東ティモール紛争 |
【東ティモール紛争通史】 |
東ティモールは、ティモール島の東半分と北西部の飛び地からなる島国である。16世紀以前は、諸王国が並立していたが、西欧列強の世界分割植民地政策時代を迎えて支配下に置かれることになる。まず、16世紀前半に本島のティモール島がポルトガルの支配におかれる。17世紀半ば、オランダが西ティモールを占領した。ポルトガルとオランダ間に争奪戦が始まり、18世紀初頭、ポルトガルがティモール全島を領有する。しかし、オランダの反撃が始まり、1859年、ポルトガルとオランダは条約を結び、ティモール島を東西に分割し、東をポルトガルが西をオランダが支配することになった。 第二次世界大戦で、日本が全島支配。1945年、日本の敗戦により、西ティモールがインドネシアとして独立した。東テモールはポルトガルが支配することになった。次第に独立運動が盛んになり、。1974年、ポルトガルが撤退した。1976年、インドネシアが東ティモールの併合を宣言し、軍による弾圧が開始された。1991年、犠牲者が埋葬されているサンタクルス墓地へ向けての行進に軍が発砲し、その様子が外国メディアによって海外に流れ、国際社会に衝撃を与えた(「サンタクルス事件」)。 1999年、住民投票が行われ、独立派が圧勝したが、インドネシアと独立派との騒乱はその後も続いている。国連による多国籍軍が派遣され、インドネシアは併合決定を撤回した。 |
(私論.私見)