【考察3、よど号赤軍派考概略】
(序論)
日本左派運動史上、赤軍派は稀有なるお騒がせ事件を連発していることで注目される。一つは赤軍派本体そのもの、一つは連合赤軍、一つはよど号赤軍、一つはパレスチナ赤軍である。どれもこれも決して好評価できるものではなく、日本左派運動史上に与えた否定的影響が深い。ところが、まことに摩訶不思議と云うべきか何か貴重なメッセージをそれぞれが放っているようにも思う。ここに赤軍派の魅力があるのかも知れない。ここでは、「よど号赤軍派」について概略考察する。よど号赤軍派は正式な名称ではない。赤軍派のうち1970年3月の日航機「よど号」をハイジャックし北朝鮮へ渡ったグループ9名の総称である。よど号赤軍派は、ハイジャック事件以来現在に至るまで北朝鮮に止まり、拉致事件も含めて未だに左派運動ののど仏に詰まってイガのような影響を与え続けている。日本左派運動の政治能力において解決せねばならない案件ではなかろうか。これを検証しておく。詳論はサイト「よど号赤軍派考」に記す。
(gakuseiundo/dainijibundco/yodogohasekigunco/top.htm)
【よど号ハイジャック事件の背景考】
1969.11.12日、大菩薩峠において赤軍派が大打撃を受けた1週間後、塩見議長は赤軍国際部長の小俣昌道(京都大学全共闘議長)を、ひそかに国外の過激派との連携をつくるために羽田から出発させた。当時、アメリカでは、ウエザーマンとかブラック・パンサーといった新左翼系の超過激派が、銃や爆弾を使ってテロ路線を突っ走っていた。このようなアメリカの超過激派と国際的な連携を保ち、「あすの地球をまわす世界赤軍」を構築しようというのが塩見議長の夢であった。
1970.1月始め、赤軍派は新しい軍事蜂起をめざし、東京の赤坂東急ホテルで「中央委員会」を開いた。ここに重信房子を含む14名の赤軍派幹部が集まり、田宮が「フェニックス計画」(=よど号事件)と名付けた海外脱出計画を明らかにした。1.16日、東京で560人、2.7日、大阪で1500人を集めて蜂起集会を開いた。この東京集会は、元東京都学連書紀長・前田祐一(中央大学)の率いる「長征軍」が北海道、東北、北陸、九州をまわって徴兵してきた若者を集めて、神田駿河台の全電通労働会館ホールで開いた武装決起集会である。この集会では「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」の方針が提起され、ここで赤軍派は「世界赤軍」の名の下に、海外に救いをもとめる動きを見せ始めた。いくつかの作戦が計画されたが、それらの殆どが失敗した。それでも塩見らは海外脱出の「フェニックス計画」をあきらめず、赤軍派幹部を含む13人を「ハイジャック班」として決行することになった。ところがその決行の直前の3月15日、最高指導者の塩見高也と前田祐一の2人が逮捕された。しかも小西隆裕と森清高が脱落したため最終的には9人により日本で最初のハイジャックを実行することになった。
【よど号ハイジャック事件】
よど号事件の概要は次の通り。1970(昭和45)年3月31日、赤軍派9名による日航機よど号乗っ取り事件(ハイジャッ ク)が発生した。「フェニックス作戦」と名付けられたこの作戦は日本で初のハイジャック事件となった。犯人グループは出発時に宣言を発表しており、最期を次のように締めくくっている。「我々は明日、羽田を発(た)たんとしている。我々はかって如何なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が、内から湧き上がってきた事を知らない。我々は、この歴史的任務を遂行しうることを誇りに思う。…そして、最後に確認しよう。我々は、“明日のジョー”である」。
ハイジャック犯は、当時の漫画「あしたのジョー」主人公の矢吹丈になぞらえ、「燃え尽きるまで闘う」ことを誓っていたことになる。「あしたのジョー」は、高森朝雄(梶原一騎)原作、ちばてつや画による「巨人の星」と並ぶ梶原の傑作作品である。その内容は、東京・浅草山谷のドヤ街に、ふらりと現われた矢吹丈(ジョー)と名乗る少年のボクシング活劇で、ジョーは、野菊島の東光特等少年院で終生のライバルとなる力石徹と宿命の出会いを経て本格的にボクシングの道へと足を踏み入れ、世界のボクサーとなる。次から次へと強敵と遭遇し、最後にカーロス・リベラ戦で燃え尽きる。ジョーはリングコーナーのイスに坐ったまま白い灰になるという結末で完となる。ここまでのサクセスストーリーと目標に向けて生命燃焼する姿が当時の読者を熱狂させていた。この時代、白戸三平のカムイ伝、バロン吉本の柔侠伝と並んで劇画が大きな影響を与えていた。
もとへ。赤軍派のハイジャックは、同派の「国際根拠地−世界革命戦争論」に基くものであり、前段階蜂起路線の挫折を総括し、その教訓から提起した「労働者国家内部に武装根拠地を建設し、そこからの軍事的政治的支援のもとに、内戦への参戦を世界革命戦争の水準に結合させる。さらに労働者国家そのものも、世界革命に向けた根拠地国家へと再編せねばならない」とする指針の実践であった。
【よど号ハイジャック事件考】
よど号ハイジャック・メンバーは、田宮高麿(27才.大阪市大)、小西隆祐(25才.東大)、田中義三(21才.明大)、安部公博(22才.関西大)、吉田金太郎(20才.元工員)、岡本武(21才.京大)、若林盛亮(23歳.同志社大)、赤木志郎(22才.大阪市大)、柴田勝弘(16才.神戸市立須磨高校生)の9名で、羽田発福岡行きの日航機よど号をハイジャックして北朝鮮行きを要求した。事件の好奇性からマスコミは大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。
副操縦士だった江崎悌一氏の克明な記録によれば、午前7時35分頃、羽田発福岡行き日本航空ボーイング727「よど号」(:乗員7名、乗客131名)が富士山上空で乗っ取られ、田宮ら9名の赤軍派に日本刀、ピストル、爆弾で脅され、北朝鮮の平壌行きを指令された。彼らの当初の行き先は中国かキューバであった。しかし、中国は受け入れが微妙、キューバまで行くには遠過ぎることを判断し、一番近い北朝鮮を指示した。この時丁度、その航空空域が米軍の管制下にあったことから、この事件はただちに米軍にキャッチされた。そのためこの事件は日米韓北朝鮮の4国がからむ厄介な国際問題になり、ハイジャック事件としては解決までの時間の世界最長記録を作ることになった。
「4.よど号事件とその後」は次のように記している。(http://www.araki-labo.jp/samayoe012.htm) 「米軍は直ちに同機に搭乗していたアメリカ人乗客を調べた。すると、聖職者とコーラ関係者の2名のアメリカ人が搭乗していることが分かった。このうちの聖職者マクドナルド氏が、アメリカが北朝鮮に行かれると困るCIA?にからむ人物であったふしがある。そのことがよど号の問題解決を、事件の裏でさらに複雑かつ困難にしたと思われる。その内容は、よど号事件の際に日本航空の対策本部事務局長をつとめた島田滋敏氏の著書『“よど号”事件 三十年の真実』(草思社)に詳しい」。
福岡空港で給油。この時、病人、女性、子供などの乗員23名が解放された。爆発させると脅された石田機長は離陸を決断し、6時間半後の午後2時前離陸。朝鮮半島の東の海上を北上し、朝鮮を南北に分断する休戦ラインに沿って西に転じ、板門店の北西部まできてピョンヤンに近づいた。そこで国籍不明の2機の戦闘機が現れ、よど号は空港に誘導された。機長、犯人ともに、最初はそこがピョンヤンの空港であると思ったようであるが、実は偽装された韓国のソウル郊外の金浦空港であった。「4.よど号事件とその後」は次のように記している。概要「福岡でアメリカ人をおろすことができなかったため、どうしてもよど号を韓国に着陸させて乗客を解放させる必要が出てきた。そのことがハイジャック事件の解決までの時間的最長記録を作る、厄介な国際問題に発展させた」。
韓国側は、金浦空港で北朝鮮らしさを偽装していた。北朝鮮兵の服装とニセのプラカードを持った兵士がハイジャック機を歓迎するように迎えた。ところが準備時間が短かかったため、空港にはノースウエスト機が停まっていたし、ラジオにはジャズが流れ、空港の近くをアメリカ車が走っていた。よど号赤軍派は、これを見破った。これにより、日韓政府とハイジャック犯の駆け引きが続いた。韓国側はあくまでも強行突入に拘ったが、橋本登美三郎運輸大臣と山村新治郎運輸政務次官がソウルに向かい、交渉の末、山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりに乗り込むことにより「乗客解放と目的地着陸保証」で合意が取り付けられた。4月3日、乗客全員が開放された。同日午後6時4分、よど号はまだ日本と国交のない北朝鮮のピョンヤンに向って夕闇の中を、有視界飛行により正確な地図も持たずに飛び立った。事件発生から83時間後のことであった。よど号は北朝鮮に受け入れられ、午後7時20分、平壌の美林(ミリム)飛行場に到着した。
【事件余話】
よど号赤軍派は、乗客を解放する際に「お別れパーティ」を設けた。歌をうたった乗客もいたそうである。また首謀者の田宮高麿は詩吟を披露したという。1970年6月号文藝春愁は、事件を特集してハイジャックに巻き込まれた乗客の声を拾っている。「犯人たちは、学生だけあって、どこかウブなところが残る顔立ちだった。その中で、田宮だけは暴力団に入っても立派にやっていけそうな、凶々しい目つき」。「"組長"田宮がマイクをとって演説した。『自分の指揮に従えぬもの、殺してくれというものは、殺しましょう。これはたんなるコトバではない』。そういう田宮の声はこづら憎く落ち着いていた」。「田宮の統率力、判断力はかなり優秀だったと思った。いまは、あやまったトロツキストの道を進んでいるが、はじめから正しい民主革命路線の方向にのびていれば、いい革命家になれただろうに」。
身代わり人質となった山村運輸政務次官は「男やましん」、「身代わり新治郎」として知れ渡り、帰国後の記者会見によると、学生は最初次官を縛り上げ、おまえ呼ばわりをしていたが、次第に態度を軟化させ、最後には「先生」と呼ぶようになったといっている。「革命家にしては、なんだか甘い感じがする」とも述べている。北朝鮮側の取調べに対して学生たちはとうとうと革命理論を述べ立てたが、取調官に「もういい」と制止された。北朝鮮と学生の間に関係はまったくないようであったと印象を語っている。
2010年3月28日付け産経新聞3面は「『よど号』事件40年 日野原重明・聖路加国際病院理事長 『人のために生きる』転機」記事を掲載している。これによると、日野原氏(98歳)は同病院の内科医長の58歳の時、機上の人であった。次のように証言している。「冷暖房が作動しない機内の温度は40度にもなり、韓国軍と赤軍側のやり取りで緊迫し、食料をめぐって騒然となったこともあった。だが、ハイジャック3日目に機内放送があり、山村新治郎代議士が乗客の身代わりになって赤軍とともに北朝鮮へ出発することが伝えられた。3日目の夜には、(中略)。乗客の一人が別れの歌『北帰行』を高らかに吟じ、それに対して赤軍一同が革命歌『インターナショナル』を歌うと、学生時代に左翼運動に参加したと思われる乗客が手拍子を取って一緒に歌ったりもした」。
【よど号赤軍派のその後と思想改造】
犯人学生9人は北朝鮮に身柄を拘束された。よど号赤軍派のその後は定かではないが判明する様子は次の通りである。当初破格の待遇を受け、1970年当時最も格式が高かった平壌ホテルで数週間過ごし、労働党の招待所に移った。その後高級アパートに住み、彼らの事務所のためにビルまで建ててもらう厚遇ぶりであった。経済が破綻し食糧難が進行する中でも生活は労働党幹部よりも恵まれ、ベンツに乗り、一般には口に入らないコメや肉があてがわれる日々を過ごしたと云う。
当初は「国際根拠地論の路線に従って北朝鮮に行き、金日成をオルグする」との意気込みであった。亡命の意思はなく、北朝鮮で軍事訓練を受ける程度の考えであったが、オルグされたのは彼らであった。北朝鮮労働党との理論闘争により最終的に金日成主席の唱える主体思想を是とすることになり、思想改造を受ける身となった。金日成の懐に飛び込んだ以上は金体制の掌の上で踊るよりほかに途はなかった面もあろうが、むしろ得心した様子が伝えられている。グループは金日成に忠誠を誓う手紙を書き、朝鮮労働党に集団入党したいと申し出るに至っている。
この頃の様子が「よど号グループのあしたのジョー≠ヘ、どこで灰になってしまったのか」で、次のように伝えられている。「日本人革命村での日課は早朝起きると、全員が居住アパートの前で体操とランニングを行い、それから女性は朝食作り、男性はアパートの掃除から始まり、朝食後に全員が集合して朝の会議を行う。金日成に忠誠を誓う「朝鮮労働党の十大原則」を、グループに合うようにした内容と言葉で「宣誓」と称してリーダーの田宮高麿が一つずつ読み上げると、その後について全員で唱和する。「朝鮮労働党の十大原則」とは「ひたすら首領のために生き、青春も生命も喜んで捧げること」であるとか、「金日成の教示(教え)は法として至上の命令として受け止め、どのような些細な理由も口実もなく実践し、これを守り抜かなければ死ぬ権利もない」というような内容であり、それを繰り返し繰り返し学習する。
更に一日の組織の活動予定を確認して、金日成、金正日の著作の学習や活動のための実践的な準備などで午前中を過ごし、昼食は全員食堂で食べる。午後はまた理論学習やスポーツ、思想教育目的の芸術映画や金日成、金正日の現地指導映画の鑑賞など、夕食後も講演会、活動準備、学習課題に明け暮れる。その合間を縫って女性は掃除や洗濯などの家事をこなし、託児所から夜引き取る子供の世話も加わる。そんな生活の中で全員一緒に学習合宿や避暑に出かけたり、革命戦跡地や観光地を巡ったり、レクリエーションやお祝い事をしたりするうちに共同体的な仲間意識も芽生え始め、仲間としての絆も自然に強まっていった。金日成が村にやってくるときには、自分たちで作った詩や歌や絵画で金日成に対する忠誠の誓いを表現し、全員が一致して歌えるようになるまで練習に次ぐ練習を行ったりした」。
【「自主革命党」の結成】
1972年5月、金日成がグループに初めて「接見」し、主体思想に基づく日本革命に向かうよう「教示」(命令)した。1973年5月、金日成はグループに対して「5・6教示」と云われる「日本革命テーゼ(運動方針)」を示し、グループは「自主革命党」を結成することになった。この頃はちょうど金日成から金正日への権力委譲期に当たり、「代を継いで革命を完成する」というスローガンがしきりに連呼された時期であった。
【結婚】
1976年頃からよど号赤軍派の結婚が始まっている。岡本武が高知県出身の福留貴美子と、柴田泰弘が八尾恵と(後に離婚)、田中義三が結婚している。
【その後の学習活動】
1977年5月、よど号赤軍派グループと金日成主席との会談が行われた。その後、概要「日本で金日成主義に基づく革命を行うためには革命党の創建が必要であり、金日成主義の影響を受けた戦力をつくっていくことが重要で、そのために政治運動を共に担う活動家を幅広く獲得することが当面の課題になる」という金日成教示が出される。よど号赤軍派グループは一週、一カ月、半年、1年、3年、5年の単位で総括会議を行い、日々の任務や日常生活を点検し、自己批判と相互批判を行う。これを繰り返すことになる。この頃、首都ピョンヤン郊外で学習や翻訳活動などをしていることが判明している。
【海外活動の開始】
70年代後半以降、グループは田宮の口を通して海外での任務を与えられる。その際、グループの男性は全員国際指名手配されていたために海外での活動は偽造旅券を使わねばならなかったので、真正旅券を持っている妻たちが表に立って活動する役割を積極的に引き受け、日本の公権力の手が及ばないヨーロッパに照準を合わせる。オーストリア、フランス、スペイン、イタリア、ギリシャ、イギリス、ポルトガル、カナダ、メキシコなど各国にグループが派遣され、日本人を見つけだして接触し、北朝鮮行きをオルグした。
【拉致疑惑】
1980年、田宮の妻の森順子ら「よど号の妻」がスペインなどヨーロッパ留学中の日本人学生石岡亨さん(当時22歳)と松木薫さん(当時26歳)を拉致したという報道が1993−94年相次いだ。有本さんと石岡さんは、1985年、結婚したとされている。
【季刊機関紙「日本を考える」発刊】
1981年、季刊機関紙「日本を考える」を1988年まで24号発行、日本国内に送り届けている。1983年7月、ピョンヤンで開かれた「世界ジャーナリスト会議」で、田宮高麿が講演している。同8月、リビアで開かれた「全アフリカ青年フェスティバル」に小西隆祐ら2名が参加し、大概活動を公然化している。
【帰国活動】
1985年春、柴田泰弘が、最高幹部の田宮高麿から革命のために日本で人と金を集める命令を受けて極秘帰国。他人になりすまして潜伏活動する。
【ハイジャック防止法制定】
1985年6月、「航空機の強取等の処罰に関する法律」(ハイジャック防止法)が制定された。ただし、憲法39条の遡及処罰禁止規定により、犯人グループが帰国した場合、この法律は適用されない。機体を財物とする強盗罪や、乗員乗客に対する略取・誘拐罪に問われる。なお、国外逃亡により刑事訴訟法第255条に該当する為、公訴時効は停止している。その後、犯人グループは合意による無罪帰国を求めているが、ハイジャックという犯罪行為を犯した犯人グループの無罪帰国を日本政府は認めていない。
【中曽根首相宛てに帰国の意思伝達するも無罪帰国を却下される】
1985年7月、中曽根首相宛てに帰国の意思を伝えている。同10月、藤波官房長官宛に無罪帰国についての政府側の意向を打診する書簡を出している。その中で次のように述べている。概要「私達は人を殺しも傷つけもしていません。借用した飛行機も即自返還されています。むしろ、青年の憂国の情を封鎖し、日本を対米従属と軍国化へ追いやったこれまでの日本政府こそ、その誤ちを国民の前に謝罪するのが道理というものではないでしょうか。無罪帰国受け入れを要求いたします」。その後も、北朝鮮を訪問した日本人団体代表との面談や、国内支援関係者への書簡などで「逮捕、投獄という事態を覚悟しても」帰国する意思の有ることを表明し続けている。憲法尊重の尊憲運動を展開するという新たな考え方を表明している。
【吉田金太郎逝去】
1985年9月、吉田金太郎が肝臓病の為逝去する(享年35歳)。10月、母親らが遺骨を受け取りに北朝鮮に赴いている。
【柴田勝弘と八尾恵が密航帰国】
1988年5月、メンバー最年少のハイジャック当時17歳の高校生だった柴田勝弘が、密かに帰国して神戸市内に住んでいたことがわかり、逮捕された。34歳。その後の調べで、1985年4月、偽造旅券で帰国し、その後ボランティア活動や貿易の仕事などをしていた。1993年11月、懲役5年が確定。1994年7月、満期出所。その後は日本で在住している。1988年5月、ハイジャック当時16歳だった柴田と1987年に結婚していた八尾恵が密かに帰国して横須賀市内でスナックを経営してるいという密告があり、八尾(当時32歳)が住民票への登録が偽名だったという容疑で逮捕、略式起訴されるが証拠不十分のまま釈放となった。
【田宮が「わが思想の革命」を出版】
1988年7月中旬、訪朝した社会党国民運動局長らが田宮と会う。9月、リーダーの田宮が「わが思想の革命」(新泉社)を出版した。田宮は、ハイジャックの思想的背景から筆を起し、「世界同時革命論」などの赤軍派理論を自己批判し、チュチェ思想の助けをかりての何年にもわたる自己改造の過程を克明に記録している。次のように述べている。概要「無罪、帰国を勝ち取るための闘争を展開する事、その為に日本人民との交流深め、日本人民に学びながら自らを鍛えていく事を今後の基本闘争課題とする」。*これについて筆者は思う。「わが思想の革命」で明らかにされた観点が、よど号赤軍派の辿り着いた日本革命新論となった。田宮は、同書で、従来の赤軍派式世界同時革命論から民族自主自律型の在地土着主義革命論への転換を明らかにしている。この提言を深く味わうべきではなかろうか。
【岡本武逝去】
1988年、テルアビブ空港乱射事件を起こした岡本公三の兄である岡本武が死亡している。岡本は、1980年代初頭にリーダーの田宮高麿と方針をめぐって対立していたとも伝えられている。岡本武夫妻は土砂崩れによって事故死したと発表されているが、未確認ながら、1980年代末に漁船を奪取して北朝鮮から脱出を図ったものの捉えられ、強制収容所に送られ収容所内で死亡したとの情報もある。なお日本の公安警察は岡本の死を確認していない為、現在でも岡本武は日本国警察の指名手配の対象者になっている。よど号メンバー柴田泰弘の妻だった八尾恵は著書で次のように記述している。「私の知る限りでは、岡本さんと福留さんは、亡命後のよど号グループの主体思想に従う考え方に異を唱えたので矯正のため隔離され、そして、その果てに死が待っていた」。
【最高指導者・田宮の急死】
1990年8月、田宮が「社会主義国で社会主義を考える ピョンヤン1990」(「日本の自主と団結のために」の会)を出版する。1995年11月29日、田宮が、赤軍派議長だった塩見孝也を平壌駅に見送る。同11月30日、田宮がピョンヤンで死去した。死因は心臓麻痺と発表されている。高沢皓司をはじめ拉致事案を追っているジャーナリストの多くが田宮の不可解な死に不審を抱いている。妻の順子は北朝鮮による日本人拉致問題で欧州における日本人拉致事案に関与しているとして、警察庁により国際指名手配されている。
【田宮メッセージが発表される】
1996年1月、高沢皓司氏の著作「祖国と民族を語る―田宮高麿ロングインタビュー」(批評社)から出版される。1996年、追悼集「回想田宮高麿」が出版された。全302ページの分厚い本は、全編を田宮高麿への追悼と賛辞で埋め尽くされている。寄稿してるのは赤軍派関係者などの運動の同志が主である。
【田中義三がカンボジアで拘束される、2007年逝去】
1996年3月、田中義三(たなか よしみ)が、カンボジアにおいて二人の北朝鮮大使館員とともに北朝鮮大使館の公用車に乗ってベトナムの陸路国境に向かうが、カンボジアの警官に停止命令を受ける。北朝鮮大使館員らは外交特権を振りかざし、検査を拒否。篭城の末に国境を突破を図るが、カンボジアの警官は射撃態勢を取って身柄を拘束する。移送されたタイにおいて、自ら田中義三であることを認めた。タイでは、タイのリゾート地パタヤで発見された大量の偽ドル札を偽造容疑で起訴された。この事件では無罪が確定したが、起訴された当時は北朝鮮による米ドルの偽札に関与していたとして注目された。送還直前のテレビ取材に対しては「服役後はもう一度大学で勉強しなおしたい」と話していた。
2000年6月、田中義三が日本に引き渡される。よど号事件に絡んで国外移送目的略取罪など3つの罪で起訴される。2002.2月、東京地裁で懲役12年の判決を受ける。東京高裁も控訴を棄却。2003.6月、上告を取り下げ、懲役12年が確定する。熊本刑務所で服役していたが、2006年11月、肝臓癌のため大阪医療刑務所に移監、12月15日、刑の執行停止。2007年1月1日、田中義三死去(享年58歳)。
【よど号赤軍派と拉致事件の関わりが告発される】
現在北朝鮮にいるのは小西隆裕、魚本(旧姓・安部)公博、若林盛亮、赤木志郎の4名である。多くのメンバーは日本人妻と結婚しているが、日本人妻の北朝鮮入国や結婚の経緯は必ずしも明らかでない。但しその1人である八尾恵(柴田泰弘の妻)は、2002年3月、八尾が、東京地裁で開かれた赤木恵美子(赤木志郎の妻)の公判に検察側証人として出廷し、ハイジャック犯のリーダー田宮の指示で「1983年、ロンドンに留学中だった有本恵子さん(当時23)を騙して北朝鮮に連れ出した」、「自分を含めて日本人妻の多くは強制的に結婚させられた」と主張している。メンバーやメンバーの日本人妻(黒田佐喜子(若林盛亮の妻)、森順子(田宮の妻)など)の中には、松木薫さん(当時26歳)、石岡亨さん(当時22歳)、有本恵子さん(当時23歳)等の日本人拉致事件への関与が噂されており新たな政治問題と化している。但し、よど号メンバーは拉致事件との関わりを強く否定している。
2017.11.14日、日航機よど号ハイジャック事件を計画した元赤軍派議長で、実刑判決を受けた塩見孝也(しおみ・たかや)氏が心不全のため東京都小平市の病院で死去した(享年76歳)。広島県出身。葬儀・告別式は未定。1969年に共産同赤軍派を結成して議長に就任した。赤軍派のメンバーが日航機をハイジャックし、北朝鮮に渡った「よど号事件」を計画した首謀者として、事件が起きる前に日本国内で別の事件で逮捕され実刑判決を受けた。
【よど号赤軍派考】
これらを踏まえながら、よど号赤軍派問題に対する筆者の総括を提起しておく。これも結論から述べ、今後の処方箋を提起しておく。この問題はかなり難しく、よど号ハイジャック事件問題と拉致事件問題の両面から考察されねばならないだろう。前者は、乗客乗員を無傷で待遇していることを考慮し温情的に措置することを是とするべきであろう。筆者は、韓国CIAの姦計を見抜き見事に北朝鮮へ渡った手際をも高く評価したい。よど号赤軍派には連合赤軍事件とは違う何かほのぼのとしたものを感じている。後者は、拉致事件問題そのものと直結することになるが、実際のオルグの様子と拉致の実態検証とを突き合せねばならないだろう。いずれにせよ、拉致被害者の殺害に関係しているとしたら責任を免れまい。よど号赤軍派の婚姻絡みについては事情を忖度されねばならないだろう。情状酌量の余地が大いにあると考える。
もう一つの考え方として、イスラエルのガザ攻撃とパレスチナ難民への恒常的迫害、虐殺が続けられている現代社会の病巣面をも考慮しながら平衡的に解決されねばならないと考える。拉致が一番悪くて虐殺が許されるなどと云うことがあって良い訳があるまい。よど号赤軍派が罰せられて、イスラエルのパレスチナ難民迫害、虐殺が罰せられないのは理屈が通らないと云うべきだろう。何とか帰国する手筈を講じ、日本人民大衆の叡智で救済する道を切り開かねばなるまい。目下の政権政府の下では無理というより極刑を科す能しか持たないだろう。日共も然りであろう。故に、我々の政権を樹立し、この問題も解決せねばならないと考える。
もう一つ、田宮らが最終的に辿り着いた日本革命論は検討されるに値する。最終的に自由、自主、自律的主体運動、且つ真の国際主義に通じる民族主義的マルクス主義運動論、戦後日本の憲法を評価しての尊憲論の創造等々を打ち出したが、筆者が評するところ、それぞれが味わうべき提言であるように思われる。日本左派運動はこういうところをタイムリーに議論し合える能力を獲得しておかねばならないのではなかろうか。井戸端関心からよど号赤軍派の足跡を訊ねるよりも、赤軍よど号グループが辿り着いた立論との対論にこそより意味があると考える。実際に為しているのは逆のことばかりである。