428115 | 自虐史観考 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その38 | れんだいこ | 2005/04/20 |
【「自虐史観」考】 「自虐史観」の定義が為されていないままこれに触れるのは議論が空回りするおそれがあるが、れんだいこ見解を披瀝しておく。 思うに、先の大東亜戦争の総括において、戦争の必然過程を歴史的に検証しないままに当時の戦争行為を今日的価値観から道徳的に断罪する史観から産み出されているものではなかろうか。その際の道徳的基準とは、一つは普遍的反戦平和思想であり、一つはこれにシオニズム的国際主義的見地からの戦争責任論が被さっている。 そのようなものとして産み出されているのがいわば独特の「自虐史観」ではなかろうか。これを論ずる場合、普遍的反戦平和思想からくるものとシオニズム的国際主義に基づく戦争責任論からくるものとを仕分けしないと議論が込み入るばかりで議論足りえなくなる。 「自虐史観」の格好例題として例えば、A級戦犯論、南京大虐殺事件、百人斬り事件、従軍慰安婦事件等々が挙げられているが、これを検証していけばいずれも雲をつかむような話になっている。それでもこれらの事件が糾弾され続けているところを称して「自虐史観」と命名されているのではなかろうか。 目下、米英ユ同盟がアラブ中近東で為している無慈悲な戦争行為は意図的確信的なそれである。あらゆる指標の国際条約を踏みにじり、それが許容されている。彼らは「自虐」していない。大東亜戦争を批判しぬく日本の平和主義者の糾弾の声は弱い。 よって、れんだいこは、「自虐史観」と云われるのには十分な根拠があると考える。それは、例題を断罪する二大基準の曖昧模糊性あるいはナンセンスさからもたらされていると考える。真に為すべきは、当時の戦争過程の歴史的必然性の検証であるのに、これが少しも為されぬままの断罪であるから「自虐史観」になってしまう。 もとより、「時の戦争過程の歴史的必然性の検証」はそれを肯定しようというのではない。「肯定」も又「自虐」の裏返しとしての道徳的基準の押し付けであろうから。為すべきことは、幕末から明治維新を通じての近代的国家への脱皮、その後の国家主義的帝国主義的「アジアの盟主」化政策、その先に待ち受けていた「世界の盟主」との争闘、その敗戦。これらを歴史的過程において位置づけ総括すべきことではないのか。 しかしながら、この本線の検証には全くといってよいほど手がつけられていない。にも拘らず、批判だけがなされる。その精神から産み落とされているのが「自虐史観」ではなかろうか。 ならば、それを批判する歴史観が産み出されても良いのだけれど、これが又厄介なことになっている。なぜなら、「シオニズム的国際主義及びその限りでの反戦平和主義という国際的申し合わせ」に抵触してくるからである。この抵触を恐れず歴史検証しようという動きはない。 むしろ、「シオニズム的国際主義及びその限りでの反戦平和主義という国際的申し合わせ」枠に羽交い絞めされたままの歴史見直しというおずおずとした論及しか為されていない。れんだいこに云わせれば、それも茶番だろうに。 よって、「左」からも「右」からも本来の議論に向かっていないことになる。「自虐史観論」というのは、その限りでのどちらの側からのそれも単なるお遊び風批判合戦でしかないように思える。だから、れんだいこは、この問題に対しては熱くなれない。これが、れんだいこの「もう一つの自虐史観論」である。 考えてみれば分かりそうなものである。今日の政治状況もかの時のそれも、いわば歴史的趨勢の中でそれなりに懸命に政治しているのであって、後世から道徳的に断罪されるには及ばない。むしろ、何が原因でそうなったのか、何が闘われていたのか、誰が仕掛け仕掛けられていたのか、別の動きに転換するには何をなすべきだったのか、何が足らなかったのかを、当時の情況に即して検証する方が余程有益なのではなかろうか。 「自虐史観論争」というのはこの問いかけに対するすり替え代償的論争のように思える。だからあんまり役に立たない。 2005.4.20日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)