リンチ事件に対する各党派の反応

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).7.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 一連の連合赤軍問題、事件は、れんだいこの学生時代のものであり今でも何やら澱のように溜まったいる。この問題を総括せずんば何やらすっきりしない。そこで、今からではあるが、この問題に決着つけようと思う。いろいろ取り沙汰されてはいようが、れんだいこ流でアプローチしてみたい。有益な教訓を引き出してみたい。そういう訳で出航する。

 2008.1.28日 れんだいこ拝


【第4インターの総括】
 第4インターの「連合赤軍とわれわれの立場 テロリズムに反対し、人民による自衛隊兵士の獲得にむかって前進しよう」が「国際革命文庫」に所収されている。これを転載し確認する。

 ●連合赤軍とわれわれの立場

 連合赤軍の内ゲバ殺人事件、森、永田、吉野らによって主導された残虐な内ゲバのために、今日までに明らかにされたところによれば十四人の死者が出た。山田、寺岡らをはじめとする、これら今は語るべき言葉も肉体も失ってしまった戦士達にたいして、われわれ第四インターナショナル日本支部は心からの哀悼の意を表明する。彼らはもはや“誤りを改める”ことも出来ない。人民のたたかいのなかで、彼らが短い間に深くおちていってしまっていた安直なテロリズムの幻想から醒め、プロレタリア・人民の大衆闘争の鉄火で自らの思想と精神をきたえ直し、真実の革命戦士へと生まれ変わることは出来ない。

 われわれはかってのべた。革命に向う「一番近い道は原則の道」であり、「一番遠い道は自分自身の堕落につながる道」であると。(本紙二月二一日号「日本『新』左翼『内部ゲバルト主義』は『官僚の政治学』への堕落である」)
 彼ら十四人の死者達は、たしかにもっとも遠いところへ行ってしまったし、このことは、今権力の手中に逃げ込んだ生き残りの連合赤軍活動家の場合にも同じことである。人民の革命の世界、輝やかしい世界永久革命の世界は、もはや彼らの手のとどかないところにある。しかもそれは、主要に、彼らが自らはまり込んでいった、革命運動史上類例をみない程みじめな堕落の、閉じられた泥沼の世界からついに這い上る能力をもたなかった故である。死者達もまた自らの死に責任があるのだ。

 われわれはいっそう心をこめて死者達の両親、家族、恋人達にむかってこの哀悼を表明する。たたかいの犠牲者は、つねに必ずしも権力の銃弾に倒れるとはかぎらない。国家と人民のきびしく緊張した対決関係のなかでは、弱い精神が薄弱な政治性にしか支えられていないときには、自壊することによって闘争の生活を中断してしまう。このようにして倒れたもの達もまた、本質的には権力による犠牲者である。だから彼らの果されなかった目的と怒りを受けつぎ、真に有効で、革命的な手段によって最後の結論にまで突き進むことは、彼らの自壊をのりこえるわれわれの責務である。

 連合赤軍の内ゲバ殺人は、この意味では悲劇である。日本「新」左翼の総体にとって、これは他人事ではない。自らの運動や思想のこれまで見て見ぬふりをし、深く考えることを放棄してきた、最も腐敗した体質を、この事実はするどくえぐり出して見せた。

 われわれはこの悲劇を嘲笑しない。自らの思想は、こうした連合赤軍の小ブル急進主義とは無縁であり、連合赤軍のような愚はおかさない、われわれには“思想”があるから、内ゲバをやる場合にももっとうまくやる、などとうそぶいている党派、こういう党派をこそわれわれは、腹の底から嘲笑するであろう。

 革マル派は、あさま山荘“銃撃戦”の直後、これは“武装蜂起主義者の末路である”と居丈高な記者会見を行なった。中核派もまた同じようなものであると、ブルジョア世論に告発までしてみせた。彼らはこういったのだ。連合赤軍だけではないぞ、中核派もだぞ、と。

 誰にたいしての告発だったのだろうか。ブルジョア・マスコミを通じる告発は、ブルジョア世論とブルジョア国家権力にたいする弾圧要請以外のものでありうるだろうか。ここでもまた革マル派は、原則的な党派闘争を放棄した。


 だがこのことは必然である。内ゲバ主義者が最後にたどりつくものは、国家権力の介入への要請であり、もう一方では連合赤軍のように、内ゲバを殺人にまでレベルアップすることである。そしてこの二つのことがらは同じものである。内ゲバ殺人は、党派が国家権力を代行することである。原則的党派闘争の放棄――それは実は、党派闘争そのものを放棄することなのである。

 革マル派の諸君は、連合赤軍内ゲバ殺人の事実を直視するが良い。続々と堀り出されてきた残虐な遺体、彼らを恐怖と狂気のうちに死に追いやった苦痛、そして今獄中にある生き残りのものたちが一瞬も平安のなかにいることを許さない悔恨の懊悩、いかなる拷問にもまさる自責の地獄を思い見るが良い。これがすべての内ゲバ主義者の末路だ。これが諸君がスターリンから受けつぎ、日本共産党から“学んだ”内ゲバ主義の結論なのだ。諸君はこれでもまだ真実の自己批判を、避けようとするのか。

 「この『銃』の物神化と内部におけるリンチ・殺人。『反帝反スタ哲学』の物神化とその内部ゲバルト主義――このそれぞれにおいて両者は切っても切れない必然的な一体性をもっている」(「声明・連合赤軍について」本紙三月二一日号)。

 われわれは、同じ穴の反対の入口から顔をのぞかせて自分の尻を嘲笑する革マル派のような立場に対して絶縁する必要があるだけではなく、連合赤軍のあさま山荘“銃撃戦”をふもとの方から仰ぎ見て、はるかな“羨望・憧憬の念”(最首悟、日本読書新聞三月十三日号)をひけらかしている自己否定派ノンセクト主義者の立場とも、絶対に無縁である。

 諸君は一体、あさま山荘に立てこもった連合赤軍が、なにひとつとして自らの政治的主張を提起せず、人民に訴える大義を示さず、ただまちがったハンターのようにしかふるまわなかったことが、実は絶対的逃避行(それは人民的闘争からの逃避行にすぎない)の終局に他ならなかったことに、すこしも気づかなかったのか。それ程に諸君自身の感性が、人民の生活し闘争する世界から遠くへだたってしまっているのか。

 銃は何も語らないのだ。銃を通じて語るのは、自らの意志を最後の二者択一にしぼりあげた、銃を手にする人民自身なのだ。金嬉老氏の銃は語った。彼は実に多くのことを、日本と朝鮮の歴史の本質を、もっとも凝縮した形で語ったのだ。彼が銃を通じて真実を語り日本人民の全てに訴えた時、責任を問われるべきであったのは、同じ言葉を彼と同じ立場で語ることができない日本人民、いぜんとして極東帝国主義がつくりあげて来た抑圧・差別の構造のうえに、一国的繁栄の安逸をむさぼっている日本人民の総体であった。東京タワーに決起した富村順一氏が手にしたナイフもまた多くの真実を語った。彼は本土と沖縄の真実を明らかにした。

 だが、連合赤軍の銃は、どれ程多くの弾丸を発射したとしても、何も語らなかった。いやむしろ、国家権力に語らせた。連合赤軍に代って国家が語ったのである。今回の事件ほどに“国民”の支持と激励が警視庁に寄せられたことはかってなかったという。

 だから連合赤軍が、たとえ主観的であるにせよ、革命と人民の解放をめざしていたのであるなら、彼らの銃は彼ら自身を否定したのである。ここに、およそ自己否定派ノンセクトが、彼らの“憧憬の念”を禁じえない根拠がある。なるほど、最首悟氏ら自己否定のチャンピオン達も、いつの日か、銃を手に入れて自分自身の純粋な否定を語りえたならば、本望というものであろう。

 だがわれわれの方には、諸君に提案するもっと良い自己否定法が用意してある。象牙の塔たる東大――およそ日本人民の下層の大衆を抑圧し管理する技術と監督と官僚をしか生まず、そこで開発される学問の成果が、ことごとく帝国主義日本のアジア人民への敵対の武器にしかならないような帝国主義大学の内部で、いつまで諸君はシコシコと偽りの作業を続けるのか、諸君の外部には、闘争し、闘おうとし、闘争し続けようとする下層人民の世界が、国境を超えて広がっているのだ。帝国主義者から餌をもらうのはすぐにやめよ。諸君らは結局、待遇に不満をもらして吠えている番犬達だ。外に出よ。本質的に帝国主義の“知的”中枢たる東大のような機構は、人民と共に外から破壊すれば良いのだ。それだけが今のところ不平をもらす番犬にすぎない諸君達の、いますぐにでも出来る自己否定のやり方だ。


 だが諸君にはその勇気がない。だから諸君は、玉砕を夢見る。夢見るだけなのだ。そしてあさま山荘“銃撃戦”につづいて、内ゲバ殺人の事実が明るみに出て、冷い風が吹きはじめると、諸君はもとの常識面にもどって沈黙を守る。まったく、自己否定とは自己保身の偽装にすぎないのだということが、こうして天下に明らかになる。

 われわれは、諸君の世界とは、きっぱりと無縁である。
 連合赤軍の事件は、完全にひとつながりである。彼らが真岡市で猟銃店を襲い、銀行を収奪し、綱領を不問にして“軍”の野合を遂げ、山岳アジトに逃げ込み、仲間を殺し、あさま山荘“銃撃戦”を展開し、逮捕され、権力に屈服して自供するに到るこの過程全部がひとつながりである。この中のどれかを支持し、どれかを支持しないなどということは、はじめから成りたたないのだ。

 人民と党、歴史と綱領、大衆闘争と革命のための、ねばり強くラディカルな追求を、ほんの一合目ものぼり切らないうちにあきらめて、自分自身の恐怖に追いつめられ、人民的闘争の世界――この唯一の革命の世界から逃避して、自らと権力の非生産的な“闘争”で生命を消耗させた彼らの、大衆と自分自身に対する小児病的な不信は、日本「新」左翼運動の今日の水準の冷酷な表現である。この悲劇にたいしては、したがって日本「新」左翼のすべてが責任を分ち持たねばならず、とりわけ、わが同盟は日本急進主義大衆運動の先頭に立ちつづけ、しかもその小児病的水準からの脱却を最も強く自覚し意図してきただけに、こうした堕落の傾向との闘いをするどくやりぬくうえで、力およばなかったことをもっともきびしく批判されなければならない。

 損害は重大である。このことについては、前号の声明ですでにのべているが、日本階級闘争の革命的潮流にとっては、平静な時代には十年かかってもとりかえすことができないほどの深刻な打撃が加えられたのである。権力から受ける打撃よりも、自分の内部から発生する腐敗によって、いっそう深い打撃を革命は受けるのだ。

 損害を軽視することはできない。ブンドの諸派や連合赤軍の残存活動家、そしてその他の諸派はこの厳しい損害に気づく能力をもってはいない。だがわれわれは自覚していなければならない。そして極東・アジア人民の闘争の発展にどこまでも依拠して、この打撃をとり返さねばならない。

 人民の闘争は、連合赤軍の事件にもかかわらず、いっそうするどく大胆に発展するだろう。むしろそれらは、ますます自主的で、ラディカルな形態を自ら創りあげていくであろう。このことに関してはいかなる悲観主義も不必要である。だが問題は、闘争の総体にではなく、その前衛にとって深刻なのである。大衆の“新”左翼に対する不信と警戒が強まり、前衛的諸党派と人民的闘争のきってもきれない関係をきずきあげることの困難が増すであろう。

 それ故われわれは、連合赤軍の悲劇から、どれだけ多くの教訓をわが日本「新」左翼諸党派と活動家が学びとり、自らの闘いの迷い込んではならない袋小路を避けて通る標識にし得るかを、徹底的に明らかにし、討論し、血と肉にしなければならないのである。

 死者達にたいするわれわれのとむらいは、そのようにしてなされるであろう。これだけが、彼らの二重に“非業”な死を無駄にしないための努力であるだろう。“銃撃戦支持”などと浮かれているもの達こそ、今はすでに犠牲者の墓標の群に加わった十四名の戦士達を、冒涜しているのである。

 生き残り、権力の手中にある連合赤軍の活動家達にたいしては、われわれのとるべき態度は次のようである。
 彼ら全員は、国家にたいしては無罪である。国家と人民との関係の中で、彼らが有罪であるとすれば人民に対してである。国家は彼らを裁くいかなる権利も持たない。国家は十四名の死者を、“厄介払いができた”と喜んでいることはあっても、悲しんでいるわけではない。ある警察官僚は、“自業自得さ”と吐きすてた。この点では表彰したいほどなのだ。そしてまたそのゆえに、彼らは人民にたいして有罪なのである。


 国家が裁き、有罪を宣する真の意図は、“過激派”総体に政治的打撃を加えるためであり、部分的には、死傷した権力の身内の復讐のためである。だから彼らは、国家の法廷では絶対に無罪であり、むしろこの悲劇の客観的・本質的な原因であり、加害者たる国家権力こそが有罪なのである。

 だが、他方人民の法廷においては、彼らは有罪である。彼らのうち、多くのものにとっては、深刻な誤りとして自らの力と人民の闘争の支援によって克服する道が開かれなければならない。だが、指導部に関しては、この“闘争”総体を企画し、指導し、実践させた中枢的指導部に関しては、問題はすでに“誤り”の領域をこえ、犯罪の水準にある。彼らは、階級闘争と革命にたいして犯罪をおかしたのである。十四名の若き戦士と、今獄中にある多くの戦士を、意識的に殺戮し、権力に売り渡し、そして革命的潮流の総体を決定的に傷つけた。これは階級闘争史上に残る犯罪であり、権力をとったプロレタリアートにたいしておこなわれたスターリニストの犯罪に比すべき、権力奪取にむかってまさに闘いつつあるプロレタリア・人民の内部でその団結を破壊した重大な犯罪である。

 われわれはこの犯罪は、“誤り”は誤りとして卒直に認め、克服する、などとすませる程度のものではないと主張する。彼らは権力をとった人民、権力組織をつくりあげた人民によって改めて裁かれ、罰せられなければならない。

 したがってわれわれのとるべき態度は、第一に、彼ら連合赤軍の活動家全員を奪還することであり、第二に、彼ら総体にたいして人民にむけた自己批判を要求することであり、第三に、その意識的指導部にたいしては、権力樹立のもとでの人民裁判において、改めて有罪が宣せられなければならないのである。

 もちろん今日の階級闘争の力関係のもとでは、以上の立場は、文字通りに実現できない。だが、以上の原則は、連合赤軍の最後の一人が権力とのたたかいを望むかぎり続けられなければならない法廷闘争に参加する全ての人々によって、確認され、記憶されなければならない原則である。

 われわれはこの原則のもとでのみ、救援闘争に参加する。救援闘争は容易ではない。だがわれわれは流れに抗さねばならない。そして流れに抗するもののためには、しっかりした足場が必要なのだ。

 この問題に関する全ての真実と見解を、闘争する人民に知らせ、討論し、理解を獲得しよう。まずこの任務を果すことから、われわれははじめなければならない。

 最後に、この問題はすべて、赤軍派ならびに京浜安保共闘の組織の責任に属することをわれわれは主張する。この二党派にとって、かれらが引続き階級闘争に参加しようとするのであれば、党派としての根底的な自己批判が、全人民にたいして提出されなければならない。連合赤軍の指導部のおかした犯罪は、この二党派の綱領的路線の帰結である。だから自己批判は、綱領的自己批判でなければならない。そしてそれがなし得ないのであれば、諸君はよろしく自らの組織を葬むるべきである。この点についてあいまいな態度をとるいかなる党派をも、人民は再び闘争の戦線に迎え入れようとはしないであろう。

 ●連合赤軍の逃避行

 連合赤軍の無数の誤りの根元は彼らが現に行なってきた逃避行を“戦争”=軍事的行為であると思いちがえたことにあった。この誤解にもとづけば、彼らの集団は“軍隊”であり、彼らはその兵士であることになる。そこで彼らは、内部の規律は命令と服従の二つの規範で構成される軍律であると考えた。なにしろ軍律なのだ! 死刑があってあたり前ではないか。どんな罪が死刑に値いするか。敵前逃亡、敵に対する内通の恐れ、命令の不充分な遂行、同志にたいするブルジョア的あまえ、その他……。

 敵と対特する軍隊であるからには、自由分散的な政治討論をやっている暇はない。ただ理解することが重要。指導部の提起した理論の水準が多少低くとも、それはしかたがない。なにしろ戦争なのだから……。

 だが本当にそれは“戦争”だったのだろうか。彼らは本当に“軍隊”だったのだろうか。戦争は国家の政治の一分野であり、国民の政治的行為であることを明らかにしたのは、もう百五十年前のクラウゼヴィッツ将軍にはじまる。戦争は異なった手段をもってする政治の継続である、と彼は言った。

 だが誤解してはならない。彼の言った政治とは、諸党派の政治活動一般などを指してはいない。それは国家の行為としての政治であり、まったく厳密にそうである。このことは革命の立場においても受け入れられて来た。クラウゼヴィッツのブルジョア国家が、プロレタリア独裁の権力へ、ブルジョア国家の国民が、権力をになうべきプロレタリア・人民へと置きかえられたうえで……。

 権力をめぐる闘争、敵権力を打倒し自己の権力を樹立することなしに、“戦争”を行なうことはできない。内戦であれ外戦であれ、同じことである。武装蜂起に関しても問題は同じである。合法・非合法の二重権力状況、したがってプロレタリア・人民の権力機関をつくることなしには、武装蜂起を準備し、組織することができない。これは革命史の第一番の教訓である。

 連合赤軍の“国家”はどこにあったか、その“国民”はどこにいたか。どこにもなかった。これでは“戦争”にも“武装蜂起”にもなり得ようはずがない。

 ゲリラ戦なら連合赤軍にも出来たのであろうか。だがゲリラ戦もまた戦争の一領域である。ゲリラ戦にとってもその主体、国家と国民が、とりわけ国民が必要なのである。ゲリラ戦=不正規兵の戦闘方式は、国民総武装=国民総戦闘の一形式である。

 党が武装することはある。ヨーロッパの革命的情勢の中で、大衆の武装にさきがけた党の公然、非公然の武装は幾度も立ちあらわれた。だがそれは、党の公然たる政治的活動、大衆運動をブルジョアジーと国家の傭兵による襲撃、ファシストの私兵の闘争破壊から自衛するための手段であった。党が、党の自衛組織をもって、国家権力の直接の打倒を企てたり、まして“戦争”を遂行しようなどという“理論”が、マルクス主義の陣営でまじめに議論された歴史はないのである。

 それは何故か。敗北するからである。勝利が絶対に不可能だからである。戦争は敵を殲滅することであって、それ以下ではない。戦争を宣言することは、敵を殲滅し得なければ自らが殲滅されることを覚悟することである。二重権力と人民の武装、敵軍事力の解体なしに、党の自衛組織だけで国家権力を打倒できるなどという夢想が、マルクス主義者にまじめにとり上げられたことがなかったのは、この故である。

 われわれはこれらのことを、毛沢東を例にして説明することができる。毛沢東は言う。「共産党員の一人ひとりが『鉄砲から政権がうまれる』という真理を理解すべきである。」 同時にまた言う。 「革命戦争は大衆の戦争であり戦争をするには大衆を動員する以外になく、戦争をするには大衆に依拠する以外にない。」

 連合赤軍の諸君が意図した“戦争”、“武装蜂起”は、国家=権力の問題も、国民=人民大衆の問題も不在なのであり、したがって戦争でも、武装蜂起でもなかったのである。

 それ故もちろん、彼らの集団が自らに課した“軍律”なるものもまったく意味を失ってしまった。戦争する兵士なのだからと思い込んで自らに納得せしめて来たきびしい“軍律”が、あとからあとからくずれていき、それを立て直すためにいっそう陰惨な報復手段に頼るようになったのも、彼らの運動の前提があまりにも非現実的であることに、彼らの意識の半分ではいつも気づかざるを得なかったために他ならない。

 この問題に関しても毛沢東の言葉を聞こう。「あらゆる軍事行動の指導原則は、できるかぎり自己の力を保存し、敵の力を消滅するという基本原則に基づいている。」 連合赤軍の“軍律”は、敵の力を少しも損わないで、自己の力をできるかぎり消滅させたのであった。これはもはや、目的意識的な軍事行動であるとは言い得ない。

 それでは一体、連合赤軍の行動は全体として何だったのであろうか。答えは明白である。彼らが戦争とか、蜂起とかの言葉で意図したのは、単なる個人的テロルであり、彼らの思想はテロリズムにすぎなかったのである。

 テロリズムであるが故に、彼らは大衆を必要としなかったのであり、逆に大衆を恐れて山へ逃げたのである。テロリズムであったが故に多数の戦闘力を必要としなかったのであり、強固な意志を持った数人が残れば良かったのだ。

 だが不幸なことには、彼らは自らがテロリズムを実行しているのだと思わず、革命戦争を遂行しようとしているのだと意識していた。衝動と存在のテロリズム化と意識の表側で自覚していたマルクス主義とは、永遠に和解しない。このことが内部の犠牲がさらに拡大していく原因になった。テロリズムとマルクス主義の見分けがつかなくなった頭では、もはやこの矛盾は解決できなかった。彼らが仲間に加えたリンチの想像を絶する残虐さこそ、彼ら自身がおちいり、自らうすうす気づかざるを得ないためにいっそういら立ちを増していた矛盾の反映なのである。

 彼らの行動は、したがって、まったく悲劇的な誤解のつみ重ねであった。だからわれわれはここでテロリズムと革命的軍事行動の原則的区別について、もう一度明らかにしておかなければならない。

 ●テロリズム反対

 二〇世紀が生んだ最大の天才的軍事組織者であり、最大の革命家の一人であったトロツキーは、テロリズムについて次のように言っている。「手段はただその結果のみによって正当化され得る。だが今度は結果が正当化される必要がある。プロレタリアートの歴史的利益を表現するマルクス主義の見地からは、結果はもしそれが自然に対する人間の力の増大と人に対する人の力の廃棄へと導くならば正当化される。『しからばわれわれは、この結果を得るためには何ごとでも許されると理解すべきである』と俗物は皮肉に要求し、かれが何も理解しなかったことを示す。真に人類の解放へと導くものが許される、とわれわれは答える。」

 「主体的な動機の問題ではなくて客観的効果の問題がわれわれにとって決定的意義をもっている。所与の手段は真に目標に導く能力をもっているか。個人的テロルに関しては、理論も経験も共にそうではないという証言をもっている。テロリストに対してわれわれは言う。大衆にとって代ることは不可能である。ただ大衆運動においてのみ諸君は諸君の英雄主義のための適切な表現を見出し得る、と。」

 あらゆるテロリズムの共通の特徴は、大衆に、大衆運動にとって代ろうとすることである。だがこうした試みは、大衆の解放のためにはすこしも役に立たない。連合赤軍の諸君も、なかなか銃や爆弾を手にしようとしない日本人民にとって代ろうとした。そのあげくがどうなったか、万人周知のとおりである。

 何故か。「労働者の解放はただ労働者自身によってのみ達せられ得る。それ故、大衆をあざむき、敗北を勝利として、友人を敵としていつわり、労働者の指導者を買収し、伝説をデッチ上げ偽造裁判をやる。一言でいえば、スターリニスト達がやっていることをやるより以上に大きな犯罪はない。これらの手段はただ一つの結果、歴史によってすでに有罪を宣告された徒党の支配を長びかせることにのみ役立ち得る。しかしそれらは大衆を解放するには役立ち得ない。」

 テロリズムはスターリニズムと同じ基盤――大衆に対する不信のうえに立っている。そして連合赤軍のやったことは、これまでにスターリニストがやってきたことの小心なためにいっそう陰惨になった模倣にすぎない。

 テロリズムは誰でもはじめることができる。分裂してめちゃくちゃになったブンドの残党や、それを見て“党派不信”などを賢しげに気取っているノンセクト活動家などが、気の合った同志ではじめようとすれば、いつでもはじめられる。安直さは、テロリズムの“魅力”のひとつである。

 そしてその分だけ、階級闘争に対する無責任が補っている。安直にテロを行ない、安直に逃亡し、逮捕されればやすやすと自供し、他人をまきぞえにする。こういうのが今日の、ノンセクト・テロリズム路線の特徴なのである。ツァーリに抗した往年のロシア・テロリスト達の厳格な自己批判と規律は薬にしたくても見当らない。

 われわれはテロリズムに反対し彼らが階級闘争から一刻も早くいなくなるように努力しなければならない。こういう手合いは、帝国主義に根底から打撃を与えようとする人民の闘争にとって、邪魔であるだけではなく害をなす。

 もちろんわれわれは、テロ一般を否定しない。「内乱の条件下では、個々の抑圧者の暗殺は個人的テロルの行動であることをやめるだろう。」(トロツキー)われわれは、蜂起から革命戦争への道に、大衆を組織すべくたたかうであろう。そのときテロは、組織的に展開されて「舞台を降りようとしない反動的階級にたいしては、効果的」な武器になるだろう。

 いまはまだその条件下にないことは、テロが個人的テロルとしてしか組織され得ないことを見ても明らかだ。だとすれば、そのような条件をつくり出すことこそ、いまの課題であって、ほかにはあり得ないのである。

 ●われわれの“軍事的”闘争

 われわれは、軍事的闘争という大そうな名前を冠したテロリズムに反対し、その最も悲惨な実例として連合赤軍をとらえた。だがこのことは、われわれが今日、軍事問題の領域に意識的な闘争の戦線をきずかなくても良いと主張していることになるだろうか。

 革マル派や解放派の諸君は、軍事問題はまだとり上げる時期ではない、と考えている。ただ、内ゲバは別である、と。だがわれわれに関して言えば、軍事問題を闘争の課題に設定することを、くり返し主張し、実践して来た。ただそのやり方と問題の方向が、連合赤軍の諸君やノンセクト・テロリスト達とはおおいにちがっているだけである。

 現在、極東帝国主義の矛盾は、日本帝国主義の軍事政策=四次防と人民の対決に集中的にあらわれはじめている。その中心点は、沖縄派兵であり、本土において沖縄闘争と結合する拠点は、立川基地移駐の問題である。四次防をめぐり、帝国主義軍隊としての本質を暴露しはじめた日本自衛隊にたいする人民の反対闘争が、いま広汎に、拠点的に燃えあがりはじめている。そして沖縄派兵に関しては、緒戦においてすでに、国家は重大な後退を強いられている。

 この燃えあがる大衆運動は、日本帝国主義の軍事権力にぐさりとつきささっている。ここにわれわれの“軍事問題”の突破口が切り開かれている。われわれと人民の“軍事的闘争”は、ここから開始されていくべきである。

 四次防をめぐる人民的反対闘争のなかに、われわれは、反戦兵士の獲得という課題を提起し、になうであろう。帝国主義軍隊に反撥し、警戒する人民にむかって、自衛隊兵士と人民の一大交流を呼びかけるであろう。このようにしてわれわれは、帝国主義軍事力解体のための長期戦の、第一歩を踏み出すことを決意している。

 銃を手にした連合赤軍の自称兵士達の“たたかい”は、結局警察の壁をつらぬくことさえできず、自衛隊兵士とは対面することもできなかった。敵軍と出会う前に壊滅してしまうような“軍”は、あわれである。

 われわれは、未だ銃を手にはしないが、紙と言葉の弾丸を、それも大量の弾丸をもって自衛隊兵士のところへ出かけていくだろう。それは兵士の生命を傷つけないが思想と心に働きかけるであろう。

 帝国主義の軍事政策に反対する闘争、兵士と人民の交流を通じて軍隊に工作する闘争、それが今日のわれわれの“軍事的闘争”である。これはたんに、われわれの闘争ではない。なによりも大衆の闘争である。この闘争を通じて、大衆は、軍隊を知り、意識する。軍隊の本当の任務が何であるかを把握し、軍隊の強さと弱さをつかむ。このようにして大衆は、未来の革命戦争の準備のために、不可欠な第一段を踏むのである。

 だが、軍をつくるという課題はどうなるか、と聞く人がいる。われわれのこたえはこうだ。いまわれわれは、軍をつくらない。軍は権力の中枢部分である。軍をつくるためのたたかいは、いまは、権力をつくろうとするたたかいにつつまれて存在しているのである。しかし同時に、われわれは将来の軍事綱領と軍事指導能力のため、可能な努力をかさねなければならない。軍事問題を学び、軍事情勢を分析し、大衆運動の軍事的側面を研究するであろう。帝国主義軍隊の内部に存在する有能なカードルを、将来の赤軍将校たるべく、獲得しようとつとめるであろう。われわれはこういうふうに、軍をつくるという課題の意識的準備をはじめるであろう。兵士に関して言えば、兵士はいまだ募らない。兵士の素材は、闘争する大衆である。闘争するプロレタリア・人民が、自らの権力を樹立するに到るとき、彼らは最も優秀な英雄的な兵士として、社会主義共和国の軍事的任務につくだろう。

 これがわれわれと人民の“軍事的闘争”である。連合赤軍の“軍事的闘争”とはだいぶ異っていることはたしかである。連合赤軍の“軍事的闘争”はすでに終ってしまった。しかも完全な敗北として終ってしまった。“捕虜”にされた兵士達は、はやくも“敵国”に帰順しつつある。

 だがわれわれの闘争はと言えばはじまったばかりであり、しかもその規模は、戦後日本階級闘争史上、未曽有の広がりを示しはじめている。

 諸君! どちらの道に希望と確信をもてるか、まったく明らかではなかろうか。
 くり返して言おう。一国的な平和主義のなかで、いまのところずっぽりと首まで埋まっている日本のプロレタリア・人民を、戦争と革命の問題に引き寄せること、そのためには彼らの平和主義をもエネルギーとして、軍隊と直面させ、その獲得におもむかせること、これが問題の核心なのである。

 日本の人民の平和主義は、真に根深いものである。このことは、連合赤軍の事件自身によって証明された。彼らはひとたび銃を手にするや、銃に支配されてしまい、何かどえらいことができると思い込んでしまった。しかし、彼らが巨大な労苦をつみ、人民から徹底的に孤立してまで手に入れた一〇丁か二〇丁の銃によってなしとげたことは、自分の頭を粉砕することだけだったのである。

 平和主義的大衆と帝国主義軍隊自衛隊の、戦後二〇年間にわたる“隔離された共存”の関係を、どのようにして打ちこわすのか、われわれの軍事的課題の現在の核心は、このように存在している。すべての先進的活動家の全智全能を、この核心に集中しなければならない。これは腰を据えてとりくむべき課題なのである。

 ●ボルシェヴィズムに復帰せよ

 連合赤軍に反対するキャンペーンが、あれ狂っている。こうした時期には、このキャンペーンに参加することは、いともたやすいことである。だが、真実の教訓を、真剣な批判を通じて獲得しようとしないで、超然として見せることも、同様にたやすいことである。

 日本共産党は、連合赤軍を“毛沢東盲従分子”として指弾し、ブルジョア世論におもねりながら、ソ連共産党と口裏を合わせ、革命中国に引き寄せられていく日本人民の流れに棹をさす口実にしようとしている。だがこれは狂気の沙汰である。このデマゴギーは、やがて重く罰せられるであろう。

 毛沢東は、現存する最も偉大な革命家の一人である。彼の思想と指導にどれ程の誤りがあろうと、われわれが毛沢東から学びとるものはあまりにも多い。連合赤軍の破滅は、毛沢東への追従の故ではなく、その反対である。京浜安保共闘の指導者達は、毛沢東方才を口で叫びながら、毛沢東のたたかいも思想も、ほんの少しでも理解しなかった。毛沢東は徹底的な大衆路線主義者であった。彼らは、毛沢東に学んだ故にではなく、毛沢東に逆らったために破滅したのである。

 諸君! 連合赤軍の悲劇は、人民の大衆闘争の発展とエネルギーを不信したために起こった。だが見てみようではないか。闘争は発展しているのだ。自衛隊派兵を撃退しつつある沖縄の人民の闘争。不屈な、まったく不屈な三里塚農民、北富士、砂川、そして全国の反基地闘争をたたかう人民。とどまるところを知らず拡大する反「公害」闘争。そして組織・未組織プロレタリアートの不満と怒りは、充電されつつある。

 他方で帝国主義者が、すこしでも強められた証拠でもあるか。社民やスターリニストの大衆的支持が、すこしでも本物になったという兆候があるか。闘争がすぐに勝利する展望こそないが、われわれの革命的前途は開けており、人民の闘争する世界に向ってのびている。この道を歩むことが必要なのである。“過激派”対警察という対決構造から脱して、帝国主義とプロレタリアート人民の対決構造のなかへ大胆に転進しなければならない。われわれがこのことに成功すれば“追いつめられている”というおそれとか“ここらで一発やらなければもう終りだ”というようなあせりは姿を消し、たたかいはこれからなのだという確信があふれてくるだろう。

 われわれは、本紙が獄中にいる連合赤軍の活動家の手もとにとどくことを願う。彼らと、すべての「新」左翼的活動家に、われわれ自身のためにトロツキーの次の言葉をおくる。トロツキーはこれを、彼の息子がスターリンの魔手にかかって死の病床にあったときに書いた。

 「大衆は、もちろん、決して欠点がないことはない。大衆の理想化はわれわれにとって無縁である。われわれは種々の条件下で、種々の段階で、その上最大の政治的虚脱においてかれらを見た。われわれはかれらの強い側面と弱い側面とを観察した。かれらの強い側面――決断、自己犠牲、英雄主義――は常に革命的昂揚の時代にそのもっとも明白な表現を見出した。この時期の間、ボルシェヴィキは大衆をひきいた。その後被抑圧者の弱い側面、異質性、文化の不足、世界観の偏狭が前面に出て来た時、異なった歴史的局面が浮かび出た。緊張に疲れた大衆は、幻滅に陥り、自信を失った――そして新しい貴族政治への道を開いた。この時代にはボリシェヴィキ(「トロツキスト」)は自己が大衆から、孤立しているのを見出した。実際にわれわれは二つのかかる大きな歴史的循環を経験した。一八七九〜一九〇五年、高潮の数年、一九〇七〜一三年、退潮の数年、一九一七〜二三年、歴史上未曽有の高揚の時期、最後に、今日でさえ終っていない、新しい反動期。これらの無限の諸事件において『トロツキスト』は歴史のリズム、すなわち、階級闘争の弁証法を学んだ。かれらはまた、かれらの主体的計画と綱領をこの客観的リズムにいかに従属させるべきか、ということを学んだ。しかもある程度まで成功的に学んだようである。かれらは歴史の諸法則が個々人の好みに依存せず、かれら自身の道徳的基準に従わないという事実にたいして絶望に陥らないことを学んだ。かれらは自分の個人的好みを歴史の法則に従属させることを学んだ。かれらは、もし敵の力が歴史的発展の必要と矛盾しているならば、もっとも強力な敵によっても驚かされはしないということを学んだ。かれらはいかにして新しい歴史的高潮が他の岸へかれらをもたらすであろうということを深く確信して、流れに抗して泳ぐべきかということを知っている。すべてのものがこの岸に達するわけではなかろう。多くのものはたおれるであろう。しかし公然と眼を開いて強い意志を持ってこの運動に参加すること――ただこれのみが理性ある人に最高の道徳的満足を与えることができる。」(トロツキー「かれらの道徳とわれわれの道徳」一九三八年二月一六日)。

 人民と党と革命のために、レーニン・トロツキーとボルシェヴイキから学び、その伝統に復帰しようではないか。

 ――一九七二年三月二七日―― 「世界革命」紙一九七二年四月一日第二六七号所収


【共産主義者同盟赤軍派中央委員会の「合赤軍事件に関する特別報告」】

 はじめに

 共産主義者同盟赤軍派としての結成以来の歩み――とくに連合赤軍の歩み――を総括。
 
 連合赤軍の同志殺害に関する問題。同志殺害という行為は、当時の政治思想上、路線上の問題ときってもきりはなせない。軍事第一主義・観念的共産主義・大衆からの召喚主義等々の誤まった政治・思想上、路線上の問題にその起因があることはいうまでもない。同志殺害の行為の責任を問うことと、亡き一二名の同志(日共革命左派神奈川県常任委員会系の同志たちも含めて)の名誉回復を確認する。

 〔1〕 連合赤軍同志殺害の事実経過とその分析

 連合赤軍のゲリラ戦は、大衆闘争の武装闘争への転化をある程度促進した。その指導性を軍事のエスカレートに求め、その活動は軍事活動に一面化していった。戦術的には大衆運動から召喚し、人民から孤立し、山岳アジトへの撤退を余儀なくされていった。我々は軍事第一主義的な建軍革命戦争路線の根本的な路線転換が要求されていた。この要求に赤軍派・日共革命左派神奈川県常任委の指導部がこたえられなかったため、両組織は自らの内部矛盾を激化させていき、それは中央軍・人民革命軍、連合赤軍に最も集中して現われた。結論からいえば、我々は一連の同志殺害を同志殺害という形をとった連合赤軍指導部と「下部」兵士との党内闘争であり、又指導部による党内闘争の暴力的圧殺であると分析する。

 連合赤軍同志殺害は七一年夏、向山茂徳同志・早岐やす子同志に対して人民革命軍指導部によって行なわれた事に端を発している。この理由は、両同志の戦線離脱による権力への通報を恐れたものだった。これは七一年一二月二六日の以後の一連のいわゆる「総括」→同志殺害の直接のきっかけをなすものであった。

 だが、この理由は一二名の同志殺害にとっては外因として作用していたにすぎない。真の内在的理由は別の処にある。

 七一年一二月二〇日、共産同赤軍派の中央軍と日共革命左派神奈川県常任委の人民革命軍は組織合同を決定した。その政治的・軍事的基調は以下である。(1) 合同軍事訓練を展開し、新党建設・銃によるせん滅戦をかちとる。(2) かかる飛躍を短期間に果たすために厳しい自己批判―相互批判を通して兵士の小ブル性を払拭し、隊内共産主義をかちとる。革命左派の加藤能敬同志・尾崎充男同志がまずこの方針に反対した。加藤同志は爆弾闘争の多発化による大衆闘争の武装化と武装闘争派の統一を主張し、尾崎同志は反米愛国路線の堅持を主張した。連赤指導部は戦術的には爆弾闘争の重視を右翼日和見主義、思想的には反米愛国の堅持を毛沢東教条主義と批判し、軍―共産主義の母胎論の思想を対置した。だが、彼らは思想(綱領)・戦術・組織全般にわたる党内矛盾を解決するのではなく、反対派を暴力的に圧殺していく、銃をもてる軍隊への飛躍、兵士の小ブル性の払拭という隊内共産主義論はすでに赤軍派にあっては七〇年秋第二次綱領論争において路線化されているが(新聞『赤軍七号』)、実践的にはこれは自分の反対派を暴力的に圧殺していく口実以外の何物でもなかった。

 何か個人の禁欲主義的修養によって小ブル性が克服され、しかも暴力的に行えばより徹底して行えると考えるのである。この「共産主義論」はマルクス主義とは縁もゆかりもない。連赤指導部はあるべき共産主義的人格を我流に規定し、それに適応しない点を恣意的に並べたて、あるべき人格と違うからといって暴力をふるい、次々と同志を殺害していくのである。森・永田両名は、この「共産主義化の闘い」の中で全く自己の小ブル性は問わないのである。ということは、彼らは資本主義社会が必然的に刻印するブルジョアイデオロギー、習慣等から完全に超越している「共産主義的」人格である、ということになる。森は、この点を上申書で自己批判し、自己批判―相互批判の作風がなかった、病を治して人を救うという観点がなかったからだといっているが、何故そのような大原則をふみにじったのか? それは、相互批判をすれば永遠の相互告発運動になり、その過程で路線をめぐる意見の対立が拡大していく以外にないからだ。したがって、一方的な糾弾になっていくのである。このとき、党内論争を圧殺するためにそのような誤まった共産主義観をおしつけたのか、それとも逆なのかというのはさして問題ではない。誤まった共産主義観と党内闘争の圧殺は密接に結びついていることを確認しておけばよい。

 加藤同志に対しては、パクられたとき権力と雑談した。尾崎同志には「総括」されているが、加藤同志をなぐったとき口走った言葉が問題だ。小嶋和子同志に対しては加藤同志に接吻されたことを報告するときにうれしそうなそぶりをした、等々の理由で、まず自己の小ブル性の総括を要求し、次に全員でなぐり、ロープでしばり死亡させていくのである。

 かくして、連赤指導部は、銃によるせん滅戦という極左的戦術に対する批判とまともに論争せず、マルクス主義と全く無縁な隊内共産主義論という小ブル的修養思想を対置し、指導部の指導放棄からくる連合赤軍の行きづまりの責任を被指導部兵士の人格的欠陥になすりつけ転嫁していくのである。

 以下、同志殺害を通して連赤の内部矛盾がどのように拡大し、内部崩壊していくかをあとづけてみよう。

 ◎進藤同志に対して 彼が横浜寿町で活動していたことをとりあげルンプロ的個人主義的であると批判し、暴行を加える過程で死亡。(赤軍派最初の処罰)

 ◎遠山同志に対して 彼女は女性であることに甘えていて兵士の自覚が足りないと批判され、暴力を加えられ、七二年一月七日死亡。

 ◎行方同志に対して (1) いつも第二線にいる、(2) 女性関係がルーズ等の理由で七二年一月三日から九日にかけて暴力的に批判され死亡。
 (この三人の同志は森らの「共産主義論」にだまされ、その要求に必死になって応えようとしながらその過程で殺害された。だが、内部矛盾は更に拡大していく。)

 ◎寺岡恒一同志に対して 彼は野心家であり、女性を蔑視している、という理由で中央委員でありながらそのような小ブル性の責任は大きいとして、一月七日森によって死刑宣告され、殺害される。

 ◎山崎順同志に対して 優等生的である。女性関係がルーズであると総括を要求。(一・一八)(一九日某同志が戦線離脱=いわゆる「脱走」)その時、彼が「六名を殺した。自分も殺される。」といった事を把え、総括―共産主義化の意義が他の殺害された同志に比べて全然分っていない。だから脱走して敵権力に通報する可能性がある、とし、彼も死刑宣告され殺害。(この二同志の場合、進藤、遠山、行方同志の場合と比べて内部矛盾に質的違いがある。この過程で(1) 某同志の戦線離脱があり、(2) 二同志とも死刑という事で意識的に殺害されている。これは指導部は人民的内部の矛盾を「通報する恐れ有り。」の理由で意識的に敵対矛盾にまで転化したこと。被指導部の方からは、一つは戦線離脱という形で、もう一つは「殺される」とはっきり言った事で、「総括」が「共産主義化」でも何でもなく同志殺しの口実にすぎない事を意識し始めたということ、を意味している。加藤同志の戦線問題を巡る指導部批判は今や、無意識的ではあれ思想的批判にまで深刻化しだしたのである。党内闘争・内部矛盾は客観的には、指導部の共産主義に対する思想的立脚基盤を巡る対立に発展していった。)

 ◎金子みちよ同志に対して 妊娠中であるにもかかわらず兵士として山岳ベースに結集した彼女に対して「妊娠をたてにとって甘えている」と総括を要求し、その過程で暴力を加えられ、死亡寸前になっている彼女の胎内から子供を取り出す事まで検討するが、二月四日死亡。

 ◎大槻節子同志に対して (1) 戦術上は右翼日和見主義 (2) 服装等趣味がブルジョア的として総括を迫るが、終止反抗的な中で死亡、一月三〇日。(指導部に対する思想的批判を正しく党内論争として解決できず、又、する気もない連赤指導部は、矛盾が拡大すれば益々その解決方法は醜悪なものになり、且つ、殺害される方はそれに対する批判的姿勢を強めていく。)

 ◎山本順一同志に対して 彼は初めて総括―同志殺しが誤まりである事を政治主張として述べる(一・二二〜二六)。指導部は、殊ここに至っても自己の誤りを認めず、逆エビにしばり総括を要求。一月三〇日死亡。

 ◎山田孝同志に対して 一月三一日に実践能力がない、理論主義的、官僚主義的として総括を要求。→二・二中央委員辞任。二・一二死亡。(山本同志の真正面からの批判にも答え様としなかった指導部は益々思想的堕落を深め、同志殺しは寺岡同志に続き、中央委の側にまで波及し始めた。連赤は今や内部崩壊を起こし始めたのだ。)

 〔2〕 亡き一二名の同志たちの名誉回復について

 以上の同志殺害の事実経過をもとに、以下の一二名の同志たちの名誉回復を提案し、決議するよう要請する。殺害された同志たちの名誉回復については次のとおりである。

 (イ) 進藤隆三郎同志について 進藤同志は革命的兵士であって、いわゆる「総括」の「革命兵士の資質」に関する「個人主義的」とか「ルンプロ的」とかの恣意的な口実は全くあてはまらない。進藤同志は革命兵士として闘い、連合赤軍指導部の誤まった指導のために二十二歳の若き生涯を終えた。

 (ロ) 遠山美枝子同志について 遠山同志は赤軍派結成当初からのきわめて献身的で革命的な同志であった。遠山同志の「総括」理由にのべられた「服装や化粧や態度」に「女性としてのブルジョア性」がみられることとか、「戦士としての独立性、行動力に欠けている」等の恣意的な口実はすべてあてはまらない。遠山同志は、革命兵士としてたたかい、連赤指導部の誤まった指導のために二十五歳の若き生涯を終えた。

 (ハ) 行方正時同志について 行方同志は、革命的な兵士であって、連赤指導部が下した「革命兵士の資質」に欠ける云々の理由は全く恣意的であり、全くあてはまらない。行方同志は、革命兵士として闘い、連赤指導部の誤まった指導のために二十二歳の若き生涯を終えた。

 (ニ) 山崎順同志について 山崎同志は、革命的な兵士であって、同志殺害に関して批判的な観点にたとうとしていた。山崎同志の「革命兵士の資質」に欠ける云々の連赤指導部の恣意的判断は全くあてはまらない。山崎同志は革命兵士として闘い、連赤指導部の誤まった指導のために二十一歳の若き生涯を終えた。

 (ホ) 山田孝同志について 山田同志は連合赤軍指導部の一員として同志殺害に関する責任はまぬがれないが、山田同志自身、後に連赤指導部の誤まった指導のために二十七歳の若き生涯を終えた。山田同志になされた「革命兵士の資質」に欠ける云々や、「官僚主義」云々の恣意的な判断・口実は全くあてはまらない。山田同志は、一九六七年以降一貫して共産同の献身的な一員であり分裂前は中央委員・京都府委員会委員長であった。又、赤軍派結成以降の革命家・革命兵士であった。

 (ヘ) 日共革命左派神奈川県常任委員会・人民革命軍の七名の同志たち(加藤能敬同志・尾崎充男同志・寺岡恒一同志・金子みちよ同志・大槻節子同志・小嶋和子同志・山本順一同志)について 七名の同志とも革命家・革命兵士としての道を歩んだ。連赤指導部の誤まった指導のために若き生涯をおえた。

 〔3〕 同志殺害を指導した部分と、同志殺害に加担した部分に対する組織処分について

 同志殺害の事実経過をもとにして、以下のことを提案し、決議するよう要請する。

 (イ) 森恒夫は、連合赤軍における一連の同志殺害を組織し、呵責なく実行した最高責任者であり、その責任はまぬがれることはできない。彼は一九七三年一月一日東京拘置所において死去した。

 (ロ) 坂東国男は連合赤軍の中央委員会の一員として同志殺害を指導し参加した。この行為を厳しく弾劾し、彼を共産同赤軍派より除名する。

 (ハ) 植垣康博は、連合赤軍の一員として同志殺害に加担した。この行為を厳しく弾劾し、彼を共産同赤軍派より除名する。

 (ニ) 青砥幹夫は、連合赤軍の一員として同志殺害に加担した。かつ、彼は警察に逮捕後、思想的に屈服し、極めて多くの自供により、諸同志を国家権力に売りわたした。こうした行為を断固として厳しく弾劾し、彼を共産同赤軍派より除名する。

 (ホ) 坂東国男、植垣康博両名は、現在拘置所にあり、日々ブルジョア政府の仮借ない攻撃の下におかれている。また彼らは、獄中闘争・公判闘争における同志殺害の自己批判を通じ、革命的観点にたつべく努力している。

 (ヘ) 青砥幹夫は、現在拘置所にあり、日々、ブルジョア政府の仮借ない攻撃の下におかれている。同盟は、この攻撃から彼を防衛し、彼が国家権力に屈服している状態から脱却するよう援助する。

 附記

 右の特別報告は、一九七三年×月×日、共産同赤軍派臨時総会において採択され、決議された。
 なお、この決議と同時に、共産同赤軍派結成時の中央委員(臨時総会現在、獄外で再建活動に組織的に従事している中央委員)の、自らの政治的責任を明らかにした辞任も採択され、決議された。

 共産主義者同盟赤軍派中央委員会(「臨時総会報告集」)


現代古文書研究会 | 共産同系 > 戦旗西田派 > 1973年 >

  初出は、『戦旗』340号(1973年12月5日号、戦旗社)。『共産主義 共産主義者同盟(戦旗派)重要論文集』1巻(戦旗社、1983年)から。


 七三年日向カクマル主義者の組織的脱落に関する声明
 
日向カクマル主義―解党派粉砕し、同盟の革命的再生を
 共産同(戦旗派)中央委員会
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 六月十二CC以降日向一派を先頭とする諸グループは同盟より脱走と逃亡を開始た。「中央委員会の開催など何の意味もない」(日向)として、中央指導部を分裂させ(六月)、更に党協議会設置の提起(八月)に一貫して反対し、連絡会議をもってこれに代行させ(九月下旬)、今日に至っては、この「連絡会議」からも逃亡している(十一月)。中央学生組織委員会のボイコット(八月)による反帝戦線の分断、部落解放組織委員会のボイコット(七月)による「克服すべき課題」に対する反動的居直りと大衆闘争機関の分断を強行し、その他の一切の党機関から逃亡。「編集局会議の決定なしには戦旗は発行しない」との確認(十月下旬)にもかかわらず勝手に発行し(戦旗・三三八号)、われわれの批判によって自己批判し(十月下旬)その結果、戦旗・三三九号が「合同編集局」によって発行されたにもかかわらず、今度はこの編集局会議をボイコットし(十月二十九日)編集局からも、最終的に逃亡。日向一派の「中央指導部の解体」に始まり、「戦旗編集局の分断」に終る解党的行為を断じて許すことはできない。

 わが共産主義者同盟戦旗派中央委員会(多数派)は、ここに公然と声明を発表し、一切の合法主義、一切の「左」右の解党主義と闘い抜く。わが同盟の一部に発生したカクマル主義者・経済主義者の連合を打ち破り、中央集権党を堅持し、七〇年代階級闘争を担う。

 全ての人民に訴える―同盟は健在であり同盟は不滅である

 わが同盟はいま、同盟建設三年間の闘いの中で最も重大な試練に直面している。この「党の試練」は、同盟建設三年間の闘いを清算するのか、同盟建設三年間の闘いを堅持し発展させるのか、社会排外主義者=カクマルに屈服し、共産主義者同盟十余年の歴史を清算するのか、社会排外主義者=カクマルと闘い共産主義者同盟十余年の歴史を防衛・継承するのか、という根本的にしてかつ本質的な問題をわれわれに突きつけている。

 七二年六月、日向一派の中央派結成に始まる戦旗派内分派闘争に示される事態は、わが同盟内の一部日和見主義者―日向一派、城山―篠沢グループ、そして渋谷グループ(いわゆる国際主義派)。帝国主義に屈服しカクマル主義に屈服した経済主義者・カクマル主義者。

 革命勢力の「武装遊撃戦を端緒とする戦略的反攻を戦取」せんという、極めて厳しく、同時にわれわれにとっては、光栄ある闘いの現段階に突入しつつある。わが同盟が十・八羽田闘争以降の武装闘争を継承し「死闘の七〇年代」を真に指導しうるのか否かということなのであり、もっと積極的にいうならば、わが同盟をこの武装闘争の最前衛として創りあげ打ち鍛えていく「決意」があるのかどうなのか、「能力」があるのかどうなのかということなのである。党建設―非合法党建設からの脱走を許さず、党の統一をかちとろう。

 カクマル主義を粉砕せよ―二つの解党派とわれわれの道

 わが同盟は、六九年七・六第二次共産主義者同盟の崩壊以降、「党の革命」をかかげ、一切のメンシェビキ的・ローザ的前衛党組織観と闘い、真の前衛党組織建設をめざして闘い抜いてきた。レーニン・ボルシェビキ党組織建設に向け、分派闘争を非和解的に推進してきた。党内日和見主義分派=赤軍派、叛旗派、情況派、野合右派(関地区派、左派、蜂起派)と他ならぬ党組織建設を巡って闘い抜き、これら諸雑派を同盟外に放逐し、党内闘争に勝利してきた。

 わが同盟は、「軍事を孕み共産主義を組織する党」、「武装闘争の前衛部隊としての党」を掲げ、権力に対して武装しきることと、同時に政治闘争・武装闘争を結合させ、労働者階級を組織的実体としたところの革命勢力を創出させることを二つの重大任務と設定し闘いを強化してきた。党組織建設のための闘い(党のための闘い)と、革命勢力を強化・拡大していく闘い(党としての闘い)という、党組織にとっての二つの闘い、二重の任務を組織してきた。

 同盟の一部に発生した主体形成主義、その発展としてのカクマル主義。われわれはこの党内闘争を通じて9CC、10CC、11CCを主体形成主義・カクマル主義との訣別の組織的集約環としてかちとってきた。

 つまり、第二次ブンの破産という歴史的現実に規定された、主体形成主義的傾向・サークル主義的傾向からの主体的訣別、その到達点としての不動の前衛的立場の確立、前衛党的位置への発展。この前衛党的位置からえ返しての主体形成主義的傾向、サークル主義的傾向の克服。いかに「戦う党」を創り出すのかということであった。つまり、「第二次ブンは戦術左翼集団だった」として総括した同盟理論(とりわけ「編集局への手紙」のなかに見られる日向理論)の中では、戦術左翼集団の否定、カクマルにも通じる本質的に日和見主義であるこの体質、この思想といかに闘い抜くのかという問題であったのである。日向より日向的であった同盟内活動家(S・S・Aら)が最もカクマル的=最右派であったことは、このことを如実に示している。戦術左翼集団であった第二次ブンをのり越えんとしたとき、この方法において、二つの傾向が同盟内には常に潜在的・顕在的に存在していたのである。すなわち一方には、学習会と主体形成のみを問題とするカクマル主義・サークル主義であり、他方においては、革命的党的立場からこの「戦術」をえかえし物質化していくレーニン主義の立場である。まさに問われていたことは、カクマル式党建設と闘うことであったのだ。

 このわれわれ的党建設の仕方とカクマル式党建設の異なりは、戦旗派内部に構造的対立をもたらしていった。9CC政組、10CC政組、11CC路線という形で一部の誤まった傾向・カクマル主義的党建設の傾向は徐々に克服されてきた。特に11CCでは、カクマル主義発生の根拠たる恒武闘争論(その理論的根拠としての日向イズム・スコラ的観念論、党組織と階級組織の同一化)の誤りを克服し、「戦う党」への端緒をつくりあげた。だが、われわれの闘いの不徹底さ故に、彼らのカクマル主義への成長・転化を許してしまった。
 
 日向一派は、軍事問題に対する完全なる日和見主義故に、一切軍事問題を清算し軍事清算派へ転落し、政治闘争、武装闘争まで清算する腐り切った経済主義にまで純化発展をとげている。日向一派は「上からの解党主義」として党の合法化を推し進め、わが同盟の非合法党建設に敵対している。城山グループは「下からの解党主義」として同盟の解散を求め、日本階級闘争を清算し、同盟を風化・解体させようとしている。城山グループの最右派篠沢グループはいまではほんもののカクマルの手先となり、戦旗派内に初期より存在した偏向との闘いの重大さをわれわれに痛感させている。日向一派―城山グループとは、カクマル主義・経済主義では共通し、「第二次ブンは余りにも左翼的・戦闘的であった」と総括する点で、非合法党建設に反対する点では共通であり、政治闘争・武装闘争の継承と発展の全面的清算というところで共通している。違いといえば、たかだか日向一派が城山グループほどほんもののカクマルに純化できないだけであり、同盟を城山グループが「下から」解体させようとしているのに対して、日向一派は同盟を「上から」解体させようとしていることぐらいである。

 戦旗派内分派闘争の本質的意義は中央集権党建設・全国単一党建設、「軍事を孕み共産主義を組織する党建設」「武装闘争を組織する党建設」の目的意識的闘いの継承、発展をなしとげるということであり、これを巡る闘いの中での二つのカクマル主義者の逃亡ということである。

 同盟の革命的団結を―解党派と闘い戦列を強化せよ

 ところで、われわれは、(1) 戦旗派三年間の歴史的意義を確認し、(2) 戦旗派建設の歴史的前進の結果としての二つのカクマル主義の発生の事実問題を明らかにし、(3) 戦旗派建設の意義のおし進めと、共産同の全歴史を二つのカクマル主義から防衛するものとしての、わが分派の結成とその後のわが分派による党内―分派闘争の組織化の全経過を全プロレタリアート人民共通の問題として明らかにしたい。

 同盟の闘いと日和見主義

 わが同盟は、六九年七・六第二次共産同の崩壊以降、「戦術指導部の党」という第二次共産同の歴史的限界を克服するものとして、党組織建設の独自的闘いをおし進めてきた。五・二九外務省突入をもって切り開かれた「党としての闘い」は、六・一七宮下公園における武装闘争の展開、秋期十・二一、十一・一九「公―非闘争の推進」と沖共闘の左翼的牽引、更に翌年三・一三西部方面隊突入闘争、三月全関東叛軍を動員しての現地北熊本闘争の確固とした指導、そして又、これらの全成果をかけての五・一三神田武装遊撃戦と七・一五北熊本闘争、息つくひまもない連続的な敵権力との死闘の闘いであった。とりわけ、五・一三武装遊撃戦は、「七〇年代が機動隊せん滅戦の時代」「武装遊撃戦を通じて戦略的反攻を戦取する闘いの時代」として七〇年階級闘争の基軸的方向性を提起し、一切の中間諸派の権力による「火炎ビン立法」によるどう喝の前での逃亡をのりこえ闘い抜かれたのである。党としての闘いの全成果をかけて、権力の一二九名にも及ぶ大量逮捕―大弾圧をものともせず闘い抜いた同盟の精神こそ、七〇年代階級闘争を闘うわれわれの確信である。
 
 ところで同盟は、鉄火の七〇年代階級闘争の中におけるこの党組織建設の独自の闘いと、革命勢力を強化、拡大させていく闘いという二つの任務を遂行するなかで、多くの試練と困難につき当った。それは第一に、わが同盟が、軍事武装闘争をいかに組織していくのかという問題であり、第二に、かかる政治的性格を有したものとしての党組織建設の独自的建設の問題であり、第三に革命勢力を創出していくうえでの問題であり、第四に、七〇年代における戦略的総路線に基礎づけられた「総路線」の確立の問題であった。この四つの課題の中で、革命的傾向と日和見主義的傾向は明らかとなったのである。すなわち、革命的部分は、生起した課題が、われわれの全同盟の活動の勝利的前進ゆえの「当然の帰結に」他ならないと把握し、この四つの課題をガッチリと主体的にえ返し、前進せんとしたのである。「恒武闘争論(路線)」に孕まれた悟性主義的・カクマル主義的偏向の克服、つまり論理主義・スコラ的観念性の克服の必要性であり、路線問題、戦術問題に対するカクマル主義的無方針の克服ということである。

 これに対する日和見主義(主要には党内カクマル主義)は、生起した課題を、わが同盟の全活動の勝利的前進の成果として見るのではなく、同盟の破産・敗北の結果として見ること、つまり同盟活動に対する不確信と動揺にその本質的性格を有しているのである。

 すなわち日和見主義的部分は第一に、わが同盟の軍事武装闘争組織化の苦闘を一切清算し、軍事問題、武装闘争の問題を語ることすらしない完全なる合法主義に転落し、第二に、非合法党建設、中央集権党建設を否定し、「広汎な民主主義要求派」として党を合法化させ、党組織を階級組織と混同し解党主義の思想を持ち込み、第三には、鉄火の階級闘争の中で革命勢力を構築するのではなく、この現実的任務の重大性と緊急性を見ないで「運動と組織の弁証法的理解」とかいうスコラ論議でお茶を濁して闘いから逃亡しようとし、第四には、現実に展開されている労働者人民の闘いに接近し、確固とした「計画としての戦術」による指導ということを全く放棄し、小ブル的自己確認に党的立場をしこめ、その結果として、一切階級的責任を負わないセクト主義的傾向として立ちあらわれたのである。 

 11CCの日向中央派の性格

 日向一派は、第一に、わが同盟の軍事闘争・武装闘争の組織化について口先だけで認め、その裏では清算し、第二に、非合法党建設・中央集権党を語りながら、その実、「上からの党の合法党への改組」を企て、第三に、革命勢力の強化・拡大の任務においては、政治闘争・武装闘争にあいまいな態度をとり、階級との結合に対してスコラ的理論をもっての啓蒙主義におちいり、その裏返しとしてセクト主義、排外主義を構造化させ、第四に、実践的な「総路線」の確立の追求に対して、「党的世界」なるスコラ的自己充足の世界を対置せんとしたのである。

 わが同盟は(1) 軍事武装闘争の推進、(2) 非合法党、中央集権党建設の推進、(3) 革命勢力の強化・拡大のための指導の強化、一切の排外主義の克服、(4) 「総路線」の確固とした確立、という四点の問題に直面し、この解決を目的意識的に追求せねばならなかった。

 七二年一月、当時の最高責任者の日向の「入院」という名目での逃亡の中。この中で中央指導部は二つの傾向に分岐した。同盟の全成果の上に四つの課題を推し進めんとする部分と、旧来のスコラ的「恒武闘争論」に固執、これに内包されている論理主義的傾向を防衛・固執せんとした自己保身的部分である。その後、前者の部分=四人委員会による断固たる党内闘争の組織化によって「11CC路線」は確立されたのである。すなわち11CC路線の確立によってカクマル主義的偏向を内包していた恒武論は敗北し、わが同盟にとって画期的路線が採用されたのである。

 11CC路線においては、軍事武装闘争推進上における戦役主義克服の方向性と同時に、政治闘争と武装闘争との結合の方向性の鮮明化、(2) 党組織建設における「水増し化」の克服の方向性、同盟=KIM論に見られる解党主義、合法主義組織論―組織路線の克服の方向性、そして又、中央指導部から末端細胞まで、革命党の党員は正規軍的質で武装されねばならないことの鮮明化、あくまでも現実に接近し現実の階級闘争の中で革命党と革命勢力の任務を明らかにしていくという態度の堅持と強化、つまり「理論主義的偏向」「論理主義的偏向」又「前衛ショービニズム」の克服の方向性を鮮明化せんとしたのである。だがしかし、四人委員会の闘いによって、11CC路線という「左派路線」が確立されつつも、にもかかわらず四人委員会はこの意義を徹底化し、意識化し、日和見主義、主体形成主義の完全なる克服をなしとげることができず、党内闘争は中途挫折し妥協的形態へと変質せしめられた。
 ところで日向は、この「11CC路線」の意義の徹底化―「恒武論」の敗北の原因の本質的え返しが、当然にも自己の全論理体系の破産につながるのではないかと直感し、その予防措置として分派結成に踏みきったのである。

 その後、日向中央派は、路線的には「セクト的実行委員会方式」の採用を目論み、軍事闘争はもちろんのこと政治闘争までをも清算し始めたのである。日向一派は、11CC路線を清算して右派路線を採用する際に、城山―篠沢があまりにも右派で日和見主義であったのとわれわれの闘いにはばまれ難行し、結局、「右派を批判しながら右派路線をとる」といったスターリン型党運営に走ったのであった。

 七月、I、Sの九州・北海道への追放(これは四人委員会の闘いの不徹底さ故の必然の結果であるが)七月、九州での地区代表者会議の席上における「怪文書」の配布等を公然と推し進めつつ、裏ではH―NOによる「Sを除名するための確証を!!」として○CAP・Oをオルグしたり、NTが「○○○○は反対派の拠点だからいつでもゲバルトをやれる体制をつくれ」と言ってオルグしたり、果てはNAに至っては、○において、「四人委員会が金が使い込んだ」などという全く見えすいた信じられるはずもない、うそとデタラメでオルグするという形で「反対派狩り」という名の下に自己の分派への分派的オルグを強行したのである。

 七二年六月〜十一月までの期間は日向中央派内の「左翼バネ」として機能していたNTの動向によって、それなりに11CC路線の物質化という表象を党活動に与えていたわけであるが、七二年十一月以降は、「キム凍結」をメルクマールに、11CC路線を清算し、党内右派路線を構造化させたのである。とくに、地域主義的傾向を色濃く有した○○方式が全同盟に普遍化されるに至っては、路線的にも経済主義、カクマル主義に屈服したということであった。だから、日向中央派のデマを軸とした分派的同盟運営に疑問を抱き、○○型セクト的実行委方式の全同盟的採用に反対する部分によって、同盟内反日向中央派分派活動は開始されたのである。

 われわれの分派闘争

 かかる党的混乱の事態の中で、われわれは七三年三月末、日向中央派の分派的組織運営=分裂主義と対決すべく、戦旗派内左派分派として自己を形成したのである。第一に党組織建設の独自活動を通じて機関の確立を、非合法党、中央集権党を建設しきること、第二に「路線問題に対する態度」、路線の内容に関して、「スコラ的観念論」「論理主義」と闘い、11CC路線を堅持し、より一層の深化、発展をかちとること。第三に軍事武装闘争の一切の清算に反対しきること、つまり「公―非の展開」を主体的に受けとめきること、第四に日向中央派の分派的意志統一が相当「堅い」ことを根拠として、来る拡大中央委員会の開催までは非公然の分派闘争形態を基軸とした分派活動を考えること、第五に、当時の反日向中央派と目されていた部分が色濃く有していた反官僚主義、反中央集権主義的傾向、つまり解党主義的傾向と闘い、これを克服すること。組織的には城山―篠沢を中心に当時結成されていた「反ブン主義カクマル主義フラクション」と断固として闘い、政治・組織上において勝利すること、第六に、城山・篠沢グループ解体の組織戦術の一環として合同討論の場を設定し、又、12CC獲得のための戦術協定を行うこと等であった。
 
 12CCにおいて、われわれは日向一派の「予防反革命」としての分派結成の事実問題、日向一派による軍事武装闘争の身をもっての清算―同盟の権力への合法化の事実を明らかにし、その後の分派闘争の全同盟的方向性を責任をもって提起したのである。

 
ところで、12CC以降の分派闘争の同盟内部での公然たる展開の中で、わが分派は本格的分派建設、党建設に突入したのである。

 城山―篠沢グループは七二年秋期より七三年春期にかけて、同盟より脱落した解党主義グループ=渋谷グループに対する態度において常に中間主義的態度をとり続け、彼らの解党主義を擁護さえしたのである。

 七三年六月12CC以降は、戦旗派内部に様々な傾向性をそれとして純化させた。すなわち、革命的なものはより一層革命的となり、日和見主義的なものはより一層日和見主義的なものとなった。まず日向中央派は、中間派連合故に「左翼バネ」たるNT、「重鎮」たるNOが脱落し文字通り然たる「上からの解党派」、「小ブル排外主義者」に純化したし、又、城山―篠沢グループは「カクマルへの参加の仕方」をめぐって分裂したのである。

 革命的党組織建設を―日向カクマル主義を粉砕せよ

 七〇年代中期「支配階級との激突の時代」を控えて、日和見主義者は「同盟活動の全成果」に対する不確信故の逃亡を計り、清算をおし進めた。日向一派は非合法党建設を清算し、又もや、あの古き「妖雲亭フラク」に党を解体させようとしている。城山グループは党建設そのものを清算し、共産主義者同盟の全歴史を清算し、完全なるカクマル主義へ転落した。ゆる党機関から逃亡し、ゆる戦線から脱走している。ゆる党機関からの逃亡、ゆる階級指導からの召還という現実の中にこそ彼らの解党主義としての本質があるのであり、レーニン主義的原則からの逃亡があるのだ。

 
日向一派がいっているように「党建設を言いすぎた」。むしろ、日向一派の如く「戦旗派の党建設は小ブル急進主義だった」として、また、結果解釈し、合法主義カクマル主義(それもフロント化した)に屈服し、脱走を計る清算主義分子を許してはならないということなのだ。われわれは必ずや、「軍事を組織する党」「労働者階級の党」という観点をマルクス・レーニン主義の諸原則で正しく統一し、戦旗派内カクマル分子の掃討をなしとげ、第二次共産同の分裂を止揚し、社共に変る日本における唯一の前衛党を創り出すであろう。

   一九七三年十二月十八日

共産主義者同盟戦旗派中央委員会(多数派)_

〔『戦旗』第三四〇号(一九七三年十二月五日)に掲載〕_




(私論.私見)