同志リンチ致死事件被害者及び被告の手記

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年2.6日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、連合赤軍の同志リンチ致死事件の当事者証言を確認する。こういう場合の常として、細部に於いては事実確認が齟齬している。しかしながら、同志リンチ致死事件総括の必要を認め、当事者同士が事件に至る流れと事件そのものをあからさまに証言している営為を評価すべきだろう。

 2008.1.28日 2009.5.23日再編集 れんだいこ拝


【連合赤軍兵士の手記】
 連合赤軍の同志リンチ致死事件に関して当事者証言が為されている。これを検証しておく。初版日順に記す。
1982.9月 永田洋子 「十六の墓標、上」 彩流社
1983.2月 永田洋子 「十六の墓標(下)炎と死の青春」 彩流社
1984 板東国男 「永田洋子さんへの手紙」 彩流社
1984.5.28 植垣康宏 「兵士たちの連合赤軍」 彩流社
1984.6月 森自己批判書を収録した「銃撃戦と粛清」 新泉社
1986.6月 永田洋子 「私 生きてます」 彩流社
1990..2月 永田洋子 「続 十六の墓標」 彩流社
1993.4.10日 坂口弘 「あさま山荘1972(上)」 彩流社
1993.5月 坂口弘 「あさま山荘1972(中)」 彩流社
1993.7月 永田洋子 「獄中からの手紙」 彩流社
1995.5月 坂口弘 「続 あさま山荘1972」 彩流社
1993.7月 永田洋子 「獄中からの手紙」 彩流社
1998.5月 大槻節子 「優しさをください」 彩流社
2001.3月 植垣康宏 「連合赤軍二七年目の証言」 彩流社
2002.4月 吉野雅邦 「あさま山荘」篭城―無期懲役囚・吉野雅邦ノート」 祥伝社文庫

【森恒夫の手記】
 

【永田洋子の手記】
 永田洋子は、事件から10年後の1982年、「十六の墓標(上)」を書き上げた。翌年「十六の墓標(下)」を出版した。このタイトルは彼女自身が付けたもので、殺害した14名の同志と、上赤塚交番襲撃事件で亡くなった柴野、連合赤軍事件後に東京拘置所で自殺した森を併せて「十六の墓標」と決めたということである。

 同書で、森恒夫が自殺した時の気持ちを次のように述べている。
 「森氏の自殺は、七三年一月一日のことである。このことを知った時、私は、新党で同志の死に直面した時のあの重苦しい深いところにつき落とされるような思いがよみがえってきた。押しつぶされてしまいそうな重圧感が一段と大きなものになった。それは、何故森氏が自殺したかを十分に理解させてくれるものであった。同時に、森氏が死刑攻撃をはじめあらゆる非難、中傷に耐えながら、連赤問題を総括し自己批判しぬいていくという困難な闘いから逃げたと思い、卑怯だと思わないわけにはいかなかった。私はもはや死ぬことはできない、逃げることはできないことを痛感した」。

【坂東国男の手記】
 坂東国男は、「永田洋子さんへの手紙」を著した。次のように述べている。
 「69年と同じく、『70年秋の前段階蜂起にすべてをかけて闘う』という私達の出発そのものの中に、赤軍派の主体的状況、準備状況を典型的に示していたのです。『やらねばならない』『やるということなんだよ』ということが、私の結集のあり方や、赤軍派の再生、結集、実践のすべてを導いていくものであったのです」。
 「永田同志の「十六の墓標」の中でも、比較的永田同志の本音の感情が書かれておりいろいろ動揺したことが書かれています。しかし、私や同志達に映っていた永田同志は、そんな人間的感情のひとかけらもない「鬼ババア」でしかありませんでした。私も当時は、恐ろしい人、動揺しない人と考えていたのですから、下部の人が、私たち指導部を「お上=神」と恐れたのも無理はありません」。

【坂口弘の手記】
 坂口弘は、「あさま山荘1972上下」(彩流社、1993.4.10日初版)、「続あさま山荘1972」(彩流社、1995.5月初版)で事件を切開した。その前提として、事件に至る経緯を検証し、事件の様子と論理を解析している。

 他の証言との比較をしたいが、れんだいこはそこまで読みこなしていないのでできない。それが残念ではあるが、それはともかく、「あさま山荘1972全3冊」は、事件を時代の流れに於いて捉えようとする坂口氏の姿勢がもたらした果実であり、自ずと事件前夜の時代証言となっている。これにより、れんだいこの学生運動論をより精緻なものにさせていただいたことを感謝する。

 「坂口弘の1972.11.25日付け謝罪と闘争宣言」を転載しておく。
 1.謝罪
 我々は、敵に対する方法でもっとも信頼すべき我々の同志に対処し、十四名もの同志を帰らざる運命に追いやってしまいました。今は亡き十四名の同志の皆さん、我々は今、「反革命」の名のもとにあなた達を処罰し、「総括」の名のもとに死に追いやったことは、完全に誤りであったと公然と認めます。

 あなた達は決して「敵」などではなかった。それどころか、人民解放の大義に向けて、全てを捧げつくそうとして闘う覚悟をもった勇敢な戦士でした。我々は、我々指導部が根拠のない主観や憶測によってあなた達を死においやり、そればかりかあなた達の大半の人を私刑の同伴者にしてしまった、この自己の罪を心から謝罪します。あなた達は、死に至る前は我々によって、死後は敵と敵の手先によって、二重、三重になぶりものにされてしまいました。我々は事実を全人民の前に明らかにすることによって、あなた達に対する我々自身の、そして敵の不当な、根拠のない人民攻撃の誤りを明らかにし、戦士としてのあなた達の正当な評価と名誉を必ず回復することを誓います。

 我々は、我々の理不尽な体罰という蛮行に対し、舌を噛み切って抗議したあなた達の怒りを決して忘れません。戦士として生れかわる、といい残したその言葉を決して忘れません。今、生きている我々は、最後まで節を貫き通し、「粛清」の惨劇の中から、一つでも多くの血の教訓を引き出すことが、あなた達に対する我々の最低限の義務であると考えています。我々にはこの努力目標に向って、誓って邁進する決意です。

 我々は又、我々の「粛清」とその発覚によって、敵とその手先から「共同正犯」の攻撃をかけられた多くの党派、革命人民、知識人のみなさんにお詫びしたいと思います。「粛清は」我々「新党」派がひきおこしたものです。したがって、当然ながら、その責任は我々自身が負うべきものです。しかし、米日反動派は「粛清」を政治的に利用し、恥知らずにも多くの党派、革命人民、知識人に一大思想攻撃をかけてきました。我々は、敵につけいられる根拠を与えてしまい、多くの人々を、このような思想攻撃にさらしてしまったことを深く恥じるものです。

 どんなことがあろうと、味方を抹殺し、敵を利するようなことはしてはならない。この原則からの逸脱が、どれほど日本人民全体の闘争を後退させたことか……。しかも、よりみじめなことは、敵に発覚し追及されるまで、我々はこの重大な誤りに気が付かなかったこと、或いは気付きつつも、誤りと闘う勇気を持ちあわせなかったことです。この暗澹とした事態を前にして、我々はしばしば生きることの意味を自問せざるを得ませんでした。しかし、この様な思考が誤っていることに気付きませんでした。これこそ「粛清」の延長線上であり、恥の上塗りにすぎません。我々は、これ以上、泥沼に埋没しない決意です。

 我々は又、「分派」と規定し、「暴力的分派闘争」の対象とした革命左派の同志に対し、お詫びしたい。あなた達の真剣で建設的な批判に、我々が謙虚に耳を傾けていたならば、この様な形での悲惨な結果には至らなかったと、今では確信しています。我々は、当時我々が指導権を握っていた革命左派と、そして赤軍派との、路線面での一致を抜きにした無原則的組織合同が、「粛清」を生み出す主因であったと考えます。我々は、あなた達の反対と危惧を無視し、陰謀まがいに組織合同をはかった。そして、あなた達には「分派」のレッテルを貼ったのでした。これが大量「粛清」の方向を定めた。このレールの上で、政治なき観念的な「共産主義化」という歯止めのない「思想闘争」が、内部矛盾を容易に敵対矛盾に転化させてしまったのです。

 我々は同志に観念的な「決意」主義を強制した。体罰と同志の「死」、そしてこの「死」を合理化することによって、「共産主義化」を特別の闘いとして位置づけ、大量「粛清」への転落を開始してしまうのです。同志の「死」とその合理化、誤った「共産主義化」の位置づけは、我々指導部をして一層官僚化させていった。「共産主義化」とは、他ならぬ小ブル的「聖人君子」の押しつけにすぎませんでした。革命戦争を「聖戦」化し、これを担う主体に「聖人君子」を押しつけていたのでした。しかも許さざることに、我々は「聖人君子」でも何でもない我々指導部個人に」この「共産主義化」の規準をおき、それを絶対化したのです。

 いいかえれば、我々小ブル指導部を基準とする「共産主義化」からはずれた同志が、「粛清」の対象になったのです。勿論最初から殺意があったわけではありません。我々指導部個人の、自己の「共産主義化」を全ての規律とし、その個人の判断と推量によって一切が規定されたのです。これらは主観的な意図とかかわりなく、「私兵」をつくりあげることでもあったのです。政治を失い、団結の規律を失った結果、こうなるのは必然でもありました。

 我々は又、この無原則的組織合同に先立つ、二人の同志の「粛清」についてもいわなければなりません。我々はかつて、山岳から離脱した二人の同志に対して、警察の挑発と曖昧な情報をもとに、敵に通じたと軽信し、安易にも「反革命」の規定を行ってしまいました。このような安易な「反革命」規定が、直ちに「粛清」にいたってしまったこの過程は、当時の敵との攻防関係、および「銃」を保持した特殊な地下体制の説明抜きに語れません。

 その一つは、七〇年十二月の上赤塚から始まり、七一年二月の真岡をもって本格的に始まった官憲の「ローラー作戦」「指名手配」「全国捜査」などの弾圧です。実はこの攻撃は、我々の予想をはるかに越えるものでした。我々はこの敵の弾圧体制の前に完全に色を失い、おびえ切ってしまったのです。その結果、敵を過大視し、思想的・政治的に右翼日和見主義に陥ってしまいました。ここから極端な経験主義が発生し、主観主義の泥沼に足を突っ込んでしまったのです。

 我々は、何よりも自己の経験を尊びました。そして、自己が直接経験したもの以外受けつけないという、頑迷派になってしまいました。我々は今日を生き抜くことに全てを優先させ、毛沢東思想・反米愛国路線を投げすて、革命戦争において革命理論の果たす重要な役割を極度におし下げてしまったのでした。

 我々は、自己の経験だけにしがみついていたため、客観的に問われていた地下体制の問題、建党・建軍の問題など、山積みした問題を、系統性をもって解決してきませんでした。否、解決どころか、これらの問題の重要性もわかっておらず、全く自然発生的にも、合法・半合法部隊を召還して、危険な水ぶくれ・集中体制をとり、単一「ゲリラ」路線に陥ったのです。非合法活動、軍事行事の未熟さは目をおおうばかりのもので、とてもゲリラなどと呼べる代物ではなかった。

 この誤りの原因は、何よりも、反米愛国路線を放棄し、理論の果たす重要な役割を無視したことにあります。なぜなら、政治路線放棄、理論無視によって、我々は、外国・日本の非合法闘争、武装闘争の経験・教訓を謙虚に学びとる姿勢を失ったからです。政治路線を放棄し、理論を無視することは、実は、自らの目と口をふさいでしまうことに他ならなかったのです。

 我々は、客観的に問われた課題を、真剣かつ謙虚に学ぶことによって解決してきませんでした。問われた課題をなおざりにしたまま、敵に迫撃されるまま、山岳に逃げ、単純退却を続けていたのです。そして、我々の全く狭い、直接の経験から得た、局部的な真理を絶対化し、普遍的なものにまで高めてしまうという誤りを犯してしまいます。「銃の一点論」とは、このようなものであったのです。

 他方で我々は、官憲の追撃と挑発に対し、いたずらに感情を高ぶらせ、憎しみを増長させていきます。今、冷静に考えれば、この追撃と挑発こそ、敵のかけた「わな」であったことがわかります。彼等はこうすることによって、我々の内部互解をうかがっていたのです。そして我々は、自ら、この「わな」に落ちこんでしまいました。

 敵との緊張関係にある時、しかも(これが重要なことなのですが)「銃」を保持している地下体制においては、「銃」という殺傷兵器は、消して曖昧を許さず、火遊びを許さないからです。文字通り、一歩誤れば「死」の論理になってしまうのです。そして、この階級的自覚、政治自覚を保証するものは、何よりも、正しい政治路線なのです。

 しかし、我々の反米愛国路線無視の誤りは、ここにおいて、現実の問題として出てくるものでした。反米愛国路線の根幹は、何よりも敵・味方の厳格な規定にあります。したがって、これを放棄するということは、とりもなおさず敵・味方の区別を曖昧にすることでした。これは内部矛盾を敵対矛盾に転化させる条件をつくってしまいました。

 組織を離脱した二人の同志をめぐり、客観的には、第一に、水ぶくれ・集中体制の克服、第二に、政治的自覚を高めること、第三に、敵・味方を厳格に規定すること、が問われたのですが、我々は、彼等を安易に「敵」と規定し、「組織防衛」の大義をふりかざして、つまり「銃の論理」にふり回されて、「粛清」を断行してしまったのです。

 以上が、最初の二人の同志に対する「粛清」の背景と実際です。

 これが、政治路線放棄によって引き起こされた破綻の始まりでした。反米愛国路線の放棄が最大の罪悪であり、これを根底として、最初の「粛清」、無原則的組織合同、そして大量「粛清」が行われたのです。米日反動派打倒、独立、民主、平和、中立の人民民主主義独裁樹立――この革命の大義にとってかわれるものはなく、我々はこの政治目的の実現こそ、全力を傾けなければならなかったのです。政治路線を放棄することは、同時に人民の政治的要求を無視することでもあったのです。

 我々は逮捕された後、多くの市民の方が、いわゆる「殺人隠匿罪」で逮捕され、起訴され、職場を奪われたことを聞きました。このような不当弾圧の魔手をあなた方にまで及ぼしてしまったこと、これは直接的には、我々の組織的欠陥から起ったものです。いかなることがあろうとも、我々を守って下さったあなた方を権力の手とゆだねることなど許されません。我々は、この最低限の義務さえ果たしえなかったことを、深くお詫びします。我々は、あなた方の有形無形の支援が、どれほど勇気と決意を必要とするものであったことか、痛いほどわかっていました。獄中にあって、一人、又一人とズルズル不当逮捕されていくのを聞くにつけ、本当に心臓にハリが突きささる思いでした。全ては我々の組織的欠落、そして思想的脆弱さからきています。「粛清」発覚以降、この徹底的な「アジト狩り」によって不当逮捕された方、更に心ある人達の間に多大な失望をもたらしたことをお詫びしたいと思います。

 最後に、我々は遺族の方に、同志達の「死」に至るまでの経過を、納得のいかれるまで説明するつもりです。十四人の全ての同志の遺族の方に対し、責任を果たします。「粛清」の犠牲になった同志は、決して「敵」などではありませんでした。我々には右(注:上の文章という意味です。原文は縦書きなので。管理人)の作業を誠意をもって行い、同志達の名誉を回復したいと思います。このことをお約束し、あらためて遺族の方には深く謝罪いたします。
2.闘争宣言
 我々は「粛清」の誤りを以上の様に考え、心からの謝罪の気持ちを、犠牲になった同志、遺族、諸党派、革命人民、知識人の方に表明いたします。しかし、我々はこの謝罪を、超階級的に表明しているわけではないことも、はっきり言及しなければならないと考えます。我々は、アメリカ帝国主義と日本軍国主義、およびその手先に対しては、如何なることがあろうと、謝罪を行いません。このことは全ての人にはっきりと表明したいと思います。彼らは「粛清」を政治的に利用し、ありとあらゆるおかかえの電波、出版物を総動員しました。猟奇趣味からこの事件をとらえ、エロ・グロ雑誌を動員しての腐敗し切った思想攻撃、「坂口スパイ説」なる見えすいた捏造と撹乱攻撃、個人的な誹謗中傷攻撃……。我々はこれらの悪質なたくらみと攻撃に対し、真実を人民の前に公表することによって、断乎粉砕していきたい。

 思えば、武闘派に対する反動派に攻撃は、昨日今日に始まったことではありませんでした。六九年以来の武装闘争の発展とは、まさしく米日反動派の治安弾圧・思想弾圧との公然・非公然の、日夜をわかたぬ闘いの過程でした。テロ・リンチ、転向のデッチあげ、買収、尾行、張り込み、いやがらせ、盗聴……こうした不法行為は、柴野同志虐殺を頂点に枚挙にいとまがない。
 「粛清」の誤りを利用した今回の一大撹乱の思想弾圧は、まさに過去の弾圧の集大成としてあったのであり、その目的とするところは、武装闘争の根絶、革命派総体の根絶、革命派と人民の結合をひきさくことにあると思います。我々は、敵のこの意図的な攻撃に対し、はっきりと対決していきます。そして武装闘争がつちかってきた、血と涙の成果を断乎防衛し、武装闘争の正当化を断乎貫いていきます。

 我々は、米日反動派の侵略戦争、ファッショ弾圧、人民抑制の暴力に対して、革命人民が独立、民主、平和、中立のために敢然と武器を握り、「暴力」をもって反撃すること全く正当であり、人民の権利であり、道理にかなった行為であると今も確信していることを表明します。これは断じて譲ることの出来ない我々の基本的立場であり、観点です。これを放棄することは、精神的奴隷になることと同じです。

 従って、我々は軽井沢銃撃戦の肯定的側面を断乎堅持し抜くつもりです(勿論、関係ないY.Mさん(注:あさま山荘での人質)を楯にとったことは、我々の政治的敗北を決定してしまい、否定されるべきものです。我々はMさんやその肉親の方には、心からの謝罪の気持ちを持っています)。前途のように、六九年以降の武装闘争の歩みは、米帝国主義と日本軍国主義の侵略戦争政策に反対する闘いの中の、もっとも高度な闘争をして発展してきたものであり、同時に、日夜をわかたぬファッショ弾圧との闘いの連続でもありました。我々は、この闘いの中で自らを鍛えました。我々は弾圧と闘い、武装闘争を闘う中で、もっとも重大な教訓を得ました。それは、自らの運命を自ら切りひらくという自覚です。

 とりわけ、そのような思いと決意を深めさせられたのは、七〇年十二月の、柴野同志に対する白色テロ事件です。我々はこの虐殺事件によって、「武装」の教訓を鮮烈に学びました。「武装」しなければ生存する権利さえ保証できぬことを知ったからです。だが、ここにおいて、我々が学んだ血の教訓が一面的であり、感情的なものにとどまっていたことを、今、素直に白状するものです。我々はこの血の教訓から、もっとも大事な「敵を知り、味方を知る」ことを、具体的にはかちとりえませんでした。敵の凶暴な本質と術策を弄する反動性を、具体的に把握できませんでした。この様な誤りが、二.一七闘争後、本格的に始まった敵の一大弾圧体制という表面的事象しか見られず、これに恐れをなし、敵を過大評価してしまうという思想・政治上の右翼日和見主義は、人民大衆のエネルギーの否定でもありましたが、形の上では極「左」主義として表れました。我々はこの、形は極「左」主義、本質は右翼日和見主義の傾向によって、革命は幾百万、幾千万人民大衆が行うものであるという原則を無視し、人民大衆と積極的に結合し、政治動員を行うという原則の必要を無視していったのです(統一戦線の否定)。

 我々は「敵を知る」こと、そしてこの敵に対し味方を団結させることが如何に大切なことであるか、肌身を通してわかりました。敵を具体的に知らずして突撃を行うことは、非武装のまま敵陣に突撃することと同じです。又、味方の団結を否定し、人民大衆の英知に謙虚に学ぶことを否定することは、自ら人民との間の団結を断ち、孤独と遊離を招くだけです。これは、我々の敗北から得た教訓です。

 我々は、「連合赤軍」事件を階級的報復裁判として扱い、準備して襲いかかろうとしている司法権力の攻撃に対し、断乎闘い抜くことをはっきり表明します。武闘派に対する弾圧が、革命人民に対する弾圧の前ぶれ攻撃であったのと同様に、この裁判も又、「死刑」判決の先制攻撃をもって、人民に対する恫喝を果たそうとしているものに他ならないと考えます。我々は裁判所・検察庁の一体となった週二回の超スピード公判ペースに、なによりも権力の露骨な政治的意図を垣間見ます。我々は、この公判闘争を、武装闘争と同質の、そして別の形態での闘争をとらえ、闘っていくつもりです。

 我々は、本当に多くの人々を悲しみのどん底に陥れてしまいました。何としても、米日反動派と原則的に闘い、早急に、「粛清」の科学的総括を闘いとることによって、自己の罪業を一歩でも償う決意です。独立、民主、平和、中立の人民民主主義独裁樹立――この革命の大目的にとってかわるものはなかった。ましてや、これを放棄したところで組織合同など、ありえようはずはなかった。我々は、改めて赤軍派の諸君とはこの政治路線での正しい一致、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想の指導論理・思想での一致、そして「粛清」の総括の一致をかちとることによって、本当の団結を深めていきたいと思っています。最後に、極めて困難な情況の中にありながら、我々を陰に陽に支援して下さった各救援会の方々には、心から感謝します。

【植垣の手記】
 植垣康博は、連赤事件を森−永田の個人的資質問題に還元する塩見総括に反対して、連赤事件は塩見理論、路線の必然的帰結と捉えた。27年間の刑期を終えて初めて口を開き次のように語った。
 「こんな暴力的な総括をやっていいのか?という思いはあったが、(党のため)と言われると、それからは思考停止に陥って終った」。

 「兵士たちの連合赤軍」(彩流社、1984.5.28日初版)の「はじめに」で次のように述べている。
 「同志殺害に集中的に現われた問題が連合赤軍に特殊な問題ではなく、革命運動が抱える重大な欠陥として、今日においても鋭く突きつけられていること、しかも、人間の思想や行動をすべてにわたって管理・統制しようとする現在の社会体制にあって、主体的に生きていこうとする者が不断に直面する問題をも含んでいることを思う時、私の歩みを語ることは、自分の最低限の任務であると感じないわけにはゆきませんでした」。

 植垣は、「兵士たちの連合赤軍」で、自分の履歴を自伝的に語りながら、民青から共産同、共産同から連合赤軍、連合赤軍内の同志殺人に至る経緯を内部切開している。
 「週刊新潮」2025年2月6日号 掲載「革命優先の世界では、好きな人が亡くなろうが… 12人死亡「山岳ベース事件」メンバー・植垣康博氏が明かしていた“本音”」。
 “総括”で思い人を失う
 1972年、連合赤軍事件は日本中を震撼(しんかん)させた。山中に築いたアジトで、総括の名の下に仲間をリンチし、12人を死に至らしめていたことが明るみに出たのだ。この殺害に加担した一人が植垣康博氏だ。新左翼である連合赤軍は、赤軍派と革命左派が共闘する形で結成。森恒夫がトップ、永田洋子がそれに次ぐリーダーで、植垣氏は「兵士」の立場にいた。森は自己の「共産主義化」を唱え、連合赤軍のメンバーに革命実現に向けてより高い精神性を持つことを求めた。メンバーは日和見だとか“まだ女を意識している”といったこじつけのような理由で総括を求められ、その過程で殴る蹴るの暴行を受けた。後に植垣氏は、決定された以上実行しなければならないと、殴打や殺人行為に関わったと述懐している。植垣氏が恋心を抱いた女性も死亡。後に本誌(「週刊新潮」)の取材に〈もう、頭の中は真っ白。でも、革命優先の世界では好きな人が亡くなろうが二次的三次的な問題だった。“戦いで死ぬことによって責任を果たすしかない”と思うしかなかった〉と語る。
 爆弾の製造技術を買われて赤軍派に
 49年、静岡県生まれ。67年、弘前大学理学部物理学科に入学。政治に関心はなかったが、全共闘から赤軍派に加わる。爆弾の製造技術が買われたのだ。銀行強盗ぐらいできないとゲリラ戦は不可能との思想に後ろめたさは感じられない。  こうして連合赤軍の成立に至り、凄惨な総括が始まる。やがて警察の捜査が迫り、72年2月、リーダーの森や永田らが逮捕された。残る9人は植垣氏の先導により険しい山を越え、警察の裏をかいて逃げた。だが、植垣氏ら4人は軽井沢駅で逮捕、途中で別れた5人が、あさま山荘事件を起こした。
 ハイジャック事件での釈放を拒否
 植垣氏は、総括による殺人が集団の狂気や指導者の資質の問題に矮小化されていると疑問を感じ、裁判を通じて事件の真相に迫ろうとする。77年に日本赤軍が起こしたハイジャック事件では超法規的措置で釈放されるリストに入っていたが、裁判を放り出せないと出国を拒否した。 勾留中の84年、『兵士たちの連合赤軍』を著す。同書を一水会の当時の代表、鈴木邦夫氏が紹介したことで、二人の文通が始まった。一水会の代表、木村三浩氏は振り返る。 「殺人に関わったことから逃げず弁解など全くない。何が行われたかを詳細に示し連合赤軍事件を知ってもらうのが自分の責務だと捉え、生涯ぶれなかった」。
 植垣氏が考える事件の原因
 93年、最高裁で懲役20年の刑が確定。98年に出所した時には逮捕から約27年がたち、49歳になっていた。植垣氏は事件の原因には党派の論理があり、それは連合赤軍に特別なものではなく、総括要求は会社人間を作る教育を極端にしたものと語っている。「自分の問題を何か出せ」と要求し、どんどん追い詰めて、組織の論理と同じ言動をしなければ生きていけないところまで個性を解体していく。この過程で暴力が現れたと、自身を総括するに至った。
 「語らずとも内面では反省」
 2001年、静岡市内にスナック「バロン」を開く。バロンは氏のあだ名だった。 「語らずとも内面では反省を重ねていた。一方で変革は必要という根っこは一貫している。懐古主義的な話はしない。“仲間に通じるだけの言葉を言い合っても広く理解されない”と将来の具体的な方向性を考える実直さがあった」(木村氏) 。

 05年、中国・黒竜江省出身の留学生で33歳年下の女性と結婚。1男を授かる。請われて講演はしても、政治的な活動はしなかった。事件から半世紀経た22年、取材に丁寧に応じていたが体調を崩す。脳梗塞で倒れ糖尿病も進む。23年春に介護施設に入り、1月23日、誤嚥性肺炎のため76歳で逝去。革命は起こすものではなく起きるもの。誰も求めていないのに起こそうとすれば無理が生じるとも語った。





(私論.私見)