「若松孝二監督『実録・連合赤軍の道程』考」

 (最新見直し2008.6.5日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 若松孝二監督の2008年現在最新作映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」は、2005年頃構想されたものの制作費カンパが思うようには集まらず、監督の自宅を抵当にいれ、別荘をあさま山荘のセットとして使用するなどして制作に漕ぎ着けた。出演者はメイクや衣装まで自前で用意する等々協力し、少ない制作費でかくも見事な映画を製作し得た。

 2007.8月、制作完了。同年12.22日、若松監督がオーナーの映画館シネマスコーレ(名古屋市)で先行上映し、2008.3.15日より全国公開が開始された。2008年のキネマ旬報の年間ベスト・テンで第3位にランクイン、第63回毎日映画コンクールで監督賞と撮影賞を獲得。毎年10月に東京で開催される「東京国債映画祭」で受賞のほか、ベルリン国際映画祭で最優秀アジア映画賞、国際芸術映画評論連盟賞に輝いている。

 若松監督は次のようにコメントしている。
 「リンチ事件で殺された遠山美枝子は、僕らの映画『赤軍−PFLP世界戦争宣言』の上映運動を手伝ってくれていて、大変なショックを受けました。この事件を後世に伝えなければと思っていましたが、一番のきっかけは映画『突入せよ!ふさま山荘事件』を見たときです。こんな風に権力者の側から一方的に描かれたら、社会変革を目指そうとした若者達が余りにかわいそうだ。映画人として、国家のプロパガンダ映画を作ってはいけない。あの時代をフィルムできちんと届けたいと思った」。

 2008.6.4日、れんだいこは、急に観たくなって鑑賞した。同映画は、時系列で編集しており、1・日本左派運動の歴史、2・新左翼各派の街頭闘争、3・連合赤軍の結成過程、4・両派合同による山岳ベースに於ける軍事訓練、5・赤軍派と革命左派の確執を素描した後、クライマックスを迎える。6・革命的共産主義的軍人化するという名目での相互自己批判の始まり、それが次第に強制となり、遂に総括と称するリンチ致死に至り、これが14名の同志殺人へと発展する。同映画は、このシーンを再現している。最後に、もう一つのクライマックスとなる7・浅間山荘孤城事件顛末を再現している。

 「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」は、これらを見事にサブ(準)ドキュメント化することに成功している。それぞれの役者も、事件当時の実際の情感を演出演技し、熱演している。  

 鑑賞後も臨場感が凄く、重い気分が残ったが、このドキュメントを映画構成した若松監督の功績を称えたい。監督は、事件に対する監督自身の見立てを極力抑制しつつ構成しているように思えた。その点に好感が持てた。いよいよ最後の場面で、浅間山荘に立てこもったメンバーのうち最年少者である加藤三兄弟の末弟が、同志の最後の会議となる場で突然、「みんな勇気が無かったんだよ」と何度も絶叫する。ここで初めて監督自身の考えを伝えているように思えた。

 若松監督は、全編を準ドキュメント化させ極力ありのままを晒することで、我々に事件の総括を要請しているように思える。そういう若松監督の編集方針が伝わり、れんだいこは鑑賞して良かったと思う。では、要請されている総括をどう為すのか。これを為さずんばなるまい。

 
日本左派運動史上、「連赤問題」は、事件発生から40年近くになろうとしている今日なおのど仏に仕えたままとなっている。これは一人れんだいこのみが煩っているのではあるまい。一応部外者のれんだいこはそれで済ませられるが、当事者や近いところに居た者にはそれでは済まされまい。今やそのイガを取らねばならない。が、ありきたりの批判で取れるようなヤワなものではない。もとより事件を肯定的に総括できる訳でもあるまい。論を行きつ戻りつさせながら、何とか言葉を紡ぎ出さねばなるまい。そういう訳で、以下、余韻の温かいうちに再度出航する。

 2008.6.5日 れんだいこ拝


【佐々淳行氏の「連合赤軍「あさま山荘」事件」】
 「あさま山荘事件」の時、警察庁警備局付警務局監察官という役職で陣頭指揮を執った人物は佐々淳行。彼は、「連合赤軍「あさま山荘」事件」(文芸春秋、1993.1月初版) を著している。内容は、「第1章 出陣、第2章 苦杯、第3章 爆弾、第4章 戦略、第5章 偵察、第6章 死闘、第7章 凱歌 」で構成されている。

 概要次のように紹介されている。
 動員された警察官延べ十五万人、集まった報道陣は六百人、負傷者二十七人、死者三人、負傷者二十七人、テレビ中継の視聴率は史上最高の89.7%を記録。厳寒の軽井沢の山荘で何が起きたのか?人質、牟田泰子さんの生存は? 当時現場で指揮をとった著者のメモを基に、十日間にわたって繰り広げられた戦後警察史上最悪の事件の一部始終を克明に再現した衝撃のノンフィクション。

 同書で、佐々に与えられた後藤田長官の指示が紹介されている。それによると、1・人質は必ず救出せよ。これが本警備の最高目的である。2・犯人は全員生け捕りにせよ。射殺すると殉教者になり今後も尾をひく。国が必ず公正な裁判により処罰するから殺すな。3・身代り人質交換の要求には応じない。とくに警察官の身代りはたとえ本人が志願しても認めない。殺される恐れあり。4・火器、とくに高性能ライフルの使用は警察庁許可事項とする。4・報道関係と良好な関係を保つように努めよ。5・警察官に犠牲者を出さないように慎重に、というものであった。

 佐々氏の履歴は次の通り。1954年、東京大学法学部政治学科卒業、国家地方警察本部(現警察庁)入庁。。「東大安田講堂事件」等で警備幕僚長として関わる。1972.1月、土田邸事件に関し、欧米爆弾処理技術調査出張。2月 あさま山荘事件処理。その後警察官僚として出世して行き、奇妙な事に1980.6月、防衛庁人事教育局長に転出。1982.7月、防衛庁長官官房長。1984.7月、防衛施設庁長官。この時、厚木基地NLP問題、逗子及び池子アメリカ軍住宅建設、三宅島新空港建設問題に関与している。1986.6月、防衛施設庁を退職。第3次中曽根康弘内閣で初代の内閣官房内閣安全保障室長(兼総理府安全保障室長)に就任。防衛費1%枠撤廃閣議決定などに取り組み、1989年、昭和天皇大喪の礼を最後に同年6月退官した。以後は文筆、講演、テレビ出演と幅広く活躍している。「危機管理」という言葉のワード・メイカーでもある。1993年、「東大落城」(文藝春秋)で、文藝春秋読者賞を受賞。  

 
2002.5.11日、佐々淳行著の「連合赤軍あさま山荘事件」を原作にした原田眞人監督、役所広司主演の映画「突入せよ!あさま山荘事件」が公開された。約2時間映画で、警察側から見た事件ドキュメントとなっている。




(私論.私見)