【70年代以降の諸闘争、事件検証】
【考察1、連合赤軍事件考】
(序論)
別章1として連合赤軍事件に言及する。同事件は、総括に名を借りて総計14名にのぼる「同志殺害事件」、「あさま山荘事件」に対する猟奇的報道を通じ、1970年以降の戦後左派運動に否定的な影響を与えた最右翼の出来事であり、そういう理由で最初に言及せねばならない。既に事件後40年を経過したが風化させてはならない事件であったと考える。我々は、この事件から何を教訓として引き出すべきであろうか。詳論は「連合赤軍考」に記す。
(gakuseiundo/dainijibundco/rengosekigunco/rengosekigunco.htm)
連合赤軍事件も後で述べるよど号事件、日本赤軍事件も第二次ブントから出自した共産同赤軍派絡みの事件である。今日同派の活動が回顧されつつあるが、筆者の見解は美化的世辞には賛同できない。同時に、したり顔した批判にも反対である。いずれも時代のニューマ(雰囲気)の中で捉え、ではどうあるべきだったのかの議論を媒介せずんば意味を持たないと考える。同派の最高指導者・塩見氏は獄中19年9ケ月を経て1989年12月釈放され、今も呻吟しており、その営為たるや尊いと考える。
【連合赤軍結成までの流れ】
連合赤軍結成までの流れを概略確認しておく。70年安保闘争の余塵燻る1970年末頃、当時に於ける最過激な武装軍事革命派として連合赤軍が結成された。連合とは、第二次ブントから創出された赤軍派(公然組織・革命戦線)と中共系の日共左派神奈川県委員会から分岐した革命左派(公然組織・京浜安保共闘、中京安保共闘、関西安保共闘)の結合を意味している。
これを赤軍派の方から見れば次のように云える。1969年頃、第二次ブントの主として関西ブントから出自した赤軍派は、70年安保闘争前夜の新左翼各派の街頭武装闘争に対し、抵抗闘争的限界を指摘し権力奪取に向かうことこそ革命運動の本筋であるとして建軍武装闘争に向かった。筆者は、ブント式革命路線の定向進化として辿り着いた極致理論とみなしている。但し、連合赤軍結党時点で、赤軍派の最高指導者・塩見は既に獄中下にあり、bQの田宮はよど号事件で北朝鮮に向かっていた。最後の一人となっていた政治局員・高原浩之もハイジャック事件3ケ月後の1970.6.17日、同事件の共同正犯の容疑で逮捕され赤軍の中枢は完全に破壊された。残された大幹部の重信房子も1971.2.28日、京大パルチザンの奥平剛士と共にパレスチナへ向かい、日本赤軍の中枢は機能停止した。
暫定幹部として森、坂東が指導部を構成していたが、塩見、田宮、高原らが指導していたなら連合赤軍化に向かったかどうか分からない。
これを革命左派の方からみれば次のように云える。1966年頃、中国で文化大革命が勃発し、中共は日共を「宮本修正主義集団」と罵詈始めた。この経緯で、「銃口から政権が生まれる」という毛沢東思想を信奉する親中共派が生まれた。そのうちの一つに日本共産党(革命左派)神奈川県委員会があり、ここから革命左派が分岐した。同派は、新左翼的街頭闘争からは革命は生まれないことを自明として赤軍派同様の建軍武装路線に向かった。ところが予期した通りには建軍が進まぬまま赤軍派同様に指導的幹部の川島が獄中の身となった。暫定幹部として永田、坂口、寺岡が指導部を構成していた。
この間、両派はそれぞれの武装闘争を競合させていた。この道中で、赤軍派は資金を、革命左派は爆弾を手にしていた。こうした事情から両派提携の動きが出てくる。1970年末頃、両派は次第に軍事的共闘を模索し始めた。1971(昭和46).4.21日、京浜安保共闘の幹部の坂口弘と永田洋子は、赤軍派の森恒夫に会い、今後の支援・協力を話し合うため上京した。4.21日、両者は会い、赤軍と京浜安保共闘はできるだけ早い時期に一緒になり、「統一赤軍」を作ることで合意した。
1971年7月頃、革命左派の小袖ベース跡地で永田、坂口、寺岡の革命左派と森、坂東の赤軍派の会合が設営され、「赤軍の資金と革命左派の銃を交換し、続いて両者の軍事組織の合同を決定する」ことを最終確認した。
【「統一赤軍→連合赤軍」結成】
1971年7月15日、戦前の日本共産党の創立日に合わせてと思われるが赤軍派と革命左派合同による「統一赤軍」を発足させた。両派には革命左派の「毛沢東式反米愛国一国革命路線」と赤軍派の「トロツキズム的世界同時革命論」という抜き差しならない理論上の相違があったが、「軍人党による軍事武装闘争の貫徹」という点で意思一致させ、日本左派運動史上初の軍事闘争型共同戦線を創出した。発刊された機関紙「銃火」の次のような一文がこのことを如実に語っている。 「われわれはすでに武装した。敵から奪った銃を敵の心臓に撃ち込むことできたえられ、敵から奪った銃を味方の武器とし、団結する軍隊である」。ところが、獄中の赤軍指導者・塩見が両派の革命理論の相違を重視し統一赤軍化の動きに反対し「共闘に止めるよう」指示した。獄中の革命左派指導者・川島も「連合に改めるよう」指示した。これにより「統一赤軍」名は「連合赤軍」と改められた。
*連合赤軍結成の要点は次のことにあったと思われる。これを総合俯瞰的に云えば、日本左派運動史上の急進主義運動の定向進化としていずれ辿り着き生み出された筈の究極の武装革命派の誕生であった。それは1950年の朝鮮動乱前後に日本共産党が武装闘争を呼号して以来の武装軍事闘争を目指す者同志の必然的結合であった。成功する失敗するは別にして何事も似たもの同志が結合するのが世の常であろう。良くも悪しくもこれが連合赤軍が背負った史的地位である。かく位置づけたい。気になることとして、両派提携の背景にこれを誘導した公安筋の策謀の可能性があるように思われることである。これを否定する為には、そもそも両派の橋渡しを誰がしたのか、どちらが呼びかけたのかという肝腎なところが明らかにされねばなるまい。連合赤軍事件の臭さは実にここから始まっていると考えたい。
【連合赤軍による銀行襲撃闘争】
7月23日、赤軍派と革命左派(京浜安保)の共闘からなる「松浦部隊」の4名が鳥取県米子市の松江相互銀行米子支店に盗難車で乗りつけ、3名が猟銃やナイフを持って店内に押し入って行員を脅し、現金600万円余りを強奪した。24日未明までに全員が逮捕され連合赤軍の仕業であることが判明した。これが連合赤軍結成の証として初の合同闘争であり銀行襲撃闘争から始まったことになる。
*資金闘争は必要であり様々な営為が是認されるとしても、銀行襲撃を正当化し得る感性が安易ではなかろうか。筆者的には、資金調達の方法は他にも幾らでもあろうにわざわざ銀行襲撃を是認する思想が共有できない。第一、銀行襲撃は目新しいものではない。戦前共産党の銀行ギャング事件と同様の仕業であり、今日ではかの事件はスパイМの指揮の下で為されたことが判明している。ということは、暴力的な資金調達闘争のイカガワシサをこそ知るべきであろう。こういうことを思えば安逸過ぎる資金調達ではなかろうか。日本左派運動史に精通していないオボコさがこういうところで露になる。筆者が運動史料の編纂を尊ぶ所以である。これを抑止する党内討議が為されていたのか為されなかったのか明らかにされていない。そういう具申なぞできる余地のない規約下で上意下達され実行されたものと思われる。
【革命左派の同志口封じ殺害】
1971年秋頃から警察の「アパート・ローラー作戦」が展開された。この作戦で都内では20万棟のうち85%が調査され、当時の過激派メンバーは秘密アジトにしていたアパートからの退去を余儀なくされた。赤軍派、革命左派はそれぞれ東京から比較的近い関東北部の山岳地帯にベースを設営し始めた。7月下旬、この情勢下で革命左派の向山茂徳と早岐やす子が消耗し戦線離脱した。永田、坂口、寺岡、吉野らの協議により組織防衛のため殺害が決定され、8.4日、早岐が、8.10日、向山が絞殺されている。
*これをどう評すべきか。革命左派と赤軍が合同を為し遂げた直後の「最初の同志殺人」となっている。この時の動機は、案外と世俗的な「裏切り者を消せ」式意識での「口封じ粛清」でしかなかったのではなかろうか。この時の永田、坂口、寺岡、吉野らの協議内容が十分には明らかにされていないが、何を語り語り得ていないのか、日本左派運動の教訓として切開しておく必要があろう。いずれにせよ、革命左派は早くもこの時点で本来の左派運動なら持ち合わせていなければならない倫理仁義を欠いた凶状持ち、革命目的と云う美名の下に何をやらかすか分からない狂気組織になっていたことを確認せねばならないだろう。
【連合赤軍の合同軍事演習始まる】
1971年秋頃、連合赤軍は、「来るべき革命のための共同の軍事訓練をする」ことで合意し、赤軍派が設営した群馬県山岳の「新倉アジト」に向かった。これに参加したのは最終的に赤軍派9名、革命左派17名の面々であった。赤軍派メンバーは、中央委員の森、坂東、山田。同メンバーの青砥、遠山、行方、植垣、山崎、進藤。革命左派メンバーは、中央委員の永田、坂口、寺岡、吉野。同メンバーの尾崎、小嶋、前田、金子、大槻、杉崎、伊籐、寺村、石田、加藤、加藤 加藤M、山本と妻、中村。12月2−3日、革命左派が赤軍派の設営した榛名山の山岳ベース(新倉ベース)に到着し、連合赤軍の初顔合わせとなった。簡単な合同軍事演習の後、両派は集団で向き合い全体会議の場を持った。各自が次々と革命的共産主義兵士として決意表明した。森が赤軍派、永田が革命左派の代表となり指導部を構成する。
*この時早くも両派の主導権争いが始まっている。互いの革命性を誇示し合うというライバル意識の中、厳しい規律を課し合うことになる。この時の様子を確認すると又も両派が案外と「世俗的な突っ張り合い」を演じている。この情緒が後に同志殺害の悲劇をもたらす下地になったように思われる。
【同志殺人始まる】
12月8日、両派参集のほぼ1週間後、赤軍派の森、山田、革命左派の永田、坂口で指導部会議を行ない、革命的共産主義兵士としての点検運動に向かうことを申し合わせする。これより総括運動が始まる。しかしながら判明することは、共産主義の名の下での幹部押し付けによる下級兵士に対する総括強制でしかなかった。指導部が革命的共産主義兵士になる為の思想改造という抽象的概念を振り回し、これが次第に際限がなくなり「より根底的な総括」を求めて一人歩きし始め、やがて何を基準にしているのか分らなくなり自縄自縛して行った形跡が認められる。
12月20日、主力が新倉ベースから榛名ベースに移動する。榛名アジトは、京浜安保共闘の吉野雅邦が慎重に選び、湖畔の周遊道路から徒歩で20分入った山の斜面を開いて建設したもので、間口7m、奥行き5m、天井高3.5m、建築面積3平米の山小屋であり、台所、堀コタツ、ガラス窓の入った本格的な建物であった。赤軍派がそれまで使用していた無人の植林小屋を占有した新倉アジトとは全く異なる規模であり、森や坂東の赤軍派は京浜安保の気迫に飲まれ、驚嘆した。
自己批判渦中の赤軍派の3名と監視役が残される。参加したのは次のメンバーである。赤軍派は森恒夫、坂東国男、山田孝。京浜安保(革命左派)は永田洋子、坂口弘、吉野雅邦、寺岡恒一、岩田平治、加藤能敬、小嶋和子、尾崎充男。会議は徹夜で続けられ、森は毛沢東が指導した1927.10月の秋収蜂起から、井岡山に至る闘争において紅軍建設の柱とした「三大規律・八項注意」(中国労農紅軍の隊内規律で、大衆の物は針1本、糸1筋、奪ってはならない、言葉づかいは穏やかにする、婦人をからかってはいけないなど)に熱弁を奮った。京浜共闘の永田のほうが、「目が醒める思いで」それを聴いた。
榛名ベースでも下級兵士に対する総括が続き、様々の理由、難癖を付けての正座、捕縛、柱への括り付け、極寒の屋外への放置が始まる。次第に総括が査問化し、それと同時に凶暴化し始める。些細なことまでが罪状に挙げられ、狂気と恐怖が支配する中、やがて集団殴打総括、格闘へと定向進化して行った。
*驚くべきは、革命的共産主義兵士としての自己改造に向けて、殴打する側もされる側も「試練」を受け入れていた様子である。集団心理がかく為せたものと思われるが、誰かが「違う。こんな総括運動は邪道」とする勇気ある批判を声高にできなかったのだろうか。身命賭してかく主張することは、狂気と恐怖の支配する下では不可能だったのだろうか。しかし、そういう状況下での抗議の声を挙げることこそ革命的精神の始発なのではなかろうかと思うが如何だろうか。
12月30日、尾崎が最初の犠牲者なった。兵士達は、森の次のような口舌に丸め込まれてしまった。「尾崎はわれわれが殺したのではない。共産主義化の闘いの高次な矛盾を総括できなかった敗北死であり、政治的死である。敗北主義を総括しきれず共産主義化しようとしなかった為に精神が敗北し、肉体的な敗北へと繋がっていったのである。本気で革命戦士になろうとすれば死ぬはずがない。革命戦士の敗北は死を意味している」。メンバー全員がこれを受け、「尾崎が死にました。引き続き命をかけて共産主義化を勝ち取っていかなければならない。加藤、小嶋の二人を敗北死させないように必ず総括させよう」という呼びかけになり、「異議なし!」と答えている。以降、参集時のメンバー29名の内12名を同志殺害すると云う事件を引き起こす凄惨な総括へと踏み込んでいく。
【森−永田主導による新党の動き】
この間、連合赤軍は、森−永田新党とも云うべき動きを見せている。同志総括殺人は、これと平行して行われていった。気づくことは、赤軍派、革命左派の古株連中にして森−永田指導部に対する批判派が巧妙に査問にかけられ粛清されていることである。この流れを確認しておく。
12月18日、上赤塚交番事件1周年記念のこの日、警視庁警務部長の土田国保宅に届けられた小包が爆発し、夫人が即死、子供が重傷を負う。(この事件はロッキード事件で検察の暴走に苦虫を噛みしめていた警察のエースであった土田国保氏を標的にしている点で非常に臭いものがあるが、ここでは触れない) 同日午後6時、革命左派の大衆組織・京浜安保共闘と赤軍派合同による「12.18柴野春彦虐殺弾劾1周年追悼集会」が板橋区民会館で開かれ約7千名を集めている。この集会は盛況であったが、舞台裏では山岳指導部が非合法的闘争を闘い抜いているとする「高み」を優越的に誇示して大会をかき回している。
12月20日、榛名ベースに森と板東が入り、新倉ベースでの合意に基づく新党の協議が始まる。徹夜討議で毛沢東式「三大規律、八項注意」を確認し、次のように申し合わせる。「赤軍派と革命左派が別々に共産主義化を勝ち取るというのではなく、銃による殲滅戦を掲げた連合赤軍の地平で共に勝ち取る。その為に各人の根底的な総括が必要であり、この闘いは解党解軍主義即ち分派との闘争をやり抜くなかで可能となる。この共産主義化の闘いを推進して行く」。12月21日、指導部会議が開かれ、永田が森の提起する路線に歩み寄った形で新党結成が決まり、連合赤軍が正式結成される。リーダーに森恒夫が選出される。
12月23日、古参の山田が榛名ベースに入山する。指導部会議が開かれ、赤軍派の森、山田、坂東と革命左派の永田、坂口、寺岡、吉野の7人体制指導部が構築される。最高指導者となった森は次のように指針する。「赤軍派の目的意識的な『上からの党建設』に対して、革命左派は自然発生的な『下からの党建設』に止まっている。共産主義化の闘いは目的意識的なものに発展させられねばならない」。これが「党の為の闘い」の起点となる。
12月24日、指導部会議が開かれ、森がまず革命左派の最高指導者・川島豪批判を開始する。革命左派は沈黙を余儀なくされる。次に、森の出自である赤軍派の批判に向かい、獄中の赤軍派幹部・八木健彦を解党解軍主義であるとして批判を開始する。その後、獄中や海外組の赤軍派の有力メンバーを一人ずつ採り挙げ品評する。この時、批判を免れたのは塩見、田宮の二名きりであった。12月27日、指導者会議で、森が永田らに「川島との訣別−分派闘争」を再び迫る。永田は分派に同意し、森が新党を宣言する。この動きと平行して総括殺人が次々と行われる。
1972年2月12日未明の山田の死亡が最後となる。この間、幾人かが脱走している。脱走者が誰、何人なのか、彼らが警察へ通報したのか、この辺りの情報が開示されていない。警察の包囲が狭まる中、2月16日、奥沢、杉崎の2名が逮捕される。2月17日、森と永田が逮捕される。2月19日、植垣、青砥、寺林、伊藤の4名が逮捕される。*留意すべきは、この時逮捕された連中の革命戦士としては何ともお粗末な逮捕劇ぶりである。それまで散々下級兵士の些細な問題を採り上げ問題視し、最終的に総括死させたことを思えば腑に落ちない。さほど問題にされていないが、筆者にはこういうところが気にかかる。
【あさま山荘事件】
2月19日、警察の包囲網から逃れた坂口(25歳、東京水産大学中退/京浜安保共闘)、坂東(25歳、京大卒/赤軍派)、吉野(23歳、横浜国立大中退/京浜安保共闘)、加藤(19歳、東海高校卒/京浜安保共闘)、加藤の弟(16歳、高校1年)の5名が河合楽器保養所「あさま山荘」に駆け込み、管理人を人質にしながら十日間に亘って篭城する。この間、警察は、肉親を呼んでの説得工作を続けるが功が奏さなかった。
2月28日、突撃指令が下される。特製鉄球がクレーン車から繰り出され建物が破壊され、放水、催涙弾が打ち込まれた後、機動隊が突入した。この時の様子はテレビで生中継され、その日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、人質救出の瞬間は民放、NHKを合わせて視聴率90%弱を記録した。銃撃戦となり、警察官2名、民間人1名が死亡、16名の重軽傷者を巻き添えにしながら戦士5名全員が逮捕される。この一連の経過を「あさま山荘事件」と云う。
*あさま山荘銃撃戦での「勇武ぶり」に対して「連合赤軍の銃撃戦断固支持」を打ち出した党派もあるが、史上の人民大衆的抵抗史に照らせば称賛されるには及ばないのではなかろうか。人質を殺めなかったこと、果敢に戦闘し尽したことについては認められるべきであろうが、例えば明治維新期の「士族の反乱」、中でも「西南の役」に於ける西郷軍の美学には到底及ばないと考える。自由民権運動左派の加波山立てこもり闘争に比しても及ばないと考える。いかほどか「甘えた抵抗ぶり」の臭いを嗅ぐのは筆者だけだろうか。
こう問いたいが、日本左派運動の通説は、明治維新期の士族の反乱の位置づけをして単に封建勢力の抵抗的なものとして評する能しか持っていない。筆者は、ネオシオニズムの傀儡と化しつつある明治維新政府に抵抗した幕末維新以来の永続革命派の最後にして最大の内戦と捉えており、こういう筆者の観点と日本左派運動の通説とが隔絶し過ぎており議論にならない。これが哀しい現実である。自由民権運動左派の加波山事件に対する知識もない。この認識を誰か共認せんか。
【連合赤軍のリンチ事件が発覚する】
3月7日、逮捕された兵士達の供述から同志殺人リンチ事件が発覚する。妙義山中で1遺体発掘から始まり、3月13日までに12遺体、総計14遺体が確認される。マスコミ各社が日本左派運動内の猟奇事件として連日報道し、日本左派運動各派はたまげるしかできなかった。それはそうだろう。例示した「西南の役」、加波山事件でかようなお粗末な同志討ちは記録されていない。
【同志殺人事件露見と最高指導者・森の獄中自殺】
1973年1月1日、森恒夫(当時27歳)が東京拘置所内で首吊り自殺した(享年29歳)。同じ拘置所の永田は、この知らせを聞いて、「森さんは卑怯だ。自分だけ死んで!」と叫んだと云う。森が最後に遺したメモは次の通りである。「御遺族のみなさん、十二名の同志はぼくのブルジョア的反マルクス的専制と戦い、階級性、革命性を守ろうとした革命的同志であった。責任はひとえにぼくにある。同志のみなさん、常に心から励まして下さってありがとう。お元気で。父上、ぼくはあなたの強い意志を学びとるべきだった。強い意志のない正義感は薄っぺらなものとなり、変質したのである。お元気で。愛する人へ、希望をもって生きて下さい。さようなら。荷物は坂東君に 一九七三年一月一日 森恒夫」。
永田は、同志殺人14名に森と上赤塚交番襲撃で射殺された柴野春彦を加えた手記を認(したた)め、1982年と83年にかけて「十六の墓標」(彩流社)と題して上下二冊を出版する。永田は、森の自殺時について次のように記している。「森氏の自殺は、七三年一月一日のことである。このことを知った時、私は、新党で同志の死に直面した時のあの重苦しい深いところにつき落とされるような思いがよみがえってきた。押しつぶされてしまいそうな重圧感が一段と大きなものになった。それは、何故森氏が自殺したかを十分に理解させてくれるものであった。同時に、森氏が死刑攻撃をはじめあらゆる非難、中傷に耐えながら、連赤問題を総括し自己批判しぬいていくという困難な闘いから逃げたと思い、卑怯だと思わないわけにはいかなかった。私はもはや死ぬことはできない、逃げることはできないことを痛感した」。
【赤軍派元議長塩見孝也氏が刑期満了で出所】
1989年12月27日、赤軍派元議長・塩見孝也氏が刑期満了で出所した。
【永田
2011年2月5日、連合赤軍事件の主犯として死刑が確定していた元最高幹部の永田
【諸氏諸党派の連合赤軍総括絵図考】
以上が連合赤軍史である。このような経緯を持つ連合赤軍事件をどう総括すべきか。残念ながら、日本左派運動は、今日まで総括に値する総括を持ちえていない。めぼしいところで、塩見議長総括がある程度であろう。これについて、筆者は、ネット上で詳論「塩見議長総括考1」、「塩見議長総括考2」、「塩見議長総括考3」、筆者見解は「れんだいこの塩見総括論評」に記している。
他に第4インターの1972年3月27日付け 「連合赤軍とわれわれの立場 テロリズムに反対し、人民による自衛隊兵士の獲得にむかって前進しよう」がある。が、筆者の見立てるところ、「われわれは、諸君の世界とは、きっぱりと無縁である」と外在的批判で事足りている。共産主義者同盟赤軍派中央委員会の「連合赤軍事件に関する特別報告(1973年)」がある。が、筆者の見立てるところ、内部的総括の割には事件の根本問題に対して全く切開できていない。
坂口弘・氏の「続あさま山荘1972」(彩流社、1995年初版)は、1972年3月の岡田春夫社会党代議士、三里塚闘争訪中団(戸村団長)の訪中の際の、周首相との会談に於ける周首相の次のような発言を記している。周首相は、連合赤軍事件を念頭に置き、日本の新左翼運動について次のように評している。概要「日本の新左翼は立派ではあるが、情勢の中で敵を区別して、どういう政策をとるのか見定め、広範な人民を率いるという点で、まだ極めて不十分なものがあると云えよう。昨年は新左翼に属する人たちとも北京で話し合ったが、彼らには左に片寄りすぎた面があり、革命的な人が新左翼を指導する必要があると感じた。青年は何度も転ぶ。転んだら起き上がるべきで、挫折するべきではない」(1972年3月30日付け夕刊朝日新聞その他参照)。
*これこそが、中国建国革命を成功裡に導いた大人(たいじん)の大局観ではなかろうか。ちなみに、よど号赤軍派の指導者田宮氏は「わが思想の革命」の中で次のように記している。「我々が過去の誤りに対する総括を行い、真理への新しい道を模索し始めたとき、もっとも悲しむべき報せが我々に伝えられた。それはかっての同志たちが自分の仲間を殺したという、実に胸痛い悲報であった。誰よりも貴重な同志を自らが殺してしまう。このようなことがこの世にあって良いのであろうか。天人ともに許すべからざる行為である。我々は、それを聞いたとき、限りない悲しみとともに、その殺害を行った人々に対し激しい怒りを覚え、その憤りを押さえることができなかった。しかし、冷静になって考えてみると、その行為は絶対に許されないとしても、それを他者のこととして、彼らを非難するだけで済まされるであろうか、と思わざるを得なくなった。彼らの許すべからざる行為は、実に日本にいた当時のわれわれの思想見解と路線の誤りを最も端的に生々しく再現しているものではないだろうか。我々は彼らを非難するよりも、自己自身を何百回となく振り返ってみなければならない。我々は自己に対する激しい総括をさらに深めていくようになった」。
荒岱介編著「ブントの連赤問題総括」(実践社、1995.4.10日初版)が、事件を第二次ブント圏内の事件として受け止め、戦旗派、赤軍派、連合赤軍それぞれの立場からの論争形式で総括を試みている。最近、蔵田氏計成氏が2008年8月号「情況」に「検証/連合赤軍総括から引き出す教訓と歴史責任」を発表した。これに対し、塩見氏が2008年9月9日付け「蔵田計成氏に答える」でネット上で反論し物議を醸している。詳細は別稿「蔵田対塩見論争考」で採り上げておく。
【連合赤軍事件考】
これらを踏まえながら、筆者の総括を提起しておく。詳論は「れんだいこの連合赤軍総括」に記しており、これを踏まえ概述する。
一つは、規約論である。筆者は、連合赤軍事件問題の本質は要するに規約問題であったという観点を打ち立てている。連合赤軍の含む規律はサイト「連合赤軍服務規律」で確認している。現在、各被告の手記が出されているが不思議なことに、この規約を誰がどういう権限でいつの時点で作成したものか不問にされている。筆者は、この服務規律の野蛮性こそが後の同志総括リンチ致死事件の主犯であり、連合赤軍事件の全ての秘密がここに宿されているように思っている。この闇を明かすべきである。
これを確認しておくと次のような規律になっている。これにコメントしておく。「第2章 六大原則の4」で、「自由な討論の保障と行動は完全に指導によること」とある。言語明瞭意味不明な規定である。「自由な討論の保障」を詠いながら「指導」と云う文言で否定していることになる。「同6」で、「党決定、規約に違反した場合、最高、死に到る処罰を受ける」とある。「死に到る処罰」を掲げる必要がどこにあろうか。「第8章 指揮・行動の1」で、「行動は指揮に従う。次の原則を守る。個人は組織に従い、少数は多数に従い、下級は上級に従い、全党は中央に従う」とある。要するに党中央の絶対権限化規定でしかない。「同5」で、「会議での発言は、簡単明瞭に行い、無意味な問題提起や、心情の吐露『危惧の表明』等は慎しむ」とある。「無意味な問題提起」の「無意味」さを誰が認定するのだろう。「危惧の表明」をなぜ慎まねばならないのだろう。「危惧の表明」が許されないなら党中央のイエスマンにしかなれないことになる。
「同6」で、「一旦決定されたことは例外を除いて、くりかえして討論せず、指揮の下実行される」とある。「討論の繰り返し」がなぜ規制されるのだろう。討論は左派運動の生命線であり、喧々諤々の議論を経て納得してからの行動が威力を増すのは既に何度も確かめられたことであろうに。「同7」で、「指揮系列を外れた行動や陰口は処罰の対象となる」とある。これでは「もの云えば唇寒し」と云うことになろう。「第5節 処罰の5」で、「処罰は、三段階ある。イ、自己点検・自己総括 ロ、権利停止 ハ、除名。除名においては、死、党外放逐がある。他は格下げ処分を行う。イ、ロにおいては軍内教育、除隊処分、他機関での教育を行う」とある。既に指摘したが「死刑」を認めるような規定は左派運動には無縁のものであろう。「同6」で、「処罰は、事件の起こり次第、速やかに規律に照らして行う。上級の政治指ドや路線に責任を転稼し曖昧にすることは厳禁。それ自身も処罰の対象」とある。「上級の政治指導や路線」の責任を問うことが許されないとすると、「上級の政治指導や路線」を誰が判定することになるのだろうか。
*これは党員金縛り規約である。得るべき反省的教訓は、この規約の反動性を知ることではなかろうか。付言すれば、こういう規定はネオシオニズム系秘密結社特有の組織論である。いわゆる陰謀団体規約である。一体、かような規約を誰が持ち込んだのだろうか、これをはっきりせねばなるまい。筆者に云わせれば思想的に見て典型的なロゴス型規約であり、カオス的構造が閉ざされている。この不都合により、連合赤軍事件では実際に森−永田指導部独裁が容易に生みだされ、指導部による思想、観念、理論、情緒、衝動までもの「絶対的同一化」が要請され、遂に同志殺人へと導かれたのではあるまいか。本来、党中央権限にはかような独裁までは認められないものと制約すべきところ、いかにも安逸に容認し、これを規約が補完し助長したと見立てる。一般に、何でも割り切れるとするロゴスは同質の統一を求め、割り切れないとするカオスは共認を求めるという習性がある。その差には天地ほどの隔たりがある。ロゴス型規約の生硬な適用は僅かの差さえ問題視することにより際限のない異端を生み、これに強権棒が加わればやがて党内を粛清の嵐に誘うことになる。本来もっと大らかにカオス型規約にしておけば発生しない独裁ではなかったか。
次は、民主集中制論である。ロゴス型規約の本質は民主集中制に帰着する。民主集中制と云う名目での党中央絶対拝跪制こそ連合赤軍事件の真因なのではなかろうか。筆者は、そもそもの左派信条原理に於いて「自由、自主、自律的規律」に基く規約を基本にした「党中央権限制と党機関民主主義的権限制とのチェック・アンド・バランス制」にしておきさえすれば未然に防げた筈であり事件は起こらなかった、起きても道を大きく踏み誤ることなく解決したと思っている。
「革命兵士」の個々の心情は紛れもなく真紅のものであったと思う。この元手さえあれば、思想、観念、理論、情緒、衝動の「微妙な差」は認められるべきであり、この「微妙な差」を「絶対的同一化」させられる必要はない。寧ろ認め合い、前提として受け入れた上での同志的結合を生みだすべきなのではなかろうか。このことを弁えず、且つ規約問題の重要性を認識せず、幹部にひたすら恭順することを良しとした下部の盲従性、これに依拠した幹部の独裁性が事件を誘発、定向進化させたのではなかろうか。これは子供段階の組織論でしかない。これが筆者の感慨である。下級兵士の生殺与奪がいとも簡単に弄ばれている経緯につき、そう思う。
これを指摘するのは恐らく筆者が初見であるように思う。日本左派運動各派は、事件の残虐性を饒舌するのに比して、真に解明を要するこの問題を指摘していない。なぜこのようにことになるのかと云うと、日本左派運動各派の規約が本質的に連合赤軍と何ら変わらない「民主集中制と云う名目での党中央絶対拝跪制」に依拠しているからではあるまいか。驚くことに、この点では、日共も新左翼も変わらない。ということは、日本左派運動各派が連合赤軍事件のような同志殺人を起こさないのは、何のことはない単なるアリバイ的反対運動に堕しており、あるいは穏和系運動故の無責任さに負っているだけに過ぎないのではなかろうか。何らかのギリギリの決断を迫られる局面に於いては容易に「党中央の云うことはその通り」式の締め付けが発動し、党員は口先三寸士に成り下がる。党内反対派が頑強に抵抗した場合、党内が血で血を争う劇場型政争に追い込まれる可能性があると考える。そういう意味で、連合赤軍事件は規約問題を極限化させており、我々に対して、「民主集中制と云う名目での党中央絶対拝跪制規約からの出藍」を要請している、つまり組織論革命を促しているのではなかろうかと受け止めたいと思う。
次は、指導者論である。指導者論に関わる組織論も重要と考える。これも、そう難しく考える必要はない。指導者の質によって、人材の登用のされ方、指針、予算執行が変わり、組織は活性化したり沈滞化すると云う一般的な話しになる。要するに、指導者及び軍師の質が全体を牽引すると云う当り前の法理を確認すれば良い。それほど上に立つ者の資質が大事であり、よほど選出を誤まらないようにせねばならないということになる。次善策として集団指導制が講ぜられねばならないということにもなる。あるいは党中央選出に当たっては公平民主的な党内選挙が不可欠ということにもなる。
次は、共同戦線論である。統一戦線論、共同戦線論のいずれを戦略戦術とすべきかと云う運動論である。日本左派運動は、穏和系から急進系まで一様に統一戦線論を弄んでいる。その結果が、今日のテイタラクであることを思えばお笑いでしかない。元々共同戦線論で終始一貫すれば良いだけの話である。それをなぜわざわざ統一戦線論に拘るのか、これを訝るべきであろう。仮にマルクス主義が共同戦線論を排し統一戦線論にシフトしているとすれば、そういうマルクス主義の限界から出藍せねばならないであろう。筆者の知る限りマルクス、エンゲルス共著の「共産主義者の宣言」では統一戦線論的指針は示されていない。むしろ常に共同戦線的運動を目指せと戒めている。してみれば、マルクス主義内に於ける統一戦線的運動論はどこから忍びこんだのだろうか。
最後に総論しておく。ざっと気づくことは以上である。せめてこれらのことを導き出すのが、連合赤軍事件に対する総括となるべきであろう。実際になしているのは、俺達は違う論、責任は革命左派に有る論、責任は赤軍派にある論、第二次ブント責任論、これを第一次ブントにまで遡るブント責任論、過激運動自体のそもそも原因論、指導者無能力論等々であり、いずれも本質的な解明且つ実践的総括には至っていないと考える。
我々が為さねばならないことは、連合赤軍史の軌跡の全肯定、全否定、責任転嫁論を排し、彼らの悲劇、その悲劇が伝えるメッセージを読み取るべきではなかろうか。そもそも革命的精神及び熱情で寄り集った者を如何に育み、世代に繋ぐ運動へと発展せしめられるよう如何に闘うのか、命を燃焼せしめるのかを問うことではなかろうか。肝腎なこととして、これを逆に規制するものを疑うべきであろう。
その為に徒に真理論に耽ることなく、むしろ党内異論、異端を常態とさせ、その中で組織的統制はどの加減で肯定しどの加減で否定するのかと云う見極めと再犯防止の工夫手立てを講ずることではなかろうか。こういう実践的問いかけからのアプローチでなくては意味がなかろう。日本左派運動は残念ながら今も「かく問う」ところまでさえ至っていない。それは子供段階であり大人に成長していないことを意味する。繰り返すが穏和系も急進系も同じである。どの党派も抜け出ていない。そういう事情であるから、筆者の試論に対する喧々諤々を期待したい。以上、議論を投げかけておくことにする。