ブック下巻(前書き)

 「検証 学生運動(上巻)」はそれなりの反響を呼んだ。下巻はまだか待ち遠しいという声もいただいている。学生運動史上何の知名度もなく且つハンドル名だけで登場した試論に対して、かなりの読者が内容を評価してくださったのが何よりうれしい。特に、筆者の母校である早稲田の諸先輩方からのエールをいただき、大きな喜びとなった。逆に、僅か二千冊の売れ行きが気になるほど学生運動に対する関心の低さにも気づかされた。早大4万学生の1割が手にすれば容易に完売になるというのに、全国中に広げてもそうはならないという現実がある。数十万部のベストセラーとなってもオカシクない良書であるというのに、今のところそういう売れ行きの声は届いていない。

 書店における左派物図書の取り扱いの不遇をも知った。筆者の学生時代の記憶では、所狭しと並べられ一段や二段は占拠していたはずだが、大手書店でさえコーナーそのものがなく今や見る影もない。左派運動の凋落ぶりを改めて知らされた。この現実を如何せんか。我らが青春の意地を賭けて棚段復活に尽力したい。

 それはともかく、上巻の目次には下巻のそれも告知されており、第19章から23章まで1970年代以降の学生運動史を概括するようにしている。上巻末尾に記したように、筆者は、70年安保闘争以降の学生運動を経過的に記すことにさほど意味を感じていないのだが、やはり「れんだいこ史観」の眼で捉えた学生運動史論を市井に提供し遺しておこうと思い直したからである。筆者以外恐らく諸事件、事象の的確な解析ができないのではなかろうかと心配したことによる。これにより、その後の学生運動を70年代前半期の闘争、70年代後半期の闘争、80年代の闘争、90年代の闘争、2000年代の闘争という時期区分に従って追跡する。

 としていたが実際にやって見ると、学生運動の余りの凋落と、時の政治課題に対する系統的闘争の流れが見当たらず、それでも記述するとなると学生運動論というよりも政治史論一般になってしまう。つまり、本書の範疇でなくなってしまう。そこで、下巻では、上巻での広報にも拘らず割愛し、概要は「戦後学生運動史」(gakuseiundo/history/top.htm)該当サイトで確認していただくことにした。このことをあらかじめお断りしておきたい。

 付言しておけば、パソコンとインターネットの登場により、今後の物書きの作法は、こうあるべきではないかと思っている。詳細な記述についてはサイトで確認できるようにし、ブックに於いては極力著者の見立てを添えるのがインターネット時代の著書の在り様になるべきではなかろうか。資料的なものも含めた精緻な研究による分厚いブックは資源のムダでもあり、それらはサイト上に記録することで、ブックに於いては要点整理と著者見解を附すようにすべきではなかろうか。

 そういう訳で、本書では70年安保闘争以降の学生運動史の概括を割愛し、その代わりとして日本左派運動に重要な影響を与えた事件ないしは事象を7本立てにして考察する。それぞれ経緯の概要を確認し、筆者の見立てを附した。いずれも重要案件であるにも拘らず総括不在にされている案件ばかりである。日本左派運動に壊滅的打撃を与えた御三家の連合赤軍、党派間ゲバルト、爆弾テロ事件から解析する。但し、爆弾テロについては主体がはっきりしないことと資料が乏しいゆえに割愛した。次に、よど号赤軍派、日本赤軍、三里塚闘争、新日和見主義事件、ロッキード事件を俎上に乗せた。それぞれ詳論としてサイト上の題名とアドレスを記しておくことにする。次に、「れんだいこの日本左派運動に対する25提言」を書き付けた。簡単に要約することもできるが、得心いただけるようそれなりに持論展開した。あれも指摘しておきたい、これも書いておきたいとしているうちに25章になってしまった。

 これにより、下巻全体が筆者の学生運動研究の果実としての処方箋、提言集となった。何事も、単に検証のみならず処方箋を出すところまで辿り着くのが責任であり作法とすべきと思うからである。今後、この種の処方箋が数多く出され、より精度の高いものになっていくことが望まれているのではなかろうか。これを叩き台に大いに議論が巻き起こることを期待している。

 本書執筆の総評として云えることはこうである。ロッキード事件以降、社会から次第に左派運動が潰えることにより、つまり左バネをなくすことにより、我が国の支配者の統治能力も叉幼稚化し始め、無惨なまでにネオシオニズムの御用聞き政治に陥ることになった。これを掣肘できない程度に応じて日本社会が活力を失い始めた。この落差を深刻に確認すべきではなかろうか。

 気づけば、社会党が消えている。長年の裏取引政治が病膏肓化し、遂に解党を余儀なくされたことになる。筆者はどちらかと云えば社会党的なのだが、不思議なことに今日まで社会党員と話したことがない。社会党系運動の労組運動過剰依存主義のタコツボ性が知れよう。日共は、共産党と云う党名のまま、かっての民社党並みかあるいはそれよりも右のところまで右傾化している。宮顕−不破系党中央の本質を定向進化させ醜悪な本性を晒け出している。しかしそれでも通用しているところが日共らしい。新左翼系諸派も低迷している。それぞれ批判を得意としているが、ならばと躍り出て来る党派はいない。運動全体の利益よりも相互に出る杭を打ち合う作法から抜け出していないことが分かろう。

 そういう意味で、今日ほど新新左派運動が望まれていることはない。筆者は、新党派よ早く出て来いと願っているが、待てど暮らせどの感がある。こうなったらしゃぁないと電脳空間に於いてでしかないが「たすけあい党」を結党するところまで辿り着いている。当初は、ほんのお遊びで立ち上げたのだが、段々その気になりつつある。日本左派運動がこのまま無力で推移するなら本気でオルグ戦に向かおうかと思っている。本書は、その際の格好テキストとして充分使えると自負している。読者諸君!存分にご堪能あれ。