、平和運動などと結合し、巨大な動員力で対権力闘争、その先にあるものとしての革命運動の一翼を担う気概で組織化されていた。この構造が解体され、日本左派運動は広義な意味での市民的社会運動に個別的に向かい始める。新たな運動として平和・反核、反公害、反巨大開発、エコロジー、消費者、ウーマン・リブ、フェミニズム、差別告発、マイノリティ解放、同性愛者解放、「障害者」解放、情報公開請求、住民監査請求等の様々な地域主義運動を生みだすことになる。革命的展望を失った分だけチマチマしたものになったのは致し方ない。これを「言挙げ(カミング・アウト)運動」とみなすことができよう。
興味深いことは、「中曽根式民営化路線」が始まり、日本左派運動の一翼を担い続けてきた国鉄労働運動が根底的危機を迎えた時の各党派の右往左往ぶりである。マル生粉砕闘争に勝利した国労、動労が俄然戦闘的に闘い抜くかと思いきや、国労は分裂に次ぐ分裂を深めつつ最後の一線で踏みとどまるものの、「鬼の動労」と呼ばれた松崎率いる革マル系動労は国鉄当局と誼を通じ露骨な延命策に転じることになる。その動労が、「中曽根式民営化の尖兵」として国労弾圧に手を貸す醜態を見せていくことになる。
こうした日本左派運動の閉塞化を尻目に、1980年代後半、麻原彰晃を教主とするオウム真理教が登場する。オウム教義は、かっての青年学生がマルクス主義を信奉したのに似て原始仏教に救済原理を求め、一定の影響力を与えて行く。坂本弁護士一家失踪事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件等々を経て自滅して行くが、オウム真理教批判は、同じ論理と論法で左派批判にも通じている点で興味深い事件となっている。そういう意味で、日本左派急進主義運動の影絵であった面がある。新左翼系諸派の対オウム理論を聞いてみたいが分らない。こういう関心を以て、以下検証する。
【ハプニング解散】 5月16日、社会党がパフォーマンスの意味合いが強い内閣不信任決議案を提出したところ、自民党の反主流派が採決を公然と欠席してことにより可決されるというパブにングとなった。当の野党も驚き、民社党の春日一幸委員長は、「切れない鋸を自分の腹に当てやがって」と野党の未熟ぶりを嘆いたと伝えられている。大平首相は衆議院解散に踏み切り(ハプニング解散)、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという初の衆参同日選挙という秘策で政局乗り切りを図った。
【韓国で光州事件発生】 5月18−26日、韓国全羅南道の中心都市.光州で反政府蜂起暴動が発生した。5月18日未明、全土戒厳令が敷かれ、金大中が連行される。市民ぐるみの蜂起に発展、連日市街戦が展開された。数千人が犠牲になった。これを「光州事件」と云う。政情の違いと云うべきだろうが、戦後日本に於いては軍が民衆暴動を鎮圧し、数千人を虐殺すると云う事例はない。 【史上初の衆参同時選挙】
6月12日、大平首相が参院選挙中、心筋梗塞のため死去。この間、娘婿の森田一が付ききり、「角さんに会いたい」を受け連絡をとる。地元新潟で遊説中の角栄は直ちに帰京したが、駆けつけたときは息を引き取った後だった。角栄は大平の遺体に向かって号泣ししたと伝えられている。この時、田中は、「31年にわたり兄弟付き合いをしてきた。非常に慎重な性格で、自分と合わせて二で割りば丁度良いのにと笑いあったりしたかだが」といって涙を流した。
6月22日、史上初の衆参同時選挙(第36回衆議院、第12回参議院)が行われ、衆議院選の結果は、自民党284、社会党107、公明党33、民社党32、共産党29、新自ク12、社民連3、無所属11となった。菅直人が初当選。参議院選の結果は、自民党69、社会党22、公明党12、共産党7、民社党5、新自由クラブ0、社会民主連合1、無所属8となった。非改選を合わせると、自民党135、社会党47、公明党26、共産党12、民社党11、新自由クラブ3、社会民主連合2、諸派2、無所属13。自民党は衆院で284(36増)、参院で69(11増)、自民党田中派系は100の大台に乗る大勝、2位の鈴木派も82名となり安定多数を獲得した。
【鈴木政権】 7月17日、大平後継として鈴木善幸が急浮上、第10代自民党総裁に選出され鈴木内閣が発足した。鈴木は、元々社会党公認候補で衆院初当選1947年、田中と同期である。49年に吉田茂率いる民自党に鞍替えし、その後自民党総務会長を9期務めていた。鈴木首相は和の政治を提唱、大平内閣以来の行政改革と財政再建を課題とした。80年の国債残高は70兆5098億円、国債異存率は32.6%に達していた。翌81年には82兆円を突破することになる。
【原水協と原水禁が共同闘争実行委員会を解散】 1980年、「統一行動」としての原水禁世界大会方式が次第に定着してくるや、原水禁と原水協が再び対立し始めた。原水協は、「1980年が原水協結成25周年にあたる」として、この夏に「独自集会」を開くことを決定した。「世界大会」が開催不能となりかねない状況のなかで、地婦連や日青協は「統一世界大会」を開催しようと必死の努力を開始する。この尽力が実り6月28日、原水禁、原水協代表を含めた発起人集会が開かれるはこびとなった。それまでの実行委員会方式から統一世界大会を準備するため運営委員会団体を中心とする「準備委員会」方式で運営することに踏み切ることになった。これ以降、世界大会は「準備委員会」方式で主催されることになる。
【伊藤律奇跡の帰還】
8月23日、新聞各紙の夕刊が一面トップで伊藤律の生存ニュースを報じた。9月3日、野坂の悪巧みで北京に幽閉され、その後27年を経て解放された伊藤律が九死に一生を得て密航以来29年ぶりの帰国をした。*伊藤律の有能さは、「27年の幽閉、29年ぶりの帰国」になお衰えぬ精神力と頭脳の明晰さを保持していたところにある。誰が真似できようか。他方、宮顕−野坂の牛耳る日共は恥ずかしげもなく居直り釈明一つしなかった。これが倫理道徳を説き続ける現下日共党中央の有り姿である。むしろ「伊藤律スパイ説」を執拗に流し続け乗り切りを図った。伊藤律幽閉の当事者であった野坂は「伊藤律の問題について」で苦しい弁明をしている。
日共党中央の一連の対応の後、「伊藤律証言」が朝日新聞と週刊朝日に連載された。除名後27年間の沈黙を破る伊藤律自身の言葉が披瀝された。「ぼくは身の潔白を証明する為に生き長らえてきたんじゃないんだ。曲がりなりにも日本共産党の政治局員という責任ある地位にいた者として、今やらなければならないことがあるんだ」。10月初旬、伊藤律、小松雄一郎に「獄中27年の記録」語り始める。12月まで続き、朝日新聞がこれをもとに12.22日より7回連載で「伊藤律の証言」として「故国の土を踏みて」を発表する。
【「土光臨調」発足】 3月16日、臨時行政調査会(第2次臨調)初会合。経団連前会長の土光敏夫氏が会長に就任。土光氏は、会長を引き受ける条件として、4項目の申し入れをしていた。1・答申を必ず実行するという決意、2・増税無き財政再建、3・行政の合理化、簡素化、4・3K(国鉄、米、健保)の赤字解消、特殊法人の整理、民営化を極力はかり民間の活力を最大限に生かす。3月18日、鈴木首相、行政改革に「政治生命をかける」と表明。
【日共が「全国革新懇」結成】 5月、共産党が「社会党抜きの統一戦線組織」として「全国革新懇」結成。平和.民主主義.革新統一を進める全国懇話会、地域「革新懇」241、参加人員415万人。松本清張、羽仁説子、真下信一、寺島アキ子、松浦総三などの文化人を代表世話人として表に立てて、世話人110名からなる組織。社共統一戦線の障害になるとの反対意見も根強かったが宮顕議長の肝いり秘書グループが推進した。
【日共第16回党大会】 7月、日共の第16回党大会が開かれ、宮顕議長、不破哲三委員長が誕生した。これにより野坂議長が名誉議長となった。不破が書記局長から委員長に昇格した。
【中曽根政権】 10月12日、鈴木首相が突然辞意表明「次期総裁選に出馬しない」と発表した。10月23日、中曽根康弘、河本敏夫、安部晋太郎、中川一郎の4名が立候補し、自民党総裁公選予備選がスタートした。11月24日、自民党予備選の結果、中曽根が勝利し、中曽根が第11代自民党総裁に指名される。11月25日、中曽根内閣誕生。11月27日、第1次中曾根内閣が発足。「仕事師内閣」をうたった。 中曽根首相は、首相就任初の施政演説で「戦後政治の総決算」を謳い、「戦後政治を総合的に見直し、21世紀に向かっての基本的路線を策定する」と述べた。
【中曽根政権考】
中曽根は、中曽根政治について自ら次のように語っている。概要「一本の柱は、吉田政治からの脱却でした。私に云わせれば、エセ一国平和主義ですよ。憲法改正・防衛軍創設などを求める鳩山一郎や三木武吉、河野一郎などに対抗するためでもあり、日本弱体化を狙っていたアメリカの政策にともかく迎合するのが得策と考えたこともあるでしょう。国家像の構築や安全保障は棚上げして経済重点主義に走った。それが結果として国民精神を歪めて、国民の中に国家意識が無くなってしまった。池田さん、佐藤さん、角さんと、いずれも吉田路線を踏襲した。私はその路線から脱却して、新しい国家像を構築し、歴代首相が逃げ腰だった防衛問題に真っ向から取り組むことにしたのです。はっきり云えば、マッカーサーの占領政策がそのまままかり通ってきて、国際的には常識である防衛問題を論じることがタブーになっていた。私はそれを叩き壊そうとしたのです」。
*中曽根の「戦後政治の総決算政策」の影響は大きい。これを分かり易く云えば、「角栄的なるもの」から「中曽根的なるもの」への一大転換を遂げていくことになる。「中曽根的なるもの政治」についてはその旨記すことにする。歴史は面白い。中曽根路線は小泉路線へと繋がるが、角栄路線は僅かにながら小沢路線へと命脈を保って行くことになる。誰か、かく共認せんか。
【防衛費突出化】 1983年度予算案は、一般会計1.4%増で50兆円の乗せたが、一般歳出が前年比マイナスの超緊縮財政の中で、防衛費だけ6.5%増で突出、GNP比率0.978%、聖域化を強めた。「福祉国家よさようなら、安全保障国家よこんにちは」と云われた。ODA(政府開発援助)は8.9%増で、韓国訪問の手土産に使われた。国債発行額は、13兆3450億円(建設国債が6兆3650億円、赤字国債は6兆9800億円)で、前年度当初より2兆9050億円多く、国債依存度は26.5%に上がった。
【日共内で上耕、不破兄弟が査問される】 12月、「日本共産党の60年」が刊行された。この中で、次のような記述が加えられた。「(1950年代の半ばに)党内には自由主義、分散主義、個人主義、敗北主義、清算主義の傾向や潮流が新しくあらわれた。過去の誤りへの批判の自由ということで、党内問題は党組織の内部で討議・解決するという原則から外れ、党の民主集中制や自覚的規律を無視する傾向は、党内外に様々な形で現われた」。この槍玉に挙げられたのが当時副委員長の上田耕一郎、幹部会委員長の不破哲三(上田健二郎)兄弟の1956年の著作「戦後革命論争史」(大月書店)だった。イタリア共産党の「構造改革理論」の影響を受けていることが指摘され、「お前たち2人は、26年前、自由主義、分散主義、分派主義の誤りを犯した」と断罪された。両名は、翌年の8月号前衛に自己批判文を載せることになる。翌1983年8月、日共の中央委員会政治理論誌前衛8月号に、副委員長の上田耕一郎、幹部会委員長の不破哲三が自己批判文を載せた。前年の12月に刊行された「日本共産党の60年」での両氏の1950年代半ばの動きが批判され、これに応えた形となった。筆坂秀世氏は著作「日本共産党」の中で次のようにコメントしている。「30年近く前の、しかも既に絶版になっていた著作の自己批判を公表させるなどというのは、宮本氏の力をもってする以外にありえないことだった」。
【日米軍事同盟強まる】
1月17日、中曽根首相が、アメリカに対して武器技術の供与を決定した。それまで、武器輸出三原則により、日本はどの国に対しても武器輸出はもちろん技術供与も禁じられていた。前政権の鈴木首相時代にも同盟国として武器技術の供与を求められていたが応じていなかった。中曽根は今日次のように述懐している。「アメリカから武器そのもの、そして軍事技術もたくさん供与してもらっているのに、こちらからは一切供与しないというのは不合理極まりない。内閣法制局の解釈を変えさせるのに苦労しました」。
1月19日、中曽根首相初訪米。「日米は太平洋をはさんでの『運命共同体』であり、同盟関係にある」と中曽根は述べている。「ロン」・「ヤス」と日米首脳がファースト・ネームで呼び合うなど親密さを演出することに成功した。この時、中曽根首相は、ワシントン・ポスト紙のグラハム社主等との朝食会で、「わが国の防衛に関しては、私なりの見解を持っている。それは、日本列島を不沈空母のように(ソ連の)バックファイアー爆撃機の浸入に対する巨大な防衛の砦を備えなければならないということだ」と発言し、物議を醸している(「日米運命共同体」、「日本列島不沈空母」等の発言)。ニューヨーク・タイム紙が、「中曾根首相、日本列島を不沈空母に」と発言を掲載した。中曾根はいったんは否定したが後に肯定した。
【日共圏で、民主文学同盟事件発生】
4月初め、党中央は、民主文学4月号掲載の小田実寄稿文の「野間宏を団長として、中国訪問した」記述“5行”と編集後記の中野健二編集長の寄稿謝辞に難癖をつけ、発売とともにするのが慣わしであった赤旗広告掲載を拒否した。党中央は、文学同盟常任幹事の党グループ会議を招集した。党中央の文化関係幹部5那の幹部、書記局次長宇野三郎(常任幹部会員)、小林栄三(常任幹部会員)、西沢舜一(幹部会員)、津田孝(幹部会員)、高橋芳男雅出席し、4月号の問題だけでなく、民主文学同盟の活動全般にわたって批判した。これについては、宮地健一氏の「第2、民主主義文学同盟『4月号問題』事件1983年」(http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/fuwahimitu.htm#m42)に詳しい。
5月、党中央は、第4回中央委員会総会を開いた。そこでは、中国の干渉問題と「日市連」の問題をとりあげて、文学運動だけでなく、一般知識人のあいだにも思想の風化がひろがっているので、イデオロギー活動の強化が必要だと強調した。中央委員会総会後、宮顕議長の指揮で文学同盟の責任追求が執拗に行われ、中野編集長を擁護してきた役員たちが辞職した。中野健二が編集長を、霜多が議長を、山根献も事務局長を辞退し、3人は同時に常任幹事を辞任した。そして常幹22人中、松崎晴夫、中里喜昭、上原真、井上猛、武藤功、飯野博、平迫省吾らを合わせて10名のメンバーが常任幹事を辞任した。編集部員の織田洋子と荒砥例は退職した。党中央は、混乱の指導責任を問うとして西沢文化局長を辞任させた。
【第13回参議院選挙】 6月26日、旧全国区に初の比例代表制導入した第13回参議院選挙が行われ、自民党68、社会党22、公明党14、共産党7、民社党6、新自由クラブ2、二院ク1、福祉1、サラリーマン2、諸派・無所属3となった。非改選を合わせると、自民党137、社会党44、公明党27、共産党14、民社党12、新自由クラブ3、二院ク2、福祉1、サラリーマン2、諸派・無所属10となった。
【第37回衆議院議員総選挙】 12.18日、第37回衆議院議員総選挙(いわゆる政治倫理解散)が行われ、自民党250、社会党112、公明党58、民社党は38、共産党26、新自ク8、社民連3、無所属16となった。自民党は解散時の286から250に激減し半数割れで惨敗し、保守系無所属の当選者8名を追加公認し258議席とした。新自由クラブ8名と連立することで辛うじて安定多数を確保した。
【引き続きの防衛費突出化、国債発行強まる】 中曽根内閣の84年度政府予算案は、 一般会計0.4%増で引き続き50兆円に乗せたが、一般歳出が前年比マイナス0.1%の緊縮財政の中で、引き続き防衛費だけ6.55%増で又もや突出、GNP比率0.991%。ODA(政府開発援助)は9.7%増。「福祉国家よさようなら、安全保障国家よこんにちは」傾向が一層強められた。国債発行額は、12兆6800億円(建設国債が6兆2250億円、赤字国債は6兆4550億円)で、前年度当初より6650億円減、国債依存度は25%になった。国債費が9兆円を超えて、歳出の18.1%を占め、1位の社会保障費に続き2位となり地方交付税を抜いた。
【中曽根首相が戦後はじめて靖国神社に年頭参拝】 1月5日、中曾根、首相として戦後はじめて靖国神社に年頭参拝。
【原水協が単独闘争化する】 1984年になって日共が再び原水禁運動に露骨な介入をはじめることになった。2月、原水協、平和委員会、反安保・諸要求貫徹実行委員会の日共系3団体が「トマホークくるな!国民運動連絡センター」をスタートさせ、原水禁運動に於けるセクト的な運動を再度持ち込み始めた。3月30日、「’84原水禁世界大会準備委員会」が発足したが、その直後から、赤旗(4月3日、4日)が、原水禁、総評を「分裂主義者」と非難し、一方的なキャンペーンを開始した。以降、日共が「排除の論理」を満展開し始める。原水禁や市民団体との共闘に積極的だった原水協の役員らを「独断専行があり、そのうえ、原水禁・総評に屈服、追随した」と非難、これを受けた原水協がその役員らを解任した。原水禁と市民団体はこれに強く反発した。その後、これら解任された人びとを世界大会を主催する実行委員会に加えるかどうかをめぐってもめにもめ、結局、1986年には統一世界大会の開催が不可能になった。運動の再分裂であった。この状態が今日まで続いている。
【日共圏で「原水協古参幹部粛清事件」発生】 この時、「原水協古参幹部粛清事件」が発生している。党中央による又もや振り下ろされた闘う人士、団体に対する弾圧であった。この時の弾圧で、原水協の代表幹事吉田嘉清.草野信男、日本平和委員会の事務局長・森賢一、会長・小笠原英三郎、理事長・長谷川正安、及び古在由重、江口朴郎らの取り巻き知識人ら党歴30数年の学者党員たちが「党中央の指示に従わぬ」という理由で除名された。これを報じようとした日中出版社の長崎肇・著「原水協で何がおこったか、吉田嘉清が語る」出版に対し、前代未聞の出版指し止め画策をしている。これら一連の経過が伏せられているが、まさに犯罪的であろう。詳細は「原水禁運動に於ける日共の逆指導考」に記す。
(jissen/hansenheiwaco/gensuikinundoco/nikkyonogyakushidoco/nikkyonogyakushidoco.htm)
【電電改革3法案が成立。初代社長を廻り中曽根派と田中派が対立】 12月20日、衆議院本会議で、電電改革3法案が成立した。以降、初代社長を廻る綱引きで、真藤恒総裁を推す中曽根首相、金丸幹事長派と北原安定副総裁を推す角栄派とが熾烈な対立を深めていくことになる。
【中曽根的なるもの政治としての引き続きの防衛費突出化、国債発行】 1985年度政府予算案は、一般会計3.7%増で引き続き50兆円に乗せたが、一般歳出が4年続きのマイナス・シーリングの緊縮財政の中で防衛費だけが引き続き6.9%増で突出、遂に3兆円を突破した。GNP比率0.997%。昭和51年11月の閣議決定(三木内閣)の「GNP比率1%を超えないことを目途とする」の線まで89億円を残すだけとなった。ODA(政府開発援助)は10%増。「総合安全保障」傾向が一層強められた。国債発行額は、11兆6800億円(建設国債が5兆9500億円、赤字国債は5兆7300億円)で、前年度当初より1兆円減、国債依存度は22.2%になった。年度末の国債残高は133兆円と見込まれ、国債費は10兆円を超えて社会保障費を抜き支出項目の第1位に踊り出た。
【日共が「出版妨害事件」の渦中の人物・柳瀬、安藤氏を除名】
2月22日、「日共の出版妨害事件」の渦中の人物であった柳瀬、安藤氏が除名された。2月24日付け赤旗に、「柳瀬宣久の除名処分について」が掲載された。一方的に都合のよい「党規律違反の概要」が書きなぐられていた。次のように罵倒している。「前衛党たる日本共産党の場合、党員は、党の政策や方針に反対する見解を党外で勝手に表明することを明確に禁じた規定を含む党規約を自ら承認して入党しているのであって、党員にとってはその規約を守ることが、党にとってはその規約を守らせることが、すなわち『結社の自由』の重要な内容なのである。この党規約を認めて入党する以上、党員が自らの出版や言論の自由をこの『結社の自由』と両立させつつ積極的に行使することは、本来、外部からの強制ではなく、本人の自発的意思である。(なお、党の政策や方針に対する意見、異見は、党内で表明する道が党規約で保障されている)前衛党の党員が、『出版の自由』ということで、党攻撃を目的とした出版が勝手にできるなどという柳瀬の議論は、党の上に個人を置くことを求めるだけでなく、党破壊活動の自由を党自身が認めよというものであり、綱領と規約の承認を前提に自覚的に結集した前衛党を解体に導く途方も無い誤りの議論である。それは、前衛党の『結社の自由』のあからさまな否定に他ならない」。
*これは宮顕の戦前日共党中央委員小畑リンチ致死事件の際の居直り弁明時のそれと瓜二つである。つまり、宮顕は同事件に対して何の反省もしていないことになる。「党員にとってはその規約を守ることが、党にとってはその規約を守らせることが、すなわち『結社の自由』の重要な内容なのである」とは、入党後の個人は煮て食われようが焼いて食われようが、党中央に対して何ら文句言えないとする恐るべき誓約を強いらることを示唆している。それが、「結社の自由の法律的意味である」とまで云う。無茶苦茶な論法であるが、これが罷り通っているみとの方が不思議だ。
奇態なことは、これらの経過に見合うかのような宮顕の次のような言及があることである。概要「(党員の処分にあたっては、)事実の綿密な調査と深い思慮が必要だということです。この思慮を欠いてことを行うならば、事実に合わず、道理に合わないことになって、その決定は当事者の苦しみはもちろん、党にとって有害なものにならざるを得ません。先入観にとらわれず、機関及び被処分者の申し立てなどを事実に基づいてそれぞれつき合わせ、それぞれの側にただしてまず事実を明確にすることが特に重要であるという点であります」(第11回党大会における宮本報告)。こういう言葉を弄びながら、確信的に裏腹のことをやるという宮顕の陰険な性癖に対して、我々は氏をどう評価すべきだろうか。異常性格か、もしそうでなければスパイ特有の三枚舌文言として見ておくべきかと思われる。
【国鉄内の角栄派と中曽根派の人事抗争、中曽根派が勝利する】
6月24日、国鉄総裁の仁杉巌氏が辞任。中曽根総理は仁杉総裁のみならず全重役の辞表を出すことを要請、重役陣の一部に抵抗があったが、角栄派的な隅田国武理事をはじめ全理事が退陣させられた。杉浦新総裁の改革がやりやすいような体制ができあがり、これより以降、国鉄「改革」が加速した。中曽根は自著「天地有情」の中で、「仁杉、隅田両君のクビを取ったから改革がスムーズに運んだ」と述べている。
杉浦は国鉄分割民営化に励み、干されていた松田昌士(後のJR東日本相談役)、井出正敏(同JR西日本相談役。JR福知山線脱線事故後に辞任)、葛西敬之(同JR東海会長)の「改革3人組」を中枢ポストに呼び戻し国鉄民営化を強行して行くことになる。「国鉄改革三人組」は次第に実権を握り始め、やがて強硬路線に転じる。分割・民営化などへの協力を求める労使共同宣言を提案し、国労は賛否をめぐって内部対立が深刻になったものの結局は拒否し動労、鉄労、全施労が応じる。続いて国鉄当局側は「人材活用センター」を作り、余剰人員であるとして国労組合員を隔離し始めた。その実態は本来の職務をさせず、草むしりなどの雑用をさせたものであった。「日勤教育」は人材活用センターの手法を受け継いだものといわれている。
中曽根首相の直轄機関として、省庁の枠を超える権限を持つ国鉄再建監理委員会が発足する。委員長に亀井正夫(住友電工社長)、委員長代理に加藤寛(臨時第4部会長、慶応大学教授)、他に住田正二(元運輸事務次官)、隅谷三喜男(東京女子大学長)、吉瀬維哉(日本開発銀行総裁)が選ばれた。この委員会で、国鉄「再建」策が練られ、7月、最終答申が提出される。
【日共内で東大院生支部の「宮本解任決議」騒動が発生】 7月、この頃東大院生支部の「宮本解任決議」騒動が発生している。宮地健一氏の「共産党、社会主義問題を考える」の「東大院生支部の党大会・宮本勇退決議案提出への粛清事件 1985年」(http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/fuwahimitu.htm#m44)で詳述されている。
【中曽根首相が戦後初の8.15靖国神社公式参拝】 8月15日、中曽根首相及び政府閣僚の多数が戦後の首相として初の靖国神社に公式参拝し、日本の野党、民間団体がこれに強く反対した。中国の世論は日本の閣僚が侵略戦争を美化したものと批判。9月、反日デモ起る。
【「プラザ合意」でバブル経済に突入する】
9月22日、「先進5カ国(米・英・西独・仏・日)蔵相・中央銀行総裁会議」(「G5会議」)がニューヨークのプラザホテルで開かれ、日本からは竹下大蔵大臣、澄田智日銀総裁、大場智満財務官の一行が出席した。国際金融局長の行天豊雄は、「米欧の10人くらいの仲間と隣の部屋にいた」。「プラザ合意」が為され、「各国通貨の対ドル相場の秩序ある上昇」を目指す為替市場協調介入強化が合意された。
この背景には、アメリカの双子の赤字(85年度の財政赤字・2123億ドル、貿易赤字1485億ドル)問題があった。ジェームズ・ベーカー財務長官がアメリカの貿易赤字解消策としてドル安、円高、マルク高となるよう政府の強力な指導を要求した。当時、1ドル=240円台、一ドル=2.9マルク台であった。西ドイツはマルク高に誘導しなかったが、日本は1ドル240円台から150円台へと円高政策を導入していった。これにより日本のGDP(国内総生産)の伸び率は、84年5.0%、85年4.7%、86年2.4%に落ち始める。特筆すべきは、日銀の過激な金融緩和政策が採られたことで、円の発行高は84年末が約24兆5000億円、85年末が25兆5000億円、86年末が26兆9000億円、87年末が約29兆2000億円、88年末が約32兆3000億円と急増していった。公定歩合も86年1月に4.5%、3月4%、4月3.5%と下げられていった。こうしてバブル景気の下地が準備され、日本はその後バブル時代に入る。
これによりバブル景気が始まり、1989年に絶頂を迎え、ソ連の崩壊と同じ1991年に崩壊する。土地転がし、株投資での売り逃げでかなりの利益がアメリカに流れた。その間、日本政府や生保などによるアメリカ国債購入が続いた。
【日共が伊里一智氏を査問除名】
1月、党中央は、伊里一智を査問し除名した。「伊里一智」に対し党中央側のキャンペーンを河邑記者が行った。河邑は、東大全学60%における宮顕逆路線批判共同意志問題を隠蔽し、伊里一智一人だけの気狂いじみた「ビラまき男」問題に矮小化させて「負け犬の、ビラまき男による党大会会場入口事件」にすり替え、宮顕勇退勧告派の動きを「分派の自由を要求する解党主義、田口富久治理論のむしかえし」と決めつけた。河邑は、伊里一智の思想的人格的低劣さを捏造する記事を量産して名を挙げた。この粛清では、志位和夫と河邑重光幹部会委員・赤旗記者が大活躍した。この時志位は、宮顕との直通ルートで頻繁に連絡し指示を受けた。宮顕は、その論功行賞で、志位を次回の第18回大会で「最年少の准中央委員(33歳)」に抜擢した。さらに、第19回大会では「中央委員、新書記局長(35歳)」に大抜擢する。
*志位は、宮顕擁護とあらばいかなる卑劣なでっちあげも平然と行い、それに基く粛清をも手がけ、「汚れた手」になるのも厭わない「最も党派性の高いヤングマン」とのお墨付きを頂戴した。第20回大会では、河邑が「常任幹部会委員」に抜擢された。これが「宮顕―不破―志位の重層的指導体制」誕生秘話である。戦前のリンチ仲間宮顕−袴田コンビのそれに劣らない。
【ソ連ウクライナ近郊のチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故】
1986.4.26日、当時ソ連ウクライナ近郊のチェルノブイリ原子力発電所の4号炉(黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉、RBMK-1000型)が爆発し、原子力発電史上最悪の事故が発生した。事故から4ヶ月後の1986.8月、ソ連政府は、IAEA(国際原子力機関)に事故報告を提出したが、おざなりな被害報告とその後の対応が記されているのみで、事故原因については「運転員による数々の規則違反の類まれなる組み合わせ」という何の教訓にもならない説明でお茶を濁している。被害実態は今も明らかにされていない。チェルノブイリ事故に関する情報は機密扱いとされ今日に至っている。
死者はソビエト政府の発表では運転員・消防士合わせて31名だが、事故の回収にあたった予備兵、軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認され旧ソ連時代の内部資料で確認されている被害者だけで約1万3000人、その殆どが既に放射線障害で死亡しており、さらに周辺住民の多くが死亡したと考えられている。最終的には4万人に達するとロシア科学アカデミーは発表したが、当時西側諸国の思惑もあり否定されて今に至り、最終的な被害者は公表されていない。また、事故によりチェルノブイリ周辺は高濃度の放射能汚染により居住が不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。爆発事故による放射能汚染はウクライナだけでなく、隣のベラルーシ、ロシアにも及んだ。
【東京で主要国首脳会議(サミット)】 5月、東京で、主要国首脳会議(サミット)が開かれた。
【原水協と原水禁が共同闘争を再分裂させる】 この年、政治運動の確執から、原水爆禁止国民会議、日本原水協、各市民組織が対立し、反核運動は再度全面分裂を起こす。 5月、市民10団体(地婦連、日青協、被団協、生協連、婦人有権者同盟、主婦連、日本山妙法寺、草の実、宗教NGO、WILPF)が「市民団体平和サミット」として集まり、独自の平和行進、世界大会問題について協議を開始しについて話しあった。5月31日、「平和行進」を出発させた。その直後から足並みを乱し始める。7月17日、「85世界大会実行委員会」の開催は全団体がそろわないとして、申し合わせ通り開催しないということになった。7月21日、市民団体は会合で独自集会を行なう議論へ移行することとなった。1977年以来、原水禁、原水協、市民団体を中心に開催された世界大会は1986年、被爆41周年目の記念日を前にして決裂が決定的となった。8月4日、日本被団協、日本生協連など10市民団体の「国際平和年'86市民平和大行進集結大会」、日本原水協の「原水爆禁止1986年世界大会」、原水禁国民会議の「被爆41周年原水禁大会」が広島市でそれぞれ始まる。9年ぶりに又も分裂大会となった。原水禁、原水協間に運動をめぐりきしみが出て、現在に至っている。
【衆参同日選挙(第38回衆議院選挙、第14回参議院選挙)】
7月6日、衆参同日選挙(第38回衆、第14回参)が行われ、衆議院は、自民党300、社会党85(25議席減)、公明党56、共産党26、民社党26(11議席減)、新自ク6、社民連4、無所属9となった。田中角栄は病床から立候補、17万9062票でトップ当選(16回)。参議院は、自民党72、社会党20、公明党10、共産党9、民社党5、新自ク1、二院ク1、サラ新1、税金1、無所属6となった。非改選を合わせると、自民党143、社会党41、公明党24、共産党16、民社党12、新自ク2、二院ク2、サラ新3、税金2、無所属6となった。
自民党は追加公認も含めて衆院304議席を獲得、参院142議席となり圧勝、自民両院で安定多数となった。中曽根首相の得意の絶頂期となった。この選挙で6議席に減った新自由クラブが解散。社会、民社両党は惨敗。社会党は統一後最低議席となった。中曽根首相は、この選挙で「大型消費税は導入しない。大規模な投げ網をかけるような消費税はやらない」と公約。これが悶着していくことになる。
【国鉄分割・民営化関連八法成立】 11月28日、国鉄分割・民営化関連八法成立。
【「防衛費GNP1%枠」突破、国債発行更に強まる】 12月30日、政府の1987年予算で76年三木内閣が決定した「防衛費GNP1%枠」をはじめて突破し、撤廃された。
【在日米軍労務費特別協定を閣議決定】 1月、在日米軍労務費特別協定を閣議決定。
【オウム真理教の登場】
2月24日、1984年2月に設立された麻原彰晃(本名・松本智津夫)のヨーガ道場「オウムの会」が、東京都渋谷区において、「オウム神仙の会」を改称し宗教団体「オウム真理教」を設立した。同年11月にはニューヨーク支部を設立する。1989年8月、東京都に宗教法人として認証された(登記上の主たる事務所は東京都江東区亀戸の新東京総本部)。以降、日本全国各地に支部や道場を設置、ロシアやスリランカ等海外にも支部を置くようになり、1989年当時には約1万人程度の信者を擁することになる。
ここでオウム教義を確認しておく。オウム真理教は仏教の原義を求め原始ヨーガ、原始仏教探索に向かう。その結果、パーリ仏典を土台に、チベット密教の技法を取り入れるに至り、「本当の正しき仏教」を獲得したとする。「宗教は一つの道」として、全ての宗教をオウム真理教式に読み解き始める。「実践宗教」であるべきことを強調し、出家と在家の両建てによる独特の修行方法を編み出す。グル(霊的指導者)を目指す階梯が用意され、具体的な修行法として出家修行者向けには上座部仏教の七科三十七道品、在家修行者向けには大乗仏教の六波羅蜜、またヨーガや密教その他の技法が用いられた。修行による苦悩からの解放を重視し解脱を目指す。主宰神はシヴァ大神で「最高の意識」を意味する。インド神話やヒンドゥー教にも同名のシヴァ神が登場するがシヴァ大神の化身の一つに過ぎないとする。教祖・麻原彰晃はシヴァ大神の弟子であると共にシヴァ大神の変化身とも見做された。
ここから先、独特の「ポア理論」を生みだす。「ポア(ポワ)」とは「意識を高い世界へと移し替えること」であり、生まれ代わりによる転生をも「善導」することになる。死の際の意識の移し替えが狭義の「ポア」で、「より高位の世界へ意識を移し替え転生させる為に積極的に死をもたらす」ことになる。つまり、「ポアなる言葉の下に殺戮を正当化する」ことになる。このボア理論により次々と奇怪な犯罪に手を染めていくことになる。*「オウム真理教式ポア理論」と「革マル派式教育的お仕置き革命的暴力論」とどこか類似していないだろうか。自らの宗派、党派を絶対の高みに置き、他宗派、党派を恣意的に虫ケラの如く扱う理論構造が一致しているのではなかろうか。
【国鉄分割・民営化と革マル派の裏協力】
4月1日、JR六社発足。4月14日、国鉄民営化。JR7社(北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州、貨物)が誕生。「国鉄改革三人組」と云われた
松田昌士はJR東日本、井出正敏はJR西日本、葛西敬之はJR東海の社長に就任する。民営化後、旧国鉄の労働組合各派は各様に対応した。穏健派の鉄道労働組合(鉄労)は当局に協力した。1970年代のマル生反対闘争を牽引し、国労と共にスト権ストを闘ったことを自負する国鉄動力車労働組合(動労)は方針を急転させ当局との協調路線に向かった。
*この時の動労の最高指導者は革マル派幹部として労対を受け持ってきた松崎である。つまり、革マル派は、国鉄民営化反対闘争を組織せねばならない肝心な時に裏切ると云う同派の履歴を又もや刻んだことになる。これを思えば、革マル派とは何者なのか、左派運動ネ圏に位置づける党派なのか解体派なのか、本来はこう問われるべきであろう。一体、日共と云い革マル派と云い、連中の運動で左派運動に寄与したものが一つでもあるだろうか。
【国労の分裂、居残り派の抵抗続く】
他方、国労は唯一翻弄される。組合員の多くは「人材活用センター」に収容され、「日勤教育」と称する草むしりなどの雑用を長期間強いられることになった。10月9日、国労は臨時大会(「修善寺大会」)が開かれ、激しい議論の末に分割・民営化反対路線を採用するものの主流派である分割・民営化容認派(右派)が国労を脱退し、やがて鉄産労連の結成に向かうことになった。国労からの脱退が相次ぎ20万人以上の組合員が脱退し、一挙に少数組合に転落した。踏みとどまる国労員に対して再雇用拒否通知が出され、不採用者は5009名に上った。
国労系組合員らの大半は本務から左遷され、慣れないキヨスク・立ち食い蕎麦屋・パン屋などの店員、自動販売機の補充などに回された。この経緯で、組合員の自殺は200人を超えている。新会社に引き継がれず、また他の会社に再就職できなかった(あるいは、しなかった)国労組合員は、国鉄清算事業団に移された。1990年の清算事業団解雇時に1047名(国労組合員以外を含む)が残っていた。国労組合員は全国で36の国労闘争団を結成し、動労千葉、全動労の不採用組合員と共に、民営化に伴う措置を不当労働行為であるとし地元の地方労働委員会に救済を申立てた。地方労働委員会は組合員側の主張を認め、JR採用を認める救済命令を出すが、JR側が拒否し、法廷闘争が続いていくことになる。
【日共内で不破委員長失脚】 4月、不破委員長が「党改革意見書(到改革に関する基本構想についての若干の提言)」を宮本議長に提出、宮本議長は中身を読んで激怒、結局、不破委員長は6ヶ月間の機関活動停止処分を受ける身となった。村上弘副委員長が委員長代行に就任した。
【国際緊急援助隊法成立、FSXの日米共同開発合意】 8月、国際緊急援助隊法成立。10月、FSXを日米共同開発とすることで合意する。
【竹下政権】 中曽根総裁の任期満了に伴う後継総裁選びで、ニューリーダーと呼ばれた竹下登(田中派→竹下派)、安倍晋太郎(福田派)、宮澤喜一(鈴木派→宮澤派)が争い、10.20日、中曾根に調整を白紙委任で一任、中曾根総裁は竹下を指名した。10月31日、竹下登が自民党臨時大会で第12代総裁に選出される。自民党はこれより「中曽根支配下の経世会代行政治」による総主流派体制へと向かって行くことになる。
【日共の第18回党大会】 11月25日、日共の第18回党大会が開催され、宮顕議長、不破副議長、村上弘委員長、金子満広書記局長体制が発足した。
【大韓航空機爆破事件】 11月28日、大韓航空機ミャンマー(旧ビルマ)沖で爆破。北朝鮮工作員の金賢姫らによる大韓航空機爆破事件であるとされた。
【1987年現在の新左翼各派の動向】 1987年現在、公安当局調査で、新左翼は5流27、8派。その活動家総数は約1万4400名、動員総数約1万9900名、シンパ層を含めた総勢約3万5000名と発表された。各党派の系譜と勢力は次の通り。革共同系は、中核派3420名、革マル派1930名、第四インター1010名。ブント共産同系は、戦旗.共産同、共産同戦旗派、蜂起派、社会主義労働者党、赤軍派の総計1640名。革労協系は、解放.狭間派、同労対派の総計1100名。その他として、構造改革派系のプロ青同、フロント、日本の声、日共左派系の日本労働党、日本共産党行動派の総計として5330名。
【赤報隊事件」】 3月、赤報隊が朝日新聞静岡支局にピースカン爆撃。3月14日、赤報隊が中曽根元首相事務所に脅迫状。靖国神社公式参拝や教科書問題に触れていた。3月17日、赤報隊が竹下首相の実家(島根県掛合町)に脅迫状。消印は中曽根元首相への脅迫状と同じ日。事件は公表されず、極秘に捜査された。
【瀬戸大橋開通】 4月10日、瀬戸大橋が開通する。これにより、四国と本土が陸続きになった。
【「1BIS規制」】
7月、各国の金融当局などで構成する国際決済銀行(BIS)のバーゼル銀行監督委員会が開かれ、銀行の自己資本比率に関する国際的な統一基準を示した。これにより、国際業務を行う銀行は、貸し出しの8%以上の自己資本を持たねばならないということになった。これを「1988年BIS規制」と云う。イギリスやアメリカは長期資金を貸し出ししない国柄であるので規制にあまり影響を受けなかったが、日本やドイツの銀行はそれまで4%程度で運営していたため影響を強く受けることになった。ドイツは反対したが日本は英米に同調した。
規制の狙いは、銀行が経営体力を上回るようなリスクを抱えて経営の健全性を損なうのを防ぐことにあったが、自己資本が比較的薄いにもかかわらず積極的な融資を展開し、資金量で世界の上位をほぼ独占した邦銀の存在感に欧米諸国が警戒感を抱いたことが背景事情にあったとされている。事実、BIS規制の導入後、邦銀は融資内容の見直しを迫られ、邦銀が融資を引き揚げることによりますます経済活動が圧迫され、株価下落の原因となっていく。1998―99年の金融危機では大手行でもBIS規制での自己資本比率8%の維持が難しくなり、公的資金注入につながった。 BIS(Bank for International Settlement=国際決済銀行)はスイスのバーゼルに本拠地を置く世界の中央銀行を束ねる国際機関で、元々は第一次世界大戦後のドイツ賠償処理機関として設立され、IMF設立時に廃止されるとされていた。それがそうはならず、引き続き大きな権限が与えられ金融政策に関与していくことになった。
【自衛隊潜水艦「なだしお」と「第1富士丸」衝突】 7月23日、自衛隊潜水艦「なだしお」と「第1富士丸」衝突。
【消費税導入】 7月29日、消費税導入を柱にした税制改革関連法案が国会に上程される。12月21日、参議院委員会で消費税法案が自民党による単独強行採決。12月24日、参議院本会議で消費税法など税制改革関連6法案が可決される。翌年4月1日、消費税3%導入が施行された。
【リクルート事件】
6月18日、朝日新聞横浜支局スクープによるリクルート疑惑が川崎市で表面化した。リクルートの創立者の江副浩正が、値上がり確実のリクルートコスモス株を、政治家や大企業のトップクラス、高級官僚、大手新聞トップを含むマスコミ幹部らに、大量に不正入手させた前代未聞の贈賄疑獄事件であることが露見した。日本の株式市場のゆがみを利用して政・財・官界など特権階級の人々の金儲け主義(錬金術)が白日の下にさらされ、事件が中央政界を巻き込むことになった。11月21日、リクルート疑獄事件に関して、国会で事件の証人喚問始まる。衆議院リクルート特別委員会で、江副、高石邦男、前文部事務次官・加藤孝、前労働事務次官を証人喚問した。宮沢は、それまで「秘書が友人に頼まれて秘書の名義貸しをした」と説明していたが、江副証言と宮沢蔵相との釈明食い違いが判明し責任問題へと発展する。
【モスクワのクレムリン宮殿・奥の院で秘密会議】 1月18日、TC(日米欧三極委員会)の幹部たちがディビッド・ロックフェラーに率いられて、モスクワのクレムリン宮殿・奥の院に集結し、ゴルバチョフと極秘会談した。参加した幹部の名は次の通り。元米国国務長官ヘンリー・キッシンジャー、元フランス大統領ジスカールデスタン、日本の元首相中曽根康弘その他。これについて筆者は思う。中曽根が参列していることの意味が詮索されねばならないであろう。
【日共の村上委員長失脚】 2月9日、常任幹部会の席上で、宮顕議長が村上委員長を失脚させた。その背景として、村上委員長が旧全逓系、関西系の自派系人事を強行して宮顕秘書軍団と対立、宮顕議長の鶴の一声で村上追放となった。村上はその夜、「こんなことで委員長の首を飛ばすなら、誰がやっても務まらんよ。この悪習を放っておいて良いのか」と憤懣を漏らしたと伝えられている。
【リクルート事件の捜査始まる】 2月13日、東京地検が、江副浩正リクルート前会長ら2名をNTT法違反(贈賄)容疑で、日本最大の企業NTTの元取締役・式場、長谷川ら8名を逮捕。更に、3月、辰已・リクルート元社長室長、NTT会長真・藤恒(ひさし)、元労働次官・加藤孝、元労働省課長・鹿野茂、前文部次官・高石邦男らが事情聴取され、3月に収賄容疑で逮捕、5月には第2次中曽根内閣の官房長宮であった藤波孝生(たかお)代議士と池田克也公明党代議士らを受託取賄容疑で在宅のまま取り調ベを行った。こうして事件は元閣僚、元代議士、事務次官2名、NTT元会長らをリクルートコスモス社未公開株収受による収賄容疑で起訴へと発展し、宮沢大蔵大臣辞任、竹下内閣崩壊へと連鎖した。*疑惑のコスモス株を秘書または家族名義を含めて9人の閣僚級政治家が密室の財テク的収受をしていた政府自民党幹部、中でも中曾根前内閣中枢に強い疑惑が集中し、国会の証人喚問で追及されたが、多くの「灰色高官」たちの立件は行われないまま事件は幕引きとなった。ロッキード事件に比してグラマン事件同様に甘い終結となった。妙なことに中曽根だけはいつも法網から逃れると云うケッタイな事案となった。
【宇野政権】 4月25日、竹下内閣退陣。予算成立の後に国民の政治不信の責任をとって辞任すると表明した。その翌朝、竹下氏の腹心の秘書(金庫番)青木伊平氏が自殺している。6月2日、予算成立後、リクルート問題に関連して竹下登総裁が正式に辞意表明。後継総裁には宇野宗佑外相(中曽根派)が自民党両院議員総会で異例の「起立多数」で選出される(第13代自民党総裁)。派閥の領袖でない者が総裁になったのは初めて。6月3日、宇野宗佑(中曽根)内閣が誕生する。
【中国で天安門事件が発生し流血の惨事】
この間、中国で天安門事件が発生している。その経緯は次の通り。4月15日、胡耀邦・前総書記死去。 4月16日、天安門広場の人民英雄記念碑に北京大学生らが胡氏を悼む花輪を捧げ始める。4月17日、同広場で、学生等が胡氏の名誉回復を求めてデモ。4月22日、党・政府による胡氏追悼集会。4月24日、北京の各大学が無期限授業ボイコットに突入。4月26日、人民日報社説が「旗幟(きし)を鮮明にして動乱に反対せよ」発表。5月19日、趙紫陽総書記が同広場でハンストを続ける学生の説得を試みる。5月19日、趙紫陽総書記がゴルバチョフソ連共産党書記長と会談、その席で「最も重要な問題については、依然ケ小平同志の舵取りを必要としている」との党内事情を暴露し、党の重要決定がケ小平氏の一存によって諾否されていることを明らかにした。
5月20日、北京市中心部に戒厳令。6月4日、未明に中国人民解放軍戒厳部隊が戦車と装甲車で天安門広場に入り、学生・市民に発砲、死者数百人(天安門事件)。6月9日、ケ小平氏が、事件後初めて中央テレビに登場、戒厳部隊と接見の様子が放映される。6月23日、中国共産党中央委員会総会が、趙紫陽総書記の全職務解任、後任に江沢民・上海市党委書記政治局員を選出。
【日共政変で不破が委員長に返り咲く】 6月8日、第5中総で、宮本議長が、「村上委員長から、5.29日に病気辞任の申し出があったので、これを受理し、新委員長として不破哲三同志を提案したい」と、委員長交替を告げた。これに全員沈黙で了承し、こうして不破の委員長返り咲きが決定したと伝えられている。
【第15回参議院選挙】 7月23日、第15回参議院選挙が行われ、社会党46、自民党36、連合11、公明党10、共産党5、民社党3、税金党2、二院クラブ1、スポーツ平和党1、諸派1、無所属10となった。非改選を合わせると、自民党109、社会党68、連合11、公明党21、共産党14、民社党8、税金党3、二院クラブ2、スポーツ平和党1、諸派2、無所属13となった。) 。自民党が惨敗し(36←69)、社会党が土井委員長の「山を動かす」の「マドンナ・ブーム」で大躍進、与野党勢力を逆転させた。翌日、宇野首相は敗北の責任をとり退陣を表明、会見で「明鏡止水の心境であります」との言葉を遺した。
【伊藤律逝去】
1989年8月7日、奇跡の帰国から9年後、伊藤律が逝去した(享年76歳)。元日本共産党三多摩地区委員長・荒川亘・氏は、「伊藤律回想録―北京幽閉二七年」(文藝春秋社、1993.10.15日初版)の末尾 の「刊行に寄せて」で次のように証言している。概要「『耳は聞こえず、目もほとんど見えず、一人では外出・歩行も困難な』云わば、惨憺たる状態の伊藤律が、それなりに動いている『日本の運動状況』の中に帰ってきたというのは、『逆立ちした見方』であって、事実は、『惨憺たる日本の運動状況』の中に27年の苦難の中で思想と理論を鍛えた伊藤律が帰って来たのである。私がここで『日本の運動状況』と云う時、問題にしているのは日本共産党のことだけを言っているのではない。それに批判的な人々、潮流についても言っているのである。その事は、帰国後、国内の運動と思想の状況をほぼ理解した後の伊藤律さんの次の感想に示されている。『あの徳田が指導していた党は、どこへ行ってしまったのだ』」。
*伊藤律の「あの徳田が指導していた党は、どこへ行ってしまったのだ」の言は、「伊藤律の浦島太郎節」に過ぎないのか。筆者は違うと思っている。伊藤律をして嘆き憮然とさせたうちに真実があると思っている。日本左派運動は、徳球−伊藤律運動の後、その限界から弁証法的に出藍しないままあらぬ方向で穏和糸と急進系が実りのない運動を費消したと思っている。こう指摘してもなお「惨憺たる日本の運動状況」にさえ思い至らぬ「万年野党批判正義派」と「万年革命呼号正義派」の面の皮のションベンたるのが日本左派運動の実相なのではなかろうか。この貧困を如何せんか。
【海部政権】 8月8日、自民党両院議員総会で海部俊樹が新総裁に選出された。宇野首相の総理在任期間はわずか69日、日本政治史上4番目の短命内閣に終わった。
【日共が「全労連(全国労働組合総連合)」を結成】 11月、統一労組懇に決集して活動してきた共産党系労組が、ナショナル・センターとして「全労連(全国労働組合総連合)」を結成した。加盟労組は、29単産、42地方組織、約140万名であった。
【総評解散】 11月21日、総評解散、日本労働組合総連合(連合)連合発足。
【オウム真理教絡みで坂本弁護士一家失踪事件発生】 11月、オウム真理教問題に取り組んでいた坂本堤弁護士と一家が突然失踪する事件が発生する。1995年9月、実行犯の一人、岡崎一明が自首したことにより事件が解明され、オウム真理教独特のボア理論による殺害事件であったことが判明する。
【ベルリンの壁取り壊し始まる】 12月21日、ベルリンの壁取り壊し作業始まる。
【ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊】 12月25日、ルーマニアのチャウシェスク政権が崩壊した。直ちにルーマニア特別軍事法廷が開かれ、6万人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、形だけの軍事裁判で即刻銃殺刑の判決を下し、その場でチャウシェスク大統領夫妻を処刑した。この様子はビデオで撮影されフランスを含む西側諸国でただちに放送された。数日後ルーマニア国内でも処刑の様子が公表された。この時の宮顕の言い草が、日共とルーマニア共産党との親密さを薄め、免責論理を振りまくことで醜態を晒すことになる。