【考察7、ロッキード事件考】

 (序論)

 ここで、ロッキード事件を採り上げるが、戦後学生運動の検証に持ち出すことを奇異を感ずるのが大方の受け取りだろうと思う。しかしさにあらずで、筆者に云わせれば、ロッキード事件こそ、戦後左派運動の無能さと捩(ねじ)れを表象して余りある事件であり、政治眼力の真価が問われていた事件であった。透けて見えてくるのは現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の陰謀であり、ロッキード事件以降の政治的変調を理解する為にも、日本左派運動はネオシオニズムという現代政治的課題に於いて理論を獲得せねばならなかった。筆者は、2009年来延々と続いている「小沢バッシング」にも繋がっていると思っている。そういう理由により採り上げている。かくご理解を賜りたいと思う。詳論はサイト「ロッキード事件考」に記す。なお、以下に述べるように
「戦前共産党リンチ事件に於ける宮顕犯罪」が微妙に絡んでいると思われるので、このサイトも紹介しておく。

 「ロッキード事件考」http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/miyakenco/rinchizikenco/ri
nchizikenco.htm
 「小畑中央委員査問リンチ致死事件考」http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/rokkidozikenco/rokkidozikenco.htm

 【なぜロッキード事件を採り上げるのか】

 筆者のロッキード事件の見方を結論から述べておこう。ロッキード事件こそ、戦後日本政治の抗争基軸であった体制派内のハト派対タカ派争闘史に於けるハト派からタカ派時代への転換点になったと云う意味での、戦後日本政治史上の最大の政治闘争であった。先にも後にもこれほどの大事件はない。この見立ての共認が為されないところに日本左派運動の貧困を見て取れると思っている。既に述べてきたように筆者の見立てによれば、戦後日本は戦後世界秩序の大きな構図上、近現代史を支配する国際金融資本帝国主義ネオシオニズム世界秩序の枠組みに入れられていた。その枠組みの中に於いてではあるが、その枠組みをも突き崩すような戦後的下克上による内在的な発展を遂げて行く流れも生んでいた。1970年代初頭に台頭した政府自民党内の角栄-大平同盟の「鉄の軍団的盟約」はその橋頭保であった。このままでは制御不能となると見立てた反動勢力が断固たる決意の下、用意周到にロッキード事件を仕掛けた。これにより角栄-大平同盟が解体され、約十年の悶着を経てネオシオニズム御用聞き政治を請け負う中曽根-ナベツネ連合とも云うべき売国奴政権が登場し、以降この政治の型が今日まで続いている。ロッキード事件をそういう政治質へ向けての大転換点になったという意味で俎上に乗せねばならない。

 この時の日本左派運動の対応振りの責任が今も問われていると思っている。そういう目線で見ると、日共はネオシオニズム子飼いの請負い左派として「らしさ」を如何なく発揮していることに気づかされる。かの時、日共指導者の宮顕、不破、上耕が一肌も二肌も脱いで角栄潰しに狂奔し執拗に追撃し続けた。この時の赤旗紙面が動かぬ証拠であり、日共の反動性が満展開しているサマが確認できよう。果たして日共の自画自賛する自主独立運動がどこにあったのだろうか。ネオシオニズムの意向を挺したサヨ運動こそ本質なのではなかろうか、かく問わなければならない。

 これにつき、太田龍・氏最晩年の「時事寸評2009年3月14日付け№2725」の「田中角栄的なるもののすべてを跡形もなく破壊する!!」は次のように述べている。「筆者は、ロッキード事件を『ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略』(日本文芸社、1992年、絶版)として出版した。『ユダヤの日本侵略450年の秘密』(日本文芸社)によれば、ユダヤ・フリーメーソンの日本侵攻戦略の第一波は、1549年、ザビエルの日本上陸である。第二波は、1853年、1854年。ペリー艦隊の日本襲撃である。第三波は、日露戦争終結直後の米艦隊の総力を挙げての日本襲撃である。この時すでに米国政府と米国陸海軍は日本全土の占領計画を明確に立てた。これが日本侵攻第三波である。これは1945年に実現した。

 ユダヤ・フリーメーソン日本侵攻の第四波は、1972年、田中角栄政権の実現の時に始まった。つまり、ユダヤフリーメーソンイルミナティ三百委員会は、田中首相の登場を、日本の新しい独立への動きと見たわけである。そこでユダヤフリーメーソンイルミナティ三百人委員会は、田中角栄的なもののすべてをことごとく跡形もなく抹殺する作戦を発動したのである。現在小沢一郎民主党代表と、日本を、ユダヤフリーメーソンイルミナティ三百人委員会に売り渡そうとするすべての売国奴勢力が、田中角栄的なものの最後の砦、小沢民主党代表を粉砕すべく、狂奔している。それは、三月八日の『朝まで生テレビ』(朝日テレビ)、田原総一朗と田中真紀子がこの番組で発言した内容については、我々は十分には把握してはいないが、もちろんこの問題に関連するであろう。この件については引き続き調査したい」。  

 これが太田龍の遺稿とも云うべき論説となった。筆者は、太田龍のこの指摘を慧眼だと評している。日本左派運動にこの見識がありやなしや。今日に続く政治の貧相は、「田中角栄的なもののすべてをことごとく跡形もなく抹殺する作戦発動」によりもたらされているのではなかろうか。とするなら、角栄追討に狂奔した日共、これをユダヤフリーメーソンイルミナティ三百人委員会の陰謀によるものと断じた太田龍のどちらが左派的見解なのかの真贋論争をせねばなるまい。

 【角栄擁護派と批判派の政治リアリズム考】

 我々はロッキード事件によって何を失ったのか。これを説き明かすことができる者は極めて僅かな人士しかいない。それはなぜか。史観が歪み過ぎているからである。これについては右派左派を問わない。角栄を擁護した体制派ないしは右派の論も、角栄政治の本質左派性を見抜かぬままの支持でしかない。否、角栄政治の本質左派性を知ったなら、不明を恥じてさっさと論を引き下げるような擁護論でしかない。他方、日共の宮顕、不破、上耕の角栄潰しは違う。角栄を本質的に左派と捉えた上で、ニセモノによるホンモノ追放という狂気の角栄批判に向かった形跡が認められる。

 問題は次のことにある。角栄の本質左派性に着目して、これを擁護する論が現われたらどうなるか。これについては未だ未解明、未回答である。なぜなら、こういう論が生まれてこなかったからである。太田龍-筆者系譜の者を通じて初めてこれを問うている感がある。左派圏の幾人かは角栄支持を打ち出してはいる。しかし、その論拠を問われて堂々と開陳できる者は太田龍-筆者系譜を措いてほかには見当たらない。捜せば居るだろうが、例えば元九州大の法学教授にして新左翼運動のシンパであった井上正治教授なぞは嗅覚で感じ取っていた法学者であっただろう。とりあえずはこう述べさせていただこうと思う。

 ならば角栄のどこが左派圏から称賛に値するものなのか、これについて明らかにしておこうと思う。それはズバリ、角栄政治こそ戦後民主主義のプレ社会主義的質をそのままに政治に実現せんとして、史上稀なる人民大衆の福利厚生、生活享受と日本国家の国運を誤まりなきよう指針せしめ「国家百年の計」の水路を切り開いたからである。これはどういうことか。「人民大衆の福利厚生、生活享受」については敢えて語るまでもなかろう。この時の善政が人民大衆の懐を潤し、現在数百兆円という国民資産となっている。ネオシオニズムが今躍起となってこれを簒奪せんとしている。

 それでは、「国家百年の計の水路を切り開いた」とはどういうことか。これを手短に述べれば、当時の日米外交を手玉に取りつつ「極東アジアの平和」に向けて着々と布石したことにある。政権の命運を賭けて乗り込み日中国交回復を成就させたのはその金字塔である。「極東アジアの平和」こそは幕末維新の際に革命派が夢見た理想であり、日中国交回復はその百年ぶりの実現であった。この過程がいかほど困難な事業であったかを検証して見よ。ゆめ立花的逆さ理論に騙されるなかれ。

 しかし、内治における公共事業振興、人民大衆の福利厚生、生活享受、外治における「極東アジアの平和」創出を始めとする角栄政治の本質左派性は、であるが故に角栄の身に災難が降りかかることになった。ネオシオニズムの側からすれば、これほど容認し難い者はなかった。角栄政治を後数年でも経緯させたら日本はコントロールし難い自由自主自律的国家に転換する可能性が始まっていた。そういう勢力からみて角栄政治は断じて許せない危険な橋を渡りつつあった。

 これを咎めるシナリオが練られた。文芸春秋と立花隆の合作による「田中金脈の研究」が狼煙となった。後は衆知の通り外国記者クラブが花火を打ち上げ、政財官学報司警軍の八者機関総動員による角栄パッシングの嵐へと突入する。これに労組と社共が列なった。これを偶然進んだ政治現象と思う者は悪いことは云わない、政治評論から足を洗った方が良い。この流れに何ら左派的対応を為しえなかった党派は悪いことは云わない、今後一切政治運動につき偉そうに云わないほうが良い。難渋辟易するような硬い文章で高踏ぶらない方が良い。

 【日共の角栄糾弾闘争のイカガワシサ-宮顕リンチ事件との絡み考】

 この時の日共の角栄糾弾闘争のイカガワシサを確認しておく。日共は1976年2月にロッキード事件が勃発するや尋常ならざる動きを見せた。この時の日共の角栄徹底糾弾、政治訴追運動の異常さを確認しておく。
筆者は、1955年の六全協で党中央を簒奪した宮顕ー野坂体制は、ネオシオニストのエージェントが日本共産党を牛耳るに至ったという裏意味があると仮説している。そういう意味で六全協以降の共産党を「日共」と蔑称して書き分けしている。日共は、何気ない平素ではそれなりの共産党的な言辞を弄するが、いざ肝腎の際には当局御用派としての馬脚を表わす。ロッキード事件に於ける日共の果たした立ち回りはその典型であった。これにつき、現代政治研究会の「田中角栄 その栄光と挫折」は、ロッキード事件の期間、日共の果たした役割について次のように記している。「田中首相を退陣に追い込むきっかけを作ったのが文芸春秋の田中金脈追及であったように、当初の異常な田中ブームに冷や水を浴びせ、不人気への道を開いたのは、新聞ではなくて雑誌ジャーナリズムと、もう一つ、共産党だった」。

 *これが、事情通の見方であろう。まず、このことを確認しておく必要がある。筆者は、「日共の異常執念的角栄訴追運動」について長年疑問に持ち続けてきた。最近になってカラクリが分かった気がするので、ここに書きつけておく。ロッキード事件勃発時の「日共の異常執念的角栄訴追運動」には裏があったのではなかろうか。どういう裏事情かと云うと、直前の「民社党による戦前党中央委員査問致死事件の追求事件」の動きがそもそも臭い。この経緯については、「補足・宮顕リンチ事件のその後、事件関係者の陳述調書漏洩の衝撃」で考察している。その流れを以下に簡略に確認する。付言すれば、ロッキード事件に於ける日共の異常なはしゃぎぶりの背景事情として直前の「宮顕リンチ事件」との絡みで捉えようとする試みは本稿が初めてである。

 【民社党の春日委員長が突如、「宮顕リンチ事件」を持ち出す】

 1974年6月26日、毎日新聞が7月の参院選を前にして「(各党首)陣頭に聞く」のインタビュー連載を企画した。春日一幸・民社党委員長のインタビューが第2回目となり、突如、戦前共産党のリンチ事件を持ち出し次のように攻撃した。「極悪非道ですよ、共産党は。反対者を殺すのだから。昭和8年、宮本顕治や袴田里見が何をやったか、予審調書を見れば分かる。連合赤軍の集団リンチ殺人事件とどこが違うか。口ではない。彼等が何をやったかだ。それをもとに判断するしかないじゃありませんか」。日共は直ちに猛反撃し、6月28日付け赤旗で、宮本太郎広報部長による談話「低劣な中傷について」を発表し次のように反論した。概要「公党の指導者に対する許し難い中傷を加えている。これは、昭和8年当時、秘密警察のスパイが、査問中特異体質のため死亡した事件を特高警察が『リンチ・殺人事件』としてデッチアゲたことを取り上げ、我が党の宮本委員長らに殺人者と云う悪質な中傷を加えたものである。だが、この『事件』が、警察の捏造であったことは、戦前の暗黒政治下の裁判所でさえ事実上認めざるを得なかったところであり、さらに、戦後昭和22年5月29日に、治安維持法を撤廃した勅令735号(昭和20年12月29日)によって、将来にわたって刑の言い渡しを受けなかったものとすると、東京地検も確認している。春日氏が『予審調書を見れば分かる』などといって、宮本書記長の予審調書があるかのように云っているのは、明白なデマである」。

 *一見、日共の反論は筋が通っているように聞こえる。しかし、筆者の研究によれば、春日委員長の指摘した通りの事件である。問題は、この時期に、春日委員長をしてこの発言をさせた仕掛け人が居るのではなかろうかと云うことにある。全く偶然の選挙絡みの発言に過ぎなかったとは思いにくい。春日民社党委員長を炊きつけ、日共のアキレス腱である「戦前共産党リンチ事件問題」を持ち出した背後事情が詮索されねばならない。この後のロッキード事件勃発の際の日共の異常な熱心さと合わせて考えると不自然な臭いがしてならない。この闇は深い。筆者はかく理解している。

 【立花隆と文芸春秋コンビが田中角栄追撃開始】

 1974年10月、雑誌「文芸春秋」11月号で、立花隆「田中角栄-その金脈と人脈」が掲載された。これが以降の田中政界追放の狼煙となった。*立花論文の元ネタは英文で書かれたCIA情報だったとの説がある。これが真相だとすると、立花隆と文芸春秋社を後押しした闇の力を嗅ぐのは筆者だけだろうか。

 【立花隆が、文芸春秋に「宮顕リンチ事件」論文を発表する】

 1975年12月10日、ロッキード事件勃発の2ヶ月前に発売された「文芸春秋1976.1月号」で、立花が「日本共産党の研究」の一章で「宮顕リンチ事件」論文を発表している。立花は、未知の資料をふんだんに駆使して事件を精密に検討し直し、宮顕の云う「特異体質によるショック死」説を否定し、「リンチはあった。スパイとされた小畑の死因は傷害致死」と暴露した。宮顕らに対する東京刑事地方裁判所の判決文等が掲載され大きな反響を巻き起こした。

 これに対して日共が猛然と反撃する。12月10日、赤旗は、「古びた反共理論と反動的裁判所資料の蒸し返しー『文春』立花隆氏の日本共産党研究なるものの特徴ー」を連載する。12月11日、赤旗は、宮顕の「スパイ挑発との闘争-1933年の一記録」を再録、全文公開した。12月20日、「第7回中総」で、宮顕委員長は、立花論文に触れて「歴史的ニヒリズムと特高警察史観」、「悪質な反共宣伝、反動裁判所資料の蒸し返し」によるものと反撃した。

 【民社党の春日一幸委員長、塚本書記長が衆院本会議で「宮顕リンチ事件」を質問】  

 1976年1月27日、民社党の春日委員長が、衆院本会議で「宮顕リンチ事件」を質問している。「共産党は、リンチによる死亡者の死因は特異体質によるショック死だとしているが、真実は断じて一つ」として、事件の究明と戦後の宮顕の公民権回復に関しても疑義を指摘し政府見解を迫った。1月30日、自由民主党の倉成正が、「この判決文は本物かどうか」と国会質問を行い、稲葉修法相は「原本と同じである」と認め、「どういういきさつでGHQの指示が下ったのか明らかにしなければならない」と戦後の宮顕釈放過程の疑惑を明らかにした。続いて、民社党の塚本三郎・書記長が、衆院予算委員会で査問事件についての詳細な質疑を行い、果ては宮顕の「復権問題」、刑の執行停止に伴う残余の期間にまで及ぶ疑問を追及した。稲葉法相が質問に答え、「宮本、袴田らの手で行われた凄惨なリンチ殺人事件」の事実を認めた。さらに、概要「共産党がデッチ上げだと主張するなら、再審手続きを申請するべきだ」とも答弁した。不破書記局長が、衆院予算委員会での春日質問に対して「国会を反共の党利党略に利用するもの。宮本委員長の復権は法的に決着済み。暗黒政治の正当化だ」と反論。但し、「判決に不服なら再審の請求という手段がある」という稲葉法相の指摘に対してはノーコメントで通している。

 【自民党が「共産党リンチ事件調査特別委員会」を設置】
 

 1月末、自民党が「共産党リンチ事件調査特別委員会」を設置した。10月5日、同委員会が1・事件は捜査当局によるデッチアあげでなく緻密に計画された犯行である。2・小畑達夫の死因は外傷性ショック死であるとの報告を発表している。10月7日、稲葉法相が、「人のものは俺のもの、俺のものは俺のものという態度で言論の自由とか、三つの自由とか国民に訴えても国民は信用しない」との発言が朝日新聞に報ぜられている。

 【マスコミ各社の「宮顕リンチ事件」対応】


 マスコミ各社は、「宮顕リンチ事件」に関して一様に究明不要論を唱えている。朝日新聞「歴史の重み、矮小化の恐れ、醜聞の立証に終始する政争次元の論議は疑問」、毎日新聞「取り上げる意義どこに 資格回復の是非いまさらに論議しても」、読売新聞コラム「春日演説が暗黒政治と軍国主義の復活を推進することになりはしないか」と共通して臭いものに蓋式論調で一致している。公明党・矢野書記長、社会党・成田委員長の見解も似たり寄ったりで「今更蒸し返すな論」を打ち出している。

 【鬼頭史郎判事補が宮顕の「刑執行停止上申書」と「診断書」を入手し、文藝春秋3月号に掲載される】


 文藝春秋はさらに3月号で、鬼頭史郎判事補が提供した「刑執行停止上申書」と「診断書」を掲載した。*鬼頭は、この後で勃発するロッキード事件でも奇妙な動きをする。布施検事総長の名を騙り、三木首相と1時間の長電話に及び、「中曽根免訴、角栄徹底追及の指揮権発動」を要請し、これがロッキード事件捜査の流れとなる。鬼頭判事補はその後、公務員職権濫用罪で有罪となるが、この時突如登場し果たした役割がいずれも急所を射ていることに釈然としないものを感じている。筆者が今から思うのに、リンチ事件追求の際に登場した春日、立花、塚本、倉成、稲葉、鬼頭判事補が妙に臭い。何やら役者が揃い過ぎており裏で繫がっているのではなかろうか。ネオシオニストエージェント臭ぶんぶんではないのか。

 【ロッキード事件勃発】

 1976年2月4日、アメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会で、ロッキード社の贈収賄工作が証言された。「ピーナッツ100個(暗号領収書、ピーナッツ1個は100万円で、100個は1億円)」などロッキード社不法献金の証拠資料が公表された。日本には小玉、丸紅、全日空、小佐野賢治らを通じて約36億円の工作資金が流れたといわれた。こうして「ロッキード事件」が勃発した。 

 【三木首相が事件の徹底解明を表明】

 三木首相は、「日本の政治の名誉にかけて真相を明らかにする必要がある」とぶちあげた。三木を推挙した椎名は「一点の惻隠の情さえ見られない」と苦りきった。以降自民党内は大混乱へひた走っていくことになり、反三木派は「三木降し」へと向かうことになる。これにより、その後の政局がロッキード事件絡みで推移していくことになり、「宮顕リンチ事件究明」がピタッと沙汰止みとなった。これにつき、鈴木卓郎の「共産党取材30年」は次のように述べている。 「助かったのは『スパイ査問事件』を追及されていた共産党である。『査問事件』のナゾは解かれたわけではないが、要するに話題はロッキード献金の方へ移ってしまい、話題としては急速にしぼんだ。宮本を獄中から釈放したのはマッカーサーであった。今度はロッキードが宮本を世論の総攻撃から救った。これで宮本は二度『アメリカ帝国主義』に助けられたことになる。なんとも運の強い皮肉な共産党委員長といわざるを得ない」。

 *ここからが問題である。筆者のロッキード事件研究によれば、この事件はよほど早くより用意周到に仕掛けられている。ということは、直前の宮顕訴追運動はロッキード事件絡みで生み出されていたのではないかとの推測が成り立つ。何の為か。それは結果が教える。ロッキード事件を仕掛けた真の黒幕であるネオシオニストどもが、宮顕の古傷をいたぶることにより、間もなく起こるであろうロッキード事件の際に日共をして党を挙げての角栄糾弾、訴追に回ることを教唆強制していたのではなかろうか。宮顕は渡りに船とばかりに欣然としてこの取引に応じ、狂気の角栄糾弾運動に乗り出していくことになったのではなかろうか。鈴木卓郎の「共産党取材30年」は「宮顕の強運、僥倖」とみなしているが、こういう裏取引があったと考えるべきではなかろうか。1976年当時、宮顕は既に党中央の実質権限を上田-不破兄弟に譲っていた。にも拘らず突如としてしゃしゃり出てきた感がある。その日共ないしは宮顕が如何に異常な執念でロッキード事件に取り組んで行ったのかを確認せねばなるまい。この事件は、ネオシオニズムのシナリオに基き、政府与党内の戦後ハト派の田中-大平同盟に対する戦後売国系タカ派の巻き返しとして企画演出された戦後最大の政争であり、事件の重みは大きい。

 【日共が異例の緊急全国活動者会議開催】

 2月24日、ロッキード事件勃発直後とも云えるこの頃、日共の異例の緊急全国活動者会議が開かれ、委員長・宮顕以下全党幹部、党機関幹部1172名が参加し秘密会議を開いた。この時のものものしさは防衛隊員216名による会議運営委員会の厳しい監視下で、記念撮影などは許さない、テープ録音は許さない。宿舎では外部への連絡は許さない等々の制限下での異例会議であったことで知れよう。*この時、何が意思統一されたのか未だに未発表であるが、「角栄徹底糾弾、訴追」を申し合わせたことは疑いないように思われる。

 【日共の「第8中総」】

 5月11-12日、共産党の「第8中総」が開かれ、委員長・宮顕が臨時党大会を提起する。臨時党大会は角栄逮捕の翌日に開催されている。「政治は一寸先は分からん」という中での大激動に対するタイムリーな予測がピタリと当たることになった。*「全国民の耳目がロッキード捜査の進展に集中している」時の異例の党大会提起であり、開催日が角栄逮捕の翌日とは余りにも話ができ過ぎているように思われる。

 【田中元首相逮捕される】

 7月27日早朝、角栄は、外国為替法違反、受託収賄罪容疑で東京地検特捜部に逮捕された。稲葉法相の指揮下で行われ、前首相逮捕は昭電疑獄の前首相芦田均についで日本憲政史上2人目となる。*元首相を外国為替法違反などと云う姑息な容疑で逮捕させて良いものだろうか。これに疑問を沸かさない者は重度のシオニスタン病に罹っていることを知るべきであろう。角栄批判派にはこの理が分からない手合いが多い。平素、予備罪で拘束される急進主義派の連中までが鈍感とすれば漬ける薬がないというべきだろう。

 【日共の奇妙な第13回臨時党大会】

 角栄逮捕の翌日の7月28ー31日、日共は、50余年の党史上初めてとなる、この年秋に予定していた定期党大会を翌年に延期してまで急遽第13回臨時党大会を開いた。*既に述べたが、元首相・角栄が逮捕された翌日の異例臨時の党大会開催は果たして偶然なのだろうか。

 大会は、幹部会委員長・宮顕が、冒頭で、前日の田中前首相の逮捕を誇らしげに伝えて次のようにアジっている。「三木内閣の手で事件の徹底的究明をさせる。捜査途中での三木降ろしに反対する。これは自民党内の政権たらい回しを許し、即時国会解散を要求することとなり国民の希望に反する」。ここに、奇妙なMMホットラインが刻印されている。この時の宮顕の異常な指揮権発動は何を物語るのだろうか。以降、日共は、党大会での意思統一通りに凄まじい角栄糾弾闘争に向かう。

 *筆者には、この時の宮顕の異常な指揮権発動の裏に直前の裏取引があった気がしてならない。これがネオシオニストの筋書きゆえに、それを察知する政界が直前まで追い詰められていた宮顕を赦免し、宮顕が堂々と角栄訴追運動に乗り出したことに誰も異議を唱えなかったことのカラクリではなかろうか。こう捉える時、流れが見えて来た気がする。ここに日本政界に底流している闇政治が垣間見える。これを見ない政治評論の何と薄っぺらなことだろうか。してみれば、「宮顕リンチ事件」は日共のアキレス腱となっており、こうしていつでも取引材料に利用されていることが判明しよう。このウィークポイントを抱える限り日共は永遠に日共化させられ続けるであろうことを意味している。この事件を徹底解明し、党中央責任で総括し、真摯な自己批判をしておかねばならない所以がここにあるように思われる。


 この時の大会で、「自由と民主主義の宣言」が為された。ロッキード事件とは関係ないが確認しておく。宣言は4章構成(1・進行する自由と民主主義の危機、2・日本の民主主義の過去と現在、3・科学的社会主義と自由の問題、4・自由と民主主義の確立と発展・開花をめざして)で従来の見解を改めた。「1・私有財産の保障として、独立・民主日本はもちろん、社会主義日本に移行した段階でも、勤労者の私有財産は保障される。2・議会制民主主義を守るとして、国民主権の立場から、独立・民主日本でも、社会主義日本でも普通選挙権にもとづく国会を名実ともに最高機関とする民主主義国家体制が確立、堅持される。3・複数政党制と連合政権を志向するとして、反対党をふくむ複数政党制をとり、すべての政党に活動の自由を保障し、選挙で国民多数の支持をえた政党または政党連合で政権を担当する。4・政権交代制を保障するとして、この議院内閣制(議会多数派で組織)によって、政権交代制は当然維持される。5・宗教や言論の自由の保障するして、言論、出版その他表現の自由を、用紙や印刷手段の自由な利用の保障などを含め、擁護する。表現手段などに恵まれない人々に対しても、自己の思想や主張などを発表し得るように物質的な保障を確立する。この物質的な保障は、あくまで表現の自由の不可侵を前提としたものであり、それを検閲や統制の手段とすることは許されない云々」。*この宣言は、プレ社会主義論的見地に立つことで意味を持つが、日共にはこういう観点はない。してみれば、選挙闘争上のジレンマ点の日共的解決に過ぎず選挙対策コマーシャルに過ぎないことを確認すべきではなかろうか。

 この時 「用語革命」が前回大会に引き続き為された。先の大会で、綱領の「プロレタリア独裁」が「プロレタリアート執権」に統一されていたが更に「労働者階級の権力」に改められた。「ソ連を先頭とする社会主義陣営、全世界の共産主義者、全ての人民大衆が、人類の進歩のために行っている闘争をあくまで支持する」の「ソ連を先頭とする」が削除され、「国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具に変え」の「道具」を「機関」に改められた。「マルクス・レーニン主義」が削除され「科学的社会主義」との表記に改変された。「科学的社会主義」への表記替えについて、不破は後に次のように正当化している。「マルクスやレーニンの言っていることを絶対化しない、金科玉条にしないという私たちの立場を表すには、この理論を個人の名前と結びつけた『マルクス・レーニン主義』という呼び名は適切ではない、と考えたから」(「科学的社会主義を学ぶ」、新日本出版社)。*よしんば「科学的社会主義」表記を認めるにせよ、これによって過去の文書の「マルクス・レーニン主義」の記述まで書き換えるのは歴史改竄であり許されまい。その意図が臭かろう。

 【日共不破の許し難い今日的物言い考】

 ところで、日共は今日、ロッキード事件について、どのような言い草をしているのだろうか、これを確認しておく。不破幹部会委員長は、1999年7月25日付け赤旗の「日本共産党創立77周年記念講演会 現代史のなかで日本共産党を考える」で、ロッキード事件に関して次のような見解を披瀝している。(筆者文責で、重要文言箇所をゴシック文字にした。内容不改変) 「それから、あれだけ国民が追及していた政治腐敗でしたが、それが途方もなく大きくなりました。私は、いまでも思うのですが、金権政治の元祖といわれた田中角栄氏は、国内で五億円の金を調達できないで、危険だとわかっていながらロッキードの献金に手をだして領収書を書いた。それがあの大事件になったわけでしょう。いま、五億円――物価が上がっているから、いまなら十億円、二十億円というお金に当たるのでしょうが、その程度の金は、自民党のどの派閥でも、どこからでも平気で生みだしてきます。田中角栄氏の後を継いだ金丸信氏などは、国が公共事業を発注するたびに、そのいくばくかは発注額に比例して自分のところに入ってくるという自動献金装置までつくって、逮捕されたときには金の延べ棒が金庫にざくざくでした。(笑い)」。  

 *角栄のその後は日共の願う通りのものとなり政治的に絞殺された。こうなるや不破は、かって角栄を「金権政治の代表、諸悪の元凶」としてさんざん悪し様に指弾しながら、今になって云うことに何と、概要「よほど貧乏していたのだろう。今日から見てさほどの額でもない僅か5億円の金欲しさに外国からの汚い金に手を出した。それがあの大事件になった」と云い為している。つまり、「金欠角栄論」を唱え始めている。筆者はもはや言葉を失う。当時、宮顕ー不破系党中央は、検察司法のロッキード事件追求をあたかも正義の捜査であるかの如く見立てて礼賛していった。更に、検察司法の手に負えない政治局面での議員辞職運動を組織していった。そして、思惑通りに角栄の政治能力が殺がれるや、死者に鞭打つ残酷無慈悲な「金欠角栄論」を弄び始めている。この詐術に胸が悪くなるのは筆者だけだろうか。日共党員つうのは余程脳軟化症しているのだろう。この詐術と観点の歪みを問わないで(笑い)で応じているようである。共に語り得ずの面々ではなかろうか。

 【田中元首相起訴される】

 
8月16日、検察は、田中を外為法違反と受託収賄罪で起訴した。この時点より、角栄は「総理大臣より一転して刑事被告人」の立場に追いやられることになった。「5億円は全日空のトライスター機導入に絡む賄賂である」として受託収賄罪が適用された。


 【ロッキード事件公判始まる】

 1977年1月27日、東京地裁701号法廷でロッキード事件の公判が始まった。岡田光了裁判長、永山忠彦、中川武隆陪席裁判官。元首相・田中角栄、元首相秘書官・榎本敏夫、丸紅前会長・桧山広、前専務・伊藤宏、同・大久保利春の順で5被告が座る。角栄はこの時、事件との関わりを強く否定し、「外為法の被疑事実はもちろん、収賄についても何の関係もなく、私は無実であります」と陳述し、身の潔白を訴えた。

 *角栄は一貫して冤罪との立場から公判闘争を闘い抜いた。これを真に受けず「5億円授受」を認めた上で角栄の有能性を評価しようとする弁護論があるがむしろ邪道ではなかろうか。当人が否定している以上まずは当人の説を支持する立場から弁護すべきではなかろうか。筆者が検証するところ、児玉-中曽根ラインの授受を角栄にすり替えている可能性が強い。この観点からロッキード事件を見直すべきではなかろうか。こう構えるべきところ、日共の如く真偽不明のまま「5億円授受説棒」を振り回し、角栄の政界訴追運動を仕掛けていったのが日本左派運動の能力であった。これではお話にならない。

 【「今となっては非常に興味深い井上正治氏と中核派のロッキード事件観論争」】

 この流れに対し、ロッキード事件の虚構に敢然と立ち向かった人物が居る。元九州大学名誉教授法学博士の井上正治(まさじ)氏である。井上教授は中核派の破防法対策弁護団の主任弁護人を勤め、1974年1月14日、被告団と打合せ会の席上、革マル派の襲撃を受け重傷を負う履歴を持っている。その井上教授は、雑誌「諸君1976年6月号」の座談会の中で、「角栄裁判は主権の放棄だ!」と発言している。この頃より井上教授と中核派の蜜月時代が終わっている気配が認められる。中核派が機関紙「前進」紙上で、「断腸の思いで」として次のように抗議している。「井上正治氏のロッキード裁判に関する見解は、日本プロレタリアート人民の最も憎むべき打倒対象である田中角栄を擁護するものであり、破防法裁判闘争を推進する立場とは根本的に相容れない」。*これによると、中核派は、田中角栄を「日本プロレタリアート人民の最も憎むべき打倒対象」と評していることが分かる。果たして、如何なる論証をもってかような規定を為し得たのであろうか。この言説が本当に左派的であるのかどうか、筆者は大いに疑問を持つ。むしろ、中核派の否当時の左派運動総体の惜しむらくはの理論の貧困を証左しているように思える。

 これに対し、井上氏は次のように述べている。「私の学問に、もし誤りがなければ、ロッキード事件の中にある田中角栄は無罪でなくてはならない。それでも、田中は政治的に悪だから、有罪にして刑務所へ放り込まなければならない、という結論になってよいのだろうか。とりわけ、大きな声で主張しておきたいことは、日本国憲法における元首については、どう取り扱われるべきか、ということである。それが曖昧にされ、いいかげんに処理されるようなことがあっては、せっかくの『民主』憲法も絵に画いた餅になりかねない」(井上正治「田中角栄は無罪である」28P)。「井上正治氏と中核派のロッキード事件観論争」に対して、当時36才の弁護士の次のような意見が為されている。「『田中を弁護するな』という考え方には問題がある。田中が仮に権力者であっても、司法そのものがその権力者をも誤って弾圧しようとする権力としてある以上、それに対して闘うことは、弁護人のあるいは弁護士の責務である」(井上正治「田中角栄は無罪である」47P)。

 *筆者は、当時の左派諸党派のロッキード事件観を検証してみたい誘惑に駆られる。戦後政治史上の結節点とも云えるロッキード事件に対して、当時の新左翼各派がどのように立論していたのか、これを検証することに興味を覚える。ところが殆ど記録に残されていない。ネット上の検索にも出てこない。オカシナことであろう。どなたかがやってくだされば助かる。当時日共はヒステリックなほどに角栄訴追運動、政界引退運動に狂奔していた。ならば、新左翼は、角栄が真に諸悪の元凶なら日共以上に急進主義的に糾弾闘争を仕掛けるのが常なところ、どう対応したのだろうか。早い話、中核派、革マル派、ブント諸派、毛諸派の当時のロッキード事件観、田中角栄観を比較してみたい。恐らく、各派ともが競い合って罵詈雑言しているものと推測する。ということは、当時の新左翼系諸党派は又もや、見解は日共のそれを基本にしながら、ただ単に日共に負けるな式の急進主義行動で競り勝とうとしての蛮勇を奮っていただけなのではなかろうかということになる。

 あるいは、筆者には新左翼系各派の動きが特段印象に残っていないので、恐らく判断停止状態でやり過ごしていたのではなかろうかと推定する。何らかのコメントはしていようが、運動的には沈黙を余儀なくされていたのではないかと思っている。実際には、70年安保闘争後の相次ぐ不祥事的事件に遭遇し、時の政治課題に言及するどころではなく、よってろくな対応をし得なかった、叉は理論能力の低さによりロッキード事件を解析し得なかったのではなかろうかと推測する。とすれば、新左翼諸党派の能力の貧困を示して余りあることになる。

 ところが、筆者は、妙なことだが、新左翼諸党派のロッキード事件に対する不言及は、日共の如くには角栄訴追運動に精出さなかったという点で本能的に正しい選択をしていたと思っている。日共的角栄訴追運動、政界引退運動に狂奔しなかったことに良性の知性を認めたいとも思う。もっとも、日共以上に角栄訴追運動に精出した党派が居たとすれば怪しまなければならない。残念ながら手元に資料がないので分からない。

 筆者は、定式化された理論に誤りがある場合はそこを直さねばならず、それを為さずして口先と肉体でいくら反権力運動に取り組もうとも不毛と思っている。理論に誤りがある場合、それを断乎として見直す勇気と能力を持たねばならないと思っている。その上で、左派的に穏和と急進主義が裏で連携しつつ共闘していく運動こそ目指すものであり、それをさせない「我が我が」勢力とは断乎として闘わねばならぬと思っている。今からでも遅くない。戦後日本=プレ社会主義論、その戦後政治を与党として牽引した戦後保守本流のハト派政治論、その総帥・田中角栄政治の正しい位置づけを獲得せねばならない。そうすることによって初めて大衆と面と向きあうことができる。その中から支持と共感を得る党派が出現してくるだろう。こういう党派が待ち望まれていると確信している。

 【ダグラス・グラマン事件勃発】

 1979年1月、トーマス・P・チータム米グラマン社前副社長が、同社の早期警戒機(E2C)対日売り込みに関連して、疑惑の政治家名を明らかにして、岸、福田、松野、中曽根の4名を挙げた。捜査当局がダグラス・グラマン疑惑の解明に動くことになった。第二次ロッキード事件として大騒ぎとなった。ところが3週間後の検察首脳会議は突如、「政治家の刑事責任追及は、時効、職務権限のカベにはばまれ断念する」ことを確認し、捜査は同年5月、海部ら日商岩井関係者2人を起訴しただけで刑事訴追を受けた政治家はゼロのまま「捜査終結宣言」が行われた。結局、同社から総額5億円を受け取った松野元防衛庁長官(79年7月に議員辞職。10月の総選挙でも落選)が灰色高官として浮上しただけで、捜査中に明らかになったダグラス社と元首相のかかわりが示唆する内容が記されていた「海部メモ」に名前の出た岸信介元首相については検察側の事情聴取もなく、また証人喚問すらなされなかった。*ロッキード事件との歴然とした落差が認められる。これは何を物語っているのであろうか。

 【ロッキード裁判で、角栄に懲役五年の求刑下る】

 1983年9月7日、ロッキード裁判で、検察が田中元首相に懲役五年を求刑する。10月12日、東京地裁でロッキード事件丸紅ルート第一審有罪実刑判決が下され、角栄は検察側の主張通りに受託収賄罪などで懲役4年、追徴金5億円、榎本も有罪とされた。贈賄側は丸紅社長の檜山広が懲役2年6ヶ月、伊藤宏専務が懲役2年、大久保利春専務が懲役2年・執行猶予4年。角栄は直ちに保釈の手続きをとった。

 【朝日新聞による事件当時の最高裁長官・藤林氏のコメントの大見出し掲載】

 この一審有罪判決直後の朝日新聞は、ロッキード事件勃発当時の最高裁長官・藤林氏のコメントを載せ、「一審の重みを知れ。居座りは司法軽視。逆転有罪は有り得まい。国会に自浄作用を求める。元最高裁長官が『田中』批判」との大見出し記事を載せている。*この時点でOBになっていたとはいえ、事件当時の渦中で「嘱託尋問に関わる最高裁の不起訴宣明書」を提出した張本人の露骨なオーバーコミットメントは異常と云わざるを得ない。それを何らの注釈なしに大見出し記事にする朝日新聞の識見が疑われる話ではなかろうか。

 【判決に対する角栄の憤懣】

 角栄は判決に激怒した様子を伝えている。概要「判決では、嘱託尋問で聞いたコーチャンの証言ばかりが取り上げられている。こんな馬鹿なことがあったら、誰もがみんな犯人にされてしまう。最高裁が嘱託尋問などという間違ったものを認め、法曹界を曲がった方向に持っていってしまったんだ。この裁判には日本国総理大臣の尊厳もかかっている。冤罪を晴らせなかったら、俺は死んでも死にきれない。誰がなんといってもよい。百年戦争になっても俺は闘う」と述べている(佐藤昭子伝)。
この日の夕刻、田中の秘書である早坂茂三が「田中所感」を読み上げた。「本日の東京地裁判決は極めて遺憾である。私は総理大臣の職にあったものとして、その名誉と権威を守り抜くために、今後も不退転の決意で闘い抜く。私は生ある限り、国民の支持と理解のある限り、国会議員としての職務遂行に、この後も微力を尽くしたい。私は根拠のない憶測や無責任な評論によって真実の主張を阻もうとする風潮を憂える。わが国の民主主義を護り、再び政治の暗黒を招かないためにも、一歩も引くことなく前進を続ける」。

 【日共が、角栄の政界訴追運動を満展開する】

 一審判決後、国会は田中の議員辞職勧告決議案を廻って紛糾した。特に日共の追撃が尋常でなく、後のダグラス・グラマン事件の際の追及と比較して見ても際立って激しいものとなった。翌年2月、日共が、田中角栄に対する議員辞職決議案を衆院に提出する。*日共のこの執拗さが尋常でなかった。この「闇」を覗くべきだろう。

 【角栄を葬った後に訪れた日本政治の貧困考】

 ロッキード事件は何故に注目されるに値するのか、これにつき簡単にコメントしておく。筆者は、このロッキード事件を奇禍として、戦後日本を善導してきたと評価されるべき角栄-大平同盟が掣肘され、以降の戦後日本政治は今日あるが如くの惨めな水準へ向かい始めたと見立てている。与野党も新旧左翼も角栄潰しの同じ穴のムジナという誼があり、それ故に、この元一日に於ける自己批判に辿り着く者は居ない。かくて、この連中の政治能力に相応しい政治しか生まれないことになった、これが現代政治の貧困の背後事情であると理解している。

 今から思えば、角栄-大平同盟が主流派の時代の政治は、言うことと為すことの絡みが真っ当だった。良きにせよ悪しきにせよその分政治が分かり易かった。政治家の話も情味があって面白かった。云っておくが、角栄政治の頃までは国債発行が禁止されていた。角栄は、大蔵大臣に数度就任しているが国債発行の禁を犯していない。この禁断の扉を開けたのは、その後を引き継いだ福田大蔵大臣であった。彼は、「戦前のようにはならない、お任せください」と胸を張って刷り始めた。福田政治の政治史上の責任がここにある。

 とはいえ、福田大蔵相の時代には「始めチョロチョロ式」のセーブの利いたものであった。ロッキード事件後のタカ派系三木政権になって国債発行に「中パッパ」式弾みがつき垂れ流し始め、同じくタカ派系福田政権がこれを継承し、ハト派系大平-鈴木政権が国債発行に歯止めをかけ賢明懸命に対処した。ところが、鈴木政権を後継した極タカ派系中曽根政権が就任当初は引き続き土光臨調会長を担ぐなどして行財政改革に熱心なそぶりを見せていたが、やがて国債刷りまくり政治に再転換させた。以降ブリがつき今日の事態にまで至っているという流れがある。国債発行に象徴されるかような転換が、かの時以来始まったことを深刻に知っておく必要がある。たまたま国債問題を挙げたが一事万事で、同様解析で角栄の政治能力の偉大さ、反角栄派政治の卑俗さを例証することができる。紙数を増すばかりなので、その他の考察は割愛する。

 【新左翼系弁護士に救援活動を委託した角栄の真実考】

 ロッキード事件で被告の身になり、第一審判決で敗訴し窮した角栄はどうしたか、興味の湧く考察課題となっている。角栄は、日共とは逆の意味で本性を露にしている。何と!公判闘争が行き詰った二審から新左翼系弁護士に救援している。一人は石田省三郎で、それまでも新左翼系の事件の弁護を数多く手がけており、日石ピース缶爆弾テロ事件で検察側の構図を覆して無罪を勝ち取っている。その石田を角栄は三顧の礼を尽くして弁護団への参加を依頼した。一人は小野正典で、よど号事件や成田空港事件などを手がけてきている。一人は渋谷まり子で、女性解放運動に取り組んできていた。一人は倉田哲治で、免田事件など数々の冤罪事件と取り組んできていた。石田も倉田も弁護団に加わるまでは世論と同じく角栄を「悪質な金権政治家」と見なしていたが、実際に知りあってみて角栄の人となりを高く評価するようになった。


 角栄は何ゆえ見栄も外聞も捨てよりによって新左翼系弁護士に依頼したのだろうか。誰か、これを奇異に思わなかっただろうか。筆者史観によれば容易である。筆者の「角栄=偽装保守、実は深層左派」説に立てば窮した時に本性表われるで、角栄が新左翼系に必死の思いで助け舟を求めたと解することができる。であるとするなら、新左翼は、角栄が藁をも掴む思いで差し伸べた手をしっかりと受け止めるべきであった。新左翼系弁護士は全精力で角栄救済に向うべきだった。しかしながら、これといった働きをしたように伝わっていない。俊敏に角栄冤罪説を主張し論戦した形跡がない。ということは恐らく、新左翼系各派が日共式の角栄観と似たり寄ったりの見識で冷視していることを受け、弁護士活動も熱心とならなかったのではなかろうか。筆者は、ここに新左翼の能力の貧困を感じざるを得ない。

 新左翼が新左翼であるなら本来この時、日共的な角栄糾弾闘争に対置すべく角栄救済に向かうべきではなかったのか。それができなかったということは、日本左派運動が社共も新左翼も共にネオシオニズム的世界観、歴史観、政治観に与しており、これに抗する流れの現代世界の真の抗争軸に迫らぬままに、おぼこいと云うかあらぬ闘争に耽っている「役に立たない左翼」ということになる。こうして、ロッキード事件をリトマス試験紙にすれば、戦後日本左派運動の質と紅と白の真偽、その能力をも判定することができる。ここで、ロッキード事件を採り上げるのには、こういう思いがあるからである。

 筆者は、角栄こそ「表見右派、実は右派圏に棲息しながら戦後日本革命の最も偉大な遂行者」だったのではなかろうかという仮説を立てている。それは丁度対極的に宮顕、黒寛こそ「表見左派、実は左派圏に棲息しながら左派運動撲滅派」であったのではなかろうかという仮説の対をなしている。日本政治はかほどに歪んでいる。政治というものは、これほど複雑で高等なものであるということを確認しておきたい。

 【ロッキード事件の及ぼした学生運動への影響考】

 1976年のロッキード事件は、戦後日本政治史上画期的な意味を持つ。このことが認識されていない。れんだいこ史観によれば、ロッキード事件は、戦後日本の世にも稀なハト派政治の全盛時代を創出した田中ー大平同盟に対する鉄槌であった。ロッキード事件はここに大きな意味がある。ここでは戦後学生運動について述べているのでこれにのみ言及するが、ロッキード事件は陰のスポンサーの失脚を意味した。この事件を契機に与党政治はハト派主流派からタカ派主流派へと転じ、それと共に戦後学生運動は逆風下に置かれることになった。

 その結果、1980年代初頭の中曽根政権の登場から始まる本格的なタカ派政権の登場、そのタカ派と捩れハト派の混交による見せ掛けの政争を経て、2001年の小泉政権に至ってタカ派が絶頂期を迎え、安倍、福田、麻生政権へと続いた。戦後政治史の流れではタカ派全盛時代と表記することができよう。彼らは、ロッキード事件に震撼させられ、現代世界を牛耳るネオシオニズムの御用聞き政治に一層邁進し、言いなり政治、更に丸投げ政治へと定向進化させて行った。現下の政治貧困はここに真因があると見立てるべきであろう。彼らにあっては、戦後学生運動は無用のものである。故に、断固鎮圧するに如かずとして、もし飛び跳ねるなら即座に逮捕策を講じている。これにより今日ではビラ配りさえ規制を受けつつある。この強権政治により、うって変わって要らん子扱いされ始めた学生運動は封殺させられ、現にある如くある。

 れんだいこ史観では、「戦後学生運動の衰退」は、社共指導部こぞっての裏協力あっての賜物であった。国際金融資本の意を受けた御用聞き派が党中央に登壇し権力を掌握するや、口先ではあれこれ云うものの本質は「左バネ潰し」を任務としてきた。こう見立てない者は、口先のあれこれ言辞に騙され易い政治的おぼこ者でしかない。これらの政策が殊のほか成功しているのが今日の日本の政治事情なのではなかろうか。成功し過ぎて気味が悪いほどである。

 このように考えるならば、戦後左派運動は、その理論を根底から練り直さねばならないだろう。結論的に申せば、日共理論が特に有害教説であり、彼らは思想的には左派内極限右翼であり、「左からの左潰し屋」である。一体全体、野坂、宮顕、不破の指導で、日本左派運動に有益なものがあったというのならその例を挙げてみればよい。筆者はことごとくそれを否定してみよう。しかし、一つも事例がないなどということが有り得て良いことだろうか。

 それに比べ、新左翼は心情的にはよく闘ってきた。しかし、闘う対象を焦点化できずにのべつくまなく体制批判とその先鋭化に終始し過ぎてきた。戦前の皇国史観批判、政府自民党批判の水準に於いては日共のそれとさして代わらない代物でしかなく無能を証している。為に、その戦闘性が悪利用された面もあるのではなかろうか。あるいは消耗戦を強いてきただけのことなのではなかろうか。一刻も早くかく気づくべきではなかろうか。

 戦後学生運動の凋落原因は様々に考えられる。 1・民青同の右翼的敵対、2・連合赤軍による同志リンチ殺害事件、3・中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派を基軸とする党派間テロの3大要因を挙げることができる。しかし、それらは真因ではなくて、もっと大きな要因があるとして次のように考えている。

 戦後学生運動は、ある意味で社会的に尊重され、それを背景として多少の無理が通っていたのではなかろうか。それを許容していたのは何と、戦後学生運動がことごとく批判して止まなかった政府自民党のハト派政治であった。これに関連して、東原吉伸氏が次のように述べている。「焦土と化した日本の国土と、敗戦による荒廃した人心をいかに立て直すか、これが当時有為の人間の、言葉に出さない共通命題だった。『学生は未来の社会の宝だ。出来ることなら逮捕を避けろ』といった公安幹部が、当時、少なからずいたという」。 

 角栄の学生運動を見る眼の優しさの逸話は事欠かない。例えば、秘書の早坂茂を抱える際にも、学生運動歴を問題にしていないことでも分かろう。あるいは、国会前を練る新左翼系デモに対して次のような言葉を遺している。「日本の将来を背負う若者達だ。経験が浅くて、視野は狭いが、まじめに祖国の先行きを考え、心配している。若者は、あれでいい。マージャンに耽り、女の尻を追い掛け回す連中よりも信頼できる。彼等彼女たちは、間もなく社会に出て働き、結婚して所帯を持ち、人生が一筋縄でいかないことを経験的に知れば、物事を判断する重心が低くなる。私は心配していない」。こういう目線を持つ角栄政治が掣肘されて以降、「政府自民党の変質」によって次第に許容されなくなり、学生運動にはそれを跳ね返す力がなく、ズルズルと封殺され今日に至っているのではなかろうか。凡そ背理のような答えになるが、今だから見えてくることである。

 思えば、「戦後学生運動の1960年代昂揚」は、60年安保闘争で、戦後タカ派の頭脳足りえていた岸政権が打倒され、以来タカ派政権は雌伏を余儀なくされ、代わりに台頭した戦後ハト派の主流化の時代に照応している。このことは示唆的である。60年代学生運動は、諸党派の競合により自力発展したかのように錯覚されているが、事実はさに有らず。彼らが批判して止まなかった政府自民党の実は戦後ハト派が、自らのハト派政権が60年安保闘争により岸政権が打倒され、その果実として棚からボタモチしてきたことを知るが故に、学生運動を取り締まる裏腹で「大御心で」跳ね上がりを許容する政策を採ったことにより、昂揚が可能になったのではなかろうか。これが学生運動昂揚の客観的背景事情であり、筆者は「戦後学生運動の1960年代昂揚」はこの基盤上に花開いただけのことではなかろうかという仮説を提供したい。この仮説に立つならば、1960年代学生運動時代の指導者は己の能力を過信しない方が良い。もっと大きな社会的「大御心」に目を向けるべきではなかろうか。

 今日、かの時代の戦後ハト派は消滅しているので懐旧するしかできないが、戦後ハト派は、その政策基準を「戦後憲法的秩序の擁護、軽武装たがはめ、経済成長優先、日米同盟下での国際協調」に求めていた。その際、「左バネ」の存在は、彼らの政策遂行上有効なカードとして機能していた。彼らは、社共ないし新左翼の「左バネ」を上手くあやしながらタカ派掣肘に利用し、政権足固めに利用し、現代世界を牛耳るネオシオニズムとの駆け引きにも活用していたのではなかろうか。それはかなり高度な政治能力であった。

 筆者は、論をもう一歩進めて、戦後ハト派政権を在地型プレ社会主義権力と見立てている。戦後ハト派の政治は、1・戦後憲法秩序下で、2・日米同盟体制下で、3・在地型プレ社会主義政治を行い、4・国際協調平和を手助けしていた。してみれば、戦後ハト派の政治は、国際情勢を英明に見極めつつ、政治史上稀有な善政を敷いていたことになる。実際には、政府自民党はハト派タカ派の混交政治で在り続けたので純粋化はできないが、政治のヘゲモニーを誰が握っていたのかという意味で、ハト派主流の時代は在地型プレ社会主義政治であったと見立てることができると思っている。

 今は逆で、タカ派主流の時代である。そのタカ派政治は、戦後ハト派政権が扶植した在地型プレ社会主義の諸制度解体に狂奔している。小泉政権7年有余の政治と現在に続く安倍-福田-麻生政権は、間違いなくこのシナリオの請負人である。この観点に立たない限り現在的政治批判は的を射ないだろう。この観点がないから有象無象の政治評論が場当たり的に成り下がっているのではなかろうか。

 そういう意味で、世にも稀なる善政を敷いた戦後ハト派の撲滅指令人と請負人を確認することが必要であろう。筆者は、指令塔をキッシンジャー権力であったと見立てている。キッシンジャーを動かした者は誰かまでは、ここでは考察しない。このキッシンジャー権力に呼応した政官財学報司警軍の八者機関の請負人を暴き立てれば、日本左派運動が真に闘うべき敵が見えてくると思っている。このリトマス試験紙で判定すれば、世に左派であるものが左派であるという訳ではなく、世に体制派と云われる者が右派という訳ではないということが見えてくる。むしろ、左右が逆転している捩れを見ることができる。世に左派として自称しているいわゆるサヨ者が、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国主義の走狗でしかかないという姿が見えてくる。

 結論として云えることはこうである。角栄こそ、戦後左派運動の唯一の成功事例としての政権取り人であった。その角栄を悪しざまに云うことで左派証明している左派は、日共的意図的故意の悪罵人はともかくとして不明を自己批判し、理論を大きく転換せねばならない。この転換を為すことなく左派圏内でありきたりの左派理論を弄ぶものは速やかに舞台から退場するが良い。角栄の能力、悲劇を認め、人民大衆が今日も哀惜する角栄論を擁護する観点を打ち立てた時始めて左派として自らを資格がある。逆は逆である。こう告げておきたい。