【考察4、日本赤軍考概略】

 (序論)

 赤軍関連として連合赤軍問題、よど号赤軍問題について検証したが、ここで日本赤軍問題に言及しておかねばならない。ここでは、日本赤軍運動の功罪面と重信メッセージについて概略考察する。詳論はサイト「日本赤軍考」に記す。
 (gakuseiundo/dainijibundco/nihonsekigunco/nihonsekigunco.htm)

 
【パレスチナへの旅立ち】

 1971年2月、赤軍派女性幹部の重信房子(明治大)、元京都パルチザンの奥平剛士(26歳、京大工学部)が偽装結婚してパレスチナへ赴いた。これが日本赤軍史の始まりとなる。共産主義者同盟赤軍派の「国際根拠地論」に基づき海外に革命の根拠地を求めて脱出したものであった。よど号事件グループ、連合赤軍グループと異なる赤軍派のもう一つの「青い鳥運動」であった。 

 パレスチナでは、1948年、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の後押しによりイスラエルが建国され、以来アラブ対ユダヤの抗争が続いていた。劣勢のアラブの民は生まれ育った土地と家から追われ周辺諸国への難民として生きることを余儀なくされていた。イスラエルが占領地を拡大し続ける他方で、パレスチナ人は国際社会から孤立させられていた。その中で果敢な抵抗闘争が繰り広げられていた。この状況の只中に重信と奥平が辿り着いたことになる。中東パレスチナの地は、想像を絶する現代世界の矛盾の集中地域であったが、そのことを知る由もない旅立ちであったと思われる。


 同10月、安田安之(24歳、京大工学部)、山田修、檜森孝雄がベイルート入りし合流した。彼らはレバノンを根拠地として、アラブ赤軍叉は赤軍派アラブ委員会と称し、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と共闘し、その支援庇護を受け活動を始めた。やがて、マルクス主義の武装路線セクトとしてパレスチナゲリラと共同し又は単独でテロ活動を世界各国で展開していくことになった。

 【テルアビブ空港乱射事件(リッダ闘争)】

 1972年5月8日、アラブ・ゲリラがサベナ航空機をハイジャックし、イスラエルのテルアビブのロッド空港に着陸し、逮捕されている多数の同志の釈放を要求した。イスラエル政府は、強行手段によりゲリラを射殺した。PFLPは報復作戦を計画し、これに赤軍派が加わることになる。

 同5月30日、奥平剛士(バーシム奥平)、安田安之(サラーハ安田)、岡本公三(アハマッド岡本)の3名がイスラエル・テルアビブのロッド国際空港(現在のベン・グリオン国際空港)の旅客ターミナルを銃と手榴弾で攻撃し、結果的に民間人ら100名以上が殺傷(死者24名)された。奥平と安田は自決し、岡本が逮捕された。

 その岡本証言よると、無差別射撃事件として報道されたが真相は違うと云う。彼ら自身は警備兵に発砲したのであり、メンバーの一人である安田が投げた手榴弾は壁にあたって遠くにいかず、他の一般客に被害が出ないよう体を覆い被せて亡くなったのだと証言している。だとすれば、民間人ら100名以上の殺傷(死者24名)は何処から発生したものだろうか。真相は未だに不明である。なお、この時点では日本赤軍とは名乗っておらず、日本赤軍の前史に属する。この事件により、赤軍派はPFLP(パレスチナ解放人民戦線)に仲間として信任され、一躍注目を浴びることになった。

 2001年12月15日の「連帯」結成委員会「連帯結党宣言」は、リッダ闘争を次のように総括している。
 「1972年5月30日、パレスチナ抵抗組織と日本人の3戦士が命をかけた連帯の証として、決死作戦のリッダ闘争が戦い抜かれました。その闘いは、日本では単なるテロ行為としてしか伝えられませんでした。しかし、抑圧と虐殺の最中にあった、パレスチナ解放闘争の正義と祖国を希求するアラブ・パレスチナの人々には新たな息吹を与えました。パレスチナの人々にとっては、闘えばイスラエルに勝てるのだと言う確信が、遠い極東アジアの地から来た若者が命を投げ出して共に戦ったことへの連帯感と共に沸き立ちました。それ以降、日本赤軍とパレスチナ諸勢力との間の強い絆が育てられ、1970年代には数々の共同闘争が実現しました。リッダ闘争は、同時に、連赤の悲惨な敗北に打ちのめされたかに見える日本の革命家たちへの激励のメッセージでもありました」。

 【攻勢局面、ハイジャック闘争により同志奪還に成功する】

 アラブ赤軍派は、リッダ闘争を皮切りに「1973.7.20ドバイ事件」、「1974.1.31シンガポール・クウェート事件」、「1974.9.13ハーグ事件」と立て続けにハイジャック闘争に勝利する。1974年、連合赤軍兵士追悼人民集会で日本赤軍を正式名称とする旨声明した。以降、パレスチナ解放人民戦線などパレスチナの極左過激派ゲリラと連携して諸事件を遂行していくことになる。1975年3月、スウェーデンのストックホルムのレバノン大使館付近で、日本赤軍の西川純、戸平和夫が逮捕される。日高敏彦は逃走した。

 「1975.8.4クアラルンプール事件」 

 1975年8月、日本赤軍戦士5名(内3名は和光晴生、奥平純三、日高敏彦と推認)が、マレーシアのクアラルンプール米領事館とスウェーデン大使館を占拠し、大使館員を人質にとり、日本で拘留中の西川純、戸平和夫、坂東国男、松田久、松浦順一(以上赤軍派)、坂口弘(京浜安保共闘)、佐々木則夫(東アジア反日武装戦線)の釈放を要求した。日本政府は要求に応じ、超法規的措置として、出国を拒否した松浦、坂口を除いた5名を日航特別機でクアラルンプールに送った。部隊は釈放者と合流した後、リビア・トリポリ空港に向かい、リビア政府に投降した。多くの同志を釈放合流させた「クアラルンプール事件」は後の「ダッカ日航機ハイジャック事件」と共に日本赤軍派の絶頂期の闘争となった。 

 「日高敏彦が無念の死を遂げる」

 1976年9月、日高敏彦が、シリアからヨルダンに偽造旅券で入国しようとして逮捕され、後に拘置所内で自殺した。同10月、ヨルダン当局に拘束されていた奥平純三と遺体となった日高敏彦が強制送還された。


 「1977.5.30リッダ闘争5周年声明」 

 1977年5月、日本赤軍は、リッダ闘争五周年にあたって、自らの実践の総括として、日本に向けて「団結を求めて」というアピールを発し、これがその後の日本赤軍の立脚点になる。次のように述べている。概要「私たちは、日本の革命運動が敵との非妥協な思想性によって対峙し得ていない観念論議であることに反発し、自らは行動によって非妥協性を表現することを自己目的化する狭い世界観に立脚していた。これを捉え返し、敗北や弱さをありのままに伝え、ありのままの克服をこそ共有していくことがもっとも大切なことと実感した。自己批判と改造を通して世界をより創造的に実現することができると信じ、あらゆる機会にあらゆる人々に団結を求める」。

 
「1977.9.28ダッカ日航機ハイジャック事件」

 1977年9月、丸岡修、和光、佐々木則夫、戸平、坂東と思われる5名が、インドボンベイ空港を離陸直後の日本航空DC-8型機をハイジャックし、バングラデシュのダッカ国際空港に強制着陸させた。乗員・乗客151人の人質と交換に、日本で在監・拘留中の奥平純三(日本赤軍)、城崎勉(赤軍派)、大道寺あや子、浴田由紀子(東アジア反日武装戦線)、泉水博、仁平映(刑事犯)ら9名と現金600万ドル(当時約16億円)を要求し、日本政府の福田首相は、「人命は地球よりも重い」と述べ、クアラルンプール事件と同じくこれに応じ、超法規的措置として出国を拒否した3名を除いた拘束中のメンバーら6名(奥平純三、大道寺あや子、浴田由紀子、城崎勉、泉水博、仁平映)を解放し、600万ドルの身代金を支払った。クアラルンプール米大使館占拠事件とダッカ日航機ハイジャック事件を通じて、日本国内に拘置中のメンバーら計11名を超法規的措置で釈放させることに成功した。釈放されたメンバーはダッカ国際空港で日本赤軍と合流し、シリアのダマスカス空港で給油した後、アルジェリアのダニエル空港で人質を解放した後、アルジェリア政府に投降した。日本政府がSATを設置する要因となった事件となる。 

 「1979.5.30リッダ7周年声明」

 1979年5月、「5.30リッダ7周年によせて」声明を出し、パレスチナ解放闘争一辺倒の路線から日本革命闘争主体への転換を表明していた路線を再度転換し、パレスチナ革命と日本革命を結合させる国際主義路線を打ち出した。

 【イスラエルによるレバノン攻撃で撤退、本拠を失う】

 1982年6月、イスラエルによるレバノン攻撃でPLOが掃討された。日本赤軍は本拠を失い、PFLPなどと共にシリア、イラク、南イエメンなどへの撤退を余儀なくされた。パレスチナの抵抗勢力や共に戦ってきた世界各地の革命勢力にとって困難な時代が始まった。日本赤軍は以降、イスラエル軍の圧倒的優勢下でのパレスチナ解放戦線の分裂に翻弄されつつ、かってのような華々しい攻勢的な闘争を展開し得ずジリジリと戦線後退し始める。

 ここで考えなければならないことは、日本赤軍的ゲリラ闘争が如何にも漫画的なものでしかなく、イスラエルの無慈悲な徹底殺戮戦争の前では何の衝立(ついたて)にもならなかった現実の凄味についてである。日本赤軍派はこれについてどう総括しているのだろうか。このことに関係してかどうか、日本赤軍はこの頃から方針転換を図っている。アラブの地で得た人民勝利の確信を日本へ返していくための思想的理論的な作業を、特に日本共産主義運動の総括から人民の生活原理に依拠する党の原理、人民が主体となる革命における党の役割などを再考し始めている。その中で、次の闘争に取り組んでいる。「1985.5月、捕虜交換により岡本公三の釈放」、「1986.5.14ジャカルタ事件」、「1986.11.15三井物産支店長誘拐事件」、「1987.6.9ローマ事件」、「1987.11.21日、丸山修が成田空港で逮捕される」、「1988.4月ナポリ事件」、「1988.7月、マドリード米大使館手製ロケット砲事件」。1988年、泉水が逮捕される。

 【湾岸戦争勃発。日本赤軍が人民革命党と改称する】

 1991年、イラクがレバノン併合を仕掛け、待ち構えていたかのようにして時に国連軍が発動し湾岸戦争が発生する。これにより、イラクのフセイン政権は大打撃を受ける。日本赤軍はパレスチナの激動に漂う浮き舟となり、かっての戦闘力を失った。この過程で、日本革命に対する指針を練り直し、経済、社会のあらゆる面で人民がその力を行使できるようにする民主主義の徹底を水路とする日本の変革の道をまとめ新綱領草案とした。これに基づいて日本の革命を担う主体をつくる闘いを開始する。人民革命党と名称を定めた。  

 1993年11月、「平和の実現」の希望として取り結ばれた「オスロ合意」が、パレスチナに多くの犠牲を強いながらも、少なくとも和平を目指して締結された。しかし、イスラエルと米国はそれすらも反故にして入植地を拡大し、入植者保護の名目で自治区内の人々に対して武器を向けることを「反テロ」として正当化する。


 【日本赤軍メンバーが次々と逮捕され始め、後退局面に入る】

 1995年頃より日本赤軍メンバーが次々と逮捕され始め明らかに後退局面に入った。これを確認する。1995年3月、ルーマニアに潜伏していた浴田由紀子が逮捕される。1995年6月、ペルーに潜伏していた吉村和江が逮捕される。1996年9月、城崎勉がネパールで逮捕される。1997年2月、日本赤軍のメンバー5名(和光晴生、足立正生、山本萬里子、戸平和夫、岡本公三)がレバノンで逮捕される。1997年11月、西川純がボリビアで逮捕される。

 1998年6月、レバノン法規院(最高裁に相当)で、上告中の5名に対し、原審支持決定が下された。岡本は禁固3年となった。1980年代後半から2000年代にかけて、丸岡修、和光晴生等の中心メンバーが相次いで逮捕され、組織は壊滅状態に追い込まれた。

 【NATOによるユーゴスラビア空爆】

 1999年、3.24日、NATOによるユーゴスラビア空爆が開始された。NATOによるセルビア空爆は、6月11日まで続き、最大で1千機の航空機が主にイタリアの基地から作戦に参加しアドリア海などに展開された。巡航ミサイル・トマホークも大規模に用いられ、航空機や戦艦、潜水艦などから発射された。NATOの全ての加盟国が作戦に一定の関与をした。この背景には、 ユーゴスラビアの多民族多宗教による複合国家問題があった。セルビア、モンテネグロ、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアの6自治州から構成され、セルビアからの独立を求めるコソボとヴォイヴォディナの動きが加わっていた。民族的にはセルビア人、マケドニア人、アルバニア人の対立が続いていた。これに宗教が絡んでいた。第二次世界大戦後、社会主義体制を敷いたチトー政権の下では内向していたが、1980年5月、チトーの死によってコソボ内紛が激化し始め、ミロシェヴィッチ派とこれに対立する諸グループが戦争状態に突入し、ユーゴスラビア国そのものを解体分離して行くことになった。ミロシェヴィッチ派にロシアが控え、分離独立派を支援するNATO国際軍が戦争を買って出た格好となった。

 *ここでこの戦争を取上げるのは、国際紛争のこの動きに対して日本赤軍派的闘争が全く無力であったことを確認したい為である。結局、日本赤軍的理論と活動そのものが、パレスチナ運動あるいは現代世界の動きから浮いたものでしかなかったということになるのではなかろうか。

 【赤軍派メンバーが送還帰国させられる。岡本がレバノンの刑務所を出所する】

 2000年3月、レバノンで拘束された赤軍派メンバーが送還帰国させられる。3月17日、岡本がレバノンに政治亡命した。レバノン政府は、5名のうち岡本だけに政治亡命を認めた。3月21日、岡本が、レバノンの刑務所を出所した。

 【最高指導者重信が日本潜伏中逮捕される】

 2000年11月、最高指導者の重信房子が、警視庁公安部によって潜伏していた大阪府高槻市で旅券法違反容疑で逮捕される。この時、膨大な文書が押収され、後に支援者数名が犯人隠匿容疑で逮捕されることになった。これにより同組織の活動はほぼ壊滅したとされる。 

 
【日本赤軍解散】

 2001年4月、重信房子は、都内で開かれた支持者集会に、獄中から日本赤軍としての解散宣言を行なった。同7月、丸岡修が、「『日本赤軍』の解散について」を発表した。最高幹部・重信が逮捕された事態を踏まえ、日本赤軍の武闘路線の最終的破産を見据え、「重信同志が犯した誤りは、そのまま私たち旧日本赤軍の誤りである」との立場から「最高指導者・重信の日本赤軍解散表明」を追認した。

 【米国で同時多発テロ事件が勃発】

 2001年9月11日、米国で同時多発テロ事件が勃発した。アフガニスタンを拠点とするタリバン派の犯行とされたが、真実は杳として明らかにされていない。大東亜戦争開戦時の日本軍による真珠湾攻撃の謎に似て、数々の不可解な事実が指摘されている。ネットサイト上では、パルセルナより愛をこめて氏の「事実を我々全員の手に 見ればわかる9・11研究」が詳しい。
 (http://doujibar.ganriki.net/00menu.html)

 【ネオコン派のアフガン、イラク戦争始まる】


 10月7日、米国によるアフガニスタン空爆始まる。これによりタリバン政権が崩壊させられた。2003年3月19日夜(日本時間20日午前)、米英軍による対イラク戦争が開始されフセイン政権が打倒された。

 【旧日本赤軍派が「連帯」を結成宣言】

 2001年12月11日、旧日本赤軍派が「連帯」を結成宣言。同15日、「連帯」結成委員会が「連帯結党宣言」を発表する。「宣言文」は次のように述べている。
「かって、私たちは、1970年代初めに世界の革命を夢見て、アラブの地にたどり着きました。パレスチナの人々は、1948年の欧米諸国の合意によるイスラエル建国で、生まれ育った土地と家から追われ、着の身着のままで周辺諸国への難民として生きることを余儀なくされていました。欧米の一方的な支援で強大な軍事力でパレスチナ人を追い出し占領地を拡大し続けるイスラエルに対しては、国際世論は『テロリスト』と言いませんでした。パレスチナ人は、国際社会からも民族の地位を無視され、生きる希望も薄れていたとき、1972年5月30日、パレスチナ抵抗組織と日本人の3戦士が命をかけた連帯の証として、決死作戦のリッダ闘争が戦い抜かれました。

 その闘いは、日本では単なる『テロ行為』としてしか伝えられませんでした。しかし、抑圧と虐殺の最中にあった、パレスチナ解放闘争の正義と祖国を希求するアラブ・パレスチナの人々には新たな息吹を与えました。パレスチナの人々にとっては、闘えばイスラエルに勝てるのだと言う確信が、遠い極東アジアの地から来た若者が命を投げ出して共に戦ったことへの連帯感と共に沸き立ちました。それ以降、日本赤軍とパレスチナ諸勢力との間の強い絆が育てられ、1970年代には数々の共同闘争が実現しました。(中略)
 

 1991年、私たちは、私たちの総括から得た綱領草案に基づいて日本の革命を担う主体をつくる闘いへと出発しました。それは、政治面だけではなく、経済・社会のあらゆる面で人民がその力を行使できるようにする民主主義の徹底を水路とする日本の変革の道をまとめたのです。そこから、日本の文献を研究し、日本の志を同じくする人たちとの出会いと共同を求めました。人民革命党と名称を定めはしましたが、それは、日本の変革に責任を果たそうという思いからであって、決して自分たちが日本の革命を指導し得る勢力だと考えたわけではありません。むしろ、私たちの考えは、党組織をつくる努力の中で他の組織とも出会い、総括を1つにしながら共同実践の中から組織を1つにしつつ党を建設するという考えでした。日本の変革を志す人々と出会い、共に実践して、その総括を蓄積することで発展させるための器として準備を開始したものです」。

 【檜森孝雄が日比谷公園で焼身自殺】

 2002年3月30日、檜森孝雄が日比谷公園で、焼身自殺した(享年54歳)。2005年1月、赤軍派の元メンバーが、東京都板橋区内のスーパーマーケットで万引きをして逮捕される。この事件によって、元日本赤軍のメンバーでありながら生活保護を受けていたことが明るみになった。

 【重信房子の獄中闘争続く】


 2006年2月、東京地裁(村上博信裁判長)が、重信房子(60歳)に対し、懲役20年(求刑は無期懲役)を言い渡した。3月6日、重信の弁護人が控訴した。

 【日本赤軍考】

 以上が、日本赤軍史の概略である。これをどう受け止めるべきであろうかが問われている。筆者は、日本赤軍の史的意義はその活動軌跡にあるのではなく、不首尾に終わった失敗軌跡の史的総括の方こそ重要であると考えている。思うに、日本赤軍は、根源的にはマルクス主義の、直接的には第一次ブントの急進主義運動を定向進化させていった第二次ブントの更なる理論的純化の末にもたらされた世界同時革命運動に殉じた。この経験から学ぶとすれば、その貴重な体験を通じて獲得した「世界同時革命運動の虚妄」ではなかろうか。

 物事は純化させねば正体が分からない。そういう意味で、日本赤軍が世界同時革命運動の理論と実践を純正に遂行することによって、その理論の虚妄をはっきりさせたことにより逆に、我々には日本赤軍運動の経験を踏まえて如何なる革命運動の道を敷き直すのかと云う問いを残した。彼らは、よど号赤軍派の指導者・田宮、赤軍派の最高指導者塩見の出獄後の塩見理論が辿り着いたと同様の、戦後日本の民主主義秩序の相対的質の高さを踏まえ、いわば在地土着性社会主義を展望させることになった。

 筆者は、これが彼らがもたらした果実であり、日本赤軍の史的意義はここにあると考える。この貴重な経験を受肉化することこそが戦士達に対する誠意ではなかろうか。ここが肝腎なところなのに議論されていないのではなかろうか。筆者は、彼らが提起した日本革命論への回答として、それなりの見解を生み出すことになり処方箋を提起している。手前味噌になるが、彼らの花粉が筆者に着床し結実したと思えなくもない。


 日本赤軍運動にはもう一つの値打ちが認められる。日本赤軍派はかの時、直接の必然性ではなく恐らく本能的に臭いを嗅いで現代世界の矛盾の集約地であるパレスチナへ向かった。そこで、パレスチナ人の悲劇を見た。日本赤軍が、パレスチナ解放運動と接点を持ち、日本左派運動をしてパレスチナに目を向けさせたのは大いなる功績であったと考える。かく日本赤軍を評する視座を据えねばならないのではなかろうか。