その後の動きと公判闘争考

 (最新見直し2008.2.1日)

【その後の動きと公判闘争】
 「連合赤軍統一公判・第一審判決」その他を参照する。
 1972.1.23日、統一被告団( 坂口弘、永田洋子、坂東国男、植垣康博、吉野雅邦)が次のような「抗議声明」を発している。
 我々統一被告団は、東京地裁刑事七部・山本卓裁判長の百回公判強行の暴挙に対し、怒りをもって抗議する! いま山本は、弁護団の再三、再四にわたる百回公判期日指定取り消し要求を全て「却下」し、被告人の初回公判延期要請を「却下」し、初回公判をなにがなんでも強行しようとしている。この様な山本の強権姿勢は、昨年の一方的百回公判期日指定以来一貫したものである。

 だが、これは決して彼一人の陰謀ではない。背後で糸をあやつっているのは、石田和外総本山であることは明白な事だ。我々はこの様な陰謀を絶対に認めるわけにはいかない。もしこの様な陰謀を認めたならば、それはファッショ裁判への道を掃き清め、司法反動に加担したことを意味するからであろう。こんな裏切りは我々には出来ない。絶対に出来ない事である!

 敵はおそらくこう言うであろう、「今になっておじけづいたな」と。だが我々はこう考える。我々は決して恐れはしない。人民の為、闘いの中で死ねること、これは闘争をやる者にとってまさに死に場所を得たようなものだ。我々は闘争の中での死を断じて恐れてはいない!と。権力が我々を裁く権利などありはしない。このことをはっきりと我々は声明する。我々はこの様な権力のファッショ裁判に対し、死力を尽して闘い、その中で負債を一つ一つかえしていくことを。

○司法反動のファッショ裁判強行粉砕!
○弁護権と反証準備の時間を奪うことは断じて許されない!我々は死力を尽して、百回公判粉砕を闘う!

 3.29日、岡田春夫・社会党代議士、三里塚闘争訪中団(戸村団長)が訪中し、周首相と3時間にわたって会談する。周首相は、連合赤軍事件を念頭に置き、日本の新左翼運動について次のように評している。
 「日本の新左翼は立派ではあるが、情勢の中で敵を区別して、どういう性格(政策?)をとるのか見定め、広範な人民を率いるという点で、まだ極めて不十分なものがあると云えよう。昨年は新左翼に属する人たちとも北京で話し合ったが、彼らには左に片寄りすぎた面があり、革命的な人が新左翼を指導する必要があると感じた」(1972.3.30日付け夕刊朝日新聞)。
 「青年は何度も転ぶ。転んだら起き上がるべきで、挫折するべきではない」。

 5.30日、奥平剛士、安田安之、岡本公三の3名は、イスラエル・ロッド空港の到着ロビーで自動小銃を乱射。イスラエル警察と銃撃戦を展開する。結果、旅行客ら26名が死亡、70数人が重軽傷を負った。奥平、安田の両名も死亡(自決)。岡本のみ死に損なう。3人は、事件を決行するに際し、「パレスチナの大儀のために命をささげ、死んだらオリオンの三ツ星になろう」と誓い合ったという。そして自決する。
 連赤裁判は「統一公判組」と「分離公判組」に分かれた。幹部クラスは全員「統一公判」を選び、兵士からは植垣氏と加藤次兄が希望したが、やがて加藤は「分離公判」にまわった。途中で吉野氏も分離公判にまわった。最終的に統一公判組は永田、坂口、植垣氏の3名となり、公判もこの3名で進められた。
 10.13日、中村愛子に懲役7年の判決。
 10.31日、奥沢修一に懲役6年判決。
 12.6日、前沢虎義に懲役17年判決。
 1973.9.22日、東京地裁での統一公判が決定された。
 9.26日、統一公判開始。永田、坂口、植垣、吉野、加藤(二男)が初出廷。1年ぶりに顔を合わせた。
 1974.2.2日、革命左派創設者で、武装闘争の極左路線に反対した河北三男が、東京広尾の日赤病院で逝去。
 4.3日、寺林真喜江に懲役9年の判決。 
 7月、永田は革命左派から離党。塩見孝也が結成した赤軍派(プロレタリア革命派)に植垣や坂東とともに加わった。
 10月、京浜安保共闘の理論的指導者の川島豪が横浜拘置所から出所した。
 1975.8.4日、日本赤軍によるクアラルンプールのアメリカ大使館占拠事件の超法規的措置により、板東国男は出所し日本赤軍と合流した。阪口弘はこれに応じなかった。日本赤軍ゲリラからの国際電話に対し、次のように述べている。
 「君達は間違っている。私は出て行かない。君達は大衆の支持を得ることは出来ないであろう」。

 坂東はアラブで重信房子と会った時、「自分は同志殺害という誤りを犯した。査問委員会で裁いて欲しい」と申し出たという。坂東の行方は今もわかっていない。彼についての裁判は停止したままである。

 この時の指名者は、西川純(24歳/日本赤軍/ハーグ事件/東京拘置所)、戸平和夫(22歳/日本赤軍/ハーグ事件/東京拘置所)、J.M(25歳/赤軍派/M作戦/病気により保釈)、松田久(26歳/赤軍派/M作戦/宮城刑務所)、坂東国男(28歳/連合赤軍/M作戦、連合赤軍事件/東京拘置所)、坂口弘(28歳/連合赤軍/銃砲店襲撃事件他、連合赤軍事件/東京拘置所)、佐々木規夫(26歳/東アジア反日武装戦線「狼」/連続企業爆破事件/東京拘置所)の7名。

 指名を受けてそれぞれの反応。西川、戸平「日本政府の決定と日本赤軍の要求に従う」。松田「引き渡しを希望する」。佐々木「自分はゲリラ兵士だから、どこへでも行く用意がある。米大使館を占拠した日本赤軍の釈放要求名簿に自分の名前がのっているなら、どこへでも行く」。坂東「日本政府は、当然われわれを釈放すべきである。自分は革命のためならどこへでも行く」。J.M「行きたくない」と文書を発表。坂口「何も言いたくない。オレはもう房に帰る」とすたすた帰っていった。坂東の母親は、羽田にいる検事宛に涙声で「絶対に出国させないでください」と電話を入れるが坂東は出国。

 1977.8.9日、他の3人の対立のため吉野と加藤(二男)は統一被告団を離脱、分離裁判を選択。
 9.28日、日本赤軍がダッカで日航機をハイジャック(ダッカ事件)。人質とひきかえに植垣ら9名の釈放を求めた。しかし、植垣は自分たちの問題を「総括」するため出国を拒否。

 この時の指名者は、奥平純三(28歳/日本赤軍/東京拘置所)、S.O(34歳/日本赤軍/京都拘置所(当時))、植垣康博(28歳/連合赤軍/東京拘置所)、城崎勉(29歳/赤軍派/府中刑務所)、大道寺あや子(28歳/東アジア反日武装戦線「狼」/東京拘置所)、浴田由紀子(26歳/東アジア反日武装戦線「大地の牙」/東京拘置所)、I.C(27歳/沖縄解放同盟/沖縄刑務所)、泉水博(40歳/強盗殺人/旭川刑務所)、仁平映(31歳/殺人/東京拘置所)の9名。

 政治犯ではない泉水、仁平は刑務所・拘置所内での「待遇改善運動」で日本赤軍と知り合った。出国6名、出国拒否3名。拒否者は連合赤軍の植垣、日本赤軍のS.O、沖縄解放同盟のI.Cだった。ここでは、前回奪還された坂東らが実行者となっていた。

 1979.3月、赤軍派(プロ革)分裂。塩見グループが「日本社会科学研究所(マルクス・レーニン主義・毛沢東思想)」を結成。


 1979.3.29日、東京地裁は、分離組の吉野に対し無期懲役、加藤に対し懲役13年を言い渡した。死刑を求刑していた検察が控訴。
 1980.7月、永田と植垣は、塩見と訣別。
 1982.6.18日、東京地裁は、統一組の永田と阪口に死刑、植垣に懲役20年を言い渡した。一審判決は次のように裁定した。
 「被告人永田は、自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格と共に、強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた。他方、森は、巧みな弁舌とそのカリスマ性によって、強力な統率力を発揮したが、(中略)一種の幻想的革命家であった。(中略)山岳ベースにおける総括を、組織の防衛とか、路線の誤りなど、革命活動自体に由来するごとく考えるのは、事柄の本質を見誤ったと言うほかなく、あくまで、被告人永田の個人的資質の欠如と、森の器量不足に大きく起因し云々」。

 この死刑判決に関して、殺された12名の遺族は「当然」という心境を語ったが、ただ1人、向山の弟は複雑な胸中をのぞかせている。「私は(極刑をのぞんでいる)父とは違い、兄は組織の一員として活動して、ああいう結果になったのだから、被告には死刑でなく、生きて事件をかえりみ、償いをしてほしいと思う」。

 1982年、永田が、最初の著書となる「十六の墓標(上)」を出版した。「十六の墓標(下)」は翌年に出版された。
 1983.2.2日、東京高裁は、吉野に対し、検察側の控訴を棄却し第一審通り無期懲役を言い渡した。3月、千葉刑務所に入所した。
 1984.6.11日、永田、控訴審中に気を失って失禁。脳に腫瘍が発見され、7月に手術が行なわれた。
 1985.4.12日、東京高裁で、坂口の第1回供述。5.10日、第2回供述。5.24日、第3回供述。
 1986.8.26日頃、朝日ジャーナル編集部の仲介で、坂口と永田の往復書簡始まる。

 1986.9.26日、東京高裁は、永田、阪口に対し控訴棄却。一審通り永田、坂口に死刑、植垣も一審と同じく懲役20年の判決が下された。判決文は、1・総括されたのは、永田の意に添わなかったり、批判的な態度をとった者だった。2・永田が反感、嫉妬など個人的感情をからめて追及したことで、森の誤った対応を生み出した。3・総括し切ったかどうかは、永田、森の見方一つにかかっていた。などの理由を述べ、「一審判決が、永田の個人的資質や森の器量不足に事件の大きな原因を求めたことは不当なものではない」とし、永田らの「革命的集団全体の誤り」、「森が主導者」という主潮を退けた。

 1989.5月、坂口の歌が朝日歌壇に初めて掲載される。坂口はそれから精力的に歌作にはげみ、93年には「坂口弘歌稿」を出版。
 12.27日、赤軍派議長の塩見が懲役18年の刑を終え出所。未決拘留期間も含め19年9ヶ月に及ぶ獄中生活だった。
 1990.12.9日、川島氏が胃がんで逝去(享年49歳)。
 1992.11.24日、坂口の上告審始まる。
 1993.2.19日、最高裁は、永田、坂口に対し上告棄却、1,2審同様の死刑判決を下した。植垣も1,2審同様の懲役20年。ただしこれまで時点で20年間拘置所暮らしだったため、残刑は5年半となる。

 判決後の各被告のコメントは次の通り。
永田  判決文の短さに驚いた。何も検討していないし、肩すかしの感じがする。一審以来、裁判所は死刑を前提としており、しっかりした事実審議をしてこなかった。最高裁でも一つくらい(一、二審の)事実誤認が訂正されるのではと期待したが、裏切られた。(死刑囚となり、処遇の)環境が変わるので慣れるのに時間が掛かると思いますが、私は持久戦には強いので頑張ります。
坂口  あさま山荘事件で死に至らしめた警察官、民間人の方々、ご遺族の皆様、監禁した管理人の方、発砲で重軽傷を負わせた方々、改めて私たちの罪を深くおわび申し上げます。山岳ベースで総括によって死に至らしめた十二人の同志、組織防衛の名で命を奪った二人、そしてご遺族の方々には、事件の真相を明らかにして、せめてものおわびのしるしにかえさせていただきます。

「誤りを糺し来たれど足らざると思いて受けん死刑宣告を」
植垣  裁判の最初の十年間は混乱と混迷の中で経過し、控訴審の後半からまともな意見交流ができるようになった。二十年かけた裁判の意味は大きかったと思う。早期に終わっていれば、何らの解明がなされずに終わった可能性が高い。判決は三下り半のもので、何か判断が欲しかった。でも、こんなものかとも思う。判決自体はある程度予測していたが、未決拘置日数の算入は意外に多かった。

 3.1日、弁護団により判決訂正申し立てを行い、3.10日、これが棄却され、刑が確定した。永田、坂口は、未決囚待遇から死刑確定囚処遇へと移行し、外部との交流が極端に制限されることになった。
 1995.11.30日、赤軍派軍事委員長にしてよど号赤軍派のリーダーだった田宮高麿が平壌で急死。 
 1998.10.6日、植垣が、甲府刑務所を出所。27年ぶり。
 2000.6.2日、坂口弘死刑囚(53歳)が東京地裁に再審請求申し立て。1993年に死刑が確定。
 6.27日、よど号赤軍派の田中義三が日本警察に逮捕される。
 11月、日本赤軍の重信房子が潜伏中の大阪で逮捕された。

 2001.4月、重信被告が、獄中から「日本赤軍の解散宣言」を行なった。


 2001.7.4日、永田が東京地裁に再審請求。


 2003.6月、よど号赤軍派の田中義三に懲役12年の判決が確定、熊本刑務所に収監される。その後、2006.11.22日肝臓癌のため大阪医療刑務所に移監、さらに病状の悪化によって12.15日に刑が執行停止され、千葉の病院に移送される。2007.1.1日、逝去(享年58歳)。

 2006.2.23日、日本赤軍の元最高幹部・重信房子被告(60歳)に対し、東京地裁が懲役20年を言い渡した。判決後、重信被告は弁護団を通じ、「事実を事実として検証せず、権力に迎合する不当な判決だ」とのコメントを出した。


 11.28日、東京地裁が、永田と坂口の再審請求棄却決定。





(私論.私見)