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島成郎記念文集刊行会編「60年安保とブントを読む」に掲載された多田靖の稿に、執筆者(多田靖)から追加および訂正を含む文が
寄せられましたので、添付ファイルでお送りします。多田靖の稿(「60年安保とブントを読む」所収)の補足
順序不順だがいくつか補足的に書く。 1988の菱沢を偲ぶ会。島参加。59年卒 、64年卒組(東大医)を中心に幅広く結集した。運営は64年卒の島、菱沢と同じ59年組の3人、森山、高橋(処分のため60年卒)、 塙正男(菊坂セツル)が中心になったが、提唱者は64年卒の朱文竜だったと聞いた。60年安保勢力と医学部に始まる東大闘争を支 えた人々のおそらく最初にして最後の結集の場となった。私(58年組)も自ら禁を解いて参加したものである。59年では酒田英夫、吉 田充男の顔があった。61年組の伊藤幸治、62年組の石井暎禧も参加していた。64年組では、朱、金村元、菱沢の主治医であった相沢力等が参加していたが、この席上最近死んだ今井澄が、本来は64年組であったと本人から聞いた。その他、中佳一(68年組)、新聞記者相手に事件を起こした69年組の三吉譲等多士済々であった。 当時、田中清玄が回想的に60年安保に触れて発言するのが目につき、私はその切り抜きを当日持参したのだが、島は「皆勝手なこ とを云うものだ」と云っていた。「それではスタンダードを作らねばダメではないか」と私が云うと、島は古賀に高沢は今どうしているのか等と問いかけていた。勿論島も同じようなことを内心考えていたのだろうが、その後しばらくして「ブントの思想」構想が登場 してくることになる。 島成郎記念文集刊行会・事務局古賀康正 |
補足の補足 西村卓司は60年2月共産党を除名になっている。以後社研の結成準備にはいるが(5月結成)、先行して港地区委員会との共同声 明、ブント4回大会への代表派遣(2名)がある。おりから革共同全国委からの若手へのオルグもあり、ブントかNCかほぼ拮抗する 情況で、西村がブント参加を決断したという。5月社研結成時にはブント参加を決定しており、島にも連絡してあったという。しかし 不思議なことにブント5回大会には欠席している。電話取材中、神奈川県立横浜一中(のちの前記・希望ヶ丘高校)時代、西村は佐伯 ・片山の2年先輩で、いずれも天文部に所属していたという。島の葬儀には佐伯は弔文を寄せただけで出席しなかった。西村は、出席 した片山とは旧交を暖めたという。 (2)この書簡部分における白眉は、4人のうち3人迄が、43年から44年にかけて治安維持法事件で逮捕されていることである。 まず野間。43年7月治安維持法に問われ、大阪陸軍刑務所に入所。懲役4年執行猶予5年となる。年末出所、監視つき原隊復帰。12月22日高安は野間に「お葉書拝見、無事でよかった。手紙は見合わせてゐたのだ。ドイツ語など勉強して感心なものだ。」と書いている。野間は44年2月富士光子(正晴の妹)と結婚するが、野間の仲人の依頼に応えて、高安は44年1月29日付けで、「一度も会わないうちに愈々今度は大役をうけたまわってしまったが、僕たちがどんなに喜んでいるか信じてゐてほしい。」とある。高安が野間の仲人であったことは銘記されてよい。治安維持法被告保釈の直後である。並大抵ではない覚悟が必要なのに二つ返事で引き受けている。その点に注目する必要がある。 下村は44年8月1日治安維持法違反容疑で特高に検挙される。下村の被疑事実は「技術者グループ」である。高安→内田の手紙(8月21日)は、「下村はその後どんな風、心配してゐる。何分よろしくたのむ。」とある。これは内田が在東京のためできるだけの措置を頼んだのだろう。同じ日、野間に、「下村は君に似た運命になったらしい。内田ができるだけのことをしてくれてゐるらしいが、様子はよくわからない。」とある。ところが内田が、下村の拘禁解除と相前後して目黒碑文谷署に約4ヵ月拘禁される。被疑事実は「技術者グループ」である。1月31日、高安の野間への手紙では「手紙ありがとう。気になってゐたのだが、1月半から病気でねてゐてどうにもならなかった。今度は喘息が長くて随分苦しんだ。…暖かくなり次第また工場行きだろうが、あんまり寒いのでかんべんしてもらっている。内田は弱いので特別扱いで火鉢などももらって大へん元気で、自伝のやうなものを書かされてゐるとのこと、安心してもよさそうだ。昨夜もしかし夢に見た。」とある。高安は43年9月に長男国彦を疫痢で1日にして失っている。43年12月22日の既述の手紙には、連作25首がのっていて斎藤茂吉の「赤光」の母の死を悼む連作を想起させる。(戦後54年2月、関西のアララギを離れて若い人達と塔を創立。)以上見るとおり高安は、甲南グループのキィパーソンとして暗い谷間の時代を闘い抜いたことは記憶されてよい。 高安は卒論は「トーマス・マンの『魔の山』について」その後の主な業績は、41年リルケの「ロダン」、43年リルケ書簡集「ミュゾットの手紙」、46年「新しき力としての文学」、67年リルケ「マルテの手記」、68年「リルケと日本人」で、他に歌集を出し、戦後京大独文助教授をへて教授になる。1959年12月22日、高安国世、和子、井上正蔵から野間への手紙が面白い。貴重である。「…今日井上正蔵さんが来たので、独文の若い人たちと一しょにうちで飲んだりたべたり…。先日大阪のデモに行った時の8ミリ映画を見せたり…野村修くんという独文出の詩人がブレヒト詩集を訳しましたので1冊本人から送りますから、ぜひよんでどこかで批評して下さい。彼の(野村君の)安保反対の詩は4万5千人の前で朗読されました。…」高安国世。「…さっき、11月27日のデモの8ミリ(監督高安夫人、撮影高安)を映写して、みんな革命的ロマンティシズムを感じました。…固い握手を!…」井上正蔵。ちなみに井上は都立大独文教授。この大阪の11・27には唐牛も参加している。 この12月22日付書簡は戦前戦後を一貫した高安夫妻の姿勢をうかがう重要な資料となっている。島とともに高安夫妻も60年安保に独自の闘いをすすめた証左である。野村は後に京大助教授として数々の重要な翻訳を行っている。 (3)(2)の項で、下村、内田の被疑事実に「技術者グループ」とあるが、野間の場合はその記載はないようだ。しかし野間も、親が技術者であること、梯哲学の影響もあり、別な本に技術論サークルに入っていたという記載はある。 1976年7.9、下村から野間への手紙の中に<宇宙的自覚>にふれて、「…あれは確か、お互いの共通のバイブルも同様だった、梯さんの「物質の哲学的概念」※−物質の自己運動−に触発されて、それいらいの二人の合言葉になったと記憶しています。そうした、ぼくの中では薄れ消えかかっていた言葉が、なんの先ぶれもなく飛び出してきたのは、要するに君の思索が、あの頃からきょうの日迄、いつもこの<宇宙的自覚>を志向して、その無限の充足をおい求めていたことに気付いたからでしょう。」とある。 ※に始まる梯の哲学的展開は、梯自身、30年の治安維持法違反容疑(シンパ事件)で逮捕中に着想を得たと語っている。(私は梯が有力なシンパであったと当時のテク責任者のK氏から聞いたことがある。) 紅野謙介は梯哲学を「『絶対無の弁証法』を説く西田の観念的一元論を反転させ『絶対無』ならぬ『絶対有』、存在と意識を共に成立させ自己運動する『物質』の弁証法を説いたのである。…無限の過去から無限の未来へ運動する全宇宙、自然史的過程が構想された。そこには社会の経済的形態の発達もその自然史に包括されていた」とまとめる。 自己運動する物質の弁証法は梯の全体系の基底を貫いているが、45年頃阪大に講義に来た小倉金之助により、武谷の技術論構築の営みが始まる。武谷は阪大と理研で素粒子論研究に湯川等と従事して来たがその実績にふまえ、物理学史、科学史の追求に進み、「ニュートン力学の形成について」が世に出る(1942年)。武谷といい、甲南グループといい、ほぼ同じ時期に技術論への追求が始まっているが、武谷の「物理学は一つの体系である。それ自身自立した体系の一つの発展の論理をもつ」は、その根底に梯体系と通底した問題意識を感じざるを得ない。 内田は少し違った点から技術の問題にアプローチしている。この本の論稿編の冒頭の「経済的研究の覚え書」の稿で、「生産力的視点」に立つことと書きだす。この「覚え書」について解説者の野沢敏治は、「分配的正義から生産への視点の移行は戦時体制下での生産力増強政策を背景にしており、大河内一男による社会政策の議論をふまえている。この視点は、戦後のスミス研究においても富裕の経済学としての国富論という性格づけとなる」と書いている。「内田は当時の技術論をめぐる論争で武谷三男等の機能論の立場に立つ。技術を国民が生産力の次元で、つまり農工二部門の社会的再生産の問題として具体化するということを提示する。彼は技術論を経済学的に考察しようとするのである。この点では彼は技術論がもっていた抽象的なところを克服している」と続けている。内田自身技術者運動にかかわっており、その点が逮捕に結びついたといえるのだろう。(3)の項で梯、武谷の部分はこの本の枠にとらわれず自由にかいている。 (4)高安美佐保は国世の姉であり、島成郎の叔母である。結婚して(夫君は石本己四雄東大物理教授)石本姓となる。音大出の才媛であり、ピアニストである。夫君は美佐保が30代にして亡くなったので、子の真、美代子、佐喜子と共に残る人生を歩むことになる。美佐保は国世の書簡の中で兄弟姉妹中圧倒的に登場する。真は島成郎の従兄にあたるが、生化学に進み、江上教授下の助教授として、オパーリンの「生命の起源」の訳者となる。後北大教授になる。この本は武谷体系の中でも要の位置をもっている。石本真が成郎に知的刺激を与えたことは想像にかたくない。内田の「経済学の生誕」のあとがきに協力者として吉沢芳樹、石本美代子の名前があげられている。美佐保は次女の佐喜子と共に幼稚園を営むことになる。この幼稚園が、活動家の会議にも使われた。勿論休日である。島成郎の運動とも石本家は結びついていたことになる。(この(4)の項は多くを島美喜子東京女子大名誉教授によっている) 石本真の活動について、東大理学部で1年後輩の?目恭夫に取材した。?目によれば、石本は民科生物部会で1、2を競う論客であり、たしかに「生命の起源」の最初の訳者であったという。ただ自弁研については、世代の違いもあり、直接のかかわりはなかったのではないか。自弁研の隆盛をもたらしたのは佐伯を筆頭に関根などの努力によるものであると語っている。(この点板倉聖宣も同様のことをのべている) |